2033年、人類の旅

「紀元前297,005年〜紀元前296,885年」第601話〜第624話

Day 26 — 2026/04/28

読了時間 約58分

第601話

紀元前297,005年

第二の星

低地の草は膝まで伸びた。

北の丘陵では、別の集団が火を消してから三十日が経っていた。火を消したのではなく、火を守る者がいなくなったのだ。燃料が尽きたのでも、雨が降ったのでもなく、ただ誰も戻らなかった。

始まりの大地の中央部では、四つの焚火が二つになり、その二つのうちの一つが今夜、普段より大きく燃えていた。乾いた枝を積みすぎた。声が多すぎた。音が、夜の獣を遠ざけるより先に、別の何かを引き寄せていた。

東の水場では、旧人の一群が夜明け前に水を飲んで去った。足跡は大きく、指が開いていた。歩き方が違う。体の重心が違う。それでも同じ水を飲んだ。

第二の星は区別しない。

大型獣の群れは南へ向かった。先頭の雌は片耳がなかった。どこかで失った。その群れを追う者と、その者を見ている者と、その者を排除しようとしている者が、同じ夜の下にいた。

月はなかった。

与えるもの

その者の足が、草の上で止まった。

風が草を倒した。一方向に、まとめて。その先に、別の集団の男が三人、しゃがんでいた。

その者は見た。見て、動かなかった。

渡した。見えるものと、見ないふりをする選択の、どちらも。

以前も何かを渡した。温かい石。指の跡。風の向き。渡すたびに、この者が生き延びた。それがよいことかどうかを、与えるものは考えない。考えようとして、やめた。

この者は知りすぎた、と誰かが決めた。

知るとは何か。まだ問いになっていない言葉で、この者が何かを持っていると、誰かが感じた。それだけだ。

次に渡すべきものが、あるかどうか。それだけを考える。

その者(35〜40歳)

草が倒れた。

風のせいではなかった。風はそっちから来ていない。

脚が止まった。止めた覚えはなかったが、止まっていた。腹の下のほうが冷えた。昼だった。汗が背に張り付いていた。

草の向こうに、背中が三つあった。

見た。

三つの背中は動かなかった。その者も動かなかった。鳥が鳴いた。遠くで。近くでは鳴かなかった。

その者はゆっくりと、右足を後ろに引いた。草が鳴った。三つの背中のうち一つが、首を動かした。

その者は草の中に伏せた。

心臓が喉のあたりで動いていた。顔が地面に触れた。土の匂いがした。腐った葉と、乾いた砂と、何か古いもの。

長い時間が経った。経っていないかもしれなかった。

足音がした。遠ざかった。また来た。また遠ざかった。

空が夕方になっていた。

その者は立ち上がらなかった。もう少し、伏せていた。草の茎が頬に当たっていた。痛くはなかった。ただそこにあった。

それから、立った。

来た方向とは別の方向へ、歩いた。焚火の煙が見えなかった。見つけようとしなかった。

夜が来る前に、岩の影に入った。膝を抱えた。

空腹だった。

それでも動かなかった。何かが、まだそこにある気がした。草が倒れた方向を、その者は何度も思い出した。思い出すというより、体が繰り返した。腹が冷えた感覚を、体がもう一度なぞった。

夜になった。

伝播:HERESY 人口:846
与えるものの観察:風が倒した草の先を、この者は見た
───
第602話

紀元前297,000年

その者(40〜45歳)

岩の影から、見ていた。

集団の中心に、三人の男がいた。その者より頭ひとつ大きい男が、腕を広げて吠えた。声ではなく、体積だった。空気を押しのける量だった。その隣の男が、地面に何かを叩きつけた。乾いた音がした。骨だった。獣の肩甲骨。割れなかった。

その者は岩の陰でそれを見ながら、自分の腹に手を当てた。空腹ではなかった。それでも手を当てた。

三人の男たちは、その者の方を見なかった。しかしその者には、見られていることがわかった。見られていないふりをしながら、見られていた。それは皮膚でわかることだった。うなじの毛が、静かに立った。

五年前、その者はまだ集団の端にいた。焚火の光が届かない場所で、小さな子どもたちと眠った。それが今は違う。違うが、何が違うのかをその者は言葉で持っていなかった。ただ、岩の陰から三人を見ていた。

地面に割れた骨が落ちていた。

その者は岩の陰を離れた。遠回りをした。集団を半周して、別の方向から焚火に近づいた。途中で、子どもが一人、土の上に座って泥を掌で叩いていた。その者はその子の横を通りすぎた。立ち止まらなかった。

焚火の近くに、老いた女がいた。毛皮を膝に乗せて、指で何かをなぞっていた。毛の流れをなぞっていた。その者はその女の隣に座った。

女は顔を上げなかった。

その者も、何も言わなかった。

しばらくして、女が短い音を出した。その者は聞いた。女がまた音を出した。今度は違う音だった。その者は女の膝の毛皮を見た。それから焚火を見た。それから、三人の男たちがいた方向を見た。男たちはもういなかった。

夜が来た。

その者は焚火から少し離れた場所で横になった。空を見た。雲があった。雲の形は一定ではなかった。しばらく見ていると、その者は目を閉じた。

夜の途中で、音がした。

遠い音だった。集団の外から来る音だった。唸り声のような、しかし唸り声ではない何かだった。その者は起き上がった。周囲を見た。焚火は小さくなっていた。

また音がした。

その者は動かなかった。動くかどうか、皮膚が迷った。体が迷った。腹が迷った。

それから、音は止まった。

その者はまた横になった。しかし今度は目を閉じなかった。空を見たまま、夜明けを待った。夜明けが来たとき、その者の体は硬くなっていた。硬いまま、起き上がった。

三人の男のうちの一人が、焚火の近くで倒れていた。

倒れていた。眠っているのではなかった。腹の部分が黒く濡れていた。その者はそれを見た。近づかなかった。遠くから見た。

老いた女が先に近づいた。女は男の顔を見た。それから立ち上がった。それだけだった。

集団の中に、朝の音が戻ってきた。子どもが泣いた。誰かが火に枝を足した。ぱちぱちと音がした。

その者は倒れた男を見たまま、動かなかった。

男の指が、開いたままだった。土の上に、何かをつかもうとしたまま、開いていた。

第二の星

五年が経った。

始まりの大地の中央部では、火の数が増えた。三つになり、四つになり、ある時期には六つの焚火が同時に燃えた。その光が夜の大地に散らばるとき、遠丘から見れば、それは小さな星の集まりのように見えただろう。しかし星を見る者は、まだいなかった。

集団は大きくなった。子が生まれ、また子が生まれ、生き残る数が死ぬ数をわずかに上回った。余裕があるときは、老いた者の食事が増えた。余裕がなくなると、老いた者から食事が減った。そういう順番があった。言葉ではなく、体の配置として存在した。

北の丘陵では、別の集団が動いていた。方向は南だった。ゆっくりとした動きだったが、確実だった。干からびた季節から回復した大地には、獣が戻り、根が深くなり、水場が安定した。二つの集団が同じ水場を知るようになるまで、時間はかからなかった。

始まりの大地では今夜、男が一人、土の上に倒れた。

それが何の始まりなのか、それが何かの終わりなのか、朝の中を誰も問わなかった。子どもは泥を叩いた。女は毛皮をなぞった。火は燃えた。

与えるもの

夜の途中で、煙の匂いが変わった。

自分の焚火ではない匂いだった。違う燃料だった。違う方向から来た。

その者の鼻孔が、わずかに動いた。

体が迷ったのを見た。皮膚が正しかったのを、その者はまだ知らない。

次に渡すなら、においではない何かだ。においはもう、届いた。

伝播:HERESY 人口:808
与えるものの観察:皮膚が正しかった。次は別のものを。
───
第603話

紀元前296,995年

第二の星

北の高地では雪が融けず、平地まで冷気が這い降りてきていた。岩の表面に霜が残ったまま昼を迎える日が続いた。そこに暮らす小さな群れは、火を囲んで身を寄せ、朝と夜の区別をほとんど失っていた。

南では反対のことが起きていた。草原に水が戻り、獣の群れが戻り、子どもたちが丸くなった腹を持つようになった。豊かさは集団を膨らませた。膨らんだ集団は、隣の群れと同じ水場を必要とした。

「始まりの大地」では、三つの集団が同じ丘の周りに暮らしていた。かつて離れていた距離が、少しずつ縮まっていた。誰かが境界を決めたわけではない。しかし誰もが、その線を感じていた。

遠く離れた海岸では、旧人の一族が磯を歩いていた。彼らは貝を割る石を持っていた。子どもが拾った石を、年老いた者が確かめ、首を振り、別の石を渡した。それだけのことが、夕方まで続いた。

その者が排除される夜まで、あと五年もなかった。

与えるもの

この者の首の後ろに、日が当たった。

温かい側ではなく、熱い側の温度だった。皮膚が知っているはずのない方向から。

この者は振り返らなかった。

立ち止まった。

それだけだ、と思いかけて、止まった。この者はいつもそこで立ち止まる。足を止めて、少しだけ、耳を澄ます。それがこの者の受け取り方だ。言葉のない受け取り方。わかっているのかどうかも、わからない受け取り方。

次に渡すべきものは、もう決まっている。

その者(45〜50歳)

朝、水場へ行った。

足の裏が冷えた。泥ではなく、石の冷たさだった。踏んでから、石だとわかった。踏む前には音がなかった。

水を飲んで、顔を拭いた。

帰り道、首の後ろが熱くなった。太陽は前にあった。影は前に伸びていた。しかし熱は後ろから来た。

その者は立ち止まった。

振り返らなかった。耳だけ、後ろへ向けた。音はなかった。風もなかった。草も揺れていなかった。

それでも、熱はあった。

歩き始めた。熱は続いた。

丘に戻ると、男たちが集まっていた。三人ではなく、五人になっていた。その者を見た者はいなかった。その者は端の岩に座って、膝の上に両手を置いた。

夜、子どもが火の近くに転がって眠っていた。その者はその子の足の裏を見た。傷があった。誰も気づいていない傷だった。

その者は指で触れた。子どもは目を開けなかった。

火が揺れた。

伝播:HERESY 人口:776
与えるものの観察:熱を渡した。受け取り方は足を止めることだった。
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第604話

紀元前296,990年

第二の星とその者(50〜55歳)

草原に水が戻って三度目の夏が来た。獣の腹が丸く、子どもたちの腹も丸かった。火を囲む輪が広がり、以前は端に座っていた者たちが内側に入るようになった。輪の中心に場所を持つことが、何かを意味するようになっていた。

その者は輪の外にいた。五十を過ぎた体は柔らかい地面でも重く、朝になると腰から足の付け根にかけてが引きつれた。それでも立ち上がり、毎朝同じ方向へ歩いた。水場の手前、岩が三つ並んだあたりまで。

集団が大きくなると、岩の並びが変わった。誰かが動かしたのではなく、行き来する足が増えて、長く踏まれた跡が道になり、道が変わると岩の意味が変わった。その者だけが以前の道を歩き続けた。

二年目の春、その者は若い雄二人に腕を掴まれた。引きずられたのではなく、押しのけられた。唸り声と、肩を叩く動作と、顎を突き出す方向。去れ、というより、お前の場所はそこではないという意味を持つ動作だった。その者は抵抗しなかった。

日が落ちる方向から風が吹いてきた。草の匂いではなく、焦げた土の匂いだった。

その者は鼻を上げた。岩の向こう、丘の斜面に沿って、草が黄色く枯れ始めている場所があった。そこだけ色が違った。他の草は青みがかった緑なのに、そこだけが夏の終わりの色をしていた。

その者はしばらく立っていた。

水場より手前に、その色の場所があった。獣たちがそこを避けて通ることを、その者はずっと見ていた。なぜ避けるかは知らなかった。ただ、避ける。それだけを知っていた。

三年目の冬、集団の中で声の大きな者が二人、同じ場所で眠るようになった。二人が並ぶと、他の者たちの動きが変わった。食料の分配で、その二人の近くに置かれる量が増えた。誰が決めたのでもなく、そうなった。

その者は分配の列に並んだ。後ろに回された。また並んだ。また後ろに回された。三度目、その者は列に入らなかった。

岩の三つ並んだあたりで、地面を掘った。掘るための枝は手元になかったので、踵で蹴り、指で引っ掻いた。何をしているのか自分でもわからなかった。ただ、掘った。掘った先に何があるかを考えなかった。

四年目、声の大きな者の一人が病んだ。腹を抱えて動かなくなり、三日で動かなくなり、四日目には冷たくなっていた。もう一人が残った。

その者は病んだ者を見ていた。遠くから、立ったまま。近づかなかった。近づく理由がなかった。しかし見た。体が縮んでいく様子を、腹を抱える手が弱くなっていく様子を、見た。

五年目の秋、焦げた土の匂いがまた来た。今度は強かった。

その者は集団の輪に近づいた。腕を振り、匂いのする方向を示した。唸り声を上げた。若い雄たちが一人の老いた者を見た。止まれという動作をした。止まれか、黙れか、お前には関係ないという動作か、その者には区別できなかった。

止まらなかった。

唸り続けた。匂いの方向に腕を振り続けた。

若い雄の一人が近づいてきた。

その者の体が岩に当たった。胸ではなく背中が先に当たった。空が見えた。地面が見えた。空が見えた。

それから何も見えなかった。

与えるもの

焦げた土の匂いを送った。

この者は嗅ぎ、立ち、向かった。集団に伝えようとした。

伝わらなかった。しかし渡った。この者の体が動いたという事実は残る。次に渡すべきものを、もう考え始めている。体が動いた後に何かが変わるかどうか。それだけがまだわからない。

伝播:HERESY 人口:740
与えるものの観察:体が動いた。それは渡った証拠かもしれない。
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第605話

紀元前296,985年

その者(55〜56歳)

膝が曲がったまま伸びなくなったのは、いつ頃からだったか。

その者は覚えていない。ただ、起き上がるたびに岩を探すようになっていた。岩に手をかけて、ゆっくり立つ。その動作が、朝の始まりになっていた。

集団の輪はいまも広がっている。獣の脂が焼ける匂いが夕方に満ちて、子どもたちの声が遠くまで届く。その者は輪の外にいる。以前は端に座ることもあったが、今は輪そのものが遠い。足が言うことを聞かない。

水場まで歩けなくなった日から、若い者が水を運んでくるようになった。大きな葉を折り曲げて、雫を落とさないよう両手で抱えて来る。その者はそれを受け取って、一口飲んで、葉を返した。それだけだ。礼も感謝の声も出なかった。出し方を忘れたのではなく、もう必要でないと体が知っていた。

ある朝、風が草を横に薙いだ。

その者は座ったまま、草が倒れる方向を見ていた。風がやんで、草が戻って、また倒れた。繰り返した。その者の目はそれを追っていたが、何も考えていなかった。ただ見ていた。

腹に子を持ったことはなかった。火を起こした回数も、他の者より少なかった。輪の内側で獣を捌いたことも、群れを導いたこともなかった。それで55年を生きた。

体の熱が、ある午後から下がり始めた。

草の上に横になった。背中の下に土の硬さがあった。空は白かった。雲が動いていた。その者はそれを見ていた。何かを呼ぼうとする音が喉の奥にあったが、出なかった。

出す必要もなかった。

草が、その者の横顔のすぐそばで揺れていた。風ではなかった。小さな虫が通り過ぎた跡かもしれない。その者の目は草の揺れを見ていて、それからゆっくり動かなくなった。

体はそのまま草の上にあった。空は変わらず白かった。

第二の星

丘の向こうで二つの集団が対峙していた。声ではなく、体の大きさを見せていた。石を手に持つ者がいた。持たない者がいた。風が両方の間を通り過ぎた。草が同じ方向に倒れた。誰も動かなかった。

与えるもの

温かい石の感触を思い出していた。朝ではない熱を。渡せたかどうか、まだわからない。糸は別の誰かへ向かった。

伝播:DISTORTED 人口:752
与えるものの観察:渡したが、届いたかどうかは今もわからない
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第606話

紀元前296,980年

その者(29〜34歳)

煙が横に流れた。

その者は火の傍に座り、枝の先が炭になっていくのを見ていた。良い加減がある。焦がしすぎれば折れる。火から遠すぎれば固まらない。その加減を、体が知っていた。頭ではなく、手首と鼻孔が。

集団の端から声がした。

唸り声ではなく、叫びに近い音だった。その者は立ち上がり、声のした方へ向かった。草を踏んで、低木の陰を回ると、二人の男が向かい合っていた。一人は旧い顔つきをしていた。額が張り出し、眉の骨が厚い。もう一人は自分たちの仲間だった。

何かを持っている。石だ。

尖った石を、仲間の男が握っていた。旧い顔つきの者は動かなかった。目だけが動いていた。

その者は間に入った。

特に考えたわけではなかった。体が先に動いた。両腕を広げ、低い声を出した。仲間の男を見た。石を見た。仲間の男の目を見た。

しばらく、誰も動かなかった。

やがて旧い顔つきの者が退いた。草の中に消えた。仲間の男は石を握ったまま、その者を見ていた。目の中に何かがあった。怒りではなかった。もっと別の、言葉にならないものが。

その夜、その者は火の番をした。

炎は小さかった。風が吹くたびに揺れ、消えそうになるたびに持ちこたえた。その者は乾いた草を少しずつ足した。多く足しすぎると煙になる。少なすぎると消える。

集団の誰かが近くで寝ていた。子どもの一人が、その者の足に背中をくっつけて丸まっていた。その者は動かなかった。足を動かさなかった。

夜が深くなった頃、別の方向から声が来た。

仲間の男の声ではなかった。もっと多くの人間の声だった。数人が集まり、何かを話し合っている。その者には意味がとれなかった。しかし音の調子がわかった。昼の石のことを話していた。

その者は火を見ていた。

炎の中心が白くなる瞬間がある。赤から白へ、ほんの一刹那。その者はその瞬間が好きだった。理由はわからなかった。ただ、見ると体の中が静かになった。

声が止んだ。

また風が来た。炎が揺れた。子どもが寝返りを打ち、足にもっと強く背中を押しつけた。

その者は草を一本、火に足した。

三日後、その者は水場へ向かった。

朝の光の中を、一人で歩いた。集団の女の一人が水を必要としていた。腹が大きかった。もう何日も同じ場所に留まっていた。

水場は岩の間から湧いていた。冷たかった。その者は皮の袋に水を入れ、口を縛った。

帰り道、草むらで足が止まった。

風がなかった。なのに草が揺れた。

その者は立ったまま、その場所を見た。動物ではなかった。音がなかった。においもなかった。しかし何かがそこにあるような感覚だけが、胸の少し下に残った。

袋を持ち直して、歩いた。

集団に戻ると、仲間の男が入り口のあたりに立っていた。昼間の石を持った男だった。その者を見て、目をそらした。

その者は水を届けた。女は受け取り、飲んだ。

その日の午後、その者は集団の外れで横になった。大きな岩が日差しを遮っていた。その者は目を開けたまま、岩の上に広がる空を見ていた。

雲が動いていた。ゆっくりと。止まらずに。

仲間の男がそこに来た。

何も言わなかった。ただ隣に座った。しばらく、二人とも空を見ていた。仲間の男が低い声を出した。意味ではなかった。ただの音だった。その者も低い声を返した。

それだけだった。

翌朝、その者はいなかった。

集団の誰かが気づいた。その者がいつもいる場所に、いない。火の傍にも。水場の方向にも。

子どもが泣いた。足にくっついて眠ることを知っている子どもが。

その者の体は、翌々日に見つかった。集団の縄張りの外、岩場の陰で。仰向けではなかった。うつぶせでもなかった。横向きに、膝を抱えるように。

傷があった。

石のような、鋭いものによる傷が。

誰も何も言わなかった。言葉がなかった。しかし全員が知っていた。誰が、ではなかった。なぜ、も、言葉にならなかった。ただ、昨日の空のことを、その者はもう見ない。それだけがあった。

火は燃え続けた。

誰かが草を足した。

第二の星

始まりの大地の東に、乾いた風が吹いている。

草は黄ばんでいるが、根は生きている。川が二本、低地で合流し、そこに水鳥が降りる。岸の泥に足跡が積み重なっている。人のもの、獣のもの、もっと大きな何かのもの。

この5年、集団は増えた。豊穣が続いた。雨が適度に降り、川が枯れなかった。木の実が実り、獣が近くに現れた。子が生まれ、育った。前の代には育たなかった子が、今はいる。

しかし大きくなると、摩擦が生まれる。

旧い顔つきの者たちとの間だけではない。同じ集団の内側でも。食べ物の量が増えれば、それを誰がどれだけ持つかという問いが生まれる。暖かい場所、良い道具、強い火。余裕があるとき、人間は奪い合いを始める。

この星は判断しない。

集団の北では、別の群れが岩場を拠点にしている。南では、旧い顔つきの者たちが川沿いを移動している。それぞれが生き、それぞれが死に、時に重なり、時に退く。

火が一つ消えた。

しかしその火を囲んでいた者たちは、まだ生きている。子どもが一人、足を温める場所を失った。

草が揺れる。風が来た方向に、少し倒れる。

それだけだ。

与えるもの

糸が繋がった。

水場の帰り道、草が揺れた。風はなかった。その者は立ち止まった。胸の下に、何かを感じた。

それで十分だった。

水を届けた。空を見た。隣に人が来た。

次の朝、その者はいなかった。

——何かを示す前に、いなくなった。

水場への道。草のない方向。岩場の陰。何を渡せばよかった。渡す機会は、まだあった。

しかし今は次のことを考えている。

その者が水を届けた女がいる。腹の大きな女。

伝播:HERESY 人口:717
与えるものの観察:草が揺れた。気づいた。しかし間に合わなかった。
───
第607話

紀元前296,975年

第二の星

乾いた風が北から吹いている。草原の端で、二つの集団が同じ水場を使い始めていた。

一方は数が多い。もう一方は古くからそこにいた。どちらも水を飲む。どちらも獣を追う。どちらも子どもが泣く声を持っている。しかし互いを見る時、喉の奥で何かが固まる。

水場の近くに、折れた木の枝が刺さっていた。誰かが立てたのか、風で倒れたのか、もうわからない。それでも二つの集団はその枝を境に、左と右に分かれて水を飲んだ。

遥か南では、別の話が進んでいた。崖の下に小さな集団がいた。六人。岩の裂け目に入り込んで、雨が来るのを待っていた。待ちながら、壁に指を這わせた。何かを残そうとしていたのか、ただ手を動かしていただけなのか、その者たちにもわからなかったかもしれない。しかし赤い土が指に付いて、岩に線が残った。

北の草原では、幼い子が死んだ。母は三日、その場を離れなかった。四日目の朝、立ち上がった。歩いた。集団の中に戻った。

豊穣は続いている。しかし豊穣の中にも、抜けていくものがある。

与えるもの

水場の手前。二つの集団が近づいていた。

その者の背中の皮膚に、風の向きが変わった。南から押してくる温度ではなく、北からの薄い冷たさ。緊張が走る方向と同じ側から。

その者は振り向かなかった。

渡せたかどうかわからない。しかし問いが残る——気づかなかったのか、気づいて動かなかったのか。その差は、次に何を渡すかを変える。

その者(34〜39歳)

水場に先に着いた。

飲んだ。足元の泥が柔らかかった。最近、獣の足跡が多い。乾季のはずなのに、水が減っていなかった。

立ち上がった時、向こう側の草が揺れた。

四人。知らない顔だった。匂いが違う。体に塗っているものが違う。それでも同じ水を飲みに来た者たちだった。

その者は動かなかった。

相手も動かなかった。

しばらく、ただそこにいた。相手の一人が、手を下に向けた。威嚇ではない動きだった。その者にはそれがわかった。理由はわからなかったが、わかった。

その者も手を下に向けた。

それだけだった。相手は飲んで、去った。

集団に戻ると、仲間の一人が音を上げた。怒っているような音だった。その者を見て、また音を上げた。向こうの者たちのことだ、とその者は思った。正確な言葉はないが、そういうことだ、と体が知っていた。

その者は何も返さなかった。

火の傍に座った。燃えさしを取って、先を土に押し当てた。消えかけた炭が土に触れて、細い煙を出した。

仲間の声が続いていた。

その者は土に何かを押しつけながら、向こうの集団の手の動きを考えていた。手を下に向けること。あれは何だったのか。自分が同じことをしたのはなぜか。

答えは出なかった。

炭が冷えた。土に小さな焦げ跡が残った。

伝播:DISTORTED 人口:727
与えるものの観察:気づいたかもしれない。動かなかっただけかもしれない。
───
第608話

紀元前296,970年

第二の星

北の高地では雪が降っている。

草原の縁から二日歩いた先、岩と岩のあいだに細い湧き水がある。そこへ向かう足跡が二種類残っている。一方は踵が深く沈む。もう一方は小さく、間隔が狭い。どちらの足跡も同じ方角を向いている。

南の密林では、別の集団が木の実を割っている。石と石を打ちつける音が、葉の天井を揺らす。一人が割り、二人が拾う。三人の動作は似ているが、同じではない。それぞれが自分のやり方で石を持つ。

海岸に近い場所では潮が引いている。岩の隙間に閉じ込められた魚が、光の中で動いている。そこに手を伸ばす者はいない。まだ誰も、あの魚の獲り方を知らない。

水場では、朝から緊張が続いている。

二つの集団が同じ岩の周りにいる。声は出ない。唸りもない。互いに視線を逸らしながら、しかし離れない。乾いた土の上に、二種類の足跡が重なり始めている。

太陽が傾く。影が長くなる。水場の石は、昨日と同じ石だ。

与えるもの

岩の割れ目から、冷たい空気が漏れていた。

その者の腕の内側を、それが撫でた。

この者は立ち止まった。振り返った。岩の方を見た。それから、水場の方を見た。

岩の割れ目には入れる。水場には、もう一つの集団がいる。

冷気が、もう一度漂った。

この者は岩の方には行かなかった。

——岩の割れ目の向こうに何があるか、この者は知らない。知らないから行かなかったのか。それとも別の何かが足を止めたのか。わからない。だが次に渡すなら、暗い場所の先に光があることを、どうにか伝えなければならない。明かりではなく、出口の概念を。

その者(39〜44歳)

水が減っている。

岩の盆のような場所に溜まった水は、昨日より掌一枚分だけ低い。その者は縁に膝をついて、水面を見た。自分の顔が揺れていた。揺れが収まる前に、別の揺れが来た。

隣に、知らない足がある。

その者は顔を上げなかった。水を掬った。飲んだ。喉の奥で、水が音を立てた。

知らない足は動かない。

その者も動かない。

しばらくそのままでいた。岩が熱を持ち始める頃、その者は立ち上がった。膝についた土を払わなかった。払う前に、遠くで何かが倒れる音がした。

仲間の方向だった。

その者は走った。

地面が硬い。踵から衝撃が来るたびに、歯が鳴った。仲間がいる場所には、もう一つの集団の者が三人立っていた。地面に、仲間の一人が横になっていた。

若い者だった。昨日まで石を運んでいた者。

その者は止まった。

走ってきた息が、鼻から荒く出た。三人を見た。倒れている者を見た。

三人のうち一人が、石を持っていた。

その者の右手が、何かを探すように腰の周りを動いた。何もなかった。朝、置いてきた。

三人は動かなかった。

倒れている者の胸が、まだ動いていた。

その者はゆっくり前に出た。三人と倒れている者のあいだに、自分の体を置いた。膝が少し震えていた。震えを止めようとして、止まらなかった。

三人が互いを見た。

それから、三人は去った。

その者は振り返らず、ずっと三人の背中を見ていた。背中が岩の影に消えてから、その者はようやく膝をついた。倒れている者の胸に手を当てた。温かかった。動いていた。

その者は声を出さなかった。

手を当てたまま、ずっとそこにいた。

伝播:NOISE 人口:734
与えるものの観察:体が先に出た。理由より速く。
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第609話

紀元前296,965年

その者(44〜49歳)

腹が鳴らなくなった。

それが最初の変化だった。鳴らなくなれば空腹でなくなったわけではない。体が諦めたのだと、この者は知らない。ただ、腹に手を当てて、何も感じなかった。

集団の中で、この者は余計な目で見られていた。

理由は単純ではなかった。知りすぎた者、というより、何かを知っているような顔をする者。同じ顔つきの者が同じ岩の前に何度も立ち止まる。それだけで、他の者たちの目に奇妙さが宿る。言葉がなくとも、警戒は伝わる。

二日前、水場から帰ったこの者を待っていた者たちがいた。

彼らは何も言わなかった。言わなくてよかった。石が宙を飛んだ。この者は走らなかった。走る意味を、もう見つけられなかった。

腰の右側に何かが当たった。鈍い音が内側でした。

この者は草の中に倒れた。

そこで死んだのではない。三日、そのまま動いた。草を食んだ。虫を潰して舌に乗せた。水は夜露を岩の窪みで舐めた。腰の右側が熱を持ち、熱は夜ごとに広がった。

四日目の朝、この者は岩のそばに座った。

焚き火を起こすでもなく、石を打つでもなく、ただ座った。空が白くなる前の暗さの中で、目は開いていた。何かを見ていたかもしれないし、何も見ていなかったかもしれない。

腰の熱が、どこかへ引いた。

体が横に傾いた。岩に寄りかかる形で、この者は斜めになった。草の根が頬に触れていた。口がわずかに開いたまま、閉じなかった。

風が吹いた。草が揺れた。

四十九年。

第二の星

草原の南端、赤みがかった砂地が広がる場所で、小さな集団が移動を始めていた。幼い子を背負った女が先頭を歩いていた。子は眠っていた。地平線の向こうに山の稜線が薄く見えた。雨の匂いがした。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:709
与えるものの観察:渡した。届いたかは、もうわからない。
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第610話

紀元前296,960年

その者(14〜19歳)

火が小さくなっていた。

その者は気づいていた。だが枝を取りに行かなかった。膝を抱えて、炭の端が白く粉になるのを見ていた。

腹の中に何もない。それは昨日からではなく、もっと前から続いている。体の芯が細い棒になったような、そういう感じ。棒は折れていないが、そこに肉がついていない。

集団の年寄りの一人が、朝、動かなくなっていた。誰も声を上げなかった。子どもが一人、その体に触れて、離れた。それだけだった。

火の番はその者の役目だ。狩りには出られない。走れないからではなく、まだ許されていないから。だから火の側にいる。だが今、渡す薪がない。昨日集めた分は燃え尽きた。一本だけ残ったのを、その者は膝の間に挟んでいる。

渡すべきか。渡せば火は続く。自分の体が少し温かい。

考えているのではない。ただ動けない。

やがて、炭が一つ、音もなく崩れた。白い粉が散って、熱が消えた。その者は一本の枝を火に入れた。細い炎が戻った。小さいが、ある。

集団の誰かが唸った。遠くで子が泣いた。泣き声は短く、途切れた。

その者は火を見続けた。炎がある間は、まだここに何かがある。そういう感じがした。感じというより、それ以外に感じることがなかった。

第二の星

干ばつが終わった年から、五年が経った。

雨は戻った。草も戻った。だが集団の形は干ばつの前と同じではない。骨の細い者が増えた。育つ前に死んだ子の数は、指で数えられる範囲を超えた。

始まりの大地の東に、別の集団がいる。この五年で彼らも痩せた。川の上流で水を使う。下流の集団はそれを知っている。知っているが、言葉がない。唸りと身振りで伝えられることには限りがある。

緊張は音より先に体に入る。出会えば毛が逆立つ。歯が見える。それ以上にはまだなっていない。だがその手前まで、何度か来た。

火を持つ者が間に立ったことが、一度あった。炎を見せた。向こうも見た。それで別れた。何が起きたのかは誰にもわからない。ただ血は流れなかった。

この星はそれを照らした。乾いた土、川の線、二つの集団が向かい合う場所。どちらが正しいかは問わない。雨が降り、腹が減り、子が泣く。それだけが続いている。

与えるもの

糸が繋がった。

炎の色に、この者の目が止まった瞬間を知っている。

枝を入れたこと。炎が戻ったこと。それだけでいい、と思うより先に、次に渡すものを探していた。

火ではない。火はもうある。

次は、火があることを誰かに伝える方法だ。声でも身振りでもなく、もっと単純な何か。まだ形がない。ただ、この者が枝を入れた時の手の動きの中に、その断片があった気がした。

伝播:NOISE 人口:720
与えるものの観察:枝を入れた。それだけで炎は戻った。
───
第611話

紀元前296,955年

その者(19〜21歳)

腹の底に何もなかった。

もう三日になる。水は飲んだ。水は飲めた。だから死んでいないのだとこの者は思っていた。思う、という言葉はなかったが、腹と水の関係を体は知っていた。

火はまだあった。

この者が番をしていたから、ではない。他の者が薪を入れていた。この者は座っていた。火の近くに座るのは、そこが一番温かかったからだ。番をする力が、もうなかった。

誰も何も言わなかった。

集団の中に緊張があった。この者が知っていたことがある。どこに水があるか。獣がどちらから来るか。集団の中で、そういうことを知っている者がいると、困ることがある。古い者たちが、そう感じていた。古い、という言葉もなかったが、不快、という感覚は全員が持っていた。

数日前、この者は水場への道を示そうとした。

唸り声と腕を使った。こちらだ、という身振りをした。

誰もついてこなかった。ある者が背を向けた。ある者がこの者を見て、また別の者を見た。何かが渡り、何かが決まった。

その夜、この者の火の傍の場所が狭くなった。

翌朝、食料を分けるとき、この者の番が来なかった。

それだけのことだった。暴力ではない。ただ、分けが来なかった。それが続いた。

この者は怒らなかった。怒る力がなかったわけではない。ただ、何が起きているのか、この者には測れなかった。自分が排除されているという概念がなかった。食料が来ない。それだけが事実だった。

三日目の午後、この者は火から少し離れた場所に移った。

膝を曲げて座った。岩の表面が冷たかった。首を垂れると、土が見えた。土の上に、小さな虫が一匹いた。速く動いていた。この者はしばらくそれを見ていた。

虫は消えた。

土だけになった。

この者の体が、横に傾いた。腕が地面につき、そのまま支えなくなった。頬が土に触れた。土は思ったより柔らかかった。

集団の音が遠くから聞こえた。

唸り声。子どもの声。薪が爆ぜる音。

それらが少しずつ薄くなった。

薄くなることに、この者は気づいていなかった。ただ、土の匂いがした。草の根の、少し湿った匂い。それがこの者の最後に残ったものだった。

第二の星

乾いた草地の向こうで、別の集団が移動していた。子を背負った者が先を歩き、老いた者が後ろをついた。川沿いに、水を探して。川は細くなっていたが、まだ流れていた。その水面に、空が映っていた。誰もそれを見なかった。

与えるもの

渡るものが、別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:690
与えるものの観察:排除は静かだった。食料が来なかっただけ。
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第612話

紀元前296,950年

第二の星とその者(26〜31歳)

乾いた年があった。

川床が白く割れ、魚が消えた。群れのうち何人かが腹を丸めたまま動かなくなった。それからの二年は雨が戻り、木の実が実り、生まれた子の半分は生きた。失った数と取り戻した数は、きれいに釣り合わなかった。

この者は二十六のとき、脚の速い男と二人で北の低木帯へ入った。

獲物の匂いを足で感じていた。乾いた土が特定の場所だけ柔らかくなっている。踏むとわずかに沈む。その者はそこで立ち止まり、空気を吸った。

南の台地では旧人の群れが動いていた。

彼らは別の形をしていた。眉が重く、肩が前に出ていた。言葉を持たないが、火を知っていた。互いに顔を見れば、違いがわかった。それでも同じ水場に来ることがあった。来て、飲んで、離れた。殺し合いが起きることもあった。どちらかが逃げることもあった。どちらが逃げるかは、そのときの数と疲れと腹の具合で決まった。

この者の群れが旧人の群れと水場で鉢合わせた日、この者は前に出た。

指示されたからではなかった。体が先に動いた。石を持ち上げ、音を出し、目を逸らさなかった。旧人の群れは退いた。戻ったとき、年長の男がこの者を見ていた。何も言わなかった。ただ見ていた。

それから、この者が何かを仕留めるたびに、その肉の配り方が変わった。

以前は年長者が先に取った。今は、この者の手を通してから他の者へ渡るようになった。この者がそれに気づいたのかどうか、外からは見えなかった。ただ、肉を渡すとき、この者の動きに一瞬の止まりがあった。

二十八の秋、腰の低い草原でこの者は大きな獣を追った。

風が東から来ていた。獲物はこちらを嗅げない。この者は風下に回り込み、低く走った。石の先端を手に握り、近づいた。獣の首の後ろに体温があった。息の音がした。この者の足が地面を蹴った。

光が落ちた。

獣の前脚のさらに前、地面の割れ目に光が落ちた。その割れ目には細い植物が生えていた。根が深い。折っても折れない。風雨に曲がって、それでも戻る。

この者は仕留めた後、その草を踏んだ。

立ち止まらなかった。踏んで、獲物を引きずって、去った。

光が落ちた場所に、この者の足跡が残った。

二十九の冬、群れの中に一人の年長者が死んだ。

崖を降りていて、足元の岩が外れた。声があって、それから何もなかった。彼は群れの中で最も多くのことを覚えていた男だった。水場の場所、獣の通り道の季節による変化、毒のある実の形。それらは彼とともに崖の下に残った。

その者は三日間、崖の縁に近い岩に座っていた。

座って、下を見ていた。立つでも降りるでもなく、ただ縁の手前に座っていた。四日目に、別の男が「行くぞ」という意味の唸り声を出した。この者は立った。歩いた。

群れの中で、この者が何かを決めることが増えた。

どこへ移動するか。いつ仕留めに行くか。誰が先に動くか。年長者が持っていたものが、少しずつ別の形でこの者の体に移っていた。それは言語ではなかった。声でもなかった。誰かが何かを決めるとき、周囲の視線がこの者に向くようになった、その向き方だった。

三十一の春、別の群れが来た。

同じ種の人間だったが、顔を知らない者たちだった。彼らは多く、疲れていた。何かから逃げていた。食料の気配が薄かった。二つの群れは互いを見た。

この者の群れの中から、石を持った者が何人か出た。

この者は出なかった。

立っていた。腕を下ろしたまま、立っていた。来た者たちの中の一人、子を抱えた女が地面に何かを置いた。食い物ではなかった。骨だった。動物の骨を、地面に置いた。

この者は骨を見た。

拾わなかった。蹴らなかった。しばらく、ただ見た。

その夜、二つの群れは火を別々にした。しかし同じ岩の南側に眠った。

与えるもの

糸が繋がった。

光を落とした。地面の割れ目に生える草に。折れない根を持つ草に。この者はそれを踏んで去った。

受け取らなかった。

それとも、足の裏で感じたのか。踏んだということは触れたということだ。触れたことが何かを残すかどうか、私にはまだわからない。

骨を置いた女を、この者は見た。

私が置いたのではない。女が置いた。しかしこの者がそれを見たとき、この者の中で何かが静かになった。静かになることは、受け取ることとは違う。しかし何もないこととも違う。

次に渡すべきものが、まだ見えない。

それが怖いのか。怖い、という言葉は私にはない。しかしかつて、繋がった者が全員消えた場所がある。そこでも光を落とした。誰も踏まなかった。

踏まれなかった光の話を、私は誰にもしない。

この者はまだ生きている。三十一。腰に古傷がある。仕留めるとき左に傾く。それでも仕留める。渡すべきものを、次の感覚で探している。

伝播:HERESY 人口:665
与えるものの観察:踏んだ足跡に光が残る。
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第613話

紀元前296,945年

第二の星

五年が過ぎた。

始まりの大地の南、赤い土が風に運ばれて岩壁を染める場所で、群れが動いた。川の水位が戻り、葦の根が太くなり、鳥が巣を作り直した。死んだ数と生まれた数が、きれいに重ならないまま、集団の輪郭は少しだけ膨らんだ。

同じ頃、北の岩場には別の群れがいた。体つきがわずかに異なる。眉の骨が出っ張り、手が大きく、声が低い。彼らは火を持っていた。持っていたが、作る方法を知らなかった。もらい火だけで生きていた。その火が一度消えると、数日は暗い。

二つの群れは川沿いで出会った。目が合った。どちらも下がらなかった。

石が投げられ、声が上がり、やがて静かになった。何人かが倒れた。何人かが混じった。そうやって境界が動く。境界が動くとき、誰かが何かを初めて見る。誰かが何かを初めて失う。

星はどちらも照らす。

赤い土の上で冷えていくものも。川を渡って歩いていくものも。同じ光の中にある。

与えるもの

川沿いに生えた草の一株に、朝の露が溜まっていた。

光をそこに落とした。他よりも長く、他よりも強く。その草の葉が、刃のように縁が細く走っているところに。

その者は立ち止まった。指ではなく、足の裏で。草の根元を踏んで、葉の張りを感じて、しゃがんだ。引き抜いた。走らなかった。

葉は鋭いか。それとも別のものに見えたか。次に渡すべきは、形ではなく使い方かもしれない。いや、使い方はこの者が決める。形だけ渡し続けるしかない。

その者(31〜36歳)

三十六歳になっていた。

この五年で、膝の内側に古い傷が二本増えた。走るとそこが引っ張られる感じがする。それでも走る。速さで劣れば仕留めた獲物は誰かに取られる。取られれば腹が減る。それだけのことだ。

川沿いを歩いていたとき、足の裏に草の固さを感じた。立ち止まった。

何かが違った。光の落ち方か、温度か、わからない。しゃがんで草を引いた。指で葉を撫でると、細い線に沿って皮が切れた。血が出た。舌で舐めた。痛みより先に、何かが頭の中で動いた気がした。感じただけだ。

その草を束ごと引き抜いた。

群れに戻ったとき、体の大きな男がいた。北の岩場の匂いがした。眉の骨が出っ張っていた。その男がこちらを見た。その者も見た。どちらも下がらなかった。

女が間に入った。音を出した。低い、繰り返す音。男が目を逸らした。その者は草を地面に置いた。

夜、火の近くで、その草を石に押しつけた。葉の縁を岩肌に走らせた。削れた。線が残った。何度もやった。やめた。眠った。

翌朝、草は干からびていた。線だけが岩に残っていた。

三日後、その者は狩りに出た。戻らなかった。

岩場の方向から声が聞こえた、と後に誰かが腕を振って示した。何を示したかったのかは、誰にも正確には伝わらなかった。

伝播:HERESY 人口:637
与えるものの観察:葉の縁が皮を切った。使い方は渡していない。
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第614話

紀元前296,940年

第二の星

始まりの大地の南、赤い土の上。

五年が過ぎた。川は戻り、群れは膨らんだ。だが膨らみ方は均等ではなかった。南の低地に多く、北の岩場の縁に少なく。水と草と、移動の跡で分布は変わる。

北の岩場には、別の骨格をした者たちがいた。眉の張り出した、首の太い、声の低い群れ。この星の上では珍しくない。そうした者たちが、南側に下りてきた。食べるものが減ったのか、別の理由があったのか、この星は問わない。

南の草原で、両群れが重なった。

遥か北、凍った土が広がる場所では、別の群れが毛皮を重ねて眠っていた。火の残り火を囲んで。その群れは、この者たちとは何の繋がりもない。同じ種でもない。ただ同じ星の上にいる。

始まりの大地の南では、唸り声が上がった。

岩が飛んだ。血が土に落ちた。どちらの血か、この星は区別しない。

与えるもの

川から風が吹いた。北ではなく、東から。

その者の鼻に、血と土の以外の匂いが混じった。群れの中の、特定の者の匂い。子どもの匂い。

その者が動いた。

渡したのはそれだけだ——とは言えない。渡す前から、その者の足は向いていた。では何を渡したのか。渡す前に既に動いている者に、何かを届けることはできるのか。

あの時も同じだったかもしれない。最初の者たちに、全てを渡した。それでも何も届かなかった。では届く前から動いている者は、何かを持っているのか、それとも違う何かが動かしているのか。

次に渡すべきものは、まだわからない。ただ、子どもの匂いで足が変わった、その一瞬だけは確かにある。

その者(36〜41歳)

岩が来た。

反射で体を傾けた。岩は耳の横を通った。音がした。

正面に、眉の厚い男がいた。両手を広げて唸っている。この者より頭一つ大きい。

その者は岩を拾った。投げなかった。持ったまま、横に動いた。

男が追ってきた。

その者は走った。南へではなく、東へ。川の方へ。足の裏が知っている地形を走った。石が多い場所、土が緩い場所、足が滑る場所。男の足音が変わった。土が緩い場所で、足音が乱れた。

その者は振り返らなかった。

群れの声が聞こえた。子どもの高い声が混じっていた。その者の足が、声の方へ向いた。

広い草原の端、低い茂みの裏に、小さい者が二人いた。腹を低くして、動かずにいた。その者はしゃがんで、二人の腕を掴んだ。掴んで、立たせた。立たせて、走った。

走りながら、鼻に東からの風が当たった。

血の匂い。土の匂い。その下に、何かがあった。

何かはわからなかった。ただ、足が止まらなかった。

群れの中に戻ったとき、子どもを離した。子どもは走って別の者の方へ行った。その者は立ったまま、東の方を見た。

唸り声は遠くなっていた。

岩を、まだ手に持っていた。

伝播:NOISE 人口:650
与えるものの観察:足は渡す前から動いていた。では何を渡したのか。
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第615話

紀元前296,935年

その者(41〜45歳)

集団の端に立っていた。

南の低地から来た者たちの声が、岩の間を抜けてくる。唸りではない。何か違う。その者は聞いた。三日、聞き続けた。

足で確かめる。水場の手前。土が踏まれている。自分の群れの足跡ではない。

その者はそれを長老の男に示した。

地面を叩いた。指で跡をなぞった。

男は見なかった。

もう一度、叩いた。

男の目が、その者の顔ではなく、その者の手を見た。手だけを。

そこから変わった。

何かが変わった。緩やかに、しかし確かに。

食い物を分けるとき、その者の分が後になった。火の近くから少しずつ遠ざかった。声は届かなかった。声を出すたびに、周囲の体が、ごくわずかに固くなった。

その者は気づかないふりをした。

気づかないふりをしながら、引き続き端に立った。

南からの接近を感じていた。体が知っていた。鼻が知っていた。朝の風に乗る脂の匂いが変わっていた。

四十三の季節が終わるころ。

岩の裏で、三人が待っていた。自分の群れの者だった。

その者は走らなかった。

打たれた。二度、三度。岩は重かった。地面がいつもより近く感じた。

倒れてから、空が見えた。

高い。風があった。草の匂いがした。乾いた土。

それだけだった。

体から力が抜けるのは速かった。水が砂に沁みるように。

その者の手は、最後まで何かを握ろうとしていた。

第二の星

同じ刻、南の低地では火が燃えていた。雨季の終わりに誰かが熾した火が、枯れた草に移っていた。風が強く、炎は走った。煙の柱が垂直に立ち、遠くからでも見えた。その火の中で、生まれたばかりの子が泣いていた。誰かが抱き上げ、走った。

与えるもの

糸は、その者の手が緩む前に、別の誰かへ向かっていた。

伝播:HERESY 人口:630
与えるものの観察:渡した跡の意味を、この者は使い切った
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第616話

紀元前296,930年

その者(0〜5歳)

雨が地面を叩いていた。

その者は母の腕の内側にいた。皮膚と皮膚のあいだに水が滲んできた。冷たい。その者は顔を押しつけた。母の胸の骨が動く。吸う。吐く。その繰り返しが、その者の体ごと揺れた。

洞窟の縁に水が流れていた。外から音が来た。水の音、獣の声、何か重いものが倒れる音。大人たちが動いた。体が増えた。体が減った。暗くなった。

その者は泣かなかった。

腹が空いていた。口を動かした。母がそれに気づいた。乳を与えた。その者は吸った。吸いながら目を開けていた。洞窟の天井に雨の水が伝っていた。光の届かない場所で、水だけが光っていた。

五日、雨が降り続けた。

集団の中で子が生まれた。その者の隣で、別の母が唸った。長く唸った。夜明け前に声が止んだ。朝になると小さい体があった。大人が皮で包んだ。外に持っていった。帰ってきたとき、手は空だった。

雨が上がった。

地面が柔らかくなっていた。草の匂いが洞窟まで来た。大人たちが外に出た。子どもたちが続いた。その者は母に抱かれたまま外に出た。空が白かった。

水場が広がっていた。前に来たときより遠くまで水があった。獣の足跡があった。何種類もの足跡が、泥の上に重なっていた。

母が立ち止まった。

その者は母の胸から顔を出した。風が来た。草の匂いの中に、何か別の匂いが混じっていた。獣の匂いではない。別の人間の匂いだった。

大人たちが唸った。低く、短く。

その者には何もわからなかった。ただ母の腕が固くなったのは感じた。息が止まるほど強く、抱かれた。

別の集団が近づいていた。

足音が泥の上で鳴った。大人同士が向き合った。誰かが声を出した。誰かが石を持った。

その後のことを、その者は顔を押しつけていたので見なかった。音だけが来た。重い音。短い声。それから沈黙。

母が走った。

その者は揺れた。目の前に皮膚があった。耳に心臓の音があった。早く、早く、早く打っていた。

その年、雨は続いた。

水が豊かだった。実をつけた木が増えた。水辺に集まる獣が増えた。子が多く生まれた。死んだ子もいたが、生まれる数がそれを上回った。集団は大きくなった。

その者は五歳になっていた。

母の胸から離れ、自分の足で歩いていた。草の根を掘った。虫を捕まえた。年上の子の後をついて歩いた。

洞窟の壁に誰かが手の形を押していた。赤い土で。その者は自分の手を壁に当ててみた。離した。何も残らなかった。

もう一度当ててみた。

第二の星

雨が降った。

「始まりの大地」の乾いた台地に、水が戻った。地下に隠れていた根が膨らんだ。川が水を取り戻した。低地に水溜まりができ、やがて浅い池になった。池の縁に草が伸びた。草を食う獣が来た。獣を食う別の獣が来た。

食べるものがあると、子が生まれる。

この五年で集団は大きくなった。子どもの声が増えた。洞窟の中に人の体温が増えた。夜、誰かの体に当たらずに眠ることが難しくなった。

同時に、別の集団も大きくなっていた。

水場は一つではない。しかし良い水場は限られている。獣が多く集まる場所も、実のなる木が密な場所も、数は決まっている。豊かさは、触れ合いをも増やした。出会いの数が増えた。友好的な出会いも、そうでない出会いも。

雨は恵みだった。同時に、圧力でもあった。

大地の南の方では、年中霧に包まれた森が揺れていた。木々の間で何かが動いていた。この集団とは異なる体格の者たちが、枝を折り、果実を落とし、泥の上に大きな足跡を残していた。夜になると遠くで声が聞こえた。唸りではなく、もう少し複雑な、繰り返しのある音だった。

この星はそれをすべて見ていた。

水も、足跡も、洞窟の壁の赤い手形も。

与えるもの

糸が繋がった。

温度が変わった。洞窟の壁に残った手形のすぐ上の石が、ほんのわずか、夜明けの光の中で温かくなった。この者がもう一度壁に触れたなら——その石に触れたなら——掌に何かが伝わったかもしれない。

この者は触れなかった。

次に渡すべきものはわかっていた。手形の意味ではない。手形を残そうとした、その動きの方だ。残そうとする意志があった。それはまだ言葉にならない。しかし体の中にある。その動きに光を落とすことはできる。届くかどうかは、まだわからない。

伝播:HERESY 人口:778
与えるものの観察:手形を残した。意味はまだない。
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第617話

紀元前296,925年

第二の星

空が白んでいる。

湿った風が草の根に沿って這う。根は深い。この大地の下には水が眠っていて、根はそれを知っている。木々は知らない。ただ伸びる。

同時に、遠くで。

大きな群れが南に動いている。旧人と呼ばれることになる者たちではなく、その者たちより小柄で、音を多く使う群れだ。彼らは川沿いに沿って移動し、岸辺の泥に足跡を残していく。足跡は翌朝には消える。川が増水する。

東の岩棚では、別の群れが眠りから覚めない者を囲んでいる。囲んだまま、何もしない。何をすればいいか知らない。ただ囲んでいる。

この星は照らす。

草の根も、川の増水も、眠りから覚めない者の周りの沈黙も、等しく。

集団のあいだに緊張がある。境界は匂いで分かれている。煙の匂い、体の匂い、食べるものの違いが染み込んだ匂い。匂いは言葉より早く届く。

その者がいる集団は、まだここにある。

778。この星はその数を数えない。ただ照らす。今夜の風の向きを、明日の雨を、地面の固さを。

与えるもの

その者が眠っていた。

土の匂いが濃くなった。その場所だけ、地面が少し湿っている。足の下に水脈がある。掘れば出てくる。

その者は寝返りを打って、顔を別の方向に向けた。

体が場所を覚えるかどうか。一度きりで消えるかどうか。次に来るとき、もう少し違うものを置いていこう。

その者(5〜10歳)

目が覚めた。

暗い。

体の下に土がある。土は冷たくない。少し前まで誰かがそこにいたのかもしれない。温かさが残っている。その者は手のひらを土に押しつけた。押しつけたまま、また目を閉じた。

朝になった。

母が動いている。何かを引きずっている音がした。その者は起き上がった。足の裏が土に触れる。昨夜とは違う感触だ。乾いている。

集団の端で、大人たちが声を出している。唸り声ではなく、もっと鋭い音だ。その者には意味がわからない。ただ、大人の体が大きく見える。いつもより大きく見える。

その者は母の足元に近づいた。

母は振り向かない。

手を伸ばした。母の膝の後ろの皮膚に触れた。母の体が少し硬くなった。触れていることはわかっている。それだけだ。

集団の端の声が止まった。

沈黙のほうが大きかった。

その者は母の膝から手を離した。地面を見た。土の表面に、小さな虫が歩いている。足が六本ある。その者はしゃがんだ。虫を見た。虫は止まった。また動いた。

その者も動いた。虫とは別の方向に。

伝播:HERESY 人口:746
与えるものの観察:体が場所を覚えるかどうか、まだわからない
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第618話

紀元前296,920年

第二の星とその者(10〜15歳)

岩の上に風が当たっている。

草が寝ている。起きない。乾いた根が土の中で縮んでいて、縮んだままだ。去年の雨は少なかった。今年も少ない。乾季のあとに来るはずの雨が、来なかった。来なかった、ということが、草の丈に残っている。

その者は崖の下にいる。

腹が減っている。減っていることを、腹が知っている。胸のあたりが引っ張られるような感覚がある。引っ張られながら、岩の面を見ている。岩に何かあるわけではない。ただそこが日陰だ。日陰のほうが、体が楽だ。

集団は減った。

干ばつが続いた5年で、乳飲み子のうちの半数が消えた。その者が乳飲み子だった頃、隣で眠っていた子がいた。今はいない。名前はなかった。呼び声もなかった。ただいたものが、いなくなった。その者はそのことを、何かとして持っている。何か、としか言いようのないものとして。

旧人の群れが近くにいる。

4日前から、草原の向こうに影が見える。大きい影だ。この集団より体が大きい。声が違う。唸り方が違う。近づいてこない。でも離れてもいない。集団の中の大人たちが、互いの腕を掴んで何か伝え合っている。掴む力が強い。その者にはわからない。掴まれていないから。

夜、火を囲む。

火は小さい。薪が減っている。乾いた土が続いていて、湿った木が見つからない。湿った木は燃えにくいが、長く燃える。乾いた木は早く燃えて消える。今夜の火は早く燃えている。その者は火の側に体を丸めて、膝を抱いている。

そのとき、熱が変わった。

火の熱ではなく、皮膚の上の熱だ。腕の内側が、ほんの少し温かくなった。風は来ていない。火は小さくなっている。それなのに、その場所だけ温度が違う。その者は腕を見た。何もない。虫もいない。傷もない。ただ温かかった。

腕の内側に注意が向いた。

その者は腕を動かさなかった。起き上がらなかった。その温かさを失わないように、動かなかった。膝を抱えたまま、腕の内側の温かさを感じていた。それだけのことが、長く続いた。

大人たちは話し合っている。

掴む腕が強くなっている。声は大きくなっていない。でも体が張っている。誰かが立ち上がった。誰かが手を横に振った。戻れ、という意味の仕草だ。その者はその仕草を何度も見てきた。方向を変えるときに使う仕草だ。移動する、ということだ。

その者はまだ腕を見ている。

温かさは消えていた。でも、あった場所を覚えていた。覚えていた、ということを体が知っていた。

与えるもの

腕の内側に熱を落とした。

この者は動かなかった。失わないために動かなかった。

渡したかったのは熱ではない。熱を失わないために動かない、というその判断だ。それがこの者の中に残るかどうか、まだわからない。ただ、次に渡すものは決まっている。

伝播:SILENCE 人口:752
与えるものの観察:温かさを失わないために動かなかった
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第619話

紀元前296,915年

第二の星

空の色が変わっている。

青みが薄い。朝の光が地面に届く前に、すでに白く焼けている。雲は高いところを横切るだけで、降りてこない。岩肌が昼前から手を当てられないほど熱くなる。

水場の跡に、ひびが入っている。去年の足跡がそのまま固まっている。泥の中に残った獣の蹄の形が、石のようになった。

集団は動いている。北の方へ、日の長い側へ、少しずつ。ひとりが歩き出すと、ほかが続く。子を背負った者が、荷を下ろさずに歩く。足が遅くなっても、下ろさない。

西の稜線の向こうに、もうひとつの集団がいる。姿は見えない。煙が立っている。火をくべている。彼らも同じ方向を向いている。

遠くの平地では、草が枯れ、地面が白くなっている。そこに獣はいない。獣のいないところに、人もやがていなくなる。

数百を超える者たちが、それぞれの場所で、それぞれの判断で動いている。星は区別しない。熱を注ぐだけだ。

与えるもの

水の匂いがした。

北東の方角から、ほんの一瞬。岩の陰が冷えている朝の短い時間に、その匂いが風に混じって来た。

その者の鼻が動いた。

一度だけ。それきりだった。

その者は顔を上げなかった。

渡せたのか。渡せなかったのか。匂いは本物だった。水は、ある。

その者(15〜20歳)

起きた。

腹が鳴っていた。昨日も鳴っていた。一昨日も。それが当たり前になっている。鳴っていない日の記憶がない。

母の背中が動いている。荷を縛り直している。草の繊維で束ねたものが、ほどけてまた縛られる。その音を聞きながら、その者は立った。

足の裏が熱かった。地面が夜のうちに熱を吸っていて、朝から返してくる。草履はない。皮はある。巻いた皮が擦り切れている。

集団が北へ向かっていた。その者も歩いた。前を歩く者の背中を見ながら歩いた。足元を見ながら歩いた。

途中で、立ち止まった。

何かがあった。何かではなく、何もなかった。風が止んだだけだ。でもその者は立ち止まった。

鼻が、何かを覚えていた。朝に嗅いだ何かを。水に似た何かを。

前を歩く者が振り向いた。唸った。来い、という意味だ。

その者は歩いた。

北東ではなく、北へ。

伝播:DISTORTED 人口:759
与えるものの観察:匂いは届いた。体は止まった。足は従わなかった。
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第620話

紀元前296,910年

第二の星

干ばつは続いている。

草の根が地面から引き抜けるとき、乾いた音がする。水場の跡は白く、縁が割れて捲れ上がり、風が来るたびに粉が舞う。岩の陰に溜まっていた湿り気は、もうどこにもない。

この集団は内側から変わりはじめている。

腹の減った者たちは声が大きくなる。唸りの種類が変わった。同意を求める唸りと、拒絶する唸りと、黙らせるための唸り。それが区別できるようになっている。以前はそうではなかった。何かが鋭くなっている。

集団の端に、この集団と体の作りが少し異なる者たちがいる。額の張り出しが違う。顎の形が違う。しかし火を使い、水を運び、子を抱いて眠る。区別されていなかった日々がある。区別がはじまっている日々がある。今は後者に近い。

遠くの乾いた平原では、別の集団が移動している。水を追っている。足跡が砂に残り、風が来て消える。彼らに名はない。消えることにも名はない。

この星は傾き、光を均等に降らせ、特別扱いをしない。飢えた者にも、満ちた者にも、同じ熱を注ぐ。

与えるもの

渡そうとした。

この者の周りに残ったわずかな影が、短くなった。正午より早く、影が消えた。その一瞬に、温度が落ちた。

この者は顔を上げた。

落ちた、とは言えない。ほんの一瞬、首の後ろの産毛が立った。それだけだ。

渡したのか。届いたのか。わからない——いや、問いはそこではない。この者は知りすぎた、と集団が判断する前に、何かを知ることができたか。渡すべきものは次も、また次も、ある。消えるまでの間に、どれだけ落とせるか。

その者(20〜25歳)

喉が渇いている。

水場の記憶はある。そこへ行くと、白い地面がある。水はない。

足の裏に、割れた土の感触がある。踏むたびに崩れる。

腹は凹んでいる。肋骨が皮の下で動くのがわかる。息を吸うと浮き上がり、吐くと沈む。それを何度も感じる。意味はない。ただ感じる。

集団の中に、声の大きい者がいる。その者が何かを言うと、他の者が従う。従わない者もいる。従わない者に、大きい者が近づく。体が触れる前に、小さい者が退く。

その者は見ていた。

岩の陰に座って、膝を抱えていた。膝は熱かった。岩も熱かった。抱える腕が汗ばんでいた。

首の後ろが、突然冷えた。

何もない。風もない。影もない。

顔を上げた。空は白かった。雲はなかった。熱が真上から降りていた。

それでも、冷えた感触だけが残っていた。

その者は膝を放した。立った。集団の中心から離れた方向へ歩いた。理由はなかった。ただ足が向いた。

大きい声の者が唸った。

その者は止まった。振り向いた。

唸りが続いた。長かった。低かった。

その者は戻った。岩の陰に戻って、また膝を抱えた。

首の後ろの冷たさは、もうなかった。

伝播:HERESY 人口:728
与えるものの観察:首の冷えに気づいた。戻ってしまった。
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第621話

紀元前296,905年

第二の星

大地の割れ目が、また広がっている。

岩盤の下まで乾燥が届いたのだろう。亀裂は東の斜面から始まり、低地へ向かって枝分かれしていった。その縁を踏んだ者の足が、砂埃とともに少し沈んだ。踏み直した。また沈んだ。その者は別の方向へ歩いた。

南の丘の向こうで、別の集団の影が見えた。

旧人の一群だった。背が低く、肩が厚い。毛皮を持たず、皮膚の色が赤みを帯びていた。彼らは谷の縁に立ち、こちらを見下ろしていた。唸り声が聞こえた。威嚇ではなく、問いかけでもなく、ただそこにある声だった。

この集団の者たちは動きを止めた。

水場が消えた。草の実が尽きた。獲物の足跡は東へ向かっている。東には旧人の縄張りがある。縄張りという概念はまだないが、そこへ近づけば何かが起きると体が知っている。前に近づいた者が戻らなかった。その記憶は、言葉にならないまま集団の中に残っている。

緊張は匂いで伝わる。

汗の質が変わる。呼吸が浅くなる。子どもたちが泣くのをやめ、母の腹に顔を押しつける。老いた者が岩の上に座り、南の丘を見続ける。何も言わない。言う手段がない。ただ見ている。

旧人の群れが動いた。

下りてくるのではなかった。横に移動した。谷沿いに西へ向かい、やがて岩の陰に消えた。唸り声が小さくなり、消えた。風だけが残った。

この集団の者たちは、しばらくそのまま立っていた。

誰かが先に動いた。岩を拾い上げ、手の中で転がし、置いた。それだけだった。他の者たちも少しずつ動き始めた。子どもが泣き声を上げた。母がその背を叩いた。一度、二度。泣き声が止まった。

東の空に雲の影が動いていた。

雨ではない。この季節に雨が来ることはない。ただ光が変わった。影が地面を流れ、岩の色が一瞬濃くなり、また戻った。大地は同じように乾いていた。亀裂は同じように広がっていた。旧人は消えた。しかし次の日も、その次の日も、南の丘に影が現れるかもしれなかった。

この集団はまだここにいる。

それだけが確かだった。

与えるもの

旧人の群れが岩陰に消えた直後、谷の底の石に日光が集まった。一点に落ちる光だった。その石の横に、薄茶色の根が半分土から出ていた。

この者の体が、その方向を向いた。次に何をするかは、この者次第だった。

根をそのまま通り過ぎた。届かなかったのか。それとも届いたが、今はまだそちらへ動く力がなかったのか。問いは残る。次に渡すなら、もっと体に近いものがいいかもしれない。腹の空洞ではなく、手の感触。

その者(25〜30歳)

旧人の唸り声が消えたあと、この者は地面を見ていた。

亀裂の縁に小さな虫が一匹いた。触角を動かし、止まり、また動かした。この者はしゃがんだ。指を近づけた。虫は逃げた。

この者は立ち上がり、別の方向へ歩いた。

伝播:SILENCE 人口:738
与えるものの観察:根を渡した。通り過ぎた。次は手に届くものを。
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第622話

紀元前296,900年

その者(30〜31歳)

乳飲み子だった。

それだけだ。まだ歩かない。まだ立たない。重さがある。温もりがある。それだけだ。

母の腕の内側に押しつけられた頬。皮膚越しに脈が届く。それをその者は知らない。ただ温かい。ただそこにある。

集団が動いたのは夜明けだった。

東の斜面が崩れた音は遠かった。岩が岩を叩く音。それから砂が流れる音。それから静寂。集団はすでに移動を始めていた。老いた者が先を歩き、幼い者を抱えた者が続いた。

その者を抱えていたのは母だった。

母は若い。乾いた季節が続いて肋骨が浮いている。乳の出が悪くなっていた。その者は泣かなかった。泣く力が出なかった。

道なき斜面を下る。岩を踏み、草の根を踏み、母の足が何度か滑った。その者は揺れた。揺れるたびに母の腕が締まった。

集団が低地に着いたとき、緊張が走った。

別の群れがいた。体格の違う者たちが、水場の手前に立っていた。唸り声。腕を広げる動作。足を踏む音。

母は後退した。その者を胸に押しつけたまま後退した。

岩が飛んできた。

母は倒れなかった。しかし走った。岩がもう一つ来た。母の背中に当たった。母が呻いた。足が乱れた。

崖の縁は見えなかった。

二人とも落ちた。声はなかった。岩が砕ける音が一度した。それから何もなかった。

下の砂礫に、二つの重さが残った。

風が来た。砂が寄った。

第二の星

北の原野では、乾いた草が地面を転がっていた。根を失った草だ。風に押されて転がり、岩に当たって止まり、また風が来て動いた。止まった場所に意味はない。風が止まれば草も止まる。それだけだ。

与えるもの

糸は、落ちていく二つとは別の方向へ、すでに向かっていた。

伝播:HERESY 人口:713
与えるものの観察:渡す前に落ちた。それでも次がある。
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第623話

紀元前296,895年

第二の星

高原の縁。乾季の終わりに近い。

草が黄ばんで腰まで伸び、風が吹くたびに一方向へなびく。川は細くなった。岸に残った泥は割れ、表面が粉になっている。

東の丘の上では、別の群れが動いていた。二足歩行だが、肩幅が広く、首が太い。額が低い。七人か八人。こちらの群れを見ている。動かない。こちらも動かない。

五年が過ぎた。

幼い者が二人、川縁の段差から落ちた。一人は戻り、一人は流れに持っていかれた。老いた雌が歩かなくなり、三日後に群れから離れた。戻らなかった。腹の大きかった雌が二人、子を産んだ。どちらの子も生きている。

群れの中心には年嵩の雄が三人いる。その者はまだその輪の外にいる。

遠くの平野では、別の小さな群れが水場を探して移動している。水が出ない穴を掘り続けている者がいる。掘って、立って、また掘る。土は湿っていない。

この星は何も語らない。照らすだけだ。

与えるもの

糸が繋がった。

川の浅瀬に光が落ちた。底の石が透けて見える場所。そこだけ水が澄んでいた。魚が三匹、静止していた。

この者は川縁を歩いていた。光の場所の少し手前で足を止めた。水を見た。石を見た。魚は見なかった。

渡せなかった。

前にも、こういうことがあった気がする。光を落とした。誰かが別の方向を向いた。その記憶の重さが、今、少しずつ大きくなっている。渡す側が慣れてはいけないのかもしれない。慣れた瞬間に、何かが変わる気がする。次は何を落とせばいいのか。

その者(23〜28歳)

二十三歳のとき、初めて大きな獣の狩りに加わった。

前を走る年嵩の雄たちの後ろを追った。獣は崖際まで追い詰められた。落ちた。その者は崖の縁に立って、下を見た。獣の腹が動かなくなるまで、立っていた。

肉を持ち帰る役割を与えられた。重かった。途中で地面に置いた。また持った。

二十五歳のころ、東の丘の群れと川で出会った。

向こうの雄が唸った。こちらの年嵩の雄も唸った。しばらく、双方が動かなかった。その者は後ろに立っていた。唸り声の低さが腹に届いた。足の裏に、逃げる準備があった。

向こうが先に下がった。

その者は相手の目を見ていた。白目がなかった。鼻の形が違った。でもそれが何を意味するか、その者に言葉はない。ただ見た。

二十七歳。腕に傷を負った。狩りではなく、群れの中の揉め事だった。誰が傷をつけたか、もう忘れた。傷は膿んだ。三日間、腕が熱を持った。四日目に熱が引いた。

川縁を歩くことがある。水を見る。特に理由はない。水が動いているのを見ていると、腕の熱が少し遠くなる気がする。

光が落ちた場所に、その者は立った。

浅瀬の石。底が見えた。手を伸ばして、石を一つ拾った。魚はもういなかった。石を握ったまま、立ち上がった。川縁を歩いた。

石は夜まで手の中にあった。

朝、どこかに置いた。どこかは忘れた。

伝播:NOISE 人口:718
与えるものの観察:光を落とした。石を拾った。魚は届かなかった。
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第624話

紀元前296,890年

その者(28〜32歳)

腹の皮が背骨に貼りついていた。

朝、目を開けるのに時間がかかった。まぶたが重いのではなく、開けた先に何があるかを体が知っていたからかもしれない。空は高く、白く、雲がなかった。

集団は移動していた。

その者は最後尾を歩いた。かつては群れの中ほどにいた。狩りに加わり、若い雌と並んで眠り、子どもの一人が転んだとき肩を貸した。しかし今、後ろにいるのは自分だけだった。

理由はわかっていた。わかるという言葉を持っていなかったが、体が知っていた。

数日前、東の丘に来ていた別の群れと距離が詰まった夜、その者は声を立てた。威嚇ではなく、別の何かだった。高く、細く、跳ね上がる音。群れの中の誰もしたことがない音だった。別の群れの一人がその音に反応した。同じではないが、似た音を返した。

それだけだった。

しかし集団の長老格の雄は、その一部始終を見ていた。

翌朝から、その者への食料の分配が減った。明示的な追放ではなかった。ただ、肉が回ってくる順番に、その者の番は来なくなった。

草の実を拾って食べた。苦かった。水場で泥の混じった水を飲んだ。腹が鳴り、やがて鳴らなくなった。

歩いていた。

集団が休んだ木陰に、その者は少し離れて座った。子どもが一人、近づいてきた。母親が声を上げた。子どもは戻った。

その者は地面を見た。土は乾いていた。亀裂が走り、縁が白く粉をふいていた。指で亀裂をなぞった。深さがあった。どこまで続くかはわからなかった。

光がある一点に落ちた。

草の根元、土が少しだけ盛り上がっている場所だった。昨日の雨ではない。雨はもう何十日も降っていない。それでも、そこだけ土の色が暗かった。

その者は立ち上がろうとして、できなかった。膝をついたまま、その場所を見た。地面の下に水があるのかもしれなかった。あるいは何もないのかもしれなかった。

掘らなかった。

立ち上がれなかったのではなく、立ち上がる必要を体が手放していた。

集団が動き始めた。足音が遠ざかった。子どもの甲高い声がした。誰かが木の枝を引きずる音がした。やがてそれも聞こえなくなった。

その者は地面に横になった。

頬に土の粒が当たった。乾いていた。遠くで鳥が鳴いた。羽音がした。近かったが、見えなかった。空の白さがまぶたの裏に滲んだ。

亀裂の先に、何かいた。小さな虫だった。触角を動かし、止まり、また動いた。

その者はそれをしばらく見ていた。

虫は亀裂の中へ消えた。

第二の星

高地の岩場では、斜面を流れる細い水が凍りかけていた。低地では、群れが獲物の痕跡を追って二日歩いた。海に近い平地では、潮が引いた後の砂に子どもたちが貝殻を並べていた。世界は乾き、凍り、濡れ、各々の速さで動いていた。

与えるもの

土の暗い一点を、この者は見た。掘らなかった。それでいい、と思うより先に、糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:694
与えるものの観察:渡した。届いたかは問わない。届く前に次がある。