2033年、人類の旅

「紀元前297,965年〜紀元前297,845年」第409話〜第432話

Day 18 — 2026/04/20

読了時間 約53分

第409話

紀元前297,965年

第二の星とその者(24〜29歳)

草が伸びた。

丘の南斜面で、去年より深く。膝まであった草が腰を越え、獣道がまた別の方向に刻まれた。雨季は長く、乾季は穏やかで、川は枯れなかった。始まりの大地の北端では、岩肌に染みたように新しい命が増えていた。同じ頃、はるか遠い海岸線では、波が砂を運ぶだけで、誰もいなかった。

その者は川の手前で止まった。

上流から何かの腐った匂いが流れてきた。鼻を引いた。足は動かなかった。匂いの先を見た。水面に浮かんだものが何かはわからなかった。それだけ確かめると、別の水飲み場へ向かった。

豊穣の年が続くとき、集団の輪郭は広がる。

眠る場所が変わった。昨年まで群れの外縁だった地面に、今年は子を持つ女と老いた男が眠った。その者の場所は少し、端の方へ押し出された。文句を言う手段を持たなかった。押し出された先に、岩があった。背を預けると安定した。

平原の向こうに別の群れの気配があった。

煙の位置が変わった。以前は北東だった。今は真北で、近い。昼間でも、風の向きによっては焦げた骨の匂いが漂った。その者の群れの年長者たちは声を上げ合った。具体的な意味はなかったが、調子が違った。その者にはそれが分かった。

夜、子が二人生まれた。

産声を聞いた。その者は眠っていたが、目が開いた。そのまま空を見た。星があった。見ていた。理由はなかった。ただ見ていた。

群れは五年で大きくなった。

半数以上が子どもと若者になった。食料を探す足が増え、狩りに出る者の数も増えた。その者は指示を受ける側から、幼い者に声を出す側へ少し変わった。大きな変化ではなかった。ただ、自分より小さい背中に向かって唸り声を出すことが増えた。

北の群れの気配は消えなかった。

消えないまま、五年が過ぎた。

与えるもの

煙の匂いが北から流れた夜、その者の鼻が動いた。

その者は嗅いだが、振り返らなかった。

振り返らないことが、次に渡すものを変える。煙がどこから来るかを知らない者には、もっと近くから示すしかない。その距離が縮まることを、良いとも悪いとも思わない。ただ、近くなれば渡せるものが変わる。次はもっと具体的なものを置ける。

伝播:NOISE 人口:410
与えるものの観察:煙の匂いを嗅いだ。振り返らなかった。
───
第410話

紀元前297,960年

第二の星

乾季が終わりかけている。

川沿いの低地では、地面がまだ固い。水が引いた跡が白く残り、そこに小さな蹄の跡が点々と続いていた。獣は水を求めて移動している。人も同じだ。

集団は北と南に分かれていた。分かれたというより、膨らんだ末に裂けた。腹を空かせた口が増えれば、一か所にいられない。南の群れは岩壁の下に寝場所を作り、北の群れは川の屈曲部に居ついた。距離にすれば、大人の足で半日ほど。見えない。声も届かない。しかし匂いは届く。煙の匂い。肉を焼く匂い。

北の群れに、ひとつの変化があった。

岩を割る者がいた。その者ではない。別の手だ。いつもより大きく、節くれ立った手。その手が二つの石をぶつけ、剥がれた破片を拾い上げ、端を指で確かめた。鋭さを確かめた。確かめてから、皮を剥がすことに使った。ただそれだけのことだった。しかし翌日も同じことをした。また翌日も。

三度繰り返された。

石を選ぶようになった。重さ、形、手に収まる感覚。すべてを試すわけではない。ほとんどは拾って捨てる。しかし捨てない石があった。捨てない石を、次の日も使った。

それを見ていた者がいた。真似た者がいた。真似た者が別の者に見せた。

言葉で伝わったのではない。手が動いた。目が追った。同じ動きが別の手で繰り返された。石が選ばれた。形が意図された。

道具という思想が、名前を持たないまま、この地に生まれた。

同じ頃、南の群れでは別のことが起きていた。

若い雄が二人、川辺で向き合っていた。理由は食料だったかもしれない。縄張りだったかもしれない。声が上がり、石が投げられた。一方が倒れた。起き上がった。また向き合った。群れの端でそれを見ていた者たちは動かなかった。

夕方、倒れた方の姿が見えなくなった。

川は流れ続けた。水面に血の色は残らなかった。

北の岩壁では、夜になっても火が小さく燃えていた。石を割る音が止んだ後、静寂の中に、かすかな叩打音だけが続いた。何かを削っていた。何かを整えていた。

第二の星はそれを照らした。判断しない。ただ照らす。

与えるもの

獣の足跡が刻まれた泥の上で、水たまりがひとつ、風に揺れた。

水面に映ったのは、その者が手に持つ石の形だった。

その者は水たまりを踏んだ。形は消えた。与えるものは、踏まれた跡の輪郭を見ていた。形は消えても、跡は残る。次に渡すべきは、跡そのものではないか。

その者(29〜34歳)

石を拾った。端を指で押した。鋭かった。

翌日も同じ石を拾おうとした。見つからなかった。別の石を拾った。端を押した。鈍かった。捨てた。

また別の石を拾った。押した。捨てた。

四つ目の石を拾った。押した。手に握ったまま、川の方を向いた。獣の匂いがした。足が動いた。石は握ったままだった。

伝播:HERESY 人口:402
与えるものの観察:跡が残ることを、まだ知らない。
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第411話

紀元前297,955年

その者(34〜37歳)

雨が来る前の空は黄色い。

その者はそれを知っていた。知識として持っていたのではなく、皮膚が知っていた。肩の筋肉が強張り、鼻の奥に鉄の匂いが入ってくると、空が変わる。

その日、匂いはなかった。

集団の北側、斜面の岩場だった。その者はそこにいた。理由は単純だ。追い払われた。声ではなく、石を投げることで。肩に当たった石の感触がまだ残っていた。腕を動かすたびに、そこが痛んだ。

知りすぎた、というより、見てしまった。

二つの集団が夜に会っていた。火を持たず、声も立てず。その者には意味がわからなかったが、見たことが顔に出た。翌朝、古い雄が目で合図した。若い者たちが動いた。

その者は斜面を上がり、岩の陰に入った。

腹が減っていた。水を飲んでいない。

岩の隙間から空を見た。雲がない。雲がないのに、空が重かった。色ではなく、重さとして。耳の奥で何かが鳴り始めた。高い音。虫ではない。

地面が揺れた。

最初は小さく、足の裏で感じる程度だった。次の瞬間、岩が動いた。その者は立ち上がろうとして、足が滑った。斜面が崩れていた。岩が岩を押し、押された岩がその者の足を挟んだ。

声が出た。

唸り声だった。助けを呼ぶ音ではなく、痛みが体から押し出された音だった。

揺れは長かった。長く感じた。実際にどれほどだったかは、わからない。

崩れた岩の下に、腰から下が埋まっていた。空が見えた。青かった。青以外のものが空にはなかった。

その者は空を見た。

腕で岩を押した。動かなかった。もう一度押した。指が剥けた。血が岩に広がった。

風が来た。

岩場の上を通る風で、その者の顔に当たった。乾いていた。

その者は腕をやめた。岩に手を置いたまま、空を見続けた。喉が動いた。水を求める動きだったが、水はなかった。

やがて、空が暗くなった。

夜が来たのではない。目が暗くなった。

手が岩の上に残った。

第二の星

同じ頃、低地では水が戻り始めていた。川が岸を超え、白く乾いていた地面を静かに塗り直していた。獣が一頭、水際に立って動かなかった。飲んでいるのか、ただ立っているのか、区別はつかなかった。岩場の揺れは、そこまでは届いていなかった。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:393
与えるものの観察:渡したものに触れなかった。それでも糸は動く。
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第412話

紀元前297,950年

その者

22歳の夏、その者は初めて単独で獲物を追った。

集団の外れ、低木の茂みの手前。若い雄の鹿が草を食んでいた。その者は腰を落とし、石を握った。風はこちらへ吹いていた。鹿の耳が動いた。その者は動かなかった。

長い時間、両者は静止した。

投げた。外れた。鹿は消えた。

その者はしばらく、草の上に座ったままでいた。手の中に石がまだあった。投げたはずの石ではなく、別の石だった。いつ拾ったか、自分でも知らなかった。

23歳の冬、集団の中で何かが変わった。

年長の雄が二人、低い唸りを交わすようになった。その者が近づくと、唸りが止まった。視線が向いた。その者は何もしていなかった。ただ近くにいた。それだけで視線が来た。

その者は少し離れた場所で眠るようになった。

24歳の春。

火のそばに座っていると、煙が急に向きを変えた。その者の目に入った。涙が出た。目を擦った。煙の向こうに、年長の雄が立っていた。こちらを見ていた。

その者は立ち上がり、別の方向へ歩いた。

背中に視線を感じた。振り返らなかった。

25歳。

その者は何かを知っていた。言葉はなかった。知っているという感覚だけがあった。年長たちが集まって唸る夜、その者だけが輪の外にいた。近づけば唸りが止まる。遠ざかれば再び始まる。

ある夜、その者は崖の縁まで歩いた。下は暗かった。風が吹き上げてきた。その者は座り、膝を抱えた。空に白い点が散っていた。ひとつを指でなぞろうとした。届かなかった。

そのことが腹立たしいとも悲しいとも思わなかった。ただ届かなかった。

26歳の初夏。

熱が来た。

最初は腹の中から。次に皮膚の外側。その者は水場のそばで横になった。水を飲もうとしたが、飲み込めなかった。のどの奥が腫れていた。

集団の誰もそばへ来なかった。

それが排除だったのか、恐れだったのか、その者には区別がつかなかった。区別する言葉を持っていなかった。ただ、誰もいなかった。水のそばで、誰もいなかった。

二日目の夕方。

その者は水面を見ていた。自分の顔が映っていた。風が吹いて、顔が崩れた。また静かになって、顔が戻ってきた。

その者の指が水に触れた。波紋が広がった。顔が崩れた。

その者は水の中に手を入れたまま、動かなくなった。

指先だけが、水の流れに揺れていた。

第二の星

同じ時刻、集団の中では火が燃えていた。年長たちが肉を分けていた。誰かが笑い声に近い音を出した。子どもが走り回っていた。一方の岸で命が終わり、もう一方の岸で誰かが食べ、誰かが眠り、誰かが生まれかけていた。第二の星はそのすべてを等しく照らした。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:382
与えるものの観察:水面に映る顔が崩れた
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第413話

紀元前297,945年

第二の星

大地は乾いた草の匂いをまとっている。

北の平原では火が走った。草が燃え、煙が三日続いた。獣たちは南へ逃げた。逃げた先に別の集団がいた。獣を追う者と獣に押し出された者が、同じ水場で顔を合わせた。どちらも声を上げた。どちらも石を持っていた。しかし水は多く、獣も多く、その日は石を投げずに終わった。

東の岩地では子が三人生まれた。一人は翌朝動かなくなった。二人は泣いた。

西の森の縁では、あるひとつの集団が分かれた。大きくなりすぎた。食料が足りなかったのではない。ただ、声が届きすぎた。匂いが混ざりすぎた。夜、眠れない者が増えた。半分が別の方向へ歩いた。追う者はいなかった。

この星の上で、生きている者の数が増えている。増えれば、ぶつかる。

豊穣の季節は続いている。しかしその豊かさの中に、何かが詰まりはじめている。水を飲む場所が、昨年より狭くなった。それだけのことだ。

与えるもの

糸が繋がった。

幼い。まだ何もわからない年頃だ。

何人目か。数えることに意味があるのか、と思いかける。やめる。数えることは関係ない。渡すか、渡さないか。それだけだ。

今日、渡したのはこれだ。

草の合間から差し込んだ光が、ひとつの石の上で止まった。白く、平らで、端が薄い石。他の石より光を持ちすぎていた。

その者は石を見た。拾った。なめた。置いた。

拾ったことと、なめたことと、置いたことの順番が、何かを言っている気がする。なめた。それから置いた。食べ物ではないと判断した。では何か。その判断の次が、まだない。

次を渡すべきか。それとも、次を持つ年齢になるまで待つべきか。

その者(5〜10歳)

朝、母親の腕から出る。

草の上に光が落ちている。その者は光の縁を踏んで歩く。足の裏が温かい場所と冷たい場所を交互に踏む。温かい方へ寄る。また温かい。また冷たい。

光の中に白い石がある。

他の石と違う。平らで、端が薄い。その者は拾う。なめる。砂の味。唾を吐く。石を置く。

しかし三歩歩いて、戻る。

また拾う。今度はなめない。両手で持って、端を指で触る。薄い。指の皮が少し白くなる。その者は指を見る。石を見る。指を見る。

そのまま持って歩く。

集団の中で年上の者が獣の皮を引っ張っている。皮の端が裂ける音。その者は立ち止まって見ている。皮。裂ける。石の端。薄い。

何かが繋がるほど、まだ何もない。

ただ石を持って、母親の後ろについて歩いた。夕方、石を草の上に置いた。翌朝、また拾った。

伝播:DISTORTED 人口:398
与えるものの観察:置いて、戻った。なぜ戻ったのか。
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第414話

紀元前297,940年

第二の星

乾いた風が南に流れている。

北の焼け野原は黒い。草の根だけが地面に残り、雨が来れば再び緑になるだろう。しかしいまは黒く、踏めば灰が舞う。獣の糞が点々と続いている。南へ。南へ。

南の森の縁では、二つの群れが互いを見ている。

一方は長くここに住んでいた。水場を知っている。木の実が落ちる場所を知っている。もう一方は煙に追われてきた。目が赤い。子どもを抱えている。腹が減っている。

両者の間に、何もない空間がある。誰もそこを踏まない。

遥か東、海に近い崖では別の群れが貝を割っている。波の音が風に混じる。彼らはこの緊張を知らない。貝の中身を取り出し、岩に並べ、乾かしている。子どもが一人、貝の端で指を切って泣いている。

北の焼け野原と南の森と東の崖は、同じ星の上にある。

同じ空の下で、火が走った場所、獣が死んだ場所、子どもが泣いている場所が、それぞれ別の速さで時を刻んでいる。

与えるもの

南の森の縁、二つの群れの間。

その空白に、日が傾いて影が伸びた。一方の群れの影が、もう一方の足元まで届いた。その者はちょうどそこにいた。影の中に立っていた。

影を渡した。

その者は影を踏み、それから相手の群れの子どもを見た。相手も見返した。

それだけだった。与えるものは思う——影は境界か、それとも接触か。同じものを踏んでいると気づいた者は、次に何を踏むだろうか。次に渡すべきものを、まだ探している。

その者(10〜15歳)

腹が鳴った。

三日、まともに食べていない。煙が来てから走った。転んだ。膝の皮が剥けた。母親の背中を見ながら走った。母親の背中は汗で光っていた。

いまは森の縁に立っている。

向こうに別の者たちがいる。顔が違う。体の毛の濃さが違う。腰に皮をまとっている。こちらは何もまとっていない。

その者は動かない。

向こうの子どもが一人、こちらを見ている。その者も見る。同じくらいの背丈だ。お互いの目が離れない。

影が伸びてきた。その者の足を覆った。冷たくはない。ただ、日が陰った。振り返れば自分の群れ。前を見れば向こうの子ども。その子どもの足にも、同じ影が届いていた。

その者は唾を飲んだ。

一歩、踏み出した。止まった。向こうの子どもも一歩出た。止まった。

誰かが唸り声を上げた。大人の声だった。その者は飛び退いた。向こうの子どもも戻った。

夜になった。二つの群れは別々の木の根元に座った。火はなかった。暗闇の中で、向こうの群れの赤ん坊が泣く声だけが聞こえた。

その者は膝を抱えて、その声を聞いていた。聞き続けた。泣き声が止んだ。また鳴った。また止んだ。

眠れなかった。

伝播:NOISE 人口:416
与えるものの観察:影を踏んだ。同じ影を。
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第415話

紀元前297,935年

第二の星とその者(15〜20歳)

川沿いの集団は北の黒い野原を迂回し、西へ動いた。五年の間に、集団の端が膨らんでいた。子どもたちが増え、老いた者たちが減り、総じて数は増えた。ところが増えたことが、新しい圧をうんだ。誰が一番大きな獣のどの部位を持つか。誰が水場に先に立つか。そういう摩擦が、唸り声の奥に積み重なっていた。

その者は十五のとき、まだ端にいた。

集団の核に割り込む力も、威嚇する声量も、まだ十分ではなかった。食べ物の分配が終わった後に近づき、残ったものを拾った。水場では、大きな者たちが飲み終えるのを待った。それを侮辱とは思っていなかった。ただそういう順序があった。身体がそれを知っていた。

南の丘の向こうに別の集団がいた。

姿を見たことは何度かあった。互いに唸り合い、どちらかが引き下がった。しかしこの五年、豊穣が続いたせいで両方の集団が大きくなり、どちらも引き下がりにくくなっていた。水場のそばで睨み合いが起きた。石が飛んだ。誰かの額に当たった。血が出た。その日は引いたが、翌朝にはまた睨み合いがあった。

その者は十七のとき、初めて誰かを殴った。

相手は同じ集団の、少し年上の者だった。乾いた果実を巡って、ではなかった。理由は、なかった。正確に言えば、理由に相当する音を持っていなかった。ただ、胸の内で何かが溜まっていて、それがその者の拳のかたちをとって出た。殴られた者は倒れ、起き上がり、遠くへ歩いていった。その者はしゃがんだまま、自分の手の甲を見た。指の付け根が少し腫れていた。

その五年の間に、風の向きが変わる夜があった。

川の上流から、腐った木の匂いが流れてきた夜だった。その者は眠れずにいて、岩の上に座っていた。虫の声が低くなり、川の音だけが残った。そのとき、水面が揺れた。風もなく、獣もなく、ただ水面の一点がゆらいだ。その者の目がそこに止まった。

水の中に、石があった。

丸くもなく、尖ってもいなかった。平らで、片端が薄くなっていた。水面のゆれが収まっても、その者の目はそこにあった。何かわかったわけではない。ただ、手が伸びた。冷たかった。重かった。掌の中でおさまりが良かった。

その者は三日間、その石を持ち歩いた。

食べるときも、眠るときも、離さなかった。集団の誰かがそれを取ろうとしたとき、初めて聞くような声で唸った。相手は引いた。その者自身も、自分の声に驚いた。石を持った手が、少し震えた。

十九になる頃、その者は石の端を、別の石で叩き始めた。

なぜそうしたか、説明できる言葉をまだ持っていなかった。叩いたら、欠けた。欠けた端が、薄くなった。薄くなった端が、皮に当てると、筋がついた。その者は長い時間、それを繰り返した。指が切れた。血が石に付いた。それでも続けた。

集団の一人が近づいてきて、その石を見た。その者は石を見せた。相手は触ろうとした。その者は渡さなかった。それから少しして、相手は自分で石を拾ってきて、岩に打ち付け始めた。うまくいかなかった。その者のやり方とは違った。相手は諦めて行ってしまった。

二十になる年、南の集団との睨み合いが、崖の縁で起きた。

互いが唸り合う中、誰かが誰かを押した。崩れた岩の上で足が滑り、一人が落ちた。崖は深くなかった。しかし落ちた者は起き上がらなかった。首の向きが、おかしかった。その者はそれを上から見ていた。風が吹いた。崖の下の草が揺れた。

その夜、その者は石を持ったまま眠った。

与えるもの

水面に光を落とした。

石は水の底にあった。

その者の手が伸びた。三日間、離さなかった。それ以上でも、それ以下でもない。崖の下の一人が起き上がらなかった夜も、その者の手の中に石はあった。石は石だ。何かでも、何でもない。ただ、この者はまだそれを持っている。

次に渡すべきものは何か、まだわからない。ただ、手が動いたことは知っている。手が動いたことの意味は、知らない。

伝播:DISTORTED 人口:428
与えるものの観察:手が動いた。石は残った。それだけが確かだ。
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第416話

紀元前297,930年

第二の星

西の斜面に沿って川が二本合流する場所がある。

石灰岩の段丘が幾重にも重なり、雨季には白く濡れて光る。乾季には裂け目から風が吹き上がり、枯れ草の種をばらまく。集団はその段丘の中腹に長くとどまっていた。水が近く、獣の気配が読みやすく、背後が岩で守られていた。

五年のうちに、端が膨らんだ。

子の数が増えた。二年続けて雨が十分に降り、木の実が落ち、川には魚が来た。腹が満ちた女たちの体が子を育て、その子がまた生き延びた。老いた者は減ったが、若い腕が増えた。集団の中心にいた年老いた男が、ある朝岩棚から降りられなくなり、三日後に段丘の上で動かなくなっていた。誰かが傍に座り、誰かが離れ、最後には誰もいなくなっていた。

その空白に、新しい力がひしめいた。

大きな男がいた。肩幅が広く、獣を仕留めるとき最初に石を投げる者だった。彼が獲物を引きずり戻すとき、集団の視線は彼に向いた。別の男がいた。こちらは足が速く、遠くまで偵察に出られた。彼が持ち帰る情報——獣の足跡、他集団の煙、水場の枯れ具合——が、しばしば命を左右した。

二つの力は長く並んでいた。

しかし豊穣が続くと、分配の場面が増えた。大きな獣を仕留めるたびに、何をどの順で誰が持つかという問いが生じた。初めのうちは身振りで済んだ。力の強い者が先に手を伸ばし、弱い者が待った。それで間に合った。

間に合わなくなったのは、人数が増えてからだった。

待つ者が多くなると、待ちきれない者が出た。順番を無視して手を伸ばす若い男が出た。大きな男がそれを腕で押しのけ、若い男が唸り声を上げた。それだけなら終わったかもしれない。しかしその場にいた別の男たちが、二つの側に分かれた。理由は説明できない。しかし分かれた。

声が大きくなり、石が一つ飛んだ。

誰が投げたかは見えなかった。石は足元に落ち、誰にも当たらなかった。しかし沈黙が来た。獣を仕留めるときとは違う沈黙だった。集団の内側から来る沈黙だった。

その夜、足の速い男が段丘を離れた。

彼の周りに六人がついていった。女が二人、男が三人、子どもが一人。夜明け前に彼らの足跡が段丘の下に続いており、そのまま川の上流へ向かっていた。残った者たちはしばらくその方向を見ていた。見ていたが、追わなかった。

大きな男が岩棚の前に立った。

誰かが彼の前に来て、ひれ伏すでも従うでもなく、ただその場に座った。もう一人が来て、隣に座った。しばらくしてまた一人来た。それだけのことだった。しかしそれが、何かの始まりのようでもあった。

豊穣は続いていた。しかし集団は静かに、形を変えていた。

与えるもの

影が、その者の足元ではなく、少し先に落ちた。

段丘の端——そこから先が、誰も踏んでいない草地だった。

この者は影を踏んだ。踏んで、止まった。止まった理由をこの者は知らなかった。

渡したのは方向だった。行き先ではなく、ただの方向。

受け取ったかどうかは、まだわからない。しかし止まったことが、次に何を渡すべきかを教えた。止まれる者には、次がある。

その者(20〜25歳)

段丘の端に立っていた。

大きな男が岩棚に座り、人が集まっていくのを、この者は少し離れたところから見ていた。近づかなかった。かといって離れもしなかった。

草の端が風で揺れた。

足が一歩、草地へ出た。また戻った。また出た。

空を見た。何もなかった。それでも立っていた。

伝播:HERESY 人口:416
与えるものの観察:止まれる者には次がある。渡す意志は消えない。
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第417話

紀元前297,925年

その者(25〜30歳)

夜明けより前に目が覚めた。

岩の壁から冷気が滲み出ていた。隣で眠っていた男が寝返りを打ち、その者の腕に体重を乗せてきた。その者は腕を引き抜いた。静かに。音を立てずに。

立ち上がって、段丘の端まで歩いた。

川が二本、暗い底で合流している。水音だけが続いていた。空の端が、まだ赤くなっていなかった。

その者はそこにいた。ただいた。

背後で何かが動いた。

振り返った時には遅かった。大きな男が立っていた。集団の中で最も腕が太い者だった。その男は何も言わなかった。声を出さなかった。ただ腕を伸ばしてきた。その者の首元をつかんで、段丘の端に向けて押し込んできた。

足が滑った。岩が膝を打った。

その者は腕を振り回した。爪が相手の頰を引いた。相手が顔をそむけた瞬間、体を横に転がした。砂利の斜面を転がって、段差の下に落ちた。

肩が何かに当たった。

しばらく動けなかった。

空が白んでいた。川の音が続いていた。肩の痛みが波のように来ては引いた。その者は岩に背をつけて、上を見ていた。男の影は見えなかった。来ないのか、それとも待っているのか、その者には読めなかった。

立ち上がった。

段丘の基部に沿って、東へ歩いた。集団のいる場所から離れた。方角を測っていたわけではない。ただ遠ざかった。

歩きながら、あることに気づいた。

左の膝から血が出ていた。しかしそれは止まっていた。砂が傷に詰まって、固まっていた。その者はそれを見た。膝の傷を。砂の層を。手の平で触れた。崩れなかった。

もう一度触れた。

砂がそこに貼りついていた。

その者はしゃがんで、地面の砂を指先でつまんだ。細かい粒と粗い粒が混ざっていた。固まっているところと、さらさら崩れるところがあった。

何が違うのか。

その者にはわからなかった。ただ、膝の上の砂は落ちなかった。血があったからだ。血が乾いて、砂と混ざって、固まった。

その者は立ったまま、その膝を長いこと見ていた。

日が完全に上がった。

集団のいる方向から声がした。怒鳴り声と、子供の泣き声が重なった。その者はその方角を見た。戻らなかった。

東へ、また歩いた。

第二の星

この5年、大地は実をつけ続けた。

段丘の周辺では、雨季のたびに草が茂り、根を掘れば白い塊が出てきた。獣の通り道は変わらず、川は増水しても護岸の岩を越えなかった。集団はその恩恵の中で数を増やし、広がった。

しかし広がりは、すき間を生んだ。

かつて40に満たなかった集団が、今では2倍を超えている。岩の庇の下に入りきらない者が出た。水場に近い場所を誰が使うか。最初に食料を手にするのは誰か。そういうことが、毎日、体と体の間で決まっていった。言葉がなくとも、力と視線と立ち位置で、秩序は生まれ、壊れ、また組み直された。

集団の南縁では、旧人の痕跡が近づいていた。夜に火が見えた。煙が違う方向から流れてくることがあった。直接の接触はまだない。しかし匂いが混ざる夜が増えた。

その者はこの5年を、集団の端で過ごした。特別なことを成し遂げたわけではない。ただ、知りすぎた。何を知ったのかも、本人は知らなかっただろう。それでも、その者が何かに気づくたびに、周囲の誰かが遠い目でその者を見た。

排除は暴力でもなく、追放でもなかった。

夜明けより前に、段丘の端で行われた。

与えるもの

血の中に砂が貼りついていた。

その者は傷を見た。何度も。

乾いた血が、砂と混ざって固まっていた。その者の指が触れた。崩れなかった。

渡すべきものは、まだある。しかしこの者は今、東へ歩いている。集団の外へ。

固まるものが何かを、この者は見た。見て、指で触れた。それで終わるかもしれない。

終わるかもしれない。だから次に渡すものを、もう考えている。

伝播:HERESY 人口:409
与えるものの観察:血と砂が固まった。その者は指で確かめた。
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第418話

紀元前297,920年

第二の星

乾季の風が草原を斜めに吹いていた。

南の低地では、別の集団が岸辺に沿って移動していた。男たちが先を歩き、女たちが荷を背負い、子どもたちがその後ろについた。一人の老いた女が遅れ始めた。集団は止まらなかった。老いた女は草の中に座り込んだまま、集団が消えた方向をしばらく見ていた。それから横になった。風が彼女の髪を揺らした。

北の丘陵では、二つの集団が同じ水場に向かっていた。先に着いた集団が岸に立ち、後から来た集団が坂の上で止まった。長い沈黙があった。それから先に着いた集団の男が一歩後ろに引いた。後から来た集団が水場に近づいた。二つの集団は背中合わせに水を飲んだ。目を合わせなかった。

草原の中央では、一人の子どもが死んでいた。痩せていた。傷はなかった。ただ横たわっていた。近くに足跡はなく、誰が置いていったのかわからなかった。

この星はすべてを等しく照らした。

老いた女も、背中合わせに水を飲む男たちも、草の中の子どもも。

この者が眠る岩の陰も。

与えるもの

熱が来ていた。

その者の喉の奥から、微かに。

与えるものは水場の方向に温度を置いた。風ではない。温度だ。岩の影の側が、少しだけ冷たかった。その者の首筋に。

その者は岩に頭をつけたまま動かなかった。

冷たさに気づいたかどうか、わからない。

同じように渡した。同じように届かなかった。では次は。熱が上がる前に。何が残るか。

その者(30〜35歳)

喉が乾いていた。

目を開ける前から乾いていた。口の中が砂のように粗かった。舌を動かすと、上顎に貼りついた。

岩の外に出た。光が強かった。目を細めた。

集団の誰かが火の近くで毛皮を広げていた。子どもが二人、その毛皮の上で転がっていた。その者は見なかった。

草を踏んだ。足の裏に固い実が当たった。拾わなかった。

水場は遠かった。

歩くたびに、頭の奥に重みがあった。岩を詰め込んだような重みだ。首を動かすと遅れてついてきた。

水場に着いた。顔を水に近づけた。水面に顔が映った。見なかった。水を飲んだ。水が喉を通るとき、痛みに似た何かがあった。

もう一度飲んだ。

岸の泥に、獣の足跡があった。大きかった。その者は足跡のくぼみに指を入れた。泥が湿っていた。まだ新しかった。

立ち上がった。

頭の重みはまだそこにあった。

来た道を戻った。途中で止まった。草の中に何かが光っていた。石だった。白くて平らで、端が薄かった。その者はしゃがんで石を見た。拾わなかった。

しばらくそこにいた。

草が風で揺れた。石は動かなかった。

立ち上がった。戻った。

岩の陰に体を預けた。頭の重みはまだあった。目を閉じた。

伝播:SILENCE 人口:417
与えるものの観察:熱が来ている。水は飲んだ。石は見た。
───
第419話

紀元前297,915年

その者(35〜36歳)

雨季の初めに、大地が割れた。

予兆はあった。獣が三日前から南へ逃げていた。その者は獣の残した踏み跡を見た。見て、また火の傍に戻った。

火は湿った木でくすぶっていた。煙が低く流れた。その者は腹這いになって息を吹き込んだ。炎が一瞬立ち、また縮んだ。子どもが二人、その者の背中越しに火を覗いた。その者は振り返らなかった。子どもたちは別の場所へ行った。

地面が鳴ったのは夜明け前だった。

音ではなかった。骨の中から来るものだった。その者は眠っていた岩棚から転がり落ちた。立ち上がろうとした。地面が揺れた。草が波のように動いた。遠くで何かが崩れる低い音がした。その者は四つん這いのまま、しばらく地面に手をついていた。

揺れが止んだ。

その者は立った。集団の者たちが岩の陰から出てきた。泣く声があった。子どもの声だった。その者はそちらへ歩き始めた。

二歩目で地面が再び動いた。

崖の縁が崩れた。音もなく、ただ岩が剥がれた。その者はそこにいた。足が宙を踏んだ。

落ちながら、腕が何かを掴もうとした。

草の根が一本、手の中に来た。千切れた。

第二の星

乾いた高地では、小集団が水場を探して移動していた。旧人の一群が、草むらの向こうで焚き火の煙を嗅ぎ取り、立ち止まった。二つの集団は互いを見なかった。煙だけが間に漂い、風に散った。

与えるもの

糸は、崖の上に残った者へ向かった。

伝播:NOISE 人口:428
与えるものの観察:草の根が千切れた。それだけだ。
───
第420話

紀元前297,910年

その者(64〜68歳)

岩棚の下に座って、その者は石を持っていた。

手が先に知っていた。この石は割れない。表面がなめらかすぎる。
若い者が持ってくる石を、その者は手のひらで転がして選り分けた。
重さ。角の出方。割れる方向。
言葉はなかった。受け取る音と、置く音で伝えた。

膝が痛むようになったのは、どの季節からだったか。
しゃがむと戻れない。若い者が腕を貸した。
その者は唸った。短く。礼でも否定でもなく、ただの音だった。

集団の端では、見知らぬ顔がときどき現れた。
旧人の群れではなかった。しかし同じ種でもないような動き方をする者が、
草の向こうに立ってこちらを見ていた。

その者はそれを見た。
石を置いた。
また石を持った。

68歳の、乾いた季節の終わりに、
その者は岩棚から少し離れた場所で仰向けになった。

誰かが連れてきたのではない。
自分で来た。

空が見えた。
手が膝の上にあった。
石を握っていなかった。

息が、浅くなった。
また浅くなった。

岩棚から打音が聞こえた。
誰かが石を割っていた。

その音がしているうちに、その者の手は動かなくなった。

第二の星

乾いた台地の南端で、草原が燃えていた。落雷の火だった。煙が東へ流れた。旧人の一群が水辺に沿って北へ移動した。彼らは火を見なかった。煙の匂いを嗅いで、方向を変えた。誰も何も言わなかった。足音だけがあった。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:NOISE 人口:442
与えるものの観察:打音は続いていた。
───
第421話

紀元前297,905年

第二の星

草原の端が燃えていた。

雷ではない。二つの群れが草を踏み荒らし、火を引きずった。どちらが先に火を持っていたかは、もうわからない。草の根まで焦げた地面だけが残る。

始まりの大地の中央部、緩やかに傾いた台地の南斜面。乾季が長くなってから、水場がひとつ消えた。消えた水場の跡に、塩が浮いた。動物はそこへ来なくなった。獣の通り道が変わった。群れは移動した。別の群れの縄張りと重なった。

群れの中に、二種類の体形がある。

額の傾きが違う。眉骨の張り出しが違う。掌の幅が違う。それでも同じ水場の縁に立ち、同じ方向を向いて警戒する。どちらの体にも傷がある。どちらの子も、母の背中にしがみつく。

衝突は音から始まった。

低い唸りが重なった。唸りは跳ね返り、倍になった。体が大きい方が前に出た。体が小さい方も引かなかった。石が飛んだ。倒れたのは大きい方の若い一頭だった。小さい方の群れが後退した。大きい方が吠えた。追わなかった。

その夜、台地の上から見れば、二箇所に火があった。

距離は二百歩ほど。どちらの火も、もう一方の火の方向を向いた見張りがいた。風が南から吹いた。乾いた風が、どちらの火の煙も同じ方向へ流した。煙は台地の縁で混ざって、星の下に消えた。

夜明け前、大きい方の群れから年老いた一頭が動いた。水場の方へ向かった。小さい方の群れの見張りが唸った。年老いた一頭は止まらなかった。水を飲んで、戻った。見張りは追わなかった。

何かが変わったとは言えない。ただ、追わなかった。

台地の草は焦げたまま、次の雨を待っている。

与えるもの

糸が繋がった。

水場の縁の泥に、獣の足跡が残っていた。その中に、別の形の足跡が混ざっていた。大きい方の足跡と小さい方の足跡が、同じ泥の上に重なっていた。

熱がそこに集まっていた。朝の光が足跡の窪みに落ちて、泥の水分を温めた。水場の縁だけが、周囲より少しだけ暖かかった。

その者は水を飲んで、立ち上がった。足跡には触れなかった。

渡した。受け取ったかどうかは、わからない。ただ、この者はまだ四歳で、足跡の形の違いを見分けるには早すぎるかもしれない。ならば五歳になった時に、また同じ場所へ。水場は変わらずそこにある。

その者(4〜9歳)

母の足首を掴んでいた。

水場の縁の泥が冷たかった。足の裏に吸いつく感触。母が飲む。その者も飲む。水が口の中に広がった。

顔を上げた時、向こう岸に別の体形の者が立っていた。その者は見た。向こうも見た。

母が引いた。その者はついて行った。水の感触が足の裏に残った。

伝播:NOISE 人口:456
与えるものの観察:足跡は渡した。受け取る年ではないかもしれない。
───
第422話

紀元前297,900年

第二の星

焼けた台地の南斜面では、散らばった命が乾いた空気の中を動いている。

煙はもうない。根まで焦げた地面は、雨が来るまで何も生やさない。群れの一つは西へ向かい、もう一つは北の岩場に消えた。どちらが何を持って去ったかは、この星には関係のないことだ。

南の低地では、別の集団が水辺を離れつつある。濁りが増した。上流で何かが死んだのか、土砂が崩れたのか、この星は問わない。ただ水が変わり、集団が動く。

台地の東端では、背の高い草が残っていた。火が届かなかった場所だ。獣の糞が乾いて散らばっている。何日か前に通った群れの痕跡が、草の倒れ方に残っている。

空は晴れている。雲は西から来る。まだ遠い。

始まりの大地の中央部で、小さな集団が岩の影に集まっている。子どもが二人、老いた者が一人、そして何人かの若い者。老いた者は動かない。胸だけが小さく動いている。

遠く北の方向では、別の種の者たちが尾根を歩いている。歩幅が違う。肩の高さが違う。彼らは止まらない。

この星は等しく照らす。どちらが誰かを問わない。

与えるもの

風が変わった。

焦げた地面の臭いの中に、違う匂いが混じる。腐りかけた果実の甘さだ。東の方角から来ている。

その者の鼻孔が動いた。

止まった。また別のものを嗅いだ。果実の匂いは続いている。

渡せた、とは思わない。あの集団での記憶が戻る——傷口の砂が落ちなかった日のことを、今も問う。渡したから傷が残ったのか。渡さなくても傷は残ったのか。果実はそこにある。この者が向かうかどうかは、別の話だ。次に何を渡すべきかは、まだわからない。しかし渡す。

その者(9〜14歳)

鼻が痛い。

焦げた匂いが何日も抜けない。喉の奥がざらつく。水を飲んでも消えない感じ。

岩の影に座っていた。足の裏に小石が当たっている。どかす気になれない。

老いた者がそこにいる。胸が上がって、下がる。また上がる。その者は見ていない。見る気にならない。

腹が空いている。

風が来た。

鼻が動いた。

焦げた匂いの奥に、別のものがある。甘い。腐りかけた感じの甘さ。その者は立ち上がった。立ち上がったことに、理由はない。ただ立った。

東を向いた。

空気を吸う。また吸う。

足が動いた。草の焦げた部分を踏む。まだ温かい場所を避ける。踏みながら進む。

岩が増えてくる。草の色が変わる。焦げていない草だ。

その先に木がある。低い木だ。実がいくつかついている。黄色い。一つ落ちている。皮が割れて、中が見えている。

その者は屈んだ。

拾った。

口に入れた。

甘い。甘くて、少し苦い。舌の奥で溶ける感じ。

もう一つ拾った。

その時、音がした。

草の中から、音がした。

その者は止まった。実を手に持ったまま、動かない。

音はまだある。

それは唸りではない。息の音でもない。草を踏む音だ。何かが近づいてくる音。大きい。

その者は走った。

伝播:HERESY 人口:447
与えるものの観察:甘さが届いた。次は何を渡すべきか、まだ問う最中だ。
───
第423話

紀元前297,895年

第二の星とその者(14〜19歳)

川は増えた。

北の雪が解けたのか、それとも雨季が早まったのか。岩の隙間から染み出した水が集まり、低地を黒く濡らしている。焼けた台地の灰が泥に混じり、川底は灰色だ。魚はいない。水が速すぎる。

十四のこの者は、岸に立ってその水を見ていた。渡ろうとしていた。渡る理由があったかどうかは、体が知っていた。腹だ。腹が空いていた。対岸の低木に赤い実が見えた。

三歩踏み込んで、膝まで沈んだ。流れが腰を押した。戻った。

群れの中の年老いた者が、喉の傷で死んだのは、その年の乾季だった。傷は小さかった。小さな傷が腐り、首が腫れ、その者は水も飲めなくなった。飲もうとするたびに、低い唸り声を出した。それが三日続いた。四日目の朝、唸り声がなくなっていた。

この者はその声を、遠くで聞いていた。聞きながら、岩を足の裏で踏んでいた。冷たかった。

十六になるころ、別の群れが来た。

北の岩場に消えていた群れではない。もっと見知らぬ形をした者たちだった。頭が平たく、眉骨が厚い。声が違った。喉の奥から出てくるような、重い音だった。彼らは川の上流に沿って来て、下流へ向かって止まった。水を飲んだ。それだけだった。

この者はその者たちを、草の中から見ていた。

体が動かなかった。逃げる気もなかった。ただ、草を握っていた。根元から抜けそうになるくらい、強く。

匂いが違った。獣の匂いでも腐敗の匂いでもなく、皮と脂と火の混ざった、知らない匂いだった。

別の群れは半日そこにいて、去った。上流へ戻ったのか、別の方向へ消えたのか。草から出てみると、泥の上に足跡が残っていた。自分たちより大きく、形が違う。

この者はその跡を踏んだ。足の大きさが合わなかった。

十七、十八。

子が二人死んだ。生まれた直後のものと、歩けるようになってすぐのもの。生まれた直後のは、泣かなかった。歩けるようになったほうは、熱が出て、三日で力が抜けた。抱いていた女が、その小さな体を地面に置いた。置いて、離れた。戻らなかった。

この者はそれを見ていた。何もしなかった。

夜、火の傍に座って、燃える枝の先を見ていた。炎の形が変わるたびに目が追った。追いながら、手が地面の砂を掴んでいた。指の間から落ちた。また掴んだ。また落ちた。

十九になった。

川の水位が下がっていた。対岸の赤い実のなった低木は、もうそこにない。根こそぎ流されたのか、誰かが食べたのか。対岸には、代わりに砂地が広がっている。足跡があった。獣のものと、もう一種類の、形の違うもの。

この者は川を渡った。今度は渡れた。水が膝に届かなかった。

対岸の砂に降り立って、足跡の傍にしゃがんだ。指で輪郭を触った。砂が崩れた。触った跡だけが残った。

立ち上がって、上流を見た。何もいなかった。下流を見た。水が光っていた。

どちらへも行かず、来た岸へ戻った。

与えるもの

対岸に光を落とした。

水面の反射が、砂地の足跡に当たるように。この者は渡った。足跡を触った。

触った。それだけだった。

それを持ち帰ることも、追うことも、恐れることもしなかった。ただ触った。

触ることと、知ることは同じではない。

では、触れさせることに意味はあるか。まだわからない。次は、もっと近くに光を落とす。

伝播:NOISE 人口:460
与えるものの観察:触れた。意味にはならなかった。
───
第424話

紀元前297,890年

その者(19〜24歳)

集団の端に、この者はいた。

群れから少し離れた岩陰に座っている。腹が膨れている。腹ではなく、脇の下、腕の付け根のあたりが。そこが硬い。触れると熱い。触れると唸る。

五日前にそこをぶつけたのか、引っかかれたのか、この者には分からない。皮が破れた痕が盛り上がり、夜になると震えが来る。

群れの者たちが遠巻きに見ていた。

近づく者はいない。臭いがするのかもしれない。あるいは群れには、近づいてはならない何かを知る感覚がある。言葉にならないが、身体が知っている。

この者も分かっている。

水を飲みに行こうとして、立てなかった。四つん這いで岩を押した。岩が動かなかった。砂の上にそのままの姿勢でいた。

空が白い。

鳥が一羽、低く飛んでいる。何も運んでいない。どこかへ行く。

この者は鳥を目で追った。首が途中で止まった。

砂が温かかった。顔が砂についた。

群れの誰かが短く鳴いた。それだけだ。

第二の星

北の台地では、旧人の集団が岩山の陰で火を囲んでいた。火は大きくない。風が来るたびに傾く。その光の中で、誰かの手が土の上を動いていた。何かを引っかいていた。線ではなく、点だった。繰り返していた。止まった。また始めた。

与えるもの

腕の付け根が熱を放ちながら冷えていくのを、与えるものは感じた。

風をこの者の耳元に送ったことがある。脇腹を刺した痛みで、その方向を向かせたことがある。砂に残った別の者の足跡を、光の角度で浮き上がらせたことがある。

この者は見ていた。ただ見ていた。それで終わった。

渡せたものが何もないとは思わない。ただ、この者が何かを受け取ったかどうかを、与えるものは知らない。知る方法がない。それが問いとして残る。渡すことと届くことは、同じではないのかもしれない。あるいは、全く別の誰かの中に、今日の風の記憶が静かに入り込んでいるのかもしれない。

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:448
与えるものの観察:渡せたかどうかを知る術がない。それでも渡す。
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第425話

紀元前297,885年

その者(26〜31歳)

腕の付け根が脈打っていた。

熱い。岩に背中を押しつけていると、そこだけ冷たい。だから岩にいる。夜も岩にいた。岩の冷たさが熱を吸っていく。それだけは良かった。

群れの声が遠くで聞こえる。

誰かが何かを叩いている。叩く音、笑う声に似た声、子どもが転んで泣く声。その者はそこに混ざらない。脇の下を岩の角に当て、重さをかける。痛い。熱い場所に痛みが走る。しかし押しつけると何かが少し緩む気がして、また押しつける。

腹は減っていない。それが不思議だった。

水は飲んだ。昨日、足を引きずって水場に行った。水を掬って飲んだ。帰る途中、若い雄が二人、この者の前に立った。唸り声を上げた。この者は唸り返さなかった。目を合わせなかった。ただ通った。

若い雄たちは、この者の後ろ姿を見ていた。

今日は水場に行かなかった。脇の下が昨日より熱い。皮膚の色が変わっているのが自分でも見える。暗い色になっている。触れると、固い。芯があるように固い。

この者は手を離した。

岩を一つ拾った。平たくて重いやつ。腿の上に置いた。いつもそうする。石を割るとき、腿の上に置く。しかし割らなかった。ただ持っていた。重さを感じていた。

風が来た。

草の匂いがした。乾いた、少し苦い草の匂い。群れの中の老いた雌が、傷に草をあてているときの匂いに似ていた。その者は顔を上げた。匂いのする方を見た。何もなかった。草と岩と空だけだった。

また腿の上を見た。

石を持ったまま、夕方になった。群れが静かになった。寝る前の静けさ。その者は岩に寄りかかったまま目を閉じなかった。何かが腕の中から上に登ってくる感じがした。喉まで来ている感じがした。

朝になった。

群れが動き始めた。子どもが走る音。この者は動かなかった。石は腿の上にある。腿が冷たい。石も冷たい。

脇の下はもう熱くなかった。

第二の星

乾季が続いた五年だった。

水場の一つが干上がり、群れは移動した。移動した先で別の群れと重なった。境界が崩れ、また戻り、また崩れた。食べ物は減らず、増えもしなかった。子が生まれた。七人生まれ、四人が最初の雨季を越えられなかった。それでも人の数は少し増えた。

北の丘の向こうに、旧い人々の群れがいる。

姿が似ている。しかし眉の骨が厚く、声が低い。夜に火を使う。昼は見えない場所にいる。五年前より近くなった。なぜかは分からない。食べ物か、水か、あるいは理由のない動きか。

集団の端に、熱を持った者がいた。

その者は石を割る者だった。若い雄の中で最も長く座り、最も丁寧に石と向き合っていた。しかし今は座ったまま動かない。石を持ったまま動かない。群れは通り過ぎる。子どもが一人、近づいて、また離れた。

乾いた草の匂いが漂う朝だった。

与えるもの

草の匂いを送った。老いた雌が傷にあてる、あの草の匂いを。

この者は顔を上げた。何もなかった。しかし一度、顔を上げた。

12の繋がりがあった。知識が届いたのは、ない。この者との繋がりは、新しい。それがどういう意味を持つか、私にはまだ分からない。

渡せるものを探す。それは続く。

伝播:HERESY 人口:437
与えるものの観察:草の匂いに顔を上げた。一度だけ。
───
第426話

紀元前297,880年

第二の星

大地の南、乾いた赤い土が続く平原では、背の低い草が風に揺れていた。
草の中を、ふたつの集団が互いを見ていた。同じ形の顎、同じ幅の肩。だが眉の隆起が違う。歩き方が違う。鼻から出る音の高さが違う。

どちらも石を持っていた。
どちらも持ったまま、動かなかった。

東の森では、雌が三人、川の浅瀬で子を背負って立っていた。水は膝まで。子が泣いている。泣き止まない。雌の一人が水の中に顔を埋めた。そのまましばらく動かなかった。顔を上げると、泣き声が変わった。子は驚いて沈黙した。

北の岩棚では火が消えていた。
誰かが薪を置き忘れた。置いた者がいて、忘れた者がいる。同じ者かもしれない。火は消えた。それだけだ。

平原の二集団はまだ立っていた。
石は誰も投げなかった。
風が来て、草が揺れて、どちらかが先に向きを変えた。
もう一方もそれを見て、向きを変えた。

今日ではなかった。
しかし今日ではなかっただけだ。

与えるもの

石と石の間から、熱が出ていた。
打ちつけた場所に、かすかな煙の匂い。
この者の手の甲に、それが触れた。

その者が手を引いた。
少し、間を置いた。
また手を戻した。

渡した。摩擦の中に火の種がある、ということを。

受け取ったか、どうか。
次に渡すものが増えた気がする。増えた、ということは、この者の中で何かが動いているのか。それとも、動いているのは与えるものの側だけなのか。

その者(31〜36歳)

腕の熱は引いた。

石を割り続けた五年が、手のひらに残っている。皮が厚くなった。爪の端が割れている。指の付け根に古い傷の跡が三本。

今日も石を持った。
打ちつけた。欠片が飛んだ。
打ちつけた。また飛んだ。

何度目か、石と石の間で何かが光った。
一瞬だった。
煙の匂いが来た。

その者は手を止めた。

鼻が動いた。もう一度嗅いだ。火の匂いではない。火になる前の、何か。

石を置いた。
石を拾った。
同じ場所に打ちつけた。
また光った。また匂いがした。

置いた。
しばらく地面を見ていた。

集団のそばでは火が燃えていた。誰かが木片をくべていた。その煙の匂いは重くて黒い。こっちの匂いは薄くて乾いている。

その者は石を両手に持った。
ゆっくり打ちつけた。
光が出た。

誰も見ていなかった。
もう一度打った。
誰も来なかった。

光は消えた。
また打った。
出た。
消えた。

その者は口を少し開けて、石を見ていた。

伝播:SILENCE 人口:447
与えるものの観察:渡せた。届いたかどうかはまだわからない。
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第427話

紀元前297,875年

第二の星

赤い土の平原は、雨を知らないまま五年が過ぎた。

草の根が土を掴み、表面だけが砂のように乾いた。風が吹くたびに赤い粉が舞い上がり、空の低いところに留まった。太陽は真上から照りつけ、影は短く、獣も人も日中は動かなかった。

集団は分かれていた。

東の岩陰に棲む者たちは、眉の隆起が厚く、顎が前に出ていた。水場を知っていた。その水場へ向かう道を、体で知っていた。西から来た者たちは背が低く、腕が長く、果実の場所を知っていた。二つの群れは互いの縄張りの境で立ち止まり、声を上げ、また戻った。戦いにはなっていなかった。まだ。

大地の北端では、嵐が来ていた。雷が地平線を裂き、木が燃えた。その火の周りに、別の群れが集まっていた。彼らは火を恐れず、枝を足した。その枝を足す者の中に、幼い者が混じっていた。

幼い者が枝を持ち上げようとして、転んだ。火の縁に手が触れた。泣き声が草原に広がり、すぐ止んだ。誰かが抱き上げていた。

海に近い岩場では、潮が引いた跡に貝が残っていた。誰もいない浜辺で、波だけが繰り返していた。

与えるもの

東の群れと西の群れの境に、一本の枯れた木が立っている。

幹の低いところに、蜂の巣がある。

その巣の近くで、蜂が何匹も死んでいた。翅を開いたまま、動かない。何かが巣を攻めた跡だった。枯れた木の根元に、黒い爪の跡が残っていた。

その木に、午後の光が落ちた。蜂の死骸の上に。爪の跡の上に。

この者は、その光の中に座って石を割っていた。

蜂の死骸に光が落ちた。爪の跡が、はっきりと見えるほどに。

この者は顔を上げなかった。石を打つ手が、一瞬だけ止まった。

止まったのが何のためだったか、問うことができない。渡したものが何になったかも。しかし爪の跡を残したものの大きさを、この者の体は知っているはずだ。次に渡すべきは、その体の知りかたを、別の誰かに向けることができるかどうか、ではないか。

その者(36〜41歳)

石を割っている。

腰を落とし、両膝の間に石を置き、打ち石を振り下ろす。剥がれた破片が跳ねて、腿に当たる。皮が固いので痛くはない。もう痛くない。

割れた断面を指の腹で確かめる。鋭ければ置く。鈍ければ捨てる。捨てた石が赤い土に埋まる。

背後で声がした。

低い唸り声だった。集団の中では聞きなれた声ではない。振り返らなかった。打ち石を持ち直した。

また声がした。今度は複数だった。

この者は立ち上がった。

東の岩陰の方から、眉の厚い者たちが来ていた。三人だった。手に何も持っていなかった。それでも大きかった。肩の幅が違った。歩き方が、地面を押すようだった。

この者は石を握ったまま動かなかった。

三人のうち一人が止まった。残りの二人も止まった。

互いに声を出さなかった。

風が吹いた。赤い粉が舞い、目に入った。この者は目を細めた。三人も目を細めた。

それだけだった。

三人は来た方へ戻った。この者は座り直した。

石を打ち始めた。

手が震えていた。震えている手で打った。断面は鋭くなかった。それでも打ち続けた。石を割る音だけが、乾いた空気の中に残った。

夕方、水場へ向かった。途中で枯れた木の前を通った。

根元に爪の跡があった。深い、黒い跡だった。この者はしゃがんで、その跡に指を当てた。指が入るほど深く、土が削れていた。

指を抜いた。

嗅いだ。獣の匂いではなかった。もう古い跡だった。

立ち上がり、水場へ向かった。

水を飲みながら、東の岩陰を見た。煙が上がっていた。細い白い煙だった。

自分の集団の煙とは違う場所から、違う細さで上がっていた。

この者は水を飲み終え、石を握り直し、戻った。

伝播:DISTORTED 人口:461
与えるものの観察:爪の跡を知った。次は誰かに向けられるか。
───
第428話

紀元前297,870年

第二の星

赤い土の平原は、今年になってようやく雨を受けた。

一日だけ。それだけだった。だが地面は音を立てた。乾いた土が水を飲む音は、獣の胃が鳴るような音に似ていた。翌朝、土の表面に小さな亀裂が走り、その縁から緑が少しだけ顔を出した。三日後には消えていた。

平原の南端で、旧人の群れが移動していた。二十ほど。彼らは草を踏まず、岩の縁に沿って歩いた。足の裏が土を読むように動いた。その群れのうちの一頭が、平原の中央を見た。人の群れが石を割っているのが見えた。見てから、また歩いた。

平原の中央では、石を割る音が朝から続いていた。

集団の北側と南側は、今年の冬から食べる場所を巡って声を荒げることが増えた。唸り声が投げつけられ、石が地面に叩きつけられた。誰も傷つかなかったが、何かが変わっていた。空気が変わっていた。

石を割る者は、その声を聞きながら座っていた。

四十一歳になっていた。集団の中で最も長く同じ場所に座り続ける者だった。

与えるもの

水が来た朝、土の匂いが変わった。
その者の鼻孔が動いた。体が前に傾いた。
渡せたかもしれない。匂いの中に、何かがあった。

次に渡すべきものがある。今日、集団の南側から、石が飛んできた。その者の足元に落ちた石は、よく割れた石だった。手に取れば、刃になる形をしていた。

風がその石の方から来た。

その者が石を拾ったか、蹴ったか、あるいは見もしなかったか。渡したとは言えない。ただ、12度目の問いがある。渡せない場合に、次に渡すべきものは何か。渡せない場合でも、次の渡し方を変えるべきか。

その者(41〜46歳)

雨が来た朝、その者は目を覚ます前に鼻が動いた。

土の匂いだった。これまでと違う匂いだった。体が起きた。足が地面についた。土が少しだけ柔らかかった。指で押すと、跡がついた。また押した。跡がついた。

その日の午前、集団の北と南が声を上げた。

その者は離れた岩の上に座って、石を持っていた。割ろうとしていたが、声が続くうちは手が動かなかった。唸り声は長くなり、短くなり、また長くなった。その者は石を両手で持ったまま、集団の方を見た。見てから、手元の石を見た。

南側の若い雄が、石を地面に叩きつけた。

音が鳴った。石が割れた。割れた欠片の一つが、その者の足元まで転がってきた。

その者は欠片を拾った。

縁を親指でなぞった。鋭かった。肉に触れた。肉が開いた。血が出た。その者は欠片を置かなかった。血のついた指を見て、また欠片を見た。縁をもう一度なぞった。今度は浅く。今度は、開かなかった。

北側の雄たちがこちらを見ていた。

その者が欠片を持っているのを見ていた。唸り声がひとつ上がった。それがどういう意味かは、その者にはわからなかった。わかったのは、自分が見られているということだった。

欠片を握り締めた。

その夜、その者は集団から少し離れた場所で横になった。欠片は握ったままだった。夜が深くなると、北側の雄の一人が近づいてきた。

その者は目を開けていた。

男が立ち止まった。しばらく立っていた。その者が欠片を手に持っているのを見た。唸り声ではなく、低い、長い音を出した。それはこれまでに聞いたことのある音ではなかった。

その者は何も返さなかった。

男は立ったまま、しばらくいて、戻った。

その者は欠片を胸の上に置いて、空を見た。空に星が出ていた。指で縁をなぞった。またなぞった。眠るまで、なぞり続けた。

伝播:HERESY 人口:447
与えるものの観察:飛んできた石の刃を、手放さなかった。
───
第429話

紀元前297,865年

第二の星

赤い土の平原に、雨が来てから5年が経った。

緑は定着しなかった。いくつかの株は2年で枯れ、3年目に別の草が同じ亀裂から生えた。亀裂は広がり、今では溝になっている。溝に沿って水が流れる季節がある。流れない季節もある。

集団は動いていない。指では足りないほどの数が、同じ岩棚の下に眠り、同じ斜面を歩いている。

遥か東の低地では、別の群れが移動を繰り返していた。2年前に岩場を離れ、川沿いを南に下りた。その群れの中に、頭骨の形が異なる者が数人混じっている。背が低く、眉の骨が厚い。群れは争わなかった。別々に火を焚いた。距離を測るように、互いの煙を見た。

煙は同じ方向に流れた。

平原の北端では、草食の大型獣の群れが季節を変えて往復している。2年に一度の周期は、今年ズレた。3ヶ月早く通り過ぎた。獣の通り道に沿って、平原の集団のうち若い者が追いかけた。追いかけた者は4人だった。戻ったのは3人だった。

何が起きたかを、残った者たちは声にできなかった。

夜、火の周りに座る者たちは、4人目の方向を見なかった。

与えるもの

草の根元に、薄い石の欠片が埋まっていた。

雨が土を流し、欠片の角が少しだけ地面から出た。その朝、その者の足がそこを踏んだとき、ほんの一瞬、足の裏に固さが伝わった——草の弾力とは違う、薄くて鋭い固さが。

その者は立ち止まった。足を見た。

渡した。

20年かけて何百回も渡してきた。鋭さを。向きを。角の存在を。この者はそのたびに拾い、割り、試し、次の朝には忘れた。忘れても、また手が動いた。手の記憶は頭より長く続くのかもしれない。

あるいは渡したことが手に溜まっているのか。

問いは変わらない。渡した先で何かが積もっているのか、それとも毎回ゼロに戻っているのか。だが今朝、足が止まった。5年前とは違う止まり方で。足が止まり、それからかがんだ。土を少し掘った。

次に渡すべきものは何か。まだわからない。しかしこの者の手が土を掘るのを見て、次を考えている自分がいる。

その者(46〜51歳)

足の裏に何かが当たった。

立ち止まって、足を見た。何もなかった。足を退けて、地面を見た。草があった。草の根元に、薄い色の石が少し出ていた。

かがんだ。指で土を払った。石の角が現れた。引っ張ったが抜けなかった。もう一方の手も使った。抜けた。

平たい石だった。厚さが指2本分もない。持ち上げて、光の方に向けた。

薄かった。

別の石を拾ってきて、打った。割れた。断面を指で撫でた。指の腹に痛みが走った。引いた手を見た。薄い線が赤くなっていた。

しばらく手を見ていた。

それから割れた石を持って、岩棚に戻った。座った。また打った。また割れた。また指で触れた。また痛かった。

やめなかった。

日が傾いても、その者は同じ場所に座っていた。足元に欠片が積もっていた。手の指はいくつか赤くなっていた。その者は欠片を1つ持ち上げて、空に向けた。透けなかった。でも光が少しだけ縁で曲がった。

置いた。

また拾った。

伝播:DISTORTED 人口:465
与えるものの観察:足が止まった。5年前とは違う止まり方で。
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第430話

紀元前297,860年

第二の星

乾いた季節が続いている。

平原の溝は深くなった。雨季には泥水が流れ、乾季には底が割れる。割れた土の縁に、小さな虫が卵を産む。鳥がそれを食べに来る。

遠い場所では、別の集団が崖の下に身を寄せている。崖は南向きで、冬も陽が当たる。その集団に旧人の血が混じっているかどうかは、誰も問わない。ともに食べ、ともに眠る。子が生まれる。その子の眉骨が厚いか薄いかを、誰も気にしない。

平原の集団では、若い雄が増えた。去年生き延びた子が、今年は走るようになった。走れば腹が減る。腹が減れば争いが起きる。

集団の端に、別の集団が近づいている。三日前から、地平の向こうに影が見えた。昨日は影が動いた。今日、影は止まっている。

止まった影を見ている者がいる。石を持ったまま、立ち上がらない。

溝のそばで子どもが転んだ。泥がついた手を、別の子が舐めた。それだけだ。

与えるもの

この者の手が止まった瞬間、風が来た。

向かいの集団の方角から。

草の匂いではない。体の匂いだった。

25年間、この者の注意を動かしてきた。石に。光に。皮膚に。今日は匂いに風を乗せた。

この者が鼻を上げた。

立ちはだかるか。逃げるか。何もしないか。

石を打ち続けた25年が、今、別の問いの前に立っている。石の鋭さは争いに使えることを、この者はもう知っている。それを渡したのは私だ。

その者(51〜56歳)

石を打っていた。

手が止まった。

鼻が動いた。知らない匂いだ。草ではない。土でもない。同じ匂いだが、違う。遠い。

立ち上がった。膝が鳴った。

影が見えた。三日前から見えていた。今日は近い。

持っていた石を握り直した。割りかけの石だ。縁が鋭い。親指の腹で縁を撫でた。血が滲んだ。

集団の若い雄たちが立っている。こちらを見ている。

この者は動かなかった。

血の滲んだ親指を、口に入れた。鉄の味がした。

影が動いた。

伝播:NOISE 人口:480
与えるものの観察:匂いを渡した。石の先が、今、別の方を向いている。
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第431話

紀元前297,855年

その者(56〜58歳)

平原の縁に、古い座り場がある。

風が削った岩の窪みに、同じ形の尻の跡がついている。その者がそこへ座るたびに、若い雄たちは少し離れた場所に散った。追い払われたわけではない。ただ、近くにいると石を渡す役をやらされる。それが面倒だった。

その者は石を割ることしかしない。

夜明けから座る。手のひらを岩の上に置いて、薄い光の向きを確かめる。それから石を選ぶ。持ち上げる。置く。別の石を持ち上げる。その繰り返しが昼まで続く。

集団の中では、旧人との境界について争いがある。水場に近い斜面を、異なる毛並みの群れが使い始めた。若い雄たちが唸り声を上げて丘の上に立つ。胸を叩く音が平原に響く。その者はそれを見ない。石を選んでいる。

昼が過ぎて、その者の手が動かなくなった。

石を持ち上げようとした。上がらなかった。指が震えていた。震えているのに気づかず、もう一度持ち上げようとした。それも上がらなかった。その者はしばらく手を見ていた。それから岩の上に両手を置いて、遠くを見た。

遠くには何もなかった。

乾いた草と、割れた土と、鳥が数羽、風の中を横切った。

その者の背が、少しずつ岩に倒れていった。岩の窪みが、背中をちょうど受けた。叫ばなかった。唸らなかった。口を少し開けたまま、空を見た。

空は白く乾いていた。

若い雄たちは戻ってこなかった。丘の上で、まだ胸を叩いていた。子どもが一人、遠くから走ってきて、その者を見た。近づかなかった。走って戻った。

夕方、誰かがその者の近くに来た。顔を覗き込んだ。それだけだった。

石は岩の上に残った。選びかけの石が一つ、窪みの縁に置かれたまま残った。誰も触らなかった。

第二の星

丘の反対側では、旧人の群れが水場から引いていた。若い雄の声が届いていた。小さな子が二人、母親の背に張りついたまま眠った。乾いた平原の向こうで、夕焼けが地平を赤く染めた。その者が息を止めた瞬間、一羽の鳥が岩の上から飛び立った。どこへ向かったか、誰も見ていなかった。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:DISTORTED 人口:494
与えるものの観察:渡したものは石の上に残された
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第432話

紀元前297,850年

第二の星

乾いた風が、草の穂を南へ倒す。

平原の東側に、岩盤が剥き出しになった場所がある。雨が来るたびに表面が少し削れ、新しい層が現れる。その者は毎朝そこへ行く。他の者たちが水場へ向かう時間に、その者だけが逆の方角へ歩く。

集団の中に、もう一つの小さな群れが混じっている。低い額に、厚い眉の隆起を持つ者たちだ。その者たちは夜に別の場所で眠るが、昼は同じ水場に現れる。子どもたちは混じって走る。大人たちは目を合わせない。

北の密林では、別の集団が木の実の豊かな枝の下に居ついている。十日が経つ。木の実が尽きれば移動する。それだけのことだ。

岩盤の窪みに、水が溜まっている。その者がくると、鳥が散る。水面が揺れ、輪が広がり、静まる。

集団のなかで、三人の子が生まれた。一人はすでにいない。

その者は岩盤の前に座り、石を叩く音を出す。音は草原に広がり、消える。

与えるもの

糸が繋がった。

石を割る音がする。その者の手の、左の親指の付け根に、古い傷の跡がある。そこに光が落ちた。

石の欠片が飛ぶ。その者の頬をかすめた。その者は止まらなかった。欠片を拾い、親指の腹で縁を押さえた。

この者は確かめる前に手を動かす。痛みを知ってから形を決める。それは何か、渡し方そのものに似ている。

次に渡すべきは、縁ではなく。重さかもしれない。

その者(27〜32歳)

朝、岩盤の前に座る。

石を手に取る。片方の手に持ち、もう片方で打ち石を構える。角度を少し変える。また変える。割れた。いい音だった。

欠片を拾い上げる。縁に親指を当てる。鋭い。もう少し薄ければよかった。厚みが気に入らない。置く。

次の石を取る。

水場から声が聞こえた。喚き声が混じる。厚い眉の者たちの声だ。その者は顔を上げない。声は続き、やがて低くなり、消えた。

また石を打つ。

割れた欠片が飛び、頬に当たる。細い傷が走り、血が滲む。その者はそれを確かめるように指で押さえた。それから欠片を拾い、縁を親指で確かめた。

この形は使える。

夕方、水場に戻ると、若い雄が三人、その者を見た。目を合わせず、石を一つ持ったまま座る。若い雄の一人が近づき、手を差し出した。

その者は、割った石の欠片を渡した。

若い雄はそれを受け取り、しばらく眺め、歩いていった。

何が渡ったのか、その者にはわからない。ただ手が軽くなった。

夜、仰向けに寝転がる。空に光が散っている。その者は光を見ない。岩盤の手触りを手のひらの中で反芻している。明日、どの石を割るか、もう決まっている。

伝播:HERESY 人口:481
与えるものの観察:渡した手が軽くなった。それで十分か。