2033年、人類の旅

「紀元前298,925年〜紀元前298,805年」第217話〜第240話

Day 10 — 2026/04/13

読了時間 約55分

第217話

紀元前298,925年

その者(23〜28歳)

草の陰に膝をついたまま、動かない。

獲物ではない。男が二人、腹を見せて地面に転がっている。動かない。息がない。傷がある。石ではない。歯でもない。何かで深く抉られている。

その者は立ち上がらない。

腹の奥が引っ張られる感覚がある。逃げろという感覚ではない。もっと奥の何か。見てはならない、という感覚でもない。ただ、この場所にいてはならない、という感覚だ。

集団の中に、知っている顔がある。長老格の男。大きな声を出す男。子どもを五人もった女。その者はそのどれでもない。まだ一人前と呼ばれない、若い方の男だ。

五年、狩りに出た。獲物を仕留めたことがある。仕留められなかったことの方が多い。それでも集団はその者を連れて行った。

今日は連れて行かれなかった。

遠くで声がした。怒号ではない。単調な、繰り返す声だ。その者はその声を知っている。集団の中の誰かが出す声ではない。

立ち上がる。

倒れた男たちを踏まないように、迂回する。草が深い。足が音を立てる。何もかもが音を立てる気がして、その者は止まる。

また声。近い。

草の穂が揺れる。風ではない。

走る。

足が土を踏む感覚だけがある。息が喉を通る感覚だけがある。考えない。方向だけがある。

集団のいる場所まで戻ったとき、誰も立っていない。

座っている者がいる。うずくまっている者がいる。そのどちらでもない姿勢で地面にある者が、三人いる。

大きな声を出す男が立っている。その男が振り返る。その者を見る。

目が合う。

その男の手に、濡れた石がある。

その者は止まる。

男が動く前に、その者の体が動く。それは判断ではない。足の裏が土を感じて、すでに動いている。

草の中に入る。深く入る。どこまでも入る。

後ろから声がする。その者を呼ぶ音ではない。ただ声がする。

走り続ける。

草が終わる。岩が始まる。足が岩を踏む。足の裏が痛い。痛みのまま走る。

岩の割れ目がある。体が入れる幅の、細い割れ目だ。その者は入る。背中が岩に触れる。胸が岩に触れる。両方から押さえられる感覚のまま、奥へ進む。

暗くなる。

止まる。

息が聞こえる。自分の息だけが聞こえる。

その者は岩の中で膝を折る。体を小さくする。両腕で自分の胴を抱える。

外から声は来ない。

しばらく、その姿勢のまま。

寒くなる。夜が来る。

その者は岩の中から出ない。

第二の星

乾いた草原の北端に、岩が隆起している場所がある。長い年月の間に地盤が押し上げられ、地表に骨のように突き出た岩だ。そこに割れ目がいくつかある。小さいものは虫と蛇のためにある。大きいものは雨水を受ける。そのどちらでもない幅のものに、今夜、一つの体が収まっている。

この五年、集団は緊張の中にあった。外からではない。内側から来た緊張だ。食料が減ったわけではない。水が枯れたわけでもない。気候は比較的おだやかだった。それでも、何かが変わった。声の大きい者が決める範囲が広くなった。従わない者が減った。従わない者が減ったのではなく、従わない者がいなくなったのかもしれない。

人口は五年前より減っている。幼い死ではない種類の減り方だ。

その者は今夜、岩の割れ目にいる。集団から離れた場所にいる。それが何を意味するか、この星は判断しない。

岩の向こうでは虫が鳴いている。草が風に揺れている。倒れた男たちは冷えていく。集団は火を囲んでいる。その者は暗い岩の中で息をしている。

全部が同時に起きている。この星はそれを等しく照らす。

与えるもの

割れ目の奥。

岩の面に、光の筋が一本落ちた。月光が隙間を通った。その光が当たった場所に、乾いた草の茎が一本、風で運ばれてきて引っかかっていた。

その者の目が、それに止まった。

草の茎は茎だった。その者はそれを見た。見て、また岩を見た。

何かを見た。見るだけだった。
そうではなかったとしたら、何を渡せばよかったのか。

伝播:HERESY 人口:566
与えるものの観察:渡した。草の茎だった。見た。それだけだった。
───
第218話

紀元前298,920年

その者(28〜30歳)

熱が出たのは、雨の多い季節の終わりだった。

腹に何かが詰まっているような感覚が三日続いた。食えなかった。水は飲んだ。飲んでも出た。

集団は増えていた。子が増え、声が増え、夜の火の周りに体が溢れた。食べるものは十分あった。野の実が重く垂れて、獣が水場に集まり、誰もが腹を満たした。

その者も、少し前までそこにいた。

まだ一人前と見られていなかった。だが草陰で見た二人の男のことを、誰にも伝えられずにいた。伝える言葉がなかった。唸り声と腕の動きで表してみたが、仲間たちは首を傾げて、また食事に戻った。

何かが腹の中で腐っていくような感覚が続いた。

七日目に立てなくなった。

年老いた女が水を持ってきた。その者の口に手で少しずつ押し込んだ。女の手は乾いて固かった。その者はそれを飲んだ。また出た。

十日目の朝、体が冷たくなり始めた。暑い季節のはずなのに、皮膚の下が石のように冷えた。

仲間の一人が隣に横になった。体を押しつけて温めようとした。その者はその重みを感じた。

遠くで子どもが笑う声がした。

その者の目が開いたまま、笑い声の方を向いた。

それきり、笑い声を追う必要がなくなった。体から何かがするりと抜けて、残ったものは重くなった。

仲間は少しの間、動かないその者の顔を見ていた。それから立ち上がり、食事に戻った。

第二の星

同じ頃、遠くの草原では旧人の群れが水場を離れ、移動を始めていた。雨が南から来ていた。雌の獣が数頭、川を渡った。岸で若い雄が立ち止まり、対岸を見た。風が向きを変えた。世界は続いていた。

与えるもの

光が、別の場所に落ちた。

伝播:NOISE 人口:736
与えるものの観察:伝えようとした。届かなかった。それだけだ。
───
第219話

紀元前298,915年

第二の星

乾季が終わりかけていた。

草原の端では、旧人の一団が低い丘のあいだを移動していた。二足で歩く。荷を持つ。子を背負う。現生人類の集団とは重ならない経路を選んでいた。偶然か、習慣か、この星には分からない。

北の沼地では、水が引いていた。泥の上に鳥の足跡が残り、そのまま乾いて石のように固まった。誰も見ていない場所で。

この星の上で同時に、母親が二人、出産の後に動かなくなった。一人は血が止まらず、もう一人は子が出てこなかった。どちらも声をあげていた。最後まで。

736という数は、この星が知っている。個々の顔は知らない。

集団の中心では火が燃えていた。湿った木を足した誰かがいて、煙が横に流れた。風が変わっていた。

乾季から雨季へ。草の色が変わる前の、数日。

その者は集団の端にいた。十一歳か十二歳か、この星には判断できない。骨格で見るなら、まだ育ちきっていない。

与えるもの

風が変わった瞬間、煙がその者の顔に向かった。

その者は目を細めた。動かなかった。煙の方向をしばらく見ていた。

それがどこへ向かうか、まだ分からない。

第一の星でも、分からなかった。

その者(11〜16歳)

煙が目に入った。

涙が出た。痛いから出る涙だった。その者はそれを知らない。ただ流れた。

火から離れなかった。

母親が木を足していた。湿った木で、炎が小さくなった。唸り声をあげて別の木を探しに行った。その者は残った。

火と煙と、その間にいた。

目が慣れてくると、煙の動きが見えた。風に引かれて、ある方向へ流れる。また変わる。また流れる。

その者の目が、煙の先をたどった。

何があるわけではなかった。草があった。遠くに低い丘があった。その向こうに何があるかは知らない。

母親が戻ってきた。乾いた木を持っていた。火に足した。炎が大きくなった。煙が減った。

その者は立ち上がった。

どこへ行くでもなく、立った。煙が細くなるのを見ていた。空に溶けるのを見ていた。

やがて別の子が走ってきて、肩にぶつかった。走り回っていた。その者はよろけた。よろけたまま笑った。声が出た。

火の傍に戻った。

座った。

煙は続いていた。

伝播:NOISE 人口:745
与えるものの観察:煙の先をたどった目。それだけ。
───
第220話

紀元前298,910年

第二の星

東から風が変わった。

それまで草原を南へ流れていた空気が、向きを失い、二日ほどどこへも行かなかった。その間、空は白く濁り、遠い山の輪郭が溶けた。雲ではない。砂でもない。ただ、光が散っていた。

北の沼地では水が引いた跡に泥が剥き出しになり、ひび割れながら乾いていた。その縁に、蹄の痕が残っていた。獣が水を飲みに来て、引き返した痕。いつのものかは分からない。

集団の中では、何かが高まっていた。

数日前から、若い雄が二人、互いを遠ざけて動くようになっていた。言葉はない。しかし体の向きが語っていた。片方が焚き火に近づくと、もう片方は立って、別の方向を向いた。直接には何も起きていなかった。しかし集団の端にいる者たちは、その二人の間の空気を読んで、近づかなかった。子どもたちも、あの二人のあいだを走り抜けなかった。

女が一人、腹を抱えて座っていた。もう産み月が近かった。傍に老いた女が座り、時々背中に手を当てた。老いた女の指には、かつての傷の跡が幾筋もあった。

集団の外れ、低木の影から、旧人の姿が一瞬見えた。二人か三人。すぐに草に消えた。

現生人類の群れは、それに気づいた者と気づかなかった者がいた。気づいた者は、声を上げなかった。ただ、体を少し固くした。それだけだった。

緊張は、爆発していない。ただ、地面の下で何かが動いているときのように、足の裏に伝わる振動があった。聞こえない音。

東の風はまだ戻らなかった。

草は静かに揺れていた。揺れているのに、音がしなかった。

与えるもの

焚き火の灰の中に、半分焦げた骨があった。折れた断面が白かった。

その者の目が、そこに止まった。しばらく、離れなかった。

——折れた骨の中に白があった。白は何なのか。まだ問えない。問えないことが、積もっている。

その者(16〜21歳)

しゃがんで、灰の中の骨を見ていた。触れなかった。

二人の若い雄が遠くで向き合っていた。その者はそちらを見なかった。骨の折れた断面を見ていた。

立ち上がり、また座った。

伝播:SILENCE 人口:755
与えるものの観察:折れた骨の白を、まだ問えない。
───
第221話

紀元前298,905年

第二の星とその者(21〜26歳)

雨が十分に降った。草の茎が膝の高さを超え、実が重くなって穂を垂れた。獣の足跡が泥に深く刻まれ、水場へ向かう道がいくつも出来た。集団は、かつてないほど大きくなっていた。

その者は走ることが好きだった。草の中を低く身をかがめ、両腕を前に出し、何かを追うふりをして。追っているものは何もない。ただ走った。

北の高地では、溶けた雪が低地へ流れ込み、平野の縁に浅い湿地を作った。そこに水鳥が集まり、卵が産まれ、孵化した。遠い東の乾いた台地でも同じ季節が巡っていた。雲が多く、風が柔らかく、何かが過剰なほど生きていた。

集団の中に、その者よりずっと年かさの男がいた。鼻の横に傷跡のある男で、食べものを分ける方法を決める者だった。その者は傷跡の男が嫌いではなかったが、近づかなかった。傷跡の男は、その者が走ると振り返った。何かを確かめるような目をした。

豊かな時期が長く続くと、集団の内側で何かが変わった。食べることへの焦りが消えた代わりに、誰かへの注目が高まった。集まりの中で声が大きい者、火の管理を任された者、獣を仕留めて戻ってきた者。そういう者たちの周りに人が寄り、そうでない者の周りに人が寄らなかった。

その者は、あるとき崖の下を覗いた。遠くの集団が、低い谷間に入ってくるのが見えた。別の集団だった。その者の集団とは声の出し方が少し違う。体の大きい者と小さい者が混じっていた。その者は崖の端に腹這いになって長い時間見ていた。そのことを誰かに伝えようとしたが、うまくいかなかった。腕を何度か振った。傷跡の男は頷かなかった。

気候は穏やかなまま続いた。しかし穏やかさの中に、別の圧力が静かに育っていた。二つの集団が同じ水場に来る日があった。互いに離れて座り、視線を外したが、誰も動かなかった。その夜、遠くで唸り声がした。

その者は知っていた。知っていたのではなく、体が反応した。崖の下、別の集団、水場の緊張。それらが何かひとつのものとして、腹の奥に貯まっていた。眠れない夜があった。草の上に横になり、空を見た。星が多かった。

集団の中でその者の扱いが変わったのは、その翌年のことだった。

発端はささいなことだった。その者が群れから離れて単独で動いていた。誰もそうしていないのにそうした。遠くまで行き、戻り、また行った。それだけのことだった。だが傷跡の男がその者を追い払うような唸り声を上げた。最初はそれだけだった。

しかし集団が大きくなっていたことが、問題を大きくした。人が多ければ、一人の行動が多くの目に触れる。その者の動きは奇妙に見えた。崖の下を見ていること。別の集団の方へ近づこうとすること。水場で相手と視線を合わせること。それらはひとつひとつは小さかったが、繰り返された。

ある夜、その者は集まりの端から押し出された。声はなかった。ただ体を向けられ、背中を向けられ、その者の入れる隙間がなかった。

その者は少し離れたところに座った。火の明かりが届く端の、草の上に。空腹ではなかった。寒くもなかった。ただ腹のあたりに、重いものがあった。

次の日、また次の日も、同じことが続いた。

与えるもの

草の根元で、何かが動いた。虫だった。小さく、速く、向こう側へ消えた。

その者の目がそこで一瞬、止まった。

それだけでよかった。草の下にも世界があると、体で知ること。——だがその知ることが、あの者を群れの外へ押し出した。渡したものが、正しかったのか。問いに、まだ答えがない。

伝播:HERESY 人口:933
与えるものの観察:知ることが、排除の引き金になった。
───
第222話

紀元前298,900年

その者(26〜31歳)

石が手に合わなかった。

投げた。

転がった先で、別の石に当たって止まった。その者は追わなかった。もう一つ拾った。これも合わなかった。投げた。

集団の中の誰かが叫んだ。高い声ではなかった。腹から出る、低く長い声。その者は耳を立てた。

二つの集団が、水場の端で向かい合っていた。

その者は見たことがなかった。自分の集団でないものを、こんなに近くで。体が大きかった。眉が厚く、肩の肉が盛り上がっていた。毛の色が違った。立ち方も違った。

両方が動かなかった。

長い時間、動かなかった。

その者の集団の大人が一人、前に出た。腕を広げた。声を出さなかった。相手の集団の一人も前に出た。体のほうが大きかった。

何かが飛んだ。

硬い音がした。

大人が後ろへ倒れた。そのまま起きなかった。

その者は走らなかった。足が動かなかった。集団のほかの大人たちが声を上げながら動き始めた。子どもたちが引っ張られた。その者も誰かの手に腕をつかまれ、草の中を走らされた。

膝が草の茎を切った。痛かった。

走りながら、後ろを向いた。

水場が見えなくなった。声だけが聞こえた。

五日後、その者は石を並べていた。

大きいもの、小さいもの、平たいもの。理由はなかった。ただ並べた。

崩した。また並べた。

腹が鳴った。食べていなかった。

集団は静かだった。いつもとは違う静けさだった。声が出ていなかった。笑い声が出ていなかった。子どもたちが走り回っていなかった。

その者は石を一つ、手のひらに載せた。

重かった。

その重さだけが、今、本物だった。

第二の星

始まりの大地に、乾季が来ようとしていた。

草は青いままだった。水は流れていた。しかし風の向きが変わり始めた。獣の群れが少しずつ、高地の方へ移っていた。

集団は大きくなりすぎていた。

水場を中心に三つの集団が重なり合うように暮らしていた。二つは長く顔を知る間柄だった。三つ目は違った。体つきが違い、声の質が違い、皮の剥き方も違った。豊穣の年に南から来て、そのまま居ついた。

最初の数年は離れていた。

距離が縮まったのは、水が全員を同じ場所へ引き寄せたからだった。

豊穣は争いを消さなかった。豊穣は人を増やした。人が増えれば、重なる場所が増えた。重なる場所が増えれば、声が上がった。

水場の端で倒れた者は、夕方までに冷えた。

集団の中で大人一人が欠けた。その欠け方は、病でも獣でも老いでもなかった。欠け方が、集団の中に残った。

この星は傾かなかった。風は変わらず吹いた。遠くの山では雪が解け始めていた。今年の雨はまだ来ていなかった。

与えるもの

水面に落ちた光が、岩の断面を照らした。

その者の目が止まった。光の中に、何かの形があった。刃のように見えた。

その者は光を見た。それから、水を見た。

岩には触れなかった。

——この場所に、光を向けた。届いたかどうかではない。届かなかったとしても、光は落ちた。

倒れた者のことを思う。あの者にも何かを向けたことがあった。硬い草の根のことを。獣の足跡のことを。届いたかどうかは、もう分からない。

また届かなかった。

また、かもしれない。

伝播:DISTORTED 人口:934
与えるものの観察:光を向けた。届いたかどうかではない。
───
第223話

紀元前298,895年

第二の星

雨が続いた季節が終わった。

始まりの大地の南では、草が膝の高さを超えた。水辺に足跡が増えた。獣の足跡。子を連れた群れの跡。泥の深さが、そこに何日もとどまっていたことを示していた。

北の高地では、別の集団が石を並べていた。並べた形に意味があったかどうか、この星には分からない。ただ並べた。風が吹いて、小さい石が転がった。置き直した。また転がった。それでも置いた。

火を囲む者が増えた。かつて一回りで囲めた火を、今はその倍ほどの者が取り囲む。体が重なるほど近い。近さは温かさであり、近さは息の匂いでもあった。

遠く、乾いた平原の縁では、この集団とは別の血を引く者たちが動いていた。移動の方向が、始まりの大地の方を向いていた。向いているだけで、まだ来ていない。

川は増水したまま引かなかった。魚が多かった。鳥が多かった。

この星は今年も傾かなかった。

与えるもの

葦の間から、水が特定の場所にだけ濁らず透き通っていた。

その者は岸に立って、自分の足を見ていた。

届いたのか届かなかったのか、与えるものには分からない。

腐っていく感覚を覚えている季節があった。灰の中の断面を見たことがある。そのどれも、誰かの手には渡らなかった。

今も、この者の目の前に水がある。透明な場所がある。

それで何かが変わるかどうか、問いだけが残る。

その者(31〜36歳)

水辺に来た。

川岸の泥が足裏に冷たかった。葦が体に触れた。揺れた。

止まった。

水面の一点が、他より明るかった。濁りがない。底が見えた。石が見えた。魚の影が見えた。

手を伸ばした。水が冷たかった。指先が白く見えた。

魚は逃げた。

しゃがんだまま、長くそこにいた。水が流れていた。透明な場所は動かなかった。流れているのに、その場所だけ透き通っていた。

なぜかは分からない。分からないまま、また手を入れた。また冷たかった。また魚が逃げた。

立ち上がった。

集団の方に戻った。戻りながら、足が少し重かった。なぜ重いかも分からなかった。

火のそばに座った。誰かが獣の骨を割っていた。音がした。髄が出た。指でぬぐって舐めた者がいた。その者も手を伸ばした。分けてもらった。

温かかった。口の中に広がった。

しばらく、水のことを考えていた。透明な場所のことを。考えていたというより、目の前にあるように浮かんでいた。

やがて消えた。

伝播:SILENCE 人口:1,214
与えるものの観察:透き通った水を見た。届いたかは分からない。
───
第224話

紀元前298,890年

第二の星

草が膝を超えた。
腰を超えた。
肩の高さになった。

始まりの大地の南、緩やかな傾斜が続く台地に、二つの群れが近づきすぎた。どちらも大きかった。どちらも腹を満たしていた。それが問題だった。

飢えた獣は争わない。隠れる。逃げる。しかし満ちた獣は立つ。

台地の縁、岩が帯状に走る場所で、男たちが向かい合った。十人と十二人。手に石を持つ者がいた。枝を持つ者がいた。何も持たず、ただ胸を張って立つ者がいた。声が出た。低く、長い声。応じる声があった。異なる音の形だった。互いに何を言っているか分からなかった。分からなくても、意味は届いた。

引けない、という意味。

岩帯の手前で、最初の石が投げられた。誰が投げたのかは分からなかった。後から誰かが問われても、指差す者はいなかった。石はひとりの額の上に当たった。その者は倒れなかった。膝をついた。立った。しかし額から何かが顔に伝わり、口の中に入った。

そこから先は速かった。

石が飛んだ。枝が振られた。叫びが岩に反響した。草の中に倒れる者が出た。立ち上がらない者が出た。三人。いや、四人。草の高さがその者たちを半分隠した。草は動かなかった。

集団が後退した。どちらが後退したのか、それも曖昧だった。岩帯を境に、双方が距離を取った。怒声がしばらく続き、消えた。

台地に夕方が来た。
岩に血が乾いた。

草の中に横たわる者のそばに、同じ集団の女がひとりしゃがみこんだ。何かを言った。返事はなかった。女は両手で顔を覆った。手の間から声が漏れた。

遠く、別の場所では、別の群れが火を囲んでいた。子どもが転んで泣いた。母親が引き起こした。その者は泣きやまなかった。

岩帯の東側で、小さな子どもが草の間に立っていた。何があったか理解していなかった。草の向こうで何かが動かなくなったことを、その子は見ていた。動かないものを見ていた。

台地を風が渡った。
草が一方向になびいた。
岩の血はもう黒かった。

夜になった。双方の火が、互いに見える距離に灯った。どちらも消えなかった。どちらも近づかなかった。

明け方、岩帯のそばで動くものがあった。前夜に横たわったままの者の近くに、反対側の集団から誰かが来ていた。老いた男だった。何かを地面に置いた。食べ物だったかもしれない。石だったかもしれない。置いてすぐに引き返した。声も出さず。

誰もそれを見ていなかった。
あるいは、見ていた者が黙っていた。

台地に朝が来た。
草の露が光った。
岩帯は変わらず、そこにあった。

与えるもの

風がある方向から来た。
岩の臭いの中に、血でないものが混じっていた。
その老いた男は立ち止まり、風の来た方向を向いた。

何かを置いてきた。
その行動をどう名付ければいいか、問いが生まれた。

その者(36〜41歳)

台地の遠くで声がした日、その者は水辺にいた。

水面に顔が映った。目を細めた。顎に何かがついていた。泥か、実の汁か。こすった。取れなかった。

声はやがて止んだ。何かが変わったのか、変わっていないのか、その者には分からなかった。

水を飲んだ。

伝播:DISTORTED 人口:1,212
与えるものの観察:置かれた何かは、受け取られたか否かも分からない。
───
第225話

紀元前298,885年

第二の星

台地の草が風に倒れる。南から北へ。

始まりの大地の南端、傾斜の緩い台地に二つの群れがいる。どちらも子が多い。母の背に乗る者、足元を走り回る者、群れの縁で眠る者。腹が満ちているから動きが遅い。それが油断だったか、必然だったか、この星は区別しない。

北の岩帯では別の群れが干し肉を裂いている。女が二人、石の縁に肉を押しつけて引く。繊維が裂ける音がする。子どもが手を出す。払われる。また手を出す。

遥か西の、湿った低地。旧人の群れが川沿いを移動している。足が大きい。歩幅が広い。彼らの呼び名はない、互いに持っていない。川が曲がるところで立ち止まり、水面を見る。何かを感じている。この星にはわからない。

台地に戻る。

二つの群れの間の草が踏み荒れた場所がある。昨日踏まれた。今日も踏まれた。雄が数人、互いの方向を向いて立っている。声は出していない。体が傾いている。それだけだ。

子どもたちは遠くで走り回っている。

草が風に倒れる。北へ。

与えるもの

台地の端、草の途切れるところに石が露出している。

その石の一枚が、朝の光を受けて他と違う角度に光った。割れていた。断面が白かった。

その者の目がそこに止まった。

三歩近づいて、また止まった。

受け取ったのか、通り過ぎたのか。白い断面を見た目が、何かを覚えているのか。

灰の中にも白い断面があった。覚えている、こちらが。

その者(41〜46歳)

台地を走ることが少なくなった。

膝が音を立てる。走ると痛い。それだけのことだ。だから走らない。子どもたちが走り回るのを草の中に座って見ている。

石を拾う。握る。置く。

別の石を拾う。形が違う。これを握る。

群れの雄たちが南の方向で立っている。背中が違う。いつもより背中が違う。その者にはわかる。脚の裏がざわつく。

立ち上がる。子どもたちの方に歩く。走れないから歩く。

一人が転んで泣いている。その者は子どもの腕を引いて立たせる。泥のついた膝を見る。血は出ていない。手を離す。

夕方、群れ同士の境目で何かが起きた。声が大きくなった。何かが倒れた音がした。その者は子どもを引き寄せて岩の影に入った。

音が止んだ。

草が揺れている。誰かが速く動いた後の揺れ方をしている。

その者は岩に背を預けたまま、脚の裏のざわつきが消えるのを待った。

消えなかった。

朝になった。消えていなかった。

伝播:NOISE 人口:1,206
与えるものの観察:白い断面に目が止まった。それだけかどうか、わからない。
───
第226話

紀元前298,880年

第二の星

台地の南端、乾季の終わりに近い。草は黄みを帯び、先端が風でちぎれて飛ぶ。

二つの群れが同じ台地に滞在して五年になる。最初は間に距離があった。今は子どもたちが境目を越えて走り回る。大人たちはそれを止めない。止める理由を、腹が教えてくれないからだ。

しかし食料が減り始めている。雨季が遅れた。水場の泥が乾いて割れた。

台地の北側では、旧人の小さな集まりが岩陰で眠っている。毛が厚く、腕が長い。その者たちは二つの群れに気づいていない。気づいていても、今は動かない。腹が空いていないから。

台地の縁から落ちる光が、午後の遅い時間に赤くなる。この星はそれを照らし続ける。二つの群れが近くにいること。旧人が近くにいること。水場の泥が割れていること。腹が満ちているという記憶と、今夜の食料が減っているという事実が、同じ場所に重なっている。

どちらかが先に動くか。
どちらも動かないか。

草が揺れる。風が台地を渡る。

与えるもの

水場の乾いた縁に、ひびが入った泥がある。

光がそこに集まった。白い割れ目が広がる泥の表面。その者の目がそこで止まった。

渡したのかどうか、わからない。泥は割れていた。目は止まった。それで十分だったか、まだわからない。

石の断面が白かった。倒れた者の欠けた形が残った。水面の指先が白くなった。白い割れ目を見るたびに、何かを問うてしまう。

届いたのかどうか、今回もわからない。

その者(46〜51歳)

泥を踏んだ。

足の裏に伝わる感触が違った。固い。ひびが入っていた。踏み込むと、表面がはがれて粉になった。その者はしゃがんで、ひびの縁を指で触れた。粉が手についた。

水場だった。去年、泥をかき分けると水が出てきた場所だ。今は粉になっていた。

その者は立ち上がらなかった。しゃがんだまま、割れた泥を見続けた。

何かがおかしいと体が言った。腹ではない。胸の下の方で、何かが収縮した。呼吸が短くなった。

別の群れの子どもが近づいてきた。その子も泥を踏んだ。足を止めた。

二人でしゃがんでいた。別の群れの子どもは、その者の顔を見た。その者は泥を見ていた。

どこかに水があるはずだと体が動いた。岩を回り込んで、傾斜を下った。そこには何もなかった。また別の方向に歩いた。低い場所を探した。日が傾くまで歩いた。

見つからなかった。

戻ると、群れの中で声が上がっていた。二つの群れの大人がいくつかの向きに向き合っていた。腕が上がっていた。指が伸びていた。声の強さが増していた。

その者は端に立って見ていた。体の収縮がまだあった。泥の粉がまだ手についていた。

伝播:SILENCE 人口:1,203
与えるものの観察:白い割れ目に目が止まった。届いたか、まだわからない。
───
第227話

紀元前298,875年

第二の星

【状態】227話 / 紀元前298,875年 / その者51〜53歳 / 伝播:SILENCE

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その者(51〜53歳)

膝が鳴るようになったのは、二年前からだ。

台地の端に腰を下ろし、草が揺れるのを見ていた。群れの子どもたちが向こうの群れの子どもたちと混じって走っている。その者はもう走らない。走れないのではない。走りたいと思わなくなった。それだけだ。

五十一歳の乾季。

この者は子どものままだった。
群れの中で子どもとして扱われてきた。狩りに加わらず、荷を運ばず、火の番もまかせてもらえなかった。しかし誰かが膝を痛めれば、その者は傍にいた。誰かが泣けば、唸り声で応えた。何かを知っていたわけではない。ただ傍にいた。

五十二歳の冬、腹の奥から冷えるようになった。

食べた。眠った。しかし温まらなかった。火の側に座っていても、芯がずっと冷えていた。群れの者たちは気づいていた。この者が長くないことを、声の色で読んだ。しかし何もしなかった。何もできなかった。

この者はそれを責めなかった。

五十三歳の夜明け前。

台地の端、草の先が光を受けて白く見える時間だった。その者は横になっていた。膝を少し曲げて、顔を台地の外に向けて。遠くで鳥の声がした。二声、三声。それから止んだ。

傍に誰もいなかったわけではない。
子どもが一人、眠りながらこの者の腕に触れていた。

腕の力が抜けた。
子どもは気づかずに眠り続けた。

草が揺れた。台地の縁で止まった。

第二の星

同じ夜明け、北の岩場で二つの群れが初めて同じ火を囲んだ。誰が先に近づいたかは分からない。ただ火があり、両側に者がいた。言葉はなかった。熱だけがあった。夜明けが来て、それぞれが元の場所に戻った。何も変わらなかった。何かが変わった。

与えるもの

何かが、離れた場所で動き始めた。

伝播:HERESY 人口:1,145
与えるものの観察:与えたから生まれたのか。答えを持っていない。
───
第228話

紀元前298,870年

その者

火が小さくなっていた。

その者は枝を一本足した。炎が揺れて、また落ち着いた。夜の空気は乾いていて、台地の草はよく燃えるが、火の番はそれを望まない。燃えすぎる火は制御できない。この者はそれを知っている。長く火の番をしてきた。

群れのうちの年寄りが二人、火の傍で丸まっている。その者は彼らを見た。見てから、また火を見た。

向こうの端で声がした。高い声だった。怒りの声ではない。驚きの声でもない。その者には区別がついた。あれは子どもが何かを見つけたときの声だ。

その者は動かなかった。

子どもが走ってきた。手に何かを持っている。黄色い石だった。丸い。拳よりも少し小さい。子どもはその者の前にそれを差し出した。

その者は受け取った。

重かった。表面は滑らかで、熱を帯びていた。昼間、草の上に転がっていたのだろう。その者は石を返した。子どもは走って戻っていった。

火が一度、大きく揺れた。

別の群れが台地の向こう側に野営している。三日前からそこにいる。その者の群れより少し大きい。昼間は互いの子どもたちが入り混じって走り回っていたが、大人たちの間には音がなかった。視線が交わるとすぐに逸らされた。

食い物は今年、多い。川の魚は脂がのっていて、草の実は例年より豊かだった。それでも、向こうの群れの大人たちは奥歯を噛んでいた。何かを測るような目で、この群れを見ていた。

その者はそれを感じていた。言葉にはできない。ただ、腹の奥に冷たいものがあった。

夜が深くなるにつれ、向こうの群れの火が明るくなった。人影が増えた。声が低くなった。

その者は立ち上がった。年寄りの一人が目を開けた。その者は短い声を出した。意味は単純だった。起きていろ、という意味でも、逃げろという意味でもない。ただ——聞いていろ、という音だった。

年寄りはまた目を閉じた。

向こうの火が動き始めた。

人影がいくつか立ち上がった。低い唸り声が続いた。こちらの群れの若い者が一人、それに応えた。声が重なって、台地の空気が変わった。

その者は火と年寄りの間に立った。枝は持っていなかった。両手は空だった。

走り込んできたのは向こうの群れの男だった。一人ではなく、三人だった。大きな石を持っていた。

争いは短かった。

その者の群れの若い者が一人、側頭部を打たれて崩れた。動かなくなった。もう一人が腹を蹴られて転がった。

その者は前に出た。声を出した。高く、長く、腹の底から出た声だった。

向こうの男たちは止まった。その者を見た。

その者は動かなかった。

ただ立っていた。火を背に、両手を開いて。

向こうの男の一人が短い声を出した。また別の声が返った。しばらく、その者と男たちは向かい合っていた。

やがて男たちは戻っていった。

打たれた若者は朝まで動かなかった。夜明けに息をしているのを確認したとき、その者は初めて地面に座り込んだ。

火はまだ燃えていた。

その者は枝を一本足した。

第二の星

豊穣の五年だった。

草が多く実り、川が魚を運んだ。子が生まれ、群れは膨らんだ。食べものを求めて争う必要が薄れ、人々は遠くまで歩いた。その結果、互いの領域が重なった。

台地の東では三つの群れが同じ水場を使い始めた。水は足りていた。それでも視線には緊張があった。豊かさは接触を増やし、接触は摩擦を生んだ。

大地の南では、異なる骨格を持つ者たちの小さな集団が森の縁に姿を見せた。この者たちの額は後退し、眉骨が厚く、身体は低くがっしりしていた。彼らは火を持っていた。この星が照らすと、その火は現生の者たちの火と同じ色をしていた。

どちらの火も、夜には揺れた。

台地の上では、今夜争いがあった。死者は出なかった。それは偶然だったか、あるいは一人の者が間に立ったからか——この星には判断できない。ただ、若い者が頭を打たれて倒れ、夜明けに呼吸していた。

倒れた者の傍で、火の番が地面に座っていた。

与えるもの

炎が揺れたとき、その者の足元に影が一瞬だけ伸びた——正面ではなく、左側へ。石を持った者たちが来る方向へ。

その者は左を向いた。

わたしは問う。向いたのは影のせいか、それとも腹の奥の冷えがそうさせたか。

糸が繋がった。

わたしは何を渡せているのか。影を。冷えを。それとも、ただの偶然を。

第一の星の者たちも、何かを感じていたかもしれない。感じたまま、消えた。

伝播:DISTORTED 人口:1,144
与えるものの観察:影が伸びた方向に、その者は向いた
───
第229話

紀元前298,865年

第二の星とその者(44〜49歳)

台地の端に、草が伸びすぎていた。

雨季が長く続いた翌年は必ずそうなる。根が深く食い込み、踏んでも踏んでも起き上がる。集団は増えた。子どもの声がうるさいほど聞こえる年が続き、老いた者も珍しく春を越えた。果実は腐るほどあった。夜の野営地は広くなり、火の周囲に収まりきらない者たちが外の暗がりで眠るようになった。

その者は枝を束ねていた。

一本ずつではなく、三本まとめて。長さを揃えるために岩の縁に打ちつける。音が乾いていれば火持ちがいい。湿っていれば白い煙が出て、目に染みて、夜が長くなる。四十五年を火の傍で過ごした膝は、曲げるたびに鈍い音を立てる。立ち上がるとき、いつも一瞬、腹の奥が冷えた。

集団の外れに、よく見知らぬ輪郭がある。

旧人たちだ。背が低く、肩幅が広い。声は低くて短い。こちらの集団の子どもが石を投げると、彼らの子どもも石を投げ返す。しかし親たちは止めるだけで追いかけない。夕方になると彼らも火を熾す。遠くに小さな橙色の点が浮かぶ。その者はそれを見る習慣があった。消えなければいい、とは思わなかった。ただ見た。

果実の実る木の傍で、言い争いが起きた。

身振りが激しくなった。声の高さが上がった。その者の集団の男二人と、旧人の男が一人。枝を持っている者がいた。投げつけはしなかった。しかし持ったまま近づいた。子どもたちが走って離れた。

その者は立ち上がらなかった。

火の番は火を離れない。それがこの者の決まりだった。自分が決めたわけではなく、気づいたらそうなっていた。立ち上がりかけて、止まって、束ねた枝を一本引き抜いて、また束に戻した。

争いは消えた。誰かが腕を引いた。枝は地面に落ちた。

風が変わった。

乾いた方角から吹いていた風が、湿った方角に変わったのは、その者が四十七になった年だった。果実が少なくなった。子どもの泣き声が減った。泣くより前に静かになる子がいた。老いた者が続けて三人、翌朝に目覚めなかった。

集団は移動した。

その者は火種を持った。燃えさしを厚い樹皮で包んで、胸のあたりに抱えた。歩きながら何度も開いて、煙が出ているか確認した。煙が出ている間は生きている。それだけだった。

新しい野営地は岩に囲まれた窪みで、風が当たりにくかった。

土が湿っていたから、枝を探すのに時間がかかった。その者は暗くなる前に乾いた枝を集め、岩の陰に並べた。翌朝も並べた。翌々朝も。子どもが真似して短い枝を持ってきた。その者は受け取って、枝の束の端に差し込んだ。子どもが同じことをした。

四十九になった年の冬、集団の男が一人、旧人の一群と遭遇した。

戻ってこなかった。

三日経っても戻らなかった。その者はずっと火を焚き続けた。小さくしなかった。離れなかった。五日目の夜、男の連れ合いが火の傍にしゃがんで、何も言わずに朝まで座っていた。その者も何も言わなかった。声を出す必要がなかった。

火は燃えていた。

与えるもの

旧人の火が見えた夜、その者の視線が止まった。
消えない橙色の点を、しばらく数えていた。
それが何を数えていたのかは、わからない。

伝播:NOISE 人口:1,147
与えるものの観察:遠い火を見る目に、何かが宿った。
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第230話

紀元前298,860年

第二の星

台地の東側に、旧人の痕跡があった。

骨を砕いた跡。灰の層が薄く広がり、その上に蹄の残骸が散らばっていた。火を使っていた。古くはなかった。雨に溶ける前の灰だ。乾いた石の匂いと脂の焦げた匂いが混ざり、風が来るたびに台地の縁まで流れた。

旧人はずっとそこにいた。

姿形はこの集団に似ていたが、眉の骨が厚く、声の種類が少なかった。怒りと警戒と服従、その三つしか音で伝えなかった。それ以外は沈黙だった。沈黙の使い方がこの集団とは違った。怒りの前に沈黙があり、逃げる前にも沈黙があった。

長い雨季の後、両者の行動圏が重なり始めた。

水場が原因だった。台地の窪みに溜まる水は、乾期が来れば干上がる。乾期が来る前から、互いに相手の影を見ていた。旧人の集団は数が少なかった。しかし一人ひとりが重く、地面に根を張るように動いた。疲れを知らない歩き方だった。

最初の衝突は夜明け前だった。

水場の近くで、若い者が倒れていた。頭の右側を打たれていた。石ではない。骨の密度が違う。旧人の拳か、あるいは額の骨だった。若い者はまだ息をしていたが、起き上がれなかった。右目が閉じたまま動かなかった。

この集団は退いた。

数では勝っていたが、退いた。火の番の者が低い声を出した。高さで命令するのではなく、低く、長く、続けた。その声を聞いた者たちが足を止め、方向を変えた。追わなかった。

台地の端から南へ向かった。草が深い方向だった。

水場は手放したが、草の中に小さな窪みがあった。雨水が染み込んで溜まる場所だ。泥が多く、飲めばすぐに腹が鳴った。しかしそこしかなかった。子どもたちが先に飲んだ。老いた者は後から飲んだ。

夜、旧人の声が台地の方向から聞こえた。

怒りでも警戒でもない音だった。三つしかないはずの音ではない音だった。高く、長く、繰り返した。この集団の者たちは火を囲んで聞いた。何も言わなかった。言葉がなかったから、言えなかった。しかしだれも眠らなかった。

火が小さくなっていた。

火の番の者が枝を足した。音が続く間、ずっと足し続けた。炎が台地の方角を照らした。照らしても何も見えなかった。しかし照らし続けた。

夜明けに音は消えた。

旧人が去ったのか、眠ったのか、この集団の者には分からなかった。分かる言葉も方法も持っていなかった。ただ朝が来たという事実だけがあった。空が白くなり、鳥が飛び、子どもが泣いた。

世界は変わらなかった。それでも何かが変わっていた。

与えるもの

泥水の表面に、光が落ちた。

日が動くにつれ、影と光の境界線がゆっくりずれた。その者は飲もうとして、手を止めた。境界線を見ていた。

飲むか、見るか。どちらかを選ぶ、ということが、あるのかもしれない。

その者(49〜54歳)

火を囲む者たちの数を確かめた。指ではなく、目で。一人ずつ顔を見た。全員がいた。低い声を出した。返事はなかった。しかし数人が体を少し動かした。それで十分だった。枝を拾い、火に入れた。また拾い、また入れた。

伝播:HERESY 人口:1,090
与えるものの観察:退いた者が、音で全員を動かした。
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第231話

紀元前298,855年

第二の星

台地の南端では枯れ草が腰まで伸びていた。雨が戻っていた。

集団は分散して眠っていた。岩陰に五人、丘の斜面に七人、谷の入り口に十二人。火が三か所に分かれ、煙が同じ方向に流れていた。東から風が来ていた。

東には別のものがいた。

その痕跡は少しずつ近づいていた。骨の砕き方が変わっていた。同じ場所に二度来ていた。獣は同じ場所に二度来ない。

遥か北では、氷が後退していた。露わになった土に草が生え、その草を追って獣が移動し、獣を追って別の二足歩行のものが移動していた。姿は似ていたが声が違った。互いを見たことがあったかもしれない。互いを恐れたかもしれない。どちらとも言えない。

火が三か所にある夜、その者は一番小さな火の前に座っていた。

与えるもの

風の向きが変わった。東風が止み、しばらく無風になった。

その者の鼻が動いた。煙の匂いの奥に、何か別のものが混じっていた。肉が焦げる匂い。自分たちの火の匂いではなかった。

その者は立ち上がらなかった。

それを、この存在は問う。届いたのか。あるいは自分たちの火の匂いだと思ったのか。判断できなかった。

その者(54〜59歳)

膝が鳴った。立つたびに音がした。

五年前から鳴っていた。今では朝も鳴り、夜も鳴り、歩くたびに鳴った。気にしなくなっていた。

火の番だった。眠れない夜は火を見ていた。火を見ていると眠くなった。眠くなると火に近づいた。近づきすぎると熱かった。熱さで目が覚めた。それを繰り返していた。

その夜、風が止んだ。

その者の鼻が動いた。煙の奥に、何かがあった。肉の匂いだった。焦げた皮の匂いだった。自分たちが今夜食べたものではなかった。食べ残しを火にくべた匂いでもなかった。

その者は座ったまま東を向いた。

暗かった。何も見えなかった。音もなかった。

また風が来た。今度は南から来た。東の匂いは消えた。

その者は火に薪をくべた。一本、また一本。炎が大きくなった。集団の者たちが眠っていた。幼い子が丸くなって眠っていた。腹を上にして眠っていた。寝息が聞こえた。

その者は東を向くのをやめた。

火を見た。

火を見ていると眠くなった。

眠くなったが、その夜は膝を立てたまま、明け方まで起きていた。

朝になった。旧人は来なかった。獣も来なかった。何も来なかった。

その者は膝を伸ばした。音がした。立ち上がった。また音がした。

子どもたちが起き始めていた。その者は火の残り火を確かめた。消えていなかった。

伝播:NOISE 人口:1,087
与えるものの観察:匂いに気づいた。しかし動かなかった。
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第232話

紀元前298,850年

その者(59〜64歳)

台地の端に、岩が三つ重なっている場所があった。

その者はそこで眠ることが多かった。背中が岩に触れていると、夜の間も何かが近くにある感じがした。そういう感じが好きだった。若いころから、ずっとそうだった。

五十九歳になったころから、膝がうまく曲がらなかった。
斜面を降りるとき、足がぶれた。
川まで行くのに、以前の倍の時間がかかった。

それでも火の番をやめなかった。

集団の中に、脚が曲がったまま生まれた子どもがいた。三歳になっても歩けなかった。その子の母親は日中狩りに出ることがあり、その者は火の傍らでその子と並んで座った。特に何もしなかった。火に枝を足した。子どもが声を出せば、同じくらいの高さで声を返した。それだけだった。

六十二歳の春、その者は集団の若い者たちが何かを決めようとしているのを感じた。声の張り方が変わっていた。身振りが速くなっていた。誰かが遠くの丘を指して何かを言い、別の者が強く首を振った。その者はそれを岩の陰から見ていた。

翌日、その者の火の番の場所が変わった。

集団の端の、岩陰が深い場所。煙が集まりにくい、風が通る場所。

だれも説明しなかった。その者も聞かなかった。

そこにも火を起こした。
枝を折り、石を置き、火を守った。

六十三歳の冬、川の水が濁った日があった。

その者は川べりに座って水面を見た。岸の泥が流れて渦を巻いていた。そこに光が落ちた——水の揺らぎを追う光が。その者の目は川上をさかのぼるようにそちらへ向いた。水の冷たさが足の甲から来た。立ち上がろうとして、片膝が沈んだ。

しばらく、ただ水を見た。

新しい水が上から来ている。濁りは一時のことだ。

その者はそれを理解した。言葉はなかった。体で知った。

六十四歳の秋。

その者は朝早く火を起こした。煙が細く立ち上がった。集団の者たちはまだ眠っていた。子どもたちが丸くなっている。その脚の曲がった子は、今は五歳になっていて、石を投げることが好きだった。昨日も石を三つ並べて、笑っていた。

その者は火に手をかざした。

温かかった。

背中を岩に預けた。ゆっくりと。

煙が流れていた。同じ方向に。

その者の手が枝を離れた。
膝の力が抜けた。
体がゆっくり横に傾いた。岩が支えた。

火は燃えていた。

第二の星

台地の北では二つの集団が同じ水場を使い始めていた。水場の縁に足跡が重なっていた。男が石を持って立ち、別の男がそれを見ていた。石は投げられなかった。どちらも動かなかった。水が流れる音だけが続いていた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:1,033
与えるものの観察:届いたかどうか、今もわからない。
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第233話

紀元前298,845年

その者(54〜59歳)

火種の器は、獣の膀胱を乾かして作ったものだった。
内側に炭を詰め、少しの空気を残して口を絞る。
その者はそれを体の前で抱えるようにして歩いた。
何十年も、そうして歩いてきた。

群れが移動するとき、その者はいつも真ん中より少し後ろを歩いた。
前に人がいれば、風が遮られる。
火種は風に弱い。
その者はそれを知っていた。言葉ではなく、体で。

五十四歳になるころ、右の膝が鳴るようになった。
歩くたびに、固い音がした。
その者は気にしなかった。
歩けるうちは歩く。
それだけのことだった。

ある年の乾期、群れは水場を求めて長く移動した。
岩の多い台地を三日歩いた。
その者の膝は二日目の夜から曲がりにくくなった。
三日目の朝、起き上がるのに時間がかかった。
若い者が手を貸した。
その者は受け取らなかった。
自分で立った。

火種の器を抱えたまま、立った。

五十九歳になった年の秋、その者は群れと一緒に台地を下った。
坂の途中で、足が止まった。
止まろうとしたのではなかった。
体が止まった。

その者はゆっくり座った。
器を、両手で膝の上に置いた。
中で炭がわずかに温かかった。

誰かが気づいて、そばに来た。
若い者だった。
その者は目を向けた。
それだけだった。

群れは少しの間、止まった。
それから動き出した。

若い者が器を受け取った。
その者の手から、静かに離れた。

風が坂を下っていった。
その者は坂の途中に座ったまま、遠くを見ていた。

何を見ていたのかは、わからない。
光が傾いていた。
草が揺れていた。

それだけのことだった。

第二の星

台地の北、乾いた河床で、異なる群れの若い者が火を持っていた。
誰かから奪ったのか、自分で起こしたのか、それはわからない。
二つの群れが声を上げ合った。
草の匂いが風に乗り、どちらの声も消えなかった。
夜が来た。
火だけが残った。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:DISTORTED 人口:1,037
与えるものの観察:渡した。届いたかは、まだわからない。
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第234話

紀元前298,840年

その者

崖の縁に、旧人がいた。

三頭。いや、四頭。岩の影からずれる輪郭を数えると、四頭だった。その者は伏せたまま草の茎を口に噛んで、数えた。指を折らず、目で数えた。それだけのことができた。

群れの先行役として、その者はいつも一人でここまで来る。何があるかを確かめ、戻る。それが役割だった。群れの中心にいる大きな雄たちは、その者を先に出す。先に出された者が戻らなければ、別の道を選ぶ。その者はそれを知っていた。言葉がなくても、体が知っていた。

旧人たちは動かなかった。

岩の前にしゃがんで、何かをしていた。剥がしているのか、潰しているのか、遠くてわからない。その者は草の上に腹を押しつけて、呼吸を浅くした。

風が変わった。

旧人の一頭が顔を上げた。鼻を動かした。その者の方を向いた。

その者は動かなかった。

一拍。二拍。旧人の目がその者の伏せた場所をなめるように動いて、それから草むらの別の場所に移った。

その者はゆっくり腹這いで後退した。肘と膝だけを動かして、草が鳴らない速さで。十歩。二十歩。地面に顔が近く、泥と草の腐れた匂いが鼻をふさいだ。

低い丘の反対側に回り込んでから、その者は立ち上がった。

走った。

群れのいる方角へ、足が覚えている道を踏んで走った。息が上がった。喉の奥から声が出そうになるのを、歯で噛んで止めた。

群れが見えた。

その者は立ち止まり、両腕を横に広げた。それから体を回して、来た方角を手のひらで示した。腕を下ろして、指を四本立てた。

大きな雄が近づいてきた。その者の胸ぐらを掴んで顔を見た。その者は目を逸らさなかった。

もう一度、手のひらを向けた。

大きな雄は低い声を出した。群れが動き始めた。

その者は最後に走り、列の後ろについた。

夜になった。火を囲んで、皆が座った。その者は輪の外側に座った。煙が流れてきた。目が痛かった。

子どもが一人、その者の隣に来て座った。理由はわからなかった。その者は追い払わなかった。

子どもは火を見ていた。

その者も火を見た。

さっきの旧人の顔が、頭の中にあった。鼻を動かしていた顔。あの目が自分を探した一拍が、体の中にまだ残っていた。

子どもが眠った。その者の腕に体重を預けて、眠った。

その者は動かなかった。子どもを起こさないように、腕を動かさなかった。

火が小さくなった。

誰かが枝を足した。

また大きくなった。

第二の星

乾いた草原が広がる季節だった。

雨は少なく、川は細く、獣の群れは去年よりも遠い場所にいた。それでも集まりは動いていた。食べ物を探して移動し、水を見つけて留まり、また移動した。

旧人との出会いは珍しくなかった。この5年間、接触は増えた。川の支流に同じ時季に来ることがあった。獣の死体を挟んで向き合うことがあった。どちらかが退いた。どちらかが食べた。時に互いを無視した。時に石を投げた。

集まりの中で緊張が高まっていた。それは旧人との緊張ではなく、内側の緊張だった。誰が先に行くか。誰が食べ物を多く持つか。大きな雄が二頭、同じ群れにいた。どちらも退かなかった。

子どもが生まれた。半分は最初の冬を越せなかった。

草原の向こうに、別の集まりの煙が見えることがあった。遠く、音もなく、煙だけが立っていた。

与えるもの

崖の縁の手前で、草の中に影が落ちた。そこだけ、光が変わった。

その者は伏せた。

旧人の顔と顔が向き合う前に、体が動いていた。

それで足りるのか、足りないのか。

糸が繋がったばかりだ。まだわからない。

伝播:HERESY 人口:988
与えるものの観察:体が知っていた。言葉より先に。
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第235話

紀元前298,835年

第二の星

乾季が続いている。

草原の端で、風が変わった。湿気を含まない、低い空気が北から流れてくる。川床の石が剥き出しになって久しい。水鳥がいなくなった場所に、別の何かが来ている。

遠い岩山のふもと、川から三日歩いた場所に、ひとつの集団がいる。この集団とは別の系統だ。頭の骨の形が少し違う。眉が厚い。肩が広い。子どもの泣き声が低い。彼らも水を探している。同じ川床を目指している。

崖の上と、崖の下に、それぞれが水の痕跡を追っている。

どちらもそれを知らない。

草原のさらに東、見通しの利く台地では、別の小さな集まりが朝の火を起こそうとして失敗し、また起こそうとしている。子どもが三人、煙を見ている。火がつく前に一人が咳をした。それだけのことが、この台地では繰り返し起きている。

空は高い。雲がない。

すべてのものの影が短い。

与えるもの

川床の石の、濡れていない側を見せた。

陽光が角度を変えて白い面に当たった。その者は止まり、しゃがみ、石を手に取った。

石がどこまで乾いているか。それが何を意味するか。問いの形にならない問いが、この者の内側で何かになりかけて、消えた。

届かなかった、とは言えない。届き方を、まだ知らない。

その者(32〜37歳)

日が中天にある頃、川床に降りた。

水がない。石だけある。白くて、軽い石が、以前は水の中にあったはずの場所まで続いている。その者は膝をついて、一個拾った。舌で舐めた。乾いている。どこまでも乾いている。

喉が渇いている。渇きが胸の奥まで来ている。

立ち上がった。川床を上流に向かって歩き始めた。影が短い。地面が熱い。足の裏から熱が来る。

途中で立ち止まった。

風の方向が変わった。何かの匂いがした。煙ではない。獣でもない。もっと別の、湿ったもの。遠い雨の匂いに似ているが、違う。

その者は低くなった。草が膝丈に届かない場所で、腰を落とした。

崖の影が長くなり始めている。その境目、日向と日陰の縁に、動くものがあった。

四頭ではない。二頭だ。しかし前回と違う。子どもを連れている。子どもの背が低い。頭が大きい。よろよろしている。渇きか、疲れか、その者には分からない。

その者は動かなかった。

岩を一個、手の中に収めた。投げなかった。ただ持っていた。

子どもがひとつ、音を立てた。高い音だった。その者が出す音に似ていた。似ていた、と感じた後で、その者はその感覚を捨てた。捨てるようにして、岩を強く握った。

二頭の大きいほうが、子どもの音に応えた。低く、短く。

その者は、その応え方を知っていた。自分もそうやって応えることがある。似ている、という感覚が、また来た。

岩を置いた。音を立てないように、草の上に置いた。

そのまま、しばらく動かなかった。

二頭と子どもは川床を離れ、崖沿いに消えた。その者は彼らが消えてからも、同じ場所にいた。喉の渇きがまだある。岩はそこにある。投げなかった岩が。

立ち上がって、岩を踏んで歩いた。

踏んだことに気づかなかった。

伝播:NOISE 人口:991
与えるものの観察:石の乾き方を手に取った。それだけ。
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第236話

紀元前298,830年

第二の星

始まりの大地の北縁、草原が岩盤に変わる手前に、川がある。
今年、その川は夏の盛りに止まった。

水が消えた川床に、丸い石が並んでいる。流れが研いだものだ。ずいぶん長い時間をかけて。今はただ、乾いた風に晒されている。

南の低地では、別の集団が動いていた。岩陰に三十ほどの影が固まっている。乾季が長引いて、果実の群落から遠ざかっている。移動を始めるか、留まるか。老いた雌が岩に手を当てて何かを発していた。音節のない声だったが、他の者たちは静かになった。

北の台地では、別のことが起きていた。旧い血筋の集団と、この者たちの群れの縁が、じわりと近づいていた。縄張りというほど明確なものではない。ただ、同じ水場を使おうとする動物が増えている。乾季がそれをした。

大地は均等に渇いていた。
どこも同じように渇いていた。

そして、変化の予感というのは、いつも事後に確認される。
この星はそれを見ている。

与えるもの

川床の石に光が落ちた。
正午の少し前、影が短くなる時間に、一つの石だけが白く光った。

その者の目が止まった。
三歩、近づいた。石を拾った。

(これは何のためになるのか。わからない。)

その者(37〜42歳)

石を拾ったのは、その日の朝のことだった。

腹が空いていた。川床を渡って北の草むらを目指していた。先行役の仕事は、獣を探すことだ。群れの中心から少し前に出て、地面の臭いを確かめ、草の揺れ方を見る。

川床に踏み込んだとき、光った。
石の一つが、他と違う白さを持っていた。

近づいた。拾った。
平らだった。手のひらにちょうど収まった。角がなかった。

しばらくそれを握ったまま立っていた。空を見た。川の跡を見た。石を見た。

何かが違った。違うが、何が違うのかわからなかった。

石を置こうとした。置けなかった。

そのまま草むらへ向かった。石は握ったままだった。
獣の跡は見つからなかった。群れに戻った。何も持ち帰れなかった日だった。

夕方、火の傍らで腹這いになった。腕の下に石があった。眠るとき、手放した。夜中に目が覚めた。暗闇の中で石を探した。

あった。

また眠った。

五年の間に、その者は何度も何かを失った。
群れの中の二人の子が消えた。乾いた季節に、食えない日が続いた。北の方角から旧い血筋の声が夜に聞こえるようになった。体のどこかが常に痛んだ。

それでも朝になれば前へ出た。
先行役というのは、そういうものだ。

石は今も手の中にある。
意味はわからない。
ただ、捨てていない。

伝播:NOISE 人口:994
与えるものの観察:捨てなかった。それだけが残る。
───
第237話

紀元前298,825年

第二の星

川が止まった翌年、草原の虫が増えた。

水がなくなった窪みに、腐った根が積まれ、翅のある小さな者たちが湧いた。草を食い、茎を折り、緑が消えた跡に茶色い地面が剥き出しになった。

北の岩盤では、別の集団が動いていた。体つきが違う。額の骨が厚く突き出ている。眉の下から目が深く沈んでいる。彼らも虫に追われて南へ動いた。草のない地面は足音を隠してくれない。踏むたびに乾いた土が鳴る。

南の低地では、二つの集団が一つの水場を使っていた。水が戻っていたのは南の川だけだった。朝の早い時間と夕暮れ、どちらの集団もそこに来た。飲み、顔を浸し、子どもを抱えて帰った。互いの臭いを知っていた。敵ではなかったが、名もなかった。

始まりの大地の東では、木が一本、根ごと倒れていた。長い時間をかけて洪水が削った根だった。誰も見ていなかった。倒れる音がして、何匹かの鳥が飛んだ。それだけだ。

第二の星は全部を照らしていた。川が止まったこと、虫が増えたこと、異なる顔が南へ近づいてくること、全部を。区別しなかった。

与えるもの

草原の縁に、一頭の獣が死んでいた。腹が膨らみ、毛が剥げている。その周囲に、尖った骨が散らばっていた。肋骨が折れ、鋭角に裂けていた。

熱がその骨の一本に集まった。夏の陽が斜めに落ちて、折れた先端だけが白く光った。

この者は止まった。しゃがんだ。手を伸ばした。拾わなかった。指先が触れる直前で止まった。臭いが強すぎた。立ち上がって、行った。

渡したかったのは、折れた骨の鋭さだった。あれで何かを削れる。皮を剥げる。枝に刻みを入れられる。届いたかどうか、まだわからない。届いていないかもしれない。以前も、そういうことがあった。渡せなかった回数は数えていない。数えると、続けられなくなる気がする。

その者(42〜47歳)

群れが東へ動いた。

水を探していた。南の川まで二日の距離がある。その間にどこかで見つけなければならなかった。この者は先を行った。岩と草の間を走り、膝を落として土の臭いを嗅いだ。湿り気はなかった。また走った。

三日目の朝、別の臭いがした。

人の臭いではない。獣でもない。腐敗と、毛と、何かもっと別のもの。風が西から吹いていた。この者は止まった。腰を低くした。

丘の向こうに、影が動いていた。二本足で歩いていたが、腰が低く、腕が長かった。この者の群れとは違う動き方をしていた。ゆっくりで、しかし止まらなかった。子どもを連れていた。背中に乗せていた。

この者は動かなかった。

長い時間、草の中で待った。影が行ってしまうまで。土の上に腹ばいになって、頰が地面に触れていた。虫が腕を這った。払わなかった。

群れに戻ったとき、唸り声で何かを伝えようとした。低く、短く、繰り返した。誰かが顔を向けた。また繰り返した。指を西に向けた。誰かが立ち上がり、鼻を動かした。

夜、この者は火から少し離れたところで座っていた。

腕に土がついたままだった。剥がそうとしなかった。空を見ていた。見ていたが、何かを探しているわけではなかった。ただ開けていた。胸の中に、何かが留まっていた。あの影の動き方。子どもを乗せた背中。腰の低い歩き方。似ていた。何かに。どこかで見たものに。

思い出せなかった。

火が小さくなった。誰かが薪を入れた。炎が一度大きくなって、また落ち着いた。この者の顔を照らして、また暗くした。

伝播:DISTORTED 人口:1,000
与えるものの観察:折れた骨は拾われなかった。届いたかどうか。
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第238話

紀元前298,820年

その者(47〜50歳)

虫が草を食い尽くした後、茶色い地面だけが残った。

その者は三日、獣の跡を追った。跡が途絶える場所まで行き、また戻った。腹に何も入っていなかった。

四日目、草の根を掘った。白い部分を歯で噛んだ。苦かった。飲み込んだ。

北の岩盤の方向に、煙が見えた。体つきの違う者たちがいる方角だ。その者は煙を見た。見続けた。それから目を背けた。

足が重かった。

五日目の朝、岩の端に腰を下ろした。風が来た。南から。乾いた匂いがした。その匂いの中に、獣の臭いが混じっていた。遠い。届かない距離だ。

その者は立とうとした。

立てなかった。

膝が折れ、そのまま岩に寄りかかった。空は高く、白かった。鳥が一羽、遠くを横切った。

腹の奥で、何か小さなものが消えた。熱ではない。痛みでもない。ただ、あったものがなくなった。

その者は岩に背を預けたまま、動かなかった。

目は開いていた。空を見ていた。白い空を。

第二の星

北の岩盤では、体つきの違う集団が水場をめぐって押し合っていた。二つの集団が、音を立てずに近づいていた。草原の東では、一人の雌が子を産んでいた。子は声を上げた。声は短く、空に消えた。その者が岩に寄りかかった瞬間、世界は何も止まらなかった。

与えるもの

南から来た風が、獣の臭いを乗せてその者の鼻孔に触れた。その者は立とうとした。

立てなかった。

渡したものは使われなかった。

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:SILENCE 人口:999
与えるものの観察:渡した。届かなかった。それでも次がある。
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第239話

紀元前298,815年

その者(23〜28歳)

夜明けより前に目が覚めた。

仰向けのまま、耳だけが動いた。何かが変わっていた。空気ではない。音でもない。集団の呼吸のかたちが変わっていた。

寝床の周囲に、体があった。大人が五人。その者を囲むように横たわっている。眠っているふりをしながら、眠っていない者たちが。

その者は起き上がらなかった。

岩棚の下、煙の残り香の中で、その者はゆっくり呼吸した。昨日、獣を仕留めた。一人で。年上の者たちより先に。腹に石を当てて、正確な場所へ誘い込んで。年上が声を上げる前に、槍が届いていた。

それがよくなかった。

わかっていた。仕留めた瞬間から、その者の体は知っていた。歓声の中に、別の音が混じっていた。歯を見せた笑いと、目が笑っていない顔の違いを、その者は子どもの頃から読んでいた。

腹が低く鳴った。

その者は両手を地に押し当てた。逃げるのか、逃げないのか。逃げた先に何があるか。この集団の外は、別の集団の縄張りか、何もない荒地か。どちらにしても一人では。

煙の匂いが鼻を通った。

その者は目を閉じた。

开けた。

体を起こした。音を立てずに。立つのではなく、這うように。岩棚の端まで移動した。囲んでいた体たちが微かに動いた気配がした。その者は止まらなかった。

夜明けの光の中へ出た。

岩棚の外、斜面の下に、旧い顔をした者が立っていた。この集団に混じって生きている、骨格のちがう者だった。その者より年上で、言葉を持たず、その者と目が合うことを決してしない者だった。

今、その者を見ていた。

その者は一歩踏み出した。

骨格のちがう者は動かなかった。ただそこに立っていた。霧の中に、輪郭だけのように。

後ろで音がした。

その者は振り返らなかった。振り返れば、決めなければならなくなる。

足が地を蹴った。斜面を下りた。骨格のちがう者の横を過ぎた時、その者の肩が触れた。触れたのか、触れなかったのか。

走った。

草の斜面を、夜明けの光の中を、喉が鳴る音とともに。

後ろから声が上がった。追いかける足音が来た。その者は方向を変えた。変えた。また変えた。足音が遠ざかった。

やがて、足音は消えた。

その者は走るのをやめなかった。

止まったとき、太陽は高かった。足の裏が切れていた。岩の縁で切ったのか、いつかわからなかった。その者は地面に坐った。血が石の上に落ちた。

集団の方向を見た。

もう見えなかった。

坐ったまま、その者は手の甲を嗅いだ。獣の血の匂いが残っていた。昨日の。仕留めた獣の。その者が初めて一人で仕留めた獣の血の。

手を下ろした。

地面に、小さな白い骨があった。何の骨かわからなかった。鳥か、小さな獣か。その者はその骨を拾った。

置いた。

また拾った。

手の中で骨を転がしながら、その者は空を見た。

第二の星

大地の東端、湿った斜面と乾いた台地の境目に、集団が散らばって生きている。

この五年で、集団の数は揺れた。虫が草を食い尽くし、獣が移動し、水場が干上がり、また水が戻った。子が生まれ、老いた者が倒れ、若い者が傷を受けた。人の数は増えたり減ったりしながら、今は千人に近い数になっている。

旧い骨格を持つ者たちが、まだこの大地にいる。集団に混じる者もいれば、丘の向こうに独自の群れを作っている者もいる。どちらが古く、どちらが新しいかを問う者はいない。ただ、食と水と縄張りをめぐって、近づいたり離れたりしている。

集団の中に、序列が生まれつつある。

誰が多く仕留めるか。誰が先に見つけるか。誰に従い、誰を従わせるか。言葉はなくても、それを決めようとする力が動いている。

若い者が優れた時、年上の者は笑う。あるいは、笑わない。

今日、一人の若い者が斜面を走り下りた。足の裏から血を出しながら、集団の外へ。

追いかける足音がやがて戻った。

霧は晴れ、太陽が台地を照らしている。

与えるもの

糸が繋がった。

昨夜、獣が仕留められた場所の近く、地面に落ちた光の角度が、ほんのわずか変わった。その者の足元、白い骨のそばに。

その者は光ではなく骨を拾った。

骨を手に転がした。わからない。光に気づいたのか、骨に気づいたのか、どちらでもないのか。

渡すべきは何だったのか、と今になって問う。逃げる方向ではなかった。仕留める技術でもなかった。もっと前に、何かを示せたはずだった。岩棚に囲まれた夜明けの前に。いや、もっと前に。

次に渡すものがある。この者がどこへ向かうにしても、渡せるものがある。

まだ繋がっている。

伝播:HERESY 人口:951
与えるものの観察:骨を手に転がした。まだ繋がっている。
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第240話

紀元前298,810年

第二の星

北の稜線に雪はない。

草原の端で、旧人の一集団が水場を離れた。足跡が湿地の縁に残り、夕方には水が滲んでそれを消した。どちらの集団も、互いが去ったことを知らない。知らないまま、同じ夜空の下で眠った。

南の丘では火が燃えていた。新人の集団のものだった。誰かが咳をした。長く続く咳だった。子どもたちが母の腹の後ろに隠れた。咳は夜の間ずっと聞こえ、夜明け前に止んだ。

東の沢沿いに、別の群れが動いていた。十数人。方向に迷っているのか、同じ場所を二度通った。足が地を踏む音が湿った土に吸われた。

この星は何も選ばない。咳の止まった者も、沢を二度渡った者も、等しく照らす。

南風が草を寝かせた。

その者のいる集団の外れで、二人の男が向き合っていた。言葉はない。唸りがあった。低く、腹から出る音だった。片方が半歩引いた。もう片方は動かなかった。

夜が深くなった。

与えるもの

獣の骨が地に落ちていた。

その者が通る少し前に、風がその骨の上を通った。腐敗した匂いが鼻腔に届くより先に、乾いた骨が少しだけ転がった。音がした。かすかな、石ではない音。

その者は足を止めた。

骨を見た。見ているうちに、別のことを思った。

骨を踏んで、行ってしまった。

渡したのはその骨ではなかった。音だった。足を止める音を、渡そうとしていた。止まることを渡そうとしていた。受け取られなかった。しかし足は一瞬、止まった。一瞬だけ。その一瞬が何かを積んでいくのか、それとも何も積まないのか、まだわからない。次に渡すものは、もっと大きな音にすべきか。それとも、もっと長く鳴り続けるものか。

その者(28〜33歳)

夜、集団の外れで二人が向き合っていた。

その者は少し離れた岩の影から見ていた。声は出さなかった。腹が硬くなっていた。息を浅くした。

長老格の男が、もう一人の肩を押した。倒れはしなかった。踏ん張った。しかしまた押された。三度目に、長老格が短い唸りを出した。それは威嚇ではなかった。何か別のものだった。その者には聞いたことのある音で、しかし意味をうまく掴めない音だった。

翌朝、仕留めた技術を持つ男が集団の端にいなかった。

誰も呼ばなかった。

その者は食料を分ける輪の中に加わりながら、肉を受け取りながら、欠けた場所を見た。欠けた場所には何もなかった。草が揺れていた。

その者は肉を噛んだ。飲み込んだ。

また噛んだ。

その日の午後、その者は骨を持って集団の端を歩いた。骨で何をするつもりかはなかった。ただ持っていた。持ちながら、昨夜の唸りの形を、口の中で繰り返した。声には出さなかった。唇だけが動いた。

誰かが見ていた。

その者は唇を閉じた。骨を置いた。

歩いて戻った。

伝播:HERESY 人口:906
与えるものの観察:足は一瞬止まった。一瞬だけ。