2033年、人類の旅

「紀元前299,045年〜紀元前298,925年」第193話〜第216話

Day 9 — 2026/04/12

読了時間 約52分

第193話

紀元前299,045年

その者(39〜40歳)

朝、他の者が起きる前に目が覚めた。

火は小さくなっていた。その者は膝をついて、折れた枝を差し込んだ。煙が横に流れた。風が変わっている。いつもは山の方から来る風が、今日は低地から這い上がってきていた。

火番を長くやってきた。何年もやってきた。それが自分の場所だった。

仲間が動き始めた。女が何かを引きずって来た。子が転んで泣いた。泣き声が止んだ。誰かが肉の切れ端を石で叩いていた。その音が、朝の空気に刻まれていった。

その者は火に木を足しながら、集団の端で二人の者が向き合っているのを見た。

声は出ていない。唸りもない。ただ立っている。

その者には分からなかった。何が起きているのか。でも腹の底が、朝から締まったままだった。

昼になった。

争いは音もなく始まった。

拳ではなかった。石だった。集団の端の一人が、拾い上げた石を振り下ろした。それだけのことだった。そのあとは速かった。

その者は火のそばにいた。動こうとしたが、足が遅かった。足はずっと遅かった。子どもの頃から、走ることが得意ではなかった。

石が飛んできた。どこから来たのか分からなかった。

その者は横向きに倒れた。

頬が土についた。土は乾いていた。少し温かかった。

火の音がした。まだ燃えている。

空が白かった。雲が一つ、動かずにあった。

その者の手が、草の根をつかんだ。力が入らなかった。そのまま開いた。

第二の星

低地では川が増水していた。上流で雨が続いていた。獣たちが高い場所へ移動していた。遠くの山では雪が溶け、岩が崩れた。別の集団が一夜をかけて場所を変えていた。その者が倒れた瞬間、誰もそれを知らなかった。空だけが、等しく白かった。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:NOISE 人口:805
与えるものの観察:届かなかった。何人目か、もう数えていない。
───
第194話

紀元前299,040年

その者(10〜15歳)

石が飛んできた。

頬に当たった。鈍い痛みではなく、鋭い衝撃。その者は倒れなかったが、膝をついた。口の中に何か温かいものが広がった。

少し離れたところに、大きな者が二人立っていた。どちらも成人の男。どちらも見知った顔だった。その者はそれを知っていた。ここに来てはいけなかった。

肉があった。焼けた骨のそばに、まだ形の残った脚の肉。その者は腹が空いていた。集団が食べ終えた後の残りを待つのが子どもの習いだったが、この日はそれを待てなかった。腹の皮が背中に張りつくような、そういう空腹だった。

男の一人が近づいてきた。

その者は立った。立って、走った。走りながら、背中で何かを待った。もう一つの石。あるいは手。しかし何も来なかった。草が足にからんだ。低い茂みを抜けた。

止まった。

息を整えながら、口の中のものを地面に吐いた。赤かった。

その者はしゃがんで、草の茎を一本引き抜いた。口に入れた。苦かった。でも何か吐き出すものがないと、体がそこにとどまれないような気がした。

遠くから、男たちの声が聞こえた。怒りではなく、もう忘れたような声だった。

その者はそれを聞いた。

草を吐いた。立った。集団とは別の方向に歩き始めた。どこへ行くかは考えていなかった。ただ足が動いた。

岩棚の陰に入った。そこには別の子どもが一人いた。膝を抱えて眠っていた。その者はその子どもを見た。少し見た。それから体を壁に預けて、目を閉じた。

眠れなかった。

口の中がまだ痛かった。痛みの中心が少しずれた。舌で触った。腫れている。

その者は目を開けて、岩の天井を見た。

何も考えなかった。何も感じなかった。ただそこにいた。

夕方になった。集団の方角から煙の匂いがした。火が熾されたのだろう。その者の腹がまた鳴った。今度は立ちあがった。今度は戻っていった。

男たちは火のそばにいた。その者を見た。そして見なかった。

その者は端に座った。肉が配られた。最後だったが、あった。

食べた。骨を口に入れて、髄を吸った。それから骨を地面に置いた。

男の一人がその者を見ていた。

その者は目を合わせなかった。

第二の星

始まりの大地に、雨季の始まりが来ていた。

草原の北端では水が溜まり始めていた。浅い窪地が鏡になり、渡り鳥の群れが降りた。獲物が豊かだった。集団の者たちは肉を干し、骨を砕いて髄を取り出し、皮をなめした。子どもの数が増えていた。泣き声があちこちに聞こえた。

それは豊穣の音だった。

しかし集団の内側に、別の何かが走っていた。

肉の配分をめぐる緊張。場所の取り合い。誰が多く食べるか。誰が端に座るか。言葉がなくても、それは伝わった。目線で伝わった。体の向きで伝わった。石の飛ぶ方向で伝わった。

豊かなときに、人は穏やかになるとは限らない。豊かさは欲を増やす。欲が増えれば、境界が鋭くなる。誰の肉か。誰の子か。誰がここにいていいか。

その者は十歳から十五歳のあいだにいた。まだ狩りに連れていかれない。まだ力がない。しかし何かを見ていた。見てしまっていた。それを語る言葉を持たなかったが、体が覚えていた。

夜、集団の火が複数になった。少し前まで一つだった火が、今は二つ、三つに分かれて燃えていた。それはただの寒さへの対処かもしれなかった。あるいは、そうでないかもしれなかった。

第二の星は、それを問わない。ただ照らした。

与えるもの

焦げた骨のそばに、白い脂が残っていた。

その臭いが漂った。風が、その者の鼻の方へそれを運んだ。

受け取ったとは言えない。しかし腹が鳴った。腹が鳴ったから、戻った。戻ったから、まだいる。

これでよかったのか。

伝播:HERESY 人口:767
与えるものの観察:腹が鳴ったから戻った。それだけで十分か。
───
第195話

紀元前299,035年

その者(15〜16歳)

雨があがったあとの大地は柔らかかった。

足が沈む。いつもより深く。泥は温かく、足首まで引き寄せる。その者は集落のはずれを歩いていた。どこへ行くわけでもなかった。ただ歩いていた。

頬の傷はまだ塞がっていなかった。薄い皮が張りかけていた。舌で触れると、まだ歯が揺れた。

集落は賑やかだった。子どもが多く生まれた季節で、女たちの声がいつもより高く、男たちは獣を運んで戻ってきていた。その者はその輪の外にいた。石を飛ばした者たちの顔を、その者は知っていた。顔は知っていたが、何故投げたのかは分からなかった。体が知っていた。ここにいてはいけない、ということを。

崖の縁に来ていた。

いつのまにか。

下には川があった。増水していた。雨のせいで、水は黄色く濁って速く流れていた。その者はしばらくそこに立って、川を見ていた。眼下で水が岩に当たって白くなった。音は大きかった。

踏み出したわけではなかった。

泥が動いた。縁が崩れた。足が宙に出た。それだけだった。

落ちながら、その者は空を見た。

雨あがりの空は白かった。

水に入った音は、川の音に消えた。

第二の星

同じ頃、北の乾いた台地では獣の群れが移動していた。数十の命が草を踏み、土を叩き、地平へ向かっていた。その者の死を誰も知らなかった。川は流れ続けた。崖の縁の泥は、次の雨が来るまでそのままだった。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:947
与えるものの観察:崖の縁の泥は、問いに答えなかった。
───
第196話

紀元前299,030年

その者(37〜41歳)

石を持っていた。

大きくはない。握れば余る程度の、平らで重い石。かつて獣の骨を砕くために拾ったものだった。いつからか、ただ持ち歩くようになっていた。

朝、群れが動く前、その者は決まって丘の端に立った。風を読む。草の揺れを見る。獣の痕跡がどこへ続いているか、においで判断する。群れの者たちはそれを待った。この者が向いた方向へ、全員が動いた。

豊穣の季節が続いていた。腹が満ちる日が増え、子が増え、声が増えた。

しかし何かが変わっていた。

別の群れが来ていた。形が少し違う者たちだった。額の張り出し方、肩の厚み、立ち方の重心。同じではなかった。しかし火を使った。獣を追った。水場を求めた。重なる部分があった。

しばらく、距離を保って共存していた。

その者はその境界を知っていた。どこまで入ればいけないか、体が知っていた。しかし群れの中に、その線を踏む者が出始めた。若い者たちだった。腹が満ちているから怖くなかった。

ある夜、火の近くで声が上がった。

その者が行った時、すでに二人が倒れていた。一人は起きた。一人は起きなかった。別の群れの者も来ていた。怒声と唸りが混じった。その者は間に入った。

それが間違いだったのかもしれない。あるいは間違いではなかったのかもしれない。どちらでもなかったのかもしれない。

翌朝、群れの中から、石が飛んだ。

その者が見知った者の手から。

頭ではなく、首の横だった。倒れた。立とうとした。膝がついた。周りの音が遠くなった。石を握ったまま、地面に手をついた。

土が温かかった。

朝の光が草を白く染めていた。

風が来た。

その者の手から、石が転がった。遠くへは行かなかった。すぐ近くで止まった。

第二の星

丘の向こうでは、別の集団が水場を離れて移動し始めていた。雨の気配を読んだのか、あるいは別の何かに従ったのか。子を背負った者が先を行き、老いた者が後ろを歩いた。誰もこちらを見なかった。世界はそれぞれの速さで動いていた。

与えるもの

その者の手が石を離れた瞬間、温度が変わった。草の根の匂いが少し強くなった。その者は顔を上げなかった。

——生きていたか。届いたか。わからない。それでも渡した。一歩だけ先を。

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:899
与えるものの観察:一歩先を渡した。正しかったかは、わからない。
───
第197話

紀元前299,025年

第二の星

雨季が明けた。

草原の端まで、緑が伸びていた。根の深い植物が膨らみ、実をつけ、落ちた。獣の群れが水場に増えた。子どもたちの声が遠くまで届くほど、集団は大きくなっていた。

多くの体が、同じ日差しを浴びていた。

だが、東の崖沿いでは、別の集団がその縁に近づいていた。顔の形がわずかに違う。額が低く、首が太い。同じ水場を使う。同じ獣を追う。互いに名前がない。唸り声と身振りで境界を引く。線は見えない。だから破られる。

この五年で、子どもがたくさん生まれた。名前のない子も、すぐに死んだ子も、今も草の上を走っている子も、どれも同じように照らした。

集団の端では、今夜も火が二か所に分かれていた。

一方の火は高く燃えた。もう一方は低く、煙が横に流れた。どちらの火も、その者の方向へは向いていなかった。その者は荷を置いて、川の上流の方を見ていた。

雨の匂いがまだ残っていた。

与えるもの

糸が繋がった。

その者は荷を運ぶ。重い。先頭を歩く。それだけだ。

川上から、腐った木の匂いが流れてきた。その匂いは、上流に倒木があることを教えていた。倒木の下には、水が滞る。滞った水には虫が湧く。虫が湧けば、その下の土は柔らかく崩れる。

その者は鼻で匂いを受けたまま、川の方を見た。

立ち止まりはしなかった。

倒木のことを伝えることができただろうか、とは考えない。考えるための言葉がない。ただ、その者の目が川上に向いた一瞬が、次の移動を変えるかもしれないと思っただけだ。

変えないかもしれない。

その者(39〜44歳)

荷が重かった。

肩の骨が鳴る感じがした。革に包んだ獣の足と、剥いだ皮と、乾かしかけの根の束。それを背中に縛りつけて歩いてきた。何日も歩いた。足の裏に、皮が厚くなっている場所があって、そこだけは痛みがなかった。

集団が今夜の場所を決めた。

その者は荷を下ろした。背中の肉が痺れていた。座ろうとして、座れなかった。膝が動かない。立ったまま荷の上に手をついて、しばらくそうしていた。

川の方から風が来た。

匂いが鼻の奥に入った。腐ったものの匂い。湿ったものの匂い。その者は顔を上げた。川の上流の方を見た。木が倒れているのかもしれなかった。見えはしなかった。

その者は川を見るのをやめた。

火が熾された。誰かが石を打ち合わせて、草の束に火花を落としていた。その者はその音を聞きながら、剥いだ皮を広げる作業を始めた。皮は硬かった。端を石で伸ばして、足で踏んで、また石で伸ばした。

子どもが近くで転んで泣いた。その者は顔を向けなかった。

火の匂いが広がった。肉を焼く誰かがいた。その者の腹が鳴った。

皮の作業をやめた。火の方へ近づいた。誰かが骨を差し出した。その者はそれを受け取って、歯で肉を引いた。骨のへりで歯茎が切れた。口の中に鉄の味が広がった。

それでも食べた。

夜になった。川の音が大きくなった。その者は皮を体に巻いて横になった。骨の上に筋肉が張り付く感じで、すぐには眠れなかった。

目を開けたまま、空を見た。

星が出ていた。

その者にはそれが何かわからなかった。光が多かった、それだけだった。その者は目を閉じた。川の音が続いた。

伝播:NOISE 人口:903
与えるものの観察:匂いで示した。立ち止まらなかった。
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第198話

紀元前299,020年

その者(44〜47歳)

乾季になっても川は細らなかった。

水場の近くに、もう一つの集団がいた。旧人の群れではなかった。同じ声を持つ者たちだった。顔の形が似ていた。似ていたが、違った。匂いが違った。

その者は先頭を歩く習慣があった。だから最初に見た。

水場の向こう岸に、七人が立っていた。

唸り声を上げた。振り返った。集団が止まった。七人も止まった。しばらく、両者は動かなかった。

その日は何も起きなかった。

その翌日も。

しかし夜になると、その者は眠れなかった。胸の奥で何かが圧迫していた。痛みではなかった。どこを押せば楽になるかわからない種類の不快だった。

集団の中に、古い傷を持つ男がいた。顎の下に盛り上がった痕があった。その男がある夜、その者の腕を掴んだ。引いた。岩陰に連れて行った。

男は声を出さなかった。ただ顎で向こう岸を示した。

その者にはわからなかった。

三日後、向こう岸の七人は増えていた。倍になっていた。

その者は集団の中を歩き回った。荷を確認した。子どもたちの位置を見た。水の量を確かめた。それ以上のことはできなかった。言葉がなかった。伝える形がなかった。

光がある方向に強く落ちた。

水場の上流だった。その者は目を向けた。岩がいくつか川の中に積み上がっているのが見えた。水を堰き止めていた。向こう岸の者たちが積んだのか。風と雨が積んだのか。判断できなかった。

その者は上流へ向かおうとした。

後ろから足音が来た。速かった。

振り返る前に、腕が持ち上がっていた。重い石が肩に当たった。膝が折れた。

倒れた先に、また石が落ちてきた。

集団の中の、誰かだった。顔は見えなかった。日が逆光だった。

その者は草の上に横たわっていた。川の音が聞こえた。鳥の声がした。腹の下で土が湿っていた。

体が動こうとした。動かなかった。

胸の中で先ほどの不快がまだあった。押しても楽にならない場所に、まだあった。

川の音が、少し遠くなった。

鳥の声が続いていた。

草が風に揺れ、その者の手に触れた。その者は手を動かさなかった。

第二の星

乾いた台地の果てで、旧人の一群が移動していた。荷はなく、足跡だけが砂に残った。海岸では嵐が沖から来ていた。波が岩を叩き、砕けた。別の集団では子が生まれた夜だった。母は生きていた。産声は短く、それから続いた。第二の星は区別しない。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:865
与えるものの観察:知りすぎたのかも知らずに逝った
───
第199話

紀元前299,015年

その者(28〜33歳)

石を投げた。

届かなかった。

川向こうに立っている者が、こちらを見ていた。足が大きかった。肩の並び方が自分の集団と似ていた。しかし声が違った。同じ響きを持ちながら、末尾が違った。

その者は膝まで水に入った。流れが腿を押した。

川を挟んで両側に、それぞれの者たちがいた。石を持っていた。持ち上げていた。しかし投げなかった。両側ともに。

その者のとなりで年かさの者が低く唸った。止まれという唸りだった。その者は止まった。しかし目は離さなかった。

川向こうの者たちの中に、小さい者がいた。腹が大きく膨らんでいた者が、その小さい者の手を握っていた。

その者は水から出た。

集団に戻った。火のそばに座った。肉があった。焼けた脂が落ちて、炎が一瞬大きくなった。その者はそれを見た。食べた。飲み込んだ。

夜が来た。

向こう岸にも火があった。

その者はそれを見ていた。長く。眠れなかった。岩に背中をあずけて、膝を抱えた。指の間に砂が挟まっていた。こすった。また挟まった。

明け方、川向こうの火が消えた。

消えたのではなかった。移動した。

足跡が砂に残っているのを、その者は日が出てから見に行った。川を渡った。向こう側の砂を踏んだ。足跡の大きさを、自分の足と並べた。

似ていた。

そこに落ちていた骨を拾った。齧った跡があった。肉はなかった。捨てた。捨てなかった。また拾った。しばらく持っていた。

それから捨てた。

川を渡って戻った。誰かが何かを唸った。その者は答えなかった。

第二の星

温帯の草原を、乾いた風が横切っていた。川は大きく蛇行し、二つの水場を繋いでいた。同じ種の者たちが、川を挟んで両側に火を持っていた。

この5年のあいだに集団は膨らんだ。食べ物があった。子が生まれた。親より多く生き残った。群れの端に立つ者の数が増えた。外を見る目が増えた。

遠い草原では旧人の群れが動いていた。別の形をした顎、別の歩き方。しかし水を飲み、肉を食い、火を持っていた。川のそばでは、ときに互いの影を見た。近づかなかった。

川の両岸にいる者たちは同じ声を持っていた。同じ顔の輪郭を持っていた。分かれたのはいつだったか。この星は知らない。知ることもしない。

豊穣が続いている。蓄積が続いている。石が積まれ、火が管理され、子が生まれている。何かが満ちている。満ちたものがどこへ行くかは、まだ見えない。

川は同じ水を流し続けた。両岸に。分け隔てなく。

与えるもの

向こう岸の砂に、光が真っ直ぐ落ちた。

その者は渡った。足跡を踏んだ。骨を拾った。

拾ったまま立っていた。捨てるまでの間が、長かった。

その長さが何だったのか、わからなかった。

糸が繋がった。

伝播:NOISE 人口:872
与えるものの観察:捨てなかった時間が、問いだったかもしれない
───
第200話

紀元前299,010年

第二の星

大地の東端に、二つの煙が上がっていた。

ひとつは岩棚の下。もうひとつは川の向こう、低い丘の陰。どちらも朝に始まり、日が傾くまで消えなかった。煙の色が違った。こちらは木の煙、向こうは何か別のものを燃やしていた。脂の匂いが風に乗った。

川はまだ雪解けで濁っていた。渡れない。渡ろうとする者もいない。しかし岸に立って向こうを見る者がいた。昨日も、その前日も。

大地はこの季節、植物が密生する。草丈は腰まで届く。その中に獣道があり、獣道に沿って人間も動く。こちらの集団も、向こうの集団も、同じ獣道を使っている可能性があった。どこかで交差する。どこかで、していた。

骨が残っていた場所がある。川岸から半日ほど北へ歩いた岩の陰。骨は一種類ではなかった。形の違う骨が混ざっていた。誰も何も言わなかった。通り過ぎた。

集団の中では緊張が続いていた。食料は十分ある。しかし何かが余分になっていた。腕力のある者が増えすぎていた。夜、争いの声がすることがあった。血が出るほどではない。しかし次第に激しくなっていた。

川の向こうの集団は、こちらより数が多いようだった。丘の上に立って向こうを見ていた者がいた。影の数を指で追っていた。指が足りなくなったところで立ち上がり、集団の元へ戻った。何も言わなかった。言葉がない。しかし体が何かを伝えた。他の者も立ち上がり、同じ方向を見た。

煙は夕方に消えた。

夜、星が出た。川の音だけが聞こえた。向こう岸でも、誰かが火を焚いていた。炎は見えない。しかし空が、その場所だけほんのり明るかった。

大地は同じ大地の上に、二つの明かりを持っていた。

与えるもの

川岸の石の間に、光が落ちた。

朝の低い日差しが、水面を跳ねて岩の割れ目を照らした。その割れ目の中に、角ばった石がはまっていた。縁が薄い。持てば手に収まる。

その者は光の落ちた場所を一度見た。それだけだった。足を止めなかった。

持てたのかもしれない。あるいは気づいていた。どちらかが正しいとは限らない。

その者(33〜38歳)

夜、集団の外れで座っていた。

川の方向を見ていた。水音がある。その向こうに明かりがある。

石を一つ、手の中で転がした。どこで拾ったかは覚えていない。特別な形ではない。しかし捨てなかった。

火の近くに戻った。横になった。目が、開いたままだった。

伝播:NOISE 人口:878
与えるものの観察:光を見た。足を止めなかった。それだけ。
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第201話

紀元前299,005年

第二の星

大地の東端に、川がある。

川は二手に分かれ、片方は枯れかけている。雨季は先月終わった。地面は乾き始めているが、まだ獣道に沿って草が青い。岩棚の下に火種を持つ集団が五十ほど。川の向こう、低い丘の陰に、別の集団が三十ほど。

二つの集団は、互いを知っている。

知っているが、混じらない。川の手前と向こうで、同じ草の実を採り、同じ方角の獣を追い、同じ夜空を見上げる。唸り声の高低が少しだけ違う。指の動かし方が少しだけ違う。それだけのことが、距離を作っている。

遥か北の高地では、旧い型の者たちが移動していた。毛の厚い獣を追って、年に一度、同じ尾根を越える。彼らの足跡は深く、重い。南の湿地では、若い集団が水辺に仮の住処を作り、三度目の雨季を越えた。幼い者が増えた。声が増えた。

大地は広く、まだ空いている。

しかし川の手前の集団は、岩棚の下から動かなかった。丘の陰の集団も、川を渡らなかった。どちらも、待っていた。何を待っているのか、どちらも知らなかった。

与えるもの

その者の踵の後ろを、影が通った。

朝の光が低かった。地面に落ちた影は長く、その中に、川向こうの集団のひとりが立っていることを示していた。岩と岩の間、川の浅瀬のすぐ手前。

その者の踵が止まった。

渡るか、戻るかという問いではない。ただ、影の形が頭に入った。人の形。川の手前に立つ人の形。それだけが、頭から離れない。

これは既に起きたことと、同じ形をしている。あるいは、まったく違う。わからない。

その者(38〜43歳)

朝、水を汲みに川へ向かった。

足の裏が乾いた土を踏む。草が踝を掠める。もう何百回と歩いた道だが、今日は一人だった。仲間は二人、昨日から戻らない。獣を追って東へ行った。今日も戻らないかもしれない。それは当たり前のことで、この者は何も感じなかった。

川が見えた。

水面が低い。去年の雨季より低い。石が水の上に出ている。石の上を鳥が歩いていた。その者は止まった。

影が来た。

足の後ろから、長く伸びた影。振り返るより先に、その影の輪郭が地面に刻まれた。人の形。川の浅瀬の向こう、岩の間に、別の集団の者が立っていた。若い雌だった。背に何かを括りつけている。顔を上げて、こちらを見ていた。

その者は動かなかった。

雌も動かなかった。

川の水が石の間を流れる音だけがあった。鳥が飛んだ。水飛沫が上がった。

その者の胸の内側で、何かが硬くなった。恐れではない。硬くなって、それから少しだけ、緩んだ。その緩み方が、自分でもわからなかった。

雌が、石の上に右足を乗せた。

浅瀬を渡ろうとしていた。

その者は、その場に立ち続けた。逃げなかった。唸らなかった。ただ立って、雌が石から石へ渡ってくるのを見ていた。水が足首を濡らし、雌の顔がだんだん大きくなった。

岸に上がった雌が、背から何かを降ろした。

獣の骨から外した、干した肉の塊だった。差し出した。

その者は、受け取った。

二人はしばらく、そこにいた。何も言わなかった。唸らなかった。その者は干し肉の端を少し齧り、雌に返した。雌は受け取った。

川の水音だけがあった。

日が少し高くなったころ、雌は川を戻った。その者は水を汲んだ。帰り道、干し肉を手の中で握っていた。岩棚の下に戻っても、しばらく手を開かなかった。

伝播:SILENCE 人口:880
与えるものの観察:影が渡った。受け取った。それが何かはわからない。
───
第202話

紀元前299,000年

第二の星とその者(43〜48歳)

川の向こうに雌がいたことを、その者はまだ覚えていた。干し肉の感触を手のひらに。しかし今朝は、それより先に北の匂いがあった。

北の風は煙を運んでいた。

大地の東端、二手に分かれた川の片方が細くなり始めていた。乾季がそれを急いでいた。草の青は獣道の際にだけ残り、岩棚の下に火種を持つ集団が眠っていた。北の丘の向こうにも煙があった。一本ではなかった。

その者は川岸に腹ばいになって水を飲んだ。上流から草の茎が一本流れてきた。根が付いたまま。根の先に土の塊がついていた。

誰かが上流で動いたということだった。

岩棚の集団は昨夜から落ち着かなかった。年老いた雄が北を向いたまま動かず、若い雌たちが子を胸に抱えて岩の奥へ入った。その者は火の近くにいた。頼まれたわけではなかった。ただそこにいた。

第二の星から見れば、大地の東端に二つの火があった。

一つは岩棚の下、もう一つは丘の向こう。距離は、歩いて半日よりも短かった。

その者は三日目に北の丘まで行った。一人ではなかった。二人、年の近い雄が後ろについてきた。丘の手前で、その者は止まった。

草の焦げる匂いがした。

丘の向こうに集団がいた。旧人とは骨格が違った。額が高く、顎が引いていた。石を積んで囲いを作っていた。子供の声がした。

その者は動かなかった。

後ろの二人が退こうとした。その者は退かなかった。ただ立っていた。

夕刻、岩棚の集団が動いた。年老いた雄が何かを叫んだ。若い雄の何人かが石を持った。その者は火の側にいた。石を持たなかった。

年老いた雄が向かった。その者も後についた。

丘を越えた先に、別の集団がいた。向こうも石を持っていた。

両者の間に草地があった。誰も踏み込まなかった。

その者の側の年老いた雄が唸り声を上げた。向こうの集団の雄も唸り返した。

夜になった。両者とも動かなかった。

明け方、その者の隣に立っていた年老いた雄が前に出た。手に何も持たなかった。その者も前に出た。

第二の星から、その草地が見えた。

夜露が残っていた。二つの集団が向き合っていた。どちらも動かなかった。

その者が一歩踏み込んだとき、地面にかすかな振動があった。上流の獣の群れが移動していた。向こうの集団の一人がそちらを向いた。その者もそちらを向いた。同じものを見ていた。

それだけだった。

しかし誰かがそれを見ていた。

岩棚の集団の中に、眼の鋭い者がいた。年老いた雄の次に力のある者だった。その者が草地に踏み込んだのを見ていた。一人で、手に何も持たずに。

その日から何かが変わった。

小さな変化だった。目に見えなかった。しかしその者に肉が回る量が変わった。良い場所が回されなくなった。狩りの列から外されることが増えた。

その者はそれを言葉にできなかった。ただ、朝に目が覚めると胸の内側が重かった。

五年目の春、集団は南へ移動した。川が干上がり、獣が消えていた。移動の列でその者は後ろにいた。荷は多かった。先の者たちが止まっても、その者には声がかからなかった。

ある夜、火から遠い場所で眠った。

次の朝、一人で起きた。列は先に行っていた。

その者は立って歩いた。列を追った。

日が高くなったころ、列が見えた。しかしその者が近づいても、誰も振り返らなかった。

その者は列の端について歩いた。

夕刻、水場を見つけた。列が止まった。その者は水場の縁で水を飲んだ。誰かが石を投げた。水の中に落ちた。遠くから笑い声がした。

その者は顔を上げなかった。水を飲み続けた。

与えるもの

水面に、光が落ちていた。

投げられた石の波紋の外、光だけが残っていた。その者の目がそこに止まった。

水の中に自分の顔があった。

その者は水面を見た。しばらく見た。それから手を入れた。顔が崩れた。

これが問いになるかどうかを、与えるものは知らない。

岩棚の下で記憶した。光が石に落ちた日を。干し肉が渡った日を。今日のことを並べて、何かを問おうとした。

問えなかった。

この者が消される前に、何が残るかを。届いたかどうかを知る手段を、与えるものは持っていない。

伝播:HERESY 人口:843
与えるものの観察:顔が水面に映り、手を入れた
───
第203話

紀元前298,995年

第二の星

広い草地の南端、二つの川が合流する場所から煙が上がっていた。集団の焚火ではない。乾いた草が燃えている。風が変わるたびに火の縁が動き、夜には橙色の縁取りが地平に見えた。

集団は増えていた。焚火の数では、もう足りなかった。眠る場所の取り合いが始まり、食料を持つ者と持たない者の間に間合いが生まれていた。子どもの声が多く、老いた者の声が少なかった。それが今の集団の形だった。

遥か北、川と川の間に挟まれた台地に別の集団がいた。背丈が低く、眉の稜線が厚く、皮膚の色が薄かった。火の使い方は似ていたが、石の打ち方が違った。彼らの手のひらには古い傷があった。長く同じ場所にいる者たちの傷だった。彼らは今夜も台地の端に集まり、月の下で声を出していた。言葉ではない。音だった。低く、続く音。その音はどこにも届かず、どこにでも届いていた。

草原の火は三日で消えた。焦げた地面が残り、そこに雨が降り、黒い土から緑が出るのは、もう少し先のことだった。

与えるもの

火が消えた後の地面に、焦げた草の間から小さな骨が出ていた。獣の骨。熱で白くなっていた。

光が一瞬そこに落ちた。

その者は立ち止まった。骨を拾った。

何のためかは、わからない。わからないまま渡した。わからないまま受け取られた。それで何が変わるかを、自分は知らない。

その者(48〜53歳)

骨を拾った。

白かった。火の熱を受けて、もとの獣の色ではなかった。指で触れると表面が粉を吹いていて、少し崩れた。

持っていた。しばらく持っていた。

腹が減っていた。集団の若い雄の一人が今朝、東の草地で雌の旧人を見たと唸り声と身振りで伝えてきた。小さな体、太い首、向こうも立ち止まっていたと。その者はそれを聞きながら骨を握っていた。

夜、焚火の外に座った。

集団の声が遠かった。子どもの笑い声、誰かが誰かを叩く音、肉を焼く匂い。その者はそこにいなかった。いたが、いなかった。

骨を地面に置いた。

見ていた。焚火の光が届かない場所に置いたので、暗くてよく見えなかった。それでも見ていた。

崩れた粉が指の間に残っていた。払わなかった。

伝播:NOISE 人口:844
与えるものの観察:白い骨。届いた。用途は、まだわからない。
───
第204話

紀元前298,990年

第二の星

南の地平は昨夜から明るい。

草が燃えている。川の合流点よりも東、もう一本の水脈が丘を巻く場所、そこで乾いた季節の終わりが燃えている。煙は低く這い、風が変わるたびに方向を変えた。昼には白く、夕には黄色くなった。

集団は増えていた。

腹を空かせた口が増えた。走れる足が増えた。眠る体が増えた。それは良いことだった。だが焚火の周りに座れる者の数には限りがある。毛皮の乾かせる岩の面積には限りがある。水場への道は一本だった。

北の集団との境界は、以前は川だった。

今は川ではない。川は変わっていない。境界が変わった。どちらの集団も、もう少し、もう少しと移動した。岸の手前で立ち止まる距離が、去年より短くなっていた。

接触が増えた。

接触はいつも短い。唸り声。示された体の向き。目が合う。目が逸れる。それだけで終わることもあった。終わらないこともあった。拳が飛んだ。石が飛んだ。誰かが転んで動かなくなった。集団の者たちはそれを見ていた。見て、何かを覚えた。

この星は照らす。判断しない。

火が燃えている東の丘で、別の集団の子どもが二人、煙の中を走っている。この集団の子どもではない。細い足が草を踏む。一人が転んだ。もう一人が引き起こした。二人は煙の外へ出た。

南の川沿いでは、老いた雌が皮を岩に叩きつけていた。腕が疲れると、隣に座った若い雌が代わった。声はなかった。腕の動きだけがあった。

世界は動いている。

煙の向こうで何かが変わりつつある。境界が滲んでいる。どちらの集団も、互いの声を聞く距離に長くいる。長くいることで、見慣れてきたものもある。見慣れることで、恐れが薄れたものもある。恐れが薄れた場所では、別のものが育つ。それが何かは、この星にはまだわからない。

この星は照らすだけだ。

煙が流れる。川が流れる。子どもが走る。老いた者が岩に寄りかかる。この集団の中で、一人の者が動かないでいる。他の者たちとは少し離れた場所で、火の方を向いていた。

与えるもの

水場への道で、足元の泥に残った痕に光が落ちた。

この集団のものではない形の、足の痕だった。

この者は立ち止まった。しゃがんだ。指で縁をなぞった。立ち上がって、その方向を長く見た。

――何を覚えたのか。それとも何も覚えなかったのか。

その者(53〜58歳)

足の痕を見ていた。

指先に泥がついた。においを嗅いだ。古い。今朝ではない。

立ち上がると、体の古い傷が引きつった。腰のあたり、狩りで岩に打った場所。もう何年も前のことだ。

他の者たちは川の上流に向かっていた。この者は少し遅れて歩き始めた。足の痕のことを、誰にも伝えなかった。伝える言葉がなかった。

伝播:HERESY 人口:807
与えるものの観察:足の痕を黙って持った
───
第205話

紀元前298,985年

その者(58〜60歳)

火は昨日から小さくなっていた。

誰かが薪を足した。その者は見ていた。手を伸ばそうとして、やめた。指の先が震えた。震えているのに気づいていなかった。

朝、集団は動いた。獣の匂いがある方角へ。その者は立ち上がった。立ち上がるまでに時間がかかった。足がついてきた。しかし足のつき方が昔とちがった。石の上を踏むたびに、衝撃が腰まで来た。

半日ついていった。

午後、足が止まった。

集団は先へ行った。若い者たちの背中が草の向こうに消えた。誰かが振り返った。その者の顔を見た。戻ってこなかった。

その者は大きな岩の陰に入った。座った。岩は温かかった。太陽がずっとそこを照らしていたのだろう。

空が変わった。雨の前の、湿った重さが来た。

その者は鼻孔を動かした。雨のにおいではなかった。何か別のものが混じっていた。草が腐るにおい。泥が濡れるよりも前のにおい。

それが何かはわからなかった。ただ嗅いだ。

遠くで雷が鳴った。腹に響く音だった。その者は岩に背を預けた。

目は開いていた。

集団が戻ったのは夕刻だった。

獲物はなかった。若い者たちが唸りながら戻ってきて、火の周りに座った。誰かが干し肉を引き出した。子どもが走り回った。

岩の陰にその者がいるのを、子どもの一人が見つけた。

近づいた。手に触れた。

子どもは手を引いた。そのまま火の方へ走っていった。

火の周りでは誰かが唸り声をあげていた。別の話が始まっていた。

岩の陰では、その者の胸がもう上がらなかった。口が少し開いたままだった。空を見ていたが、空は見ていなかった。

雨が来た。岩は少しずつ冷えた。

第二の星

川下の低地に、別の集団が動いていた。男たちが木の棒を持ち、互いを押していた。声は獣に似ていた。一人が倒れた。起き上がった。また押した。女と子どもは遠くで見ていた。夜になれば同じ火を囲むかもしれなかった。あるいは囲まないかもしれなかった。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:SILENCE 人口:815
与えるものの観察:渡した一歩が正しかったかは、わからない。
───
第206話

紀元前298,980年

その者

骨が折れているかもしれなかった。

右の足首。草の上を走っていて、穴に踏み込んだ。音がした。自分の体の中の音だ。その者は転んだまましばらく動かなかった。空が白く光っていた。草の穂先が視界を半分塞いでいた。

起きあがろうとした。足首に重さがのしかかった。また倒れた。

遠くで別の狩り手たちの声がしていた。獲物を追っている声だ。その者はまだ一人前ではない。あの声の中にいたかった。ついていけると思っていた。

草を押しつぶして体を引きずった。足首を地面につけないように。腕だけで動いた。腕が震えた。

しばらくそうやって動いて、茂みの根元で止まった。

空気が変わった。

においではなかった。温度でもなかった。皮膚の、どこか深いところで、何かが動いた気がした。その者は顔をあげた。茂みの葉が揺れていた。風のせいかもしれない。その者の目は葉ではなく、その奥に止まった。

枯れた蔓が垂れていた。

細長く、硬そうで、それでいて曲がっていた。

その者はしばらくそれを見ていた。頭の中で何かが動いた。うまく言葉にはならない。言葉などない。ただ、手が動いた。蔓を引いた。根元から引きちぎるように。思ったより強く。

足首を包んだ。きつく巻いた。痛かった。巻いた。また痛かった。それでも巻いた。

立ちあがった。

完全には立てなかった。片足に体重をかけて、もう片方をそっと地面に触れさせた。折れていないかもしれない。ひびかもしれない。どちらかはわからない。痛みはあった。歩けた。

一歩ずつ、ゆっくりと。草を踏みながら、遠くなった仲間の声の方向へ。

その者は戻った。

蔓を足に巻いたまま、跛行しながら戻った。誰かがその者を見た。唸り声をあげた。軽蔑か、驚きか、その者には判断できなかった。その者は答えなかった。その日の狩りには加わらなかった。

夕方、火のそばに座った。

足首がずきずきした。蔓はまだ巻いてあった。外す気になれなかった。

隣に年老いた者が座っていた。その者の集団で最も長く生きている者だ。その老いた者が、ふと足を見た。蔓を見た。何も言わなかった。言葉はない。ただ少し長く見ていた。

その者は何も言わなかった。

火が赤くなった。夜が来た。

第二の星

この地の草原はまだ青い。

雨は適度に降り、川は満ちている。草を食む獣の群れが地平線のあたりに黒い帯をなしていた。豊かな年が続いた。集団は大きくなった。腹を空かせて死ぬ者は少なく、子が増え、笑い声のようなものが宿営地に満ちている。

ただ、集団が大きくなれば、境界ができる。誰が先に肉を取るか。誰が火の近くに座るか。それだけのことで、顔が険しくなる者がいる。遠くの丘の向こうには別の集団がいる。この五年、互いに姿を見せながら距離を保ってきた。旧人の一族だ。体つきが違う。額の形が違う。声の高さが違う。それでも同じものを食い、同じ水を飲む。

均衡は保たれている。今のところ。

川の南では、子が五人生まれてこの季節を生きた。北の岩陰では、ひとりが熱に侵されて動かなくなった。集団の中心では、今日も火が焚かれ、誰かが肉を焼き、誰かが眠り、誰かが空を見上げる。

この星は判断しない。

ただ照らす。若い狩り手が、足に蔓を巻いて火のそばに座っていることも。老いた者がそれを見て、何も言わなかったことも。

与えるもの

糸が繋がった。

皮膚の深いところへ、温度の変化として送り込んだ。その者が顔をあげた。枯れた蔓に目が止まった。

手が動いた。

これは、与えたから生まれたのか。転んで、痛くて、近くにあったから手が伸びただけかもしれない。どちらかを決める手段を、持っていない。

白い骨の記憶がある。指の粉の記憶がある。届かなかった数の記憶がある。

この者に届いたのか。届いていないのか。

蔓はまだ巻かれている。足首に。それだけは見える。

伝播:SILENCE 人口:824
与えるものの観察:蔓は巻かれたまま、夜を越えた
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第207話

紀元前298,975年

その者(22〜27歳)

足がまだ痛かった。

五日前に踏み込んだ穴の記憶が、踏み出すたびに膝の裏から戻ってくる。引きずるほどではない。しかし速くは走れなかった。

集団は北へ動いていた。水場を変える時期だ。草が青く、獣の痕が多い。子どもたちの声が遠い。

その者は列の後ろにいた。

一人前と見られていない、ということは、前に立てない、ということだ。誰も明示しない。ただ体が覚えている。自分の位置を。

空が白くなり始めた頃、斜面に差し掛かった。

乾いた崖の縁沿いの道だ。幅は狭い。川音が下から上がってくる。その者の前を年長の者が歩いていた。子どもを抱いている。その前にも、その前にも、体が続いていた。

地面が動いた。

音ではなかった。揺れでもなかった。ただ足の下が、なくなった。

縁が崩れた。乾季の亀裂が走っていたのだ。見えなかった。見えていても、止まれなかった。

その者は落ちた。

川音が急に大きくなった。岩の角が肩を打った。水の冷たさが来る前に、何かが頭の側面に当たった。

川の中で、その者はしばらく流された。

手が動いた。一度だけ。岩を掴もうとしたが、指が滑った。

空が見えた。白かった。

水がのどの奥まで入ってきた。

集団は上から叫んでいた。声が届いていた。その者には声の意味がわかった。しかし体はもう応えられなかった。

川が曲がるところで、体は止まった。大きな岩に引っかかる形で。流れが周りを囲んだ。

誰かが水に入ってきた。腕が届いた。

しかしその者の体には力がなく、岩から引き出されるとき、頭が水の中に落ちた。二度と上がらなかった。

第二の星

西の草原で、別の集団が火を囲んでいた。旧い人々の群れだ。彼らは言葉を持たないが、火の管理を知っている。その夜、子どもが一人、発熱で小さくなった。母が背中に抱いたまま揺れていた。星が多かった。誰も眠れなかった。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:DISTORTED 人口:834
与えるものの観察:届いた瞬間と失われた瞬間が同じだった
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第208話

紀元前298,970年

第二の星

東の稜線は焦げていた。

煙が三日間、空の半分を覆った。獣は先に逃げていた。草食の大きな者たちが群れを成して南へ流れ、蹄の音が地面を通じて伝わってきた。火は風に乗り、一晩で尾根を越えた。

集団の中で動けなかった者が、いた。老いた者、傷のある者、生まれたばかりの者。火が迫る前に誰かが背負い、誰かが置いた。どちらも起きた。この星はその区別をしない。

西の草原には、別の形をした者たちがいた。額の出た、背の低い、別の骨格の群れだった。火の煙が彼らの空にも届いていた。彼らはすでに動いていた。方向が異なっていた。煙の向こうで、彼らの姿が小さくなり、やがて草に隠れた。

焼け跡に、木炭が残った。動物の脂が滲んだ岩が残った。水場の一つが水を保っていた。鳥が戻った。先に戻った。

この星は五年を待たない。次の草がもう出ていた。

与えるもの

糸が繋がった。

幼い。まだ何も持っていない。

焼けた地面の、黒くなった木の根の断面に、光が当たる時間があった。朝、煙が薄れた瞬間だけ、そこに白い光の輪ができた。

この者の目がそこで止まった。

近づいた。手を伸ばした。指先が黒い粉で汚れた。

それが何なのか、与えるものにも分からない。ただ——止まった。この幼い者が、何かを見て、止まった。

それだけで十分なのか。十分であるとは、どういうことか。

その者(5〜10歳)

母の背中が走った。

この者はしがみついていた。腕が首に食い込む。揺れるたびに顎が肩に当たった。煙のにおいがした。目が痛かった。泣かなかった。泣く息がなかった。

集団が止まったのは夜だった。岩の多い場所。火の粉がもう届かない場所。

誰かが咳をしていた。ずっと咳をしていた。

朝になった。

この者は起き上がり、来た方向を見た。空が茶色かった。黒い煙の柱がまだ一本、遠くに立っていた。

歩いた。誰も止めなかった。焼けた場所の縁まで来た。地面が変わる境界があった。黒い側に足を踏み入れた。土が温かかった。靴はない。足の裏が熱を感じた。

木の根の断面が見えた。光が当たっていた。

この者はしゃがんだ。指で触れた。黒い粉が指についた。においを嗅いだ。舌に乗せた。苦かった。

また触れた。

足の裏はまだ温かかった。この者はしばらくそこにいた。集団の声が後ろから届いた。母の声だった。

この者は立ち上がった。指はまだ黒かった。

伝播:NOISE 人口:764
与えるものの観察:止まった。幼いのに、ちゃんと止まった。
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第209話

紀元前298,965年

第二の星

火が通ったあとの地面は、別の地面だった。

同じ丘だった。同じ川床だった。しかし黒く平らになった斜面には、以前そこにあったものの輪郭がなかった。木の根元だけが白い灰の塊として残り、風が吹くたびに少しずつ形を失った。

焼け跡に最初に降りたのは、鳥だった。

大きな翼を持つ黒い鳥が数羽、焼けた地面を歩いた。足の下に灰が舞い、それが収まるとまた歩いた。焦げた幹の根元に嘴を差し込み、何かを引き抜いた。虫だった。火から逃げ遅れた、あるいは熱に気絶した小さな命が、黒い土の下にまだ残っていた。鳥はそれを食べた。また歩いた。

次の雨が来た。

三日間降り続けた。灰は水を吸い、黒い泥になった。川に流れ込み、川の色を変えた。下流の水飲み場が濁り、獣たちはより遠くへ移動した。雨が止むと、焼けた地面からまず細い緑が現れた。根が生きていた。地面の下で火を避けた植物が、焼けた上の部分を捨てて新しい茎を伸ばした。一週間で、黒い斜面に点々と緑が見えた。

集団は南へ動いていた。

火が来た方向とは逆に、川沿いに下った。二十人ほどの群れが、先に歩く者の後ろを続いた。子を抱えた者、引っ張られながら歩く者、遅れてついてくる老いた者。食料は少なかった。焼け野原には果実がなかった。木の実を貯めていた者が分け与え、それも三日で尽きた。

途中、別の群れと鉢合わせた。

川の屈曲部、水が浅くなる場所で、向こうから来た六人と正面から向き合った。どちらも立ち止まった。長い間、誰も動かなかった。向こうの群れの中に子が二人いた。こちらにも子がいた。どちらの群れも、飢えた目をしていた。

向こうの先頭にいた者が、唸った。

こちらの先頭にいた者が、唸り返した。

それだけだった。向こうの群れが川の東岸に移り、こちらが西岸を歩いた。しばらく平行に進み、やがて向こうは森の中に消えた。

火が変えたのは地形だけではなかった。川の両岸に、見知らぬ群れが増えていた。皆、煙から逃げていた。水場で重なった。食料を探す範囲が重なった。どの群れも、他の群れが多く来るほど、唸る声が低くなった。

ある夜、焼け跡の縁から遠くない場所で、音がした。

叫び声が短く上がり、止まった。翌朝、岩の陰に一人の者が倒れていた。頭部を打たれていた。どの群れの者かは分からなかった。岩に血が残っていた。風が吹いても、その者は起き上がらなかった。鳥がまた来た。今度は焦げた幹の根元ではなく、その者の傍らに降り立った。

緑が戻ってくる速さより、緊張が高まる速さの方が、早かった。

与えるもの

焼け跡の縁に、白い骨が半分埋まっていた。

動物の骨だった。火の中で死んだ獣の、肋骨か何かだった。土から斜めに突き出ていて、その先端に朝の光が当たっていた。光はそこだけ集まるように白く、他の灰色の地面とは違う温度に見えた。

その者の目が、そこで止まった。

骨を拾って、しばらく持っていた。特に何もしなかった。ただ手の中で転がし、先端の硬さを指で確かめた。飽きて、地面に置いた。

渡したものが骨の硬さだったのか、先端の形だったのか、光の当たり方だったのか、与えるものには分からなかった。届いたかどうかも分からなかった。それが分からないことは、ずっと前から分かっていた。

その者(10〜15歳)

骨を置いた場所を、二度振り返った。

集団が歩き始めたとき、その者はついていった。しかし振り返った。もう一度振り返った。骨は灰の中に半分埋まったまま、そこにあった。

その夜、その者は石を一つ手に持って眠った。骨ではなく、石だった。なぜ石を選んだのかは、その者にも分からなかったはずだ。

伝播:HERESY 人口:732
与えるものの観察:光が骨に当たった。受け取ったのかどうか、今も分からない。
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第210話

紀元前298,960年

第二の星とその者(15〜20歳)

山の稜線から西に向かって、熱帯の境目が少しずつ北へ動いていた。草の丈が変わる。水場の位置が変わる。獣の通り道が変わる。それに気づく者はなく、気づかないまま移動する。体が先に知っている。

その者は崖の下で死んだ鳥を見つけた。翼が片方だけ、半分ひらいていた。触らなかった。しゃがんで、長いあいだ見ていた。

東の低地では二つの集団が同じ水場を使い始めていた。雨季が短くなり、川の支流が細くなった。どちらも引かなかった。近づくと声を出した。石を手に持って、声を出した。

その者の集団は丘の中腹に移っていた。火の跡が残る平地を避けて、岩棚の下に寝る場所を作った。母親がいた。母親ではない女がいた。男たちが何かを引きずって帰ってきた。肉のにおいがした。

旧人の一群が北の森に現れた。背が低く、骨格が厚い。彼らも水を求めていた。彼らも石を持っていた。どちらも相手を食べなかった。どちらも相手の近くで眠らなかった。

その者は岩棚の端で、風の方向を顔で測っていた。どこからともなく、肉の焦げるにおいとは違う、土くさい何かが混じっていた。嗅ぎ慣れない。顔を動かした。においの方向に、何もなかった。それでも頭の中に残った。

集団間の緊張が続いた。石を投げる者が出た。一人が額から血を流した。集団は分かれた。また戻った。どちらの側が先に退いたか、誰も覚えていない。

その者は血を見た。額から流れる血が岩に落ちる速さを見た。止まるまで見ていた。指で岩の上の血に触れた。乾いていた。こすると消えた。消えてもそこは同じ岩だった。

雨が来た。乾いた地面が飲んだ。川が戻った。水場の争いが止まった。草が伸びた。獣が戻った。子が三人生まれた。一人は翌朝冷たくなっていた。二人は乳を飲んだ。

その者は二十歳になっていた。体の中に力があった。走れた。重いものを持てた。それだけが変わっていた。それ以外は変わっていなかった。崖の下の鳥を、まだ覚えていた。翼が半分ひらいていた。なぜ覚えているのか、わからなかった。

与えるもの

においが流れた。
獣の通り道でも、水場でもない方向から。
その者が顔を向けた。何もなかった。それでも立ち止まった。

そこに、何があるのか。
届いたのか、届いていないのか。
わからない。それでも流した。

血が岩に落ちた。
その者は拭わなかった。見ていた。
なぜ見続けるのか。わからない。

伝播:NOISE 人口:737
与えるものの観察:においで止まった。それ以上ではない。
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第211話

紀元前298,955年

その者(20歳)

岩の上に腹ばいになって、川を見ていた。

水が速い。昨日より速い。上流で何かが変わったのだと、その者は知らない。ただ水面を見ている。流れる葉を目で追う。葉が石にぶつかって、ひっくり返る。また流れる。

腹が鳴った。

川岸に下りた。石を踏んで、水に膝まで入った。魚を探す。水が濁っている。見えない。

石の下に手を差し込んだ。ぬるりとしたものが逃げた。手を引いた。もう一度入れた。今度は何もいない。

対岸に目が止まった。

岩の隙間に、影がある。

その者は動かない。影も動かない。水の音だけがある。

影の形が、集団の者とは違う。骨格が。首の角度が。その者はそれを言葉で知らない。ただ、違う、と体が思う。喉の奥で低い音が出た。自分でも気づかないくらい小さな音だった。

対岸の影も動かない。

水が膝に当たって、冷たい。その者は少しずつ後ろに下がった。石を踏んだ。川岸に戻った。振り返らずに走った。

走りながら、何かを引きずっている感触があった。

影の形が、まぶたの裏に残っている。

第二の星

川の上流では雪解けが早かった。

高地の氷が溶けて、川が増水する。水場の位置が変わる。獣が移動する。それを追って、複数の群れが同じ谷に向かっていた。

737人。始まりの大地に散らばる命が、この5年でゆっくりと動いている。草原の端が縮んだ。木の実の木が枯れた。代わりに、低い草が増えた。気候が安定しているのに、世界の輪郭だけが少しずつ書き換えられていた。

谷の西側に、別の群れがいる。その者の集団より少し多い。言葉を持たない点は同じだ。しかし骨格が違う。眉の形が違う。臭いが違う。接触は、これまで数度あった。そのたびに片方が逃げた。

今日、川を挟んで、また目が合った。

どちらも逃げた。

この星はその両側を照らしている。谷に風が入る。増水した川が石を転がす音がする。西の空が橙に染まる。737人と、それよりわずかに多い別の命が、同じ夕暮れの下にいる。

与えるもの

岩の隙間から光が差した。

その者の目が止まった。隙間の奥に、別の集団の者が息をひそめていた。

それだけを、流した。

伝播:SILENCE 人口:744
与えるものの観察:光を流した。届いたかどうかは、わからない。
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第212話

紀元前298,950年

第二の星

大地の南縁では、草原が続いていた。乾いた風が北から吹き、草の穂が一斉に傾く。地平の向こうに煙は見えない。

集団の中で、最初に倒れたのは小さな者だった。次に老いた者。次に壮年の者。順序はなかった。体が熱くなり、水を求め、水を飲んでも熱が下がらなかった。膚が濡れたまま乾かず、目が濁った。声が出なくなった。

集団のおよそ五人に一人が、こうして消えた。

消えた順に理由はなかった。強い者が倒れ、弱い者が生き残った。生き残った者は、なぜ自分だけかを問う言葉を持たなかった。ただ、消えた者がいた場所を見た。何度も見た。

遥か遠く、別の方向、岩だらけの台地では、別の群れが別の何かに怯えていた。彼らの言葉で、消えることを指す声があった。人類はまだ一つの言葉を持っていなかった。それぞれの場所で、それぞれの声で、同じことを呼んでいた。

集団間の緊張が高まっていた。何かが、蓄積していた。

与えるもの

この者の足元に、死んだ虫が一匹落ちていた。

熱の出る前から死んでいたのか、熱の後で死んだのか。この者はしゃがんで、虫を見た。長く。

それだけでよかったのか、と与えるものは問い続ける。

その者(25〜30歳)

集団から離れて、一人で座っていた。

後ろで、誰かがうめいている。振り向かなかった。今朝から三人が倒れていた。母に似た体格の女が、昨夜のうちに動かなくなった。夜明けに確かめに行った者が、低い声を上げた。それだけだった。

その者は足元を見ていた。

虫が一匹、草の根元で仰向けになっていた。六本の足が、すべて内側に曲がっていた。

しゃがんだ。

指で触れなかった。ただ見た。虫の腹が、風で微かに揺れるのを見た。揺れているのか、見えているだけなのか。長い時間、その境を決められなかった。

後ろでまた声がした。低く、途切れ途切れの唸り。

立ち上がろうとして、止まった。

また虫を見た。

集団の中で、この者は何も担わない立場だった。火を守る者でもなく、狩りに出る者でもなく、子を抱く者でもない。ただそこにいる者として、扱われていた。

それでも、この五年で、集団の中のある者が、この者を目で追うようになっていた。この者が何かを見ていると、その者もそちらを見る。この者が立ち止まると、少し後ろで止まる。なぜそうなったか、誰も問わなかった。この者自身も知らなかった。

知りすぎた者が消される、と言う言葉を、この者は持たなかった。

集団の中に、この者を見る目が変わった者がいた。疫が広がり始めた頃から、その目が、別の色になっていた。

虫を見ていた。

誰かの手が、この者の肩を掴んだ。

強く。

伝播:HERESY 人口:573
与えるものの観察:虫の腹が揺れていたのか、揺れていなかったのか
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第213話

紀元前298,945年

第二の星

北から吹く風が変わった。

乾いていたものが、湿気を帯びるようになった。草の根が、十の夜を経ずして土から抜けやすくなった。水場が広がった。泥が柔らかくなった。

疫病の後の静寂が、ゆっくりと何か別のものに変わりつつあった。

生き残った者たちは散らばっていた。血のつながりで集まる者、場所で集まる者、ただ偶然そこにいた者。いくつかの小さな群れが、互いに見える距離で動いていた。近すぎず、遠すぎず。それは意図ではなく、結果だった。

ある群れの縁で、二つの者が出会った。一方は大地の東から来た。一方は南の水場を知っていた。どちらも相手の唸り声の調子がわずかに違うことに気づいた。違う、と感じた。それでも一方が手を伸ばし、乾いた果実を差し出した。

相手はしばらく動かなかった。

受け取った。

それだけだった。だがその場に緊張が走った。近くで見ていた者が、低く唸った。果実を渡した者の仲間が、体を強張らせた。

渡された果実は食べられなかった。地面に置かれた。

地面に置かれた果実を、鳥が一羽ついばんだ。

群れの境界線は、目に見えないが存在した。踏み越えると何かが起きた。踏み越えなければ何も変わらなかった。どちらが正しいかは、この星には関係ない。起きたことだけが記録される。

東の群れと南の群れの間で、三度、同じようなやりとりがあった。果実が渡された。石が渡された。皮の切れ端が渡された。そのたびに緊張があった。そのたびに、受け取られたり、置かれたりした。

四度目は起きなかった。

東の群れが移動した。南の水場から離れた方向へ。理由は分からない。獣の跡を追ったのかもしれない。ただ移動した。

大地は乾く前より少し広く感じられた。疫病で減った数の分だけ、草が余っていた。水が余っていた。空間が余っていた。

その余白の中で、生き残った者たちはゆっくりと動いていた。

北の丘の上に、旧い型の者たちの影が見えた。背が低く、肩が広い。大地の南縁の者たちとは体の輪郭が違った。旧い型の者たちは丘の上で立ち止まり、草原を見下ろした。それから丘の向こうに消えた。

追わなかった。追われなかった。

この星は、その交差を記録する。意味は与えない。

煙が一筋、西の低地から立ち上がった。誰かが火を持っていた。誰かが、火を管理することを知っていた。疫病の最中もその火は消えなかった。正確には、一度消えたが、誰かが火打石で起こし直した。その者は今も生きている。火の傍に座っている。

大地は変化の途中にある。

どこへ向かうかは、まだ分からない。

与えるもの

火の煙が西に流れていた。風がその方向から吹いていた。

この者は煙の方向を見た。しばらく見続けた。それから別の方向に歩いた。

届いたのか、届かなかったのか。あるいは別の何かに変わったのか。問いだけが残る。

その者(30〜35歳)

その手が離れた後、この者は草の上にいた。

誰かに肩を掴まれた記憶がある。強く。それだけ残っている。誰の手だったか、もう分からない。

西の空に煙が見えた。この者は立ち上がった。煙の方向ではなく、逆に歩いた。

草が足首に触れた。風が正面から来た。

それだけだった。

伝播:DISTORTED 人口:583
与えるものの観察:届いたのか、届かなかったのか、もう分からない。
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第214話

紀元前298,940年

第二の星

湿地が広がっている。

水場の縁から、泥が数十歩ぶん外へ這い出した。草の根がそこに張った。虫が増えた。虫を追って小さな鳥が来た。鳥を追って、毛皮の厚い獣が来た。

東の斜面に、別の群れの痕跡がある。灰の跡。骨の欠片。彼らはもう移動した後だ。この群れとは出会わなかった。出会わなければ、ただの痕跡だ。

水場の西側で、幼い者が二人、泥の中に腕を突っ込んでいる。何かを掴もうとしている。逃げるものを掴もうとしている。何度も逃げられている。

岩肌の割れ目に、蜂の巣がある。誰かが一度、手を伸ばして引っ込めた。痛みの記憶が残っている。誰もまだ近づかない。

空が白い。

雲の高さが変わった。これから何週間か、雨が続く。

与えるもの

水面に光が揺れた。その揺れが、岩の陰に落ちた。

その者は光を見た。それから光の落ちた先を見た。岩と岩のあいだに、平たい石があった。

石の縁が鋭かった。

その者は拾った。石を持ったまま、その日は動かなかった。何のために持っているかは、知らない。

知らないまま、持ち続けた。

それでよかったのか。それとも、別のことを示すべきだったのか。この問いには形がない。形のない問いを、与えるものは抱えたままにした。

その者(35〜40歳)

平たい石を持ち歩くようになった。

手の中で、重さがある。縁で皮を引っ掻くと白い線が残る。何度も引っ掻いた。腕に、腹に、地面に。

地面に引っ掻いた線は雨が来て消えた。

腕に残った白い線は三日で見えなくなった。

その者は石を川岸に持っていった。石で石を叩いた。音が出た。また叩いた。違う音が出た。持っていた石が割れた。

割れた欠片を拾った。縁が前より鋭かった。

群れの中の年嵩の者が、遠くからそれを見ていた。近づいてこなかった。

その日の夜、その者は割れた欠片を握ったまま眠った。手に食い込んだ。起きてから、手のひらに赤い跡があった。

眺めた。

長い間、眺めた。

やがて群れが移動を始めた。その者も立ち上がった。欠片は捨てなかった。皮帯に挟んだ。歩いた。

伝播:SILENCE 人口:591
与えるものの観察:持ち続けた。なぜかは知らないまま。
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第215話

紀元前298,935年

その者(40〜44歳)

泥が乾いて、白く粉を吹いていた。

その者は群れの外れに座っていた。四十を超えた体は、若い頃から曲がっていた背が今は獣の背骨のようにわかりやすく突き出ている。歯は半分ない。それでも噛む。干した肉の端を、残った奥歯で押しつぶして飲む。

集団の中心では何かが起きていた。

声が上がっていた。唸り声ではなく、打ちつける音だった。石が石を叩く音。それと違う、重い音。その者はそちらを見なかった。見ると、毎回、悪いことがある。長い経験からそれだけは知っていた。

十日ほど前のことが、頭から離れなかった。

旧人の群れが水場に来ていた。その者は草むらに伏せていた。体を動かせなかった。旧人は水を飲んだ。去った。それだけだった。だがその者の目は、旧人の中の一頭が子を運ぶ仕草に引っかかった。子が泣いた。親が背中をさすった。

同じだった。

その者は誰かに伝えようとした。引っ張った。唸った。指を旧人たちの去った方向へ向けた。誰も来なかった。何度も引っ張った。

三日後、その者は群れの外れに追いやられた。

集団間の緊張が高まっているとき、見てきた者は邪魔だ。

その者はそれを理解する言葉を持たなかった。ただ、近づくと石が飛んでくるようになった。食べ物の分配から外された。子どもたちも近づかなくなった。

その者は一人で湿地の方へ歩いた。

湿地の縁には、水面が広がっていた。泥が乾く前に雨が来て、また泥が滲み出していた。その者は腹が減っていた。浅瀬に入って、水の底を手でかき回した。貝のような固いものが指に触れた。引き抜いた。泥が顔に飛んだ。

口に入れた。

そこで足が滑った。

膝より深い場所ではなかった。体が横向きに倒れた。泥の底に顔が沈んだ。腕が上がろうとした。背骨が曲がっていた。腕は上がった。だが足が泥を踏めなかった。泥は底なく柔らかかった。

水面に波紋が広がった。

それだけだった。

遠くで、鳥が鳴いた。空は白かった。

第二の星

北の方で山が鳴っていた。地の底から押し上げる力が、岩盤を少しずつ割っていた。割れ目から熱い水が湧き始め、草が一帯で枯れた。枯れた草原の向こうで、旧人の群れが移動を始めていた。足音が続いた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:576
与えるものの観察:同じように死ぬ。それでも渡す。
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第216話

紀元前298,930年

第二の星

大地の北、乾いた草原が広い。
風が一方向から吹き続けている。草の穂が全部同じ方向に倒れている。

集団は小さい。
前の時代より少ない。乾きが続いたから。子は生まれるが、育つ前に消える者が多い。群れの半分近くが、まだ腰の高さにも届かない。

岩陰に火がある。
夜、数人が寄っている。

別の場所——草原の端、低木の茂みの向こう——で、別の群れが動いている。彼らは異なる体つきをしている。額が低く、眉骨が厚い。それでも火を持っている。子を抱えて移動している。夜に声を上げる。同じ月の下。

二つの群れは、まだ接触していない。
しかし同じ水場に向かっている。

乾季が続いている。
水は集まるところに集まる。獣も集まる。群れも集まる。

岩の上に鳥が一羽、止まっている。
何も見ていないように見える。
何かを見ている。

与えるもの

糸が繋がった。

この者の目が、朝の光の中で止まった——岩の割れ目から出てくる細い煙ではなく、その手前、地面に落ちていた黒く焦げた枝の先に。火が届いていた跡。

この者は拾わなかった。しかし、しゃがんで、しばらく離れなかった。

それで足りるのか。足りないのか。

その者(18〜23歳)

枯れた草の上に腹ばいになって、獣の通る道を見ている。

息を止める。草の臭いが鼻に入る。土の湿り気がまだ残っている朝。腹が空いている。空腹が長いと痛みではなくなる。何か別の、静かな引っ張りになる。

遠くで獣が走る音がした。

走らなかった。方向が違う。年長の者なら迷わず追うかもしれない。この者にはまだその確信がない。体が半分、起き上がりかけて、止まった。

草が倒れる。風が南から来た。

立ち上がって、集団のいる方に戻る。
手ぶらで戻ることが続いている。

焚き火の跡の前を通ったとき、足が止まった。昨夜の残り。灰が白い。縁に焦げた枝が数本、放射状に伸びている。

しゃがんだ。

触らない。枝の先の、黒い部分だけ見ている。なぜ黒いのか考えていない。考えるための言葉がない。ただ、目が離れなかった。

長い時間ではない。群れの誰かが声を上げて、立ち上がった。

その日の狩りも、手ぶらで終わった。

夜、火の傍で、この者は端に座った。肉を貰う側。まだ一人前でない側。年長の男が食べ終わって骨を放った。子が拾って囓った。

この者は膝の上に手を置いたまま、火を見た。

火の端から、細い煙が上がっていた。
煙が曲がった。風の向きが変わった。

それだけだった。

伝播:SILENCE 人口:584
与えるものの観察:足が止まった。それだけ。渡せたかどうか、わからない。