紀元前296,645年
雄が二人、石を持って向かい合っていた。
その者は離れたところに座り、膝に幼子を乗せていた。幼子は乳を求めて口を開け、また閉じた。その者は胸を押しつけた。幼子が吸いはじめた。
向かい合う二人の声が高くなった。
その者は顔を上げなかった。幼子の頭の重さが両腕にあった。頭はやわらかく、温かく、脈を打っていた。
岩の砕ける音がした。
集団の中の何人かが立ち上がった。老いた雄が間に入ろうとして、腕を掴まれ、押しのけられた。子を背負った雌が後ろへ下がった。
その者は動かなかった。
幼子が口を離した。顔をのけぞらせ、声を出した。その者は抱きなおし、背中を叩いた。一度、二度。幼子が落ち着いた。
争っている二人の間に、別の雄が飛び込んだ。三つの体が絡まった。地面に転がった。誰かが叫んだ。
その者は幼子を膝から外し、背中に括りつけた。立ち上がった。
台地の縁に向かった。
崖の下の湿地は遠く、光の中で平らだった。水面が白く光り、鳥の姿はなかった。風が上がってきた。台地の草が一斉に同じ方向へ傾いた。
その者は風の中に立っていた。
背中の幼子が動いた。小さな手が肩を掴んだ。その者は手をそこに重ねた。
後ろで、声が静かになった。
どちらかが倒れたのかもしれなかった。その者は振り返らなかった。
台地の上に四百を超える体がいた。
北の斜面に水が湧き、南の草原に獣が戻っていた。子が生まれ、また生まれた。集団は膨らみ続けていた。
豊かさは静かに危うさを育てる。
食物の場所をめぐって声が荒くなった。眠る場所をめぐって体が押しあった。古い集団の中から新しい結びつきが生まれ、それが別の集団を疎外した。言葉はまだ細く、怒りを説明するには足りなかった。だから体が動いた。石が飛んだ。
旧人が台地の西の端にいた。
こちらの集団より小さく、動きが違った。互いを避けていたが、水場では近づいた。視線が合い、それきりのこともあった。何かが渡されそうになって、渡されなかった。
台地の縁では、一人の雌が幼子を背負って風の中に立っていた。
後ろで誰かが倒れた。誰かが泣いた。集団の声は低くなり、やがて散った。夕暮れが来て、体ごとに火の近くに集まった。
争った二人のうち、一方が台地に残り、一方は戻らなかった。
崖の縁に、風の匂いが変わる場所がある。
そこに温度を落とした。足の裏の石が、少しだけ冷たくなるように。
その者は踏みとどまった。崖を見下ろさなかった。
また生まれた問いがある。この者は踏みとどまるために止まったのか。それとも、ただ幼子が動いたから止まったのか。渡したものが届いたかどうか、私には見えない。
次に渡すべきものがある。背負うことと、置くことの違い。しかしまだ言葉がない。言葉がないなら、重さで渡す。