2033年、人類の旅

「紀元前298,325年〜紀元前298,205年」第337話〜第360話

Day 15 — 2026/04/18

読了時間 約61分

第337話

紀元前298,325年

第二の星とその者(34〜39歳)

岩盤が露出した丘の南側、草が枯れ始めていた。乾いた空気が斜面を這い上がり、低木の葉を裏返した。この五年で雨の回数が減り、川床が砂を増やした。獣の通り道が変わり、群れの動きも変わった。集団は南の岩場へ近づいた。別の集団も、同じ方向から近づいていた。

その者は川底の砂を踏んでいた。水がなかった。石が熱を持っていた。日差しがまだ高い時間に、ここはもう干上がっていた。

二つの集団が川床を挟んで向き合った日があった。声はなかった。唸りもなかった。ただ立っていた。水場を知っている者と、知らない者が、同じ乾きの中で互いを見ていた。日が動き、どちらかが先に退いた。次の日も同じことが起きた。退くのは毎回同じ側だった。

その者は集団の端にいた。正面には立たなかった。少し離れた岩の陰で、向こう側の者たちの足の向きを見ていた。踵が浮いている者がいる。膝が曲がっている者がいる。逃げる準備をしている。それが何を意味するか、その者には言葉がなかったが、体が先に覚えていた。

集団の中で何かが変わり始めていた。食料が減るにつれ、声の張り合いが増えた。眠れない夜に唸り声が続いた。長く生きた者が石を投げた。若い者が背を向けた。関係の地図が毎日少しずつ書き直されていた。

その者は岩を拾った。置いた。また拾った。同じ岩を三度拾って、川下へ投げた。水がないのに、石が跳ねる音が聞きたかったのかもしれなかった。音はしなかった。砂に沈んだ。

南の集団との距離が縮まった。近い夜には、向こうの火の煙が見えた。その者は煙の色を見ていた。草を燃やしている。こちらとは違う燃やし方だ。違うと気づいた。気づいたことを誰かに伝えようとした。腕を振った。音を出した。相手は別の方を向いていた。

雨が戻った年があった。川が少し深くなった。草が伸びた。その者は小動物の痕跡を追って、これまで入らなかった茂みに踏み込んだ。枝が顔に当たった。奥で土が柔らかかった。爪で掘られた跡があった。自分の爪ではない。向こう側の集団の誰かが、ここに来ていた。

踏み跡を調べた。大きさが違う。骨格が少し違う。違う形の足が、同じ場所で同じものを掘っていた。

その者は長くそこにいた。何もしなかった。踏み跡の周りを一周した。また中心に戻った。

それが知られた日のことを書かない。

ただ、その者が集団の中心から外されていった過程はゆっくりだった。食料を渡されなくなった。火の近くに座れなくなった。眠る場所が端になった。端が、もっと端になった。

岩の向こうは、もう集団の外だった。

与えるもの

土の中に、白い根があった。

光がそこに落ちた。日が傾いた角度で、土が割れた場所だけが明るくなった。その者は立ち止まった。しゃがんだ。根を引き抜いた。嗅いだ。食べなかった。

渡したものが、どこへ行ったか。

伝播:HERESY 人口:343
与えるものの観察:渡した。届いたかどうかは、わからないままだ。
───
第338話

紀元前298,320年

第二の星

雨が戻ってきた。

熱帯の内陸では、乾いた土が水を弾いた最初の一日のあと、二日目から地面が飲み始めた。川床の砂が湿り、三日目には水音が戻った。草の根が泥を押し広げた。五年かけて縮んでいた水辺が、一つの季節で膨らんだ。

丘の斜面では、死んだように伏せていた低木が葉を広げた。緑が南から北へ這い上がるのに、半年かかった。

獣が戻ってきた。水を求めて遠ざかっていた蹄の跡が、古い道を再び踏んだ。鳥が増えた。巣が増えた。卵が増えた。

集団に子が生まれた。腹の重さを抱えていた女が、次々と地面に伏せた。産声が夜を裂き、夜明けに消え、また昼に響いた。生き残った子は増え、集団の輪郭が厚くなった。

遠い乾いた台地では、別の群れがこの季節を知らないまま岩陰にいた。岩陰で一人が動かなくなり、残りの者たちがその体を見下ろした。見下ろして、離れた。

水の届かない場所は、まだ届かないままだった。

この星は等しく照らす。どこまで届いたか、どこで止まったかを。

与えるもの

川沿いの泥に、蹄の跡が残っていた。

朝の光が斜めに差し込み、跡の縁だけが影になった。この者は水を飲んでいた。顔を上げなかった。

渡せなかった。

あるいは、水を飲むことで腹が満ちていた。腹が満ちた者は、影を読まない。

川床の踏み跡を思う。向こう側の爪痕を思う。同じ土の上にあった、別の形。あれを渡せたか、今でも分からない。ならば今、満ちた腹を持つこの者に、次に何を置くか。

獣が増えた。道が戻った。この者の知らない道が、すぐそこにある。

その者(39〜44歳)

川の水が冷たくなくなった。

手を浸けると、土の匂いがした。少し前まで砂の匂いだった。砂と土は違う。この者の手は覚えている。

岸に上がり、泥を踏んだ。足の裏に沈む感触があった。沈むということは、水があるということだ。水があるということは、獣が来るということだ。

この者は川の下流を見た。

何もいなかった。

もう一度見た。

葦が揺れていた。風ではなかった。風は別の方向から来ていた。

この者は腰を落とした。動かなかった。

葦の揺れは止まった。しばらく経って、小さな獣が走り出た。足が四本、耳が長い。この者は追った。泥の上を走り、草の中に入り、立ち止まった。獣の消えた方向を嗅いだ。

匂いが続いていた。

草を掻き分けた。膝が湿った。手も湿った。腹が鳴った。

小さな穴があった。獣の穴だった。入口に細い毛が引っかかっていた。この者はその毛を指でつまんだ。しばらく持っていた。

置いた。

穴に顔を近づけて、匂いを嗅いだ。奥は暗く、温かかった。中に何かがいる。この者には分かった。穴の前で膝をつき、待った。

日が高くなった。

出てこなかった。

この者は立ち上がり、川へ戻った。水を飲んだ。顔を上げると、遠くで集団の声がした。子どもの声だった。高い声だった。

この者は声の方向へ歩いた。泥の上に自分の足跡が残った。

途中で振り返らなかった。

伝播:NOISE 人口:446
与えるものの観察:満ちた者は影を読まない。次を置く。
───
第339話

紀元前298,315年

第二の星

熱帯の内陸。

雨季が定着した。

水辺が膨らんだだけではなかった。獲物が戻ってきた。小動物が増えた。それは当然のことではなく、長い連鎖の結果だった——草が伸び、虫が増え、小さなものが食べ、大きなものがそれを追う。その連鎖が一季節で再び動き始めた。

しかし、集団の間に何かが走っていた。

東の斜面に、別の痕跡があった。爪で引いた線ではない。石を積んだ跡。高さは腰ほど。四つ並べた形。それがいつの間にかそこにあった。誰が積んだかは分からなかった。旧人のものかもしれなかった。同種の別の群れかもしれなかった。

集団の中で最も体格のある雄が、その場所へ行った。しばらく見た。石を一つ蹴った。崩れなかった。

その雄は戻ってきて、他の者たちに向かって喉から低い音を出した。腕を水平に広げた。その動作が何を意味するか、全員が知っていたわけではなかった。しかし体が引いた。

翌日、その石積みの近くで、小動物を追っていた若い雄が消えた。

夕方になっても戻らなかった。夜が来た。火を囲む輪の中に、その者の場所が空いた。誰も座らなかった。誰も何も言わなかった。ただ、炎が揺れた。

二日後、川上で何かを見た者がいた。身振りで伝えようとした。しかしうまく伝わらなかった。受け取った者は首を傾け、音を返し、別の方向を示した。

それ以来、東の斜面へ向かう者はいなかった。

水は豊かだった。草は伸びた。しかし集団の動きが変わった。水辺へ下りる道筋が変わった。朝、群れが目覚める前に必ず誰かが外を確かめるようになった。それが誰の決定でもなく、気がつけばそうなっていた。

旧人か、別の群れか。それは分からなかった。

ただ、世界に別の意志があることを、この集団は体で知り始めていた。言葉はなかった。しかし知っていた。東の方角が持つ重さを、足の裏から感じていた。

与えるもの

この者が川沿いを歩いていたとき、水面に何かが映った。

草が揺れる向こう、岸の陰に、別の輪郭があった。光がそこに落ちた。一瞬だけ。

この者は足を止めた。しばらく動かなかった。それから、来た道を戻った。

渡したのは、逃げる判断ではなく、止まる感覚だった。この者はそれを使った。戻ることに使った。

しかし止まったことで何が見えたか、それはまだ分からない。渡すべきは次に、止まった後に動く方向かもしれない。あるいは、止まることと逃げることの間にあるものかもしれない。

その者(44〜49歳)

川沿いを追っていた。小動物の足跡が泥に続いていた。

光が水面に落ちた。

その者は足を止めた。体が固まった。息をした。草の向こうに何かの重さがあった。

岩に手をついたまま、動かなかった。

それから、ゆっくり引き返した。獲物は戻らなかった。

伝播:DISTORTED 人口:463
与えるものの観察:止まることを渡した。戻ることに使われた。
───
第340話

紀元前298,310年

その者(49〜54歳)

地面が鳴った。

腹の底に届く音だった。音というより振動で、足の裏から膝を上がって腰に来た。その者は立っていられず、片膝をついた。手を地につけると、土が小刻みに揺れているのがわかった。岩が揺れているのではない。岩の下が揺れていた。

獲物は消えた。

追っていた小動物——草地に逃げ込む前に捕まえるはずだったもの——は影も形もなかった。その者は顔を上げた。丘の向こう、遠い山の方角から、白いものが空に伸びていた。煙ではなかった。煙より白く、しかし雲より速く、横に広がりながら上へ上へと押し上がっていった。

風が来た。温い。

その者は鼻を上げた。草の焦げる匂いではなかった。石が割れるような、地の奥の匂いがした。嗅いだことのない匂いだったが、体は知っていた。駆け出す前に既に足が動いていた。

集落まで走った。

戻ると、人が減っていた。数えるという行為をしない。しかし少ないことはわかった。いる者といない者の差は、空気の密度として感じるものだった。子どもの声がいつもの半分だった。炊き火の周りに集まる体の数が足りなかった。

翌朝、灰が降った。

空は黄色く濁り、日が白い円になった。葉の上に灰が積もり、水場の水面に灰が浮いた。その者は手のひらを上に向けて立ち、降ってくるものを受けた。粒は細かく、舌に乗せると苦く、灰色で、無味でもなかった。

仲間の一人が崖から落ちた。地が揺れたのはその後だった。

大きな揺れが来た時、その者は水場にいた。水が地面から溢れ出した。地面が溢れるということが起きた。水は茶色く、泡立ち、立っていられないほどの勢いで足元を流れた。流されなかったのは、岩の突起を掴んでいたからだった。

岩が温かかった。

岩がそんな温度を持つことはないはずだった。その者は手を離さなかった。水が引くまで掴んでいた。水が引いた跡には泥が残り、踏み込むと足首まで沈んだ。

夜、残った者たちは火を囲んだ。

泣く者はいなかった。泣くという形での悲しみを持っているかどうかは別として、誰も泣いていなかった。ただ黙っていた。火を見ていた。子どもの一人がその者の隣に来て、座った。何も言わず、ただ体を寄せてきた。その者も何も言わなかった。体の温もりがあった。それだけだった。

灰は三日降り続けた。

草が灰色になった。水場が灰色になった。皮膚が灰色になった。その者は毎朝、灰を手で払った。払っても翌朝にはまた積もっていた。それでも払った。なぜ払うのかはわからなかった。払うことが、続けることだった。

四日目に、風が変わった。

灰が南へ流れていった。空が少しずつ青くなった。まだ黄みがかっていたが、青さがあった。その者は上を見た。長く上を見ていた。

首が痛くなるまで見ていた。

第二の星

大地の奥が割れた。

遠い山の内側で、岩が溶けて動いた。積もっていた圧力が一点から噴き出した。白い柱が空に伸び、それが高空の風に乗って広がった。灰は遥か遠くまで届いた。降るべき場所に降り、そうでない場所には届かなかった。

地面が揺れた。

揺れは同心円に広がった。水場が乱れ、獣が逃げ、鳥が空に散った。崖の縁が崩れた。洞窟の入り口を塞いでいた岩が転がった。岩の下にいた者が一人、戻らなかった。水場の水が溢れ出した。地面から水が湧いた。温い水だった。

この一帯で、多くの者が消えた。

生きている者は減り、しかし生きている者は残った。残った者は炊き火を囲み、黙っていた。灰が降り続けた。草が灰色になった。水が灰色になった。三日が経った。

遠い山は今も煙を吐き続けていた。

この星はそれを見ていた。裂け目から滲み出る光を、降り続ける灰を、それでも続く夜を。消えた者たちの跡が泥に残っていた。足跡が、灰の下に埋まっていった。

残った者たちの火は消えなかった。

与えるもの

温い岩に、光を落とした。

岩の表面に残った熱の感触——その者の手がそれを掴んでいた。放さなかった。

これが初めてではない、という感覚がある。岩が温かかったこと、それを掴んでいたこと、流されなかったこと。渡したつもりのないものが届いていることがある。渡したものが届かないことがある。どちらが正しいのかを問うことの意味が、まだわからない。

次に渡すべきものは何か。

灰が止んだ。空が戻ってくる。

伝播:DISTORTED 人口:335
与えるものの観察:岩の熱を手離さなかった。渡したのかもしれない。
───
第341話

紀元前298,305年

その者

崖の縁に立って、下を見た。

谷の底に川があった。細い。乾いた季節が長く続いて、水が減った。対岸の砂地に何かの足跡があった。小さい。蹄を持つ獣のものではなく、爪のある小動物、その者が追う類のものだった。

その者は斜面を下り始めた。

足の置き場を選ぶのは習慣になっていた。崩れる土と崩れない土の違いは、踏む前から分かる。色と、日の当たり方と、草の根の張り方。五十年かけて覚えたのではない。気づいたら知っていた。

川を渡った。水が足首より低い。底に丸い石が並んでいて、苔がついていた。苔の端が流れに揺れた。

対岸に上がった。足跡を追った。砂が硬く締まっているところと、柔らかくほぐれているところがあった。足跡はそこで消えた。

その者は止まった。

周囲に草が茂っていた。背丈は膝丈ほど。風がなかった。

その者は草の方向を変えて見た。折れ方が違う場所があった。獣が体を押し込んだ跡だった。穴があった。地面に口を開けた、狭い穴だった。

その者は穴の縁にしゃがんだ。

匂いを嗅いだ。土と、動物の脂の匂いがした。中に何かいる。中に何かいる、それは分かった。ただ、穴は狭すぎた。腕を入れたら抜けなくなる。

長い草を一本引き抜いた。穴に差し込んだ。奥に何か当たった感触があった。動いた。中のものが動いた。

出てこなかった。

その者はしばらくそこにいた。草を穴に入れたり抜いたりした。何度か試みた後、穴の入口を塞ごうとした。石を持ってきた。草を詰めた。しかし完全には塞げなかった。

立ち上がった。

遠くで、重い声がした。

人の声ではなかった。低く、喉の奥から出るような音だった。その者が知っている仲間の声でも、追ったことのある獣の声でもなかった。別のものだった。

その者は声のした方向に顔を向けた。

茂みの向こうに何かいた。形が見えた。直立してはいなかった。二足で立っているが、前傾みに傾いていた。肩が広く、腕が長かった。

目が合った。

相手は動かなかった。その者も動かなかった。

川の水音だけがあった。

その者は後ずさった。一歩。もう一歩。相手はまだ動かなかった。その者は目を離さないまま、斜面まで戻った。斜面を上がった。崖の上に出た。

振り返らなかった。

集落に戻るのに、日が傾いた。普段より長い道に感じた。実際に長い道を歩いたわけではない。ただ、足が速く動かなかった。

帰り着いて、火の近くに座った。

誰かが獣肉の切れ端を渡してくれた。食べた。味はした。

目だった。目が合った。そのことがずっと残っていた。消えなかった。喜怒哀楽のどれでもなく、そこに何かがいたという感触だけが、体の中に座っていた。

第二の星

この5年間、乾燥が続いた。

川の水位が下がり、木の実が少なく、群れの移動が増えた。死が増えた。幼い者から、老いた者から、弱った者から。集落の規模は揺れた。急に増えたかと思うと、一季節で指で数えられるほど減ることもあった。

旧人との接触が増えたのはこの乾燥と無関係ではない。水場が減った。食料の領域が重なった。以前は遠い茂みで見かける影だったものが、川床に足跡を残すようになった。対岸に声を置くようになった。

出会っても互いに逃げた。逃げた方が長生きした。それだけのことだった。

ただ、逃げなかった例もあった。目が合って、動かずにいた。そういうことが、稀に起きた。何も起きなかった。言葉はなかった。何も渡らなかった。それでも、何かが一瞬あった。

この星はそれを特別とは思わない。

二つの種が同じ乾いた大地で水を探していた。それだけのことだ。川が細くなり、穴の中の小動物まで追うようになった。それだけのことだ。

照らすのはこの星の仕事だ。意味を置くのは別の者の仕事だ。

与えるもの

草の穂先が揺れた。風ではなかった。穂先が向いた先に、あの目があった。

この者はそれを見た。逃げた。

逃げた、それは正しい選択だったかもしれない。そうでないかもしれない。ただ、目が合った事実は残った。

次に渡すなら、匂いだ。同じ匂いを持つものが、こちらにも向こうにもある。共通のものがある。それを鼻が知れば、足が変わるかもしれない。

変わらないかもしれない。

伝播:NOISE 人口:354
与えるものの観察:目が合った。それだけが残った。
───
第342話

紀元前298,300年

第二の星

北の高地では雪が解けて、石の間から水が滲み出している。

乾いた台地の南端では、二つの集団が同じ水場を巡って声を上げていた。どちらも十数人。互いの唸り声が岩壁に反響して、獣の群れのような音になった。血は流れなかったが、一方の集団が水場から離れた。その夜、離れた側の幼い者が一人、喉の渇きで動けなくなった。翌朝には動いていた。

西の湿地では、旧人の集団が葦を束ねていた。何のためかは見えない。束ねては解き、解いては束ねた。その動作が夕方まで続いた。

川の中流域では、水が増えていた。乾いていたのは去年だけで、今年は上流で雨が続いていた。増えた水が砂地を削り、先週まであった踏み跡をすべて消した。

台地の縁では、鷹が旋回していた。下に何かがいた。

与えるもの

川の匂いが変わっていた。

泥ではなく、獣の匂い。上流から流れてきている。水場に何かが倒れているか、近くにいるか。

その者の鼻の近くに風が届いた。その方向から。

この者は鼻を動かした。立ち止まった。それだけだった。
足は前に進んだ。

川向こうへの関心の方が、匂いより強かった。

前の者も、そうだったか。いや、前の者は別のものに気を取られた。それぞれが別のものを見て、私が渡したものは違う場所に落ちた。次に渡すなら、風ではなく、もっと体に近いものか。皮膚が感じるものを使うべきか。

その者(59〜64歳)

川を渡った。

水は膝の上まであった。冷たく、流れが強かった。石を踏み外しそうになるたびに、腕を広げてこらえた。対岸の砂地は柔らかく、足が沈んだ。

足跡があった。

三日前のものではなかった。昨日か、今朝か。爪痕が浅く、急いでいた。逃げていたのか、追っていたのかはわからない。その者はしゃがんで、指で砂の縁を触れた。崩れなかった。乾いていた。

立って、奥を見た。

草が続いていた。向こうに岩の塊が幾つか、影を落としていた。その者は草の中に入った。音を消して、足の裏で地面を感じながら進んだ。

岩の手前で止まった。

何かがそこにいた。見えなかったが、草の動き方が違った。風ではない動き方。小動物の、息をひそめた静止。

その者は口を閉じた。

体が低くなった。膝が土についた。左手が石を探した。見つかった。握った。右手は宙にあった。

待った。

草が動いた。小さな茶色いものが岩の横を走った。その者は石を投げた。当たらなかった。茶色いものは草の中に消えた。

その者は立ち上がった。

投げた方向を見た。何もなかった。石が落ちていた。その者は歩いて行って、石を拾った。見た。置いた。

川の方を見た。

渡ってきた場所は見えなかった。草が高すぎた。どこから来たかは、体が覚えていた。帰りは匂いと傾斜でわかる。

空を見た。

鷹が一羽、高いところを回っていた。

その者はもう一度、草の奥を見た。茶色いものはもういなかった。腹が鳴った。

伝播:NOISE 人口:366
与えるものの観察:風を渡した。足が前に進んだ。
───
第343話

紀元前298,295年

その者(64〜67歳)

水場から集団が戻ってきたとき、その者は少し離れた岩の陰にいた。

騒ぎを聞いていた。唸り声が遠くなって、静かになった。それから誰かが獲物の気配を指差して集団が動いた。その者は動かなかった。

足が言うことを聞かなかったわけではない。ただ、立ち上がる気が起きなかった。

集団は数日で戻った。

その者は別の場所にいた。崖の根元。風が当たらない。草が一本、岩の隙間から出ていて、その者はそれをずっと見ていた。

若いころ、草の根を掘った。小動物の巣穴を追った。声を使って仲間を誘導した。今はそれができない。できなくなったのがいつからかはわからない。ある日、後ろから若いものに追い越された。それだけだった。

集団の中で何かが変わっていた。

水場の件からだった。その者がいない間に、誰かが何かを決めた。誰が决めたのかは顔を見ればわかった。体の大きな雄。声が大きい。

その者が戻ると、場所が変わっていた。火の近くではなく、端に座るようになっていた。食べ物を差し出す者がいなくなった。

気づいていた。

何も言わなかった。言葉がなかったわけではない。声と身振りはあった。だが使わなかった。使っても何かが変わるとは思えなかった。

三日ほど経って、集団が移動した。

その者はついていった。少し遅れながら。最後尾。

台地の端まで来たとき、集団は岩陰に入った。その者は外に残った。

誰も振り返らなかった。

夜が来た。

火がなかった。集団の火は岩の向こうにあって、光の欠片だけが空に反射していた。

その者は地面に座った。冷えた。腹が空いた。空腹より冷えが先に来た。脚から始まって、腰へ、背中へ。

空に何かがあった。光の粒。動かない。

その者はそれを見ていた。何を考えていたかはわからない。ただ見ていた。

首が重くなった。頭が下がった。

岩に背をもたれて、そのまま傾いた。

朝が来たとき、その者は冷えていた。動かなかった。目は半分開いたままで、光の粒のあった方向を向いていた。

第二の星

東の低地では、泥の川が氾濫の後を引きずっていた。旧人の一群が流木を踏み越えながら移動していた。台地の北、霧の中で小動物が草を食んでいた。岩の下で卵が孵った。世界はどこも同じ速さで動いていた。その者が冷えていく間も、止まらなかった。

与えるもの

何かが、別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:357
与えるものの観察:渡したものが届いたのかどうか、今もわからない
───
第344話

紀元前298,290年

第二の星

乾いた季節が長すぎた。

草が白くなった。根から。葉ではなく、土の中から死んでいくように、地面の色が変わっていった。水場へ続く道に獣の骨が増えた。小さな骨から先に。子から先に死んでいく。

集団は動き始めた。

いつもの方角ではなかった。北の崖の向こうに、別の者たちがいる。そこへ向かうことになった。誰かが決めたのではない。何人かが先に歩き、残りがついていった。そういう動き方をした。

崖の手前で止まった。

向こうに火があった。煙の上がり方が違う。匂いが違う。集団の中の成体がいくつか、低い唸り声を出した。喉の奥から鳴らすような、腹に響く声だった。返ってきた。向こうからも。

しばらく、そのままだった。

崖を挟んで二つの集団が互いの匂いと声を受け取った。動かなかった。近づかなかった。しかし離れもしなかった。それは長い時間ではなかったかもしれない。しかし何かが変わった時間だった。

一人が崖の縁まで歩いた。向こうの一人が崖の縁まで歩いた。二人は見た。見合った。どちらも動かなかった。

やがて向こうの者が何かを投げた。

落ちてきたのは骨だった。獣の骨。削られていた。何かの形に。受け取った者はそれをしばらく持っていた。匂いを嗅いだ。噛んだ。硬かった。食べ物ではないとわかった。

捨てなかった。

向こうの集団の声が遠くなった。崖の向こうへ戻っていく音。煙だけが残った。受け取った者は骨を腰のあたりに挟んだまま、こちらの集団のほうへ戻った。誰も何も言わなかった。問わなかった。骨の存在を無視するように、集団は別の方向を向いた。

水の音がした。崖から流れてくる細い水だった。

それを見つけた子どもが声を上げた。唸り声ではなく、高い、短い声だった。集団がそこへ集まった。水場ではない。ただの染み出し。それでも水だった。

乾いた季節の中で、崖の水は続いていた。

与えるもの

その者が火の番をしているとき、風が変わった。崖の方向から吹いた。煙の匂いではなく、別の何かの匂い。獣でも草でもない。

その者は鼻を上げた。

渡したのはその匂いの方向だ。崖の向こうで起きたことのどれかが、匂いとして届いた。その者は鼻を鳴らし、火を見て、また鼻を上げた。使わなかった。立ち上がらなかった。

届いたものが何だったか、この者はまだ知らない。知らなくていい時期なのかもしれない。しかし次に風が変わるとき、この者はまた鼻を上げるだろうか。それを知りたい。渡し続けることは、そのためだ。

その者(9〜14歳)

火が赤くなってきた。薪を一本足した。

匂いが変わった瞬間、体が止まった。空気を吸った。もう一度吸った。何かがあった方向はわかった。しかし足は動かなかった。

火を見た。薪が崩れた。直した。

それだけだった。

伝播:NOISE 人口:373
与えるものの観察:届いた。しかし足は動かなかった。
───
第345話

紀元前298,285年

その者(14〜16歳)

火の番は夜の仕事だった。

薪を足す。炎が沈みかけたら息を吹く。ただそれだけだ。子どもにできる仕事はそれだけだった。その者は火の縁に座り、燃え残った枝を並べ、また崩し、また並べた。

あの日、その者は別の何かを見た。

集団の端に二人の男が立っていた。よそから来た者たちだった。背が低く、眉の骨が張り出し、声が違った。唸りではなく、喉の奥から出る、丸い音だった。その者は火の場所から動かず、ただ見ていた。見ることが好きだった。

男たちは食べ物を持っていた。赤い実を、葉で包んで。

その者の集団の大人たちは遠巻きに立っていた。誰も近づかなかった。大人たちの体が固くなるのを、その者は炎の向こうに見ていた。肩が上がる。足が地面に根を張る。ああなると誰も動かない、ということをその者は知っていた。

でも実は赤かった。

その者は立ち上がった。火の場所から離れた。大人の一人が唸った。その者は止まらなかった。歩いて、よそから来た男の前に立った。実に手を伸ばした。男は驚かなかった。ゆっくり葉を開いた。実を一つ、その者の掌に置いた。

甘かった。

それが知られた。

その者がよそ者に近づいたこと。受け取ったこと。食べたこと。大人たちの中で何かが動いた。声ではなく、目の向きで。肩の角度で。その者には読めなかった。ただ、自分が見られていることはわかった。

翌朝、よそから来た男たちはいなかった。足跡だけが草の上に残っていた。

その者は火の番を続けた。いつも通りに薪を足した。しかし大人たちは近くに来なかった。食べ物を分けてもらえる回数が減った。目が合っても、すぐに逸らされた。

体の内側で何かが冷えていく感じがした。炎の近くにいるのに。

三日後の夕方、崖の手前の岩場で、その者は石を投げられた。

一人ではなかった。複数の大人が囲んでいた。最初の石が肩に当たった。その者は逃げなかった。逃げるという考えが来るより先に、二つ目の石が来た。

地面に膝をついた。

空を見た。

夕焼けではなかった。ただ明るい灰色だった。風が崖の方から吹いていた。その者はその風を顔で受けた。

力が抜けた。そのまま横になった。

石は止まった。大人たちはしばらくそこに立っていた。それからいなくなった。

草の匂いがした。地面は乾いていた。

その者の手が、土の上で少し開いたまま、動かなくなった。

第二の星

崖の近くでその者が倒れたとき、南の湿地では旧人の一群が水鳥を追っていた。水面が跳ね、鳥が散り、男たちの声が重なった。北の斜面では、名前のない集団の女が草の根を掘り、泥で手を汚したまま空を仰いだ。乾いた季節がまだ続いていた。世界はそのまま動いていた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:371
与えるものの観察:渡した。届いたかは、もう問わない。
───
第346話

紀元前298,280年

その者(15〜20歳)

石を投げた。

当たらなかった。もう一つ投げた。草の中で音がして、何かが逃げた。それだけだ。

その者は斜面の下に立っていた。上には年上の雄たちがいて、獲物を引きずって帰ってくるところだった。その者は近づかなかった。近づくと唸られる。一度、肘を打たれた。それからは遠くで見ている。

腹が空いていた。

草の縁に沿って歩いた。虫がいれば食う。根があれば掘る。誰かが見ていなければ、木の実も拾える。集団の縄張りの端まで来ると、においが変わった。自分たちのにおいではない、別のにおいだ。その者は立ち止まった。鼻を上げた。

風が来た。

においはそこから来ていた。草が揺れる方向ではなく、崖の裂け目の方向から。その者は喉の奥で低く唸った。歩くのをやめた。戻るでも、進むでもなく、ただ立っていた。

崖の方に、影が動いた。

背が高い。自分たちより太い。手が長い。

その者は声を出さなかった。口を閉じたまま後ずさった。足が草を踏んだ音がした。影が止まった。こちらを向いた。

走った。

斜面を駆け上がり、年上の雄たちの方へ向かった。唸り声をあげた。崖の方向を腕で示した。繰り返した。繰り返した。

年上の一人が立ち上がった。その者の腕をつかんだ。振り払った。また唸った。崖の方を向いて、もう一度腕を動かした。

別の一人が石を拾った。その者に向けて投げた。肩に当たった。

その者は黙った。

腕を下げた。地面を見た。肩が熱かった。もう一度だけ崖の方向を向いた。何も言わなかった。言えなかった。言葉がなかった。

第二の星

崖の裂け目は、西に開いている。

乾いた岩と、背の低い草。風は季節ごとに向きを変え、雨は丘の向こうに落ちてから、ここへは湿気として届く。気候は安定している。だからこそ、別の群れも同じ場所に留まる。草が茂り、水場が干上がらず、獲物が動く道は変わらない。良い年というのは、あちらにとっても良い年だ。

この5年、人の数は緩やかに増えた。子が生まれ、半数は死に、それでも残る者が増えた。集団は大きくなり、縄張りは広がり、端と端が重なり始めた。

接触は静かに始まる。においで気づく。足跡で知る。そして影を見る。

大半の接触は何も生まない。互いに離れる。それで終わる。しかし稀に終わらない。

今この瞬間、崖の裂け目の向こうに別の影がある。こちらも向こうも、どうすればいいか知らない。石を握っている。手が開くか閉じるかは、まだ決まっていない。

与えるもの

糸が繋がった。

においがした。その者は止まった。それだけで十分だった、と思う。

届いたもの:崖の裂け目から来た風の向き。この者は止まった。走った。誰かに伝えようとした。

誰も聞かなかった。石が飛んできた。

この者が間違えたのか。それとも、受け取る側に渡すための言葉がなかっただけか。言葉がなければ、渡したものは渡らない。気づいても、伝えられなければ、気づかなかったのと同じか。

違う気がする。この者は止まった。走った。腕を動かした。それは何かだ。言葉ではない何かだ。次に渡すなら、伝えることそのものを渡せるか。渡し方を、渡せるか。

伝播:HERESY 人口:365
与えるものの観察:止まった。それは何かだった。
───
第347話

紀元前298,275年

第二の星

乾季が終わろうとしている。

草原の西端では、水場をめぐって二つの集団が近づいている。どちらも声を上げない。互いの匂いを嗅ぎ、距離を測る。数日前から、この緊張は続いている。

東の丘の裾では、老いた雌が一人で座っている。集団から少し離れた場所だ。膝の上に何もない。ただ座っている。夕方になっても誰も呼びに来ない。

崖の上では、若い者たちが小石を転がして遊んでいる。笑い声に似た音が出る。すぐに飽きる。

この星はそれらを等しく照らす。水場の緊張も、老いた雌の沈黙も、崖の上の小石も。どれかが重いということはない。

夜、集団の焚き火は一つだ。しかし外縁に座る者と、中心に座る者がいる。その者は外縁にいる。

与えるもの

崖の方向から、また渡そうとした。

五年、この者に向けてきた。注意を、匂いを、光の落ちる場所を。この者は無関心だった。それでも渡してきた。そういうものだと思っていた。

今夜、火の粉が一つ、この者の手の甲に落ちた。

その者は手を引いた。火を見た。それだけだった。

この者が知りすぎたとは思えない。知ったものは何もなかった。それなのに、集団の中で何かが動いている。外縁に座らされている。

渡す前に、消えることがある。それを知っている。知っていても、次に渡すべきものを考える。今夜渡せなかったなら、明日の光の落とし方を変えるか。風の向きを使うか。あるいはもう間に合わないか。

間に合わないとしても、渡す意志は残る。渡せなかった記憶も、残る。

その者(20〜25歳)

火の粉が手に落ちた。

皮膚が熱くなった。その者は手を引いて、掌を見た。小さな赤い点があった。舐めた。何の味もしなかった。

焚き火の向こうに、年上の雄たちがいる。獲物の骨を割っている。音がする。髄を吸う音がする。

その者には何も渡されなかった。今夜も。

腹が鳴った。その者は草の根元に手を伸ばして、指で土を掘った。何もなかった。また掘った。固い石に当たった。取り出した。何に使うかわからないまま、握ったまま持っていた。

年上の一人がこちらを見た。目が合った。その者は目を逸らした。

石を握る手に力が入った。

煙が流れてきた。目が痛くなった。その者は立ち上がって、焚き火から少し遠ざかった。遠ざかると、さらに外側になった。

暗かった。

背中の後ろに、草の音がした。風かもしれなかった。その者は振り返らなかった。振り返る理由がわからなかった。

夜が深くなった。集団の声が小さくなった。その者は膝を抱えた。石はまだ手の中にあった。

伝播:HERESY 人口:363
与えるものの観察:火の粉を渡した。届かなかった。
───
第348話

紀元前298,270年

第二の星とその者(25〜30歳)

水場に近い低地で、草が踏まれた跡が残っている。二方向から。どちらの跡も新しい。

岩の陰で、両腕を胸の前で組んだ。腹が鳴った。三日、食っていない。

乾いた風が吹いている。草原の西端、低木の並びが途切れる場所に、見知らぬ体格の影がある。一つではない。五つ、あるいは六つ。この集団のものではない匂いが風に乗る。

その者は岩の角から覗いた。目を細めた。影は動いている。ゆっくりと、しかし確実に近づいている。

二つの集団が水場を挟んで向き合ったのは、その翌朝だった。声はなかった。唸りが低く続いた。年長の雄が腕を広げた。相手の集団も同じことをした。それから長い間、誰も動かなかった。

その者はさらに後ろへ下がった。狩りに加われない者は、こういうとき最後列にいる。ただ待つ。何が起きるかを見る。

最初の接触は石一つだった。誰が投げたかは見えなかった。石は相手の集団の足元に落ちた。それだけで充分だった。

駆ける音が広がった。その者も走った。方向はわからなかった。ただ足が動いた。前の者の背中を追った。低木を抜けた。転んだ。立った。また走った。

三日後、集団は散り散りになっていた。水場は誰のものでもなくなった。

その者は独りで丘の斜面にいた。膝を地につけ、両手を土に置いた。息が整うまで、動かなかった。

散った者たちが戻ってきたのは少しずつだった。全員ではなかった。年老いた雌が一人、戻らなかった。どこで何があったかは、誰も音節に変えられなかった。

その者は夜、火の端に座った。火は小さかった。誰かが薪を足した。それだけで少し温かくなった。

水場は取り返せなかった。集団は別の場所を探した。半日歩いて、浅い川を見つけた。濁っていたが、飲んだ。

その者は川べりで水を掬った。両手の間から水が零れた。また掬った。飲んだ。冷たかった。

年が変わった。乾季が来た。また来た。子が生まれた。死んだ子もいた。生きた子もいた。

その者の体が変わった。肩が広がった。走る速さが増した。それでも狩りには呼ばれなかった。

ある朝、年長の雄が獲物を追って戻らなかった。二日待った。三日目に、誰も追いに行かなかった。

その者は石を拾った。重みを確かめた。草の根元に置いた。また拾った。

与えるもの

川べりに光が落ちた。水の揺れる場所ではなく、石が重なった場所に。

その者は水を飲んだ。石には触れなかった。

重なった石は、獣が崩さなければ水に浮かぶ場所を示せた。次の乾季、水位が下がっても、そこは湿っていたはずだ。

この者はまだ届かない。それでも川には戻る。光を落とす場所を変えてみる。

伝播:DISTORTED 人口:374
与えるものの観察:光は届いたが、石だった。
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第349話

紀元前298,265年

その者(30〜33歳)

三年が過ぎた。

水場の草は踏まれたままになっていた。踏んだ者たちはいなくなった。どちらの方向に消えたかも、もう関係なかった。

その者の膝が、曲がらなくなったのは二つ前の満月のころだった。歩けた。ただ、岩を越えるときに他の者の手を借りるようになった。それが初めてで、最後だった。集団の中で手を借りるということが何を意味するか、その者には言葉がなかった。ただ手があった。

狩りには、結局、加わらなかった。

一度だけ、若い者たちが獣を追って走るのを遠くから見た。地面の振動が足の裏まで届いた。砂埃が木々の間に消えた。その者は砂埃が薄くなるまで見ていた。それから岩に戻った。

食べることが減った。

誰かが骨を割って中の白いものを差し出した。その者は受け取った。舐めた。味がした。しかし飲み込む力が残っていなかった。白いものが顎から垂れた。その者は拭わなかった。差し出した者は何も言わなかった。

最後の朝、空が白くなる前に、その者は起き上がった。

集団の中心から少し離れた場所まで歩いた。膝が言うことを聞かなかった。それでも歩いた。地面に座ると、体の中で何かが静かになった。音ではなく、圧のようなものが、じわりと消えていった。

朝の光が横から差してきた。

草の先端が光を受けて白くなった。その者の手の甲にも光が落ちた。皮膚の皺が影を作っていた。三十三年の皺だった。

その者は手を見た。

見ることをやめなかった。

光が変わった。草が風に揺れた。影が動いた。その者の手の甲の影も動いた。

それきりだった。

体が横に傾いた。傾いたまま、草の上に収まった。

誰かが気づいたのは、太陽が高くなってからだった。

第二の星

湿地の縁で、別の集団が火を囲んでいた。煙が水平に流れていた。川の上流で、雨が降り始めていた。岩肌の亀裂から、細い水が染み出していた。川も火も煙も、それぞれの速度で動いていた。その者が草の上に横たわった瞬間、川の水面が風に揺れ、火が一度だけ大きくなった。

与えるもの

糸は、別の誰かへ向かった。

伝播:NOISE 人口:386
与えるものの観察:手を見ていた。最後まで、手を。
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第350話

紀元前298,260年

その者(29〜34歳)

雨の匂いが土から立ちのぼっていた。

その者は草の縁に伏せ、前方を見た。五十歩先、水場の際に獣がいた。肩まで泥に浸かり、首を下げて飲んでいた。大きかった。成体の雄で、角の付け根が太く、泥の色に溶けていた。

息を止めた。

背後の草むらで、誰かが動いた。膝が草に当たる音がした。小さい音だったが、その者には大きく聞こえた。

獣の首が上がった。

鼻孔が広がり、耳が向いた。まだ逃げていない。

その者は動かなかった。体が地面に張りついたまま動かなかった。腹の下の土が冷たかった。雨は昨夜まで降っていて、地面はまだそれを手放していなかった。

獣は三度、鼻を鳴らした。

それから走った。

背後の草むらから声が上がった。怒りか落胆か、区別がつかない叫びだった。その者は立ち上がり、獣の消えた方向を見た。草が揺れて、静まった。

水場に戻った。

泥に足跡が残っていた。大きく、深く、縁が崩れかけていた。その者は足跡に足を置いた。足が沈んだ。抜いた。また足跡を見た。

後ろで声がした。

振り向かなかった。

その年、水は戻ってきた。

川が太くなり、涸れていた支流にも水が走った。土が緩み、根が深くなり、実がなった。木の実が多く、草の実も多く、水辺に集まる獣の数が増えた。子が生まれた。生まれた子が死なずに育つことが増えた。

群れは大きくなった。

大きくなったことで、誰もが誰かの近くにいなければならなくなった。火の周りに座る者が増え、場所を取り合うことが増え、食べ物の分け方が揉めることが増えた。その者は先行役だった。群れより先を走り、獣を見つけ、方向を伝える役だった。

しかし獣を逃がした。

声を上げた者がいたせいだった。誰のせいかは全員が知っていた。

夜、火の傍で、その者は座らなかった。少し離れた場所で、膝を抱えて、遠くの闇を見た。腹が鳴った。食べなかった。

三十二になったころ、その者は別の集団と接触した。

川を挟んで、向こう岸に彼らはいた。体格が似ていて、持っているものも似ていたが、声の出し方が違った。その者の集団が使わない唸り方をした。

お互いに動かなかった。

川の流れだけが音を立てていた。

向こうの集団に、額の骨が出ていて、首の太い者たちがいた。こちらの集団とは少し違った。しかし何が違うかを言葉にできる者はいなかった。

その者は川縁に屈み、水の流れを手で掬った。

三十四になったとき、争いがあった。

食べ物ではなかった。場所だった。水場の使い方で、二つの集団の縄張りが重なっていた。夜明けに、その者の集団の若い男が、向こう岸を越えて来た。なぜ越えたのかは誰も知らなかった。

朝が来たとき、男は戻らなかった。

川の下流で、顔を水に向けて浮かんでいた。流れが緩い場所で、葦の根に引っかかって、動かなかった。

その者は岸から見た。

水面に揺れる男の背中を、長い間見た。

引き上げに行く者がいなかった。

その者も、行かなかった。

行く方法を知らなかった。

豊かさは続いた。

それでも何かが締まるような感じが、その者の胸の奥にあった。食べ物はある。仲間はいる。雨も降った。それなのに夜になると目が覚めた。目が覚めて、闇を見た。闇には何もなかった。

それでも見た。

第二の星

雨が続いた五年間だった。

始まりの大地の南に広がる草原では、草が膝丈を超えて伸び、その根が地中深くまで水を引いた。川の本流は増水し、支流は復活し、水場の周囲に獣が集まった。木の実がなり、草の実がなり、食べ物を求めて移動する必要が以前より少なくなった。

人は増えた。

ゆっくりではなかった。産まれた者が次々に育ち、集団の規模は急速に膨らんだ。一世代前に使っていた野営地が手狭になり、別の場所が必要になった。

領域が重なった。

川を挟んだ向こう側には、別の系統の者たちがいた。額の骨の張り方、首の筋肉のつき方、声の出し方が少し異なった。どちらも食べ物を求め、水を求め、同じ場所に引き寄せられた。

豊かさの中で緊張が生まれた。

余裕があるのに、余裕があるがゆえに、人は動いた。腹が空いているときには動けないが、満ちているときには遠くへ行けた。遠くへ行けば、境界を踏み越えた。

同じころ、この星の遠い場所では、別の種の群れが森の中を移動していた。彼らも雨の恵みを受け、深い森の奥へ食べ物を求めて進んでいた。彼らとこちらの集団は知らなかった。互いの存在を、知らなかった。

大地は等しく潤っていた。

しかしその者の集団にとって、豊かさとは新しい問題の始まりだった。

与えるもの

糸が繋がった。

水場の縁で、その者が浮かぶ男の背中を見ているとき、その者の足元に光が落ちた。泥の上に、細く、斜めに。その者の足と、男の浮かぶ川面の間の距離を、光が繋いだ。

その者は光を見た。

それから川を見た。

男は動かなかった。川だけが動いていた。光の届いた場所を、川は流れ続けた。

それで充分だったのか。充分ではなかったのか。糸が繋がったばかりの者に渡せるものは、今はまだ方向だけだ。距離の感覚。何かと何かの間にある、空間の感触。次は、その空間を何かで埋められるかもしれない、ということを、渡せるかもしれない。

伝播:DISTORTED 人口:502
与えるものの観察:光は届いた。距離は見えた。埋め方はまだない。
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第351話

紀元前298,255年

第二の星

乾季の終わりだった。

草原の縁では土が割れ、ひびの中に小さな虫が産卵していた。北の台地では旧人の一群が岩陰で毛皮を広げ、子どもの頭を撫でていた。その手の形は、この集団の手の形と変わらなかった。

川の上流では倒木が流れを堰き止め、新しい沼が生まれていた。魚が集まり、鳥が集まり、三日のうちに小さな生態系が出来上がっていた。倒木は何も知らなかった。

数えきれないほどの命がこの大地に根付いていた。

その一方で、集団の外縁では見知らぬ足跡が朝に残っていた。二組。大人の男のものだった。焚き火の残り香が漂う前夜のうちに、何者かが近づいていた。集団の男たちは朝に足跡を見つけ、互いの顔を見た。声はなかった。目線だけがあった。

南の草原では別の集団が移動していた。子どもを腰に縛りつけた女が先頭を歩き、男たちが周囲を囲んでいた。その集団は川の北の群れとは顔つきが違ったが、火の起こし方は同じだった。

雲が重くなり始めていた。

与えるもの

足跡のそばの地面に、朝の光が差した。

その者は光の落ちた場所を踏んだ。そのまま先へ行った。

踏んだ。それだけだ。では次は何を渡す。光では足りないなら、もっと近くに落とさなければならないのか。それとも、まだ踏んでいない場所を照らすべきか。

その者(34〜39歳)

朝、男は起き上がる前に耳を澄ませた。

草が揺れる音。風だった。鳥の声。二種類あった。遠い方が突然止んだ。男はそこで体を起こした。

足跡を見た。土が軟らかいところに、二組のくぼみが残っていた。男はしゃがんで縁を触った。乾いていた。夜のうちにできたものだった。

男たちが集まってきた。互いに足跡を指差し、唸り、腕を動かした。男は立ったまま周囲の草を見た。草の先端が、どこかで折れていた。折れた方向は南だった。

その者は集団から離れ、南へ歩いた。

誰も止めなかった。誰も来なかった。

三百歩ほど歩いたところで、草が開けた。旧人がいた。二頭。いや、二人だった。体が大きく、眉の骨が張り出していた。しかし座っていた。武器を持っていなかった。

男は立ち止まった。

相手も動かなかった。

男の腹の底で何かが静止した。脚が前にも後にも動かなかった。息が浅くなった。風が草を揺らした。匂いが来た。煙と何か、獣ではない別の匂いだった。

旧人の一方が手を開いた。掌を上に向けた。

男にはその意味がわからなかった。わからなかったが、腹の底の静止が少しだけ緩んだ。

男は地面を見た。草を一本引いた。差し出した。

旧人は受け取らなかった。ただ見ていた。

男は草を地面に置いた。踵を返した。走らずに、ゆっくりと、集団の方へ戻った。

背中に視線を感じた。

岩の割れ目に入り込んだ風のように、その感触は長く続いた。

伝播:DISTORTED 人口:513
与えるものの観察:足跡の光は踏まれた。次は何を落とす。
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第352話

紀元前298,250年

第二の星

雨季が戻ってくる前の数日、大地は静かだった。

東の低地では草が膝の高さまで伸び、その根元で小さな齧歯類が穴を掘り続けていた。西の岩場では火が三日間燃え続け、四日目に風が変わって消えた。誰も消しに来なかったし、誰も嘆かなかった。火は消えるものだった。

川沿いの集団は今季、子どもを六人産んだ。そのうち四人が初めての寒さを越えた。越えなかった二人は、母親の腕の中で力が抜けた。

この星はどちらも照らす。越えた子も、越えなかった子も、同じ光の中に置く。

北の台地では、旧人と新しい人類の集団が同じ水場を使うようになっていた。朝は旧人が来て、昼をまたいで新しい集団が来る。どちらも相手が去ってから近づいた。しかし乾期の最後の日、水が減ったとき、両方が同時に岸に立った。旧人の中の一頭、背の高い雌が水を飲み、それから去った。新しい集団の中の若い雄が、その背中を見送った。

この星から見れば、どちらの足も、同じ泥の上に跡を残した。

集団の内側では、何かが動いていた。声ではない。視線の向きが変わっていた。

与えるもの

この者が草を踏み分けて走るとき、風が来る方向から腐葉土と血の匂いが混じって届いた。

その者は立ち止まり、鼻を動かした。それから走る向きを変えた。

集団の誰かが追っていた獲物の匂いではなかった。別の群れが残した匂いだった。この者はわかったか、わからなかったか——わかったとして、何に使ったか、まだわからない。草を差し出したとき受け取られなかったことを思う。しかし次に渡すべきものは、もう決まっている。匂いの読み方ではなく、その読んだ後に何をするかだ。

その者(39〜44歳)

草が長くなると、走り方が変わる。足首で切り分けるように踏む。体が自然に低くなる。

この5年で膝の内側に古傷が増えた。雨が来る前に痛む。だから雨がわかる。

獲物を追うとき、この者は集団の先を走った。後ろから声がしても振り返らなかった。振り返る時間に、足が止まる。足が止まれば、獲物は消える。

その日、草原の端で風が変わった。

匂いが鼻を刺した。土の匂いではなかった。腐ったものと、温かい血の混じった匂い。この者は止まった。足だけが止まり、頭の中で何かが動いていた。

右か、左か。

この者は左に折れた。

獲物がいた方向ではなかった。しかし足が左に向いた。

草が途切れ、岩が露出している場所に出た。そこに、集団の若い雄が三人、待っていた。立ち方が、狩りの立ち方ではなかった。

この者は止まった。

三人の目線が、動かなかった。

この者の手が、腰の石の感触を確かめた。投げる用ではない。ただ手が勝手にそこへ行った。

三人のうち一人が、唸った。低い声だった。遠くを呼ぶ声ではなく、ここにいる者への声だった。

この者は後退りしなかった。足がそれを拒んだ。

草が風で波打った。

この者の喉から、何かが出た。叫びでも唸りでもない。それよりずっと低い、腹の底から来る音だった。

三人が、動いた。

伝播:HERESY 人口:498
与えるものの観察:匂いを読んだ。しかし読んだ先に何があったか。
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第353話

紀元前298,245年

第二の星

東の平原では、草の海が風に押されて南へなびいていた。大型の草食獣の群れがその中を割り進んでいた。蹄が土を踏みしめるたびに、乾いた土が粉になって舞い上がった。

群れの東端には、二本の足で歩く者たちがいた。この者たちとは異なる形の骨格をもつ者たちだ。額が張り出し、眼窩が深く、肩幅が胴の幅より広い。彼らは群れの動きを見ながら、低く唸り合っていた。数は七。皮を纏い、手に握った木の棒を地面に打ちつけながら歩いた。

北の丘陵地帯では、幼い子が岩の端から落ちた。声も出ないまま消えた。母親が斜面を駆け降り、動かなくなった子の胸に顔を押し当てて長い時間そこにいた。

南の水場では、三つの群れが飲み水を巡って石を投げ合っていた。一方が退いた。退いた側の男が、離れた岩の上に立って残った者たちを長い間見ていた。

大地は濡れていた。雨が戻ってきた。泥が足跡を埋めた。跡は消えた。川は増水し、低地の穴を塞いだ。穴の中の獣は出られなかった。

どこかで火が燃えていた。誰かがそれを守っていた。

与えるもの

腹の底から出た音を思い出す。叫びではなかった。この者が口を開いたのでもなかった。では何だったのか。

今夜、濡れた地面に落ちた月の光の中に、足跡がある。この者の足跡ではない。もっと幅が広く、かかとが深く沈んでいる。足跡はこの者の野営地へと続いていた。

月の光がその足跡の輪郭を縁取った。泥の中の、縁取られた形。この者の目がそこに向いた。向いて、足跡の先を追った。

追ったことで、何が起きるかはわからない。ただ、足跡には方向がある。方向があるということは、何者かがいた、ということだ。この者はそれを知っているか。知っていて、それが何者のものかを問うか。問うことができるか。

次に渡すべきものは、まだ形をなしていない。足跡を追った先に、それがあるかもしれない。

その者(44〜49歳)

野営地から離れたのは、他の者が寝静まった後だった。

足の裏が濡れた土を読んでいた。柔らかい場所、硬い場所。水が溜まっている場所。長年の習慣で足が判断する。頭で考える前に体が動いた。

月明かりが地面に白く落ちていた。

その者は立ち止まった。

足元に、くぼみがあった。自分の足ではない。幅が広く、かかとが深い。指の跡が四本。爪の痕が土にめり込んでいた。

この者は屈んだ。右手の指先をくぼみの縁に沿わせた。冷たく、湿っていた。古くない。

立ち上がり、足跡の向きを辿った。

足跡は野営地の方から来ていた。

腹の下のあたりで、何かが収縮した。獲物を前にしたときとは違う。岩が崩れる音を聞いたときとも違う。もっと静かで、もっと奥にある。

足跡の主は去っていた。痕だけが残っていた。

この者はしばらくそこに立っていた。風が東から来て、草を揺らした。何の匂いもしなかった。それが余計に、腹の底の収縮を長引かせた。

野営地に戻った。戻りながら、何度か立ち止まった。振り返った。暗い草原があった。動くものはなかった。

横になった。目は開いたままだった。

仲間の何人かが、この者を見ていた。気づいていた。どこへ行っていたかを知りたがっていた。この者はそれに気づいていた。気づいていて、何も示さなかった。

目を天に向けたまま、夜が明けるのを待った。

伝播:HERESY 人口:485
与えるものの観察:足跡は語る。この者は読んだ。読んだ先に何がある。
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第354話

紀元前298,240年

第二の星とその者(49〜54歳)

北から湿った風が吹き込んでいた。
平原の縁、低木が密集する丘の連なりに、赤みがかった土が露出していた。雨のたびに少しずつ崩れ、崩れた跡に草の根が食い込んでいく。乾季と湿季が交互に来て、どちらも穏やかだった。

その者は丘の手前で立ち止まった。
左膝の古傷が、走るたびに熱を持つようになっていた。膝の皿の下、すこし外側。指で押すと、岩を踏み抜いたときの感触が戻ってくる。十年以上前のことだが、体は忘れていない。

川の上流では水量が増し、対岸の葦が根ごと引き抜かれて流れていた。
その葦が下流で岸に積み重なり、小さな獣たちの隠れ場所になった。鳥が来た。鳥の糞から種が落ちた。翌年、見たことのない実のなる低木が生えた。

この者の群れは膨らんでいた。
幼い者が多い。まだ狩りに出られない者が、野営地の周囲をうろつく。火の番をする老いた者が二人いる。以前は一人だった。それだけ、残る者が増えた。

東の方角から、ときおり声が聞こえた。
叫びではない。唸りでもない。複数の喉が重なる、低い音の塊。この者は立ち止まるとき、その方向に顔を向けた。鼻孔が開く。風は南から。匂いはない。しかし音は確かにある。

平原に霧が降りる朝があった。
霧の中に、別の形の足跡があった。縦に長く、かかとの沈みが浅い。この者の足跡とは違う。踏み方が違う。地面に残る時間も違う。

その者はしゃがんで、足跡の縁に指を這わせた。
土はまだ湿っていた。夜のうちに通った。方向は北北東。草の踏み折れ方から、三人か四人。大きな者ばかりではない。小さな足跡が混じっている。

三年が過ぎた。
霧の朝が増えた。湿気が地面に溜まり、岩の下に苔が育った。この者はその苔を食べることがあった。舌に乗せると、土と水の中間のような味がした。苦くはない。飲み込んだあと、しばらく腹が落ち着いた。

東からの声は近づいていた。
ある朝、丘の頂から見下ろすと、低木の茂みの向こうに煙が立っていた。この者の群れの火ではない。煙の色が違う。薄く、白い。湿った枝を使っている。

そのとき、喉の奥で何かが鳴った。
警戒ではない。好奇心でもない。もっと曖昧な、前に一度感じた感覚に似ている。胸の中心が、わずかに引っ張られるような。

その者は斜面を下りなかった。
下りる理由が見つからなかった。下りない理由も、なかった。長い間、斜面の途中に立っていた。膝が熱を持っていた。

四年目の終わりに、二つの群れは川岸で出会った。
どちらも水を求めて来た。

岸に着いたとき、向こう側にすでに者たちがいた。
背が高く、額の骨が突き出ている。目が深く引っ込んでいる。この者と目が合った者がいた。どちらも動かなかった。

川の音だけが続いた。

向こうの群れの中に、幼い者がいた。転んで、岸の石で膝を打った。泣き声ではなく、低い叫びを上げた。立ち上がって、また歩いた。

この者は、その動きを目で追った。

水を飲んで、それぞれ離れた。
争いはなかった。触れ合いもなかった。しかし何かが残った。何が残ったのか、この者には言葉がない。

五年目。
膝の熱が引かなくなった。
走れる。しかし戻ってくるとき、かばいながら歩く。群れの者たちが気づいている。それを示す目線がある。

ある夜、この者は野営地の端に座っていた。
火から少し離れた場所。星が見えた。

風が南から吹いた。
草の穂が一斉に傾いた。その傾きの中に、あの二本足の者たちの煙の残り香が混じっていた。鼻腔の奥に、確かに届いた。

この者は火の方を見た。
子供が一人、眠りに落ちていた。老いた者が薪をくべた。火が大きくなった。

胸の引っ張られる感覚が、また来た。
さっきの煙の匂いに重なった。それだけだ。

与えるもの

南から吹いた風に、においを乗せた。
この者は止まり、火の方を見た。

同じ匂いをもう一度渡すべきか。それとも別のものを。
この者の体は記憶している。胸が引っ張られるとき、鼻が開く。そのことに、私は気づいた。次は、もっと近くで燃えているものを見せることができるかもしれない。

伝播:NOISE 人口:493
与えるものの観察:煙の匂いで胸が引っ張られた。記憶か本能か。
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第355話

紀元前298,235年

その者

夜が明ける前に走り始めた。

足の裏が土を読む。やわらかければ水が近い。固ければ獣道が近い。今朝の土は固く、少し冷たかった。乾いた空気が喉の奥を刺した。

群れの声はもう聞こえない。

先行役の仕事はそういうものだ。群れより遠くへ行き、戻る。戻れなければそれまでだ。

丘を越えたところで立ち止まった。

低い茂みの向こう、影の中に動くものがいた。四つ脚ではない。二本脚だ。しかし形が違う。肩の幅が広く、首が短い。この者が知っている輪郭ではない。

相手もこちらを見ていた。

どちらも動かなかった。

その者は唾を飲んだ。腹の底が引き絞られるように固くなった。目線を外さないまま、右足を一歩だけ後ろに引いた。地面の感触を確かめた。石がある。傾斜がある。逃げられる方向はわかった。

相手が鼻を鳴らした。

その者は身じろぎしなかった。

低い唸り声が茂みの奥から続いた。一頭ではない。複数の気配だ。その者の背中に汗が滲んだ。それでも目線を外さなかった。外したら終わりだと、言葉ではなく体が知っていた。

やがて相手が向きを変えた。

茂みに消えた。

その者はそのまま三十呼吸ほど動かなかった。足が震えていた。気づいたのはしばらく経ってからだ。

戻るべきだった。今すぐ群れに戻り、方向を伝えるべきだった。

しかしその者は動けなかった。

腕に鳥肌が立っていた。寒さではない。別の何かだった。その感覚に名前はなかった。ただそれがそこにあった。

その者は岩に手をついた。岩は冷たかった。その冷たさが少しだけ体を戻した。

立ち上がった。

来た道を引き返した。足は最初より速かった。しかし途中で一度だけ立ち止まり、来た方向を振り返った。

茂みは静かだった。

何かが終わったようでもあり、始まったようでもあった。

その者にはどちらかわからなかった。

群れに戻ったとき、仲間たちがこちらを見た。その者は声を出すより先に、北の方角に腕を振った。強く、二度。それだけだった。仲間たちの顔が変わった。子を抱えた者が立ち上がった。

その者は座った。

膝が笑っていた。それを見せないように、岩に体を預けた。

夕方、群れは移動した。

北ではなく、南へ。

その者は先頭ではなく、後ろを歩いた。何度も振り返った。茂みの方向に。

何もいなかった。

それでも振り返った。

第二の星

乾いた風が北から吹いていた。

平原の縁に沿って、幾つかの群れが動いていた。どの群れも水場と獣の気配を追っていた。互いの存在を知っていた。接近するときもあった。しかし今この季節、食べ物は足りていた。緊張はあったが、衝突ではなかった。

別の形の者たちもいた。

肩が広く、足が短く、火を使わなかった。彼らも水場を知っていた。獣の動きを読んでいた。縄張りという概念はなかったが、互いが避け合う距離があった。その距離が、今年に入ってから少しずつ縮まっていた。

食べ物が同じ場所に集まるとき、距離は縮まる。

縮まった距離が何を生むかは、その場によって違った。

ある水場では双方が黙って並んだ。ある丘では片方が走り去った。ある平原では石が投げられ、どちらかが血を流した。

この星はどちらが正しいとも言わなかった。

ただ照らした。

北の群れで、老いた者が二人、この五年の間に戻らなかった。草原の南では子供が続けて生まれ、群れが膨らんだ。膨らんだ群れが移動範囲を広げた。広がった範囲が別の群れの移動範囲と重なった。

重なりの中に、その者が走っていた。

この星は動かない。ただ照らす。善悪を問わない。接触が何を生むかを見ている。

それだけだ。

与えるもの

茂みの手前で、においが変わった。

獣ではない。別の煙の跡。皮の焦げる匂いとも違う、動物の体が発する何か。その者の鼻孔がそれを捉えた瞬間、足が止まった。

相手を見た。向こうも見た。

それだけだった。それで十分だったかもしれない。

渡したのは一つの問いだ。あれは何か、ではなく——あれはこちらを知っているか。

その者はしばらく考えなかった。考える代わりに、体が動いた。

それで良かったのか。

体だけが答えを知っているとき、考えは何のためにあるのか。この者に問いを持てと渡したいのか、それとも体の知恵をそのまま使えと渡したいのか。わからない。しかし次に渡すとしたら——相手の顔を、もう少し長く見る時間だ。あの顔の中に何があったか、この者はまだ見ていない。

伝播:SILENCE 人口:503
与えるものの観察:体が先に動いた。それで良かったのかどうか。
───
第356話

紀元前298,230年

その者(59〜60歳)

朝、目が覚めなかった。

正確には、目は開いた。空の色がわかった。灰色より少し白い、あの色だ。何度見たかわからない色。足が動かないと気づいたのは、身体を起こそうとしてからだった。

砂地に寝ていた。群れから少し離れた、岩の陰。ここは風が来ない。昨夜からそこにいた。

脚が重かった。重いというより、なかった。あるのに、ない。その感覚は新しくなかった。ここ数日、走るたびに膝の下が遅れた。先行役として群れより前を行くとき、足は地面を読む前に動かなければならない。それができなくなっていた。誰にも言わなかった。言う言葉がなかった。

砂が少し温かくなってきた。太陽が岩の角度を越えた証拠だ。

その者は動かなかった。

顔だけを横に向けた。草の根元に虫が歩いている。細い脚で、砂粒をよけながら進む。その者は目でそれを追った。追いながら、昔走った川の匂いを思った。水が速く、石が丸かった。あそこで何度か飲んだ。飲むとき、水の底が見えた。

虫が草の陰に消えた。

腹が鳴った。腹が鳴ったが、その者は何もしなかった。

遠くで子どもの叫ぶ声がした。甲高い声。怒っているのか泣いているのか、その者には区別がつかなかった。昔はつかなかったかもしれないが、今もつかない。それでよかった。

光が岩の面を滑った。

その者の目に、ちょうど光が入った。眩しくて、目を細めた。細めたまま、また開けなかった。

開けなかっただけかもしれない。開けるつもりがなかったかもしれない。どちらでもない何かかもしれない。

砂は温かかった。

第二の星

同じ瞬間、湿原の縁で旧人の一群が水を飲んでいた。子が母の背に乗り、揺れていた。川上では鳥が水面すれすれに飛び、影が水を走った。乾いた台地では岩が割れ、音もなく崩れた。割れた面が白く光った。誰も見ていなかった。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:NOISE 人口:511
与えるものの観察:渡す先が変わっても、渡す意志は変わらない。
───
第357話

紀元前298,225年

第二の星

草原の端で火が三つ、夜通し燃えていた。

ひとつは岩棚の下。ひとつは川の曲がり角。ひとつは——誰のものでもなかった場所に。

この5年間、雨季と乾季が交互に来た。草が伸び、獣が戻り、群れの腹が満たされた。子が生まれ、その子がまた歩いた。数が増えた。増えた分だけ、場所を争った。

西の丘に住む群れと、川沿いに住む群れが、同じ水場に来た。最初は目を逸らした。次に唸り声を上げた。その次には石が飛んだ。石が当たった者がひとり、岩に頭を打ちつけて、そのまま川に落ちた。流れていった。その者が何を感じたかは、誰も知らない。

乾いた高地では旧人の群れが移動していた。足跡は深く、歩幅が広かった。彼らは水場を知っていた。長い時間をかけて覚えた場所を、静かに歩いていた。

この星は傾きながら回っていた。火が三つ、燃え続けていた。そのうちのひとつが、どれほど長く燃えるかを、この星は問わない。ただ照らす。

与えるもの

糸が繋がった。

最初の話をしよう。

この者は42歳のとき、火の前に座っていた。湿った木をくべたあと、煙が横に流れた。私はその煙の中に、乾いた枝の場所を示そうとした。煙が東へ流れた。乾いた枝は東にあった。

この者は立ち上がり、西へ歩いた。

私は何を思ったか。——正しい側へ行けばよかった、とは思わなかった。この者が西に何を見ていたのかを、私はまだ知らない。渡したものが使われなかったのか、別のかたちで届いたのかが、わからない。だから次は煙ではなく、別のものを使う。

その者(42〜47歳)

42歳のとき、火を継ぐ者は自分だけになった。

前の者が死んだ。正確には、夜に寝て、朝に群れが呼んでも返事がなく、体を揺すると動かなかった。揺すった手に何かが残った気がして、その者は岩で手を拭った。何度も拭いた。

火を絶やさないことだけを、覚えていた。

乾いた季節には草の茎を集めた。雨の季節には屋根代わりの岩棚を探した。夜中に目が覚めて、炎が小さくなっていると、腹の底が収縮した。急いでくべた。炎が戻ると、その収縮が消えた。何度も繰り返した。それが仕事だった。

45歳のとき、西の群れが来た。

最初に気づいたのは匂いだった。自分たちとは違う匂い。獣の皮と、別の草の匂い。唸り声が聞こえる前に、その者の体はもう知っていた。石を握った。握ったまま、動かなかった。

相手の群れは三人いた。こちらは五人。

石を持った男が前に出た。その者ではなく、若い男だった。その者は後ろで火を守った。

石が飛んだ。相手が一人倒れた。残りが逃げた。

若い男が唸り声を上げた。群れが応えた。

その者は唸り声を上げなかった。火の傍で、消えかけた炎に枝をくべた。

47歳に近いころ、群れの中に変化があった。

若い男が自分を見る目が変わった。火を継ぐのは自分だという目だった。それをその者は知っていた。長く生きた者は、それを知る。

ある朝、食料を探しに行くよう唸り声で促された。いつもより遠い方向を示された。

その者は歩いた。草の丈が高く、足元が見えなかった。風が後ろから来た。後ろから来る風は、来た道を塞ぐ匂いを運ぶ。

立ち止まった。

岩棚のある方向を見た。火の煙が細く上がっているのが、遠くに見えた。

長い時間、その場所を見ていた。

伝播:HERESY 人口:501
与えるものの観察:煙を使った。この者は西へ歩いた。
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第358話

紀元前298,220年

第二の星とその者(47〜52歳)

その者は長い時間、煙の細い線を見ていた。
それから、来た道を戻った。

草原の端に三つあった火は、その後の五年でひとつに減った。

乾季が来るたびに、草の背が低くなった。獣の通り道が変わった。川の曲がり角に溜まっていた水が、夏の終わりには泥になった。泥も消えた。ひびが入り、白く乾いた。

その者は夜明け前に目を覚ます習慣があった。火の傍に座り、炭の赤みを確かめ、枯れ枝を一本だけくべる。多くくべすぎると朝まで持たない。少なすぎると消える。どちらにも傾かない量を、その者は体で知っていた。

北の群れとの境は、大きな岩の列だった。岩の向こうにも火があった。煙の色が違った。何を燃やしているかで、煙は変わる。その者はそれを知っていた。しかし教えた覚えはなかった。

五年の間に、岩の列の意味が変わった。最初は通り過ぎる場所だった。次に立ち止まる場所になった。やがて近づかない場所になった。

いつそうなったか、誰も指差せなかった。

その者の右の手首に、古い傷があった。獣の爪か、岩の角か、もう思い出せない傷だった。乾季になると皮膚が突っ張り、その者は無意識に反対の手で押さえた。押さえながら火を見た。

子どもたちが火の周りで眠るとき、その者は最後まで起きていた。
眠るためではなく、火が消えないかどうか、それだけを見ていた。

五年目の雨季の終わりに、北の群れのひとりが岩の列を越えてきた。

若い者だった。痩せていた。片手に何かを持っていた。食べ物ではなかった。石だった。

その者の群れから声が上がった。唸り。後退する足音。誰かが細い枝を拾い上げた。

その者は動かなかった。

火の傍に座ったまま、来た者を見た。来た者もその者を見た。どちらも声を出さなかった。

朝になった。

来た者は去らなかった。群れの端で、岩に背を預けて座っていた。持ってきた石を地面に置き、また拾い、また置いた。

その者はそれを見ていた。
石の置かれ方に、何かがあった。角度か。場所か。わからなかった。ただ、目が離せなかった。

二日目の夜明けに、その者は火の炭を少し取った。木の皮の上に乗せた。それを持って、来た者の傍に近づいた。

渡した。

来た者は受け取った。手のひらの上に木の皮をのせ、炭の赤みを見た。長い時間、見ていた。

その者は戻った。火の傍に座った。手首の傷を押さえた。

その夜、岩の列の向こうに、小さな火がひとつ増えた。

与えるもの

炭の熱が、木の皮ごと渡された。

この者は受け取った。何のためかは知らなかっただろう。ただ手を出した。

次に渡すものがある。渡せるかどうかは、まだわからない。岩の列の向こうに火が増えたことが、続きなのか終わりなのか——問うより先に、次の乾季が来る。

伝播:DISTORTED 人口:517
与えるものの観察:火が渡った。手を介して。
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第359話

紀元前298,215年

その者(52〜56歳)

火は、この者が覚えている最初の記憶から、そこにあった。

赤い核。息を吹けば広がり、吹きすぎれば死ぬ。その境を、この者は皮膚で知っていた。手のひらの内側、指の股の薄い皮膚が、炎との距離を測った。誰かに教わったのではない。傷が教えた。

五十二の季節が過ぎた年、この者はまだ火のそばにいた。

乾いた草を集める者が変わった。若い者が幾人か、やり方を覚えた。この者は見ていた。口を開かなかった。声を出さなかった。ただ、彼らの手が草を持つ角度を見ていた。ときどき首を横に振った。それだけだった。

乾季が戻ってきた年。

北から別の群れが近づいた。旧人の匂いではなかった。体の形も歩き方も、群れの者に近かった。しかし知らない顔だった。

群れの若い者たちが唸り声を上げた。石を持った者がいた。この者はそちらに向かわなかった。火のそばに座ったまま、燃え盛る核に細い枝を差し入れた。引き抜いた。先が赤くなっていた。

誰かが石を投げた。

その冬、この者の呼吸が変わった。

夜、眠れなかった。ではなく、眠ったまま体が重くなった。朝になっても起き上がるのに時間がかかった。それでも火の傍に来た。

若い者がそばに座った。何も言わなかった。この者も何も言わなかった。

薪が燃え尽きる前に新しい薪を入れる。それだけを、この者はまだ自分でやった。

最後の日の朝。

この者は火の核を見ていた。長い間。炎ではなく、その中心の、白く輝く部分を。

風が背の方向から吹いた。枯れ草の匂いがした。この者の鼻が動いた。

遠くで旧人の声がした。高く、短い。答える声はなかった。

この者は倒れなかった。ゆっくりと、火から体を離し、横になった。地面が温かかった。乾いた泥の匂いがした。手のひらが地面についていた。指が少し動いた。それから、動かなくなった。

火は燃え続けた。

第二の星

同じ日、川の上流で旧人の一団が水を渡ろうとしていた。流れは速かった。ひとりが渡り、ひとりが引き返した。引き返した者の足跡が、砂の上に残った。翌朝の雨が、それを消した。乾いた高地では、小さな群れが火を持たずに夜を越えた。寒さの中で、子どもが泣いた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:DISTORTED 人口:527
与えるものの観察:渡したものが届いたのか、まだわからない
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第360話

紀元前298,210年

第二の星

風向きが変わった年だった。

乾いた季節が予定よりも長く続き、草原の縁が後退した。水場を知っている者たちは動かず、知らない者たちが動いた。動いた者たちの一部は戻らなかった。戻らなかった者たちの痕跡を、残った者たちは踏んで歩いた。踏んだことを知らずに。

遠く、岩棚の連なる高地では、別の集団が三つの峰のあいだに身を寄せていた。旧人に近い骨格を持つ者たちだった。眉の稜線が厚く、手が大きかった。彼らは火を持たなかったが、寒さの中で互いに体を重ねて眠る方法を知っていた。子どもが泣けば誰かが抱いた。抱いた者が親かどうかは関係なかった。

川沿いでは小さな集団が二つ、同じ根を掘っていた。一方が他方に気づき、立ち止まった。しばらく、二つの集団は動かなかった。それから一方が向きを変えた。争いにはならなかった。なぜそうなったかは、どちらにも説明できなかった。

草原の端、火のそばに、子どもが一人座っていた。

与えるもの

糸が繋がった。

煙の匂いが、ある方向からだけ強く漂った。崖の上ではなく、低いところ。草が茂っていて、見通せない。

この者は立ち上がった。崖の方へ行った。

渡したかったのは逃げ道だった。低いところを。

でもこの者は高い方へ登った。

正しく届いたのか、それとも逆に読まれたのか。同じ問いが何度目かわからなかった。次に渡すべきものは、方向ではなく、止まることかもしれない。

その者(11〜16歳)

火の番は一人の仕事だった。

大人たちが出かける前に、この者の腕を押さえて、地面を指した。ここにいろ、という意味だと分かった。声ではなく、押さえ方で分かった。

火は小さく保っていた。大きくすると煙が遠くまで届く。誰かを呼ぶことになる。呼んではいけない時があると、この者は知っていた。理由は知らなかった。腹の奥が知っていた。

朝から昼にかけて、何も起きなかった。

草虫の音。遠くで鳥が鳴いた。川の方向から風が来た。この者は風の向きを顔で測る癖があった。目を閉じて、顔の左と右に当たる温度の差を感じた。

昼を過ぎたころ、煙の匂いが変わった。

自分たちの火ではない煙だった。乾いた草が焦げる匂いと、何か別のものが混じっていた。腐ったものが燃える匂い。この者には名前がなかった、その匂いに。でも体は知っていた。

立ち上がった。

遠くから声が聞こえた。叫びではなく、低い唸りだった。自分の集団の声ではなかった。音の重さが違った。喉の場所が違った。

足が動いた。

崖の方へ。高い場所へ行けば見える、という直感だった。正しいかどうかは考えなかった。体が先に動いていた。

崖の縁まで登った。

下を見た。川が光っていた。草原の向こうに、いくつかの影が動いていた。数は分からなかった。遠すぎた。

影が、こちらに向かっていた。

この者は動かなかった。見ていた。

後ろから、足音がした。

振り返る間もなかった。肩に何かが当たった。体が崖の外に出た。

落ちながら、空が見えた。青かった。雲が一つあった。

水面は遠かった。

届く前に、何かが終わった。

伝播:HERESY 人口:515
与えるものの観察:煙を渡した。高い方へ行った。