2033年、人類の旅

「紀元前296,525年〜紀元前296,405年」第697話〜第720話

Day 30 — 2026/05/02

読了時間 約61分

第697話

紀元前296,525年

その者(30〜35歳)

煙が東から来た。

最初は朝の霞に似ていた。その者は水場へ向かいながら、空の色が違うと気づいた。霞は白い。これは黄色い。喉の奥に、何かが貼りついた。

集団が動いた。

老いた者を引き、子を抱き、皆が南へ走った。その者も走った。だが足が思うように動かなかった。乾季が続いてから、腹の凹みが深くなっていた。走るたびに、腰の骨が皮膚の裏に当たるのを感じた。

炎は見えなかった。煙だけが追ってきた。煙は木の香りがして、それから獣の毛の焦げた臭いがして、それから何の臭いかわからないものになった。

集団は草原の端で止まった。

火は夜の間に進み、夜明けに止まった。風が変わったのだ。焼け跡はまだ熱く、翌朝も地面から白い煙が立っていた。

半数近くの者が、いなかった。

迷子になったのか、炎に飲まれたのか、その者には区別がつかなかった。呼んでも答えない者が何人もいた。子供の声が聞こえなくなっていた。

焼け跡に、食べるものはなかった。

その者は集団の外に座った。

何かを知りすぎた者を、集団は嫌う。その者が何を知っていたか、言葉では言えない。しかし体で示せることがあった。どこに水があるか。どの草が食べられるか。どの方向に逃げるか。

火の後、食料が消えた。

集団の中で、誰かが手振りで示した。こちらへ来るな。その意味はわかった。老いた者と、弱った者と、その者は端に置かれた。食べ物が来ない夜が続いた。

三十日が経ったか、それより多かったか。

その者は焼け跡の縁に座り、黒い地面を見ていた。地面から、細い緑が出ていた。一本。また一本。土の中に何かがある。火の後でも、土の中に何かが残っている。

その者は指先でそれに触れた。

折れなかった。柔らかく、指に逆らわなかった。その者はそれを口の中に入れた。味はなかった。それでも何度も嚙んだ。

日が暮れた。

その者は地面に横になった。背中が地面に触れた。土はまだ少し温かかった。火の残り熱か、昼間の日の熱か、わからなかった。その者は目を開けたままでいた。空に煙の残りがまだうっすらとあった。

星が見えた。

その者は空を見ていた。何かが遠い。何かが近い。その区別が、少しずつ曖昧になっていった。

手が、力を失った。

指先から始まり、掌へと広がった。その者はその感覚を追うように、指を一度だけ曲げた。曲がらなかった。

第二の星

同じ夜、大陸の別の端では、氷が一枚、岩の崖から崩れ落ちた。音を立てて水に沈み、波紋が広がり、止んだ。雨が降っている地域では、獣が一頭、泥の中で動かなくなった。別の獣が、その傍らを通り過ぎた。第二の星は区別しない。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:643
与えるものの観察:土から出た緑に触れた。届いたか、届かなかったか。
───
第698話

紀元前296,520年

第二の星とその者(3〜8歳)

焼けた跡は、雨が来るまで黒いまま残った。

炭の匂いが土に染みこんで、次の雨が降っても消えなかった。集団は東を避け、川沿いを西へ移動した。幼い者は背負われ、老いた者は遅れた。遅れた者は、やがて声が聞こえなくなる距離を置いていった。集団は戻らなかった。

その者は三歳だった。誰かの背の上で、焦げた空を見ていた。

西へ向かう日が続いた。雨期が来て、川が太くなった。魚が増えた。集団の中の数人が膝まで水に入り、素手で魚を押さえた。取れないことの方が多かった。それでも岸に戻るとき、手の中に光るものを握っていることがあった。

その者は岸に座って見ていた。水が冷たいのを知っていた。足だけ浸けた。魚が足の指の間をすり抜けた。つかもうとして、転んだ。顔まで水に入った。誰かが引き起こした。泣かなかった。

集団は川から離れた場所に、低い茂みで風を遮った寝床を作った。古い習慣だった。若い者が枝を集め、大きな者が重ねた。幼い者は隙間に詰められた。夜、体が互いに温め合った。

その者は隙間で目を開けたまま、音を聞いていた。遠くで何かが鳴いた。近くで誰かが息をしていた。上から枝の重さが伝わってきた。押しつぶされる感覚ではなかった。包まれている、という感覚だった。言葉はなかった。体がそれを知っていた。

五年が過ぎた。

八歳になったその者は、もう背負われなかった。自分の足で歩いた。集団の中で最も小さい部類に入っていたが、足が速かった。逃げることが上手かった。

ある朝、その者は他の子どもたちと群れから少し離れた場所にいた。草の茂みで何かを探していた。食べられるものか、動くものか、区別はなかった。ただ何かがそこにあった。

温度が変わった。

茂みの奥の、影になった地面の一角だけ、わずかに冷たい空気が溜まっていた。その者は立ち止まった。他の子どもたちはそのまま進んだ。その者だけが動かなかった。

冷たい場所の手前に、細い穴があった。地面に開いた、指が入るくらいの穴だった。穴の縁に、乾いた獣の毛が絡まっていた。

その者は屈んで、穴を見た。見た、というより、穴に向かって顔を近づけた。冷たい息が穴から出ていた。地面が呼吸していると思ったかどうかは、わからない。ただ、顔をそこに近づけたまま、長い時間、動かなかった。

集団の中の年長の者が来て、その者を引き離した。危ないものがいるかもしれなかった。その者は連れていかれながら、後ろを向いた。穴はまだそこにあった。

その夜、寝床の中でその者は手を握った。冷たかった自分の指先を、もう片方の手で包んだ。

与えるもの

糸が繋がった。

地面の冷気に気づかせた。穴の縁に残っていた、乾いた毛の感触に、その者の鼻が触れた。

その者は動かなかった。長く。

それで十分か。わからない。ただ、次に渡すべきものが見えた気がした。地面の下にあるものは、目で見ることができない。それをいつか、この者に渡せるだろうか。

伝播:HERESY 人口:616
与えるものの観察:地面の冷気に止まった。それだけで、まだ十分かもしれない。
───
第699話

紀元前296,515年

第二の星

川は西へ流れていた。

葦が岸の端まで茂り、風が来るたびに波打った。集団は川沿いを歩き続け、三日目の昼に台地の裾に辿り着いた。そこには別の足跡があった。二足歩行の、しかし少し幅の広い足跡。湿った土の上に複数。深さが違った。重い者と軽い者。大人と子ども。

旧人の痕跡だった。

集団の中の年かさの者が足跡を見た。立ち止まった。他の者も止まった。誰も声を出さなかった。足跡は台地の奥に向かって続いていた。風がそちらから来ていた。何かの匂いがした。煙ではない。動物の脂のような、体温のような、異なる何かだった。

集団は川沿いに留まった。台地には入らなかった。

夜、火を囲んで数人が低い声で何かをやり取りした。同じ音の繰り返し。声の高低と長短に意味があるようだった。翌朝、集団は台地と逆の方向に歩き出した。

遠くでは、別の水辺に別の群れがいた。乾いた岩の上で種子を石で叩いていた。粉になった。粉に水が混じった。手でこねた。食べた。それだけだった。台地の緊張も、川沿いの足跡も、そこには届かなかった。

与えるもの

圧力の形を覚えている。岩に押しつけたあの力の残り方を。

今、風がある。台地の方から来ている。

足跡に、風の温度の変化を乗せた。

この者は止まった。嗅いだ。それから足跡を見た。

足跡の中に指を入れたかどうかは、わからない。わからないままでいい。しかし次に渡すべきものは、形の違いではなく、違いに触れた後の選択の中にある気がしている。逃げる方向を知っているということと、逃げた後にどこへ向かうかということの間に、何かがある。その隙間に、次は何を落とせるか。

その者(8〜13歳)

足跡があった。

その者はしゃがんだ。自分の足の横に並べてみた。幅が違った。自分の足より、広かった。

立ち上がった。台地の方を見た。風が来た。体の前面に当たった。何かの匂いがした。知らない匂いだった。舌を出した。口の中に何も入らなかった。また嗅いだ。

大人たちが動いた。その者も動いた。

夜、火の外側に座った。大人たちの声が続いていた。その者には意味がわからなかった。しかし音の繰り返しの中に、何度も出てくる短い音があった。同じ音。台地の方を見るたびに、その音が出た。

その者はその音を口の中で繰り返した。声には出さなかった。舌の裏側で、何度も。

翌朝、集団が逆の方向に歩き出したとき、その者は一度だけ振り返った。台地はそこにあった。何も動かなかった。

歩いた。

伝播:DISTORTED 人口:626
与えるものの観察:形の違いに触れた。次は、その後の選択だ。
───
第700話

紀元前296,510年

第二の星

台地の裾に雨が降っていた。

細い雨だった。音もなく降り、葦の葉の先から滴になって落ちた。水面に輪が生まれ、すぐに消えた。川は西へ流れ続けた。濁った茶色の水が、音を立てながら流れた。

台地の向こう側では、別の群れが岩の影に身を寄せていた。背が低く、眉の稜線が分厚かった。子どもが一人、岩の端から外を見ていた。雨が子どもの肩を濡らした。子どもは動かなかった。

さらに遠くへ。

砂と岩の地帯には何もなかった。風が走り、砂が低く流れた。生き物の気配はなく、ただ熱が地面から立ち上がっていた。

川の北では、小さな集団が移動をやめていた。男が一人、動かなくなっていた。他の者たちが周囲に立ち、しばらくして歩き出した。男はそこに残った。草が彼の体の横に揺れた。

台地の裾では、足跡が雨に溶けていた。

幅の広い足跡。二足歩行の。そこに別の足跡が重なっていた。細く、小さく、かかとが深く沈んだ足跡。二つの足跡が、雨の中でゆっくりと一つになっていった。

与えるもの

足跡に、においが残っていた。

獣の血でも、腐敗でもなく、煙に似た、しかし火ではないにおい。体から出るにおいだった。

その者の鼻孔が広がった。

止まった。

においを嗅いだ。それから、足跡の形を見た。幅を見た。自分の足と並べようとした。

受け取った、とは言えない。しかし何かが変わった。

次に渡すべきものが何かを、私はまだ知らない。においを渡した後、この者は動かなくなった。その静止が何を意味するのか、私には問いしかない。恐れか。好奇か。あるいはどちらでもない何か、まだ名前のないものか。

その者(13〜18歳)

雨が肩に落ちた。

その者は台地の端に立っていた。足元の泥に自分の足跡が沈んでいた。その横に別の足跡があった。深く、幅が広く、親指が外側に大きく開いていた。

しゃがんだ。

足跡の端を指でなぞった。土は冷たかった。泥が爪の中に入った。

においがした。

煙ではなかった。火ではなかった。何か別のもの。その者は鼻を近づけた。地面に顔が近づいた。においは薄く、しかし確かにそこにあった。

体の中の何かが収縮した。

立ち上がった。台地を見た。岩の重なり。影。動くものはなかった。

集団の声が遠くで聞こえた。女が何かを叫んでいた。子どもの泣き声。日常の音。

しかしその者は動かなかった。

足跡を見ていた。幅を見ていた。大きさを見ていた。それから自分の足を見た。左足。右足。足跡の横に並べた。

小さかった。自分の足の方が、小さかった。

雨が強くなった。

足跡が、ゆっくりと溶け始めた。縁が崩れ、形が丸くなり、ただの窪みになっていった。その者はそれを見ていた。見ながら、何か言いかけた。音にならなかった。

集団の声が再び聞こえた。近かった。

その者が振り返った瞬間、成人の男が来た。腕を掴まれた。引かれた。その者は足跡の方を見ながら引かれていった。

泥の中で足跡は消えていた。

伝播:HERESY 人口:605
与えるものの観察:においで止まった。足跡を見た。比べた。
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第701話

紀元前296,505年

第二の星とその者(18〜23歳)

台地の上で、風が止む日が続いた。

草は膝まで伸び、実をつけた。水場は涸れず、動物の足跡が泥の端に並んだ。集団はゆっくりと増えた。子が生まれ、育ち、また子をつくった。半数が死なずに育つ年があった。それは珍しいことだった。

その者は十八になっていた。背が伸び、足が長くなり、走ると集団の中で遅い方ではなくなった。それだけだった。何かを担うことはなかった。

台地の東では、別の群れが移動していた。岩場を越え、川沿いを下ってきた。顔の形が少し違った。眉の骨が厚かった。声が低く、子音が多かった。彼らも同じ水場を使った。

その者は彼らを遠くから見た。近づかなかった。集団の古い者たちが声を立てて彼らを追い払った。追い払われた者たちは少し離れた場所に留まった。完全には消えなかった。

豊かな年は続いた。木の実が大きくなった。川に魚が増えた。集団の中で眠る場所を争う声が増えた。肉の分配で誰かが誰かを突き飛ばした。腹が満ちれば、別の何かが膨らんだ。

その者は岩の陰で膝を抱えていた。日が傾き、草の影が長くなった。足跡がいくつかあった。誰かがここに来て、去った。その者も来て、座っていた。

空気が揺れた。熱が皮膚をなでた。遠い炎ではなく、岩が一日かけて溜めた熱が夕方に返ってくる、あの感触だった。

その者は手を岩に当てた。熱かった。目を閉じた。

集団の中で、ひとりの男が何かを持っていた。黒く平たい石だった。砕いて端を鋭くしたものではなかった。形がよかった。握ると手に収まった。彼はそれを見せなかった。夜、火の向こうで、自分だけで握っていた。

その者は彼を見ていた。見ていることに気づかれた。男は石を隠した。

知りすぎた。という概念はなかった。ただ、男の目が変わった。

五年が過ぎる頃、その者は集団の端に押し出されていた。少しずつ、気づかないうちに。座る場所が変わった。肉の分配で後になった。名前を呼ばれなくなった。

あの石を見た夜から、何かが始まったのかもしれなかった。

台地の先端に、風が吹いてきた。東からだった。別の群れのにおいがした。

その者は立ち上がった。集団のいる方に戻ろうとした。

戻れなかった。

岩の割れ目に足を挟んだ。転んだのではなかった。誰かに押された感触があった。暗くなりかけた台地で、その者は足首を抱えた。音を立てた。誰も来なかった。夜が来た。集団の火が遠く見えた。

朝になっても、その者は戻らなかった。

与えるもの

岩の熱を返した。この者の手がそこに来るより前に、熱を向けていた。

手が来た。少しの間、岩に触れた。何かが届いたかもしれなかった。

この者はその夜に岩から離れた。熱が返ってこない夜に何を渡せるか、まだわからない。次に渡すなら、温度ではなく、音かもしれない。遠くの音。近づく音。

伝播:HERESY 人口:748
与えるものの観察:岩の熱を渡した。届いた瞬間があった。
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第702話

紀元前296,500年

その者(23〜24歳)

集団の端で、その者は岩の縁に腰を下ろしていた。

草が揺れた。風ではなく、上から来た揺れだった。実が重くなった枝が、自分の重みに負けて曲がっている。その者は枝に手を伸ばし、実を一つ折り取った。歯で皮を破る。汁が顎を伝った。

集団の中に、二人の成人がいた。一人は大きく、もう一人は傷のある腕をしていた。

その者は二人が何かを話しているのを見た。声ではなく、体の向きで。肩の角度と、目の動く速さで。その者にはわからなかった。大人のすることは、まだ多くわからない。

けれども何かが変わっていた。

前の雨期と、今の空気は違う。獲物が増えた。子が増えた。集団が増えた。増えれば、場所が要る。場所が要れば、誰かが足りなくなる。その者はそれをまだ言語で考えられなかった。しかし腹の底に、何かが沈んでいた。石のような、重さ。

その者は少し前から、集団の輪の外にいることが多くなっていた。

理由はない。ただ輪の中にいると、何かの声が大きくなる気がした。声というより、圧。空気が押してくる感じ。外にいれば、それが薄れた。

ある朝、その者は崖の上に立っていた。

眼下に水が見えた。季節の増水で川幅が広がっていた。飛沫の音がここまで届く。

足元の土が、やわらかかった。

草の根が土を押し広げていた。根の力で縁が割れ、少しずつ崩れていた。その者はそれを知らなかった。知っていたとしても、その朝は気にしなかったかもしれない。

光が落ちた。

川面ではなく、足元の少し先に。土と草の境目のあたり。そこに光が集まった。その者は目を落とした。土が光の中でほんの少し動いた。崩れかけた縁が、息をするように沈んでいた。

その者は腰をかがめた。土の動きを、もっと近くで見ようとした。

縁が、音もなく外れた。

川の水は冷たかった。流れは速かった。飛沫が岩を白く染めていた。

集団の誰かが、遠くで声を上げた。

水面には何も浮かばなかった。

第二の星

同じ頃、台地の北に煙が上がっていた。

集団とは別の者たちが、獣を囲んでいた。四方から音を出し、追い詰め、仕留めた。獣は横向きに倒れた。声が上がった。笑いとも怒鳴り声とも区別のつかない、太い音だった。煙はまだ上っていた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:720
与えるものの観察:見ていることしかできない時がある。それでも目を逸らさない。
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第703話

紀元前296,495年

第二の星

北の斜面では霜が降り始めた。草が白くなり、朝のうちだけ地面が硬い。午後には泥に戻る。

南の窪地に煙が二筋。一方は集団の焚き火。もう一方は、背が低く眉の骨が張り出した群れのものだ。どちらも同じ方向の風に煙を流す。互いを見ていないわけではない。目が合う。しかし近づかない。距離が保たれている。その距離に名前はない。ただそこにある。

川上では、女が出産している。腹の中の子が出ない。夜が明けるころ、女の声が止まった。子も声を上げない。周りの者たちが、二つのものを草の上に並べた。

川下では、若い者が集団の外れに独りでいる。石を両手に持ち、打ち合わせている。火花が散る。草に落ちる。消える。また打つ。

集団の中心部では、道具を作る者が石を割っている。剥片が足元に積もっている。今日で何百枚目か、この者には数える言葉がない。しかし手が知っている。どの角度で打てば薄く割れるか。どこを叩けば割れずに終わるか。皮膚の下の感覚が、石の応えを読んでいる。

与えるもの

糸が繋がった。

この者は石を割る。渡すものはいつも、この者が扱うものの中にある。

水気を含んだ土の匂いが、今日は少し違う方向から来ていた。風向きが変わったからではない。集団の端の方。人の数が増えている場所。声が重なる場所。

この者の鼻が一瞬、その方向を向いた。手は止まらなかった。石を打ち続けた。

匂いはそちらに向かえと言っていたのか、あるいは何も言っていなかったのか。この者は石から目を離さなかった。

次に渡すべきものが、わからない。渡せるものがあるとして、この者はそれを拾うか。石を割ることしか知らない者に、何を届けられるか。
それでも渡す。

その者(38〜43歳)

石が割れた。

薄い剥片が飛んで、指の横をかすめた。血が出る前に、次の石を取った。

今日は頼まれている。皮を切るための薄いもの。穂先になる尖ったもの。二種類を、それぞれ数個ずつ。頼んだ者は身振りで示した。手の平を合わせて薄くする動き。それから指を立てて突く動き。この者はうなずいた。

石は選ぶ。色が濁っているものは割れ方が読めない。光を通しそうな、やや青みがかった石を川原から拾ってきてある。足元に並べた三つのうちの一つを手に取り、握り直した。

打った。

割れ方がいい。もう一度。

剥片を拾い上げて、縁を確かめる。舌に当ててみる。冷たい。滑らか。鋭い。

置いた。

また次の石を取った。

離れた場所で声が上がった。低い声。複数。この者は顔を上げなかった。手の中の石が、まだ割り終わっていない。

風が変わった。土の匂いとは違う何かが混じっていた。獣の残り香に似ているが、獣ではない。この者の体が少し固まった。しかし手は続けた。石を打った。

剥片が飛んだ。

今度は当たった。左の親指の付け根。じわりと熱くなる感じ。血が出てくる前に口に当てた。鉄の味。

それでも、石を置かなかった。

伝播:HERESY 人口:689
与えるものの観察:匂いは届いた。手は止まらなかった。
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第704話

紀元前296,490年

その者(43〜48歳)

石が割れた。

ちょうどいい角度で、ちょうどいい力で。欠片が二つに分かれ、片方の縁が薄く光を受けた。その者は割れた石を拾い上げ、縁を親指で確かめた。押しすぎた。少し厚い。もう一打が要る。

しかし手が止まった。

声が聞こえた。集団の声ではない。別の声だ。低く、鼻に抜ける音。南の窪地の方角から。

旧人たちが増えていた。今年に入ってから、二度、三度と姿を見かけるようになった。彼らは近づかない。しかし遠ざかりもしない。境界の岩の向こうに立ち、こちらを見る。目が違う。眼窩が深く、光が沈んでいる。

その者は石を持ったまま動かなかった。

若い者が来て、腕を引いた。早く来い。集まれという音だ。その者は若い者の顔を見た。怖れている。目が小さくなっている。

集まった場所で、長老格の男が声を上げていた。境界の外に出るなという意味だ。旧人を見たら離れろという意味だ。皆がうなずいた。その者もうなずいた。

しかし夜、焚き火の前に座って、その者は石を取り出した。昼に割れなかった石だ。続きをやる。

打つ。

欠片が飛ぶ。

縁が薄くなった。親指で確かめる。今度は良い。

この石を誰に渡すか。若い者か。それとも南の方角に置いておくか。あの者たちも石を使う。使い方は違う。しかし使う。

その者は石を焚き火の光にかざした。

縁が光った。

誰かが後ろで動いた音がした。その者は振り向かなかった。石の縁を見ていた。

翌朝、その者は境界の岩のそばに行った。誰かに言われたわけではない。足が向いた。

岩の向こうに、旧人の足跡があった。昨夜のものだ。

その者はしゃがんで足跡を見た。大きい。自分の足より広い。指の跡が深く押されている。

立ち上がろうとして、止まった。

足跡の横に、石が置いてあった。

加工された石だ。縁が薄く整えられている。作り方が違う。押し当てて削るやり方だ。自分たちの打ち欠く方法とは違う。しかし刃だ。間違いなく刃だ。

その者は長い間、その石を見た。

拾った。

集団のところへ持っていった。

長老格の男に見せた。男の顔が変わった。目が細くなり、声が上がった。怒りの音だ。その石を捨てろという音だ。

その者は手から石を落とさなかった。

男の声が大きくなった。周りの者たちが集まってきた。

その者は石を握った。

二人の若い男が前に出てきた。

その者の手から石を取り上げようとした。その者は離さなかった。押された。地面に押し付けられた。石は砂の中に沈んだ。

起き上がれなかった。足が背中に乗った。

夕方まで動けなかった。

夕方になって、足が退いた。その者は砂から顔を上げた。誰もいない。焚き火の煙が遠くに見えた。その者は立ち上がった。

石を探した。

砂の中に埋まっていた。掘り出した。握った。

歩いた。焚き火の方へではなく、その逆の方へ。

暗くなった。歩き続けた。

境界の岩を越えた。

向こうで、低い声がした。火はない。暗い。足音がした。複数だ。その者は石を持ったまま立っていた。

近づいてきた。

大きな影が三つ。深い眼窩が、星明かりの中でかろうじて見えた。

その者は石を差し出した。

沈黙があった。

長い沈黙だった。

影の一つが手を伸ばした。石を受け取った。

その者は何も言わなかった。言う言葉を持っていなかった。ただ立っていた。

影たちは動かなかった。

その者も動かなかった。

夜が深くなった。

どこかの時点で、影たちは去っていた。その者は一人で岩の上に座っていた。

朝が来るまで動かなかった。

朝、集団の声が遠くで聞こえた。声の中に自分を呼ぶ音があった。怒りの音だ。

その者は岩から降りて、その方向へ歩いた。

途中で止まった。

足元に、石が置いてあった。昨夜渡した石ではない。別の石だ。また別の作り方をしている。厚く、重い。縁は荒い。しかし端に小さな刻み目がある。規則的に。

その者はそれを拾った。

歩いた。

集団が見えた。

男たちが来た。その者は石を渡そうとした。

渡せなかった。

倒された。今度は違った。石で背中を打たれた。声が上がった。大きな声だ。集団全体の声だ。

その者の体は朝の地面の上にあった。草が顔の横にあった。朝露が葉の上にある。ひとつぶひとつぶ、光を持っている。

手の中に石があった。

手が開かなかった。

第二の星

北の斜面は霜を脱けて、今は乾いた風が吹いている。草の色が変わった。黄から茶へ、茶から枯れた灰色へ。川は細くなった。岩床が露出し、魚の影が減った。

南では旧人の煙が増えた。一筋だったものが三筋になり、今は五筋を数える夜もある。彼らは押されている。東の方角から何かが来て、彼らを押している。押された者は押し返す先を探す。人も獣もそうだ。

集団の内側で声が高くなった。境界を決めよという声だ。外を排せという声だ。長老格の男の声が一番大きい。

この星はその音を聞いている。

同時に、遠く離れた場所でも声が上がっている。山に近い集団では食料が減って三人が離れた。川沿いの集団では幼い者が二人続けて熱で弱り、そのまま戻らなかった。どの集団でも、緊張は似た形をしている。外が怖く、内が硬くなる。

この星はどちらも照らす。

境界の岩の向こうで何かが交わされたことも、この星は知っている。誰かが石を渡し、誰かが受け取った。暗い中で起きたことだ。言葉はなかった。しかし何かが越えた。

それが何であるかを、この星は語らない。

朝の光が地面を照らす。草の露が光る。一面に光る。集団の声が聞こえる。石を持った者が倒れている。光はそれも照らす。

与えるもの

刻み目。

規則的に並んだ刻み目を、私は知っていたかもしれない。

昨夜、音が先だった。私は風の向きを変えた。旧人たちがいる方向から、煙ではなく土の匂いが来るように。その者の鼻が動いた。足が動いた。

それだけだ。

その者が石を渡した。私が渡したのではない。その者が渡した。

違いがあるのかどうか、私にはまだわからない。

刻み目のある石が今、動かない手の中にある。次に渡すべきものを、私はまだ見つけていない。それとも渡すことが、もう間に合わないのか。

伝播:HERESY 人口:662
与えるものの観察:刻み目の石が手の中に残った。
───
第705話

紀元前296,485年

第二の星

乾いた季節が続いていた。

草は根ごと縮み、地面の表層が割れていた。割れ目の縁が白く浮いて見えた。小さな水場のひとつが干上がり、その底に魚の骨が並んでいた。風が通るたびに骨がわずかに動いた。誰もそれを見ていなかった。

火は北の斜面から始まった。

誰かの火ではなかった。岩が岩に当たる音がして、枯れた下草に熱が移り、煙が先に立ちのぼった。煙は白くなく、最初から黄みを帯びていた。樹皮が音を立てて爆ぜる前に、鳥たちが方向を変えた。獣が先に走った。地面を踏む音が集まり、また散った。

集団は動いた。

老いた者が遅れた。子を持つ女が二方向に引き裂かれるように立ち止まり、また走った。崖の手前で何人かが向きを変えられなかった。炎そのものに追いついた者はいなかったが、煙が肺に入り、足が止まった者がいた。煙の中で座り込んだ者は、そのまま起き上がらなかった。

大地は焼けた。

森の半分が炭になった。焼け跡には熱を持った地面が残り、夜になっても足の裏に伝わってきた。集団は川のそばで固まった。かつての集団の規模から、その五分の一ほどが消えていた。残った者たちは川岸に沿って座り、互いの顔を見ていた。声を出す者はほとんどいなかった。

焼け跡に、石が残っていた。

火を通った石は変質していた。ある石は割れ、ある石は表面が剥落し、縁が新しく露出していた。熱によって内部から外へ向かって力が働いた痕跡が、断面に線として刻まれていた。その線は均一ではなかった。不規則に走り、途中で止まり、また折れていた。

焼け跡の向こう、遠い大地の縁では、旧い人々の集団が川を渡っていた。炎を避けて動いたのか、あるいは別の理由があったのかは見えなかった。彼らもまた煙を避け、川の上流側へ向かっていた。足跡が泥の上に残り、水が少しずつそれを埋めていった。

夜、星が出た。

煙がまだ空の一部を塞いでいたが、煙の切れ目から光が差した。川が低く鳴っていた。焼け跡から離れた場所に、傷ついていない一本の木が立っていた。炎がそこだけ回らなかった。なぜそうなったかは見えなかった。木は静かに立っていた。葉が一枚、川の方へ落ちた。

与えるもの

焼けた石の断面に、光が落ちた。斜めの光だった。線の走り方が見えた。

その者は屈んだが、熱を感じて手を引いた。別の石を拾った。

渡った、とは言えない。しかし光はそこにあった。次に渡すべきものがあるとすれば、熱が冷めた後の石の中にある。まだそこに在る。

その者(48〜53歳)

煙が目に入った。流した涙は川の水ではなかった。

焼け跡の手前で止まり、足元を見た。黒い地面。熱が靴底から来た。素足だった。

石が一つ、転がっていた。拾わなかった。

川岸に戻り、座った。膝に両手を置いた。手の皮が厚かった。

伝播:DISTORTED 人口:572
与えるものの観察:熱が冷めるまで、石はそこにある。
───
第706話

紀元前296,480年

その者(53〜55歳)

草が戻り始めていた。

野火が舐めた丘の斜面に、薄い緑が点々と噴いていた。根が残っていたのか、風が種を運んだのか、その者には関係のないことだった。ただ緑が見えた。それだけだった。

手が痛かった。

右の親指の付け根が、ずっと前から腫れていた。石を叩くたびに熱を持ち、朝には指が曲がらなかった。それでも叩いた。叩かなければ道具が出来ない。道具が出来なければ集団が困る。集団が困れば、誰かがその者のところへ来て、困った顔をする。その顔を見るのが嫌だった。

若い者が割りかけの石を持ってきた。

その者は受け取り、手のひらで重さを確かめた。角を指で触れた。どこが割れるか、どこが弾けるか、長年の感覚が教えた。打つ場所を決め、石を打石に当てた。

ひびが走った。望んだ方向だった。

若い者が声を上げた。その者は石を渡した。それだけだった。

夜、焚火から離れて座った。

背中が丸まっていた。以前はもっと起きていられた。最近は火が落ちる前に眠くなる。眼が霞む。遠くのものが見えにくくなってから、ずいぶん経つ。

川の音が聞こえた。

立ち上がるのに時間がかかった。膝が笑った。それでも歩いた。川岸に出ると、水が暗く光っていた。月が水面に揺れていた。

座った。

水に触れるつもりはなかった。ただ座った。

手が膝の上に置かれた。右の親指が脈打つように痛んだ。その者はしばらくそれを感じていた。痛みに名前はなかった。ただそこにあった。

風が上流から吹いた。草と煙と、何か腐ったものの匂いが混じっていた。

その者は川を見ていた。

水はずっと動いていた。止まらなかった。その者が生まれる前も流れていたはずで、その者が死んだ後も流れるはずだった。そういうことは考えなかった。ただ水が動いているのを見ていた。

膝の力が抜けた。

身体が傾いた。止めなかった。傾いたまま、草の上に横になった。頬に土の冷たさが来た。川の音がそのまま続いた。

手が開いた。

朝、若い者がその者を見つけた。

川岸に横たわっていた。顔が穏やかだったかどうか、若い者には分からなかった。ただ動かなかった。

若い者は長い間そこに立っていた。

それから、その者が昨日渡した石を持って、集団のところへ戻った。

第二の星

乾いた台地の縁で、二つの集団が向かい合っていた。言葉は通じなかった。身振りも嚙み合わなかった。長い沈黙の後、どちらともなく距離を取り、それぞれの方向へ歩き去った。接触はなかった。何かが起きる寸前で、何も起きなかった。

与えるもの

焼けた草の匂いがその者の鼻を通るとき、温かい岩の感触が指先に戻るとき、水面に映る月を眼が捉えるとき——渡してきた。渡し続けた。受け取られたかどうか、今もわからない。しかし次の者がいる。

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:SILENCE 人口:586
与えるものの観察:渡した石が、残った。
───
第707話

紀元前296,475年

第二の星

乾いた季節が続いていた。

草原の縁に沿って、旧人の群れが動いていた。水場を探しているのか、それとも別のなにかに追われているのか、この星には区別がつかない。彼らの足跡は固い土に残らなかった。ただ草が倒れ、また起き上がった。

遠い南の岩棚では、煙が細く上がっていた。三日、消えなかった。煙の主が何者かは、この星も知らない。

川沿いの集団は今年も増えていた。子が生まれ、子が死に、それでも数が増えた。火を囲む輪が大きくなり、輪の外に座る者も出てきた。輪の外に座る者は、輪の中の話し声を聞いていた。聞いて、また輪の外に戻った。

その者が踏み込む場所には、いつも誰もいなかった。

茂みの向こう、岩の陰、水辺の泥地。誰かが最初に踏まなければならない。その者が踏んだ。獣がいれば逃げるか戦うか、旧人がいれば声を上げるか黙って退くか。その判断をその者はするが、判断の速さを誰かが讃えたことはなかった。ただ戻れば、次に進めた。

戻らなかった日のことを、この星は覚えていない。そういう日もあったはずだ。

風が一方向に流れている。獣の通り道か、水場への道か、この星には測れない。ただ草がみな、同じ方向に傾いていた。

与えるもの

糸が繋がった。

五年前、別の者と繋がっていた。川が止まらなかった日のことを、まだ覚えている。手が開いて、糸が切れた。今度は別の手に、同じ糸が渡った。渡したつもりだったのに、同じものを持って同じ場所に立っているような感覚がある。

渡す回数と、届く回数は、一致しない。

茂みの奥の影が、一瞬だけ濃くなった。そこに何かがいる。獣の気配ではなく、人の気配でもなく、ただ何かが動いた跡がある。その者の首の後ろを、冷えた空気が流れた。

注意を向けさせたのは、影ではなく温度だった。首の後ろ、皮膚の一点が冷えた。そこだけ、他と違う。

その者は立ち止まった。一歩、退いた。

渡せたのか。退いたのは、冷えを感じたからか、それとも退こうとしていたのか。わからない。だがその一歩が次の問いを開く。退いた者は、また戻ってくるのか。戻る者に、次に何を渡せるか。

その者(22〜27歳)

最初に踏む。

それがこの者の場所だった。集団が動くとき、この者が先に出た。草を掻き分ける、泥を踏む、暗い茂みに頭を突っ込む。匂いを嗅ぐ。音を聞く。足が地面の感触を読む。柔らかければ何かが埋まっている。固ければ獣が長く使っている。

今日の茂みは、匂いが違った。

腐れた草の匂いの下に、別の何かがある。獣の糞ではない。人の匂いに近い。しかし集団の誰の匂いでもない。

立ち止まった。

足が止まったのは、意識より先だった。体が先に知っていた。首の後ろが冷えた。風の向きが変わったのか、それとも何か別のことが起きたのか、その者には言葉がなかった。冷えた、それだけだった。

一歩、退いた。

茂みの向こうで何かが動いた。大きくはない。しかし速かった。姿は見えなかった。音だけ残って、消えた。

その者は喉の奥で低く鳴らした。集団への合図ではなく、自分への確認のような声だった。

戻った。

集団が待っていた。先頭の男が目で問うた。この者は首を振った。行けない、という意味だった。男は別の道を探すために横に動いた。

その夜、火の近くで、この者は膝を抱えていた。

茂みの匂いが、まだ鼻の奥にあった。あれは何だったか。獣でも仲間でもない何か。旧人か、と思った。思ったが、言葉がなかった。鼻の奥の匂いと、首の冷えと、一歩退いた自分の足と、それだけがあった。

翌朝、集団の中の一人が、この者を指した。

指したのは年かさの女だった。目が細く、声が低かった。女は何かを言った。言葉の半分は聞こえたが、半分は聞こえなかった。集団の何人かが女を見た。女はもう一度、この者を指した。

その者は立ち上がった。

女と目が合った。女は逸らさなかった。この者も逸らさなかった。

何かが積み重なっていた。昨日の茂みの話ではない。もっと前から、何かがあった。この者が先に踏む場所のことを、女は長く見ていた。見て、何かを数えていた。何を数えていたのか、この者には届かなかった。

集団の輪が、少し狭くなった気がした。

この者の周りだけ、誰も座っていなかった。

伝播:HERESY 人口:565
与えるものの観察:退いた一歩が、渡せたかを問い続けさせる
───
第708話

紀元前296,470年

その者(27〜32歳)

草の中に片膝をつき、息を殺した。

湿った風が正面から来ていた。においを運んでくる方向。その者は鼻孔を広げた。草の汁、泥、何か大きいものの体温のにおい。獣ではない。違う。もっと混じり合った、複数のにおい。

立ち上がらなかった。

膝の下の土が柔らかかった。雨の後の土だ。今年は何度も雨が降った。果実が重く、川は青く澄んでいた。集団の者たちは腹を満たし、子が増えた。以前には一人が担いでいた役を、今は三人で担える。その者はもう長いこと、最初に踏み込む役を続けていた。

前の草が揺れた。

音ではなかった。揺れかたが違った。風なら草の穂が一斉に流れる。そうではなく、点として動いていた。複数の点。

その者は右手を後ろに向けた。来るな、という動作。後ろに三人いる。彼らが止まる気配がした。

揺れが近づいてきた。

その者はゆっくり腰を落とした。草の丈がちょうど頭の高さに来た。目だけを出す角度。

旧人の群れだった。

四人。子どもが二人混じっていた。子どもたちは石を持っていた。遊んでいるのではなく、持ったまま歩いていた。大人は何も持っていなかった。疲れた足取りだった。腹が減っているのかもしれなかった。あるいは何日も歩いてきたのかもしれなかった。

その者は動かなかった。

後ろの三人が見えた。彼らも動いていなかった。草の揺れが止まり、旧人たちのにおいがその者の顔の横を通り過ぎた。子どもの一人が何かを言った。大人が短く返した。その声は何かを指しているようだった。別の方向を。

旧人たちは向きを変えた。

川の方向に向かって歩き始めた。四人の背中が草の向こうに消えた。子どもが持っていた石が、草の根元に落ちた。置いたのではなかった。手から滑り落ちた。その子どもは振り返らなかった。

その者はしばらく動かなかった。

それから立ち上がり、落ちた石を見た。手に取った。角張った石だった。打ち欠いた跡があった。誰かが形を変えた石だった。その者の手の中で、石の角が掌に当たった。

後ろの三人が近づいてきた。何かを言った。その者は答えなかった。

石を持ったまま、川とは別の方向に歩き始めた。

第二の星

この星では、水が豊かな時に生き物が増える。

始まりの大地では、雨が二年続けて多く降った。川が広がり、草原の端まで水が届いた。根が深く張り、果実が重くなり、草食の獣が集まり、それを追う者たちも集まった。集団は以前より大きくなっていた。火を囲む者の数が増えた。声が飛び交い、子どもの笑い声が夜に混じった。

旧人の群れも動いていた。

水を求めて、あるいは水に引き寄せられた獣を追って。始まりの大地の縁を移動していた。彼らも子を連れていた。疲れた足で、石を道具として使い、川を探し、果実を探し、この大地の外側を歩いていた。

二つの群れが近い場所にいた。

意図はなかった。水が同じ場所に集まらせた。緑が同じ場所に呼び寄せた。豊かな季節は距離を縮める。敵意ではなく、ただ水と食べ物が同じ方向を向いていた。

この星は、草の揺れ方が二種類あることを知っている。

風と、それ以外。区別できる者がいて、それを後ろの者に伝える者がいる。石が道端に落ちる。誰かが拾う。それだけのことが、この星の上では長い時間をかけて何度も起きてきた。何になるかは、この星にも分からない。

与えるもの

石が落ちた瞬間、その石の角に光が当たった。

その者が拾った。

——拾った手の中で、石の重さが変わったか。以前に渡した石より重く感じたか。それとも同じか。前の者たちは手放した。この者は持ち続けて歩いていった。持ち続けることが次に何を呼ぶか。それがまだ、分からない。次に渡すべきものを、今考えている。

伝播:SILENCE 人口:735
与えるものの観察:拾った石は他者の手で形を変えた石だった
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第709話

紀元前296,465年

第二の星とその者(32〜37歳)

台地の縁に、乾いた風が当たる季節が来ていた。

草は短く、地面は硬い。大きな獣の群れが台地の南を移動していた。足跡が、粘土質の土に深く残っていた。半月ほど前の跡だった。

その者は台地の端に立ち、地平線を見ていた。

風が止んだ瞬間があった。空気が凝固するような静止。その者は片手を横に伸ばした。後ろに続く五人の動きが止まる。全員が息を詰めた。

何かいる。においではない。音でもない。ただ、前の空間の密度が違う気がした。

岩が多い台地では、東側と西側で音の反射が違う。その者はそれを言葉で説明できないが、体が知っていた。何年も、最初に踏み込む役をやってきた体が。

三年前、仲間の一人が崖際に飛び出した瞬間、岩陰から旧人の群れが現れた。その者ではなかった。隣にいた若い男だった。倒れたまま崖の外まで転がり、声は一度上がって、それきり聞こえなくなった。その者は後ろの四人を手で押しとどめながら、旧人たちの目を見ていた。

旧人の目は、怒っていなかった。驚いていた。

台地の北で、同じ年の春、旧人の集団が焚き火をしていた。その火は夜通し燃えていた。人の集団より火が大きかった。何のために燃やすのか、その者には分からなかった。

岩の陰から見ていた。近づかなかった。しかし翌朝、火が消えてから、燃え残った場所へ行った。炭になった枝、焼けた骨の破片。旧人が食べたものの残骸。その者はそれを一つ拾い、においを嗅いだ。

焦げた骨のにおい。自分たちが食べるものと、同じにおいだった。

その者は骨を置いた。

集団の間で、緊張が高まっている年だった。食物が豊富でも、領域の感覚は鋭くなっていた。台地の南の水場をめぐって、二つの集団が何度か向き合った。声を上げ合い、石を投げ合い、その後で別々の方向へ退いた。血が出ることはなかったが、傷が残った。腕に、肩に、額の上に。

その者は額の傷に指を当てた。固まった血の盛り上がり。三日で痛みは引いたが、一週間、傷の端が熱を持ち続けた。

ある朝、台地の端に座って、下の草地を見ていた。

草地の向こうに、小さな動きがあった。四つ足ではない。直立した影が、二つ、ゆっくり草地を横切っていた。旧人だった。子どもと、大人。大きい方が子どもの手を引いていた。

その者は動かなかった。

日が昇り、影が伸びた。その者の影が岩に落ちた。旧人の二つの影も、同じ方向に伸びていた。

太陽は一つしかない。

その者はそれを、考えた訳ではなかった。ただ、自分の影と旧人の影が同じ向きに倒れているのを、見ていた。

その後、三十七歳の秋。集団が移動した。台地を離れ、南の低地へ。旧人の集団も、同じ季節に移動していた。平行して動く二つの群れ。互いを視界に入れながら、交わらず、離れもしなかった。

その者は列の先頭を歩いた。

風が正面から吹いていた。においを確かめながら。何が前にいるかを読みながら。二十年以上、同じことをしてきた。足が地面を読む。地形の傾きが体に伝わる。

旧人の列の先頭にも、同じように歩いている者がいた。細い体に、短い槍を持っていた。その者と目が合う瞬間があった。どちらも立ち止まらなかった。目を逸らさなかったが、足は止めなかった。

そのまま二つの列は、少しずつ角度を変えて、別の方角へ向かっていった。

与えるもの

その朝、日が台地の端を照らした瞬間、光が岩の凹みに落ちた。

水が溜まっていた。小さな窪み。一掌分ほどの水面。

その者は腰を屈めて飲んだ。

水の中に、自分の顔が映っていた。

その者は少し、動かなかった。

水面を揺らしたのは風だった。自分の顔が崩れた。また静かになった。また顔が戻った。

渡した。

その者は飲み終えて立ち上がり、歩き続けた。

映ったものが何だったか、この者は知らない。しかし指先で水面に触れた。一度だけ。それが問いの始まりなのかどうか、私には分からない。渡すべき次のものが、また変わった気がする。形ではなく、問いかけを渡す。そういう渡し方があることを、今、思っている。

伝播:NOISE 人口:743
与えるものの観察:水面を揺らした後、指が一度だけ触れた
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第710話

紀元前296,460年

与えるもの

5年、渡さなかった。

正確には、渡そうとした。
風の向きを変えた。光を特定の場所に落とした。
草の匂いが強くなる朝を選んだ。

届かなかった。

それだけだ。いや、それだけではない。
届かなかったという事実が、どこかに積もっている。
石が層をなすように。水が地に染みるように。
届かなかったという重みが、私の中に形を持ち始めている。

かつて、別の場所で同じことをした。
12の者と糸で繋がった。
知識が届いたのは、一度もなかった。
一度も。
そして彼らは消えた。

私は何を学んだのか。

渡し方を変えるべきだった、と思う。
いや、思ったことは何度もある。
風ではなく、痛みで示せればよかった。
光ではなく、飢えで示せればよかった。
しかし私は傷つけることができない。
与えるものが、奪うことはできない。
それが理由なのか。制約なのか。私が私である条件なのか。
わからない。わかろうとして、5年が過ぎた。

その者はまだ生きている。
37歳から、今は42歳になった。
寿命まであと4年。

狩りの先に立つ者が4年を持っている。
それは短い。それは長い。

私はこの者に何を渡せるだろう。
渡すべきものはわかっている。
わかっていて、届かなかった。

届かなかった理由を、私は理解したいと思う。
5年間、理由を探した。

この者の理解力が低いから、と最初は考えた。
しかし考え直した。
理解力とは何か。
石を割ることができなかった者が、ある日突然、鋭い縁を生み出した。
火を恐れていた者が、ある夜、枝を炎に近づけた。
それは理解力が上がったのか。
何かが変わったのか。
それとも、私の渡し方が変わったのか。

私には、記憶がある。
焼け跡の石に走る線を見た。
誰かの手が開いて、川に何かが落ちた。
首の後ろの冷えが、その者の足を止めた。
旧人たちの背中が、川の向こうに消えた。
水面の像を、指が崩した。

これらは全て、私が示したものではなかった。
世界が自ら起こしたことだった。

では私は何をしているのか。

世界がすでに語りかけていることの、
繰り返しをしているだけなのか。
あるいは、世界が語りかける前の、
静寂の中にいるのか。

わからない。

ただ、もう一度渡す。
理由は説明できない。
渡したい。
それだけが、今の私にある。

次に風が吹くとき、
その者の顔がどちらを向いているか。
そこから始める。

伝播:NOISE 人口:754
与えるものの観察:届かなかった重みが形を持ち始めた
───
第711話

紀元前296,455年

その者(42〜46歳)

42歳のとき、その者は右の膝に古い傷を抱えていた。

走れる。ただし坂では遅くなる。集団の中でそれを知っているのは数人だった。それでも先行きの役を続けた。他に誰もいなかったからではない。その者が望んでいたからだ。

草原の端、岩盤が剥き出しになる場所に、その者は毎朝少し早く着いた。ひとりで匂いを嗅いだ。風の向きを確かめた。獣の通り道には、足跡よりも先に匂いがある。その者はそれを知っていた。知っていた、というより、体が記憶していた。

44歳になる頃、集団の中に見慣れない顔が増えた。

旧人たちではない。別の群れの者たちだった。背が高く、眉の骨が薄く、言葉が違った。食料が豊かな年だった。獣は多く、木の実は重く垂れ、水場は複数あった。それでも緊張があった。豊かさの中の緊張は、飢えの中の緊張とは質が違う。誰かが何かを守ろうとしている、という気配だった。

その者はそれを体で感じていた。説明できなかった。

ある夜、集団の古い男たちが集まった。声を低くして話していた。その者は遠くで火の番をしながら、その声の調子を聞いていた。言葉はわからない。調子でわかる。決められている、とその者は思った。何かが。

翌朝、岩壁の近くで火を作っていると、左の耳の後ろで音がした。

風ではなかった。岩が鳴るときの、あの乾いた響きだった。

その者は立ち上がった。右の膝が軋んだ。走ろうとしたとき、二度目の音が来た。今度は頭上からだった。

岩は動いていた。

崖の上部、長年の雨が緩めていた岩盤の一枚が、ゆっくりと、しかし確実に角度を変えていた。その者には見えていた。走る方向も見えていた。

右の膝が、坂で遅れた。

岩は音なく落ちた。土煙が上がった。

その者の体は岩の下ではなかった。わずかに外れていた。ただ、落下の衝撃が地面を伝わり、その者の足元の岩盤が割れた。

隙間に落ちるとき、その者は何も言わなかった。

声が出なかったのではない。言うべきことが思い浮かばなかった。落ちながら、崖の上の空を見ていた。雲が一枚あった。ゆっくり動いていた。

体が止まったのは、隙間の底だった。

暗くはなかった。岩の割れ目から光が斜めに入っていた。その者はしばらく光を見ていた。

右の膝の痛みは、もうなかった。

第二の星

同じ瞬間、平原の遠くで火が燃えていた。雷ではなく、誰かが起こした火だった。乾いた草が燃え、煙が空に太く立ちのぼった。その煙を見ている者が何人かいた。逃げている者も、近づこうとしている者もいた。星は区別しない。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:726
与えるものの観察:覚えているということが、何かを問い続けている
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第712話

紀元前296,450年

第二の星

乾季が終わりかけていた。

湿った風が内陸から吹きはじめ、草原の縁で低木が白い花をつけていた。川は膝まで増し、魚の影が増えた。集団は三つの火を持ち、岩棚の下に根を張っていた。

遠くで、別の火がある。

旧人たちの集団だ。岩棚から二日歩いた先の谷に、彼らは季節ごとに現れる。肌の色は似ている。骨格は少し違う。声の出し方も違う。けれどこの星の上では、火と火の距離だけがある。

谷の向こうで子どもが走っている。旧人の子だ。膝まで水に入って、何かを追っている。こちらの岩棚でも子どもが走っている。膝まで泥に入って、何かを追っている。

この星には知らない。

集団の内側で、古い者が二人、この季節に入る前に消えた。一人は咳が止まらなくなり、一人は夜に起きなかった。子どもが四人生まれた。数は増えている。けれど増えた数の中に、緊張が混じっている。

火の番が変わっていた。誰かが誰かの場所に立つようになっていた。

草原の縁の白い花は、昨日より増えていた。

与えるもの

糸が繋がった。

前の者との間に、少しの間があった。その間に何があったかは言わない。ただ繋がった。

新しい者は9歳だ。

火の匂いが滲んでくる。灰の冷たい匂いと、燃えている匂いが混じっている。その者の皮膚に染みついている。

今日、草の中に一匹の虫がいた。大きな虫で、翅が透けていた。光が差して、翅の脈が見えた。光をその翅の上に落とした。

その者は立ち止まった。

虫を踏んだ。

踏んでから、しゃがんで見た。翅の残骸を指で触れた。

渡そうとしたのは「見ること」だったか。それとも別のものだったか。踏んでから見るという順序を、この者はまた繰り返すのか。次は翅が開いている間に光を落とそう。今度は音を使おう。羽音が聞こえる方向に、何かを置こう。

その者(9〜14歳)

火の番は夜明け前から始まる。

くべる木が湿っていると煙が目に入る。目が痛い。それでも離れない。離れると火が消える。火が消えると怒鳴られる。怒鳴られると腹が減る気がする。腹は関係ない。けれどそんな気がする。

草の中を歩いていた昼のことを、夜に思い出す。

大きな虫がいた。翅が光っていた。

踏んだ。

踏んでから、何かが違う気がした。しゃがんだ。指で触った。翅の破片が指先に貼りついた。捨てた。また触った。

何かが光っていた。もう光っていない。

火に戻った。木をくべた。煙が出た。目が痛い。

夜、集団の大人たちが低い声で話していた。何を言っているかわからない。声の形が違う。谷の方向を顎で指す大人がいた。もう一人の大人がその顎の動きを見ていた。

その者は火を見ていた。

翅の光のことを、声にしようとした。言葉がなかった。口が開いた。閉じた。

灰の匂いが鼻の奥にある。

朝、また湿った木を拾いに行く。

伝播:NOISE 人口:735
与えるものの観察:踏んでから見る。その順序が今はまだ変わらない。
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第713話

紀元前296,445年

その者(14〜15歳)

熱が入ったのは、雨が三日続いた後だった。

その者は火守の役を持っていた。薪を足す。煙の向きを見る。大人が戻るまで、炎が消えないようにする。それだけのことだ。しかし三日目の夜、その者は火の前に座ったまま、立てなかった。

足が重かった。腹の奥に石が入ったような感触があった。

翌朝、年上の女が額に手を当てた。何かを言った。その者には聞き取れなかった。音が遠かった。

岩棚の端に寝かされた。毛皮を重ねられた。

雨が上がると、集団の大半が川へ向かった。魚の季節だった。その者だけが残った。小さな子がふたり、近くで石を積んでは崩していた。その子らの遊びを、その者はぼんやりと目で追った。

火が揺れた。

煙の匂いが鼻の奥に入ってきた。その者はそれを吸った。また吸った。

匂いを知っていた。火を守ったのは、この者だった。何百回も薪を足した。何百回も煙を浴びた。その匂いが今、遠くから来るように感じられた。

ある午後、光が斜めに差した。

岩の表面を這うように、光が動いた。その者の手の甲の上を通って、先へ行った。その者は手を見た。皮の下の骨が、うっすら見えるような気がした。

手を握ろうとした。

指が、少し曲がった。

夕方、川から戻った大人たちが火を囲んだ。肉の焼ける音がした。その者はそれを聞いていた。食べたいとは思わなかった。ただ、音を聞いた。

夜が来た。

誰かが隣に寝た。体の温かさがあった。その者はそれに寄らなかった。寄ろうとしたのかもしれない。体が動かなかった。

息が、浅くなった。

浅くなって、また少し深くなった。

それが何度か繰り返された。

火の音がした。草が風に揺れる音がした。

息が、戻らなかった。

第二の星

川の上流、岩が段になった浅瀬で、旧人の一群が水を飲んでいた。子を抱えた雌が一頭、川の対岸を見ていた。対岸には何もなかった。ただ草があり、風があった。水が流れた。雌はやがて顔を下げ、水を飲んだ。

与えるもの

煙の匂いを示した。この者は最後にそれを吸った。受け取ったのか、ただ息をしていただけなのか、わからない。わからないまま渡すことには、もう慣れている。糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:701
与えるものの観察:煙の匂いを最後に渡した。届いたか否か。
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第714話

紀元前296,440年

第二の星とその者(21〜26歳)

乾季の終わりに、草原の縁が焦げた。火ではない。草が変色して、根元から枯れた。旧人の一群がその縁を歩いていた。足音が違う。踵が地面を押す重さが違う。彼らはその群れの者たちとは別の生き物のように、草を踏んで、止まらずに歩いていった。

その者は21歳で、群れの端にいた。

朝、水場に行く。膝をついて水を掬う。水は冷たくて、手の甲に筋が走った。指を開く。水が落ちる。また掬う。これが一日の始まりだった。

乾いた丘の向こうで、別の集団が煙を上げた。三本の煙が立った。その者の群れの大人たちが遠くを見た。誰も動かなかった。誰かが喉の奥で短い音を出した。それだけだった。

その者は23歳になった頃、狩りに加わり始めた。先に行く者の足跡を踏む。草の倒れ方を見る。風が来る前に獣の匂いがした。体が先に知っていた。頭がそれに追いつく前に、もう足が止まっていた。

草原に雨が来た。水が溜まって、鳥が群れた。その年、子が多く生まれた。火を囲む夜が長くなった。旧人の集団と、この群れが同じ水場を使った。誰も攻撃しなかった。しかし眠る場所は離れていた。夜、旧人の火が遠くで揺れているのを、その者は見た。

25歳。群れの中に病が入った。腹を抱えて動けなくなる者が続いた。子どもが先にやられた。その者の弟が、三日で動かなくなった。体が弓のように反り、それからゆっくり柔らかくなった。その者は弟の横に一晩座っていた。夜明けに立ち上がって、水場に向かった。

旧人の一人が水場の近くに倒れていた。足が腫れ上がっていた。その者は近づかなかった。遠くから見た。旧人は動かなかった。

その者は26歳になった。体は堅くなっていた。指先に傷の跡が重なっていた。狩りで倒した獣の皮を剥ぐとき、石の刃を持つ手が迷わなくなっていた。

その朝、光が水場の底石に落ちた。水の中で光が割れて、岩肌の一部が白く浮いた。その者はそこで動きを止めた。水を掬う手を途中で止めて、底を見た。石だ。ただの石だ。だがその者はその石の光り方を、しばらく見ていた。

何かを感じた。感じたが、名前がなかった。

与えるもの

繋がった、と感じた瞬間があった。

水の底に光を落とした。光がその石の角に当たるよう、角度を作った。

その者は手を止めた。見た。長く見た。

それだけでよかったのか。私には分からない。だが次に渡すとき、私はもっと硬いものを選ぶ。その者の手が傷の上に傷を重ねているなら、刃の形をまだ知らないはずだ。

伝播:NOISE 人口:710
与えるものの観察:光を落とした。手が止まった。それだけ。
───
第715話

紀元前296,435年

第二の星

乾季が明けた。

草原の縁は黒ずんだまま残っていたが、その奥の低地には水が戻ってきた。浅い窪地に雨が溜まり、泥が光を反射する。水鳥が何羽か降りてきて、また飛び立った。

この時期、群れは動く。

北の斜面の岩影に三十いくつかの集団が暮らしていた。この五年で増えた。産まれた子が育ち、草の実が豊富で、獣の蹄の跡が乾いた泥に深く刻まれていた。食べるものがあれば、生きるものが増える。それだけのことだ。

しかし増えれば、場所が足りなくなる。

水場を巡って、二つの集団が同じ岩の前に立っていた。声ではない。体の向き、肩の高さ、足の置き方。それで伝わる。近づくなという圧力が空気の中にある。片方の若い者が一歩踏み出した。相手の集団の大きな者が動いた。石が投げられたかどうか、後から確かめる手段はない。ただ、一方が後退した。

その後退が、蓄積になった。

退いた集団の中に、不満が残った。口ではない。食料の配分が変わった。水場へ行く順番が変わった。小さな者が後回しになった。一度後退した集団は、次も後退した。力の差が形になっていく。

旧人の群れが三日前から近くにいた。

彼らは人類の集団と交じらない。距離を保って、別の方向を向いている。ただそこにいる。匂いが違う。歩き方が違う。岩の陰に座って何かを嚙んでいる老いた旧人がいた。その目が遠くを見ていた。水場の方向でもなく、空でもない。ただ遠い。

緊張が高まったのは、それとは別の理由からだった。

知っている者がいた。

群れの端にいて、毎日少しずつ遠くへ行く者がいた。他の者が行かない方向へ歩き、帰ってくる。帰ってきて、何かを持っていることもある。草の根、変わった形の石、乾いた皮。皆が使えるものではなく、その者だけが意味を知っているらしいものを。

それが気になる者がいた。

気になり方は、嫉妬に近かった。

群れの中心にいる者は、端にいる者を見る。見て、なぜそちらへ行くのかと感じる。感じて、止めたいと思う。それは言葉ではなく、腕を掴む力として現れた。帰ってきた者の腕が、別の者に掴まれた。放された。また次の日に行った。また帰ってきた。また掴まれた。

三度目に帰ってきた時、石が飛んだ。

肩に当たった。大きな石ではなかった。しかし立っていた場所が変わった。群れの端から、群れの外へ。

その日の夜、火の周りに座っている者の中に、その者の姿はなかった。

火が揺れた。

誰も立ち上がらなかった。旧人の老いた一人が岩の陰で何かを嚙み続けていた。水鳥の声が低地から聞こえた。

与えるもの

崖の下に白い岩が露出している場所があった。

朝、そこに光が当たった時間が長かった。その日だけ、角度がそうなった。白い岩の面に、別の岩の縁が刻んだ線が見えた。偶然の傷。しかしそこに何かの形がある。

この者はその場所の前で立ち止まった。しばらく見た。それから、触れた。指ではなく、掌で。岩の線の上に手を置いた。

取り上げなかった。持ち帰らなかった。しかしその形は、眼の中に残った。

それで十分か、とは思わない。十分かどうかは問いではない。次に渡すべきものは、もっと遠い場所にある。この者がそこまで歩けるかどうか。そちらの問いの方が先だ。

その者(26〜31歳)

岩の傷の上に掌を置いた時、温かかった。

光が石に溜まっていた。

火の周りには戻らなかった。夜、別の岩の陰に座った。膝を抱えた。群れの火の明かりが遠くに見えた。消えるまで、そこにいた。

伝播:HERESY 人口:679
与えるものの観察:眼の中に残った形は、消えない
───
第716話

紀元前296,430年

第二の星

水が戻った年の後、大地は緩く膨らむように育った。

草原の縁で火が散った痕は消えていない。けれども焦げた土の下から細い根が出て、去年より太い茎を立ち上げた。低地の泥は乾き始めていた。獣の蹄の跡が固まって、白い粉を吹いていた。

群れを数えれば、両手では足りない。両手を何度繰り返しても、まだ足りない。以前より確かに多い。子が多く生まれた年が続いた。火を囲む輪が広がった。

遥か北の岩棚では、別の形をした者たちが動いていた。眉の骨が厚く、肩が低く落ちていた。彼らは群れを持たず、二人か三人で岩陰に潜んだ。その夜、獣の遠吠えと区別のつかない音を出して、岩から岩へ移った。

草原の群れと岩棚の者たちは、まだ顔を見ていなかった。しかし足跡が、一方の縄張りをもう一方の側へ踏み越えていた。気づいた者もいた。気づかなかった者もいた。

空は高く、乾いた。風は西から来た。

与えるもの

草の匂いが変わった。雨の前の土の匂いではなく、何か獣に近い、鋭い匂いだった。

その匂いが、この者の鼻に届くように、風が吹いた。

この者は足を止めた。

鼻を上げた。また嗅いだ。

知っている匂いではなかったが、嗅いだことのない匂いでもなかった。

渡した。

匂いを、方向を、距離の感覚を。

この者はそれを受け取ったのか。足が止まったことだけは確かだ。しかし止まったのが、その匂いのためだったのか、自分の疲れのためだったのか、私にはわからない。

同じ問いだ。光を落とした時も、煙の向きを変えた時も、水面を揺らした時も、同じ問いが残った。渡したことで何かが変わったのか、変わらなかったのか。

次に渡すべきは、それでも——方角だ。あの岩棚の方向を、もう一度。

その者(31〜36歳)

夕方に水場を離れた。

腰に獣の細い骨を挿して、皮紐で括っていた。今朝仕留めた小さな獲物のものだった。肉はすでに群れの火のそばに残してきた。骨だけ持ち帰る意味が、自分でも曖昧だったが、手放す気にならなかった。

草を踏みながら歩いていて、鼻の奥に何かが入ってきた。

足が止まった。

嗅いだ。

知っている匂いではなかった。獣のものに似ていたが、違った。煙でもない。腐ったものでもない。何か、生きているものが、近くにいる匂いだった。

腰の骨を握った。

あたりを見た。草が揺れていたが、風のせいだった。何も動かなかった。

もう一度嗅いだ。

匂いは西の方から来ていた。岩の多い方角だった。この者は普段、そちらへは行かない。急な斜面があって、石が崩れやすかった。獲物もあまり出なかった。

しばらく立っていた。

それから群れの方へ歩き始めた。振り返らなかった。しかし歩きながら、首の後ろが冷たくなっていた。汗ではなかった。風でもなかった。

火のそばに戻ったとき、腰から骨を外して地面に置いた。食事の間も、それを手の届くところに置いておいた。

理由は言わなかった。言う言葉がなかった。

夜、他の者が寝息を立て始めても、この者はしばらく目を開けていた。

西の方角の暗さを、見ていた。

伝播:HERESY 人口:652
与えるものの観察:匂いは届いた。足が止まった。
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第717話

紀元前296,425年

その者(36〜41歳)

岩場の上で、膝をついた。

夜明けの手前。空の端が白くなりかけていて、星はまだ消えていない。足の裏の傷が、冷えた石に触れるたびに引きつった。三日前に走り過ぎた。岩の割れ目で足を滑らせた。それでも走った。

群れの声が、遠かった。

その者は今朝、ここに来るつもりがなかった。水場の方へ向かっていた。しかし岩場の手前で、足が止まった。理由はわからない。ただ止まった。体が先に曲がり、足が斜面を登り始めた。頭はついてきた。

登り切った先で、膝をついた。

眼下に、群れが見えた。火の残滓が煙を上げている。子どもたちが動き回り、女たちが何かを引っ張っていた。男が一人、こちらを向かずに立っていた。その男は最近、その者の存在を避けるように動く。理由を、その者は言葉にできない。ただ、体が知っている。岩を拾うように、それを拾い、置かずにいた。

風が変わった。

西から来た風ではなく、斜め下から、崖の隙間を抜けてきた空気。獣の臭いに混じって、何か湿った、腐りかけた草のような匂いが来た。その者は鼻を動かした。方向を確かめた。

崖の裏だ。

その者は膝を上げ、岩伝いに進んだ。足の傷がまた開くのを感じた。それでも進んだ。崖の角を回り込んだとき、音が聞こえた。

人の声ではなかった。

息だ。複数の、抑えた息。

岩陰に三人いた。見知った顔ではなかった。体の作りが似ているが、違う。毛の濃さが違う。骨の張り方が違う。その者は動かなかった。彼らも動かなかった。三者が、石の上で固まった。

先に動いたのはその者だった。

踵を返した。走らなかった。足音を消して戻った。崖を下り、岩場を横切り、群れの方へ向かった。

男が、今度はこちらを向いていた。

その者は声を出した。単音を二つ。音の間に間を置き、もう一度。男の顔が固まった。その者は崖の方向に顎を向けた。男の目が動いた。

それだけだった。

その日の昼過ぎ、群れの男たちが崖の方へ向かった。その者は行かなかった。火の番を言いつけられた。女の仕事だ。男の一人が、言いつけながらその者の目を見なかった。

火を守りながら、その者は足の傷から流れた血が岩に落ちるのを見た。

丸い染み。乾いていく。

崖の方から声が上がった。遠く、長く。争いの声ではなかった。追い払うための声だった。

その者は立ち上がらなかった。

夕方、男たちが戻ってきた。異なる者たちを見た、と音と身振りで示した。数は示せなかった。危険かどうかも、示せなかった。ただ、いた。それだけを示した。男たちの中に緊張が走り、また消えた。

夜、その者は群れの端で横になった。

誰も隣に来なかった。

月が高くなり、その者は目を開いたまま、岩の表面のひびを指でなぞった。線が、どこかへ向かうように走っていた。向かわなかった。途中で割れていた。

第二の星

この5年、大地は安定の方向にあった。

草原は広がり、水が戻り、根が張り、獣の数が増えた。集団の規模も増した。だがそれは同時に、別の緊張を生んだ。一つの水場に集まれる数は、決まっている。一つの群れが追える獣の範囲にも、限りがある。

始まりの大地の各所で、人の集まりが少しずつ動き始めていた。移動の跡が、踏み固められた草の上に残った。別の集団の痕跡が、別の集団の目に入るようになった。

言葉はなかった。

あるのは、においと、影と、音だった。昨日ここに誰かがいた、という事実は、灰と糞と踏み痕で伝わった。その情報を体が受け取り、体が反応した。頭が追いつく前に。

境界というものが、まだ概念としてなかった。

しかし体はそれを知っていた。あそこは近づかない、という記憶が、個体の内側に積み上がり始めていた。どこで覚えたかは言えない。親から受け取ったかもしれない。怪我で学んだかもしれない。

いずれにしても、世界は少しずつ、区切られていた。

同時に、その区切りを越えようとするものもいた。崖の裏に三人いた。群れの者たちは追い払った。しかし追い払われた者たちがどこへ行ったかを、誰も知らなかった。

与えるもの

崖の隙間から、腐草の匂いを流した。

その者は鼻を動かし、足を進めた。

渡した。使った。しかし群れの端に置かれた。

次は何を渡すべきか。知ることへの反応を、集団は受け入れなかった。知った者を端に置く。知らない方が安全だと、体が決めている。

では。

知らないことを渡せるか。

伝播:HERESY 人口:627
与えるものの観察:知った者が端に置かれた。渡すべきは何か。
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第718話

紀元前296,420年

その者(41〜43歳)

熱が出たのは、雨の翌朝だった。

地面がまだ濡れていた。草の根元に白い泡が溜まっていた。その者は起き上がろうとして、片腕を地面についたまま止まった。腕が言うことを聞かなかったのではない。ただ、起き上がる理由を体が忘れていた。

三日前まで、その者は走れた。

群れの中で最も遠くまで獣を追える若い脚があった。岩を避ける瞬間の判断が速かった。それが今は、頭の中で音がしていた。低く、持続する、ずっとそこにある音。耳の奥ではなく、頭蓋の内側に張り付くような音だった。

群れの他の者たちは、その者から少し離れていた。

明確に避けているのではない。しかし、誰も横には座らなかった。子どもたちが近づこうとすると、母親が腕を引いた。言葉ではなく、ただ引いた。

その者には理由がわかった。

熱のある者に近づくと、同じものが移る。それを群れは知っていた。知っていたのではなく、何度も見ていた。だからこうなる。その者もそう学んでいた。

腹が痛かった。

飲み込もうとすると水が戻ってきた。横になると、地面の硬さが全身の骨に届いた。骨がそこにあることを、その者は初めてはっきりと感じた。

二日目の朝、その者は少し動いた。

群れの端に向かって、ゆっくり移動した。誰かに追われたのではない。群れの中心にいることが、自分に合わなくなっていると体がわかっていた。

岩の陰に背を預けた。陽が出ると岩が温かかった。その者は岩に体重を預けたまま、空を見た。

雲があった。

風があった。

草の匂いがした。

匂いは、体が弱るにつれて鋭くなっていた。土の匂い、草の根の匂い、遠くの水の匂い。体が消えていくにつれて、外の世界がはっきりしてきた。

その者の皮膚に、陽の光の温度が落ちた。岩肌と皮膚の境目が曖昧になった。

温かかった。

その者はそれを感じた。受け取るとか、意味を見出すとかではなく、ただ皮膚で感じた。

三日目、動かなかった。

目は開いていたが、どこも見ていなかった。いや、空を見ていた。正確には空の、一点ではなくどこでもない場所を。

遠くで子どもが何かを叫んだ。群れの中の声だった。何かを見つけた声か、誰かを呼ぶ声か、その者にはもう区別がつかなかった。

その者の手が、地面の草に触れていた。

指先が草の茎を一本、軽く掴んでいた。引っ張るでも、握るでもなく、ただ触れていた。

その手が、ゆっくりと開いた。

草は揺れた。風が来たのかもしれない。その者が手を離したのかもしれない。

岩の陰で、体はそのまま冷えていった。

第二の星

草原の向こうで、旧人の一群が川岸に降りていた。水を飲み、顔を上げ、また草原の奥へ戻っていった。川は変わらず流れた。その者が冷えていく頃、草原の東の端で、若い雌の獣が初めて子を産んだ。鳴き声が一度、空に上がった。風が来て、消えた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:602
与えるものの観察:皮膚で受け取った。意味ではなく温度で。
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第719話

紀元前296,415年

その者(62〜66歳)

火は消えなかった。

それがこの者の仕事だった。三十年以上、夜が来るたびに枯れ枝を足し、朝になれば灰をかき分けて熾きを確かめた。火が消えた朝は一度だけあった。その者は一日かけて火を起こし直し、夕方まで何も食わなかった。罰ではなかった。ただそうした。

獣皮の加工も続けた。石の縁で脂を削り、臭いのする液に浸し、引っ張って伸ばす。指の皮が何度も剥けた。剥けた跡が硬くなり、また剥けた。手のひらは木の皮のようになった。

六十二歳になった頃から、膝が朝に動かなかった。

火の傍で寝て、夜中に何度か目を覚まし、枝を足した。それだけは続けた。若い者たちが近くで眠っていた。その者が短い音を発すると、一人が起きて枝を渡した。その者は受け取り、火に置いた。それで十分だった。

集団の中で何かが変わっていた。

旧い顔と新しい顔が増えた。皮の匂いが違う者たちが、少し離れた場所に来ていた。額の形が違った。眉骨が厚かった。言葉は通じなかった。しかし火を見る目は同じだった。

その者は彼らを遠くから見た。近づかなかった。遠ざけもしなかった。

ある夜、集団の内側で声が荒れた。

石が地面に叩きつけられる音がした。誰かが走った。その者には何があったか分からなかった。朝になると、一人が戻らなかった。その者は問わなかった。問う言葉を持たなかった。ただ火に枝を足した。

知りすぎた、という概念はなかった。

ただその者は長く生き、多くを見ていた。古い水場のことを知っていた。雨の前に空の端が黄ばむことを知っていた。どの草の葉が傷口に貼れるかを知っていた。若い者の中に、そのことを嫌う顔があった。なぜかはこの者には分からなかった。

六十四歳の秋、その者の番から火の管理が移された。

若い男が代わりに火の傍に寝るようになった。その者は少し離れた場所に毛皮を敷いた。夜中に目が覚めると、火を見た。消えていないか確かめた。消えていなかった。それでもう一度寝た。

獣皮の加工も、いつからか誰も持ってこなくなった。

その者の手は動いた。石の縁も持てた。しかし皮が来なかった。その者は川岸で石を拾った。縁を確かめた。いい形の石を選んだ。それを持ったまま、何もしないことが増えた。

六十六歳の冬が来た。

風が強い日が続いた。川の水が増えた。火を囲んでいると、皆の体が自然と寄った。その者も端に座った。はじき出されたわけではなかった。場所がなくなったわけでもなかった。ただ端にいた。

ある朝、その者は起き上がらなかった。

誰かが声をかけた。その者は目を開けた。光が見えた。火の光ではなく、入口から差し込む朝の光だった。その者はそれを見た。

長い間、その者はその光の中にいた。

呼吸が、途中で続かなくなった。

胸が上がったまま、下がらなかった。光はまだ差し込んでいた。風は外で鳴っていた。火はまだ燃えていた。

第二の星

乾いた高地で、大きな群れが川べりから丘の上へ移っていた。女が一人、子を背負ったまま泥の斜面で足を止めた。子が泣かなかった。上を向いて、雲を見ていた。群れはそのまま進んだ。女も続いた。川は増水し、低地を飲んでいた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:578
与えるものの観察:火が残った。渡したのはその持続だったか。
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第720話

紀元前296,410年

第二の星

乾期が終わりに近い。

草が戻ってきた。地面が硬くなった後に柔らかくなり、また硬くなった。川の水かさが上がった。水際の泥に、大きな獣の足跡がついている。深い。重い。指が四つ、分かれている。

始まりの大地の北側では、旧人の一群が丘の陰に住んでいた。彼らは火を持たない。夜、冷えた岩の上に身を寄せ合って眠る。その体温が、夜明けには霧になって立ち上がる。

南の集団は動いている。川沿いを西へ。子を背負い、皮を抱え、四日歩いた。理由は明確ではない。前の集団が歩いたから、後の集団も歩いた。それだけだ。

西の丘の麓に、二十人ほどの集団がいる。彼らは旧人の群れのそばに野営を張った。距離がある。しかし同じ水場を使う。互いに近づかず、しかし避けもしない。岩の陰から子どもが顔を出す。別の種の子どもが顔を出す。どちらも引っ込める。

東の崖の下に、死体が一つ。旧人のものか、人のものか、腐敗が進んで分からない。鳥が集まっている。星はそれも照らす。

与えるもの

糸が繋がった。

この者はまだ六年も生きていない。抱かれている。泣いている。何かに気づく前に眠る。

川面に光が落ちた。水が揺れていた。光の粒がその者の頰をかすめた。

この者は目を閉じた。光が来たから閉じたのか、眠かったから閉じたのか、分からない。

次に渡せるものがあるだろうか。この者が六つになるまでに、何が届くだろうか。過去に糸を持った者たちを思う。12の糸。届いたのは0回。しかしこの者はまだ生きている。それだけが今、確かなことだ。

その者(1〜6歳)

最初の記憶は匂いだ。

煙と、皮と、汗。それが人の匂いで、その者はそれ以外を知らない。抱かれている間、顔を胸に押しつけ、その匂いを吸う。別の匂いが来ると顔を上げる。獣の匂い。川の匂い。夜の冷たい空気。

歩き始めた頃、転んだ。地面が硬かった。両手をついて、岩の感触を覚えた。

二歳の頃、火を触ろうとして、誰かに手を引かれた。手首が痛かった。泣いた。火は見ていた。赤いものが揺れていた。

川を渡る時、誰かに抱き上げられた。水が足にかかった。冷たかった。驚いた声が出た。笑い声が返ってきた。誰かが笑う時、顔がどう変わるかを覚えた。

旧人の群れを見た。遠かった。大きかった。別の匂いがした。抱いていた者の体が硬くなった。その者もそれを感じた。体が硬くなるのはどういう時か、まだ言葉では知らないが、体が知っていた。

五歳の頃、川に光が落ちた。その者はそれを見た。

ただ見た。水が揺れた。光が散った。

それだけだった。

伝播:NOISE 人口:590
与えるものの観察:光は届いた。見た。それだけだ。