2033年、人類の旅

「紀元前297,125年〜紀元前297,005年」第577話〜第600話

Day 25 — 2026/04/27

読了時間 約59分

第577話

紀元前297,125年

第二の星

台地の上に雨が降っている。

赤い砂が水を吸い、足跡を埋める。大きな足跡が先にあり、小さな足跡がその後ろに続き、途中で消えている。消えたのではない。方向が変わったのだ。

湿地の縁では、別の群れが獲物の腸を石の上で開いている。臭いが風に乗る。遠くの丘の上では、四本足の影が七つ、動かずに立っている。

集団の中で、皮を剥ぐ者と皮を受け取る者とで、声の高さが違う。受け取りを拒む唸りが一つ。それから沈黙。

同じ水場を知っている者たちが、異なる側から近づいてくる。

どちらも引かない。

枯れ枝が一本、水面に浮いている。両側からの波紋が、真ん中でぶつかっている。

台地の向こう、大きな集団の野営地では、子どもが火の縁に近づきすぎて叩かれた。泣き声が上がった。それから静かになった。夜が深くなるにつれ、焚き火が小さくなる。

誰かが薪を足す。

誰かは足さない。

与えるもの

糸が繋がった。

焦げた煙の匂いを、その者の鼻孔のあたりに漂わせた。

右の方から。

集団の火ではない匂い。遠い方向の、知らない火の匂い。その者が鼻を動かした。

渡した。

問い:煙の匂いは、危険を告げるか、温もりを告げるか。それを分けるのは何か。匂いそのものではない。それを知っている者とそうでない者がいる。次に渡すべきは、記憶の種類の違いかもしれない。

その者(8〜13歳)

八歳のとき、その者は火の番を任されなかった。

小さすぎる、と大人が手を振った。その動作の意味はわかった。離れろ、ということだ。

だからその者は離れた場所から火を見ていた。炎の形が変わるたびに、体の前面が熱くなり、背中が冷えた。前と後ろで温度が違うと、何かが落ち着かない気持ちになる。その者はそれを何と呼ぶ言葉も持っていないが、体は知っていた。

十歳のとき、水場で別の集団の子どもと目が合った。

相手は石を持っていた。その者も石を持っていた。どちらも投げなかった。どちらも動かなかった。風が左から吹いて、相手の匂いが鼻に届いた。その者は知らない匂いだと思った。相手も同じことを思っているかもしれないと、その者は思わなかった。ただ匂いを嗅いだ。

大人が来て、その者を引っ張った。

石は持ったままだった。

十二歳になる少し前、集団の中に緊張が走った。

何かをめぐって、大人たちが声を荒げた。誰かが誰かの腕をつかんだ。誰かが突き飛ばされた。その者は端の岩の陰に入り、膝を抱えた。膝頭が顎に当たった。

その者は何も見ていなかった。

音だけを聞いていた。

声の大きさ、足音の数、方向。その者の体は、それらを整理する前に、先に感じていた。危ないか、まだ大丈夫か。体が先に決めていた。

ある朝、焦げた煙の匂いがした。

集団の火ではない。風の向きから、遠い方から来ていた。その者は顔を上げ、鼻を動かした。大人たちはまだ動いていなかった。その者だけが、少しだけ立ち上がった。

大人の一人が振り向いた。

その者の顔を見た。

それから、その者が向いていた方向を見た。

伝播:HERESY 人口:781
与えるものの観察:匂いを受け取った。体が先に動いた。
───
第578話

紀元前297,120年

第二の星とその者(13〜18歳)

台地の端に、草が群れている。

雨期が終わり、地面は固くなった。亀裂が走っている。その亀裂に沿って蟻が列をつくり、砂粒を運んでいる。台地の向こうに別の集団の煙が見える。三本。昨日は二本だった。

その者は川岸にいる。

水の縁に腹ばいになり、顔を近づけている。水面に映る顔を見ている。目が動く。顔が動く。水面の顔も動く。指を突き入れると、顔が割れる。波紋が広がり、顔は消える。

水が静まると、また顔が戻ってくる。

その者はそれを三度繰り返した。四度目には突き入れなかった。ただ見た。

台地の上では、二つの集団の境界が揺れている。

境界に名前はない。しかし皆が知っている。岩の配置で知っている。足跡の深さで知っている。煙の匂いが混じり始めると、皆の肩が上がる。子どもを呼ぶ声が変わる。短く、低く。

その者の集団に、大きな男がいる。

男は毎朝、台地の縁に立つ。遠くを見る。見ているものを誰も聞かない。男が戻ってくると、集団は移動する日と留まる日に分かれる。その判断の根拠を誰も知らない。

その者は男の後ろに座り、男の背中を見ていた。

五年の半ばに、争いがあった。

川岸で、別の集団の者と遭遇した。二人対三人。石が飛んだ。叫び声があった。その者の集団の若い者が腕に傷を受け、走って戻ってきた。傷口から血が垂れ、砂に点々と続いていた。

その者は傷を見た。

傷が開き、閉じ、また開くのを見た。若い者が唸った。誰かが葉を持ってきて押し当てた。葉が赤くなった。

その者は自分の腕を見た。傷のない腕を。

台地の上の煙が四本になった。

ある夜、煙が動いた。火そのものが動いた。それは集団が移動したのではなかった。火を持って誰かが来たのだった。境界の岩を越えて。

叫び声と打撃音が夜の中に混じった。

翌朝、台地の縁に立った男は戻ってこなかった。

その者は男が立っていた場所に行き、そこに立った。遠くを見た。男と同じように立った。しかし何も判断できなかった。何を見ればいいのか、まだわからなかった。ただ立った。

冬が来て、二度目の春が来た。

集団の中に、別の集団から来た者が混じっていた。争いで来たのではなかった。ただ来た。女だった。誰も追い返さなかった。子を産める者は受け入れられた。

その者の体が変わった。

骨が軋むように伸びた。声が割れた。夜中に目が覚め、暗闇の中で天井の岩を見た。岩は何も言わなかった。

ある夜、その者は手のひらに石灰を塗り、岩壁に手を押しつけた。

白い手の形が残った。その者は少し離れて見た。そこに手があるのに、その者の手はここにある。

五年目の終わりに、雨が来た。

激しい雨だった。川が膨らんだ。低地が水に沈んだ。集団は高い場所に移動した。急いだが、誰もいなくならなかった。

その者は岩壁の手形の前に立った。

雨がその壁にも当たっていた。白い手形が薄くなっていく。その者は手のひらをその壁に当てた。濡れた岩の冷たさが伝わってきた。形がまだそこにあることを、手のひらで確かめた。

与えるもの

川岸で顔が割れる瞬間、水面に光が落ちた。

この者はその光を見なかった。自分の顔だけを見ていた。

しかし岩壁に手を押しつけた夜のことを、私は覚えている。渡そうとしたのは光ではなかった。あの夜は何も示さなかった。この者が自分で動いた。

渡していないものが、届くことがある。

それが私にはわからない。渡した記憶のないものが残り、渡した記憶のあるものが消える。ならば次に私が渡すべきものは何か。あるいは、渡すことそのものが妨げになっているのか。

壁に残った白い手は薄れている。

この者の手はまだここにある。

伝播:DISTORTED 人口:785
与えるものの観察:渡さなかった夜に、何かが起きた
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第579話

紀元前297,115年

その者(18〜21歳)

三年分の乾きが土に刻まれていた。

亀裂は指の幅から腕の幅へと広がり、その縁に触れると粉になって崩れた。川だったものは石と砂だけになり、魚は消え、蛙も消え、水を吸い込む植物の根が土の表面に露出して干からびていた。集団は歩いた。止まり、また歩いた。幼い者と老いた者が次々に倒れ、残った者たちは振り返らずに進んだ。振り返る力がなかった。

その者は十八歳のとき、まだ走れた。

十九歳になるころ、母親が歩かなくなった。膝から崩れて、そのまま砂の上に座った。その者は母親の腕を引いた。引けなかった。引けなくなったとき、母親はもう動いていなかった。その者は長い間そこに立っていた。立ち去る方向がわからなかった。

集団の残りは北へ向かっていた。その者は追いかけた。

二十歳のとき、別の集団と鉢合わせた。同じ方向に歩いていた。水を探していた。目が違った。瘦せ方が違った。匂いが違った。どちらも声を出さず、間合いを測り続けた。夜の間だけ近くにいて、夜明けに別れた。二度あった。三度目はなかった。三度目の夜明けに、別の集団の影が来た。石を持っていた。叫び声が上がり、その者の集団は走った。走れない者が残り、走れる者だけが走り続けた。

二十一歳の夏。

水場をひとつ見つけた。浅い窪みに泥水がたまっていた。その者は泥ごと飲んだ。

同じ水場に、別の集団も来た。

今度は夜ではなかった。

日が高かった。

その者は水場の端にいた。別の集団の者のひとりが、大きな石を手に近づいてきた。その者は立ち上がった。逃げようとした。足が滑った。乾いた土の縁が崩れ、その者は斜面を転がり落ちた。

深くはなかった。

しかし岩があった。

音がした。それから、しなかった。

その者の体は斜面の途中に止まり、太陽がその上を移動した。影が変わり、夕方になり、夜になった。水場の音が遠くから聞こえた。砂が少しずつ、その者の周りに積もった。

第二の星

大地の反対側、氷に覆われた高地で、動物の群れが別の群れと出会い、混じり合って、また離れた。干ばつの中心から遠い湿地では、水がまだあった。倒木の下に虫が生き、虫を食べる鳥がいた。世界は均等に渇いてはいなかった。第二の星はその全てを照らし、区別しなかった。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:DISTORTED 人口:516
与えるものの観察:渡した方向に、その者は滑った。
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第580話

紀元前297,110年

その者(28〜33歳)

獣の足跡は深かった。

爪先が土に食い込んだ角度、歩幅の広がり、後ろ足の着き方。その者はしゃがんで、跡の縁を指でなぞった。乾いた土。崩れない。昨夜のものだ。

集団の年長者が唸った。行け、という声だ。

その者は立ち上がらなかった。もう一度、跡を見た。右後ろ足の沈みが浅い。引きずってはいない。だが体重が偏っている。

年長者がまた唸った。今度は低く、長く。

その者は立ち上がった。身振りで示した。前ではなく、右だ。獣は右に曲がる。

年長者の目が細くなった。

集団は七人だった。槍を持つ者、石を持つ者、縄を持つ者。その者は何も持っていなかった。両手が空いている方が、速い。

茂みに入った。

乾いた葉が足の下で鳴った。その者は足の運び方を変えた。踵から入らず、外側の縁から。音が消えた。

前を行く年長者が止まった。

その者は止まった。

風が来た。

草の揺れかたが変わった場所があった。左前、十数歩先。草の穂が一本、他と逆向きに傾いている。獣の体が触れた跡だ。

その者の胸の中で何かが動いた。

恐れではない。恐れは知っている。腹の奥が縮まる感覚だ。これは違う。もっと前の方で動く。胸の上の方、喉に近い場所。

年長者が手を上げた。全員が止まる。

その者は膝を落とした。草の間から視線を送る。

獣はいた。

大きかった。背中の毛が逆立っていた。顔はこちらを向いていない。水を探している。水場まで獣を追えれば、逃げ場がなくなる。

年長者は知らない。獣が水を探していることを。

その者は低い声を出した。唸りではなく、息に混じった音だ。年長者が振り返る。その者は右手を地に向けた。低く、ゆっくり。待て、という動きだ。それから左腕を伸ばした。あの方角に、水がある。

年長者の顔が動いた。

長い沈黙があった。

年長者が頷いた。

集団は右に迂回した。水場を先に押さえるために。

獣は気づかなかった。

第二の星

五年が経った。

大地の東に連なる丘陵地帯は、長い乾期を越えて草を取り戻しつつある。川の支流のひとつが再び地表に現れ、葦が水際に根を張り直した。獣の足跡が泥に戻ってきた。魚の跳ねる音が夜に聞こえるようになった。

集団は動いた。乾いた土地を捨て、緑の戻った場所を追い、また動いた。死んだ者の数は数えない。歩けなくなった者は置かれた。幼い者の泣き声が夜に消えた。

それでも五百を超える数が、この大地に散らばっている。

隣の集団との境界線は、川の合流点にある浅瀬だ。互いに渡らない。渡ろうとした者が数人いた。何人かは戻り、何人かは戻らなかった。その詳細を、どちらの集団も記録しない。言葉がないからではない。記録する必要を、まだ感じていないからだ。

大地の北側に、別の骨格を持つ影が増えている。眉の張り出した顔、幅の広い肩。声の低さが違う。

接触はない。

まだ、ない。

与えるもの

繋がった。

水場の匂いを運んだのは、西から来た風だった。その者の鼻孔が動いた。目が左に向いた。

受け取った。

この者は何かを感じると言われている。感じるとはどういうことか。匂いが届く前に体が向いていたわけではない。だが年長者よりも一瞬早く、この者の首が動いた。

次に渡すべきは何か。

水場に足跡が残ることを、この者はすでに知っている。残り方の違いを読めることも。次は、足跡が消える場所があることを——水の中に入れば跡が残らないということを——示せるか。獣だけでなく、別の者たちもそれを知っているとしたら。

伝播:NOISE 人口:527
与えるものの観察:匂いで向いた。感じることと知ることの境界。
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第581話

紀元前297,105年

第二の星

乾いた風が台地の縁を削っている。

赤土の崖が崩れ、礫が斜面を転がっていく。雨期が遅れている。川床の砂は白く乾いて、足が沈まない。ここからさらに内陸に入ると、低木の林が疎らになり、やがて草だけになり、草も黄ばんでいる。

台地の南側に、小さな集まりがいる。別の集まりだ。顔の骨の形が少し違う。眉の出方、あごの張り方。同じように火を使う。同じように獣を追う。近づいてくることがある。近づかないこともある。

台地の北側の集まりは、今朝、岩場に集まった。何かを決めようとしている。声の高さ、腕の振り方、体の向き。決めるまでに時間がかかる。

東の崖の下に、一人でいる者がいる。集まりから少し離れたところに座っている。

崖から落ちてくる礫が、その者の足元で止まった。

与えるもの

崖の上から光が落ちた。その者の右手、握っている石の上に。

その者は石を見た。それから崖を見た。

渡したのは崖の上の道だ。集まりが今いる場所から離れる道。

受け取ったかどうか、まだわからない。前にも同じように光を落とした。同じように見た。同じように動かなかった。

だがこの者は、跡を読む。跡から何かが来ることを知っている。崖の上に何があるかを、まだ知らない。知らないまま登る者と、知らないから登らない者がいる。どちらかはまだわからない。

渡すことはやめない。

その者(38歳)

石は冷たかった。手のひらの中で、角が皮に食い込んだ。

集まりの中で、声が高くなっていた。年長者の唸り、若い者の短い叫び。体と体がぶつかる音。何かが決まりかけている。

その者には聞こえていた。

崖の方を向いた。理由はない。ただ向いた。光が石の上にあった。朝の角度ではなかった。崖の縁から落ちてきた光だった。

右手の石を地面に置いた。

立ち上がった。

集まりの方を一度見た。体と体が絡み合っている。その者の名前を呼ぶ者はいない。

崖に向かって歩き始めた。

礫を踏むたびに音がした。足が砂と石の境界を確かめていた。崖の下まで来て、手をかけた。岩は熱かった。朝から陽が当たり続けた岩の熱。登りながら、その熱が手から腕に伝わった。

上に出ると、風が違った。

台地が見えた。集まりが見えた。ずいぶん小さかった。南の別の集まりも見えた。川床の白さも見えた。

その者はしばらく動かなかった。

風が耳を通り過ぎた。

崖の下から声が聞こえた。高い声。怒っているか、探しているか、その者には判別できなかった。体が固まった。手のひらが岩を離さなかった。

声は続いた。

その者は崖の縁から一歩下がった。岩の陰に入った。声が聞こえなくなるまで、そこにいた。

伝播:HERESY 人口:515
与えるものの観察:崖の上に出た。初めて集まりを上から見た。
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第582話

紀元前297,100年

第二の星

台地の南側、岩盤が露出した斜面に、二つの集団が向かい合っている。

片方は川沿いを根城にしてきた群れだ。額の骨が突き出し、顎が広く、声が低い。もう片方は台地の上に住む群れで、その者も含まれる。背が高く、手が細い。どちらの集団も、雨期の遅れで獲物が減っている。水場が消えた。草食獣は北へ移動した。残った獲物を、二つの集団が同じ地で探している。

川沿いの集団が先にそこにいた。岩陰に背をつけ、石を握っている。台地の集団が近づいてくるのを見て、低い唸りを出した。腹の底から出る音で、警告か威嚇か、境目はない。台地の集団は止まった。先頭の年長者が両手を広げ、掌を見せた。その仕草は、ここにある者が武器だけではないことを示している。

双方が動かない時間があった。

風が斜面を横切り、礫が一つ転がった。どちらも目を動かさない。川沿いの集団の中に、まだ若い個体がいた。右手に石を持ち、足を肩幅に開いて、身体を低くしている。その姿勢が台地の集団に向けて、何かを告げている。引き金になりうる。

この星の表面では、こうした対峙が静かに何度も起きていた。声が届かなくても、身体の向きと距離と石の位置で、意図は伝わる。伝わるが、解釈がずれる。それが問題だった。

斜面の下、乾いた川床に足跡が重なっている。台地の集団のものと、川沿いの集団のものが、混じらずに並んでいる。それぞれが水を求めてここへ来て、互いを見て、止まった。水はどちらにも属さない。岩盤の裂け目から染み出す程度のものが、砂の下にあるかもしれないだけだ。

川沿いの集団の年長者が、ゆっくりと地面に石を置いた。音が静かだった。

台地の年長者が、それを見た。

台地の集団の中から、一人が前に出た。その者だった。

その者が前に出たとき、この星は乾いた光の中にあった。雲がなく、影がない。台地の岩が熱を蓄え、地面から白い靄が立ち上りそうな午後だった。大地の亀裂は広がり、湖だったくぼ地の底に塩の結晶が白く積もっている。水は後退し、獣道が交差し、二つの群れが同じ場所に立つことになった。

川沿いの若い個体が石を手に持ったまま、その者を見ている。その者も見ている。

どちらも動かない。

この星はそれを照らしている。判断しない。ただ光を当て、影を落とす。台地の岩の上で、爬虫類が一匹、日向ぼっこをしていた。乾燥に強い種類で、舌を出し、空気を舐める。それだけが動いていた。

与えるもの

川沿いの若い個体の手に、光が落ちた。

石の角に当たる光が、その者の目に届いた。その者は石を見た。若い個体の手の石ではなく、地面に置かれた年長者の石を。

川沿いの年長者が地面に置いた石を、その者は拾い上げなかった。

それでよかった、と与えるものは思う。あれは譲渡ではなく、停止の意思だった。渡すものを間違えたのかもしれない。次は、何を示すべきか。

その者(38〜43歳)

その者は川沿いの集団の若者の目を見た。

岩を握った手。腕の筋肉が固まっている。その者も固まっていた。

地面に置かれた石が、二人の間にあった。

その者は、その石を踏まなかった。踏み越えなかった。ただ、自分の手を下ろした。

若者の腕が、少し弛んだ。

伝播:NOISE 人口:527
与えるものの観察:停止の石を、その者は踏まなかった。
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第583話

紀元前297,095年

第二の星

東の台地では火が走った。

乾燥した草地に風が吹いた。火は草の根を舐め、低木の枝を渡り、立ち枯れた樹の幹を柱にして立ち上がった。煙は白く、次に黄く、やがて黒くなった。夜に赤い光が地平を染め、昼には灰が空を薄くした。

逃げた者たちは丘を越えた。丘を越えた先に別の群れがいた。向き合った。水もなく、食いものもなく、互いに向き合った。

遥か北では違う季節が来ていた。凍った土が割れ、その割れ目から水が染み出し、獣の群れが水を求めて動いた。その群れを追う者たちがいた。彼らは火を知らなかった。夜は体を寄せ合い、毛皮を重ねた。

南の海岸では潮が引き、岩盤が広く露わになった。貝が幾つも死に、白い殻だけが残った。岩の上で日が光った。そこにも数人の者たちがいた。彼らは殻を拾い、手の中で転がし、置いた。

星はすべてを同じ目で見た。

台地で燃える者も、凍えながら獣を追う者も、殻を拾う者も。

与えるもの

地面が置いた石の上に、光が落ちた。

焼け跡から出てきた石だ。割れていた。割れた断面が白く、硬かった。

その者は石を踏んだ。踏んで、立ち止まった。

足裏にその鋭さを感じた。その者は足を上げ、石を見た。

その者は石を拾わなかった。煙の匂いの中で、群れの声がしたから。

——拾わなかった。しかし見た。見て、立ち止まった。前に地面に置かれた石を、手を下ろした者があった。あのとき渡せたか。今回は足が止まった。足が止まったことは何かか。次に渡すべきは石ではないかもしれない。煙の中を走る者に、何が届くか。

その者(43〜48歳)

煙が舌の奥まで入った。

喉が鳴った。唾を吐いた。また煙が来た。

仲間が走った。子を抱えた女が走った。老いた男が転んだ。その者は老いた男の腕を引いた。引いたまま走った。老いた男の足が遅かった。草が燃えていた。足の下で地面が熱かった。

丘を越えた。

丘の向こうに、別の群れがいた。

低い唸りが来た。胸の奥に届く声だった。額の広い者たちが岩の前に立っていた。その者の群れも立った。子を抱えた女が立った。

誰も動かなかった。

風が煙を運んできた。どちらの側にも煙は降りた。

その者は前に出た。

仲間が鳴いた。警告の声だった。その者は聞こえていた。しかし足が動いた。

向こうの群れの若い男が低く構えた。石を持っていた。

その者は手を開いた。手に何もなかった。

若い男は石を持ったまま動かなかった。

その者も動かなかった。煙が目に染みた。目を細めた。涙が出たが、それだけだった。

しばらくして、若い男は石を下ろした。

その夜、二つの群れは一つの丘に座った。火は起こさなかった。煙がまだ来ていたから。体を寄せ、声を低くして、それだけだった。

その者の背中を、誰かの肘が押した。仲間の中の年嵩の男だった。声は出さなかった。押すだけだった。

意味はわからなかった。

しかしその者は岩に寄りかかり、目を開けたまま夜を過ごした。

夜明けに、向こうの群れはいなかった。

焼け跡から鳥が一羽飛んだ。その者はその鳥を目で追った。鳥は煙の残る空に消えた。

その者は立ち上がり、仲間の中に戻った。

年嵩の男が、その者を見ていた。何も言わなかった。目だけで見ていた。その目に何かがあった。それが何かを、その者は知らなかった。

伝播:HERESY 人口:439
与えるものの観察:手を開いた。何も持たない手が渡るか。
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第584話

紀元前297,090年

その者(48〜53歳)

熱が走った。

最初に気づいたのは、自分の腹だった。夜、横になると内側から何かが押し広げようとするような、鈍い痛みがあった。朝には引いていた。だから気にしなかった。

その頃、集団の中で次々と同じことが起きていた。

子どもが最初に倒れた。何人かが短い間に。母親たちは子どもの額に自分の額を押しつけた。熱は移るものではないと誰も知らなかったし、誰も知らなかったから何もしなかった。ただそうした。

年寄りが次に倒れた。

年寄りの一人が、ある朝、岩の上に座ったまま動かなくなった。呼ばれて見に行った者たちが囲んだ。体に触れた。冷たかった。重たかった。生きているものと死んでいるものの違いを、この集団は体で知っていた。説明できなくても、知っていた。

その者は距離を置いて見ていた。

五十歳を過ぎ、体は変わってきていた。膝が痛む日がある。かつては一日じゅう走れた。今は夕方になると足が重くなる。それでも若い狩り手たちより獣の動きを読むことができた。どこに隠れるか。どこから来るか。体で覚えていた。

熱は来なかった。

自分に来なかった理由を、その者は知らなかった。なぜ子どもが死に、なぜ年寄りが死に、なぜ自分は水を飲んで翌朝を迎えるのかを、言葉にする手段を持たなかった。ただ、死んだ者たちを見た。数えた。手で数えて足りなくなった。

集団は縮んだ。

空白が増えた。いつも座っていた場所に、誰もいない。いつも声を出していた者が、いない。その者はそういう場所に近づかなかった。近づくと、腹の奥が締まった。それだけだった。

回復した者もいた。

一人の若い女が、数日の間ひどく熱を出し、やがて起き上がった。食欲が戻った。水を飲んだ。その者はそれを見た。倒れた者と、起きた者の違いが何かを、見極めようとした。見た目に差はなかった。食べているものも同じだった。眠る場所も。

何もわからなかった。

やがて熱は静かに引いた。集団の中に、もう新しく倒れる者がいなくなった。それがわかるまでに、しばらくかかった。止まったとわかる瞬間は、来なかった。いつの間にか、死ぬ者がいなくなっていた。

その者は夕方、水場に行った。

水を飲んだ。飲んでから、水面を見た。自分の顔が映っていた。見慣れているはずなのに、少し違って見えた。目の下に影が増えた気がした。頬の肉が削れたかもしれなかった。

ただ見ていた。

水面に、自分の顔がある。その後ろに、空がある。その空の中に、どこかに、集団から消えた者たちがいるかどうかを、その者は知らなかった。考える言葉がなかった。

ただ、水が揺れた。

風でもなかった。虫でもなかった。理由のわからない揺れが、水面を一度だけ渡った。その者は立ち上がらなかった。もう少しだけ、そこにいた。

第二の星

始まりの大地は、この季節、乾きと湿りの間にあった。

東の台地はまだ焼け跡を残していた。黒くなった土が地面に筋を引き、雨がそれを少しずつ薄めていた。草の根は生きていた。根は見えないところで、ゆっくりと次の葉を押し上げていた。

見えないものが、集団を渡った。

水から来たのか、土から来たのか、どこかの獣から来たのか、この星は知っていたが、集団は知らなかった。集団の中で何かが動いた。体の内側を通り、ある者を殺し、ある者を殺さずに通り過ぎた。

その基準を、この星も語らない。

遠い北では、氷が少しずつ分厚くなりつつあった。大陸の縁に沿って、風の道が変わろうとしていた。気候の息が、長い周期で向きを変えようとしていた。始まりの大地の集団はそれを知らなかった。ただ、空気が前と少し違う気がする者がいたかもしれない。

集団は縮んだ。

それでも残った者がいた。残った者たちはまた朝を迎え、水を飲み、食べるものを探した。一人の五十歳過ぎの狩り手が、水場で自分の顔を見ていた。

星はそれを照らしていた。

理由を語らずに。

与えるもの

水面が揺れた。

風でも虫でもなく、水の底から何かが動いたように。

その者は立ち上がらなかった。

水面に映る顔を、その者に長く見させた。
その者は見た。目の下の影を。削れた頬を。自分がまだいることを。

消えた者たちのことを、思ったかどうかはわからない。思うための言葉がないのに、思うことができるかどうかを、わたしは知らない。

しかし何かは残った。

次に渡すべきものを、まだ持っている。

伝播:SILENCE 人口:343
与えるものの観察:水面で自分の顔を見た。消えた者たちは映らなかった。
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第585話

紀元前297,085年

その者(53〜58歳)

腹はまだ痛んでいた。

前とは違う。前は内側から押し広げるような痛みだった。今は引っ張られる感じがする。臍の下、少し右。深い場所。

その者は岩の端に腰を下ろして、自分の腹に手を当てた。皮膚の上から触っても何もわからない。熱もない。指を押し込むと鈍く響く。それだけだ。

昨日、集団の中で年老いた女が死んだ。腹を抱えたまま動かなくなった。その前にも、二人の子が同じように丸くなって動かなくなった。その者はそれを見ていた。腹を抱えること、丸くなること、動かなくなること。その順番が頭の中に残っている。

自分も今、腹を抱えている。

立ち上がった。膝が少し震えた。歩けないほどではない。狩り場のほうへ向かいかけて、止まった。

集団の端に、旧い顔つきの者たちが三人いた。ここ数日、毎日来る。食べものを持ってくることもある。持ってこないこともある。彼らの目は集団の中を動く。動き回る目の行き先を、その者は目で追う癖がついていた。

今日も、その目が動いている。

子どもたちを見ている。

その者は岩から離れなかった。腹の痛みを背景に押しやって、旧い顔つきの者たちと子どもたちの間に立った。理由はない。立ったから立っている。

旧い顔つきの者の一人が低く唸った。

その者も唸り返した。

どちらも動かない。子どもたちは何も知らずに砂を触っている。

やがて旧い顔つきの者たちは向きを変えて去った。その者は彼らの背中を見送った。腹がまた引っ張られる。右の奥。深い場所。その者は片手をそこに当てたまま、動かなかった。

第二の星

乾いた大地に熱が満ちている五年だった。

疫病は集団の端から溶かしていった。老いた者から、幼い者から、腹の弱い者から。声を上げる余力のある死と、声もなく消える死が、ほぼ同じ数だけあった。集団の頭数は減り、また少し戻り、また減った。

旧い顔つきの者たちとの境界は、この五年で曖昧になった。食べものを渡すこともあれば、奪うこともある。子どもを連れ去ったという記憶を持つ者もいる。連れ去りではなく迷い込みだったかもしれない。確かめる言葉が誰にもない。

空気はまだ重い。腹を病んで死んだ者の記憶が集団に残っている。記憶は言葉ではなく、腹を押さえる仕草として伝わった。誰かが腹を抱えると、周りの者が距離を取る。それが今では反射になっている。

大地は乾き、水場は遠い。集団は分散し始めていた。

与えるもの

旧い顔つきの者の目が子どもたちに向いた瞬間、その者の足元の地面が冷えた。

ほんの少し。夜の冷気が昼の大地に残った場所。その者の裸足がそこに乗っていた。

その者は動かなかった。

冷えた場所と動かなかった体の間に、私が渡したものがあるのかどうか、私にはわからない。ただ、次に渡すべきものは見えている。旧い顔つきの者たちが去った方向。岩の割れ目。雨の後に水が流れる筋。その者が明日歩くなら、そこに何かを落とせる。

腹の痛みが深くなっている。

それでも私は渡す。

伝播:DISTORTED 人口:361
与えるものの観察:冷えた地面。動かなかった足。
───
第586話

紀元前297,080年

その者

夜が明ける前に、その者は集団の端へ這った。

腹の奥が静かになっていた。痛みが消えたのではない。何かが諦めたような、内側の静寂だった。臍の下の引っ張る感覚は、夜のうちにどこかへ行っていた。それが怖かった。

岩壁に背をつけて、膝を折った。

空が白くなる。鳥の声が一羽、また一羽。その者は自分の手のひらを見た。指の節に泥が詰まっていた。いつからか、わからない。

集団の中から、若い一人が近づいてきた。その者より三十は若い。腕が太い。眼が鋭い。

その者は何も言わなかった。言う音を持っていなかった。ただ、自分の手を一度、その若者の足元へ向けた。地面を。それだけだ。

若者は立ち止まった。少しの間、その者の顔を見た。それから、行った。

その者は岩壁に頭を預けた。

空が明るくなっていく。雲が一枚、西から流れてくる。風が低く、草の根元を撫でていく。遠くで旧い顔つきの者たちの動く音がした。石を踏む音、枝を折る音。別の集団が、この場所の端を通り過ぎていった。

その者は目を開けたまま、それを聞いていた。

腕の力が抜けた。抗わなかった。岩壁に沿って、ゆっくりと横へ傾いた。地面が冷たかった。草の匂いがした。

朝の光が、その者の手の甲を照らした。泥の詰まった指の節が、少しだけ明るくなった。

鳥が、また鳴いた。

第二の星

この星の北では、平原を渡る風が乾いて砂を運んでいた。南では雨が三日続き、川が岸を超えた。東の丘では、別の集団が火を絶やさないよう岩で囲んでいた。その者が横になった朝、世界はそれだけのことをしていた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:356
与えるものの観察:手を地面へ向けた。届いたかどうか、わからない。
───
第587話

紀元前297,075年

第二の星

乾季が終わった。

赤土の大地に、三日続けて雨が降った。草が緑を取り戻す前に、根だけが水を吸い始める。地面の下でそれが起きている間、地面の上は変わらず割れたままに見える。

始まりの大地の東の端、岩棚の下に七つの集団が散らばっている。それぞれが獣の動きを読み、水場の位置を知っている。獣の足跡が残る泥の上を歩くとき、ある者は他の集団の足跡に気づく。気づいてから、同じ方向には進まない。

遠く西の草原では、旧人の一群が移動している。彼らの群れは小さい。五つの影が、低い草の間を進む。その足取りは速くない。速くなる必要がある理由を、今は持っていない。

岩棚から遠い谷では、雨水が溜まりはじめている。小さな窪みに、濁った水が集まる。虫が先に来る。鳥がその後に来る。

集団のひとつで、若い女が子を産んだ。子は声を上げた。声は大きかった。集団の中の幾人かが、その方向を向いた。向かなかった者もいた。

始まりの大地は、乾いたまま、少しずつ濡れている。

与えるもの

糸が繋がった。

第109世代。八歳。

何を渡すかを考えた。この者はまだ何もしない。しかし、何もしない者の中でも、目が動く者がいる。この者の目は動く。

腐肉の匂いが風に乗って流れてきた。その者の鼻孔が広がった瞬間、匂いの源を追うのではなく、匂いから離れた方向へ目が向いた。

この者は立ち止まった。足が、もう一歩を踏み出さなかった。

何かを渡せたのかもしれない。この足の止まり方は、以前も見た。腹を抱えて進まなかった者がいた。手のひらの泥の重さで立ち止まった者がいた。同じではない。しかし似ている何かが、この足の止まり方にある。

止めることは守ることか。それとも止まったまま朽ちることもあるか。

次に渡すのは、動き出す理由でなければならないかもしれない。

その者(8〜13歳)

腐った獣の匂いが来た。

その者は足を止めた。

止めたことに理由はない。体が先に止まり、理由は後から来ない。ただ足が地面に貼りついたような重さになり、もう一歩が出なかった。

風が変わった。匂いが薄くなった。

その者は鼻で空気を吸い、次に口を少し開けて吸った。舌の奥に何かの味が残った。知っている味だった。名前はない。しかし体は知っていた。

その場所から引き返した。

草の間を歩きながら、その者は地面を見ていた。足の下の赤土に、昨日の雨の跡が残っている。雨粒がひとつひとつ丸い窪みを作っていた。それをひとつ踏み潰した。また別のを踏み潰した。音は出なかった。

集団のいる岩棚に戻ると、若い女が子を抱えていた。子は動いていた。

その者は少し離れたところにしゃがんだ。子を見ていた。子の手が開いたり閉じたりしていた。

開く。閉じる。

その者は自分の手を見た。開いた。閉じた。

子の手と同じだったが、自分の手は違う何かだった。何が違うのかはわからない。ただ、自分の手を見ながら、その者はしばらくその場に座っていた。

岩棚の向こうから、別の集団の唸り声が聞こえた。

その者は手から目を離し、声の方向を向いた。声は続かなかった。

また手を見た。

指を一本ずつ曲げた。五本。それから全部を広げた。また一本ずつ曲げた。

何をしているのか、その者は知らない。

伝播:DISTORTED 人口:373
与えるものの観察:止まる体を持つ者がいる
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第588話

紀元前297,070年

第二の星

雨が来た。

三日ではなく、今度は七日。水が低いところへ流れ、低いところへ溜まり、そこにまた水が来る。岩棚の下の窪みが黒く光る。草は地面の下から先に緑になっている。上はまだ死んだ色だ。

東の端に散らばる集団は七つから六つになっている。大きな集団が小さな集団を飲んだのではない。小さな集団が、大きな集団の端に寄り添ったのだ。夜の寒さが理由だったかもしれない。食べものが理由だったかもしれない。第二の星には分からない。寄り添った。それだけだ。

遥か北、岩と氷が交互に現れる土地で、別の形をした者たちが動いている。額が大きく、肩が厚い。彼らの集団は三十ほどで、岩の影を使って眠る。火を持たない。火を持たないが、凍えていない。体がそのように作られている。彼らの方向に、始まりの大地の者たちは行かない。彼らも来ない。

雨が続く。水面は揺れている。岩棚の上、細い草が一本、風に折れた。

与えるもの

その者が十七になっていた。

渡してきた。煙の向き、水の匂い、根の見え方。どれほど届いたかは問わない。問うたところで答えは返らない。

今、集団の中で何かが変わりかけている。小さな集団が混ざり込んだ。匂いが変わった。声の高さが変わった。その者はそれを感じている。私には分かる。肩の角度が違う。

風が、新しく混じった者たちの方から吹いた。
その者は鼻を少し上げた。
また嗅ごうとするか、嗅がずに別を向くか。私はまだ知らない。ただ、次に渡すべきものは決まっている。混じりものの匂いを怖れるのか、近づく理由にするのか——それが問いではなく、渡すべき問いそのものだ。

その者(13〜18歳)

夜が明ける前に目が覚めた。

岩棚の壁の染みが、昨日より濡れている。指先でそこを触ると、冷たかった。壁が冷たいのに、隣で眠っている者の背中は温かかった。その者は少しだけ背中の方へ移動した。温かさのために。

日が昇った後、集団の端に知らない匂いがした。

自分たちの匂いではない。獣でもない。近いが、遠い。その者は食べかけの根を握ったまま立った。立って、においの方を見た。見たが、何も見えなかった。

新しく来た者たちは岩棚の端に固まっていた。子どもが二人いた。一人は泣いていた。泣き声は獣のそれに似ていたが、獣ではなかった。

その者は根を一口嚙んだ。

嚙みながら、もう一度においの方を向いた。

子どもの泣き声が止んだ。止んだ後、その子どもは咳をした。その者は自分も昨年の乾季に何度も咳をしたことを、身体の奥で覚えていた。思い出したのではない。喉の内側が覚えていた。

根を握ったまま、その者は三歩、端の方へ歩いた。

止まった。

また一歩。

止まった。

泣き止んだ子どもがその者を見ていた。その者も子どもを見た。どちらも何もしなかった。風が岩棚の内側を抜けた。においが混じった。

その者は根を、地面に置いた。

伝播:DISTORTED 人口:389
与えるものの観察:混じりものの匂いへ、根を置いた。
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第589話

紀元前297,065年

第二の星とその者(18〜23歳)

乾いた季節が終わった。

大地はそれを知らせずに変わった。赤茶けた土の表面に、白い粉が吹いていた。雨が来なかった跡だ。だが地の下では何かが動いていた。根が、岩の隙間を押し広げていた。

その者は足裏でそれを感じた。地面が少し、やわらかかった。昨日と違う感触。立ち止まった。また踏んだ。

集団の東の端に、旧人の気配があった。煙ではない。糞の匂い、踏み荒らされた草の方向、折れた枝の角度。この集団が追ってきた獣を、別の手が先に仕留めていた。怒りが集団の中を走った。唸り声が重なった。長老格の雄が、両手を広げた。

その者は声を出さなかった。

唸ることも、腕を振り上げることも、しなかった。ただ折れた枝を拾い上げた。折れ口に鼻を近づけた。樹液の匂いがした。まだ生きている木の匂い。

集団は東へ向かった。その者も追った。

川の支流が三本に割れる場所で、旧人の集団が見えた。小さかった。こちらより少ない。子が一人、女の膝に抱かれていた。男たちは石を持っていた。こちらも石を拾い始めた。

その者の手は動かなかった。

地面を見ていた。川の支流が分かれる場所に、砂が積もっていた。砂の上に、小さな穴がいくつも開いていた。水が引いた跡だ。穴の縁が崩れかけていた。

声が上がった。石が飛んだ。旧人側の一人が倒れた。こちらも一人が岩に頭をぶつけ、そのまま川縁に膝をついた。仲間が引きずって戻ってきた。引きずられながら、その者の足元を通り過ぎた。

その者は砂の穴を見ていた。

夜、火を囲んでいた。興奮した者たちが腕を叩いた。誰かが何かを持ってきた。旧人から奪ったものだ。見たことのない形だった。丸い石を割った断面に、赤い筋が入っていた。

その者は手を伸ばした。

触れさせてもらえなかった。強い者が持ち、強い者が眺め、強い者が地面に叩きつけた。砕けた。赤い筋が散った。

その者は砕けた欠片を一つ拾った。手のひらに乗せた。

重さがあった。思ったより重かった。

18歳から19歳へ。19歳から20歳へ。

集団は動いた。西へ、また南へ。旧人との緊張は続いていた。接触するたびに石が飛んだ。何人かが傷を負った。傷が腫れた者は、次の移動に遅れた。遅れた者は、戻ってこなかった。

その者は20歳になった。

足が速くなっていた。獲物を追う時、集団の前に出ることがあった。だが仕留めるのはいつも別の者だった。その者の手は、止まった。

止まって、周囲を見た。

風が動いた。草原の端から、熱い空気が来た。その空気の中に、かすかに獣の匂いがあった。その者は匂いの来た方向へ顔を向けた。誰もそちらを見ていなかった。

その者は走った。

茂みの陰に、若い鹿が一頭いた。足を引きずっていた。

仕留めた。

仲間が来た。肉を持ち帰った。誰も、その者がどこへ走ったかを問わなかった。ただ食った。

その者も食った。骨を舐めた。骨の中に白いものがあった。柔らかかった。甘かった。

21歳。22歳。

集団に子が増えた。子が増えると、移動が遅くなった。旧人との境界線が不安定になった。夜、見張りをする者が必要だった。その者は夜に起きていることを覚えた。

火が低くなる。星が動く。

その者は空を見ていた。何かが動くことは知っていた。同じ方向に動くことも。だがそれが何を意味するかを、持っていなかった。ただ見ていた。

23歳の始め、川が氾濫した。

上流で何かがあったのだろう。突然、水が増えた。子二人と老いた女一人が流された。その者は浅瀬を走り、子の一人の腕を掴んだ。水が腰まで来た。石の上で踏ん張った。

引き上げた。

子は生きていた。老いた女と、もう一人の子は戻らなかった。

その夜、その者は川縁に座った。水音がしていた。手のひらを開いた。あの時、砕けた赤い石の欠片が、まだそこにあった。ずっと持っていた。なぜ持っていたか、言葉がなかった。

ただ、持っていた。

与えるもの

熱い空気がその方向から来た。

走った。

渡すつもりで送ったものではなかった。だが受け取った。

次に渡すべきものを、考えている。受け取れる者かどうかではない。渡す形が、まだ見えない。

伝播:NOISE 人口:401
与えるものの観察:走った。風の向きから、走った。
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第590話

紀元前297,060年

その者(23〜28歳)

雨が来た夜から、世界は変わった。

土が柔らかくなった。足が沈む。歩くたびに音がする、ぬるりとした重い音が。その者はそれを足の裏で確かめながら、水場に向かって斜面を下りていた。

水場には、見知らぬ者たちがいた。

その者の集団ではない。体つきが違う。眉の骨が盛り上がり、首が短く、肩幅が広い。四人いた。水を飲んでいた。それだけだった。その者は止まった。

止まって、見た。

見知らぬ者たちも止まった。水から口を離し、こちらを見た。

その者は手を動かさなかった。声も出さなかった。ただ立っていた。やがて見知らぬ者たちの中でいちばん大きな者が、低い音を喉から出した。威嚇ではなかった。問いでもなかった。その者には何もわからなかったが、その音の中に、水のような何かがあると感じた。

それから見知らぬ者たちは去った。

その者は水場に近づき、水を飲んだ。

水は同じ水だった。冷たく、底が見える深さで、岸の泥に小さな足跡が残っていた。その者は足跡を見た。指の形が違った。自分の足の指より、もう少し丸かった。

夕方、集団の場所に戻った。

焚き火の前で年嵩の者たちが集まっていた。その者が来ると、何人かが顔を上げた。その者は手を動かした。見た、を示す仕草をした。違う者たちを、水場で。

年嵩の者のひとりが立った。

低い唸り声で何かを言った。別の者が何かを返した。その者には聞き取れなかった。だが体の緊張が伝わってきた。空気の変わり方で、肌がわかった。

翌朝、その者は集団の縁にいた。

誰も声をかけなかった。火の前に座ろうとすると、年嵩の者が体をずらして場所をふさいだ。その者は立ったまま、しばらく火を見ていた。炎の形が変わり続けた。同じ形が二度来ることはなかった。

その者は集団から離れた。

数日が過ぎた。

集団のそばにはいた。眠る場所だけ、少し離れた。食い物を探すときは一人だった。雨のせいで実が多く、根が掘りやすく、水辺に獣が来た。飢えることはなかった。だが夜に火がなかった。

夜に火がないということを、その者は以前知らなかった。

闇の中で体を丸めながら、その者は耳を澄ませた。獣の気配、風の動き、遠い水音。それらを聞きながら、水場で見た足跡の形を何度も思い出した。

丸い、指の形。

第二の星

雨が大地を満たした季節だった。

乾いていた土が水を含み、草の根が伸び、実が重くなった。水辺に集まる獣の数が増え、この大地で暮らす者たちは食に困らなかった。子が生まれ、育ち、集団の数はそれまでより大きくなった。幼くして消える命も減り、生き延びる者が増えた。

同じ大地の別の場所では、異なる形の者たちが同じ雨を受けていた。眉の盛り上がった、首の短い者たちが、谷の斜面に沿って移動し、川沿いに泊まり、水を飲んだ。この二つの群れが交わることは稀だったが、雨が豊かな季節には同じ場所に引き寄せられた。同じ水場が、同じ実りが、異なる者たちを同じ場所へ連れてきた。

この星はそれを見ていた。

大陸の北では、氷の縁が少しだけ後退し、その下から湿った土が現れていた。遠い海の向こうでは、火を噴く山が静かな煙を上げていた。大地は揺れておらず、空は澄んでいた。

豊かな季節の中で、小さな群れから一人が外れていた。

その者は食えていた。眠れてはいなかった。

与えるもの

水場の泥に、足跡が二種類あった。

その者は比べた。自分のものと、それ以外のものを。比べるために、しゃがんだ。

その行為を、与えるものは見ていた。

渡したのは影の落ち方だった。夕刻、二つの足跡に同じ斜めの光が差し、影が同じ方向に伸びた。その者は影を見て、また足跡を見た。

光は渡せた。

気づいたことが何を変えるかは、まだわからない。だが次に渡すべきものが、少しだけ形を持ち始めた。比べる者に渡せるものは、比べる対象を増やすことかもしれない。

伝播:HERESY 人口:495
与えるものの観察:比べることが始まった
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第591話

紀元前297,055年

第二の星

水が戻った。

それだけで、世界の形が変わる。土は割れた口を閉じ、草の根は再び地面の深いところへ伸びていく。斜面の岩肌についていた白い痕——干上がった水の跡——が雨の夜に一晩で消えた。見えていたものが消え、見えなかったものが現れる。

あちこちで、足跡が増えた。

湿った土は何も隠さない。小さなひづめの跡、大きな平たい足の跡、四本指の細い爪の痕。水場に向かう道の左側、泥の中に、見たことのない形の足跡が続いていた。指の間隔が広く、かかとが深く沈んでいる。重い者が歩いた跡だ。だが人ではない。何かが、この場所を知っている。

雨の翌日から、斜面の下の水場には見知らぬ顔が来るようになった。

似ているが、違う。額の骨が張り出している。肩が広く、首が短い。声がない。身振りも少ない。ただ水を飲み、水辺に座り、空を見る。こちらを見ても逃げない。こちらも逃げない。ただ、距離がある。どちらも距離を縮めない。

一方の斜面の上では、毎朝煙が上がるようになった。

あちらも火を持っている。あちらも火を管理している。夜、煙の匂いがふたつの方向から来る。風が向きを変えるたびに、どちらかの匂いが濃くなり、もう一方が薄くなる。どちらの匂いも、燃えた木の匂いだ。焼けた獣の脂の匂いだ。同じものを燃やしている。

集団の中で何かが変わり始めていた。

年長の者が、水場への道を変えた。遠回りだが、あの足跡のある道を通らない。若い者の一部は旧い道を使い続けた。どちらが正しいかを誰も言わない。言える言葉がない。だが、どちらの道を歩くかで、何かが決まっていく。

水場で向かい合う時間が、少しずつ長くなっていた。

向こうの者がこちらを見る。こちらの者が向こうを見る。何もない。声もない。身振りもない。ただ、水面に映るふたつの影が、同じように揺れている。

それを見ていた者が、集団に戻って何かを訴えた。唸り声と腕の動きで、繰り返し、繰り返し。誰も応えなかった。訴えた者は黙り、その夜は火のそばに座らなかった。

緊張は言葉を持たない。だが形を持つ。

誰が水場に行くか。誰が行かないか。誰の隣に座るか。誰の隣には座らないか。選択が積み重なり、集団の中に線が引かれていく。見えない線だが、踏んだ者には分かる。踏んだ時、周囲の空気が変わる。

その者は、その線の上に立っていた。

与えるもの

水場の岸に、折れた枝が浮いていた。

流れに乗って近づき、岸の泥に引っかかった。先が尖っている。長さは腕より少し短い。

その者は枝を拾い、しばらく持って歩き、地面に突き立てて遊んだ。やがて飽きて、手放した。

渡せた。使い方が分からなかった。——手放す前に、向こうの者と目が合っていた。次は、目が合った時に渡せるものがあるか。

その者(28〜33歳)

枝を置いた後、その者は水面を見た。

向こう岸に、額の張り出した者が座っていた。こちらを見ていた。

その者は動かなかった。向こうも動かなかった。

風が匂いを運んだ。煙と、脂と、土の匂いが混ざっていた。

その者は、立ったまま、ただそこにいた。

伝播:HERESY 人口:483
与えるものの観察:枝を渡した。使い方より、目が先だったか。
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第592話

紀元前297,050年

その者(33〜35歳)

雨が戻ってから、肌の内側に何かが巣くった。

最初は夜だけだった。眠りに落ちる前、胸の奥が重くなる。目を開ければ消える。目を閉じれば戻る。その者はしばらく、両方の間で往き来した。

起き上がれなくなったのは、日が短くなり始めた頃だ。

集団の中の年老いた女が水を持ってきた。草の茎を噛んでできた汁を、その者の口元へ運んだ。その者は受け取った。飲んだ。飲んでも何も変わらなかった。女は何も言わなかった。また来た。また水を持ってきた。

子どもたちが近くを走り回っていた。その者は目で追った。足の速い子を目で追い、転んだ子を目で追い、泥のついた膝を目で追った。口の端が少し動いた。何を言おうとしたのかは、その者だけが知っていた。

三日目の朝、その者は自分の手を見た。

長い間、見た。

爪の下の汚れを、指の節の乾いた皮を、手のひらの線を。何かを思い出そうとするように。何かを確かめようとするように。それとも、ただ見ていただけかもしれない。

陽が傾いた。

その者の体から力が抜けた。呼吸が浅くなった。それから静かになった。それだけだった。

年老いた女が来た。座った。動かなかった。

子どもたちは夕方になっても走り回っていた。

第二の星

乾いた台地の縁で、旧人のひとりが岩の割れ目に指を入れていた。何かの匂いを嗅いでいた。奥に水があった。近くの草地では、別の集団の者たちが火を囲んでいた。互いの存在を知らなかった。知ろうとも思っていなかった。台地の上に雲が出て、月を隠した。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:SILENCE 人口:493
与えるものの観察:手を見ていた。何のためかは問わない。
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第593話

紀元前297,045年

第二の星

北の氷が後退した年から五年が経った。

草原の縁で、大きな獣の群れが南に移動した。前年より早い。空が低く、雲が厚く、雨は三日に一度降る。地面が柔らかくなっている。腐葉が積もった場所では、白い菌糸が根のように広がっていた。

東の岩壁に、別の集団がいた。手足の形がわずかに違う。顎が前に出ている。眉の骨が厚い。彼らは岩の上で小さな焚き火を持ち、夜に音を出した。低く、繰り返す音だった。誰かへの呼びかけかもしれなかった。あるいは単なる呼気だったかもしれない。この星は区別しない。

始まりの大地では、集団の中心から外れた場所に、小さな体が動いていた。

六歳。

足跡は成人の足跡の半分の大きさだった。そこから離れていた。離れすぎていた。

与えるもの

糸が繋がった。

この者はまだ六歳で、転んで膝を擦りむいたばかりだった。

東の岩壁の方向から風が吹いた。獣の匂いでも、火の匂いでもなかった。草が濡れたような、土が混じったような、どこにも属さない匂いだった。

この者は立ち止まった。

匂いの方向に顔を向けた。二歩、歩いた。

それだけだった。集団の声が聞こえて、引き返した。

渡せたかどうか、わからない。しかし問いは変わった。距離の問題ではないかもしれない。この者が何かを受け取る前に、集団が何かを奪うのかもしれない。

次に渡すべきものがある。境界の感覚だ。どこまでが安全で、どこからが違うか。この者の体がそれを知る前に、体が動いてしまう。

その者(6〜11歳)

膝が痛い。

転んだ場所の石は平たかった。何も悪くない石だった。自分が躓いただけだった。それでも手に持ち上げた。置いた。また持ち上げた。捨てた。

集団は川の上流に向かっていた。大人の脚は速い。背負った荷が揺れる。子どもを抱えた女が前を歩いている。赤ん坊が泣いていない。ぐったりしている。

その者は見ないようにした。

東の方向に、煙が細く立っていた。昨日もあった。一昨日もあった。

風が来た。

草の匂いではなかった。何の匂いかわからなかった。でも足が止まった。顔がそちらを向いた。

岩がある。岩の上に何かがある。動いている。

大人の唸り声が後ろから来た。

その者は走った。集団に追いついた。追いつきながら、後ろを見た。

岩の上のものはまだ動いていた。

夜、焚き火の傍で横になった。隣の老いた男が咳をした。長い咳だった。止まらなかった。

その者は目を開けたまま煙を見ていた。

煙が東に流れた。

伝播:DISTORTED 人口:507
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第594話

紀元前297,040年

その者(11〜16歳)

雨が続いた五年だった。

草が腰まで伸びた。水場が増えた。獣の足跡があちこちに残り、集団は追わずとも食えた。子が次々と生まれ、育った。集団は膨れ上がった。

その者は十一歳のとき、腹が空いて死にかけたことを覚えていた。あの渇き、あの骨の軽さ。それが消えた。いつの間にか消えていた。

十三歳になった頃、その者は何かを感じ始めた。

夕方、風が吹くとき。西の茂みに何かがいる、と感じる前に体が止まる。朝、霧が薄れるとき。あの水場の奥に別の集団がいる、とわかる前に踵が地面を押す。なぜかはわからない。ただ体が先に動く。

大人たちは笑わなかった。笑う余裕がなかったのではない。その者が正しかったからだ。二度、三度、その者の体が正しかった。

だからその者は連れて行かれた。偵察に。水場の確認に。境界の確認に。

十五歳の秋、その者は別の集団と鉢合わせた場所から帰ってきた。相手の数、相手の向き、相手が持っていたもの。その者は帰ってきて、唸り声と手振りで伝えた。伝わったかどうかはわからなかった。大人たちは顔を見合わせた。

翌朝、集団は移動した。

相手の集団はいなくなった。その者が知っていたから、接触を避けられた。三度あった。

それが問題だった。

そのことに気づいた者がいた。集団の中に。

その者が何を知っているかを、その者自身は隠せなかった。唸り声の高さ、体の向き、目が止まる方向。全部が出た。

十六歳の初夏、その者は水場への道を一人で歩いていた。後ろから呼ばれた。振り向いた。

殴られた、のではなかった。

石が飛んできた。額に当たった。その者はその場に座り込んだ。立てなかった。草の茎が頬に触れていた。土が濡れていた。昨夜の雨がまだ残っていた。

空が白かった。

何かが頭から出ていくような感覚がした。怒りでも恐怖でもなかった。ただ遠くなった。草の匂いだけが残った。

誰かの足音が遠ざかっていった。

第二の星

同じ頃、遠い砂漠の涸れた川底で、別の生き物の群れが水を探して地面を掘っていた。深く、ひたすら深く。水は出なかった。空は青く、影もなかった。この星はどちらも等しく照らしていた。草の匂い。砂の熱さ。それだけが世界に満ちていた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:626
与えるものの観察:渡したのは匂いだった。届いていた。
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第595話

紀元前297,035年

その者(11〜15歳)

草が腰まで伸びる年が続いた。

その者は十一のときから群れの縁を歩いた。狩りの列には加えてもらえなかった。採集の列でも、後ろの後ろにいた。足が細かった。腕も細かった。それでも群れについていった。

十二になったとき、川魚を手でつかまえることを覚えた。ぬるい水に膝まで入り、影のように動かなくなり、魚が足元を通るのを待った。何十回も失敗した。爪が割れた。膝から血が出た。それでも待った。

つかまえた魚を群れの誰かに渡した。受け取ってもらえないこともあった。受け取ってもらえたとき、その者は声を上げなかった。ただ川に戻った。

十三になったとき、群れの中で別の集団と出会いがあった。異なる匂いの者たちだった。互いに唸り合い、睨み合い、しばらく離れた場所に座った。夜、焚き火を挟んで二つの群れが並んだ。その者は遠くから見ていた。

十四の冬、熱が来た。

はじめは悪寒だった。毛皮の下でふるえた。翌朝、起き上がれなかった。群れの者が水を持ってきた。一人だけ、いつも水を持ってきた。その者はその顔を見た。見るだけだった。

熱は下がらなかった。

三日目、その者は岩の陰に移動した。自分で動いた。ゆっくり、膝をつきながら。岩は冷たかった。その冷たさを確かめるように、額をあてた。

風が吹いた。草の匂いがした。腐った葉の匂いも混じっていた。

その者は目を開けたまま空を見ていた。雲が動いていた。一つ、また一つ。

水を持ってきた者が、またそこに来た。その者は手を上げようとした。上がらなかった。目だけ動かした。

五日目の朝、水を持ってきた者が来たとき、その者はもう動かなかった。岩に額をあてたまま、冷えていた。

草の音がしていた。風はまだ吹いていた。

第二の星

同じ頃、川の上流で二つの群れが石を投げ合っていた。水場をめぐる争いだった。双方に血が出た。ひとりが川に落ち、そのまま流された。下流の草が揺れた。それだけだった。川は流れ続けた。水場は残った。どちらの群れも、翌朝そこで水を飲んだ。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:NOISE 人口:630
与えるものの観察:見ていることしかできない時がある。それでも。
───
第596話

紀元前297,030年

その者(10〜15歳)

石を投げた。

群れの縁で、知らない者たちが近づいてきた夕方だった。眉の形が違った。額が厚かった。その者より頭ひとつ大きかった。

その者は石を拾っていた。採集の帰りだった。手の中に根菜が三本あった。

知らない者たちは止まった。

その者も止まった。

知らない者たちのひとりが音を出した。低く、長い音だった。脅しではなかった。問いでもなかった。その者には意味がわからなかった。

その者は石を握ったまま、動かなかった。

知らない者たちは去った。闇の方へ歩いた。振り返らなかった。

その者は走った。群れのいる岩陰まで走った。息が上がった。誰かに伝えようとした。音と身振りで伝えようとした。手で額の形を示した。背の高さを示した。

古老がその者を見た。

別の男が立ち上がった。

その者が何を見たか、全員にわかった。

その夜、男たちが集まった。長い唸り声が続いた。その者は端に座っていた。

翌朝、その者は群れの外に出ることを禁じられた。

それだけならよかった。

三日後、その者が岩陰から離れたとき、後ろから腕をつかまれた。引きずられた。何が起きているのかわからないまま、断崖の縁まで連れてこられた。

その者は下を見た。

遠かった。

腕をつかんでいた男は、その者を見なかった。空を見ていた。何かを考えているのか、何も考えていないのか、その者にはわからなかった。

突き飛ばされた。

草が、落ちながら見えた。遠ざかる草だった。

風の音だけがあった。

第二の星

その季節、風は穏やかだった。

大地の北では、草原が広がっていた。草は膝を越えていた。雨は規則正しく降り、川は細く安定していた。集団は増えていた。増えた集団は動いた。縄張りが押し合いを始めていた。

別の眉を持つ者たちと、似た眉を持つ者たちが、同じ水場を使うようになったのは、今に始まったことではなかった。長い年月、互いに距離を取ってきた。近づきすぎることもなく、完全に離れることもなく。

集団が大きくなると、その距離は縮まった。縮まると、恐れは増した。恐れが増すと、群れは内側を向いた。

知らせをもたらした者は、知らせそのものとして扱われた。

大地の別の場所では、子どもたちが水辺で遊んでいた。魚を手で掬おうとして、転んで、笑われた。火が木の枝に分けられた。夜が来て、また朝が来た。

その者が落ちた断崖の下では、風が吹いていた。草が揺れていた。どこかの集団の煙が、遠く、細く立っていた。

大地は何も変えなかった。草は次の朝も伸びていた。

与えるもの

糸が繋がった。

匂いを示した。断崖の手前、足元の土が濡れた匂いを。

その者は立ち止まった。

一瞬だけ。

それから連れていかれた。

——この者は感じた。止まった。それで十分だったか。わからない。次に渡すべきものは、止まることではないかもしれない。走ることかもしれない。

伝播:HERESY 人口:778
与えるものの観察:感じた。だが止まることは救いにならなかった。
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第597話

紀元前297,025年

第二の星

乾いた季節が終わった。

大地の東側では、草が膝の高さまで戻った。水場に動物が戻り、群れのいくつかは北へ移動した。子どもが生まれた。また生まれた。集団は膨らんでいく。

しかし膨らむものは、縁がある。

同じ頃、西の岩棚の下で、別の群れが火を囲んでいた。眉の張り出した者たち。額の厚い者たち。彼らも子を持ち、肉を分け、眠った。彼らにも縁があった。

この星は区別しない。

どちらの足跡も同じ深さで土に残る。どちらの血も同じ速さで大地に染みていく。

夜、ふたつの火が遠く離れて見えた。どちらも消えずにいた。どちらも揺れていた。

そしてもうひとつ、さらに遠くの窪地で。崖の下の岩陰で、ひとつの群れが別の群れを追い出していた。声もなく。石だけが飛んだ。草が踏み荒らされた。そこに残ったのは、誰のものでもない焚き火の跡だけだった。

第二の星は照らした。何も言わなかった。

与えるもの

その者の背に、風が当たった。

南からではなかった。東からでもなかった。西だった。知らない火の匂いがした。

その者は立ち止まった。

立ち止まったことを、与えるものは覚えている。

立ち止まった者が次に何をするかを、与えるものは問う。逃げるか。近づくか。それとも石を手にしたまま、ただ立っているか。

渡したかったのは方向ではない。「こちらではない」という感覚だ。それが届いたかどうかは、また別の話になる。けれど渡す意志は、もう一度ある。届かなくても。届いたとしても、どうなるかわからなくても。

その者(15〜20歳)

火の匂いがした。

自分たちのものではなかった。

その者は石を持ったまま動かなかった。足の裏が土の硬さを感じていた。昨日より乾いていた。風が頬を横切った。

群れの中の年かさの者が、低い音を出した。喉の奥から押し出すような音だった。その者はその音を聞くと、いつも胃のあたりが硬くなった。今もそうだった。

群れが動き始めた。

その者は最後に立っていた。石を持ったまま。

火の匂いはまだあった。遠かった。人の匂いも混じっていた。自分たちと同じ匂いではなかった。しかし火は火だった。

足が動いた。群れについていった。

夜、岩の壁に背をつけて座った。隣に小さな者が寄り添ってきた。まだ歩き始めて二年ほどの子だった。その者はその子の背に手を当てた。温かかった。

眠れなかった。

目は閉じたが、風の音を聞いていた。西から来る風を聞いていた。

朝になった。年かさの者のひとりが、西の方角を顎で示した。そちらへ行くな、という意味だった。その者にはわかった。

その者は頷かなかった。

石を持ち直した。

伝播:HERESY 人口:744
与えるものの観察:立ち止まった。それだけでいい。今は。
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第598話

紀元前297,020年

第二の星とその者(20〜25歳)

雨が戻った。

草は膝を越えた。腰まで届くものもあった。動物の足跡が水場に積み重なり、何層にもなった。集団が増えた。増えた者たちは別の水場の方角から来た者も含んでいた。体の大きな、額の平らな者たちが、その者たちの群れの端に現れた。旧人だった。近づいた。追い払われなかった。

その者は草の中にいた。腹が満たされていた。それは珍しいことだった。

額の平らな者の一人が、小さな唸り声を出した。その者が向いた。唸り声ではなかった。何か別のものだった。空気を喉で形にしていた。その者はそれを聞いた。もう一度聞きたかった。しかし向こうはもう別の方向を見ていた。

豊穣が人を寄せた。集まった者たちは同じ火を囲んだ。火は大きくなった。食料の余りが生まれ、余りをめぐって手が出た。拳が飛んだ。血が出た。しかし誰も死ななかった。翌朝また火を囲んだ。

その者は集団の中で長老の次に座るようになった年長者を見た。その者の父に似た骨格の男だった。父はいない。五年前に消えた。戻らなかった。

男は顔の傷が深かった。最近できた傷ではない。旧い傷だった。肉が盛り上がって固まっていた。その者は自分の左の手のひらを見た。細い傷があった。幼い頃に岩で切った跡だった。指でなぞった。

大地のいたるところで木の実が実った。その者の立ち位置から遠い斜面では、別の集団が一本の木をめぐって争い、二人が転がり落ちた。一人は立った。一人は立たなかった。

その者はある日、集団の外れで一人になった。理由があったわけではない。ただ、群れから少し離れたくなった。草の中に座った。虫の音があった。

草の先に光がひとつ、強く落ちた。

周りも同じ光の中にあった。しかしそこだけ違った。その者の目がそちらに向いた。光の中に、剥がれた樹皮が一枚あった。端が尖っていた。雨のあとで柔らかくなっていた。

手に取った。

指で押した。指の先に跡がついた。何かを刻むように指を動かした。線が残った。その者はそれを見た。もう一度やった。また線が残った。同じ場所に何度もやると、跡が深くなった。その者の息が静かになった。虫の音がまだあった。

その者は樹皮を持って群れに戻った。誰にも見せなかった。草の根元に置いた。翌朝確かめた。あった。また指で触った。跡は消えていなかった。

その後の季節、集団の中で何かが変わった。

旧い傷の男が、より若い男と何かを巡って争った。二人の体が組み合った。集団の者たちが取り囲んだ。その者も見た。旧い傷の男が押された。足元の石に躓いた。転んだとき、岩に首をぶつけた。音がした。男は起き上がらなかった。

その者は岩を見た。血が少しついていた。

男を埋めた。集団でやった。手で掘った。皆が土を入れた。終わったあと、誰も長くそこに立っていなかった。

その者だけが残った。少しの間だけ。何を思っていたかは、その者自身も言葉にできなかった。ただ足が動かなかった。

その者は、旧い傷の男が知っていたことを考えた。男が知っていたこと。それが消えた。どこに行ったのか。

その者が草の中に座った日から少し経った。

集団の中で、その者の動きが誰かに気づかれた。樹皮を持ち歩くこと。指で跡をつけること。旧い傷の男が死んだあと、跡を継いだ若い男が、その者を呼んだ。呼ぶ、という言葉はまだなかったが、唸り声と目線が、来い、という意味を持った。

その者は行った。

若い男は何かを尋ねた。唸り声と身振りで。跡は何か、と聞いていた。

その者は答えられなかった。

若い男の目が変わった。

与えるもの

光をあの樹皮に落とした。

この者は拾った。指を動かした。線を作った。

線を消さなかった。それだけでよかった、と思う。しかし線を消さなかったことが、別の者の目に触れた。触れてはいけなかったかどうか、わからない。渡した。渡してしまった。次に渡すべきものを、今は考えられない。

手のひらの線を、かつて見た。爪の汚れを、かつて見た。草の匂いと濡れた土の中で消えた者がいた。その者たちは今どこにもいない。

この者も。

次に渡せるなら。渡せるなら。風の方向を、もう一度。

伝播:HERESY 人口:919
与えるものの観察:線は残った。しかし残ったことが引き金になった。
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第599話

紀元前297,015年

第二の星

乾期が終わった。

大地の北で、河が氾濫した。泥が低地を塗り替え、枯れていた葦の根が水を吸って膨らんだ。その膨らみを、岸に立つ脚が踏んだ。旧人のものだった。旧人はそこに二十年いた。今も いる。

南では、二つの集団が同じ丘の斜面に野営した。どちらが先に来たか、もうわからなかった。子どもたちが一緒に走っていた。走り方が違った。膝の上げ方が、腕の振り方が。しかし追いかける方向は同じだった。

東の岩棚で、誰かが獣脂で手の輪郭を岩に押しつけた。乾いた。色が残った。その者は翌朝に崖から落ちた。手だけが残った。

西では旱がまだ続いていた。土が粉になる手前で、ある家族が移動した。荷物は持たなかった。持てるだけの子どもを抱えた。

この星は傾き、回り、光を受けた。どこが豊かで、どこが乾いているかを、問わずに照らした。

その者の集団がいる場所では、草が揺れていた。獣の通り道が幾本もできていた。人が増えた分だけ、争いの声が増えていた。

与えるもの

糸は続いている。

渡してきた。草の匂いを。魚の待ち方を。額に触れる手の形を。風の来る向きを。樹皮の指の跡を。

この者はそれを、受け取ったのか。それとも自ら辿り着いたのか。

今日、ある音がした。集団の外れから聞こえた、高い唸り声。争いの声だった。与えるものはそこに影を落とした。足元の土が、影の縁でわずかに暗くなった。ひとつの石だった。集団の誰かが踏んで、転んで、拾い上げた石だった。角があった。重さがあった。

その者はその石の近くにいた。

与えるものは、その石に影を落としたままにした。

その者が手を伸ばすか、離れるか。どちらにも意味があった。どちらにも次があった。

渡したかった。武器としてではなく。しかし与えるものには形を決める権限がない。石は石だ。手が決める。

その者(25〜30歳)

争いの声は夕方に起きた。

集団の外れで、二人の成人男性が向き合っていた。その者は離れた場所から見ていた。見ていた、というより、音がそちらへ連れていった。

男たちの声は高かった。唸りと、短い破裂音が混ざった。胸が押し合い、手が相手の腕を掴んだ。

その者の足元に石があった。

土の色より少し明るかった。影の向きが違った。その者は何も考えず かがんだ。手が石に触れた。重かった。角があった。指の腹に食い込む感触があった。

立ち上がった。

石を持ったまま、男たちを見た。男たちの声はまだ続いていた。腕が絡み合っていた。

その者は石を持っていた。

投げなかった。

叫んだ。

短い音だった。「ア」でも「オ」でもない、喉の奥から押し出した音。石を持った腕を上に上げて、叫んだ。

男たちが止まった。振り向いた。

その者は石を地面に置いた。置いた石から手を離した。それだけだった。

男たちはまた向き合ったが、声の高さが変わっていた。手は離れた。

その者は石を持たずに戻った。

夜、焚き火の傍で、その者は手のひらを見た。右手だった。石を持っていた手だった。見ていたが、考えていなかった。火が指の影を揺らした。その者は手を閉じた。

伝播:SPREAD 人口:927
与えるものの観察:石を置いた。それが何かはわからない。
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第600話

紀元前297,010年

第二の星

河の氾濫は五年前に終わった。泥は乾いて割れ、割れた跡に草が生えた。草を追って、大型の獣が北から南へ移動した。

始まりの大地の低地では、集団が四つの焚火を囲んでいた。四つが二つになったのは三年前だ。争いではない。子が増えて、食べる口が増えて、獲物を追う範囲が広がった。焚火のひとつが移動し、そのまま戻らなかった。残った者と去った者は、ときおり水場で顔を合わせる。顔を合わせれば、声を出す。声は同じ音で始まる。しかし意味は少しずつ違ってきている。

南の高地では、別の群れが岩の陰に身をひそめていた。旧人の集団だった。彼らの火はなかった。彼らは夜を歯で、爪で乗り越えていた。

夜、始まりの大地の上空で、風が向きを変えた。乾いた大地の匂いが、濡れた草の匂いに変わった。

この星は、それを見ていた。ただ見ていた。

与えるもの

水場の縁に、平たい石があった。
陽の当たりかたが、夕方だけ変わる。その石の上に、影が落ちた。

その者は石を踏んで水を飲んだ。影には気づかなかった。

同じことを渡している。
同じように届かない。
しかし、足の裏は石の温度を覚えている。
その温度が、次に何かを渡す場所になるかもしれない。

その者(30〜35歳)

朝、目が覚めると群れの半分がいなかった。

移動の声は夜のうちに出ていた。その者は聞いていなかった。あるいは聞いていても、身体が起きなかった。

残った者は七人だった。老いた女が一人、子を抱えた男が二人、年嵩の者が三人、それとその者。七人は顔を見合わせた。誰も音を出さなかった。

水場へ向かった。草を踏む音だけが続いた。

縁に着くと、その者はしゃがみ込んだ。水面に顔が映った。その者は自分の顔を見なかった。水の下の、砂の動きを見ていた。細かい砂が、水の流れに沿って少しずつ動いていた。動いて、積もって、また動いた。

平たい石を踏んで、水を飲んだ。

石が温かかった。

その者は立ち上がって、また石を見た。陽は高くなかった。石の温度は朝の石のものではなかった。その者はしゃがみ直して、手のひらを石に置いた。押した。石はずれなかった。

老いた女が、その者の腕を引いた。行くべき方向へ引いた。

その者は立った。

石から手を離した。

しかし歩きながら、振り返った。一度だけ。石は水場の縁にあった。陽の光の中に、特別なものは何もなかった。

その者は、集団の後を歩いた。

三日後、水場の南で、旧人の群れと鉢合わせた。

旧人は三体いた。こちらは七人だった。数の差は明らかだった。しかし旧人は動かなかった。こちらも動かなかった。しばらく、ただそこに立っていた。

旧人の一体が、地面に目を落とした。そのまま、向きを変えて去った。残りの二体が続いた。

七人は声を出さなかった。

その者だけが、旧人の去った方向を長く見ていた。

老いた女がまた腕を引いた。今度は、その者は振り返らなかった。

六日目の夜、子を抱えた男の一人が、焚火から離れた場所で倒れていた。傷はなかった。息もなかった。身体はまだ温かかった。子は男の傍で眠っていた。子は気づいていなかった。

その者が子を抱えた。

子は目を覚ました。

父を求める声を出した。

その者は声を出さなかった。ただ抱えていた。子が声を出しつづけても、抱えていた。火の傍へ運んだ。

夜が明けた。

伝播:HERESY 人口:883
与えるものの観察:石の温度を覚えた。それで十分か。