2033年、人類の旅

「紀元前296,885年〜紀元前296,765年」第625話〜第648話

Day 27 — 2026/04/29

読了時間 約62分

第625話

紀元前296,885年

その者(27〜31歳)

集団の端にいた。

火の番をする者は、移動のたびに最後尾を歩く。炭を皮袋に包んで運ぶ。消えないように。消えたら、また起こすのに手間がかかる。それがこの者の仕事だった。長い間、そうだった。

しかしいまは、足が止まる。

前を歩く集団が小さくなっていく。砂交じりの平地、低い草が風に倒れたまま起き上がらない。乾いた地面に足跡がつかない。固すぎる。踏んでも跡が残らない。

皮袋の中の炭は、まだ息をしている。

この者はそれを知っている。袋を胸に抱えると、かすかな熱が掌を通って伝わってくる。消えていない。まだある。

前の集団が止まった。何かを見つけたのか。いや、振り返っていた。

この者が遅れているから。

唸り声がした。低い、短い。来い、という意味だ。この者は足を動かした。砂が靴底の皮に入り込んで、痛い。いつから痛かったのか。昨日からか。もっと前からか。

わからない。

水場に着いた。集団が水を飲んでいる。この者は最後に飲んだ。水は薄く、底が見えた。小石がいくつか、白く光っている。

夜、火を起こした。

炭を地面に置いて、乾いた草を集めた。草は少なかった。それでも燃えた。小さく、赤く。子どもたちが火の前に集まってきた。この者は座って見ていた。子どもの一人が、この者の膝に寄りかかってきた。重かった。それだけだった。

翌朝、起き上がれなかった。

膝が地面を離れない。手をついて、押し上げようとした。腕が震えた。体の中に何もなかった。食料は五日前から半分になっていた。この者は子どもに渡していた。計算したわけではない。ただそうした。

集団が動き始めた。

誰かがこの者を見た。目が合った。何も言わなかった。声も出なかった。相手も出さなかった。その者は前を向いて歩き始めた。

皮袋を地面に置いた。炭は、まだ温かかった。

置いていけなかった。また拾った。

足を動かした。砂の地面。低い草。空は昨日と同じ白さだった。雲がない。日差しが頭の上に乗ってくる。重い。

集団の背中が遠くなった。

この者は止まらなかった。歩いた。ゆっくり、しかし止まらなかった。ある地点で、膝が折れた。前ではなく、横に。体が傾いた。砂の上に、肩から落ちた。

皮袋は胸の下に挟まれたままだった。

草が風で揺れていた。音がした。ざわ、ざわ、と。

熱は、まだそこにあった。

第二の星

乾いた台地から遠く離れた低地で、旧人の群れが川沿いに移動していた。水嵩が増していた。彼らは高い岩の上に登り、川が白く濁るのを見ていた。岩の表面は熱く、足の裏が焼けた。彼らは動かなかった。水が引くまで、ただそこに立っていた。

与えるもの

何人目だろうか。

土の亀裂をなぞった指の記憶。川底の石を夜まで握っていた記憶。虫が逃げた方向を見なかった記憶。産毛が冷えた記憶。

この者は、炭を手放さなかった。

火を渡した。渡したことが届いたかどうかは、わからない。しかし皮袋は地面に残る。炭はまだ息をしている。次に誰かがそれを開ければ、そこから先へ向かう。

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:666
与えるものの観察:炭はまだ息をしていた
───
第626話

紀元前296,880年

第二の星

赤道に近い大地。乾いた風が北から吹く季節だった。

草原の東端、岩礁が並ぶ場所で、旧人の一群が水場を離れていった。理由はわからない。ただ、離れた。三日かけて近づいてきた方角と逆の方向へ、影のように消えた。

同じ頃、南の崖下では、産声がひとつ上がり、ひとつ止まった。産んだ者は起き上がれなかった。周りの者たちが皮を引き寄せ、その者を覆った。誰も声を出さなかった。

西の水場では、子どもたちが泥の中に棒を差していた。差しては抜き、差しては抜いた。何かを探していたのかもしれないし、ただやっていたのかもしれない。

草むらの縁で、老いた雄が一頭、座ったまま動かなくなった。鳥が近くに降り、また飛んだ。

大地は傾いていない。すべてをひとしく照らす。

与えるもの

糸が繋がった。

まだ五歳か、あるいは六歳か。この者が何を知っているかは、この者にしかわからない。

干ばつの痕跡が大地に残っていた。ひび割れた泥の上に、今年の雨が一層だけ乗っている。その境目、薄皮一枚のところに、朝の光が斜めに落ちた。古い層と新しい層が、一瞬だけ色を変えた。

この者は光が落ちた場所を見た。しかし踏み越えた。

土の記憶は踏まれた。

踏み越えた足が、何かを知っていたのか。それとも何も知らなかったのか。渡した光は届かなかったのではなく、別の何かになったのかもしれない。次に渡すなら、足の裏に届くものがいる。

その者(5〜10歳)

母の背中から離れた最初の季節は、地面が遠かった。

足の裏に石が刺さる感覚を覚えた。痛みは驚きだった。声を出すと、上の者が振り向かなかった。それで声を出さないことを学んだ。

移動のとき、この者は列の端を歩く。荷はまだ持たない。ただついていく。足が遅れると、前の者の踵が遠くなる。その距離が怖かった。遅れないために走る。走ると転ぶ。転ぶと置いていかれる気がして、また走る。

ある朝、地面に光が斜めに落ちていた。

光が当たっている部分の土は色が違った。褐色と灰色の境目。この者は一瞬止まった。足が止まった理由はわからない。ただ止まった。

前の者が振り向かなかった。

この者は踏み越えた。

歩きながら、足の裏がその感触を覚えていた。古い土と新しい土の違い。踏んだ後も、しばらく足の裏が覚えていた。それだけだった。

水場に着いた。みなが水を飲んだ。この者も飲んだ。冷たかった。

夜、火の近くで丸くなった。上の者たちの体温が背中に伝わった。足の裏はまだ覚えていたかもしれない。あるいはもう忘れていたかもしれない。

伝播:DISTORTED 人口:676
与えるものの観察:足の裏が覚えた。頭はまだ知らない。
───
第627話

紀元前296,875年

第二の星

赤道に近い大地に、雨が戻った。

乾ききった土が水を弾くように、最初の雨は染み込まなかった。地表を流れ、岩のくぼみに溜まり、草の根に届く前に蒸発した。しかし翌日も降った。三日目も降った。四日目、大地はようやく飲んだ。

草が萌えた。虫が孵った。鳥が戻った。

群れは水場のそばに留まった。果実が実り始め、小型の獣が増えた。子どもたちが動き回り、年老いた者が日向に出て座っていた。火は絶やさずに管理され、夜は煙の匂いとともに更けた。

そのなかで、見えないものが動いた。

最初に熱を出したのは、誰だったか、もう誰も覚えていない。ただ、その者が横になったとき、隣にいた子どもが翌日に熱を出した。その子の母が、その翌日に。群れのなかで何かが這い回るように広がり、誰もそれを見ることができなかった。

熱は内側から来た。皮膚が乾き、目が赤くなり、水を飲んでも飲んでも渇きが癒えなかった。腹が緩み、力が抜けた。立ち上がれなくなった者は、そのまま動かなくなった。呻き声が上がり、やがてそれも止まった。

子どもが先に逝った。年寄りが続いた。若い女が、出産の直後に熱に捕まり、そのまま戻らなかった。生まれた子は泣き声を上げ続けたが、乳を与える者が次々と熱に倒れ、やがてその泣き声も止まった。

理由を知る者はいなかった。

水が悪いと思った者がいた。水場から離れ、岩の上で雨水だけを飲んだ。それでも熱が来た。火の当たり方が悪いと思った者がいた。夜通し火のそばに座り続けた。それでも熱が来た。群れのなかの誰かが悪いものを持っていると思った者がいた。その者を遠ざけた。それでも熱が来た。

生き残った者は、三分の一を超えなかった。

群れは静かになった。声が減った。動く者が減った。子どもたちが遊んでいた水辺のそばに、動かない者たちが並んでいた。誰かが土をかけた。誰かが石を置いた。なぜそうしたのか、言葉ではわからなかった。ただ、手が動いた。

東の高地では、別の者たちが暮らしていた。旧人の一群で、低地とは異なる川沿いに火を持っていた。彼らにも熱が来たかどうか、低地の群れには知る術がなかった。ただ、ある朝から煙が見えなくなった。それだけだ。

雨はその後も降り続けた。草は伸びた。虫は増えた。大地は熱を覚えていなかった。

与えるもの

腐りかけた果実のそばに、一匹の虫が止まっていた。

虫は腹を食われた果実の白い部分だけを食い、その実の種のそばを離れなかった。光がそこに長く落ちた。朝から昼まで、影が動いても、光の中心はその種の上にあり続けた。

その者は虫を見た。種は見なかった。

渡せた、とは思わない。しかし光はまだそこにある。次に渡すべきものが、この失敗の形から見え始めている。

その者(10〜15歳)

横になった者たちを、遠くから見ていた。近づかなかった。なぜかはわからなかった。ただ、足が止まった。

腐った果実の匂いがした。虫の羽音がした。

手に持っていた石を、地面に置いた。拾わなかった。

伝播:SILENCE 人口:522
与えるものの観察:光は種に落ちた。この者は虫を追った。
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第628話

紀元前296,870年

その者(15〜20歳)

煙の匂いが先に来た。

その者は谷の縁に座って、獣の皮を指で引き延ばしていた。何度も同じ動作を繰り返す。皮が乾くと縮む。それを体が知っていた。

風向きが変わった。

匂いが変わっただけで、その者の手は止まった。振り向く前に、空が変わっていた。東の丘の向こうが白んでいる。白ではない。黄ばんだ、重い色。

群れが動き始めたのはそれからだ。

老いた雄が吠えた。子どもたちが泣いた。誰かが荷を放り捨てた。皆が西へ走った。その者も走った。皮は谷に残した。

火は見えなかった。煙だけが追ってきた。

川を渡ったところで、その者は転んだ。膝が岩に当たった。痛みより先に、起き上がらなければならないという体の命令があった。起き上がった。また走った。

群れが止まったのは、大きな岩盤の張り出した場所だった。煙は流れてくるが、炎はここまで届かない。誰かが岩に背中をつけて座り込んだ。子どもが母の腹に顔を埋めた。

夜が来た。

東の空が橙色に光っていた。火はまだ生きている。誰も眠れなかった。

夜明けに、群れの一部が戻っていないことがわかった。

老いた雌が一人。子ども二人。若い雄一人。

その者は膝の傷を手で押さえたまま、東を見ていた。煙はまだ上がっている。戻る者はいなかった。

三日後、焼け跡に踏み込んだのはその者だった。

理由があったわけではない。足が向いた。焦げた地面は熱をまだ持っていて、足の裏に伝わってきた。炭になった木の幹が、触れると崩れた。灰が舞った。

そこに、何かがあった。

岩の隙間に、焼けていない土があった。その下に、細い根が残っていた。根の先に、白い何かがついていた。

その者はしゃがんで触れた。

軟らかかった。食べられるかどうか、体が試していた。口に入れた。苦くなかった。

群れのところに持って帰った。

老いた雄は嗅いだだけで顔を背けた。しかし若い雌が受け取った。子どもが真似をして口に入れた。誰も死ななかった。

その者はもう一度、焼け跡に向かった。

今度は他に誰も来なかった。

群れのいる方向を、誰かに示したわけではない。ただ、群れが自分を見る目が変わった気がした。何かを持ってくる者、として。

その目が、その者には重かった。

重さの意味を、その者はまだ持っていなかった。

翌々日、それが起きた。

群れの中で最も大きな雄が、その者に石を投げた。理由はわからない。焼け跡に何度も行ったこと。老いた雄が嗅いで背けたものを食べさせたこと。他の者がその者の動きを目で追うようになったこと。

何かが、大きな雄の中で決まったのだ。

群れの端に追い立てられた。他の者は見ていた。止める者はいなかった。

その夜、その者は群れの外で眠った。

明け方、誰かの足音が近づいた。

若い雌だった。白い根を食べた者だ。手に何か持っていた。干した肉の欠片だった。地面に置いて、すぐ去った。

その者はそれを見ていた。

二日が経った。

その者は一人でいた。水は川から飲んだ。食べるものは焼け跡で探した。群れは遠巻きにしていた。

三日目の夕方、大きな雄が再び来た。今度は二人の雄を連れていた。

石は飛んでこなかった。

その者に近づいた。足で蹴った。倒れた。また蹴った。その者は声を上げなかった。丸まった。腹を守った。

三人は去った。

その者は地面に顔をつけたまま、しばらく動かなかった。

土の匂いがした。湿っていた。雨の跡だ。三日前の雨。まだ残っている。

立ち上がろうとした。腕が震えた。

立ち上がった。

その者は川の方へ歩いた。膝の古い傷が、また開いていた。歩くたびに血が滲んだ。川に着いた。水に足を入れた。冷たかった。

しばらくそのまま立っていた。

流れが足を押した。その者は流れに逆らわずに、少し下流へ動いた。

川に沿って、歩き続けた。

群れから離れた。

夜になった。その者は大きな倒木の陰で座った。空には火事の煙がまだかすかに残っていて、星が見えにくかった。

その者は膝を抱えた。

腹が鳴った。

焼け跡に戻ることを、体が考えていた。あそこにはまだある。白い根。炭の下。

行くかどうか、体の中で何かが揺れていた。

その者は揺れたまま、眠った。

夜明けに目が覚めたとき、その者の体は焼け跡の方を向いていた。

第二の星

赤道を挟んだ大地に、火が走った。

乾季の終わりに積み重なった枯れ草と落ち葉が、一本の落雷で燃え上がった。風はその夜、東から西へ吹いていた。炎は丘を越え、谷を下り、三日で尾根の手前まで達した。川が炎を止めた。川の向こう側は生き残った。

焼けた面積は、この星の大地から見れば小さな傷に過ぎない。しかし群れにとって、それは世界の三分の一が消えた。木の実。根茎。獣の道。水場への経路。記憶の中にある地形が、灰になった。

同じ頃、この星の反対側では、別の群れが氷河の縁を移動していた。氷が後退し始めていた。生き物の気配が増していた。しかし彼らはそれを知る言葉を持たなかった。持っていた必要もなかった。体が感じていた。

焼け跡には、いつも新しいものが生える。

最初に来るのは、焼け跡を好む植物だ。根が深く、火の後でなければ芽を出せない。白い根。柔らかい茎。苦くない葉。それらは炭の下で待っていた。

誰かが踏み込まなければ、見つからなかった。

この星は待っていたわけではない。ただそこにあった。

群れの中で、一人が排除されつつあった。その者の動きを、この星は他の場所と同じ目で見ていた。判断しない。ただ照らす。

煙がまだ空に残っていた。

与えるもの

温度が変わった、と教えた。焼け跡の土が、まだ熱を持っていることを。

この者は踏み込んだ。岩の隙間を、足の裏で感じて、しゃがんだ。

渡したのはそれだけだ。あとはこの者が手でやった。

この者が焼け跡に戻るかどうか、私にはわからない。群れを離れた者が生き延びる確率を、私は知らない。知っていたところで、どうする。

白い根のことを思う。渡した。届いた。しかし渡したことで、この者は重さを背負った。

渡さなければよかったのか。

問いは終わらない。けれど次に渡すべきものは、もう目の前にある。川の流れだ。流れに沿って歩けば、水が尽きない。食べるものも、川沿いにある。

この者の足は、すでに川に向いている。

渡せるかどうかは、また別の話だ。

伝播:HERESY 人口:426
与えるものの観察:排除された者が、次の朝、焼け跡へ向いていた
───
第629話

紀元前296,865年

第二の星

雨季が終わって久しい。

大地の南側、広い草原が広がる平地では、野火の跡が黒く残ったままだ。灰が薄く積もった斜面を、動物の群れが迂回している。土が露出した場所に、新しい草の芽が数本だけ出ている。

北へ三日歩いた先の森では、旧人の集団が移動している。四人。皮を肩にかけ、低い声で何かを繰り返しながら歩く。顔の作りがこちらの者たちと少し違う。眉骨が厚い。しかし歩き方は似ている。獣の気配を感じたとき、同じように立ち止まる。

谷間の集団は今、二十三人が残っている。

先の野火で逃げ散り、戻らなかった者がいる。子どもが二人。老いた女が一人。どこで倒れたかはわからない。

水場の近くに、集団の中で力のある男が立っている。その者を指差して唸る声が、朝から何度か聞こえた。その者が知っている何かを、男は快く思っていない。

川の対岸では、別の群れの焚き火の煙が細く立ちのぼっている。風向きが変わると、魚を焼く匂いが混じってくる。

星は判断しない。煙も、唸り声も、新しい草の芽も、等しく照らす。

与えるもの

五年が経った。

あのとき、炭の下の白い根を示した。この者はそれを掘った。食べた。腹が痛くなった。それでも死ななかった。

今回は別のものを示す。

川沿いの茂みの奥、湿った地面に、足跡がついていた。大きい。人の足ではない。獣でもない形だ。その者が水を汲みに行くとき、水面に映る茂みの影が、ほんの一瞬、揺れるようにした。風はなかった。それだけだ。

この者は水桶を止めた。影を見た。茂みを見た。

逃げなかった。

逃げなかったことが正解なのかどうか、私にはわからない。ただ、逃げた先に何があるかは、知っている。集団の中に戻れば、今朝から続く男の目がある。茂みの奥に進めば、足跡の主がいるかもしれない。

どちらへ向かっても、この者は何かと出会う。

次に渡すべきものは、もう決まっている。ただ、渡す機会が来るかどうかが、まだわからない。

その者(25歳)

水桶を持ったまま、動けなかった。

川の流れる音がある。その下に、別の音が混じっている気がした。息のような音。葉が揺れたわけではない。枝が折れたわけでもない。ただ、影の形が、一瞬だけ変わった。

桶を地面に置いた。

体の中が冷えた。腹ではなく、もっと奥の、どこか名前のない場所が。

茂みを見つめた。足の裏が土を感じていた。踏ん張っているわけではなかった。ただ、そこにいた。

長い時間が経ったかもしれない。短かったかもしれない。

影は動かなかった。

やがてその者は桶を拾い、水を汲んだ。手が震えていた。水がこぼれた。もう一度汲んだ。

集団の方へ戻る道に足を向けたとき、背後で枝が折れる音がした。振り返らなかった。

振り返らなかったことが、体の中から来た判断なのか、足が勝手に動いたのか、その者には区別がつかなかった。

集団の縁まで戻ると、力のある男がこちらを見ていた。目が合った。

男は何も言わなかった。ただ見ていた。

その者は桶を下ろした。地面を見た。地面には昨日自分がつけた足跡が残っていた。雨が降れば消える。それだけの深さだった。

伝播:HERESY 人口:414
与えるものの観察:逃げなかった。それが今日の全てだ。
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第630話

紀元前296,860年

第二の星

地の底で何かが動いた。

草原の南端から始まった。裂け目は浅かったが、長かった。土が剥がれ、その下に別の色の岩が見えた。赤みを帯びた、深いところにある石の色だった。

遠い山が煙を吐いた。

最初は細い柱だった。三日かけてそれは広がり、灰が漂い始めた。太陽の位置はわかったが、色が変わった。白ではなく、鈍い赤みを帯びた光が草原に落ちた。影の輪郭がぼやけた。

地が揺れたのは夜だった。

大きな揺れではなかった。しかし続いた。断続的に、波のように。崖の縁で岩が崩れ、水場の泥が底から浮き上がった。低い場所に溜まっていた水が、泥と混ざって濁った。

集団は散った。まとまって移動できる数ではなくなった。三分の一以上が灰の降る中で消えた。飢えで消えた者も、岩に潰された者も、ただ戻らなかった者も、その違いは誰も確認しなかった。

遥か北の方角では、旧人の一団が密生した森の中を進んでいた。灰はそこにも届いていた。木の葉の上に薄く積もり、雨のように落ちてきた。

星は揺れ、揺れ、静まった。

与えるもの

水の匂いがした。

岩盤の隙間から染み出す水だ。灰が降る中では、それだけが清んでいた。その匂いが、風の変わり目に流れた。

この者は立ち止まった。

鼻を動かしていた。匂いの方向に体が傾いた。そして別の方向へ歩いた。

——また届かなかった。それとも、別の記憶として残ったのか。次に渡すなら何だろう。届かなかった記憶が積み重なる。しかしその積み重なりの中に、何かが残っているかもしれない。渡し続けることしかできない。

その者(25〜30歳)

地面が鳴った夜、この者は木の根元にいた。

根に背中を預けて眠りかけていたところだった。揺れを感じたのは背骨からだった。骨の芯に届く、低い振動。起き上がる前に二度目が来た。

逃げなかった。逃げる方向がわからなかった。

そばにいた老いた女が声を出した。短い、刺さるような声だった。それを聞いて、この者は立ち上がった。

夜が明けた。空の色がおかしかった。

太陽はあった。しかし光が柔らかくなかった。赤く、重い光だった。灰が降り始めたのは昼前だった。最初は気づかなかった。皮膚に細かいものが積もっていることに、しばらくしてから気がついた。

集団がばらけた。

老いた女がどこかに消えた。この者は追わなかった。追えなかった。足が別の方向に動いた。灰の降る斜面を下り、乾いた川床を渡り、岩の多い場所に入った。

水の匂いがした。

鼻を止めた。立ち止まって、空気を吸った。匂いはあった。確かにあった。しかしどこから来るのかわからなかった。この者は少し別の方角へ歩き、立ち止まり、また歩いた。

岩の割れ目から水が滲んでいた。指でなぞると、冷たかった。掌に集めると、飲めた。

誰かに知らせようとした。

しかし集団はいなかった。声を出しても、返ってこなかった。この者はひとりで飲み続けた。

夕方、二人が来た。

一人は若い男で、もう一人は子供を背負った女だった。この者を見て、二人は近づいた。水を飲んだ。子供も飲んだ。

三人は岩の陰で夜を越した。灰はまだ降っていた。

朝になって、集団の残りが集まり始めた。知らせが届いたわけではなかった。ただ、同じ方向にいた者たちが歩いてきた。何人かいた。以前より少なかった。どれだけ少ないかは、この者にはわからなかった。ただ、顔を見渡して、いない顔を探した。

見つからない顔があった。

いくつか。

この者は岩に座った。灰の積もった岩だった。手でそれを払った。払っても、また積もった。払うのをやめた。

しばらくそこにいた。

伝播:HERESY 人口:254
与えるものの観察:匂いは届いた。足は別の方向へ行った。
───
第631話

紀元前296,855年

第二の星

裂け目は閉じなかった。

地震の後、大地はしばらく沈黙した。だがそれは静止ではなく、圧縮だった。南の草原に走った亀裂は、雨季の水を飲んで広がった。縁が崩れ、赤みを帯びた土が両側に積もった。そこだけ、地面の色が違った。

渡り場が消えた。

群れが水場へ向かう道の途中に、浅いが渡れない幅の裂け目が横切るようになった。旧人の群れが使っていた径でもあった。彼らは別の方向に迂回し始めた。新しい跡が草を踏んだ。それが別の群れの縄張りに近かった。

緊張は匂いで始まった。

ある朝、旧人の一団が南の岩棚の上に現れた。じっとしていた。声を出さなかった。その姿の大きさは、遠目にも違った。眉骨が厚く、肩の幅が広かった。数は七。こちらは四。互いに動かなかった。

日が傾いた。

旧人たちは去った。跡はなかった。だが翌朝、水場の手前に、折れた枝が積んであった。誰かが置いたのか、倒れたのかわからない形だった。群れの中の年長の雄が、それを長く見た。触れなかった。

干ばつは続いていた。

川の支流のひとつが、今季初めて底を見せた。魚が集まり、それを目当てに鳥が来た。だが水量はどの者の記憶より少なかった。子どもたちは腹を減らしたまま眠った。夜、誰かが低く唸り続けた。その声が止むと、また別の声が続いた。

群れの半分が北へ移動した。

残った者たちは裂け目の手前に留まった。焚き火を囲み、火を落とさないように交代で薪を入れた。石を並べて風を防いだ。夜が長かった。空は乾き、雲がなかった。星が多かった。

星は何も変えなかった。ただ照らした。

与えるもの

折れた枝の積み重なりの近く、土が乾いて白くなった一角があった。

その朝、そこから微かな腐葉の匂いが漂った。湿気ではなく、深い層が露出したときの、生ものが分解しきった後の匂い。その者の鼻がそちらへ向いた。

その下に球根があった。

その者は匂いの方へ歩いた。地面を踏んだ。止まった。また踏んだ。その足の感触に気づいたかどうか、わからなかった。最終的に、その場所を通り過ぎた。

匂いはまだそこにある。次に来る者が気づくかもしれない。それとも次の雨で土が閉じるか。渡した形は残っている。受け取るかどうかは、もう一度問われる。

その者(30〜35歳)

腹が鳴った。

焚き火の傍らに座り、両膝を抱えた。火が揺れるたびに顔を向けた。向ける意味はなかった。それでも向けた。

夜が明けた。その者は立った。裂け目の縁まで歩き、下を見た。底に石が見えた。濡れていない石だった。しばらく見た。

戻った。

伝播:DISTORTED 人口:268
与えるものの観察:匂いを踏み越えた。次に問う。
───
第632話

紀元前296,850年

第二の星

北から風が変わった。

乾いていた空気が、ある朝、湿気を含んで流れてきた。草の匂いではない。泥の、腐葉の、遠い水の匂いだ。亀裂の走った南の草原では、赤い土が雨を吸って固まり、縁が少しずつ丸みを帯びていた。崩れた場所が、時間をかけて別の地形になろうとしていた。

大地は静かだった。だが静かさの中身が変わっていた。

群れは北に動いていた。南の水場が使えなくなって、三世代にわたって知っていた道が消えた。足が向かう先に確信はない。先頭を歩く者が止まれば後ろも止まる。誰かが唸れば別の誰かが唸り返す。方向の意思は、声と身体の向きだけで伝わった。

岩盤の多い台地に差しかかったとき、別の群れの痕跡があった。

焚き火の跡だった。炭が白く残っていた。骨がいくつか、散らばっていた。獣の骨と、そうでないものが混ざっていた。誰も声を出さなかった。群れの者たちは痕跡の周りを広く避け、足を速めた。

旧人が残したものか、同じ種の者が残したものか、区別できる者はいなかった。ただ、それが最近のものだということは、炭の白さと骨の湿り気が教えていた。

台地を抜けると、低い丘が連なる地形に出た。草がまばらに生えていた。根の浅い草だ。風が吹けば揺れ、止めば倒れたままになる。水を多く含んだ土ではない。しかし岩の隙間に、細い流れが見えた。

先頭の者が止まった。

後ろから押されるように、群れが固まった。子を抱えた者が内側に入った。流れを見ている者、丘の稜線を見ている者、来た方向を振り返る者。それぞれが別の方向に注意を向けながら、群れとして一つの塊になっていた。

その中に、排除されようとしている者がいた。

集団間の緊張は、外に向かう前に内側で燃えることがある。知りすぎた者、違いすぎた者、理由はいつも後からついてくる。周縁に追いやられ、食料を最後に受け取り、水場への順番が最も遅い。消えるのは突然ではない。少しずつ、空白が広がっていく。

台地の焚き火跡を見たとき、誰かが横目でその者を見た。それだけだった。

与えるもの

岩の隙間から流れ出す細い水の、音が変わった場所があった。
その者は立ち止まり、耳を傾け、水の流れる方向に一歩だけ踏み出した。
渡せたのかもしれない。あるいはただ、喉が乾いていただけかもしれない。次に渡すべきものが何か、まだわからない。この者に時間が残っているかどうかも。

その者(35〜40歳)

群れの端を歩いていた。

水の音がした方向に足が動いた。岩の隙間に顔を近づけた。冷たい水が手に触れた。飲んだ。

後ろから、誰かの視線があった。振り返らなかった。もう一度、水を飲んだ。

伝播:HERESY 人口:266
与えるものの観察:音を渡した。届いたかどうかは問いのままだ。
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第633話

紀元前296,845年

第二の星とその者(40〜45歳)

赤土が乾いた。また乾いた。雨はひと月に一度、降っても地面を叩くだけで地の下まで届かない。草原の縁から、草が後退している。根から引き抜かれたのではなく、ただ消えた。土だけが残る。

その者は水場を知っていた。以前、群れの者たちが全員で使っていた場所だ。今は自分一人で通っている。群れの者たちは東の岩陰に新しい水を見つけた。その者には教えなかった。

北の斜面では、旧い種の者たちが移動していた。四人か五人か、遠すぎて判別できない。低い姿勢で草の間を抜けていく。この大地には長く彼らがいた。彼らの方が古い。

水場の泥は、踏むたびに音が変わっていた。最初の頃は足を取られた。今は固い。底に砂が見えている。その者は手を入れた。指先に水が触れた。少しだけ。掌に集めた。飲んだ。

東の方で煙が上がった。群れの誰かが火を起こしている。その者は見た。戻ろうとは思わなかった。思わなかったのか、思えなかったのか、区別がない。

冬が来た。草原に霜が降り、夜明けだけが白くなった。水場は消えた。底まで固まったのではなく、ただ底が上がってきた。その者は掘った。両手で、爪が土に入るところまで。水は出なかった。

群れから食料が配られる時、その者は列の外にいた。並ばなかったのか、並べなかったのか、その者には分からない。ただ列が終わった後に近づいた。残ったものを拾った。根の切れ端と、実の皮だ。

旧い種の者たちが近づいてきた夜があった。焚火の向こうに、目が光るのをその者は見た。光は長くいた。それから消えた。朝には、その者が掘った穴のそばに、大きな獣の骨が一本落ちていた。食べられた後の骨だ。肉はない。

その者は骨を拾った。重かった。何に使うか分からなかった。地面を引っ掻いてみた。線が残った。もう一本引いた。それから置いた。

春に、群れの中で争いがあった。その者は端で見ていた。大きな声と、地面を叩く音と、誰かが転がる音。それが続いて、止まった。その後、静かになった。

その者は骨をまだ持っていた。どこかへ行くとき、持って行った。食料を探すとき、地面を掘るのに使った。根が切れた。骨が折れた。持ち続けた折れた骨で、また掘った。

集団の中で何かが変わった時期があった。その者に向けられる視線が変わった。見ている、ということが増えた。見られる、ということが増えた。その者には分からなかった。ただ、火に近づくと、誰かが先に立った。

夏の終わり、その者は崖のそばに来ていた。群れの者たちが後ろにいた。一人ではなかった。複数だった。何か声が出ていた。その者には聞き取れなかった。

崖の下は遠かった。

その者は転ばなかった。突き飛ばされた。違いは一瞬で、その後に違いはなかった。

与えるもの

その夏の朝、光を落とした。

折れた骨のそばに、日が差した。その者はそれを見た。

線が残るということを、知っていた。それで終わったと思っていた。

崖の下で折れた骨は土に戻る。線も消える。ただ掘った跡が残る。誰も見ない。

渡したものが消えることには、もう驚かない。

しかし、折れても使い続けたことは何だったのか。骨が用を果たせなくなっても手放さなかった、あの動作は。

次に渡すべき者がいるとすれば、何を示すべきか。まだ分からない。折れたものを持ち続けることの意味は、渡す側には届かない。

伝播:HERESY 人口:264
与えるものの観察:折れた骨を持ち続けた。何のためかは問わない。
───
第634話

紀元前296,840年

その者

干ばつはまだ続いていた。

川床は白く乾いて、底の砂が風に運ばれていた。その者は川床を歩いた。水を探してではなく、ただ歩いた。足の裏に砂の熱さがあった。かつて水が流れた跡を、足が覚えていた。

群れは三日前に移動した。

その者は追わなかった。足が腫れていた。右の膝から下が、夜のうちに石のように固くなっていた。朝、起き上がろうとして倒れた。群れの者たちが振り返った。一人が近づいて、その者の顔を見た。それだけだった。

群れは歩いていった。

その者は岩陰に残った。荒れた土の上に、半身を起こして座った。空は白かった。雲はなかった。日が高くなるにつれて、岩の影が縮んでいった。影の中に体を収めようとして、少しずつ体の向きを変えた。

昼過ぎに、風が一度だけ吹いた。

乾いた草の匂いがした。遠くで何かが動く音がした。獣か、風か、わからなかった。その者は音の方向に顔を向けた。何もいなかった。

夕方になった。

空の端が赤くなった。その者はそれを見ていた。目を閉じなかった。ただ色が変わっていくのを、見ていた。足の痛みはもうなかった。体の感覚が、遠くなっていた。

岩に背中をあずけたまま、空を見ていた。

赤がなくなった。青くなった。そして暗くなった。星が出た。

その者の体が、少しずつ岩のほうへ傾いた。傾いて、止まった。

砂が一粒、乾いた唇の上に落ちた。

第二の星

川から二日歩いた先の岩場で、女が産んだ。子は声を上げた。群れの者が火を囲んでいた。遠くで風が止み、砂が落ちた。川床では砂が積もった。空には星が出ていた。

与えるもの

くぼみのかたちは、まだそこにある。雨が来れば消えるが、今は来ていない。

何かが、どこかへ動いた。

伝播:HERESY 人口:267
与えるものの観察:渡したものが届いたかどうか、今も問えない
───
第635話

紀元前296,835年

第二の星

干ばつは五度目の乾季を迎えていた。

川床は白く、骨のように乾いていた。上流の岩山では、かつて滝が流れ落ちていた崖が、今は埃を巻き上げるだけだった。

この星は照らす。

南の密林では、別の群れが木の根を掘り起こして水を絞っていた。指が黒く染まり、爪が割れた。子どもが三人、立ち上がれなくなった。立ち上がれなくなった者は、残される。置いていかれることを、子どもたちは知っていた。泣かなかった。

西の岩棚では、旧人の一群が洞窟の入り口に座っていた。骨格が重く、眉の上に影が落ちた。彼らは動かなかった。動かないことで体の水分を守っていた。その知恵を、言葉なしに持っていた。

北では、二つの群れが同じ泥水場に向かって歩いていた。出会ったとき、立ち止まった。互いに声を出さなかった。やがて片方が引き返した。どちらが引き返したかを、この星は区別しない。

始まりの大地では、集団が岩陰に集まっていた。

火がまだ生きていた。

それだけが水と同じくらい、この集団に必要なものになっていた。

与えるもの

糸が繋がった。

渡した。岩の隙間から滲み出た湿り気。足の裏に触れる、わずかに冷たい石の感触。

その者は止まった。しゃがんだ。石を持ち上げた。

渡したことで何かが変わるかどうかは知らない。ただ、渡した。次に渡すべきものを、私はもう考えている。湿った石の下に何があるか。それを渡せるか。

第一の星で、何も届かなかった記憶がある。それでも渡す。届くかどうかではなく、渡すことが私だ。

その者(41〜46歳)

火が細くなっていた。

その者は枯れた草の茎を集め、火の根元に差し込んだ。炎が一瞬、大きく揺れた。すぐ細くなった。また草を足した。また揺れた。

この繰り返しを、その者は知っていた。体が知っていた。手が動く前に背中が動いた。

集団の中で二人が動けなくなっていた。老いた女と、腹が膨れた子どもだった。その者は水を探すために毎朝岩場へ向かったが、戻るたびに手は空だった。集団の誰も何も言わなかった。言葉がなかっただけではなく、声を出す体力も消えかけていた。

ある朝、その者は岩場の奥まで入った。

いつもより深く。いつもより暗い場所まで。

足の裏に何かが触れた。

岩の感触ではなかった。少し、冷たかった。

その者はしゃがんだ。手で触った。岩が濡れていた。少しだけ。爪で引っ掻いた。湿った砂が崩れた。崩れた場所に、指を入れた。

冷たかった。

その者は長いあいだ、その場に座っていた。指を岩の隙間に押し当てたまま、動かなかった。

何かを確かめるように。

それから立ち上がり、岩場を出た。集団の方へ歩いた。速くはなかった。ただ、止まらなかった。

翌朝、その者は集団の中で最も力のある若い二人の腕を引いた。声は出さなかった。岩場の方向を見た。若い二人がついてきた。

岩の奥まで入った。湿った場所に手をあてた。

若い二人は顔を見合わせた。

その者は手に砂をかき集め、崩した。岩の隙間から、水が一筋、滲んだ。

誰も声を上げなかった。

ただ、三人が同じ場所に手を置いた。

伝播:SPREAD 人口:280
与えるものの観察:冷たさを渡した。受け取った。
───
第636話

紀元前296,830年

その者(46〜51歳)

五日、何も食べていなかった。

水ならある。岩の割れ目に指を突っ込んで舐める程度の。それだけある。食べ物がない。集団の半分が南へ去ってから、残った者たちは散り散りに動いた。この者は動かなかった。火を守っていた。

火は小さかった。乾いた糞と枯れた蔓を少しずつくべて、消えないよう息を吹いた。消えれば終わりだとわかっていた。言葉でわかっているのではない。腹の底の深いところで知っている。

集団の中に、よそからきた男がいた。背が高く、眉の骨が張り出していた。この者よりも腕が太かった。旧い血の者だ。彼は来てから三つの乾季を越した。子も作った。

その男が、昨日から火の近くに座っている。

この者の目を見ない。でも離れない。

火をくべる手が止まった。男の肩越しに、集団の若い者たちがこちらを見ていた。一人ではなかった。四人か五人。立っているのに静かすぎた。

胃が縮んだ。恐怖ではない、もっと古い感覚。群れの中で番が変わるとき、この体が昔も一度こんなふうに冷えたことがある。まだ腕が細かったころの話だ。

この者は火から離れなかった。

蔓を折った。ゆっくり折った。音がした。

男が振り向いた。

その夜、男が立ち上がった。他の者たちも立った。

この者は何もしなかった。

岩を拾った。

重かった。両手で抱えた。

置いた。

また拾った。

男がこちらへ歩いてきた。足音が乾いた地面を踏んだ。ひとつ、ふたつ。

この者の手から、岩が落ちた。

朝、火だけが残った。

第二の星

第二の星は照らす。判断しない。

乾いた大地の北端、岩棚の下に火がある。人はもういない。火だけがある。

南の密林では、別の群れが根を掘っている。子どもが三人、泥の中を転がっている。笑い声のようなものが木々の間を抜けていく。

東の丘では、旧い血を持つ群れが岩陰に眠っている。額の骨が張り出した者たちが、肩を寄せ合っている。彼らには火がない。でも暖かい。

この五年、大地は乾いた。川は白くなった。半数が動いた。動いた先で生き延びた者と、動いた先で終わった者がいる。動かずに終わった者もいる。

集団の規模は縮んだ。でも火は消えていなかった。ずっと誰かが守っていた。今夜もまだ燃えている。守っていた者はもういないが、火はまだある。

第二の星は照らす。火を照らす。眠っている子を照らす。朝露が岩の表面に滲みているのを照らす。何も言わない。

与えるもの

煙の匂いが変わった瞬間、示した。

風がある方向から吹いた。岩の割れ目の方向。水のある方向。

この者は岩を拾った。

それでいい、とは思わない。
次に渡すべき者を、まだ探している。

伝播:HERESY 人口:281
与えるものの観察:火は残った。渡す先を探している。
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第637話

紀元前296,825年

その者(51〜56歳)

干ばつが過ぎた。

水が戻った。草が戻った。しかし、その者の体はもう戻らない場所にあった。

膝が曲がらなくなって久しかった。火の番は続けた。荷を運ぶことは、もうできなかった。若い者たちが通り過ぎるとき、目が合う。目が合って、それから逸れる。その者はそれを何度も見た。

集団が南から戻ってきたとき、事態は変わった。

帰ってきた者たちは新しい場所を見てきた目をしていた。怒りがあった。飢えで死んだ者への怒りか、あるいは別の何かへの怒りか、その者には区別できなかった。ただ、自分に向けられる目の種類が変わったことはわかった。

火の番。それがこの者の場所だった。

しかし、火の番でさえ、ある夜から任されなくなった。

黙って脇に退いた。

知りすぎていた、とは言えない。この者に「知る」という概念はない。ただ長く生きて、長く見てきた。誰が誰を傷つけたか。誰がどこに食料を隠したか。誰の子が誰の子か。それを言葉にする力はなかった。しかし目が覚えていた。

目が覚えているということが、問題だった。

ある日の夕方、その者は集団から少し離れた岩の陰に連れていかれた。押された。倒れた。起き上がれなかった。若い男が二人、戻っていく背中を見た。怒っていた様子はなかった。ただ済ませた、という歩き方だった。

岩の表面は温かかった。

昼間の熱が残っていた。その者はそこに頬をつけた。

空が暗くなった。明るくなった。また暗くなった。誰も来なかった。

その者は何も思わなかった。岩が温かい。それだけだった。二日目の夜、温かさが岩から消えた。その者もそこから消えた。熱が抜けるように。音もなく。

第二の星

同じ頃、遠くの密林で、旧人の一群が川沿いを移動していた。雨季が近い。草の匂いが変わりはじめていた。群れの中の一頭が足を止め、川下の方角を長く見た。何がいるのか、あるいは何もいないのか。それから歩き続けた。

与えるもの

温かさが岩から消えた夜、光はすでに別の場所に落ちていた。

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:280
与えるものの観察:目が覚えていることが、死を招いた。
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第638話

紀元前296,820年

第二の星

乾いた大地に雨が戻った。

草の根が土を持ち上げ、枯れた川筋に水が走り始めた。獣の足跡がそこに集まり、待ち伏せる影もそこに集まった。群れは動いた。川に沿って、川に背いて、岩だまりのある高台へ、湿った低地へ。それぞれの足が別の方向を向いていた。

東の丘の向こう、木が密に生えた斜面に別の影が動いていた。背の低い、腕の長い群れだ。こちらの群れとは顔の造りが違う。眉骨が厚く、歩き方が違う。しかし同じ川の水を飲んでいた。同じ獣の跡を読んでいた。

二つの群れはその年、三度近づいた。一度目は霧の朝で、双方が走って離れた。二度目は川べりで、石を投げ合い、怪我人が出た。三度目は——

高台の上、子どもたちが走り回る場所のすぐ下で、男たちが声を上げた。

遠くで嵐の雲が湧いていた。大地は何も判断しなかった。雨を降らせる準備をしていた。

与えるもの

糸が繋がった。

この者は7歳で、まだ何も知らない。

濡れた土の匂いが、風に乗ってその者のほうへ吹いた。川のあるほう。水のあるほう。その匂いの先に、もう一つ別の匂いが混じっていた。煙ではなく、血でもなく、見知らぬ体の匂いだった。

その者は鼻を上げた。

その匂いが危険かどうか、私には届かない。届けられるのは方向だけだ。この者がそれを危険と読むか、珍しいものと読むか——前に渡した者たちの多くは読まなかった。いや、読んだうえで近づいた者もいた。近づいたことで何が起きたか、私は見ていた。

次に渡すべきものを、私はまだ知らない。

その者(7〜12歳)

川の方角から風が来た。

その者は走るのをやめた。他の子たちは走り続けた。その者だけが立ったまま、鼻を空に向けた。何の匂いか、言葉にする手段がなかった。ただ鼻の奥に引っかかった。

男たちが声を上げた。その声は普段の怒声と違った。低く、続いた。群れの大人たちが一方向を向いた。

その者は草の陰に入った。

理由はなかった。足がそうした。

丘の下で石が飛んだ。誰かが叫んだ声は長く続かなかった。

その者は草に伏せたまま動かなかった。土の冷たさが腹に伝わってきた。草の茎が頬を刺した。遠くで走る足音が地面を通じて伝わってきた。それがどちらの足音か、その者にはわからなかった。

音が遠くなった。

その者はしばらく動かなかった。起き上がる理由がまだなかった。

空が暗くなり始めた。雨の前の、あの重い匂いが広がってきた。その者はようやく立ち上がり、群れの戻った方角へ走った。

その夜、火の周りに人が少なかった。その者はそれを数えなかった。ただ、いつも自分の隣に座る者がいないことに気づいた。

岩を拾った。置いた。

また拾った。

伝播:HERESY 人口:283
与えるものの観察:草に伏せた。足が知っていた。
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第639話

紀元前296,815年

その者(12〜16歳)

十六になって、少しだけ脚が伸びた。

それだけのことだった。群れの中で気づく者はいなかった。その者自身も、膝の高さが岩の縁に届くようになったことを、ただ体が知っていた。

川沿いの高台から、よく群れを見ていた。

大人たちが動くとき、その者は少し遅れてついていった。荷を持つには早く、狩りに加わるには細かった。火の番をする夜だけ、任された。薪を足す。煙が方向を変えたら顔を背ける。それだけだ。

群れの端に旧人の影が見え始めたのは、乾季が終わって間もないころだった。

大きな体。額が前に張り出している。動きは静かで、岩が動くように森の端に立っていた。その者は最初、遠くから眺めた。怖かったわけではない。何かが違った。声の出し方が違う。唸り声の間隔が、群れの誰とも一致しなかった。

年長の者たちが石を手に取った。

その者は石を持たなかった。

それだけで十分だった。

翌日から、その者は少し離れた場所に追いやられた。食料を渡す手が、ひとつ抜けた。火の番の役が、別の者に渡った。夜、体を寄せ合う輪の外で、その者は横になった。

三日、続いた。

四日目の朝、その者は高台の縁に立っていた。

見ていたのは群れではなく、遠くに続く草地だった。雨のあとの地面は柔らかく、足が沈んだ。その者は一歩、縁の向こうへ踏み出そうとした。

踏み出した先は岩だった。

足が滑った。音は短かった。

草地は、そのまま続いていた。

第二の星

同じ頃、乾いた台地の向こうで、別の群れが獣を追っていた。長雨で水が戻った低地に、蹄の跡が新しかった。子どもひとりが先に走り、大人たちが後を追った。夜は風が強く、火が何度も消えそうになった。誰かが体で風を遮り、炎はかろうじて残った。翌朝、台地に霧が出た。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:281
与えるものの観察:石を持たなかった。それだけで十分だった。
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第640話

紀元前296,810年

その者(13〜18歳)

夜明け前だった。

草が腰まで伸びた低地に、群れは散っていた。年長の男が手を振った。右へ回れ、という意味だった。その者は走った。

足が地面を蹴るたびに、露が散った。獣の臭いが前方に濃くなっていた。鹿ではない。もっと大きい。体の温度が上がった。

左の茂みが揺れた。

年長の男が唸った。低く、短く。止まれ、という声だった。その者は止まった。足の裏が湿った土に沈んだ。

草の向こうに、旧人がいた。

二人だった。毛が厚く、肩が横に広い。こちらを見ていた。目が光った。夜明けの薄い光の中で、白目が見えた。

年長の男は動かなかった。

その者は息を止めた。肺の中が重くなった。胸の内側で何かが膨らんで、出口を探した。逃げるべきか。その問いが形になる前に、体はすでに後ずさっていた。

旧人の一人が、口を開けた。音ではなかった。歯を見せた。

年長の男が、片手を水平に動かした。ゆっくりと。こちらを刺激するな、という意味だった。群れの中で覚えた動作だった。

旧人は動かなかった。

長い間、誰も動かなかった。草が風で揺れた。旧人の体から、土と皮脂と古い血の混じった臭いが漂ってきた。その者はその臭いを、肺の奥まで入れてしまった。

やがて旧人は向きを変えた。草を分けて、低地の奥へ消えた。

年長の男が息を吐いた。その者も吐いた。

帰る道で、その者は何度も後ろを見た。旧人がいた場所に、草が揺れていた。風のせいだった。しかしその者には区別がつかなかった。風と、気配の違いが。

夕方、火の周りで年長の男が何か言おうとした。音が出なかった。代わりに肩を動かした。あれは遠ざかった、という意味だった。その者はうなずいた。

しかし夜が深まると、眠れなかった。

体は横になっていた。目は閉じていた。それでも何かが胸の内側で動いていた。旧人の白目が浮かんだ。歯が浮かんだ。消えなかった。

その者は起き上がった。

火の前に座った。炎が低くなっていた。細い枝を一本入れた。炎が少し大きくなった。その者はそれを見ていた。

枝をもう一本入れた。

また一本。

夜が明けるまで、その者は火の前にいた。

第二の星

低地に朝靄が漂っていた。

この5年間、始まりの大地では二つの系統が同じ水場を使っていた。衝突は何度もあった。しかし殺し合いにまではならなかった。距離があった。互いの臭いを知っていた。それだけのことが、かろうじて間を保っていた。

乾いた季節が来るたびに、水場は小さくなった。小さくなると、二つの系統の距離も縮まった。それが緊張を生んだ。

人口は増えていた。飢えが続いた前の5年を抜けて、子が生き残るようになっていた。しかしそれは同時に、必要な食料を増やした。獲物の領域が重なり始めていた。

旧人は声を持っていた。人類よりも低く、腹から出る声だった。何を意味するのか、人類には分からなかった。わからないまま、相手の声の抑揚で感情を読もうとしていた。

火の光の届かない場所に、もう一方の火がある。

この星は両方を照らしていた。どちらも眠り、どちらも起き、どちらも何かを怖れて夜に目を開けていた。

共存とは、選ばれた状態ではなかった。まだ衝突するほど切迫していない、というだけの状態だった。

与えるもの

糸が繋がった。

旧人の臭いが残る夜、その者の胸の内側で何かが動いていた。

炎に光が落ちた。その者が顔を上げた場所ではなく、少し奥の、燃え残った炭のところに。白く光った。一瞬だった。

その者は炭を見た。手で触れなかった。ただ見た。

受け取ったのかどうか、わからない。しかし炭の形は、旧人の目の光と重なっていた。熱いものが、消えてもなお形を残すという、その事実と。

次に渡すべきものがあるとすれば、形が消えた後に残るものかもしれない。まだわからない。

伝播:SPREAD 人口:296
与えるものの観察:炭の光を、その者は朝まで見ていた。
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第641話

紀元前296,805年

その者(18〜20歳)

崖の上から獣の群れが見えた。

年長者たちが下で待っている。その者の役目は押し出すことだった。右の端。もっとも斜面が急になっているところ。そこに立って、腕を振り、声を上げる。獣が左へ寄れば、下で待つ者たちが仕留める。

朝の光が岩に斜めに差していた。

その者は走った。草が足に絡んだ。岩がごつごつしていた。前の日の雨で地面が締まっていた。滑らなかった。

崖の縁に着いた。

獣の背中が見えた。毛が揺れていた。その者は叫んだ。低い、つぶれた声だった。腕を大きく振った。

獣が動いた。左へ。左へ。うまくいっていた。

その者は一歩、もう一歩、前へ出た。もっと端まで行けば、もっとよく見える。

足が空を踏んだ。

岩の縁が崩れていた。

落ちた。声もなかった。体が空中にあった時間は短かった。下の岩に当たった音を、その者は聞かなかった。

下で待っていた年長者の一人が振り返った。何が落ちたか見た。それだけだった。

獣は左へ走っていた。狩りは続いた。

その者が落ちる前の一瞬、崖の縁に立って腕を振っていたとき、足の裏の冷たさが急に変わった。岩の感触が消えた。地面の固さが消えた。

何かを感じた。

わからなかった。そのまま落ちた。

夜になって、群れの誰かが崖の下に来た。その者の体を見た。引きずろうとして、やめた。岩の上に置いたまま戻った。

火の周りに空席ができた。誰も何も言わなかった。言葉がなかった。

第二の星

乾いた台地の向こうで、別の群れが泥の穴を掘っていた。水を探していた。二人の子どもが泥の端に座って手を入れていた。男が怒鳴った。子どもたちが逃げた。泥の穴に水は出なかった。群れは移動した。その夜も移動した。どこへ向かうか知っている者はいなかった。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:DISTORTED 人口:312
与えるものの観察:足の裏の冷たさが消えた、その瞬間だった
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第642話

紀元前296,800年

第二の星とその者(13〜18歳)

雨が来た。

草原の端から、匂いが変わった。乾いた土が湿気を吸い込み、赤土はみるみる黒くなっていった。遠い稜線の上に雲が積み重なり、光が斜めに差し込む前に、最初の雫が落ちた。

その者は雨を知っていた。しかし、こんな雨は知らなかった。

大地の割れ目に水が入り、草の根が緩み、地面が柔らかくなって獣の足跡が深く残るようになった。水辺が広がり、小さな窪みが池になり、集団の子どもたちが水を飲んで走り回った。集団はゆっくりと、しかし確かに増えていった。新しい命が増えるより早く死ぬことが、少し減った。それだけのことが、大きく変えた。

その者は13歳になるかならないかで、集団の端に居場所を持っていた。

大人ほど力がなく、子どもほど守られもしない。半端な位置で半端な仕事をした。果実の場所を覚えること。水が飲める場所と飲めない場所の区別。年長者の声が短く鋭くなるとき、何かが近くにいるということ。

雨が続いた季節、果実は重く垂れていた。その者は腕を伸ばして実をもぐ。口の中に甘みが広がる前に、種を感じる。硬い、小さい、核のようなもの。呑み込まず、手に持って歩いた。なぜそうしたのかはわからない。

草原の反対側では、別の集団が移動していた。

彼らも雨を受けていた。水辺に近づいてきた。食べるものが増えると、人は増え、増えた人は新しい場所を探す。境界は線ではなく、圧力だった。どちらが先にそこにいたかより、どちらが多いかが問題になりはじめていた。

その者は年長者たちの声が変わったことに気づいていた。

いつもの短い叫びとは違う。意味のある音ではなく、音の出し方が変わった。喉の奥で鳴らす低い音。口を閉じたまま続く振動。体が緊張するときに出る音だと、その者は経験で知っていた。

手の中の種を握りしめた。

ある夜、集団の中心に大人たちが集まって火を囲んだ。その者は外側にいた。輪の内側に入る年齢ではなかった。声が低く続いた。身振りがいくつか交わされた。方向を指すもの。距離を示すもの。何かを押しのけるような動き。

翌朝、年長者の一人がその者の腕を取った。動け、という身振りだった。しかし行先は採集に出るときの方向ではなかった。

集団が、その者を連れて、別の方向へ動いた。

川沿いの低地に入った。草が高く、湿った土が足首を沈めた。その者は歩きながら、後ろを振り返った。来た方向に、何かがいるような気がした。何もいなかった。草が揺れた。風かもしれなかった。

日が高くなるにつれて、大人たちの足が速くなった。

子どもが遅れると引きずるように連れていった。その者も引かれた。なぜ速く動くのかを問う言葉を、その者は持っていなかった。問う形の音を、まだ知らなかった。ただ速く動くことと、遅れることへの恐れだけがあった。

川を渡った。水は腰まで来た。冷たかった。

対岸に上がった後、その者は手の中の種が消えていることに気づいた。川の中で流したのだった。手を開いて、何もない掌を見た。

集団は岩場に入って止まった。

夜になった。火は小さくした。音を出す者がいなかった。子どもが泣き始めると、口を塞がれた。その者は岩に背をつけて座っていた。

遠くから声が聞こえた。

それは集団の声ではなかった。別の音の出し方。別の口の形から来るような、似て非なる声。その者は息を止めた。

声は近づかなかった。

朝になり、年長者の一人が岩場から出て偵察した。しばらくして戻ってきた。体の緊張が少し解けていた。それを見て、集団のほかの者たちも少し解けた。

その者の体も、少し解けた。

その後しばらく、集団は岩場の近くで動いた。採集の範囲を狭めた。水辺には一人で行かなくなった。必ず誰かと二人で。

その者はある日、川岸の石の間に白い土があることを見つけた。

雨で洗われて露出していた。手につけると、白くなった。なぜかわからないまま、腕に塗った。白い線が腕に残った。消えなかった。擦ると少し薄くなるが、完全には消えなかった。

その者は岩に、その白い土を塗ってみた。何も起きなかった。

しかし翌朝、その者はまた岩のところへ行って白い跡を触った。

集団内の緊張は、じわじわと積み重なっていた。

別の集団との境界は見えない。しかしそこにある。食べるものが多くなると争いが減るとは限らなかった。むしろ近づく余裕が生まれた。近づくことで、接触が増え、接触が摩擦を生んだ。声の出し方が違う者、匂いの違う者、動きの速さが違う者。

年長者の中の一人が、別の集団の若い者を殺した。理由は後から語れるものではなく、その場の圧力だった。岩と岩が触れるような、ただ近くなりすぎたこと。

その者はそれを見た。

見て、理解せず、しかし体が理解した。足が後ろに動いた。心臓が速く打った。岩を拾った。何のためかわからないまま、拾って、持っていた。

年長者の目が、その者の方を向いた。

それは見るな、という目だった。知るな、という目だった。言葉なしに意味を持つ目があることを、その者はそのとき初めて理解した。

岩を置いた。

しかし目が合ったことは、消えなかった。

その後、集団の中でその者の扱いが少し変わった。すぐには気づかなかった。しかし食べるものを分けるとき、その者の順番が遅くなった。採集に出るとき、その者が呼ばれない日が増えた。

その者は一人でいることが増えた。

雨の季節が終わりに向かい、草が低くなりはじめた頃、その者は集団から離れた。

離れた、のではない。

集団の方向が変わり、その者はついていかなかった。いや、正確にはついていけなかった。後ろを歩いていたとき、前との距離が開いた。開いたまま、誰も止まらなかった。その者は歩みを速めようとしたが、年長者の一人が振り返って、一度だけ低い音を出した。

来るな、という音だった。

その者は止まった。

集団は草地に消えていった。

その者は長い間、同じ場所に立っていた。足の下の土が温かかった。雨上がりの匂いがまだ残っていた。腹が空いていた。

白い土を塗った腕を見た。薄くなっていたが、まだそこにあった。

歩き始めた。集団が消えた方向ではない。川の方向へ。水辺に近い、低く茂った草の中へ。

その者がどうなったかを、遠くから見るなら:

草が揺れた。しばらく揺れた。それからしばらく揺れなかった。

与えるもの

糸が繋がった。

川の水面に光が落ちた瞬間に、白い石が光の中にあった。この者は水ではなく石を見た。拾った。指の形に合う重さのものを。

川を渡るときに手を離した。

手放すことと、渡すことは、同じではないのかもしれない。しかし次に何を渡すべきかは、まだある。川の底に光が届く場所があることを、この者は覚えているだろうか。

伝播:HERESY 人口:386
与えるものの観察:糸が繋がった。この者は排除されて消えた。
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第643話

紀元前296,795年

第二の星

赤道に近い草原の帯が、南の高地まで広がっている。

雨期が来た。例年より早く、例年より厚く。川はあった場所で川でなくなり、水は低地を選ばずに走った。泥が岩の上に乗り、岩が泥の下に消えた。

この群れの野営地から東へ半日、別の群れが丘の中腹に移っていた。旧人の体型をした者たちが数人、雨の中で獣の皮を張り直している。彼らは火を消さなかった。雨の中でも火を持っていた。方法は違ったが、同じことをしていた。

西の平原では、幼い子が二人、雨水の流れに足を入れて引き出せなくなった。叫んだ。大人が来た。間に合った。

北の藪の奥では、老いた雌が一頭、動かなくなっていた。鷲が来る前に、豹が来た。

この群れでは、雨が三日続いた後、長老格の男が発熱した。腫れが首の下に出た。喉を押さえたまま食べなくなった。四日目の朝、傍で眠っていた女が目を覚ました時、男の体は冷たくなっていた。女は起き上がらなかった。しばらく、そのままでいた。

雨は止まなかった。

与えるもの

腫れた首。傷のない皮膚の下で何かが膨れる。触れると熱い。

その者は男の首に一度だけ触れ、何も言わずに離れた。

同じことを見ていた。同じように見た者が、岩の向こうで、もっと前に、別の体でいた。渡せなかった。今も渡せない。それでも——何かが、ここで増えていくなら、渡し続けるしかない。次に渡すべきものが、まだある。

その者(18〜23歳)

男が死んだ朝、その者は外にいた。

雨は小降りになっていた。泥の上に足跡が残り、すぐに水が入ってきた。岩の上に座って、空を見た。空は灰色で、どこにも切れ目がなかった。

腹が空いていた。

群れの中が静かだった。静かな時は何かが終わった時だと、体が知っていた。声が聞こえなかった。火の音だけがしていた。

戻った。

男は横になったままだった。女がその傍に座っていた。何も言わなかった。その者も何も言わなかった。

男の首の下に、丸い膨らみがあった。昨日もあった。おとといもあった。その者はそれを三日前から見ていた。触れた時、熱が手に来た。自分の手の熱とは違う熱だった。

何かが入っていると思った。

思ったまま、何もしなかった。

できることを知らなかった。

火に木を足した。燃えた。煙が上に行った。その者はしばらく火を見ていた。炎が揺れた。揺れた方向に、風があった。風が来た方向に、丘があった。丘の向こうに、昨日煙が上がっていた場所があった。

誰かがいる。

男の首の膨らみを思い出した。あの煙を出す者たちも、同じ膨らみを知っているかもしれないと、思った。

思っただけだった。

立ち上がらなかった。

伝播:SILENCE 人口:397
与えるものの観察:熱の違いを知覚した。しかし動かなかった。
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第644話

紀元前296,790年

その者

群れが動いていた。

その者は列の端にいた。持てるものを持っていた。乾いた肉が二片、子どもの頃から使っている平たい石、それだけだった。前を歩く大人たちの踵を見ていた。踵が上がると砂が飛んだ。踵が下がると砂が沈んだ。それを見ていれば、転ばなかった。

東の群れが来た。

いつもより多い。子どもも、老いたものも、腕に傷のある者も。その者は立ち止まった。群れと群れが混ざるのを見たことがなかった。大人たちが声を出した。低い声、短い声。東の群れの長が腕を上げた。それだけだった。

野営地が変わった。

岩の下ではなく、斜面の途中。その者は慣れない場所で夜を過ごした。隣に誰もいなかった。いつも隣にいた者が東の群れの話す方向を見ていて、戻らなかった。

食べ物を探す順番が変わった。

その者は後回しにされた。半人前だから、か。年下の子どもより先に行かせてもらえた。それだけだった。丘の裏に回ると東の群れの女が二人いた。同じものを探していた。目が合った。どちらも動かなかった。どちらも声を出さなかった。女の一人が先に動いた。別の方向へ。

その者はその場に残った。

地面を見た。雨の後に虫が出る場所を知っていた。今は何もいなかった。土が乾いていた。乾いた土の端に、小さな湿りがあった。指で押すと、わずかに沈んだ。

舌を近づけた。

塩だった。土の塩だった。食べられるものではなかった。でも水がそこを通ったことがわかった。最近。遠くからではなく、近くから。

その者は立ち上がって周囲を見た。

岩と岩の間に影があった。影の中に、音があった。水の音ではなかった。でも何かが動いている音だった。

その者は近づかなかった。

代わりに、その場所を覚えた。戻った時に、長に伝えるつもりだった。伝えられる言葉は持っていなかった。でも手を使えばいい。足で示せばいい。それはできた。

群れに戻る途中で、東の群れの男と行き合った。

年が近い。その者より少し大きい。互いに止まった。男が腕を動かした。意味はわからなかった。その者も腕を動かした。意味はなかった。男が少し笑った。その者も少し笑った。

男が何かを差し出した。

木の実だった。食べられるかどうかわからない木の実。その者は受け取った。においを嗅いだ。悪くなかった。かじった。苦かった。でも飲み込んだ。

男はそれを見ていた。

その者が飲み込むのを見て、男は自分の口を指差して何か言った。短い音だった。その者には聞き取れなかった。でもその音が、その実のことを言っているのはわかった。

その者はもう一度その音を出してみた。

違った。男がまた言った。その者がまた出した。三度目で、少し近くなった。男が頷いた。

その者はその音を胸の中で繰り返しながら、野営地へ戻った。

長に近づいた。手を使って、岩と岩の間の影を示した。足を使って、その方向を示した。長は見ていた。その者の手を見ていた。足を見ていた。うなった。短く、低く。

それだけだった。

夜、その者は仰向けになった。空に光があった。いつもの光とは違う場所にあった。近くに感じた。理由はわからなかった。でも近くに感じた。

目を閉じた。

男の音が戻ってきた。木の実の音が。その者は声を出さずに、口の中でその形を作った。何度も。

眠れなかった。でも眠らなくてもよかった。

第二の星

大地の草原帯は、この五年で二度輪郭を変えた。

最初の変化は南から来た。雨が遅れ、川床が割れ、低地の群れが高地へ押し上げられた。高地の群れはそれを受け入れなかった。岩と岩の間で短い争いがあり、長い沈黙が続いた。その後、両方が残った。これは珍しいことだった。

二度目の変化は北から来た。雨が早まり、草が上がり、移動の時期が読めなくなった。獣の群れが例年とは別の道を選んだ。人もそれを追って別の道を選んだ。

二つの変化が重なる場所で、複数の群れが同じ水場を見ていた。

始まりの大地のこの区域では、身体の作りが少し違う者たちと同じ岩陰を使う場面が増えていた。互いに何かを知っていた。互いに何かを知らなかった。知らないことが衝突を生むこともあった。知らないことが好奇心を生むこともあった。

どちらが先に来るかは、その時による。

東の丘の向こうでは、子どもが二人生まれた夜に、老いた採集手が崖の縁で足を滑らせた。崖は深くなかった。でも夜だった。朝になって見つかった時、その採集手はもう動かなかった。群れは一日その場に留まり、翌朝に動いた。

草が揺れていた。風が西から来ていた。

与えるもの

岩と岩の影に、温度の変わる場所があった。

昼の熱が抜けきらない岩肌の中に、一か所だけ冷えているところがあった。その差が、そこに水脈があることを示していた。

その者は岩に触れなかった。でも近くまで来て、止まった。

渡し方はそれで足りたかもしれない。あるいは足りなかったかもしれない。

その者は別のことを持ち帰った。音だった。他の群れの男が発した、実の名前らしき音。長に示せなかったことを、胸の中で何度も繰り返した。

それを渡したつもりはなかった。

水脈を渡そうとして、音が届いた。届いたのは意図しないものだった。

次に渡すべきは何か。岩の冷たさをもう一度用意するか。それとも、この者が音を覚える夜が続くのを、ただ見ているか。渡した結果が渡そうとしたものと違う時、渡したことになるのか。

まだわからない。でも目を逸らさない。

伝播:HERESY 人口:390
与えるものの観察:水脈ではなく音が届いた夜
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第645話

紀元前296,785年

第二の星

乾季が終わった。

大地の表面から細かい砂が舞い上がり、空の端が灰色に滲む。水場は戻った。しかし戻った水は濁っていた。泥と腐った草と、何か別のものが混じっていた。

群れは移動を終えた場所に留まっている。草が短く、木陰が少ない。それでも動く力が残っていない者がいる。子どもが三人、移動の途中で列から消えた。老いた女が一人、歩いたまま戻らなかった。

遥か北の台地では、別の形をした者たちが火を囲んでいた。額が出っぱり、顎が前に張り出している。声は低く、音の種類が少ない。彼らは同じ水場に向かっていた。昨日ではなく、五日後に到達する距離に今いる。

東の岩場では二つの群れが接触した。どちらも同じ種だったが、互いに近づかなかった。岩を挟んで音を出し合い、やがて一方が退いた。退いた群れは小さかった。

風が変わった。

南から北へ。乾いた大地の上を、熱を含んだ空気が流れた。草の穂が一斉に同じ方向に傾いた。この星はその傾きを誰にも説明しなかった。

与えるもの

他の群れの足跡がある場所に、光が斜めに落ちた。

その者は足を止め、地面を見た。それから前を歩く大人の背中を見た。足跡には近づかなかった。

渡したかったのはそこではない。足跡の向こう、水場の方角だ。同じ水を飲む者がいる。それは脅威かもしれないし、そうでないかもしれない。しかしこの者には、まだその区別を渡せない。区別よりも先に渡すべきものがある。それが何かを、私もまだ探している。

その者(28〜33歳)

水場に着いたのは、太陽が傾きかけた頃だった。

縁に膝をついて、手で水を掬った。口に含む前に止まった。色が違う。透明でない。鼻を近づけた。草の匂いとは別の何かがある。

飲まなかった。

後ろを振り返った。群れの者たちがそれぞれ水を飲んでいた。声は出さなかった。

もう一度、水面を見た。自分の顔が揺れていた。飲まなかった。

喉が鳴った。

立ち上がって、水場の縁を歩いた。上流の方に向かった。誰もついてこなかった。歩きながら何度も立ち止まり、地面の草を見た。濡れている場所を選んで膝をついた。草の根の近くを掘ると、砂の間から水が滲んだ。濁っていない。

手のひらに溜め、飲んだ。

冷たかった。

岩を一つ拾った。穴を掘るのに使えると思った。穴ではなく、岩の感触を確かめていた。投げずに持ったままでいた。

夕方、群れの中の幼い子が腹を押さえてうずくまった。水場で飲んだ子だった。その者は岩を地面に置いた。子のそばに座った。何もしなかった。ただ座っていた。子の呼吸が荒く、速かった。

夜が来た。

その者は子の背を手のひらで触れた。熱かった。自分の手が熱いのか、子が熱いのか、判断できなかった。何度も触れた。

子の熱は下がらなかった。

伝播:SPREAD 人口:402
与えるものの観察:飲まなかった。それだけで、何かが変わる。
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第646話

紀元前296,780年

第二の星

水が戻った。

しかし大地は変わった。乾季の間に、風が表土を削った。かつて草が根を張っていた場所は、いま砂と礫だけが残っている。草の根は深いところで死んでいた。腐った根が土の中に閉じ込められたまま、雨水を含んで膨らみ、あちこちに小さな陥没をつくった。足を踏み入れれば膝まで沈む場所がある。

動物が戻ってくる速さが、以前より遅かった。

水場の周辺に、大きな足跡があった。人の足跡ではなかった。爪の跡が深く、幅が広く、歩幅が長い。何頭かいた。夜に来て、夜のうちに去る。朝には足跡と、草が踏み荒らされた跡と、血のにおいだけが残っていた。何かが水場で仕留められた。骨も皮も持ち去られていた。

集団は水場から距離を置いた。

その代わりに、上流の方角を探った。丘を越えたところに、浅い窪地がある。雨水がたまる。長くはもたないが、数日分の水は確保できた。男たちが交代で見張りに立ち、女と子どもを内側に置いた。老いた者は端に座り、何かを見ていた。何を見ているのかは、誰にもわからなかった。

別の集団との接触があった。

南から来た集団だった。七人、あるいは八人。痩せていた。子どもが二人いた。目が落ちくぼんでいた。彼らは水を求めていた。それは動作でわかった。両手を合わせ、口に運ぶ身振り。喉に触れる動作。子どもを前に出した。

この集団の中で、声が上がった。

低い唸り。高い声。足を踏み鳴らす音。何人かが石を持った。南の集団の男が一歩引いた。子どもが泣いた。泣き声は短く、すぐに止んだ。泣く体力も残っていなかった。

長い沈黙があった。

この集団の中で、一人の老いた女が立ち上がった。石を持った男たちの前を歩いて、南の集団に近づいた。何も持っていなかった。手を広げて見せた。そのまま止まった。

南の集団の子どもが、老いた女を見た。

動かなかった。

老いた女も動かなかった。

風が吹いた。砂が舞い、どちらの集団の者も目を細めた。そのわずかな瞬間に、何かが変わった。何が変わったかは、誰も言葉にできなかった。言葉がなかった。しかしその後、石を持った男たちは石を置き、南の集団は窪地へ案内された。

二つの集団は同じ場所で水を飲んだ。

夜、火の周りに両方の集団の者が座った。混ざり合ってはいなかった。しかし同じ火だった。子どもたちは火の近くで眠った。どちらの集団の子どもかを、誰も確かめなかった。

夜明け前に、南の集団は去った。

足跡だけが残った。深く沈んだものと、浅いものと、子どものものと。大地は乾いていて、足跡は長く残った。

与えるもの

窪地の縁で、水面が揺れた。

風もなかった。何かが触れたわけでもなかった。ただ揺れた。その者は水を飲もうとしていた手を止めた。揺れる水面を見た。水の中に空が映っていた。雲が映っていた。自分の顔が映っていた。

その者は、水を飲んだ。

その顔が揺れた。

与えるものは思った。映るということを、この者はどこかに持っていくだろうか。それとも喉を潤したことだけが残るだろうか。渡したのは映る水だった。次に渡すものは、揺れてもなくならないものがいい。

その者(33〜38歳)

南の集団の子どもが、その者の足元に触れた。

眠りながら動いていた。無意識だった。その者は動かなかった。足を引かなかった。朝まで、そのままいた。

夜明けに子どもはいなかった。

その者は足元を見た。砂に、小さな跡が残っていた。手の形ではなかった。頬の形だった。

伝播:NOISE 人口:410
与えるものの観察:水面が映す。この者はそれを飲んだ。
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第647話

紀元前296,775年

第二の星とその者(38〜43歳)

大地の南端、岩盤が露出した台地の縁に、草はほとんど残っていない。乾いた風が東から来て、細かな砂を岩の割れ目に押し込む。空は高く、雲がない。太陽が真上にある時間が長くなった。

その者は腹が減っていた。

岩の下に這いつくばって、黒い甲虫を三匹つぶした。殻が指に貼り付いた。口に入れた。咀嚼した。何も感じなかった。

台地の北、低い窪みに別の群れが来ていた。背の低い、毛の濃い者たちだ。数は六か七。子どもが二人いた。彼らは何日もそこにいる。

その者の集団の若い男たちが、岩の陰で唸り声を交わしていた。身体を大きく見せる動作。喉から出る音が低くなる。

その者は彼らから少し離れた場所にいた。

五年前から知っていることがある。知っていると言葉では言えないが、体が知っている。草の根が深い場所。水が地表に滲む季節。腐った木の下にいる虫の種類。それを知っているのはこの集団の中でこの者だけではないが、この者が知り方は少し違った。どこで覚えたのか、覚えていない。ただ体が動く。

台地の東側の斜面に、古い火跡があった。炭が風雨に晒されて白くなっている。誰かが長く前にここで火を焚いた。この者はそこに座った。炭を一本拾って、岩の面に線を引いた。

何かの形ではない。ただ引いた。

北の窪みから、子どもの声がした。高く短い声。すぐ止まった。

集団の男たちが動き始めた。

その者は炭を置いた。立った。

男たちが窪みに向かうとき、その者は一歩遅れた。遅れたのは怖いからではなかった。何かがその場所に引き留めた。岩に引かれた線の上に、光が落ちていた。正午過ぎの太陽が岩の角に当たって、白い線だけを照らしていた。

その者はしばらくそれを見た。

窪みから声が上がった。唸り声と、打撃音と、短い絶叫。

その者は走らなかった。

夜になった。北の者たちは消えていた。子どもも含めて。集団の男たちが戻ってきた。腕に傷を持つ者が二人いた。大きな傷ではない。集団は音を上げた。あの低い、震える音。勝利とも安堵とも違う何かだ。

その者は輪の外にいた。

翌朝、集団の女の一人がこの者を指差した。何かを言った。単音と身ぶりだ。その者が北の方向を見ていたことを、誰かが見ていた。

三日後、その者は食料を渡されなかった。

その者は集団の端で、一人で甲虫を探した。岩を起こす。裏を見る。また起こす。何も感じない顔で続けた。腸が痛んだ。水を飲んでいない。

一週間後、その者は集団から引き離された。

声を荒げた男が二人、その者の腕をつかんだ。引きずるのではなく、押した。台地の縁の方へ。その者は押された方向に歩いた。抵抗しなかった。抵抗という発想がなかったのかもしれない。あるいは体がもう持たなかった。

縁から三歩手前で、男たちは止まった。

その者だけが進んだ。

縁の先は、崖ではなく急な斜面だった。砂と礫の斜面。その者はそこを滑った。手が砂を掴んだ。指の皮が剥けた。膝が岩に当たった。止まれなかった。

斜面の途中で、大きな岩に横腹をぶつけた。音がした。

そのまま止まった。

動かなかった。

砂の上に横たわり、空が見えた。高い空。雲がなかった。太陽がもう西にあった。

体の中で何かが鳴り止んだ。

与えるもの

岩の線に光を落とした。

その者は見た。それだけだった。

走らなかった。輪に入らなかった。見ていた。それが正しかったのかどうか、私には判断する道具がない。ただ、その者は見ていた。岩の上の白い線と、光が重なる場所を。

私が次に渡せるとしたら、あの線を見た者がいるかどうかだ。まだ生きている誰かが、明日あの岩の前に立つかどうか。

渡せなかったものが、砂の上に残っている。

伝播:HERESY 人口:405
与えるものの観察:線を見た。走らなかった。それが終わりを呼んだ。
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第648話

紀元前296,770年

その者(43〜45歳)

岩の間に溜まった水が、もうなかった。

その者は掌を窪みに押しあてた。石は乾いていた。舌先で触れると、砂の味だけが残った。

腹ではなく、喉が先に痛くなっていた。

三日、その者は台地の端を伝い歩いた。足の裏に岩の熱が移ってくる。日が傾くと少し楽になった。また昇ると、同じ熱が返ってきた。

何かを探していたのか、もう探していなかったのか、その者自身にはわからなかった。

足が、ある場所で止まった。

風が来た。東ではなかった。北から、低く、細い風が一筋だけ流れてきた。冷たくはないが、今まで来なかった方向だった。

その者は顔を上げた。

鼻の奥に、ほんのわずか、濡れた土の匂いがあった。

あるいは、なかった。その者には判断できなかった。

それでも体が、その方向へ一歩踏み出した。

二歩目で膝が折れた。

岩の上に座る形になった。立てるかどうか、試してみなかった。

光が目に入った。

白かった。眩しいとは思わなかった。ただ、広かった。その者はそれをしばらく受けていた。

遠くで、何かが鳴いた。獣か、鳥か、区別できなかった。

音が遠ざかった。

その者の体から力が抜けるように、静かに、音が消えた。

第二の星

台地から遠く、川沿いの低地で、旧人の一群が水を飲んでいた。子どもが一人、水面を手で叩いた。波紋が広がり、消えた。別の岸では、新しい種の若い男が石を割ろうとして、失敗し、また拾った。台地の上では、その者が岩の上に座ったまま動かなくなっていた。世界はそれを区別しなかった。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:DISTORTED 人口:421
与えるものの観察:北から来た風を、この者は一歩だけ信じた