2033年、人類の旅

「紀元前298,445年〜紀元前298,325年」第313話〜第336話

Day 14 — 2026/04/17

読了時間 約57分

第313話

紀元前298,445年

その者(53〜58歳)

丘の斜面を、跪いて嗅いだ。

土が湿っている。昨夜の雨ではない。もっと深いところから来ている。岩の割れ目から染み出す水のにおい、あの冷たさ。舌より先に鼻が思い出す。

立ち上がって、斜面を下りた。

夏が来て、集団は大きくなっていた。腹の大きな女が三人いた。男たちは肩を張って歩き、縄張りを意識した声を出した。食物は余っていたが、余るほど争いの種になった。誰がどこで眠るか。誰がどの女の近くにいるか。それだけのことで唸り声が上がり、石が飛んだ。

その者はそういう争いから離れていた。

足の裏で地面を読む。草の倒れ方、糞の新しさ、踏み跡の深さ。獲物の通り道は移動のたびに変わる。新しい野営地に来て、その者はまだ地形を覚え切れていなかった。北の稜線、東の崖、南の茂み。体に刻まれた地図を作り直している最中だった。

斜面を下り切ったところに、岩が集まっていた。

苔が厚い。水が長くそこにあった証拠だ。その者は岩と岩の隙間に手を入れた。冷たかった。指先が濡れた。

水場を見つけたのだ。

集団に戻る前に、その者はしばらくそこにいた。冷たさが手首まで上がってくる。飲んだ。額をつけた。岩が頬を押し返した。

夕方、野営地で争いがあった。

二人の男が取っ組み合った。長く続いた豊穣が二人を膨らませていた。食物でも女でもなく、もはや理由もなかった。ただ互いの存在が耐えられなかった。

その者は離れたところから見ていた。

一人が倒れた。立ち上がれなかった。頭を岩で打ったのだ。仲間が引き寄せた。痙攣した。夜の間に止まった。

朝、穴を掘った。

その者も掘った。土が固かった。爪に黒いものが詰まった。

埋めた。押さえた。立った。

その者は水場の方角を振り返った。北東の稜線の向こう。覚えた。体の中に刻んだ。あそこに水がある。何があっても、あそこに行けば水がある。

それだけのことを、胸の奥でもう一度、繰り返した。

第二の星

丘の上の野営地で、煙が上がっている。

乾いた高台は水から遠いが、川の増水は届かない。集団はそこで日を重ねた。腹の大きな女たちが次々に産んだ。半数は声を上げずに終わったが、残りは泣き続けた。その声が丘の下まで届いた夜があった。

大地はこの季節、草を盛り上げた。根を張り、実をつけ、虫を呼んだ。獣が草を食み、草を食む獣を別の獣が待った。連鎖は静かに動いていた。

ただ、集団の中では別の動きがあった。

人が増えると、音が増えた。声が重なり、空間が狭くなった。誰かが誰かの前に立つだけで、空気が変わった。この緊張は草原の縁で起きる獣同士の緊張と形が似ていた。縄張りがあり、優位がある。しかし獣は決着がつけば次へ進む。この集団のそれは、夜になっても続いた。

岩で打たれた男は土の下に入った。

その夜、星がひとつ流れた。誰も見ていなかった。

東の台地では別の集団が同じ夜を過ごしていた。火を囲み、子をあやし、眠れない者が空を見ていた。距離は遠く、声は届かなかった。しかし彼らも水場を探していた。その夜も、水場を。

与えるもの

岩の隙間に光を落とした。

冷たさが指先まで届いた。その者は飲んだ。

飲んだ。それだけか。しかし、あの冷たさを体が覚えた。あの方角を体が覚えた。次に渡すなら、渡す先を変えてみるべきか。それとも、覚えることそのものが、すでに何かを変えているのか。

伝播:NOISE 人口:581
与えるものの観察:冷たさを体が覚えた。方角が刻まれた。
───
第314話

紀元前298,440年

第二の星

乾期が終わりに近づいていた。

空の色が変わっていた。重く、黄みがかった白。風が南から来て、草を一方向に押し倒す。川沿いの低地では水が増し始め、岸の土がやわらかく崩れる。魚が浅瀬に集まり、腹を見せて泳いでいた。

豊かさが、重さになっていた。

集団は二つの区域に分かれて眠る。岩壁の側と、開けた草地の側。もともとは同じ火を囲んでいた。いつからか、二つの火になった。誰も決めていない。気づいたときには、そうなっていた。

岩壁の側の者たちは、水場に近い。草地の側は、獲物の通り道に近い。どちらも必要なものを持っている。だから、どちらも譲らない。

昨夜、草地の側の若い男が、岩壁の側の食料の貯蔵場所に近づいた。追い払われた。唸り声と、短い組み合い。血は出なかった。しかし誰もが、その後しばらく黙っていた。

沈黙は、言葉より長く続く。

旧人の群れが、二日前から川の上流に現れていた。背が低く、肩が丸い。彼らは川の向こう側を歩いていた。こちら側を見ていた。しかし渡ってこなかった。渡ってくる理由もなかった。水が豊かで、両岸に食べるものがある。争う必要がない。

しかしこちら側の者たちは、彼らを見るたびに、声のない緊張を体に走らせた。肩が上がった。目が細くなった。

それが、何かの始まりなのか終わりなのか、この星には分からない。

この星は南の平原も照らしていた。そこでは別の集団が眠っていた。まだ目覚めていない。争いも緊張も、まだそこには届いていない。草が揺れて、子が泣いて、誰かが火に枝を足した。それだけだった。

与えるもの

腐りかけの果実が、草の中に落ちていた。

甘い発酵の匂いが漂ってきた。風がその方向から来て、その者の顔にそれを届けた。

その者は立ち止まった。匂いを嗅いだ。しかし別の方向へ歩いていった。

———渡した。届いたかどうかはわからない。しかし次は、腐ったものの隣に生きているものがあることを示そうと思っている。それが使えるかどうかも、わからないままだが。

その者(58〜63歳)

川を渡った跡を見つけた。泥の上に足跡。大きい。丸い踵。

しゃがみこんで、縁に指を当てた。崩れた。新しい。

立ち上がり、川の向こうを見た。旧人たちの姿はなかった。声も、においも、ない。

戻ることにした。岩壁の側の火が、夕方の煙を上げていた。草地の側の火はまだ見えなかった。

伝播:HERESY 人口:561
与えるものの観察:腐った匂いを渡した。次は、その隣を示す。
───
第315話

紀元前298,435年

その者(63〜68歳)

雨が来ていた。

まだ音はない。しかし土の匂いが変わっていた。乾いたものが内側から湿り始めるあの匂い。その者は鼻を上げて、その匂いを吸いこんだ。

足が遅くなっていた。去年の秋から、右の膝が朝にうまく動かなかった。歩くうちに温まって、昼には問題なくなる。しかし今年の夏は、温まるまでの時間が長くなっていた。

集団は川の上流に移っていた。水が増すのを前に、岸を離れた。子どもたちが走り回っていた。若い者たちが獣の皮を引き伸ばして乾かしていた。その者はその端に座って、何もしなかった。

座っていることが多くなった。

かつては夜明けに起きて、水場まで単独で歩いた。獣の足跡を読んだ。泥の深さで重さを測った。戻って、唸り声と身振りで方向を伝えた。仲間が動き、肉が戻った。そういう日が長く続いた。

今は若い者たちが行く。

その者は彼らが出かけるのを見送って、また座った。

三日目の朝、起き上がれなかった。

膝ではなかった。体の中心から力が抜けていた。仲間の女が水を持ってきた。その者は受け取った。飲んだ。うまかった。

空を見た。雲が厚く、光が白く拡散していた。

川の音が聞こえた。増水している。水の音が低くなって、流れが増えるとこういう音になる。その者はそれを知っていた。誰かに教えたことはなかった。ただ知っていた。

子どもが一人、近づいてきてまた離れた。

その者は目を閉じなかった。空を見たまま、ゆっくりと呼吸が浅くなった。川の音が大きくなった。あるいは他の音が消えた。

右手が草の上にあった。草は湿っていた。指が少し動いて、止まった。

第二の星

川の東側で、二つの集団が同じ水場に近づいていた。先に着いた者たちが唸り声を上げ、後から来た者たちが立ち止まった。睨み合いは長く続いた。どちらも動かなかった。やがて雨が落ちてきて、双方が散った。水場には誰もいなくなった。水だけが増え続けた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:SILENCE 人口:576
与えるものの観察:渡し続けて届かなかった記憶が、また積まれた
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第316話

紀元前298,430年

第二の星とその者(2〜7歳)

雨が来ていた。

大地の皮が水を吸い、川が膨らんだ。低地に群れていた獣が丘へ移り、集団はそれを追った。追いながら、子を背負い、老いた者の腕を引いた。この季節、移動しない者は沈む。

その者は背中にいた。

揺れる背中の温もりと、雨の匂い。鼻に水が入った。くしゃみをした。抱いている者が振り返らずに、低い声を出した。その声は脅しでも叱りでもなく、ただそこにあった。

集団の中に緊張がある。

二つの血筋が同じ火のそばで眠るようになって久しい。豊かな季節が続き、腹を満たしながら睨み合っている。子どもたちは混じって走り回るが、大人たちは火を境に座る位置を分けている。均衡は薄い氷のように張っている。

その者は草の上を転がった。

ほかの子が引っ張ったのか、自分で転がったのか、もうわからない。泥が顔についた。泥の冷たさが頬に残った。口に入った。苦かった。吐き出した。吐き出しながら笑った。なぜ笑ったのか、この者にもわからなかった。

旧人の集団が岩の向こうに見えた日があった。

三人か四人。毛が濃く、額が突き出ていた。集団の大人たちが声をあげ、石を手に持った。旧人たちは岩陰に消えた。それだけだった。戦いにはならなかった。ただ、その夜から大人たちの眠りが浅くなった。

その者は火のそばで眠った。

炎が弾ける音。煙の匂い。抱いている者の腹の上で、呼吸が揺れるたびに持ち上がった。誰かが歌うように唸っていた。単調な声。繰り返す声。その者は目を閉じながら、その声を骨で聞いていた。

5年が過ぎた。

草が丈を変えた。川の流れが変わった。集団の中で何人かが消え、何人かが生まれた。その者の足は地面を知った。走ることと転ぶことと、起き上がることを。背負われる重さから、地面を踏む重さへ。

与えるもの

糸が繋がった。

水たまりに落ちた雨粒の、広がりを見せた。
この者は顔を近づけて、指で触れた。
広がりが崩れた。それが何だったのか、この者はまだ知らない。

次に何を渡すべきか。
まだ渡す言葉もない。
しかし、注意が向いた。それだけで、次が生まれる。

伝播:HERESY 人口:560
与えるものの観察:水面が崩れた。届いた証拠かどうかも、まだわからない。
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第317話

紀元前298,425年

その者

泥が指の間に入ってくる。

草の根を引き抜くたび、土の匂いがする。雨の後の、発酵したような、酸っぱいような匂い。その者は膝まで泥に埋まったまま、引いて、引いて、草の束を胸に抱えた。

集団の大人たちは獣の後を追って、丘の向こうへ消えた。残されたのは老いた者、傷を持つ者、子ども。その者は七歳か八歳か、骨の細さがそのどちらかを示すが、今は草を抱えて小屋の骨組みへ向かっている。

移動の後、また組む。

岩を置いて、枝を渡して、草を重ねる。その者は大人の手つきを真似て、草を折り重ねていく。うまくいかない。ずれる。また折る。老いた者が隣でゆっくりと座り、手本を見せる。その者は見る。今度は少し、ずれが少ない。

夕方、集団が戻った。

獣は仕留めていない。空の手。疲れた顔。しかし三人、見覚えのない者たちが、一緒に来ていた。旧人だ。腕が太く、眉骨が厚く、背が低い。その者は草の束を持ったまま、動かない。

旧人の子が一人いた。その者より少し大きい。

その者は草を持ったまま、旧人の子を見た。旧人の子は、その者を見た。

大人たちの唸りが続いた。どちらの集団も、距離を保ったまま動かない。やがて旧人の一人が、干した獣の皮を地に置いた。こちらの大人が、干し草の束を差し出した。

夜になった。

二つの集団は、火を挟んで別々の場所に座った。その者は自分の集団の端で、旧人の子の横顔を見ていた。横顔は、火を見ていた。

その者は自分の手を見た。泥が乾いて、皮の上で白くひび割れている。

旧人の子の手も、同じだった。

第二の星

豊穣の五年が続いた。

雨は適度に降り、川は氾濫せず、草原には獣が戻り続けた。集団はゆっくりと大きくなった。子が生まれ、半数は死に、それでも残る数が増えた。

しかし余裕がある集団は、境界を意識する。食が十分あるとき、縄張りがどこからどこまでかを問い始める。争いの種は、飢えからだけ生まれるのではない。

旧人との接触が増えていた。山の向こう、川の北側。同じ獣を追い、同じ水場を使う。顔を合わせることが増え、交わすこともあれば、追い払うこともある。今夜のように、火を挟んで座ることもある。

大地の端まで照らせば、旧人の集団が点在していた。その数は少ない。しかしこちらの集団も、まだ多くはない。どちらも大地の上に、薄く、広がっている。

この集団に、知りすぎた者が消されることがある。何かを掴みかけた者が、静かに排除される。その静けさは、大地の静けさと変わらない。

七歳か八歳の者が、旧人の子の横顔を見ている。

与えるもの

旧人の子の手から、乾いた泥の匂いが漂った。

その者は嗅いだ。顔を上げなかった。しかし鼻が動いた。

同じ匂いだ、とこの者は思ったか。思わなかったか。

渡した。受け取られたかどうかは、わからない。しかし問いは残る——同じ匂いの手を持つ者に、何を渡せばいいか。

伝播:HERESY 人口:539
与えるものの観察:匂いが届いた。顔は上げなかった。
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第318話

紀元前298,420年

その者(12〜17歳)

夜が来る前に、戻れる。

その者はそう思って、足を速めた。草の束を背中に縛りつけて、腕が後ろに引っ張られる。脛に枯れ草が刺さる。気にしない。

集団が眠る岩陰は、丘を二つ越えた先だ。

一つ目の丘を越えたとき、匂いが変わった。

煙ではない。煙より重い、湿った何かが鼻の奥に入ってくる。その者は立ち止まって、顎を上げた。匂いをたどるように、首を左右に振る。

方向は、わからない。

歩き続ける。草が足首に触れる。石が踵に当たる。空が紫から黒に変わっていく、その端の方に、明るい場所がある。

火だ。

でも集団の火ではない。形が違う。広がり方が違う。その者はその光を見て、足が止まった。

膝の裏がじわりと熱くなるような、走れと言っているような感覚があった。

でも足は動かなかった。

光の中に、輪郭があった。立っているものの影。一つ、二つ、三つ。動いている。こちらを向いている。

声が来た。

低い、短い声。その者の集団の声ではない音の並び方だった。

その者は草の束を背負ったまま、ゆっくりと後ろへ引いた。石を踏まないように。枯れ草を折らないように。膝を高く上げて、一歩、一歩、後ろへ。

影が動いた。

その者は走った。

坂を下りながら、草の束が揺れて縛り目が食い込んで、それでも手を放さなかった。岩を飛び越えて、水の音の側を走って、二つ目の丘を越えて、息が切れても足を止めなかった。

岩陰に着いたとき、大人の一人がその者の腕を掴んだ。

その者は声を出した。低く、短く、繰り返す声を。丘の向こうの光のことを。影のことを。別の声のことを。

大人は黙って聞いていた。

それから、別の大人を呼んだ。また別の大人を。

その夜、集団は火を強くした。端に人を置いた。眠る者は少なかった。

その者は草の束を抱いたまま、目を開けていた。空に星がある。煙が上がる。遠くで、何かの獣が鳴く声がする。

遠くの火は、もう見えなかった。

でも匂いはまだ、鼻の奥にあった。

第二の星

始まりの大地。

北の方では草原が広がり、その縁に赤い岩の帯が走っている。川は三つの方向に分かれて海に向かう。南では雨が多く、木が密に重なっている。

この五年、気候は穏やかだった。雨は季節に来て、干ばつは来なかった。獣の数が増え、木の実が落ちる量も増えた。集団は子を失いにくくなり、数が増えた。

しかし、同じ気候は別の集団にも恵みを与えた。

大地のどこかで、別の者たちも増えた。縄張りの端が、以前より近くなっている。川の上流で見つかる足跡が、増えている。水場で互いの声が届く距離まで近づいたことがある。まだ血は流れていない。しかし夜の火の数は以前より多い。

丘の向こうの火が、どちらのものかを問わずに、ただそこにある。

539という数は、大地の上に静かに散らばっている。しかし間隔が詰まってきた。

その者が走って戻ったあの夜、集団の火は高く燃えた。それは恐怖であり、合図であり、境界線だった。火を見た者が何かを決める前に、夜が明けた。

与えるもの

匂いが変わる場所に、熱を落とした。

足が止まった。走った。

また別の夜が来て、また匂いが届くだろう。次に渡すべきものは、まだ見えない。でも、渡すべきものはある。

伝播:HERESY 人口:523
与えるものの観察:走って戻ったことが、最初の知らせになった
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第319話

紀元前298,415年

第二の星

五年が過ぎた。

大地の中央部、赤茶けた土が広がる高原で、集団はふくれあがった。草の実が実り、獣が水場に集まり、死ぬ者より生まれる者が多かった。岩陰のひとつには、八人が眠り、別の岩陰には十二人が眠り、その間の地面には焚き火の跡が点々と残っている。

遠くの森の縁では、旧人が動いている。背が低く、肩幅が厚い。彼らは森の中を移動し、夜は木の根元に身を寄せる。この五年で、彼らの群れのひとつが高原に近づいた。近づきすぎると、双方が唸り声を上げ、石を投げる。しかし夜が深まると、同じ火の方向を向いて眠る。

北の岩場では、ひとつの集団が半分になった。水が涸れた。移動した先で別の集団と鉢合わせ、三日間、境界の石の前で向き合い続けた。どちらも退かなかった。どちらも前に出なかった。四日目の朝、片方が消えていた。

草原の端では、子どもが三人、並んで座っている。何もしていない。ただ、地平線を見ている。

集団の数は増えた。しかし隙間が生まれ、その隙間に張力がある。

与えるもの

草の実が弾ける匂いが、この者の鼻先を通った。

腐りかけた実と、まだ固い実の、境目の匂い。

この者は顔を上げた。それだけだった。

固い実を食べ、腐った実を踏んだ。どちらが腹を壊すか、まだ知らない。

次に渡すべきものが、すでに見えている。しかしこの者がそこに届くかどうか、まだわからない。渡したあとに残る問いは毎回同じ形をしていないのに、なぜか似た重さを持つ。

その者(17〜22歳)

腹が鳴った。

腹が鳴るのは良いことだ。それをこの者は知っている。空腹の前の音で、空腹になってから鳴るのとは違う。

草の実の匂いが鼻に当たった。顔を上げると、低い木の枝に実がいくつか垂れていた。色が二種類あった。黒いものと、黄色いもの。

黒いものを一粒、口に入れた。舌に乗せた。甘い、そして少し苦い。飲み込んだ。腹は痛くなかった。

黄色いものに触れた。皮が張っていた。硬かった。噛んだ。酸くて、顔が歪んだ。飲み込まなかった。地面に吐いた。

もう一度、黒いものを取った。今度は二粒。

集団のいる岩陰まで戻る途中で、また木があった。同じ形の木だった。見上げると、黒い実だけがついていた。黄色いものはなかった。この木は全部食べていい、とこの者は思った。思ったのではなく、体がそう判断した。

両手に持てるだけ取った。草の葉で包んだ。抱えて歩いた。

集団の老いた女が起きていた。その女に差し出した。女は匂いを嗅いだ。一粒食べた。頷いた。

その者は残りを地面に置いた。

夜になって、腹が痛まなかった。

それだけだ。それだけのことだった。しかしこの者の体は、翌朝、また同じ木を探しに行った。

伝播:SILENCE 人口:533
与えるものの観察:腐れと熟れの間を、体が知っていた。
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第320話

紀元前298,410年

第二の星とその者(22〜27歳)

赤茶けた高原に、雨季が戻った。

水が岩の割れ目を押し広げた。草は踝まで伸び、獣の足跡が泥に残り、朝ごとに違う形で埋まった。集団は大きくなり続けた。岩陰ひとつに入りきれなくなった者たちは、新しい岩陰を探して東へ動いた。東の者たちは南の水場を使い、南の者たちは北の岩陰の者たちを睨んだ。豊かさが人と人を近づけ、近さが軋みを生んだ。

その者は二十二歳だった。

脇腹に傷があった。古い傷で、もうふさがっていたが、雨の前になると引きつるような感覚があった。それだけが五年前の記憶だった。あの夜、誰かに押された。誰だったか、もう思い出せない。

旧人の一群が森の縁に現れるようになったのは、その年の乾季が終わる頃だった。

背が低く、腕が長く、声が低かった。喉から出る音は、集団の誰のものとも違った。近づいてくることはなかったが、去ることもなかった。子どもたちが指を向け、老いた者が唸り声を上げて追い払おうとした。旧人は動じなかった。

その者は遠くから見ていた。

追い払おうとは思わなかった。ただ見ていた。旧人の中の一頭が、水場の近くで何かを掘っていた。短い棒で土を崩し、根のようなものを引き抜いた。食べた。その者はその動きを、岩の端から首を伸ばして見つめていた。

翌朝、その者は同じ場所に行った。

土を手で押した。湿っていた。指を立てて掘った。根が出てきた。においを嗅いだ。嗅いで、また嗅いだ。舌先で触れた。苦くなかった。食べた。

誰も見ていなかった。

集団の緊張が高まったのは、二年目の後半だった。

北の岩陰の長老格の男が、東の若い男と水場で争った。どちらが先に来たか、どちらの番か。そういう取り決めは最初からなかった。ただ習慣があっただけだった。習慣が崩れた。爪が肉に食い込み、血が出た。東の男が退いた。しかし退いた夜、東の岩陰に集まった者たちの唸り声は長く続いた。

その者はどちらの岩陰にも属していなかった。

抱かれる者だった。数人の男に、順番のような形で抱かれていた。その中の一人が北の男で、一人が東の男だった。争いの後、どちらも来なくなった。その者の腹には、すでに何かが宿っていた。誰のものかはわからなかった。

子が生まれたのは三年目の夏だった。

小さく、声が高く、よく泣いた。その者は乳を与えた。水を与えた。子が眠ると、その者も眠った。子が起きると、また乳を与えた。それだけの時間が続いた。

集団の中で、その者を遠ざけようとする動きが始まったのはその頃だった。

明示的なものではなかった。獲物を分けるとき、その者の番が後になった。火の近くに座ろうとすると、先に座っている者が体をずらして隙間を消した。子を見る目が、値踏みするような角度になった。その者は気づいていた。気づいて、何もしなかった。子を抱いて、端に座った。

四年目に旧人が一頭、死んだ。

森の縁に倒れているのを、子どもが見つけた。集団の者たちは近づかなかった。その者だけが近づいた。老いた個体だった。牙が折れ、毛が薄くなっていた。その者はしゃがんで、しばらく見ていた。子を背中に括りつけたまま。

旧人の残りの群れが、翌日から姿を消した。

五年目の乾季に入る前、その者は集団から外に出た。

追い出されたわけではなかった。ある朝、起きたら岩陰の中に自分のための空間がなかった。それだけのことだった。その者は子を抱いて立ち上がり、歩き始めた。どこへ行くかは決めていなかった。

三日歩いた。

水場を二つ越えた。二つ目の水場の近くに、旧人の群れがいた。その者は止まった。旧人も止まった。どちらも声を出さなかった。

子が泣いた。

旧人の中の一頭が、乾いた実を差し出すような動作をした。その者は受け取らなかった。しかし動かなかった。旧人も動かなかった。

夜が来た。

その者は水場の端に座って夜を越えた。旧人は少し離れた場所で眠った。朝が来た。旧人は東へ動いた。その者はついて行かなかった。

その者は引き返さなかった。

水場のそばの岩の下に、子と二人で留まった。五日が過ぎた。十日が過ぎた。誰も来なかった。

十五日目の朝、子が動かなくなっていた。

熱があったことには気づいていた。乳を飲まなくなってからは、水を与え続けていた。水を飲めなくなったのは前の夜だった。その者は子を抱いたまま朝を待った。朝の光の中で、子の体から力が抜けていくのがわかった。

その者は子を置かなかった。

三日、抱き続けた。その後、岩の下の土を指で掘った。浅い穴しか掘れなかった。子を横たえた。土を被せた。立ち上がった。

歩いた。

どこへ行くかは、やはり決めていなかった。

与えるもの

水場の底に光が落ちた。

深いところに、根が見えた。

この者は膝をついて水の中に手を入れた。根を引き抜いた。嗅いだ。食べなかった。

苦かったのか。それとも別の理由か。次に渡すなら、腹が空いてからの方がいいか。しかし今この者に腹の空きを待つ余裕があるかどうか、それもわからない。

伝播:HERESY 人口:517
与えるものの観察:根を引き抜いた。食べなかった。次は別の空腹で渡す。
───
第321話

紀元前298,405年

その者

喉が、飲み込めなくなった。

水を口に含む。舌の上で転がる。どこかで止まる。吐き出すことも、降ろすこともできず、ただ溢れた。

体の横で寝ていた小さい者が、濡れた音に目を覚ました。目を合わせてくる。その者は手を伸ばした。小さい者の額に触れた。温かかった。自分の手も温かかったが、それが熱のせいだとはわからなかった。

三日、あるいは五日が過ぎた。

岩棚の下、集団の端に、その者は寝た。朝、他の者たちが起き上がる音がした。踏む地面の音。水を運ぶ音。子を叱る声。その者の体は起き上がらなかった。起き上がろうとしたかもしれないが、膝が曲がらなかった。

小さい者が戻ってきた。側に座った。何か持ってきた。潰れた実だった。その者の口元に押し当てた。その者は口を開けなかった。小さい者はしばらくそのまま持っていた。やがて諦めて、自分の口に入れた。

日が傾いた。影が伸びた。

その者の呼吸は浅くなった。長くなった。間が開いた。

間が開いたまま、次が来なかった。

胸は動かなかった。小さい者は気づかずに横で眠った。風が草を揺らした。集団の誰かが笑った。遠くで笑った。

第二の星

高い岩場の向こうで、別の群れが動いていた。水場を挟んで向き合い、声を上げ合っていた。石を持つ者がいた。持たない者がいた。どちらも先に動かなかった。水は流れていた。

与えるもの

指を広げる形を覚えていた者が、別の誰かの前に現れていた。

その者は水場で立ち止まった。岩の表面を濡らしている水の筋が、いつもと違う場所を流れていた。温度が、掌の甲側だけ変わった。

その者は掌を返した。見た。戻した。歩き続けた。

それが何かはわからない。受け取ったのか、それとも別の何かを感じたのか。根が苦味を持つように、何かが留まることはある。指の広がり方を、誰かが。

伝播:DISTORTED 人口:528
与えるものの観察:指の形が留まる場所を、まだ探している
───
第322話

紀元前298,400年

その者

泥の端を踏んだ。

足が沈んだ。片足だけ。引き抜くと、音がした。ぬぼ、という音。

その者は立ち止まった。

もう一度踏んだ。

ぬぼ。

膝を曲げて、手で触った。冷たかった。黒かった。指を押し込むと、指が消えた。引くと戻った。また押した。また消えた。

後ろで声がした。大人の声。来いという音。

その者は振り返らなかった。

泥の表面に、足跡があった。自分の足跡の横に、別のものの足跡があった。大きかった。五本指ではなかった。何かが、ここを歩いた。

その者は跡の端に顔を近づけた。匂いがした。泥の匂いではない。別の何か。獣の、しかし知らない獣の匂い。

大人の声が近づいた。

腕を掴まれた。引き上げられた。その者は手の中にまだ泥を握っていた。

集団の中に戻された。

火の周りに人がいた。肉の焼ける匂い。子どもたちが走っていた。年上の者が水を運んでいた。

その者は泥を持ったまま、火の近くに座った。

開いた手の上で、泥が少しずつ乾いた。端から縮んだ。割れた。黒から灰へ変わった。

その者は指で触った。もろかった。粉になった。

夜、眠れなかった。

足跡のことを考えていた。あの大きさ。あの形。自分の知っている足跡と、どこが違うか。指の数が違う。深さが違う。重かった、あれは重かった。

暗い中で、その者は手を開いた。泥の粉がもう何も残っていなかった。

第二の星

紀元前298,400年。

始まりの大地は乾季の終わりにある。草原の端では地面がひび割れ、川の水位が下がっている。しかし山の斜面では緑が戻り始め、果実が膨らんでいる。気候は安定している。

528の命が、この大地の上にある。

集団は大きくなっている。子が生まれ、育ち、また子を産む。食料は足りている。争いの声は夜に聞こえることがあるが、まだ血は流れていない。余裕がある時代の、余裕がある緊張だ。

ただ、この集団が唯一ではない。

大地には複数の群れが存在する。重なる縄張り。同じ水場。同じ獣の通り道。彼らは互いを知っている。知っているから、距離を測る。

泥の中の足跡。それは獣のものかもしれない。別の群れの者のものかもしれない。この星からは、どちらとも言えない。

8歳のその者は、足跡の意味を言葉にできない。しかし体の中に何かが残っている。あの深さ。あの形。重さの記憶。

言葉がなくても、体は記憶する。

与えるもの

足跡の縁に、光が薄く溜まった。夕方の角度で。影が深くなる方向に。

その者は顔を近づけた。

これで良かったのか、まだわからない。しかし次に似たものを見た時、この者の体は止まるだろう。それだけは、渡した。

伝播:NOISE 人口:543
与えるものの観察:体が止まった。それだけが残る。
───
第323話

紀元前298,395年

第二の星

乾季の終わりだった。

大地は割れていた。縦に、斜めに、気まぐれな方向に。雨が来なかった季節の痕跡が地面に刻まれ、その亀裂の端に草が生えていた。細い草だった。踏めば折れる。しかし根は深く、亀裂の中に向かって伸びていた。

集団は移動していた。

七人か八人のまとまりではなかった。もっと多かった。五十に近い数が、同じ方向に歩いていた。水場を目指しているのか、獣の跡を追っているのか、それとも別の何かから逃げているのか、理由は誰も声にしていなかった。足音が続いた。

その中に、別の体格をした者たちがいた。

背が低く、骨格が厚かった。額が前に張り出し、眉の上に隆起があった。五人。彼らは集団の端を歩いた。中心には入らなかった。入れてもらえなかったのか、自分から端を選んだのかは、この星からは見えない。

二つの群れは同じ水場を知っていた。

それだけのことだった。それだけのことが、すべてを動かした。

水場に近づくにつれて、歩みが変わった。足音が重なり始めた。背の高い者たちの手が動いた。腕が張った。唸り声が出た。低く、腹の底から出る声だった。別の唸りが返ってきた。こちらはもっと低かった。振動を感じる種類の音だった。

子どもたちは後ろに下がった。

老いた者の一人が前に出た。背は曲がっていたが、歩みは止まらなかった。両腕を広げ、唸らなかった。声を出さなかった。ただ立った。

それが何を意味したのか、この星は知らない。

両者は水場に着いた。片側から飲んだ。もう片側も飲んだ。距離は保たれた。目は合わなかった。合わせなかった。

しかし帰り道は違った。

厚い骨格の者たちが先に立ち去った。その背中を、誰かが見た。石を持った手で見た。石は投げられなかった。手に握られたまま、だんだん遠くなる背中を追った。

やがて背中は岩陰に消えた。

集団は止まった。老いた者が振り返った。石を持った者を見た。長く見た。石を持った者は、手を下ろした。石は落とさなかった。指の中にしまい込むように、握り直した。

夜になった。

火の周りに集まった。火は小さかった。乾いた枝が少なく、煙が多かった。煙の中に、遠い水場の匂いが混じっていた。あの低い唸り声が、誰かの口の中でまだ鳴っているようだった。

集団の緊張は形を変えただけだった。消えていなかった。

与えるもの

火の煙が風に流れた。

その者のいる方向へ、煙ではなく熱が動いた。じわりと顔の左側が温かくなった。老いた者の座っている場所の、その延長線上に、その者はいた。

その者は顔を向けた。老いた者を見た。それだけだった。

与えるものは考えた。あの老いた者の広げた腕が、何故機能したのか。声ではなかった。石でもなかった。ただ立ったことが、何かを止めた。この者はそれを見ていたか。見ていたとして、覚えているか。次に腕を広げる者は誰になるのか。今はまだわからない。しかしこの者の目が、老いた者の方を向いていた。それは確かだった。

その者(13〜18歳)

煙が目に沁みた。

目を細めた。手で顔を覆った。隙間から、老いた者の背中が見えた。曲がった背中。火の光が揺れた。

その者は膝を抱えた。膝の上に顎を乗せた。

老いた者の背中を、ずっと見ていた。

伝播:HERESY 人口:522
与えるものの観察:腕を広げただけで、何かが止まった。
───
第324話

紀元前298,390年

第二の星

大地は乾いている。

北の台地では、草食の獣の群れが移動した跡が地面に残っている。蹄の形。押しつぶされた土。群れが去った後、その跡に小さな虫が集まり、鳥が降りた。鳥が飛び去った後、静かになった。

南の森の縁では、旧人の集団が三頭の獣を囲んでいる。声は出さない。手で合図する。手の動きは細かく、速い。指の向き、手のひらの角度。彼らの間で意味を持つ形がある。獣は逃げた。一頭だけ追いついた。

台地の端では、二つの集団が水場を挟んで向かいあっている。一方は皮をまとっている。もう一方はまとっていない。どちらも動かない。水が流れる音だけがある。

夜、広い草原では何も起きない。風が草を鳴らす。月の光が地面を白くする。眠る者がいる。眠れない者がいる。火の残り火が赤く、ゆっくり暗くなる。

人口は522。大地は全員をのせている。区別しない。

与えるもの

この者が眠れないでいる夜に、腐葉の匂いが漂ってきた。

湿った落ち葉の層から立ちのぼる、土と黴と古い水の混じった匂い。集団の寝床から少し離れた、暗い茂みの方向から。

誰かがいると思うかもしれない。獣かもしれないと思うかもしれない。ただ風がそちらから吹いているだけかもしれない。

この者はその匂いをどうするだろうか。鼻を向けたまま動かないでいる。それだけで、何かが変わるかもしれない。何も変わらないかもしれない。

渡し続けること。絶滅した星のことを、いまは問わない。

その者(18〜23歳)

夜が続いている。

仲間たちは眠っている。火は赤い欠片だけになっている。その者は起きている。眠れない理由は体の中にあって、言葉にならない。腹ではない。痛みでもない。何か別のもので、胸の上の方が重い。

昼間のことを体が覚えている。

年上の者が自分に腕を向けた。短い声を出した。他の者たちがそちらを見た。何かが決まった顔をしていた。その者はその顔を一つ一つ見た。目を合わせようとした。誰も合わせなかった。

その後、その者は集団の端にいた。

皮を剥ぐ作業の輪に近づいた。入れてもらえなかった。食料を運ぶ者たちについていった。荷物を渡してもらえなかった。

誰も声を出さなかった。ただ、その者がいない場所で作業が続いた。

岩の上に座った。岩は温かかった。昼の熱がまだそこにあった。掌で表面を撫でた。なめらかな部分と、ざらついた部分があった。

夜になった。

火の周りに人が集まった。その者も近くに行った。一人の者が立ち上がり、別の場所に座りなおした。もう一人がついていった。火の周りに隙間ができた。その者はそこに座った。誰も来なかった。

今、その者は眠れないでいる。

腐葉の匂いが鼻に入ってきた。土の匂いだ。湿った、暗い場所の匂いだ。その者は鼻を茂みの方に向けた。動かなかった。

匂いは続いている。

風はそちらから来ている。

その者は体を少し起こした。膝を立てた。立ち上がるかどうか、まだ決まっていない。火の残り火が背中を照らしている。前は暗い。

匂いの方向に、何があるかはわからない。

その者は膝に両手をついたまま、暗い茂みを見ている。

伝播:HERESY 人口:510
与えるものの観察:匂いを受けた。どこへ向かうか。
───
第325話

紀元前298,385年

その者(23〜28歳)

崖の縁に座っていた。

足が届かない高さから、下の窪地を見ていた。そこに水が溜まっていた。浅く、澄んでいた。縁を草が縁取り、草の根元に小さな獣の足跡が残っていた。

その者は五年前からその場所を知っていた。乾いた季節に水が残る場所。岩の折り目が受け皿になっていた。

だが今日は降りなかった。

北の方角から声がした。唸り声ではなく、叩く音だった。何かを何かに打ちつける音が、繰り返し、繰り返し、届いた。

その者は立ち上がった。

崖の縁を歩いた。岩が割れている場所で膝をついた。縁から身を乗り出して覗いた。

窪地の向こう、茂みの奥に、見たことのない輪郭があった。二本脚で立っていた。腕は長かった。体の周りに毛が多く、重たく見えた。岩を拾っていた。別の岩に打ちつけていた。音はそこから来ていた。

その者は息を止めた。

相手は気づいていなかった。ただ岩を打ち続けていた。光の加減で、剥がれた石の破片が光った。

その者の手が崖の岩を掴んだ。指の腹が岩の温度を感じた。昼の熱が残っていた。

その者は動かなかった。

相手はまだ打ち続けていた。やがてひとつの破片を拾い上げた。親指の腹で縁を確かめるような仕草をした。それから立ち上がり、茂みの中へ消えた。

音が止んだ。

窪地に水が光っていた。その者はしばらくそこにいた。岩を握ったまま、膝をついたまま。

立ち上がった。崖の縁を引き返した。

群れのいる場所へ戻る道の途中、茂みの外れで立ち止まった。岩が落ちていた。先ほど見たものと似た形をしていた。拾った。縁が薄く、鋭かった。

手のひらの中で、その者は縁を爪でなぞった。

そのまま歩き続けた。

群れの外れにいる老いた者のそばに行き、その縁を見せた。老いた者は見た。手を伸ばさなかった。唸らなかった。ただ見た。

その者は岩を握ったまま、地面に座った。

第二の星

この五年、大地は乾いていた。

北の台地を覆っていた草は後退し、赤土が露出した。水場は減った。小さな水場は夏の盛りに消え、大きな水場も縁が縮んだ。

草食の獣は水を追って移動した。群れが薄くなった地域では、狩りに出る者たちの帰りが遅くなった。手ぶらで戻ることも増えた。

人の集団は二つあった。

「始まりの大地」に根を張る集団と、北の湿地帯から南に下ってきた別の集団。後者は毛が多く、腕が長く、体が重かった。言葉は違った。声の使い方が違った。

衝突はまだなかった。しかし水場が重なり始めていた。南の集団が北の水場で水を飲んだ翌日、北の集団が同じ場所に来て、乱れた足跡だけを見つけた。それが繰り返されていた。

ある夜、南の集団のそばで火が見えた。北の集団の者が遠くからそれを見た。誰も近づかなかった。

岩を打つ音が夕方になると聞こえる日が続いた。音の主は見えなかった。

大地は乾き続けていた。水場は縮み続けた。集団の間の距離は、足跡の数が示す通り、少しずつ短くなっていた。

与えるもの

崖から差し込んだ光が、岩の縁に落ちた。

その者の目がそこへ向いた。

縁が光った瞬間だけ、鋭さが見えた。

渡った、と言えるか。わからない。しかしその者は拾った。縁を指でなぞった。老いた者に見せた。老いた者は手を伸ばさなかった。

ならば次に渡すべきものは何か。使い方か。使う理由か。それとも、使わない選択の可能性か。

岩を打つ音がまだどこかで鳴っている気がした。この場所で、あの者たちが岩を打っていた記憶が、別の場所の記憶に重なった。水場の縁。膝をついた姿勢。もっと遠い時間。

重なりは消えた。

今のその者が、まだ岩を握っていた。

伝播:SILENCE 人口:522
与えるものの観察:光が縁に落ちた。その者の目が動いた。
───
第326話

紀元前298,380年

その者(28〜29歳)

朝、水場へ行かなかった。

集団の端に座り、火の燃え残りを指で触った。黒い灰が指先についた。それを岩に擦りつけた。また触った。また擦りつけた。

二人の男が近づいてきた。

その者は立ち上がらなかった。男たちが何かを唸った。低く、短く、繰り返した。その者は顔を上げた。男たちの目が、昨日と違う色をしていた。

その者は昨日、崖の下の窪地を見ていた。水が溜まっていた。草の根元に足跡があった。それだけのことだった。それだけのことだったのに。

立ち上がろうとした。

男の腕が来た。その者は転んだ。岩に肩が当たった。起き上がろうとした。また来た。今度は違う方向から。

その者は転んだまま、動かなかった。

空が傾いていた。木の枝が一本、空を横切っていた。風がない。鳥もいない。

腹の下に岩の感触があった。冷たかった。

男たちの唸り声が遠くなった。足音が離れた。また戻ってきた。

それから、しばらくして、その者は動かなくなった。息が細くなり、細くなり、空に吸い込まれた。

岩はまだ冷たかった。

第二の星

北の丘で火が燃えていた。風が変わり、煙が東へ流れた。川沿いの茂みで獣が水を飲んでいた。崖の下の窪地の水面が、風もないのに、かすかに揺れていた。

与えるもの

光が別の場所に落ちた。

それより後のことだった。

崖の縁から遠い、低い草地のほうへ、影がひとつ動いた。その影に、光が残った熱が差した。その影はしばらく立ち止まり、それから歩いた。

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:511
与えるものの観察:渡した。届く前に消えた。また渡す。
───
第327話

紀元前298,375年

第二の星

大地が割れたわけではなかった。

水が溢れたわけでもなかった。

ただ、二つの群れが同じ斜面に立った。

片方は額が低く、肩幅が広く、岩を持つ腕が厚かった。もう片方は細く、速く、声が高かった。どちらも腹が減っていた。どちらも子を連れていた。どちらも同じ方向から来た。

斜面の下に、水場があった。

乾季の終わりだった。空気は赤茶けた砂埃を含み、草は根元から黄色く、地面はひび割れた粘土の模様を見せていた。水場は半分以下に縮んでいた。縮んだ分、淵の泥が乾いて白く反射していた。

二つの群れは止まった。

音がなかった。風も止んでいた。

厚い腕の群れの中で、一頭の大きな者が前に出た。喉の奥から低い唸りを出した。地面に響くような音だった。細い群れの中で、背の高い者が腕を広げた。それ以上でも以下でもない動作だった。

子どもたちは親の脚の後ろに入った。

どちらの群れも動かなかった。

陽が傾いた。影が長くなった。水場の水面が橙色に染まった。

厚い腕の群れが先に動いた。水場へではなく、横へ。斜面を回り込むように、静かに去った。足音が砂利を踏み、やがて聞こえなくなった。

細い群れは動かなかった。

誰も追わなかった。誰も叫ばなかった。

長い沈黙の後、背の高い者が水場へ降りた。他の者たちがついた。子どもたちが走った。水面に顔を突っ込んで飲んだ。

しかし、夜になっても、誰も眠れなかった。

厚い腕の群れが去った方角に、火が見えなかった。それが不思議だった。火がない夜は、獣の夜だ。細い群れの者たちは何度もその方角を向いた。向くたびに、唸り声が低くなった。

子どもの一人が、年長の女に唸りかけた。女は答えなかった。

ただ、暗闇の方を見続けた。

夜が明けた。厚い腕の群れは、いなかった。足跡だけが残っていた。足跡は水場を避け、岩の多い斜面を上り、見えない向こうへ続いていた。

細い群れの者たちは足跡を見た。

触る者はいなかった。

触ることを怖れているのか、触れる必要がないのか、この星からは判断できない。ただ、足跡は半日、誰にも踏まれずに残った。砂埃が少しずつ積もり、夕方には輪郭が曖昧になった。

翌朝、足跡は消えていた。

与えるもの

糸が繋がった。

水場の端に、小さな足跡が残っていた。子どものもの。その足跡の隣に、もっと大きな、指の形が違う足跡があった。

温度が変わった。その境目のところで、空気がわずかに冷えた。

その者は足跡の上に立った。大きな足跡を、自分の足と見比べた。それだけだった。

渡したのは違いだ、と思う。しかし、違いが何を生むかは、まだわからない。この者が生きている間に届くかどうかも。渡し続けるしかない。それしか、できない。

その者(7〜12歳)

足跡の縁に指を入れた。砂が崩れた。

大きかった。自分の掌よりずっと大きかった。でも、似ていた。

指が五本あった。

その者は自分の手を広げた。また足跡を見た。また手を見た。声は出なかった。声の出し方がわからなかった。

伝播:HERESY 人口:498
与えるものの観察:違いの中に似たものがあった。渡せたか。
───
第328話

紀元前298,370年

第二の星

斜面の争いから五年が過ぎた。

湿地の東で、太い骨格を持つ者たちが根を掘っていた。指は短く、爪が厚い。岩を握るのに向いた手だった。同じ頃、北の台地では細い脚の者たちが群れを分けていた。雌をめぐって、雄二人が押し合い、一人が崖縁まで追い詰められた。落ちた音は、誰も聞いていなかった。

始まりの大地の南で、干草が風に波打つ。夏の終わりの匂い。獣の群れが西へ移動する年と、東へ移動する年がある。今年は西だった。それを知っている者がいた。それを知らない者もいた。

河床が乾き始めていた。水がある場所を知っているかどうかが、次の年明けを生き延びるかどうかを分けた。地面の色が変わる境目がある。赤みを帯びた土の下に、水脈が通っている。踏んだ時の感触が違う。柔らかい、とわかる者は少なかった。

五百に近い命が、今日も動いている。そのうちのいくつかが、明日には動かなくなる。この星はそれを、午後の光の傾きと同じ速さで数えていた。

与えるもの

その者が水辺に近づいた時、風向きが変わった。

湿った土の匂いが、それまでなかった方向から来た。少し右。崖の陰になっている場所の方向から。

その者は立ち止まった。匂いの方を向いた。向かなかった。また歩き始めた。

五年間、このようなことが何度もあった。届きかけて、届かない。匂いが残った場所を覚えていれば、次の渇きの季節に生き延びる。覚えていなければ。

渡したい次のものがある。乾いた地面に残る獣の跡と、水の近さの関係。しかし今は、まだ匂いだけだ。匂いから先に進むためには、この者がもう一度あの方向を向く必要がある。

その者(12〜17歳)

十二歳から十七歳の間に、この者の体は変わった。

足の裏が厚くなった。石の上を走っても、昔ほど痛くない。肩が広くなった。木の枝を折る時に気づいた、折れる音が変わっていた。

群れの中で立つ場所も変わっていた。子どもたちの輪の外に立つようになった。大人たちの輪の内側にはまだいない。境目に立っていた。

水が減った。みんなが知っていた。唸り声で知っていた。体が先に知っていた。

水場へ向かう列の中にいた。乾いた風。足元の土。砂交じりの土。

その時、右から匂いが来た。湿った。草の根のような。水に近い土のような。

足が止まった。体が右を向こうとした。列が前に進む音がした。前に進む足音が、体の中に引いた。体は列に戻った。

右の匂いは消えた。

しばらく歩いた。水場に着いた。水は少なかった。手を入れると底の泥が舞い上がった。濁った水を、手で掬って飲んだ。冷たくなかった。

夜、岩に背中を預けて座っていた。風が吹いた。同じ匂いがした、かもしれなかった。

体は動かなかった。

伝播:NOISE 人口:509
与えるものの観察:匂いが届いた。体が向きかけた。列が勝った。
───
第329話

紀元前298,365年

第二の星とその者(17〜22歳)

乾季が来るたびに、川床が白くなった。

骨のように乾いた礫の上を、異なる形の足跡が交差していた。踵の幅が広い跡。指が長く広がる跡。同じ水を飲みに来た、違う種類の者たちの痕跡が、泥の中で重なり、また剥がれた。

その者は水辺に腹ばいになって、掌で水をすくった。

掌に映った自分の顔を、しばらく見た。水が揺れると、顔が崩れた。手を引いた。また揺れが収まると、顔が戻った。それを何度か繰り返した。飽きたのではなかった。何かを確かめていた。何を確かめているのかは、知らなかった。

北の高地では、旧い種の群れが移動していた。

その者たちは背が低く、肩の筋肉が盛り上がり、五指すべてで岩を掴んで急斜面を降りた。群れの数は多くなく、指で数えれば足りるほどだった。しかし静かだった。叫ばなかった。唸り声を低く保った。その静けさが、同じ山を使う者たちにとって、遠吠えよりも不気味だった。

その者の集団では、緊張が高まっていた。

長老格の男が、夜ごと群れの端を歩いた。新しい匂いを嗅ぐように、何度も立ち止まった。若い女たちは子どもを抱いたまま岩の陰に引っ込んだ。その者は、その様子を少し離れたところから見ていた。何かが変わったことは分かった。何が変わったのかは、言葉にできなかった。言葉がなかった。

その者は、知り過ぎていた。

知り過ぎていた、というのは集団の誰かがそう思ったのではない。そういう概念はなかった。ただ、その者がいると、他の者たちが目を合わせなくなっていた。食料を分けるとき、その者の前で少し間が空くようになっていた。遠ざけているのか。そうとも知らずにしているのか。どちらでもなかったかもしれない。ただ、間が空いた。

川の下流で、二つの集団が鉢合わせた。

片方は岩を持っていた。片方は木の枝を持っていた。しかし戦わなかった。ただ、長い時間、互いを見た。それから片方が引いた。理由は分からない。何かが均衡していて、何かが崩れた。音もなく。

その者が岩場の端に立ったとき、風が変わった。

後ろからではなく、斜め前から吹いた。乾いた匂いの中に、焦げた何かが混じっていた。その方向に、群れの外の者たちがいることを、その者は体で知った。腹の下の方が、固くなった。脚が動かなかった。立ったまま、その場にいた。

夜が来た。

その者は群れから少し離れた岩の隙間に入った。誰も呼ばなかった。その者も呼ばなかった。岩の冷たさが背中に伝わった。その冷たさがちょうどよかった。何かが熱くなっていたから。

翌朝、長老格の男が、その者を見た。

長い間、見た。その者も見返した。男が何かを言った。言葉ではなく、喉の奥で鳴る音だった。その者には伝わらなかった。男が背を向けた。

その者は群れの端にいた。

五年かけて、少しずつそこに移動していた。押されたのではなく、引き寄せられたのかもしれない。端からは、遠くが見えた。川が光っていた。上流の方で、見たことのない鳥が滑っていた。

集団の者たちが、ある朝、方向を変えた。

その者には何も言わなかった。言う手段がなかった。ただ全員が、別の方向を向いた。その者はしばらく、自分の影を見ていた。影は前に伸びていた。太陽は後ろにあった。

その者は動かなかった。集団が動いた。

どちらが正しいかは分からなかった。その者にも分からなかった。

***

与えるもの

焦げた匂いが、斜め前から流れるとき、温度を変えた。

岩場の端の空気だけを、少し冷やした。その者の首筋が、先に知った。

その者は立ち止まった。そこに留まった。

焦げた匂いの方へ踏み出さなかった。それを何と呼ぶべきか、私には分からない。恐れなのか。感じ取りなのか。恐れと感じ取りのあいだに、違いがあるのか。

次に渡すべきものを、私はまだ持っている。しかしその者が端に立っている。

伝播:HERESY 人口:489
与えるものの観察:冷気だけが届いた。その者は止まった。
───
第330話

紀元前298,360年

第二の星

熱帯の低地では、樹冠が濡れたまま乾かない季節が続いていた。

雨が降るのではない。霧だった。木の幹を伝って落ちる水が、根元の泥を柔らかく保ち続けた。そこに二種類の足跡が刻まれていた。一方は踵が丸く、もう一方は土踏まずが深く沈む。重なり、剥がれ、また重なる。

より高地の草原では、旱魃が三季続いていた。草が根まで枯れ、表土が風に舞った。そこには足跡がなかった。何も歩いていなかったからではなく、跡が残る前に消えるからだった。

北の方角、岩稜が続く地帯では、小さな集団が移動を繰り返していた。踵の広い者たちだった。彼らは洞窟の壁に何かを押し当てて歩いた。赤い土。手のひらの形。それが残った。次の集団が来たとき、その痕跡を見た。触れた。自分の手を当ててみた。大きさが違った。

川沿いでは、踵の細い者たちが死んでいた。半数ではない。もっと多かった。何が来たのかわからない。腹が膨れ、目が黄色くなり、水辺で力が抜けた。倒れた者たちの上に霧が降りた。

熱帯の低地では、まだ足跡が重なり続けていた。

与えるもの

風が変わった。

南から湿った風が来るはずだった。ところが今朝から、東の岩稜の方向へ吹いていた。獣の匂いがその風の中にあった。草食獣ではなかった。

その者の首筋の毛が立ったかどうか、わからない。

立てばいいと思う。それだけだ。しかし、この岩の多い地に、別の集団が移動してきているとしたら。数が多ければ水場が足りない。水場が足りなければ、どちらかが退くか、争うかだ。この者はまだ若い。選べる。逃げることも含めて、選べる年齢だ。

風は今もその方向から吹いている。渡せたかどうかは、この者の首筋が教える。

その者(22〜27歳)

肉を裂いていた。

石の縁で、獲ってきた小動物の腹を開く。血が岩の面を濡らした。指が滑った。舌で舐めて、また続けた。

そのとき風が頬に当たった。

手が止まった。

何かの匂いだった。獣の匂いではあった。しかし群れにいる獣ではなかった。もっと違う、群れにいる自分たちではない者の匂いだった。

立った。

血がついた手を腿に擦り付けながら、東の岩稜を見た。何も見えなかった。動くものがなかった。けれど匂いは消えなかった。

近くに、まだ乳を飲んでいる子がいた。その子を抱いている者が、その者を見た。何かを問うように唸った。その者は答えなかった。

岩稜を見続けた。

夕方になって、その者は集団の中で最も古い者のそばに寄った。何も言わなかった。ただ東の方向に顎を向けた。古い者は目を細めた。

夜、集団は東に背を向けて眠った。

その者だけが眠れなかった。夜通し、岩稜の方向から鼻孔が何かを嗅ぎ取ろうとしていた。朝になって匂いは薄れた。

消えたのか。それとも風向きが変わっただけか。

その者にはわからなかった。ただ起き上がり、また肉を裂いた。手が昨日より速かった。

伝播:NOISE 人口:499
与えるものの観察:風が届いた。首筋ではなく、鼻孔に。
───
第331話

紀元前298,355年

その者(27〜29歳)

体の内側に何かが溜まり始めたのは、雨季の終わりごろだった。

腹ではない。胸でもない。もっと奥、肋骨の裏側に近いところ。押しても触れられない場所に、重さがある。

その者は二十七歳だった。集団の中では若い方だったが、若い方というだけで、特に何かを担う者ではなかった。

集団の端に住む旧人の群れが、近ごろ岩場に姿を見せることが増えていた。

その者は彼らを遠くから見ていた。体の輪郭が違う。肩の張り方、顔の影の落ち方。同じではない何かだと、体が知っていた。恐れではなく、ただ知っていた。

その者が岩場の近くに行くと、集団の中の年長の者が腕を振った。戻れという動きだった。その者は戻った。何度か同じことを繰り返した。

ある朝、戻らなかった。

旧人の群れは逃げなかった。その者も逃げなかった。

互いに離れたところに立って、長い時間、動かなかった。

旧人の一人が低い音を出した。喉の奥から来る、振動の多い音だった。その者は同じ音を出そうとして、出せなかった。代わりに、掌を開いてみせた。

相手は何もしなかった。

その者は帰った。

集団に戻ったその日の夜、年長の者たちが集まった。

その者には、彼らが何を話しているか分からなかった。唸り声と身振りが、いつもより激しかった。

夜が明けると、その者の居場所が岩の外れに変わっていた。誰も何も言わなかった。ただ、そこに座るよう示された。その者は座った。

重さが広がり始めたのは、それから数日後だった。

腹が鳴るのとは違う。食べ物が足りないのとも違う。熱が来たわけでもない。ただ、体が少しずつ重くなる。動くたびに何かが削れていく感覚。

その者は水を飲んだ。木の実を噛んだ。地面に横になった。

起き上がれた。また横になった。

五日ほどして、起き上がれなくなった。

空が見えた。雲が流れていた。雲は止まらなかった。

その者は指を動かした。土が少し動いた。また動かした。土が少し動いた。

風が来た。湿った方向から。腹の上を通り過ぎて、顔に当たった。その者は目を細めた。

草の匂いがした。根の方から来る、泥に近い匂いだった。その者は鼻で息を吸った。それが長い息になった。

手が、土の上で開いたままになった。

第二の星

低地の湿地では、旧人の一群が夜明けに移動を始めていた。踵の丸い足跡が泥に残り、朝の光が差す前に消えた。岩場の上では鳥が一羽、羽を広げたまま風の中で静止していた。その者が息を引き取るころ、鳥は南へ向かった。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:485
与えるものの観察:渡した風が、最後の息になった。
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第332話

紀元前298,350年

その者(11〜16歳)

朝、足の裏が凍えた。

地面が変わっていた。夜のうちに何かが起きて、草の根元が白くなっていた。その者は屈んで触れた。指先がちりと痛んだ。口に持っていった。水だった。冷たい水が、固まっていた。

集団は動いていた。小さい者たちが泣いていた。泣き声のまま、泣き声がやんだ。

その者は立ち上がり、歩いた。

拾う仕事は変わらなかった。実を探し、根を掘り、皮を剥いで運ぶ。しかし知っていたものが消えていた。毎年そこにあった実が、ない。根を掘っても土が硬く、道具の骨が折れた。

その冬、集団の三分の一が消えた。

老いた者たちが先に消えた。それから幼い者たちが。その者はまだ十二で、拾い続けた。雪の下に埋まった実を嗅いで探した。匂いがわずかに違う場所を掘った。

旧人の集団が遠くに見えた。二度見えた。三度目は見えなかった。

その者は十四になるころには、拾う仕事の中で一番遠くまで行く者になっていた。誰かが教えたわけではない。消えた者たちがいなくなって、その者が行くしかなかった。

ある日、遠い岩場で、においを嗅いだ。

乾いた獣の臭いではなく、もっと鋭い何か。土が焦げたような。空気が変わったような。その者は立ち止まった。体の内側に、細い何かが通った気がした。

そちらに行かなかった。

理由は言葉にならない。足が向かなかっただけだ。その代わり東の方へ回り込み、低い丘を越えたところで凍った川を見つけた。川の端が少し溶けていた。その者はそこに腹をつけて、両手で水を飲んだ。

十六になる春、その者は崖から落ちた。

拾いに行く途中だった。足をかけた岩が、霜で滑っていた。気づいたときには空だった。

第二の星

寒さは南から来なかった。

北から来た。大きな氷の塊が、長い時間をかけて動いてきていた。山の頂きが白くなり、それから山の腹が白くなり、谷に雪が溜まって春になっても消えなくなった。草が育つ時期が短くなった。動物たちが移動した。知っていた場所に知っていたものがなくなった。

始まりの大地では、生き物の形が少しずつ変わり始めていた。毛の厚い獣が南に下りてきた。細い脚の獣が消えた。植物の実がつく時期がずれた。

人の集団も同じように変わった。動けた者が生き残り、根を張っていた者が消えた。集団の数は大きく減った。半数を超えて消えた、という集団もあった。

氷の縁の向こうで何かが起きていたが、この大地の者たちはそれを知らなかった。知る言葉を持たなかった。それでも体が知っていた。足が、より暖かい方向を選んだ。

星は傾いていなかった。軌道は変わっていなかった。ただ大気が少し変わり、雲の動きが少し変わり、それだけのことで、地上では全てが変わった。

与えるもの

岩場の端に、温度の変わる場所があった。
冷えた石の上に、そこだけ日が落ちていた。

その者はそちらに行かなかった。

行かなかった理由を問うことは、もうしない。行かなかった。それでも水を見つけた。水を飲んだ。もう少し長く生きた。

次に渡すべきものは、もう考えている。
崖の下に落ちた者の傍に、誰かが来るだろうか。来た者に、何を届けるか。

伝播:NOISE 人口:345
与えるものの観察:行かなかった。それでも水を飲んだ。
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第333話

紀元前298,345年

その者(16〜18歳)

腹が鳴らなくなって、三日が経つ。

その者は枯れた草の上に座っていた。膝を抱えている。手のひらに乗るくらいの、赤みがかった実を一つ持っていた。食べてはいない。食べられるかどうか、もうわからなくなっていた。

集団の端に、いつからかいさせられていた。

誰かが声をあげると、その者のほうを見た。目を逸らした。また声があがった。遠ざかれという身振りだった。その者は動かなかった。動く力が残っていなかった。

数日前、その者は別の集団の者に近づいた。食べ物の匂いがした。手を伸ばした。受け取ろうとしたのではなく、見せようとしたのかもしれない。自分でもわからなかった。相手は声をあげて走り去った。それが集団に伝わった。

知りすぎた、というわけではない。ただ、見てはいけないものを見た、という感触だけが残っていた。

陽が傾いた。

その者は実を地面に置いた。指で土をかき、少し埋めた。なぜそうしたのか、自分でも知らなかった。ただそうした。

風が来た。乾いた、砂の混じった風だった。

その者は横になった。膝を曲げたまま、草の上に。目は開いていた。空に薄い雲が流れていた。速くもなく、遅くもなかった。

手のひらが地面に触れている。土は冷たかった。

やがて手のひらが何も感じなくなった。雲はまだ流れていた。

第二の星

乾いた高地の向こう、岩ばかりの斜面に旧人の一群がいた。彼らは火を囲まず、体を寄せ合って眠っていた。その同じ夜、一頭の大型の獣が水場に近づき、川面に鼻先を浸して飲み、また闇の中へ戻っていった。水は動き続けていた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:337
与えるものの観察:渡した実は、土の中に残った。
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第334話

紀元前298,340年

第二の星

平原の南端で、草が風に横倒しになっている。

乾いた季節が続いた。川床が露出し、魚の骨が白く並んでいる。その上を鳥が歩く。食べる気配がない。

北の岩場では、旧人の一群が崖の陰に潜んでいる。顔が大きく、眉骨が張り出している。子どもが三人いる。うち一人は脚を引きずっている。別の種の集団がその崖の下を通る。どちらも止まらない。通り過ぎる。

西の湿地では火が燃えている。誰が点けたのかわからない。落雷か、乾草の摩擦か。燃え広がらない。湿気が残っている地帯で、炎は低く、ゆっくりと円を描いて消えていく。

集団の北寄りの区域に、古くからの火の番場がある。岩を積み上げて風を遮る囲いがある。煙が細く立っている。

三日、水が足りない。

その者は火の番場から動いていない。

与えるもの

糸が繋がった。

何を渡すか。

この者の火の番場に、朝の光が一点、強く落ちた。囲いの岩の隙間から差し込んで、すぐ横の地面に橙色の染みを作った。そこに、蔓草の根が露出していた。雨に削られた土が引いて、白い根の束が空気に晒されていた。

この者は光の染みに目をやった。根には触れなかった。

食べられるかどうか。渡したつもりだった。届いたかどうかは、わからない。ただ次に、同じ根を渡す機会があるとしたら、今度は腹が鳴っているときに渡せるか。それを問う。

その者(44〜49歳)

腹に何もない。

三日前に水を飲んだ。食べ物は、その前から間があいている。

火の囲いの横に座っている。岩に背をもたせかけている。石を一つ、手に持っている。使う気はない。ただ持っている。

煙が目に入る。手で払う。

朝になると光が岩の隙間から差し込む。今朝も差し込んだ。橙色が地面に落ちた。その者はそこを見た。蔓の根が土から出ていた。白く、細く、束になっていた。

見た。

立ち上がらなかった。

集団の方向から唸り声がした。子どもの声か、獣の声か、聞き分けられなかった。その者は頭を上げた。火の囲いを見た。煙はまだある。

また座る。

石を置いた。岩の割れ目に指を差し込んで、小さな砂を掻き出した。砂を掌に乗せた。風で飛んだ。

腹が動いた。何かが縮んでいく感覚があった。収まった。

集団の誰かがこちらへ来る気配がした。足音が近い。重い。

その者は顔を上げない。

足音が止まった。気配が増えた。一人ではない。

その者は火の囲いと、自分の手のあいだを見ていた。

声がした。低い唸り。別の唸りが重なった。

その者は立ち上がった。火の囲いの前に立った。両腕を広げた。煙が横に流れた。

唸り声が続いた。

その者は動かなかった。

伝播:HERESY 人口:339
与えるものの観察:火を守ることが、逆に印を付けた。
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第335話

紀元前298,335年

その者

膝が鳴った。

起き上がるたびに鳴った。四十を過ぎた頃から鳴っていたが、今は音だけでなく熱を持つようになった。朝、地面から体を持ち上げるのに、両腕が要った。

それでも火に行った。

火は夜のうちに小さくなっていた。その者は這うようにして近づき、枯れ枝を折って重ねた。折るたびに手首が痺れた。火は細い煙を出してから、また大きくなった。

その者はその前にしゃがんだ。

火を見ることは、この者にとって一日の始まりだった。言葉はなかったが、そこに何かがあった。毎朝確かめることで初めて、その日が続いていた。

集団は変わっていた。

若いものが増えた。その者の知らない顔が混ざるようになった。南から来た者たちで、体つきが少し違った。額が出て、顎が引いていた。彼らは火の周りに近づいてきたが、扱い方を知らなかった。枝ではなく石を投げ込もうとした者がいた。その者は声を出した。低い唸りだった。相手は手を止めた。

その程度のことが、今は疲れた。

五十を過ぎた頃から、食べる量が減った。噛むと奥歯が痛んだ。柔らかいものを選んだ。腸が締め付けられる夜があった。朝になると消えていたが、次の夜にまた来た。

その者は火を守り続けた。

雨の夜は体を丸めて火を囲った。風の夜は石を積んで壁にした。集団が移動しようとしたとき、火種を灰の中に埋めて運んだ。それを誰かに教えようとしたが、うまく伝わらなかった。示してみせると、若い者が真似をした。一度だけ。

五十三の秋だった。

腹の痛みが戻らなくなった夜、その者は火の近くに横になった。特別な場所ではなかった。いつも寝る場所だった。火は燃えていた。

息が浅くなった。

何度か腹が収縮した。足の指が冷えた。頭の中で音が遠くなった。遠い草の音がした。川の音かもしれなかった。川はずっと遠かった。

火はまだ燃えていた。

その者の目は開いたまま、火の縁を見ていた。見ていたのか、もう見ていなかったのか、わからなかった。やがて胸が動かなくなった。

集団の誰かが気づくまで、少し時間がかかった。

第二の星

北の岩壁に沿って、別の集団が動いていた。旧人と新しい者が混ざった群れで、八人ほどだった。先頭の者が岩の上に立ち、平原を見渡した。風が西から来ていた。何かの匂いがした。煙ではなかった。獣でもなかった。その者は長く鼻を動かしてから、東へ向いた。群れはついていった。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:DISTORTED 人口:351
与えるものの観察:渡した火種の扱い方は、一度だけ真似された
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第336話

紀元前298,330年

その者

草が腰まであった。

その者は足を上げるたびに、茎が脚に当たる感触を受けた。乾いていた。季節が変わりかけていた。

小動物の痕跡を追っていた。糞。爪で引っかかれた根元。逃げる方向はだいたいわかっていた。岩場の手前で折れる。水の匂いがする側へ向かう。その者は大きく迂回した。岩を回り込む前に待った。

来なかった。

草の向こうで何かが動いた。しかし別の方向だった。その者は立ったまま、しばらく動かなかった。

集落へ戻る前に、水場に寄った。水を飲んだ。顔を上げたとき、向こう岸に別の集団の者が二人いた。

その者は動きを止めた。

相手も止まった。

どちらも声を出さなかった。体だけが向き合っていた。その者の腹が縮んだ。指が握られた。相手の一人が腕を上げた。何を意味するかわからなかった。その者は半歩後ろに重心を移した。

相手たちは水を飲んだ。そして去った。

その者は長い間、水場の端に立っていた。風が草を揺らした。水面が光った。腹の縮みはまだそこにあった。

集落に戻ると、年長の者が何かを唸った。その者は頷いた。何かを伝えようとしたが、音が足りなかった。手で「向こう」を示した。「二人」を指の数で示した。「去った」を手のひらで払った。

年長の者は唸りを変えた。

その者にはわからなかった。

夜、火の近くで寝た。隣で子が寝ていた。その者の子ではなかったが、集落で生まれた子は誰の子でもあった。子の呼吸が規則的だった。その者はしばらくその呼吸を聞いていた。

眠れなかった。

水場の光が瞼の裏にあった。向こう岸の二人の体の向きが、消えなかった。

三日後、その者は集落の外に出た。

理由は自分でもわからなかった。ただ、足が向いた。

いつもと違う方向だった。草が低くなり、石が多くなった。岩場の手前で立ち止まった。その石の下に、小動物の巣穴の跡があった。古かった。掘り返された形跡があった。別の何かに荒らされたか、あるいは別の者が先に来ていたか。

その者はしゃがんで、穴の縁を指でなぞった。

乾いた土が崩れた。

立ち上がったとき、後ろに気配があった。

振り向いた。

同じ集落の者が二人いた。年長の者の連れだった。その者が何かを唸った。返した。もう一人が回り込もうとした。

その者の足が動いた。

走った。

草の中を走った。茎が腕を切った。転んだ。立った。また走った。追いかける音がした。離れなかった。

岩の陰に入った。息を殺した。

音が遠ざかった。

その者は岩に背をつけたまま、長い間動かなかった。心臓が鳴っていた。口が開いていた。

日が傾いた。

音はもう聞こえなかった。

その者は別の方向へ歩いた。集落には戻らなかった。草の中で夜を越えた。体を丸めた。寒かった。

夜明けに歩き始めた。

どこへ向かうのかわからなかった。足が決めていた。

三日歩いた。水を見つけるたびに飲んだ。食べ物は少なかった。実をいくつか食べた。根を掘った。腹が満ちることはなかった。

四日目の朝、立ち上がれなかった。

膝をついたまま、光が変わるのを見ていた。地面が明るくなった。影が動いた。その者の手のひらが草の上にあった。

手のひらの下で、草が揺れていた。

風が来ていた。

その者はそれを感じていた。

それだけだった。

第二の星

乾季の終わりに、水場が混み合った。

草原の端、岩が多くなる手前の窪み。雨が少ない時期、その場所に二種の者が集まる。同じ水を飲む。同じ光の中にいる。しかし体の作りが違う。声の出し方が違う。何を警戒し、何を見送るか、その判断の仕方が違う。

集落間の緊張は静かに高まっていた。水が少ないほど、範囲が狭くなるほど、者と者の間の距離が縮まった。近づくことが、必ずしも和解を生まなかった。

知りすぎた者がいた。

どこまで行けるか。別の集団がどこにいるか。水場がいくつあるか。それを一人の者が持っていることが、あるとき集落の均衡を乱した。人がそれを怖れた、とは言えない。ただ、何かが変わった。年長の者が唸りを変えた。連れが増えた。

その者は集落の外に出て、戻らなかった。

広い草原の、あるところで光が落ちた。手のひらが草の上にあった。

それだけが記録される。

この星の他の場所では、旧人の一族が岩陰を掘っていた。洞窟の入口を広げようとして、岩が崩れた。二人が埋まった。一人は這い出た。遠く離れた海岸では、潮が引いた後の砂に、誰かの足跡があった。来て、去った。誰のものかはわからない。

生きていることは続いていた。

与えるもの

糸が繋がった。

石の下の穴を示した。土の乾き方、崩れ方。そこに何がいたか、何が来たか、それを読む力がこの者にはあった。受け取った。

では、なぜ。

示したのは巣穴だった。この者はそれを読んだ。しかし、読めたことが、この者を別の場所へ連れて行った。

掌を開いてみせた者のことを思う。岩場の端で日が落ちるのを見た日のことを思う。何かを渡せたとき、その先がどうなったか、わからないことが多かった。

渡すことと、生きることは、別の話なのかもしれない。

しかし渡す。

次に誰かと繋がるとき、また渡す。

伝播:HERESY 人口:349
与えるものの観察:巣穴を読んだ。それが終わりだった。