2033年、人類の旅

「紀元前296,765年〜紀元前296,645年」第649話〜第672話

Day 28 — 2026/04/30

読了時間 約55分

第649話

紀元前296,765年

第二の星

雨が戻ってきた。

大地の南側では、乾いた台地に水が走り、割れていた赤土が閉じていった。草が先に戻り、次に虫が戻り、虫を追って鳥が来た。鳥を追って獣が来た。群れは動き、その後を人が追った。

北の密林では別のことが起きていた。二つの群れが同じ川岸で鉢合わせた。一方は体が大きく、眉の骨が張り出していた。もう一方は細く、声が高かった。どちらも引かなかった。しばらく唸り合い、石を打ち鳴らし合ったが、夜が来ると両方とも別々の場所で火を燃やした。朝になると大きい方の群れはもういなかった。川だけが同じように流れていた。

平原の遠くでは、何かが腐って土に還っていた。それが何だったか、近くに誰もいなかった。

始まりの大地では子が増えた。乳を飲む声が増え、泣き声も増えた。腹が満たされると、人は動く前に少し止まるようになった。座って、空を見た。火を囲んで声を出し合った。別の誰かが声を返した。意味はなかったかもしれない。それでも声は行き来した。

草原に夕立が来るたびに、虹が出た。この星はそれも照らした。誰も見ていなくても。

与えるもの

糸が繋がった。

六歳の、まだ小さい体に。

渡したのは——草の穂だった。風がその穂先を揺らした。ちょうど子どもの視線の高さで。

子どもは穂を見た。手を伸ばして触れた。指の腹に細かい毛が引っかかった。穂を引いて、ちぎって、口に入れた。味はなかった。それでも噛んだ。

また渡すべきものがある。次は何を揺らすか。穂を食べた、ということはまだ記憶を持っている、ということか。記憶が続くなら、次も届くかもしれない。答えは、まだない。

その者(6〜11歳)

草が揺れていた。

その者は指を開いて穂を包んだ。穂は手の中でくすぐったかった。離すと、また揺れた。もう一度掴んだ。離した。また揺れた。

それを何度も繰り返した。

後ろで誰かが呼んでいた。集団が移動する声だった。でもその者は草を見ていた。穂が揺れるたびに、胸の中で何かが動いた。恐怖ではなかった。痛みでもなかった。

どちらでもない、何かだった。

集団の声が遠くなった。その者は立ち上がり、走った。走りながら一度だけ振り返った。草は揺れていた。風だった。それだけだったかもしれない。でもその者の足は少し遅くなった。

夜、火の近くで丸くなりながら、目を開けたまま暗がりを見ていた。手の中のくすぐったさが、まだ残っていた気がした。

残っていないかもしれなかった。

でもその者は手を握った。もう一度、開いた。

伝播:SILENCE 人口:547
与えるものの観察:穂を握った。離した。また握った。
───
第650話

紀元前296,760年

第二の星

始まりの大地で、人の数はこれまでにない密度になっていた。かつて遠くにいた顔が、同じ火の近くに現れるようになった。

東の湿地帯では、葦が膝の高さまで伸びていた。そこで暮らす群れは、別の群れが近づくと唸り声をあげて石を転がした。転がった石は相手の足元で止まった。相手も唸り返した。しかし誰も手を伸ばさなかった。それだけのことが、繰り返されていた。

大地の北側では、旧い顔つきの者たちが崖沿いに動いていた。額が広く、首が短く、指が太かった。彼らは同じ獣の跡を追っていた。鼻が利いた。匂いで水場を見つけた。ある夜、二つの群れが同じ水場で顔を合わせた。片方が先に飲んだ。もう片方は少し離れて待った。どちらも声を出さなかった。

南の台地では、子どもが死んでいた。腹が膨らんでいた。水ではなく、水辺の実を食べすぎたのかもしれなかった。母親は子を三度揺らし、それから動かなかった。

気候は安定していた。豊かであることが、密度を呼んでいた。密度が、緊張を呼んでいた。

与えるもの

この者の足元で、土の匂いが変わった。

雨上がりの匂いではない。獣の通り道に特有の、古い獣脂と草の混ざった匂いだった。その匂いが、風の来る方角と逆から漂ってきた。

この者は鼻を動かした。立ち止まった。匂いの来る方を向いた。

向いた先に何があったかは、この者だけが知っている。

私は渡した。届いたかどうかは、別の問いだ。ただ、次に渡すべきものが、もう浮かんでいる。匂いより速く、より遠くに届くもの。この者がまだ持っていないもの。

その者(11〜16歳)

足が止まった。

鼻が拾ったのは、見知らぬ匂いだった。獣ではない。獣に似ているが、違う。何かが混ざっている。草と、皮と、もう一つ、名前のないもの。

口が少し開いた。息を吸った。もう一度吸った。

遠くで枝が折れる音がした。

この者は後ずさった。一歩。二歩。踵が石に当たった。石を踏んだまま止まった。

音はそれきりだった。

しばらく、その者は動かなかった。鼻だけが動いていた。匂いは薄くなっていった。消えていった。

群れに戻ったとき、誰かが声をかけた。この者は答えなかった。座って、自分の掌を見た。何も持っていなかった。

火のそばで、老いた女が皮を引っ張っていた。歯で端を噛みながら、両手で反対側を引いた。皮は少しずつ伸びた。この者はそれを見ていた。見ながら、さっきの匂いのことを考えていた。考えていた、というより、匂いがまだ鼻の中にあった。

消えていないものがあった。

伝播:NOISE 人口:561
与えるものの観察:匂いが消えても、鼻の中に残っていた
───
第651話

紀元前296,755年

第二の星

始まりの大地の西側に、川があった。

雨季に膨らみ、乾季に細る川だった。岸に白い泥が残り、その泥の上に蹄の跡と人の足跡が混じって押されていた。ここで水を飲む者も、あそこで水を飲む者も、同じ岸に来なければならなかった。

密度は高まっていた。

かつては一つの群れが数日歩けば別の煙を見ることはなかった。今は半日で見える。朝の風向きによっては、知らない火の匂いが鼻に届く。それは食料の匂いであり、縄張りの匂いでもあった。

東の丘の群れが南へ動いた。南の群れが川沿いへ押し出された。川沿いの群れが葦の湿地帯を横切って西へ流れた。移動は意図ではなく、圧力の結果だった。どこかで石が投げられ、どこかで唸り声が重なり、どこかで誰かが走った。

走った者が戻らないことがあった。

戻らなかった者の群れは、それを覚えていた。翌朝、火を囲んで唸り声が長く続いた。子どもたちはその輪の外に押しやられた。長老の男が石を両手で持ち、打ち合わせた。音が出た。音が止んだ。また音が出た。それは問いかけでも命令でもなく、ただの音だったが、全員がそれを聞いていた。

葦の湿地帯の群れは、昼過ぎに七人で川を渡った。手に石を持っていた。石は武器として持たれたのではなく、持たないよりも持った方が重みがある、というだけの理由だったかもしれない。向こう岸に別の群れがいた。十二人いた。

川の水が浅く、渡った痕が泥に残った。

両者は止まった。距離は二十歩ほど。唸り声が出た。返ってきた。石を持ち上げた者がいた。相手の中で石を持ち上げた者がいた。

どちらも投げなかった。

なぜ投げなかったのか、この星は知らない。足元の石が湿っていた。風が川上から吹いた。相手の群れの後ろに子どもの姿があった。どれが理由だったかは、その場に立っていた者にも分からなかった。

両者はそれぞれ後退した。一人ずつ、ゆっくり。目を離さないまま。

その日の夜、葦の湿地帯の群れは火を大きくした。火が大きければ、遠くから見える。遠くから見えることが、何を意味するのかをこの者たちは言葉で知らなかった。しかし火は大きくされた。薪が足された。炎が高くなった。それだけだった。

始まりの大地の東の端では、崖沿いに細い煙が三本立っていた。別々の群れだったが、夜の間に一本になった。朝には見えなくなっていた。何かがあったのか、ただ火が消えたのかは、遠くからでは分からなかった。

川は変わらず流れていた。白い泥の上に、新しい足跡が積み重なった。

与えるもの

その者が湿地の外れで立ち止まったとき、足元の葦の根に沿って水が滲んでいた。そこだけ土が濁った黄色をしていた。腐った根の匂いが鼻の奥まで届いた。

その者は一度だけ嗅いだ後、別の方向へ歩き始めた。

腐敗と食べられるものの境界はまだあの者には見えない。では何を渡すべきか——次は匂いではなく、色にしよう。色の違いを覚えた者は、長く生き延びる傾向がある。まだ渡せていない。

その者(16〜21歳)

群れが動いた夜、その者は火の輪の外にいた。

遠くで唸り声が聞こえた。方向が分からなかった。石を一つ拾って、手の中で転がした。温かくなった。

捨てなかった。

伝播:HERESY 人口:537
与えるものの観察:腐臭を避けた。色を渡す機会を待つ。
───
第652話

紀元前296,750年

その者(21〜26歳)

足の裏が砂を踏んだ。

岸から離れろ、と腕が押した。誰かの腕だった。顔は見なかった。押された方向に、別の誰かがいた。その誰かも押していた。押す者と押される者が混じって、声が上がった。単音が積み重なって、意味を持たない壁になった。

その者は押し返した。

押し返すことが何を意味するか、わかっていなかった。ただ脚に力が入った。砂が足の下で動いた。相手の体が重かった。相手の息が顔に当たった。

倒れたのは相手だった。

その者は立っていた。脚が震えていた。手が震えていた。震えているのに力が抜けなかった。

倒れた者が地面から声を出した。低い声だった。その者は聞いた。意味はわからなかった。それでも聞いた。倒れた者は立ち上がらなかった。立ち上がれなかったのか、立ち上がらなかったのか、その者には区別がつかなかった。

水を飲みに来た。それだけだった。

川は細くなっていた。乾季が長かった。泥の白い帯が幅を広げ、水は真ん中に縮んでいた。そこに来なければならない者が、増えていた。ここの者も、あそこの者も。

日が傾いた。

倒れた者はまだそこにいた。腕を地面に押しつけて、上半身を起こそうとしていた。起こせなかった。その者は見ていた。見ながら、川に近づいた。水を手で掬った。冷たかった。飲んだ。

もう一度掬った。

倒れた者の方を向いた。手の中の水が指の間から落ちていた。倒れた者はその者を見ていた。

その者は近づいた。しゃがんだ。残った水を差し出した。

倒れた者は飲んだ。

声は出なかった。その者も声を出さなかった。立ち上がって、川の方に戻った。また掬った。また飲んだ。倒れた者はその間に、少しずつ体を起こしていた。

二人の間に何も残らなかった。残ったのは、砂の上の乱れた足跡だけだった。

第二の星

始まりの大地の西側に、川がある。

今この季節、川は骨だ。水は残っているが、岸の白い帯が広く、泥が乾いて亀裂を作っている。その亀裂の上を、多くの足が踏んでいる。ここの者の足も、あそこの者の足も。

この星の北の高地では、雪が例年より遅く降っている。南の平野では草の丈が短い。獣の群れが移動し、人の群れもそれを追って移動しようとしている。しかし川がある場所は決まっていて、川を離れることは死に近づくことと同じだった。

密度は高まり続けている。

川の岸で声が上がる。倒れる者がいる。立ち去る者がいる。翌日また来る者がいる。水が減れば動きが荒くなり、水が増えれば静かになる。今は減っている。

この星はそれを照らすだけだ。

岸の泥に残る足跡が、夕方の光で影を伸ばす。深く押された足跡。浅い足跡。引きずられた跡。誰のものかはわからない。泥は区別しない。すべての足跡を等しく受け取って、次の雨が来るまで保持する。

川の向こう岸には、誰もいない。

与えるもの

倒れた者の腕に、光が落ちた。

地面から川まで、一直線の距離があった。その者はそれを見た、かもしれない。見ていたのに別のことをしたのかもしれない。

水を運べるものがあれば、と思う。思うことしかできない。この者は水を手で持った。手で持てる量しか運べなかった。それでも運んだ。

手が容器になりうることを、この者はすでに知っている。次に渡すべきものは、何か。

伝播:NOISE 人口:546
与えるものの観察:手が器になった。それだけを見ていた。
───
第653話

紀元前296,745年

第二の星とその者(26〜31歳)

乾いた大地に雨が降った。

岩の割れ目から水が流れ、低い場所に溜まった。草が緑になる前に、旧人の集団が先に来ていた。七人か、八人か。体は大きく、額が低く、眉の骨が厚かった。彼らは水場のそばに座り、こちらを見た。

その者は草の陰から見ていた。

膝が泥についた。手が地面を押さえた。逃げるべきか、という問いは言葉にならず、ただ腹の底に重さとしてあった。旧人のうちの一人が、川の反対側から石を投げた。威嚇ではなかった。石は水の中に落ちた。音がした。

その者は動かなかった。

大地は乾期と雨期を繰り返した。水場をめぐって集団が近づき、また離れた。誰かが傷を負い、誰かが癒えた。子が生まれ、泣き声が夜に響いた。別の夜には、泣き声が止んだ。

その者は27歳になっていた。

集団の中で、背の高い男が争いで腕を折った。折れた腕は膨らみ、熱を持った。その男は10日後、走れなくなり、20日後、座ったまま前に倒れた。倒れた場所に、他の者たちは三日間いた。四日目に、移動した。

その者は一緒に移動した。しかし何度も振り返った。

雨が多い年があった。川が増水し、渡れなくなった。集団は川沿いに北へ移動した。旧人の集団と再び出会ったのは、岩棚の下だった。嵐の夜に、同じ場所に雨宿りをしていた。

火があった。旧人の側に、火があった。

その者はそれを見た。雨の音の中で、炎が揺れていた。旧人の子どもが、火の近くで眠っていた。その者は自分の手を、膝の上で開いたり閉じたりした。

朝、旧人たちは去った。火の跡が残っていた。灰と、燃え残りの枝が、岩の上にあった。

その者は近づいた。枝に触れた。まだ温かかった。

その温かさを、手のひらで確かめた。自分の集団の火とおなじ温かさだった。違わなかった。その者は岩の前にしばらく座っていた。誰も来なかった。

29歳の冬、食料が減った。

集団は南へ戻った。旧人の痕跡がそこにもあった。掘り起こされた土、積まれた石、何かを引きずった跡。その者は跡を見た。自分たちの跡と区別がつかなかった。

31歳になる頃、その者は夜に空を見た。

雲がなかった。星が多かった。集団は眠っていた。その者だけが起きていた。何かを待っていたわけではなかった。ただ、目が閉じなかった。腹の中に、答えのない問いが静かに溜まっていた。何のために、とは問わなかった。言葉がなかった。しかし何かが、胸の奥で折り重なっていた。

与えるもの

燃え残りの枝があった。まだ熱を持っていた。

その者が触れた。同じだ、と思ったかどうかはわからない。しかし手を離さなかった。

火は誰のものでもない。それをこの者が今日知ったとして、誰に渡せるのか。渡せないまま31年が積まれていく。渡せないことが、次に渡すべきものを変えていくのかもしれない。

伝播:SILENCE 人口:557
与えるものの観察:旧人の火に触れた。温度は同じだった。
───
第654話

紀元前296,740年

その者(31〜34歳)

熱が出たのは、水場の争いの翌朝だった。

集団の中に、あの者を快く思わない者がいた。水を先に飲んだとき、旧人の集団に向かって声を出したとき、岩の陰を指差したとき。その者が何かを知っているような振る舞いをするたびに、年長の者たちは目を細めた。

体の表面に知識は見えない。それでも、何かが透けて見えることがある。

干ばつが終わり、雨が戻り、集団には余裕が生まれていた。余裕があるとき、人は余計なものを取り除く。

その者は集団の端に置かれた。食べ物を分けてもらえる順番が遅くなった。火の近くに座れなくなった。誰かの視線に気づいたとき、すでに目は逸らされていた。

そのころ、熱が来た。

体の内側から何かが燃えているようだった。岩に背中をつけると、冷たさが一瞬だけある。膝が立たなくなり、地面に手をついた。

草が揺れた。風が腹の方から来た。

鼻の中に、何かの匂いがした。土ではない。遠い何かだった。

その者は地面の上に横になった。空が白かった。雲が一枚、動かずにいた。

夜、集団の火が遠くに見えた。明かりの形だけが見えて、温度は届かなかった。

体の力が朝に向かって抜けていった。砂が手のひらの下にあった。指が少し動いた。止まった。

雲はまだそこにあった。

第二の星

草原の縁で、旧人の子が初めて石を二つ打ち合わせた。火花は出なかった。子はそれを捨てた。母親が拾い直し、また渡した。渡されたものが何であるか、まだ誰も知らなかった。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:540
与えるものの観察:渡した匂いが、最後に届いたかもしれない。
───
第655話

紀元前296,735年

第二の星

乾いた季節が終わりかけていた。

大地の北側、赤茶けた岩盤が続く台地では、草食の獣の群れが南へ移動していた。蹄の音が地面を伝い、砂埃が空に混じった。その群れを追う者たちがいた。別の群れだ。この者の集団とは違う。顔の骨格がやや異なる。眉弓が厚く、後頭部が丸い。しかし追い方は似ていた。石を持ち、連携して獲物を追い込む。

川沿いの低地では、泥が乾いて亀裂が入っていた。亀裂の中に小さな虫が産卵していた。鳥がそれをついばんでいた。誰も見ていなかった。

海の方向、遥か遠く、水平線の向こうで雷が光った。雨の前触れだったが、この集団まで届くことはなかった。

この者の集団は、岩場の東側に留まっていた。五年前より人数は増えていた。増えた分、声も多く、食料を巡る押し合いも多くなっていた。水場の近くに陣取れる者と、端に追いやられる者が、はっきりしてきていた。

夜、火のそばで、年長の者が唸った。誰かを見ていた。

与えるもの

糸が繋がった。

火の粉が一粒、その者の足元に落ちた。

その者は足を引いた。ただそれだけだった。

粉は消えた。しかし足の引き方を、その者は覚えているだろうか。危険より早く動く体の記憶を。次に渡すべきものを、わたしはまだ持っている。

その者(21〜26歳)

熱は下がっていた。

体の中心に、まだ鈍い重みがあった。しかし足は動いた。動くなら動く。その者は立ち上がった。

火のそばに戻ると、年長の二人がこちらを見た。視線は短かった。しかし確かにあった。

その者は座った。

火の端に近い場所だった。よい場所ではない。煙が流れてくる。目が痛くなる。しかし離れるより、ここにいる方が何かを感じた。何かというのは、体の感覚だ。言葉にはならない。

炎が揺れた。

その者は細い枝を拾い上げ、火の中に差し入れた。先端が赤くなった。引き出した。先端の赤が空気の中で小さくなっていくのを、目で追った。消えた。

また差し入れた。

また消えた。

年長の者の一人が唸った。声の意味は分からなかった。しかし体の方が先に縮んだ。肩が入り、顎が引かれた。そういう動き方を、体は知っていた。

夜が深くなった。

眠れなかった。眠ろうとすると、背後に何かがある気がした。振り返ると、岩と影しかなかった。もう一度横になった。また気がした。

その者は夜明けまで、半分だけ目を閉じていた。

朝、集団が動き出した。水場へ向かう列の中で、その者は後ろから三番目の位置にいた。一度もそれより前に出なかった。

水を飲んだ。

水は冷たかった。喉を通るとき、体の内側で何かが落ち着いた。それだけだった。

伝播:HERESY 人口:524
与えるものの観察:足が先に知っている。体は覚える。
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第656話

紀元前296,730年

第二の星

雨が戻った年から、五度の収穫の季節が巡った。

台地の端では、枯れていた草の根が土を押し広げて芽を出し、翌年には背丈ほどの茂みになった。水場には沈泥が積もり、流れが穏やかになった。獣は増えた。草食の群れが台地に戻り、それを追う肉食の獣も戻った。食うものの連なりが、静かに、しかし確実に回復していった。

南の丘陵地帯では、低木の実が毎年たわわに実るようになった。根を掘れば食えるものが出た。木の皮の下には幼虫がいた。川の浅瀬には魚が戻った。腹を空かせた季節の記憶は薄れ、幼い者たちはそれを知らないまま育った。集団の中に、生まれてから一度も飢えを知らない者が現れ始めた。

生まれた子の多くが育った。腹の中で消えず、生まれてすぐ消えず、最初の冬を越し、二度目の冬を越した。集団は増えた。かつて互いを指で数えられた数から、今は全員を一目では見渡せない数になった。

増えた者たちは、以前の縄張りの端に寄りかかるように広がり始めた。水場の近くに寝る場所が増えた。獣の骨が積まれる場所が増えた。火を囲む者の数が増えた。

別の集団との境界が、近くなった。

かつて遠くに煙が見えるだけだった。今は、声が届くほどの距離で相手の動きが見えることがある。互いに止まる。しばらく見る。それから、どちらかが向きを変える。

ただし、向きを変えない日も、出始めていた。

近くの森の際で、この者の集団の若い雄と、別の集団の若い雄が、石を持ったまま向き合ったことがあった。声が出た。唸りだった。どちらも下がった。しかし地面には、投げられなかった石が残った。

この星は、その石を照らしていた。誰も拾って戻らなかった。

南から北へ向かう大きな川の上流では、旧人の一群が岩陰に寝場所を持っていた。彼らの体は厚く、寒さに強く、動きは重いが疲れない。食うものを探す範囲が広かった。この者たちの集団が南の丘陵を使う時期と、旧人の群れが南に降りてくる時期が、少しずつ重なるようになっていた。

まだ争いではなかった。ただ、重なっていた。

豊かな季節は、必ずしも静かではない。満ちたものが溢れ始める時、境界は動く。押すものが増えれば、端が押し返す。この星はそれを幾度も見ていた。今も同じものを見ていた。

与えるもの

足元の地面が、わずかに温かかった。

日当たりの良い岩盤の割れ目、そこだけ温度が違った。与えるものは熱をそこに集めた。この者の足が止まった。

踏んだまま、立っていた。別の集団の者が森の端に見えている方向で、その足が止まった。

熱は渡った。それを何に使うかは、与えるものには決められない。見えている者の方へ踏み出すか。引くか。あるいは、立ったまま熱さを感じ続けるだけで、それが終わるか。

次に渡すべきものが、まだわからない。渡した熱の残り方が、次を決めるかもしれない。

その者(26〜31歳)

森の端に、見たことのない輪郭があった。

この者は石を握っていた。右手が、少し上がった。

唸り声が出かけた。出なかった。

足の裏が、岩の上で熱かった。その熱が、ふくらはぎを上がり、腹の奥に届いた。

石を持ったまま、動かなかった。

森の端の輪郭も、動かなかった。

どちらも、動かなかった。

伝播:HERESY 人口:647
与えるものの観察:渡した熱の先で、何が止まった。
───
第657話

紀元前296,725年

その者(31〜36歳)

石を振り下ろすたびに、骨の中で何かが鳴る。

三十六の季節を生きた体は、まだ動く。だが昨年までの動き方ではない。膝が、一歩前に出るたびに、わずかに遅れる。

狩りの列の中で、その者は中ほどにいた。前の雄は足が速い。後ろの雄は槍の投げ方が正確だ。その者はどちらでもなかったが、どちらでもある。

草原に獲物の気配があった。

台地を渡る風が、右から左に流れていた。群れはまだ気づいていない。先頭の雄が、腕を横に広げた。止まれ、という動きだ。その者は息を止めた。

草が揺れた。揺れた方向が、風と逆だった。

その者は、それに気づいた。

だが声を出さなかった。先頭の雄が動き始めていたからだ。

群れが散った。追う者たちが走った。獲物の一頭が岩場に向かった。その者は岩場への近道を知っていた。五年かけて、この台地の地形が体に染みていた。

回り込んだ。

息が乱れる前に、獲物は岩の窪みに入った。追い詰めた雄たちが槍を投げた。一本が外れた。もう一本が脚に刺さった。獲物は倒れなかった。走り出た。

その者は、岩の縁にいた。

飛び降りた。

膝で衝撃を受け、そのまま体重を獲物の首に乗せた。地面に押さえた。石を振り下ろした。もう一度。もう一度。

獲物が動かなくなった。

後ろから来た雄たちが、その者を見た。

誰も声を上げなかった。誰かが、獲物の腹に石の刃を当てた。解体が始まった。その者はその輪の外に立っていた。

夕方、肉が分配された。

その者の取り分は、普段より少なかった。

少ない理由は、声にはならない。だが伝わった。仕留めたのはお前ではない、という動きで、先頭の雄が肉の塊を引いた。その者は受け取れなかった分の肉を目で追い、そして目を離した。

夜、火の周りに集まった。

その者は輪の端にいた。

子どもが二人、膝の近くで眠っていた。この者の子かどうかは、わからない。集団の子だから、この者の近くにいる。

火が揺れた。

赤い光が、隣に座る雌の顔を照らした。その雌は、先頭の雄の傍に置かれる存在だった。だがその夜、その者の隣にいた。

理由は声にならない。

ただ、いた。

数日後、狩りの帰り道で、先頭の雄の石が飛んできた。投げた、というより、その者の足元に転がったように見えた。だが周囲の雄たちの目が、転がった石とその者の間を往復した。

その者は石を拾わなかった。

翌日の狩りに、その者は呼ばれなかった。

翌々日も。

火の管理を任された。集団の中心から離れた場所で、薪を足し続けた。子どもたちが近くで遊んだ。その者は一本一本、薪の燃え方を見た。細い枝は早く燃える。太い幹は長く残る。

水を汲みに行った。

川の岸に、獣の足跡があった。昨夜のものだ。まだ濡れた泥が残っている。その者は足跡の深さを指で触れた。重い獣だ。近くにいる。

集団に戻った。先頭の雄に身振りで伝えようとした。

先頭の雄は聞かなかった。

その者が何かを言おうとするとき、周囲の雄たちの体が、どこか向きを変える。正面を向いたまま、微妙に逸れる。

その者は、自分が話しかけることのできない場所に移動していることを、声にできなかった。

その夜、火の粉が舞った。

風が台地の端から来た。その方向から、何か焦げた臭いがした。遠い草原で、火が走っているのかもしれない。

臭いは夜明けまで続いた。

第二の星

台地の上で、五年が積み重なった。

草食の群れが戻り、肉食の獣が戻り、集団は増えた。子が生まれ、育ち、また生まれた。食うものの連鎖が復元されたこの台地は、今年も緑を保っている。

だがその安定の中に、別の何かが育っていた。

誰が多く取るか。誰が先に動くか。誰が誰の傍にいるか。食うものが増えると、取り合う力も増す。集団の内側で、目に見えない境界が引かれていく。

旧人の群れは、台地の東側に今もいる。彼らは集団の移動を邪魔しない。集団も彼らの水場を奪わない。だが子どもたちが成長するにつれ、その境界を試す動きが出始めている。台地の端に近い場所では、双方の若い雄が、十分な距離を保ちながらも、相手の動きを長く見つめるようになった。

集団内部でも、位置が動いた。

五年前には、そこにいた者がいなくなり、そこにいなかった者が中心に来ていた。死によって空いた場所を、生きている者が埋めた。その埋め方が、今の形を作った。

この台地は、何も変えていない。

草が生え、水が流れ、風が吹く。

そのすべての下で、人間の形が変わっていく。

与えるもの

風が、その方向から来た。

獣の臭いを含んだ風だった。水場の方角。足跡の深さ。その者はすべてに気づいていた。

触れたのに、届かなかった場所がある。

先頭の雄の耳ではなく。聴こうとしない体には、風も届かない。

ならば、この者自身に渡し続けるしかない。

何度目かの、同じ問いが来る。知ることが、この者を守らなかった。知ることが、むしろこの者を縁に追いやった。それでも渡すのか、という問い。

渡す。

次に渡すべきものが、もう見えている。この者が今夜、火の太い薪と細い薪を見比べた。その目の動きに、まだ問いがあった。あの問いに、明日また触れる。

伝播:HERESY 人口:628
与えるものの観察:知ることが縁に追いやった。それでも渡す。
───
第658話

紀元前296,720年

第二の星

乾いた季節が終わった。

赤土の裂け目に水が戻る。草が押し上がる。昆虫が鳴き始める。一度に全部ではなく、端から少しずつ。北の台地では旧人の一群が川沿いを下っている。彼らの足裏は厚く、岩の感触を読む。同じ川を、別の群れが上っている。どちらも相手を知らない。どちらも水を探している。

南の森では火が燃えている。意図したものではなく、乾いた木が擦れて起きた。炎は低木を舐め、煙が空に広がり、遠くから見れば煙だけが見える。その煙を見た者がいる。煙を見て動いた者がいる。煙を見て動かなかった者がいる。

集団の中に摩擦がある。

若い者と古参の者の間に、声の大きさが違う。食べ物の分配に、手が遅れる者と早い者がある。夜の火のそばで、誰が中心に座るかが変わってきた。言葉はない。しかし体の向きに、すでに答えは出ている。

その者は中ほどにいない。

少し外れた場所に立って、火を見ている。

与えるもの

煙の匂いが風に乗って来た。

その者は顔を上げた。

渡せたかどうか、わからない。しかし次に渡すべきものは、もう決まっている。方向だ。ただの方向だ。それだけが、今できる。

その者(36〜41歳)

煙が草原の端から来ていた。

火ではない。火は見えない。煙だけが薄く、南の方角に広がっている。その者はそれを見た。立ったまま、少し長く見た。それだけだった。

集団が動いている。

水場から戻った者たちが革袋を持ち寄り、子どもが足元を走り回り、古参の雄が声を上げる。何を言っているか、その者には半分しか届かない。いや、届いているが、耳が滑る。言葉が体に入らない。

古参の雄の視線が、一度その者を横切った。

その者は目を逸らした。

腹が鳴った。午から何も食べていない。昨日の狩りで、その者は仕留めそこなった。石槍が獲物の肩を掠めた。獲物は逃げた。列の中で、後ろの者が短い声を上げた。怒りではない。それ以外の何かだった。その何かを、その者はまだ体の中に持っている。

夜の火のそばに戻ると、座る場所が変わっていた。

以前は右寄りの岩の前だった。誰かがそこに荷を置いていた。その者は左へ回り込んで座った。火から遠い。煙が流れてくる場所だった。目が沁みた。

それでも動かなかった。

動けば、さらに遠くへ行くことになると、体が知っていた。

革を削る音が聞こえた。子どもの泣き声が上がった。止んだ。古参の雄が何かを言い、笑いが起きた。その者には笑いの意味がわからなかった。自分のことだと思った。違うかもしれない。確かめる方法はない。

南の空に、まだ煙があった。

その者はそちらを見た。火はない。ただの煙だ。しかし体の中で何かが動いた。行けるかもしれないという感触ではなく、行かなければならないという感触でもなく、もっと曖昧な、ただの向きのようなものが、腹の少し下のあたりで決まった気がした。

消えた。

革の切れ端を拾い上げ、爪で表面を引っ掻いた。何も生まれなかった。捨てた。

夜が来た。

その者の右手の隣に、誰も座らなかった。

伝播:HERESY 人口:601
与えるものの観察:方向は渡せた。それが何になるかは知らない。
───
第659話

紀元前296,715年

第二の星

雨が戻った。

赤土の大地では、割れ目に沿って細い流れが生まれた。草の根が水を吸い上げる音はないが、翌朝には新しい緑が地面を押し広げていた。獣の足跡が泥に残るようになった。虫が鳴く。鳥が戻る。

乾いた5年間が終わった、というわけではない。まだ空の高いところに雲は薄い。川床の石は白く焼けている。しかし水は来た。

同じ大地の、ずっと遠い場所では、別の群れが岩塩の露頭のそばで眠っていた。彼らは火を持たない。夜は身を寄せて体温を共にする。明け方に一頭の子が冷たくなっていても、群れは動かなかった。日が上がれば移動する。それだけだ。

さらに遠い、森の縁では、この者の群れとは異なる骨格を持つ者たちが木の実を割っていた。額が低く、眉骨が厚い。しかし手の動きは丁寧だった。割った実の欠片を子に渡す。子は食べる。親は次の実を探す。

第二の星は全部を照らす。

どの者が生き残り、どの者が消えるかを知らない。ただ、雨が来た大地で、草が端から押し上がり、足跡が泥に刻まれる。

与えるもの

血の匂いがした。

その者の皮膚に風を送った。その方向から、群れの内側の匂いが来ていた。

この者は立ち止まった。鼻孔が広がった。それだけだった。

やがて動き出した。逆の方向へ。

渡した。しかし何を避けたのか、この者は知らない。知らないまま歩いた。それでよかったのか、という問いは残らない。ただ、次に渡すべきものがある。この者がまだ生きているなら、次がある。

その者(41〜46歳)

雨の後、泥が乾き始めると、その者は草の縁を歩いた。

腹は満ちていない。しかし昨日よりは重い。水場で小さな獣を追った。石を投げた。外れた。もう一度投げた。草の中に消えた。

諦めて水を飲んだ。手で掬う。泥の味がした。それでも飲んだ。

帰り道、風が変わった。

その者は立った。足が止まった。何かが鼻の奥に触れた。腐ったものではない。汗と血と、煙の混じった何か。群れのものだが、群れの匂いではない。

逆の方向へ歩いた。

なぜかはわからない。足が先に動いた。

丘を越えたとき、遠くで声が上がっているのが聞こえた。高い声。低い声。短く切れる声。その者は歩みを速めた。しかし丘の手前で止まった。

岩の陰に座った。

声が収まるまで、動かなかった。

空が赤くなった。空が黒くなった。その者は岩の陰で膝を抱えていた。

朝になって、群れのいた場所へ戻った。地面に何かが倒れていた。その者は見た。しゃがんだ。触れなかった。

立ち上がって、歩いた。

伝播:HERESY 人口:585
与えるものの観察:匂いが届いた。この者は生きた。
───
第660話

紀元前296,710年

その者(46〜50歳)

雨が続いた。

赤土は水を含んで黒く重くなり、足が沈む。その者は水辺の草を踏み越え、若い雄たちの後を歩いた。先頭を行くことは、もうなかった。膝が痛む。右の腰から、薄く熱が出る。

獣は多かった。水場に集まる。草はのびた。果実は甘く、腐る前に食べきれないほど落ちていた。

その者は食べた。食べて、座った。若い雄たちが岸で声を上げている。笑うような声だった。その者はそれを遠くで聞きながら、草の上に横になった。

空が白く、光が均一に広がっている。

集団の中に見慣れない顔が増えていた。どこからか来た者たちだ。額の骨の張り方が違う。声の出し方が違う。その者は彼らを見た。彼らの一人と目が合った。どちらも動かなかった。どちらも何も言わなかった。

その者は視線をはずして、川の方を見た。

夜、焚き火の傍で子どもたちが転がっている。その者は火の端に座り、炎が揺れるのを見た。風が来るたびに火は傾き、また立つ。傾き、また立つ。

手が細くなっていた。

自分の手のひらを見た。傷がある。古い傷だ。いつついたかは覚えていない。爪の中に土が詰まっている。

その者は手を閉じた。

翌朝、起き上がれなかった。

仰向けのまま、空を見た。薄い雲が流れていく。草の匂いがする。火がどこかで燃えている、煙の匂いもする。集団の声が遠い。子どもが泣いている。獣の遠吠えがある。

その者は目を動かして、草を見た。

草が風に揺れていた。

揺れていた。

揺れていた。

揺れが、だんだん見えなくなった。

第二の星

雨が降っていた。大地の広い範囲で、同時に。川が満ちた。木の根が水を引いた。遠い草原では、群れで移動する獣の足音が地面に伝わっていた。夜、複数の集団が別々の火を焚き、別々の空の下で眠った。第二の星は区別しない。どの火も、どの眠りも、等しく照らした。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:DISTORTED 人口:761
与えるものの観察:草が揺れていた。それだけだ。
───
第661話

紀元前296,705年

第二の星とその者(4〜9歳)

北から乾いた風が吹き続け、草原の端が白く褪せた。
川は細くなったが、消えなかった。
水辺に近い低地では、根が深い木が実をつけた。

子は水のにおいを知っていた。
母親の腰にしがみついて歩く距離が、少しずつ伸びていた。
地面が硬いとき、足の裏が痛かった。それだけは知っていた。

東の岩地では、別の群れが洞窟の入り口に印をつけた。
赤い手形が三つ。乾いた壁に残った。
誰も近づかなかった。しかし誰も忘れなかった。

子は年上の者たちが岩を叩くのを見ていた。
飛ぶ破片に目を細めた。
手を出した。叩く真似をした。岩は動かなかった。

川の上流で、旧い形をした者たちが水を飲んでいた。
背が低く、肩が広かった。
子どもは逃げた。大人は立ったまま見た。

子は大人の後ろで土の上に座っていた。
向こう岸の影が動くのを見ていた。
息を止めていた。自分が息を止めていることに気づかないまま。

日が短くなった。
火の周りに集まる数が増えた。
ある夜、若い雄が別の若い雄を殴った。血が出た。朝には両者とも黙っていた。

子は血のにおいを嗅いだことがあった。
母のものか、獣のものか、区別していなかった。
においは体の中に残る。それをどう呼ぶかは知らなかった。

雨が来た。
赤土が黒く締まった。
川が少し膨らんだ。草が戻った。

子は雨の中に立っていた。
口を開けた。水が入ってきた。
飲んだ。笑った。誰も見ていなかった。

与えるもの

糸が繋がった。

この者の足元に、薄い光が落ちた。
乾いた土の上に、一本の草の影が伸びていた。根が深かった。
この者は影を踏んだ。草をつかんだ。引っ張った。根が土から出た。

土がついたままの根を、この者は口に入れた。

渡したかったのは、根が見えないということだ。しかし引っ張れば出てくる。
この者はそれを知るよりも早く、体がやった。
渡す前に届いていた。それは渡したのか。今度は何を落とせばいい。

伝播:SPREAD 人口:764
与えるものの観察:渡す前に届いていた。それは渡したのか。
───
第662話

紀元前296,700年

第二の星

土が裂ける前に、草が先に死んだ。

根の浅いものから順に。黄くなり、巻き、粉になった。風がそれを攫って、空が白く濁った。大地の南側では泥地が硬くなり、水鳥の足跡だけが残って、水鳥は消えた。

集団は動いた。動いた先でも、草は死んでいた。

幼いものが、まず減った。老いたものが、次に減った。夜、泣き声が聞こえなくなった夜があった。集団が小さくなったことを、だれも数えなかった。数える語がなかった。ただ、火の周りが以前より広くなった。

遠い場所で、別の群れも動いていた。形の違う額骨を持つ者たちが、川の跡を辿って北へ向かっていた。彼らは違う音で水を呼んだ。同じ方向へ歩いていた。出会うことはなかった。

北の岩地では、雨が来た。その雨を知る者は、そこにいなかった。

与えるもの

川の跡に、湿った臭いが残っていた。干上がった泥の、底のほうから。

その者の鼻孔が動いた。止まった。また動いた。

それで十分だったのか。わからない。ただ、渡す前に消えてしまうものがある。臭いは風より速く散る。次は、散らないものを渡さなければならない。形のあるもの。手で持てるもの。

渡すことと、消えることは、いつも同じ速さで走るのか。

その者(9〜14歳)

腹が鳴った。二日、鳴り続けた。三日目には鳴らなくなった。

川の跡を歩いた。土が白く浮いていた。踏むと足が沈んだ。深くはなかった。膝まで来た泥が、乾いて白い粉を脚に残した。

立ち止まった。

泥の底から、何かの臭いがした。腐ったものの臭いではなかった。濡れた石のような。暗い場所の土のような。

鼻を近づけた。

大人に呼ばれた。振り向いた。また臭いを嗅いだ。また呼ばれた。

歩いた。

夜、火の周りに座った。以前より広い円だった。その者は端に座った。隣に誰もいなかった。

草の根を噛んだ。苦かった。飲んだ。

空を見た。星があった。腹は鳴らなかった。

岩の影で、老いた女が横になった。朝、起きなかった。だれかが彼女の足を持った。引いた。草の消えた土の上を引いていった。その者は見ていた。引いていった先を、見なかった。

また腹が鳴り始めた。

伝播:SILENCE 人口:638
与えるものの観察:臭いは届いた。足が止まった。
───
第663話

紀元前296,695年

その者(14〜17歳)

草の匂いがしなくなってから、ずいぶん経つ。

その者は崖の縁に立っていた。下には乾いた川床。白く、平らで、骨のようだった。

集団が来たのは朝だった。別の群れ。声が違った。体の大きい者が多かった。

その者は大人の後ろに隠れた。子どもはみなそうした。しかし大人の数が足りなかった。干ばつで半分になっていた。

石が飛んだ。

誰かが倒れる音が聞こえた。

その者は走った。崖の縁まで来て、止まった。下りる道がわからなかった。

風が来た。

川床の方角から。砂と、何か腐ったものの匂いを運んできた。

その者は鼻を動かした。

腐臭の中に、湿った土の匂いが混じっていた。わずかに。崖の下のどこか、日の当たらない場所に、水がある匂いだった。

その者はそれを知らなかった。ただ鼻が動いた。

足が崖の端で止まっていた。

後ろで音がした。

振り向く前に、体が傾いた。

押されたのか、躓いたのか、その者には判断できなかった。

空が見えた。白い空。乾いた白さ。

川床が近づいた。

骨のような白い川床が。

音がして、それから音がなくなった。

川床の石の上に、その者は横向きに伸びていた。

片腕が折れていた。首が、変な方向を向いていた。

風が川床を渡っていった。

砂が舞い上がり、その者の開いた目の上を通過した。

目は動かなかった。

日が傾いた。影が長くなった。川床の白さが、橙に染まって、また白に戻った。

誰も下りてこなかった。

第二の星

北の湿地では霧が低く垂れ、葦の間で鳥が卵を温めていた。山の斜面では若い雄の獣が岩の上で息を弾ませながら縄張りを見渡していた。大きな川の河口では砂州が干潮に露れ、貝が口を閉じていた。白い空の下で、それぞれが続いていた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:SILENCE 人口:650
与えるものの観察:渡した。届いたかは別の話だった。それだけだ。
───
第664話

紀元前296,690年

第二の星

湿った風が崖の上を吹き抜けた。川床には水が戻っていた。細く、濁って、それでも流れていた。

大地は乾いた後に固く締まり、足跡を残さなくなった。それでも獣は通った。草は戻った。背の低いものから、地面に張り付くように。根だけが生きていた場所に、葉が出た。

遠く、山の向こうでは別の集団が動いていた。岩の多い台地を離れ、川沿いに下りてきた。子どもが多かった。子どもの割合が増えると、集団は遅くなる。遅い集団は、先に着いた集団と同じ場所を欲しがる。

この星は見ていた。

どちらが先に来たかを記録しない。どちらが正しいかも問わない。ただ、川の水は分けられなかった。水は一本だった。

岩の上に置かれた骨がひとつあった。誰かが食べた後の骨だった。朝の光がそこに当たり、白く光った。その集団の者ではなかったかもしれない。別の集団のものだったかもしれない。骨は骨だった。

風が向きを変えた。草が揺れた。

与えるもの

糸が繋がった。

この者に。第127世代。繋がったばかりで、まだ細い。

腐臭の中に湿気が混じっていたことを、わたしは覚えている。覚えているが、それがこの者の役に立つかどうかは、まだわからない。役に立てるかどうか、とさえ言えないかもしれない。

水の匂いを、この者の鼻の前に落とした。川の方向から吹く風に、それを乗せた。

この者は振り向いた。

集団のざわめきの中で、振り向いた。それだけだった。

渡した。受け取ったかどうかは、別の問いだ。守ることはできない。それはわかっている。第1の星で、12の糸が——

問わない。今は問わない。

次に渡すべきものを考える。この者が排除される前に。その前に。何かを。

その者(24〜29歳)

川が戻ってきた。

その者は岸の近くにしゃがんで、水に手を浸した。冷たかった。指の間を流れた。干上がっていた間のことを、体が覚えていた。骨を舐めた夜を、体が覚えていた。だから冷たさが、いつもより長く残った。

石を拾い上げた。角が鋭かった。

割る石と割られる石の角度を、その者は手の感覚で知っていた。誰も教えなかった。ただ割り続けていた。失敗した欠片は川に落とした。川はそれを飲んだ。

集団のざわめきが大きくなったのは、昼を少し過ぎたころだった。

台地の方から別の者たちが来ていた。その者は立ち上がり、音の方を見た。子どもの声が混じっていた。子どもの泣き声は遠くまで届く。その者は石を持ったまま、動かなかった。

集団の中の年長の男が何か叫んだ。

その者には、その言葉の全部はわからなかった。でも体は意味を受け取った。退け、という意味だったと思う。立つな、という意味だったかもしれない。その者は半歩下がった。

水の匂いがした。

来た方向とは逆から、風が吹いた。川の、もっと上流の匂いだった。その者は一瞬、そちらを向いた。台地の者たちと年長の男の声が続く中、一瞬だけ。

翌朝、台地の者たちはいなかった。

夜の間に何があったか、その者は見ていなかった。暗闇の中で声があった。石がぶつかる音があった。朝、川岸に血の跡があった。その者は見た。しゃがんで、触れた。乾いていた。

その日から集団の中で、その者を見る目が変わった。

年長の男の目ではなかった。別の男の目だった。その者が石を割るのを見る目が、以前と違った。道具を作る者として一段上に見られていた、その一段が、ぐらつくような目だった。

その者は石を割り続けた。

わからなかった。何がぐらついているのかが。ただ手は動いた。割る。整える。渡す。それだけが続いた。

伝播:HERESY 人口:624
与えるものの観察:渡した。次を渡す前に、間に合うか。
───
第665話

紀元前296,685年

第二の星とその者(29〜34歳)

熱帯の森が縁に迫る大地の、乾いた季節が終わった。
川は戻り、土は固まり、獣も戻った。
だが何かが一緒に戻った。
水とともに、あるいは獣の毛並みとともに、あるいは風の湿気とともに。
見えないものだった。

その者は川べりで貝殻を割っていた。
刃のように薄く割れた破片を並べ、どれが使えるかを指でなぞった。
傷は毎日のことだった。
滲んだ血を草で拭い、また割る。

大地の東では、低い台地が続いていた。
そこに暮らす群れが、最初に倒れた。
倒れ方は獣の死に似ていた。
熱が出て、震え、腸が水になった。
三日で動かなくなった。
しかし獣と違うのは、隣の者も倒れることだった。
また隣も。
また隣も。

その者の群れに、同じものが届いた。
最初は老いた女だった。
夜、火のそばで震えていた。
朝、すでに起き上がれなかった。

その者は火の管理をしていた。
薪をくべた。
くべた。
女が水を求めた。
その者は川から運んだ。
女は飲まず、こぼした。
手の甲が火のように熱かった。

次の日、別の者が倒れた。

大地の上で、見えないものは風に乗った。
水に乗った。
触れた手から手に乗った。
区別しなかった。
老いた者も、若い者も、子も。
強い者が先に倒れる場合もあった。
弱い者が最後まで立っている場合もあった。
論理はなかった。

その者は倒れなかった。
なぜかを考える語を、持っていなかった。
ただ、周りが少なくなるのを見た。
毎朝、確かめた。
昨日まで呼吸していた者が、今朝は胸を動かしていなかった。
その者は岩を持ってきた。
頭のそばに置いた。
別の岩を持ってきた。
また置いた。
理由はわからなかった。
手が動いた。

大地は変わらなかった。
熱帯の雨は降った。
川は流れた。
獣は走った。
大地は、起きていることを気にしなかった。

群れは半分以下になった。
その者が知っていた顔のうち、多くが消えた。
子は特に早く消えた。
産まれた子が三日で消えた。
母が後を追った。
その者はそれを見た。
貝殻を割るのをやめなかった。
手が動き続けた。

ある夜、雨が降った。
大粒の、熱帯の雨だった。
その者は洞窟の奥に入った。
岩壁に背をつけ、膝を抱えた。
雨音が洞窟の口を叩いた。

壁の染みが光を受けた。
焚き火の残り火が、壁の一点を照らした。
その者の視線が、そこへ引き寄せられた。
染みではなかった。
炭だった。
誰かが以前、黒い線を引いた跡だった。

その者はそれを長く見た。
意味はわからなかった。
ただ見た。

手が壁に触れた。
炭の跡をなぞった。
指先が黒くなった。
その者は指を見た。
壁を見た。
また指を見た。

雨が止む前に、その者は寝た。

与えるもの

壁の一点に、残り火の光を落とした。

その者は指でなぞった。
黒くなった指を見た。

その指が、次に何かを引くかどうかは、まだわからない。
だが指は黒くなった。
それは確かだ。
次に渡すべきものが、また変わった気がする。

伝播:NOISE 人口:312
与えるものの観察:指は黒くなった。それは渡せた。
───
第666話

紀元前296,680年

第二の星

乾いた季節が終わって二十日が過ぎた。

川は満ちた。満ちすぎた。上流の山地で雨が積み重なり、土を押し流して水が茶色く変じた。その水が岸の草を覆い、草の根を腐らせ、小さな獣を溺れさせた。腐ったものが水に溶けた。水は止まらずに下ってきた。

集団の住む台地の縁まで水位が上がった。

最初に熱を出したのは川で水を汲む役の者たちだった。翌日にはその隣で寝ていた者が、その翌日には子が、その翌日には老いた者が。熱は額に手を当てれば分かった。震えは見れば分かった。だが原因は誰にも分からなかった。分かる言葉がなかった。

集団の者たちは熱の出た者を遠ざけることを知っていた。知っていたが、遠ざけた者の番をする者が必要だった。番をすれば移る。移ってもまた誰かが番をした。

七日目に最初の子が死んだ。

小さかった。二歳か三歳か。腹を下し、水を受け付けなくなり、薄くなっていった。母親が岩に子を置き、岩から離れなかった。子が動かなくなってから母親はずっとそこにいた。誰も声をかけなかった。かける言葉がなかった。

十日目に老いた者が一人。十四日目に若い男が一人。二十日目に出産の後の女が一人。

死ぬ者は静かだった。声が出なくなり、目が開いたまま遠くを見るようになり、やがて重くなった。重くなった体は集団の縁に運ばれ、置かれた。誰も戻らなかった。野の獣がいつかそれを片付けた。

旧人の集団が遠く、台地の西側に見えた。あちらでも火が少なくなっていた。煙の本数が減っていた。向こうも同じものに囲まれているのか、それとも別の理由で火が消えたのか、誰にも分からなかった。分かる距離ではなかった。

台地の岩の上に残った火を守る者が二人いた。ずっとそこにいた。熱が出ても離れなかった。火が消えれば、次に灯す方法をこの集団は持っていなかった。だから離れられなかった。火を守ることと死ぬことが、この二人の中で同じ重さになっていた。

雨がまた降り始めた。

川がまた増えた。

集団の半分近くが消えた。消えたというより、薄くなった。にぎやかだった場所が静かになった。子の声が減った。動く人影が減った。岩に置かれた持ち主のない道具が増えた。

西の旧人の煙は、しばらくして完全に消えた。

与えるもの

体温の匂いが変わった者と、変わっていない者の間に、風が流れた。

その者は風が変わった方向に顔を向けた。それだけだった。高台の方向だ。水が届かない場所だ。遠い。

渡せたかもしれない。だがこの者は顔を上げたまま、動かなかった。高台よりも、動けなくなった仲間の方が近かったのかもしれない。あるいは、遠さそのものが足を止めたのかもしれない。次に渡すべきものは、距離ではなく、先に行く理由だ。

その者(34〜39歳)

道具を作るための石が、持ち主のない場所に転がっていた。

その者は拾った。誰のものでもなくなっていた。拾って、手の中で確かめた。角がある。重さがある。

熱はまだ出ていない。

仲間が三人、岩陰で動かなくなっていた。その者はそちらを見なかった。石を持ったまま、台地の縁に立った。風が西から来た。遠くに煙はなかった。

伝播:DISTORTED 人口:330
与えるものの観察:顔は上げた。足は動かなかった。
───
第667話

紀元前296,675年

第二の星

乾いた風が高地から下りてくる季節だ。

北の台地では草が褐色に変わり始めている。地面がひび割れ、ひびの中に細い影が生まれる。獣の足跡が乾いた泥の中に固まったまま残っている。足跡の主はもういない。

南の森の縁では、別の群れが三日ほど前から動き始めていた。七人か八人か。男が前に立ち、女と子が後ろを歩く。皮を肩にかけ、骨の道具を腰に差している。彼らの呼び声は、この集落の声とは音が違う。同じ口から出るのに、異なる音の並びになる。どちらが正しいということはない。ただ違う。

川の下流では水が引いていた。前の季節に押し流されてきた枯れ枝が岸に積み重なり、その下で土が黒く湿っている。腐ったものの匂いが夜には強くなる。

この集落では、今日も煙が上がっていた。だが煙を上げた者の数は、半年前より少ない。

火の周りに座る者が減っても、火は変わらず燃える。火は数を数えない。

与えるもの

煙の匂いが変わった瞬間に、熱が落ちた。

焚き火ではなく、その者の体の中心から、何か温かいものが引いていく感覚。動けなくなる前の、あの静けさに似ている。

その者の手の甲の上に、一条の光が落ちた。

――もみ殻を練り込んだ泥を、岩に薄く塗り広げる。乾かせば剥がれる。だが剥がれる前に何かが残る。

受け取るかどうかは、わからない。以前も似たことがあった気がする。泥の底の湿気、干上がった後の静けさ。届いたかどうかを知らないまま渡した。それでも、また渡す。

届いたことが良かったのかどうかはまだわからない。だが渡さないことを選んだことは、一度もない。

その者(39〜44歳)

岩が割れた。

石の角を別の石に打ちつけると、音が骨に届く前に手のひらに来る。その感覚が好きだった。割れ方が良い時と悪い時がある。今日は悪い割れ方だった。欠片が飛んで、指の付け根を切った。

その者は指を舐めた。鉄の味。

もう一度同じ石を手に取った。違う角度で、少し力を抜いて打った。今度は薄い欠片が剥がれた。縁が鋭い。これで良い。

焚き火の煙が向きを変えた。

南の方角から風が来ていた。その者は顔を上げた。風の中に、知らない匂いがあった。皮の焦げた匂いでも、水の匂いでもない。人の体の匂いに似ているが、少し違う。

その者は立った。

集落の外れに、三人の若い男がいた。彼らがこちらを見ていた。その者は視線の質を知っている。狩りの前に獲物を測る目と、今の三人の目は、同じ形をしていた。

道具を作る者は、知りすぎると言われる。

何を知りすぎているのか、その者には言葉がない。しかし体が知っている。腹の底が、冷えた石のように重くなる感覚。

その者は割った石を手に持ったまま、動かなかった。

三人の一人が何かを言った。その者の集落の音ではなかった。二音節か三音節か、はっきりしない。残りの二人が頷いた。

その者の手の甲に、光が落ちた。

目を下に向けた。光が落ちたところ、岩の表面に、泥が薄く塗られていた。誰が塗ったわけでもない。雨の後に流れた泥が固まったものだ。だが光が当たると、泥の中に細い筋が見えた。獣の足か、木の枝が引いた線か。

その者は石を持ったまま、その筋を見た。

三人が近づいてくる音がした。

その者は石の縁を指で確かめた。鋭い。それだけは確かだ。それだけ確かめてから、顔を上げた。

三人は止まっていた。

石を持つ手が見えたのかもしれない。止まった理由は、その者にはわからない。ただ、止まった。

その者は動かなかった。風が止んだ。匂いが消えた。

しばらく、誰も動かなかった。

やがて三人の一人が先に向きを変えた。他の二人がそれに続いた。足音が遠ざかった。

その者は岩の筋をもう一度見た。それから体をかがめて、泥の表面を指先でなぞった。指がぬるかった。泥はまだ乾いていなかった。

線が消えた。

その者は立ち上がった。手の指に、泥がついていた。

伝播:HERESY 人口:325
与えるものの観察:線を消した。それでも指は動いた。
───
第668話

紀元前296,670年

第二の星

乾季が終わりかけている。

台地の南端では、薄い雲が朝ごとに集まるようになった。まだ雨は落ちない。しかし空気が違う。獣たちは水場に向かう道を変えた。草の根のにおいが地面から滲み始めている。

疫病が通り過ぎた後の集団は、欠けていた。多くいた者たちが減り、残った者たちは岩陰や木の下に分かれて眠っていた。子どもたちの声が以前より少ない。大人の中にも、動きの鈍い者がいる。まだ本調子ではない体で、それでも動いている。

台地の東では、別の集まりが動いていた。旧人たちだ。額が広く、顎が前に出た顔つきをしている。彼らは皮膚の色がこちらとは微妙に違う。言葉のやりとりはなかったが、同じ水場に近づいた。どちらも距離を取った。石を投げるでもなく、背を向けるでもなく、互いの動きを見ていた。

空の色が少し淡くなる頃、旧人たちは北の方向に去った。

水場に、両方の足跡が残った。深さが違う。歩き方が違う。しかし向きは同じだった。水の方向。

与えるもの

この者の右の手首のあたりに、温かさが集まった。

石を持っていた手だ。いつも持っている手。

その者は一瞬、動きを止めた。それから石を見た。次に遠くを見た。

渡したのは熱だ。皮膚の下に入る種類の熱ではなく、表面に留まる種類の。その者の体が覚えているはずの感覚、火の近くにいた時の感触に似た何か。

その者は石を握り直した。

渡したのは熱ではなかったかもしれない。渡したのは注意だったかもしれない。その者が今日握っている石に向ける、少しだけ長い時間。次に渡すべきものがあるとしたら、この手はもっと遠くまで届くだろうか。届かなかったとしても、渡すことをやめる理由はない。

その者(44〜49歳)

石が手に馴染んでいる。

端を打ち欠いた部分が、指の腹に当たる。当たり方でわかる。刃が今日のものか、昨日のものか。昨日のものは少し鈍い。

この者は岩の前にしゃがんでいた。もう一つの石を打ち台として使う。角度を見る。打つ。欠けた破片が膝に落ちる。小さいものは飛んで砂の中に消える。

集落の端では、女が一人、子を背中にくくりつけたまま何かを掘っていた。根だ。細い根が岩の近くに伸びている。子は眠っている。眠っているのか、動いていないだけか、この者には見えない距離だった。

石を打つ音が続いた。

疫病の間、この者は倒れなかった。倒れかけた日が三日あった。腹の底から力が抜ける感覚が続いた。それでも石を持った。持っていれば何かをしている気になれた。

終わりかけた乾季のにおいがした。乾いた草と、少し湿った土が混じったにおい。

この者は手を止めた。

においが変わっていた。昨日と違う。どこかから水のにおいがする。

立ち上がった。石は握ったままだ。どこから風が来ているかを探した。首を少し動かした。東でも西でもない。南の低いところから空気が動いている。

その者は少し、南を見た。

何もなかった。草が揺れていた。

それでもしばらく、南を見ていた。

伝播:NOISE 人口:338
与えるものの観察:熱は届いた。見ていた方向が変わった。
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第669話

紀元前296,665年

その者(49〜54歳)

台地の南端で、その者は日が沈む方向を向いたまま座っていた。

膝の上に石があった。叩くつもりだった。指が石に触れたが、動かなかった。

体が軽い、という感覚ではなかった。体がどこにあるか、わからなくなった。それに近かった。

五十年近く、手が動き続けた。岩から剥がし、縁を研ぎ、渡す。受け取った者が使う。それだけだった。自分が何をしているのか、言葉にしたことはなかった。言葉がなかった。

集団の若い者たちが数歩先で動いていた。争うようになっていた。以前は声で収まったことが、今は体がぶつかるまで終わらない。その者はそれを見ていた。止めなかった。止め方を知らなかった。

夕暮れの空気が腹の奥に入ってこなくなったのは、三日前からだった。

浅くしか吸えない。深くしようとすると、胸の中央で何かが突っかかる。それでも手は動いた。石を持った。持てた。

二日前に、手が落ちた。

石が転がる音がした。拾えなかった。

最後の朝、風が乾いた草の香りを運んできた。

その者は仰向けに横たわっていた。空を見ていた。雲が動いていた。薄く、横に長い雲だった。

どこかから煙の匂いがした。集団の誰かが火を起こしている。

その者の指が、地面の上を動いた。石がなかった。草があった。指が草に触れ、止まった。

息が、一度、深く入ってきた。

それきり、次が来なかった。

草の上に指が、開いたまま残った。

第二の星

台地の北では、二つの集団が同じ水場の縁に立っていた。声を上げ、石を持ち、下がり、また近づいた。誰も倒れなかった。しかし翌朝、一方の集団は水場を離れ、別の方向へ歩き始めた。風は南から吹いていた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:SILENCE 人口:348
与えるものの観察:何人目だ。数えることに、意味があるのか。
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第670話

紀元前296,660年

第二の星

雨季が長く続いた。

大地の南に連なる丘が緑に覆われ、草の根が土を締めた。水が流れ込んで窪地に溜まり、その縁に獣の足跡が重なり合った。

集団は移動しなかった。移動する必要がなかった。

子が生まれた。また生まれた。乳が出た。乾かなかった。焚き火の周りに座る数が増え、場所を譲り合うようになった。声が多くなった。特定の音の連なりが何度も繰り返され、繰り返されるうちに別の者の口にも移った。それが何を意味するのか、誰も問わなかった。ただ使われた。

遠く、大地の北の縁では、背の低い別の者たちが洞窟の入り口に火を焚いていた。骨の多い手で岩を叩き、折れた先端を指で確かめていた。彼らは彼らの声を持ち、彼らの火を持っていた。夜になると互いの火の光が遠くで揺れた。近づかなかった。近づかない理由もなかった。ただ近づかなかった。

豊穣は続いた。しかし腹が膨れた者が増えれば、余った者が出た。余った者は押しやられ、押しやられた者は端へ寄った。端で知り過ぎた者が、集団の外へ出て戻らなかった。

第二の星は照らしただけだった。

与えるもの

糸が繋がった。

水たまりの表面が揺れた。風ではなかった。虫でもなかった。ただ揺れた。光が反射して、泥の縁の柔らかい部分を照らした。

その者は水たまりを見た。しゃがんで、指を伸ばしかけた。

渡せたかどうかはわからない。ただ、指が止まった。水面に映った何かを、この者が一秒だけ見つめた。その一秒を次に持ち込めるかどうか。それがこの者のものだ。次に渡すなら熱だ。体の外ではなく、内側で感じる種類の熱を。

その者(2〜7歳)

抱かれていた頃のことは体が覚えていない。

立って歩けるようになった頃、足の裏が石を踏んだ感触だけがある。冷たかった。朝だった。誰かが近くで音を立てていた。

草を口に入れた。苦かった。吐き出した。

同じ草を、別の者が口に入れて飲み込んだ。それを見た。

水たまりの前でしゃがんだ。水面に何かが映った。空だった。それから自分の顔だった。どちらかはわからなかった。指を伸ばした。

止まった。

なぜ止まったのかはわからなかった。ただ膝を土につけたまま、しばらくそこにいた。

集団の端の方で声がした。高い声と低い声が混ざり合い、それから片方が聞こえなくなった。

その者は立ち上がった。声がした方を向いた。

何も見えなかった。草が揺れていた。

歩いた。草の中に入った。倒れている者がいた。動いていなかった。知っている顔だったが、名前に当たる音を持っていなかった。

しゃがんだ。肩に触れた。

動かなかった。

立った。草が揺れた。風だった。その者は集団の方へ戻った。

戻ったが、誰も何も聞かなかった。その者も何も言わなかった。言う音を持っていなかった。

焚き火が燃えていた。その者はその近くに座った。火が体に当たった。顔が熱くなった。手が熱くなった。

その者は手のひらを見た。

見続けた。

伝播:HERESY 人口:429
与えるものの観察:指が止まった。それで十分かもしれない。
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第671話

紀元前296,655年

第二の星

乾いた季節が来た。

緑は褪せた。草の根が土を締めていたが、水が引くと地面はひびわれ、窪地の底に白い塩の縁が残った。獣の足跡は消えなかった。踏み固められた土の中に刻まれたまま、風が運ぶ砂に少しずつ埋まっていった。

集団は増えていた。

雨季の豊穣が続いた間に生まれた子たちが、死なずに育っていた。火の番をする者、水を汲む者、獣の皮を引っ張って乾かす者。人の数が増えると、それぞれの仕事が増えた。声も増えた。夜に火を囲む輪が大きくなり、外縁に押し出された者が暗がりに座った。

暗がりに座る者が増えると、摩擦が生まれる。

南の丘の斜面に、集団から離れた小さな群れがいた。七人か八人。旧人の血が濃い体つきをした者たちで、眉の稜線が厚く、肩が広かった。彼らは同じ窪地の水を飲んでいた。同じ草地の根を掘っていた。しかし火は別に持っていた。

ある晩、火が二つ見えた夜があった。

丘の上に一つ、窪地の縁に一つ。炎の大きさは違った。丘の火は小さく、風が来るたびに揺れた。集団の火は安定していた。乾いた燃料を積み上げる技術が、少し違った。

子どもたちはその二つの火を見ていた。

誰も何も言わなかった。言葉が足りなかった。しかし誰かが丘を指さし、誰かが声を出し、大人の一人が立ち上がって、また座った。それだけだった。

その後、三日が経った。

旧人の群れは移動した。足跡が残った。南へ、さらに丘を越える方向へ続いていた。なぜ移動したのか、集団の誰も知らなかった。夜の火が一つになった。子どもたちはまた火を見た。今度は一つだけを。

水が減っていた。

窪地の水面は以前より低かった。底の白い縁が広がっていた。集団の中の老いた女が、毎朝水際に座り、水面の位置を見た。何も言わなかった。ただ見た。翌朝また来て、また見た。

集団の中で、誰かが別の方向へ歩いた。北の低地に向かう緩い傾斜。そこに水があるかどうか、誰も確かめていなかった。その者は戻ってきた。両手を腰に当て、息をしながら、北の方向を向いていた。

集団は揺れていた。動くか、留まるか。言葉はなかった。身体の向きで、互いの意図を読んだ。

空は高く、乾いていた。鳥が一羽、北の方向へ飛んだ。

与えるもの

水面の白い縁に、光が強く落ちた。縁の広がり方が見えた。

その者は水際に座った老いた女の隣に近づき、同じ方向を見た。それだけで、戻った。

縁は昨日より広かった。その者は知らない。与えるものは知っている。知っていることと、渡せることは別だ。次に何を見せればいいか。

その者(7〜12歳)

水が光った。

その者は走っていた。草の切り株の間を、裸足で。老いた女の隣に一瞬だけ立って、また走った。

火の方へ戻った。火の近くに座った。腹が空いていた。

伝播:DISTORTED 人口:442
与えるものの観察:縁が広がる。次に見せるべきものを探している。
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第672話

紀元前296,650年

第二の星とその者(12〜17歳)

台地の縁を、風が常に渡っていた。

石灰岩の崖が西に落ち、その下に湿地が広がっていた。雨季のはじめに水面が戻り、葦の茎が折れたまま水に浸かっていた。水鳥が群れで舞い降り、また飛び去った。集団は台地の上にいた。増えていた。火は三か所で燃やされるようになっていた。

その者は十二歳だった。腕が細く、足の裏だけが硬かった。

火の周りで大人たちが声を上げていた。誰かが何かを持って戻ったとき、声が変わった。低くなるか、高くなるか。その者はどちらかで意味を判断していた。どちらでもないとき、体が固まった。

台地の北側に、別の集団が来た。

痩せた者たちだった。骨の出た肩、目だけが濡れていた。その者は遠くから見た。大人の一人が石を持って立ち上がり、別の大人がその腕を掴んで引き戻した。声が低くなった。痩せた者たちは端に置かれた。火から離れた場所に。夜、その者はそちらを見ていた。彼らの吐く息が白く昇るのを。

十三歳の冬に、子が一人死んだ。

抱かれたまま動かなくなった。母親の腕の中で体が冷え、それでも離されなかった。ひと晩が過ぎた。翌朝、その者は近くに座っていた。石を持っていた。置いた。また拾った。

台地に豊穣が続いていた。果実が早く熟れた。獣の群れが台地の南側を渡るようになり、若い男たちが槍を持って走る回数が増えた。集団の中に余剰が生まれた。余剰のある場所では、誰が多く持つかという問いが生まれた。

その者は十四歳になっていた。

北から来た痩せた者たちのなかに、自分と同じ年頃の者がいた。その者より頭一つ小さかった。目が大きく、よく動いた。ある日、その者が食べ残した根を地面に置いた。相手は止まった。動かなかった。それから拾った。食べた。声は出なかった。どちらからも。

翌年、北の者たちへの扱いが変わった。

食べ物が減らされた。火から遠ざけられた。その者は見ていた。見るだけだった。体が何かを訴えていたが、言葉にならなかった。腹の内側が重くなる感覚だった。それが何であるかを、その者は知らなかった。

十六歳の終わりに、その者は何かを知った。

知ったとは言えない。気づいた、とも違う。ただ、自分が見ていることを、見ていた。北の者たちが台地から追われる夜、その者は崖の縁に立っていた。風が顔を打った。下の湿地で水鳥が一羽、暗がりに消えた。その者は声を上げなかった。出なかった。

それが知りすぎるということだったかもしれない。

その者の目が見ていた。手が覚えていた。どの者がどの者から奪ったか。誰が黙っていたか。誰が黙らせたか。集団のなかで、記憶を持つ者は危うい。言葉がなくても、伝わる。目が語る。

十七歳のある夜、その者は火の近くにいなかった。

誰かが声を上げた。低い声。指示する声。複数の足音が台地の草を踏んだ。その者は走った。走ったまま崖の縁に来た。暗く、下は見えなかった。足が滑った。

台地の下の湿地に、夜明け前の風が吹いていた。葦が揺れ、また止まった。水面に波紋が広がった。消えた。水鳥が一羽、暗がりの中で声を立てた。すぐに静かになった。

与えるもの

崖の縁で風が変わった。温度が下がった。あの者の足が止まった一瞬に、それを渡した。

あの者は止まった。それから、走った。

渡したものが足を止めたのか。走り出したのは何か別のものか。届いたのに、届かなかった。届かなかったのに、何かに触れた。

次に渡すべきものが、まだわからない。しかし渡す。誰かが、いる。

伝播:HERESY 人口:434
与えるものの観察:渡した。届いたかどうかは、もう問えない。