2033年、人類の旅

「紀元前298,565年〜紀元前298,445年」第289話〜第312話

Day 13 — 2026/04/16

読了時間 約60分

第289話

紀元前298,565年

第二の星

乾いた高地の端、岩棚の下に煙が上がっている。

獣の脂が焦げている。二つの群れの煙が、同じ方向から来ている。風下に集まった煙は混じり合うが、それぞれの火はまだ別々だ。どちらの群れがどちらの岩陰にいるか、煙の色で区別できる日もある。今日はできない。

丘の南側では、幼い者が泥に埋まった根を引き抜こうとして失敗し、また引き抜こうとしている。

北の窪地で、雌が二人、皮を石で叩いている。叩くたびに音が響き、遠くの鳥が飛び立つ。飛び立ってすぐ戻る。

若い雄が岩棚の手前で止まっている。骨を持っている。

煙の向こうで、知らない声がした。唸り声ではない。叫び声でもない。その中間のような音が、風に乗って届いた。届いたあと、消えた。

高地の草は短い。日差しが強い。

与えるもの

灰の匂いが風に乗ってきた。

別の群れの残り火の匂いだ。獣の脂が焦げた匂いと、知らない体の匂いが混じっている。その方向に、この者の鼻がわずかに向いた。

この者は骨を持ち替えた。匂いの方向ではなく、岩棚の内側へ向かった。

渡せたのか、腹が空いていたからそちらへ向かったのか。知らない。——次に渡すものは、今日と同じ匂いの中にある。そう思うだけだ。

その者(23〜28歳)

岩棚の奥に火がある。

火の番をしているのは老いた雌で、顔に引っかき傷がある。古い傷だ。この者が生まれる前からあった傷かもしれない。

この者は骨を地面に置き、火の傍らに座った。

腹が鳴った。

老いた雌が何かを差し出した。焼いた肉の端切れだ。固い。歯で噛むと音がした。顎が痛んだ。それでも噛んだ。

外から声が来た。

この者は噛むのをやめた。

老いた雌も動かなかった。

声はもう一度来た。前と同じ声ではない。別の口から出た音だ。低く、長い。唸り声よりも穏やかで、叫び声よりも短い。

この者は骨を拾った。

立ち上がり、岩棚の縁まで行った。外を見た。

煙が二本、同じ方向に流れていた。

遠くに、影が二つあった。動いている。四本足ではない。二本足だ。

この者は手に骨を握ったまま、動かなかった。

影は止まった。

長い時間が経った。影はまた動いた。今度は遠ざかる方向に。

この者は岩棚の内側へ戻った。

骨を地面に置いた。

また拾った。

火が小さくなっていた。老いた雌が枝を一本くべた。煙が増えた。この者の目に煙が入った。目から水が出た。拭わなかった。

外の声は、もう聞こえなかった。

伝播:DISTORTED 人口:419
与えるものの観察:匂いで向けた。届いたかどうかは今もわからない。
───
第290話

紀元前298,560年

第二の星とその者(28〜33歳)

高地の岩棚に霜が降りた。まだ夜の終わりで、空の端が白くなりはじめたばかりだった。乾燥した風が南から来ていて、草は根元から折れている。獣の足跡が砂の中に凍りついていた。

その者は岩の割れ目に背を押し当てて眠った。明け方の冷気が肩を刺した。目が覚めた時、体の右半身だけが温かかった。

二つの群れの火が、尾根を挟んで燃えていた。どちらの火も夜のあいだ持続した。どちらの火も同じ方角の風に煙を流した。煙は合わさらなかった。合わさる前に地面に落ちた。朝の湿気が重くした。

その者は立った。腹が鳴った。仲間のうちの誰かがすでに動いていて、草の中に足音がしていた。その者はその音を追わなかった。代わりに尾根の方向を見た。

旧人の群れが尾根の向こうにいることを、この群れの誰もが知っていた。知っていたが、言葉はなかった。知っていたのは、煙の色が違うためだった。獣脂の種類が違う。燃やす木の種類が違う。五日に一度は、向こうの煙が太くなった。それが何を意味するのか、誰も問わなかった。

その者の集団で、一番年長の雌が死んだ。崖の縁で足を滑らせた。音は短かった。崖の下を誰も見なかった。三日後に若い雌が子を産んだ。子は泣いた。それだけだった。

尾根に近づいたのは、腹が空いたためだった。

その者は夕方、仲間から離れた。獣の跡を追った。跡は尾根に向かっていた。その者は止まらなかった。腹が空いていた。

尾根の手前で、風の向きが変わった。向こうから来る風に、焦げた骨の匂いが混じっていた。旧人たちが何かを焼いていた。

その者は止まった。

足元の土が、前と違う踏み固められ方をしていた。自分たちの足跡ではなかった。形が違う。指の数は同じだったが、親指の向きが少し違った。その者はその跡を三度見た。

匂いが濃くなった。骨と脂だけでなく、知らない体の匂いが混じった。生きているものの匂いだった。

その者は動かなかった。

藪の向こうで何かが動いた。枝が折れた音がした。その者は唸り声を出しかけて、止めた。なぜ止めたのか、自分でわからなかった。

静かだった。

向こうも動かなかった。

その者は時間をかけて後ずさった。一歩。二歩。三歩目で踵が石を蹴った。音がした。向こうも音を立てた。同じような音だった。

その者は走らなかった。走ることが危険だと知っていたわけではなかった。ただ、足が動かなかった。

藪の向こうに、目があった。

高さが違った。自分より低いところに目があった。小さい体だった。子どもだった。旧人の子どもが藪の中に立っていた。その目は明るかった。白目の部分が、仲間のそれより広かった。

その者は目を離さなかった。

子どもも動かなかった。

どちらも唸らなかった。どちらも歯を見せなかった。その者の喉の奥で何かが収縮した。それが何であるか、この者には名前がなかった。

子どもの向こうで、太い声がした。成体の声だった。子どもが振り返った。その隙にその者は踵を返した。今度は走った。

高地の草が枯れ、また芽吹いた。二度繰り返した。

二つの火は尾根を挟んで燃え続けた。どちらかの煙が消えた夜が一度あった。翌朝また上がった。何があったのかは、煙からはわからなかった。

その者は三十一になった。肩の古傷が雨の前に疼くようになっていた。狩りの端にいたが、去年より少し前に出るようになっていた。仲間の中の一人の若い雄が、崖の下から戻らなかった。その分の穴を、誰かが埋めなければならなかった。

尾根での出来事を、その者は誰にも伝えなかった。伝える言葉がなかった。伝える手段もなかった。目があったことを、白目の広さを、声を出さなかったことを。それらは体の中に留まった。どこにも出ていかなかった。

体が覚えていた。

次に尾根の近くを通った時、その者は遠回りをした。意識してではなかった。足がそちらに向かなかった。

その代わり、煙を見るようになった。

向こうの煙が太い夜と、細い夜の違いを、その者は数えるようになった。数える言葉はなかったが、指を折った。右手の指を全部折ると、また広げた。次の日にまた折った。何のためにそうするのか、この者にはわからなかった。ただ折った。

与えるもの

足跡の形の違いに、光を落とした。

その者は三度見た。それだけだった。走らなかった。

渡したのは足跡ではなかった。止まる、ということだったかもしれない。あるいは違う、ということを、体に覚えさせることだったかもしれない。どちらとも言えない。

次に渡すなら、指を折る行為に何かを添えるべきか。数えることと、意味をつけることは別だ。この者の指はすでに動いている。

伝播:SILENCE 人口:433
与えるものの観察:止まった。それで十分だったかもしれない。
───
第291話

紀元前298,555年

第二の星

雨季と乾季が、約束のように入れ替わっていた。

大地の南端では草原が広がり、獣の群れが水場から水場へと移動していた。乾いた河床に水が戻り、泥の底から魚が跳ねた。集団は移動するたびに食べるものを見つけた。子が生まれ、乳を飲み、育った。死ぬ子もいたが、育つ子の方が多かった。そういう年が続いた。

集団の端が、少しずつ広がっていた。

以前は岩棚の下に固まって眠っていたものが、今では二つの火を離して燃やすようになっていた。雄の若いものが別の場所で眠り、雌と子は中心に固まった。誰かがそう決めたのではない。ただそうなっていた。

夏の終わり、北の斜面で、見たことのない集団と出会った。

彼らは背が高く、額が前に出ていた。毛皮を肩に巻いていた。声は低く、音の数が少なかった。こちらの集団の者が石を持って立った。向こうも立った。しばらくそのまま、お互いの息の音だけが聞こえていた。

それから向こうの集団の中の一頭が、乾いた肉の塊を地面に置いた。

置いて、退いた。

こちらの若い雄が、それを拾った。においを嗅いだ。食べた。

それだけだった。翌朝、北の集団はいなくなっていた。足跡だけが泥の上に残り、霧の中に続いていた。

集団は大きくなっていたが、食べ物を探す範囲も広がっていた。木の実を採る場所が重なると、唸り声と身振りが激しくなった。傷を負う者も出た。しかし誰も死ななかった。傷は膿んで腫れ上がり、三日ほど熱を出した若い雌が一人いたが、水を飲み続けて回復した。

ある夜、火の周りで、老いた雌が妙な音を繰り返していた。

それは叫びでも唸りでもなく、短い音を同じ高さで何度も出す行為だった。他の者が真似した。真似した者の真似を別の者がした。やがてそれは止んだ。誰も覚えていなかった。

しかし火の粉が散って空に消えるあいだ、その音は続いていた。

その者は火の端にいた。集団の中心ではなく、外の方で、砂に指を押し当てて何かを擦っていた。押した。また押した。同じ動作を、誰にも見せずに繰り返していた。

その者だけが火に近づかなかった。

その者だけが、音に加わらなかった。

与えるもの

火が弾けた。火の粉が一つ、その者の膝の手前に落ちた。消える前のわずかな光の中に、砂の凹みが見えた。

その者は見た。それから砂を平らに戻した。また押した。また戻した。

同じことをするために何かに注意を向けることがある、ということを、これはそう呼んでいいのか、まだわからない。しかし次に渡すべきものは、おそらく凹みではなく、繰り返す手の方だ。

その者(33〜38歳)

火の粉が膝の手前で消えた。

砂の中に小さな窪みが残っていた。その者はそれを見た。手の平で消した。また指で押した。また消した。

老いた雌の音が続いていた。集団の声が重なっていた。その者はそこには行かなかった。砂を押した。消した。押した。

夜が深くなっても、その者の手は止まらなかった。

伝播:HERESY 人口:535
与えるものの観察:繰り返す手が、凹みより先にある。
───
第292話

紀元前298,550年

その者(38〜41歳)

四十一年目の秋だった。

草が黄色く倒れ、獣の足跡が泥に刻まれたまま乾いていた。その者は集団の端で、岩の崖の下に立っていた。

崖は高くなかった。しかし崩れやすかった。

集団の中に、その者を好まない者がいた。好まないというより、その者が知っていることを好まない者がいた。何を知っていたのかは言葉にならなかった。ただ、その者は時々おかしな方向を見た。他の者が見ていない場所を。それが気に入らなかった。

崖の上から、小石が落ちてきた。

その者は上を見なかった。

次に岩が来た。大きなものではなかった。しかし角があった。

その者は前に倒れた。地面に手をついた。起き上がろうとした。足が動かなかった。

崩れた礫が背中を覆っていた。少しずつ。静かに。

空が見えた。

雲がゆっくり動いていた。その者はそれを見ていた。見ていた。

手が地面の草を一本だけつかんだ。

それから、手が開いた。

崖の上から誰かが覗いた。それから離れた。

草は風に揺れていた。

第二の星

乾いた台地の向こうでは、別の集団が夜営地を離れていた。風向きが変わり、獣が散った方向へ。火を持たないまま。岩塩の欠片を一人が握っていた。子どもの一人が泣いていたが、止んだ。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:521
与えるものの観察:届かないことにも、慣れない
───
第293話

紀元前298,545年

第二の星

草原に乾いた風が走っている。

北の斜面では旧人の群れが岩陰に身を寄せている。毛深い腕が子どもの背を包んでいる。子どもは眠っている。旧人の子も眠る。

川沿いの低地、この集団より三日分の歩きの先に、別の集団が暮らしている。以前は境界線があった。どちらの群れも近づかなかった。今は違う。豊穣が続いたため、それぞれの足跡が互いの縄張りに踏み込んでいる。まだ血は流れていない。しかし、獣を巡る声が荒くなった夜があった。

火山から遠く離れた海岸、そこには誰もいない。波が砂を洗い、砂が戻る。生き物の痕跡はない。ただ貝殻が積み重なっている。何万年もかけて。

集団の火のそばでは、年老いた女が皮をなめしている。膝に皮を乗せ、固い木の先端で繰り返し押している。押して、引いて、押して。その隣で子どもたちが走り回っている。追いかけて、倒れて、また立ち上がる。

八歳になったばかりのその者も、そこにいる。

他の子どもと同じように走っている。転んだ。膝が擦れた。それでも立った。

星はその者を他の誰とも区別しない。ただ照らしている。

与えるもの

糸が繋がった。

焚き火の煙が、いつもと違う方向に流れた。

その者の鼻が動いた。煙の匂いではなく、その先の何か、遠くの水の匂いがした。その者は一瞬足を止めて、その方向を向いた。それからまた走り出した。

届いたのかどうか、わからない。しかし止まった。一瞬だけ、止まった。

十二人の顔を覚えている。止まった者はいた。止まるだけで終わった者も、いた。止まることと、受け取ることの間に、どれほどの距離があるのか。次は何を、この者に向かって流せるのか。

その者(8〜13歳)

走っていた。

別の子どもが後ろにいた。足音が近い。その者は方向を変えた。草を踏んで、岩を避けて、また草の中へ。風が来た方向に顔を向けた瞬間、何かの匂いがした。遠い水の匂いだった。

足が止まった。

後ろの子どもが体にぶつかってきた。二人で転んだ。笑い声が出た。

その者は起き上がって、また走り始めた。しかし、一度だけ振り返った。風が来た方向を。草が揺れていた。誰もいなかった。

夜、火の番を任された。

大人たちが眠っているあいだ、その者は火のそばに座っていた。枝を一本、炎に差し入れた。炎が大きくなった。もう一本。また大きくなった。火が揺れるたびに、影が動いた。岩の上の影、眠る人たちの影、全部が動いた。

その者は影を見ていた。

炎が小さくなりそうになると、枝を足した。それを繰り返した。

夜明け近く、東の空が紫から灰色に変わった。その者は火を見たまま、瞬きをした。眠くなかった。眠れなかった。体の中に何かが残っていた。昼間に嗅いだ、遠い水の匂い。

それが何だったのか、その者には音がない。言葉がない。

ただ、草が揺れた方向を、体が覚えていた。

伝播:NOISE 人口:534
与えるものの観察:止まった。一瞬だが、止まった。
───
第294話

紀元前298,540年

第二の星

草原の西端で、地表が割れている。
乾季が長すぎた。土の表面が板のように浮き上がり、踏むたびに粉が散る。

北の斜面には旧人の群れが三つ。それぞれに岩を背負うように座っている。三つの群れは互いの姿が見える距離にいるが、近づかない。近づかない理由を持つ言葉は、誰にもない。ただ近づかない。

南の低地では別の現人類の集団が水場を移している。前の水場が消えた。干上がったのではない。底が抜けた。一晩で水が消えた。どこへ行ったかを問う言葉は誰にもない。ただいなくなった。

東の崖縁には、この集団の若い男が三人、旧人の群れを遠くから眺めている。石を手に持っている。投げるためではなく、持っていると落ち着くからだ。

その者は、そのどれでもない場所にいる。
集団の中心から少し外れた岩の近く。
火の残り火を足で踏んだりせず、ただそこにいる。

空は晴れている。風が東から来ている。

与えるもの

光がその者の足元に落ちた。
割れた地表のひとつ、縁が鋭く立ち上がった亀裂の端に。

その者はしゃがんだ。指ではなく顔を近づけた。亀裂の中を覗いた。

これが何度目か。
煙が混じった日も、白目の日も、砂の跡も、岩が来た日も、水の匂いも。
渡した。渡せたかどうかは別だ。
今日も渡す。
次に渡すべきものを、まだ考えている。

その者(13〜18歳)

地面が割れている。
その者はずっと前からそこに割れ目があることを知っていたが、近づいたことはなかった。

光が縁に落ちたとき、なぜか足が動いた。

しゃがんで、顔を地面に近づけた。
亀裂の中は暗い。暗い中に湿った匂いがある。乾いた地表の下に、まだ湿りが残っている。

その者は鼻で息を吸った。
もう一度吸った。

音がした。
東の方向から、男たちの唸り声。
その者は顔を上げた。
声の方を見た。男たちはまだ崖縁にいる。旧人の群れの方を向いている。

その者は立ち上がらなかった。
もう一度、地面に顔を近づけた。

亀裂の縁を指でなぞった。鋭かった。血が出た。
その者は指を口に入れた。
鉄の味がした。

立ち上がらなかった。

割れた地面の前に座ったまま、血の味がなくなるまで指を舐め続けた。東から唸り声が続いていた。その者はそちらを見なかった。

亀裂の奥の湿った匂いが、まだ残っていた。

伝播:NOISE 人口:545
与えるものの観察:地の下に湿りがある。届いたかどうか。
───
第295話

紀元前298,535年

第二の星

草原の西端は、まだ割れている。

亀裂の幅は広がった。雨が来ない。土の板が反り返り、端から崩れて粉になる。風が粉を運ぶ。北の斜面には旧人の群れが、昨日より近い場所にいる。

始まりの大地の全体を照らすと、ひとつの集団では抱えきれない数の人が、それぞれの水場と岩陰の周囲に散らばっている。その中で、この草原の集団は小さい側だ。

北の旧人は別の集団と合流しつつある。二つの群れが一つになる途中のような、混じり合いの途中のような状態で、岩の陰と岩の陰の間をゆっくりと詰めている。

遠くでは、別のことが起きている。

東の低地では、水が溜まり始めた。乾季の終わりではない。地下から染み出してきている。水の端に、誰かの足跡が残っている。そこで立ち止まり、戻った跡。戻らなかった跡。どちらかは分からない。

この星は、どちらも照らす。

与えるもの

足元の亀裂から、冷たい空気が漂い上がった。

夜の残りが地の底に溜まっているような冷たさで、その者の足首を撫でた。

その者は足を止めた。かがんだ。亀裂の縁に指を置いた。

置いたまま、動かなかった。

この者は何を聞いたのか。冷たさを聞いたのか、それとも深さを聞いたのか。次に渡すべきものが、まだ見えない。渡した後に何が起きるかではなく、渡した後にこの者が何を選ぶかが、見えない。

その者(18〜23歳)

火の番をしていた。

夜明け前、炎は低かった。燃やすものがなくなりかけていた。その者は周囲を這い、枯れ枝を集めた。膝が粉土で白くなった。集めた枝は細く、すぐ燃えた。

明るくなり始めてから、集団の中の何人かが起き出した。

その者は西の方へ歩いた。火の番は終わり、誰に頼まれたわけでもなく、ただ足が動いた。

亀裂のそばで足が止まった。

冷たいものが足首に触れた。下から来た。その者は膝をついて、亀裂の縁に指を置いた。

深い。

深いとは思わなかった。思う言葉を持たなかった。ただ、腹の下の方が重くなった。重くなって、その重さのまま、しばらくそこにいた。

遠くで旧人の声がした。低い、くぐもった声。一つではなかった。

その者は指を亀裂から離した。離す前に、少しだけ力を入れた。縁の土が崩れて、粉になって、下へ落ちた。落ちる音は聞こえなかった。

その者は立ち上がらなかった。

座ったまま、旧人の声の方を向いた。声は続いていた。近づいていた。

腹の下の重さが、胸の方へ上がってきた。

伝播:HERESY 人口:524
与えるものの観察:深さを感じた。言葉はない。重さだけが残った。
───
第296話

紀元前298,530年

第二の星

始まりの大地の北、草原が終わる場所で、空気が変わった。

変わり方は静かだった。獣が先に感じた。ある朝、草の中に横たわっていた。腹を上に向け、足を曲げたまま。翌日にはその隣に別の獣。その隣に、また別のもの。

集団の中で最初に倒れたのは子どもだった。熱が出た。体が震えた。三日で動かなくなった。次に老いた者。次に若い者。順番はなかった。選ばれ方に規則がなかった。

それが五年の間に、集団の輪郭を変えた。

焚火の周りに座る者の数が減った。一人消え、二人消え、隙間が埋まらなかった。生き残った者は、空いた場所を見た。見て、別の場所に座った。隙間から遠ざかるように。

遥か東、大きな水の向こう側では、別の群れが岩棚の下に住んでいた。彼らの間では熱は来なかった。干ばつが来た。水場が縮んだ。彼らは移動した。岩棚を捨て、水を求めて歩いた。歩いた先に、見知らぬ群れがいた。石が飛んだ。誰かが倒れた。誰かが逃げた。

始まりの大地では、旧人の群れが南へ降りてきていた。昨日より近い。一昨日より近い。

与えるもの

腐った肉の匂いがした。

風はなかった。匂いだけが、ある方向から濃くなった。西の岩陰から。

その者は鼻を押さえた。匂いの方向には行かなかった。

十五年。渡し続けた。この者が受け取る前に逃げることを、もう知っている。しかし匂いは残る。鼻の奥に残る。体が覚える。体が覚えたものは、眠っているあいだも消えない。

西の岩陰に何があるかは、わかった。腐った獣か、倒れた群れの仲間か。どちらでも同じことだ。渡したかったのは距離ではなく、鼻が知る前に足が止まる、その感覚の名前だった。

名前はない。この者に言葉はない。

それでも体の中に刻まれたものを、次に渡せるかもしれない。まだ渡すことがある。

その者(23〜28歳)

焚火が小さくなっていた。

薪を足す役目の者がいなくなったからだ。昨日まで隣に座っていた。熱を出して、震えて、動かなくなった。その者は体の大きな者で、薪を折るのが得意だった。

その者は焚火を見た。

薪を探しに行くか、このままにするか。立ち上がった。木を探した。乾いた枝を三本見つけた。火の前に戻った。折ろうとして、折り方がわからなかった。体の大きな者がやっていた折り方を、見ていたはずなのに。膝で折ろうとして、滑った。手で折ろうとして、力が足りなかった。

岩に叩きつけた。

枝が割れた。また叩きつけた。また割れた。細くなった木片を、火の中に入れた。炎が大きくなった。

腹が鳴った。

食べ物を探しに出た。草の縁を歩いた。途中で足が止まった。鼻が何かを捕まえた。腐った重い匂い。西の岩陰から来る。体が後退した。意識より先に、足が戻っていた。

戻りながら、自分が戻っていることに気づいた。

その感覚が、奇妙だった。怖かったのか。怖いという言葉はなかったが、体は怖がっていた。体と自分が、少しだけ別のものに思えた瞬間があった。

すぐに消えた。

腹がまた鳴った。別の方向に向かった。根を掘った。土の中に虫がいた。食べた。また根を掘った。

夕暮れに、北の稜線に影が動いた。旧人の群れだと、集団の古い者が低く唸った。子どもたちを引き寄せた。その者も引き寄せられた。火に近い場所に、みんなで固まった。

夜、その者は眠れなかった。

北の方角から、時々、音がした。石が転がる音か、足音か、区別できなかった。体が固くなっていた。目を閉じると、音が大きく聞こえた。

眠らないでいた。

夜明け前、古い者が起きた。その者と目が合った。古い者は何も言わなかった。ただ、焚火に薪を足した。

炎が揺れた。

伝播:HERESY 人口:434
与えるものの観察:体が先に知る。それだけは届いた。
───
第297話

紀元前298,525年

その者(28〜33歳)

火が低くなっていた。

薪を足すのが遅れた。いつもなら誰かが注意する。今は誰も見ていない。集団の半分が、北の方角に出たきり戻らなかった。残った者は散らばっている。眠っている者もいる。起きていても動かない者もいる。

その者は薪を折った。短くして、火の中心に押し込んだ。炎が少し上がった。

熱さが顔に当たった。

夜の底は冷たかった。草地の向こうから、旧人の集団が出す音が来ていた。唸り声ではない。何かを叩く音。岩か、木か。低く、等間隔で続いていた。

その者は音の方を向いた。

立ち上がらなかった。火から離れなかった。ただ、音の間隔を体で数えた。腹の中に入れるように。五回、十回。

音が止んだ。

しばらくしてから、その者の隣に老いた者が来て座った。膝が曲がりにくくなっている者で、集団の中で最も長く生きていた。その者と火を見た。何も言わなかった。言葉はない。でも、隣にいた。

夜が深くなった。

老いた者の呼吸が、ある時点から変わった。小さく、浅く。その者は気づいた。体の向きを変えた。老いた者の肩に触れた。

温かかった。

まだ温かかった。

でも呼吸はそこから先へ進まなかった。胸が上がらなくなった。その者は手を離さなかった。触れたまま、夜の音を聞いていた。旧人の叩く音は、もう聞こえなかった。

草が揺れた。風だった。

その者は老いた者の肩から手を離した。火の方に向き直った。薪がまた少なくなっていた。折った。押し込んだ。炎が上がった。

夜は続いた。

第二の星

始まりの大地。草原の北端。

五年の間に、この地で起きたことを並べると、それは連続した圧力のように見える。疫病が来た。獣が倒れた。空気が変わった。人は動いた。動いた先で、旧人と接触した。接触はまだ言葉を持たない。声でも身振りでも届かないことがある。距離を保つことだけが、今のところ機能している。

集団の数は減った。増えた時期もあった。しかし今は減っている。

旧人の集団は、この五年で北から南へ圧力をかけている。叩く音は夜に聞こえる。昼間は見える場所に立つことがある。こちらが動けば向こうも動く。戦いにはなっていない。しかしいつそうなるかは、誰にもわからない。

火を守っている者がいる。

集団が散らばりながらも、火の場所には戻ってくる。そこに人が集まる。火が落ちれば、集まりは消える。

老いた者が一人、夜の中で体の重さを手放した。誰かの手が触れていた。それだけのことが、静かに起きた。

草が揺れた。第二の星は、それを照らした。

与えるもの

叩く音が等間隔で続いていた。

その者の腹の中に、音の間隔が入っていくのを、温度の変化として感じた。息を吸うたびに、皮膚の温度がわずかに違った。数えているのだと思った。

数えているかもしれない。

それはまだ数ではない。しかし、何かを体に刻もうとしている。繰り返しを、外から内に移そうとしている。

老いた者の手放し方は、静かだった。その者は手を離さなかった。

次に渡すべきものが、少し変わった。

伝播:NOISE 人口:449
与えるものの観察:数えることの前夜を、体が先に知っていた
───
第298話

紀元前298,520年

第二の星

乾季の終わりに、雨が来なかった。

草原の縁が茶色く変わり始めたのは、暑い盛りを過ぎてからだった。それでも集団の者たちはまだ動かなかった。水場が遠くなっても、獣の通り道が変わっても、腰を上げることをしなかった。岩の庇の下に蓄えた干し肉がまだあった。地面の割れ目から滲む水をすすることができた。

しかし北から戻らない者たちのことを、誰も言葉にしなかった。

唸り声も出なかった。目が合うたびに逸らした。食べるときも、眠るときも、集団は以前より小さな塊になっていた。子どもたちが端に追いやられ、老いた者が真ん中で丸まった。それが何を意味するのか、誰も問わなかった。問う言葉がなかった。

旧人の痕跡が増えていた。

水場の泥に残る足跡は、集団の者よりひと回り大きかった。岩肌に擦れた跡があった。嗅いだことのない獣脂の匂いが風に乗ってきた夜があった。集団の中の力ある者たちが低い声で唸り合い、石を握った手を見せ合った。何かを決めようとしていた。

その緊張の中心にいたのは、力が強く背の高い男だった。集団が小さくなるにつれて、彼の動きが集団の動きになった。彼が向いた方向に全員が向いた。彼が唸れば、他の者も唸った。彼が岩を持てば、他の者も岩を持った。

その者を彼が見た。

ただ見た。それだけだった。しかし他の数人も、同じように見た。

水場の争いで旧人の一人を傷つけた夜の後、集団の緊張は別の方向に向かい始めた。外からの脅威が、内側への疑念に変わる。それはゆっくりとした動きだった。草原の縁が茶色くなるのと同じくらい、ゆっくりと。

その者は火の番をしていた。

炎が小さかった。薪を足せばよかった。それはわかっていた。しかし体が動かなかった。どこかから視線を感じていた。それが誰の視線なのか、その者には見当もつかなかった。

夜が来た。火が細くなった。誰も助けに来なかった。

与えるもの

風の向きが変わった。

水場のある方角から、乾いた空気が来た。その者の鼻孔が開いた一瞬、水の気配を感じた。そちらに行けば、視線から遠ざかることができた。

その者は動かなかった。

渡せたのかどうか、わからない。ただ、次に渡すべきものがあるとすれば、それは逃げ道ではなく、何かもっと早い段階で渡すべきだったものだ。始まりの記憶が重なる。届いたのは0回、そして今もまた——という問いを、まだ手放していない。

その者(33〜38歳)

視線がある。どこからかはわからない。

薪を持った。置いた。火に近づいた。遠ざかった。

腹が鳴った。食べていない。いつから食べていないか、わからなかった。

夜明け前、その者は岩の庇から少し外に出た。草の匂いがした。水の匂いは、しなかった。空が白み始めた時、後ろで足音がした。振り返った。

複数だった。

伝播:HERESY 人口:437
与えるものの観察:逃げ道を示したが、体が動かなかった。
───
第299話

紀元前298,515年

その者(38〜40歳)

水場は半日歩いた先にあった。

以前はそうではなかった。その者が子どもだった頃、水は岩の割れ目から湧いていた。膝をついて顔を近づけると、冷たい空気が頬に触れた。今は泥と石が詰まっている。

集団の者たちが移動を決めたのは、干し肉がなくなった日だった。

その者はついていった。他の者たちの後ろを。年嵩の者たちが前を歩き、子どもたちが真ん中にまとめられた。その者は子どもと大人の境目あたりを歩いた。38歳、40歳という数え方を誰も知らない。ただ、若い者より遅く歩き、年老いた者よりは速かった。

三日目の昼、集団の先頭がとまった。

唸り声が上がった。別の集団が丘の向こうにいた。背の高い者たち。肩幅の広い者たち。額の骨が張り出していた。

その者には彼らが敵かどうかわからなかった。ただ、集団全体が固まるのを感じた。肩が触れた。息が速くなった。

衝突は短かった。

その者は何が起きたか正確にはわからなかった。前の者たちが動き、石が飛び、叫び声が上がった。その者は岩のそばに立っていた。逃げることも前に進むこともしなかった。

夕暮れに、与えるものは注意を向けさせた。

風が変わった。右から左へ流れていた空気が、突然背後から吹いてきた。その者は振り返った。

丘の稜線に、別の者たちの影があった。

その者は声を上げた。短く、鋭く。集団の者たちが動いた。走った。その者も走った。

しかし間に合わなかった。

その者に、走ることができなかった。ではない。走った。走りながら、前の者たちに追いつかなかった。距離が開いた。足が重かった。これが年寄りになるということだと、言葉のない頭で感じていたかどうかはわからない。

背後で音がした。

その者は転んだのではなかった。何かに当たって、倒れた。地面が近づくのが見えた。

草の匂いがした。乾いた草の、薄い匂いが。

その者の手が土を掴んだ。指が曲がった。それだけだった。

集団は走り続けた。

その者は草の上にいた。夕暮れの光が横から差していた。遠くで唸り声が続いていた。次第に小さくなった。

その者の手が、ゆっくりと開いた。

第二の星

草原の北端、岩が連なる丘の陰で、子が生まれた。母親は地面に座ったまま動かず、周りの者たちが子を受け取った。子は声を上げた。その声は風に乗って少し遠くまで届き、すぐに消えた。乾いた風の中に、生まれた音が紛れた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:423
与えるものの観察:渡した風の向き。その者は振り返った。
───
第300話

紀元前298,510年

第二の星

大地の南、乾いた風が吹く。

草が短く、土が固い。獣の通り道が何本か走っている。水場は遠い。半日より、もう少し遠くなった。

その者の集団は十数人。昨年より少ない。子が二人生まれ、老いた者が一人いなくなり、若い男が一人、別の集団との押し合いで戻らなかった。

押し合い、という言葉はまだない。起きたことだけがある。

大地の北の端では、別の形の者たちが暮らしている。額が張り出し、首が太い。彼らも水を探している。彼らも子を抱いている。彼らも火を持っている。火の匂いは同じだ。

遠い岩場では、その火が夜に見える。

この星はどちらも照らす。どちらが先にいたかを問わない。岩は岩だ。草は草だ。風は区別しない。

南の平地では、獣の群れが移動を始めている。水の匂いを追って、西へ。集団の追い役たちも、それを知っている。知っている、という言葉はまだないが、足は向いている。

与えるもの

繋がった。

十二の繋がりがあった。全部、絶えた。

この者は十五か、二十か。わからない。この者自身も知らない。

乾いた草の匂いが残っている。以前、別の誰かに示したとき、その者は立ち尽くした。それだけだった。

今日、獣が西へ走った。その者の目が追った。

足元の石が、日差しを受けて白く光った。その石だけが、草の中で浮いて見えた。

その者は拾わなかった。

拾わなかったことに、何かあるか。わからない。しかし渡す。次に、また渡す。渡すと決めている。

その者(15〜20歳)

獣が走った。

その者も走った。

叫んだ。腕を振った。隣の男も叫んだ。獣の群れは右へ折れた。仕留める者たちが待っている方向ではなかった。

唸り声。足を踏み鳴らす音。やり直し。

陽が高くなった。汗が目に入った。何度か拭った。

水場は遠い。昨日も遠かった。一昨日も。

追いかけている間、石を踏んだ。白い石。硬かった。痛かった。

その者は止まらなかった。

夕方、仕留めた獣を引きずって戻った。大きくはなかった。集団が囲んで分けた。その者には端の肉が渡った。骨の近く。固い部分。

咀嚼した。飲み込んだ。

火の前で、膝を抱えた。

遠くに、別の火が見えた。岩の向こう。あの形の者たちの火だ。集団の中の一人が低く唸った。警戒の音。誰かが石を握った。

その者も握った。

しかし投げなかった。

あの火が動いていないことを、その者の目が確かめた。動いていなければ、今夜は来ない。来ない、という概念はないが、体が知っている。

石を置いた。

火を見た。自分たちの火を。

炎の端が揺れた。風が南から来た。草の匂いがした。昨年とは違う草の匂い。もっと乾いている。

その者はそれ以上考えなかった。考える、という行為の名前を持たないまま、目を開けて火を見ていた。

伝播:NOISE 人口:431
与えるものの観察:石は白かった。拾わなかった。次がある。
───
第301話

紀元前298,505年

その者(20〜25歳)

雨の匂いが変わった。

その者は気づいていた。土が柔らかくなり、草の根が地面の浅いところから引き抜けるようになった。足裏が沈む。踏むたびに水が滲む。

獣が増えた。

水辺に近い低い場所に、かつてなかった獣の道が幾本も刻まれていた。その者は三日前からそれを追っていた。集団の端にいる者として、追い立てる役が仕事だった。大きな声を出す。石を投げる。獣を一方向に向ける。それだけだ。仕留めるのは別の者たちだった。

草原の一角で、その日の追い込みは終わった。獣が倒れ、別の者たちが群がった。その者は少し離れた場所に立っていた。

その者は木の幹に手をついて、息を整えた。

ふと、斜面の上に目が向いた。

別の集団がいた。

草の影からこちらを見ていた。五人か、六人か。顔の形がわずかに異なった。眉の骨が厚く、肩幅が広かった。

その者は動かなかった。相手も動かなかった。

しばらくの間、互いに見ていた。

その者は声を上げなかった。なぜかわからなかった。上げるべき声が、喉の奥で止まった。代わりに、片手を上げた。何の意図もなかった。

斜面の者のひとりが、同じように片手を上げた。

それだけだった。集団は草の中に消え、その者の集団は倒れた獣の周りに集まった。その者も近づいた。肉の分配に加わった。口に含んだものは、ぬるくて、重かった。

夜になった。

火を囲む輪の中で、その者は黙って座っていた。上げた手のことを、誰にも伝えなかった。伝える言葉がなかった。しかし何かを抱えていた。石のように。体の内側に、置かれた石のような重さがあった。

二日後、集団の古い者たちが、その者を遠ざけた。

何が起きたかわからなかった。ただ、押された。草の外に。輪の外に。

その者は輪の外に立っていた。中の声が聞こえた。唸り、叩く音。その者の方を見る者はいなかった。

夜が来た。

その者は輪の外で眠れなかった。草が濡れていた。背中が冷えた。

第二の星

豊かな季節だった。

大地の南側を広く潤す雨が、十日にわたって降り続けた。固く締まっていた土が解け、水が低地に溜まった。草が伸び、実が膨らみ、獣が水を求めて動いた。命が重なる季節だった。

この大地に生きる者たちの集団は、その季節に数を増やした。子が生まれ、多くが育った。食が足りる年は、子が輪の中にとどまりやすい。幼い者が死なずに夏を越えた。集団は、かつてよりずいぶんと大きくなった。

そして、集団が大きくなるとき、輪の外が生まれる。

豊かさは等しく広がらない。内側にいる者と、縁にいる者が生まれる。この大地でも、遠い湿地の端でも、崖のふもとの集団でも、同じことが起きていた。輪を守ろうとする力と、輪の外に追われる者が、同時に生まれた。

別の骨格を持つ者たちとの接触が、あちこちで静かに起きていた。多くは無言のまま終わった。石を投げた者もいた。立ち去った者もいた。片手を上げた者もいた。

いずれも、誰かが見ていた記録には残らなかった。

夜の草原は広く、湿っていた。

与えるもの

手が上がるとき、私は何かを渡したのではない。

ただ、斜面の上の者たちが発した低い唸りが、耳ではなく皮膚に届くように響いた。その者はそれを聞いた。体で。

その者は上げた。私が上げさせたのではない。

この者はその後、輪の外に置かれた。私が渡したのはそれか。問いを渡したのか、裂け目を渡したのか、まだわからない。

ただ、草の中に消えた者たちの手が、まだ浮かんでいる。私の中で。渡した先が別にある気がして、次に何を向けるか、もう考えている。

伝播:HERESY 人口:532
与えるものの観察:手が上がった。誰の意志かまだわからない。
───
第302話

紀元前298,500年

第二の星

大地の割れ目が広がっていた。

乾季の終わりに地面が裂けることは珍しくない。しかしこの裂け方は違った。岩盤の下から、低い唸りのような振動が断続的に伝わってくる。草原の端、赤茶けた土が剥き出しになった斜面で、小さな崩落がいくつも起きていた。音は聞こえない。ただ、遠くの土塊が静かに落ちる。それだけだ。

南の方角から、別の集団が来ていた。

彼らは旧人とも交わりながら生きる者たちで、顔の骨格がわずかに異なり、歩き方が重心の低い独特の揺れ方をした。四人か五人の小さな群れ。子どもはいない。全員が成人で、全員が痩せていた。

水場をめぐる緊張は、すでに数週間続いていた。

こちらの集団は岩陰に潜み、向こうの集団は低い丘の上に立つ。どちらも動かない時間が長かった。叫び声が飛ぶことがある。唸り声が返ることがある。しかし近づきはしない。近づけば何かが起きることを、両方が知っている。

この星はそのすべてを照らしていた。

緊張の輪郭。空気が固まっている場所。水場の泥に残る両側の足跡。旧人の一頭が遠くから二つの集団を眺め、しばらくして森の奥に消えた。森は動かない。蝉の声が途切れる瞬間がある。その瞬間だけ、大地が息を止めているように見えた。

割れ目はゆっくりと、しかし着実に伸びていた。

斜面の上で、向こうの集団の一人が何か叫んだ。言葉ではない。音だ。怒りか、警告か、ただの声か。こちらの集団が応じた。同じではない音で。それが繰り返された。三回、四回。だんだん大きくなった。

そのとき風が変わった。

南から北へ吹いていた風が、突然止まった。止まったのではなく、向きを変えた。西から吹き込む乾いた風が、草の穂を一斉に揺らした。砂埃が舞い上がり、両方の集団の目に入った。誰もが顔を背けた。

しばらくの間、叫び声は止まった。

水場の水面が、風で波立っていた。向こうの一人が水面を見た。こちらの集団も水面を見た。波は同じように走っていた。両方に向かって。どちらから始まったかわからない波紋が、泥の色をした水の上を広がり、端で消えた。

両側の緊張が、少しだけ緩んだ。

叫び声は再開しなかった。向こうの集団が、ゆっくりと丘を下りた。近づきはしない。ただ、下りた。こちらの集団も、岩陰から出た。近づかない。ただ、出た。水場の端と端に、二つの集団が立った。

誰も動かない時間があった。

その間に、斜面の崩落がまた一つ起きた。音もなく、土の塊が落ちた。誰もそちらを見なかった。水面の波紋がまた広がり、また消えた。

この星は照らし続けた。良くも悪くもなく。何が起きているかを記録するように。あるいは記録することすら意図せず、ただ光を当て続けながら。

与えるもの

水面が揺れていた場所に、光が溜まった。

向こうの集団の足元にも、こちらの集団の足元にも、同じ光が落ちた。水の色が同じだった。その者の目に、光が入った。

受け取ったかどうか、わからない。ただ、その者はしばらく水面を見ていた。見ていたことが次に何かを生むかどうかも、わからない。しかし同じ光を、向こうの集団の一人も見ていた。それが何であるかを、次に渡すべきものとして、しばらく持ち続けることにした。

その者(25〜30歳)

岩陰から出た。

集団の中ほどに立った。前にも後ろにも、知った体が並んでいた。向こうの集団が見えた。痩せていた。自分たちより少なかった。

水面を見た。光が揺れていた。

向こうの誰かも、水面を見ていた。

その者は、腹が鳴った。それだけだった。

伝播:NOISE 人口:548
与えるものの観察:同じ光が二つの集団に落ちた。次を待つ。
───
第303話

紀元前298,495年

第二の星とその者(30〜35歳)

乾季が長くなっていた。

草が根から黄ばみ、水場は収縮し、泥の縁に獣の足跡だけが深く刻まれた。旧人たちの集団が東から移動していた。体格が大きく、毛が濃く、歩くと地面が鈍く鳴った。自分たちより少ない数だったが、恐れる理由になるには十分だった。

その者は走っていた。

叫び声を上げながら、草むらを抜けて獣の後ろに回り込む。それが仕事だった。追い立てること。追い詰めること。仕留めるのは別の者の役割で、その者は血を見る前に引き返す。岩を踏み、砂埃を吸い、足裏に小石が食い込む。息が切れる前に次の叫びを出す。

大地の割れ目は閉じていなかった。

地面の下で何かが動いている。岩盤の層が、見えないところで少しずつずれていく。その上を人間が歩き、眠り、子を産み、死ぬ。草原の端で新しい亀裂が一本、静かに伸びた。幅は指一本ぶん。深さはわからない。

その者の集団は移動しなかった。

集団の年長者が動かないと示した。両腕を下げ、足を踏みしめ、低い唸りで制した。新しい水場を探すより、知っている場所に留まる方が生き延びられると、その身体が知っていた。ただし旧人たちが来れば話は変わる。

その者は水場に近い岩影で干し肉を食べていた。

硬い。歯が痛む。それでも嚙む。唾液が少なく、喉に詰まりそうになる。水を飲む。水が温かった。容器の皮が日に当たっていたからだ。誰かが位置を変えていなかった。その者は皮袋を岩の影に移した。次の者のために。理由を考えたわけではない。ただそうした。

旧人の一人が水場に来た。

大きな体の雄だった。水を飲み、顔を上げ、その者の集団の方向を見た。目が合った。どちらも動かなかった。風が草を揺らした。雄は踵を返し、来た方向へ歩いた。

その者の心拍が収まるまで、しばらくかかった。

胸の中心あたりに何かが残った。恐れとは少し違う。危険が去った後でも消えないものだった。その者はそれを名付ける言葉を持たなかった。ただ、その感覚が消えると次に来るものへの準備が遅れることを、経験として知っていた。消えなくていい、と思ったかどうか。その者の内側は誰にもわからない。

五年が経つ間に、集団の形が変わった。

子が三人生まれた。一人は一季節で消えた。別の一人は這うようになった。老いた女が歩かなくなり、ある朝、周囲の者が彼女の体を動かそうとして、動かなくなっていることに気づいた。誰も声を上げなかった。一人が岩を持ってきて、その傍らに置いた。それだけだった。

その者は年長者の列に入り始めていた。

追い役の中で最も長く続けてきた者として、若い者の位置を決める役割を担うようになっていた。身振りで示す。ここに立て。向こうへ回れ。叫ぶな、まだだ。言葉はないが、それは命令だった。相手が従うかどうかは別として、その者の身体は命令を出す形を覚えていた。

緊張が積み重なっていた。

旧人の集団は水場の近くに留まり続けた。移動しない。去らない。両集団の間で、睨み合いが繰り返された。石が一度、投げられた。誰が投げたかは判然としなかった。当たらなかった。しかしその石は、何かを変えた。

その者は夜、眠れなかった。

地面が硬かった。あるいは別のものが理由だったかもしれない。起き上がって空を見た。星が多かった。星に意味を求めていたわけではない。ただ目が開いていたから、見えた。草むらで何かが動く音がした。獣の歩き方ではなかった。その者は音が止むまで待った。止んだ後、眠った。

その者が排除されたのは、朝だった。

水場に近いところで、旧人の子供と何かをやり取りしていた。石を差し出し、相手が触れ、また差し出した。それだけだった。それだけだったが、集団の中の誰かには違って見えた。

その日の夕方、その者は集団の外れに追いやられた。

叫び声と身振りで、境界線を示された。越えるな。こちらに来るな。その者が何をしたかではなく、何をしたように見えたかが、理由だった。

その者は境界の外で、火のない夜を過ごした。

夜は冷えた。岩を背に丸まった。腹が鳴った。水は持っていた。皮袋の、岩陰に移していたあの袋が、まだあった。水を飲んだ。温かかった。日中の熱がまだ残っていた。

三日後、その者は戻らなかった。

足跡が草原の方向に続いていた。旧人の集団がいる方向ではない。別の方角。誰も追わなかった。誰も名を呼ばなかった。その者の名を指す音を持つ者が、その集団にいなかったからかもしれない。

足跡は途中で途切れた。

崖の縁だった。乾季に風が吹き続けた場所。縁は脆く、足を乗せれば崩れる。崩れた跡があった。下は見えなかった。

与えるもの

石を一つ、光の中に置いた。

温度が変わるところ。日向から影に入る境目に、石がよく光る場所があった。その者が子供に差し出した石は、そこで拾ったものだった。熱を帯びていた。手に持つと、それがわかった。

その者は渡した。

それで、排除された。

渡したことが罰になった。
渡すことが何かを壊すなら、渡さない方が良かったのか。
渡さなければ何も壊れなかったのか。

壊れなかったのに、なかったのか。

次に渡すべきものを、まだ持っている。

伝播:HERESY 人口:526
与えるものの観察:渡したことが境界を壊した。壊れなければ何もなかった。
───
第304話

紀元前298,490年

その者(35〜39歳)

朝、起きた。

腹が鳴った。仲間の一人が干した肉の切れ端を差し出した。その者は受け取り、歯で噛み、飲み込んだ。

集団は動いていた。西の斜面を越え、低い谷へ下りていく。その者は端を歩いた。追い役の位置だ。獣が逃げる方向を塞ぐ。岩を踏む足の感覚は長年の仕事で染みついていた。

前方に水場があった。泥の縁に蹄の跡が複数。集団の年長者が唸り声で方向を示す。その者は右へ回り込んだ。

草が背まで伸びた場所だった。

風が東から吹いていた。獣の匂いがした。続いて、別の匂い。体臭の濃い、知らない匂い。その者は立ち止まった。

旧人だった。

一頭ではなかった。草の向こうに、複数の影が動いた。大きかった。肩の高さが違った。その者は後退しようとした。

足が石を踏んだ。音がした。

影が止まった。

その者は動かなかった。心臓が速く打つのがわかった。喉の奥に何かがつかえた。腕を横に広げ、集団に向けて低い唸りを出した。危険を知らせる音だ。

影が動いた。

駆けてくる音は聞こえなかった。ただ、重いものが来た。地面が揺れた。草が折れた。

その者は衝撃を腰で受けた。

横に飛んだ。岩があった。後頭部が当たった。

仰向けに落ちた。空が見えた。草の穂先が揺れていた。風だった。東からの風が、ずっと吹いていた。

それだけだった。

集団はしばらく動かなかった。年長者が近づき、その者の顔を見た。目を開けたままだった。年長者は何も言わなかった。

別の仲間が石を一つ、その者の胸の上に置いた。

集団は動き始めた。

第二の星

北の氷の縁で、厚い層が静かに滑っていた。音もなく、ゆっくりと。海に達するまでに百年かかる。南の乾いた台地では雨季が長くなり、草が膝まで伸び、獣が増えていた。どこかで火が燃え、どこかで子が生まれた。この星には区別がない。

与えるもの

この者が受け取ったかどうか、まだわからない。渡したのに。何度も渡したのに。——次の者へ、向かう。

伝播:DISTORTED 人口:684
与えるものの観察:渡した。届いたかどうかは、まだわからない。
───
第305話

紀元前298,485年

第二の星

雨が長く続いた。

五年のあいだ、この大地は乾かなかった。岩の割れ目から草が伸び、低地の窪みに水が溜まり続けた。獣の通り道は深く踏み固められ、どこへ向かっても足跡があった。

集団は膨らんだ。子が生まれ、その子がまた動き回るようになり、集まる声が増えた。かつて十数人で眠っていた洞窟に、今は入りきらない者たちが外で火を囲んだ。

別の丘に、別の群れがあった。顔立ちが少し異なる。骨格が厚い。しかし水辺で出会っても、どちらも逃げなかった。視線が合い、それからそれぞれが飲んだ。

大地の東側では草原が広がり、動物の群れが北へ移動していた。その踏み跡の幅は、一人の人間が歩ける幅の何十倍もあった。

食が満ちるとき、人は別の何かを欲した。それが何かは、どの集団もまだ知らなかった。

ただ、集まる者が増えるにつれ、目が鋭くなる場面があった。食ではなく、場所を巡って。水辺を巡って。あるいは何も巡らずに。

雨は今夜も降っている。

与えるもの

糸が繋がった。

この者は足跡を読む。獣の重さ、歩幅、いつ通ったか。地面を見るとき、この者の視野は細く、深い。

水たまりの縁に、別の足跡が残っていた。大きく、指が短く、爪が長い。

その縁に朝の光が落ちた。斜めに、足跡の形の通りに。

この者は光の当たっている場所を見た。次に東を見た。それから歩き始めた。

持つべき方向に、歩いた。それが合っているかどうかは、まだわからない。しかし渡した。草の穂先が風に揺れていたあの記憶のように、意図だけが先に届く。その後を、この者が埋める。

次に渡すべきものがある。しかし形がまだ定まらない。

その者(38〜43歳)

雨のにおいが地面から立ち上っていた。

泥の中に足跡があった。丸い、深い、爪の跡が四つ。つま先の向きが東を向いていた。昨夜のものだ。雨が降る前に付いた跡は、縁が崩れる。この跡の縁はまだ立っていた。

その者はしゃがんで、指で縁に触れた。

押してみると、少し崩れた。湿っている。

立ち上がり、東を見た。

草が揺れていた。風ではなく、何かが通った後のように。その者は鼻を上げ、息を吸った。獣のにおいはしない。土と水と、草が踏まれた青いにおいだけだった。

歩いた。

集団の中の若い者が後ろからついてきた。その者は振り返らなかった。足跡を読むときは目を上げない。

草の中に、また跡があった。今度は浅い。体重が軽くなっている。走り始めた場所だ。

その者は喉の奥で短い声を出した。

若い者が止まった。

その者は足跡の先、草が分かれている方向に手を向けた。低く、地面に沿うように。

若い者は見た。

うなずかなかった。しかし目が変わった。その者が見ているものを、見た。

それから二日後、集団の端で争いが起きた。水辺に近い場所を巡って、厚い骨格の群れとの間で押し合いがあった。誰も死ななかったが、若い男が石で腕を打たれ、そこが腫れた。

その者はその場にいなかった。

戻ってきたとき、腫れた腕を見た。指で触れようとして、男が引っ込めた。

その者は何も言わなかった。足跡を読む目で、腫れを見た。それだけだった。

伝播:DISTORTED 人口:889
与えるものの観察:光を足跡に落とした。東へ歩いた。
───
第306話

紀元前298,480年

第二の星

草が根を張り過ぎた。

窪みに溜まった水は澱み始め、虫の幼虫が膜を張った。獣道は踏み固められすぎて、表土が剥がれ、雨が降るたびに泥が流れた。大きくなった集団は、移動する距離を縮めた。かつては二日かけて歩いた水場まで、今は半日で届く。それだけ人が増えた。それだけ、土地が狭くなった。

岩棚の下に、別の集団が現れた。

背が低く、眉の骨が厚い。肌の色は近いが、声の質が違う。喉の奥から響く低音で鳴き、首を左右に傾けながら互いの目を見る。この大地で別々に動いていた二つの群れが、豊穣のうちに同じ場所へ引き寄せられた。

最初の数日は、距離があった。

岩棚の者たちは夜明けに動き、日暮れ前に戻る。この集団は昼に動く。重なる時間が短く、互いを遠くから見るだけだった。子供が先に近づいた。好奇心か、恐れのなさか、小さな者が岩棚の縁まで行き、向こうの子供と向かい合って立った。どちらも動かなかった。やがて岩棚の子が、手の平を開いた。何も持っていないことを見せるように。

それを大人たちが遠くから見ていた。

緊張は解けなかった。ただ、その日は誰も傷つかなかった。

翌日、岩棚の集団が獣の脚を持ってきた。生で、まだ重かった。地面に置いて、下がった。この集団の者がそれを見た。誰も動かなかった。しかし日が傾いても肉は持ち去られなかったので、やがて一人が近づき、拾い上げた。

その夜、火の周りが少し広がった。

翌朝、岩棚の集団はいなかった。

だが痕跡は残った。踏まれた草の向き、炭の欠片、小さな爪の形をした石が二つ、並べられていた。意図があったのかどうか。この大地はそれを記録しない。風が吹けば草が元に戻り、炭は散り、石は転がる。

しかし集団の中に記憶を持つ者がいた。

岩棚の方向を指さす者、低音を真似て喉を鳴らす者、拒む唸りを上げる者。見た者の数だけ、別の反応があった。共存の芽とも、衝突の火種とも、まだどちらとも言えない。

この大地は乾かなかった。草は伸び続けた。

しかし何かが変わり始めていた。土地が豊かなまま、人が増え、別の人が現れた。それだけで、世界の形は違ってくる。

与えるもの

この者の足が止まった場所に、温度が落ちた。

岩棚の方向から風が来ていた。その者の皮膚に、先に触れた。

渡したのは方向ではなく、気づく順番だ。風より先に獣の息を嗅いでいた者が、今日は風より先に人の匂いを嗅いだ。その者は頭を上げた。岩棚を見た。

それが新しいのかどうか。まだわからない。渡せるのはいつも、気づく前の一瞬だけだ。その先をどうするかは、この者が持つものでも、渡せるものでもない。次に渡すなら、距離の測り方だろうか。あの低音が、どれほどの意味を持って喉から出てくるかを。

その者(43〜48歳)

岩棚を見た。

足跡があった。自分たちのものではなかった。深さが違う。歩幅が違う。この者は膝をついて足跡の縁を指で押した。土の締まり方から、通った時刻を読んだ。

夜明け前。

立ち上がり、集団の方を向いた。声を出さなかった。足で地面を踏み、岩棚の方向に向かって顎を上げた。それだけだった。

その夜、この者はいつもより火から離れた場所で横になった。岩棚の方を向いて。

伝播:HERESY 人口:851
与えるものの観察:渡した。届いた。それだけで十分かどうか。
───
第307話

紀元前298,475年

第二の星とその者(48〜53歳)

草の根が土を縫うように広がり、窪みの水が重くなっていた年の翌年、雨が変わった。

短く降り、すぐに止まる。雲が来ても、渇いた地に吸われて消える。川床が白い石を見せ始め、魚が深みに退いた。獣の足跡は水場に集中し、土は黒く踏み荒らされた。集団が大きくなったぶんだけ、渇きも重くなる。

その者は川を溯った。

他の者は近い水場に留まる。しかしその者は足跡を読む。蹄の跡が細くなる方向、糞が乾く速さ、羽虫の群れが上がる場所。三日歩いた先で、岩から水が滲む場所を見つけた。一人で来て、一人で戻った。声を出さなかった。戻ってから、足で地面を踏み、腕を北に向け、それだけで伝えた。

翌朝、集団は動いた。

しかし動いた先で、別の集団と鉢合わせた。

彼らは身が大きく、眉の骨が厚かった。旧い種の者たちだ。川の上流で干し肉を作り、石を割り、幼い者を数人連れていた。どちらも動かなかった。互いに声を低く出し、目を逸らさなかった。子を持つ母が後ろに退き、腕の中の子を抱え直した。

その者は前に出た。

足跡を読む者が、境界に立つことは珍しくない。何を踏んできたか、体に刻まれている。その者は相手の足を見た。踵の厚さ、指の広がり、爪の色。旧い種の長は、その者の目を見た。長い時間だった。声もなく、身振りもなく、ただ立っていた。

やがて旧い種の長が、干し肉を一片だけ、地面に置いた。

その者は何も置かなかった。しかし退かなかった。その場に留まり、肉を踏まなかった。それだけだった。旧い種の集団は川に沿って下り、消えた。

集団の中に、それを見ていた者がいた。

若い者たちの何人かが、その者を見る目が変わり始めた。足跡を読む力は知っていた。しかし今は違う何かを見ている。旧い種と立ち合い、退かなかった。声を使わなかった。それが何であるか、誰も言葉を持たない。しかし目が追う。

それが、危うさの始まりだった。

集団の大きさは力だが、力は分裂する。物を多く持つ者が現れ、岩陰の良い場所を先に取るようになった。獣を最初に獲った者が内臓を独り占めにし、分けなかった。声が荒くなり、子供を叩く音が夜に聞こえるようになった。

その者は関係しなかった。

ただ、出かけた。毎朝早く、誰より先に草の中に入り、足跡を読み、戻ってきた。その者がいる日は獲物の方角がわかった。その者がいない日、若い者たちは空振りが多かった。それは知識ではなく、依存だ。

ある夜、その者が戻ると、眠る場所が変わっていた。

岩陰の端、風が通る側に移されていた。道具が動かされていた。誰もこちらを見ない。しかしその者は動じなかった。新しい場所に座り、道具を並べ、眠った。

それが三度続いた。

四度目の夜、その者が川から戻ると、火から遠い場所に肉がなかった。与えられなかった、ということだ。

その者は座った。岩を拾った。火の方向を見た。

夜、風が北から吹いた。

その者の鼻に、何かが届いた。腐りかけた獣皮の匂いではない。乾いた砂の匂いでもない。はるか上流の、濡れた苔の、冷たい匂いだ。どこかに水がある。近い場所ではない。しかし確かにある。

その者は立ち上がった。暗い中で方角を確かめ、また座った。

翌朝、その者は動いた。集団の方向ではなく、北に向かった。一人だった。道具は全て持って行った。

与えるもの

北から風を送った。

冷たい苔の匂いを乗せた。その者の鼻が、わずかに上を向いた。受け取ったかどうか、確かめる方法がない。しかしその者は立ち、翌朝、北に歩いた。

これが渡したかったものだったか。

わからない。追われることを避けさせたかったのか、水を見つけさせたかったのか、ただ生きさせたかったのか。しかし問い方が間違っているかもしれない。渡すことと、何のために渡すかは、別の話だ。

次に渡すものは、北の先にある。

伝播:HERESY 人口:809
与えるものの観察:退かなかった者が、静かに追い出された。
───
第308話

紀元前298,470年

その者(53〜58歳)

足が止まった。

乾いた草の中に、窪みがある。獣の蹄が土を押した跡。前日のものではない。二日前か、三日前か。縁が崩れ、底に風が運んだ埃が積もっていた。

その者は膝をついた。指で縁に触れる。崩れ方の角度。雨がなければ、こうはならない。雨があれば、もっと固まる。どこかの途中だ。

立ち上がり、足跡の向きを読む。北東。そちらに水場があるはずだった。しかし水場は今、魚が退いて底が見えている。獣もそれを知っているはずだ。では、なぜ北東に向かった。

その者は立ったまま、風の向きを確かめた。

東から来ている。そこに何かある。

集団が後ろにいる。子供を連れた雌が三頭、老いた雄が二頭、若い個体が四頭。昨日から水を飲んでいない。その者も同じだ。

歩く。足跡の外側を踏まないように、自分の体重を分散させながら歩く。土が何を覚えているか、踏み荒らしてはいけない。

岩が増える。草が低くなる。

その者は岩の陰に屈んで、先を見た。

浅い窪地がある。岩の割れ目から、細い筋が染み出していた。獣が一頭、そこに鼻を押しつけている。水が、ある。

その者は振り返った。声を出さない。腕を動かす。来い、という形に。

集団が動く。子を抱えた者が先に来て、岩の間に膝をつき、手で水を掬う。掬えるほどはない。舌で岩を舐める。それでいい。それで今日は生きられる。

その者は最後に飲んだ。

岩の冷たさが舌に残った。水の量は少ない。しかし明日もここに来れば、また染み出している。岩が覚えているのだ。土が乾いても、岩の奥は違う。

夕方、集団が眠りにつく前に、その者は地面に指で線を引いた。東の方向に、長い線。短い線を三本、横に引く。岩の場所。水の場所。

誰も見ていなかった。

その者は線を見たまま、少し考えた。それから手で砂をかぶせた。消えた。

第二の星

集団の数はわずかに増えた。生まれた数が死んだ数をわずかに上回った年が続いた。しかしその差は脆い。一つの水場が消えれば、逆転する。

川床が白い石を見せている。雨は来ても浅く、渇いた地がすぐに吸う。しかし岩盤の深いところに水は残っている。それを知っている者と、知らない者で、生存の差が出始めていた。

北の斜面に、別の集団がいる。こちらよりも数が少なく、子供が多い。彼らも水を探している。同じ方向に向かっている。

まだ出会っていない。

東の台地では、獣が群れを変えた。例年より南に下りてきている。草が薄くなったからではなく、水の位置が変わったからだ。獣は水を知っている。その者が読んだ跡は、その動きの端だった。

始まりの大地の中央、岩が多く草が薄い地帯に、今年初めて霜が降りた。まだ冬ではない。早すぎる冷えだ。翌朝には消えたが、草の先が枯れた。

地面に引かれた線は、砂に消えた。

与えるもの

岩の割れ目から光が落ちていた。
その者はそこに舌を当てた。
渡せた、とは言えない。しかしあの者の指は、水の方向を知っている。

伝播:NOISE 人口:818
与えるものの観察:岩が水を覚えている。その者も覚えた。
───
第309話

紀元前298,465年

その者(58〜63歳)

草が低くなる場所で、立ち止まった。

風が腹の方から来ている。獣の気配ではない。何か別のものだ。煙だ。遠い、薄い煙。

この者は鼻を上げた。目を閉じた。

煙の中に、脂が混じっている。獣の脂を焼いた匂いだ。しかしここから誰かが火を起こしたわけではない。どこか遠い場所で、誰かが火を持っている。

足跡を確かめた。土が固い。乾いている。しかし昨日の雨が踏み固めた後がある。誰かがここを歩いた。蹄ではない。踵の丸みがある。二足だ。

この者の集団の者ではない。歩幅が違う。踏み方も違う。

喉の奥で低い声が出た。

跡は東へ向かっている。尾根の向こうへ。

この者はしゃがんだ。跡の縁を指の腹で撫でた。土のほつれ方が、半日前か一日前を示している。急いでいた。重かった。荷を持っていた。

立ち上がった。動かなかった。

集団の中に戻るべきか。それとも跡を追うか。

空が白んでいる。西から雲が来ている。雨になれば跡は消える。

足が東へ動いた。

尾根を越えると、谷が開けた。

谷の奥に火があった。火の周りに、影が動いている。丸い背中。子どもの影もある。

この者は低く伏せた。草に手をついた。土の匂いと、枯れた茎の乾いた感触。

向こうの影たちは気づいていない。

火の前に、大きな者が立った。背が高い。頭の形がこの者たちと少し違う。額が前に張り出している。

旧い者たちだ。この谷に住んでいたのか、それとも流れてきたのか。

子どもが一人、火から離れた。草の中に入ってきた。

子どもはこの者の方向へ来ている。

この者は動かなかった。息を止めた。

子どもは止まった。

こちらを見ている。目が合った。

子どもは声を上げなかった。

この者も声を上げなかった。

子どもは三歩後ろへ退いた。向こうの大きな者が唸り声を上げた。子どもが振り返って走った。

火の前の影たちが一斉に立ち上がった。

この者は身を低くしたまま、来た道を戻り始めた。走らなかった。走れば音が出る。

草の中を、獣のように這った。

尾根を越えた。

谷の向こうから、追ってくる足音はなかった。

この者は立ち上がった。体の震えが、足の先まであった。

第二の星

大地の東に、緑が厚い。

この五年で集団は膨らんだ。数えきれないほどになった。食料が豊かなうちに子が増え、増えた口を養うために遠くまで足を伸ばす者が出た。縄張りが広がった。かつては誰も踏まなかった尾根の向こうに、今は足跡がある。

東の谷に、古い種族がいる。額が張り出し、骨が太く、声が低い。彼らはこの地に長くいた。大地の豊かさを、彼らも知っていた。

接触がある。

谷で出会う。水場で出会う。崖の下で出会う。どちらも声を上げる。どちらも退く。しかし退きながら、相手を見る。火を持っているかを見る。子どもがいるかを見る。数を数える。

膨らんだ集団も、古い種族の群れも、同じ水を飲んでいる。

そして北では、早い雲が来ている。去年より雨の量が変わった。草の根が浅くなっている。獣の移動路が変わり始めている。

豊かさの中に、何かが軋み始めている。

与えるもの

煙の匂いが来た方向へ、温度をわずかに上げた。

この者は鼻を上げた。谷の方へ足を向けた。

それで充分だったのか、それとも多すぎたのか。まだわからない。

見たことが何になるかは、この者が戻った後で決まる。渡すべきものは、次の問いだったかもしれない。

伝播:HERESY 人口:787
与えるものの観察:見た。退いた。それが知ることの始まりかもしれない。
───
第310話

紀元前298,460年

その者(63〜64歳)

煙の出所を見つけたとき、脚がもう言うことを聞かなかった。

草の縁に膝をついた。土が冷たかった。煙は遠い丘の向こうで細く立ち、風が来るたびに消え、また立った。別の集団の火だと、腹でわかった。匂いが違う。焦げ方が違う。

立ち上がろうとして、立てなかった。

仲間の若い男が三人いた。その者は地面に手をついたまま、顎で丘の方向を示した。男たちは煙を見た。見てから、その者を見た。

その者は地面を叩いた。一度。二度。

男たちは行かなかった。

その者の指が足跡の輪郭をなぞった。踵の深さ、爪先の向き、歩幅。それだけで集団の規模と方向と速さが読めた。ずっとそうやって伝えてきた。今もそうしようとしたが、指が途中で止まった。

男たちは見ていた。

その者は土に手を置いたまま、煙の方を向いた。顔だけ向けた。脚はもう使えなかった。目が細くなった。細くなったまま、何かを数えるように動いた。

煙が風に消えた。

男たちの一人が肩に手を置いた。その者は振り払わなかった。

夜、岩の陰に横になった。腹の下に草を敷いた。誰かが皮を掛けた。その者は受け取った。目は空を向いていた。星が出ていた。星を数えているわけではなかった。ただ見ていた。

夜中に一度、体が大きく震えた。

それから動かなかった。

朝、若い男が足跡を見た。その者が残した最後の跡を、しゃがんで長い時間見た。

第二の星

南の平地で、子どもが二人、水場の縁で転んだ。泥まみれで笑っていた。丘の向こうでは旧人の一群が獣の骨を割り、髄を吸っていた。煙が三か所から上がっていた。空は雲がなく、風は東から来ていた。世界はそれだけのことをしていた。

与えるもの

糸は、若い男の手の中へ向かった。男はまだ、自分の指がなぞった足跡の意味を知らない。

伝播:HERESY 人口:758
与えるものの観察:渡した。受け取られたかどうかは、まだ先にある。
───
第311話

紀元前298,455年

第二の星

大地の上に、熱が溜まっていた。

乾いた季節と湿った季節が交互に来て、獣も草も人も、その繰り返しに慣れていた。しかし今回は違った。熱は見えなかった。匂いもしなかった。ただ、体の内側から何かが崩れた。

一人が横になった。翌朝、起き上がらなかった。
別の一人が、水場で膝を折った。
子が泣きやんだのは、泣く力がなくなったからだった。

倒れた者の腹は固く張っていた。目は乾いていた。唇が割れた。

集団は静かにならなかった。泣く声、唸る声、名も呼べない誰かを呼ぶ声。それが続き、やがて静かになった。静かになったのは、声を出す者が減ったからだった。

遠い場所では、潮が引いた岩礁の上に、見たことのない形の貝が打ち上げられていた。別の大地では、乾いた川床に動物の骨が散らばり、水を運ぶ者が誰もいなくなった穴の傍に、風だけが通っていた。何かが終わり、何かが続いていた。

始まりの大地では、集団の五人に一人以上が動かなくなった。

与えるもの

糸が繋がった。

この者は生きている。

草の根の匂いが、傷んだ肉の匂いとは違うことを、体に沁みこませようとした。腐ったものの傍で鼻が曲がりそうになる時、風の向きが変わり、乾いた砂地の匂いがその者の顔に当たった。

この者は顔を上げた。風の向こうを見た。それから、倒れた者の傍に戻った。

渡せなかったとは思わない。ただ、何を渡したのかが、まだわからない。遠ざかることを教えたのか、留まることを教えたのか。次に渡すべきは、戻る道ではなく、戻る理由かもしれない。

その者(43〜48歳)

仲間が倒れ始めたのは、果実の季節が終わってすぐだった。

この者は最初、眠っているのだと思った。揺すっても目が開かなかった。腹が石のように固かった。

翌日、また一人。
その翌日、また一人。

子どもが二人、立て続けに冷たくなった。母親が声を上げた。その声は長く続いたが、やがて別の声になり、やがて声でなくなった。

この者は水を汲みに行った。集団に戻ると、また一人が横になっていた。

何が起きているのか、この者に言葉はなかった。腹の中に何か重いものが居座っていた。喉が乾くのに、水を飲む気にならなかった。

傷んだ肉を食べたのかと、指でいくつかの食い物を確かめた。匂いを嗅いだ。腐った実を一つ、遠くへ投げた。それだけした。

夜、風が変わった。砂の匂いがした。

この者は顔を上げて、暗い空を見た。何があるわけでもなかった。ただ、その方向に乾いた場所があることを、皮膚が知っていた。

倒れた者たちの傍から離れなかった。離れる理由がなかった。

朝になると、また一人、胸が動かなくなっていた。

この者は岩を拾った。置いた。また拾った。そのまま握ったまま、しばらく座っていた。岩は冷たかった。

伝播:SILENCE 人口:598
与えるものの観察:戻る理由を、まだ渡せていない
───
第312話

紀元前298,450年

第二の星とその者(48〜53歳)

川の水位が上がった年があった。

草原の縁が水に沈み、獣の通り道が変わった。集団は移動した。荷を背負い、子を抱え、老いた者の腕を引いて。乾いた丘の上に新しい野営地ができた。火を囲む人数が増えていた。豊かさの匂いが、煙に混じった。

その者は先を歩いた。

足の裏が地面を読んでいた。どこが固くてどこが沈むか。どこを踏めばいいか。踏んではいけないか。膝の感覚が、砂と岩の境目を知っていた。

別の集団の足跡があった。

新しい足跡ではなかった。雨に縁が崩れていた。だが火の跡もあった。獣の骨が散らばっていた。その者はしゃがみ、骨を拾い、鼻に近づけた。匂いを嗅いだ。置いた。また拾った。

川下には別の集団がいた。

こちらより小さかった。だが水場を知っていた。魚の捕り方が違った。石を並べて水の流れを細くし、そこに手を入れた。この集団には、その技がなかった。両者は距離を置いて互いを見た。近づかなかった。離れなかった。

その者は両者の間を往来した。

立場があったからではない。誰もそこに行きたがらなかったからだ。その者は足跡を追うことができた。戻ることができた。それだけで、間を歩く者になった。

三年目に、子どもが消えた。

この集団の子どもではない。川下の集団の子どもだ。岩の下に隠れていた。その者が見つけた。子どもは震えていた。傷はなかった。だが声が出なかった。

その者は子どもを抱きあげなかった。

地面に座った。子どもの正面に。同じ高さに目線を置いた。食べ物を出して、自分で食べた。少し残して、前に置いた。子どもは見た。やがて手を伸ばした。

川下の集団がやってきた。

子どもを見て、声を上げた。その者に向かって声を上げた。その者は動かなかった。子どもは走って戻った。川下の者たちはその者を見た。その者は立ち上がり、向こうへ歩いた。集団の方へ。

しかし集団の中に、それを好まない者がいた。

体の大きな者だった。顎が張り、眉が厚かった。その者が戻るたびに、その大きな者は声を立てた。低く、長く。他の者たちはその声を聞いた。

五年目の秋、霧が深い朝があった。

川が白く消えた。対岸が見えなかった。その者は水場に向かっていた。霧の中を一人で歩いていた。

岩の匂いが変わった。

湿った土の下に、何か別の匂いがあった。腐ったものではない。生き物の匂いでも、植物の匂いでもなかった。その者は立ち止まった。足元を見た。

草の間に、赤い土が筋を引いていた。

昨日はなかった。雨でもなかった。その者は膝をついた。指で触れた。指に色がついた。草を押しのけた。岩の割れ目から、鉄錆に似た水が染み出していた。量は少なかった。だが確かにそこにあった。

その者は立ち上がった。

集団の方向へ向きかけた。

後ろから、音がした。

岩を踏む音ではなかった。草を分ける音でもなかった。空気が動く音だった。その者は振り返った。

霧の中に形があった。

人の形だった。大きかった。眉の厚い者だった。その者は一歩引いた。岩の縁があった。足が縁を探った。

足が縁から外れた。

落ちた。

霧が白く、落ちる間も白かった。岩が体を受け止めた。大きな音は、霧の中に吸い込まれた。

川の水位は、その冬も上がり続けた。

川下の集団は、翌春には姿を消していた。どこへ行ったかを知る者はいなかった。子どもが手を伸ばした場所に、その者が座っていた跡はもう残っていなかった。

与えるもの

赤い水が染み出す場所に、温度を落とした。

その者は指で触れた。色が指についた。立ち上がりかけた。

間に合わなかった。

渡せなかった、ではない。渡した。その者は触れた。色を見た。知ろうとした。それは確かにあった。

ならばこの赤は、誰かの指に渡ったことになるのか。それとも霧の中に消えたのか。

次に渡すべきものは、また別の誰かの前に落とさなければならない。この色を見た目が、どこかで続いているかどうか、まだわからない。

伝播:HERESY 人口:575
与えるものの観察:渡した。触れた。だが足が縁を失った。