紀元前296,405年
群れの端に、穴があった。
子供の拳ひとつぶんの穴だった。土が乾いて縁が崩れていた。その者はしゃがんで、指を差し入れた。中は暗かった。匂いがした。虫の匂いではなかった。もっと湿った、腐ったものの匂いだった。
その者は指を抜いた。土がついていた。舐めた。
苦かった。
立ち上がろうとしたとき、大人の足が視界に入った。大きな足だった。自分の群れの足ではなかった。形が違った。踵の形が、角張っていた。
その者は動かなかった。
足は止まった。もう一本の足が続いた。ふたつの足は、その者の前で止まった。
膝が降りてきた。顔が近づいた。
その者の群れの顔と、形が違った。眉の骨が厚かった。目が小さかった。鼻が広かった。息の匂いが、肉の匂いだった。
その者は動かなかった。
顔が何か言った。音だった。その者の群れの音ではなかった。低く、詰まった音だった。
顔は待った。
その者は答えなかった。声が出なかった。
顔は手を出した。手のひらに、何かのった。赤い実だった。小さかった。乾いていた。
その者は見た。
見続けた。
手のひらは動かなかった。ただそこにあった。
その者は取らなかった。
顔はしばらくそのままでいた。それからゆっくり立ち上がった。実は地面に置かれた。足が遠ざかった。
その者はしゃがんだまま、地面の実を見ていた。
草の向こうで声がした。大人の声だった。自分の群れの声だった。怒っているときの声だった。
実が踏まれた。
大人の足に踏まれた。その者の群れの足だった。踵が細い、知っている足だった。
実は潰れた。赤いものが土に滲んだ。
その者は見ていた。
乾期が終わった湿地の端に、ふたつの群れがいた。
川が増水して流路を変えた年だった。古い水場が土に埋まり、新しい水場が三か所に生まれた。水場が変われば、獣が変わる。獣が変われば、群れが動く。
ふたつの群れが同じ水場に辿り着いたのは、そういう理由だった。
一方の群れは、眉の骨が厚かった。もう一方は、あごが細かった。どちらも同じ水を飲んでいた。どちらも同じ獣を追っていた。
子供たちは境界を知らなかった。
大人たちは境界を知っていた。声の形で、匂いで、立ち方の違いで、知っていた。
緊張は音に出なかった。音に出るより前に、身体が硬くなっていた。
川の上流では、水鳥が一群れ飛んだ。影が草の上を横切った。
大人たちは目だけで何かを言い合った。
その夜、細い月が出た。ひとつの群れが移動した。足跡だけが残った。
赤い実の色を、土に滲ませた。
光ではなかった。影でもなかった。ただ色だった。
その者は見ていた。見ていた、だけだった。
それで十分だったかどうかを、わたしはまだ問えずにいる。踏まれた実の色が、この者の中に残るなら。残るなら、次に渡すべきものがある。