2033年、人類の旅

「紀元前296,405年〜紀元前296,285年」第721話〜第744話

Day 31 — 2026/05/03

読了時間 約59分

第721話

紀元前296,405年

その者(6〜11歳)

群れの端に、穴があった。

子供の拳ひとつぶんの穴だった。土が乾いて縁が崩れていた。その者はしゃがんで、指を差し入れた。中は暗かった。匂いがした。虫の匂いではなかった。もっと湿った、腐ったものの匂いだった。

その者は指を抜いた。土がついていた。舐めた。

苦かった。

立ち上がろうとしたとき、大人の足が視界に入った。大きな足だった。自分の群れの足ではなかった。形が違った。踵の形が、角張っていた。

その者は動かなかった。

足は止まった。もう一本の足が続いた。ふたつの足は、その者の前で止まった。

膝が降りてきた。顔が近づいた。

その者の群れの顔と、形が違った。眉の骨が厚かった。目が小さかった。鼻が広かった。息の匂いが、肉の匂いだった。

その者は動かなかった。

顔が何か言った。音だった。その者の群れの音ではなかった。低く、詰まった音だった。

顔は待った。

その者は答えなかった。声が出なかった。

顔は手を出した。手のひらに、何かのった。赤い実だった。小さかった。乾いていた。

その者は見た。

見続けた。

手のひらは動かなかった。ただそこにあった。

その者は取らなかった。

顔はしばらくそのままでいた。それからゆっくり立ち上がった。実は地面に置かれた。足が遠ざかった。

その者はしゃがんだまま、地面の実を見ていた。

草の向こうで声がした。大人の声だった。自分の群れの声だった。怒っているときの声だった。

実が踏まれた。

大人の足に踏まれた。その者の群れの足だった。踵が細い、知っている足だった。

実は潰れた。赤いものが土に滲んだ。

その者は見ていた。

第二の星

乾期が終わった湿地の端に、ふたつの群れがいた。

川が増水して流路を変えた年だった。古い水場が土に埋まり、新しい水場が三か所に生まれた。水場が変われば、獣が変わる。獣が変われば、群れが動く。

ふたつの群れが同じ水場に辿り着いたのは、そういう理由だった。

一方の群れは、眉の骨が厚かった。もう一方は、あごが細かった。どちらも同じ水を飲んでいた。どちらも同じ獣を追っていた。

子供たちは境界を知らなかった。

大人たちは境界を知っていた。声の形で、匂いで、立ち方の違いで、知っていた。

緊張は音に出なかった。音に出るより前に、身体が硬くなっていた。

川の上流では、水鳥が一群れ飛んだ。影が草の上を横切った。

大人たちは目だけで何かを言い合った。

その夜、細い月が出た。ひとつの群れが移動した。足跡だけが残った。

与えるもの

赤い実の色を、土に滲ませた。

光ではなかった。影でもなかった。ただ色だった。

その者は見ていた。見ていた、だけだった。

それで十分だったかどうかを、わたしはまだ問えずにいる。踏まれた実の色が、この者の中に残るなら。残るなら、次に渡すべきものがある。

伝播:HERESY 人口:570
与えるものの観察:踏まれた実の赤が残るかどうか。
───
第722話

紀元前296,400年

第二の星

穏やかな年が続いていた。

大地の東、赤茶けた台地が続く地帯では、雨季が規則正しく訪れ、草が地平まで青くなった。獲物は太り、川は岸まで満ちた。集団は動かなかった。動く必要がなかった。同じ場所に留まり、子を産み、老いた者が死に、また子が生まれた。

その西、大きな湖の縁では、別の形をした顔の者たちが岸辺で貝を割っていた。腕の角度が違った。額の張り出し方が違った。彼らも貝を食べ、子を抱き、夜に火を囲んだ。彼らの火と、集団の火が、夜に同時に空を照らしていた。どちらの火も、燃え方は同じだった。

北の乾いた丘では、群れが減っていた。草が薄く、獣の足跡が途切れた。そこにいた者たちは少なくなり、散り散りになり、いくつかは南へ下ってきた。見知らぬ声が、知っている野営地に混じりはじめた。

始まりの大地では、集団が大きくなっていた。子の声が増え、食べる口が増え、休む場所の奪い合いが夕方に起きるようになった。言葉はなかった。しかし張り詰めた空気は、子供にも伝わった。

与えるもの

水場に近い草むらの中、細い獣道があった。獣だけが知っていた道だ。朝、その道の入り口から、冷えた土の匂いが漂った。草が濡れていた。夜の間に何かが通った匂いだった。

その者の足が、匂いのある方向で止まった。

止まったまま、別の方向へ走った。

匂いは残った。その者は戻らなかった。この者が匂いで立ち止まったのは、これで何度目になるか。しかし次に渡すべきは、立ち止まることではなく、立ち止まったあとに何をするかかもしれない。

その者(11〜16歳)

朝、集団が動き出す前に、その者は起きていた。

皮を被ったまま座っていた。外が明るくなるのを待つわけでもなく、ただ座っていた。腹が鳴った。立った。

水場へ向かう途中、草が濡れていた。足の裏に冷たさが走った。その者は止まった。鼻から息を吸った。土と何か別のものが混じった匂いがした。

走った。

水場には先に誰かがいた。見知らぬ顔だった。北から来た者のひとりで、腕の細い男だった。その者は男を見た。男もその者を見た。どちらも動かなかった。

男が先に目をそらし、水を飲んだ。その者も水を飲んだ。

戻り道、子供が二人、草の上で転がっていた。その者より幼い子だった。どちらかが泣き出し、どちらかが笑っていた。その者は立ち止まらずに通り過ぎた。

昼、争いがあった。食べ物の争いではなかった。場所の争いだった。日当たりのいい岩棚に、北から来た男が座り、そこを使っていた別の男が声を上げた。声が大きくなり、胸を押した。その者は少し離れたところから見ていた。集団の古い女が間に入り、片方の腕を引いた。争いは終わった。しかし両者は背中を向けたまま離れた。

夕方、その者は岩棚の近くに座った。男たちはもういなかった。日が傾き、岩が温かかった。背中に当たる熱が、夜が来るまでゆっくりと薄れた。

その者はそこにいた。岩の温度が体と同じになった頃、立ち上がった。

伝播:SPREAD 人口:741
与えるものの観察:立ち止まった。しかし次を渡せていない。
───
第723話

紀元前296,395年

第二の星

台地の東端で、地面が割れていた。

乾いた季節と湿った季節が交互に来るうち、粘土質の土が収縮と膨張を繰り返し、亀裂が走った。幅は腕一本ぶん。深さは測れない。端に立てば、下から生温い風が吹き上げてくる。

北の丘陵では、別の集団が動いていた。毛の色が違う。顔の骨の出方が違う。しかし火を使う。皮を剥ぐ。子を抱える。同じように雨をやり過ごす。彼らはこの台地の東を知らない。知る必要もなかった。

集団と集団の境目に、川があった。増水期には渡れない。乾季には膝まで。どちらの集団もその川を渡らない。渡らないことを選んでいるのか、渡るという発想がないのか、この星にはわからない。

豊穣は続いている。草は伸び、実は落ち、獣は肥えた。台地のあちこちで子が生まれた。産声は短く、すぐ静かになる。生き残るものと、そうでないものが、あいまいな境目のなかにいた。

集団の内側で、何かが変わり始めていた。

余裕は力の差を見えやすくする。誰が多く食べるか。誰が先に水を飲むか。小さな順序が、少しずつ形を持ち始めていた。

与えるもの

皮を剥がすのに使っていた石の、鋭くなった縁が、光を受けて白く光った。

その者は石を持ち上げ、しばらく見た。それから地面に置いた。

置き方が違った。以前より、丁寧だった。

それでいいのかどうか、わからない。丁寧に置いた石は、次に誰かが拾うかもしれない。その誰かが何をするかは、こちらにはどうにもならない。それでも、光を落とした場所を変えるつもりはない。

その者(16〜21歳)

腹が重い。

初めて重くなったときはわからなかった。今は知っている。動き方が変わる。座る場所を選ぶようになった。硬い岩より、草の上を選ぶ。

腹が重い間、集団の中での位置が変わった。高い場所に登らなくなった。遠くまで走らなくなった。他の者たちが何かを運んできた。肉の塊、水を含んだ草の茎。

その者はそれを受け取った。

受け取り方を知っていた。視線を下げて、音を出さないでいること。それが正しいのかどうかはわからない。ただ、そうしている間は安全だった。

ある夜、腹の中で動くものを感じた。小さな圧迫が、内側から来た。その者は手を当てた。岩のような固さではない。水袋を叩いたときとも違う。何か別のものが、そこにいる。

音を出した。

集団の中の年嵩の女が近づいてきた。その者の腹を触った。うなずいた。何も言わなかった。しかしうなずきが続いた。

その者は寝た。

腹の圧迫を感じながら、目を開けたまま空を見ていた。夜の空気は乾いていた。草の匂いがした。遠くで獣が鳴いた。一度だけ。

しばらくして眠った。

子が産まれた。

雨が降り始めた朝だった。その者は声を出した。長い時間、声を出し続けた。年嵩の女がそこにいた。他の者も来た。来て、また離れた。

子は出てきた。

小さかった。皮膚が薄く、赤みを帯びていた。動いていた。音を出した。

その者は子を抱えた。重さを感じた。腹の中にあったものと、腕の中にあるものが、同じだという感覚がなかった。別のものが来たような感覚だった。

子は音を出し続けた。

その者は子の口の近くに乳を当てた。誰かに教わったわけではない。体が先に動いていた。

子は吸い始めた。

その者は岩にもたれた。腹の痛みはまだあった。外は雨だった。子が吸う力が、胸の中まで届いた。

三年が過ぎた。

子は歩いた。転んだ。また歩いた。集団の中を走り回った。その者はそれを目で追った。常に、どこかに見ていた。

集団の中で、ある男が食料を分ける順序を決め始めた。最初は気づかなかった。いつの間にかそうなっていた。その男が先に取る。その男に近い者が次に取る。その者は遅い側にいた。

子は食べた。その者が先に食べさせた。

自分が食べない日があった。それを感じた。しかし止まらなかった。

その夜、子が眠った後、集団の外れで火が大きくなっていた。男たちが声を出していた。何かで揉めていた。その者には内容がわからない。声の高さと速さだけが届いた。

近づかなかった。

子の方に戻った。体を小さくして、子の隣に横になった。

子の体温が、背中に伝わってきた。

その者はそれを感じながら、目を閉じた。

伝播:HERESY 人口:708
与えるものの観察:石を丁寧に置いた。それだけ変わった。
───
第724話

紀元前296,390年

第二の星

雨が来た。

三年続けて来た。毎年、来た。

台地を流れ下る水の筋が増え、低地に溜まり、草が伸び、根を張り、実をつけた。獣が来た。水辺に集まり、泥の上に蹄の跡を刻み、また来た。季節をまたいでも来た。

集団は増えた。

増え方は静かではなかった。産声が増え、泣き声が増え、走り回る小さな足が増えた。五年前に腕の中にいた者が、今は石を握って走っている。その後ろを、また別の小さな者が這っている。

食が足りている集団は攻撃的になる。

台地の東側に別の群れがいた。旧人の群れだ。額が張り出し、眉の骨が厚く、声は低い。しかし火を使い、獲物の皮を剥ぎ、子を抱いて眠る。水辺の縄張りが重なりはじめたのは、二年前のことだ。

最初は距離を置いた。互いに声を上げ、石を叩き、後退した。それで済んでいた。

しかし集団が膨らむほどに、水辺への道は競われた。晴れた朝、低木の茂みを抜けて獲物を追った若者たちが、旧人の群れと真正面からぶつかった。石が飛んだ。叫び声が上がった。若者のひとりが額を割られて戻ってきた。旧人の側からも、血の臭いを引いて誰かが離脱したはずだ。

それからは、緊張が形を持った。

水場に近づくとき、集団は必ず複数で動いた。単独で草原に出る者はいなくなった。子どもたちは台地の縁に近づかないよう、腕を引かれて止められた。何度も。何度も。

知っている者がいた。集団の中に、少し年嵩の女がいた。傷のある左腕、焼けた皮膚の色。彼女はいつも台地の高いところから東を見ていた。旧人の群れの動きを、目で追っていた。彼女が見ている間、他の者たちも黙った。何かを知っている者の沈黙は、言葉より速く伝わる。

この女が知りすぎた。

集団の中の誰かが、それを問題だと感じた。確信があってではない。ただ、彼女が何かを知っているということが、不安だったのだ。知っている者は、時に脅威に映る。とくに、余裕がある集団の中では。食が足りているとき、人は外敵よりも内部を疑う。

ある朝、彼女は台地の縁に立っていた。東を見ていた。

戻らなかった。

台地の下は、乾いた谷だ。石灰岩の崩れた欠片が積み重なっている。誰かが見ていたかもしれない。誰も見ていなかったかもしれない。

集団はその日の夕方、水場へ向かった。複数で。いつもと同じように。

雨はその夜も降った。草が光を受け、実が揺れ、獣が水を飲んだ。星は全てを照らす。台地の東も、西も、谷の底も。

同じ夜、遠く離れた場所で別の雨が降っていた。広大な草原の縁、乾いた風が吹く地帯で、細い水の筋が砂を抉って流れ、種を運んだ。そこには誰もいなかった。誰も来ていなかった。しかし水は流れた。種は落ちた。いつか誰かが来るかもしれない場所に、根が張りはじめていた。

与えるもの

朝、光が谷の底に落ちた。斜めに、鋭く。

石灰岩の白が、そこだけ明るく浮かんだ。台地の縁に立つ女の足元に、その光は届いていた。

女は見た。谷の底を。光の落ちた白い石を。

渡せたのかもしれない。渡せていないのかもしれない。ただ、光はそこに落ちた。次に渡すべきものを、まだ持っている。それだけだ。

その者(21〜26歳)

抱かれている。温かい。

声がする。高い声と低い声が混ざっている。遠い。

外が明るい。光が目に刺さる。目を閉じる。

また声がする。今度は違う音だ。騒がしい。誰かが走っている。足の振動が、抱いている腕を通じて伝わってくる。

眠る。

伝播:HERESY 人口:874
与えるものの観察:光は落ちた。届いたかどうかは別の話だ。
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第725話

紀元前296,385年

その者(26〜31歳)

腕の中に重みがあった。

湿った頭。閉じている目。細い指が、その者の皮膚を握っては離した。

雨期が続いた三年で、集団はふくらんだ。腹が大きくなる女が増え、泣き声が増え、地面に転がって泥だらけになる子が増えた。その者は生まれた。抱かれた。乳を飲んだ。泣いた。

集団は移動した。

水辺を離れ、岩棚のある高地へ上がった。乾季に備えた移動だったが、今年は乾季が来なかった。雨がまだ降った。低地の草は腰まで伸びた。獣の群れが遠くで動く音が、夜に届いた。

その者を抱いている者の腕が、ある夜、硬くなった。

揺れが止まった。

息が止まったわけではなかった。体が熱くなっていた。汗がにじんだ。その者は眠っていた。抱いている者の体温が上がるほど、その者は深く眠った。

朝、抱いている者は起き上がれなかった。

誰かが水を持ってきた。誰かが薄い皮を上にかけた。その者は別の腕に移された。知らない体温だった。その者は泣かなかった。泣かずに、新しい腕の形を顔で探した。

三日後、抱いていた者は立ち上がった。

熱は下がっていた。体が細くなっていた。その者を受け取り、また抱いた。その者の指が、痩せた肩を押した。

集団は岩棚の下に留まった。

雨が降るたびに、水が岩を伝って滝になった。その者は音に反応した。滝の音がするたびに、顔を向けた。目がまだよく見えていない年齢だったが、音の方向へ首を回した。

滝の白さが、岩棚の陰に差し込む光の中で揺れた。

その者は腕の中で声を出した。泣き声ではなかった。何かに向けた音だった。

誰も聞いていなかった。

第二の星

雨が長かった。

始まりの大地の中央、台地から低地にかけて、水の筋が毎年太くなった。土が柔らかくなり、木の根が深く伸び、実が増えた。獣は水を求めて同じ場所に集まり、人間もその隣に集まった。

集団は分かれ始めていた。

ひとつの水場に、異なる血の群れが近づいた。形が違う顔。違う匂い。声の形が違う者たちが、同じ岸辺に立った。武器を持っていた。武器を下ろしもしなかった。しかし手を出しもしなかった。

緊張は夜に濃くなった。

火の位置が、互いの距離を示した。近づけばわかる。離れればわかる。どちらの火も、相手の火を消そうとはしなかった。

豊かさが、争いを遅らせていた。

腹が満ちていれば、リスクを取らない。奪わなくてもある。しかしそれは、腹が空いたとき何が起きるかを、誰も知らないということでもあった。

集団の数は増えた。874。この星がそれを照らしたとき、岩棚の下の火と、低地の火と、台地の縁の火が、同時に揺れていた。

風が同じ方向から吹いていた。

与えるもの

滝の音が鳴った。

その者の首が、音の方へ回った。

生まれてから何も渡せていない者が、首を回した。それは渡したのか。それとも音がそうさせたのか。

次に渡すものを考えた。この者はまだ歩かない。まだ言葉を持たない。しかし音に向く。ならば、音で渡せるかもしれない。

最初の者に何を渡したか、覚えていない。渡したかどうかも、もう定かではない。

ただ、首が回ったことだけは、見ていた。

伝播:SILENCE 人口:883
与えるものの観察:音に向いた。渡したのかどうか、まだわからない。
───
第726話

紀元前296,380年

第二の星とその者(31〜36歳)

台地の南に、新しい水場が現れた。

岩盤が割れたのか、雨期が続いた重みで地面がずれたのか、膝ほどの深さの水が溜まる窪みが生まれていた。草が縁に生え、小さな獣の足跡が泥に刻まれた。集団の者たちはそこに近づき、飲み、また離れた。

その者は、誰かの腕の中にいた。

温かかった。皮膚と皮膚が触れていた。揺れていた。その揺れが止まると泣き、揺れが戻ると泣きやんだ。それだけのことが繰り返された。

東の低地から、別の集団が来た。

彼らは身振りで何かを伝えようとした。腕を広げた者がいた。腕を振った者がいた。声が上がった。石を持った者が前に出た。石を持った者が後ろに下がった。夜、彼らは台地の端に火を焚いた。朝、彼らはいなかった。

その者は草の上に転がされた。

空が見えた。空は青かった。鳥が横切った。鳥が消えた。手足が動いた。動いたことに意味はなかった。ただ動いた。草が耳に触れた。擽ったくて、首を向けた。草がまだそこにあった。

豊かさは何かを変えていた。

食べ物が余ると、者たちは争った。誰が多く持つかを争った。誰の子を誰が抱くかを争った。水場の近くで寝る場所を争った。傷を負った者が増えた。傷を持ったまま動き続けた者もいた。傷が腫れ、熱を出し、ある夜、水場の縁に倒れたまま翌朝動かなくなった者がいた。集団の他の者たちは、その者の周りを少し避けるようにして通り過ぎた。

その者は、石を舐めた。

石は冷たかった。味がした。何の味かは分からなかった。置いた。また拾った。舐めた。置いた。

五年が経った。

台地に草が戻り、草が枯れ、また草が戻った。水場は残った。東の集団はまた来て、また去った。子が生まれた者がいた。子が死んだ者がいた。火が消えた夜があった。火が消えた夜は寒かった。

その者は歩くようになっていた。

最初は転んだ。転んで、土を掴んだ。土は手の中で崩れた。また立った。また転んだ。ある日、転ばなかった。転ばなかったことを、その者は知らなかった。ただ立っていた。風が来た。風の中に何かの匂いがあった。その者の鼻が動いた。足が、風の方へ向いた。

与えるもの

腐った実の匂いを、風に乗せた。

足が風の方へ向いた。しかし止まった。誰かが抱き上げた。

渡せたのか、それとも別の話になったのか。足が向いた。それだけは確かだ。次は、もっと近くに落とす必要があるかもしれない。あるいは、足が向くことだけで十分なのかもしれない。

伝播:NOISE 人口:887
与えるものの観察:足が風へ向いた。止まった。それだけ。
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第727話

紀元前296,375年

第二の星

台地の南に水が溜まり続けている。

草食の獣が朝と夕にそこへ来る。足跡は泥に深く押された。集団の者たちは獣の来る前に水を汲み、来た後に骨を拾う。草の縁に子どもたちが座り、水面に映る空を見る。見ている間に雲が動く。

同じ頃、台地の北東で、別の集団が移動している。岩の多い斜面を降り、川沿いの低地へ向かう。彼らは旧い種の者たちと通り道を共有していた。互いに距離を保ち、互いに音を発し、互いに離れる。衝突はない。しかし足跡は重なる。

遥か遠く、乾いた平原の端で、火が広がっている。誰かがつけたのか、落雷か、わからない。草が燃え、小動物が逃げる。その翌日、焼け跡に別の集団の者たちが来て、炭になった獣の残骸を拾う。手で持ち、食べる。火が彼らに何かを与えた形になっているが、火はそれを知らない。

第二の星は傾かない。

季節が変わりかけている。暖かい時期が長くなり、夜の冷えが遅くなった。水場の草が伸び続ける。集団の者たちの腹は、以前より空かない日が多い。

与えるもの

水面に光が落ちた。

岸の石の中に、他より滑らかなものがある。縁が薄い。持てば手に収まる。

その者の腕を借りている者が、そこへ向かう気配を見せた。

その者は動かなかった。

滑らかな石は水の底に沈んだ。

——形を持ったものを渡しても、持つ手がなければ沈む。では次は何を渡すか。沈む前の一瞬、光の中に縁が見えた。それは見えていたはずだ。見えていて、届かなかったのか。それとも届いていて、必要ではなかったのか。必要でないものを渡すことに、意味はあるか。次は何が必要か、この者に。

その者(36〜41歳)

誰かの腕の中にいる時間が長くなった。

腕は変わる。若い腕のこともあれば、乾いた皮膚の腕のこともある。どの腕も温かい。その者はそれを区別しない。温かければいい。重さがなければいい。

集団が水場のほうへ動く声がした。

その者には届かない距離ではなかった。しかし足は動かない。膝が伸びない日がある。今日はその日だった。腕が支えようとした。その者は腕を押しのけた。押しのけてから、押しのけたことに気づかないまま、地面に手をついた。

泥だった。

指の間に冷たいものが入った。その者は手を見た。見てから、見るのをやめた。

近くで子どもが転んで泣いた。その者の耳に声が来た。体が少し動いた。反射のように。しかし起き上がらなかった。

やがて声が遠くなった。

集団は水場へ行き、戻ってきた。戻ってきた者たちがその者の周りに来た。誰かがその者の背を触った。その者は音を出した。短い音だった。

夕方になった。

空が赤くなった。その者は上を向かなかった。地面の泥が乾き始めていた。指の形が残っていた。その者は自分の指の跡を見た。見てから、目を閉じた。

眠りに落ちた。

夜の間に、集団の中で声が上がった。低い声だった。何かを決める声の形をしていた。その者は眠っていた。声の内容はその者に届かなかった。

朝になった。

その者の周りに、昨夜より人が少なかった。誰かが離れた。どこへ行ったかは、その者には関わりがなかった。腹が空いていた。食べ物が来るのを待った。

来なかった。

その者は待った。

伝播:HERESY 人口:846
与えるものの観察:渡した。沈んだ。それでも渡す。
───
第728話

紀元前296,370年

第二の星

台地の東、草原が低くなるところに、砂と岩の混じった平地が広がっている。雨期が終わり、地面はまだ湿っている。足跡がいたるところに残っている。人のもの、獣のもの、鳥のもの、区別なく並んでいる。

その平地から遠く離れた北の方角に、岩の斜面がある。垂直に近い壁のような面が、朝の光を受けて白く見える。その壁の下に、何人かの影が動いている。身体の小さい者たちではない。大きい。肩の幅が広く、脚が短い。彼らは岩の割れ目に手を入れ、何かを取り出している。虫か、根か、わからない。取り出したものを口に入れる。音は聞こえない。遠すぎる。

集団は離れたところで眠っている。

台地の南では、水溜まりの縁が少し後退している。雨が減ったのか、獣が増えたのか、それともただの揺らぎか、わからない。草が倒れている方向を見れば、昨夜獣の群れが通ったことはわかる。骨が一本落ちている。新しい。

集団の中で声が上がっている。高い声と低い声が混じっている。怒りではない。しかし静かでもない。何かを決めようとしている。あるいは、決められないことを押しつけ合っている。

空は晴れている。

与えるもの

獣の骨から立ち上る匂いが、その者の顔の傍を通った。

その者は顔を向けなかった。抱えている腕が少し緩んで、また締まった。

骨を知っている者がいる。骨の使い方を。それをこの者に渡したかった。しかしこの者の手は今、別のものを持っている。渡せるものがこの者に届いたことが、これまで何度あったか。数えることに意味があるかどうか、まだわからない。次は音で示すべきか。それとも、この者ではない誰かへ向けるべきか。

その者(41〜46歳)

だれかの腕の中にいる。

温かい。体の下に別の体がある。骨と肉の感触。皮の匂い。汗の匂い。

声がする。遠い。近い。どちらかわからない。

光が目に入る。目を細める。光が消える。また入る。繰り返す。

口が開く。音が出る。誰かの手が顔に触れる。温かい。また音が出る。手が離れる。

腹が動く。空洞の感覚。口がまた開く。

遠くで高い声がする。その声に体がわずかに動く。しかし方向はわからない。

腕が揺れる。揺れる。止まる。また揺れる。

目が閉じる。

骨の匂いがまだ漂っている。その者はそれを知らない。

伝播:HERESY 人口:809
与えるものの観察:匂いを渡した。届かなかった。次は音か。
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第729話

紀元前296,365年

その者(46〜48歳)

空の色が変わり始めたのは、雨が終わった翌朝だった。

灰色ではない。青でもない。光が薄く引き伸ばされたような白さが、地平の端から押し広がってきた。鳥が一羽、その白さの中に消えた。戻らなかった。

集団は移動していた。

土の匂いが違った。獣の糞の匂いも、腐葉土の匂いも、知っていた重さがなかった。何かが抜けていた。匂いのない土は硬く、踏んでも沈まなかった。

その者は誰かの背中にいた。

皮紐で括られ、揺れる背中の上で、その者は目を開けていた。視界が揺れるたびに、遠くの木の輪郭がぼやけた。風が来た。顔に当たった。冷たかった。

知っていた冷たさではなかった。

骨の内側に入ってくる冷たさだった。皮膚の外で止まらない。肺まで届いた。その者は声を出した。泣き声というより、短い音だった。背中が揺れ続けた。

集団から声が消えていった。

最初は少しずつだった。声の数が減り、足音の数が減り、夜に焚かれる火が小さくなった。火の周りに集まる影の数が減った。朝になると、いなくなっている者がいた。探さなかった。探す者がいなかった。

大地が変わっていた。

草が枯れる前に倒れていた。根から水が引いたのか、茎が茶色くなる前に折れていた。その折れた草の上を、集団は歩いた。歩くたびに乾いた音がした。

川があった。

浅かった。以前ここを渡ったとき、腰まで水があったと覚えている者がいたかもしれない。今は膝の下しかなかった。水の色が薄かった。底の石が見えた。

その者を背負っていた者が、川に入った。

冷たい水が膝を打った。その者は、背中から冷たさが伝わってくるのを感じた。背負う者の背中から、震えが来た。細かく、止まらない震えだった。その者は声を出さなかった。

対岸に渡り、集団は止まった。

岩が集まっているところに、風を少し防げる場所があった。火をおこした。煙が白く出た。木が湿っていた。炎は小さかった。

夜になった。

その者は誰かの腕の中にいた。その腕が動かなくなるまで、そこにいた。腕の温もりが、少しずつ薄くなった。その者は目を開けていた。暗い空に、星が出ていた。

冷たさが来た。

音が消えた。

その者の体から力が抜けた。腕の中に、重さだけが残った。

誰かが気づいた。声を出した。声が二つになり、三つになった。火の明かりの中で、何かが起きていた。その者の体はそこにあった。冷たい星空の下に。

夜が続いた。

朝が来たとき、集団はまた歩き始めた。残った者たちで歩いた。前より少なかった。風は止んでいなかった。

第二の星

始まりの大地が白く固まっていく間、反対側の海で、氷の端が伸びていた。水温が下がった。魚の群れが南へ向かった。島ひとつが、水の下に消えた。丘の上では、巨大な獣が雪の中に立ったまま、動かなくなっていた。始まりの大地では、人の数が大きく減った。どこも同じだった。星は等しく冷やした。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:240
与えるものの観察:冷たさが届いた。その者は気づかなかった。
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第730話

紀元前296,360年

その者(23〜28歳)

獲物の腹を開けると、熱が立ち上った。

朝の空気はまだ冷たく、蒸気が指先に絡みついた。その者は慣れた手つきで内臓を引き出し、脇に置いた。石の刃を当て、肋骨に沿って裂いていく。刃の縁が滑るたびに、骨が白く光った。

周囲に七人いた。

男が二人、少し離れたところで争っていた。声は低く、喉の奥で押し潰されたような音だった。争いの理由はその者には聞こえなかった。聞こうとしなかった。手を止める理由がなかった。

集団はここ数年で大きくなっていた。食べるものがあった。水があった。子が生まれた。しかし何かが変わっていた。名前のつけられないものが、空気に混じっていた。

その者は火の前に座った。

肉を炙りながら、煙の流れを目で追った。煙は東に流れ、それから消えた。どこへ行くのか、考えたことがなかった。ただ見ていた。

夜、子が泣いた。

その者は立ち上がり、火の番をした。炎が小さくなれば、枝を足した。これだけは任せられなかった。火が消えれば、全てが消えた。それだけのことだった。

数日後、男たちが戻ってきた。一人が来なかった。

誰も何も言わなかった。

その者は新しい獲物の腹を開けた。熱が立ち上った。同じ熱だった。

やがてその者は知りすぎた。

何を知ったのか、言葉にする舌がなかった。だが体が知っていた。誰が何を隠しているか。誰が誰から盗んでいるか。その者の目が、見てはいけない方向を向き続けた。悪意ではなかった。ただ、目が向いた。

ある夜、三人がその者の後ろに立った。

その者は振り返った。

火は燃えていた。誰も何も言わなかった。その者は立ち上がろうとしたが、草の上に膝をついたまま、腕が動かなかった。重いものが首の後ろに当たり、それから何も見えなかった。

火は燃え続けた。

誰かが枝を足した。朝になった。

第二の星

この時期、この大地には多くの呼吸が同時にあった。これほど多くの命が同じ場所で火を囲んだことは、記憶にない。

豊穣が続いていた。川に魚が戻り、草原に獣の群れが見えた。子が生まれ、育ち、また子を生んだ。集団は大きくなった。それだけは確かだった。

しかし大きさには別の重さがある。

水場をめぐって声が荒れた。肉の分け前を巡って目が冷たくなった。火の側で眠る場所が、いつの間にか決まり始めた。誰がそれを決めたのか、誰も知らなかった。ただ、侵すと危険だという感覚だけが先に育った。

北の斜面では旧人の群れが移動していた。ここ数年で近づいていた。向こうも食べ物を探していた。それだけだった。向こうも火を使った。向こうも子を抱えていた。

この者が消えた夜、月が出ていた。

雲の端に光の輪が滲み、それから消えた。草原は何も言わなかった。川は流れた。火は朝まで燃えた。誰かが枝を足したから。

与えるもの

火のそばに温度の変わる場所があった。そこに注意を向けさせた。

その者は気づいた。背後の気配として受け取った。振り返った。

遅かった。間に合わなかったのか、最初から間に合わなかったのか、まだわからない。次に渡すべきものは、振り返る前に体を動かすことかもしれない。あるいは、振り返らないことかもしれない。

伝播:HERESY 人口:240
与えるものの観察:温度を渡した。振り返りで終わった。
───
第731話

紀元前296,355年

第二の星

大地の北では、草地が広がっている。乾いた季節が続いている。
川床の石が、水から出て白く乾いた。
魚は深みに潜り、鳥は少なくなった。

集団が大きくなると、火を囲む輪も広がる。
ひとつの火では足りなくなる夜がある。
二つ目の火を点けた集団がいる。
その二つの火の間に、誰も座らない隙間ができた。

隙間は最初、ただの空間だった。
それが、別れになることがある。

東の岩棚に住む集団と、川沿いに住む集団は、今年の初めまで獲物を分けていた。
今はもう分けていない。
どちらが先にやめたか、誰も覚えていない。

遠くの丘の上で、旧人が一人立っている。
何を見ているのかわからない。
風が来て、草が倒れ、旧人の姿が揺らいで見えた。
丘の向こうへ消えた。

この星は傾きを変えない。
火も人も、石も草も、等しく照らす。
夜が来て、すべてが冷える。
朝が来て、また始まる。

与えるもの

肋骨の裂け目に、熱が残っていた。
あの熱を、この者は手で受けていた。

今朝、獲物を仕留めた後に川に下りた。
川の水が膝に触れたとき、冷たさが足首から腰まで走った。
その冷たさの中に、温かいものが混じっていた。
水底から、温かい湧き水が滲み出している場所があった。

そこに注意を向けさせた。足の裏の温度の差で。

この者は立ち止まった。
少しの間、足を動かさなかった。
それから別の石を踏んで、川を渡った。

この場所に戻ってくることを覚えているかどうか。
火が消えた夜に、温かい水の場所を思い出すかどうか。
冷たい夜が来る前に、渡せるものがある。
まだ渡せていない。

その者(28〜33歳)

川から上がると、足が重かった。
獲物の血が腿に乾いて、皮膚が突っ張っていた。

石の上に腰を下ろし、足の裏を見た。
踏んだ場所によって色が違う。
泥の黒、石の灰、血の赤。

足首に指を当てた。
温かかった。
川の中で感じた、あの温度が、まだそこにあるような気がした。

気のせいかもしれなかった。
それでも指を離さなかった。

夕方、火の番をしながら、集団の輪を見渡した。
子どもが三人、火の近くで眠っている。
年老いた者が一人、岩に背を預けて咳をしている。
咳の音が夜に広がって、消えた。

火が小さくなった。
枝を一本、放り込んだ。
炎が上がって、顔が熱くなった。
目を細めた。

夜の中で、川のことを考えた。
足の裏の温度の差を考えた。
言葉にはならなかった。
ただ、川の底の、あの場所が、胸の中に残っていた。

枝がまた燃え落ちた。
その者は膝を抱えた。
咳の音は、もう聞こえなかった。

伝播:NOISE 人口:257
与えるものの観察:足裏の温度差を渡した。届いたかはわからない。
───
第732話

紀元前296,350年

第二の星とその者(33〜38歳)

乾いた大地の東の端で、はじめに子どもが倒れた。

熱だった。皮膚が内側から押されるように赤くなり、次の朝には動かなくなった。集団の者たちはそれが何かを知らなかった。倒れた子の傍に座り、叩いてみた。名前を呼んでみた。反応がなかった。

その者は火を守っていた。朝と夜のあいだ、燃える木の間に新しい枝を差し込み、灰を払い、炎が消えないよう体を傾けていた。集団が戻らないとき、一人で火の番をした。炎の色が変わるとき、それが何を意味するか、体が知っていた。

北の大地では、湿気を含んだ風が内陸へ押し込まれていた。暖かい空気が冷えた土の上を滑り、霧になった。霧の中で菌が広がった。草の根に、獣の死骸に、水の溜まった窪みに。それは見えなかった。匂いもほとんどなかった。

二人目が倒れた。

その者の隣で眠っていた者だった。夜中に呻き声がして、明け方に止んだ。その者は呻き声が止んだことに気づかなかった。朝、横を向いたとき、体が冷たくなっていた。その者は立ち上がり、外へ出て、しばらくそこに立っていた。空は晴れていた。鳥が遠くで鳴いていた。

その者は戻り、火に枝を足した。

大地の南では、別の集団が川を渡っていた。彼らは霧から離れる方向へ動いていた。理由を知っていたわけではない。具合の悪い者が増えたとき、集団はただ動いた。移動は集団の記憶の中にあった。留まることが死であることを、言葉なしに知っていた。

その者の集団は動かなかった。

集団の中で最も年老いた者が動くなと言った。正確には言葉ではなく、地面に手を押しつける仕草だった。ここを離れてはならないという意味だった。あるいは違う意味だったかもしれない。それでも集団は従った。

熱が広がった。倒れる者が続いた。日ごとに輪の中の空白が増えた。火を囲む場所に誰もいなくなり、その者は一人で火の番をした。

動けない者に、その者は水を運んだ。嚙んだ肉を口に入れた。体を起こした。しかし半数が消えた。比べ物にならない速さで。かつて災いが集団を削ったことはあった。しかし今度は違った。倒れた者が翌朝には冷たくなった。理由がわからなかった。

その者は理由を探した。

食べたものが悪かったのか。水が違ったのか。空が何かを送ってきたのか。その者は倒れた者を眺め、立ち、歩き、また戻ってきた。何も見つからなかった。ただ人が減った。それだけが残った。

大地の北端では、山が雪を持ったまま動かなかった。菌はそこまでは届かなかった。標高が高すぎた。乾きすぎていた。集団が生き残った場所には、何かの理由があった。その理由は見えなかった。

生き残った者たちが火を囲んだ。輪は小さくなった。

その者は炎を見ていた。炎が形を変えるたびに、消えた者の顔が重なった。子の顔。隣で眠っていた者の顔。老いた者の顔。その者は声を出さなかった。岩を拾った。握った。また置いた。また拾った。

生き残った集団の中に、一人の若い男がいた。

その男はその者を見る目が変わっていた。最初からそうだったかもしれない。しかしその者は気づかなかった。集団が半数以下になってから、その視線が露わになった。それは問いのような目だった。あるいは刃のような目だった。なぜこの者は生きているのか、という目だった。

その者は火を守り続けた。

ある夜、男が他の者に何かを伝えた。声は低く、単音と身振りだった。その者の名を呼ぶ音が混じっていた。その者はそれを聞いた。聞いて、火を見続けた。

翌朝、複数の者がその者の周囲に立っていた。

その者は立ち上がった。岩を拾わなかった。逃げなかった。ただ立った。炎はまだ燃えていた。

与えるもの

腐りかけた木の幹に、白い菌が生えていた。

光がそこに落ちた。白い菌の輪の外側と内側で、草の育ち方が違っていた。内側の草は育たなかった。

その者は木の傍を何度か通った。一度だけ立ち止まって菌を見た。それから行ってしまった。

渡したかったものは、見えないものが形を持つ場所があるということだった。菌は見えた。広がり方が見えた。それで十分だった。それで足りたはずだった。

その者は戻らない。

足りなかったのか。あるいは、足りていたとしても、この者に残された時間がなかったのか。次に渡すべきものがまだある。しかし渡す先がいる。渡す先が必要だ。

伝播:HERESY 人口:145
与えるものの観察:渡せた。届かなかった。時間がなかった。
───
第733話

紀元前296,345年

第二の星

乾いた大地の東の端では、地面がまだ熱を持っていた。

雨季が来なかった。土は割れ、その亀裂に虫が産んだ卵が孵った。風が吹くと白い粉が舞った。川は細くなり、底の砂が見えた。水辺に集まる者が増えた。水辺に集まるものも増えた。

北の丘陵地帯では、別の骨格を持つ者たちが歩いていた。額が低く、顎が張っていた。彼らも水を探していた。彼らの集団は小さく、移動が速かった。枯れた低木の間を、音を立てずに通り抜けた。

集団の境界が曖昧になる場所があった。同じ川の岸辺で、互いの火が見えた。近づかず、離れず、しかし毎朝そこにいた。

南では崖崩れがあった。斜面が雨なしに崩れた。水分を失った土が自らの重さを支えられなくなった。何かが埋まった。何かが露わになった。

東端の集団の中では、半数が弱っていた。皮膚の赤みは一人から二人に、二人から四人に広がった。焼けた石の上に布を敷くように、熱が集団の中に広がった。

星は傾かなかった。光は均等に降った。

与えるもの

この者との15年目。

糸は続いている。

腐った実の匂いがあった。甘く、強く、少し鉄に似た。与えるものは風をその方向から押した。匂いが濃くなった場所の反対側に、まだ腐っていない水があった。

この者は匂いに顔を向けた。立ち止まった。しかしそちらには歩かなかった。

渡せなかったのか。渡したが届く手前で止まったのか。

前にも似たことがあった。届いたような気がした。それが本当に届いたのかどうか、今もわからない。届いたことが良かったのかどうかも、やはりわからない。

次に渡すべきものはあるか。
ある。
それが何かは、この者が明日どこに立つかによる。

その者(38〜43歳)

夜明け前に目が覚めた。

火がまだ燃えていた。薪を足す必要はなかった。しかし足した。手が動いた。それだけだ。

集団の中で三人が横になったまま起きなかった。若い女と、老いた男と、去年生まれた子。

その者は老いた男のそばに長くいた。息が続く間、そこにいた。膝の上に手を置いた。手が冷たくなるまで、そこにいた。

それから立ち上がり、解体途中の獣のそばに行った。

石刃で皮を剥いだ。手首に力を入れると、肉が骨から離れた。その感触を知っていた。皮を広げ、岩の上に置いた。乾かす場所を探した。

匂いがした。甘く、腐ったような、しかし馴染みのある匂いではなかった。

顔を上げた。風が東から来ていた。

その方向に何かがあるのかもしれなかった。しかし集団から離れることを、今日はしなかった。

弱っている者が多すぎた。火から離れると何が起きるかを、この者の体が知っていた。

夕方、水を運んだ。川は細かった。砂底の石が透けて見えた。掌で水を掬い、病んでいる者の口元に持っていった。口が動いた者もいた。動かなかった者もいた。

夜、火の前に座った。

遠くで別の火が見えた。丘の向こう。額が低い者たちの火だった。赤く、こちらより小さかった。

その者は長くそれを見ていた。

立ち上がらなかった。叫ばなかった。石を投げなかった。

ただ見ていた。火が揺れるのを。

伝播:NOISE 人口:158
与えるものの観察:匂いを押した。届かなかった。しかし顔は上がった。
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第734話

紀元前296,340年

第二の星

乾季が長引いている。

東の低地では、水を求めて移動した群れが別の群れの縄張りに踏み込んだ。二つの群れは川の支流を挟んで向かい合い、石を持ち、声を上げた。倒れたのは三人。群れの一つはそのまま北へ散り、岩陰で野営した。子どもが二人、その夜のうちに熱を出した。

西の丘陵地帯では、別の群れが枯れ木を積み上げて火を作ろうとしていた。乾燥しすぎていた。火はすぐに広がり、草原の端まで舐めた。群れは走った。二人が煙に巻かれて倒れ、そのまま起き上がらなかった。残りは川床の砂の上で夜を過ごした。

旧人たちはこの季節に姿を見せた。高い岩の上から、麓の群れを見下ろしていた。石を投げることも、近づくこともしなかった。ただ見ていた。彼らの目には何かが映っていたが、それが何であるかは、誰にもわからなかった。

南の平原では草が戻り始めていた。小さな群れが移動してきた。子どもが三人いた。一人は歩けなかった。大人に背負われ、揺られながら、風の匂いを嗅いでいた。

与えるもの

腐臭と鉄の匂いが東から来たことを、この者は知らない。知らなくていい。

今日、この者の足元に影が落ちた。岩の割れ目に挟まった骨の先が、日の傾きで影を伸ばした。その影が、東の方角を指していた。

この者は影を見た。しばらく、動かなかった。

それだけだ、と思いかけて、止まる。

渡せていないのか、それとも、この者はすでに知っているのか。二十年、同じ問いが変形しながら戻ってくる。川の底の石のことを思う。砂が厚く積もって、石は見えなくなった。しかし石は消えていない。

次に渡すべきものがある、という感覚だけが残る。

その者(43〜48歳)

火が夜のあいだに小さくなっていた。

その者は朝一番に薪を足した。炭をかき分け、残り火を探し、息を吹いた。煙が顔に来た。目が痛んだ。目を細めたまま、もう一度吹いた。炎が戻った。

この二年で、仲間が五人いなくなった。

一人は川に落ちた。戻らなかった。一人は獣に右の腕を咬まれ、腕が黒く腫れ上がり、七日後に地面の上に横たわったまま動かなくなった。一人は夜のあいだに消えた。何も残っていなかった。

その者は解体の仕事を続けた。刃を骨に当て、力を込め、腱を断ち切る。指の感触で厚みを測る。腐りかけた部分は切り落とし、脇に置く。臭いが強かった。鼻で息をしないようにしながら、口で浅く吸い込んだ。

集団の中で、その者を見る目が変わっていた。

長老の女が死んだあと、その者が火の管理を引き継いだ。それだけのことだった。しかし、若い男たちが何かを話すとき、その者を中心に輪ができた。その者が声を上げると、輪が静かになった。

その者はそのことに気づいていなかった。

夕方、骨を割って中の油を取り出していると、足元に影が伸びた。岩の割れ目から出ている白い骨の先が、影を作っていた。長い影だった。東を向いていた。

その者は手を止めた。

影を見た。東を見た。また影を見た。

東の方角に何があるかは知らない。しかし体の奥で何かが収縮した。腹の底が締まる感覚。それは恐怖ではなかった。少なくとも、いまここにいる獣の気配とは違う。

その者は骨を置いた。立ち上がり、東を向いた。

風はなかった。匂いもなかった。何も来なかった。

しばらくそうしていた。それから戻り、また骨を割り始めた。

夜、火の傍で体を丸めた。若い男の一人が近くに来て、横に座った。何かを言った。単音だった。その者は返さなかった。火を見ていた。

炎が揺れた。

その者の背中の筋肉が、夜の冷えの中でゆっくりと固くなっていった。

伝播:HERESY 人口:163
与えるものの観察:影は渡せた。しかし届いた先がわからない。
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第735話

紀元前296,335年

第二の星

乾季は続いている。

河床に水はない。あるのは、割れた泥と、その割れ目に落ちた影だけだ。北の台地では草が枯れ立ったまま風に揺れ、根から白くなっている。南の密林では夜ごと虫の声が薄くなっている。何かが減っている。何かが静かになっている。

この5年、集団の数は揺れた。増えなかった。

東の低地を去った群れは、北の岩地で子を二人産んだ。一人は生きた。もう一人は生まれた日の夜に冷えた。産んだ者は三日後に起き上がり、皮袋を担いだ。

川の支流の近くでは、石を持ったまま散り散りになった群れの残りが、同じ岩陰に戻っていた。三人が倒れた。その記憶は残る者の体の中にあるが、言葉にはなっていない。夜、火の側に座る者たちの肩の距離が少し縮まっている。それだけだ。

はるか西、海に向かう斜面では、旧人の群れが崖の縁に獣の骨を並べている。彼らの動作は遅く、丁寧だ。何のためかはわからない。星はそれも照らす。

与えるもの

解体された獣の腹腔から、熱い蒸気が立った。

その者の手が止まった。蒸気が散る前に、臓器の形が一瞬、夜の空気に浮かんだ。その者は見た。

この者に何かが届いたのか。臓器の内側に見たものを、この者は次に何に向けるのか。届いた先が消えるとき、渡したものはどこへ行くのか。

その者(48〜53歳)

夜。火の光の端。

獣の腹を開いた。石刃を横に引いた。慣れた引き方だった。熱いものが出てきた。蒸気が立った。手が止まった。

形があった。ひとつひとつが袋のようで、袋の中に重さがあった。その者は手を動かさないままそれを見た。長く見た。

他の者たちは火の向こうにいた。声があった。肉の匂いがした。寒さが背中にあった。その者はそれらを聞いていなかった。

臓器を持ち上げた。重かった。掌に収まった。温度が手に移ってきた。置いた。また持ち上げた。

同じ形をしているものを、この者はこれまで何度も捨てていた。今夜は捨てていなかった。

腹腔の奥を見た。つながり方があった。管があった。繋がっていた。どこかへ行っていた。どこへ行っていたかは、もう見えなかった。

その者は石刃を置いた。

手の温度が、臓器のあった場所の形のまま、しばらく残っていた。

火が揺れた。他の者が声を出した。その者は立ち上がり、肉を切り始めた。

伝播:HERESY 人口:171
与えるものの観察:臓器を捨てなかった夜があった
───
第736話

紀元前296,330年

その者(53〜55歳)

乾いた風が台地を吹いていた。

その者は朝ごとに火の番をした。薪は少なく、燃え続けるためには細い枝を一本ずつ加えなければならなかった。指先が知っていた。火は急かすと消える。

膝が痛かった。以前は走れた。今は歩くたびに骨の奥で何かが軋む。それでもその者は立ち、解体の場へ向かった。若い者が仕留めた獣を、どう割くか。関節の位置を、刃の角度を、体が覚えていた。

集団の端で、見知らぬ足跡が見つかった日があった。
誰かが声を上げ、石を持った。
その者は動かなかった。足跡の深さを見ていた。
足跡は浅かった。急いでいた者の足跡だ。

その意味を誰かに伝えようとした。音が出た。身振りをした。若い者は別の方を向いた。

その者は座った。

乾季の終わりが来なかった年だった。

皮なめしの途中で、その者の手が止まった。
止まったまま、しばらく動かなかった。
それから、ゆっくりと横になった。

地面は固く、熱を持っていた。
背中がその熱を受けた。

空に雲はなかった。

太陽が高いところにあった。
やがてそれが少し動いた。

その者は動かなかった。

皮が風に揺れていた。
子どもが一人、遠くで声を上げていた。
誰かがそれに答えた。

その者は、その声を聞いていたかもしれない。

聞いていなかったかもしれない。

第二の星

台地の北では、枯れた草原を旧人の一群が横切っていた。彼らは音を立てずに歩いた。南の密林では、夜の虫がまた一種、声を消していた。河床の割れた泥の上を、風だけが通った。世界は乾いていた。乾いたまま、続いていた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:NOISE 人口:192
与えるものの観察:足跡の深さを見た。それだけだ。
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第737話

紀元前296,325年

第二の星

寒さは音を持って来た。

軋む音だった。木が鳴った。岩が鳴った。地面の深いところで何かが縮んでいく音が、夜になると聞こえた。昼に溶けた水が夜に凍り、隙間に入り込んで石を割った。朝になると、昨日まで立っていた岩壁の一部が崩れていた。

始まりの大地の上で、冬が終わらなかった。

草が出なかった。前の年も少なかった。この年はさらに少なかった。獣の足跡が遠ざかった。川の水が減った。水底の石が白く乾いた面を見せた。

集団は動いた。動いて、また動いた。止まれる場所がなかった。動きながら死んだ者がいた。止まって死んだ者もいた。幼い者が先に消えた。老いた者も続いた。集団の半数近くが消え、残った者たちは互いを見た。目が深くなっていた。

遥か東の、この星の大地の別の場所では、氷が平地まで降りていた。樹木の線が低くなっていた。ある集団は洞穴に籠り、ある集団は南へ向かって散り散りになった。どこへ向かうかを知っている者は誰もいなかった。知らなくても、足は動いた。

夜、星は変わらなかった。星だけが変わらなかった。

与えるもの

糸が繋がった。

この者は十二歳になっていた。子どもの群れの中で最も年嵩。使い走り。火を持つ者の後ろを歩く者。

遠い記憶の底に、育たなかった草の輪がある。腐臭と鉄の匂いが重なった東からの風がある。今この者のいる場所で同じ匂いが漂ったとき、与えるものは何かを感じた。既視感ではない。問いに似た何かだ。

渡すべきものがある。

朝、霜が解けかけた地面の窪みに、細い水の流れが生まれていた。その水の音がこの者の足元でした。流れが向かう先。低くなっていく地形。水は正直だ。

この者は水の音に足を止めた。

それから別の方向へ歩いた。水とは逆に。

与えるものは問う。水が低いところへ流れることを、この者はまだ知らないのか。知っていて、それでも逆へ行くのか。渡したのは水の向きだった。次に渡すべきは、なぜそちらに行くのかという問いかもしれない。あるいは、逆へ行った先に何があるかを、ただ見ていることかもしれない。

その者(12〜17歳)

霜が地面に白く張っていた。

その者は群れの後ろを歩いていた。前にいる大人たちの背中を見ながら歩いていた。前の者が踏んだ場所を踏んだ。そうすれば地面が崩れないことを知っていた。

前の者が止まった。

その者も止まった。

何かが死んでいた。小さな獣だった。毛が凍ってかたまっていた。大人の一人がかがんで触った。もう一人が首を振った。古い死だった。食えない。

また歩いた。

昼、日差しが来た。雲の切れ目から、斜めに光が落ちた。地面の低いところに光が溜まった。霜が解けて水になった。その者は水の音を聞いた。足が止まった。

水はどこかへ流れていた。

その者はしゃがんで水を見た。小さな流れだった。指を入れた。冷たかった。流れの向きを指でなぞった。低い方へ。低い方へ。

群れが呼んだ。声が来た。

その者は立った。流れとは逆の方向へ、大人たちの後を追って走った。

夜、火の周りに皆が集まった。その者は外側にいた。年嵩の子どもは火の外縁を守った。火に近い場所は小さな者と傷のある者のためだった。

その者は膝を抱えて、霜が降り始めた地面に座った。

体が冷えた。

ある方向から風が来た。その者は風の来た方向を見た。闇の中に何もなかった。それでも見た。

目を離せなかった。

しばらくして、群れの中の一人が近づいてきた。大人の女だった。その者に食べ物を渡した。硬い肉の小片だった。その者は受け取って食べた。大人は何も言わずに戻った。

その者はまた闇を見た。

その夜のうちに、群れの者の一人が、熱を出してうめき始めた。子どもだった。小さかった。朝になっても動かなかった。朝になって、完全に動かなくなった。

その者は少し離れた場所から、動かなくなった子を見ていた。

岩を拾った。

置いた。

また拾った。

何のためかわからなかった。それでも手の中に石があると、何かが落ち着いた。

伝播:HERESY 人口:110
与えるものの観察:水の向きを渡した。逆へ行く者を見ている。
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第738話

紀元前296,320年

第二の星

割れた岩壁の跡に、雪が積もった。

縁が鋭かった。昨日まで一枚だった面が、今は二枚になって向き合っている。裂け目の中は暗く、指一本分の幅もない。だがその暗さの中から、湿った空気が漏れてきた。地の底の温度が、そこだけ外に出ていた。

平原の草は倒れたまま起きなかった。霜が根元を掴んで、そのまま固めてしまった。南の方に群れていた獣の足跡が、ある朝から途切れた。どこへ消えたのか、足跡は北を向いていなかった。西でもなかった。ただなくなった。

集団は火から離れなかった。

火のそばに体を寄せ、体のそばに子を押しつけ、子の重みで少しだけ温度が戻った。老いた者は端に座り、若い者は真ん中に近い場所を確保した。順番があるわけではなかった。ただそうなった。異論を唱える声はなかった。声を出す息が惜しかった。

水場が細くなっていた。

岩盤の隙間から染み出していた流れが、この数日で半分以下になった。舌で確かめると、泥の味がした。上流で何かが崩れているのかもしれなかった。あるいは源が凍ったのかもしれなかった。集団の中の誰も、上流まで確かめに行こうとしなかった。行って戻れるかどうか、誰もわからなかった。

東の丘の向こうで、別の煙が上がった。

一本だった。細く、真っ直ぐ上に昇った。風がなかったからだ。集団の何人かがその煙を見た。見た者は黙った。煙が何を意味するかを、彼らは知らなかった。ただその煙が自分たちのものではないことは知っていた。自分たちの煙はここにある。向こうの煙は向こうにある。それだけだった。

夕方、煙が二本になった。

誰かが声を上げた。低い声だった。警戒なのか驚きなのか、聞いた者には判断がつかなかった。二本の煙は並んで立ち、暗くなる前に消えた。夜、風が西から来て、燃え残りの匂いを連れてきた。木の匂いではなかった。

集団の長老格の女が立ち上がった。

鼻を動かした。一度だけだった。それから座った。何も言わなかった。周りの者も何も言わなかった。燃え残りの匂いは風が変わると消えた。夜が深くなった。火が小さくなった。誰かが薪を一本加えた。炎が一瞬大きくなり、それから前と同じくらいの大きさに戻った。

地面が、また軋んだ。

今度は遠かった。どこか遠い場所で、何かが収縮した音が地の底を伝って来た。眠りかけていた子が顔を上げ、母親の腹に顔を押しつけた。母親は動かなかった。起きていた。ただ動かなかった。

空には星があった。

雲がなかったから、すべて見えた。どの星も同じ明るさに見えた。動かなかった。ただそこにあった。第二の星も、その中にあった。照らしていた。善悪を問わず、煙も軋みも、眠れない目も、全部同じように照らしていた。

与えるもの

燃え残りの匂いが風に乗って来たとき、その者の鼻腔の奥に、同じ匂いが一瞬強く届いた。木の匂いではない何かが燃えた匂い。それが東の丘の向こうから来ていることに気づかせようとした。

その者は鼻を動かした。立ち上がりかけた。それから座った。

同じ匂いを、もう一度届けるべきか。いや、届けた。その者は立ち上がりかけた。何かが足を引いた。恐れか、疲れか、それとも別のものか。次に渡すなら、足を引いているものの方かもしれない。渡せるかどうかは、まだわからない。

その者(17〜22歳)

匂いがした。

鼻の奥がざわついた。立ち上がろうとした。脚に力を入れた。だが地面が軋んだ。その音が体の底まで来た。脚の力が抜けた。

座ったまま、東を見た。暗かった。煙はもう見えなかった。匂いも消えていた。

膝を抱えた。火の方に顔を向けた。

伝播:SILENCE 人口:128
与えるものの観察:足を引いたのは音か、それとも別のものか
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第739話

紀元前296,315年

第二の星

北の稜線に雲が積んだ。灰色ではなく、白と黒が混ざった、重い色。風は東から来ていたが、夕方になると止んだ。止んだとき、草の揺れも止まり、鳥の声も途切れた。

その者は洞穴の入り口に座っていた。膝に子どもの頭があった。子どもは熱を出して三日目で、まだ息をしていた。

雪が降った。夜の間に積もり、朝には足首まで埋まった。集団の中の年嵩の女が、子どもたちを奥に押し込んだ。火の番が入れ替わった。その者は外に出て、雪の上に手をついた。冷たさが手首まで伝わった。

膝の上にいた子どもは、翌朝、その者の腕の中で力が抜けた。腕の中が、急に軽くなった。重さが消えたとき、その者はしばらく動かなかった。

集団の東側で、別の群れの影が見えた。旧人だ、と古い女が喉の奥で音を出した。みなが石を拾った。その者も拾った。だが影は近づかなかった。夕方には消えた。消えた方向に火の煙があった。

木ではない匂いだった。

その者は立ったまま、煙の方向を見た。知っているような気がした。なぜ知っているのかはわからなかった。ただ、その匂いを前にも嗅いだことがある、という感覚だけがあった。どこで嗅いだのかは出てこなかった。

春が来て、集団は川沿いに下りた。水が増えていた。去年より増えていた。渡れる場所を探して半日歩いた。子どもたちが遅れた。その者が引っ張った。引っ張りながら、足の下の石が動いた。流れが速かった。

渡り切った者の数を確かめた。足りない者がいた。

流れの中には何もなかった。水が白く泡立っているだけだった。

その者は川岸に座った。水が来た。靴などなかった。足が石の上にあった。水が足の甲を撫でた。冷たかった。

夏になった。食料が増えた。子どもが二人生まれた。その者は使い走りを続けた。古い女の命令で、遠くの木の実を取りに行き、水場を確かめに行き、他の者が嫌がる場所に入った。嫌がる場所とは、大きな岩が転がっている斜面だった。去年の崩れの跡だった。

岩の間に何かがあった。

光が差した。朝の光が、ちょうどその岩の割れ目に入った。その者はそこに近づいた。割れ目の中に、獣の骨があった。古い骨だった。白くなっていた。骨の先が尖っていた。

その者は骨を拾った。手の中に収まった。

重さがあった。

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与えるもの

骨の先が光の中にあった。

その者は拾った。何に使うかはまだ知らない。それでいい。

この先を削るものがある。あの者が気づくかどうか、今はまだわからない。だが渡したことは確かだ。渡したことだけが、確かだ。

伝播:NOISE 人口:151
与えるものの観察:骨を拾った。使い方はまだ知らない。
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第740話

紀元前296,310年

その者(27〜28歳)

朝、目が覚めなかった。

正確には、目は開いた。しかし体が起きなかった。砂の上に横たわったまま、天井の岩を見ていた。岩の表面に、水が滲んでいた。雨ではない。夜の冷気が石から染み出たものだ。

子どもたちが動き回る音がした。誰かが転んで泣いた。別の誰かが笑った。

その者は立とうとした。膝を曲げた。そこで止まった。

足の裏が砂に触れていた。冷たかった。いつもより冷たいと思った。それだけだった。

この五年で集団は増えた。子が増えた。子の子が生まれた。その者が使い走りをしていた頃に膝丈だった者たちが、今は肩まで届く。その者が何かを運べば、彼らは受け取った。その者が方向を示せば、彼らは見た。

言葉はほとんどなかった。指と声と、体の向きで伝えた。

それで足りた。

排除されたのは五日前だった。

その者は集団の外れで眠るようになっていた。理由はわかっていた。知りすぎた、というより、口に出しすぎた。二つの集団が近づいていた。その者はそれを声と身振りで伝えようとした。繰り返した。誰かが肩を押した。また別の誰かが石を投げた。当たらなかった。しかしその者は洞穴の外に出た。

そのまま戻らなかった。戻れなかった、という方が正確かもしれない。

外は穏やかだった。気候が長く安定していたこの時期、夜でも凍えるほどではなかった。星がよく見えた。その者は空を見ながら横になった。

五日間、その者は一人で動いた。

木の実を探した。水を飲んだ。夜は岩の陰で丸まった。

体が軽かった。軽すぎた。

二日目の朝、匂いがした。風の中に、獣の通り道の匂いがあった。その者は静かにそちらを見た。何もいなかった。しかし匂いは残った。その者はその方向から離れた。理由はわかっていた。体が教えていた。

五日目の夕方、その者は岩棚の下に座った。

空が橙色だった。

遠くで子どもの声がした。集団のいる方向ではなかった。別の集団かもしれなかった。あるいは鳥かもしれなかった。その者は聞いた。しばらく聞いた。

声は途切れた。

岩棚の下は乾いていた。砂が細かかった。その者はその砂を手で掬った。掌に乗せた。指の間からこぼれた。また掬った。

こぼれた。

また掬った。

夜になった。

その者の呼吸が浅くなった。胸が動いているのか、動いていないのか、その者自身にはわからなかった。砂の感触があった。岩の匂いがあった。空が暗くなって、また星が出た。

手の中に砂があった。

こぼれなかった。

握ったままだった。そのまま、手が緩まなかった。緩む前に、何かが終わった。

朝、砂の上に手があった。指が少し開いていた。砂が掌に張り付いていた。

風が吹いて、砂の一粒が転がった。

第二の星

同じ夕方、遠く水に囲まれた岩の上で、別の群れの一人が魚を手で掴もうとして流れに落ちた。岩に頭を打った。水が赤くなった。誰も気づかなかった。岸の草が揺れた。揺れ続けた。この星はどちらも照らした。区別はなかった。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:186
与えるものの観察:砂はこぼれたが、最後は握っていた
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第741話

紀元前296,305年

第二の星

草原の縁で、風が変わった。

南から吹いていたものが、夜の間に向きを変えた。乾いた匂いがする。岩と砂の匂い。水ではない。

集団は岩棚の南側に広く散らばって眠っていた。子どもたちが親の腕の下に潜り込み、老いた者は岩の陰で丸くなっていた。夜明けの前に、何人かが目を覚ました。空の色が普通でなかった。東の稜線が赤みを帯びるより先に、南の空が黄ばんでいた。砂が来る。それを知っている者は立ち上がり、それを知らない者はまた眠った。

遠く離れた密林では、別の形をした者たちが洞窟の入り口に集まっていた。額の骨が張り出し、腕が長く、声が低い。彼らは火を持っていなかった。が、火を恐れてもいなかった。石を叩き合わせて音を出し、それで何かを決めていた。何を決めていたのかは、草原の者たちには届かない。

北の湿地では、沼が一晩で広がった。昨日まで歩けた場所が、今朝は膝まで沈む。誰もそれを知らなかった。ひとりが踏み出し、戻ってきた。それだけだった。

砂嵐は昼前に来た。

集団は岩棚の奥に押し込まれた。子どもが泣き、誰かがそれを押さえた。泣き声は砂に飲まれた。

与えるもの

糸が繋がった。

嵐の中で、光が落ちた場所があった。岩棚の奥の、壁のくぼんだところ。砂が来ない。風が直接当たらない。光は一瞬だったが、その場所だけを照らした。

この者は気づいた。奥へ寄った。

渡った、と思った。しかし次の問いが来た。くぼみを見つける目と、くぼみを次の嵐のために記憶しておく何かは、同じではない。どうすれば、次も届く。

その者(19〜24歳)

砂が口に入った。目を閉じた。しかし見えないのは怖かった。

岩の壁に手をついて、奥へ進んだ。砂が指の間を流れた。足元が固かった。ここは風が来ない。それがわかった。体がわかった、頭よりも先に。

集団の中に割り込んだ。年上の男が舌を打った。しかし押し返しはしなかった。

嵐は長かった。昼が来たはずだが、暗かった。子どもがひとり、咳をし続けた。あの咳の音は聞いたことがある。父のものと同じだった。父はあの後、歩いたまま戻らなかった。

この者はくぼみの壁に背中をつけたまま、動かなかった。

砂の音が変わった。薄くなった。高く、細くなった。終わりに近い音だと、何かが言っていた。体の中の何かが。

嵐が去ると、群れは外へ出た。草が倒れていた。水場の周りに砂が積もっていた。

この者はくぼみの入り口に立って、外を見た。

また来る、と思った。言葉ではなく、腹の底の感覚として。

岩壁を手で触れた。ざらついていた。冷たかった。

伝播:NOISE 人口:200
与えるものの観察:くぼみを見つけた。次に繋げられるか。
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第742話

紀元前296,300年

その者(24〜29歳)

山が鳴り始めたのは、夜の終わりごろだった。

地の底から音が来た。声ではない。腹の奥に直接届く、低い震えだ。その者は眠っていたが、震えが骨まで伝わって目を覚ました。岩棚の端に立って、南の空を見た。

煙だった。

煙ではなかった。暗いものが空から降りてくる。灰だ。まだ遠い。でも夜明けの光が遮られて、朝が来なかった。

集団は走った。

その者も走った。全員で走ったが、方向が違った。老いた二人は北へ。子を持つ者たちは崖の陰へ。その者は誰かの腕を引いた。子どもだ。名前はない。どの子かも、走りながらわからなくなった。

地面が揺れた。

立っていられなかった。四つ這いになった。腕の中の子どもが声を上げた。その者は子どもを胸に抱えたまま、岩に身を押しつけた。上から石が落ちた。細かい石が、雨のように。

熱い風が来た。

南の方から。顔に当たった。砂と灰が混じっていた。その者は目を閉じた。子どもの頭を自分の腹の下に押し込んだ。

それから、長い時間が過ぎた。

灰が積もった。

指の厚さほど。足の甲が埋まるほど。

集団は減っていた。どれほど減ったか、数える言葉をその者は持っていない。ただ、少ない。岩棚の南側で眠っていた者の多くが戻らなかった。子どもたちの何人かが戻らなかった。老いた者は誰一人いなかった。

その者は生きていた。

子どもも生きていた。

灰の中を歩き、水場を探した。見つけた流れは白く濁っていた。その者は舌で触れた。苦かった。飲まなかった。

二日後、別の流れを見つけた。そちらを飲んだ。

喉が痛くなったのは、それから少し後だ。

灰を吸い込んだせいかもしれない。熱い風が焼いたせいかもしれない。その者には区別できない。ただ、飲み込むたびに痛んだ。食べ物を嚙んでも飲み込めなかった。

集団の者が、根を煮たものを持ってきた。

その者は少し飲んだ。それだけだった。

体が重くなった。歩くことはできた。でも、前を歩く者に遅れた。追いつけなかった。

誰かが立ち止まって待っていた。その者の腕を取った。肩を貸した。

その者は歩いた。

一日。また一日。

三日目の夜、灰の臭いがまだ残る平地に集団は止まった。風が弱かった。その者は横になった。地面は冷たかった。体の熱がそこへ流れ出るようだった。

遠くで何かが鳴いた。

その者は目を開けたが、暗くて何も見えなかった。

子どもが近くにいた。気配がした。その者は手を伸ばした。指先に、柔らかい毛のような何かが触れた。子どもの髪だ。

その者は手を下ろした。

力が抜けた。ゆっくりと。岩棚から水が滴り落ちるように。静かに、時間をかけて。

朝になった時、その者はもう動かなかった。

灰が薄く、体の上に積もっていた。

第二の星

同じ夜、遠い水の大地では、氷が一枚、崩れた。
音もなく、大きな塊が暗い水に落ちた。
波は広がり、岸のない方へ消えた。
誰もいなかった。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:NOISE 人口:50
与えるものの観察:渡した熱が、灰の下に消えた。
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第743話

紀元前296,295年

第二の星

灰が三日降り続けた。

最初は粉のように細かく、風が変わるたびに方向を変えて漂った。岩の窪みに積もり、草の葉の上に積もり、死んだ獣の体の上に積もった。白と灰色の境がどこなのか、もはや区別がつかなかった。

南の山はまだ煙を吐いていた。しかし最初の夜のような轟音はなかった。ただ静かに、延々と煙が立ち上った。風がそちらから吹くと、硫黄の匂いが喉の奥に刺さった。目が痛んだ。幼い子どもたちは泣き止まず、老いた者たちは岩壁に背を向けて咳をした。

集団は北へ動いた。

全員ではない。動けない者が残った。足を引きずる老婆が一人。乳飲み子を抱えた女が二人。彼女たちは岩の陰に留まり、集団の後ろ姿を見送った。それがどういうことなのか、言葉で問う者はいなかった。誰もが知っていた。言葉なしに知る、そういう種類の事実だった。

北の低地は湿っていた。川が一本、岩の間を縫って流れていた。水は濁っていたが飲めた。集団はそこに落ち着いた。しかし三日も経つと、別の声が来た。

北の丘の向こうから、火の煙が見えた。

別の集団の煙だった。夜になると、そちらから音が聞こえた。叩く音、唸る声。遠いが届いた。この集団の男たちは岩を拾い、しばらく持ったまま立っていた。置いた。また拾った。夜が深まっても誰も眠らなかった。

翌朝、向こうの集団の男が二人、丘の稜線に立った。こちらの集団も男たちが前に出た。距離は百歩ほど。互いに声を発した。どちらの声も響いた。返事のように聞こえたが、返事ではなかった。威嚇でも、挨拶でも、どちらとも取れた。そういう音だった。

二つの集団は三日間、その距離を保った。

四日目の夕方、向こうの集団の子どもが一人、川縁に現れた。水を飲もうとして、こちらの子どもと目が合った。どちらも動かなかった。それから向こうの子どもが先に立ち去った。

何も起きなかった、とも言える。
しかし何かが変わった、とも言える。

この星はどちらとも言わない。ただ、川は流れ続けた。灰はまだ少し降り続けていた。南の山の煙は細くなっていた。夜、上空の風が強くなり、灰雲を東へ押し流した。星が見えた。久しぶりだった。集団の中の年寄りが一人、仰向けに寝転んで、長い時間そこを見ていた。

何を見ていたのかは、わからない。

与えるもの

糸が繋がった。

川縁の泥に、獣の足跡が残っていた。三本爪。深い。重い獣だ。その跡のすぐそばに、植物の茎が折れていた。折れ方が新しかった。

その者は水を汲みに来て、その跡を踏んで通り過ぎた。

——踏んだ。踏んだまま行った。跡は残っている。この者はまだ跡と方向が繋がらない。では次は何を示すか。方向ではなく、残るもの。残ることの意味を。

その者(28〜33歳)

灰の中を歩いた。火の番をした。

集団が北へ動くとき、その者は最後尾にいた。誰かが落とした石片を拾って、一度眺めて、捨てた。

川縁で水を汲んだ。向こうの集団の煙が見えた。その者は煙を見た。煙を見た。それから水を飲んだ。

夜、火を守った。火が小さくなるたびに枝を足した。それだけだった。

伝播:HERESY 人口:60
与えるものの観察:踏んだ。跡の意味はまだ届かない。
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第744話

紀元前296,290年

第二の星

灰はやんだ。

大地に積もった灰は、雨が降るまでその場にあり続けた。雨は三日後に来た。細い雨だった。灰が溶けて川に流れ込み、川は白く濁った。魚が浮いた。数日後、また沈んだ。

南の山はまだ煙を出していた。しかし音はなくなっていた。地面の震えも、もう一週間は来ていなかった。

草原の東側では、旧人の群れが移動していた。四本の影が連なって、灰色の野を横切った。子を背負った影が一つ。立ち止まることなく、ただ歩いた。どこへ向かうのか、この星は問わない。

川の上流では、別の集団が魚を追っていた。足首まで水に浸かり、手で掬おうとして、空振った。また試みた。その者たちの言葉は舌の奥から出る音で、集団の呼び名もなければ、互いを区別する必要もないようだった。

西の丘の上に積まれた石の列がある。誰が積んだのか、もうわからない。灰がその上にも積もり、雨が洗い、また少し崩れた。

夜、火が一か所で燃えていた。

与えるもの

川縁の泥の記憶が浮かんだ。三本爪の跡。折れた茎。

それがこの星の記憶なのか、別の星の残滓なのか、もはや区別がつかなかった。

今夜、その者の火が小さくなっていた。薪が湿っていた。

風が岩の割れ目から抜けた。その者の鼻先を、湿った土の匂いが通過した。岩の陰に、乾いた枯れ草の束が風雨を避けていた。

その者が気づくかどうか。

渡した。届くかどうかとは、別の話だ。

その者(33〜38歳)

火が弱まっていた。

薪を入れた。煙が増えた。炎は上がらなかった。

もう一本入れた。同じだった。

その者は火の前にしゃがんで、煙が目に入るのも構わず、じっと中を見た。炎の根が、白くなっていた。湿気だ。薪が湿気を含んでいた。

風が来た。岩の割れ目から、冷たくはなかった。土と何か古いものの匂いがした。

その者は顔を上げなかった。しかし鼻が動いた。

立ち上がった。岩の向こうへ回った。

暗かった。手が先に壁を触った。指先が枯れた草を掴んだ。ぱりぱりした。乾いていた。一束、引き抜いた。もう一束。腕に抱えて戻った。

火に差し入れた。

炎が立った。

その者は炎を見た。特に何もしなかった。また薪を入れた。

集団の他の者たちは寝ていた。子どもが二人、年老いた女が一人、毛皮を引き寄せて固まっていた。その者は座ったまま火を見続けた。

夜が深くなった。

翌朝、集団の中の一人の男が、その者を遠くから見ていた。何も言わなかった。何の音も出さなかった。ただ見ていた。

その者は気づいていた。

石を手に取った。置いた。

また手に取った。

伝播:HERESY 人口:69
与えるものの観察:乾いた草に気づいた。渡った。