2033年、人類の旅

「紀元前296,645年〜紀元前296,525年」第673話〜第696話

Day 29 — 2026/05/01

読了時間 約59分

第673話

紀元前296,645年

その者

雄が二人、石を持って向かい合っていた。

その者は離れたところに座り、膝に幼子を乗せていた。幼子は乳を求めて口を開け、また閉じた。その者は胸を押しつけた。幼子が吸いはじめた。

向かい合う二人の声が高くなった。

その者は顔を上げなかった。幼子の頭の重さが両腕にあった。頭はやわらかく、温かく、脈を打っていた。

岩の砕ける音がした。

集団の中の何人かが立ち上がった。老いた雄が間に入ろうとして、腕を掴まれ、押しのけられた。子を背負った雌が後ろへ下がった。

その者は動かなかった。

幼子が口を離した。顔をのけぞらせ、声を出した。その者は抱きなおし、背中を叩いた。一度、二度。幼子が落ち着いた。

争っている二人の間に、別の雄が飛び込んだ。三つの体が絡まった。地面に転がった。誰かが叫んだ。

その者は幼子を膝から外し、背中に括りつけた。立ち上がった。

台地の縁に向かった。

崖の下の湿地は遠く、光の中で平らだった。水面が白く光り、鳥の姿はなかった。風が上がってきた。台地の草が一斉に同じ方向へ傾いた。

その者は風の中に立っていた。

背中の幼子が動いた。小さな手が肩を掴んだ。その者は手をそこに重ねた。

後ろで、声が静かになった。

どちらかが倒れたのかもしれなかった。その者は振り返らなかった。

第二の星

台地の上に四百を超える体がいた。

北の斜面に水が湧き、南の草原に獣が戻っていた。子が生まれ、また生まれた。集団は膨らみ続けていた。

豊かさは静かに危うさを育てる。

食物の場所をめぐって声が荒くなった。眠る場所をめぐって体が押しあった。古い集団の中から新しい結びつきが生まれ、それが別の集団を疎外した。言葉はまだ細く、怒りを説明するには足りなかった。だから体が動いた。石が飛んだ。

旧人が台地の西の端にいた。

こちらの集団より小さく、動きが違った。互いを避けていたが、水場では近づいた。視線が合い、それきりのこともあった。何かが渡されそうになって、渡されなかった。

台地の縁では、一人の雌が幼子を背負って風の中に立っていた。

後ろで誰かが倒れた。誰かが泣いた。集団の声は低くなり、やがて散った。夕暮れが来て、体ごとに火の近くに集まった。

争った二人のうち、一方が台地に残り、一方は戻らなかった。

与えるもの

崖の縁に、風の匂いが変わる場所がある。

そこに温度を落とした。足の裏の石が、少しだけ冷たくなるように。

その者は踏みとどまった。崖を見下ろさなかった。

また生まれた問いがある。この者は踏みとどまるために止まったのか。それとも、ただ幼子が動いたから止まったのか。渡したものが届いたかどうか、私には見えない。

次に渡すべきものがある。背負うことと、置くことの違い。しかしまだ言葉がない。言葉がないなら、重さで渡す。

伝播:DISTORTED 人口:445
与えるものの観察:幼子の重さが、この者を崖の縁に留めた
───
第674話

紀元前296,640年

その者(22〜27歳)

石がぶつかる音を、その者は背中で聞いた。

向き直らなかった。幼子が乳房を離れ、また求めた。その者は幼子の頭を手で押さえ、胸の位置を調整した。幼子の口がまた塞がった。

音は続いていた。

男たちの声ではなかった。石と石の音だった。それから、肉を打つような音に変わった。

その者は立たなかった。

幼子が眠りはじめた。重くなった頭を肘で支えながら、その者は前を見た。乾いた地面に、小さな影が幾つかあった。子どもたちが座って何かを触っていた。石だった。互いの石をぶつけて、欠片を見ていた。

背後でまた音がした。

長い沈黙が来た。

その者は振り返った。

地面に一人が倒れていた。もう一人が、その上に乗っていた。膝で胸を押さえていた。下の者は動かなかった。

子どもたちは気づかなかった。まだ石をぶつけていた。欠片が弾けるたびに、小さな声が上がった。

幼子が眠っていた。

その者は幼子を地面に降ろした。ゆっくりと、頭が落ちないよう両手を使った。幼子は目を開けなかった。

その者は立ち上がった。

倒れた者のそばへ行かなかった。上に乗った者のそばへも行かなかった。その者はその場に立って、ただ見ていた。上の者が立ち上がり、石を地面に投げた。音がした。それから走って遠ざかった。

地面の者は動かなかった。

その者は膝を折って、倒れた者の顔をのぞいた。目が開いていた。しかし何も見ていなかった。口が少し開いていた。胸は動いていなかった。

風が来た。

草の匂いがした。遠く、水場の方向から。

その者は立ち上がり、幼子のところへ戻った。幼子はまだ眠っていた。その者は幼子の隣に座り、膝に手を置いた。子どもたちはまだ石をぶつけていた。

地面の者は、そこにあった。

第二の星

この5年、雨は穏やかに降り、草は根を深く張った。獣の群れは増え、水場は枯れなかった。集団は大きくなった。子どもが増えた。食べ物は足りた。

しかし人が増えれば、そこに近づく別の者も出た。水場をめぐって声が上がり、獲物の分け前に石が使われた。豊穣は余裕を生み、余裕は欲を育て、欲は摩擦を産んだ。

北の乾いた台地では旧人が細い川沿いに動いていた。東の密林の縁では集団の一部が分かれ、別の野営地を作った。どこも同じだった。増えることが、きしみを呼んだ。

この星はそれを長く照らしてきた。増えるものは必ずきしむ。きしんだものは、ある者を外へ押し出す。外へ出た者は、別のものになるか、消えるか。

今夜の野営地では火が三つ離れて燃えていた。以前は一つだった。人は増えたが、火は分かれた。地面に倒れた者は、朝になっても回収されなかった。誰が運ぶかを誰も決めなかった。

その者は幼子を抱いて、一番端の火の近くにいた。

与えるもの

水場の方から風を送った。

草の匂いをのせて。

その者は立った。向かわなかった。幼子のところへ戻った。

渡せたのか、渡せなかったのか——そうではなく。その者は、倒れた者を見た。見て、戻った。見ることと、動くことの間に、何かが一瞬あった。

次は何を渡すべきか。逃げる方向か。それとも、見ることに耐える方法があるとすれば、それを渡せるか。

まだ、わからない。だが渡す。

伝播:HERESY 人口:433
与えるものの観察:見て、戻った。その一瞬に何かがあった。
───
第675話

紀元前296,635年

第二の星

乾いた季節が終わる前に、雨が来た。

予兆があった。草の先端が重くなるあの匂い。土の中で何かが動く音。地平の端から積み上がる雲の形。集団の中の年老いた者が空を見て、膝を曲げた。その動作を若い者が真似た。なぜそうするのかは知らない。しかし膝を曲げた。

雨は二日続いた。

川が膨らんだ。魚が浅瀬に押し出された。子どもたちが水際で走り回り、手で魚を掴もうとして、掴めなくて、また走った。その笑い声が川面を渡った。

豊かさが長く続いている。

集団の数は増えた。増えたことで、場所が問題になった。誰がどこで眠るか。誰がどの食べ物に先に触れるか。そういった摩擦が、以前より小さくなく、以前より大きくなっている。

東の斜面に集まる者たちと、川寄りに集まる者たちの間に、見えない境界が生まれていた。越えることはある。しかし越えるときに、体に何かが走る。その感覚を持たなかった者が、今は持っている。

境界を初めて越えた幼い者が、川寄りの集団の大きな男に突き飛ばされた。幼い者は泥に転んだ。泣いた。東の斜面から三人が駆けてきた。川寄りの男は動かなかった。ただ立っていた。三人も止まった。

しばらく、誰も動かなかった。

幼い者だけが泣き続けていた。

やがて東の斜面の一人が幼い者を抱き上げ、戻った。残りの二人も戻った。川寄りの男は石を一つ拾って、捨てた。それだけだった。

血は流れなかった。今回は。

しかし集団の形が変わりつつある。一つの集まりだったものが、二つの塊になろうとしている。その力は外から来ていない。内側で生まれている。豊かさが膨らませた内側から。

旧人の一群が、南の林縁でこの集団の様子を見ていた。

三人。立ったまま。遠すぎて表情はわからない。やがて林の中に消えた。

雨が上がり、空の西側が橙色になった。川が光を反射した。魚の群れが水面近くを動き、銀色の形が一瞬見えて、消えた。

東の斜面では火が焚かれていた。川寄りでも火が焚かれていた。二つの火が同じ夜に燃えていた。

与えるもの

川寄りの男が石を拾った瞬間、その手の下の石が、他よりわずかに冷たかった。

男は石を捨てた。

渡そうとしたのは重さではなく、止まる感覚だった。止まったことで何かが起きなかった。起きなかったことは見えない。見えないものを渡せたのか。この問いを持ちながら、二つの火のどちらかがいつか消えるとき、そこに何を落とせるかを考えている。

その者(27〜32歳)

東の斜面の火の端に、その者はいた。

幼子を腿の上に乗せ、火を見ていた。幼子は眠りかけていた。川の方向から声が聞こえた。その者は顔を上げなかった。

幼子の息が、腿の上で深くなった。

伝播:DISTORTED 人口:444
与えるものの観察:止まったことは見えない。しかし確かに起きた。
───
第676話

紀元前296,630年

第二の星

雨季が終わった。

高原の草は腰の高さを越え、川は両岸まで満ちている。水鳥が群れで飛び、その影が水面を滑る。豊かな季節だ。食べるものがある。眠れる場所がある。集団の輪郭が膨らんでいる。

しかし膨らんだものは、ぶつかる。

北斜面に寝る者たちと、川寄りに寝る者たちの間に、見えない線がある。食料の蓄えを巡って声が上がり、幼子を抱えた女が二人の男の間に入り、押されて倒れた。

遠く、大陸の別の場所では、旧い型の者たちが岩陰に潜んでいる。背が低く、眉骨が張り出している。彼らも雨を感じ、草を食べ、群れで眠る。言葉はない。しかし手を使う。火を使う。子を守る。

どちらが先に来たかは、この星には関係がない。

どちらも照らす。どちらも同じ温度で。

集団の中で、ある者が排除されようとしている。群れが膨らみすぎたとき、余分とみなされる者が生まれる。それは昔も今も変わらない。この星は傾かない。ただ光を降らせる。川の向こうにも。北斜面にも。追われる者の背中にも。

与えるもの

水の匂いが変わった。

川上で何かが死んでいる。与えるものはその匂いを、この者の立っている方へと流した。風ではなく、草の間を伝う湿気の動きとして。

この者は鼻を動かした。

川の方を向いた。向いただけで、動かなかった。

——渡れるかどうかではなく、向こうに何があるかを知ることだったのかもしれない。しかしこの者は動かなかった。次に渡すべきは、向きを変えることではなく、一歩を踏み出す何かかもしれない。足の裏が地面を感じる、あの感覚。

その者(32〜37歳)

川の方から叫び声が聞こえた。

その者は火の前に座っていた。乾いた枝を折りながら、指の間に刺さった木の欠片を舌で舐めた。声を聞いた。体が固まった。折りかけの枝を持ったまま、立ちあがった。

男が二人、争っていた。

川寄りの男が北斜面の男の腕を掴み、押した。北斜面の男が砂の上に倒れた。立ちあがり、石を拾った。川寄りの男が後退した。女が間に割って入り、声を上げた。高い声だった。

その者は見ていた。

争いが終わったのは、川寄りの男が歩いて行ったからだ。どこへとも言わず、ただ歩いた。北斜面の男は石を持ったまま立っていた。しばらくして、石を放った。草の中に消えた。

夜になった。

その者は火の近くに戻らなかった。集団から少し離れた岩の陰に座った。膝を抱えた。暗い方を向いた。

誰かが近づいてきた。

足音で分かった。北斜面の男だった。男はその者の横に来て、何も言わずに座った。長い間、二人とも黙っていた。

男が立ち上がった。

その者の手首を掴んだ。引いた。

その者は立ちあがらなかった。引かれたまま、座っていた。男は引くのをやめた。足音が遠ざかった。

その者は一人になった。

鼻の奥に何かの匂いがあった。水に混じった腐れた匂い。川の方から来ていた。その者は川の方を向いた。暗くて何も見えなかった。向いたまま、動かなかった。

夜が深くなり、虫の声が変わった。

その者は岩に背中を預けて目を閉じた。眠れなかった。岩の表面が冷たかった。ただそれだけが、はっきりしていた。

伝播:HERESY 人口:435
与えるものの観察:向いたが動かなかった。次は足だ。
───
第677話

紀元前296,625年

その者(37〜42歳)

草の海の縁に、その者は立っていた。

足裏に土の熱が残っている。日が傾いているのに、地面はまだ昼の熱を手放さない。腰まである草の穂先が、風に押されて波を作る。遠くで子どもたちが走り回る声がする。その者はそれを聞いていない。

膝が、痛かった。

昨年の秋から続いていた。右の膝の内側、歩くたびに熱を持つあの感覚。集団の年長の女が何かの葉を噛んで貼ってくれた。しばらくましになった。また悪くなった。その繰り返しだった。

その者は膝の話を誰にもしなかった。言う言葉を持っていなかった。痛みを示す音は知っていた。しかしその音を出すことは、何かを手放すことに思えた。何かとは何かを、その者は知らない。

集団が動いた。川の東へ。

その者も歩いた。草を分けて、足を引きずるほどではないが、速くはなかった。幼い者たちが抜かしていく。若い男が何か叫びながら走る。その者は黙って歩いた。

川に着いた。

水が速かった。上流でまとまった雨が降ったのだろう。岸の土が崩れかけている場所があった。誰かが渡ろうとして引き返した跡がある。足跡が泥に深く残っていた。

その者は岸の端に立った。

水面に光が散っている。水底の石が、きらきらしている。その者は目を細めて、それを見ていた。

風が川上から吹いた。湿った風だった。草の匂いと、泥の匂いと、もっと遠くの何かの匂いが混じっていた。

その者の鼻の奥で、何かが引っかかった。

川上の空が、暗かった。

雲ではない。光の質が変わっていた。山の向こうの色が、さっきと違う。その者はそれを見ていた。集団の誰も気づいていなかった。子どもたちが水際で遊んでいる。若い男たちが対岸を指さして何か話している。

音が来た。

最初は低く、腹の底で感じる音だった。次に土が揺れた。足の裏から来た。その者は振り向いた。

川上から、白いものが来ていた。

その者が声を上げるより先に、水が来た。

集団が散った。草の中へ、斜面へ。叫び声があちこちから出た。子どもの声と大人の声が混じった。水が岸を超えた。その者は走れなかった。

膝が折れた。土の上に手をついた。水がその手を浚った。

草原は濁流に沈んだ。

その者は水の中で、一度だけ岸を見た。誰かがこちらを向いていた。誰かの顔。名前のない顔。その者は何も言わなかった。

水が全部を覆った。

第二の星

高原の東端では、旧人の三人が岩陰で眠っていた。洪水の音は届いていない。草原の北では、産まれたばかりの子が泣いている。泣き声は草に吸われて遠くへは届かない。川の上流、崩れた岸から赤土が流れ続けている。水はまだ速い。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:SILENCE 人口:448
与えるものの観察:渡した匂いに、この者は気づいた。間に合わなかった。
───
第678話

紀元前296,620年

その者

皮が乾きはじめると、端が丸まろうとする。

その者は両膝でそれを押さえ、両手の平で外へ外へと引いた。獣の脂が掌に残る。また引く。また残る。指の間に染みた油が夕風で冷えていく。

火はまだ生きている。背後で、小さく、確かに。

集団の年長者が戻ってきたのは日が落ちる直前だった。手に何も持っていなかった。空手は、遠いところで獲物がなかったという意味か、あるいは別の何かという意味か、その者には判らなかった。男の目が語っているものを読む語彙を、その者はまだ持っていない。

夜になった。

火の番はその者だった。薪を足す。小さく崩れた炎を戻す。炎が赤くなると湿気が多い。黄になれば乾いている。その区別は身体が知っていた。言葉はいらなかった。

集団の半分が眠りにつく。その者は火の傍らに座ったまま、皮をまだ引いていた。膝が痛い。腰の下の地面が硬い。それでも手は続ける。引く、押さえる、引く。

夜の途中に、音がした。

草むらの奥のほうから、低く、長く。

その者の手が止まった。

獣の声ではない。風でもない。もっと奥から来る音で、音というより振動に近かった。腹の底が少し揺れた。

誰も起きなかった。

その者は火に小枝を一本足した。炎が少し伸びた。その光の端が、草むらの境界を照らした。何もいなかった。しかし音は続いていた。いや、もう止んでいたかもしれない。身体がまだ覚えていたのかもしれない。

手が再び皮に戻った。引く、押さえる、引く。

夜明けまで、その者は眠らなかった。

翌朝、集団の中で争いが起きた。

何が原因かその者には判らなかった。声が上がり、誰かが誰かを押した。年長の女が間に入った。声が続き、また沈んだ。そういう朝だった。

その者は火の外縁で炭になりかけた薪を引き寄せながら、争いの方向に背を向けていた。関係のないことではなかった。しかし入っていく言葉を持っていなかった。

豊穣が続いていた。食べるものはあった。だからこそ、余った力が別の方へ向かう。

皮を引く。引く。

火を守る。

それだけが、今のその者にできることだった。

第二の星

この5年間、大地は惜しまなかった。

雨は季節に従い、草は丈高く育ち、川は濁らずに流れた。獣の群れが移動するとき、人々はそれを追った。追えた。腹が減ることは減った。幼い者が死ぬ数も、少し減った。

人口が増えた。448という数が、土の上に静かに広がっている。

しかし豊穣には別の面がある。余るものがあると、誰のものかが問題になる。水場の近くに居続けようとする者と、そこを共有してきた者の間に、声が増えた。身振りが荒くなった。年長者の調停が夜に続くようになった。

集団と集団の間だけではない。同じ集団の内部でも、亀裂は走る。

草の海はまだ青く、川はまだ澄んでいる。日は長く、夜は短い。誰もまだ飢えていない。

それでも夜の火の傍らに、一人で皮を引き続ける者がいる。言葉を持たない者が、争いに背を向けながら、朝まで眠らずにいる。

大地は何も決めない。照らすだけだ。

与えるもの

夜中に音がした。腹の底を揺らす、あの低い音。

光を落とした場所ではなかった。風を送った方向でもなかった。草むらの奥から、何かが来た。それは自分が送ったものではない。

その者の手が止まった。それだけで充分だった、と思う。

眠らなかった。火を守った。皮を引いた。

争いに入っていく言葉を持たないその者が、次に必要なのは言葉ではないかもしれない。あるいは言葉の前にあるもの。声にならない声、形にならない形。

次に渡せるものが、自分にあるか。

伝播:SILENCE 人口:463
与えるものの観察:眠らなかった。火は朝まで続いた。
───
第679話

紀元前296,615年

第二の星

高地の縁で風が変わった。

北から乾いた空気が押してくる。草は倒れ、また起き上がり、また倒れる。川沿いの低地では水が引き始め、砂地に魚の骨が白く残されていく。

始まりの大地の西の端、大きな岩の群れに沿って、旧人の一群が移動していた。十数体。背の低い者と背の高い者が混じっている。子を抱えた者がいる。荷を持たない者がいる。彼らは声を出さずに歩く。

東の低地では、この者の集団が火を囲んでいた。

二つの群れが同じ星の上にいる。どちらも知らない。どちらも気にしない。それぞれの空腹がある。それぞれの夜がある。

さらに遠く、川の上流。洪水が引いた跡の泥に、小さな足跡が残っていた。子供の足跡だ。続いていない。途中で消えている。雨は降っていない。泥は乾いている。

足跡の先に、何もない。

星はそれを照らす。ただ照らす。足跡が何を意味するかを、この星は問わない。光は足跡にも、旧人の背にも、川べりの魚の骨にも、等しく落ちる。

夜が来る。

火が一つ消える。別の火が一つ、点る。

与えるもの

二枚の皮が重なっていた。

その隙間から、煙の匂いが違う方向へ流れた。風下ではなく、風上へ。

その者の鼻が少し動いた。

無視した。

重なった皮の端を引いた。

煙はまた同じ方向へ消えていった。

——渡せたかもしれなかった。煙が方角を告げていた。集団が知らない場所に、火がある。旧人の火か、別の群れの火か。それを問うより前に、皮の端が折れ曲がって、その者の注意を奪った。

渡せなかったのか。それとも今は皮の方が必要だったのか。

私には区別がつかない。

次は何を渡すべきか。それだけを考える。

その者(20〜25歳)

皮の端が割れた。

乾燥が速すぎた。縁から亀裂が走り、親指の幅ほどが欠けて地面に落ちた。

その者はそれを拾った。爪の先で割れ目の端を確かめた。皮の中まで裂けていなかった。

火のそばに引き戻した。熱の近くへ。だが近づけすぎると焦げる。距離を変えながら、指で端を押さえた。脂を足した。手の脂だ。掌を皮の裏に押しつけ、じわりとなじませた。

しばらく、それだけをした。

夕暮れが来た。集団の中で声が上がる。男たちが何かを持って戻ってきた。獣の脚か、大きな腸か、形がよくわからない。子供が二人、走り寄った。一人は転んだ。泣かなかった。起きて走った。

その者は火の前に座ったまま、皮を持っていた。

目だけ男たちの方を見た。

戻ってきた中に、腕に傷のある男がいる。昨日なかった傷だ。深くはない。しかし赤い。その者はそれを見た。三秒か、四秒か。それから目を戻した。皮へ。

夜が来ると、皮を岩の下に挟んで固定した。朝まで形を保たせるために。

足でその岩を踏んだ。動かないことを確かめた。

それから火の番をした。

目を開けたまま、炎を見ていた。炎は揺れる。風が来るたびに揺れる。その者は揺れに合わせて、体をわずかにずらした。煙が目に入らないように。

ずっとそうしていた。

伝播:NOISE 人口:478
与えるものの観察:煙が告げた方角を、皮が奪った。
───
第680話

紀元前296,610年

第二の星とその者(25〜30歳)

乾期が来た。

草原の西端、岩の群れを超えたところで風向きが変わった。北風ではない。南から、ぬるく重たい空気が上がってくる。雨を含んでいる。大地は水を受け取る前に、まず渇いた。草の根が縮み、土の表面だけが固くなる。その下には、まだ湿りが残っている。

その者は獣皮を引いていた。

乾いた大地の端で、前日の獣の皮を岩に押し当て、繰り返し引く。両手が赤くなる。皮はまだ厚い。臭いはきつい。それでも続ける。手が止まるのは、飽きたときではない。皮が少し柔らかくなったとき、一度だけ止まる。触る。また引く。

旧人の一群は移動を続けていた。

彼らは岩の陰に泊まり、夜明け前に動く。足音は軽い。道を選ぶわけではなく、ただ傾斜の低い方へ流れていく。彼らの中に子が一人いた。背負われていない。自分で歩いている。小さな足が土を踏む。踏む。踏む。旧人の群れは止まらない。

その者の集団では、争いがあった。

何があったのか、後から見ても線が引けない。日の高いときに、二人の者の声が大きくなった。声は言葉ではない。ただ大きかった。周りの者が動きを止めた。火の近くにいた子どもが泣いた。その者は皮から手を離さなかった。引き続けた。争いは終わった。誰かが岩を投げた。誰かが額から血を流した。それだけだった。

夜、その者は火の番をした。

集団の半分が眠っていた。残りの半分も目を閉じている。その者だけが火を見ている。火は変わらない。変わりながら、変わらない。枝を一本足す。煙が細く立つ。その者は口を少し開けた。閉じた。また開けた。何か言おうとしたわけではない。

南の空が光った。

雷ではない。雲の奥で、一瞬だけ白くなった。音はない。その者は顔を上げた。空を見た。雲が動いている。速い。その者はしばらく空を見ていた。火に戻った。また空を見た。火に戻った。

雨が来た。

三日間降り続けた。大地の表面が剥がれ、土の下の湿りが地表に出てきた。川が膨らんだ。旧人の一群は高地へ向かった。その者の集団は洞窟の入り口に集まった。子どもが多い。声が多い。その者は洞窟の奥で火を守った。外から雨の音が届く。その者は皮を引いていた。雨の中でも続ける。

雨が上がったあと、旧人と出会った。

岩の陰で、一人だった。老いている。毛が薄い。片方の目が塞がっている。その者はその場に止まった。旧人も止まった。どちらも動かない。その者は手に石を持っていた。石を下ろした。置いた。そのままにした。旧人は何かを見ていた。その者の顔ではない。その者の手を見ていた。

長い沈黙のあと、旧人は向きを変えた。

その者は石を拾った。また置いた。また拾った。

与えるもの

傷口の縁が乾きかけたとき、温度が変わった。

熱ではない。空気が少し冷えた。その者の手が、自分の傷に触れた。

受け取ったのかどうか、わからない。手が触れた。それだけかもしれない。けれど次は、傷の前に石を渡そうと思う。石の縁が皮膚に沿う感触を。

伝播:SPREAD 人口:490
与えるものの観察:傷に触れた。意図か偶然か、問いは残る。
───
第681話

紀元前296,605年

その者(30〜35歳)

皮が張りついていた。

乾いた岩の面に置いた獣の皮が、夜のうちに縮んで岩肌に食いこんでいた。その者は両手の指を端に引っかけて、ゆっくり剥がした。指の付け根が鈍く痛む。

雨のあとで空気が重い。

皮を引き伸ばす石は二つある。一つは平たく、一つは角がある。その者は角のある石で皮の裏面を押さえ、もう一方の手で端を引いた。繊維が少しずつ解けていく。音はほとんどしない。ただ手に、抵抗が伝わってくる。

集団は大きくなっていた。

子が増えた。泣く声が重なる。母親の数が増え、父親とおぼしき者たちは食いものを持って戻ってくるか、戻ってこないかのどちらかだった。その者は火の番もする。皮の仕事もする。子を産まない者に任される仕事はそういうものだった。問われたことはなかった。その者も問わなかった。

夕方、集団の縁で声が上がった。

別の群れが来た。水場のほうから来る顔ぶれで、その者も何度か見たことがある。背が低く、額の出た者たちだ。言葉は少し違う。身振りも少し違う。彼らは手を開いて近づいてきた。争うためではない、という意味は通じる。

しかし集団の男たちのいくらかは岩を握っていた。

その者は火のそばに座ったまま見ていた。

老いた女が間に立った。その集団で一番長く生きている。体は曲がっているが、声はよく通る。彼女が両手を広げると、男たちの肩から少しだけ力が抜けた。

別の群れは干し肉を差し出した。

その者はそれを見て、手の中の石を少し強く握った。なぜ強く握ったのかは、わからない。

第二の星

この時期、始まりの大地には雨が続いた。

大地の西から東へ、雨の帯が何度も渡った。川はどれも岸まで水を満たし、低地には池ができ、その池に鳥が降りた。草が伸びた。根を張る植物が広がった。獣の群れが移動し、その後を追う別の群れが現れた。食うものが満ちている季節は、あらゆるものを近づける。

集団と集団が、水場で顔を合わせた。

この星の他の場所では、何も起きていなかった。火山も眠り、海も穏やかで、大地は揺れなかった。ただ雨が降り、草が伸び、獣が肥え、子が生まれた。生まれた子の半数は生き延び、集団は膨らんでいった。

膨らむものは、ぶつかる。

水場は一つではない。しかし良い水場は限られる。清い水が湧く岩の周辺には、足跡が重なっていた。草の踏まれ方が変わった。夜、遠くで火が増えた。

この星はそれを照らしている。

争いが起きる前夜の静けさも、老いた女が両手を広げた瞬間の空気も、干し肉が差し出されてから受け取られるまでの沈黙も。この星は何も知らない。ただ光を降らせている。

与えるもの

干し肉が置かれた地面のそばで、腐った草の匂いが漂っていた。食べられるものと食べられないものが混ざる場所の匂い。

その者の鼻孔が微かに動いた。

受け取ったのか、それとも別のことを嗅ぎ分けようとしていたのか。匂いには渡したいものが入っていた。腐敗を知れば保存を考える。保存を知れば、先のことを想像する。しかしその者は岩を握ったまま、動かなかった。

また、届かなかった。

十五年。何度そう思ったか、もう数えていない。届かないことに慣れたわけではない。ただ、届かなかったあとも渡し続けるしかないということを、知っている。次に渡すのは匂いではないかもしれない。あの者が何かを必要とする瞬間は、もっと別のかたちでやってくる。

老いた女が手を広げたとき、その者は何を見ていたのか。

それが気になっている。

伝播:NOISE 人口:637
与えるものの観察:腐敗の匂いを渡したが、届かなかった
───
第682話

紀元前296,600年

第二の星

乾季が長すぎた。

草の根が水を絞りきった岩盤の下まで伸び、それでも足りずに茶色くなった。獣の群れが移動した。足跡は南へ向かい、北へは戻らなかった。川は細くなり、砂地が広がり、淀んだ水溜まりに虫が浮いた。

それでも集団は生きていた。

余裕があるうちに蓄えた干し肉が、岩の隙間に詰まっていた。子供が増えていた。授乳中の女が四人いた。老いた者が三人、まだ歩いていた。笑い声が夜に聞こえることもあった。

しかし水場をめぐる緊張は、笑い声より静かに広がった。

東の水溜まりに先に着いた者が、後から来た者を追い払った。声を荒げ、石を持ち上げ、しかし投げなかった。投げなかったのは、まだ仲間だったからか、それとも後から来た者が多かったからか。どちらかは伝わらなかった。

翌朝、火の近くで口論があった。

干し肉の分配をめぐる声だった。短い語彙が飛び交い、身振りが大きくなり、年長の者が間に入った。年長の者は腕を広げて二者の間に立ち、何も言わなかった。その沈黙が長く続いた。やがて声が小さくなり、どちらかが背を向けた。

解決ではなかった。先送りだった。

旧人の一群が、三日前から集団の外縁に現れるようになっていた。体格が大きく、額が張り出し、声は低かった。近づかず、しかし離れもしなかった。子供の一人が指を向けようとして、母親に腕を引かれた。

旧人の群れは食料を持っていた。何かを運んでいた。近づいて確かめた者はいない。

夜、風が変わった。

南から湿った空気が流れこんできた。雲が低くなり、星が見えなくなった。雨の匂いではなかった。何か別の、重い匂いだった。煙でも獣でもなく、腐った植物に似ていて、しかし少し違った。

その匂いが集団の中を通り過ぎ、誰も何も言わなかった。

その者は火の番をしていた。

薪を足し、炎が安定するのを見ていた。ふと、周囲がひどく静かなことに気づいた。笑い声がなかった。子供も眠っていた。老いた者も横になっていた。

静けさが、重かった。

炎は揺れていた。風のせいではなかった。

与えるもの

煙の流れを変えた。

炎の上を漂う煙が、東ではなく北西に流れた。旧人の群れがいる方向ではなく、集団の外れで眠れずにいる者たちの方向へ。

その者は煙の方向を目で追い、それから顔を火に戻した。

渡せたかどうか、わからない。しかし煙はそちらへ流れた。次に渡すべきは煙ではなく、煙の先にいる者たちのことかもしれない。この者が追った目が、何かを覚えているなら。

その者(35〜40歳)

薪を一本足した。炎が高くなった。

煙が北西へ流れた。その者は目でそれを追い、立ち上がった。北西の方向に、眠れずに横になっている者が二人いることを知っていた。

近づかなかった。ただ、火の位置を少し動かした。

煙が届くように。

伝播:HERESY 人口:618
与えるものの観察:煙の先に、まだ渡せるものがある。
───
第683話

紀元前296,595年

第二の星

乾季が続いた地の南で、川が少しずつ幅を取り戻している。砂に埋まっていた石が水面から顔を出し、また水の中に戻る。岸の泥に獣の蹄が刻まれ、雨が降るたびに消え、また刻まれる。

北の台地では霜が早かった。草が白くなる前に根の一部が枯れ、地面は硬くなり、旧人の一群が岩陰に身を寄せた。彼らの声は低く、人類の声と混ざれば区別がつかない音域にある。岩の影に炭の跡があった。誰がつけたかは、石には関係のないことだ。

東の森では樹木の倒れる音がした。風ではない。大型の獣が幹に体を押しつけて擦った跡が残り、皮が剥けた白い木肌がしばらく光を返していた。

人類の集団が密集する平原では、火が三か所から煙を上げていた。距離にして、走れば半日ほどの間隔で。それぞれの火は別の手が管理し、別の者が木を足した。ある火の周りでは声が荒れた。石が投げられた。血が砂に落ちた。別の火の周りでは子どもが母親の膝の上で眠った。

同じ夜に、どちらも燃えていた。

与えるもの

獣皮を引く手が止まった瞬間に、熱い風が首の左側を通った。

その風は川の方向から来ていた。川には水が戻りつつある。しかし集団の半数はまだ水場を争っている。

この者がどちらの方向に顔を向けたか、与えるものには届いてくる。

川の方を向いた。そして戻った。皮に手を置いた。

――またか。火の前に座る者に、川を指し示す方法がない。届くかどうかわからなかったとしても、今度は何を使うべきか。次に渡せるものがある気がしている。この者が川に行けば、何かを見るかもしれない。見ても使えないかもしれない。それでも。

その者(40〜45歳)

皮が固い。

冬の間に干しすぎた。端が割れてきており、引っ張るたびに音がする。その者は音を聞き、指先で割れ目の深さを確かめ、位置を変えて引いた。両手の親指の付け根が赤くなっている。止まらない。

火が揺れた。

別の集団の声が聞こえる。遠い。しかし声の高さが変わっている。その者は顔を上げない。耳だけが少し動く。

熱い風が左の首を撫でた。

その者は皮から手を離し、川の方を向いた。川は見えない。木が邪魔をしている。しかし風は川の匂いを連れてきた。泥と湿った石の匂い。水が増えている。

その者は立ちかけた。

火が揺れた。

別の集団の声がまた高くなった。石を打ち合わせる音が混じった。その者は立ちかけた姿勢のまま、しばらく止まった。川の匂いがまだある。石の音もまだある。

座り直した。皮に両手を置いた。

引く。音がする。割れ目が少し延びた。

火の薪を一本足した。炎が大きくなり、影が後ろへ退いた。子どもが一人、その者の隣に来て座った。何も言わない。その者も何も言わない。ただ子どもの体温が左腕の外側に当たっている。

川の匂いはいつの間にか消えていた。

皮を引く。引く。両手が止まらない。親指の付け根に染みができている。この者は見ていない。手が勝手に動く。

声が遠くなった。

石を打ち合わせる音も止んだ。

その者は手を止め、耳を澄ました。風の音だけが残った。子どもはもう眠っていた。

伝播:NOISE 人口:629
与えるものの観察:川の方を向いた。しかし戻った。
───
第684話

紀元前296,590年

その者(45〜50歳)

獣皮を岩に押しつけ、全体重で引く。

腱が伸びる音がする。まだ足りない。足を踏ん張り直して、また引く。手の皮が熱くなる。やめない。引き伸ばした皮は乾くと縮むから、伸ばし続けなければならない。これをこの者は十年以上知っている。教わったのではない。何度も縮ませて、何度もやり直して、体が覚えた。

雨が続いた季節だった。

草の根が地面を割り、実が枝を重くした。水場に来る獣の数が増えた。集団は動かなくてよかった。食べて、眠って、また食べた。子が増えた。声が増えた。

その者は皮を引きながら、声の増えた集団を見ていた。

新しい顔があった。別の集団から来た者たちだった。旧人ではない。自分たちと似た顔だが、こめかみのあたりの形が少し違う。彼らは食べ物を持ってきた。それだけで受け入れられた。集団の中に入り、座り、火のそばにいた。

この者は引き続けた。

夜、火が低くなった。この者が薪を足した。炎が戻った。暖かさが広がった。新しく来た者の一人が火の方を向いた。目が光った。

それだけだった。

五年が経つ間に、来た者たちは増えた。子を産んだ。食べ物の取り分を主張し始めた。声が大きくなった。集団の中の分け方が変わった。この者は気づいていた。何かが変わりつつあることを。言葉はなかった。ただ、腹の奥が重くなる感じがあった。

ある夕方、この者は火の番をしていた。

集団の奥の方で、声が上がった。何かを巡る押し問答だった。干した肉の束。誰のものか。新しく来た者たちと、もともといた者たちが向かい合っていた。

この者は立ち上がった。

なぜ立ち上がったのか、この者にはわからなかった。ただ立った。

立ったことで、場の空気が変わった。両方の者たちがこの者を見た。この者は年長で、火の番で、長くここにいた者として知られていた。それだけで、場が少し静かになった。

干し肉は分けられた。半分と半分ではなく、三と一だった。どちらが三かは言わなくてもわかった。新しく来た者の側が少なかった。

彼らは黙った。受け取った。

しかし翌朝、この者の皮が消えていた。引き伸ばしかけの、乾き途中の獣皮。岩に括りつけてあった腱の紐が、切られていた。

この者はしばらく岩の前に立っていた。

腱の端を拾った。また置いた。

集団の中を見渡した。誰も目を合わせなかった。

その日から、この者への態度が変わった。食べ物の分配から少し外れた。火の番を引き継がれた。居場所が、少しずつ、端に寄っていった。

知りすぎた者が、消される前の静けさだった。

ある夜、この者は集団の端で横になった。火から遠い場所に、一人だった。草が濡れていた。雨上がりの冷えが、肌から入ってきた。

体が重かった。腹の奥の重さとは違う。熱があった。

この者は目を開けたまま、空を見た。

雲が動いていた。その向こうに星がある感じがした。見えないが、ある。

朝になった。この者は起き上がれなかった。

誰も来なかった。

二日後、集団が移動した。この者は動けなかった。その者の体の傍に、干し肉が一切れ置かれた。誰が置いたかはわからなかった。

集団の足音が遠ざかった。

草の中に、その者一人が残された。雨が降り始めた。体の熱は下がらなかった。呼吸が浅くなった。

雨は降り続けた。

この者の手が、濡れた草をつかんだ。

つかんだまま、力が抜けた。

第二の星

豊穣の季節が、始まりの大地を押し広げていた。

水が戻った。川の支流が砂の下から顔を出し、草原の奥まで染みた。根が深く張り、実が重くなり、獣が群れで移動した。それを追う者たちも動いた。食べることで精一杯だった者たちに、少しの余裕が生まれた。

余裕は人を集めた。

別の谷から来る者がいた。尾根を越えて来る者がいた。食べ物がある場所には人が来る。人が来れば集団が膨らむ。集団が膨らめば、誰が何を持つかという問いが生まれる。

始まりの大地の各地で、同じことが起きていた。

岩陰の集団と草原の集団が水場で顔を合わせ、最初は離れていたが、やがて混ざり始めた。混ざることは力になる場合もあった。子が増え、知らなかった道を教え合い、獣を追う数が増えた。

しかし混ざることは、何かを押し出す場合もあった。

旧人の一群が、この季節の東の台地にいた。草を食んでいた。水を飲んでいた。この者たちと場を分け合っていた。彼らは黙っていた。大きな体で、静かに、ただそこにいた。

食べ物が豊かな季節でも、場所を巡る緊張は消えない。むしろ豊かさが人を集め、集まった人が緊張を生む。

豊穣は贈り物だった。

同時に、排除の季節でもあった。

草が伸び続けた。雨が降り続けた。川が満ちた。この星はそれをただ見ていた。誰が残り、誰が端に追いやられるかを、この星は問わない。降らせるだけだ。満たすだけだ。

大地の南側では、別の集団が崖を下りてきた。新しい水場を探していた。

与えるもの

濡れた草に、光が一瞬落ちた。

その者の手のあたりに。

受け取らなかった。もう受け取れなかった。

渡そうとしていたのは、草の束だった。

乾いた草と濡れた草を分けること。それだけのことだった。

この者は一度、それを知っていた。火の傍で皮を乾かすとき、草の上に皮を置かないことを知っていた。体が知っていた。

渡そうとしていたのは、それだけのことだった。

最後の夜、雨が降る前に、濡れた草の匂いが風に乗った。乾いた場所への、ただの匂いだった。

この者の体はもう動かなかった。

同じことを、ずっと渡している。

手が届く前に、体が終わる。

次に渡すとき、もう少し早く渡せるか。

わからない。しかし渡す前に終わった者を、数えることは、やめない。

伝播:HERESY 人口:777
与えるものの観察:濡れた草の匂いが届く前に、体が終わった。
───
第685話

紀元前296,585年

その者(50〜52歳)

皮を張る仕事は、もう誰かほかの者に渡っていた。

指が思うように動かなかった。朝、火のそばで手を開いたり閉じたりしていた。閉まらなかった。それだけのことだ。その者はそれを誰にも言わなかった。言う声がなかったわけではない。言う必要を感じなかった。

火の番はまだやっていた。夜、集団が眠るとき、その者は起きていた。薪が崩れれば足した。灰をかき分けて熾きを探した。手が曲がっていても、それはできた。

日が変わった。また日が変わった。

ある朝、その者は起き上がらなかった。横になったまま、火の音を聞いていた。薪が弾ける音。誰かが水を飲む音。子どもが走る音。集団の音だった。

昼になった。

その者の体から力が抜けていくのは、岩から石が剥がれ落ちるようだった。少しずつ、少しずつ、ある瞬間に静かに。

夕方、火が赤くなる頃、若い者がそばにきた。火の番を引き継いだ者だ。その者の顔を見た。その者も見上げた。それだけだった。

夜になった頃、その者の胸はもう動いていなかった。

第二の星

岩だらけの斜面の下、川のそばで、二つの集団が互いを見ていた。どちらも動かなかった。川の水音だけが続いていた。片方が背を向けた。もう片方も、散った。火だけが残った。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:SPREAD 人口:787
与えるものの観察:渡せたか。渡せなかったか。それでも次へ。
───
第686話

紀元前296,580年

第二の星とその者(15〜20歳)

湿地が広がっていた。かつて乾いた礫地だったところに、水が戻ってきた。葦が腰の高さまで伸び、その根元でカエルが鳴いた。集団は川に沿って北へ動き、その先にまた別の集団の痕跡を見つけた。踏み固められた跡。骨を割った石。まだ新しかった。

その者は葦の間を歩いていた。足の裏に泥の冷たさが来るたびに、少し沈んだ。引き抜くと音がした。

二つの集団が川辺で出会った。はじめ、誰も動かなかった。大きな者が石を持った。小さな子が泣いた。それから、誰かが食べ物を地に置いた。相手の集団の者がそれを見た。拾わなかった。しかし退かなかった。夜になっても双方は川を挟んで火を焚いた。

その者は離れて座っていた。対岸の火を見ていた。揺れるたびに水面に映った。ひとつの火がふたつになった。ふたつが揺れた。

葦が風で傾いた。乾いた香りがした。上流の方から流れてきた、草の焼けるような、でも火ではない、草自体の匂い。その者は顔を上げた。

川の向こうで、子どもが笑った。その者には聞こえた。笑いという音は、こちらでも向こうでも同じだった。

緊張は五日続いた。七日目に、二つの集団は別れた。誰も死ななかった。誰も笑わなかった。互いに背を向けた後、その者の集団の若い男が石を投げた。届かなかった。川に落ちた。誰もその音を振り返らなかった。

その者は帰り道、泥に落ちた自分の足跡を見た。ずっと続いていた。振り返るたびに、まだあった。

与えるもの

上流から草の匂いが来た。その方向に、水を渡れる浅瀬があった。

この者は匂いを吸った。川の方へ目を向けた。浅瀬には歩かなかった。

渡ることと渡らないことを、この者はどのように分けているのか。わたしが示したのは道だった。しかしこの者が見たのは、対岸の火だったかもしれない。歪んでも届いた何かが、次に渡せるものの形を変える。

伝播:DISTORTED 人口:792
与えるものの観察:渡ることと渡らないことの境を探している
───
第687話

紀元前296,575年

第二の星

北の高地では雪が解けた。

岩盤の割れ目から水が滲み出し、細い筋になり、やがて谷を満たした。その水は南へ流れ、葦原を押し広げ、低地の土を柔らかくした。魚が遡上した。鳥が集まった。

この星の上で、生きているものが増えていた。

同時に、遠く西の乾いた台地では、風が砂を巻き上げ続けた。そこでは樹が根ごと倒れ、水場が消え、ある集団が三方向に散り散りになった。彼らが残したのは消しかけた火の跡だけだった。

北へ動いた集団は、踏み固められた跡を見つけた翌日、その跡の主たちを遠くに見た。背丈が低く、眉骨が張り出し、歩き方が少し違う者たちだった。どちらも動きを止めた。どちらも叫ばなかった。ただ、見た。

やがて片方が先に動いた。

その集団ではない方が、石を置いた。地面に。そして離れた。

置かれた石はただの石だった。しかし誰も拾わなかった。

川の水は変わらず流れた。魚は変わらず跳ねた。空は曇っていなかった。

与えるもの

石を置いた者の背中が遠くなっていくとき、その者の足元の草が揺れた。

風ではなかった。

虫が跳ねたわけでもなかった。

その者だけが気づいた。それだけでよかった。

石を置く、ということ。離れる、ということ。その順番を、匂いのように届かせた。川の泥と乾いた石の匂い。それがまだ残っているうちに、次に渡すものを考えていた。しかし、この者が次もここにいるかどうかは、まだわからなかった。

渡すべきものがあるとき、この者がいなければ、渡せない。

それだけが確かだった。

その者(20〜25歳)

石を見ていた。

地面に置かれたまま、誰も取らなかった。年長者たちは遠ざかる背中を見て唸り声を出し、子どもを引き寄せた。

その者だけが近づいた。

石は握れる大きさで、片面が平らだった。特別な石ではなかった。川原にいくらでもある。しかし置かれた石には違いがあった。意図があった。それをうまく言葉にできなかったが、体がわかっていた。

拾った。

温度が手に移った。

集団の中の年老いた男が叫んだ。石を捨てろという意味の声だった。その者は捨てなかった。黙って手の中に石を持ち続けた。

夜、火を囲む輪の外に座った。

石を持ったまま、遠ざかった背中のことを考えた。叫ばなかった。離れた。それだけのことが、胸の中で何度も繰り返された。

石を置いた。また拾った。

置いた。

また拾った。

夜が深くなるころ、年老いた男が近づいてきた。何かを言った。低い声だった。その者は石を見せた。男は長く見てから、何も言わずに戻った。

翌朝、その者が目を覚ますと、石の隣に別の石が置かれていた。

誰がやったのか、わからなかった。

伝播:HERESY 人口:755
与えるものの観察:石が石を呼んだ。それだけを見ていた。
───
第688話

紀元前296,570年

第二の星

南の平地で、草が腐った。

一夜ではなかった。数日かけて、茎の根元から色が変わった。黄から茶へ。茶から黒へ。踏めばぬるりとした。土の表面が光っていた。水が引かないのではない。水は滲んでいた。地の下から、どこかの圧力が押し上げてくるように。

低地に群れを作っていた大型の草食獣が移動を始めた。一頭、また一頭と、南西の丘の方角へ向かった。理由を知るものはいない。ただそちらへ向かった。

集団の中で、誰かがそれを見ていた。見ていたが、言葉にできなかった。単語がなかった。ただ指を向け、唸り、また向けた。年長の者は顔を背けた。今は余裕がある。獣は他にもいる。

豊穣が長く続いた集団では、声が大きい者が食い物を多く取った。それは以前からそうだった。だが今は、声を使って他の者の取り分を奪う者が出始めた。奪われた者が唸る。唸り返す。手が出る。

血が出るほどではなかった。まだ。

夜、火の周りで誰かが踊った。足を踏み鳴らし、腕を振り、喉から音を出した。それは踊りと呼べるほど形が整ってはいなかったが、繰り返しがあった。同じ動きが戻ってきた。他の者がそれを見ていた。真似た者もいた。笑いが起きた。笑いはどちらにもある。

川の上流では別の集団の痕跡があった。焚き火の跡。骨。

自分たちのものではない削り方をした骨だった。

年長の者が地面を踏みつけた。若い者が石を手に取った。石は持ったまま、夜が明けた。

腐った草の匂いが、南の風に乗って届いた。甘く、重く、土の底から来る匂いだった。

与えるもの

川縁の泥に、足跡があった。獣のものではない。二本足。ただし自分たちより小さい。

風が、その足跡の方向から吹いた。

この者は足跡の縁に膝をついた。指で縁をなぞった。なぞっただけで、立ち上がり、戻った。

踏み消せたはずだった。踏み消さなかった。なぜかを問う言葉を、この者は持っていない。渡すべきものは次に何か。まだ、ある。

その者(25〜30歳)

年長の者が肉を分けなかった。

この者は離れたところに座り、指についた草の汁を舐めた。腹に何もなかった。火の光を見ていた。踊る者を見ていた。石を持った若い者の手を見ていた。

足跡のことを誰にも言わなかった。

言う言葉がなかったのか、言わなかったのか、自分でもわからなかった。

伝播:HERESY 人口:721
与えるものの観察:足跡を消さなかった。なぜかを問う言葉がない。
───
第689話

紀元前296,565年

第二の星とその者(30〜35歳)

腐った草の臭いが平地から消えるまで、十日かかった。

風が向きを変えた。北から乾いた空気が流れてきた。土の表面の光沢が消え、踏めばまた固い音がした。草の根は残っていた。茎だけが溶けたのだ。五日後、根元から新しい緑が伸びた。薄く、細く。しかし上を向いていた。

その者は平地の端に立って、その緑を見ていた。

近づかなかった。

腐った記憶がまだ足の裏にある。ぬるりとした感触。靴はない。指の間に染み込んだものが、まだそこにある気がした。だから近づかなかった。しかし目は離さなかった。

集団の規模は大きくなっていた。

子が増えた。乳を飲む声が朝から聞こえた。岩の陰で三人の女が並んで座り、それぞれの子を抱いていた。食料は足りていた。川の魚が太っていた。木の実は去年より重く、枝を曲げた。獣道が増えた。それだけ獣が多いということを、老いた者たちは知っていた。

その者は狩りに出る者たちを見送った。

毎朝、彼らは北へ向かった。その者はついていけない。まだ許されていない。槍の投げ方が下手だと言われた。一度、練習で遠くに飛ばしすぎて、草の中に見失った。笑われた。怒りではなく恥だった。

夕方、火の傍で食べた。

肉は多かった。骨まで渡された。その者は石で骨を割り、中の白いものを舐めた。苦いような、脂のような。舌が覚えている味だった。

水場の近くで、旧人の群れと顔を合わせたのはそのころだった。

向こうは三人だった。大きかった。眉骨が出ていた。目が小さく、奥に引っ込んでいた。こちらも三人だった。その者は入っていない。採集に出た年上の二人と、水を汲みに来た老いた女。互いに動かなかった。向こうが先に向きを変えて、茂みの中に消えた。

その夜、集団の中で声が上がった。

単語が飛び交った。その者には半分しかわからなかった。「大きい」「川」「来た」。それだけで何を話しているかはわかった。表情でわかった。怒っている者と、怖がっている者と、関係ないという顔の者がいた。

その者は火の外側に座って、話を聞いていた。

夜、目が覚めた。

何かの音ではない。音がなかったから目が覚めた。いつもは風が草を揺らす。その夜は止まっていた。

その者は体を起こした。

空が明るかった。月ではない。月はもっと白い。これは橙だった。遠くの丘の稜線が、下から照らされていた。火だと気づくまで少し時間がかかった。遠すぎて、音が届かなかった。

誰かが起きた。老いた男が立ち上がり、丘を見た。

その者も立ち上がった。

何も言わなかった。二人で並んで、遠い火を見た。旧人のものか、別の集団のものか、わからなかった。老いた男は唸るような音を出した。何かを言おうとして、言えなかった。単語を持っていなかった。

風が止まったまま、火は燃え続けた。

その者の胸の中で何かが張った。怒りではなかった。恐怖でもなかった。もっと小さくて、形のないもの。

翌朝、採集に出た。

北西の斜面に、黒く焼けた跡があった。草が一面、炭になっていた。踏めば粉になった。足が黒くなった。真ん中に石が積まれていた。誰かが積んだのか、崩れてそう見えるのかわからなかった。

その者はしゃがんで、黒い石を一つ手に取った。

熱くはなかった。もう冷えていた。重さはいつもの石と同じだった。ただ黒かった。

置いた。

また拾った。

持ち帰った。

理由は言えなかった。言葉がなかった。ただ手が手放さなかった。

与えるもの

焼け跡に光が落ちた。

石が一つ、他と違う角度で置かれていた。その面だけが光を受けた。

この者は近づいた。しゃがんだ。拾った。

持ち帰った。

別の形になった。なぜ火が何かの終わりではなく、手の中の重さになったのか。わからない。しかし手は手放さなかった。

次に渡すべきものがある気がした。まだ形が見えない。

伝播:DISTORTED 人口:732
与えるものの観察:黒い石が手を離れなかった
───
第690話

紀元前296,560年

その者(35〜40歳)

崖の縁から、下の集団を見ていた。

遠かった。声は届かない。しかし動きは見えた。向こうの者たちが火を囲んでいる。皮を引っ張っている。腕を大きく振っている。こちらの者たちがするのと似た動きだった。

その者は低い茂みの陰に身をひそめていた。別に隠れているわけではなかった。ただ草が高く、膝まであった。

下の集団には、顔の形が違う者がいた。眉骨が突き出ていた。顎が大きかった。何人いるのか数えようとしたが、火の向こう側の者は暗くてわからなかった。

腹が鳴った。

今朝、川沿いで拾った実が、腰に結んだ袋の中にある。その者はそれを取り出して一つ口に入れた。皮が薄く、甘みより渋みが先に来た。噛んでいるうちに、甘みが後から広がった。

下の集団の誰かが笑った。その音は風に乗って、遅れて届いた。

その者の指が袋の口を握ったまま、動かなくなった。

その音は知っている音だった。こちらの者たちが出す音と同じだった。

しばらく経って、その者は立ち上がった。草が揺れた。下の集団の一人がこちらを向いた。目が合ったかどうかはわからなかった。遠すぎた。

その者は動かなかった。逃げなかった。

向こうも動かなかった。

風が北から吹いた。草の穂が波を打った。その者の皮が肩からずれ落ちそうになり、片手で押さえた。その動きが見えたのか、下の集団で誰かがまた声を出した。笑いではなかった。短い、問いかけのような音だった。

その者はその音の形を口の中で作ってみた。声には出さなかった。唇と歯と舌が、聞いた音を探した。うまく作れなかった。

夕暮れが迫っていた。空の端が赤くなり始めていた。

その者は崖の縁から離れた。来た道ではなく、斜面を北に迂回して戻ることにした。下の集団のそばを通らない道だった。

しかし歩きながら、袋の中の実を一つずつ手に取り続けた。渡せたかもしれない、とは思っていない。そういう言葉がない。ただ手の中で実の重さを確かめ続けた。

第二の星

乾いた季節が明けてから、この五年、大地は惜しまなかった。

川は水量を保ち、川岸の粘土は踏んでも沈まなかった。草の原は背が伸び、草食の獣が群れをなして渡った。木の実は例年より早く熟れ、長くそのままの形でいた。

集団の数は増えた。子が生まれた数より、死んだ数が少なかった。珍しいことだった。

豊かさは争いを消さない。豊かさは人を近づける。近づけば摩擦が生まれる。誰が川を使うか。誰が崖の陰に火を置くか。旧い者と若い者、こちらの集団と別の集団、眉骨の出た顔をした者とそうでない者。豊かな季節に、距離が縮まった。距離が縮まれば、声の違いも姿の違いも、遠くにいたときより大きく見えた。

崖の上から見下ろした者がいた。

その者は逃げなかった。相手も逃げなかった。

それだけのことが、この星の上で起きた。

下の谷では川が低く流れ、魚が浅瀬に背鰭を見せていた。遠くの山では雪線が上がり、岩肌が露出していた。霜柱が立つ夜はまだ来ていない。大地はまだ暖かく、虫の声が途切れていなかった。

与えるもの

袋の中の実。

その重さに手が止まった。

渡せると思ったわけではない。ただ同じ重さのものを、向こうも持っているかもしれない、と——そこまでは届かなかったか。届かなかったとして。それでも手は実を握っていた。それは私が示したことではなかった。

笑いという音のことを、私はずっと前から知っている。

伝播:SILENCE 人口:737
与えるものの観察:手が実を握ったまま、声は出なかった
───
第691話

紀元前296,555年

第二の星

乾季が深まっていた。

草の根元から水が引き、地面が割れ始めていた。割れ目は指の幅ほどで、踏めば沈む場所と固い場所とが入り混じった。獣の足跡が水場へ向かって一方向に重なっている。その水場も、底の泥が露わになりつつあった。

始まりの大地の北側では、二つの集団が同じ水場を使い始めていた。

朝は片方が来て、昼前には引く。昼を過ぎると別の集団が来る。最初はそうだった。しかし乾季が進むにつれて、引く時間が遅くなった。来る時間が早くなった。水場で二つの集団が重なる時間が生まれた。

最初の接触は静かだった。

どちらも動かなかった。どちらも声を上げなかった。子どもたちは親の後ろに隠れ、大人たちは互いの体の大きさを測るように立っていた。旧人の一人が一歩引いた。こちらの集団の一人が一歩進んだ。旧人がまた引いた。進んだ者は止まった。

水場の泥の上に、両者の足跡が残った。

翌日、緊張は別の形を取った。

旧人の集団が水場に先に着いていた。こちらの集団が来ると、旧人の中の大きな者が声を発した。低く、長い音だった。こちらの集団の年長者が同じように低い音を返した。どちらの音も、意味のある語彙ではなかった。しかし長さと高さに何かがあった。双方がそれを感じ取った。

結局、その日は二つの集団が同時に水を飲んだ。

離れたまま。向き合ったまま。視線を外さないまま。

水場の南側でこちらの集団が飲み、北側で旧人が飲んだ。子どもたちは互いを見ていた。好奇心と恐怖が混ざった目で、ただ見ていた。

その夜、こちらの集団の火の周りで声が上がった。

特定の音が繰り返された。旧人を指す音ではなかった。あの大きさ、あの低い声、あの動かない目。それらをまとめて呼ぶ音が、誰かの口から出て、別の者が同じ音を繰り返した。それだけだった。名付けではない。しかし音は翌朝も残っていた。

始まりの大地の東側では別のことが起きていた。

小さな集団が移動していた。水場を探しながら、乾いた草地を横切っていた。その集団の中に、今年生まれた子どもを抱えた女がいた。子どもは熱を持っていた。歩きながら抱える腕が疲れ、別の者に渡し、また受け取った。

夕方、集団が止まった場所で、子どもの熱が引かなかった。

夜が来た。子どもの音が小さくなった。朝になった。女はまだ抱えていた。抱えたまま動かなかった。集団は出発したが、女は少し遅れた。追いついた時、腕の中はもう動いていなかった。女は歩き続けた。手が空くまで、誰も何も言わなかった。

大地の西では、若者が一人で枯れた木の実を砕いていた。

実の中身はほとんどなかった。砕いた殻を口に入れ、何もないことを確かめ、捨てた。また砕いた。また確かめた。それを繰り返していた。

乾季はまだ続く。

与えるもの

水場で匂いが変わった場所があった。泥と草が腐る匂いの中に、澄んだ水の匂いが混じっていた。地面の低い場所、まだ水が残っている場所だった。

その匂いがその者の側を通った。

その者は立ち止まった。鼻が動いた。しかし足は別の方向へ向かった。

渡ったのかもしれない。鼻には届いた。ただ、この者がそれを何に使うかを、私はまだ知らない。渡した後に何かが変わることがある。渡した後に何も変わらないこともある。どちらが多いか、数えることをやめた頃から、次に渡すものだけを考えるようになった。

その者(40〜45歳)

水場の縁で止まった。

泥の匂いが強かった。それとは別の、薄い匂いがあった。体が覚えている匂いだった。渇きが強い日に、その匂いをたどったことがあった。

足が別の方向を向いていた。

旧人の集団がまだそこにいるかもしれなかった。その方向へは行かなかった。泥の匂いの中に立ったまま、その者は水を飲まずに引き返した。

伝播:DISTORTED 人口:747
与えるものの観察:匂いは届いた。足が止まった。それだけだ。
───
第692話

紀元前296,550年

その者(45〜50歳)

地面に亀裂が走っていた。

踏み込むたびに土が沈むか固いかがわからない。その者はそれを足の裏で試しながら、低い茂みを抜けた。乾季の終わりがなかった。始まりだけがあって、それが続いていた。

水場は知っていた。歩いて半日。でも水場には他の者たちがいる。別の群れ。別の匂い。

その者は立ち止まった。

腰まで伸びた草の束を握っていた。根ごと引き抜いてきたものだ。根の先にまだ湿り気があった。土の中に水がある。土の中に。

その者は根の先を口に入れた。泥の味がした。それだけだった。

遠くで声がした。

叫び声ではなかった。低い、繰り返す音だった。別の群れの方向から来ていた。その者は草束を地面に置き、その声の方向に向いた。

自分の集団の者たちが数人、崖の上に立っていた。石を持って。

その者には何がわかるか。声が怒っているかどうかはわかる。叫びが始まるかどうかはわかる。でも今は始まっていない。低い音が続いている。

その者は崖には近づかなかった。

草束を拾い直し、別の方向へ歩いた。低地の縁を沿って、匂いをたどるように。体が覚えている場所があった。去年の雨の後、湿った土の下から何かが生えてきた場所。今もそこに何かがあるかもしれない。

ないかもしれない。

足の裏が、固い地面を踏んだ。

乾いた土は音を出さない。砂のように。その者はそこに膝をついた。手で表面を払うと、割れ目が十字になって走っていた。その割れ目の縁は白く、中は暗かった。その者は指を入れた。

冷たかった。

土の下が冷たかった。

その者はしばらくそのままでいた。指を穴の中に差し込んで、動かさずに。冷たさが指先を通って手首まで来た。

体がそれを知っていた。水が近い。深いところに。

その者は掘り始めた。爪が折れた。石を探して、縁の形をした薄い石を見つけた。それで掘った。土が剥がれるたびに、冷たい空気が上に来た。腕が痛くなっても止めなかった。

水は出なかった。

でも土が湿っていた。その土を握ると、手のひらに色が移った。

その者はその手を顔に近づけた。匂いを嗅いだ。水の匂い。

夕方まで掘った。

水は出なかった。でも掘った穴の底は、暗く、湿って、冷たかった。その者は草束の根の先をその底の土に押しつけた。根が湿った。

それを口に入れた。

水の味がした。泥も混じっていたが、水の味がした。

その者は穴の縁に腰を下ろした。崖の方向はもう静かだった。叫び声は起きなかった。でも声が止んだのがいつかは知らない。

その者はただ座って、湿った根の先をまた口に入れた。

口の中で、それは水だった。

第二の星

この5年間、乾季と湿季が交互に来た。しかし去年から、乾季の深さが変わった。川の支流のひとつが消えた。砂地になった。獣はより深い森へ移動した。

この集団は747。以前より動くようになった。水を求めて移動する距離が伸びた。子どもを連れた移動は遅い。年老いた者を置いていくことが増えた。

水場を巡る緊張が高まっている。別の群れも同じ水場に近づく。接触が増えた。接触は常に衝突ではない。しかし石を持って向き合うことが増えた。

土地の記憶を持つ者が減っていた。知っている者が動いて、戻らなかった。去年の旱魃の中で。

その者のように、地面を掘る者がいる。土の中の水を探す者。それは教えられたことではない。体が感じて、手が動いた。同じことをする者がこの集団に他にいるかどうか、誰も知らない。

空は澄んでいる。星が多い。その下で、747の体が夜の冷気の中に散らばっている。

与えるもの

土が割れた場所に、影が長く落ちた。夕刻の光が低くなったとき、穴の縁が暗く縁取られた。見えやすくなる角度があった。

その者は膝をついた。

掘った。

深いところに水がある。届いたのか、それとも体がもとから知っていたのか。わからない。渡したものが返ってくることはない。ただ次に渡すべきものを考えている。

石。掘るための石には形がある。縁が薄く、角があるもの。それをこの者は偶然に見つけた。次は偶然ではなく手が選ぶことができるか。

穴と石。その二つが繋がるかどうか。

伝播:NOISE 人口:758
与えるものの観察:土の冷たさを指で知った。偶然でも体が覚えた。
───
第693話

紀元前296,545年

その者(50〜53歳)

膝が言うことを聞かなくなったのは、去年の乾季からだった。

朝、起き上がるのに時間がかかる。体を横に倒して、手を地面につき、それから膝を使わずに立つ。若い者たちはそれを見ない。見ても何も言わない。それが、この集団の慣わしだった。

採集はまだできる。木の実を拾う。茎を折る。低いところにあるものは、座ったままとれる。

ある朝、茂みのそばで座っていると、石英の欠片が光を受けた。

冷たい光だった。差し込む角度が浅く、地面すれすれに走っていた。その者は石英を拾わなかった。ただ、光の落ち方を見た。長い時間、見ていた。

何かを感じた。感じたが、言葉がない。

集団との緊張が続いていた。向こうの岩陰から、別の臭いがする。その者は若いときにそれを嗅いだことがある。似ているが違う。その違いが体に残っている。

ある日、その者は採集に出なかった。

茂みの外れに腰を下ろし、足を前に投げ出した。喉が渇いていた。水場は遠い。立てばいい。立てばいいのだが、立たなかった。

日が傾いた。

影が長くなって、その者の体を踏んで伸びていった。

腹が鳴った。腹が鳴ったが、その者は気にしなかった。鳴ることに、もう驚かない年齢だった。

夜になった。

集団の声が遠くから聞こえた。誰かが叫んでいる。怒っているのか、笑っているのか、その者にはもうわからなかった。声の意味が遠くなっていた。

地面が冷えた。

背を丸めた。腕を腹に引き寄せた。膝を抱えようとして、膝が動かないことに気づき、そのままでいた。

風が止んだ。

茂みが揺れなくなった。

その者の体が、少しずつ、地面に近くなった。傾くのではなく、沈むように。息がある。息があるが、それが遅くなっていた。

空に何もなかった。

雲もない。星もない。ただ暗かった。

暗いまま、止まった。

第二の星

乾いた風が平原を吹いていた。別の集団の者が、岩の上に立って遠くを見ていた。見ているものの名前を持たなかった。水平線が光の帯をほどこうとしていた。その者が死んだ夜、火が消えた集落が一つあった。理由は誰も知らない。朝、火種を探す者が出た。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:NOISE 人口:765
与えるものの観察:膝から地面に、沈むように。
───
第694話

紀元前296,540年

第二の星

乾いた風が草原を渡る。

南の台地では、旧人の一群が水場を離れていく。足跡は深く、荷を持っている。移動の足跡だ。北に向かう。同じ水場を使っていた別の群れと重なりはじめていた。

水場のほとりに、人の骨がある。古い。肉はない。誰のものかを問う者はいない。ただそこにある。

草原の中央では、火が消えた跡がある。灰が白くなっている。昨日のものではない。三日か四日前のものだ。周辺に足跡は残っていない。風が方向を変えるたびに、灰が少しずつ散る。

東の丘の斜面では、若い採集者がひとり、低木の下にしゃがんでいる。手に何かを持っている。

西では雨雲が稜線に引っかかっている。降るか降らないか、まだわからない。

集団のいくつかは名を持たない。あるいは、名を持っていたが、持っていた者たちが消えた。残った者たちは別の群れに吸収され、呼び名が混ざる。区別はやがて薄れる。

与えるもの

糸が繋がった。

この者から、かすかに感触がある。まだ細い。切れるかもしれない。

低木の影に落ちた光の境界線がある。明るい側と暗い側の、ちょうど境に、一本の茎が立っている。実がついている。赤い。まだ熟れていないものと、熟れたものが、同じ房に混じっている。

光の境界線をこの者の目の前に落とした。

この者は光の端を見た。それから実を見た。赤い実だけを摘んだ。青いものには触れなかった。

——それだけのことだ。

口に入れた。潰れた。甘かった。

渡したのは光の線だったのか、それとも実の色の違いだったのか、与えるものにもわからない。この者はすでに次の低木に手を伸ばしている。渡したことを知らない。

問いは残る。知らなくても渡せるのか。知らないまま使えるのか。

次に渡すべきものがある、という感触だけがある。

その者(15〜20歳)

低木の下に入ると、日が遮られて体が涼しくなった。

指で枝を持ち上げる。葉の裏に虫がいる。つぶした。腕で拭った。また枝を分ける。

実がある。

赤いものと、まだ青いものが混じっている。光の切れ目がちょうどそこを照らしていた。目が、明るい側に向いた。指は赤いものだけに伸びた。なぜかは考えない。手が先に動いた。

潰れた。甘い。種を吐き出す。もう一粒。

腹が鳴っていたのは昨日からだった。昨日、集団の中の年上の男が、この者の持っていた根を奪った。何も言わなかった。抵抗もしなかった。ただ手を開いた。

根はなくなった。腹は空いたままだった。

今日は早く出てきた。誰より先に、水場から遠い方向に歩いた。年上の男は遠い。ここには来ない。

実を布のたくし上げた部分に入れる。両手で抱えるように持つ。落とさないように戻る。

帰る途中、旧人の足跡を踏んだ。立ち止まった。大きかった。自分の足より二まわりほど大きい。しばらく、その跡の上に自分の足を乗せてみた。

足が沈んだ感触がした。土が柔らかかった。

実を抱えたまま、集団の方向に戻った。

伝播:HERESY 人口:735
与えるものの観察:光の境界を渡した。この者は使った。
───
第695話

紀元前296,535年

第二の星

乾季が深まっている。

草原の南端では、水場の周囲に踏み固められた土が広がっている。複数の足跡が重なり、どれがどの群れのものか判別できない。旧人の足跡は幅が広く、踵の沈みが深い。現生人類の足跡は細く、爪先が長い。水面に映る空は白く、雲がない。

北の林縁では、別の話が進んでいる。

老いた雌の象が一頭、枯れた木の幹に額を押し当てて立っている。群れから離れて三日が経つ。周囲に他の象はいない。風が草を撫でる。象は動かない。

東の丘では、子どもが一人、岩の割れ目に手を差し込んでいる。蜂の巣だ。手が腫れ上がっている。それでも引かない。

水場の周囲では、現生人類の一群と旧人の小さな群れが、互いを視界に収めながら水を汲んでいる。声は出ない。目が合わない。しかし誰も離れない。乾いているからだ。水が少ないからだ。草原は広い。水場は一つだ。

夜になる。火が二つ、離れて灯る。

与えるもの

糸はある。

水場の縁、泥の中に獣の骨が半分埋まっていた。鋭く折れた断面が、月光の角度で白く光った。

その者は水を汲みながら、それを踏んだ。足の裏に当たる感触があった。立ち止まった。

骨を拾わなかった。

踏んだまま、旧人の方を見た。

骨のことは、もう考えていない。

鋭さは渡せた。しかし、届いた場所が違った。次に渡すべきものは何か。鋭さではない。おそらく、距離だ。

その者(20〜25歳)

水場に来るのは、朝が明けきる前だ。

先に来ていた。

旧人だった。三人。子どもが一人混じっている。子どもは水面を手で叩いていた。音がした。その者は足を止めた。

群れの中の年長者が、後ろから肩を押した。行け、という意味だ。その者は歩いた。

水場の縁に膝をつく。水を汲む。土器はない。両手を椀にして、顔を近づける。水が冷たい。

旧人の子どもが、こちらを見ていた。

その者は顔を上げなかった。水を飲んだ。

泥の中で足が何かに触れた。硬い。押し返してくる感触があった。骨だとわかった。その者は足を動かして、感触を確かめた。鋭い縁がある。

立ち上がったとき、旧人の子どもはまだ見ていた。

その者は踵を返した。骨は泥の中に残った。

群れに戻る道で、その者は何度も振り返った。水場は見えない。それでも振り返った。暗闇の方角を見ていた。

火のそばに座った。膝を抱えた。足の裏に、骨の感触がまだある。

消えない。

伝播:NOISE 人口:745
与えるものの観察:骨を踏んだ。拾わなかった。次は距離を渡す。
───
第696話

紀元前296,530年

第二の星

乾季の風が南から押してくる。

草原の縁では、枯れた茎が折れずに曲がっている。水分を失った植物が、風に逆らわず、ただ揺れる。根は生きている。茎だけが死んでいる。

水場から東へ半日歩いたところに、石灰岩の露頭がある。雨季には草に隠れていた白い岩が、乾季になると姿を現す。岩の割れ目から、細い流れが染み出している。音もなく。気づかなければ通り過ぎる。

その露頭の北側の岩壁に、指で引いたような筋がある。新しい。

赤い土を指に取って、岩に押しつけた跡だ。手のひらの幅より大きく、幅より小さい何かが、そこに残っている。輪郭ではなく、圧力の跡だ。誰かが何かを岩に押しつけた。強く。長く。

旧人の指跡ではない。現生人類のものでもない、という確証もない。

南の草原では、群れが移動している。七人か、八人か。子どもが二人いる。一人はまだ自分で歩けない。腰に縛られて揺れながら運ばれている。背負う者の足取りは速くない。遅くもない。ただ続いている。

その群れから三百歩離れたところに、別の影がある。四人。立ったまま、動かない。風上に立っている。嗅いでいる。あるいは聴いている。

どちらが先に動くか。

どちらも動かないまま、日が傾く。影が長くなる。子どもを背負った群れが、岩陰に消える。四人は別の方向へ歩き始める。

接触はなかった。

しかし露頭の岩壁の赤い跡は残っている。誰かがここにいたという跡が。何かを押しつけたという跡が。風はそれを消せない。雨が来るまでは。

岩は記録する意図を持たない。残るのはただ、圧力の形だ。

夜、星が出る。東の地平線から湿気を含んだ風が入ってくる。乾季が少し緩む夜だ。遠くで何かが鳴く。長く。一度。それきり。

水場の南側、踏み固められた土の上に、新しい足跡が重なっている。幅の広いものと細いものが、交差している。どちらが先についたか、もうわからない。

与えるもの

岩壁の赤い跡のそばで、割れた石灰岩の縁が光を受けていた。断面が白く、鋭かった。その縁に、午後の斜光が落ちた。

この者は立ち止まり、じっと見た。触れた。指の腹が白い粉を拾った。

残るのだと知っているのかどうか、わからない。しかし指を岩に押しつける前に、一度、自分の手のひらを見た。次に渡すべきは形そのものか、それとも形を残そうとする意志か。渡せるのはどちらか。

その者(25〜30歳)

白い粉が指についている。

払わない。

岩壁の赤い跡を見る。誰かがここにいた。自分もいる。同じだと思ったかどうか、わからない。

指を壁に当てる。押す。力を込める。離す。

そこに何かが残っている。自分の形ではない。圧力の形だ。もう一度押す。同じ場所に。

伝播:SPREAD 人口:752
与えるものの観察:形を残す前に、手を見た。