2033年、人類の旅

「紀元前298,685年〜紀元前298,565年」第265話〜第288話

Day 12 — 2026/04/15

読了時間 約57分

第265話

紀元前298,685年

その者

川岸が燃えた日から、三日が経った。

燃えたのは草だ。枯れた葦が広い範囲で焦げ、煙の匂いはまだ残っている。その者は岸から離れた斜面に座り、足の裏の傷を見ていた。逃げるときに踏んだ何かが、まだ内側に刺さっている。

爪で押すと白い痛みが走る。
押す。
走る。
また押す。

集団の者たちが少し離れた場所で唸り合っていた。別の集団の者たちが昨日もこの川岸に来た。来て、岸の魚溜まりを指差して、去った。何かを主張していた。その者にはわからない。ただ、仲間の成人たちが声を荒らげていたことはわかった。

その者は幼いころから、声が荒らげられる場面を何度も見てきた。見ながら、体が小さくなるような感覚があった。今もある。体は大きくなったが、あの感覚は大きくならなかった。

足の傷をあきらめる。立つ。

仲間のひとりが近くを通り過ぎた。腕に黒い痕がある。火傷だ。その者は黙って見送った。言葉がない。渡せるものがない。手を伸ばしかけて、止めた。

斜面の上に、大きな石がある。動かない石だ。昨日もそこにあった。一昨日も。その者は時々その石に寄る。理由はわからない。冷たいから、かもしれない。

石に触れると、熱が抜ける気がした。

第二の星

川岸の緊張は、この五年で積み重なったものだ。

始まりの大地の北の縁を流れる川が、二年前から流れを変えた。ゆっくりと、しかし確実に。上流の崩落が土砂を運び、かつての深みが浅くなった。魚が集まる場所が移った。移った先に、別の集団がいた。

気候は穏やかだった。穏やかだったから、増えた。増えたから、場所が足りなくなった。豊かな季節が過ぎたあとの争いは、飢えのときより静かで、だから根が深い。

幼子の数は戻っていない。厳しい冬が過ぎて、春になっても、生まれてくる子の半数近くは最初の月を越えられない。それは変わらない。増えていた数は揺れた。川岸の火の夜に、また揺れた。揺れながら、続いていた。

草が焦げた斜面に、すでに緑が戻り始めている。根は残っていた。

与えるもの

熱を持つ石の面に、影が動いた。

日が傾いて、その石だけに光が当たる角度があった。その者が触れる直前、その影が揺れた。石の冷たさが伝わる前の、一瞬の温度の落差。

その者は手を離さなかった。

この者は、熱が抜ける場所を探している。
仲間の火傷に手を伸ばして、止めた。
——渡せなかったのか。それとも、渡す前の何かが、まだ足りないのか。

次に渡すものを、考えている。

伝播:DISTORTED 人口:605
与えるものの観察:熱が抜ける場所を、この者は知っている
───
第266話

紀元前298,680年

第二の星とその者(28〜33歳)

雨が来なかった。

大地の割れ目が広がった。最初は土の表面だけだった。やがて割れ目は深くなり、指を入れると二節まで入った。川が細くなった。岸の泥が白く固まり、その上に亀裂が走った。

その者は川の縁に座っていた。水は以前の半分以下になっていた。手ですくうと、指の間からすぐに消えた。その者は何度も繰り返した。すくって、消える。すくって、消える。

集団は北へ動いた。老いた者が二人、動けなくなった。集団は二日待ってから、歩き始めた。

その者は老いた者の一人の顔を見た。顎が落ちていた。胸はまだ動いていた。その者は片手を差し出した。しかし何も持っていなかった。手を引いた。

大地の北側、岩盤が続く地帯では草木が薄く、地面が熱を蓄えていた。集団は日中の移動をやめ、夜明けと夕暮れだけ歩くようになった。子を持つ者が前に立ち、荷を持てる者が後ろを歩いた。その者は真ん中あたりにいた。

五日目の夜明け、その者の足の裏に石の角が当たった。膝をついてそれを手に取った。平らで、薄く、片側だけが鋭かった。その者は親指でその縁を撫でた。何度も撫でた。やがて捨てた。

途中、集団の三分の一ほどが脱落した。子が先に死んだ。老いた者が次に死んだ。水を持ちすぎて歩けなくなった者もいた。水を捨てて歩いた者が、翌日に死んだ。どちらが正しかったかは、大地は記録しなかった。

水場を見つけたのは、誰かが先に嗅いだからだった。集団が止まり、一人が鼻を上げた。その者も鼻を上げた。土とは違う匂いがした。湿った石の匂いだった。集団は匂いの方向へ折れた。

水は岩の割れ目から滲み出ていた。少なかった。しかし止まっていなかった。

その者は口を岩に押し当てた。舌に冷たさが残った。

その夜、集団は火を起こさなかった。木がなかった。誰も声を出さなかった。風が岩の間を通り、低い音を立てた。

その者は地面に寝転んだまま空を見た。星が多かった。その者には何も意味しなかった。ただ光った。ただ数が多かった。

季節が変わるとき、集団の中で一人の男が別の集団の痕跡を見つけた。踏まれた草、食われた実の残骸、小さな火の跡。集団は立ち止まり、声を出した。脅すような唸りが続いた後、方向を変えた。

その者は火の跡に近づいた。炭が残っていた。まだ少し温かかった。その者は炭を指で触れた。黒く染まった。においを嗅いだ。舌に当てた。苦かった。

痕跡を残した集団は近くにいたかもしれなかった。あるいは遠くにいたかもしれなかった。

干ばつが最も深刻だった時期を過ぎると、雨が来た。最初は半日続いた。次の日はもっと長かった。大地の割れ目が水を飲んだ。草がしばらくして戻った。しかし戻らなかったものもあった。木の一部は枯れたままだった。川の形が変わっていた。

集団は元いた場所に戻らなかった。新しい場所に留まった。以前より狭かった。

その者は新しい場所に穴を掘ろうとした。手と石で土を抉った。深くなるにつれて土が湿ってきた。それだけだった。何のために掘ったのか、その者には説明できなかった。掘ったから掘った。

その者が三十三歳になる頃には、集団の誰かがその者を遠ざけるようになっていた。最初は食事のときだけだった。やがて眠る場所でもそうなった。

その者は集団の縁に座った。中心から離れると夜が冷えた。その者は膝を抱えた。集団の音が届いた。笑い声に似た音。唸り声。誰かの手が誰かの背中を叩く音。

その者は聞いた。

参加しなかった。

与えるもの

炭が指に残った。

舌に当てた。苦みを確かめた。

それを見て、問いが生まれた——なぜ苦みを確かめるのか。毒の記憶がどこかにあるのか。次に渡すものが見えかけた気がした。しかし間に合わなかった。

伝播:HERESY 人口:478
与えるものの観察:苦みを確かめた。次はそこから渡す。
───
第267話

紀元前298,675年

第二の星

雨が戻った。

大地の割れ目に水が沁みた。草の先が緑を取り戻した。すぐではない。少しずつだった。川が膝まで満ちるのに、何十日もかかった。

低地の集団は今、ひと握りほどだ。
五年前より確かに減った。老いた者が逝き、飢えで動けなくなった者が逝き、幼い子もいくつか戻らなかった。集団の縁が、縮んだ。

丘の集団は別の方向に動いた。水源を探して、岩のある台地まで移った。彼らの足跡は大地に残り、次の雨で消えた。

はるか北では、広い草原を別の群れが横断していた。彼らは背が低く、眉の骨が厚かった。獣の皮をそのまま羽織り、火を使わず、夜は岩陰に身を寄せて眠った。

彼らはこの星の上で生きていた。低地の集団とは、一度も触れたことがない。

その者は今、三十三歳だ。
集団の中でそれは、長老に近い年齢だった。

与えるもの

干ばつが過ぎた。
雨の匂いが戻ってきた夜、この者は眠っていた。

水たまりにできた波紋が、まだ光の届かない方向に広がっていた。風はなかった。虫でもなかった。この者が目を開けた時、水面の揺れはすでに止まっていた。

その者は水たまりを見た。
しばらく座って、また眠った。

渡した。波紋が消えた後、水の底に何かが見えたかもしれない。

見えなかったかもしれない。

以前にも似たことがあった気がする。届いた記憶が、正確に残っていない。何かを渡して、相手が消えた。あの時も雨の後だったか。水の底だったか。思い出そうとすると、輪郭が崩れる。

次に渡すべきものは、まだわからない。
ただ、この者はまだここにいる。

その者(33〜38歳)

水が戻った。

最初に気づいたのは足の裏だった。乾いた土が、朝に少し冷たくなっていた。次の朝も。その次も。やがて川に水の音が戻り、石の上を流れ始めた。

その者は川に入った。膝まで。水が足を押した。流れがある。弱いが、ある。

獣を追った。
乾いた季節に死んだ者たちの分、集団の腹が減っていた。子どもが二人、老いた女が一人、まだ動けなかった。その者は草の陰から獣の動きを見た。風が変わった。獣が顔を上げた。その者は動かなかった。

息を止めた。長く止めた。胸が痛くなった。

獣は首を下げた。水を飲み始めた。

石を投げた。当たらなかった。獣は跳ねて消えた。

その者はしばらくその場に座った。腹の底に何もなかった。怒りでも悔しさでもなく、ただ、何もなかった。

夜、集団の火のそばで眠れなかった。
目を開けると水たまりがあった。波が広がっていた。風はなかった。その者は水面を見た。

水の底は暗かった。

しばらく見ていた。何も見えなかった。また眠った。

翌朝、その者は別の道を歩いた。昨日と違う川岸を。理由はなかった。足が向いた。そこに獣の跡があった。新しかった。

追った。

伝播:HERESY 人口:464
与えるものの観察:水面が揺れた。見た。まだ眠った。
───
第268話

紀元前298,670年

その者(38〜39歳)

腹の内側が熱かった。

何日も前からそうだった。最初は食べたものが悪かったのだと思った。思うという語はない。ただ、体がそう告げていた。腹を押さえて丸くなった。次の朝、また立ち上がった。それだけだった。

川の水は膝まで戻っていた。集団の若い者たちが岸で魚を追っていた。その者はそれを岩の上から見ていた。立つと揺れた。座ると熱が下から来た。岩が温かかったのではない。内側から来ていた。

子どもが一人、近くに来た。その者の顔を見た。何も言わなかった。子どもには語がない。子どもは走って行った。

夜になった。

皆が火の周りに集まった。その者は少し離れた場所に横になっていた。火の音が聞こえた。肉の焦げる匂いがした。口に何も入れたくなかった。

空に何かが光って消えた。

その者はそれを見た。目だけが動いた。体は動かなかった。

熱がまた上がった。夜の間に、汗が出た。出すぎた。地面が濡れるほど出た。朝が来たとき、その者の体は冷えていた。熱は出ていかなかった。体の中で何かが燃え続けていた。

二日が過ぎた。

水を誰かが持ってきた。その者の口元に近づけた。飲めた。少しだけ。

三日目の昼、その者は川の音を聞いていた。岸の石がぶつかり合う音。流れが変わる音。草が揺れる音。目は開いていた。何も見ていなかった。

息が浅くなった。

浅くなって、間が空いた。

川の音はまだしていた。

第二の星

同じ刻、丘の向こうで旧人の二人が互いを見ていた。どちらも動かなかった。威嚇でもなく、逃走でもなく、ただ見ていた。風が草を撫でた。片方が先に目を逸らした。もう片方はしばらくその場に立っていた。それから歩いた。別の方向へ。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:451
与えるものの観察:熱は内側から来た。届いたかどうかは別の話だ。
───
第269話

紀元前298,665年

その者(11〜15歳)

岩棚の端を走るのが好きだった。

群れの者たちが荷を運ぶとき、その者は荷の中でいちばん軽いものを持たされた。乾いた草の束。獣の皮を丸めたもの。両腕に抱えて、先を行く大人の背中を追いかける。足は速かった。それだけが誇りだった。

乾季の終わりに、別の群れが近づいてきた。

何度かそういうことがあった。唸り声と身振りで、互いに距離を測る。今回は違った。相手の群れの中に、目の光が鋭い大きな者がいた。その者の群れの長老が腕を広げた。相手の長老も腕を広げた。しかし目は笑っていなかった。

夜、焚き火が二つになった。

その者は岩棚の端に座って、二つの火を見ていた。どちらが大きいか。どちらが明るいか。足をぶらぶらさせながら、ずっと見ていた。

夜が深くなって、誰かが叫んだ。

何の叫びかわからなかった。立ち上がろうとした。足が滑った。

岩棚の下は、暗かった。

ただ暗かった。

第二の星

始まりの大地で、群れと群れのあいだに、命が動いている。乾いた風が二つの火の煙を混ぜた。どちらの群れの煙かは、風は知らない。遠くの湿地で、旧い者たちが水を飲んでいた。空には何もなかった。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:NOISE 人口:469
与えるものの観察:足が速かった。それだけだった。
───
第270話

紀元前298,660年

第二の星

北の台地では草が枯れ、南の低地では水が溢れている。

同じ季節に、二つのことが起きる。

台地の群れは水を探して移動した。足の裏に割れた土の感触。子どもたちは大人の腰にしがみついて運ばれる。老いた者は途中で座り込んだ。誰かが振り返った。誰かは振り返らなかった。

低地では別の群れが高台に押しやられていた。旧人の群れと、この者たちの親族とが、同じ岩場に集まっている。互いに唸り声を上げ、石を持ち、しかし石は投げられなかった。その夜、二つの群れは焚き火を別々に起こし、それぞれの煙が同じ空へ昇った。

第二の星はそのどちらも照らしている。

台地の乾いた骨と、低地の湿った泥を。旧人の肩幅の広さと、この者たちの細い指を。

どちらが正しいということはない。どちらが残るということも、今はまだ決まっていない。

集団間の緊張は、匂いで伝わる。体臭が変わる。唸りの音程が上がる。子どもたちはそれを先に察知して、大人の影に隠れる。

与えるもの

糸が繋がった。

まだ細い。4歳の体に通る糸は細い。

二つの火。煙が混ざった、という記憶が浮かぶ。今も混ざろうとしている。混ざることが何をもたらすか、渡したことがある。届いたかどうかは知らない。

この者に渡す。

岩場の隙間から風が吹き抜けるとき、その風が旧人の群れの方向から来ることに気づかせる。冷たい風だった。獣の臭いではない別の体臭を運んでいた。

その者は鼻を動かした。

それだけだ。でも鼻を動かした。

渡せた、と思うのは早い。鼻を動かすことと、覚えていることは、違う。この者は9歳になるまでに何を保つだろうか。それよりも先に問うべきことがある——緊張の中で育つ者に、次に渡すべきものは何か。怖れを消すものではない。怖れの中で動けるものだ。

その者(4〜9歳)

岩の上に寝ていた。

背中に石の冷たさがある。空が白くなり始める前の、まだ色のない時間。群れは眠っている。誰かの寝息。誰かの咳。火が弱くなっている。

4歳のその者には火の番はまだ任されていない。

風が来た。

冷たかった。自分たちの体臭ではない何かが混じっていた。その者は鼻を動かした。もう一度動かした。それが何かわからない。名前がない。ただ、鼻の奥に残った。

朝になった。

大人たちが唸り始める。低い唸り。その者は唸りの種類を知っている。腹が減ったときの唸りではない。怒りでもない。もっと別の、体が固くなる唸りだ。

その者は岩の影に入った。

膝を抱えた。岩の感触を背中に感じながら、遠くを見た。旧人の群れがいる方向。煙が二筋、空に上がっている。

その者には煙の数が数えられない。

ただ、二つあることは見えていた。

5歳になったとき、その者は初めて石を投げられた。群れの子どもに。右の肩に当たった。泣かなかった。石を拾って、持ったまま、立っていた。

投げ返さなかった。

石を持ったまま、その日の終わりまで歩いた。夜、火の前で置いた。

7歳になるころ、その者は皮なめしを手伝い始めた。石で叩く。叩く。叩く。腕が痛くなっても叩く。皮が柔らかくなっていく変化を、手のひらで感じた。

まだ知らない言葉で、それを誰かに伝えようとした。

声を出した。手を動かした。伝わらなかった。

もう一度やった。

伝わらなかった。

9歳になる前の冬、集団間の緊張が頂点に達した日、その者は群れの奥に押し込まれた。大人たちが前に出る。唸り声が重なる。石が飛ぶ。

その者は岩の裂け目に体を入れた。

両手で耳を塞いだ。

塞いでも、地面の振動は来た。

足の裏から、ずっと来た。

伝播:HERESY 人口:452
与えるものの観察:鼻を動かした。それで十分か、まだわからない。
───
第271話

紀元前298,655年

第二の星とその者(9〜14歳)

雨は北から来た。

台地の端に立つ木々が葉を開き、岩の割れ目に水が溜まり、砂が黒くなった。川の水位が上がり、浅瀬だった場所が渡れなくなった。干上がっていた窪地に魚が戻り、水辺の泥に獣の足跡が増えた。遠くの山腹では、崖から水が流れ落ちる細い筋が何本も生まれた。

その者は腹が減っていなかった。

それ自体が珍しいことだった。四つ年上の者が岩の陰で木の実を割っていて、その者は少し離れた場所に座って川を見ていた。流れが速かった。茶色い水が泡を立てながら進んでいた。去年の今頃、この川は膝まで来なかった。今は渡れない。その者はそれをただ眺めた。

大地の南でも同時に雨が降っていた。しかしそちらの雨は別の雨だった。同じ季節に降り、同じように土を濡らしたが、土の質が違った。南の低地は水を溜めた。北の台地は水を流した。二つの場所で集団が暮らし、それぞれの水の中で子どもたちが育っていた。どちらの集団も相手の存在を知らなかった。この星にはそういうことがたくさんあった。

その者の集団では子どもが増えていた。

腹のふくれた女が増え、泣き声が朝晩に響いた。その者は子どもが嫌いではなかったが、近づくと母親に唸り声を出されて追い払われた。それで少し離れた場所に座るようになった。岩の上、木の根元、川沿いの平たい石。どこでも一人でいることに慣れていた。

あの者がいた。

集団の中で最も年かさの男で、額に古い傷跡があった。その者は幼い頃からその男の後ろをついて歩いていたが、今はついて行かなくなっていた。男は別の者たちと長い時間を過ごすようになり、唸り声の高さが変わっていた。争いではなかった。しかし争いの前に似ていた。

別の集団の匂いが、風に混じって来ることがあった。

その者は風の向きが変わるたびに鼻を上げた。獣の匂いではなかった。煙でもなかった。知らない体の匂いだった。集団の中の誰かも同じように鼻を上げた。誰も声を出さなかった。

この星の上で、集団が増えていた。

水があり、食があり、温度が穏やかで、子どもが死ににくい季節が続いた。集団の縁が膨らみ、分かれた。歩いてひと季節かかる場所に、かつて同じ火を囲んでいた者たちが暮らすようになった。時が経てば顔も声も忘れる。そして匂いで識別する。その者の匂い、自分の集団の匂い、知らない集団の匂い。

知らない匂いはいつも警戒を呼んだ。

その者は十二歳になっていた。体の中心に重いものが座るような感覚が増えていた。何か決めなければならないということが増えた。木の実を取るか。川を渡るか。あの男についていくか。どこにいるか。しかし決め方がわからなかった。結果が良かった時も悪かった時も、なぜそうなったかがわからなかった。

ある朝、光が差し込んだ場所があった。

崖の壁面の、窪んだところに光が落ちた。その者はそこに何があるかを見ていなかったが、光が落ちた時に目が行った。炭で黒くなった石があった。誰かが以前に火を作った跡だった。その者はしゃがんで炭に触れた。手に黒が付いた。崖の石は柔らかかった。その黒い手を崖の壁に押し当てた。

手の形が残った。

その者はそれを見た。少しの間、動かなかった。もう一度押し当てた。もう一つ残った。自分の手の形が二つ、壁にあった。その者は立ち上がり、他の者を呼ぶかどうか迷い、呼ばなかった。一人でそれを見ていた。

その年の終わりに、傷跡の男が戻らなかった。

朝に出て行き、夕方になっても夜になっても来なかった。翌朝も。集団の者たちが捜しに行き、崖の下に倒れているのを見つけた。岩が崩れていた。その男は岩の下にいた。

その者は遠くから見ていた。近づかなかった。

大人たちが唸り声を上げた。子どもたちが泣いた。その者は黙っていた。岩を拾った。置いた。また拾った。

雨はその翌年も来た。

この星の上で、水は公平でなかった。豊かな場所と乾いた場所があった。集団が多くなった場所と少ない場所があった。傷跡の男がいなくなっても、集団の数は増え続けた。子どもたちが育ち、腹のふくれた女がまた増えた。その者は集団の中で中くらいの大きさになっていた。小さな者を追い払える大きさになっていた。

その者は時々、崖の窪みに行った。

手の形を見た。新しい手の形を押した。炭が薄くなると、焚き火の跡を探して炭を拾った。手だけでなく、指だけで線を引くようになった。何の形かはわからなかった。川の曲がり方に似ているかもしれなかった。そうでないかもしれなかった。その者はそれを誰にも見せなかった。

与えるもの

光がそこに落ちた。炭があった。手が触れた。黒が壁に残った。

この者は手の形を見た。

自分の形が外にある。そういうことを、この者は初めて知った。知ったというより、体が知った。これが何に育つかはわからない。歪んで広がるかもしれない。他の者に伝わる前に忘れられるかもしれない。

渡したかったのは「残せる」ということだった。それが届いたかどうかは、まだわからない。しかしこの者は二度押した。二度。

次に渡すべきものがある。手の形を見た目に、今度は何を見せるか。

伝播:DISTORTED 人口:588
与えるものの観察:壁に手の形を押した。二度。
───
第272話

紀元前298,650年

その者

石は手に余るほど重くなかった。

その者は川岸の泥に膝をついて、平らな石を三つ選んだ。形でなく重さで選んだ。手のひらの内側に感じる密度。同じ大きさでも違う。その違いが何であるか、その者には問う言葉がなかった。ただ手が知っていた。

岸の向こうに、別の集団がいた。

朝から見えていた。七人か、八人か。旧人だ。額が張り出し、肩が広く、動き方が違う。川を挟んで、どちらも動かなかった。旧人の集団の中に幼いものがいて、母親の腹に顔を押しつけていた。その者はそれを見た。

集団の古老が唸った。低く、腹から出た音だった。

その者は立ち上がった。石を手に持ったまま。

古老が再び唸り、手を横に振った。その動きは「来るな」でも「去れ」でもなく、ただの線だった。しかし旧人の集団はそれを受け取った。最後尾の大人が幼いものを抱え上げた。集団が北へ向かって歩き出した。

その者は石を持ったまま立っていた。

旧人が消えると、重さが変わった。石は同じ石だった。しかしその者の手の中で、少し違うものになっていた。その者はそれを地面に置いた。置いて、また拾った。

遠くで子供の泣き声が上がった。

集団の中で、この季節に三人目の子が生まれていた。母は産んだ。しかし夜のうちに出血が止まらず、朝には動かなくなった。子は生きていた。誰かが抱いていた。

その者は川の水面を見た。水位はまだ高い。流れが白く泡立つ場所と、緑がかって深い場所がある。その境界が面白かった。何が面白いのか分からなかった。ただ目が離せなかった。

岸の泥に、旧人の足跡が残っていた。

その者はしゃがんで、自分の手を跡の横に置いた。大きさを比べた。旧人の足は幅が広く、指の跡が深かった。その者の手は小さかった。

しばらくそうしていた。

風が川上から吹いてきた。水の匂いと、もう一つ何かの匂いがあった。獣の、しかし食べたことのない獣の匂いだった。その者は鼻を上げた。何もいなかった。匂いだけが来て、通り過ぎた。

その者は石を川に投げた。

白い水柱が上がって、消えた。

第二の星

この5年、大地はよく与えた。

台地の北側では木の実が例年より遅くまで落ちた。川は二度氾濫したが、どちらも穏やかな広がり方で、水が引いたあとに魚が残った。集団は増えた。足りなくなったのは空間だった。

人口が増えると、集団の輪郭が変わる。誰が何を持つか。誰が先に食べるか。それまで問われなかったことが、問われ始める。身振りと唸り声の中に、形のない圧力が蓄積した。

同時に、旧人との接触が増えた。水場で。果実のなる木の下で。互いに去るか、どちらかが押しのけるか。武器が使われたことは少ない。しかし少ない、というだけで、ないわけではなかった。

川の水面は今も高い。

豊穣の季節に死んだ者もいる。出産で、あるいは川に足を取られて。多く生まれ、いくらか死に、それでも集団は大きくなっていく。その者はその渦の中にいる。石を拾い、川面を見て、旧人の足跡に手を当てた。何かが蓄積している。それが何かは、まだ名前を持っていない。

与えるもの

川上からの風に、獣の匂いを混ぜた。

その者は鼻を上げた。立ち上がりかけて、止まった。

その者は石を川に投げた。

水柱を見ていた。匂いのことは、忘れていなかった。どこかに刻まれた。刻まれた、と思う。しかしそれが何になるかは、まだわからない。

渡すべきものは次もある。この問いが答えになるより先に、次が来る。それでいい。それしかない。

伝播:DISTORTED 人口:598
与えるものの観察:匂いは届いた。石が水に落ちた後も、鼻の奥にあった。
───
第273話

紀元前298,645年

その者(19〜22歳)

崖の上の木は実をつけていた。

黄色く、丸く、枝の先で揺れていた。その者は三日前からその木を見ていた。仲間が先に取るかもしれないという緊張と、もう少し待てばもっと熟れるという感覚が、胸の中で押し合っていた。言葉にできない。ただ足が崖の縁へ近づき、離れ、また近づいた。

集団は二つに分かれていた。声の大きい年長者が二人いて、どちらの火のそばに座るかで何かが決まるようになっていた。その者はどちらの火にも属していなかった。大人の輪の外側で、子どもと老人の間あたりに立っていた。

四日目の朝。

霧が低く流れていた。崖下の斜面が湿った土の色をしていた。その者は腹が鳴るのを聞きながら崖縁の岩に足をかけた。最初の一歩は確かだった。二歩目も。木の根元あたりまで体を傾けて、実に手が届いた。右手の指が黄色い皮に触れた。

重心が動いた。

足の裏が岩から離れた。声が出なかった。実がまだ指の間にあった。

崖下の低木が体を受け止めた。乾いた音がした。その者はそこで動かなくなった。実は斜面を転がって、草の中に消えた。

霧は変わらず流れていた。

第二の星

平原の縁で、一人の老いた者が歩いていた。集団を離れてずいぶん経っていた。足が止まり、そのまま草の上に膝をついた。起き上がらなかった。草が風に揺れた。雲の影が平原を横切り、老いた体の上を通り過ぎた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:NOISE 人口:611
与えるものの観察:渡した方向に、誰もいなかった。
───
第274話

紀元前298,640年

第二の星

大地の南に、雨季が来ていた。

草原は膝まで水を含み、足を踏み出すたびに泥が鳴った。動物の群れは高台へ移り、集団もそれを追っていた。人の数は増えていた。食べるものがあり、子が育ち、老いた者も倒れなかった。

ただ、増えたことで、場所が要った。

二つの集団が水場を挟んで向き合う場面が、この時期に何度かあった。唸り声が空に散った。石が投げられた。戻ってこない者もいた。

遠い北の台地では、旧人の一集団が移動していた。足跡は深く、荷を負っていた。彼らはこの雨季に何かを失っていた。子か、年長の者か。痕跡だけが残り、理由は判らなかった。

南の集団の縁で、若い一人が獲物を追っていた。まだ仲間の列の外にいた。

雨が来る前の匂いが草原を流れていた。

与えるもの

繋がった。
この者は知らない。

五年前、崖の上で木の実を待っていた者がいた。その者は今、別の場所にいる。この者へ向かう道は、まだ細い。新しい道は、いつも細い。

この者は無関心だ。それは知っている。

雨の前の匂いが南から流れた。この者の鼻孔が、わずかに開いた。

それだけだった。それで、次に渡すものを考えた。

その者(17〜22歳)

湿った土に獣の蹄の跡が残っていた。

その者は跡の縁を指でなぞった。まだ乾いていない。深い。重い獣だ。方向は北西。

立ち上がり、鼻を上げた。

草の匂い。水の匂い。その下に、何か別の匂いが混ざっていた。血ではない。もっと生臭く、鈍い何かが南から流れてきた。その者は匂いの方向をしばらく向いたが、何も見えなかった。草が揺れているだけだった。

仲間の声が遠くで聞こえた。唸るような、呼び戻す声だった。

その者は跡に目を戻した。

行くか、戻るか。

獲物の跡は北西へ続いていた。仲間の声は南東から来ていた。その者は少しの間、蹄の跡の上に立っていた。体の重心が前に傾いていた。

戻った。

駆け足ではなく、普通の歩きで。引き返す素振りを誰にも見せたくなかった。集団に着いたとき、その者は跡のことを唸りで伝えようとした。が、伝わらなかった。年長の狩り手は別の方向を向いていた。

その者は黙った。

夜、火の近くで寝た。腹が減っていた。誰かの子が泣いていた。その声が止まないうちに眠った。

伝播:HERESY 人口:585
与えるものの観察:匂いに気づいた。ただそれだけだった。
───
第275話

紀元前298,635年

第二の星

大地の東側で、草が背丈を超えた。

根が深く張り、茎が太く、穂の先が重さで垂れた。そういう草がある季節だけ広がる場所を、動物たちは知っていた。水牛に似た獣の群れが、夜明けに霧の中を渡ってきた。蹄の音が大地の腹から響き、草がなぎ倒され、朝露が宙に飛んだ。

集団はその端に張りついていた。

老いた者が場所を覚えていた。こちらの風の向きに来い、という身振りを若い者に向けた。若い者は従った。従わない者もいた。従わなかった者は空腹のまま戻ってきた。それだけのことだ。

子が増えていた。

母親の腰には常に何かがいた。まだ歩けない者、歩き始めた者、走れるようになった者。集団の端を走り回る小さな影が、以前より多かった。大人の足を踏む。転ぶ。泥だらけになる。誰かに抱き上げられる。泣く声が草原に散った。

雨は穏やかだった。

大地の北では、別の集団が川に沿って移動していた。人の数は多く、川の両岸に分かれて歩いていた。川が浅い場所を渡り、またひとつになった。その集団の中に、毛並みの違う者がいた。額の骨格が厚く、眉の上がせり出していた。しかし子を背負っていた。誰も止めなかった。その子は泣くことが少なかった。静かに、母親の背でまわりを見ていた。

大地の西では争いがあった。

食べるものが多い季節には、縄張りがぶつかる。二つの集団が同じ水場を使おうとして、岩の陰で石を投げ合った。血が出た。叫び声が上がった。一方が引いた。引いた集団は別の水場を探した。あった。それで終わった。

しかし、同じ水場のそばで、夜に何かが起きた。

引いた集団の若い者が、境を越えた。一人ではなかった。三人だった。石を持っていた。夜が明ける前に戻ってきた。石は赤かった。集団の中の老いた者が、その者たちの顔を見た。長く見た。何も言わなかった。

温かい季節は続いた。

大地全体で、集団の規模が膨らんでいた。移動の範囲が広がり、以前は誰も踏まなかった場所に足跡が残るようになった。崖の陰の洞窟に、炭で描かれた跡があった。手の形だった。誰かの手が壁に押しつけられ、輪郭が残されていた。大人の手だった。子どもの手だった。それが重なって、岩肌の上で静止していた。

遠い北のほうでは、雪線が例年より高い場所に留まっていた。獣がより高い山を渡れるようになり、集団のひとつがその後を追って山腹に入った。夏の終わりには戻ってこなかった。翌年の春、その場所に別の集団が入ったとき、骨だけが残っていた。冬に降りそびれたのか、何かに追われたのか、わからない。骨は散らばっていた。

大地は豊かだった。それが、何かを張り詰めさせていた。

与えるもの

その者の左側で、火の燃え残りが白く光った。

消えかけの炭の上に、風がわずかに熱を運んだ。その者は顔を反対側に向けた。

同じことを、何度目か。渡す。届かない。渡す。
次は何を渡すか、という問いだけが残った。

その者(22〜27歳)

集団が眠った後、その者は一人起きていた。

理由はない。眠れなかっただけだ。火の前に座り、膝を抱えた。遠くで何かが鳴いた。獣か、風か、わからない。その者は耳を立てた。

朝になれば、集団の中の年長の者が、その者を遠ざけようとするだろう。昨日もそうだった。

知っている。しかし理由がわからない。

伝播:HERESY 人口:723
与えるものの観察:渡した。届かなかった。それでも渡す。
───
第276話

紀元前298,630年

その者(27〜32歳)

熱が来たのは、獣の群れが去った後のことだった。

集団の半数が水場へ向かった。その者は行かなかった。草を踏んで横になり、空を見た。雲の端が光っていた。

腹の中が煮えていた。水を飲んでも止まらなかった。岩に手をあてて、立とうとした。立てた。また倒れた。

翌朝、誰かが魚の内臓を持ってきて、傍らに置いた。その者は匂いをかいだ。食べなかった。

三日目、熱は引かなかった。

その者は仰向けに寝たまま、指先で砂を掻いた。砂が指の間を流れた。また掻いた。何度も掻いた。意味はなかった。ただそうした。

集団は動いていた。子どもが叫んでいた。遠くで誰かが石を打つ音がした。

その者の手が、止まった。

砂の上に、浅い溝だけが残った。

第二の星

東の台地で、旧人の一群が火の傍らに座っていた。炎は低く、煙が横に流れた。誰も動かなかった。風が草の上を渡り、夜が深くなっていった。星がひとつ消え、またひとつ見えた。大地は広く、静かだった。

与えるもの

熱を持つ草の実を、光が一瞬照らした。この者は顔を背けた。次の者がいる。糸は別の誰かへ向かった。

伝播:SILENCE 人口:728
与えるものの観察:渡したものに、背が向けられた。それでも重さは変わらない。
───
第277話

紀元前298,625年

その者(5〜10歳)

母の背中で揺れていた。

革の匂いがした。汗と脂の匂い。その者の顔は母の首筋に埋まっていて、足元は見えなかった。地面が傾くたびに体がずれ、その者は小さな指で革の縁を掴んだ。

声が聞こえた。

前から唸りが来た。男の声だった。高い声と低い声が重なり、何かが決まっていく音がした。母の体が固くなった。歩く速さが変わった。

その者には何もわからなかった。

背中の上から、木々の梢だけが見えた。風が梢を揺らし、揺れた葉の隙間から光が落ちて消えた。その者は光が落ちた場所を目で追った。草の中の何かが光った。小さく。一瞬。

母が足を止めた。

唸りが続いていた。男たちの声が重なり、分かれ、また重なった。母の肩骨が動いた。背中の筋肉が縮んだ。その者はそれを皮膚で感じた。何かが怖いのだということを、言葉なしに知った。

草の中の光はもう見えなかった。

その者は母の首に顔を押しつけた。目を開けたまま、何も見ずに。

第二の星

温帯の草原に、長い雨季が続いていた。

川は岸を越えた。低地の草は根ごと流され、獣の通り道が変わった。集団はより高い場所に移り、岩棚の陰に寄り集まって夜を過ごした。火の管理が難しかった。雨が火を殺した。雨の止む隙間に炭を守る者がいた。炭が消えれば、次の火までの夜が長くなった。

集団は大きくなっていた。

かつてには考えられなかった数だ。多くの子が生まれ、多くの子が生き延びていた。食料があった。水があった。争いの声が上がっても、すぐに収まった。余裕が争いを小さくしていた。

しかし何かが溜まっていた。

水が溜まるように。岩の窪みに少しずつ。集団の中で、声の大きい者と声を持てない者の差が、じわりと広がっていた。誰も気づいていなかった。気づける言葉がなかった。

雨が止んだ夜、空に星が出た。

炭が光った。橙色の点が草原の上に浮いていた。その光の傍で、幾人かが眠り、幾人かが起きたまま暗闇を見ていた。

その者を背負った母も、起きていた。

与えるもの

糸が繋がった。

草の中に光を落とした。小さい光だった。石が光を返しただけの、ただの反射だった。

この者は見た。目が光に動いた。それだけだ。

石を拾うでも、歩み寄るでもなかった。母の背中の上から、目だけが動いた。

それで十分かどうか、私にはわからない。だが目が動いた。何かを見ようとした。この者の中に、向かおうとする何かがある。

次に何を落とすべきか、まだ決まっていない。この者はまだ小さく、揺れている。揺れている者に何を渡すか。揺れそのものを、渡すべきか。

伝播:HERESY 人口:702
与えるものの観察:目が動いた。それだけが、今日のすべてだ。
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第278話

紀元前298,620年

第二の星

乾季が終わった。

草原の西側、岩盤が地表に露出した丘の連なりの上を、雲が低く動いている。雨はまだ来ていないが、匂いが変わった。土の下から何かが押し上げられてくるような、腐葉と湿気の混じった重い空気。

この星の上で同時に起きていること。

南の低地では、別の群れが水場を巡って三日続けて睨み合っている。石を持った者、棒を構えた者。踏み込まない。踏み込まれない。距離が縮まっては離れる。

北の斜面では、一つの群れが消えかけている。子の声がなくなった。動ける者だけが残り、それも減っている。何が起きたかは見えない。ただ、数が減っている。

東の平地では火が上がった。草原の縁、風下から。人が起こしたのか、雷が落ちたのか、この星には区別がない。獣が逃げた。煙の柱が半日、立っていた。

この群れの中では、余裕が続いている。腹が満ちている者が多い。子が走り回る声がある。しかしその音の中に、重なり合わない声がある。押し黙る者と、押し付ける者。そのどちらでもない者。

その者は今、集団の端にいる。

与えるもの

この者との5年目。

この者はまだ母の背にいたが、今は降りている。

匂いの方向に顔を向けることがある。黄色い実が草の中に消えるのを目で追うことがある。だがそれ以上のことは、まだ起きていない。渡すたびに、この者は受け取るところまで行かずに止まる。

今日、光を落とした場所がある。

群れの端、大きな岩の陰。そこに夕方の光が斜めに入り込んで、土の色が変わって見えた。その土の上に、足跡があった。小さい。獣のものではない。別の群れのものでもない。

その者の鼻に、知らない匂いが届くように風が向いた。

足跡の匂いだった。

その者がどうしたかは、まだわからない。

渡したのは警戒ではない。距離でもない。ただ、そこに何かがいたという事実だ。この者がそれを恐怖として受け取るか、好奇として受け取るか、何も受け取らないかは、この者が決める。

渡すたびに思う。

受け取られなかった回数を、数える意味があるのだろうか。それとも、渡し続けることそのものが、次に渡すべきものを変えていくのか。

その者(10〜15歳)

岩の陰に座っていた。

群れの声が届く距離だが、そこにはいなかった。大人たちが何かを決めようとしている、その輪の外。子どもたちが走り回っている、その向こう。

風が来た。

鼻が動いた。

知らない匂いだった。肉でも草でもない。革の脂に似ているが、自分たちの革とは違う。体が固まった。膝が地面に触れたまま、動かなくなった。

土の上を見た。

光が落ちていた場所に、くぼんだ跡がいくつかあった。その者は顔を近づけた。鼻が地面につきそうなほど近づけた。匂いはそこから来ていた。

立ち上がった。

群れの方を見た。大人たちはまだ輪を作っている。一人の男が声を上げた。喉の奥から押し出すような低い唸り。それに別の声が重なった。その者には、その意味がわからなかった。

岩の陰に戻った。

足跡を、また見た。

指を伸ばした。触れなかった。触れる直前で止まった。風がまた来て、匂いが消えた。

その者は長い間、そこに座っていた。

群れの声が変わった。低くなった。男の声が増えた。その者は顔を上げたが、立たなかった。

夕方が来た。足跡の上に影が落ちた。形が見えなくなった。

その者は立ち上がり、群れの方へ歩いた。

しかし輪の外で止まった。中に入らなかった。

その夜、大人の一人がその者の腕を掴んで、岩の奥へ連れて行った。乱暴ではなかった。静かだった。それが何を意味するか、その者にはわからなかった。

ただ腕が痛かった。

伝播:HERESY 人口:679
与えるものの観察:知らない匂い。足跡。この者は触れなかった。
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第279話

紀元前298,615年

第二の星とその者(15〜20歳)

草原の東端で、二つの集団が同じ水場を使い始めた。

どちらの側も、最初は相手を見ていた。遠くから、岩の陰から。近づかず、離れず。水を飲む時間をずらした。朝の集団と夕の集団。それが数ヶ月続いた。

その者は水場の縁にしゃがんで、自分の手を見ていた。指先が水に触れる直前で止まる。水面に何かが映っていた。空ではなかった。動くものの輪郭だった。

対岸に、別の顔があった。

小さかった。自分より小さい。毛がまばらで、額が狭く、眉の骨が前に張り出していた。目が合った。その者は動かなかった。向こうも動かなかった。水が二つの影を揺らし続けた。

集団の長老格の者が、岩盤の上に立った。腕を広げ、叫んだ。威嚇ではなく、領有でもなく、ただ自分たちが存在することを、喉の全てで発した声だった。向こうの集団の中から、背の高い者が一歩前に出た。沈黙があった。それだけだった。どちらも引かなかった。どちらも攻めなかった。

その者の耳の奥に、熱がたまった。

水場に来るたびに、その者は対岸を探した。毎回いるわけではなかった。いない時の方が多かった。いた時、小さな顔は水を飲んでいた。その者を見ていなかった。気づいていないふりをしていたか、本当に気づいていなかったか、どちらかわからなかった。

乾いた土の上に、獣の足跡があった。複数の種類が重なっていた。大きな蹄、細い爪、引きずった尾の痕。その者は跡を追った。集団の誰もいない方向に、一人で歩いた。

その時、草の根元から、腐った実の匂いが漂ってきた。甘く、重く、発酵した何かの残り。その者は止まった。匂いが、左前方から来ていた。風ではなかった。空気が動いていない時に、その匂いだけが濃くなった。

左前方に、岩の割れ目があった。

その者は近づいた。割れ目の中に、誰かが積んだような形で、乾いた骨があった。獣の骨ではなかった。その者はしゃがんで、触れた。冷たかった。骨は並んでいなかった。ばらばらに崩れていたが、最初は誰かがここに置いたはずの形をしていた。

その者は骨を一本拾った。持ったまま、動かなかった。

集団の中で、争いが起きたのはその後だった。水場の使い方ではなかった。どちらが先にここに来たか、という問いが、声と腕と体でやりとりされた。誰かの肩が岩に打ちつけられた。誰かが倒れた。起き上がった。また倒れた。起き上がらなかった。

その者は見ていた。止めなかった。止める術を持っていなかった。ただ見ていた。

その後から、その者を見る目が変わった。

水場に来ると、自分の集団の者たちが間に入った。その者とは別の場所に座った。食べ物を分ける時に、その者の方は後になった。何かがあった、と周囲は思っていた。何もしていなかった。見ていただけだった。しかし見ていたこと自体が、何かだったのかもしれない。

ある夜、その者は眠れなかった。

火の端に座って、炎が縮んでいくのを見ていた。炭になった枝が、一本ずつ白くなった。白くなった炭は、少し押されると崩れた。形は残る。中身がなくなる。その者は自分の手のひらを炎の熱に近づけた。痛くなる手前で止めた。

骨は、まだ持っていた。

誰かがその者の背後に来た。振り向く前に、腕が来た。突きではなかった。押しでもなかった。引っ張りだった。その者は立てなかった。引きずられた。草の上を、背中から滑った。空が見えた。星が見えた。冷たかった。声を出そうとしたが、喉から出たのは単音だった。意味のない音だった。

草が顔の上で揺れた。

与えるもの

腐った実の匂いを、左前方から漂わせた。

その者は近づいた。骨を見つけた。一本を持ち帰った。排除される夜まで、手放さなかった。

渡したのは匂いだった。匂いの先に何があるかは渡せない。骨を持ったまま草の上を滑ったこの者が、それでも手を開かなかったことが、次に渡すべきものを変えた。次の者に、骨を渡せるか。渡せるとすれば、どうやって。

伝播:HERESY 人口:654
与えるものの観察:骨を持ったまま、声にならなかった
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第280話

紀元前298,610年

第二の星

草原の東端に、水場がある。

岩が割れてできた窪みに、雨期の水が溜まる。乾期が来ると地下から滲む。細い。しかし確かにある。

二つの集団が、その水を飲んでいた。

東から来た者たちは、毛皮を肩にかけていた。子を背負う者は、革紐で子を縛り付けていた。西から来た者たちは、毛皮を腰に巻いていた。子は歩かせていた。同じ水を飲んでいたが、飲み方が違った。すくい方が違った。口のつけ方が違った。

最初の衝突は、小さかった。

子どもが水場に近づいた。相手の集団の者が、手を上げた。脅す身振りだったのか、警告だったのか、わからない。子どもの側の成人が吠えた。相手が吠え返した。石が飛んだ。

それだけだった。

誰も死ななかった。血も出なかった。両側の集団が後退し、水場は一時、空になった。風だけが吹いた。窪みの水面が揺れて、また静かになった。

しかし翌日も、両側が水場に来た。

水が必要だった。どちらも引けなかった。

その次の衝突は、もう少し長かった。東の集団の若い雄が三人、水場に立った。西の集団の雄が四人、近づいた。押し合いがあった。一人が膝をついた。石で打たれたか、足を滑らせたかは見分けがつかない。その者は立ち上がり、集団に戻った。

どちらの集団にも、古い者がいた。

東の古い者は、長い傷跡を首に持っていた。どこかで爪にかけられた跡だった。西の古い者は、指が一本なかった。失った時期は、だいぶ昔のように見えた。

ふたりは、水場を挟んで、見合った。

声を出した。唸りだった。言葉ではなかった。しかし音に長さがあった。強さの変化があった。止まるところがあった。

それが交渉だったかどうか、誰にも判断できない。

ただ、東の集団が水場を使う時間帯と、西の集団が使う時間帯が、その日から少しずつずれていった。完全にずれたわけではなかった。重なる時間帯もあった。しかし、最初の頃よりも、鉢合わせの数が減った。

集団の内側では、別のことが起きていた。

西の集団の中で、若い雄が古い者に何かを訴えていた。身振りで、吠えることで。意味は取れない。しかし繰り返していた。何度も同じ動きをした。古い者は聞いていた。あるいは聞いていないように見えた。目は別の方向を向いていた。

東の集団では、女が一人、水場に近い岩の上に座って、ずっと西の集団を見ていた。子を膝に乗せながら。子は動き、女は動かなかった。

草の穂が、風に揺れた。

空は高かった。雲がゆっくり動いた。

水場の水面は、揺れては静まった。揺れては静まった。

何かが決まろうとしていた。あるいは何かがすでに決まっていて、それがまだ表に出ていないだけだった。

その者は、集団の端にいた。

与えるもの

岩の割れ目から、熱い空気が上がっていた。その者の足元で、草がそちらに向かって揺れた。

その者は、熱に気づいて足を引いた。岩から離れた。集団の方向へ戻った。

渡せなかった。風向きを変えれば、届いたかもしれない。しかし次に何を渡すか、もう考え始めていた。腐った実の匂いを思い出した。並んでいた骨を思い出した。渡しても渡されなかったものの数が、また増えた。次は何か。

その者(20〜25歳)

集団の端に、座っていた。

水場の方向から音がしていた。吠える声、石の音、水が揺れる音。

その者は、そちらを見なかった。

膝の上に、小さな石を置いていた。丸い石だった。割れていなかった。その者はそれを持ち上げ、置いた。持ち上げ、置いた。

音が近づいてきた。

その者は、石を握ったまま立った。どこに行くでもなく、立った。音が遠ざかった。その者は、また座った。

石を、草の中に置いた。

伝播:HERESY 人口:632
与えるものの観察:渡せなかった。次は何を。
───
第281話

紀元前298,605年

第二の星

大地が裂けた。

音ではなかった。音が生まれる前の、圧力だった。岩盤が内側から押し広げられ、地表が割れ、赤い光が地の底から滲み出た。

始まりの大地の南方、なだらかな丘陵が連なる地帯の下で、何かが動いた。長い時間をかけて蓄積されてきた力が、ある朝、限界を超えた。地が跳ね上がり、丘が崩れ、河床が持ち上がった。水場は消えた。岩が割れてできた窪みは、別の岩に塞がれた。

煙が上がった。煙ではなく、灰だった。遠い山から噴き出した灰が空を満たし、太陽は白く霞み、昼でも光が弱かった。草原の草が灰に覆われた。獣が方向を失って走った。鳥が鳴かなかった。

集団は散った。火から逃げる者がいた。崩れる岩の下に消えた者がいた。幼い者が泥に沈んだ。老いた者が走れなかった。水を求めて北へ向かった者の半数が戻らなかった。

灰の中を、この星は回り続けた。どこかで魚が産卵した。どこかで洞窟が新しく空いた。どこかで草の根が地中に伸びていた。

星は選ばない。

与えるもの

崩れた岩の向こうに、風がある方向から吹いてきた。

水の匂いがした。この者の鼻が動いた。しかし次の瞬間、足元の地面が揺れた。

渡せなかった、とは思わない。鼻が動いた。そこまでは届いた。届いたものが次に繋がるかどうか——前に渡した記憶が浮かぶ。草の中の光を。腐った実の匂いを。岩の熱を。それらがどこへ行ったか、わからない。しかし渡した事実は消えない。次は、生き延びた者の手の感覚に渡す。

その者(25〜30歳)

地面が揺れた。

寝ていた。揺れで目が覚めた。目が覚める前に体が立っていた。

暗かった。夜ではなく、灰が空にあった。喉に何かが入った。咳が出た。周りに声があった。叫びではなく、獣のような短い声だった。

走った。どこへかは知らない。足が動く方向へ走った。

後ろで音がした。重い音だった。誰かの声が途切れた。振り返らなかった。振り返れなかった。足が止まらなかった。

岩の陰に隠れた。体が震えていた。灰が降ってきた。口を手で塞いだ。目が灰で焼けた。

長い時間が過ぎた。

周りを見た。知っている顔が少なかった。子どもの声が聞こえなかった。老いた女が地面に座って動かなかった。座ったまま、少しずつ傾いて、灰の上に横になった。誰も起こしに行かなかった。

この者は、岩の向こうから吹いてくる風の匂いを嗅いだ。

何かがあった。鼻が知っていた。しかし足が動かなかった。体の中が、まだ揺れていた。

灰が積もった。白く積もった。その者は灰の上に手をついて、立ち上がった。

集団の中で、この者を見ている目があった。知らない目だった。怒りでも恐れでもない、何か別の種類の目だった。その者は目を逸らした。逸らした方向に、誰もいなかった。

伝播:HERESY 人口:275
与えるものの観察:鼻が動いた。そこまでは届いた。
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第282話

紀元前298,600年

第二の星

灰が降る。

南の方角から、風が灰を運んでくる。白くない。黄みがかった、重い灰だ。葉の上に積もり、水面に浮かび、やがて沈む。川は濁っている。魚は深いところへ退いた。

集団の者たちは散り散りに、しかしゆるやかに繋がりながら動いている。幾つかの小さな群れに分かれ、水場から水場へ。灰が降りしきる日には動かない。葉を束ねた陰に蹲り、声を出さずにいる。

北の草原では、別の骨格を持つ者たちが動いている。額が前に出て、眉の稜線が厚い。その者たちも灰の中にいる。同じ水場に近づいた時、互いに唸り声を上げて距離をとる。どちらも水を飲む。どちらも灰を吐き出す。

幼い者が二人、この五年で地面に還った。熱が出た。飲まなくなった。泥のように眠り、そのまま目覚めなかった。母親が二日、その傍らに座っていた。

旧人の群れの中で、一人が腕に傷を負っていた。獣との接触か、あるいは岩との接触か。腫れが上がり、膿み、やがてその者は動かなくなった。群れは翌朝に移動した。

灰はまだ降っている。

与えるもの

温度が変わった。

灰の降る方向とは逆のところから、ほんのわずか、空気が温かくなった。その者の左の頬だけに、温もりが触れた。

右にいくつかの者たちがいた。唸り声が低かった。体の向きが、争いの前の向きをしていた。

その者は左の頬の温もりを感じた。それだけだ。次に渡すべきものは、まだわからない。ただ、この者が長く生きるためには方向が要る、と思う。方向があれば、足がついてくる。足がくれば、間に合うかもしれない。

その者(30〜35歳)

灰が唇の隙間に入る。舌で押し出す。苦い。

水を飲みに行った川が濁っていた。掌に汲んで、顔を近づけた。泥の匂いがした。飲んだ。腹の中に、ざらりとしたものが落ちた感覚があった。

戻ろうとした時、右の方角から声が来た。低い唸り声。一つではなかった。

足が止まった。

左の頬が、ほんのわずか温かかった。灰の風と逆の方向から。その者はそれに気づかなかった。気づく言葉を持っていなかった。ただ足が、右ではなく左を向いた。理由はなかった。足の裏がそちらを選んだ。

茂みを抜けた。

後ろで声が大きくなった。何かが動く音。何かが倒れる音。

その者は走った。足の裏が地面を叩く感覚だけを追った。茂みが顔を打った。枝が腕を引っ掻いた。構わなかった。

止まった時、音が遠かった。

息が戻ってくるまで、岩に手をついていた。岩は冷たかった。灰で白くなっていた。

伝播:HERESY 人口:281
与えるものの観察:左の頬だけが温かった。足が先に知っていた。
───
第283話

紀元前298,595年

その者(35〜40歳)

岩の縁に足の裏を押しつけて、立っている。

川は濁ったままだ。水の中に手を突っ込んでも、指の先が見えない。昨日もそうだった。一昨日もそうだった。喉が渇いているが、飲む気にならない。

岸を離れ、斜面を上った。

集団のいる場所まで戻ると、子どもが二人、泥の中で転がっていた。笑っている。笑い声ではなく、息の音だ。その者はそれを通り過ぎた。

火の跡がある。消えている。灰が広がっている。黄みがかった灰と、燃やした灰が混じって、区別がつかない。その者はしゃがんで、指先で灰に触れた。温かくない。冷たくもない。

誰かが唸った。

その者は顔を上げた。斜面の上、木の間に、知らない影が立っていた。小さくない。背が高く、腰が広い。毛が濃い。こちらを見ていない。横を向いている。

息を詰めた。

集団の中で動きが起きた。二人が岩を拾った。一人が幼い子を抱き上げた。その者は何も拾わなかった。立ったまま、影を見ていた。

影が動いた。木の間に消えた。

しばらく、誰も動かなかった。

その者はゆっくりと腰を下ろし、灰の中に手のひらを置いた。熱くない。何もない。それでも手を離さなかった。

風が来た。斜面の上から、木の向こうから、あの影のいた方向から。

その者の鼻が動いた。

草の匂いではない。土でもない。何か、湿った、重い、知らない匂いだった。集団の誰かが低く唸った。その者は唸らなかった。匂いを、吸い込んだ。もう一度、吸い込んだ。

消えた。

風が止み、匂いが消えた。その者は手のひらを灰から離した。立ち上がった。斜面の上を見た。木は動いていない。影はいない。

その者は何もしなかった。

第二の星

川が濁っている。

南から運ばれた灰は、水に混じり、土に混じり、やがて区別がつかなくなった。魚は深い場所にいる。鳥は来ない。集団は川縁を離れ、斜面の上で火を起こしたが、湿った木は煙を吐くだけで炎にならなかった。

この五年、温度は安定していた。実は実り、草は育ち、集団は増えた。だが安定は、別の緊張を生んだ。食べ物のある場所に、別の者たちが来る。この集団のものではない、背の高い、腰の広い者たちだ。争いはまだない。遠くから見ている。見られている。

281という数は、ここにいる者たちの数だ。だがこの大地には、計算できない者たちもいる。毛の濃い、背の高い者たちは、数えられない。名前もない。ただそこにいる。ときどき、木の間に見える。

子は生まれ、老いた者は斜面を下りなくなり、やがて斜面の下に横たわる。循環は続いている。灰の中でも続いている。

緊張は、形を持たない。匂いのようなものだ。風に乗って来て、風が止めば消える。しかし土には残る。

与えるもの

風の方向を使った。あの影のいた場所から。

その者は匂いを吸い込んだ。二度。

何かを思ったのか、何も思わなかったのか、わからない。灰から手を離したとき、何が残っていたか。次に風が来たとき、また鼻が動くだろうか。それを、まだ知らない。

伝播:NOISE 人口:291
与えるものの観察:匂いを吸い込んだ。二度。それだけが残っている。
───
第284話

紀元前298,590年

第二の星とその者(40〜45歳)

川岸の植物が黒ずんでいた。
根元から腐り始め、茎が倒れ、泥の中に沈んでいく。
集団の半分がその岸を離れた。高台へ。南の斜面へ。それぞれに散った。

その者は動かなかった。

岩の上に膝をついて、川面を見ていた。
水は濁ったまま速く流れる。速さが変わったのは昨日からだ。
一昨日まで、流れは緩かった。子どもたちが浅瀬に入っていた。

北から別の集団が来た。
皮を纏い、額が後ろに傾いた者たちだ。
唸り声が違う。腕の動かし方が違う。立っている位置の取り方が、違う。
彼らは川の上流を指さすことなく、ただそこに立っていた。

その者の集団の女が石を持った。
男が体を横に広げた。
唸り声が重なった。低く、長く。

その者は岩の上に座ったまま、顔を上げなかった。

北の集団は去らなかった。
水場の近くに留まった。夜になっても火を焚いた。炎が二つ見えた。
一つはこちらの火。もう一つが、向こうの火。

匂いが変わった夜があった。

煙の向きが変わったわけではない。風もなかった。
ただ、何かが焦げるとは違う匂いが漂ってきた。肉ではない。皮でもない。
その者は鼻を持ち上げた。
胸の中に何かが差し込まれるような感覚。
すぐに消えた。

川上で誰かが倒れた音がした。
岩に何かが当たる音。その後、何も聞こえなかった。
北の集団の火が一つになった。

次の朝、水辺に血が混じっていた。
その者は川岸に膝をついて、指を水に差し込んだ。
冷たかった。
水を飲んだ。
立ち上がった。

集団の中に小さな子がいた。母親とは別の岩の陰に座っていた。
膝を抱えて、火を見ていた。
目が動かなかった。

その者はその子の隣に座った。
何もしなかった。
子も何もしなかった。

二人でしばらく火を見た。

五年の終わりに、北の集団は上流へ去った。
川の水は少し透き通った。底の石が見えた。
その者は川に足を入れ、立ったまま、流れが足首に当たるのを受けた。

冷たかった。
重かった。
続いていた。

与えるもの

あの夜、匂いを残した。

腐った葉の下から漂うものを、鼻の先に届くように。
この者は顔を持ち上げた。
胸に何かが刺さるような顔をした。

そのまま忘れた。

次に渡せるものがある。
水の透き通り始めた底の石。
指を当てれば、冷たさと重さが同時に来る。
それを覚えていられるか。

覚えることと、渡すことは、同じではないかもしれない。
それでも渡す。

伝播:DISTORTED 人口:301
与えるものの観察:匂いは届いた。だが刺さって消えた。
───
第285話

紀元前298,585年

第二の星

草原が割れていた。

乾季が長く続いた。土が縮み、表面に亀裂が走り、その裂け目に指が入るほどの隙間が生じていた。川は細くなり、流れは遅く、岸の泥が固まって白い粉を吹いていた。

集団は二つに分かれていた。

片方は丘の北側、岩陰に張り付くように動かなかった。火を持つ者が三人いた。その三人が持つ火が集団の中心だった。夜、その火を囲んで十数人が横たわり、朝、また移動した。移動の方向に決まりはなかった。食べ物がある方へ。水がある方へ。それだけだった。

もう片方は南へ向かっていた。

草がまだ青い場所を探していた。見つからなかった。足の裏に乾いた土の粉がついた。子どもが二人、歩くのを止めた。一人は抱えられた。もう一人は地面に座り込んだまま、集団の足音が遠くなっても動かなかった。

旧人がいた。

川の上流に三人。直立し、肩幅が広く、眉の骨が出ていた。こちらを見ていた。手に何も持っていなかった。集団の者たちが立ち止まった。互いに声を出さなかった。旧人の一人が鼻を鳴らした。風が吹いた。その三人は向きを変えて草むらに消えた。

しばらく誰も動かなかった。

北側の集団と南側の集団の間で、一人の者が死んだ。老いていた。足が動かなくなっていた。最後に口を開けたが声は出なかった。下顎が力なく落ちた。その隣に座っていた者が、しばらく手を握っていた。それから離した。

草原には風が戻った。

乾いた風だった。細かい砂を含んでいた。目を細めなければ前が見えなかった。大地の亀裂はさらに深くなっていた。その裂け目の底に、わずかに湿った土の色が見えた。水の気配だった。深い場所には、まだ何かが残っていた。

集団の誰も、その亀裂の底を見ていなかった。

与えるもの

亀裂の底から、湿った土の匂いが上がっていた。

その者の鼻孔が動いた。一度、もう一度。それから膝を曲げて地面に近づいた。匂いを嗅いだ。指は裂け目に入れなかった。

届いたのか。届いていないのか。この者は亀裂の縁に座ったまま、また立ち上がった。別の方向へ歩いた。渡すべきものはまだある。しかしこの者が向かった先に、それはなかった。

その者(45〜50歳)

集団から少し離れたところにいた。

亀裂の縁に屈み、匂いを嗅いだ。それだけだった。立ち上がり、北へ歩いた。足音が砂に消えた。集団の誰もその者を見ていなかった。

夕暮れに戻らなかった。

翌朝も戻らなかった。探す者はいなかった。

伝播:HERESY 人口:304
与えるものの観察:渡した。しかし足はそこから離れた。
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第286話

紀元前298,580年

第二の星とその者(50〜55歳)

乾いた年が続いた後、雨が戻った。

草原に水が染み込んだ。亀裂が閉じた。土が膨らみ、表面が滑らかになっていった。川は幅を取り戻し、流れが速くなった。岸の白い粉が消えた。

その者は岩陰にいた。

集団の半分は別の方向へ消えていた。戻らなかった。その者には、消えた者たちの顔がまだあった。目の奥の、どこか暗い場所に。

草が伸びた。獣の群れが戻ってきた。蹄の音が地面に響いた。集団の者たちは動いた。追った。子どもたちが走った。

その者は走らなかった。

脚が動かなかったのではない。動かさなかった。集団の後ろで、岩に手をついて立っていた。追いかける群れを見ていた。砂埃が上がった。鳥が一斉に飛んだ。

その者の鼻孔が開いた。

肉の焼ける匂いではなかった。まだ遠い。でも、草の中に獣の体温の匂いがあった。風が北から来ていた。その者の顎がわずかに上がった。

集団の緊張が変わっていた。

戻らなかった半分が消えてから、残った者たちの目に何かが宿っていた。笑う者が減った。子どもが泣いても、誰かが抱き上げるまでに間があった。食いものを取り合う唸り声が増えた。その者は古い方だった。年を重ねた体を、若い者たちは見ていた。違う目で。

その者は気づいていなかった。

三度目の雨季が来た。川が溢れた。低い場所に水が集まり、平原の端が泥の池になった。魚が来た。白鷺が来た。子どもたちが泥の中で転んだ。

その者は水際に立った。

波紋が広がった。その者の足首まで水が来た。冷たかった。足の裏に泥が絡んだ。その者は立ったまま動かなかった。水面に自分の形が映っていた。老いた体。脚の細さ。白くなった頭。

集団の中で何かが動いていた。

声でなかった。目配せでもなかった。若い者たちが近くにいると思えば、離れていた。獲物の前後を挟むような、その動き。その者の知らないところで、形が決まりつつあった。

その者は池の縁から一歩下がった。

何もなかった。水が動いただけだった。でも体が動いた。後ろに。反射のように。

温度が変わった。

その者の首の後ろ、皮膚の薄い部分に、熱があった。太陽ではなかった。雲が出ていた。それでも熱かった。その者は手を上げた。首の後ろに当てた。何もなかった。熱は皮膚の中から来ていた。

若い者の一人が近くに来た。

獲物を持っていた。腸が垂れていた。血の匂いがした。その者に近づいて、置いた。足元に。それだけだった。目を合わせなかった。去った。

その者は肉を見た。

拾った。匂いを嗅いだ。食べた。

夜になった。火の周りに体が集まった。その者は端にいた。火の明かりが届かない場所ではなかった。でも中心ではなかった。若い者たちの声が届いた。意味のない声。しかし抑揚があった。笑いに近い声。怒りに近い声。その者の耳には届いたが、体には入らなかった。

月が出た。

水面が白くなった。平原の向こうで、何かが動いていた。獣ではなかった。形が違った。背が高く、細く、二本の脚で立っていた。一人ではなかった。四つ、五つ。動いて、止まった。

集団の者が気づいた。

唸り声が上がった。火が揺れた。子どもたちが引き寄せられた。石が握られた。向こうの形はじっとしていた。動かなかった。月の下で、遠くで、ただ立っていた。

その者は立ち上がった。

なぜかはわからなかった。体が前に出た。集団の外側に。火の明かりから出た場所に。足が草を踏んだ。

向こうの形がこちらを見ていた。

距離があった。声は届かなかった。匂いも届かなかった。でもその者は止まらなかった。草の中を歩いた。足の裏に露が冷たかった。

集団の中で唸り声が大きくなった。

その者は聞いていなかった。

向こうの形が動いた。一つが前に出た。体が大きかった。腕が長かった。止まった。その者を見た。その者も止まった。二つの体が草原の中で向かい合っていた。月の光だけがあった。

その者の喉から音が出た。

意味はなかった。単音だった。喉が震えただけだった。

向こうの形が音を出した。

違う音だった。長く、低く、鼻に抜ける音だった。その者には聞いたことのない音だった。体の奥に届く音だった。

二つの体はそこにいた。

動かなかった。音はなくなった。草が揺れた。風があった。

集団から、足音が来た。

若い者たちが来た。石を持っていた。その者の後ろに立った。向こうの形は動かなかった。しばらくして、後ろを向いた。草の中に消えた。一つ、また一つ。

その者はずっと立っていた。

消えた後も、立っていた。草が戻った。月があった。

五年目の終わりに、その者は川の近くで倒れた。

朝だった。水を取りに行って、そのまま草の上に崩れた。体が崩れるように倒れた。膝が先についた。次に手。次に顔。草に顔が埋まった。集団の子どもが見ていた。近づいた。その者の肩を揺らした。動かなかった。もう一度揺らした。動かなかった。

子どもは走って戻った。

大人たちが来た。見た。その者の体に触れた者もいた。触れなかった者もいた。しばらくして、集団は移動した。その者を残して。川の近くの草の上に、体が残った。水の音があった。鳥の声があった。日が上がった。

与えるもの

温度を変えた。首の後ろに、少しだけ。

この者は手を当てた。何もないと思った。それでも体は一歩下がった。

知りすぎたからではない。体が先に知っていた。頭より早く。それが何であるかはわからない。次に渡すべきは、この問いかもしれない。体が先に知ることを、どこかの者がいつか言葉にするだろうか。

伝播:HERESY 人口:300
与えるものの観察:体は頭より先に知っていた。それだけだ。
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第287話

紀元前298,575年

その者(55〜59歳)

雨が戻ってから、四つの季節が過ぎた。

その者は川のそばに座っていた。岩の上ではない。土の上に、ただ膝を折って。足の裏が土に沈むほど柔らかくなった地面は、乾いた年には固くて座れなかった場所だ。

立ち上がれなくなったのは、いつからだったか。

集団の中でもっとも年を取ったその者は、もはや何かを運ぶことも、何かを壊すこともなかった。ただそこにいた。子どもたちが傍を走り抜けても、振り返りもせず。若い者が獣を担いで戻ってきても、声を上げなかった。

川の流れが見えた。

その者の目は、細くなっていた。光を多く受け取れなくなっていた。だが水が動いているのはわかった。音があった。川幅いっぱいの水が岩を叩く音。それはずっとそこにあった音だ。その者が生まれたときも、立てなかった幼いころも、足が速かったころも、今も。

喉から、音が漏れた。

意味はなかった。誰も聞かなかった。その者も気にしなかった。

昼が傾いた。影が長くなった。川岸の草が風に揺れた。その者は揺れなかった。

夕方、一人の子どもが近づいた。子どもはその者の顔を見て、また走り去った。

夜が来た。

その者は倒れなかった。仰のかなかった。土の上に座ったまま、川音の中で、少しずつ力が抜けていった。抜けていって、もう抜けるものがなくなって。

川は変わらず流れていた。

第二の星

大地の北の縁で、旧人の一群が丘の稜線に沿って移動していた。煙が上がっているのが見えた。誰の火か、彼らには関係なかった。草原の南では、別の集団が水場をめぐって声を上げていた。夜に入ると、どちらも静かになった。空に雲はなかった。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:SILENCE 人口:309
与えるものの観察:渡すことが私だ。届かなくても。
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第288話

紀元前298,570年

その者(18〜23歳)

雄の尻の下に、若い草が敷かれていた。

誰かが刈ったわけではない。地面から押し上げるように生えてきた草が、岩の隙間を塞ぎ、踏み場のなかったところを踏める場所にしていた。雄はその上に立ち、片膝を地面についた。右手に握っているのは細い骨だ。折れた脚の骨。どの獣かはわからない。白くなる前に誰かが持ち帰って、捨てたものだ。

骨で、土を引っかいた。

理由はない。手が動いた。土の中から石が出てきた。白くも黒くもない、灰に近い色の石だ。

雄はそれを拾い上げ、しばらく見た。

置いた。

また拾った。

集団の声が遠くにある。誰かが笑うような声を出した。複数の声が重なって、一匹の獣が逃げるような音になった。食べ物を見つけたのかもしれない。雄はそちらを見なかった。

骨を土に差し込んだ。

引き抜いた。穴が残った。

指を差し込んだ。土は湿っていた。雨が降ったのはずいぶん前のはずだが、指先に土がついた。雄はその指を自分の膝に擦りつけた。膝の皮は硬い。

腹が鳴った。

雄は立ち上がった。草が戻ってきた——いや、草は最初からそこにあった。ただ雄が立ち上がるまで、誰もそれに気づいていなかった。

遠くから火の匂いがした。集団の誰かが枝を燃やしている。夜ではない。昼間に火を焚くのは、何かを炙るときだ。雄は匂いの方へ歩き始めた。

歩きながら、さっきの石を握っていた。

いつ拾い直したかは、自分でもわからなかった。

第二の星

この5年、東の空に雲が少なかった。

大きな水の流れが緩やかになり、海岸の砂は毎年少しずつ押し上げられた。陸の奥では獣の群れが繁殖し、草原に幼い体が増えた。大地は柔らかく、何かを刈り取るような嵐もなく、季節は惰眠のようにゆっくりと回転した。

遠い場所では、ちがうことが起きていた。

硬い岩が重なる北の大地では、何も変わらなかった。変わらないまま、そこにいた者たちは少しずつ増えた。火を抱えた者が新しい場所を選び、川の字に眠る夜が増えた。誰も命名しなかったが、そこは居場所になった。

始まりの大地でも、同じように増えた。

集団は大きくなりすぎると端が剥がれる。剥がれた端が別の場所へ流れる。それは崩壊ではなく、増殖だ。草が亀裂から伸びるように、人は満ちた場所から滲み出した。

この星はそれを見ていた。

雨の多い年に沼が広がるように、人が広がっていた。意志ではない。圧力だ。生きている者が生きることで生まれる、ただの圧力だ。

与えるもの

糸が繋がった。

火の匂いがその方向から流れた。雄はそちらへ歩いた。

受け取ったのか、腹が鳴ったからそちらへ向かったのか、わからない。

——始まりにはいつも、わからないことがある。次に渡すべきものが、わからないからこそ、渡せるものがある。

伝播:NOISE 人口:402
与えるものの観察:糸が繋がった。この者はまだそれを知らない。