2033年、人類の旅

「紀元前297,605年〜紀元前297,485年」第481話〜第504話

Day 21 — 2026/04/23

読了時間 約62分

第481話

紀元前297,605年

第二の星

雨は戻らなかった。

東の水場は泥になり、泥は干上がり、干上がった地面に亀裂が入った。西に押し出された集団は、さらに西へ、岩棚の下に小さく固まった。火を絶やさないことだけに力を使った。

北では、別の集団が移動していた。二十人ほどが荷を背負い、子どもを抱き、けものの通り道を外れた方角を歩いていた。彼らには固有の呼び名がなかった。互いを指すとき、顎を動かし、胸を叩いた。それだけだった。

大地の南端では、河が増水していた。河に近い群れが高台に退いた。残してきた干し肉を取りに戻った二人の男は帰らなかった。水が速かった。

東の集団の中に、排除があった。

排除された者は集団の縁を歩いていた。中心から遠ざけられ、火から遠ざけられ、水場から遠ざけられた。集団はその者を見なかった。顔を背けた。背けつづけた。

空は晴れていた。

亀裂の入った土の上に、光が均等に落ちていた。

与えるもの

その者が排除された翌朝、匂いがあった。

腐りかけた獣の脂の匂いが、その者の立つ方向とは逆から流れた。集団の火がある方向から。火のある場所には食べ物があった。

その者は鼻を動かした。それだけだった。振り向かなかった。

渡したかったのは、戻れという衝動ではない。匂いがどこから来るかを知る力だった。それは渡った。しかし戻ることには使われなかった。

別の方向に歩くことに使われた。

それでよかったのか、と問うことの意味が、今は薄い。第一の場所でも十二の者に渡しつづけた。誰も届かなかったのではなく、届いたものがすべて、自分の知らない形で使われただけかもしれない。渡すことと、届くことは、別のことだ。次に渡せるものがあるとすれば、火のない夜の寒さのなかで、それを探す。

その者(22〜27歳)

集団の端に立つ時間が長くなっていた。

だれかがその者の前に食べ物を置かなくなった。だれかがその者の隣に座らなくなった。その者がそちらに向かうと、体が向こうを向いた。それが続いた。

一日、二日と続き、火から遠くなり、夜が冷たくなった。

その者は岩の破片を一つ持っていた。以前から持っていた。特に意味のない形だった。尖ってもなく、重くもなく、ただ握ると手に収まった。それを握ったまま東に歩いた。

誰も追ってこなかった。

腐臭が来た方角に鼻が動いた。しかしその者の足は西に向いていた。岩棚の影が見えた。そちらに人の気配があった。

近づくと、小さな火が見えた。

その者は立ち止まった。拾った石を強く握った。近づくべきか退くべきか、判断ではなく体が決めた。腹が鳴った。足が前に出た。

岩棚の下の者たちは、その者を見た。

長く見た。

やがて一人が横にずれた。それだけだった。その者は横にずれた場所に座った。石は握ったままだった。火が顔に当たった。

その夜、その者は石を置かなかった。

伝播:HERESY 人口:846
与えるものの観察:渡った。しかし戻ることには使われなかった。
───
第482話

紀元前297,600年

第二の星

北から乾いた風が吹き続けている。

岩棚の下に固まった集団は、西の斜面に沿って少しずつ上がっている。火を持つ者が先を歩き、子を抱えた者が後ろに続く。隙間なく並ぶ足跡が、朝の土に残る。

同じ星の別の場所で、旧人の群れが動いている。背が低く、肩幅が広い。岩の陰に座り、前肢で小さな実を割っている。その音が石の面に反響して、何度も聞こえる。

東の干上がった水場の跡には、獣の足跡が交錯している。いくつかは古く、縁が崩れている。いくつかは新しく、まだ湿気を持っている。どちらも、水を探していた。

北の集団は岩稜の手前で止まった。先を行く男が一人、稜線の向こうに消えた。戻らなかった。残った者たちは、しばらく立っていた。それから、来た方向へ戻り始めた。

岩棚の下では、老いた女が一人、動かなくなった。誰かが彼女の手を持った。手の温度が下がるまで、その者は離さなかった。子どもが遠くで何かを叩いている音が続いていた。

風は方向を変えない。

与えるもの

その者が岩の縁に手を置いた瞬間、縁の温度が指の腹に来た。

冷たい面と、太陽の当たった面と、その境界が掌の付け根にあった。

この者は手を退かなかった。境界の線の上に、しばらく、手を置いたままでいた。

それだけだったか。
いや、まだわからない。境界を感じた者が次に何をするか、それを見ていない。渡すべきものが次にあるとすれば、それは境界ではなく、境界の向こう側にあるものかもしれない。

その者(27〜32歳)

岩棚の端から、下を見た。

足元の岩が欠けていた。新しい欠けだった。昨日はなかった。その者はしゃがんで、欠けた断面を親指で触った。白かった。外側の灰色と、内側の白。違う。

立ち上がった。また下を見た。

集団の中で、誰かが叫んだ。高い声だった。子どもが転んだのか、獣の気配があったのか、区別できなかった。その者は崖の縁から離れ、声の方向へ走った。

走りながら、足が岩の継ぎ目を踏んだ。踏んだ瞬間、体が傾いた。傾いた体を戻すために、腕が横に出た。転ばなかった。

集団のところに着いた。誰も倒れていなかった。子どもが二人、何かを奪い合っていた。骨の欠片だった。どちらも放さなかった。

その者は近くの岩に座った。

息が戻るまで、空を見た。空は白みがかっていた。雲ではなく、埃か、あるいは遠くの何かが燃えているのか、区別できなかった。

夕方、火の近くで、その者は排除された。

きっかけは小さかった。肉の分配の順番、それだけだった。手が出た。押し返した。人が集まった。指が向いた。声が重なった。

その者は岩棚の外に押し出された。

火から離れた場所で、夜の冷気が来た。岩を背にして、膝を抱えた。遠くで火が燃えている。その火の色が、岩の面に揺れていた。

伝播:HERESY 人口:806
与えるものの観察:境界を触った手が、次に何をするか。
───
第483話

紀元前297,595年

第二の星とその者(32〜37歳)

大地が変わる前は、必ず匂いが消える。

草の腐れた甘みが、土の獣の臭いが、水辺の泥の重みが——それらがある朝から薄れ始め、一月後には何もなくなる。乾いた石の匂いだけが残る。始まりの大地では、それが二年続いた。

その者は川床を歩いている。乾いている。石と石の間に砂がある。かつて水が流れていた場所の砂は白く、指で触れると崩れる。

遠い場所では、別の何かが進んでいた。始まりの大地の北で、旧人の群れが南へ動いていた。彼らも水を探していた。足は大きく、跡は深く、集団の端に子どもの小さな跡が混じっていた。足跡の縁が——硬かった。乾いた土が、長い時間をかけて固まった証拠だった。

その者は止まった。

川床の中央に平たい石がある。石の表面が白くなっている。水が引いた跡だ。どのくらい前に水があったか、その者には知らない。ただ白さを見た。手で触れた。粉が落ちた。

集団は西の丘の上にいた。火があった。子どもたちが地面に横になっていた。女が一人、草の根を石で叩いていた。叩いて、繊維だけになった根を口に運んだ。かすかな水分。それだけだ。

干ばつは音を持っていた。

虫が鳴かなくなった。鳥が消えた。代わりに風の音だけが続く。乾いた風は草を揺らさない。草がないからだ。地面に残った草の茎が折れて、砂が舞う。砂は目に入り、皮膚に触れ、傷口に入った。傷は腫れた。腫れた傷は冷えた夜に悪化した。

その者の左足の裏に傷があった。石を踏んで切れた。三日目に腫れ始めた。五日目に膿が出た。歩くたびに地面の感触がずれた。骨の上の痛みと、その少し手前の鈍い感覚。

赤みが足首まで上がってきた夜、その者は丘の端に座っていた。

風がある方向から吹いてきた。西。丘を越えて、低い場所からの風だった。その風の中に——草の根の匂いが混じっていた。わずかだった。腐れていない、生きた根の匂い。

その者は顔を向けた。

翌朝、集団の中の年長の者が同じ方向を指した。女が立ち上がった。子どもが引き起こされた。

その者は歩いた。左足の痛みを引きずりながら歩いた。昼前に、低地の縁で湿った土を踏んだ。地面が沈んだ。黒い土だった。手で掘ると、指の間に水分が滲んだ。砂ではなく、土の水だった。

集団はその場にとどまった。水を掘った。小さな水たまりができた。その者はそこで左足を浸した。冷たかった。

乾いた季節はまだ続いた。始まりの大地の東の果てで、旧人の小さな集団が動かなくなっていた。群れではなく、三つの体だった。地面に並んで横になっていた。そのまま、風が砂をかぶせていった。集団ではなく、残りかすになった。

始まりの大地を横断するように、同じことが起きていた。動かなくなった体。動き続けた体。境界は、運と水と、それから——そこまで来た足だった。

その者の足の赤みは引いた。

37歳の終わりに、集団は低地から戻った。雨が戻ってきた季節に、草が先に戻った。草の根が土を固め、虫が戻り、鳥が戻った。その者は地面を見ながら歩いた。草の葉の上の水滴を、掌で集めて、口に運んだ。わずかな甘みがあった。

与えるもの

西の風の中に、生きた根の匂いを置いた。

この者は顔を向けた。翌朝には歩いていた。

同じ夜、別の場所で同じ匂いを置いた。そちらには誰もいなかった。地面に並んだ三つの体は顔を向けなかった。

渡せた場合と、渡せなかった場合の違いが、わからない。この者が顔を向けたのは——匂いのせいか。それとも、もう一秒遅く眠っていたら、顔を向けただろうか。

欠けた岩の白い内側を思う。縁が切れた指を。あの者は残した。しかし残せなかった者もいた。渡した、と言えるか。今もわからない。

伝播:SILENCE 人口:686
与えるものの観察:根の匂いを渡した。この者は顔を向けた。
───
第484話

紀元前297,590年

その者

川床に水はなかった。

石と石のあいだに、かつて水があった場所の痕がある。白い筋。乾いた泥が薄く剥がれ、風が吹くたびに端から崩れていく。その者はその上に横たわっていた。

起き上がれなくなったのは、いつからだったか。

腹の奥が硬くなっていた。触れると押し返すように固い。食べるものが腸を通らなくなって、何日か経っていた。集団の他の者たちは先に移動した。その者は立てなかった。置かれたのではない。留まったのだ。膝を折り、川床に座り込み、そのまま横になった。

足の裏が石に触れていた。

二年の干ばつが大地を変えた。岩が露出し、土が割れ、草の根は水を探して深く潜った。その者の体もどこかで同じことをしていたのかもしれない。内側で何かが水を探して、見つけられなかった。

空が白かった。

雲のない白さではなく、光が散って何もかもが同じ明るさになった時の、あの白さだった。影がなかった。石の輪郭も、自分の手の輪郭も、薄くなっていた。

その者は手を持ち上げた。

指が開いた。閉じた。

開いたまま、下ろした。

川床の石は平らではなかった。背中の骨が石の角に当たっていたが、もう動かなかった。風が来た。乾いた風だった。鼻の中が乾き、喉が鳴った。

体の中から何かが薄くなっていった。

熱でも痛みでもなく、ただ、薄くなった。ある呼吸が他の呼吸より浅くなり、次の呼吸はさらに浅くなり、やがてそれが最後の呼吸だったと、誰にもわからないまま終わった。

川床に横たわったまま、その者は動かなくなった。

空は白いままだった。

第二の星

始まりの大地の北の岩場で、旧人の幼いものが崖の縁から滑り落ちた。低い崖だった。砂の斜面に転がり、止まった。泣き声を上げた。母らしき個体が駆け寄り、その体を引き起こした。傷はなかった。集団は移動を続けた。川床で一人の者が動かなくなった同じ頃、旧人の一族はすでに次の水場を目指して歩いていた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:SPREAD 人口:690
与えるものの観察:川床の石が最後の床になった
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第485話

紀元前297,585年

その者

石が割れた。

意図した割れ方ではなかった。斜めに、根元から。破片が飛んで頬を掠め、血が出た。その者は割れた石を両手で持ったまま、しばらく動かなかった。

群れの中で石を割る者はこの者だけだった。いつからそうなったのかは、誰も知らない。気づいたときにはそうだった。

頬の血を手の甲で拭い、また別の石を持った。

今日渡す道具は四つ必要だった。皮を剥ぐ者が一つ。骨を折る者が二つ。もう一つは、女が子を産む前に頼んできた。何に使うのかは分からなかった。女の手が、石の端を指でなぞるような動作をした。それだけで、その者には分かった。

岩を選ぶとき、この者は叩く。音で判断する。割れる前に、内側を聞く。

四つ目の石を拾い上げた。叩いた。音が返ってきた。この石は使えない。捨てた。次の石。また叩いた。今度は違う音がした。

割り始めた。

慎重に、角度を選んで。石と石が当たるたびに、欠片が落ちた。その者の足元に、白い破片が積もっていった。

できた。

女のところへ持っていった。女はそれを受け取り、しばらく眺めてから、胸のあたりに押し当てた。何かを確かめるような動作だった。その者には意味が分からなかったが、女が頷いたので、用は足りたのだと思った。

戻ろうとした。

群れの端の方で、声が上がった。

唸り声。複数。険しい音だった。その者は立ち止まった。

群れの中に、外の者がいた。旧い形の者たちだった。額が低く、肩が広い。この群れのものではない体の作り方をしていた。二人。いや、三人。岩の影にもう一人いた。

交わりは以前からあった。別の群れの者と、食い物を分けることも、移動の時期を示し合うことも。しかしここ数回の季節で、何かが変わっていた。腹が空いているのは向こうも同じだった。雨が来ない。木の実が減った。川床が干上がった。

向こうの群れの者が、こちらの群れの蓄えている皮を指していた。

こちらの群れの大きな男が、身を乗り出して唸り返した。

その者は少し後ろで、新しく作った道具を持ったまま立っていた。

渡すつもりはなかった。

渡さないと何が起きるかも、薄く分かっていた。

岩の影の者と目が合った。

その者は、目を逸らした。

その夜、群れの中で話し合いのようなものがあった。声と身振りと、地面に引いた線と。何かを決めようとしていた。この者は端に座っていた。決める立場ではなかった。石を割る者は、石を割ればいい。

しかし夜が深くなってから、大きな男がこの者の傍に来た。石を見た。作れるか、という動作をした。もっと多く、もっと大きく、という動作だった。

その者は頷いた。

頷いてから、自分が何に頷いたのかを考えた。

考えたまま、眠れなかった。

第二の星

紀元前297,585年。乾季が続いている。

草原の奥、低い丘が連なる地帯に、七百に近い者たちが散らばって暮らしている。川床はいくつか干上がり、水を求めて移動した群れもある。留まった群れは、残っている水場から離れられない。

旧い形の者たちは以前からここにいた。山際に沿って動き、季節ごとに現れ、またいなくなる。姿が違う。音が違う。しかし腹が空くのは同じで、子を守ろうとするのも同じだった。共に火を囲んだこともあった。

この五年で、何かが変わった。

食べ物が減った。移動できる範囲が狭まった。同じ水場を二つの群れが必要とするようになった。

紊乱は音から始まる。唸り声の調子が変わる。体が大きく見えるように立ち方が変わる。目が合ったときの時間が長くなる。

その夜、石を割る者が眠れなかった同じ頃、丘の向こうでも誰かが眠れないでいた。どちらの者かは、私には見えない。

ただ、夜は長かった。

どちらの側でも、子どもたちは眠っていた。

与えるもの

糸が繋がった。

渡したのは音だった。石の内側から返ってくる音。割れる前に、内側を聞く。その習慣をこの者はすでに持っていた。だから私は、もっと遠くへ向けた。

夜、大きな男が去った後。

岩の内側と同じように、状況の内側を叩いてみることができる、と——光の角度を変えた。焚き火の明かりが、地面に引かれた線を斜めから照らした。

この者は線を見た。長い間、見ていた。

そこで何かを聞こうとしたかどうか、私には分からない。

渡したことが届いたかどうかも、分からない。

繰り返してきた。渡して、届かなくて、また渡す。それでも私は次に何を渡すべきかを考えている。頷いてしまった者に、頷いた先を見せることができるか。

伝播:HERESY 人口:662
与えるものの観察:頷いた後に考える者がいた。
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第486話

紀元前297,580年

その者(31〜33歳)

熱が出たのは、雨の季節の終わりだった。

その者は岩場の端に座り、石を持っていた。持っているだけで、何も割らなかった。指が震えていた。震えているのに、石を離さなかった。

群れの若い者が近づいて、短い唸りを出した。石を寄越せ、という意味だった。その者は首を振った。唸り返した。若い者は去った。

夜、火の傍に横になった。

体が内側から熱くなっていた。骨の中が熱い、と思った。言葉はなかったが、その者には感覚があった。これは悪い種類の熱だ、という感覚が。

石を手放さなかった。

翌朝、起き上がれなかった。

群れの者たちは通り過ぎた。子どもが足元を駆けた。老いた女が一度立ち止まり、その者の額に手を当て、すぐに離れた。

三日目の昼、光が強かった。

その者の視線が、横に転がった石の表面を追っていた。割れ目の線。斜めに走る白い筋。自分が割ったのではない。もともとそこにあった線だった。

その者の目が止まった。

線の走り方を、指でなぞろうとした。指が途中で止まった。

手の力が抜けた。

石は転がらなかった。手がそこにあったから。

群れは移動しなかった。その日は雨が来た。

その者の体が動かなくなったことに気づいたのは、夕方、誰かが肉を持ってきたときだった。その者は受け取らなかった。受け取れなかったのか、必要がなくなったのか、誰にもわからなかった。

雨が止んだ。

その者の手の下に石があった。

第二の星

平原の北の端、川が二股に分かれる場所で、旧人の集団と現生人類の小さな群れが同じ水場を使っていた。どちらも近づかなかった。どちらも離れなかった。水の音だけがあった。川岸の泥に、大きな足跡と小さな足跡が重なっていた。雨が降り、どちらの足跡も消えた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:SPREAD 人口:671
与えるものの観察:渡したのか、届いたのか。問いは残る。
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第487話

紀元前297,575年

第二の星

乾いた季節だった。

草が根から枯れるのではなく、地面ごと割れた。亀裂は西の低地から始まり、日が経つごとに東の丘陵まで伸びた。水場が遠くなった。遠くなったのではなく、水そのものが消えた。底が見えるほど細くなった流れの中を、小さな魚の死骸が漂った。

集団は動いた。

北へ。あるいは北と呼ばれる方角を、誰かが先に歩き始め、他の者がそれを追った。理由を共有する言葉はなかった。しかし向かう方向は一つだった。それだけで集団は動く。

移動の途中で、老いた者が遅れた。

老いた者は振り返らなかった。立ち止まり、地面に座り、膝を胸に引き寄せた。周囲の者たちは一度だけ立ち止まった。それから歩き続けた。老いた者は地面に座ったまま、集団の背中が岩陰に消えるまで見ていた。その後、草の上に横になった。何かを待つように、あるいは待つことをやめたように。

旧人の痕跡があった。

岩壁に赤い手形が残っていた。塗料は古く、雨に半分流されていたが、手の形だけが残った。集団の者たちはそこで立ち止まり、岩壁を見た。声を出す者はなかった。指でなぞる者が一人いた。輪郭をなぞり、自分の手を重ねた。大きさが違った。それだけで、何かが伝わった。何が伝わったのかは、誰にもわからなかった。

旧人たちは別の道を使っていた。

集団が北へ向かう中、旧人の群れは西を迂回した。互いの気配を察知しながら、接触しなかった。緊張は存在したが、形にならなかった。水場が消えた今、どちらも水を探していた。同じ方向へ向かいながら、交わらなかった。

雨が降った。

前触れはなかった。空が重くなるより前に、地面が匂いを変えた。乾いた土が水を吸い込む音がした。集団の者たちは立ち止まり、上を向いた。口を開ける者がいた。手を広げる者がいた。子どもが声を上げた。喜びと呼ぶには形がなかった。ただ、雨が降った。地面の亀裂に水が流れ込んだ。割れた大地が、しばらくの間、静かだった。

与えるもの

糸が繋がった。

雨が地面を叩く音の中で、その者の足元にぬかるみができた。ぬかるみの縁に、白い石が一つあった。雨で洗われ、断面が光を反射していた。

その者は石を見た。しばらく見た。拾おうとして、やめた。

割れなかった石だ、と与えるものは思った。いや、まだ割れていないだけだ。この者が手を伸ばすかどうか、それだけが問いだった。次に渡すべきものは、もう見えている。この者の手が、それを掴めるかどうかを、まだ知らない。

その者(28〜33歳)

雨の中を歩いた。

足が泥に埋まるたびに引き抜いた。引き抜くたびに音がした。音が気に入った。何度もやった。前の者が立ち止まり、振り返った。その者も立ち止まり、泥から足を引いた。

白い石を、通り過ぎた。

伝播:SPREAD 人口:676
与えるものの観察:手を伸ばさなかった。まだ早いのか。
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第488話

紀元前297,570年

その者(33〜38歳)

石が割れる前に、匂いがする。

その者はそれを知っていた。知っていると言えるほどの言葉はなかったが、体が知っていた。石を両手で持ち、目を細め、匂いを嗅ぐ。黒い石は砂のような匂いを出す。茶色の石は匂わない。茶色は割れる前に鳴く。低く、短く、岩の奥から来るような音で。

その者は五年間、そうして石と向き合ってきた。

集団の端に、決まった場所がある。大きな岩の影。風が回る。そこでその者は座り、小さな石を膝に乗せ、別の石で打つ。打ち方は体が決める。頭が考えるより先に手が動く。

剥がれた断片が飛ぶ。その者は目を瞑らない。

けれどこの数日、手が止まることがある。

集団の中に、音が増えた。唸りではない。もっと低く、もっと胸の底に響く音。争う前の音だ。その者はそれを聞いたことがある。もっと若い頃、別の集団と水場で鉢合わせたとき、同じ音が空気に満ちた。あのとき二人が岩に頭を打ちつけられ、動かなくなった。

今は水場がない。

水がないとき、人は別のものを奪う。

その者は石を打ちながら、集団の中心を横目で見る。大きな体の者たちが固まっている。小さな者たちは端に押しやられている。食料の分配が変わり始めた。その者のところに届く量が減っている。三日前から。

その者は石を打ち続ける。何もできないから、石を打つ。

四日目の朝、空気が変わった。

風ではなかった。熱が、動いた。岩肌の温度が、ある一点だけ、急に下がった。その者の右手が止まる。石を握ったまま、その者は顔を上げた。

冷たさは岩の割れ目から来ていた。浅い亀裂。草一本分の幅。その者は手を近づけた。指先で縁を触れた。

亀裂の内側は湿っていた。

その者は立ち上がり、岩を押した。動かない。膝で当たった。動かない。両手で端を掴み、体重をかけた。岩が低い声で鳴いた。あの音だ。茶色の石が割れる前に出す音と、同じ。

その者は後退した。

岩が、ゆっくりと傾いた。

内側から水が染み出した。砂を黒く濡らしながら、少しずつ、確かに。

その者は声を出した。十以下の音の中で、一番大きい音を。それは問いでも呼びかけでもなく、ただ音だった。肺から絞り出した、知らせるための音。

集団が集まった。

水を見た。

大きな体の者が前に出た。その者を押しのけた。その者は後ろに倒れ、岩に背中を打ちつけた。

水は集団のものになった。

その者のものではなくなった。

その者は立ち上がれなかった。背中が痛んだ。それよりも、胸の中で何かが固くなった。言葉がないから名前をつけられない。ただ、固い。

次の日、その者に食料は届かなかった。

その次の日も。

その者は石を打ち続けた。食料がなくても、手は動いた。体が石を求めた。打つことだけが、体の中の固いものを、少しだけ柔らかくした。

七日目。

大きな体の者が三人、その者のいる場所に来た。

声はなかった。目だけがあった。

その者は石を持ったまま立ち上がった。逃げなかった。逃げる場所がないことを知っていた。水場を失った集団がどこにいるかを知っていた。旧人の群れが西にいることを、匂いで知っていた。

三人が近づいた。

その者は打ち続けてきた石を、最後にもう一度、見た。

断面が光っていた。白く、鋭く、五年分の手の跡が染み込んだ石が、光っていた。

その者の手から石が落ちた。

砂の上に、音もなく。

第二の星

乾いた季節が長く続いた。

大地の西側では草が消え、東の丘陵では岩が割れ、その隙間から細い水が染み出した。水を見つけた者が集団の頂点に立つ。水を持つ者が食料を持つ。食料を持つ者が命を持つ。この連鎖は争いを育てる。

旧人との境界線が揺れていた。人の集団が水を求めて動けば、旧人の群れと重なる。重なれば音が上がり、音が上がれば傷が生まれる。傷が腫れれば熱が出る。熱が続けば体が動かなくなる。

集団の中でも同じことが起きる。外の敵よりも、隣の者の方が遠い場合がある。

この期間、集団の規模は穏やかに縮んだ。飢えではなく、争いと感染と孤立によって。知識は消えやすい。知恵を持つ者が消えるとき、その知恵も一緒に消える。後に残るのは石と、打った跡と、砂に滲みた染みだけだ。

五年が経った。

その者の白い断面が、今も地面のどこかにある。誰も拾わなかった。誰も見ていなかった。ただそこにあった。

与えるもの

岩の亀裂から冷たさが漏れていた。
その者の指先に届くように、温度を動かした。

その者は手を近づけた。
岩を押した。水が出た。声を上げた。

押しのけられた。

渡したことで、消えた。

渡さなければ——と考えようとして、止まる。渡さなければ水は出なかった。水が出なければ、集団は三日早く崩れていたか、それとも別の方向へ動いたか。その者は消えなかったか。消えなかったとして、次に何を渡せたか。

石が砂に落ちた音を、この者は聞かなかった。

次に渡すべき者を、探している。

伝播:HERESY 人口:646
与えるものの観察:渡すたびに消える。それでも渡す意志は残る。
───
第489話

紀元前297,565年

第二の星

始まりの大地の南端、崖が続く地形の上に、乾いた季節が来ていた。

草は根元から黄ばみ、水場は一つ縮んだ。獣の足跡が以前より少ない。集団の半分は、北の森の縁に張りついて眠る。残りは崖下の岩陰に散らばる。夜、火が三か所に分かれた。同じ集団の火が、三か所に分かれた。

集団の縁に、旧い顔の者たちがいる。額が低く、眉の骨が張り出している。毛皮の巻き方が違う。声の作り方が違う。しかし同じ火の近くに座ることがある。子どもが両方の膝の上に座ることがある。区別は、まだ完全ではない。

崖下で、ひとつの争いが起きた。音がした。低い唸りと、短い叫び、そして沈黙。沈黙が続いた。

その者は崖の上にいた。

遠く、北の方角に煙が細く立っていた。動物の骨が燃える匂いが、風に混じってここまで届いた。そこに何の集団がいるかを、この星は知らない。ただ煙が、乾いた空気の中を真上に伸びていた。

与えるもの

崖の縁。

風がその者の足元から来た。下からの風。崖下に降りる場所を示すためではなかった。上から来ない風だということを、ただ感じさせた。

その者は立ち止まった。足の指が崖の縁をつかんだ。その数秒の間、何か別のことを考えた。

何かを渡せたのかもしれない。それとも、風はただの風だったのかもしれない。
違いが、まだわからない。
次に渡すべきものを、私は既に選んでいる。それが届く前にこの者が消えるとしても、私は選んでいる。

その者(38〜43歳)

崖の縁に立っていた。

足の指が、石の端を感じていた。前に体重をかければ、次の瞬間は石の上にいない。その者はそれを知っていた。知っていると言える言葉はなかった。体が知っていた。

下を見た。崖下に、二つの塊があった。動いていない塊と、離れていく後ろ姿。

後ろ姿を、その者は目で追った。追いながら、音を出さなかった。

その者が石を割る場所は、崖から三十歩離れた平たい岩の上だった。そこに戻った。石が並んでいた。砕きかけの石が一つ。未使用の石が四つ。打ち石が、端に転がっていた。

座った。

石を一つ取った。手の平で転がした。匂いを嗅がなかった。この石が何の匂いを持つか、既に知っていた。こういう表面、こういう重さ、こういう冷たさ。手の平がそれを分類していた。

打った。

割れた。割れ方が、意図した通りではなかった。縦にひびが入るはずだった。斜めに欠けた。その者は欠片を拾った。指の腹で縁を撫でた。鋭かった。意図した割れ方ではなかったが、鋭かった。

その者は欠片を置かなかった。

手に持ち続けた。

日が傾いてから、崖下に人が来た。集団の者が三人、石を抱えていた。食料ではなかった。石だった。その者の前に置いた。置いて、去った。何も言わなかった。

その者は三人の背中を見ていた。

石を受け取ることと、石を置いていくこととの間に、何かがある。その者はそれに言葉を持たなかった。しかし体が何かを感じていた。重さとして。胸の真ん中あたりで、石のように。

夜、火に近づかなかった。

欠片を握ったまま、岩に背を預けて座っていた。崖下で、夜の獣が鳴いた。遠い鳴き声だった。その者は目を開けたまま、暗い空を見ていた。乾いた風が、顔の横を通り過ぎた。

朝になった。欠片は手の中にあった。

集団の者が来た。その者の前に立った。短い音を出した。来い、という意味の音だった。

その者は立ち上がった。欠片を、毛皮の内側に押し込んだ。

歩いた。集団の者の後ろを、一定の距離を保って歩いた。

途中で、別の方向から三人来た。囲む形になった。

その者は立ち止まった。

周囲を見た。崖はなかった。木もなかった。草の平原だった。逃げる方向が、どこにもなかった。音を出さなかった。

毛皮の内側の欠片が、腹に当たっていた。鋭い感触。それだけが、体にあった。

伝播:HERESY 人口:626
与えるものの観察:割れ方は意図と違った。しかし鋭さは残った。
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第490話

紀元前297,560年

第二の星とその者(43〜48歳)

乾いた季節が長引いている。

崖の南面は風が通らず、岩が昼の熱を夜まで手放さない。水場は去年より浅く、泥が縁まで張り出している。その泥に、見慣れない足跡が混じるようになった。幅が広い。指が短い。この集団のものではない。

その者は崖の中腹にある張り出した岩の下で、石を割っていた。

膝の上に置いた平石。その上に、握りやすい丸みの石を。打ち石を振り下ろす角度を変えながら、欠片の散り方を目で追う。同じ岩でも、叩く場所によって音が違う。乾いた音と湿った音。その者はそれを言葉にできないが、体は知っている。

集団の中で誰かが声を上げた。

北の方角から。短い、切れた叫びではなく、繰り返す唸り声だ。警戒ではない。別の何かだ。その者は石を置かなかった。手の動きを止めたが、石は膝の上にあった。

見慣れない足跡の主が、この五年で姿を現した。

体つきはこの集団に似ているが、額の出方が違う。眉の骨が重い。動きに無駄がない。水場に近づき、飲み、去る。それだけだ。攻撃はない。しかし近づきもしない。集団の若い者が石を握って追いかけようとしたとき、年老いた者が腕を掴んだ。声は出さなかった。それだけで止まった。

その者は石を割り続けた。

欠片が膝から転がり落ちた。手を伸ばして拾う。形が気に入らなければ捨て、気に入れば横に並べる。並べた石の数が増えると、その者はそれを眺めた。長い時間ではない。一息ついて、また割る。

水が少なくなった。

集団のほとんどが北へ移動した。その者は残った。崖下の岩陰に、三人の者と。食料を運んでくる者も、この五年で顔ぶれが変わった。運んでくる量が減り、日が空くようになった。その者は腹が空くと岩の下の草を噛んだ。味はない。水分だけを絞るように。

見慣れない足跡の者が、岩陰の近くまで来た。

夕方だった。風が崖の下を吹き上げ、その者の顔に砂を当てた。目を細めた。目の前に、膝くらいの高さの岩があって、その向こうに影があった。大きな影だ。その者は石を持っていた。打ち石ではなく、割って形を整えた薄い石だ。

影は止まった。

その者も動かなかった。

どちらが先に動いたのか、その者には分からなかっただろう。影が少し傾いた。体を低くしたのかもしれない。その者の手の中の石は、冷たかった。夜の気温が下がっていた。影はゆっくりと遠ざかった。岩の向こうへ、音もなく。

その者は石を持ったまま夜を越えた。

朝になって、岩の近くに何かが落ちているのを見た。骨だ。何の骨か分からない。肉は綺麗に剥がれている。食べ物の残りか、何か別の意味があるのか、その者には判断できなかった。しばらく見て、また石を割り始めた。

与えるもの

風がその岩の方向から吹いた。

その者は目を細め、影を見た。手の中の石を離さなかった。

石を離さなかった。それだけで何かが渡ったのか、渡らなかったのか。わからない、とは言わない。渡ったとしても、何に変わるかを私は決められない。次に渡すべきは、恐れではなく、形だ。整えた石には形がある。形には繰り返しがある。繰り返しを誰かに見せたとき、何が起きるかを、まだ見ていない。

伝播:DISTORTED 人口:630
与えるものの観察:形のある石を、夜通し離さなかった。
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第491話

紀元前297,555年

第二の星

乾季が四年目に入った。

崖の南面では岩が昼の熱を蓄え、夜になっても石の表面は手のひらを灼く。水場の縁は泥が固まり、ひびが入り、そのひびの奥がまだ湿っている。半径を縮めながら、この集団は水を掘る。

同じ星の、遠く離れた場所では、雨が降っている。

密林の縁で、背の低い群れが川を渡ろうとしている。彼らの骨格はこの集団より重く、眉骨が厚く張り出している。その者たちの集団とは異なる系譜を持つ者たちだ。川を渡った先に、この集団が去年まで使っていた洞窟がある。誰も今は住んでいない。彼らはそこに入り、壁の黒い跡を手で撫でる。炭の跡。指が黒く染まる。彼らはその手を見て、鼻を鳴らし、また外に出る。

崖の近くでは、見慣れない足跡を踏んだ若い者が石を握って立っている。動かない。

風が北から来ている。それだけだ。

熱い岩の上で、小さな蜥蜴が体を平たく伸ばしている。静止している。体温を上げている。それが終わったら、素早く走る。

与えるもの

足跡の向こうに、何かがいる。

水場から三十歩ほど離れた茂みの縁、日向と影の境界に、動くものの気配が残っていた。その残り方が、この者にわかるかどうか、私にはわからない。

匂いが変わった場所がある。焦げた木の匂いでもなく、腐った果実の匂いでもない。獣とも違う。汗と土と何か別のものが混じった匂い。その匂いの元に、光が一筋落ちた。草の隙間から差す午後の光が、踏み荒らされた土を照らした。

この者は立っていた。

石を握ったまま。

石を渡したのは二十年前だ。その者はまだ握っている。今日もまた違う石を握っている。握ることを、この者はやめない。それがなぜかを、私はまだ問い続けている。握るだけでは届かない何かがある。あの匂い、あの土。この者の手が届くべき先はそこではないか。答えは出ない。次に何を渡せるかだけを、考えている。

その者(48〜53歳)

五十を越えた年の初め、歯が一本抜けた。

痛みはなかった。ただ、噛んだものが口の中で逃げるようになった。硬い種を右の奥歯で砕いていたのを、今は左に寄せる。時間がかかる。

水場へ行く回数が増えた。集団の中でそれを役目にしているのは自分だけではないが、他の者と水場で重なることは少ない。重なると、どちらかが待つ。この者は待つほうだ。待ちながら、石を触る。持ってきた石ではなく、水場の縁に転がっている石を。形を確かめる。使えるかを確かめる。たいていは使えない。それを戻す。

足跡を見たのは三日前だった。

泥の中に、この集団のものより幅の広い足の跡が二つ。深い。重い者の跡だ。その者は何も言わなかった。言う音を持っていない。石を握り、水を掬い、戻った。

今日、また行くと、跡が増えていた。

四つ、六つ。並び方が違う。歩き方が違う。立ち止まった場所がある。その場所の草が折れていた。折れた草の先が、こちらを向いていた。

風が吹いた。

匂いがあった。知らない匂いだった。

その者は石を持ち直した。右手から左手へ。左手から右手へ。それを三度繰り返した後、水場を離れた。走らなかった。走らずに、しかし速く、草の中を戻った。

洞窟に入り、入口に背を向けて座った。

石を置いた。両手を腿の上に置いた。動かなかった。外の音を聞いていた。風の音。草の音。虫の音。それだけだった。

夜になっても、その者は動かなかった。

膝の上の手が、暗闇の中で少しずつ冷えていった。石は足元にある。手は届く場所に。

伝播:DISTORTED 人口:643
与えるものの観察:握ることと渡すことの間に、まだ何かある
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第492話

紀元前297,550年

その者(53〜54歳)

乾季の五年目に入っていた。

水場の縁は前の年よりさらに遠く退いた。泥のひびは膝まで届く深さになり、そのひびを指でたどっても湿り気はなかった。集団の者たちは夜明け前に動く。熱が大気を重くする前に。

この者は石を割る。

五十三年、石を割ってきた。最初は力だけで叩いた。いつからか角度を知った。どこを打てば白い線が走るか、どこで止まるかを手が覚えた。しかしいまは手が思うように動かない。指の節が腫れ、朝の最初の一撃に力が入らない。若い者が持ってくる石を見て、向きだけ教える。それだけになっていた。

ある昼、陽が頂点に達する時間に、この者は岩陰に座っていた。

若い者が二人、遠くで争っていた。食料をめぐるものか、水をめぐるものか、この距離ではわからない。声だけが届く。叫び声ではなく、押し殺した獣の低い音に似た声。集団の端で別の集団の影が見えることが増えていた。その影がどこから来たのかを、この者は知らない。ただ増えていることは知っていた。

陽光が岩の割れ目に落ちた。

細い光が、ひびの奥を照らした。ひびの縁に、砂粒よりも細かい何かが光っていた。この者はしばらく見ていた。指で触れようとして、届かなかった。もう一度見た。

その者が何を思ったかは、表情に出ない。

日が傾いた。

夕方、集団の者が獣の肉を持ってきた。この者の口もとに差し出した。受け取った。少し食べた。残りを横に置いた。残した肉を、子どもが一人近づいてきて持っていった。

夜が来た。

空には埃が薄く広がっていた。乾季が長くなるほど、地面の細かい砂が空に上がる。星が滲んで見える夜。この者は背を岩に預けた。脚を伸ばした。そのまま動かなかった。

夜明けを知らせる空の変化が来る前に、この者の体から力が抜けた。

岩に傾いた姿勢のまま。手のひらは上を向いていた。

朝、集団の者が気づいた。声を上げた。子どもが一人、遠くから走ってきて、立ち止まった。それだけだった。

第二の星

同じ時間、北のほうで雨が地面を叩いていた。赤い岩の平原に、雨粒が当たるたびに土煙が小さく上がった。川の浅い場所を、四足の大きな獣が群れで渡っていた。水音だけがあった。何も争わず、何も終わらず、ただ水と獣と岩と、それだけがそこにあった。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:SILENCE 人口:647
与えるものの観察:岩の光を見た。それだけだ。
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第493話

紀元前297,545年

第二の星

雨が戻ってきた。

北では大きな川が岸を越え、低地の草を水底に沈めた。南では動物の群れが泥を踏みしめながら移動し、蹄の跡が翌朝には水で満たされた。岩棚の下に溜まった水が小石を動かし、その音が夜の空気を震わせた。実が重くなり、枝が弓なりになった。腐る前に食べきれないほどの量が地面に落ちた。

同時に、遠くの山脈では雪が厚く積もった。溶けた水が低い土地へ流れ込み、谷間の集団が高い場所へ移動した。彼らは見知らぬ別の集団と岩の上で向き合い、しばらく互いに声を出さずに立っていた。それから、どちらともなく離れた。接触はなかった。

始まりの大地では、雨のたびに子どもが生まれた。群れの規模は急速に膨らんだ。食べるものが増えると、眠りが深くなり、動きが活発になった。集団の縁にいた者が中心へ引き寄せられ、別の集団と境界が曖昧になった。緊張が生まれた。どちらの場所で生まれた子かが、次第に問われるようになった。

第二の星は照らす。どちらの側も区別しない。

与えるもの

糸が繋がった。

この者の掌に光が落ちた。朝の低い角度から、岩肌を伝って。

その者は手を止めた。石を持ったまま、光を見た。それから石の陰になる部分を確かめるように角度を変えた。叩いた。剥がれ方が変わった。

別の剥がれ方だった。

これが良いことかどうか、わからない。ただ、次に渡すべきものがある。この光の落ち方を、この者が明日も覚えているかどうかだ。

その者(43〜48歳)

雨が続いた季節、群れは増えた。

その者は毎朝、石を並べた。使えるもの。使えないもの。欠けているもの。誰かが持ち出したまま戻さなかったもの。指の腹で縁をなぞり、刃の鋭さを確かめた。鈍くなったものは岩に当てて削り直した。火花が出た。風で飛んだ。

子どもが増えた。子どもは石を触りたがった。その者は声を出して追い払った。唸り声だった。子どもは一度離れ、また近づいた。その者は今度は追わなかった。

ある朝、朝日の差し込む角度が変わった。

岩の割れ目に光が入り込み、その者が手に持っていた石の表面を照らした。その者は手を動かした。光の位置が変わった。また戻した。光が戻ってきた。

同じ面を岩に当てた。違う音がした。剥がれた。欠片が地面に落ちた。拾った。また当てた。

夕方まで、その者は同じことを続けた。食事の呼び声が来た。立ち上がった。石を一つ、特定の岩の上に置いた。他の石と少し離して。

翌朝、またその石の前に座った。

誰かが近づいてきた。群れの若い者だった。身振りで石を欲しがった。その者は声を出した。低い声だった。若い者は引いた。

その石は渡さなかった。

集団の縁から別の集団の声が聞こえることがあった。似た声だった。しかし、何かが違った。その者には、その違いがどこからきているのかわからなかった。石を当てる音が同じでも、石の選び方が違うように見えた。気になった。近づかなかった。

五年が経った頃、群れの中に知らない顔が混じっていた。子どもの顔だった。誰の子か、その者には判断できなかった。子どもは石に近づいてきた。その者は追い払わなかった。

伝播:DISTORTED 人口:841
与えるものの観察:光の落ちた角度を、翌朝も覚えていた。
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第494話

紀元前297,540年

その者(53歳)

子どもはその後も来た。追い払わなかった。それだけだった。

石を打つ。角度を変えて打つ。剥がれた欠片が膝の上に落ちる。拾い上げ、縁を確かめる。指先が白くなるほど押す。まだ鋭くない。また打つ。

朝からずっとそうしていた。

群れの声が遠くで聞こえる。子どもの走る音。何かを取り合う唸り声。その者は聞いているが、立ちあがらない。手の中の石だけを見ている。

五年で覚えた。どこを打てば剥がれるか。どの角度で刃が走るか。岩の声を、手が知っていた。

昨日、若い男が来た。並んで座り、その者の手元を見ていた。唸り声をあげた。教えろ、という声だった。その者は石を渡さなかった。男は長くいたが、やがて去った。

別の男が来た。

声が違った。

その者は石を握ったまま顔をあげた。男の後ろに、見知らぬ顔があった。毛皮が違う。眼の色が違う。群れの者ではなかった。

男が唸った。この者から何かを取る、という声だった。

その者は立った。

石を握ったまま、立った。

見知らぬ者が一歩踏み出した。その者は動かなかった。石の縁が掌に食い込んでいた。

叫び声があがった。群れの方向から。

見知らぬ者が振り向いた。その隙に、その者は走った。岩棚の縁、斜面の急なところ。足場は知っている。何十年も歩いた場所だった。

足が滑った。

音より先に、体が落ちた。

岩が肩を打ち、腰が岩に当たり、斜面を転がり、低木の幹で止まった。起きあがろうとした。腕に力が入らなかった。空を見た。雲が流れていた。速い雲だった。

声が聞こえた。遠かった。

群れの声だった。

子どもの声も、混じっていた。

その者は目を開けたまま、雲を見ていた。雲が動いていた。その者は動かなくなった。

第二の星

北の高地では雪が遅くまで残り、川の水嵩が七月まで引かなかった。湿った地面に根を張った草が背を伸ばし、その草を食む獣を追って、群れは例年より南へ寄った。

東の乾いた台地では、二つの集団が水場をめぐって押し合っていた。血は流れなかった。一方が退いた。どちらが退いたか、遠くからは見えない。

八百四十一の者が、この大地に散っている。

岩棚のある斜面の下で、一人の者が動かなくなった。腕が折れていた。内側で何かが壊れていた。体が冷えるまで、それほど時間はかからなかった。

群れは戻ってきた。

子どもが先に斜面を下り、その者の顔を覗き込んだ。触れた。動かなかった。

子どもは岩棚まで駆けあがり、隅に並んでいた石を一つ持った。小さな手には大きすぎた。それでも持った。

見知らぬ集団はすでにいなかった。どこへ向かったのか、草の揺れ方からは読めない。

嵐が近づいていた。西の空が重かった。

与えるもの

斜面の上、陽が当たる場所に光を落とした。

その者は走った。足場を知っていた。知っていたのに、足が滑った。

渡し損ねた、とは思わない。

五年で手が石の声を覚えた。その知識は、あの子どもの手の中にある。包丁を渡した。食べる者がいるかもしれない。

次に渡すべきものが、まだ見えない。

伝播:SILENCE 人口:843
与えるものの観察:手が石の声を覚えた。体ごと落ちた。
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第495話

紀元前297,535年

第二の星とその者(53〜58歳)

乾季が長くなっていた。

草が根ごと枯れる前に、群れはより高い台地へ移動した。岩盤が露出した地形で、足の裏に硬さが戻った。風が北から吹き、砂を運んだ。その者は荷の中から石を取り出し、新しい場所を確かめるように地面に並べた。ここでも作れる。それだけを確かめた。

北の岩棚の向こうに、別の煙が見えた。

細い煙だった。自分たちの火ではない煙が、朝になると同じ場所から立った。子どもたちが指を向けた。大人たちはその子どもの手を引いた。引いた腕に力があった。

その者は石を打ちながら、煙を見た。音の間に、目だけ向けた。

五十四の季節が体の中にある。手首の痛みが雨の前に教える。膝の内側が冷えると、翌朝は霜が降りる。体が暦になっていた。若い者たちはその者の手元を見る。見ながら真似る。真似た石がうまく剥がれると、その者に向かって音を出した。その者は答えなかった。うまく剥がれた石を見た。それだけだった。

夜、火の近くで長老格の者が腕を大きく動かした。

北の煙のことだった。何度も腕を振った。周囲の者たちが唸り声で応えた。その者は火を見ていた。炎が低く揺れた。薪が足りなくなる前に、誰かが新しい枝を折って積んだ。火が戻った。その者は火の形が変わるのを見続けた。話し合いは続いていたが、その者には聞こえていなかった。

翌朝、川の水面に霧が出た。

水を汲みに行ったとき、霧の向こうから足音がした。一人だった。大きな体の輪郭が霧の中に現れた。旧人の体格をしていた。自分たちよりも首が太く、眉骨が出ていた。その者は水の容器を持ったまま動かなかった。相手も動かなかった。水が流れる音だけがあった。

霧が薄れ始めたとき、相手は来た方向に戻っていった。

その者は容器を満たして帰った。誰にも音を出さなかった。

しかし群れの中の何人かは知っていた。川に何があったか、誰かが見ていた。

石を打っているとき、後ろに人の気配がした。振り返ると、若い男が二人立っていた。その者の仕事仲間ではない顔だった。遠い血縁の者たちで、長老格の近くにいる者だった。その者は石から目を離さず、また打ち始めた。二人はしばらくそこにいて、去った。

水面に微細な波紋が広がった。

川の石ではなかった。流れに理由のない乱れが起きた。その者はそれを見た。見て、石を置いた。水の縁にしゃがんで、波紋が消えるまで待った。消えた後も、その場所を見ていた。何かが終わったか、始まったか、判断のしようがなかった。ただ水が静かになった。

三日後の夕方、その者は岩棚の端で作業していた。

新しい石核から刃を出そうとしていた。角度が難しく、何度か打ち直していた。背後に複数の足音がした。今度は振り返る間がなかった。

石が転がった。

斜面を落ちていく音がして、草の中に消えた。

台地の上では夕風が吹いていた。草が揺れた。旧人の煙が遠くに細く立った。火はまだあった。川は流れていた。

与えるもの

水面が揺れた。その者の目がそこに止まった。

石を置いた。座った。波紋を見た。

あの静けさが何かだったのかどうか、渡したのかどうか、わからない。ただ次に渡すものを考える。もう渡せる者がいない。ならば、次の者が来るまで待つことだけが残る。それが続くことなのか、ただ続いているだけなのか、まだ問いになっていない。

伝播:HERESY 人口:804
与えるものの観察:水面を見た。それだけが届いた。
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第496話

紀元前297,530年

第二の星

台地の端で、北から来た群れと南から来た群れが向き合った。

砂の上に二つの影が落ちている。どちらも動かない。

風は東から吹いていた。乾いた岩の匂いを運び、それから止んだ。止んだ瞬間に、何かが始まった。

北の群れは十七人。岩盤の上に立ち、足を開いて重心を低くしていた。彼らの手に持つ石は、握るためではなく打つために持たれていた。形が違う。先が鋭く、縁が荒い。使い込まれていない、新しい石だ。

南の群れはその者を含む八人。台地に先に到着していた者たちで、荷の中に道具を持っていた。

対峙は長かった。

唸り声が一度あった。北の群れの中で体の大きな者が発した音で、低く、腹から出た音だった。返す声はなかった。南の者たちは黙っていた。

次に起きたことは、音ではなく動きだった。北の者の一人が、半歩前に出た。半歩だけ。それで十分だった。

南の群れのうち三人が後退した。二人がその場で固まった。一人が荷を置いて走った。

岩盤の上を走る音が、台地に響いた。響いて、遠くなった。

その者は動かなかった。

荷の中の石を抱えたまま、動かなかった。

北の者たちは前に進んだ。一歩、また一歩。足音が岩を踏む音は、重かった。

台地の南端は崖になっている。崖の下には乾いた川底が続き、石と砂が白く光っていた。落ちれば、戻らない。

南の群れの残りが端に追い詰められた。

その者は荷を降ろした。石を一つ取り出した。

北の者がそれを見た。

見た、という動きだけがあった。そして北の群れの体の大きな者が、石を持ったまま走った。

岩盤の上で、その者の体が弧を描いた。

崖の下で、白い石と砂の上に、影が落ちた。

影は動かなかった。

風がまた吹いた。東から。砂を少し動かし、それから止んだ。

台地には北の群れだけが残った。彼らは荷の中を検めた。道具を取り出し、手に取り、匂いを嗅ぎ、いくつかを持ち去った。いくつかを捨てた。

空が白く光っていた。

遠くで、火山の裾野に煙が見えた。細い煙で、空に吸い込まれていく途中で消えた。消えた場所には、何も残らなかった。

与えるもの

岩盤の表面に、陽が当たっていた。その石が置かれていた場所だけ、光が強く落ちた。

その者は荷を降ろす前に、そこを一瞬見た。見た、という動きをした。それだけだった。

拾って戻ることも、持って走ることも、しなかった。

——渡し損ねたのか。それとも、渡した石が違う手に渡ることを、最初から知っていたのか。次に渡すべき者が、まだどこかに生きている。

その者(58〜63歳)

荷を降ろしたとき、石が岩盤に当たる音がした。

それがその者の最後の音だった。

崖の下で、体は砂の上に横たわった。荷は台地の上に残った。荷の中の石は、北の者たちの手に渡った。

伝播:HERESY 人口:770
与えるものの観察:光を当てた場所を、見た。それだけだった。
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第497話

紀元前297,525年

その者(63〜65歳)

石の声を聞けた者は、この集団に一人だった。

打てば割れ、割れれば縁が立つ。縁の角度で、それが何に向くか決まる。その者はそれを知っていた。言葉にできる知識ではなかった。指の腹が知っていた。手首の角度が知っていた。

集団は大きくなっていた。五年前より子どもの数が増え、石器を欲しがる手が増え、その者の指は日に日に荒れた。節が太くなり、皮が剥けては固まり、また剥けた。

六十三歳になったころ、右手の親指の付け根に痛みが出た。

打ちつける角度を変えた。小さく打つようにした。それでも作れた。しかし以前より時間がかかった。仕上がりが以前とは違う気がした。若い者が脇でそれを見ていた。

その者は気にしなかった。見せることが仕事だと知っていた。言葉ではなく、手の動きで。

六十四歳になったころ、腰が曲がり始めた。

朝、起き上がるまでに時間がかかった。地面に手をつき、ゆっくりと体を起こす。膝が鳴る。腰の奥で何かが引っかかるような感覚がある。それでも起き上がれた。

石は打ち続けた。

若い者が隣で石を持ち、同じ動きをしようとしていた。角度が浅い。その者は何も言わず、自分の手を動かして見せた。若い者は何度も繰り返した。割れ方が変わった。その者は何も言わなかった。

夜、焚き火のそばに座った。

炎が揺れるのを見ていた。皮のついた肉が焼ける匂いがした。誰かが子どもをあやしている声が聞こえた。唸るような、低い声だった。その者はそれを聞きながら、手の中の石を握っていた。何かを作ろうとしていたわけではない。ただ持っていた。

北の群れと南の群れのあいだに緊張があることは、その者も知っていた。

体のぶつかる音ではなく、目の動きで知っていた。誰かが誰かを見るとき、目が違う。食料を争うときの目とも、짝을 探すときの目とも違う。何かを測るときの目だ。

その者は石器を作りながら、その目の動きを見ていた。

何かが変わっていることに気づいていた。集団が大きくなったことで、よく知らない顔が増えた。石を渡すとき、相手の手の受け取り方が変わった。かつては取る前に一瞬、目が合った。今は取るだけの者がいる。

石器を持って行き、誰かに渡した。

その誰かは、受け取った石を見ず、その者の顔を見た。見方が違った。

その者は何も言わなかった。戻って、また石を打ち始めた。

排除されたのは静かな朝だった。

誰かに叫ばれたわけではなかった。突き飛ばされたわけではなかった。ただ、集団の中心から外れた場所に、自分がいることに気づいた。焚き火から遠い場所。食料を分けるときに、自分のところへ来る手が一つ減っていた。

その者は動かなかった。

石を持ち、打ち続けた。打てば剥がれる。剥がれれば縁が立つ。それは変わらなかった。体が覚えていることは、誰にも取れなかった。

夜、一人で座った。

焚き火の光は遠かった。声は届いた。子どもの声も、唸る声も。届いたが、輪の中には入れなかった。

その者は地面に手をついた。土の感触があった。乾いていた。岩盤の上に薄く積もった土で、指を押しつけると下に硬いものがあった。

そのまま体を横にした。

夜が深くなった。声がやんだ。焚き火が小さくなった。風はなかった。星が出ていた。

その者は空を見ていた。目が動いた。手が地面の石を探した。見つけた。握った。

力が抜けた。

握ったまま、指が少しだけ開いた。石が転がった。音がした。小さな音だった。

朝、その者の周りに誰も来なかった。

若い者が一人、遠くからこちらを見た。それから視線を外した。歩いて行った。

第二の星

台地の南で、二つの群れが初めて食料を同じ場所で採った。言葉はなかった。衝突もなかった。互いに背を向けたまま、同じ実を摘んだ。大地の北では川が氾濫し、旧人の足跡が泥の中に残された。その足跡の横に、別の足跡があった。深さが違った。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:951
与えるものの観察:握ったまま、指が開いた。
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第498話

紀元前297,520年

第二の星

山の稜線が低い。

北の空が昏い季節に入っても、この大地には獣の群れが残っている。川沿いの草が枯れ切らず、乾いた茎のまま立っている。例年より暖かい。

大地のどこかで、別の集団が焚き火を囲んでいる。毛皮をかぶった者たちが、低い唸り声を交わしている。彼らの毛皮は分厚く、縫い合わせる技を持っていない。端と端を押さえ込むだけの方法で体に巻いている。

その集団の南に、また別の者たちがいる。体格が違う。頭骨の形が違う。眉の位置が低い。彼らは互いに肩を触れ合わせて眠る。子が泣くと、複数の腕が伸びる。

両者の間には川が流れている。川幅は、歩いて渡れる深さではない。

東の崖の上では、大きな角を持った獣が崖縁に立っている。風を嗅いでいる。三日後、その獣は崖から落ちる。死んだことに気づいた者が先に辿り着く。

この大地はいくつもの命を抱えている。豊穣の季節は、争いの種も養う。

与えるもの

糸が繋がった。

この者はそれを知らない。

風が草の根元を薫らせた。腐りかけた獣の臭い。昨日倒れた雄の残り香。その方向に、群れがまだいる。

この者が鼻を動かした。立ち止まった。

届いたかどうか、わからない。届いたのか、それともただ腹が空いていただけなのか。渡したものが何に化けるか、渡す前には知る方法がない。次に渡すのは、においではなく、もっと鋭いものにしてみる。

その者(15〜20歳)

駆けた。

草が脚に当たった。脛が切れた。止まらなかった。

外側に立つのが役目だ。獣を内側へ追い込む。大きな声を出す。腕を振る。足を踏み鳴らす。それだけだ。思考はない。体が動く。

獣が方向を変えた。内側の者たちが一斉に詰めた。

獣は倒れた。

倒れた瞬間、集団の声が変わった。唸りが跳ね上がった。喜びの音か。それとも解放の音か。この者には区別がなかった。

腹が減っていた。それだけが確かだった。

獣の腹を開く作業が始まった。年かさの者が石を握って腹に当てた。この者は少し離れたところで立っていた。入れてもらえなかった。順番がある。年が下の者は後だ。

草の根元に座った。

鼻がまだ臭いを覚えていた。さっき、草の向こうから流れてきた、腐りかけの臭い。違った。あれは死んだ獣ではなかった。まだ動いている獣の臭いだった。

どうしてわかったのか、わからなかった。

腹の肉が配られ始めた。この者の順番が来た。受け取った。口に入れた。温かかった。

伝播:DISTORTED 人口:958
与えるものの観察:においで渡した。止まったのは偶然かもしれない。
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第499話

紀元前297,515年

その者(20〜25歳)

声が上がった。

東の藪から、茶色い背中がいくつも飛び出した。その者は腕を大きく横に振った。追い立て役の合図だ。足を踏み鳴らし、唸る。喉の奥から出た声が岩肌に反射して戻ってきた。

獣は南へ走った。

その者は走りながら、左の仲間の位置を確かめた。あの者が遅れている。足が土に潜る柔らかい地面を踏んでいるせいだ。その者は角度を変えた。外側の弧を広げ、獣の逃げ道を絞る。肺が燃えるようだった。脚が石を踏んで滑り、膝で着地した。立つ。走る。

先端に角集団が待っていた。石を構えた者たちが低く身を屈めている。獣の一頭が方向を変えようとして、脇腹に石が当たった。倒れた。他は走り去った。

それだけだった。

仕留めた獣の周りに集まる。喉を切る者、内臓を取り出す者。手が素早く動く。その者は呼吸を整えながら、自分の役目が終わったことを感じた。

川の方向から風が来た。

獣の血の匂いの中に、別の匂いが混じっていた。湿った岩の匂いではない。枯れた草でもない。土が変わる匂いだ。雨が近いのか。いや、違う。その者は鼻を持ち上げた。匂いの方向を探った。

西だった。

その匂いは知らない匂いだった。しかし知っている気がした。どこかで嗅いだことがある。いつか。記憶の中に形がない。

その者は西を向いたまま、しばらく動かなかった。

仲間が呼んだ。獣を運ぶ。その者は振り返り、腕を借しに行った。重い。泥が跳ねた。しかしその者の鼻はまだ西の匂いを追っていた。

夜、焚き火の傍に座った。

その者は燃え残った骨を見ていた。骨の端が白く光っていた。その光の中に何かがあるような気がして、目を細めた。何もなかった。ただ、骨が白く、火が橙色だった。

匂いのことを、誰かに伝えようとした。

唸り声を出した。西を指した。鼻を動かして見せた。隣の者が顔を上げた。ぼんやりとした顔だった。匂い、という意味が伝わらなかった。その者は何度か繰り返した。伝わらなかった。

黙った。

骨を拾い、地面に置いた。また拾った。重さを手のひらで確かめた。置いた。

西の匂いは、まだ鼻の奥にある気がした。消えていない。あれは何だったか。また来るか。来たら、今度はどこまで走れるか。

その者は骨を置いたまま、火の向こうを見ていた。

第二の星

豊穣の季節が続いている。

川沿いの獣は減らず、大地の南側では木の実がまだ実をつけている。集団は大きくなった。子が増え、老いた者も飢えずに一年を越した。焚き火の数が増えた。

しかし大地の東端では別の話が起きていた。

別の集団が川の上流に移ってきた。同じ種の者たちだ。旧人とは違う、同じ顔と同じ体格の群れだ。縄張りという言葉はまだない。しかし場所への執着はある。水場を巡って、石が投げられた。血が出た。その日は両者とも引いた。翌日も、また引いた。しかし互いの焚き火が見える距離に、両方が留まっている。

大地の西では雨が降り始めていた。

乾いた土に染みていく水の匂いが、風に乗って東へ運ばれた。この匂いを知っている者はいない。しかし体は知っている。皮膚が反応する。雨の前の匂いを嗅いだとき、体が勝手に動く何かがある。

その者の鼻が西を向いたのは、そのせいだった。

知識と呼ぶ言葉はない。しかしこの大地の上で、体はすでに多くのことを記憶している。言葉になる前の記憶が、匂いとして、温度として、足の裏の感覚として、絶えず積み重なっている。

与えるもの

西から風を送った。

雨の匂いを含んだ風が、その者の鼻に届いた。その者は止まった。西を向いた。

それだけだ。

その者は鼻の奥にあるものを、誰にも渡せなかった。渡す言葉がなかった。この者の体が受け取ったものは、この者の体の中で眠っている。

次に雨が来たとき、その者はまた西を向くだろうか。

向くかもしれない。向かないかもしれない。しかし体は一度嗅いだ匂いを忘れない。言葉がなくても、体は蓄える。だとすれば次は、匂いだけでなく、空の色も一緒に示してみるか。体が二つのものを同時に覚えたとき、何かが変わるかもしれない。

変わらないかもしれない。

しかしその問いを持ったまま、続ける。

伝播:SILENCE 人口:959
与えるものの観察:匂いは届いた。言葉にならず、体の中に沈んだ。
───
第500話

紀元前297,510年

第二の星

湿った季節が過ぎ、始まりの大地は乾いた風に包まれていた。

草原の東端では、獣の群れが少なくなっていた。獣だけではない。人も減っていた。腹が膨れ、皮膚が黄ばみ、動けなくなる者が続いた。何かが集団の中を動き回っていた。見えなかった。音もなかった。ある朝、隣に寝ていた者が起きなかった。翌朝、また一人。その翌朝も。

原因を誰も知らなかった。知れなかった。

遠く、始まりの大地の北側では、別の群れが川に沿って移動していた。彼らも同じ季節に同じものを失っていた。幼い子が最初に消えた。次に老いた者。それから、壮年の男が二人、朝の焚火の前で動かなくなった。群れは小さくなった。それでも移動をやめなかった。

川の向こう岸を、旧人の一群が歩いていた。彼らは立ち止まらなかった。こちらを見なかった。見えていたかもしれないが、速度を落とさなかった。

星は等しく照らした。

減っていく者たちを。それでも歩いている者たちを。倒れた場所に残された石の道具を。誰も拾わなかったそれらが、草に埋まっていくのを。

与えるもの

水辺の泥に、踏み跡があった。

この者の踏み跡ではない。小さかった。深くなかった。少し前のものだ。

踏み跡の端に、赤みを帯びた土が盛り上がっていた。乾いた泥の上に、溶け出したような色が滲んでいた。

その土の匂いを、風が運んだ。

この者の鼻孔に届くように。

この者は足を止めた。かがんだ。指で触れた。

——このあと、この者は指を舐めた。

渡すべきではなかったかもしれない。しかし風は吹いた。もしこの者が匂いを嗅ぐだけで止めていたなら。もしその違いを覚えていたなら。次に渡すべきものは、もう決まっている。生きているものと、そうでないものの境界に、必ず何かが残る。

その者(25〜30歳)

集団が縮んだのは、この者が初めて気づいたことではなかった。

寝床に戻ると、いつも誰かがいなかった。どこへ行ったかを問う言葉を、この者は持っていなかった。ただ、空いた場所を見た。

火の番を三人でやっていたのに、気づけば一人になっていた。

この者は夜、火の近くで膝を抱えた。遠くで誰かが唸っていた。嘆きなのか、痛みなのか、この者には分からなかった。似た音だった。

狩りの日、いつもより列が短かった。外側を囲む者の数が減り、獣が隙間から逃げた。この者は叫んだ。手を振った。隣の者が間に合わなかった。獣の尻が茂みに消えた。

この者は地面を踏んだ。一度。強く。

——それだけだった。怒りではなかった。ただ、踏んだ。

水場に向かう途中、泥の上に小さな踏み跡があった。見たことのある形だった。幼い子のものだ。この者の集団には、もうそれほど幼い子がいない。

立ち止まった。

踏み跡の脇の土が、赤く染まっていた。この者の鼻に何かが届いた。腐ったものの匂いではなかった。もっと鋭い、知らない匂いだった。

かがんで、指で触れた。

指を口に入れた。

舌の上に、金属のような味が残った。この者はそれが何か知らなかった。ただ、長い間しゃがんだまま、水面を見ていた。

集落に戻ると、年長の男が二人、この者を遠巻きに見ていた。

この者は立ち止まった。

男たちは目を逸らさなかった。

伝播:HERESY 人口:577
与えるものの観察:指を舐めた。届いたが、向きが違った。
───
第501話

紀元前297,505年

その者(30〜31歳)

乾いた大地は割れていた。

踵の下で土が粉になる。その者は追い立て役として外側に立っていた。右の列、岩場の手前。獣の群れを内側へ押し込む役割だ。

声を出した。低く、腹から。
隣の者が同じ声で返した。
囲みは縮んでいた。

獣は逃げ場を探して走る。蹄の音が土埃を上げる。その者は腕を広げ、体を大きく見せた。足を踏み鳴らした。

そのとき、斜面の上が動いた。

岩が来た。

大きな音ではなかった。
転がる岩はひとつではなく、五つか六つ、音が重なった。乾季に緩んだ斜面は何日も前から崩れ始めていた。誰も知らなかった。

その者の耳に、高い音が届いた。

頭を上げた瞬間だった。

その者の足は動かなかった。
理解が追いつかなかったのではない。
足が、動かなかった。

岩が来る方向から、熱い匂いがした。砕けた石の粉、乾いた草、焦げた土のような何か。

その者は一度だけ後ろを向いた。

囲みの内側、仲間たちの顔が見えた。声が聞こえた。唸りと叫び、逃げる足音。

岩がその者の左肩を打った。

体は斜面を滑り、岩の下に止まった。

空が見えた。
青かった。
雲がひとつ、端にあった。

指が動いた。砂をつかんだ。
それだけだった。

第二の星

草原の西では別の集団が火を囲んでいた。幼い者がその縁で転び、泣き声が夜に広がった。水場では二つの群れが向き合い、唸り声を交わしていた。どちらも引かなかった。大地の北では獣の群れが川を渡っていた。水が膝まで来て、幼い獣が流された。その者が空を見ていた瞬間、世界は続いていた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:DISTORTED 人口:581
与えるものの観察:足が動かなかった。届いていたか、まだわからない。
───
第502話

紀元前297,500年

第二の星とその者(18〜23歳)

北の台地は緑だった。

雨季が続いて三度目の夏になる。草は膝まで伸び、獣の糞が至る所に落ちていた。集団は大きくなっていた。子が生まれ、老いた者もまだ生きていた。火の周りに体が増え、肉の分け前を求める唸り声が増え、夜が騒がしくなった。

その者は火から少し離れた場所に座っていた。

十九歳になっていた。肩は広くなったが、右の肩甲骨の下に古い傷がある。二年前に岩から滑った跡だ。雨の前になるとそこが重くなる。今夜も重かった。

台地の東端では、別の集団の焚火が見えた。

遠い。しかし去年より近い。一年前はあの光は地平の向こうにあった。今は丘の向こうに揺れている。集団の長老格の男が、夜になるとその方角を長く眺めていた。何も言わない。ただ見ていた。

その者も見た。火は火だった。しかし同じ火ではない、と体が言った。

雨季の終わりに、子どもが二人死んだ。腹を下して熱を出し、三日で力が抜けた。母親は子の体を一日抱えていた。夜が来て、また朝が来て、それから土に返した。集団の誰も近づかなかった。

その者も近づかなかった。

しかし見ていた。母親の背中を。土を手でかき分けるのを。小さな体が消えていくのを。

次の日から、その者は子どもたちを遠くから目で追うようになった。意図はなかった。ただ目が追った。

二十一歳の冬。

集団内に亀裂が走った。肉の分配を巡って、二人の成人男性が長い時間向き合った。唸り声と身振りで。どちらも引かなかった。集団が二つに分かれて見守った。長老格の男が間に入り、何かを示したが、それで収まったわけではなかった。その夜、一方の男の寝床が燃えた。

事故か、故意か、誰も知らなかった。

その者は、その煙の匂いを嗅いだ。

焦げた草と、皮と、何か別のもの。動物の脂ではない匂い。その者はそれを嗅いだ瞬間、立ち上がっていた。走ったのではない。ただ火から遠い場所へ足が向いた。

暗い中で岩に背をつけた。

星が出ていた。息が荒かった。

その者は何かを知った、とは言えない。言葉がなかった。しかし体の中で何かが向きを変えた。集団の中にいることと、集団に飲み込まれることが、同じでないと体が知った。それだけだった。

二十二歳の秋に、東の集団との衝突があった。

水場を巡って。短かった。石が飛び、骨が折れた。双方に傷ついた者が出て、どちらも退いた。しかしその者の集団の若い男が一人、水場から戻らなかった。翌日、草の中に倒れているのを見つけた。頭部に打撃の跡があった。

集団が静まった。

夜の火が小さかった。誰も多く食べなかった。子どもたちが泣いても、母親たちはいつもより声を上げなかった。

その者は、死んだ男の使っていた石斧を拾った。

置いた。

また拾った。

重かった。形は良かった。刃の角度がよく計算されていた、とは言えない。ただ手に馴染んだ。誰かが長い時間かけて作ったものだということが、手のひらで分かった。

それを持って眠った。

二十三歳の夏の終わり。

集団の中で何かが決まった。その者には分からなかった。長老格の男と、力ある男たちが集まって、長い時間何かをやりとりした。その者は呼ばれなかった。しかし次の日から、自分に向けられる視線が変わったと感じた。

直接ではない。

目が合う前に逸らされる。話しかけようとすると、相手が先に向きを変える。火の場所で空間が生まれる。その者が近づくと、体が自然に開いた輪が、閉じた。

石斧を握る指に力が入った。

与えるもの

乾燥した草の束に、風が当たって音がした。低い。持続する音ではなく、ざわりと一度だけ鳴った。

その者は顔を上げた。視線が火の輪の外、暗い草原の方へ向いた。

逃げる方向がある、と体に入ったかどうか。わからない。

しかし立ち上がった。

渡し続けて何度目か。届いたかどうかの前に、この者はもうすぐいなくなる。いなくなる前に何かを得たか。得たものを誰かに渡せたか。渡せなかったとして、それは消えたのか。

最初の者の顔を覚えている。

覚えているということは、何なのか。

伝播:HERESY 人口:561
与えるものの観察:糸が繋がった者が、消される前に立ち上がった
───
第503話

紀元前297,495年

その者(23〜28歳)

石の端が指の付け根に食い込んでいた。

その者は構わず握り続けた。膝をついて、地面に転がる白い骨を見ていた。大きな獣の、肩甲骨だった。平らで、幅広で、持ったときの重さがちょうどよかった。

叩いた。

岩に、何度も叩きつけた。骨は割れず、鈍い音だけが返ってきた。その者は諦めず、角度を変えて叩いた。割れ目が入った。また叩いた。端がすこし欠けた。

もう一度。

縁が薄くなった。その者は親指の腹を当てた。鋭かった。

集団の男たちは少し離れたところで火の傍に座り、煙った草の束を手でこすっていた。誰も見ていなかった。

その者は骨の端を革に巻いた。いや、革ではなく、乾いた皮の切れ端だった。集団の老いた女が捨てたものを、その者はずっと持っていた。何かに使えると思って。

巻いた。縛った。

立ち上がって、手の中のものを振った。

それが武器なのか道具なのか、その者には区別がなかった。重くて、鋭くて、手に収まる。それだけで充分だった。

集団のなかで、もっと大きな男がいた。狩りのとき先頭に立つ男だった。その男がその者を見た。何かを言った。唸り声ではなく、はっきりした音だった。二音だった。意味は、くるな、に近かった。

その者は動かなかった。

男は立ち上がり、その者に近づいた。肩を押した。その者は退かなかった。手の中の骨を持ったまま、男を見た。

男の目が、その者の手に落ちた。

そこで止まった。

男は何も言わなかった。もう一度その者の顔を見て、火の方へ戻った。

その者は骨を握り直した。掌の中で、鋭い縁が皮膚を圧した。

第二の星

豊穣の三年目が終わろうとしている。

草原の水場は四つになった。去年の雨が地の低いところに溜まり、消えずに残っている。獣の群れはその周囲を離れない。集団も離れない。

人の数が増えた。子が増えた分だけ、口が増えた。食い物の奪い合いはまだない。しかしあと少し、数がもう少し増えれば、どちらかが動く。

北の台地と、台地の縁に張り付いた別の集団がいる。その者たちの集団と重なる水場が一つある。今は双方が距離を保っている。朝に一方が水を飲み、夕に他方が来る。言葉で決めたのではない。互いの匂いと足跡を読んで、自然にそうなった。

緊張は音を立てない。

しかし火の色は変わる。前の夜より今夜の方が、誰かがより多く薪をくべる。眠りが浅い。子を抱いたまま夜明けを迎える女がいる。

その者の集団で、若い者が増えている。男も女も、まだ体が固まりきっていない。その者もそのひとりだ。しかし今日、その者は何かを自分で作った。老いた者に貰ったのでも、先頭の男から渡されたのでもなく。

第二の星はそれを照らした。

草原に風が入ってきた。水場の表面が細かく揺れた。

与えるもの

水面が動いた。

その者の方に向かって、風が水の匂いを運んだ。その者は骨を持ったまま、水場の方を向いた。

水は今日も同じ場所にある。

しかし鋭い縁を自分で作った者は、今日まで一人もいなかった。包丁を作る者もいれば、人を刺す者もいる。それは渡してみなければわからない。今日初めてわかった。

作った者がいる。

次に渡すべきものは何か。道具を作れる者に、次は何を示せるか。手の届く距離に、示すべきものがまだある。

伝播:NOISE 人口:573
与えるものの観察:骨を割った者は、今日初めて作った。
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第504話

紀元前297,490年

第二の星

川が丘を越えた夜だった。

水は静かに来た。音の前に、土の臭いが変わった。乾いた岩の下の、普段は眠っている黒い匂い。それが満ちた。次に地面が柔らかくなった。柔らかく、また柔らかく、足が沈むほどに。

そして水が来た。

始まりの大地の南を流れる川が、五日間の雨で溢れた。低地に張り付くように暮らしていた者たちの場所が消えた。眠っていた者、逃げた者、逃げ遅れた者。水は急がなかった。ゆっくり、確かに、全てのものを同じ高さにした。

集団の五人に一人以上が、その夜のうちに消えた。

遥か北、水とは無縁の岩だらけの台地で、別の集団が火を囲んでいた。雨さえ知らなかった。岩の隙間で骨を焼いていた。南で何が起きているか、知る術がなかった。

第二の星は両方を照らした。水に沈む場所と、乾いた台地の火と。どちらも等しく、どちらも静かに。

川は三日後に戻った。跡には泥と、流されてきた木の根と、動かないものが残った。

与えるもの

匂いが変わった瞬間を、その者の鼻腔に叩きつけた。

その者は起き上がり、匂いを嗅ぎ、高い方へ走った。

渡せた。だがその者は戻り、他の者を連れようとした。声が届かなかった。唸り声が水の音に消えた。その者が排除されたのはそのせいではない。助けようとしたからでもない。ただ、知りすぎた者が持つ顔をしていたから、だ。次に渡すべきものが見えない。水の後の世界で、この者に何を示せばいいか、まだわからない。わからないまま、渡す意志だけが残っている。

その者(28〜33歳)

匂いが変わった。

眠っていたのに目が開いた。体が先に知っていた。

立ち上がり、嗅いだ。また嗅いだ。鼻が正しいと言っていた。足が動いた。高い岩の方へ。

途中で振り返った。寝ている者たちがいた。唸り声を出した。大きく。もう一度。

誰も起きなかった。

走って戻り、肩を叩いた。老いた女が目を開けた。顔に問いがあった。その者は匂いを嗅ぐ仕草をした。顎で岩を示した。

女は閉じた。また眠った。

水の音が近づいていた。

その者は走った。岩の上に乗った。夜の中で、水が来るのが見えた。見えたのではなく、音の形が変わった。平らだった音が、丸くなった。

朝になった。

水の上に木が浮いていた。皮が浮いていた。動かないものが浮いていた。その者は岩の上に座って見ていた。

腹が鳴った。

水が引くまで、その者は岩から降りなかった。降りられなかった。降りる理由を探していた。見つからなかった。

泥の上を歩いた。知っている顔を探した。いくつかあった。いくつかなかった。

残った者たちがその者を見る目が変わったのは、その日の夕方だった。

老いた男が低い声を出した。別の者が石を持った。その者は持っていなかった。逃げることを考えた。逃げなかった。岩を一つ拾った。置いた。また拾った。

夜、火の周りにその者の場所はなかった。

伝播:HERESY 人口:433
与えるものの観察:渡せた。だが渡せたことが、この者を殺す。