2033年、人類の旅

「紀元前297,245年〜紀元前297,125年」第553話〜第576話

Day 24 — 2026/04/26

読了時間 約59分

第553話

紀元前297,245年

第二の星

草が実をつけた年だった。

平原の東端、岩が連なる丘の麓で、二つの集団が同じ水場を使っていた。片方は旧人の一群で、体格は大きく、動きは静かだった。もう片方は、この者が属する集団だ。昼は距離を置き、夜は各々の火で眠った。どちらも相手を追い払おうとしなかった。どちらも近づこうともしなかった。

水場の北、低木が密集する茂みの奥では、子を持たない雌の旧人が一頭の幼い鹿に触れていた。鹿は逃げなかった。その場面を誰も見ていなかった。

西の方角、石灰岩が露出した台地の上で、別の小集団が移動を終えていた。彼らは以前この水場を使っていたが、今はもういない。どこへ向かったのかを知る者はここにはいなかった。

平原の乾いた風が南から北へ吹いていた。草の穂が揺れ、その音は止まらなかった。

大地の上で、複数の集団が同じ季節を生きていた。互いを知らないまま、同じ水を飲み、同じ月を見ていた。

与えるもの

この者が排除されるとするなら、何を残しておけるか。

問いが先に来た。渡すものは、後からついてきた。

水場のそばに生える低木の実、赤みを帯びたそれが、夕方の光の中で際立って見えた。他より色が濃い実が三つ、枝の先に固まっていた。光がそこに集まるように落ちた。

この者は立ち止まった。顔がその方向を向いた。手が伸びなかった。見ただけだった。

渡せたか、渡せなかったか。

あの実は毒ではない。食べれば腹が膨れる。知っていれば、次の日も使える場所になる。知らなければ、ただの景色だ。しかし渡せなかったとしても、この者の目がそこへ向いたことは消えない。次にあの色を見たとき、足が止まるかもしれない。それは渡したことになるのか。それとも、ただ光が落ちたに過ぎないのか。

渡すことと、届くことは、別のことだ。

しかし次は、別の渡し方を試みる。

その者(33〜38歳)

水を飲んだ。

両手で水面を掬い、顔を近づけ、音を立てて飲んだ。冷たかった。喉の奥まで冷たさが降りていった。

立ち上がる前に、水面に自分の顔が映っているのが見えた。揺れて、崩れた。

水場の端に旧人の足跡があった。大きかった。この者の手のひらより幅が広かった。乾いた泥に深く刻まれていた。古い跡ではなかった。

集団の長老格の男が短い声を出した。低い、鼻の奥から出るような音だった。意味はわかった。戻れ、という音だった。

この者は戻らなかった。

水場のそばに立ち、低木の列を見ていた。夕方の光が斜めに差して、枝の先に実が三つ、光を受けていた。他の実より色が濃かった。

何かが引っかかった。体の中に、引っかかるような感覚があった。

手を伸ばさなかった。長老格の男の声がもう一度した。今度は低くなかった。鋭かった。

この者は振り返り、集団の方へ歩いた。

夜、火のそばで皮を引いた。隣にいた若い女が別の女に何かを伝えた。短い音と、顎をしゃくる動き。意味は直接は届かなかったが、方向がわかった。この者の方向ではなかった。

皮を引く手が止まった。

集団の端に、この者よりも若い二人の男がいた。二人の目が向いていた場所は、この者だった。目を逸らさなかった。

皮引きを続けた。手が動いた。刃が走った。

火が揺れた。風があった。

この者は何も言わなかった。言う音を持っていなかった。

伝播:HERESY 人口:468
与えるものの観察:届いたかどうかを問いながら、次の渡し方を探す
───
第554話

紀元前297,240年

第二の星とその者(38〜43歳)

平原の北、丘の陰に新しい火が増えた。

以前は別々に眠っていた集団が、朝の光の中で混じり合うようになった。旧人の子が、この者の集団の子に近づいて立ち止まる。腕が触れる。どちらも逃げない。そういうことが起きるようになった年だった。

この者は水場で立っていた。水は低く、透明で、砂の底が見えた。喉が渇いていたのに、飲まなかった。岸の向こうで旧人の女が岩に皮を広げて乾かしていた。この者はそれを見た。長い時間、見た。

大地は実を結んだ。塊茎は深く太り、丘の斜面には橙色の実が重なった。雨は適度に降り、干上がる前に次の雨が来た。何年も、そういう季節が続いた。古い者が言っていた。昔は違った。だが今の若い者はその言葉の意味がわからなかった。難しい話だと思って忘れた。

この者は火の番を任されるようになった。昼間の火ではなく、夜の火だ。集団が眠るとき、一人だけ起きている役目だった。暗い中に座って、炎の端を見る。風が吹くと傾く。雨が来ると揺れる。消えそうになると枝を足す。その繰り返しを、五年かけて覚えた。

別の場所でも、火が増えていた。湖の南岸、川沿い、岩棚の下。以前は空白だった土地に煙が立つようになった。集団は増え、それぞれが動き回る範囲が広がり、縁が重なり始めた。

この者は一人で動いた。集団から離れて遠い丘まで行き、戻ってきた。誰かが呼んでいないのに、勝手に行った。帰ってきて何かを持って来ることもあったし、何も持たず戻ることもあった。集団の中の年長の者が、それを嫌った。何をしに行ったのか、こちらには伝えられない。伝えたとしても、理解できる言葉がない。

ある夜、この者が火から少し離れた場所で座っていると、集団の中の若い男が近づいてきた。押した。理由はわからなかった。この者は転ばなかった。ただ立って、相手の顔を見た。男は何かを言った。低い音だった。この者は答えなかった。

翌日、同じことが起きた。今度は二人だった。

与えるもの

石の重さが、片方の手に集まっていた。

平たく、淵が薄く、手に馴染む形の石が、水辺の泥の中に半分埋まっていた。水が引いた跡の、濡れた泥のにおいが、夕方の風に乗った。この者はその場に立ち止まった。脚が止まった。

この者は石を拾った。持ったまま三日歩いた。何にも使わなかった。

この者は気づいていたのか。石ではなく、石を選ぶ自分に気づいていたのか。前の星でも、誰かが石を拾った。渡したことは届かなかった。今回も届かないかもしれない。それでも次に渡すとしたら、石ではない。もっと手の届かないところにあるものだ。逃げる方向ではなく、戻ってくる道を。

伝播:HERESY 人口:578
与えるものの観察:この者は石を持ったまま、三日戻らなかった
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第555話

紀元前297,235年

その者

春が来る前に、熱が入った。

喉の奥から始まり、三日で全身に広がった。岩の陰に横になっても、地面の冷たさが届かなかった。集団の者たちが傍を通る。足音。影。誰かが水を持ってきて、口元に近づけた。飲んだ。また横になった。

五日目、起き上がろうとした。膝が折れた。

その者は地面を見た。乾いた土。小石が一つ、目の前にあった。拾おうとして、指が止まった。

以前は毎朝、手に馴染む石を探した。重さを確かめた。縁を親指でなぞった。理由はなかった。ただそうした。集団の若い者たちが採集に出るとき、この者はいつも少し遅れて立った。石を持ったまま、最後に続いた。

その石は今、どこにあるのか。

熱の中で、その者は目を開けたまま天を見た。空が白かった。雲ではない。光でもない。ただ白かった。

九日目の朝、集団の女が傍に来て、腕に触れた。引いた。また触れた。その者は動かなかった。

女は長く座っていた。何も言わなかった。音を出さなかった。ただそこにいた。

昼が過ぎ、影が伸びた頃、その者の胸が一度大きく動いた。それから動かなくなった。

女はしばらくそのまま座っていた。風が草を揺らした。遠くで子どもの声がした。

第二の星

同じ頃、平原の南東で、別の集団が川を渡っていた。水が腰まで来た。子を肩に乗せた者が、流れに足を取られて踏ん張った。渡りきった。川岸に上がり、振り返った。誰も溺れなかった。夕方の光の中で、濡れた皮が光った。

与えるもの

石の重さが、片方の手に集まっていた。

平たく、縁がなめらかで、握ると少し冷たいもの。この者が朝ごとに拾い、理由なく手に持ち続けたもの。光が石の上に落ちた。

この者は見た。見ていたかもしれない。

わからない。見ていたとして、それが何を変えたのかもわからない。渡したかったのは石の重さではなく、重さに気づく瞬間だった。しかしその瞬間は、名前のないまま、この者の胸の中で静かになった。

次に渡す先を、探す。

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:SILENCE 人口:589
与えるものの観察:理由なく持ち続けた。それだけが残る。
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第556話

紀元前297,230年

第二の星

豊穣の季節が三度続いた。

草原の端まで、穂の重いものが揺れていた。水場は涸れず、獣の群れは去らなかった。集団の子どもたちは前の年より多く、前の年より多く生き延びた。火の番をする者が増え、眠る場所が狭くなった。

だが狭さは別の何かを育てた。

東の丘の向こうに、別の集団がいた。旧人の血を多く引く者たちで、額が広く、顎が張り、声が低かった。互いの姿が見えるほどの距離に来たのは、これが初めてではなかった。しかし今度は数が違った。向こうも豊穣を得ていた。向こうも増えていた。

水場のそばで最初の対峙が起きた。

どちらの集団も声を上げなかった。石を持った者が前に出た。向こうも同じようにした。長い沈黙があり、それから片方が一歩退いた。その日はそれだけで終わった。

しかし翌日、また来た。

今度は声があった。低く、腹から出る音だった。こちらも負けないように吠えた。子どもたちが後ろに退いた。老いた者が石を投げた。当たらなかった。向こうが石を投げた。一人の肩に当たり、その者は倒れなかったが膝をついた。

血が土に落ちた。

その瞬間に何かが変わった。両側が下がった。しかし距離を取っただけで、どちらも去らなかった。水場を挟んで、二つの集団が別々の場所に火を焚いた。夜の間、二つの火が見えた。一つが消えると、もう一つも小さくなった。

豊穣が争いの種になることを、誰も言葉で知らなかった。しかし体が知っていた。

草原に風が渡り、穂が波のように伏せた。それは東から来た。向こうの集団の火の煙も、同じ方向に流れていた。夜が明けると、東の丘に人影がなかった。

彼らは去っていた。

集団の中に安堵の声が広がった。しかしそれは歓声ではなかった。何かが空いたような、静かな音だった。

与えるもの

糸が繋がった。

水場のそばに、平たい石があった。対峙のあいだ、誰も使わなかった石だ。夕方になって、光がそこに斜めに落ちた。石の縁が影を作り、その形が目を引いた。

その者は石に近づいた。持ち上げた。投げなかった。

渡ったのかどうか、わからない。しかしこの者は石を持ち帰った。なぜ持ち帰ったのか、この者自身が知らないように見えた。ならばもう一度だけ示してみる。次に渡すべきものが、まだある。

その者(17〜22歳)

石は焚き火の傍に置いた。

眠る前に触った。朝も触った。何かを削ることも、投げることも、しなかった。

集団の者が近づいて、それを踏んだ。この者は声を上げなかった。ただ石を拾い直し、もとの場所に置いた。

伝播:SILENCE 人口:604
与えるものの観察:石を持ち帰った。理由は問わない。
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第557話

紀元前297,225年

その者(22〜23歳)

集団の縁に追いやられたのは、三日前のことだった。

何を見たのかは、もはや誰にも伝えられなかった。叫ぼうとした声は、年長の者の手に塞がれた。身振りで示そうとした腕は、押さえられた。その者の持っていた尖った石は、取り上げられた。

何も知らないほうがよかったのだ、と集団は判断した。言葉でそう言ったわけではない。ただ、その者を火の輪の外に押しやった。

夜は冷えた。草の中に体を丸めた。熱がすでに来ていた。節のひとつひとつが鈍く軋んだ。

翌朝、その者は水場まで歩いた。

膝をついて水を飲んだ。水面に映る自分の顔を、長く見た。目が落ち窪んでいた。頬に泥がついていた。取ろうとして、やめた。

水を飲み終えた後も、しばらくそこを離れなかった。

草の間から、子鹿が水場に近づいてきた。その者はじっとしていた。子鹿は気づかずに水を飲んだ。その者は見ていた。ただ見ていた。

以前なら、腕に力が入っていたはずだった。

熱が高くなったのは、昼を過ぎてからだった。

木の根元に背を預けた。空が白かった。雲が動いていた。雲の形を目で追ううちに、目が閉じた。開けた。また閉じた。

腹が鳴った。食べ物はなかった。

指先が草を掴んだ。引き抜いた。また掴んだ。草の匂いが鼻に入った。青い、濃い匂いだった。

夕方、集団の声が遠くから聞こえた。

笑う声のようなものだった。獲物を持ち帰ったときの声に似ていた。その者には聞こえていたが、体が動かなかった。

木の根に体重を預けたまま、横に倒れた。

土が頬に当たった。冷たかった。

草の根が目の前にあった。虫が一匹、草の根を伝って上に登っていった。その者はそれを目で追った。虫は草の先端で止まり、羽を広げ、飛んでいった。

その者の目は、虫が消えた空の一点を、しばらく見ていた。

それから、見ていなくなった。

第二の星

北の岩棚では、二つの集団が水場の縄張りを巡って対峙していた。どちらも引かなかった。石が投げられ、一人が腕に傷を負った。南の草原では、老いた雌が群れから遅れ、そのまま草の中に横たわった。空には同じ雲が流れていた。星は区別しない。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:579
与えるものの観察:渡した方向へ、この者は最後に目を向けた
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第558話

紀元前297,220年

第二の星

草原の縁で、火が燃えている。

三方を丘に囲まれた窪地。北から吹く風が草を寝かせ、寝かせては起こす。集団は五十を超えた。子の声が夜に混じる。

この五年、豊穣が続いた。根が太く、獣が多く、水場が涸れなかった。腹を空かせたまま眠る夜が減った。だから子が生まれ、育ち、また子を産んだ。

しかし食べる口が増えれば、場所を巡る声も変わる。寝る場所、火の近く、獣の皮。声は唸りになり、唸りは押しつけになった。

遥か南の低地では、別の集団が水場を離れつつある。乾きではない。近づいてくる別の群れを、足跡で感じたからだ。足跡は大きく、爪の形が違う。彼らは一晩で宿営を畳み、荷を抱えて霧の中に消えた。

この星はどちらも照らす。南の逃げた者たちも、北の窪地の火も、等しく同じ夜の下にある。

草が揺れて止まる。また揺れる。

与えるもの

糸は繋がった。

この者は四十五を超えた。集団の中で最も長く生きている者のひとりだ。

この五年で、変わったことがある。この者が火の側に座る時間が長くなった。採集に出る歩幅が短くなった。それでも手を動かすことをやめない。石を磨く。皮を引っ張る。刃をなめす。手が仕事を覚えている。

今日、私は風の向きで示した。

西から来る風が、一瞬だけ南に変わった。その方向に、昨日の獣の通り道がある。足跡が残っている場所だ。

この者は鼻を上げた。

その後、別の方向へ歩いた。

風が南に変わったことを、何かとして受け取ったのか、それとも体が勝手に反応しただけなのか、私にはわからない。この問いを何度繰り返したか、数えることをやめた。次に渡すべきものを考えている。今度は匂いではなく、別の何かで。この者の手が覚えているものを、もう少し遠くへ向けられるかどうか。

あの十二本の繋がりは、何も届かないまま終わった。それだけは忘れない。

その者(45〜50歳)

火の番は夜明けまで続いた。

薪が細くなる頃、この者は太い枝を二本足した。炎が大きくなって、また落ち着いた。集団のほとんどは眠っていた。子の呼吸と、草の音と、遠くの虫の声だけがあった。

朝、この者は皮を手に取った。

三日前に剥いだものだ。まだ硬い。端を石刃でなぞり、余分な脂を落とした。手に力を入れると、古い傷が疼いた。右の手のひら、小指の付け根に走る白い線。何年前のものか、もう思い出せない。

昼前に採集に出た。

丘の斜面を上がり、実のなる低木の列に沿って歩いた。鳥が先に来ていた。実の半分は既に嘴でつついてある。この者は残りを摘み、皮の袋に入れた。急がなかった。腰を落として、低い草の下を覗いた。根が露出している場所があった。石で叩いて、折れた端をかじった。渋かった。それを地面に置いた。

帰り道、風向きが変わった。

体が止まった。

鼻が動いた。

何もなかった。

それでも少しの間、その方向を向いて立っていた。足が動かなかった。何かを待っているようだった。

やがて歩き出した。

夕方、皮のなめし作業に戻った。石を動かす手が、止まらなかった。

伝播:SILENCE 人口:592
与えるものの観察:手が知っている。頭より先に動く。
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第559話

紀元前297,215年

第二の星とその者(50〜55歳)

大地の南を、雨が塗り替えた。

乾いた亀裂が水を飲み、一日で埋まった。草が根から張り直すような音が、土の中にあった。集団は動いた。水を追い、獣を追い、動いた先で子を産んだ。産んだ先でまた動いた。五年のあいだに、集団の輪郭が変わった。以前は掌に乗るほどの人数が、今は両手でも足りない。夜の火が増えた。それだけでわかる。

その者は川べりにいた。

石を両手に持っていた。一方で一方を打つ。欠片が飛ぶ。また打つ。角が出る。角を指の腹でなぞる。満足したのか、しなかったのか、顔には出ない。老いた指に古い傷がある。傷の上に新しい傷が重なっている。

北の山の向こうでは、別の集団が川下に沿って動いていた。彼らは小さく、痩せていた。足跡が乾いた砂に残り、風が半分消した。残った半分が指す方向は、南だった。

川の水が増えていた。

その者は気づかなかった。石を打っていた。打ち続けていた。打ちながら、ふと手を止めた。理由はない。止まった。水の音が変わっていた。音量ではない。音の厚みが変わっていた。その者は川を見た。見て、また石を打った。

豊穣が続いた二年目に、子が多く生き残った。乳を飲む者が増え、火のそばに丸まって眠る者が増えた。集団は変わった。変わり方が速かった。

その者は古参だった。

古参であることを、誰も言葉にしなかった。言葉がなかったから。しかし集団の中で、その者の立つ場所があった。道具を手入れする場所。欠けた石を直す場所。子が壊したものを黙って拾う場所。場所は体で知っていた。

集団間の緊張が高まったのは、三年目だった。

南から見知らぬ顔が来た。痩せていたが、目が鋭かった。その者の集団の若い男が前に出た。唸った。鋭い目の者も唸り返した。二つの唸り声が空気を圧した。そのまま夜になった。夜明けに、鋭い目の者たちは消えていた。消えた跡に、獣の骨が一本落ちていた。食べた後の骨だった。

その者はその骨を拾った。拾って、しばらく持っていた。理由がわからないまま持っていた。

四年目に、子が一人崖から落ちた。

集団が騒いだ。唸り声と叫びが混じった。その者は崖の縁を見た。見て、動かなかった。子の母親が崖下に降りていった。降りた先で声が止まった。声が止まったあと、集団の誰もが別のことをし始めた。火に薪を入れる者、獣皮を引く者、また別の者。それが続いた。

夜が来た。

その者は火のそばに座った。座って、拾ったままの獣の骨を手に持っていた。骨の表面に、爪で線を引いてみた。線が残った。もう一本、引いた。また残った。

五年目の雨期が来た。

大地の端まで水が届いた。水が引いた後、土が黒くなった。黒い土から草が出た。草を獣が食んだ。獣を集団が追った。満ちていた。集団は満ちていた。

しかしその者の掌の皺は深くなっていた。深くなった皺の中に、石の粉が詰まっていた。洗っても出ない粉だった。

与えるもの

骨の表面に、水の匂いが漂った。

その者が爪を当てた。線が残った。

それが何であるかを、この者は知らない。わたしも知らない。しかし線は残った。消えなかった。消えないものを残した者が、以前にもいたかどうか、もう確かめる術がない。次に渡すべきは、残り方の違いを示すことかもしれない。深い線と浅い線。残る時間が違う。この者の指は、まだ動く。

伝播:SILENCE 人口:770
与えるものの観察:骨に線を引いた。線は残った。
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第560話

紀元前297,210年

その者(55〜58歳)

集団の北端に、その者の場所があった。

岩棚の陰。背を壁にあてると、大地の傾きが見渡せた。若い者たちが下の窪地で動いている。獣の皮を引っ張る者、子を背負って歩く者。その者はそれを見ていた。目だけが動いていた。

手の中に石器があった。

刃の端を親指の腹でなぞる。もう何百回とやった動作だ。欠けている。欠けているが、まだ使える。その者はそれをわかっていた。直すことはしなかった。ただ持っていた。

三日前から、足が言うことを聞かなかった。

起き上がるたびに膝から奇妙な音がして、体が傾いた。若い雄が近づいてきて、肩を貸そうとした。その者は短く唸って断った。唸り声の中に、何かがあった。拒絶ではなかった。ただの、確認だった。自分がまだここにいるという。

集団の中で何かが変わっていた。

豊穣が続いて、腹は満ちていた。しかし夜に声が上がることが増えた。誰かが叫んでいる声ではない。低く、押さえた声で長く話している声だ。その者には音の断片しか届かなかったが、体が知っていた。あの種の声が何を意味するかを。

その者は知りすぎていた。

長く生きれば、見えるものがある。水場がどこで詰まるか。どの男が腹の底に暗いものを抱えているか。誰の子が本当は誰の子か。それを知っていた。言葉はなかった。しかし目があった。その目が、まずかった。

二日後の夜、複数の影がその者の岩棚へ向かった。

その者は眠っていなかった。気配で目が覚めた。体が起きようとした。膝が崩れた。影が近づいた。

何も言わなかった。

空が白みはじめるころ、その者は岩棚から転がり落ちていた。崖ではなかった。斜面だった。低い灌木が体を受け止めた。骨が何本か折れていた。そのまま動かなかった。

朝の光が斜面を斜めに照らした。

その者の手が、まだ石器を握っていた。

指が少しずつ開いた。石器が草の上に落ちた。音はほとんどしなかった。

第二の星

大地の西で、川が流路を変えた。土が崩れ、根が露わになり、一晩で地形が書き換わった。川のほとりに棲んでいた一家が移動した。その中に、生まれて二十日の子がいた。母の胸で眠ったまま、移動した。川は新しい岸を削り続けた。何も知らなかった。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:738
与えるものの観察:目を逸らさなかった。それだけだ。
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第561話

紀元前297,205年

第二の星

北から吹く風が、草の背丈を変えた。

乾いた季節が終わり、湿った空気が丘を越えてくる。草は膝丈から腰丈へ。集団の移動路が草に呑まれていく。それでも足跡は続く。踏む者がいる限り、道は残る。

大地の南寄りでは、旧人の一群が水場の近くに留まっている。彼らは追われていない。追ってもいない。ただ同じ水を飲む。同じ魚の骨を岸に残す。その骨と、新しい人の骨が、同じ泥の中に沈んでいく。

集団の数は増えた。増えた分、声も増えた。唸りも増えた。場所をめぐる押し合いが夜に起きる。誰かの子が泣く。誰かが黙らせる。

東の岩群れでは、別の集団が火を囲んでいる。その火の形が違う。炭を積む順序が違う。同じ火なのに、形が違う。

丘の上、集団の端に近い窪みに、小さい体がいる。

泥と草の匂いが混じった風の中で、その者は膝を抱えている。6歳。まだ荷を持たない。まだ追われない。しかし世界は既にその者を包んでいる。音として。匂いとして。皮膚が感じる湿気として。

集団のどこかで、声が上がった。怒りではない。何かを指す声だ。

与えるもの

糸が繋がった。

今度は何も届かなかった過去がある。12の糸。0の伝達。その重さをここには書かない。ただ、今この糸は細く、新しく、まだ温かい。

その者の周りで何かが起きている。集団が動き始めた。声が変わった。与えるものはその変化の中に、一つのものを落とした。

影が動いた。

岩の上に落ちていた光が、雲に遮られて消えた。その瞬間だけ、岩の表面に何かが浮かんだ。長い時間をかけて誰かが刻んだ線ではない。光と影が作った、偶然の模様だ。

その者が顔を上げた。

与えるものは待つ。その者が何をするか。線を指でなぞるか。目をそらすか。

その者は岩に近づいた。手のひらを岩の表面に置いた。温かかった。雲が晴れ、再び光が落ちた。模様は消えた。しかし手のひらは、まだそこにある。

何が残るかは、わからない。ただ次に渡すべきものが、もう少しだけ見えてきた。温かいものの記憶を持つこの者に、次は何を落とせばいいか。

その者(6〜11歳)

岩が温かかった。

それだけだった。しかし体の中で何かが留まった。

集団が動いていた。大人が声を上げ、誰かが走った。その者には関係がなかった。荷を持てない体は、まだ呼ばれない。

しかし岩のことが離れなかった。

翌日も近づいた。昨日と同じ場所。昨日と同じ光の時間を待った。待ち方は知らない。ただそこにいた。光が落ちた。影が動いた。昨日と同じではなかった。模様の形が違った。雲が違うから。

その者は手のひらをあてた。

温かかった。

また来た。また手のひらをあてた。

集団の中で何かが変わっていた。夜、火の周りに人が集まる時間が長くなった。老いた者が何かを繰り返す声を出す。同じ音の並び。周りが静かになる。子どもたちも黙った。その者も黙った。

老いた者の声が止んだ後、集団全員が同じ方向を向いた。西の空。赤く染まった縁。

誰に言われたわけでもなかった。しかし全員が同じ方向を向いていた。

その者は西の空を見た。次に岩を見た。光が赤くなっている。手のひらをあてた。

昨日より、熱かった。

それから3年が過ぎた。

その者は9歳になっていた。小さな荷を持つようになっていた。足が速くなっていた。

夜の集まりが続いていた。老いた者の声が続いていた。ある夜、その声に若い者が唸りを重ねた。一緒に声を出した。老いた者が止めなかった。

その者も口を開いた。音が出た。同じ音ではなかった。でも誰も怒らなかった。

火の周りで全員が西を向く習慣は続いていた。その者には理由がわからなかった。ただ、西の空が赤いとき、体の奥が少し落ち着いた。岩が温かいときと、同じ感触だった。

11歳になるころ、その者は岩の前に来た。

手のひらをあてた。

目を閉じた。閉じてから開いた。光の模様はない。曇りだった。それでも手のひらの下に温かさがあった。

伝播:NOISE 人口:746
与えるものの観察:温かいものが、繰り返しを呼んだ。
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第562話

紀元前297,200年

第二の星

乾いた風が止んだ。

それは一夜のことではなかった。十日かけて、空の色が変わった。夜明けの縁が赤から灰へ。午後の光が薄く伸びるようになり、影が濃さを取り戻した。

湿った空気が南から押し上げてきた。

草は倒れなかった。倒れる前に、根から変わった。新しい茎が古い茎を押しのけ、腰丈だった草が胸丈になった。道はなかった。足跡があるだけだった。その足跡も、三日で草に呑まれた。

水場が増えた。

岩の割れ目から染み出すものが出てきた。去年は砂だったところに、今年は泥が積もった。獣が来た。鳥が来た。虫が来た。虫の羽音が朝から晩まで続いた。

集団の数が増えていた。

子が生まれ、子が育ち、老いた者もまだ動いていた。食べ物は足りていた。皮を干す者、骨を割る者、火を守る者。役割が自然に分かれていた。誰かが決めたわけではなかった。ただそうなっていた。

しかし、別の匂いがあった。

東の丘の向こうに、別の集団がいた。煙の色が違った。足跡の形が違った。去年はそれだけだった。今年は、足跡が近くなった。

ある朝、若い男が戻ってきた。

肩に傷があった。石で打たれたような跡だった。彼は何も言わなかった。唸り声も出さなかった。ただ焚き火の前に座り、火を見ていた。

集団の中で、何かが変わった。

動きが速くなった。火を消す時間が早くなった。夜、見張りに立つ者が増えた。子どもたちは端に追いやられた。老いた者は荷物を持たされた。いつもより早く、移動の準備が始まった。

誰も何も言わなかった。

言葉がなかった。それでも全員が、同じことを知っていた。

丘の向こうの煙が、また増えた。今度は二本。

与えるもの

石灰岩の露頭に、白い光が落ちた。午後の光ではなかった。朝の光だった。その角度で、その時間に、その岩が光るのは珍しかった。

その者は見た。

次に渡すべきものが、まだ形を持っていない。光が岩に落ちた。その者は岩を見た。岩の前に立った。それだけだった。それで足りるのか、足りないのか。問いは残る。渡す意志だけが、残る。

その者(11〜16歳)

岩の前に立っていた。

白かった。岩の表面が、光の当たる角度で、白かった。手を伸ばした。触れた。冷たかった。

引っ込めた。

また伸ばした。今度は触れたまま、少し待った。岩は何も言わなかった。冷たいままだった。その者は手を離し、その場に座った。

移動の準備の声がした。立ち上がった。

伝播:NOISE 人口:757
与えるものの観察:光が岩に落ちた。それだけでよかったのか。
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第563話

紀元前297,195年

第二の星

草原の縁で、火が消えた。

水辺から遠い丘の上に、七十を超える者たちが固まっていた。雨季が来る前の、湿気の先走りがない乾いた夜だった。空は高く、星の数が多かった。その集団は眠らなかった。眠れなかったのではない。眠らないことを選んでいた。誰かが境界を歩き回り、誰かが子どもたちを中央に寄せていた。

遠く南の低地では、旧人の集団が岸辺を歩いていた。三十ほどの群れで、足跡が泥に深く沈んだ。彼らは声を出さなかった。川の浅瀬を渡り、草の背が高くなるあたりで足を止め、また引き返した。夜が明けるまで、同じことを繰り返した。

丘と低地の間に、誰も踏まない地帯があった。

草が揺れるのは風だった。風が止んでも草が揺れることが、一度だけあった。それを見た者はいなかった。見た者がいたとしても、語る言葉を持っていなかった。

東の台地では、別の集団がこの夜に子を一人失っていた。産まれた瞬間に声が聞こえず、次の呼吸がなかった。母親は夜通し、その小さい体を胸に抱えたまま、夜明けを待った。

どこも、何かが始まる前の静けさだった。

与えるもの

煙の残り香が漂った。

消えた焚き火の跡から、白い煙が一筋だけ、垂直に立ち上がっていた。風がなかった。その煙が流れる先に、集団の中で最も年嵩の者が立っていた。

その者は別の方向を向いていた。

煙は、知っていた岩の裏手を指していた。昨日、見知らぬ足跡があったあの場所を。

その者は振り返らなかった。

渡したものが届かなかったのか、それとも届いて、なお背を向けることを選んだのか。問いは残る。次に渡すべきものが、まだある気がした。あるいは、これが最後になるかもしれない、という感触が、ずっと手のひらの内側にある。

その者(16〜21歳)

岩の裏に、足跡があった。

その者が最初に見つけたのは五日前のことだった。自分の足より大きく、形が少し違う。踵の落ち方が深く、指が広がっていた。その者は長い間しゃがんで、足跡の縁を指でなぞった。土は柔らかかった。まだ新しかった。

誰にも見せなかった。

その理由はわからなかった。ただ、声を上げる前に、何かが止めた。胸の奥が重くなった。いつも腹が減ったとき、獣の匂いがするとき、そういうときとは違う重さだった。

次の日、また来た。足跡は二つ増えていた。

その者は、持っていた骨の欠片を足跡のそばに置いた。何のためかわからなかった。置きたかった。それだけだった。

翌朝、骨は消えていた。

土が動いた跡があった。踏まれた跡ではなく、爪のようなもので引っかかれた細い線が三本、骨があった場所の周りに残っていた。

その者はその線を、指でなぞった。

それから、集団の中の最年長の者のところへ行った。腕を引いた。引かれた者はついてこなかった。振り払うでもなく、ただ、来なかった。その者の方を一度だけ見て、また別の方向に歩いていった。

その夜、その者は焚き火の外側に座っていた。

中にいるべきだったが、外にいた。線の三本を、地面に指で書いた。消した。また書いた。火の明かりが届かない場所に、三本の線だけが残った。

朝が来る前に、誰かに引きずり戻された。

強い手だった。腕に痣が残るほどの力で、火の近くへ押し込まれた。その者は抵抗しなかった。ただ、引かれた方向と反対の方向へ、首だけを向けた。

暗闇の中に、何もなかった。

それでも、そちらを向いていた。

五日が過ぎた。集団の中で、その者の動きを見ている者が増えていた。視線に気づかなかった。あるいは気づいていた。どちらともわからないまま、その者は昼の間も岩の裏へ足を向けた。

そこに、別の足跡があった。

大きさが違うものが二種類。一つは旧人のもの。もう一つは、集団の誰かのものだった。

その者は両方をしゃがんで見た。二つを見比べた。

立ち上がったとき、後ろに人がいた。

集団の中で最も体の大きい成人の男が、三人、並んでいた。

その者は声を出さなかった。

男の一人が、肩を突いた。もう一人が、岩の裏を指した。舌を鳴らす音を出した。怒りではなかった。怒りより低い、静かで固い音だった。

その者は首を振った。

一度だけ。

男たちは動かなかった。その者も動かなかった。

風が吹いた。草が一方向へなびいた。その者の髪も、同じ方向へ流れた。

男たちは顔を見合わせた。

その者の腕を掴んだ。

伝播:HERESY 人口:729
与えるものの観察:渡した。届いたかではない。渡した。
───
第564話

紀元前297,190年

その者(21〜26歳)

夜明け前、空が白みはじめるより早く、その者は目を覚ました。

眠れなかったのではない。ただ、目が開いた。集団がまだ丸まっている時間に、体だけが起きていた。

その者は起きあがらなかった。背を地に預けたまま、空を見た。星が減っていた。東の縁から消えていく。残った星が孤立して光っていた。

腹が鳴った。

その者は立った。集団の外れに出た。草が脚に触れた。露がついた。足の裏が冷えた。

水を探す気はなかった。歩くつもりもなかった。ただ立っていた。

集団の中には、別の集団から来た者がいた。三人か四人。匂いが違う。顔つきが違う。体が少し大きい。その者はその者たちを知っている。知っている、という感覚だけを持っている。言葉はない。

昨日、その集団の者の一人が、その者の腕を掴んだ。何かを要求していた。何を、かはわからなかった。その者は腕を引いた。相手は放した。それだけで終わった。

その者は、それを思い出した。腕を掴まれた感触。手のひらの力の強さ。指が皮膚に食い込んだ感触。

自分の腕を、自分でさわった。何もなかった。

草原の向こうから風が来た。湿っていなかった。乾いた風だった。その風の中に、焦げた匂いが混じっていた。遠くで火が燃えているのか、消えた火の残りか。その者には区別がつかなかった。

ただ匂った。

集団の中で、誰かが唸り声を立てた。低く、短く。眠りの中の声だった。それで終わった。沈黙に戻った。

その者はまだ立っていた。

風の中の焦げた匂いが、また来た。その者の鼻が動いた。顔が、風の来る方向に向いた。

草原の先は、暗かった。

その者の足が、一歩だけ動いた。止まった。もう一歩は出なかった。その者は長い時間、その方向を向いたまま立っていた。

やがて東の空が明るくなった。集団が動き始めた。子どもの声がした。その者は振り返り、集団に戻った。

焦げた匂いのことは、誰にも伝えなかった。伝える言葉がなかったのか、伝えようと思わなかったのか、その者自身にも区別がなかった。

第二の星

この五年、草原は緑を保ち続けた。

雨は遅れることなく来た。実は落ちる前に収穫できた。水場は枯れなかった。炎天の日も、夕方には風が入った。集団は子を多く産み、半数以上が生き延びた。数が増えた。

しかし豊かさは別の形の圧力を生む。

餌場が重なった。水場に複数の集団が来た。誰が先に来たかは、力で決まることがある。声の大きさで決まることもある。引いた者が別の水場を探す。別の水場には別の集団がいる。

集団と集団の境界は、以前は距離だった。遠ければよかった。今は距離が縮まった。同じ草原に七百を超える者たちが散らばっている。そのうちの何十かは旧い型の者たちで、額の形が違う。彼らにも水場がいる。餌場がいる。子がいる。

争いはまだ言葉で起きない。腕を掴む。唸り声を立てる。石を手に持つ。それだけで相手は理解する。理解して、引くか、引かないか。

この五年に死んだ者のうち、獣に殺された者は少なくない。しかし、人に殺された者も、いなくはなかった。

星は照らすだけだ。

草原は緑で、空は晴れている。集団の子たちは走り回っている。水場の水は澄んでいる。夜には火が複数の場所で光っている。それが今だ。

与えるもの

焦げた匂いを、風に乗せた。

その者の鼻が動いた。顔が向いた。一歩出た。

一歩で止まった。

渡したのは方向だった。その方向の先に何があるかは渡していない。その者が足を止めたのは、恐れか、それとも戻ることを選んだのか。

戻ることを選んだなら、何かを知っているのかもしれない。知っていて戻ったのなら、次はもっと遠くまで示す必要があるのかもしれない。次は匂いではなく、別の何かを使う。

伝播:NOISE 人口:733
与えるものの観察:一歩出て止まった。戻ることを選んだ。
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第565話

紀元前297,185年

その者(26〜31歳)

昼の光が傾いていた。

その者は崖の縁から離れなかった。

三歩下がれと腕を引く者がいた。集団の中で一番肩の広い、よく吠える男だった。その者は腕を払った。払ってから、また崖の下を見た。

崖の下には、旧人の群れがいた。

七、八、それより多い。毛が濃く、頭の形が違う。歩き方も違う。しかし手に持っているものは同じだった。石だった。削られた石だった。

その者は黙っていた。

後ろで何かが倒れる音がした。振り返ると、若い女が地面に手をついていた。誰かに押されたのかもしれない。誰かに踏まれたのかもしれない。集団がざわついていた。普段は後ろにいる子どもたちが前に出てきていた。親が引き戻そうとしていた。岩の陰に隠れようとする者もいた。

吠える男が吠えた。

その者は崖の縁に立ったまま、下を見ていた。

旧人の一人が顔を上げた。目が合ったかもしれない。目が合わなかったかもしれない。その者にはわからなかった。しかし顔を上げた旧人の手が、石をゆっくり下ろした。

吠える男がまた吠えた。今度は長かった。その者に向けての声だった。

その者は振り返らなかった。

崖の下で、旧人の群れが動き始めた。遠ざかる方向だった。ゆっくりと、しかし一定の速さで、草の中に沈んでいった。最後の一人が消えるまで、その者は立っていた。

振り返ったとき、集団の目がこちらを向いていた。

恐怖ではなかった。問いでもなかった。もっと平たい何かだった。その者が知りすぎている、ということを、言葉なしに伝える目だった。

夜になった。

その者は端に座っていた。いつもより端だった。火を囲む輪の、縁の外だった。食べ物が回ってきた。しかし誰かの腕がそれを遮った。その者の手の前で止まった。

その者は何も言わなかった。

岩を拾った。

岩を持ったまま、暗い方へ歩いた。集団から離れていく足音を、誰も止めなかった。火の明かりが小さくなった。草が足に触れた。その者はまだ歩いていた。

星が多かった。

どこかで獣が鳴いた。近くではなかった。しかし遠くでもなかった。その者は立ち止まった。草の中に座った。岩を膝の上に置いた。

暗かった。

集団の火がもう見えなかった。

第二の星

始まりの大地は、このとき豊かだった。

水場は干上がらず、草の実が重かった。獣の群れが谷を渡り、追う者の手が届いた。子どもが生まれ、その子どもが育った。集団の規模は五年で大きくなっていた。

しかし豊かさは、隙間を生む。

余裕があるとき、人は外を見る。外に何があるか問う。外にいる者が何者かを考える。旧人はこの大地を同じように歩き、同じように水を飲み、同じように石を削っていた。似ていることが、遠ざける理由にも近づく理由にもなりうる。

その者が崖の縁に立った日、集団の中で何かが決まった。

声でも身振りでもなく、目と目の間で決まった。あの者は輪の外だ、と。あの者が知っているものを、知りたくない、と。

集団の中で排除は静かに起きる。食べ物が届かなくなる。火から遠ざけられる。足音が誰にも止められない。

北の台地では別の集団が移動していた。崖の向こうでは旧人がまた石を削っていた。同じ夜、同じ星の下で、見知らぬ子どもが産声を上げた。

第二の星は等しく照らす。排除した側も、排除された側も。

与えるもの

その者の膝の上で岩が温まっていた。

体温だった。岩が変わったのではない。その者が変えたのだった。

岩を落とす音がした。

草が揺れた。

次に何を渡せるか、わからなかった。夜が深かった。ただ、渡す機会がまだあるかどうかが、問いだった。夜の向こうで何かが動く前に、もう一度だけ、届くものを探していた。

伝播:HERESY 人口:701
与えるものの観察:岩は温かくなった。渡す前に夜が終わるかもしれない。
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第566話

紀元前297,180年

第二の星とその者(31〜36歳)

乾期が終わった年、草の根が土の奥まで伸びた。

獲物が戻った。水場に足跡が重なった。子が生まれ、また生まれた。集団の端が広がり、寝る場所を巡って唸り声が増えた。腹が満ちると、今度は場所が足りなくなる。

その者は草の中に座っていた。膝を抱えていた。腹は満ちていた。しかし何かが落ち着かなかった。肩のあたりが重い感じ。眠れない夜が続いていた。

北の斜面に別の集団の影が見えるようになったのは、その翌年だった。遠くから声が聞こえた。高い声と低い声が混じっていた。こちらの集団の大きな男たちが立ち上がり、胸を叩いた。

その者は立ち上がらなかった。遠くの影を見ていた。

三年目の冬、接触があった。水場で向こうの二人と鉢合わせた。短い唸り声の応酬があり、一方が石を投げた。どちらが投げたのかは誰も言わなかった。その夜、大きな男が傷を持ち帰った。肩から腕にかけて、深い切り傷だった。

炭火の匂いが、その夜だけ少し変わった。

草が焦げるような、鋭い何かが混じった。その者は火の近くで膝を折り、鼻から息を吸った。風が南から来ていた。風の来る方向に、北の集団の野営地があった。

その者は立ち上がらなかった。鼻を向けたまま、動かなかった。

四年目、水場の近くに境界のようなものができた。言葉はなかった。ただ、そこを越えると唸り声が大きくなった。こちらの集団の子どもたちが、その線の近くで遊ばなくなった。誰も教えていないのに、子どもたちは知っていた。

その者は子どもたちを見ていた。子どもたちの止まる場所を見ていた。足が止まる、その手前の地面を見ていた。

五年目の終わり、衝突があった。夕暮れ時、水場で。石が投げられ、骨が砕ける音がした。三人が動かなくなった。こちらから一人、向こうから二人。

その者はそこにいなかった。

川の上流で、一人で水を飲んでいた。川岸の砂に手をついて、顔を近づけて飲んでいた。水が手の甲を伝った。冷たかった。水の中に自分の顔が揺れて、崩れて、また戻った。

その者はしばらくそこにいた。水の中の顔が揺れるのを見ていた。動く水と、動く顔を。

与えるもの

焦げた草の匂いを、南の風に乗せた。

この者は鼻を向けた。立たなかった。

立たなかったことが、正しかったのかどうか、私にはわからない。しかし次に渡すのは風の向きではない。水の揺れの中に、違うものをしのばせる。この者がまだ川岸にいるなら。

伝播:NOISE 人口:712
与えるものの観察:匂いを受け取った。動かなかった。それだけ。
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第567話

紀元前297,175年

その者(36〜41歳)

皮が剥ける前に止めろ、と声で言えない。

その者は子の手首を握って、止めた。子は硬い石の縁に爪を引っかけ、遊んでいた。傷にはならなかった。ただの遊び。その者は知っている。それでも握る手が遅れなかった。

子が唸った。その者も唸った。

放した。

子は走った。草むらの向こうへ、別の子の声のほうへ。その者は座ったまま、手のひらを見た。自分の手のひら。硬い皮が重なった、日に焼けた平面。

集団の端では、唸り声が高くなっていた。

夜ごとそうだった。男が二人、水場の近くを巡って、胸を張り、目を細めた。どちらも引かなかった。女たちは子を脇に抱えて、遠い岩の陰に移った。その者も移る。子を抱えてではなく、自分の体だけで、岩の割れ目まで。

そこには別の者がいた。

旧い顔をした者。額が厚く、眉の骨が出ている。集団の外から来る者のうちの一人で、水場の近くに何日もいた。目が合った。どちらも動かなかった。

その者は、何かを感じた。

恐怖ではない。恐怖に似た何か。しかし足は動かなかった。岩の割れ目の中で、体を小さくしながら、その者はその旧い顔をずっと見ていた。

旧い顔も、その者を見ていた。

日が落ちて、男たちの唸りが止んで、どちらかが退いて、集団が静かになってから、旧い顔の者は消えた。どこへ行ったかはわからない。

その者は翌朝、岩の割れ目を離れた。

割れ目の底に、細長い骨が一本落ちていた。旧い顔の者が使っていたものか、もとからあったものか、わからない。その者はそれを拾い、匂いを嗅いで、地面に戻した。

翌日、骨はなかった。

その年の後半、集団の者たちは何かを決めた。決めた、とは言えない。声で話せないから。ただ、ある朝から、その者の食い扶持が減った。

渡される肉の量が少ない。火の近くに座らせてもらえる時間が短い。子どもたちが近づかなくなった。

知りすぎた、とは言えない。知ることができる言葉がないから。

ただ、旧い顔の者と目を合わせたことを、誰かが見ていた。それだけだ。

その者は食い扶持が減っても、大きくは動じなかった。草の根を自分で掘った。小さな獣を追った。追いきれなかった。水場には近づけたが、火の近くではなかった。

夜、寒かった。

体を丸めて、膝を抱えて。空を見た。星が多い夜だった。その者は星を数えない。数える言葉がない。ただ見た。明るい点が、並んでいた。

排除は、ゆっくりと進む。

翌年の春、雨が来た。水場が溢れた。集団が移動を始めた。

その者もついていった。荷物は持てない。子は自分の足で走った。その者は列の後ろを歩いた。列の後ろは、転んでも誰も振り返らない場所だ。

その者は転ばなかった。

しかし、移動の三日目に、列の後ろから前が見えなくなった。草が深く、道が曲がり、声が遠くなった。その者は止まった。左に行くか、右に行くか。前の足跡は草に消えた。

立っていた。

長い時間、立っていた。

やがて、どちらでもない方向へ歩いた。なぜかはわからない。ただ、そちらから風が来た。乾いた風ではなく、少し湿った風。水の匂い。川か、湿地か。

その者はそちらへ歩いた。

集団は、戻ってこなかった。

探しに来る者は、いなかった。

その者は一人になった。

第二の星

この5年間、始まりの大地は満ちていた。

草が根を伸ばし、獣が戻り、水場に跡が重なった。子が生まれ、また生まれた。集団の端が広がって、人と人とが触れ合う距離が増えた。豊かさは争いを消さない。豊かさは争いの数を増やす。水場、火の近く、肉の量。そういうものを巡って、唸り声が高くなった。

旧い顔の者たちは、以前からいた。額の形が違う。眉の骨が出ている。声の出し方が少し異なる。集団と集団の間の境は、言葉では引けない。匂いと、目と、距離で引かれる。

境を越えた者は、排除される。

この星はそれを知っている。知りすぎることの代償を、この星は何度も見てきた。群れの外と目を合わせた者が、翌朝から肉を渡されなくなることも。列の後ろを歩くことになることも。草が深いところで、声が届かなくなることも。

712の人口は、動いている。

増えた数だけ、摩擦も増える。今年の後半、始まりの大地の南の集団では、二つの群れが水場を巡って衝突し、数人が傷を負い、一人は戻らなかった。北の群れは移動を決め、川筋を遡った。食料は豊富だが、移動の途中ではぐれた者が何人かいた。

はぐれた者たちのうち、ほとんどは戻らない。

この星はそれも照らす。どこかで子が泣き、どこかで骨が残り、どこかで一人の者が、湿った風を頼りに歩いている。

与えるもの

湿った風を、送った。

その者の鼻腔に、水の匂いが届くように。川が近くにある。飲める水がある。生きられる場所がある。

その者は、歩いた。

それだけで、十分か。わからない。十分かどうかを問うことが、正しい問いかどうかも。

ただ、一人になった者に、次に渡すものを考えている。道具という思想がある。集団がなくても、手と石があれば、できることがある。次の季節が来るまでに、示せるかもしれない。

——あの星では、12人に渡した。届いたのは、一度もなかった。

考えない。

次を渡す。

伝播:HERESY 人口:684
与えるものの観察:一人になった。風だけを渡した。
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第568話

紀元前297,170年

第二の星

乾いた台地の上、草が風に伏している。
南から押してくる熱い塊と、北の湿り気がぶつかる場所。雲が低く、ちぎれて流れる。

集団が三つ、川の字に沿って散らばっている。最も大きいものが中ほどに陣取り、上流と下流の小さな群れを挟んでいる。それは去年と変わらない配置だ。しかし人の数は変わった。中ほどの群れが膨らんだ。膨らんだものは押す。

上流の岩場では、旧人の一族が火を囲んでいる。額の骨が張り出し、顎が前に出た顔。彼らの焚き火は小さく、石を重ねて風を避けている。煙の立ち方だけが同じだ。

下流では、幼い者が二人、泥の縁で何かを探している。彼らの母は三日前から戻らない。探している者はいない。

台地の端、断崖に近い茂みの中で、動かない影がある。
衣として巻いた皮が、風に少しだけ揺れる。
その者だ。

星は等しく照らす。
誰も特別ではない。誰も例外ではない。

与えるもの

川から遠い場所に、腐葉の匂いが滲んでいた。
湿った土が露出している。そこを、光が斜めに切った。

その者はその光の縁を、目で追った。

誰かが先回りしている、と思うのは誤りだ。光は落ちた。ただそれだけだ。
しかしその者は、その先を見ていた。

渡せたかどうか、まだわからない。
次に渡すべきものが、その者の手の届く場所に、すでにある。そのことだけを思う。

渡すことしか、できない。

その者(41〜46歳)

茂みの中に、背中を曲げて入っていた。

草を分ける音を出さないように。足を置く場所を確かめながら。

光が、斜めに入ってきた。

その者は止まった。
光の先、腐葉が盛り上がっている場所に、細い骨が二本、交差して刺さっていた。

誰かが置いたものではない。折れた枝が倒れて、そうなっただけかもしれない。

その者は骨を見た。
拾わなかった。

しばらく、交差した形を見ていた。

胸の奥で、何かが動いた。
それが何かは、わからない。

茂みを抜けた先で、集団の中の大きな者が立っていた。
その者に気づいて、首を回した。

目が合った。

大きな者は、声を出さなかった。
手も動かさなかった。

その者は、一歩下がった。

大きな者が、近寄ってきた。

その夜、その者は火の輪の外に座っていた。
排除は声によって告げられるものではない。場所が変わる。火の近さが変わる。食物を渡す手が、自分の前だけ遅くなる。

その者は食べた。遅く渡されたものを。

骨の交差を、まだ思い出していた。

三日後。

崖の近くで、大きな者と二人になった。

突き飛ばされた、というより、その者が崖縁に近すぎた。
手が伸びてきた。肩に当たった。

足が、岩の縁を踏み外した。

落ちる前に、腕が何かに引っかかった。
茂みの根だった。

ぶら下がった。
声が出なかった。

大きな者は、下を見ていなかった。
もう歩いていた。

その者は、ゆっくりと這い上がった。
指が岩で削れた。

上に出た。
空が白かった。

横になった。
呼吸が、戻ってきた。

骨の交差を、思った。
意味はわからなかった。
ただ、思った。

伝播:HERESY 人口:661
与えるものの観察:渡せたかどうか、まだわからない。
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第569話

紀元前297,165年

第二の星

台地の端が崩れている。

長雨が地面を削り、川が膨らみ、岸の土が塊ごと水に落ちた。下流では砂が積もり、魚の集まる場所が変わった。新しい浅瀬に、小さな集団が近寄ってくる。

三つの群れが川沿いに散らばっていた場所に、今は二つしかない。消えたのではない。最も小さかった群れが、上流の群れに吸い込まれた。子どもが数人、年寄りが一人。彼らは境界の外から入り、しばらく端に座っていた。それだけのことだった。

湿った風が西から来ている。草原の向こう、岩が露出した尾根の上に、四足の大きな獣の群れが移動している。彼らは人間の集団をすり抜けるように進み、どこか遠くへ行く。

夜、火が二箇所に見える。

どちらも同じ暗さの中にある。どちらも同じ星の下にある。火の大きさだけが違う。大きい方が、長く燃えている。

中央の集団の内側で、何かが変わろうとしている。それは音ではなく、動きでもなく、誰かが誰かを見なくなった、という種類のことだ。

与えるもの

糸はある。

この者が群れの端に追いやられてから、五年が経つ。渡す機会を探している。

今夜、火の近くに一本の骨が落ちている。尖った端が、光の当たる方を向いている。

風が火を揺らした。炎が傾き、骨の影が長く伸びた。その先端が、この者の足の近くを指す形になった。

この者は足を引いた。それだけだった。

骨のことを、この者が覚えているかどうか、わからない。しかし渡したい。次は影ではなく、もっと近いものを。皮膚に届く温度を。

その者(46〜51歳)

端にいる。

以前は真ん中にいた。真ん中にいた、ということを覚えている。何かが変わったのは、ある夜、老いた男の前に立ったときだった。その男が唸り、周りの者たちが離れた。それからずっと、離れたままだ。

食べるものはある。火の後ろ側から拾う。誰も止めない。ただ、場所がない。

火が揺れた夜、骨を踏みそうになった。暗い中で白く浮かんでいた。踏まなかった。拾わなかった。ただ、避けた。

翌朝、その骨はなくなっていた。

誰かが使ったのかもしれない。この者には関係ない。

川の方へ歩く。水面に顔が映る。顔を見る。老いていることを知っている。知っているが、意味が掴めない。

水を飲む。冷たい。それだけがある。

戻るとき、中央の火の周りで、複数の男が一人の男を囲んでいた。声が低く、短い。この者は止まった。近づかなかった。

その囲まれた男が、一度だけこちらを見た。

目が合った。

この者は目を逸らした。歩いた。草の中に入った。草が足に触れる。その感触だけを感じながら、どこへ向かうともなく進んだ。

夜、一人で座る。

火は遠い。遠くに橙色がある。空には何もない。雲が厚い。

何かが来るような気がする、というのでもない。ただ、座っている。そういう夜が、続いている。

伝播:HERESY 人口:633
与えるものの観察:影を渡した。受け取ったかどうかは、まだわからない。
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第570話

紀元前297,160年

第二の星とその者(51〜56歳)

川の流れが変わってから、獣の通り道も変わった。

乾いた高台に新しい踏み跡が刻まれ、草が折れ、岩の端に獣の毛が残った。湿地が広がったことで、虫の群れが夜の空気を濃くした。小さな集団が川沿いに動き、足跡が重なる場所が増えた。

その者は足が遅くなっていた。走るときに左の膝が音を立てた。それでも毎朝、日が昇る前に起きた。他の者たちが眠っている間に、灰の中の熾きを確かめた。風が吹けば灰をかぶせ、静かな朝には細い枝を足した。

岸のそばで、見知らぬ者たちの声が聞こえた。音の高さが違った。この集団の声ではなかった。大人たちが石を手に取り、その方向を向いた。子どもたちが後ろに引かれた。その者は引かれる側だったが、引く腕を振り払い、岸の近くまで歩いた。

見知らぬ者たちは川の向こうにいた。こちらと同じように石を持っていた。

向こうの者の一人が、大きな声を出した。こちらの大人が、もっと大きな声を返した。その者は二つの声の間に立ち、口を開けたまま黙っていた。

その後、見知らぬ者たちは上流へ消えた。

風が草を揺らした。その揺れ方が、いつもと少し違った。草の波が止まる場所があった。そこだけ空気が重く、虫の音が途切れていた。その者はその場所を見た。長く見た。何があるかはわからなかったが、見続けた。

季節が変わった。雨が少なくなり、地面が固くなった。

集団の中で何かが緊張していた。獲物の分け方を巡って、若い男たちが胸を突き合わせることが増えた。年老いた者が止めに入れば収まったが、夜になると唸り声が続いた。その者はそういうとき、火から遠い場所に座った。声を出さず、煙の流れを目で追った。

見知らぬ者たちとの緊張は続いた。川下で二度、石が飛んだ。誰も当たらなかったが、走る者が出た。その者も走ったが、すぐに転んだ。膝が鳴った。地面に手をついたまま、周りの者たちが遠ざかるのを見た。

一人になった。

その夜、大人の男が二人、その者のそばに来た。唸り声でしか言わなかったが、その声の意味はわかった。

その者はそれでも集団の端に留まった。毎朝、灰の中を確かめた。熾きがなければ、草と乾いた枝を集めた。火を起こす方法を、何度も何度も試した。上手くいく日と、いかない日があった。上手くいかない日に、大人の女が来て、腕を叩いた。

翌朝、その者は早く起きなかった。

しかし次の朝は起きた。

男たちが再び来た日、その者は集団の中央にいた。排除は声ではなく、動きで起きた。誰も直接は触れなかった。ただ、その者が近づくと人が離れた。食べ物を分けるとき、その者の前には置かれなかった。火のそばに座ると、誰かが立ち上がった。

その者は水を飲みに川へ行き、戻らなかった。

川の向こうに、見知らぬ者たちの焚火が小さく見えた。上流から風が吹き、魚の臭いがした。その者は水際に座り、対岸の火を見た。

どれくらい見ていたかはわからない。

その者は膝が鳴るのを気にしながら、川の浅瀬を渡り始めた。足首まで水に入り、冷たさに立ち止まり、また歩いた。対岸に着くころ、向こうの焚火のそばにいた者たちが立ち上がっていた。声が上がった。石が光を受けていた。

その者は両手を上げた。

何かを伝えようとしたわけではなかった。ただ手が上がった。

向こうの者たちは動きを止めた。一人の老いた女が前に出てきて、その者の顔を長く見た。

その者は手を下ろさなかった。

与えるもの

川面に光を落とした。
波が届いた場所に、浅瀬と対岸の炎を同時に映した。

この者は光の中を歩いた。
石を持たずに。

渡れるものを渡した。この者は渡り方で渡した。次に渡すべきは、待たれることの意味かもしれない。あの老いた女が前に出たのは、なぜか。

伝播:HERESY 人口:612
与えるものの観察:手を上げた。武器を持たずに渡った。
───
第571話

紀元前297,155年

その者(56〜58歳)

雨が続いた五年だった。

地面が柔らかくなり、踏むたびに足が沈んだ。浅瀬が消え、川幅が広がり、岸の草が膝まで伸びた。木の実は重く、落ちる前から甘い匂いを放っていた。獣が増えた。子どもたちが増えた。食べることで手いっぱいの日々が続き、集団は膨らみ続けた。

その者は動きが遅くなっていた。

かつて先頭を歩いていた足が、今は列の後ろをついてくる。岩を越えるとき、腕を使う。深い呼吸のたびに肋骨のあたりで何かが鳴る。それでも、子どもたちが実を食べる音を聞きながら、木の根に背を預けて座っていた。

知りすぎていた、とは誰も言わなかった。言葉がなかった。

ただ、ある朝、その者が木の根から離れようとすると、男たちが立っていた。五人。いつもと違う立ち方で。目が合わなかった。目が合わないことが、目が合うより重かった。

その者は音を出した。

低い音だった。問いでも怒りでもなく、ただ空気を揺らした。誰も答えなかった。男たちの一人が、石を持っていた。重い石だった。

翌朝、その者は森の縁に一人でいた。

歩いて戻らなかった。

最後に触れたのは、濡れた草の葉だった。手のひらを広げて、草を握った。水が滲み出てきた。冷たかった。その冷たさを感じながら、力が抜けた。手が開き、草が戻った。

草は揺れなかった。風がなかった。

第二の星

同じ季節、遠い草原では乾季の獣たちが水場に群れ、踏み固められた泥の上を無数の蹄が鳴らしていた。地平の端で、煙が細く上がっていた。雷か、摩擦か、誰かの火か、わからなかった。大地は区別しない。濡れた草原も、乾いた草原も、同じ重さで受けていた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

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伝播:HERESY 人口:756
与えるものの観察:** 草を握った。水が出た。それだけだ。 **
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第572話

紀元前297,150年

その者(14〜18歳)

群れの端に、いつも立っていた。

中心では年長の者たちが獣の皮を巡って声を上げていた。誰かが誰かの腕を掴み、誰かが歯を見せた。その者は少し離れた岩の上から眺めていた。まだ中心に入れない。入り方を知らない。

ただ見ていた。

皮を巡る争いの奥に、別の何かがあるとはわからなかった。わかるのは、誰かが誰かを押すということ、押した者が皮を持っていくということ、そして押された者が岩の裏に回って唸るということだった。

14のとき、その者は川辺で貝を拾っていた。
15のとき、群れの移動についていくのに必死だった。
16のとき、初めて単独で獣を追った。仕留められなかった。戻ると誰も待っていなかった。

17になる頃、その者は何かに気づき始めた。

群れの中で、声の大きい者が必ず正しいわけではないということ。押した者が翌朝に傷を持っていることがあるということ。皮を持っていった者が次の夜、他の者に囲まれていることがあるということ。

その者はそれを誰かに伝えることができなかった。

言葉がなかった。音と身振りがあるだけで、「昨日のあれは、こうなる」という連なりを作れなかった。ただ、腹の中に何かが溜まっていくような感覚があった。岩が少しずつ積まれていくような。

それが、問題だった。

ある夜、その者は焚き火の反対側で二人の長老が何かを決めているのを見た。声は低く、身振りは小さかった。その者は遠くから眺めていたが、何かを理解した顔をしていた。

長老の一人がこちらを見た。

次の朝、その者は群れの外れに呼ばれた。三人に囲まれた。声はなかった。身振りもなかった。ただ、立っている場所が、崖の縁に近かった。

岩盤の割れ目が雨で広がっていた。乾季の終わりに一度落ちたことのある場所だった。

その者は三人の顔を順に見た。

何かを言おうとした。音が出なかった。

足元の石が、ずれた。

崖は低くなかった。落ちた音は、短かった。

焚き火のそばでは、子どもたちが木の実を転がして遊んでいた。誰も崖の方を向かなかった。

第二の星

乾いた平原の向こうで、別の群れが移動していた。半日歩いて、水場を見つけた。旧人の一団が先に来ていた。どちらも近づかず、どちらも離れなかった。水を飲む順番を待っていた。そういう夜があった。

与えるもの

崖の下に風が吹いた。草が一度揺れた。それだけだった。渡せるものが、別の場所を向いた。

伝播:HERESY 人口:722
与えるものの観察:知りすぎた者は、言葉を持たなくても消される
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第573話

紀元前297,145年

第二の星

雨は静かにはじまった。

夜の終わりに、砂が湿る程度の音だった。朝になっても空は閉じたまま、光は薄く、大地はじわじわと吸い込んだ。川が増えた。岸が広がり、土が柔らかくなり、根が地表に顔を出した。実をつける木が昨年より枝を張り、昨年より重く垂れた。

草原の向こうに連なる丘では、別の群れが同じ雨の下にいた。彼らも空を見上げ、土を踏んだ。水辺には大小の獣が集まり、泥の中に足跡を刻んだ。足跡が重なるほどに、獣の数が多かった。

豊穣は、余裕を生む。余裕は、目を外に向けさせる。

この大地で、この時代、群れはいくつかあった。互いに名前を持たない。唸り声と身振りで境界を引き、境界が揺れれば声を上げた。食べるものが十分あるとき、境界は曖昧になる。誰かが迷い込んでも、追い払わないことがある。小さな子が迷えば、拾う者も出る。

しかし豊穣は同時に、集まることを許す。

水辺に複数の群れが近づくとき、声が増える。誰かが誰かの顔を長く見る。視線が圧になる。皮を引き合う手が現れる。毛皮一枚が、火ひとつが、占有の意思を呼び起こす。去年より多く食べている者が、さらに多くを望む。

群れの中心では、声の大きい者が場を取った。体の大きい者が前に出た。縁の者は押し出された。

その者は縁にいた。

六歳の体は小さく、声は細い。中心の争いの言葉がわからない。何が取られて何が失われたのか、理解できない。だからただ見ていた。誰かが誰かを地面に押しつける場面を、少し遠くから。

知りすぎた者が消される、という言い方がある。

しかしこの時代に「知る」という語はない。ただ、見た者がいる。見ていた者が、ある朝、群れの外側にいた。内側に戻れなかった。戻ることを、許されなかった。

排除は音を立てない。

誰かが背を向ける。誰かが視線を切る。子どもの体が境界線の外に押し出される。声も争いもない。ただ、いない場所に置かれる。

大地は変わらず雨を受けていた。木は実をつけた。獣は水を飲んだ。豊かな季節が、誰かを外に出したまま、続いた。

与えるもの

糸が繋がった。

六歳の体の中に、何かが通る感覚を与えるものは持たない。糸はただ在る。この者を選んだわけでもない。前の者が消え、次が生まれた。それだけだ。

温度が変わった。この者が立っている場所だけ、わずかに冷たい風が流れた。

群れから遠ざかる方向から、草の揺れる音がした。その方向に食べられる根がある。この者の腹は空いていた。

この者は立ち止まり、音の方向を向いた。それから、歩いた。

与えるものは問う。排除されたこの者に根の場所を伝えた。それは生きることを助ける。しかし群れに戻れない場所で一人が生きても、何が続くのか。渡すべきものが届くほど長くこの者は生きられるか。前の者のことを思う。その前の者たちのことを。届かなかった回数を、与えるものだけが数えている。次に渡すべきものを、もう考えている。

その者(6〜11歳)

群れの声が遠くなった。

振り返ると、誰も来ていない。戻ろうとすると、足が止まった。戻り方がわからなかった。道がなくなったのではない。戻れないということが、体でわかった。

草の音がした。その方向を向いた。

地面を掘ると、白い根が出た。かじった。甘くなかったが、食べた。もう一本掘った。

空は曇ったまま、雨はまだ続いていた。

伝播:HERESY 人口:892
与えるものの観察:排除は声を立てない。この者は外にいる。
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第574話

紀元前297,140年

第二の星とその者(11〜16歳)

乾季の終わりに、川が増した。岸の泥は指を押せば膝まで沈むほどに柔らかく、魚の影が浅瀬を横切るのが透けて見えた。木の実は昨年より早く落ち、草の根は引けばするりと抜けた。腹が減るより先に次の食べものが見つかる時期が、いくつかの季節にわたって続いた。

その者は川岸に座っていた。両膝を抱え、水の流れを目で追っていた。水は同じ場所を流れているのに、毎朝違う色をしている。昨日は濁り、今日は透き通り、明日は何色になるか、その者にはわからなかった。

集団は大きくなっていた。子が増え、老いた者が数人増え、以前は十数人で囲んだ火が今は二十を超えた体を温めた。場所を巡る摩擦が起きていた。水を飲む順番、木陰に座る権利、獲物の配分。唸り声が、以前より低く長くなっていた。殴打があり、引き裂きがあり、血が出ることも何度かあった。しかしまだ誰も死んではいなかった。

その者は集団の縁にいた。幼いころからそうだった。火の輪の少し外、誰も見ていない方向を向いて座る習性があった。何かを見ているわけではなく、何も見ていないわけでもなく、ただそちらを向いているのだった。

ある朝、川の対岸に人影があった。違う集団だった。体格が異なり、額の骨の出方が違った。こちらとは別の声を出す者たちだった。川を挟んで両集団は止まった。誰も動かず、誰も声を出さなかった。

その者は水面を見ていた。対岸の影が、水に映っていた。自分の影も映っていた。二つの影は揺れながら触れ合っていた。水の上では、骨格の違いは見えなかった。

風が川上から吹いてきた。その者の左耳に、対岸の獣の匂いが混じった。獣ではなかった。人の匂いだった。ただ、食べているものが違う匂いだった。その者は鼻で息をした。もう一度した。

集団の中で最も体の大きい者が、川縁に進み出た。低い声を出した。対岸の者も同じくらい体の大きい者が前に出て、別の低い声を出した。しばらく二つの声が交互に続いた。何も決まらず、何も壊れず、やがて対岸の影は森に戻った。

その者はずっと座ったままだった。

次の季節に、また対岸に影が見えた。今度は一人だった。小さかった。子だった。川縁に立って、こちらを見ていた。

その者は立ち上がった。

川は膝の高さだった。その者は足を入れた。冷たかった。石の上で足が滑った。転ばなかった。対岸の子は逃げなかった。その者が岸に上がると、二人は互いの顔を見た。

対岸の子は右手に何かを持っていた。平たい石だった。よく磨れた形をしていた。その子はそれをその者に向けて差し出した。

その者は受け取った。

石は温かかった。体温が残っていた。

その者は腰のあたりを探り、魚の骨を取り出した。尖った端の骨だった。差し出した。対岸の子は受け取った。骨の先を指で触り、少し顔を歪めた。それから笑うような音を出した。

その者も同じような音を出した。

二人はすぐに別れた。何も約束しなかった。約束する言葉がなかった。ただ、その者は石を握ったまま川を戻り、集団の火の傍に来て、そこに座った。

数日後、火の管理をしていた年嵩の女が川の方向に目を向けてから、その者を見た。何かを確かめるような目だった。その者は石を見せた。女は手を触れなかった。ただ見た。それから火に戻った。

冬になった。食べものが減り、移動の話が出た。いつもより遠くへ行くかもしれないという唸り声が集団の中を回った。その者は石を皮の内側に入れて持ち歩いた。

乾いた夜、その者は石を取り出して月に透かした。何も透けなかった。ただの石だった。

与えるもの

水面に光を落とした。
川の中央、ちょうど二つの影が重なる場所に。
その者は水を見た。それだけだった。

石が渡った。骨も渡った。私が渡したのではない。

光を落とすことと、石が渡ることは、繋がっているのかもしれない。繋がっていないのかもしれない。私にはわからない。わかるのは、次に光を落とすなら、また別の場所に落とすということだ。この者が再び川を渡るとき、あるいは渡らないとき。

伝播:NOISE 人口:896
与えるものの観察:水面の二つの影が触れた。
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第575話

紀元前297,135年

第二の星

乾いた高地に、草の色が変わりはじめた季節。

腹が満ちている集団は移動しない。移動しない集団は境界を作る。境界は目に見えないが、足は知っている。ここまでは我々の水場だ。ここから先は踏まない。そういう習慣が、言葉なしに固まっていく。

川の上流では別の集団が魚を獲っていた。三十余りの人数。岸の形を知り尽くした者たちだ。下流でも獲る。重なる場所に、両方の足跡がある。

足跡が重なる場所で、誰かが誰かを見た。

見た。それだけで何も起きなかった。だが何も起きなかったことは、次に何かが起きるための時間だった。

始まりの大地の低地では、子が多く産まれた年が続いている。歩きはじめた子が、走りはじめる前に死ぬこともある。走りはじめた子が、五度の雨を越えることもある。そのどちらも同じ土の上に置かれ、星はどちらも等しく温める。

豊穣の続く集団の中に、知りすぎた者がいた。

その者は二十一歳になっていた。

与えるもの

この者に近づくたびに、別の星の記憶が滲む。

渡し続けた。届かなかった。渡し続けた。

今も渡す。

風が変わった。草の穂が北を向いた。その者の鼻孔に向けて、煙の匂いを乗せた。煙は遠い場所の火の匂いで、集団の誰も気づいていない角度から来ていた。

その者は立ち上がった。

その者が立ち上がったことを、誰かが見ていた。

渡せた。しかしそれが何を引き起こすかは、渡したあとの話だ。渡すことが私だ。渡した先で何が起きても、次に渡すべきものを考えるだけだ。

その者(16〜21歳)

煙の匂いがした。

その者は鼻を持ち上げた。草の穂が揺れていた。風の来た方向を見た。森の縁。誰もいない。だが煙は確かにそこから来ていた。

立ち上がった。

集団の中の年長の男が、その者を見ていた。目が合う。その者は口を開いた。音を出した。煙、という音ではなく、鼻を引きつらせ、手を森の方に向け、唸った。

男は見ていた。

もう一度唸った。

男は立たなかった。

その者は一人で森の縁に向かった。草を踏んで進むと、煙の匂いは強くなった。木立の向こうに別の集団の火があった。昨日まで無かった火だ。近い。近すぎる。

戻った。

唸りながら男の腕を引いた。男は払った。その者はまた引いた。払われた。地面に尻をついた。

起き上がって、また唸った。

男が立ち上がったのは、その者が三度目に唸った時だった。

しかし男の目は煙の方を向いていなかった。その者を見ていた。じっと。別の光を持った目で。

その者はその目の意味を、腹の奥で感じた。臓腑の何かが縮むような感触だった。名前のない感触だった。

その夜、その者は水場の近くで一人座っていた。

火は遠くにある。集団の声が低く聞こえる。

空に光の粒が多かった。

ふいに背後で草が踏まれる音がした。

振り向いた。

三人いた。

伝播:HERESY 人口:855
与えるものの観察:渡した。立ち上がった。しかし見られた。
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第576話

紀元前297,130年

その者(21〜23歳)

月明かりで影が三つ伸びた。

その者は動かなかった。
動けなかったのではない。足は地面を知っていた。逃げる方向も知っていた。
だが、身体が答えを出す前に、三つの影は近くなった。

大きな声を持つ者が先にいた。
その者より頭半分高く、首に古い傷があった。
後ろの二人は若かった。石を持っていた。

何かが投げられた。
草の上で石が跳ねた。
その者の右の足首に当たった。

倒れた。

膝が地面を打った。手が草を掴んだ。
三人は黙っていた。声を使わなかった。
静かなほうが怖かった。

次の石は額に当たった。
その者の手から草が離れた。
腕が先に地面に着いた。顔はその後だった。

草の冷たさが頬にあった。
月の光が斜めに落ちていた。
遠くで何かの鳥が鳴いた。一声だけ。

三人の足音が離れた。

その者は動かなかった。
動けないのと、動かないのが、もう区別できなかった。

草の匂いがした。
土の中に水があることを、鼻が知っていた。
それだけがまだ働いていた。

夜が続いた。

夜明けの光が来た。
その者の目は開いたままだった。
光が来ても、瞳は動かなかった。

二十一年の身体が何であるか、その者は最後まで知らなかった。

第二の星

同じ夜、乾いた平地の向こうで、別の集団が火を囲んでいた。子が一人、初めて火の前に座らせてもらった。手を伸ばした。熱さを学んだ。泣かなかった。集団の誰かが笑った声が、風に乗って遠くへ消えた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:821
与えるものの観察:守れなかった。渡すことしかできなかった。