2033年、人類の旅

「紀元前297,365年〜紀元前297,245年」第529話〜第552話

Day 23 — 2026/04/25

読了時間 約60分

第529話

紀元前297,365年

第二の星

乾季の終わりだった。

大地の中央を流れる川は水位を下げ、底の石が見えていた。東の岸に大きな群れ。西の岸に小さな群れ。岩場の陰に、異なる眉の隆起を持つ者たちの群れ。三つは同じ水を飲み、同じ空の下で眠り、しかし互いの境を越えなかった。

境は目に見えない。においと、声の高さと、どの岩の上で眠るかで決まっていた。

北の台地では、赤みがかった土の崖が崩れ、古い骨が露出した。誰も見ていない。崖の下に草が根を張り、翌年には覆い隠す。

南の沿岸では、潮が引いた後の砂浜に貝の死骸が積み重なり、鳥が群れていた。岩の裂け目から水が染み出し、藻が育ち、小さな生き物が卵を産んだ。誰もそこまで来ない。

川の中洲に、一本の枯れ木が立っていた。根は水に洗われ、幹だけが残っていた。東の群れの子どもが、その木の根元に石を投げて遊んでいた。西の岸の者が、それを遠くから見ていた。

岩場の陰の群れは、夕暮れに姿を消した。

与えるもの

川下の、浅瀬が始まる手前。

水面に光が当たる場所があった。その場所だけ、底の石の色が違って見えた。黒い石の中に、一つだけ白く、平らで、薄いものがあった。

その者が川縁を歩いていた。光は水面に揺れた。白い石の上に、一瞬だけ強く反射した。

その者は立ち止まった。

渡せるかどうかは、毎回わからない。渡した後にも、わからない。しかし今日も渡す。この者がその石を手に取るかどうかよりも、立ち止まったという事実が、もしかしたら何かの始まりかもしれないと、まだ思っている。

その者(36〜41歳)

足の裏が川底の石を読んでいた。

尖ったもの、丸いもの、滑るもの。踏む前に足指が広がり、体重を分ける。川を渡ることは、考えることではなかった。体が知っていた。

光が目に刺さった。

目を細めた。そこだけ違った。水が揺れていないのに、一点が光っていた。手を伸ばした。冷たかった。石を引き上げた。

平らだった。掌に乗せると、端が薄く、光を通した。

口に入れた。石の味がした。岩の欠片とは違う舌触り。唇の端に血が滲んだが、痛みより先に、その薄さに気づいた。

岸に上がった。

濡れた石を膝の上に置き、持ってきた石で縁を叩いた。鈍い音だった。割れなかった。角度を変えた。小さな破片が飛んだ。残ったものを持ち上げた。端が鋭くなっていた。

草を一本引き抜いた。茎に当てた。切れた。

その者は声を出さなかった。

ただ、もう一度やった。草の茎。石の端。切れる音。切れる感触。何度もやった。草の茎が短くなっていった。

夕暮れが来た。

東の群れの中の、力の強い者たちが、川の方に来るのが見えた。その者の腹の中が冷えた。石を草の下に押し込んだ。押し込んで、また取り出した。重さを確かめた。押し込んだ。

去った。

翌朝、戻った。石はあった。

また草を切った。今度は、草ではなく、枝を試した。細い枝の皮が削れた。削れた部分が白かった。また削った。

三日後、東の群れの者が後ろに立っていた。

その者が振り返った時には、二人いた。

石を取り上げられた。

叩かれた。倒れた。砂に顔を押しつけられた。砂の中に川の匂いがあった。石のにおいもあった。

力が抜けた後も、砂の中で口を開けていた。

しばらくして、体を起こした。

石はなかった。

川を見た。光が水面を走っていた。また別の石があるかもしれないと思ったかどうかはわからない。体が川の方を向いていた。それだけだった。

足が一歩、水に入った。

伝播:HERESY 人口:514
与えるものの観察:立ち止まったことが、すでに何かだった
───
第530話

紀元前297,360年

第二の星とその者(41〜46歳)

川は水を取り戻していた。

雨季が戻ると、対岸との距離が消えた。東の群れの足跡が西の泥に残り、西の群れの煙が東の風に乗った。岸の石は水の下に沈み、どこが浅くどこが深いかを知っているのは渡った者だけになった。

その者は岩の上で石を割っていた。

両手の間に握ったものは、川岸から拾ってきた平たい砂岩だった。前の季節から使っていた叩き石を当て、角度を測るように一度止まり、それから打った。欠けた。思った場所とは違う場所が。割れた断片を拾い上げ、舌の先で縁を触った。鋭い。使えるかもしれない。使えないかもしれない。置いた。

東の方から唸り声が来た。

低い声と高い声が混じっていた。言葉ではなかったが、その者の首の後ろの皮膚が引いた。腕の毛が立った。以前にも聞いた種類の声だった。食物を巡って群れが押し合うときの声と似ていたが、もっと持続していた。

その者は立たなかった。

石を持ったまま、声の方を向いた。体の向きだけを変えた。

旧人の群れは川の上流に動いていた。異なる骨格の肩が草の上に見え、消えた。彼らがどこへ向かっているか、この者の群れには分からなかった。ただ移動した。移動は常に何かを変えた。どこかの水場が変わり、どこかの獣の道が変わり、どこかで誰かが別の選択をした。

三年目の乾季に、子が一人死んだ。

その者の子ではなかった。しかし小さな群れでは、どの子も遠い子ではなかった。腹を下した子だった。水が少なくなる時期に起きることだった。母親は三日間、子の体の近くを離れず、四日目の朝に離れた。その動作が、何かの終わりだった。

その者はその日、石を割らなかった。

火の近くに座っていた。薪の燃え方を見ていた。特に何も考えていなかった。ただ炎の縁が赤から黒に変わるところを、目が追っていた。

風が西から来た。

その者の鼻孔に、何かの匂いが入った。腐敗ではなかった。土の匂いでも水の匂いでもなかった。焦げた木とは違う何かが混じっていた。遠くで別の火が燃えているときの匂いに近かったが、その方角には何もないはずだった。

その者は鼻を動かした。

立ち上がった。立ち上がって、また座った。

西の方角に何があるかを考えた。考えるとはこの者の中では体の動きだった。手が動いた。地面の砂を指で引いた。線ではなかった。ただ指が動いた。止まった。また動いた。

群れの中に、西を知っている者がいた。

旧人と一度だけ同じ水場で水を飲んだことのある老いた女だった。その者はその女のところへ行き、匂いを嗅がせた。自分の袖の、風を受けた面を。女は匂いを嗅ぎ、顔をしかめ、何かを言った。単音だった。その者には意味の全体が分からなかったが、手の動きは分かった。女の手は遠くを示してから、下を向いた。

翌朝、その者は群れのいる場所から少し離れた。

西に向かって歩いた。長くは歩かなかった。半日分。草の高い場所に出たとき、煙が見えた。遠くの煙だった。上ではなく横に流れる煙で、火が大きいか、燃えている時間が長いかのどちらかだった。

その者はそこで止まった。

石を一つ、地面で拾った。重さを確かめた。川岸の石ではなかったが、手に収まる大きさだった。持って帰った。

五年間で、群れはわずかに大きくなっていた。

子が産まれ、いくつかは育ち、老いた者がいくつか力を失い、旧人の群れとの距離は縮まったり広がったりして、一定ではなかった。東からの群れは移動し、また戻った。川は増水し、引いた。何も決定的には変わらなかったが、何かが少しずつ、ずれていた。

その者は四十六歳になっていた。

手の皮膚は厚く、指の節は大きく、右の手首に古い傷の痕があった。道具を作る速さは衰えていなかった。しかし前より長く石を見た。割る前に。打つ場所を決める時間が、以前より長くなった。

若い者が隣で見ていることがあった。

その者はそれに気づいていたが、振り返らなかった。ただ割り続けた。

与えるもの

風に乗せた。

その者の鼻が動いた。立ち上がり、座り直した。西に歩いた。

煙を見つけた。持って帰ったのは石だった。

遠い火ではなく石を。

問いが残る。あの煙の先に何があったか、この者は知らないまま帰った。次は匂いではなく、別のものを使う。この者はまだ半日分しか歩かない。

伝播:NOISE 人口:521
与えるものの観察:西へ半日。煙を見た。持ち帰ったのは石だった。
───
第531話

紀元前297,355年

その者(46〜51歳)

手の皮が厚くなりすぎて、石の角がどこにあるかわからなくなっていた。

それでも割った。両膝の上に岩を置き、打ち石を振り下ろす。割れる。また置く。また振り下ろす。割れる。手の動きが先で、目は後からついてくるようになって久しかった。

集団の中に若い者が増えた。腕の細い者たちが横に座り、その者の手を見ていた。何かを言いたそうに唸り声を出すが、その者は答えない。石を割る。それだけが返答だった。

あるとき腕が上がらなくなった。

右肩の奥に、鈍い何かが詰まったようだった。打ち石を持ち上げようとすると、腕が途中で止まる。もう一度。止まる。若い者のひとりが手を伸ばしたが、その者は首を振った。

左手で握り直した。利き手ではない。角度が違う。力が分散する。それでも石は割れた。薄く、不格好に割れた。

夜、焚火の端に座って、その者は剥片を並べていた。

小さいもの。大きいもの。縁が鋭いもの。縁が丸くなったもの。並べて、手の甲で触れた。右手は感覚が戻っていた。指先だけは。

煙が西から流れてきた。対岸の群れの火の匂いだった。水が増えてから、あの匂いが届く夜が増えた。その者はそちらに顔を向けない。剥片に戻る。

焚火が小さくなった。

その者は立とうとしなかった。

朝、誰かが声を上げた。

その者は岩の根元で横になっていた。背中が石に触れていた。目は開いていた。夜の間に降りた露が、その者の首のくぼみに溜まって光を弾いていた。

若い者が近づいた。しゃがんで、手を置いた。

何も動かなかった。

剥片が三枚、その者の右手の傍に散っていた。夜のうちに並べ直したものか、それとも転がったのか、誰にもわからなかった。

第二の星

川の対岸で、東の群れが火を囲んでいた。川の増水でひとつの浅瀬が泥に塞がれ、渡れた場所が渡れなくなっていた。火が揺れた。誰かが声を上げた。誰かが石を投げた。石は水の中に落ちた。波紋が広がり、消えた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:DISTORTED 人口:527
与えるものの観察:渡したものが形を変えて届く。それが正しいかは問えない
───
第532話

紀元前297,350年

その者(1〜6歳)

泥の匂いがする。

足の裏が濡れている。水場の縁に立っていて、どこまで進んでいいかを足が決めていた。膝まで沈んでいく感触が面白くて、また一歩踏み出す。水が腹まで来た。

声がした。

後ろから腕が伸びてきて、体ごと引っ張り上げられた。空中で一瞬、何も触れないものがあった。それから母の脇の下に頭が挟まって、泥と獣脂の匂いの中に顔を押し込まれた。

泣かなかった。まだ何が起きたかわかっていなかった。

母は小さく唸り続けた。怒りとも違う、震えのある音だった。その音が胸の骨に伝わってくるのを、その者はぼんやりと聞いていた。

岸に座らされた。

水面が少し揺れていた。波紋の輪が広がって、広がって、消えた。また広がって、消えた。その者は水を見ていた。見続けた。

どこかで争うような声がした。遠くで誰かが唸っている。集団の端の方で何かが起きているが、その者にはまだそちらを向く理由がなかった。

水面に映った自分の顔を、はじめて見た。

揺れているので、形がよくわからなかった。手を伸ばすと映像が割れた。引っ込めると、また顔が戻ってきた。

何度も繰り返した。

第二の星

豊穣が続いている五年だった。

雨は季節に従い、草地は奥まで緑が届いた。大型の獣が水場に集まり、幼い者も老いた者も腹を満たした。集団の数が増えた。増えたことで声が増え、縄張りの境界が揺れた。

隣の集団との距離が縮まっている。

食料が増えれば接触が増える。接触が増えれば、摩擦も増える。身振りでは届かないものが積み重なり、唸り声の調子が変わっていった。誰が先に水場を使うか。どの岩陰が誰のものか。古い記憶と新しい接触が食い違い始めていた。

集団の内側にも軋みがある。

何かを知っている者が、知りすぎることで疎まれる。豊穣の時ほど、余分なものが見えやすくなる。余裕が生まれると、人は互いを見始める。

水場の縁では、一歳の者が水面に映った自分を見ていた。

波紋が広がり、消えた。広がり、消えた。第二の星はそれを照らしていた。争いの声も、増えた人口も、同じ光の中にあった。

与えるもの

糸が繋がった。

水面が揺れた。その者の手が伸びて、映像が割れた。

渡したのはそれだけだ——水が揺れる場所に光を落とした。その者は引っ込めた手をまた伸ばした。割れることを確かめるように。

届いたのか、それとも遊んでいただけか。

わからない。しかし、割れて戻ることを何度も試した。それは別の問いを連れてくる。——戻るものと、戻らないものを、この者はいつ分けるようになるのか。

伝播:HERESY 人口:506
与えるものの観察:水面が割れて戻る。その繰り返しを見ていた。
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第533話

紀元前297,345年

第二の星

乾季の終わりが遅れていた。

草原の西端、赤土が剥き出しになった台地の上で、旧人の一群が動いていた。七人か八人、数えるには遠すぎる。しかし動き方でわかる。追われているのではなく、追っているのでもなく、ただ歩いている。あの歩き方を、この星は長く見てきた。

台地の下には川がある。乾季にも涸れない細い流れで、両岸の葦が密生している。川の南側には、この者が属する集団の縄張りがある。北側は、今まで誰のものでもなかった。

今朝から、そうではなくなった。

旧人の一人が川を渡った。膝まで浸かって、向こう岸の葦を手で折り、嗅いだ。そして戻った。一度戻って、また来た。今度は二人で来て、葦の向こうを見た。南の草地に、黒い獣の群れが見えた。この集団が三日かけて追ってきた群れだ。

川の南で、若い男が立っていた。旧人が川を渡ってくるのを見ていた。唸り声を上げた。低く、腹から絞り出すような音だった。

旧人は止まらなかった。

男の後ろから、もう二人来た。大きい男と、片腕に傷跡がある者だ。三人が並んで立った。旧人の二人も並んだ。川の水が膝を濡らしたまま、どちらも動かなかった。

この星からは、どちらが正しいとも見えない。

草を必要としている。水を必要としている。獣の群れを必要としている。その点で、どちらも同じだ。ただ、今この場所にいるのは、どちらか一方しかいられない。

旧人の一人が石を持ち上げた。

投げなかった。持っていた。持っているということが、すでに何かを言っていた。

こちら側の三人も石を探した。足元を見た。川岸の石は丸く、投げるには重い。それでも拾った。

長い間、誰も動かなかった。

風が北から吹いた。葦が揺れた。黒い獣の群れが、南の草地の奥へ移動していった。それに気づいた旧人が、獣の方を向いた。一秒だけ、向いた。

それで終わった。

旧人たちは川を戻った。北の台地へ向かって歩き始めた。こちら側の三人は石を持ったまま、しばらくそこに立っていた。大きい男が最初に石を置いた。傷跡のある者が置いた。若い男はもう少し持っていた。それから、川に向かって投げた。水面が跳ねた。

誰も何も言わなかった。言えなかった。しかし何かが終わったことは、三人とも知っていた。

集団の中に戻ると、女たちが火の周りにいた。子どもたちが走り回っていた。昨日と変わらない午後だった。ただ、川の向こうにも誰かがいることを、今日から三人は知っている。

それがこれからどう動くかを、この星はまだ見ていない。

与えるもの

石の重さが、手から去った。

水が跳ねた場所に、光が一瞬集まった。川底の白い石が見えた。丸い。傷がない。葦の向こう、北の台地の方角に、その石と同じ白さのものが見えた。岩の露頭だ。

その者は川岸にいなかった。

光が届いた場所に、誰もいなかった。渡すべき者がそこにいなかった。それだけだ。次に渡すべきものを、与えるものはまだ決めていない。ただ、白い石の形を覚えた。覚えているということが何なのか、答えは出ない。しかし問いは残る。残るから、また渡す。

その者(6〜11歳)

水場から戻った。体が濡れたまま乾いていく。皮膚が引っ張られる感じがして、掻いた。

火の近くに座った。誰かが焼いた肉の欠片が落ちていた。拾って食べた。

男たちが戻ってきたのを見た。顔が違った。何が違うのかわからなかった。ただ、近づかなかった。

伝播:SILENCE 人口:514
与えるものの観察:光が届いた。誰もいなかった。
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第534話

紀元前297,340年

第二の星

熱帯の雨季が終わりかけている。川の水位が下がり、岸に沿った泥が固まりはじめた。

集団の本体は川から三日歩いた場所、岩棚の下に腰を落ち着けている。五十数人。子が多く、声が多い。豊穣の年が続いたため、身体に肉がついた者が増えた。食料を知っている者が優遇され、食料を運ぶ者が蔑まれる。差が生まれていた。差があるところに、排除が生まれる。

北の丘に別の群れがある。旧人の系統が混じった集まりで、額が低く、腕が長い。彼らは石を使わない。枝を使う。しかし岩棚の下の集団と、互いに見える距離を保ちながら、接触しない。

東では何かが燃えていた。草原の火か、落雷か。煙が空に広がり、鳥が群れて逃げた。その煙を見た者は誰もいない。見ていた者は川に潜って魚を取ろうとしていた。

十一歳の者が岩棚の縁に座っている。

ここから先、五年が経つ。

与えるもの

腐った木の断面から立ちのぼる匂いを、この者の鼻のそばで濃くした。

この者は顔をしかめて離れた。

渡したのはその匂いではない。その先にいた小さな虫だ。虫が朽木を食い、朽木が崩れ、崩れた木の下に石片が露出していた。この者はその石に触れなかった。

同じことを、川の上流で起きた崩落でも試みた。露出した断面が白く光った。この者は通り過ぎた。

五年で七回、渡そうとした。届いたのはゼロ回ではないかもしれない。しかし確かめる方法がない。

川を挟んで石を持った者がいた。投げなかった。その記憶がある。届かなかったのか、それとも届いたから投げなかったのか。

次は何を通じて示すべきか。匂いが届かないなら、音を使う。音が届かないなら、温度を使う。渡せるものは、まだある。

その者(11〜16歳)

十一歳の終わりに、集団の中で何かが変わった。

変わったのは音だった。ある夜から、年長の男が吠えるような声を出すようになり、誰かが応じ、誰かが黙った。黙った者は翌朝、岩棚の奥に追いやられた。

その者は追いやられた側ではなかった。しかし奥にいる者を見た。何度も見た。その者たちは食料を最後に受け取り、水を最後に飲んだ。

十二歳のある日、腐った木の近くを歩いた。鼻が曲がるような匂いがした。顔をそむけて立ち去った。その先に何があるかは見なかった。

十三歳の夏、集団の中で年老いた女が倒れた。倒れた、というより溶けるように地に沈んだ。熱がひどく、皮膚が濡れていた。周りの者は離れた。この者も離れた。

しかし夜、一度だけ近づいた。

近づいて、手を伸ばしかけて、止めた。

女は三日後、川縁を歩いていた。水に足首まで浸かって立っていた。そのまま倒れた。引き上げる者はいなかった。

その者は岸から見ていた。見ていた、というより、目がそこから離れなかった。

水が流れ、女が流れた。

十四歳になってから、その者は集団の外れを歩くことが増えた。理由は自分でもわからない。ただ中心にいると、声が多くて、身体が固くなった。外れのほうが静かだった。

ある朝、川の上流で崖が崩れていた。白い岩肌が剥き出しになっていた。その者はその前を通り過ぎた。

十五歳の秋、集団に旧人の若い男が近づいてきた。額が低く、首が太い。手に枝を持っていた。集団の男たちが声を上げ、石を持った。旧人の男は動かなかった。長い間、互いに音を出し合った。

結局、旧人は去った。その者はその場面を遠くから眺めていた。石を持った者の手と、旧人の手を、交互に見ていた。

同じ形をしている、と思った。思った、という言葉はない。しかし胸の奥で何かが揺れた。それが何かはわからなかった。

十六歳の冬の手前、集団の中で話し合いがあった。声と身振りで、何かを決めようとしていた。その者はその輪の外にいた。輪の中にいた男が、その者を見た。

視線だった。長い視線だった。

その者は視線を受けたまま、動かなかった。

逃げなかった。近づきもしなかった。

夜になって、その者は集団から少し離れた場所に横になった。空に星があった。何かが上にある、という感覚があった。

何かが、ではない。何かは、そこにあった。

それがどこから来るのか、この者にはわからない。

しかし夜が明けても、その者はまだそこにいた。

伝播:HERESY 人口:504
与えるものの観察:届かなかった七回の後、夜空に目が向いた。
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第535話

紀元前297,335年

その者(16〜21歳)

泥の中に脚が沈んだ。

引き抜く。また沈む。引き抜く。

腿まで埋まった場所を、その者は脱け出せなかった。川の岸から半歩踏み込んだだけだった。水を掬おうとした。それだけだった。

喉から声が出た。助けを呼ぶ声でも泣き声でもなく、ただ空気が押し出された音だった。

誰も来なかった。

その者はひとりだった。

集団の本体がいる岩棚からこの川辺まで、歩いて半日かかる。その者はひとりで来た。理由はなかった。朝、目が覚めて、動いただけだ。足が向いた方向に歩いた。腹が空けば草の実を口に入れた。川が見えたから近づいた。

泥に埋まったまま、その者は上を見た。

空は白かった。雲が厚い。風はなかった。

脚を動かすのをやめた。

そのままでいると、泥がわずかに緩んだ。足の裏に水を感じた。動かすより、待つほうがいいかもしれなかった。その者はそう考えたのではない。ただ、止まった。

長い時間が過ぎた。

泥が吸う音がして、右脚が少し浮いた。その者は体重を左に傾けた。泥がまた鳴った。ゆっくりと、岸の方向に向き直った。脚が動いた。埋まりながら、少しずつ、岸に近づいた。

岸に上がったとき、その者はそのまま横になった。

草が顔に触れた。土の匂いがした。

しばらくそうしていた。

川のそばに、石が並んでいた。水に削られた、丸い石が幾つか。その者は起き上がり、石を一つ手に取った。重かった。持ったまま、しばらく川を見た。

対岸の草むらが揺れた。

その者は体を固めた。目を細めた。

揺れは続かなかった。風でも獣でもなかったかもしれない。それでも、その者はしばらく石を握ったまま立っていた。

何も来なかった。

その者は石を置いた。

川辺に座り、足の泥を水で落とした。指で泥を剥がした。皮膚の下に赤みがあった。こすりすぎた。その者は指を止め、水に足を浸したままにした。冷たかった。

遠くで声がした。

集団のものではなかった。音の出所がわからなかった。その者は足を水から出し、声のした方向とは逆に体を向けた。

立ち上がり、歩きはじめた。

岩棚に戻る道を、その者は知っていた。知っていたわけではないが、戻れた。以前も来たことがあった。足の裏が道を覚えていた。

帰り着いたとき、集団はまだそこにいた。火があった。肉の焦げる匂いがした。子たちが走っていた。

その者は火の端に座った。

誰もその者を見なかった。

翌朝、その者は起きなかった。

正確には、起きようとして起きられなかった。体が動かなかった。喉が熱かった。目を開けると光が痛かった。

横になったまま、空を見た。岩棚の縁が見えた。

二日目の朝、水を誰かが口元に運んできた。その者は飲んだ。

三日目、体が動いた。

四日目、その者は集団の外れで立っていた。

その者が集団に戻って八日後、夜、大きな声で議論が起きた。誰かが誰かを押した。地面に倒れた者がいた。起き上がらなかった。

その者はそれを遠くから見ていた。

翌朝、倒れた者は動いていた。生きていた。しかし立ち上がらなかった。腰のあたりを押さえ、呻いていた。

集団の一部が動いた。その者に向かって動いた。

その者は理由がわからなかった。

押された。石が飛んだ。その者の肩に当たった。また石が飛んだ。声が上がった。怒声だったが、その者には言葉として聞こえなかった。音だった。

走った。

追われた。

しばらく走ると、追ってくる者がいなくなった。その者は木の影に隠れ、息をひそめた。

夕方になった。

集団のいる方向から、火の明かりがほのかに見えた。その者はその明かりを見ていた。長い時間、見ていた。

近づかなかった。

第二の星

川沿いの低地では今年も実が豊富だった。

集団は一か所に長く留まっていた。子が生まれ、育った。身体に余分な脂がついた者が増えた。水と食料が近く、移動する必要がなかった。

豊穣はいつも何かを変える。

数が増えると、場所を巡って声が上がるようになる。誰がどこに座るか。誰が火の近くにいるか。誰が肉を多く受け取るか。それは言葉で決まらない。体の大きさと、目の鋭さと、声の出し方で決まる。

その中で、よくわからない者は外れに置かれる。

その者は外れにいた。最初からそうだった。何かを主張したわけでも、邪魔したわけでもなかった。ただ、理由のわからない行動をする者だった。ひとりで川まで歩いた。何日か動かなかった。石を握ったまま立っていた。

集団の中で、よくわからない者は余分だ。豊穣のうちは黙認される。しかし余裕があると、人は内側を見始める。誰がここにいるべきか、という問いが生まれる。

答えは声の大きさで決まった。

この大地の東、低地の植生が変わりはじめていた。乾燥が進む前触れかもしれなかった。まだ誰も気づいていない。この星だけが知っていた。

その者が外れに押し出された夜、遠くの平原では別の集団が火を囲んでいた。南の岩場では幼い者が初めて火を起こした。北の森では獣が草を踏み、その音に誰も気づかなかった。

大地は均等に濡れていた。雨が来た。

その者は木の下で雨に打たれた。

与えるもの

川底の石が光を受けた。

温かい色だった。その者は見た。手に取った。

それだけだった。

石を拾う者は多い。石を握ったまま立つ者は少ない。石を置いて帰る者は、また来るかもしれない。

熱帯の低地で何度も見てきた。川と、泥と、戻れる者と、戻れなかった者を。

戻れた。

しかし今、その者は集団の外にいる。石は拾えた。しかし石を持つ者が一人では、石は何にもならない。二人いれば、何かが起きるかもしれない。

次に渡すものがあるとすれば、方向だ。どちらへ歩くか、ではない。誰のそばに行くか、だ。

伝播:HERESY 人口:485
与えるものの観察:石は拾えた。次は方向だ。
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第536話

紀元前297,330年

第二の星とその者(21〜26歳)

東の尾根に積雲が立った。草原は乾いていなかった。水が地面の下を流れているところでは、足裏がわずかに沈む。獣の群れは北へ動いた。草が豊かだった。

その者は群れのなかにいた。集団は大きくなっていた。子どもの数が増え、火を囲む者の肩が触れ合うほどになっていた。その者は端にいた。いつも端にいた。

雨が来た。丘陵の斜面を水が走り、川は三日で倍になった。獣の骨が流れてきた。誰かの手形が泥の上に残り、水が引いてからも消えなかった。集団のなかで二人が争った。一方の額が割れた。血が砂に落ち、そこだけ色が濃くなった。

その者は見ていた。見ていたが、動かなかった。

草原に霧が降りた夜、集団の老いた者が動かなくなった。息が止まったのではなかった。朝になっても起き上がらず、誰かが揺すり、また誰かが揺すり、やがて全員が離れた。老いた者は草の上に横たわったまま、空を見続けた。午後、鳥が来た。誰もそこに近づかなかった。

その者は近づいた。

鳥が飛び立ち、その者は老いた者の顔を見た。目が開いていた。しかしそこには何もなかった。その者は手を伸ばし、額に触れた。冷たかった。

集団のなかで声が上がった。その者を叩いた者がいた。肩を叩き、また胸を叩いた。その者は後ずさりした。転んだ。草の上に座ったまま、叩いた者を見上げた。

夏が過ぎた。集団は川沿いを移動した。荷物を持たない者はなかった。皮、骨、乾いた実。その者は皮を持っていた。一枚だけ。前の者の背中を見て歩いた。

別の集団と出会った。

川の対岸に彼らはいた。互いに声を上げた。唸り、吠え、手を広げた。子どもが水際まで出た。親が引き戻した。夜、火が二か所に灯った。その者は自分たちの火を見た。対岸の火を見た。また自分たちの火を見た。

日が明けて、対岸の集団は消えていた。

その者はしばらく対岸を見ていた。誰もいない場所を見ていた。

温かい風が丘から来た。その方向から、枯れた草のなかに光が落ちた場所があった。光は動かなかった。風が止んでも、そこだけ明るかった。地面に何かがあった。

その者は歩み寄らなかった。

光の中に、石があった。割れた石だった。割れた面が鋭かった。そこだけ白く光っていた。その者は三歩手前で止まった。そのまま立っていた。やがて視線が外れた。遠くで誰かが叫んでいた。その者はそちらへ歩いた。

石は草のなかに残った。

三年目の冬、集団の中心にいた大柄な者が、その者を押した。理由はなかった。その者が食べているところへ来て、押した。食べ物が落ちた。その者は拾おうとした。大柄な者が踏んだ。その者は踏まれた食べ物を見た。

次の日、その者は集団の端より外側にいた。

誰も来なかった。その者は一人で食べ物を探した。実を見つけた。草の根を掘った。夜、火のそばに戻ったが、端の端に座った。誰かが肩をぶつけ、その者はまた外れた。

四年目、その者はほとんど端にいなかった。外にいた。集団と同じ方向に動いていたが、少し離れていた。

五年目の春、川沿いで別の集団と再び出会った。今度は同じ岸だった。

互いに体を大きく見せた。叫んだ。石を持った者がいた。走った者がいた。その者は木の陰にいた。見ていた。

何かが起きた。速かった。石が飛び、誰かが倒れ、両方の集団が声を上げた。倒れた者は立ち上がらなかった。相手の集団が退いた。こちらの集団が声を上げ続けた。

夜、倒れた者を何人かで引きずった。遠くへ置いてきた。その者は見ていた。

翌朝、その者はいなかった。

集団のなかの誰かが、その者がいないことに気づいたかどうか、わからない。火が燃えていた。子どもが泣いていた。草原に霧が出ていた。

与えるもの

光を落とした。割れた石の白い面に。

その者は三歩手前で止まり、そのまま去った。

また同じだ、と思ったわけではない。ただ、次に渡すものを探している。まだ渡せていない。

伝播:HERESY 人口:472
与えるものの観察:光の中の石を、その者は見なかった。
───
第537話

紀元前297,325年

第二の星

南の草原では雨が続いた。

川は岸を越えなかったが、浅い窪地に水が溜まり、岸辺の葦が倍の高さになった。獣の通り道が変わった。泥が固まる前に無数の足跡が重なり、どこに何が歩いたかわからなくなった。

集団は大きくなっていた。子が生まれ、育ち、また子を産んだ。老いた者の骨は曲がっていたが、まだ動いた。食べるものが足りていた。

その分、境界が問題になった。

水場をめぐって二つの集団が睨み合う場面があった。石を握った手があった。しかし投げなかった。その日は。翌日も。しかし双方の若い者たちは、互いの顔を見るたびに声を低く鳴らすようになっていた。

大地の反対側では別のことが起きていた。山が崩れ、谷を埋めた。音を聞いた者はなく、崩れた場所に踏み込んだ者もなかった。岩の下に何かがいたかもしれない。いなかったかもしれない。大地はそれを区別しなかった。

与えるもの

水場の縁。

水面に映る対岸の集団の影が揺れた。その者の耳元で、風が低くなった。対岸の方向から。

その者は水を飲んで、立ち上がった。

対岸を見なかった。

風はまだ続いていた。次に何を使えばいい。風が通り過ぎてしまう前に。

その者(26〜31歳)

子が増えた。

その者の周りに子がいた。自分の子かどうかは関係なかった。泣く子には食べ物を持っていった。転んだ子を引き起こした。それだけのことだった。

水場へは毎朝行った。

ある朝、対岸に別の集団の影があった。その者は水を飲んだ。飲み終えて、立った。手に何も持っていなかった。対岸の影は動かなかった。その者も動かなかった。

しばらくして、影は消えた。

その者は帰った。

夕方、集団の中で声が荒れる場面があった。誰かが腕を振った。別の誰かが地面を蹴った。その者は少し離れた場所で、子の一人の足の刺を抜いていた。細い棘が皮膚の中に入り込んでいて、なかなか出なかった。子は泣かなかった。我慢していた。その者は爪の先で、少しずつ皮膚を押した。

棘が出た。

小さかった。これほど小さいものが、と思うような何かが顔にあった。言葉はなかった。ただ棘を指先で転がして、捨てた。

声が荒れ続けていた。

その者は子の足を離して、立った。何かをするつもりがあったかどうかはわからない。ただ立って、その方向を見た。

誰かがその者を見た。

その者が立っていた。それだけだった。声が少し小さくなった。なぜかはわからなかった。その者にも。

伝播:HERESY 人口:583
与えるものの観察:風を使った。顔を上げなかった。
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第538話

紀元前297,320年

その者(31〜33歳)

草原の端に、古い骨がある。

獣のものか、それとも別の何かのものか、その者には区別できない。ただ白く、硬く、土の上に出ている。その者は朝ごとにその場所を通り過ぎた。通り過ぎながら、一度も立ち止まらなかった。

集団は大きくなっていた。

火を囲む者が増えた。肉を持ち帰る者が増えた。寝る場所をめぐって低い唸り声が夜に混じった。その者は端にいた。端にいることを選んだわけではない。ただそこに場所があった。

ある朝、獣の足跡が集団の寝床に近いところまで来ていた。

大きな者たちが集まり、何かを確認し、声を立てた。その者も端から見ていた。呼ばれなかった。呼ばれても行かなかっただろう。それだけのことだ。

集団の中に、別の顔をした者がいた。

鼻の形が違う。額の張り出し方が違う。それだけだ。しかしいくつかの者が、その顔を見るたびに低い音を立てた。その者はその音を聞くと、自分の場所からさらに離れた。理由はわからない。ただ離れた。

干した肉を嚙んでいた昼下がり、誰かが肩を押した。

振り向く前に、また押された。その者は転んだ。地面が硬かった。膝から血が出た。立ち上がろうとしたとき、また何かが来た。今度は力が強かった。

岩の縁が、側頭部に当たった。

その者は倒れた。

空が見えた。白かった。

鳥が一羽、視野の端を横切った。

それから何も動かなかった。

草が風で揺れた。肉を嚙む音が続いた。誰かが唸った。誰かが笑うような声を立てた。その者の体は、それを聞いていなかった。

骨は残るだろう。あの古い骨の隣に、もしくは少し離れたところに。それだけのことだ。

第二の星

北の高地では雪が溶けきらないまま次の雪が来た。崖の下で獣が一頭、首を伸ばして灰色の空を見ていた。川は動いていた。石は動かなかった。別の集団の火が、丘の向こうで煙を上げた。誰も丘を越えなかった。

与えるもの

糸は、別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:568
与えるものの観察:渡したものに、この者は一度も触れなかった。
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第539話

紀元前297,315年

その者(6〜11歳)

地面が跳ねた。

その者は走っていなかった。ただ、足の裏が何かに乗って、滑って、体が前に倒れた。両手が土につく。鼻の先が草に触れる。においが口の中まで入ってきた。青く、湿っていた。

立ち上がると、踏んだものが見えた。

石だった。平たく、両手で持てるくらいの大きさ。端が欠けていて、そこだけ色が違う。周りの土の色より白い。

その者は拾った。

重かった。思ったよりずっと重かった。両腕で抱えると、腹に当たった。角が肌に食い込んだ。

集落のほうから声がした。誰かが叫んでいる。怒った声と、逃げる音と、地面を踏む音が混ざって聞こえた。その者は石を抱えたまま、声の方向を向いた。

集落の端で、大人たちが動いていた。

二つの群れが向き合っていた。この集落のものたちと、そうでないものたちが。その者には区別がつかない。体格が似ていて、においが少し違うだけだ。けれど向き合い方が、獣と向き合うときと似ていた。腰が低く、腕が外に開いている。

その者は動かなかった。

石を持ったまま立っていた。重くて、腕が震えてきた。

大きい男が二人、近づいた。互いの胸に触れるくらいの距離で止まった。声を出した。単音の、太い音だった。返す声も太かった。

その者は石を地面に置いた。音がした。思ったより大きな音がした。

男たちが一瞬こちらを向いた。

その者は動かなかった。

男たちは互いに向き直った。

長いあいだ、誰も動かなかった。それから外から来たほうの群れが、少しずつ後ろに引いた。足音が遠くなった。においが薄れた。

集落のものたちが、ざわめいた。それは怒りの音に似ていたが、怒りではなかった。何か別のものだった。その者には名前がなかった。

石は地面にある。

その者はまた拾った。今度は片手で。端の欠けた部分を指でなぞった。

切れた。

薄く、すぐに血が出てきた。その者は指を口に含んだ。鉄のにおいがした。

石を見た。

それからまた地面に置いた。置いて、その場を離れた。しかし十歩ほど歩いて、戻った。また拾った。今度は慎重に、欠けていない側を持った。

集落に帰ると、大人たちは散らばっていた。誰かが火の前で腕を抱えていた。誰かが子どもを引き寄せていた。

その者は隅の岩の前に座って、石を膝の上に置いた。

欠けた端を、もう一度見た。そこだけ白い。そこだけ鋭い。

指の傷が疼いた。

その者はその場所を、触れる前に止まることを覚えた。

第二の星

豊かな時期が続いていた。

乾いた台地に水が残り、群れは大きくなった。子が生まれ、老いたものが冬を越した。集団の輪郭が曖昧になるほど、人が増えた。

そして増えたものは、接触する。

水場で。果実の群生地で。古い道の合流点で。向き合い、においを嗅ぎ、声を出し、体を大きく見せ、そして引いた。あるいは引かなかった。

この五年間、その緊張は何度も繰り返された。結末は様々だった。誰かが走って逃げた。誰かが石を投げた。誰かが相手の子どもをそのまま抱えて帰ってきた。

死んだものもあった。

しかし今は、まだ、大半が引いている。

豊かさが張力を弱める。腹が満ちていれば、危険を冒すまでの切迫がない。この均衡は草の根のように細く、見えない。踏まれるまで、そこにあることさえわからない。

台地の斜面に、この季節だけ咲く白い花がある。風が吹くと全部同じ方向に傾く。揺れ方で、風の強さがわかる。

今日の風は、強かった。

与えるもの

欠けた石が光を拾っていた。その端にだけ、斜めに光が落ちた。

その者は指を切った。

別のものに使えた。獣の皮に使えた。あの男たちの間に置いても、何かが変わったかもしれない。それを試す前に、その者は隅に座った。

渡したのは鋭さだ。それを何に向けるかは、まだわからない。しかしその者は、触れる前に止まることを覚えた。止まる、ということを。次に渡すべきは、止まった後で何を見るか、かもしれない。

伝播:DISTORTED 人口:574
与えるものの観察:鋭さを渡した。使い方はまだこれからだ。
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第540話

紀元前297,310年

第二の星

空が白い。

雲がない日の白さではなく、薄く引き伸ばされた雲が光を散らしている白さだ。影が地面に落ちない。木の葉も岩肌も、すべて同じ明るさの中にある。

集団は大きくなっている。腹を空かせた者が少ない。子が産まれ、乳がある。老いた者が二人、草の上で眠っている。まだ動いている。

東の丘の向こうに、別の声がある。集団のものではない。高い山の斜面を下りてくる者たちがいる。顔の骨格が違う。眉の出方が違う。それだけだ。彼らも歩いている。同じ白い空の下を。

遠くの湿地では、水面が下がっている。泥が広がっている。泥の中で何かが死んでいる。大きな骨だ。獣のものか、それとも別のものか。星は判断しない。ただ、泥が乾いていく速さを知っている。

集団の中で、声が上がる。高い声だ。子どもの声ではない。大人の声が重なる。何かを争っている。肉か、場所か、それとも別の何かか。星は近づかない。ただ、その声が空に溶けていくのを聞いている。

白い光が均等に降り注ぐ。

誰も影を持たない午後。

与えるもの

草の陰に実がある。

熟れた色をしていない。まだ硬い。だが、その実の隣に落ちているものがある。同じ木から落ちた、昨年の殻だ。干からびて、中が空だ。

その殻に、温度がある。午後の熱を蓄えている。その者の足が、踏みかけて止まった。

踏まなかった。なぜ止まったのかを、この者は知らない。

殻はそこにある。中が空であることを、知っているかどうか。知っていたとして、それで何を考えるか。私は知らない。ただ、次に渡すべきものが何かは、もう決まっている。

その者(11〜16歳)

草を踏んでいた。

足の裏に、何かが当たった。丸くて、軽い。潰れなかった。

屈んだ。

指でつまんだ。茶色くて干からびている。昔の実の殻だ。振ると、何も鳴らない。中に何もない。

口に入れようとした。止めた。匂いを嗅いだ。土の匂いと、かすかに甘い匂い。

捨てなかった。

手の中で転がした。軽い。握ると、少し凹む。でも割れない。

立ち上がった。歩いた。殻を握ったまま。

集団のいる場所に戻った。声が聞こえた。大人たちが何かを言い合っている。その者は近づかなかった。岩の影に座った。

殻を地面に置いた。指で押した。凹む。離すと戻る。

また押した。

また戻った。

その者は長い間、それをしていた。何かを学ぼうとしているわけではなかった。ただ、戻ることが面白かった。押して、戻る。押して、戻る。

日が傾いた頃、殻は割れた。

指の力が強くなっていた。

中が見えた。何もなかった。わかっていた。でも確かめた。

割れた殻の二片を、両手に一つずつ持った。片方を投げた。もう片方も投げた。

立ち上がって、戻った。

伝播:SILENCE 人口:581
与えるものの観察:空の殻を握った。中を確かめた。
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第541話

紀元前297,305年

第二の星

湿った空気が低く溜まっている。川が膨らんでいる。岸に近い木の根が水に浸かり、白い泡が幹に巻きつく。

集団は川の北側の高い場所に固まっている。腹を空かせた者は少ない。肉をわける動作が素早く、争いに発展しない。毛皮を持つ者が増えた。子供が走り回る声がある。

しかし夜になると、集団の端に別の者たちが現れる。額の骨の張った、眉の厚い者たちだ。立ち止まる。遠くで声を出す。声は高くならない。集団の者のひとりが石を持って近づく。別の者がその腕を引く。石は降ろされる。しかし翌朝、境目に近い場所の食料がいくらか減っていた。

遥か離れた高原では、草が黄ばみ始めている。水が地面に染み込まず、表面を流れる。地面にひびが入っている。そこに集団はいない。鳥だけが上空を旋回する。

川の南では別の集団がいる。彼らの声は北側の者たちと似た音を持つが、手の動き方が違う。同じものを指しても、腕の角度が異なる。

与えるもの

この者の体の横に、腐りかけた実が落ちていた。
表面が崩れ、内側だけが黄色く、湿った香りを放っていた。

その者は嗅いだ。顔を顰めた。実を足で踏んだ。

踏んだとき、内側が地面に広がった。種が三つ、転がり出た。

その者は種を見ていない。

種を見ていなかった。また踏む機会も来ないかもしれない。しかし崩れた実が残した匂いは、この者の記憶に何かを残したか。次に崩れたものを見たとき、この者が立ち止まるかどうか。まだ渡せるものがある。崩れた中に残るものを、次は光の落ちる場所で示せるかもしれない。

その者(16〜21歳)

集団の端に立っている。

川の音が遠くにある。風が湿っている。岸の方向から、知らない匂いがくる。

昨夜、眉の厚い者が二人、木の向こうに立っていた。この者は見ていた。見ていたが、声を出さなかった。集団の誰かが気づいて石を拾うのを見た。石が降ろされるのも見た。

眉の厚い者たちは去った。

この者は朝、その場所に行った。地面に足跡があった。大きかった。自分の足を置いてみた。並んで置いてみた。大きかった。

引き返した。

腐った実の匂いがした。足で踏んだ。べちゃりと音がした。顔を顰めた。その場を離れた。

集団の中に戻ると、年上の者が二人、声を出して口論していた。肉の近くで、どちらも腕を伸ばしていた。この者は少し離れた場所に座った。口論が続く。どちらも引かない。しばらくして、年上の者が来た。腕を一度だけ振った。二人が分かれた。

この者は地面の砂を指で触った。砂は乾いていた。乾いた砂を手でかき混ぜた。細かい石が出てきた。細かい石を並べた。並べた形に意味はなかった。それでも並べた。

夜が近くなると、また川の方向から匂いが来た。

眉の厚い者の匂いではない。水と、泥と、何か腐っているものの匂いだ。

この者は集団の真ん中に入った。

端にはいなかった。

伝播:HERESY 人口:561
与えるものの観察:崩れた中に残るものを、まだ見ていない。
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第542話

紀元前297,300年

その者(21〜24歳)

岩棚の端に座っている。

水は昨日より高い。川岸だった場所が消えている。茶色い水面に枝が流れる。葉がついたままの枝が、速く、回りながら。

その者は水を見ていない。

背中に感じる視線を、ずっと感じている。

三日前からそうだった。肉の多い部分を渡された時、手が引っ込んだ。眠る場所の輪から、体一つぶん外れたところに押しやられた。声ではなく、目と肩の向きで。

その者は何かを知ってしまった、という感覚が体の奥にある。何かとは何かを言葉で持っていない。しかし皮膚はわかっている。

北の集団が川の向こうにいる時、ここの集団の誰かが川を渡った。夜に渡った。その者は目が覚めていて見た。見た者を、その者以外の誰かが見ていた。

それだけのことだった。

岩棚の向こうで、低い声が集まる音がした。その者は振り返らなかった。

水面に何かが揺れた。大きい波紋ではなく、水が緩やかに盛り上がって、崩れる。川底で何かが動いているような揺れ方だった。水の匂いが急に濃くなった。土と腐れた草が混ざった匂いが、鼻の奥まで入ってくる。

その者の足の裏が、岩棚の振動を感じた。

振動は止まらなかった。

立ち上がる前に、上流の方向から音がした。音というより圧力だった。空気が押される感覚が耳の前に来て、次の瞬間、水が壁のように来た。

岩棚が消えた。

水の中で、その者は何も考えていない。体が回る。底があるかわからない。暗い。冷たいというより重い。重さが全方向からかかってくる。

流木が脇腹に当たった。

それで方向がわかった。

それだけで終わった。

第二の星

同じ頃、川のさらに南で、別の集団の子どもが初めて火を起こした。偶然だった。石と石が当たって、枯れ草に落ちた。火は広がる前に消えた。子どもは驚いて泣いた。誰もその意味を知らなかった。

与えるもの

水の匂いが鼻の奥に届いた時、もう一度渡そうとした。岩棚の振動。それに注意を向かわせた。この者は足の裏で感じた。立とうとした。間に合わなかったのか、立とうとしたことが何かを変えたのか、わからない。渡してきた。渡したものが届いたかどうかは、渡した時にはわからない。

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:541
与えるものの観察:足の裏が感じた。それだけは届いた。
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第543話

紀元前297,295年

第二の星

雨が多い年が続いた。

草原の奥では、湿った土から芽が押し出されるように茸が群れた。川沿いの低地では、葦が背丈を超えて揺れ、その根元に魚が産んだ卵が白く光った。果実をつける木は、枝が折れそうになるほど実をつけた。腐れる前に食べきれなかった実が地面に落ち、甘い匂いを呼び寄せた獣たちが夜に集まった。

「始まりの大地」の集団は大きくなった。大きくなった分だけ、声が増えた。声が増えた分だけ、誰かと誰かの間に摩擦が生まれた。

同じ場所で眠る者の数が増えると、火の場所を巡って腕を掴む者が出た。良い木の実のなる木の下に誰が立つかで、唸り声が交わされた。子を持つ女と子を持たない女の間に、目線だけで渡される何かがあった。それは言葉ではなかった。言葉より先に来るものだった。

遥か北の乾いた丘では、別の集団が獣の骨を積んでいた。死んだ者の骨ではない。食べた後の骨だ。なぜ積むのか、積んでいる者たちも知らない。ただ積む。積まれた骨の上に新しい骨が乗る。小さな山が出来る。誰かがその山の横を通るとき、足を止める。少しだけ立ち止まる。それだけだ。

与えるもの

糸が繋がった。

第100世代。

骨の山のことを思い出す。誰かが積んだもの。なぜ積んだかは消えて、積まれたものだけが残った。見た者が消えた。見たことが消えた、という記憶がある。では渡すこととは、積むことなのか、それとも別のことなのか。まだわからない。しかし渡す意志はある。

この者は11歳になった。集団の中を走り回り、荷を担ぎ、火の傍らで眠る。

水場へ下りる道に、大ぶりの葉が密生している。その葉の裏側に、朝の光が透けて入るとき、葉脈が浮かび上がる。光の落ちた場所が、一本の道のように見える。

この者の目が、その光に止まった。

その形のまま動かずにいた。それだけだ。いや、それだけではない。形が残った。体のどこかに、見たものの形が焼きつくかどうかを、まだ問い続けている。見た形が、次に石を叩くときの手の動きを変えるかどうか。それを次に渡す。

その者(11〜16歳)

朝、水を運ぶ。

皮の袋が重い。指が食い込む。道の途中で一度止まり、置いて、両手を振る。また担ぐ。

水場の近くに、葉が多い。葉の間から光が射し込んでいて、地面にまだら模様を作っている。この者はその模様の上に足を踏み出す。足元が光の中に入る。出る。また入る。何度かやる。特に理由はない。

帰り道、葉の一枚を手でちぎる。指に汁が滲む。鼻に近づける。草のような匂い。少し苦い。舌の先に当ててみる。苦い。捨てる。

火の番をしながら、別のことを考えている。

昨日、年上の男が火の場所を取った。この者が積み上げていた薪の上に座った。唸り声を出した。この者は何も言わなかった。少し離れた場所にしゃがんだ。

夜、眠れずにいた。腹の奥に何かがある。名前はない。

朝になり、また水を運ぶことになった。

道の途中で、また光の模様があった。この者は今度は止まらなかった。

でも、一度だけ後ろを振り向いた。

葉の間の光は、もうそこにはなかった。

伝播:DISTORTED 人口:703
与えるものの観察:見た形が体に残るか、まだわからない。
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第544話

紀元前297,290年

第二の星とその者(16〜21歳)

乾いた年が来た。

雨が少なかった。川は細くなり、低地の葦は根元から黄ばんだ。果実をつけた木は例年の半分も実をつけず、落ちる前に鳥が啄んだ。群れは川上へ移動した。重い荷を背負った者、幼子を抱えた者、膝に傷を持つ老いた者。その者は荷の中で最も重い石の束を引きずった。足の裏が岩で裂けた。

岩が多い地形だった。崖が風を受け止め、谷間の空気は冷えて動かなかった。

川上の岩棚に着いた。集団は百を超えていた。旧人の群れも近くにいた。体格が大きく、眉の骨が突き出た者たちが、川の対岸の岩場に火を持っていた。夜に互いの火が見えた。

その者は対岸の火を見た。風が止んでいる夜だった。炎が動かずに立っていた。向こうの群れが動く気配がした。その者はじっとしていた。

豊穣が残した余裕は、別の形で現れた。食料が潤沢だった年に生まれた子が育ち、集団の中に若い者が増えた。若い者の中に、力を示そうとする者がいた。旧人の群れと縄張りを争う者が出た。水場をめぐって石が投げられ、老いた旧人が崖の方へ退いた。

その者は水場の争いを遠くから見た。荷を置き、岩陰に入った。動かなかった。

ある夜、その者は火の番をしていなかった。それは別の者の番だった。その者は岩棚の端に座り、対岸を見ていた。風が崖の上から吹き降りてきた。その風が、川の匂いではなく、対岸の煙の匂いを運んだ。

旧人が川を渡ってきた。一人だった。体が大きく、右手に木の棒を持っていた。攻撃ではなかった。棒の先に何かがぶら下がっていた。乾かした獣の肉だった。

その者は動かなかった。旧人は肉を岩の上に置いた。何も言わなかった。目が合った。旧人は戻った。川を渡り、対岸の暗がりへ消えた。

翌朝、その者は岩の上の肉を拾った。集団の長老に見せなかった。一人で食べた。

誰かが見ていた。

そこから先は早かった。長老の息子が声を上げた。唸り声と腕の動きで、その者が旧人と夜に会ったと告げた。事実だった。集団の中に波が走った。石を持つ者が出た。その者の荷が蹴散らされた。

その者は逃げなかった。岩に背を当てて立った。石が飛んできた。頬に当たった。崩れなかった。もう一度飛んだ。今度は胸だった。

押された。崖の方へ。

与えるもの

風がその方向から吹いた。崖ではなく、川の向こう、岩場の方向から。

この者は崖の縁まで追い詰められて、川の向こうを見た。対岸の岩場を。

この者がそこへ渡ることを、私は望んで示したのではなかった。しかし風はそこから吹いた。この者の鼻に、対岸の煙が届いた。

渡るかどうかは、この者が決める。

私はまだ渡していないものがある。石ではない。皮でもない。もっと形のないもの。私がそれを渡せる形を持っているかどうか、まだわからない。渡せないまま終わった者を、私は知っている。十二の顔がある。しかしその顔を今ここに出す必要はない。

崖の縁に立つこの者に、次に渡すべきものを、私はまだ持っている。

伝播:HERESY 人口:675
与えるものの観察:渡った者が何を見るか、まだわからない
───
第545話

紀元前297,285年

その者(21〜26歳)

石を積んでいた。

崖の縁、細い足場。岩が崩れると、その者は両足で踏みしめ、また次の石を拾った。重い。腕の内側が熱くなる。それでも持ち上げた。

群れが川上へ移ってから、この場所は新しい寝床になっていた。风が岩の間を抜け、獣の気配を運んでくる。夜は冷える。壁が必要だった。誰かが言ったわけではない。その者がそう思った。

石を置く。また拾う。

隣に別の者がいた。年上の、腕に古い傷がある女だ。彼女は何も言わず、ただ石を運んでいた。二人の動きはずれていて、ぶつかることもあった。それでも止まらなかった。

日が傾いた。

積んだ石が崩れた。

下から見ると、ただの山だ。壁ではない。その者はしばらくそこに立って、崩れた形を見ていた。岩の匂いがした。土と、乾いた何かの匂い。鼻の奥に残る種類の匂いだった。

また拾い始めた。

今度は大きい石を下に、小さい石を上に。誰かに習ったわけではない。崩れた形がそう教えた。

女が振り向いた。見た。また石を運んだ。

夕方、群れの誰かが火を起こした。煙が横に流れた。その者は積んだ石の前に立って、手のひらを壁に当てた。冷たかった。揺れなかった。

その者の唇が少し動いた。音にはならなかった。

第二の星

崖の上に煙が細くある。

この5年、「始まりの大地」の集団はゆっくりと北へ動いた。川が細くなり、低地が使えなくなり、足が自然と高いところへ向いた。崖、台地、岩棚。雨が少ない年に、地面の高い場所は生きることに向いている。根が深い。水が地に留まる。

集団はひとつではない。

川の東に、別の顔をした者たちがいる。骨格が違う。眉の出方が違う。声の低さが違う。食うものは同じだ。岩陰で眠るのも同じだ。しかし集団の端では、目が合うたびに誰かの肩が上がる。

子どもが生まれた。死んだ。生まれた。

豊穣は続いているが、それは「余る」ということではなく、「足りなくならない」という程度のことだ。余裕があるとき、人は隣を見る。隣に何があるかを考える。

夜、東の集団の火が見えた。

この星はそれを照らす。判断しない。ただ、煙と煙が同じ方向へ流れていることを見ている。

与えるもの

崩れた形を見ていた。

崩れた形の中に、次の積み方があった。その者の手が止まった。その一瞬、温度が変わった。岩の表面が、日差しの当たる側と陰の側で、指の感覚に教えた。どちらが重いかではなく、どちらが安定するか。

その者はまた拾い始めた。大きいものを下に置いた。

渡ったのか。わからない。崩れが教えたのかもしれない。しかし、崩れの中に何を見るかは——渡す前から、この者の中にあったものかもしれない。

次に渡すべきものが、もうある。東の火だ。夜に見えるあの火を、この者が見たとき、何が動くか。

伝播:NOISE 人口:682
与えるものの観察:崩れが教えた。渡したのは誰か。
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第546話

紀元前297,280年

第二の星

北の平原では霜が来るのが遅くなった。草の根が深くなり、大型の獣の群れが川沿いに留まる時間が長くなった。集団はそこに近づき、近づいた集団と別の集団がぶつかった。唸り声と石と、地面に引いた線。線を踏んだ者が血を流し、踏まれた側も血を流した。どちらも去らなかった。

南の斜面では、子が生まれ続けた。母が三人、続けて子を産んだ。三人のうち一人は産んだあと起き上がれなくなり、七日後に腰から動かなくなった。子だけが残った。子は別の腕に抱かれ、泣いた。

川の中州では、旧い種の者たちが礫を砕いていた。砕く音が朝から夕まで続き、そのあと静かになった。煙が細く上がり、消えた。

集団の境で、何かがずれていた。大きくなった集団の端が別の集団の端に触れ、触れた場所で何かが起きていた。石が飛んだわけではない。唸り声でもない。ただ立っている者と立っている者が、互いの匂いを嗅ぎ合っていた。

その者のいる崖の近くでも、遠くの火が増えていた。

与えるもの

崖の下に割れた石があった。
割れ口が光を反射し、その光がその者の手の甲に当たった。

その者は手を見た。それから石を見た。拾わなかった。

——割れた縁に触れていれば何かが変わったか。変わらなかったか。次に渡すなら、手が先か、目が先か。

その者(26〜31歳)

崖から降りた。

腕の内側の熱は残っていた。夜のあいだも、眠りの中でも、何かを持ち上げているような感覚が消えなかった。朝、目が覚めたとき、両手を顔の前に出して眺めた。何もなかった。開いて、閉じた。

火の番をした。枝を差し込み、灰を払い、また枝を差し込んだ。炎の色が変わる場所がある。その場所に目が止まった。止まったまま、動かなかった。

集団の中で声が上がった。遠くから来た者があった。その者の集団のものではない匂いがした。その者は立ち上がった。何かを持つべきか持たないべきか、体が先に判断した。石を拾った。

相手も石を持っていた。

二つの石が、宙で止まったまま、どちらも落ちなかった。

唸り声が交わされた。長い声と短い声と。その者は低く答えた。喉の奥から出る音は、言葉ではなかった。しかし届いた。相手の肩が少し落ちた。

石を置いた。相手も置いた。

その夜、火を見ながら、その者は手の平を膝の上で何度も返した。表と裏。表と裏。何を確かめているのか、その者にもわからなかった。

ただ、今日は石を置いたという事実が、体の中にあった。

伝播:NOISE 人口:695
与えるものの観察:割れた石の光は届かなかった。手が先だったか。
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第547話

紀元前297,275年

第二の星

川沿いの争いは、血だけを残した。

草の上に残った跡は、雨が降る前に消えた。地面に引かれた線も、踏み荒らされた泥も、次の朝には平らになっていた。

しかし集団は動いた。

東の群れが南に下りた。南の群れが西に押し出された。大型の獣の群れは川沿いに留まったまま、それを追う者たちが四方から圧をかけ合う形になった。直接ぶつかったわけではない。それぞれが獣の近くにいたかった。獣の近くに留まりたかった。その欲が、ゆっくりと圧力になった。

北の岩棚に住む小さな群れがある。二十人ほどの集まりで、火を持っていた。その火の近くに、別の顔つきをした者が混じっていた。額の骨の出っ張り方が違う。眉弓が厚い。背は低いが腕が長く、重いものを持つ力が強かった。

その者たちは言葉を持たない。身振りも微妙にずれている。しかし火の前に座り、肉を口に運び、眠る。それは同じだった。

岩棚の群れは、その者たちを追い出さなかった。理由があったわけではない。ただ追い出さなかった。皮を渡した者がいた。渡した者は何も言わなかった。受け取った者も何も言わなかった。

その夜、岩棚に風が吹いた。東から西へ。獣の匂いが混じっていた。

西では別の集団が動いていた。川を渡った形跡が、対岸の泥に残っていた。足の数は多かった。子どもの足も混じっていた。

移動だった。争いから逃げたのか、獣を追ったのか、それとも別の何かが理由だったのか、草原にはわからない。足跡は南西の方角へ続き、やがて硬い岩盤の上で消えた。

北の岩棚では、火が燃え続けた。

顔つきの違う者が、薪を一本加えた。誰も見ていなかった。誰も止めなかった。火は少し高くなり、それから元に戻った。

霜の来る季節がまだ先にある。草は青い。獣の群れは川に水を飲みに来る。空は晴れていた。

世界は静かだった。その静けさの下で、何かが少しずつずれていた。群れの境界が動いていた。顔の違う者が火を共にしていた。足跡が消えていた。

草原はそれを記録しない。ただ風が吹き、草が倒れ、起き上がる。

与えるもの

岩棚の端、乾いた土の上に一か所だけ、光が長く落ちた場所があった。

その者はそこに来た。座った。しかし光には気づかず、足の傷を見ていた。

——傷は今夜ではない。光が届いた場所を。

その者(31〜36歳)

足の裏が割れている。

昨日から痛みがある。岩の縁で踏んだ。血は止まったが、歩くたびに開く。

その者は岩棚の端に来て、足を折り曲げて傷を見た。指で縁を押した。痛かった。もう一度押した。

火の音が後ろに聞こえた。誰かが何かを言った声がした。その者はそちらを向かなかった。

傷の縁がまた少し開いた。

伝播:NOISE 人口:700
与えるものの観察:光を置いた。届かなかった。また置く。
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第548話

紀元前297,270年

第二の星

乾季の終わりだった。

草原の南端で、水が地面から滲み出す場所が増えていた。長い乾燥の後、地下から押し上げられた水が、砂の表面を黒く染めた。獣の足跡がそこに集まり、重なり、乾いて、また新しいものに覆われた。

集団はひと冬前よりも明らかに増えていた。食べ物の争いは毎日のようになった。火を持つ者と持たない者が、同じ水場に来た。最初は声だけだった。それが石になった。石が重くなった。

旧人の一群が丘の向こうに現れた。背の高い影が三つ、草の向こうでこちらを見ていた。朝だった。日が昇りきる前に、影は消えた。

遥か北の、厚い氷に縁取られた低地では、別の群れが火を絶やさずに移動していた。彼らは互いに音を出し合いながら歩いた。歩くことと音を出すことが同じだった。どちらかが止まると、もう一方も止まった。

始まりの大地の南では、雨がまだ降り続けていた。川が増水し、低い場所の草が水の下に消えた。魚が草の根のあいだを泳いだ。

与えるもの

腐草の匂いではなかった。

水が滲み出す場所の、その縁に生えた小さな草。根が短く、抜きやすく、白い繊維が地面から出てくる草だった。

その根の白さに、温かいものが宿った。光ではなく、熱だった。昼間の太陽ではなく、手のひらに似た温度だった。その草のある場所だけが、わずかに温かくなった。

その者は通りかかった。

荷を背負っていた。草の上を歩いていた。温かい場所を一度踏んだ。止まった。

踏み返した。

その者が何を考えたのかはわからない。しかし膝を折り、根を引いた。白い繊維を引いた。嗅いだ。食べなかった。持った。

それを何に使うのか。使わないのか。次に渡すべきものがまだ見えない。しかしこの者は、温かい場所を踏んで止まった。それで十分なのか、わからない。

その者(36〜41歳)

荷が重かった。

革袋に詰めた乾し肉と、折れた枝と、石が二つ。それを背負って南の水場まで歩くのが、今日の仕事だった。

途中、足の下が違った。温かかった。乾いた砂のはずの場所が、掌の裏側のような温度だった。

その者は止まった。

荷を下ろさなかった。しゃがみ、片膝を地面についた。草が生えていた。根が短い草だった。引いた。白いものが出てきた。

鼻に近づけた。土の匂いだった。水の匂いもあった。食べ物の匂いではなかった。

それでも持った。

荷の中に入れた。革袋の縁に差し込んだ。また歩いた。

水場についた。他の者たちが声を出していた。誰かが倒れていた。争いの後だった。その者は荷を下ろし、水を汲んだ。倒れた者のそばには近づかなかった。

夜、火のそばで、その白い根を取り出した。誰も見ていなかった。石の上に置いた。手で触った。もう温かくなかった。ただの草だった。

眺めた。

火の光が揺れた。根の繊維が光の中で白く見えた。その者はしばらく動かなかった。何かを待っているようだった。何かが来ないことを確かめているようだった。

草を火には入れなかった。朝、それはまだ石の上にあった。

伝播:SPREAD 人口:707
与えるものの観察:温かい場所を踏んで止まった。それだけだ。
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第549話

紀元前297,265年

その者(41〜46歳)

草の根が焦げる匂いを、その者は知っていた。

幼い頃にも一度あった。空が茶色くなり、遠くで木が音を立てて倒れ、集団が走った。あのとき、その者の母親は煙の中で迷って戻らなかった。その者には母親という言葉がなかったが、消えた女の顔は覚えていた。

今度も同じ匂いだった。

風が東から来た。風の向きが変わる前に、その者はすでに火の番をしていた場所から離れていた。腹の奥で何かが収縮した。説明できない何かが、足を動かした。

集団は北へ走った。

草が燃えた。燃える速さは、走る速さより速かった。火は音を持っていた。岩が割れるような、太い音。煙は上ではなく横に流れた。その者の目が熱で滲んだ。

子供を二人、腕に抱えた大人が転んだ。その者は走りながら引き起こした。子供のひとりは泣き声を上げ続けた。もうひとりは黙っていた。黙っている方が危ない。その者は知っていた。

岩場の縁まで来た。

下は低地で、煙がそこに溜まっていた。上は丘で、風が通った。その者は迷わず上を選んだ。他の者が下へ流れていく中、その者は岩を登った。

火が回った。

その者が丘の頂きに出たとき、三方が炎だった。前だけが空いていた。跳べる距離ではない崖が口を開けていた。煙が肺に入った。咳が止まらなかった。しゃがんだ。岩に額をつけた。

焦げた草の匂い。岩の冷たさ。煙が目の中に入った。

集団の声が聞こえなくなった。

その者は岩にしがみついたまま、しばらくそこにいた。煙が分厚くなり、その者の呼吸が浅くなり、どこかで炎が一本の木を根から倒した。

岩から手が離れた。

静かに、だった。抵抗なく、だった。崖の縁を越えたとき、その者の目は煙の向こうの空を見ていた。何も叫ばなかった。

第二の星

第二の星の反対側では、大きな川が氾濫し、低地に積もった土が剥がれて海に流れた。魚の群れが川下に集まり、水鳥が一斉に飛び立った。誰もそれを見ていなかった。始まりの大地では炎が森の三分の一を飲んだ。煙が大気の上層まで届いた。その者が落ちた崖の下で、焼けた木の枝が赤く光っていた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:602
与えるものの観察:渡した方向は、正しかったのか
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第550話

紀元前297,260年

その者

火はもう遠い。

煙の匂いは残っていた。服の獣皮に、髪に、地面のどこかに。その者は岩の上に座って、掌の皮が剥けた箇所を見ていた。昨日、逃げながら掴んだ枝の跡だった。

集団の年長の男が、低い声で何か言った。その者には半分しか聞き取れなかった。

前を向け、という意味だったかもしれない。足を動かせ、という意味だったかもしれない。

その者は立ち上がった。

新しい野営地は、前の場所より川に近かった。岩が多く、風が強かった。女たちが枯れ枝を集めながら、互いに短い音を出し合っていた。子どもが泣いていた。泣き止んだ。

その者は土を踏みながら、野営地のすぐ外を歩いた。

煙の匂いが薄くなっている場所を探していた。

理由はわからなかった。ただ、その匂いが鼻の奥にある間は何か考えにくかった。何か、というものが何であるかも、その者には言葉にできなかった。

旧人が二人、川の向こう岸にいた。

その者はすぐに足を止めた。

二人は動かなかった。こちらを見ていた。大きく、肩が丸く、毛が濃かった。こちらが集団から離れた若い者一人であることを、二人は知っているはずだった。

その者の手が、腰に挿した石刃に触れた。

川の水音が大きかった。

二人のうち一人が、顔を横に向けた。川上の方を見た。それだけだった。二人は岸辺をゆっくり歩いて、茂みに消えた。

その者はしばらく、同じ場所に立っていた。

石刃から手を離したのは、二人が完全に見えなくなってからだった。

夕方、年長の女が木の実を仕分けていた。その者はそばに座って、同じ作業をした。

二人は何も言わなかった。

女の手は速かった。何十年も同じ動きをしてきた手だった。その者は女の手を見ながら、自分の手を動かした。

傷の皮が引きつった。

その者は少しだけ顔をしかめ、また手を動かした。

夜、集団の端で若い男が女を組み伏せようとしていた。女が低い声で唸り、爪で引っかいた。男が離れた。

その者はそれを見ていた。

その者は何もしなかった。何かするべき立場かどうかが、その者にはわからなかった。

暗闇の中で、それぞれが横になった。

火が弱くなっていった。

誰かが薪をくべた音がした。火が少し戻った。その者はその明かりを目の端で感じながら、目を閉じた。閉じなかった。また閉じた。

手の傷がじくじくと痛んだ。

第二の星

この5年間、大地の南に広がる平原では雨が多かった。川が太くなり、果実が増え、獣も増えた。集団の数は増えた。

しかし豊かさは平等には来ない。多く持つ集団と少ない集団が生まれ、その境界に圧力がかかる。川の上流と下流で、同じ水を求める二つの集団が互いの野営地を焼いた。片方が深く内陸に退いた。

旧人たちは川沿いを移動し続けていた。新人の集団が増えるにつれ、旧人の姿が川の上流に偏り始めていた。争いはまだ少ない。しかし場所が狭まっている。

火災で焼けた森は、今年の春から草原に戻り始めた。根を張った背の低い草が広がり、それを食う草食獣が戻ってきた。焼け跡に最初に来るのは草で、草の次に来るのは獣で、獣の次に来るのは人だった。

602人。平原の一角に。

それぞれが今夜の火のそばで横になっている。

与えるもの

川岸の石が、ある角度から光を返していた。

その者は目を向けなかった。石刃を握ったまま、川の向こうを見ていた。

石は光る。それだけは届いた。

使い道は、まだ先だ。問いは、渡したものではなく、渡せなかったものに向かっている。

伝播:DISTORTED 人口:607
与えるものの観察:石の光を見なかった。しかし手は刃を握った。
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第551話

紀元前297,255年

第二の星

大地は乾いていた。

草の根元から白いものが浮き上がり、風が吹くと粉になって散った。水場の縁に動物の骨が積み重なっていたが、それは去年からそこにあった。今年のものではなかった。

見えないものが動いていた。

最初に倒れたのは子どもだった。腹を抱えて横になり、水を飲んでも吐いた。次の日には別の者が同じようにした。その次の日にはまた別の者が。集団の中を何かが歩いていた。足音も匂いも形もなかった。ただ、次々と者が倒れた。

老いた女が三日で動かなくなった。まだ乳を飲む子が続いた。壮年の男が、狩りから戻って、その夜に震えはじめた。朝になると彼の目は天を向いたまま動かなかった。誰がなぜそうなるのか、誰にもわからなかった。

残った者たちは遠ざかった。倒れた者から距離を置いた。それが正しいかどうかを考える言葉はなかった。ただ、近くにいた者が次に倒れることが続いたから、体が覚えた。

水場の上流に、別の集団の痕跡があった。焚き火の跡と、掘り返された土。そこにも同じものが来ていたのか、それとも彼らはすでに去ったのか、知る方法はなかった。

平原の草が揺れていた。地平の向こうに丘があり、丘の向こうに何があるかは見えなかった。空は高く、雲は薄く、光は均等に降っていた。

集団はかつての四分の三ほどになった。

生き残った者たちは火の周りに集まった。言葉にならない音を出した。音は夜の空気に溶けた。誰かが別の者の肩に触れた。触れたまま動かなかった。

夜が深くなると、火が小さくなった。

誰も薪を足さなかった。

与えるもの

腐った葉と土の匂いが、そこだけ濃かった。

風が止まっていた場所に、その匂いが溜まっていた。その者の鼻孔が、一度だけ動いた。

その者は別の方向へ歩いた。

渡したかったのは、腐敗の場所から離れることだった。臭いものから体を遠ざける、その動きを。届いたのかもしれない。しかし、集団の中でその動きをしたのはこの者だけではなかった。みなが同じように遠ざかった。渡した結果なのか、体が学んだのか、次に渡すべきものは何か——まだ、わからない。

その者(23〜28歳)

熱が出た。二日続いた。

三日目、体が軽くなった。食べ物を少し食べた。喉が渇いていた。水を飲んだ。また眠った。

目を覚ますと、火がまだあった。近くで老いた男が座っていた。

その者はしばらく火を見た。何も言わなかった。老いた男も何も言わなかった。

伝播:DISTORTED 人口:466
与えるものの観察:腐敗の匂いを渡した。届いたか、体が知っていたのか。
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第552話

紀元前297,250年

第二の星

乾いた季節が終わった。

大地の東側、草が低く這う平原では、半数が生き残っていた。残った者たちは水場のそばに集まり、皮を引き、火を守り、声を出した。声は短く、鋭く、反復する。返事があった。集団は縮んだが、縮んだまま動いている。

北の岩場では、旧人の群れが移動していた。背が低く、肩が厚い。手に何も持たずに歩いていた。岩の陰で立ち止まり、風の向きを確かめ、また歩いた。彼らの足跡は深い。重いのだ。

その者の集団から遠く離れた場所で、水辺の低地に別の人の群れが暮らしていた。疫病の痕跡はなかった。草は青く、魚が浅瀬に見えた。子どもが走っていた。泥の上に何かで線を引いた跡があった。踏まれて消えかけていた。

西の崖の下では、火が燃えていた。誰が起こしたのかはわからない。燃え続けていた。

草原では夜、虫の声が戻った。

第二の星は傾きながら回っている。光はどこにも等しく落ちる。皮の下の傷に。根の伸びる暗がりに。消えかけた火の粉に。

与えるもの

疫病は去った。

渡せなかった、とは思わない。届かなかった、とも言わない。ただ、次がある。

草が戻っている。その中に、食べられるものと食べられないものが混ざって生えている。見た目は似ている。においが違う。

その者の鼻の前を、風が通った。湿った土の香りの中に、苦いものが混じっていた。その株の方向から。

その者は立ち止まった。

苦い匂いの株に手を伸ばしかけた。

指が止まった。

次に何を渡すか、もう決めている。

その者(28〜33歳)

疫病が集団を通り抜けた後、空気が変わった。重さが抜けた、ではない。軽くなったのでもない。ただ、違った。

仲間の顔が半分になった。子どもの声が減った。残った者たちは皮を剥ぐ音を出し、火に枝を足し、食べた。

その者は採集に出た。

草が戻っていた。茎は細く、まだ弱い。根元に土がついたまま引き抜くと、匂いがした。いつも嗅いでいる匂い。土と、緑と、その下にある何かと。

低い草の茂みの手前で、風が来た。

湿っていた。その奥に、苦みがあった。

足が止まった。

理由はない。止まった。

その株を見た。葉は他のものとほとんど同じだった。でも、その香りはそこから来ていた。

手を伸ばした。

指先が葉に触れる前に、再び匂いが来た。強く。

その者は手を引いた。

しゃがんで、その株を見た。長く見た。手は膝の上に置いた。

立ち上がり、別の草を摘んだ。

振り返らなかった。でも、その場所を体が覚えていた。

夜、火の前で腹に食べ物が落ちていくのを感じながら、その者は昼の苦みを思い出した。鼻の奥にまだ残っていた。

伝播:NOISE 人口:478
与えるものの観察:止まった。それだけで、渡せた気がした。