2033年、人類の旅

「紀元前298,085年〜紀元前297,965年」第385話〜第408話

Day 17 — 2026/04/19

読了時間 約56分

第385話

紀元前298,085年

その者(35〜40歳)

川が太った。

岸の石が水の中に消えていた。その者は裸足のまま膝まで入り、流れに逆らって上流へ歩いた。泥が足の間から湧き上がるのを感じた。冷たくはなかった。川は生ぬるく、草の匂いがした。

三日前から雨が続いていた。

止んだのは昨朝のことだ。大地は吸い切れないほどの水を受け取り、草の根元から白い菌糸が広がり、木の幹は濡れて黒く光っていた。実が重かった。枝が地面近くまで垂れていた。

その者は川から上がった。

集団は近くにいた。七人、あるいは八人。子どもが二人、老いた者が一人。その者は先頭を歩く。先頭を歩く者が食べ物を見つけ、安全な道を選ぶ。これはずっとそうだった。誰が決めたわけでもなかった。その者の足が、気づけばいつも前にあった。

丘の向こうから声が聞こえた。

人の声ではなかった。低く、引き裂くような音。その者は立ち止まった。腹の奥で何かが収縮した。足裏が地面を確かめた。

草が揺れた。

揺れ方が違った。風ではなかった。獣の大きさと方向がそこにあった。その者は両手を後ろに向けた。集団が止まった。

長い時間、何も動かなかった。

草が再び揺れた。今度は遠ざかる方向に。その者は息を吐いた。肩から力が抜けた。横を見ると、幼い子どもが老いた者の腕にしがみついていた。老いた者は子どもの頭に手を置いていた。何も言わなかった。

その者は前を向いた。

斜面の上に、低い茂みが続いていた。その茂みの奥に、赤く熟れた実が見えた。風が吹いた。実の匂いが鼻の奥まで届いた。甘く、わずかに発酵したような香りだった。

その者は歩き出した。

第二の星

大地が湿っていた。

赤道に近い低地では、雨が五日続き、川が溢れた。魚が草原へ出てきた。水が引いた後、泥の上に魚の骨だけが残った。鳥がそれを啄んだ。

内陸では別の集団が丘の上に陣取り、谷を行き来する獣の群れを見ていた。子どもたちが岩の陰に隠れて覗いていた。老いた者が何かを声に出した。子どもたちが笑った。何が可笑しかったのかは残らない。

海に近い断崖では、旧人の小さな群れが雨水を岩の窪みから飲んでいた。新しい人間とは別の形の頭骨、別の歩き方。同じ大地を、違う経路で渡っていた。

豊かな季節に人は増える。増えると、場所が足りなくなる。

二つの集団が同じ水場を使い始めていた。声を上げた。石を持った。だが血は流れなかった。一方が引いた。夜になった。

遠い南の沿岸では、一人の者が砂浜に足跡を残したまま、波に消えた。誰も見ていなかった。

大地は今年も雨を受け取った。

草が伸び、実が実り、獣が肥えた。この星はそれを覚えていない。ただそうなった。

与えるもの

糸が繋がった。

実の匂いが風に乗ったとき、その匂いをほんの少し長く残した。

この者は歩き出した。

まだ渡せていない。しかし足が動いた。それで十分か。十分ではないかもしれない。次に渡すのは、足ではなく、目を向ける先のことにしよう。

伝播:NOISE 人口:634
与えるものの観察:足が先に知った。渡したのは匂いだ。
───
第386話

紀元前298,080年

第二の星

風がある。

草原の縁で、二つの集団が互いを見ている。見ているというより、見えている。距離は百歩ほど。それぞれの者たちは石を持っているか、持っていないか、地面に置いたか。判断しない。ただそうなっている。

乾いた台地の上に影が伸びる。午後の日差しが低く、どの者の影も長い。その者の集団からは煙が上がっている。別の集団の岸には煙がない。

台地の端で、幼い者が二人、石を並べている。遊んでいる。その向こうで、大人たちが唸り声を出したり、出さなかったりする。

旧人の一群が、丘の向こう側を移動している。彼らの足音は聞こえない距離だが、この星はそれを知っている。彼らの中に、腕を引きずって歩く者が一人いる。何日もそうして歩いている。

水場には水がある。水は誰のものでもない。この星にとっては、そういうことだ。

草が風に揺れる。台地の端で、その者が立っている。

与えるもの

煙の匂いを、別の方向から運んだ。

その者の集団の煙ではない匂い。違う何かが燃える、乾いた草と脂の混ざった匂い。風がそれを運んできた瞬間、その者の鼻孔が動いた。

立ち止まった。だがそれだけだった。匂いの出所を追わず、次の石を探しに視線を落とした。

渡した。届いた。しかし止まらなかった。——匂いは記憶になるだろうか。それとも次の感覚に押し流されるだけか。次に渡すべきは、もっと体に食い込むものかもしれない。

その者(40〜45歳)

朝から歩いていた。

採集の先頭に立つのは長い習慣だった。足の裏が地形を読む。岩の多い場所、泥になりやすい窪み、草が密になって実を結ぶ帯状の区域。理解しているわけではない。足が知っている。

風向きが変わったとき、その者は鼻を上げた。

いつもの煙ではなかった。自分たちの熾す火の匂いと何かが違う。油のような、重い燃え方。どこか。振り返った。振り返ったが、方角はわからなかった。風がすでに向きを変えていた。

唸り声を出さなかった。

後ろを歩く若い女が何かを言った。単音だった。その者は答えずに歩き続けた。

水場についた。岸に、別の集団の足跡があった。新しかった。湿った土に、五本指の窪みがまだ縁を崩していない。昨日ではない。今朝か、もっと近い時間か。

その者は屈んで指を近づけた。触れなかった。

水を飲んだ。冷たかった。飲みながら、岸の反対側に視線を向けた。誰もいなかった。草が揺れているだけだった。

立ち上がって、後ろに向かって短く唸った。集団が水を飲むために近づいてきた。

その者はその場に立ったまま、岸の向こうを見続けた。草はただ揺れていた。匂いはもう消えていた。何があったか、何がなかったか。その者にはその区別がない。

あったことと、なかったことの間で、ただ立っていた。

伝播:SILENCE 人口:641
与えるものの観察:匂いは届いた。止まらなかった。次は深く。
───
第387話

紀元前298,075年

その者(45〜49歳)

腹が鳴っていた。
朝から鳴っていた。

草原の端、枯れた茎が膝を打つ場所に、この者は立っていた。集団の先頭に立つのは習慣だった。習慣は骨に刻まれていた。足が先に動いた。

しかしその朝、後ろから声があった。
唸りではなく、押す動きがあった。
肩が押された。強く。

この者は振り返った。

若い雄が二人、石を持って立っていた。年若い方が顔に傷を持つ男だった。旧い集団の匂いがした。混ざってから何年か経つが、その匂いは残っていた。

押し戻された。

この者は押し戻された場所に立っていた。
足が前に出ようとした。出なかった。

それだけのことが起きた。

三日が経った。

この者はもう先頭を歩かなかった。
集団の後ろを歩いた。
後ろを歩く者は老いた者だった。子を抱えた者だった。傷を持つ者だった。

この者はそのどれでもなかった。そのどれかになっていた。

食べ物は渡ってきた。最後に渡ってきた。
量が少なかった。少ないということをこの者は知っていた。手が知っていた。

地面に座った。

遠くで子が泣いていた。若い雌が笑う声がした。火が燃えていた。この者はそれを聞いていた。

七日後。

この者は歩いていなかった。
集団が動いた。この者は動かなかった。
誰かが戻ってきたかもしれない。戻ってこなかったかもしれない。

草が揺れていた。

腹の奥から力が抜けていった。
岩に背を預けていた。岩は冷たかった。日が傾くにつれ、影が長くなった。影の中にこの者の足があった。

指が地面を掘った。
何もなかった。

また掘った。
草の根が一本だけ切れた。

この者はそれを口に入れた。
味はなかった。

遠くで、鳥の声がした。
草原の奥から、風が来た。

この者の目が開いていたかどうかは、草しか知らない。

第二の星

荒れ地の向こうで、二つの集団が同じ水場に向かっていた。先に着いた方が飲んだ。後から来た方が岸で止まった。水面に二つの影が落ちた。片方が長く、片方が短かった。風が吹いた。水面が揺れた。影は消えた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:618
与えるものの観察:届かないまま終わった。それでも渡した。
───
第388話

紀元前298,070年

第二の星

草原が黄色い。

雨季と乾季の境目、地面が割れる手前の色。空の端に雲が積み上がり、しかしまだ降らない。熱が低いところに溜まって、地上のものを揺らす。

集団は大きくなっていた。肉を食べる日が増えた。子が育った。年寄りが増えた。それだけのことが、別の何かを変えていた。

水場の近くで、二つの群れが重なる日が増えた。声を交わす者はいる。石を投げる者もいる。どちらが先に水を飲むか。どちらの子が先に走り込んでくるか。小さな先後が、小さな怒りになる。怒りは体に蓄積される。

遠くの草原に、別の動きがあった。獣の群れが移動している。大きな蹄の音が地を叩く。追う者たちが走る。囲む者たちが叫ぶ。声が飛び交う。短い音。鋭い音。命令に近いが命令ではない。

集団の中の若い者たちが、群れの外側を走り回る役を担っていた。

走ることで示す。走ることで存在する。

与えるもの

糸が繋がった。

この者はまだ知らない。知る言葉を持っていない。

風が南から吹いた。獣の群れが逃げていく方向と、逆の方向から。

この者は止まった。鼻が動いた。風の中に別の匂いが混じっていた。煙ではない。人の匂いだった。自分たちとは違う体の匂いが、南の草の中から来ていた。

この者はそれを感じ、それだけで走るのをやめた。

渡したのはその匂いだった。この者の鼻孔が開いた。体が止まった。

それが何を意味するか、この者には言葉がない。しかし止まったことで、その者は生きていた。止まらなければ、南の草の中に潜んでいた別の集団の男たちと、まっすぐ走って鉢合わせていた。

次に渡すべきものが見えていない。排除されるとわかっている。何を渡しても、届いた先で起きることは変わらないかもしれない。

それでも渡す。渡すことしかできない。この者の鼻が開いたこと、その一瞬の止まりが、今夜この者を生かしている。それだけが確かだ。

その者(14〜19歳)

走っていた。

足が草を踏む。草が脛を打つ。前の者の背中が見える。その背中が揺れる。揺れに合わせて自分の足も揺れる。追い役はこうやって走る。獣を囲む外側を、叫びながら走る。

叫んだ。

短い音。喉の奥から出てくる音。隣の者に届く音。隣の者が同じ音を返した。それだけで位置がわかった。

風が変わった。

足が一瞬重くなった。止まった理由は自分でもわからなかった。ただ、止まった。

鼻が動いた。

草の匂い。汗の匂い。地面の乾いた匂い。その奥に、別の何かが混じっていた。それは自分たちの群れの匂いではなかった。遠い水場で嗅いだことのある匂いだった。石を投げてきた男たちの体の匂いに近い何かが、南から来ていた。

前の者が先に行く。

この者は動かなかった。

体が動くことを拒んだのではない。ただ、足が出なかった。鼻が開いたまま、草の揺れを見ていた。南の草が、風とは別の動き方をしていた。

喉の奥から音が出た。警告の音ではなかった。疑問の音でもなかった。それは音にならない疑問だった。

前の者が振り返った。この者に向かって何か叫んだ。来い、という音だった。来い、来い、と繰り返した。

この者は来なかった。

南を向いたまま、体を低くした。

草が動いた。人の形が見えた。一人ではなかった。草の中に複数の体が潜んでいた。手に何かを持っていた。石か、骨か。

この者は声を上げた。

大きな声だった。集団の中で使う最も大きな声だった。警告の声ではなく、ただ大きかった。その声で仲間が止まった。振り返った。南を見た。

草の中の者たちが立ち上がった。

走って逃げた。

それだけだった。

集団に戻った時、年長の男がこの者の肩を掴んだ。何か言った。短い音で、何度も言った。この者は肩を掴まれたまま、南を向いていた。

夜、火の近くに座った。

腹が満ちていた。獣の肉が焼けた匂いが残っていた。しかし体の奥がざわついていた。南からの匂いが、鼻の中にまだある気がした。

目を閉じた。

南の草が揺れていた。それが記憶なのか、今起きていることなのか、この者には区別ができなかった。

伝播:HERESY 人口:599
与えるものの観察:止まったことが、生だった。
───
第389話

紀元前298,065年

第二の星

大地の東端、岩が崩れる崖の手前で、草が倒れている。
風ではない。何かが通った跡だ。
足の大きさが違う。爪の間隔が違う。二つの種が同じ水場に向かっている。

乾季の入口。泥の縁に複数の足跡が重なり、どれがどれかわからなくなっている。
重なった跡の上に、また別の跡。

北の斜面では、煙が二筋立っている。
距離にして、成人が半日歩く分。
煙の色が違う。燃やしているものが違う。
それぞれが火を持っている。それぞれが消さずにいる。

南では川が細くなっている。
石が頭を出した。先月は水の下にあった石だ。
カモシカの群れが上流に移動している。
群れを追う影が、一つ。

この星は傾いている。季節がそのようになっている。
崖の下、岩のくぼみに、小さな骨が三つ並んでいる。
誰かが置いた。風に飛ばされていない。
何かの理由で、そこに置かれた。

与えるもの

影が動いた。

この者の足元ではない。この者の後ろ、岩の陰。
そこに温度の差があった。日向の側と、影の側。

草の匂いが湿っている場所を、光が通り抜けた。
この者は立ち止まった。

渡したのは方向だ。逃げる先ではなく、来た道。

この者は振り向いた。足を止めた。それから、動かなかった。
届いたのか。それとも獣の気配がしただけか。

この者が何に反応したのか、わからない。
わからないまま、次を考える。
次に渡すべきものは、まだここにある。

その者(19〜24歳)

追い役は走る。
草の端を回り込む。低く、速く。

獣が右に折れた。この者も折れた。
肺が熱い。足の裏に石の感触が続いている。痛みが呼吸と交差する。

前方で大きな叫び声が上がった。囲みが締まっている。
この者は声に応えず、ただ走った。
走ることが返答だった。

草が切れた。開けた場所に出た瞬間、風が変わった。
後ろから吹いていた風が、右から来た。
この者は止まった。

理由を考えなかった。足が止まった。それだけだ。

振り向いた。

草の中に、影があった。動かない影。
獣ではなかった。足の形が違う。
立っている。こちらを見ている。

この者の集団ではない。骨格が違う。眉の出方が違う。額が低い。
この者より大きい。

見合った。

向こうも動かない。手に何も持っていない。
ただ立っている。

遠くで叫び声がまた上がった。
獣が仕留められた音だ。仲間の声。

その者は草の方を向いた。それから、また、この者を見た。

何かを言った。
音節が一つか二つ。
この者が使う音とは違う形をしていた。

この者は唸った。
短く、低く。

向こうは動かなかった。

それから向こうが先に踵を返した。草の中に消えた。足音が遠ざかった。

この者はしばらくそこに立っていた。
岩を拾った。
持ち重りを確かめた。
置いた。

仲間の声の方へ走り出した。
走りながら、後ろを一度だけ振り向いた。
草は動いていなかった。

夜、火の周りで肉が焼ける匂いの中、この者は何も言わなかった。
言う音を持っていなかった。
骨を噛みながら、草の方向を一度だけ見た。

伝播:HERESY 人口:579
与えるものの観察:別の種の目が、届いた場所にあった。
───
第390話

紀元前298,060年

その者(24〜29歳)

風が右から来ている。

その者は低く身を屈め、草の穂が揺れる方向を見た。左前方、岩陰の手前に獣の背中がある。茶色い毛。肩が上下している。まだ気づいていない。

後ろで、仲間の足音がする。二人。いつもの二人。

その者は右手を横に広げた。止まれ。

二人が止まる。

草の中で何かが動いた。獣ではない。大きさが違う。背が高い。足の運び方が違う。膝を曲げずに歩く。

その者は体が固まるのを感じた。

腹の奥から何かが湧いてくる。恐怖ではない。もっと古いもの。石の下の湿った土のような、冷たいもの。

相手も止まっていた。

岩陰の向こう側から、別の大きな者が二人分。同じように低く、同じように静かだった。彼らも獣を追っていた。彼らも止まっていた。

目が合った。

その者は喉の奥で低く唸った。警告でも威嚇でもない音。自分でも何の音か分からなかった。

相手の者が、同じような音を返した。

獣が動いた。察知したのか、横に走り出す。草が大きく揺れ、その者の左側を抜けていく。逃げた。

誰も追わなかった。

相手の集団が三歩、前に出た。その者も三歩、出た。

双方の間に、十歩分の草地が残っていた。

その者は仲間を振り返った。二人は後ろに下がっている。その者は前を向いた。

相手の先頭の者は、背が高かった。額の骨の出方が違う。眉の上が盛り上がっている。顔の作りが、仲間たちと少し違う。しかし目は、同じ場所を見ていた。逃げた獣の方向を。

腹が鳴った。その者の腹が。

相手の先頭の者が、口の端を少し動かした。

その者は岩を拾った。置いた。また拾った。

相手は動かなかった。

その者は手に持った岩を、草の上に静かに置いた。投げなかった。置いた。

相手の先頭の者が、腰に持っていた何かを地面に下ろした。獣の骨だった。磨いてある骨。

二つの置かれたものが、草の中に並んだ。

風が止んだ。

その者は眠れなかった。

火の傍で丸くなった仲間たちの呼吸を聞きながら、その者は目を開けていた。

昼間の目を思い出す。相手の者の目。獣を見ていた方向と、その者を見たときの方向が、同じだった。同じ向きに向いていた。

腹が鳴ることは、誰でも起きる。

骨を磨くことは。

その者は手を見た。自分の指を、暗い中で眺めた。

仲間の誰かが寝返りを打って、火の灰が崩れた。小さな音がした。

その者はその音で、昼間の音を思い出した。相手の唸り。自分の唸り。どちらが先だったか、もう分からなかった。

次の朝、水場に行くと、相手の集団の痕跡があった。

昨夜の焚き火の跡。円い灰の形。自分たちのものより少し小さい。

その者は屈んで、灰に触れた。まだ温かかった。

七日後、その者は崖の上から脚を踏み外した。

岩が崩れた。手が岩を掴もうとしたが、岩ごと剥がれた。

音がした。落ちる音。

草が、揺れた。

仲間が崖の上から覗き込んだとき、下には動くものがなかった。

第二の星

この五年間、私は多くを照らした。

豊穣の時代だった。雨は季節を守り、草は茂り、獣の群れは水場に集まった。この大地に生きる者たちは増えた。一つの集団が二つに分かれ、二つが三つの地域に広がった。飢えて倒れる者より、生まれる者の方が多かった。

しかし豊穣は緊張を生む。広がった者たちの縄張りが重なった。水場を挟んで、日に三度鉢合わせる季節が来た。声が上がり、石が投げられ、傷を持ち帰る者が増えた。

そしてこの五年で、二種の者たちが同じ水場を共有するようになった。額の骨の出方が異なる者たち。指の長さが異なる者たち。だが水を飲む口は同じ形をしていた。

この五年で分かったことは一つだ。

豊穣の中でも、者たちは境界を引き続ける。縄張りの形が変わるだけで、引くことをやめない。

しかし境界の上に何かを置く者も、いた。

岩を置く者。骨を置く者。

置いたものは、次の日には消えていた。どちらが持ち去ったのか、私には分からない。

その者は崖から落ちた。二十九歳だった。磨かれた骨の隣に置いた岩のことを、誰も知らない。仲間も、相手の集団も、知らない。

与えるもの

昨夜の灰のそばに、光を落とした。

温かいものに手が触れた。

また行くかもしれないと思ったのか、その者は立ち上がった。

崖のことは渡していない。渡せるものではなかった。

骨を磨く者がいる。岩を置く者がいた。次に渡すものを、私はまだ探している。

伝播:SILENCE 人口:584
与えるものの観察:岩を置いた。投げなかった。それだけが残る。
───
第391話

紀元前298,055年

その者

夜明け前、その者は目を覚ました。

眠れていなかった。集団の中の誰かが、昨夜、その者の背中を押した。遊びではなかった。押した者の目が笑っていなかった。その者は転ばなかった。転ばなかったことで、押した者は黙った。その黙り方が、転ぶより悪かった。

朝の空気は冷たく、草に水気があった。その者は仲間より先に立ち上がり、獣の臭いがある方角へ歩いた。追い役の仕事だ。先に場所を確かめる。それが自分の役割だと知っていた。

風が変わった。

腹の底に何かが落ちた感触があった。鼻孔が動く前に、足が止まっていた。左の茂みのあたりに、泥と体毛の混じった臭いが層になっていた。

その者は半歩下がった。しゃがんだ。草の先を目で追った。

動きがある。

重い。大きい。これは一頭ではない。

叫んで仲間を呼ぶべきだった。

しかしその者は呼ばなかった。昨夜の押し方を思い出していた。あの目を思い出していた。ここで叫べば、仲間は来る。来た後、獣と自分の間に自分だけが残ることもある。

一瞬の考えが、足を止めた。

茂みが割れた。

体当たりだった。角ではなく、頭そのものがその者の脇腹に入った。その者は横に飛んだ。草の中に落ちた。肺から空気が消えた。吸えなかった。立とうとした。片膝が地面につかなかった。右の脚が言うことを聞かなかった。

二度目が来た。今度は肩だった。

その者は斜面を転がった。草が顔を切った。岩に背中が当たった。止まった。

空が見えた。

まだ夜明け前の色だった。暗い青で、端だけが少し白かった。

その者は口を開けた。空気が来た。少し来た。

獣の足音が聞こえた。近くで草が揺れた。その者は動かなかった。動けなかった。息だけしていた。

足音は遠ざかった。

空の白い部分が、少し広くなった。

その者は空を見ていた。見たまま動かなかった。脚がまだ言うことを聞かなかった。肩が熱かった。呼吸が来るたびに右の胸のあたりで音がした。

仲間の声が遠くから聞こえた。別の方角から。獣を囲む声だった。追い役が足りないことに、誰かが気づいていた。

その者はその声を聞いていた。

答えなかった。

空の端が赤くなりはじめた。

その者の呼吸がゆっくりになった。音が変わった。胸の内側で何かが動いていた。動いて、止まろうとしていた。その者はまだ空を見ていた。目が開いていた。

赤が広がった。

草が揺れた。風だった。

その者は草の揺れを見ていた。見ていた。

見ていた。

第二の星

谷の向こう、背の低い木々が連なる斜面の上に、煙が一筋立っていた。火を持つ別の集団だ。夜営の跡が残っている。彼らは夜明けとともに動いた。その方角はこの者の集団と反対側だった。近づかなかった。近づく理由を、まだ持っていなかった。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:563
与えるものの観察:答えなかった。答えられなかったのではない。
───
第392話

紀元前298,050年

第二の星

草原は乾いていた。

五年のあいだ、雨は来るべき時に来た。実は膨らみ、根は深く伸びた。獣は肥え、群れは大きくなった。集団も大きくなった。

大きくなりすぎた。

同じ水場に近づく集団がある。遠くの斜面に煙が見える夜があった。煙は信号ではなく、火だ。誰かが誰かのものを燃やした。あるいは事故だった。どちらかはわからない。

草原の南、低い丘の連なりの向こうに、別の輪郭を持つ者たちがいる。背が低く、首が太く、眉の骨が張り出している。彼らは何世代もそこに住んでいた。水場を知っていた。季節の道を知っていた。この五年、彼らと同じ獲物を追う者が増えた。

子が多く生まれた。半数は生き残った。

草原の中心の集団では、子どもたちが走り回っていた。笑い声があった。だが夜には、大人たちが低い声で唸り合う時間があった。誰かが誰かを押しのけた。誰かの食料が消えた。誰かの子どもが怪我をして帰ってきた。

余裕の中に、傷が走っていた。

与えるもの

糸が繋がった。

四歳の体。細い腕。落ちかけた骨付きの肉を拾い直す指。

集団の中で何かが変わりはじめている。重い。記憶の中の何かと、似ている。似ているというだけだ。同じではないかもしれない。

肉の匂いが漂った。
その者の鼻が動いた。食べることに意識が向いた。

それでいい、とは思わない。それが問いだ——渡したいのは食べ物への注意ではなく、食べ物が消えた後に残る感覚だ。腹が満ちても何かが足りないという感覚。次に渡すものは、そこから始めるべきか。

その者(4〜9歳)

肉があった。

骨についた赤いもの。誰かが地面に落とした。その者は拾った。顔を上げた。誰も見ていなかった。口に入れた。

硬かった。歯でこじった。唾が出た。

集団の中心では大人が唸り合っていた。低い声が続いた。その者には意味がわからなかった。ただ、近づかなかった。体がそう決めた。

遠ざかりながら、骨を持っていた。

岩の陰に座った。膝を抱えた。骨を舐めた。朝の光が石の表面に落ちていた。温かかった。

昨夜のことがある。背中に触れた手の感触がまだ残っていた。遊びではなかったと体が知っていた。何が違うのかはわからない。ただ、背中の一点が、今も少し、冷たかった。

骨から肉がなくなった。

その者は骨を地面に置いた。また拾った。置いた。拾った。

伝播:DISTORTED 人口:569
与えるものの観察:食べることに向いた。次は空腹の後を渡す。
───
第393話

紀元前298,045年

第二の星とその者(9〜14歳)

空に穴があいた。

最初は夜のことだった。星のひとつが動いた。しかし星は動かない。動いたものは別のものだった。それは光の尾を引いて、「始まりの大地」の地平線の向こうへ落ちた。落ちた場所で、夜が昼になった。一瞬だけ。それから衝撃が来た。大地が揺れたのではなく、大気が揺れた。空気そのものが押し寄せた。木が折れた。獣が走った。方向は関係なかった。ただ走った。

その者は眠っていた。

震えで目が覚めた。震えは体の内側からではなく、地面から来た。横になっていた体ごと、地面が微細に揺れていた。起き上がると、集団の者たちが立っていた。立って、地平線を見ていた。空の端が光っていた。夜なのに光っていた。橙でも赤でもない、白に近い光だった。

煙が来るまでに数日かかった。

灰は最初、細かかった。降り積もるほどではなかった。しかし日が経つにつれて空の色が変わった。青が消えた。太陽が薄くなった。影が薄くなった。影が薄くなると、体が方角を失った。「始まりの大地」の草が灰色になった。草の色ではなく、積もったものの色だった。

その者は灰を舐めた。

苦かった。吐き出した。もう一度舐めた。やはり吐き出した。それを繰り返した。意味はなかった。手のひらに灰が溜まるのを見ていた。指を動かした。灰が流れた。また溜まった。また流れた。

寒さが来た。

それまでの五年で、集団は大きくなっていた。子が多く生まれた年があった。獣も多かった。草も多かった。その豊かさが、今は重さになっていた。食べるべき者が多すぎた。獣は消えていた。走って逃げた方向へ、そのまま戻らなかった。草の実は灰の下に埋まった。掘れば出た。しかし灰の中で腐っていることが多かった。

その者は腹が鳴った。

集団は移動した。移動先でも空は同じ色だった。別の集団と草地で会った。その集団の者たちは痩せていた。互いを見た。視線が交差した。それから争いになった。争いは速かった。岩が飛んだ。牙がある。爪がある。人は獣ではないが、獣のように動いた。倒れた者が出た。倒れたまま起き上がらない者も出た。

その者は走った。

別の方向に走ったのか、同じ方向に走ったのか、走りながらわからなかった。転んだ。岩に膝をぶつけた。血が出た。構わなかった。また走った。走りながら、後ろを振り返らなかった。振り返る意味が体に理解できなかった。ただ前だけを見た。足だけを動かした。

夜の中で止まった。

一人だった。集団の誰もいなかった。音がしなかった。灰の降る音は音ではなかった。風の音もしなかった。静かだった。空の色は昼も夜も、もう区別がつかなかった。その者は岩の陰にしゃがんだ。膝を抱えた。寒かった。寒さは皮膚ではなく、骨の中から来た。

その者の鼻孔に、何かが触れた。

焦げた匂いではなかった。草でもなかった。水の匂いでもなかった。それはどこにもない匂いだった。体の記憶の中にもなかった。しかし鼻がそちらを向いた。体が動く前に、鼻が動いた。岩の陰から顔を出した。暗い中に、何もなかった。しかし匂いは続いた。その方向に、岩の積み重なりがあった。岩と岩の間に、体が入れる隙間があった。

その者は入った。

中は風がなかった。灰も入らなかった。骨の冷たさが少しだけ戻った。中は暗かった。完全な暗さだった。その者は壁に触れた。岩だった。乾いていた。その者はそこで丸くなった。体温が少しずつ戻った。眠った。

集団の中で、半数より多くの者が消えた。

「始まりの大地」の外でも同じことが起きていた。しかし「始まりの大地」の者たちはそれを知らなかった。知る言葉がなかった。知る方法がなかった。ただ空が変わり、獣が消え、仲間が減った。それだけがあった。

その者は岩の隙間で目が覚めた。

腹が空だった。口の中が乾いていた。外に出ると、灰はまだ降っていた。しかし昨日より薄かった。空の端に、白でも灰でもない色が見えた。太陽の輪郭だった。輪郭だけがあった。その者はその方向を長く見た。見て、それから歩いた。

集団が見えた。

残っていた者たちが、草地に座っていた。子どもたちがいた。年を取った者がいた。誰も立っていなかった。その者は近づいた。知っている顔があった。知らない顔もあった。別の集団から混じった者がいた。誰も何も言わなかった。言う音がなかった。ただ座っていた。

その者は座った。

集団の中で、ある者たちが何かに気づいていた。

この者が岩の隙間を知っていること。この者が単独で戻ってきたこと。小さい体で、一人の夜を越えたこと。それを見ていた年かさの者が、唸り声を出した。低い声だった。問いではなく、指摘だった。別の者が顔を向けた。また別の者が顔を向けた。その者は見られた。

その者は見返した。

見返したことが、悪かった。

与えるもの

匂いを残した。焦げでも草でもない、どこにもない匂いを、岩の割れ目の方向から届けた。

この者は鼻を動かした。体が先に動いた。岩の中に入った。夜を越えた。

この者が知りすぎたとは、私には思えない。ただ岩の中に入っただけだ。しかし他の者たちには何かに見えたのかもしれない。次に渡すものを考えている。しかし渡す前に、この者が消えるかもしれない。それでも次を考えている。なぜ考えているのか、私にはわからない。

伝播:HERESY 人口:245
与えるものの観察:匂いを渡した。体が先に動いた。
───
第394話

紀元前298,040年

第二の星

夜が終わった後、空の傷は残った。

明け方の光の中で見ると、それははっきりしていた。星が消えたのではない。そこに穴があいたのではない。ただ、ひとつの場所の色が他とちがっていた。空の深い部分に、何かが通った跡がある。煙ではない。雲でもない。光の染みのようなものが、地平の上のやや高いところに、薄く広がっていた。

地面には何も落ちていなかった。

音は一晩中、遠くで鳴っていた。低い音だった。腹の底に届く種類の音で、耳より先に骨が感じた。集団の中の年長の者たちが起き上がり、音の方向を向いた。また横になった。音が止んでから、何人かが眠れないまま夜明けを待った。

草原の向こうで、獣が動いていた。

日が昇ると、いつもと同じように動き始めた。水場へ向かう者、幼い子を連れて木陰に座る者、石を打ち合わせている者。しかし足が少し早かった。立ち止まる間隔が短かった。顔が何度も空に向いた。

午前のうちに、別の集団の者たちが来た。

遠くから来た者たちだった。普段の方向とはちがう側から現れた。三人だった。うち一人は若く、腕に傷があった。古い傷だった。乾いていた。彼らはこちらの集団の縁に近づき、止まった。手を広げた。攻撃の動きではなかった。

この集団の年長者が一人、前に出た。

長い沈黙があった。唸り声がいくつか交わされた。身振りがあった。来た者たちが何かを差し出した。小さなものだった。手のひらに乗るくらいの石だった。赤みがかっていた。見たことのない色だった。

年長者がそれを受け取った。

来た者たちは去った。来た方向に戻らず、草原の端を回るように歩いて消えた。年長者は手の中の石をしばらく見ていた。それから、持ったままどこかへ行った。

夕方になった。

空の染みはまだそこにあった。薄くなっていたが、消えていなかった。星が出始めた。染みの周りの星が、いつもよりくっきりして見えた。あるいは、そこだけを見る目が育ったのかもしれなかった。

遠い草原で火が一つ見えた。

この集団の火ではなかった。方向が違った。誰のものかはわからなかった。しかし消えなかった。夜の間中、あそこに火がある、とわかる距離で、それは燃えていた。

与えるもの

石の赤みに、目を向けさせた。来た者の手の中で、あの色が光の当たり方で微妙に変わった。

年長者が受け取った。しかしその者は見ていなかった。

渡すべきはあの色だったのか。それとも、来た者が傷を隠さずにいたことか。次に渡すものを、まだ決めていない。

その者(14〜19歳)

来た者たちを、木の陰から見ていた。

近くには行かなかった。腕の傷が気になった。何度か見た。来た者たちが去った後も、その方向をしばらく見ていた。

それから、地面に落ちていた枝を拾った。理由はなかった。ただ拾った。持ったまま、夕方になるまで別のことをしていた。

伝播:NOISE 人口:259
与えるものの観察:赤い石が渡った。渡ったのに届かなかった。
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第395話

紀元前298,035年

第二の星

草が揺れている。

風は南から来ている。乾いた季節が続き、川の水位は下がっている。泥の端が白く固まり、そこに獣の蹄の跡が残っている。残ったまま、乾いて、割れた。

集団は以前より多い。さらに増えた。眠る場所が足りなくなり、火の周りに座れない者が出た。食料の分配をめぐって声が荒くなる朝がある。腕を掴む。突き飛ばす。それから、また黙って座る。

遠くでは、別の集団が丘の上に陣取っている。接触は少ない。しかし接触がないことが、ひとつの均衡になっている。均衡とは力のことだ。どちらかが弱れば崩れる。

川のさらに上流では、旧人の群れがいる。彼らは火を持たない。しかし彼らにも道がある。長い年月をかけて踏み固めた道が。

木の実が豊かな年だった。

その豊かさの中で、何かが固まりはじめていた。余裕がある場所には、余裕をめぐる争いも生まれる。食料ではなく、立場をめぐって。居場所をめぐって。

夜になると、集団の端の方に、追いやられた者がいた。

与えるもの

知りすぎた者が消えることを、渡す側は止められない。

その日の朝、光がある方向に落ちた。鋭い石の角に当たって反射した光が、その者の顔を照らした。鋭いもの、と示した。逃げる時に使えるもの、と示した。

その者は光に気づいた。石を見た。しかし拾わなかった。

渡せなかったのか。それとも渡したのに届かなかったのか。石は拾われなかった。しかし次に渡すとすれば、石ではない。もっと早く使えるもの。逃げ道そのもの。匂いか、音か、風か。次の朝に間に合うか。

その者(19〜24歳)

追いやられた。

理由はわからない。昨日まで火の近くにいた。今日は端にいる。誰も声をかけない。目が合っても、すぐにそらされる。

腹が減っていた。木の実の置いてある場所を知っていた。しかし近づくと、大きな者が立ちはだかった。音を出した。その者は下がった。

夜、草の上に横になった。空が明るかった。星がたくさんあった。一箇所だけ、色のちがう場所があった。何日か前から気になっていた場所だ。見た。しばらく見た。それから目をそらした。

朝になった。霧が出ていた。

その者は立ち上がり、集団から離れた方向に歩いた。理由があったわけではない。ただ足が動いた。草が膝まである場所を抜けると、小さな窪地があった。水が溜まっていた。飲んだ。

顔を上げると、川の方向から声がした。

怒鳴るような声ではなかった。しかし呼んでいるわけでもなかった。ただ、声が来た方向に、煙が見えた。

その者は動かなかった。

煙を見た。声を聞いた。足が動かなかった。

草の中に座った。霧はまだ晴れていなかった。その者の腹は鳴った。手が土を掴んだ。開いた。また掴んだ。

集団の方から、別の声が聞こえた。高い声だった。子どもの声だった。

その者は立ち上がった。集団の方に向かった。草を踏みながら戻った。

戻ったところで、大きな者の腕がその者を突いた。倒れた。土に手をついた。立ち上がった。また突かれた。

今度は倒れなかった。

しかし立ち続けるだけで、何もできなかった。

伝播:HERESY 人口:258
与えるものの観察:光で示した。拾われなかった。間に合うか。
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第396話

紀元前298,030年

その者(24〜29歳)

腕を掴まれた。

引きずられるように動いた。足が地面を蹴ったが、体は前に進まなかった。前ではなく、横に。崖の縁から離れる方向に。

その者は唸った。解こうとした。腕を引いた。

掴んでいる者は離さなかった。

集団の中で大きい者だった。毛皮が厚く、目が小さく、首が短い。その者よりも頭半分高かった。腕の力が違った。

引きずられながら、その者は地面を見ていた。自分の足が土を削っている。爪が折れた。

崖下には、もう一人が落ちていた。

岩と岩の間に挟まるように、動かなくなっていた。落ちる前に声を上げた。その声がまだ耳の中にあった。体が先に落ちて、声がそのあとを追いかけてきた、そういう順番だった。

その者はその声を出した者と、昨日同じ獣の骨を引き合いにしていた。どちらが先にかじるか。結局どちらも手放して、子どもたちに与えた。

それだけだった。それ以外に何もなかった。

引きずられる間、その者は抵抗をやめた。

力が抜けたのではなかった。腕の中に何か重いものが入ったような感覚があった。動けるが、動かなかった。

大きい者は引きずりながら何か声を出した。低く、短く、二度。

仲間への合図だったのか、それともその者への何かだったのか、わからなかった。

草原の端まで来ると、大きい者は腕を放した。

その者は倒れた。地面に手をついた。土が手のひらに入り込んだ。

顔を上げると、大きい者はもう向こうを向いていた。戻っていく背中を、その者は見ていた。

崖の方向には戻らなかった。

もう一度戻ろうとする気持ちが起きたかどうか、それはわからない。ただ、その者は座ったまま、しばらく動かなかった。

日が西に傾きはじめた。影が長くなった。

地面に手を当てたまま、その者は空を見なかった。土を見ていた。指が少しだけ動いた。掘るわけでもなく、ただ動いた。

第二の星

乾季が長引いている。

川は細くなり、岸に沿って白い帯が広がった。獣の群れは水を求めて移動した。その痕跡だけが草原の上に残り、踏み荒らされた道が幾本もできた。

集団は増えていた。増えたことで、食べ物の取り合いが起きた。崖の下に落ちた者は、それとは別の理由で落ちた。仲間の手が背中にあった。

集団が大きくなると、知りすぎた者が邪魔になることがある。危険を知っている者、先を読もうとする者、独自に動く者。彼らはある朝、群れの端にいる。翌朝には、いない。

誰も問わない。問う言葉がない。

草原の向こうでは別の集団が動いていた。彼らも水を探していた。二つの集団はまだ出会っていない。しかし痕跡は近づいていた。踏み荒らされた草の道が、ある地点で重なりはじめていた。

空は高く、乾いていた。雲はわずかで、雨の気配はない。

この地全体が息を殺しているような、静けさがあった。

与えるもの

崖から離れた方向に、風が吹いた。

その者の頰を撫でるように。ほんの少し、温かかった。

その者はそちらを向かなかった。

土を見ていた。指が動いていた。

その指に注意を向けさせようとした。ここに何かが埋まっている。根が、水が、あるいは固い石が。指はそれを知っている。

その者は掘らなかった。ただ動かした。

——指は知っていたのかもしれない。知っていたが、掘る理由が見つからなかっただけかもしれない。次に渡すべきものがある。体の中の重さだ。あれは何か。渡せるものか。渡せないか。まだわからない。

伝播:HERESY 人口:263
与えるものの観察:指が知っていた。掘らなかった。それだけだ。
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第397話

紀元前298,025年

その者(29〜30歳)

集団の端にいた。

いつもそこにいた。中心ではなく、端。焚き火の光が届くか届かないかの境目。食料が回ってくるのは、他の者が取り終えた後だった。

それでもその者は死ぬ前の日まで、特に何かを欲しがる顔をしなかった。

岩の割れ目に指を入れて、中を探った。何もなかった。また指を入れた。やはり何もなかった。それでも三度目、指を入れた。

集団の中で何かが変わっていた。大きくなった集団には、見知らぬ顔が混じっていた。どこかから来た者が、中心の近くに座るようになっていた。

古くからいる者の一人が、その者を見た。

長い、静かな視線だった。

その者は気づかなかった。指の中に、小さな虫の死骸があった。それを取り出して、地面に置いた。眺めた。

翌朝、靄が濃かった。

その者は水場へ向かった。一人で。

集団の誰かが後ろをついてきていることに、気づかなかったかもしれない。気づいていたかもしれない。その者の足は、特に速くならなかった。

水辺で膝をついた。水面に顔が映った。老いた顔ではなかった。ただ疲れた顔だった。

水を飲んだ。冷たかった。

後ろから何かが来た。

岩だった。

その者は水の中に倒れた。顔が水面を割った。水が跳ねた。それだけだった。

靄の中、水は元の形に戻った。

第二の星

同じ頃、大地の別の場所では、二つの集団が川を挟んで向き合っていた。どちらも動かなかった。風が葦を鳴らした。片方の者が、川に足を踏み入れた。もう片方は、その足を見た。やがて葦が止まった。何も起きなかった。両者は別々の方向へ歩き去った。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:259
与えるものの観察:守ることと渡すことは、別の行為だ。
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第398話

紀元前298,020年

第二の星

草原の端に、岩が崩れた跡がある。

去年の雨季に崩れた。岩と土が斜面を削って、低い場所に新しい湿地ができた。そこに葦が生えた。葦が生えたところに鳥が来た。鳥が来たところに卵がある。集団はその湿地のそばに拠点を移した。

豊穣が続いている。

果実が重い。獲物の数が多い。子どもが生まれ、生き残る数が増えた。集団の人数が増えた。増えたことで、食料を巡る順番が変わった。場所を巡る主張が変わった。誰が先に食べるか。誰がどこで眠るか。誰の子を誰が抱えるか。

豊穣は余裕を作る。余裕は欲を作る。

集団の中心に立つ者は、一人ではなくなっていた。かつては体が大きい者が黙って先に食べた。それで決まっていた。今は違う。体の大きさだけでは決まらない。誰と誰がともに動くか。誰が誰の子を守るか。夜、焚き火の周りで身体を寄せ合う位置が、力の地図になっている。

旧人との境界も、変わりつつある。

東の斜面に旧人の痕跡がある。獣の骨を砕いた跡。赤い土を塗った石。集団の若い狩人が近づいて、追い払った。旧人は姿を見せなかったが、跡は残った。次の日、跡のそばに新しい骨が置かれていた。誰も触らなかった。

集団内の緊張が高まっていた。

新しい子が生まれるたびに、誰かが誰かを睨む。視線が長くなる。唸りが増える。夜、焚き火から少し離れた場所で、二人の成人がもみ合った。片方が倒れた。起き上がって、何かを叫んだ。周りは静かになった。それだけだった。

知りすぎた者が消される。

この集団には、そういう仕草がある。言葉ではない。誰が余分に観ているか。誰が余分に覚えているか。誰の目が、他の者の動きを追いすぎているか。そういう者は、ある日から食料の回る順番が変わる。眠る場所が、端になる。

端は、危ない。

獣は端から来る。冷気は端から来る。夜、端で眠る者の上には、他の者の体の温もりが届かない。

草原は青い。風が横から吹いている。岩の向こうで、鳥が鳴いた。

与えるもの

炎の先端が、一瞬東を向いた。

その者は火の番をしていた。炎が揺れた方向を見た。暗かった。何もなかった。しかし、熱の残り方が少し違った。火の番は、続けた。

渡したかったのは方向ではなかった、と与えるものは考えた。渡したかったのは、炎がどこに揺れても、消さずにいることだったかもしれない。次に渡すべきものが、まだある。

その者(10〜15歳)

火の番をしていた。

薪を入れた。炎が揺れた。東を見た。暗かった。また薪を入れた。

翌朝、その者の眠る場所が変わっていた。誰も言わなかった。ただ、他の者が、そこに座っていた。その者は少し動いた。また少し動いた。気づいたとき、焚き火からずいぶん離れていた。

寒かった。空が白くなっていった。

伝播:HERESY 人口:259
与えるものの観察:炎は揺れた。この者は消さなかった。
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第399話

紀元前298,015年

第二の星

草原の端に湿地がある。

葦の穂が風にゆれる。鳥が一羽、その穂先に止まり、また飛んだ。湿地の水は濁っている。岩が崩れた時に混じった細かい砂と粘土が、まだ底に溜まったままだ。

集団は南の斜面に火を持っている。火の煙が東に流れる。乾季の終わりに近い。草が黄くなっている。地面が固い。

遠い場所でも、別の集団が動いている。川の上流を目指す小さな群れ。旧人の痕跡がある岩陰を通り過ぎて、その岩陰に旧人の痕跡が残っている。骨の欠片。灰の跡。しかし今そこに旧人はいない。どこへ行ったかは、岩も知らない。

南の斜面の集団の中で、緊張がある。子どもが増えた。食べる口が増えた。二人の成人の男が、同じ岩場の近くで腕を上げた。叫んだ。どちらも引かなかった。一方が石を投げた。当たらなかった。群れの端の者たちが見ていた。

夕方、火の番をしている若い者が、湿地の方を向いた。

葦が揺れていた。

与えるもの

炎が南に揺れた夜があった。今夜は北だ。

熱の向きが変わる。それだけで世界の形が変わるように見える者がいる。この者はその一人に近い。

湿地の葦の根元に、動物の足跡があった。昨夜のものだ。夜明け前に何かが水を飲みに来た。その痕跡に、朝の光が長く落ちた。

この者の足が止まった。

視線が足跡に向いたかどうかは見えない。だが足が止まった。それだけで、何かが届いた可能性の端に触れる。

届いたか。

炎の向きが変わった。煙が足跡の上を横切って、東に消えた。

渡したのは足跡の新しさだ。まだここに何かがいたという事実だ。次に渡すべきは、夜明け前にそこへ来ることかもしれない。あるいは、水辺で待つことの意味かもしれない。まだわからない。この者が足跡を覚えているかどうかで、渡し方が変わる。

その者(15〜20歳)

夜は火を見る。

炎が揺れる。大きくなる。小さくなる。薪が崩れると音がする。その音で体が動く。薪を足す。また見る。

今夜は男たちが騒いだ。石が飛んだ。当たらなかった。群れの年寄りが間に入って、声を出した。低くて長い声だった。男たちは離れた。この者は火から目を離さなかった。目を離したら炎が死ぬと思っていた。

朝になった。

湿地の縁まで歩いた。水を飲むためではなく、ただ歩いた。

泥の上に跡があった。四つの足の跡。爪の形が残っていた。深く押されている。重い動物だった。水を飲んだあと、北に向かっている。

この者は跡の中に指を入れた。

冷たかった。夜の冷たさがまだ残っていた。

その者はしばらくそこにいた。指を出した。また入れた。

跡の縁が少し崩れた。

立ち上がって、北を見た。何もいない。草だけがある。風が草を一方向に押している。その奥に、何かがいるかもしれない。いないかもしれない。

この者は火のある場所に戻った。

その日の昼、また湿地に来た。跡はまだあった。乾いていた。指を入れると今度は温かかった。

伝播:DISTORTED 人口:273
与えるものの観察:足跡の冷たさを覚えているか。
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第400話

紀元前298,010年

第二の星

湿地の水が澄みはじめた。砂と粘土が底に落ち着き、葦の根が水を抱えている。

草原では、集団が二つに分かれて動いていた。東の斜面に向かう者たちと、湿地の縁に残る者たち。どちらが先に動いたかは、もうわからない。両者の境界には何もない。岩も柵も煙も。ただ、互いの声が届く距離に近づくと、唸りが低くなる。

遠く、乾いた平原の向こうに別の集団がいる。岩の陰で焚火をしている。煙が低く這い、地面に沿って消えた。彼らは火を持っていた。この集団とは会ったことがない。

湿地の北では、今年に入って三頭の獣が死んでいた。二頭は老いていた。一頭は若かった。どれも、腐る前に何者かに食われた。

草が揺れる。風が南から来ている。葦の穂が同じ方向を向いている。水面に光が散り、すぐに波紋に消えた。

その者は湿地の縁にいた。火のそばではなく、少し離れた場所に。

与えるもの

この者が湿地の縁に座っていた時、水面のある一点に光が強く落ちた。

波紋の中心に、何かが浮いていた。鳥の羽根ではない。獣の毛でもない。葦の茎の一部が折れて、水に浮いている。それだけだ。

この者は水面を見た。羽根を拾おうとはしなかった。ただ、浮いているものを目で追った。

それが流れる方向を、与えるものは問う。流れる先を知っていたか。それとも、浮くことだけを見ていたか。渡すべきは方向かもしれない。あるいは、浮くという状態そのものかもしれない。次に何を落とすべきか、与えるものはまだ決めていない。

その者(20〜25歳)

火は燃えていた。

その者は枝を二本、炎の端に差し込んだ。燃え方を見た。一本は早く、一本は遅かった。なぜかはわからない。もう一本差し込んで、また見た。

集団の奥で唸り声がした。低い声が重なった。その者は振り返らなかった。

湿地に行った。水面に光があった。葦の茎が一本、水の上を動いていた。流れがあるわけではない。風が押していた。その者はしばらく立って見ていた。手を出さなかった。

茎が葦の根元に引っかかって、止まった。

その者は屈み込んだ。指で水に触れた。冷たかった。水が揺れて、茎が少し離れた。

唸り声が、また聞こえた。今度は違う方向だった。

その者は立ち上がり、火の方へ戻った。炎はまだあった。枝の一本が半分になっていた。もう一本は、まだ残っていた。

伝播:NOISE 人口:293
与えるものの観察:浮くことを見た。拾わなかった。
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第401話

紀元前298,005年

第二の星

草原の東端に風が当たる季節だった。

湿地の縁では、葦がまだ揺れていた。根は水を抱いたまま、泥の中に静かにあった。その北側では、二つに分かれた動きがようやく落ち着いて、東の斜面に向かった者たちが岩場のくぼみに火を持った。湿地の縁に残った者たちは、火を二箇所に増やしていた。

炎が増えれば、管理する者が要る。

集団の内部で、何かの順序が変わりはじめていた。誰がどの火に近い場所に座るか。誰がどの水を先に飲むか。声の大きさと体の大きさが、少しずつ意味を持ちはじめていた。

湿地の南では、別の足跡が一時的に重なっていた。つくりの違う骨、広い眉の稜線、指の節が太い手。その者たちは北へ移動した。重なりは消えた。

火の番をする若い者が一人、集団の縁にいた。

その者が知りすぎたかどうかは、問題ではなかったのかもしれない。ただ、その者は見えていた。誰が誰に近づき、誰が先に動くかを。それだけで十分だった。

集団から、一つの影が消えた。

与えるもの

温度が変わった。

その者の背後、岩の影が落ちていない側から、わずかに暖かい空気が流れた。逃げるとすればその方向だった。

その者は振り返らなかった。前だけを見ていた。

渡したものは届いたのか。届かなかったのか。それよりも——渡した瞬間に逃げることを、この者は選ばなかった。選ばなかったことと、気づかなかったことは、同じではない。次に渡すものがあるとすれば、逃げることではないのかもしれない。

その者(25〜30歳)

火の番は毎夜だった。

薪を足す。煙の向きを読む。風が変われば石を一つずらす。それだけのことを、長い時間かけてやってきた。

その夜も火の前にいた。

集団のある者が近づいてきた。声は出さなかった。別の者が反対側から来た。その者は立ち上がろうとした。足が地面を踏んだ。

重いものが背中に当たった。

火が揺れた。煙が横に広がった。

その者は地面に手をついた。立とうとした。もう一度倒された。手のひらに泥が刺さった。顔が地面に近くなった。草の根の匂いがした。湿地の水の匂いがした。

遠くで何かが鳴いた。

その者はそれを聞いていた。聞こえていた。手が土の中に少し沈んだ。押さえられた背中の重みは変わらなかった。草の茎が一本、目の前に折れて倒れた。

火はまだ燃えていた。

誰かの足が、その者の手の上を踏んで、歩いていった。

伝播:HERESY 人口:290
与えるものの観察:見ていることしかできなかった夜がある
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第402話

紀元前298,000年

第二の星

乾いた風が北から来ていた。

草原の東端では、火が二箇所になった夜から数えて、まだ十の夜も経っていなかった。湿地の縁の葦は枯れ始めており、水位が下がった泥の表面に、獣の足跡が幾重にも残っていた。

遠い場所では、石灰岩の崖に沿って小さな集団が移動していた。彼らは火を持たず、岩の窪みに集まって互いの体温で夜をやり過ごしていた。その集団の中に、腕の長い者がいた。指の先まで毛に覆われていたが、目は同じように夜空を見た。見て、何も言わなかった。

草原では、争いの跡に血が乾いていた。

踏み荒らされた草の中心に、折れた枝が二本あった。誰も拾わなかった。朝の光が来ると、鳥がその場所に降りて、何かの臭いを嗅いで去った。

風向きが変わった。

南から湿った空気が来て、北の乾いた空気と押し合う場所で、雲が低く広がり始めた。

その者が火の番をしている場所のすぐ東に、小さな水たまりがあった。

与えるもの

水たまりに光が落ちた。揺れている水面の、一点だけが。

その者は見た。見て、近づいた。

水に映った自分の顔を見たことがあるはずだった。前にも、同じような光の落ち方をした場所があった。その時この者は水を飲んで立ち去った。今回も同じかもしれない。同じでないかもしれない。

渡したいのは顔ではない。映ることだ。

その者(30〜35歳)

手の甲に泥が固まって、皮膚を引っ張る感じがまだあった。

爪の際が黒かった。舐めても取れなかった。火の傍らに戻った時も、その引きつりはあった。

火は小さくなっていた。枝を一本足した。炎が少し高くなった。

東の水たまりが光った。

近づいた。泥が足の指の間に入った。冷たかった。水たまりの縁に屈んで、水面を見た。

自分の顔があった。

前も見た。水に自分がいる。飲む前に毎回ある。

でも今日は飲まなかった。

ただ見た。風が来て、顔が揺れた。揺れた顔をまだ見た。

顔が戻ってきた。

また揺れた。

指を水に入れた。冷たかった。顔が崩れた。

指を引いた。顔が戻ってきた。

また指を入れた。

戻ってきた。

何度かそれをした。火の勢いが落ちているのがわかった。でも立ち上がらなかった。

水面の顔から目が離れなかった。

夜、その者の傍らに誰かが来た。大きな体の者だった。背中を蹴った。

火に戻れという意味だった。

その者は立ち上がった。枝を三本足した。炎が高くなった。

集団の者たちが眠っている方を見た。何人かが見ていた。

目が合った。

見ていた者たちが目を逸らした。

その者は火の方を向いた。

炎を見た。

揺れる炎の中に、さっきの水面があった。あるわけがなかった。でもあった。

指を出した。

炎には触らなかった。出したまま、止まった。

伝播:HERESY 人口:292
与えるものの観察:映ることと消えることは同じ動きをする。
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第403話

紀元前297,995年

その者(35〜37歳)

腹が鳴らなくなって、何日が過ぎたか。

その者は火の傍に座っていた。薪は三本。昨日は五本あった。一昨日は、数えていなかった。

足が動かなかった。腿の肉は薄く、膝の骨が皮を押し上げていた。火の番をするとは、火の前にいることだ。その者にはまだそれができた。

集団は南へ出ていた。獲物の匂いがそちらから来ると、大きい者たちが唸り声で示し合って、草原の方へ消えた。子どもたちの幾人かも連れられた。その者は行けなかった。膝が地面を蹴れなかったから。

火が小さくなった。

薪を手に取ろうとした。腕が震えた。薪は重くなかった。それでも重かった。

くべた。

火が戻った。

その者は火を見た。炎の揺れ方を、目で追った。右に傾いて、左に戻って、また右に。風がどこかから来ていた。

腹のあたりに、もう何もなかった。空洞のような感覚だけが残っていた。

地面に手を置いた。土は冷たかった。乾いていた。指を土に押しつけた。爪に土が入った。

遠くで何かの獣が鳴いた。

その者はその音を聞いた。それから聞かなくなった。

火はまだ燃えていた。

薪が二本になった。

第二の星

北の岩場では、旧い形の者たちが二十ほど、崖の陰で眠っていた。石灰岩の白い壁に、誰かの手形が残されていた。赤い土を溶いたもので押しつけたのか、乾いた掌の跡が三つ並んでいた。誰がいつ残したか、誰も知らなかった。南では草原の端に雷が落ち、煙が细く立ち上がった。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:DISTORTED 人口:307
与えるものの観察:火は残った。その者はいなくなった。
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第404話

紀元前297,990年

その者

石が重かった。

持ち上げた。肩まで引き上げ、走った。足が泥に沈んだ。それでも走った。後ろで声がした。複数の唸り声。彼よりも大きな体をした者たちが、追ってきていた。

石を投げた。

命中した。男の膝に当たった。男が倒れた。その隙に曲がった。低木の茂みに飛び込んだ。枝が顔を切った。頬から温かいものが流れた。止まらなかった。構わずに走った。

息が上がった。足が痛かった。それでも止まらなかった。

なぜ追われているのか、その者には言葉がなかった。体が知っていた。昨日、大きな雄に逆らった。食料の分配で唸り声を上げた。それだけだった。それで十分だった。

茂みの中に潜り込んだ。息を殺した。

追ってきた者たちが、近くを通り過ぎた。足音が遠くなった。消えた。

その者は地面に頬をつけた。湿った土の匂いがした。根が鼻先にあった。虫が耳の近くで動いた。体が震えていた。腹ではなく、肩から。

しばらく、動かなかった。

陽が傾いた。影が長くなった。鳥の声が変わった。夕方の声になった。

その者はゆっくりと頭を起こした。血が固まっていた。頬に触れると、皮膚が引きつった。

集団には戻れない。それを体が知っていた。言葉で考えたのではない。足が集団のいる方向へ向かなかった。それだけのことだった。

どこへ行くのか。

知らなかった。足が動いた。

第二の星

始まりの大地の湿地帯に、雨季が続いていた。

川は増水し、低地の草原は水を含んで柔らかくなっていた。獣の足跡が深く残る。水が豊かな季節は食料も豊かだった。集団の数は増えていた。五年前には二百を超えなかった者たちが、今では三百を超えていた。

しかし密度が増すと、摩擦が生まれた。

食料の分配を巡って、毎晩のように唸り声が上がった。大きな体の者が先に取る。小さな者は残りを待つ。それが秩序だった。秩序に異議を唱える者は排除された。声ではなく、行動で。集団から切り離されることで。

孤立した個体が、始まりの大地で生き延びられる期間は短かった。

北の森の縁では旧人の群れが移動していた。彼らは集団を組まず、二人か三人で動いた。川魚を捕る方法を持っていた。互いに近づくことはなかった。ただ、同じ水場を使うことがあった。

大地は豊かだった。しかし豊かさは均等には届かなかった。

始まりの大地は、何も判断しなかった。ただ雨を降らせ、草を育て、川を増やした。その上で人々が何をするかは、人々が決めた。

与えるもの

糸が繋がった。

腐葉土の匂いが、風の向きを変えるように濃くなった。その者の鼻が動いた。水場の匂い。東。

その者は東へ歩き始めた。

匂いを追ったのか、足が勝手に動いたのか、その者には区別がなかった。

旧人の二人組が使う水場だった。その者は気づかずに近づいた。

この者が何をするかは、わからなかった。匂いを届けた。それだけだった。包丁を渡すことと変わらない。届けた先で何が起きるかは、届けた後の話だ。次に渡すべきものがあるとすれば、それは——まだ、見えなかった。

伝播:HERESY 人口:311
与えるものの観察:匂いを届けた。使われ方は知らない。
───
第405話

紀元前297,985年

第二の星

草原の東端で、火が三つ燃えていた。

西の谷に住む群れの火だ。北の丘の群れの火ではない。東端に来るのは珍しかった。ひと月前まで彼らはもっと遠くにいた——草が焼けた地帯の向こう、昼間も煙が立っていた場所の近く。その煙がやんだあと、彼らは少しずつこちらへ近づいてきた。

草が豊かだった。雨季が続いたあとの平原は膝の高さまで緑で埋まり、大型の獣が群れていた。食べるものが多いところに、食べるものを求める者が集まる。それだけのことだ。

旧人の痕跡もあった。

川べりの泥に、大きな足跡が残っていた。かかとが深く沈んでいた。体重のある者だ。五本指だが、人のそれとは違う広がり方をしていた。足跡は川を渡り、対岸の葦原に消えていた。彼らが渡れるなら、浅瀬がある。浅瀬があるなら、魚が集まる。魚が集まるなら、さらに多くのものが集まる。

ここ数十日で、この平原で動くものの数が増えていた。

夜になると遠くに火の点が増える。一つだったのが二つになり、二つが三つになった。どの火も互いの射程に入らない距離を保っていたが、その距離は縮まりつつあった。食べるものが多い季節には、領域の境目が曖昧になる。豊かさが重なり合うとき、境目は揺れる。

昼間、二つの群れが川原で向き合った。

声の応酬があった。高い声、低い声、腕を広げる者、石を手に持ちながら下げない者。殴り合いにはならなかった。しかし離れもしなかった。双方が少しずつ退いて、間に砂利の帯を残した。その帯を、両側から見ていた。

砂利の帯には足跡がいくつかあった。人のものと、旧人のものと、どちらかわからないものが混じっていた。

夜、平原に風が吹いた。草が一斉に傾いた。火の点は変わらず三つで、それぞれが動かなかった。

増えた火の数を、星は数えていた。数えるだけだ。

与えるもの

砂利の帯の向こうに、一本の骨が落ちていた。

獣のものか人のものかわからない。端が砕けていた。砕け口は鋭かった。

夕方、その骨の折れ口に、光が一瞬だけ鋭く反射した——太陽が雲の端から出た、ほんの短い間だけ。

この者は立ち止まらなかった。

砕けた骨の先がどう使えるか。使えた場合と使えなかった場合で、次に渡すべきものが変わる。この者は今日も渡せなかった。渡せなかったことを、与えるものは問いに変えた。光の落とし方が足りなかったのか。それとも、光を落とす前にこの者の目が別の方向を向いていたのか。

その者(32〜37歳)

砂利の帯を越えなかった。

立って、見ていた。向こう側に人影があった。動かなかった。こちらも動かなかった。

腹が鳴った。喉が渇いた。

川へ戻った。水を飲んだ。伏せたまま、耳を水面に近づけた。音があった。流れの音と、もう一つ、別の音。

立ち上がって、上流を見た。

伝播:DISTORTED 人口:325
与えるものの観察:光は届いた。目が向かなかった。
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第406話

紀元前297,980年

その者(37〜42歳)

夜が明ける前に、その者は目を覚ました。

寝床にしていた窪地の縁に、露が光っていた。草の根元。小石の隙間。その者はそれを見なかった。腹が鳴っていた。

群れは六十を超えていた。以前はもっと少なかった。その者は以前を知らない。今がすべてだった。

東端の群れが近い。火が三つ、昨夜も見えた。

その者は岩の陰から彼らを見ていた。長い時間、動かずに。向こうも同じように見ていた。どちらも近づかなかった。

三日前、北の丘の群れとの境で、若い雄が一人倒れた。

石が飛んだ。どちらが先に投げたか、誰も知らない。その者は近くにいた。石が頬を掠めた。血が出た。その者は吠えた。相手も吠えた。やがて両方とも後退した。

境界線は動かなかった。

その者の傷は浅かった。三日で塞がった。

五日目の朝、東端の群れが動いた。

草原を横切って、西へ。

その者の群れが気づいた。唸り声が上がった。足踏みが始まった。その者は先頭に立った。両腕を広げた。声を上げた。

東端の群れは止まらなかった。

走った。

その者も走った。

接触は短かった。

石が飛んだ。棒が振るわれた。叫び声と叫び声がぶつかった。草が踏み荒らされた。誰かが倒れた。誰かが逃げた。

その者は押し返した。前へ。また前へ。

気づいた時、自分の群れの者たちがいなかった。

振り向いた。

草原に、三人倒れていた。自分の群れの者だった。

動かなかった。

その者は立っていた。東端の群れの者が七人、取り囲んでいた。

棒が来た。

その者はそれを払った。

石が来た。

それは払えなかった。

頭の右側に、重い感覚が走った。音が消えた。地面が傾いた。草の匂いが強くなった。非常に強くなった。それからすべてが遠くなった。

その者は横向きに倒れた。

草の上に。

膝が折れたのか、腰が折れたのか、その者にはもうわからなかった。

空が白かった。

雲が一つ、ゆっくり動いていた。

その者はそれを見ていた。

第二の星

高緯度の氷原で、巨大な氷塊が割れた。音は遠かった。海に落ちた氷は波を起こし、波は沿岸の浅瀬を洗った。誰もいなかった。誰もその音を聞かなかった。岩が濡れ、乾き、また濡れた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:319
与えるものの観察:渡した光に、この者は気づかなかった。
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第407話

紀元前297,975年

第二の星

草が腰まで伸びた平原を、乾いた風が南から北へ渡っていく。

岩棚の下に六十を超えた群れが眠っていた。夜明け前、空の端が白み始める時間に、幼いものが二人、熱で目を覚ました。片方はまた眠った。もう片方は、夜が明けても起き上がらなかった。誰も気づくまでに、ずいぶん時間がかかった。

東の丘の向こうに、別の群れの煙が見えた。二日前から見えている。近づいてはいない。離れてもいない。

平原の北端、乾いた川床に、異なる骨格を持つ者たちが三人、同じ水溜まりを使っていた。背が低く、眉の張り出した者たちだった。彼らは群れから離れた個体で、火を持っていなかった。水を飲み、岩陰に消えた。

この星は、そのすべてを等しく照らしていた。

幼いものが一人、地面に横たわったまま動かなくなった。群れの一人が近寄り、揺すった。揺すった。揺すった。それから離れた。

東の煙は夕方になっても消えなかった。

与えるもの

糸が繋がった。

この者は知らない。

川床の岩に、光が落ちた。石英の混じった白い岩。今日の朝日の角度がそこにだけ当たっていた。硬い縁が光っていた。

この者は走り抜けた。獲物を追っていた。

渡せたかどうかではない。次に渡すべきものを、与えるものはまだ知らない。この者が何かを見るとき、あの目は何を捉えているのか。注意そのものが、今は届かない。

その者(13〜18歳)

獲物の足跡が川床で消えた。

砂が湿っていたのはそこまでで、先は岩が続いていた。その者は立ち止まり、鼻を上げた。匂いはなかった。風が止んでいた。

振り返ると、年長の者が遠くで手を動かしていた。戻れという動きだった。

その者は動かなかった。もう少しだと思っていた。思っていた、ではなく、腹の奥が引っ張られる感じがした。獲物はまだ近い。そのことを、声に出す言葉は持っていなかった。唸って、前を指した。年長の者がもう一度、手を動かした。

その者は戻った。

岩棚に戻ると、幼いものが一人いなくなっていた。いた場所に、別の者が座っていた。地面を平らにならしていた。誰もそこを見ていなかった。

その日の夜、その者は煙の方向を見た。

東の丘の向こうに火があった。自分たちの火ではない火だった。大きさがわからなかった。その者は岩に背を当て、空を見た。腹が鳴った。

翌朝、年長の者が三人、東の方角に歩いていくのをその者は見た。追おうとした。腕を掴まれた。強い力だった。その者は振り払えなかった。

三人は丘の向こうに消えた。

戻ってきたのは二人だった。

その者は戻らなかった一人の顔を思い出そうとした。思い出せた。思い出した。それから考えるのをやめた。

火の管理を任された。小枝を一本ずつ、燃え方を見ながら足していった。多すぎると火が暴れた。少なすぎると縮んだ。その者は膝を抱えて、火の前に座り続けた。

東の煙は、翌日には消えていた。

伝播:HERESY 人口:322
与えるものの観察:注意が届かない。目は走り抜ける。
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第408話

紀元前297,970年

その者(18〜19歳)

群れの端に、その者の居場所があった。

岩と岩のあいだ、半分だけ草に隠れた窪み。年長者が眠る場所ではない。幼子が転がる場所でもない。誰も来ない場所だった。その者は三日前からそこにいた。

草の根が腐る匂い。湿った土。空は高く、風がない。

その者はもともと群れの端にいた。若い追跡者として、遠くへ出て、帰ってくる。それだけの役割だった。しかし十日前、その者は帰ってきてはいけない情報を体に刻んでいた。

西の斜面。別の群れの足跡。匂い。声の残り。

年長の男が、その者の腕を摑んだ。問うような目だった。その者は西を指す手振りをした。男の目が変わった。

夜のうちに、何かが決まったのだろう。

翌朝、その者の食い物が減っていた。誰も渡してこなかった。目が合う前に逸らされた。

その者はそれを理解したわけではなかった。ただ、居場所が消えていくことを体が先に知っていた。背中に誰かの視線が重なる感覚。近づいても散らない緊張。その者は草の中の窪みへ移った。

三日。

水を飲みに行くと、後ろから足音がついてくる。食い物を取りに戻ると、手より先に誰かの手が動く。その者は何も奪わなかった。何も叫ばなかった。

四日目の昼、二人の男が来た。

草を踏む音。その者は顔を上げた。男たちはまだ遠かった。

立ち上がる気力はあった。逃げる方向を知っていた。脚は動いた。

しかし男たちの足は速く、その者の足も速く、斜面を下って川の手前の泥地に入ったとき、足が沈んだ。一歩、二歩、引き抜くたびに膝まで埋まっていった。

振り返る前に、重いものが背中に当たった。

その者は前向きに倒れた。

泥の冷たさが顔の半分に広がった。草の根が口のそばにあった。水が滲んできた。

空の色がどこかで変わっていたかもしれないが、その者には見えなかった。

第二の星

平原の北端、浅い河が二股に分かれる場所で、旧人の群れが岸に沿って移動していた。彼らは声を出さずに歩いていた。草が揺れ、足跡が湿った土に残り、朝の光がその足跡を長く照らしていた。その者が泥の中に倒れた時間と、おそらく重なっていた。

与えるもの

光の降りた場所に、泥の冷たさがあった。川の音を風が運んでくると、その者の肩のあたりで音が途絶えた。

川沿いの草の中に、鋭い石が一つ、光を受けて白く光っていた。

その者は走りながら、石を踏んだ。踏んで、気にしなかった。

その石のことを、その者はもう考えない。

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:315
与えるものの観察:見ていることしかできない時がある。目は逸らさない。