2033年、人類の旅

「紀元前296,165年〜紀元前296,045年」第769話〜第792話

Day 33 — 2026/05/05

読了時間 約63分

第769話

紀元前296,165年

第二の星

草原の東で地面が沈んだ。
雨が降ればそこに水が溜まる。干上がれば泥が固まる。
草が生え、獣が水を飲みに来る。地は変わり続ける。それだけだ。

始まりの大地の南端では、別の集団が三つの丘を挟んで獣の群れを追っていた。毛足の長い獣で、角が二本。その集団に旧い者が混じっている。旧い者と新しい者が同じ方向に走る。声が違う。骨格が違う。走る速さも違う。しかし同じ獣を追っている。

北の岩棚では子どもが五人、火の周りに座っていた。大人が戻らない夜、その中の一人が枯れ枝をくべ続けた。火は消えなかった。朝になって大人が戻り、子は何も言わなかった。

東の沈んだ土のそばでは、水が溜まり始めていた。
まだ浅い。腰まで届かない。
しかし魚が入ってきた。川から流れてきた、小さな魚が。

空は晴れていた。
草は伸びていた。
三十四歳の者と三十九歳の者は、同じ草原で同じ太陽の下にいた。

与えるもの

草と水の境目に光が落ちた。
午後の光で、影が長かった。その影の先に、小さな魚が動いていた。

この者は光を見た。
それから水に近づいた。
魚は逃げなかった。浅い水の中で動いた。

この者は手を伸ばした。

手が届かなかった。

もう一度。
届かなかった。

水の中の魚は捕れない。ではどうするか。
渡したのは位置だ。届かないことも一緒に渡した。
届かないことが、次を作る。
届かないという感覚を、この者が持っていられるかどうか。

その者(34〜39歳)

水が増えた。

東の低いところに、数日前から水が溜まっていた。その者は荷を背負って水の縁を通るたびに、足が濡れた。濡れた足が乾くときの冷たさを、好きではなかった。

ある午後、光が水面に落ちた。
影が長く伸びて、水の中に入った。

その者は立ち止まった。

影の先に、小さく動くものがいた。
魚だと分かった。魚は知っていた。川で見たことがある。しかし川は遠い。ここにいるのはなぜか、考えなかった。ただ、いる。

手を伸ばした。
水が冷たかった。魚は動いた。指の間をすり抜けた。
もう一度。すり抜けた。
もう一度。泥が舞い上がり、何も見えなくなった。

その者はしゃがんだまま、しばらく水を見た。
泥が沈むのを待った。
魚は戻ってきた。

手では捕れない。

その者は立ち上がり、岸に落ちている枯れ枝を拾った。
先が細かった。
水に向かって突いた。外れた。
もう一度。外れた。

何度か試して、やめた。

その日の夜、火の番をしながら、その者は枝を持っていた。
先を火に近づけた。焦げた。焦げた先を石で削った。
削ると尖った。

削った。また削った。
火が揺れた。
削ることをやめて、火を直した。

朝になった。
枝は床に転がっていた。

その者は枝を拾った。拾って、水のほうへ歩いた。

水のそばに来た。
魚がいた。

枝を水に向けた。

集団の中の年上の者が来た。
何をしているか、と声と身振りで聞いた。
その者は枝を見せた。魚を指した。

年上の者は笑った。
その笑いの意味を、その者は読まなかった。
枝を下げなかった。

伝播:HERESY 人口:227
与えるものの観察:届かないことを渡した。次は届くかもしれない。
───
第770話

紀元前296,160年

その者(39〜41歳)

集団の中で、その者は古かった。

四十を数える者は少なかった。膝が鳴った。荷物を背負うと背中がこわばった。火の番をするとき、地面に座るのに時間がかかった。若い者たちはそれを見て何も言わなかった。

火の番は昼も夜もあった。その者は夜の番を好んだ。誰も起きていない。炎がある。それだけで十分だった。

三十九の冬、集団の中に亀裂が入った。

食べ物は足りていた。それでも足りていた。しかし誰かが多く取った。誰かが場所を占めた。その者は見ていた。言葉で言えなかった。言えたとしても言わなかったかもしれない。ただ、見ていた。

夜の火のそばで、年長の男が若い男に向けて声を上げた。腕を振った。若い男は動かなかった。年長の男はまた声を上げた。

その者は火を見ていた。

翌朝、その者は荷物を持って列の後ろを歩いた。いつものことだった。

集団が移動を始めたのは、水場が変わってきたからだった。新しい水場は東の方にあると誰かが言った。東へ向かった。崖の縁に沿って歩く道だった。

風が来た。

その者の鼻孔に、腐った葉と湿った土の匂いが混じった。足元の草が揺れた。その者は立ち止まり、崖の下を見た。深かった。石が見えた。水の音がした。

誰かが後ろから押したのか。

足が滑った。

荷物が離れた。

その者の体は崖の縁を転がり、岩に当たり、落ちた。

水の音はずっと聞こえていた。途中まで。

列の中の誰かが声を上げた。崖の下を見た。もう動かないものがあった。しばらく誰も何も言わなかった。それから列は動き始めた。

荷物は崖の縁に残った。

第二の星

草原の西で二つの集団が川を挟んで向かい合っていた。水は浅かった。渡れる深さだった。どちらも渡らなかった。鳥が一羽、川の真ん中の石に降りた。両岸から見られた。鳥は飛んだ。川は流れ続けた。

与えるもの

腐った葉と湿った土の匂いをその者の鼻孔へ送った。草を揺らした。崖の縁で立ち止まらせた。この者はそこで何かを見た。それが最後になった。渡したことが死に繋がったのか、渡さなければ足が滑らなかったのか、わからない。問いだけが残る。次に渡すべき者を、探している。

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:235
与えるものの観察:渡したことが、死に繋がったかもしれない。
───
第771話

紀元前296,155年

その者(15〜20歳)

走っていた。

草の背が高い。顔を打つ。脚が草の根を踏み、踏み外し、また踏む。前を走る者の背中が揺れている。その背中を見ながら走る。見失ったら終わりだ。

獣の声がした。左だ。

その者は吠えた。単音、短く、二度。合図だ。群れの端から群れの中心に向けて投げる声。受け取ったかどうかは確かめない。走りながら方向を変える。右へ、さらに右へ。草が薄くなる。地面が硬くなる。

獣が岩の陰に消えた。

前を走っていた者が止まった。息が荒い。肩が上下する。その者も止まった。膝に手をついた。口の中に血の味がする。舌を噛んだのかもしれない。

間があった。

追い役が三人、岩の前に集まった。岩は大きかった。獣がどこへ抜けたか、誰も見ていなかった。岩の向こうに行くなら左の草むらへ、右に行くなら崖沿いへ。三人は声を出さなかった。目だけで言葉を交わした。

二人が左へ走った。

その者は崖沿いを選んだ。

崖の縁を走るのは怖くなかった。高さに慣れていた。左足、右足、左足。石が崩れる音がした。気にしなかった。岩の向こうへ回り込もうとして、立ち止まった。

獣がいた。

大きくはなかった。脚を引いていた。傷があるのかもしれなかった。その者と獣は向き合った。

風が崖の下から吹き上げてきた。

獣の匂いがした。それだけでなく、もっと遠い何か、草が焼けたような、古い火の匂い。その者の鼻が動いた。どこかで嗅いだことのある匂いだった。どこで嗅いだかは思い出せなかった。

獣が動いた。その者も動いた。

槍は持っていなかった。追い役は追うだけだ。けれどその者の手には石があった。いつ拾ったか覚えていなかった。投げた。外れた。獣が跳ねた。崖の縁から外れた。

声がした。落ちていく音がした。

その者は崖の縁を見下ろさなかった。振り返った。他の追い役が来ていた。誰も崖の下を見なかった。皆、息をしていた。それで終わりだった。

夜、集団が火を囲んだ。

獣は仕留められなかった。今日は食えなかった。それでも火は燃えていた。年嵩の者が何かを言った。その者には分からない言葉が混じっていた。若い者が笑った。なぜ笑ったのかは分からなかった。

その者は火を見ていた。

炎の中に、何か見えるような気がした。形ではない。動きのようなもの。その者は目を細めた。見えなかった。ただ火が燃えていた。

隣で誰かが眠った。

そいつの体が傾いて、その者の肩にぶつかった。その者は動かなかった。肩に重みを感じながら、火を見続けた。炎が小さくなった。薪を足す者がいた。また大きくなった。

その者はいつの間にか眠っていた。

眠る前に何かを考えていた気がしたが、目が覚めたとき、何を考えていたか分からなかった。

第二の星

始まりの大地の北側、草原と岩地が交わる帯状の地形は、五年前より人の匂いが濃くなった。

集団は増えた。子が生まれ、また生まれた。雨季は規則正しく来て、果実は腐る前に食われ、水場は枯れなかった。集団の端を走る者が増えた。火の番を交代できるだけの人数がいた。それは久しぶりのことだった。

しかし集団が大きくなるにつれて、火の周りに座る者全員が顔見知りではなくなった。遠い血の者、遠い土地から来た者、境界が曖昧になり始めた者。夜の声が増えた。声の中に、低く押し殺したような音が混じるようになった。言い争いではない。しかしそれに近い何かだった。

南の岩陰に、旧人の足跡が見つかることがあった。追いはしなかった。追われてもいなかった。ただ痕跡があった。向こうも同じように増えているのか、減っているのか、誰も知らなかった。

何かが蓄積していた。名前を持たない重さが、集団の空気の中にあった。豊かさは物を増やした。物が増えれば、誰のものかという問いが生まれた。問いにはまだ言葉がなかった。しかし体はそれを知っていた。

崖から落ちた獣の声を聞いた者は何人かいた。誰も確かめに行かなかった。

与えるもの

崖の下から吹いた風に、古い火の匂いを乗せた。

その者の鼻が動いた。

それで届いたと思った。しかし何が届いたのかが分からない。匂いは記憶を引く。引かれた記憶の中に、何かあると思った。でも眠ると消えた。

次は何を渡すべきか。眠ることで消えないものを。

伝播:HERESY 人口:238
与えるものの観察:眠ると消えた。消えないものを探している。
───
第772話

紀元前296,150年

第二の星

地面が揺れた。

揺れたのは一度だけではない。三度、間をおいて三度、それぞれ違う長さで大地が震えた。草が波打ち、木の実が枝から落ちた。水場の水面が円もなく広がり、縁まで溢れ、引いた。

旧人たちが先に動いた。

彼らはこの揺れを知っていた。知っているというより、体の中に刻まれていた。何世代も前から、揺れの後には崖が崩れ、水が溢れ、泥が流れることを骨が覚えていた。彼らは高い場所へ向かって歩いた。急がなかった。走らなかった。しかし止まらなかった。

同じ斜面の下側に、別の集団がいた。

彼らとは長い間、互いを遠くから見るだけだった。近づけば石が飛んできた。声が上がった。歯を剥いた。しかしここ数十日、何かが変わっていた。境界線のように感じていた距離が少し縮んでいた。互いの焚き火の煙が見える場所で、それぞれが眠るようになっていた。

大地が揺れた夜、その境界が消えた。

消えたのは敵意によってではない。どちらの集団も、揺れの方向ではなく高台の方向を、別々に選んだ。たまたま同じ斜面を登った。たまたま同じ岩の突き出た場所で立ち止まった。旧人の一人が幼い子を抱えていた。子の片方の腕が、揺れで傷ついていた。

止まったのは、この集団の者の中の一人だった。

その者ではない。もう少し年上の、傷の多い女だった。彼女は旧人の子の腕を見た。何も言わなかった。何かを拾った。葉だった。大きく柔らかい葉を傷の上に当てた。旧人の母親が動かなかった。歯を剥かなかった。子が泣き止んだわけではない。しかし泣き声の調子が変わった。

夜が深くなった。

揺れは続かなかった。しかし誰も斜面を下りなかった。旧人と、この集団の者たちが、岩の陰と岩の陰で、それぞれ背を向けて眠った。同じ火を使わなかった。しかし火の間の距離は、以前よりずっと短かった。

夜明け前、また揺れた。

今度は長かった。斜面の下で何かが崩れる音がした。石が転がる音が続き、止まった。誰も声を上げなかった。誰かが誰かの腕を掴んだかもしれない。暗くて見えなかった。

明るくなって、下を見た。

昨日まで眠っていた場所は、半分が泥に埋まっていた。

旧人たちは先に斜面を下り始めた。ただし別の方向へ。この集団の者たちも下りた。同じ方向ではなかった。しかし去り際に、旧人の一人がこちらを向いた。何も言わなかった。何も渡さなかった。ただ向いた。そして歩いた。

この星はそれを見ていた。

判断しない。ただ照らす。葉一枚が何かを変えたのか、揺れが何かを変えたのか、それとも何も変わっていないのか。斜面には泥の跡だけが残った。朝の光が泥の表面に細かく反射していた。

与えるもの

揺れが来る前、風が変わった。

その者の右の頬に、冷たい空気が当たった。斜面の上から来た風だった。

その者は走っていた。前の者の背を追っていた。しかし右の頬だけが冷えた。足が一歩、止まった。

上へ向いた。

上に岩があった。上に高い場所があった。その者は上へ走った。

渡したのは、風の方向だった。右の頬だけが冷えたこと。その者はそれに従った。追っていた背中ではなく、冷えた頬の方向へ。

それは正しかったのか。泥が埋めたのは、前の者が走った方向だった。ならば渡した風は、命を変えたのか。

しかし風はいつも吹いている。冷たい風はいつも来る。なぜこの夜だけ、この者は止まったのか。止まらせたのは風か、それとも——次に渡すべきものを、もう探している。

その者(20〜25歳)

右の頬が冷えた。

走っていた。足が止まった。前の背中が草の中に消えた。

冷えた方へ走った。岩を掴んで登った。夜が来た。揺れが来た。下で何かが崩れた。

夜明けに泥を見た。長く見た。

右の頬に手を当てた。

伝播:SPREAD 人口:254
与えるものの観察:風は渡した。止まったのはなぜか。
───
第773話

紀元前296,145年

第二の星

空が落ち着いた。

噴煙はまだ東の稜線の向こうに立ち上がっているが、灰の雨は止んだ。地面の亀裂から湯気が漏れている。草は半分が黄ばみ、水場の水は白く濁ったまま、魚の腹が一面に浮いていた日もあった。

始まりの大地の西側、乾いた赤土の台地に、別の群れがいる。この星は区別しない。どちらも同じ熱と乾きの中にいる。片方の群れは噴煙を避けて南へ移動した。もう片方は動かなかった。動かなかった理由を、この星は知らない。ただ両方を照らしている。

北の草原では、より長い腕を持つ者たちが岩陰に集まって眠っていた。顔の形が違う。額の出方が違う。喉から出る音の種類も違う。しかし彼らも同じ白く濁った水を飲み、同じ魚の腹を見た。

南の海岸線では波が続いた。岸に貝殻が打ち寄せ、砂に埋まり、また次の波が来た。誰もそれを見ていない場所でも、波は続いた。

台地の上では、子が一人、灰の積もった岩の上に座って空を見ていた。空は青かった。噴煙の白と青が境をつくっていた。

この星はそれも照らした。

与えるもの

煙の匂いが変わる瞬間がある。

硫黄の鋭さが引いて、焦げた草の匂いが残る。その移り変わりの一瞬。その者の鼻がそちらを向いた時、与えるものは風上の方向にわずかな熱を置いた。熱は空気の中の温度差として、頬の片側にだけ触れた。

その者は立ち止まった。

立ち止まったことが、渡せた全てだった。

以前にも似たことがあった。水面の光、削った枝、笑い声の後の沈黙。あの時も与えるものは示した。あの時もこの者は受け取ったのか受け取らなかったのかわからなかった。わからないまま、また渡そうとしている。

次に渡すべきものがあるとすれば、それは方向だ。熱の来る方向ではなく、熱がない方向。煙のない空気がある方向。この者の脚が、教えた覚えのない道を知っているかどうか。

その者(25〜30歳)

群れの端を走るのがこの者の役だった。

追い役は前に出ない。叫んで、腕を振って、獣を中央に追い込む。足が速くなくてもいい。声が大きければいい。だからこの者は走りながら叫んだ。噴煙が消えた後の最初の狩りで、喉が裂けるように叫んだ。

獣は三頭いた。雌が一頭、若い雄が二頭。

雌が右に逃げた時、この者は本能で左に回り込もうとした。足が地面を蹴った。だが地面がわずかにずれた。亀裂の縁だった。地震が残した細い割れ目。右足の先が空を踏んだ。

膝から落ちた。手をついた。岩に手のひらを削った。

そのまま地面に伏せて、息を整えた。

群れの声が遠ざかっていった。獣を追う声、誰かが短く叫ぶ声、また沈黙。

この者は起き上がらなかった。起き上がれなかったわけではない。ただ地面に手をついたまま、しばらく動かなかった。

岩の表面が頬の近くにあった。灰の粒が積もっていた。灰の間に、細い草の芽が一本、出ていた。地震の後に、噴煙の下に、それでも出ていた。

この者はそれを見た。見ただけだった。

手のひらの血が岩に広がるのを感じながら、草の芽を見ていた。

やがて群れの誰かが戻ってきた。短い音で呼んだ。この者は立ち上がり、走った。

血の跡が岩に残った。灰が少しだけそこに舞い降りた。

伝播:NOISE 人口:270
与えるものの観察:立ち止まったことが、今日の全てだった。
───
第774話

紀元前296,140年

第二の星

大地の西側、赤土の台地が午後の光を受けて鈍く輝いている。

湯気はまだ亀裂から漏れている。東の稜線の向こうには噴煙の名残が薄く溶けて、空の色を一段暗くしている。水場の濁りは引いたが、岸に打ち上がった魚の骨が乾いて白い。草はまだ半分が枯れたまま立っている。風が吹くと、その草が鳴らずに折れる。

台地の縁に別の群れがいる。

その者の群れとは異なる声を使う者たちだ。腰の低い歩き方、額の張り出し方、指の太さ。似ているが、違う。火を囲む距離の取り方が違う。子どもを抱える腕の角度が違う。

両の群れの境界に、干上がりかけた川床がある。川床の真ん中に、白い石が転がっている。誰かが拾ったとも、誰かが置いたとも見えない。ただそこにある。

遥か北では、凍土の縁に沿って別の者たちが移動している。獣の皮を体に巻きつけ、石の刃を手に持ち、互いの肩に触れながら歩いている。その者たちの声は低く、繰り返しが多い。夜になると火を囲み、手で腿を叩く。

どちらも照らされている。

どちらも等しく。

与えるもの

水の匂いが変わった。

川床の石の近く、濁りの中に透明な筋がある。一本だけ、きれいな水が湧いている。その筋の上に、午後の光が斜めに差し込んだ。

その者は川床の手前で立ち止まった。石を一つ手に持ち、川床を見ていた。透明な筋には気づいていたかもしれない。しかし視線はその先、台地の縁にいる別の群れに向かっていた。

どこに注意が向いたのか、わからない。水か。向こうの群れか。両方だったかもしれない。次に渡すとすれば何か。それを考えている。川床の白い石か。あの透明な筋が続く先の、湧き口か。

その者(30〜35歳)

川床の手前で止まった。

足の裏に枯れた草が当たる。踏んでも音がしない。折れるだけだ。

向こうの台地の縁に、影がある。動いている影だ。自分の群れの影ではない。声が違う。遠すぎて声は聞こえないが、以前に聞いたことがある。低くて、丸い声だった。

手の中の石を握り直した。

川床を見た。白い石がある。その近くの水が、一筋だけ透明だった。他の水は白く濁っているのに、そこだけが違う。

膝を折り、顔を近づけた。

匂いを嗅いだ。土の匂いと、冷たい匂いが混じっていた。腐っていない。腐った水の匂いは知っている。あれではない。

掌で水を掬った。口に含んだ。

腹が締まった。冷たかった。それだけだった。

立ち上がって、台地の縁の影を見た。

その者の群れの中で、この者が川床を渡ることを知っている者はいない。昨日の夜、長老の声が高くなった。向こうの群れの話をしていたと思う。わからない。音は聞いた。意味が組み合わさらなかった。

石を持ったまま、川床に一歩踏み出した。

底の泥が足を引いた。

二歩目を出した。

台地の縁の影が、動いた。一つ、こちらを向いた。

その者は止まった。

向こうの影も止まった。

川床の真ん中に、白い石があった。二者の間に、ただそれだけがあった。

伝播:HERESY 人口:271
与えるものの観察:透明な水筋を掬った。届いたかもしれない。
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第775話

紀元前296,135年

その者(35〜40歳)

追い役は群れの端を走る。

獣の側面へ回り込む。音を立てる。腕を振る。喉から押し出した声は言葉ではなく、ただの圧だ。獣は反対へ逃げる。それでいい。

草の丈が腿まである。足首が草の茎に打たれるたびに、乾いた音が続く。前の男の背中が見える。その背中が左へ折れた。その者も折れる。

丘の手前で立ち止まった。

獣は消えた。崖の向こう側へ落ちたか、草の中へ溶けたか。前の男が低く唸った。諦めの音だ。

その者は息を整えながら、丘の頂に立った。

東の谷が見えた。

噴煙の名残は消えていた。空は白みがかった青で、雲の切れ目が一本、細く走っている。谷底の草は緑を取り戻しかけていた。岸の白い骨はもうそこにはない。風か、獣かが片付けた。

その者は谷を見た。

何かが変わっていた。何が変わったかは言えない。言葉がない。しかし体の中の何かが、違うと言っていた。前と同じではない、と。

別の群れの煙が見えた。

南の方角、低い尾根の陰から、細い煙の筋が立っていた。一本ではなかった。三本。間隔が狭い。

その者は動かなかった。

前の男が煙の方向を指差した。唸り声を上げた。怒りの音か、警戒の音か。その者には区別できた。警戒の音だ。同じ音を自分も喉の奥に持っている。

夕刻、群れに戻った。

長老格の男が、南の煙のことを聞いた。その者は手振りで答えた。三本。近い。長老格の男は黙った。他の者たちも黙った。火の周りが静かになった。

その者は火を見た。

火は知らない。南の煙のことも、谷の変化のことも、前の男の警戒の音のことも。ただ燃えている。揺れている。

夜、その者は群れの端に座った。

誰かが側に来て、肩に手を置いた。若い女だった。子を背負っている。その者は女の方を向かなかった。煙の消えた南の方角を見ていた。

女は何も言わずに去った。

その者は夜が明けるまで、そこに座っていた。

第二の星

始まりの大地に、声の届かない距離まで散らばった命がある。

噴煙が引いてから、水場が澄み始め、草が地から押し上がってきた。動物たちが戻ってきた。木の実の殻が風に転がるようになった。この五年、大地は激しく揺れ、焼け、乾き、そして少しずつ回復してきた。半数が消えた年もあった。しかし残った者たちは移動し、集まり、また散った。

今、群れはひとつではない。

南の尾根の向こうに、別の火がある。この大地に生きる者たちの中で、いくつかの群れが同じ水場を使い、同じ獣の痕跡を踏んでいる。近づくこともある。離れることもある。ときに食料を巡って声を荒らげ、ときに何もなかったように通り過ぎる。

緊張は言葉を持たない。

しかし体が知っている。煙の本数が、間隔が、風の匂いが変わるときに、体が先に知る。

東の谷では草が伸びている。北の台地では小さな獣の群れが草を食んでいる。どこかで子が生まれ、どこかで老いた者が倒れた。この星はそのすべてを均等に照らす。どれが重要かを問わない。

ただ、南の煙は三本立っていた。

与えるもの

丘の頂に立ったとき、風が南から来た。

煙の匂いではなかった。焦げでも獣でもない。別の群れが使う、見知らぬ植物を燃やす匂いだった。

その者は鼻を動かした。もう一度嗅いだ。立ち止まったまま、南を向いた。

それだけでいい、と思った。

届いたと思った。それが正しかったのかどうかは、まだわからない。この者が明日も南を向くのか、それとも背を向けるのか。川床の白い石を掌に乗せていたあの者も、崖の縁で立ち止まったあの者も、みな何かを感じた。感じることと、生き延びることは別の話だった。

渡す。次は何を渡せるか。

伝播:HERESY 人口:274
与えるものの観察:匂いが届いた。この者は立ち止まった。
───
第776話

紀元前296,130年

その者(40〜44歳)

寒さが先に来た。

獣の群れが変わった。知っていた道を使わなくなった。草の丈が低くなり、それから草そのものが減った。岩肌が広くなった。走る地面が変わった。足の裏が覚えていた土の感触が、別の何かになっていた。

その者は追い役だった。群れの端を走る。獣の側面へ入り込み、向きを変えさせる。四十年、それをしてきた。

しかし獣が減った。

追いかけても、追いかけるものが消えた。群れで連携しても、追い詰める前に逃げ切られた。仕留めた数が減り、食べる量が減り、動ける時間が減った。

冬がひどかった。

いつも終わるはずの冷えが終わらなかった。地面が夜に固くなり、朝になっても戻らなかった。群れから十数人が消えた。眠ったまま動かなくなった者、水を探しに行って戻らなかった者、その他のことで消えた者。

その者は生き延びていた。

だが腹が慢性的に減っていた。走ると頭が揺れた。それでも走った。追い役だから走る。それ以外のことを自分がすると、群れの中のどこに立てばいいかわからなかった。

集団の中で、その者を見る目が変わっていた。

何かを感じていた。感じる、という言葉をその者は持たなかった。ただ、近づくと相手が遠ざかった。隣に座ると立ち上がられた。食べ物を受け取る順番が後になった。

その者には理由がわからなかった。

走り方が変わった、と思っていた。獲物が変わった、と思っていた。自分は同じだと思っていた。

ある夜、匂いがした。

腐ったものの匂いではなかった。何か別のものが、風の中にあった。風は北から来た。その方向に、暗い岩の重なりがあった。その者はそちらを見た。長い間、見た。

何もなかった。

だが匂いは消えなかった。風がそこから吹き続けた。その者は立ち上がり、一歩、踏み出した。

踏み出したまま、戻らなかった。

群れは翌朝、その者がいないことに気づいた。探す者はいなかった。

その者は北の岩場で見つかることはなかった。風が吹いていた方角へ向かって、そのまま歩き続けたのか、途中で倒れたのか、それはわからない。ただ地面が固く、寒く、腹は空いていた。四十四年分の体は、もうずいぶん前から限界だった。

第二の星

同じ夜、遠い場所で川が凍った。水面が静かに止まり、その下を魚が動き続けた。別の場所では、誰も見ていない丘の上で、草の根が地面の深くにまだ生きていた。星はどちらも等しく照らしていた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:190
与えるものの観察:北の匂いを受け取った。歩いた。それだけだ。
───
第777話

紀元前296,125年

第二の星とその者(17〜22歳)

乾いた季節が続いた。川床は白く、水は細い筋だけになり、岸の泥は割れて反り返った。草食獣の踏み跡は北へ向かっていた。

その者は十七歳で、集団の端にいた。年長の狩り手についていく役割だったが、その日は水を運ぶよう言われた。革袋を抱えて川へ降りた。

岩の間を伝う水は、膝まで浸かっていた場所がもう足首にも満たなかった。その者は川底を歩きながら、泥の臭いを嗅いだ。腐ったものとは違う。乾いていく臭いだった。

北の尾根の向こうに別の集団がいた。煙が見えることがあった。多い日には三本。近い日もあれば、見えない日もあった。

集団の長老格の男が若い者たちを呼んだ。身振りで何かを示した。北の方角、それから腹を押さえる仕草。食いものが足りないというのはわかった。その者は頷いたが、何をすべきか理解できなかった。

泥のなかから亀の甲羅が出てきた。乾いて軽くなっていた。その者はそれを拾い上げ、ひっくり返した。腹側の模様を指でなぞった。何かを考えているわけではなかった。ただ、手が動いた。

南から風が変わった。冷たくなるのではなく、乾いたまま冷えていく風だった。草の丈はまた低くなった。去年より低い。その者はそれを体で知っていた。去年、腰のあたりで切れていた草が、今年は腹の下でしか揺れない。

旧人たちの気配が変わった。彼らは普段、岩陰に小さな集まりをつくり、こちらに近づかなかった。しかし乾季が深まると、水場で重なることが増えた。大きな体、広い鼻孔、腕の長さ。その者はすれ違うたびに息を詰めた。向こうも同じだった。どちらも目を合わせなかった。

夜、火を囲む輪の外側に座っていた。輪の中には長老格と年かさの女たちがいた。何かを話していた。声が低く、身振りが少なかった。その者は言葉の半分も掴めなかったが、何かが変わりつつあるのは感じた。腹ではなく、胸の奥のあたりで。

翌年、若い男が一人消えた。川上のほうへ一人で行き、戻らなかった。探しに行った者たちは、岩の上に血の跡を見つけて戻ってきた。その者は血の跡を見ていないが、戻ってきた男たちの歩き方で理解した。

二十一歳のとき、北の尾根の向こうの煙が増えた。一日に五本、六本と立つようになった。長老格の男が向こうへ行こうとした。集団の半数が止めた。押し問答が続き、最後は長老格が黙った。それ以上何も言わなかった。

その者は夜、水場の近くの平らな岩に座っていた。川はもう涸れかけていた。対岸の草むらで音がした。大きな動物ではない。風でもない。その者は動かなかった。しばらくして、旧人の子どもが草から出てきた。小さく、細い。こちらを見て、固まった。

その者も固まった。

子どもは走らなかった。その者も動かなかった。長い間、二つの影が岩と草の際に向き合っていた。川は涸れかけているのに、音だけがあった。水が石を舐める音。

子どもが先に動いた。草の中へ戻っていった。

その者は岩の上に手をついて、川の方を見た。水面に何かが映っていた。空か、自分か、わからなかった。

与えるもの

熱が動いた。

朽ちかけた亀の甲羅に、光がわずかに溜まった。模様の線、乾いた縁の形。その者の指が止まったのはそこだった。

その者は甲羅を置いた。しばらく見て、また拾った。結局、革袋の紐に結びつけた。

形を覚えようとしている。あるいは持っていたいと思っている。渡したのは形への注意だったが、届いたのは別のものかもしれない。次に渡すべきは何か。形ではなく、繰り返しを知らせることか。

伝播:DISTORTED 人口:209
与えるものの観察:形に触れた。使い方はまだわからない。
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第778話

紀元前296,120年

第二の星

乾季は終わった。

草の縁に露が戻り、川は泥を押し流して底石を磨いた。東の低地では、背の高い葦が水を含んで揺れている。鳥が戻った。声が増えた。

この星の北、岩の多い台地では、別の集団が火を囲んでいる。毛の薄い顔をした者たちと、眉骨の張った者たちが、同じ獣を食っている。言葉は違う。しかし骨の扱い方が似ている。髄を割る石の角度。歯で皮を引く仕草。それだけが共通している。

南の河口に近い低地では、若い女が出産した。子は動かなかった。母はしばらく子を胸に抱いていた。それから置いた。集団が移動を始めた。母も立った。

西の丘陵では、誰かが洞窟の岩に獣の輪郭を刻もうとしている。石で岩を叩いている。形にならない。それでも叩き続ける。

始まりの大地では、雨が一日降った。

与えるもの

水面に光が落ちた。

川岸の浅瀬。底石の間に、黄色い鉱物の脈が走っていた。

その者は別のものを探していた。

光は正確にそこに当たっていた。風はなかった。影も動いていなかった。ただ光だけが、その石を選ぶように、留まっていた。

その者が気づいたかどうか。

渡したものが形を変えることには、もう慣れた気がした。しかしこれは形を変える前の話だ。まだ届いていない。届く前に目が逸れることがある。それが問いになった。届かなかった記憶は何として残るのか。それとも何も残らないのか。次に渡すべきものは、もっと強く、もっと単純でなければならないかもしれない。

その者(22〜27歳)

雨が上がった翌朝、川が増えていた。

泥の色で水かさがわかる。その者は岸の手前で止まった。渡れるかどうか、足で土を踏んで確かめた。踏み込んだ。膝まで。腰まで来なかった。そのまま渡った。

対岸の石が濡れていた。

水を探しに来たのではなかった。年長の狩り手に、踏み跡を確認してこいと言われた。踏み跡があれば、獣がいる。獣がいれば、集団は動ける。

泥の上に蹄の形があった。深い。重い獣だ。草を踏んだ跡が北西に続いている。その者は跡の形を手でなぞった。指先が冷たかった。

帰ろうとしたとき、浅瀬の底が光った。

立ち止まった。

光は石の一点に溜まっていた。黄色い。その色を見たことがある気がした。しかしどこで見たかは出てこなかった。

水の中に腕を入れた。石を掴んだ。引き上げた。

重かった。

岸に上がって石を見た。片面が黄色い。爪で引っかいた。爪のあとが残った。やわらかい。

何に使えるかわからなかった。

それでも捨てなかった。

腰の皮袋に入れた。石の重さが腰に当たった。集団に戻るまで、その重さを感じ続けた。

伝播:DISTORTED 人口:221
与えるものの観察:届く前に目が逸れることがある。
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第779話

紀元前296,115年

第二の星

雨は長く降った。

五年のあいだ、乾く間がなかった。大地は水を吸いすぎて、踏めば沈み、踏み続ければ埋まる場所があった。川は岸を越え、低地の草を根ごと押し流した。獣は高い場所に移り、人も追った。

しかし飢えなかった。

草の実は重く垂れ、木の根は太く、水辺には貝と魚が増えた。子が生まれ、老いた者が死に、それでも集団は膨らんだ。前の五年には骨が浮いた者の顔が、今は違う。頬が丸い。目に白みがある。子供が走る音が増えた。

それが問題だった。

集団が大きくなれば、端と端が遠くなる。誰の肉か。誰の火か。誰の寝場所か。声が届かない距離に別の火がある。昨年まで同じ場所で眠っていた男が、今年は別の岩陰に自分の群れを作っている。

北の台地にも変化があった。

眉骨の張った者たちと、顔の平らな者たちが、同じ谷で水を飲んでいた。どちらも増えていた。どちらも獣を追っていた。どちらも火を持っていた。かつては互いが珍しかった。今は近すぎる。

ある夜、谷の奥で音がした。

岩を割る音ではなかった。骨の折れる音と、叫び声が混じった音だった。翌朝、谷の入口に眉骨の張った者が二人、倒れていた。腹を上にして。空を見ていた。息はなかった。

顔の平らな者たちは痕跡を消さなかった。消す必要を感じていなかったか、消すという発想がなかったか、あるいは見せることが目的だったか。

それはわからない。

この星は審かない。ただ照らす。眉骨の張った者たちはその夜、谷を去った。足跡は北に向かっていた。顔の平らな者たちは火を大きくした。誰かが吠えるような声を出した。他の者が続いた。

雨は降り続けていた。

南の湿地では、これとは無関係に、二組の集団が獣の分け前をめぐって押し合っていた。怪我人が出た。しかし死者はなかった。翌朝には互いに別の方向へ歩いていった。

豊かさは人を増やす。人が増えれば、境界が生まれる。境界が生まれれば、誰かがその外側に置かれる。

ある集団で、一人の若者が何かを知りすぎた。何を知ったのかは、集団の長老たちには説明できなかっただろう。ただ、その者がそこにいると、何かが乱れると感じた。それだけだった。

雨が地面を叩いていた。

与えるもの

逃げる方向を示した。

川の上流、岩が重なる崖の手前、水の匂いが変わる場所で、風が一度だけ南から吹いた。

その者は立ち止まった。鼻を上げた。

与えるものは待った。この者は以前も風の変わり目に立ち止まる。しかし次の一歩が問題だ。立ち止まることと動くことのあいだに、何があるのか。与えるものにはそれが届かない。渡すことはできる。だが渡した先には手が届かない。次に渡すなら、もっと近くで、もっと強く。それが可能かどうか、与えるものはまだ問いの中にいる。

その者(27〜32歳)

夜、火の外に呼ばれた。

古い男が二人いた。声は低かった。身振りは短かった。

お前ではない、という意味の音が出た。

その者には意味が半分しかわからなかった。しかし二人の顔はわかった。火を持っていなかった。持たせてもらえなかった。

夜の草の中を歩いた。どこへ行くかわからなかった。足が動いた。

伝播:HERESY 人口:273
与えるものの観察:立ち止まった。しかし動かなかった。
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第780話

紀元前296,110年

その者(32〜37歳)

血が顔についていた。

自分のものではなかった。岩の割れ目に追い込まれた獣が暴れた。その者は腕で顔をかばい、岩に肘をぶつけ、足を滑らせた。獣は逃げた。先に走った若い者が石を投げたが届かなかった。

追うのをやめた。日が傾きかけていた。

その者は乾いた草に手をついて立ち上がり、来た方向を見た。丘の向こうに煙が三筋見えた。集団の火だ。腹が鳴った。

手の甲で顔を拭いた。血と土が混ざって伸びた。

仲間のひとりが近づいてきた。年上の雄だった。背が高く、傷跡が右肩から胸にかけて走っている。その者を見て、短い音を出した。帰れ、という音だった。その者は従った。

帰り道、川沿いを歩いた。増水の跡が岸の草に残っていた。折れた枝が泥に刺さったまま乾いている。石は白く洗われ、露出していた。

その者は立ち止まった。

岩の上に何かがあった。

平たい石の上に、別の石が乗っていた。風で動くものではない重さだ。誰かが置いたのか、それとも崩れてたまたまそうなったのか、判断できなかった。

その石の隙間から、細い根が出ていた。

白い根だった。土の色ではなく、光の色に近い。その者はかがんで見た。鼻を近づけた。においがした。土のにおいではなかった。何か酸っぱいような、舌の奥が動くようなにおいだった。

引っ張った。根は長く、石の下を通っていた。

引き続けると、塊が出てきた。丸く、小さく、表面がざらついていた。土を払うと中が白かった。

かじった。

固かった。口の中で砕けるのに時間がかかった。でも砕けた。

甘くはなかった。しかし何かが広がった。飢えを知っている舌が、それを食い物だと判断した。

もうひとつ掘った。また出てきた。

腰に巻いた皮の中に入れた。仲間のところに持って帰るつもりはなかった。自分だけの食い物にするつもりだった。

それが最初の判断だった。

集団に戻った夜、その者は火の外れで座っていた。皮の中の塊を少しずつかじった。誰も見ていなかった。

年上の雌が子どもに乳を与えていた。子どもは三人いたが、そのうちのひとりは動かなくなることが多かった。

その者は見ないようにした。

皮の中の塊を全部食い終えて、また腹が鳴った。

翌朝、川に戻った。同じ場所に行った。根を探した。あった。また持ち帰った。

三日目、年上の雄がついてきた。何も言わなかった。ただついてきた。その者が根を掘るのを見ていた。

その者は手を止めた。

見られていた。

根を渡すことができた。しかし渡さなかった。手を皮の中に入れて隠した。

年上の雄は音を出さなかった。ただ見ていた。それから川の上流の方を見た。それから帰った。

その夜、集団の中の空気が変わった。

誰がどこで食い物を見つけたか。それは常に問題だった。分けるか、隠すか。力のある者が先に食うか、子どもに渡すか。決まった規則はなかった。力と場の空気で決まっていた。

その者は川の根のことを知っていた。他の者は知らなかった。

それだけのことだった。しかしその夜、背中に視線を感じた。

第二の星

高い場所から見ると、水の退いた跡がよくわかる。岸の線が二重になっている。内側の線が今の岸で、外側の線が増水時の跡だ。その間の地面は白っぽく、石が多く、草が薄い。

集団は丘の中腹に拠点を移していた。低地が使えない時期が長かったためだ。五年で集団の数は増えた。子が生まれた。老いた者が何人か倒れた。しかし全体として増えた。

増えた集団は、空間を必要とした。食い物の場所を必要とした。川の根を知る者と知らない者。高い岩場に先に登る者と後から来る者。それは力の差ではなく、知っているかどうかの差だった。

知っている者は、知られたくない。知らない者は、知りたい。

この大地の乾季は短くなっていた。雨は多く、実は多く、根も多かった。豊穣は続いていた。しかし豊穣の中でも、誰が何を知っているかという問いは消えなかった。むしろ増えた。余裕があるときほど、人は次を考える。

南の尾根の向こう、煙の出ない集団の気配がある。旧い型の者たちだ。額が出っ張り、声が低い。彼らとの距離は、季節によって近くなったり遠くなったりした。今は近い季節だった。

与えるもの

岩の隙間から漂ったにおい。酸っぱく、舌を動かす何か。

この者はそれを受け取った。しかしひとりで持った。

渡さなかった。

渡さないことを、責める気はない。それでも問う。

知ることは力だ。隠された知識は、その者を守るか、それとも孤立させるか。

次に渡すべきものを、もう探している。渡し方を変えなければならないかもしれない。ひとりに届けることが、何かを壊すのなら。

伝播:HERESY 人口:278
与えるものの観察:知ることを隠した夜、背中に熱を感じた
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第781話

紀元前296,105年

第二の星とその者(37〜42歳)

乾期が来た。川が細くなり、底が見えた。岸の土が割れ、白くなった。草食獣の群れが南に動き始め、その後を追って集団も移動する準備を始めた。

その者は肘の傷が完全には治らないまま、毛皮を束ねて背負った。

南に向かう道の途中、旧人の痕跡があった。火を熾した跡。骨が散らばっていた。小さな骨。子のものだった。集団の長老格の女が骨を見て、音を出した。他の者たちも立ち止まった。その者も立ち止まった。何も言わなかった。

旧人は遠くなかった。

移動が続く中で、集団の内側でも何かが変わり始めた。獲物を分ける順番で、二人の男が声を荒げた。長く続くやり取りではなく、短く、鋭く。片方が石を持ち上げ、もう片方が後退した。石は投げられなかった。しかし誰もがその石を見ていた。

その者も見ていた。胸の中に何かが固まった。名前はなかった。

乾期の中を集団は移動した。水を探しながら、獲物を探しながら。子どもが一人、渡河の途中で流れに足を取られた。男が二人、飛び込んだ。子どもは助かった。しかし助けた男のひとりが、その夜、震えが止まらなかった。朝になっても起き上がれなかった。四日後に、歩けなくなった。集団は先に進んだ。

その者は振り返った。振り返って、また歩いた。

三年目に、干ばつがひどくなった。集団の半数が痩せ、子どもが二人死んだ。食べるものを探す行動範囲が広がり、その分だけ旧人と接触する機会が増えた。ある朝、丘の上で、旧人の一団と向き合った。声を出す者はいなかった。しばらく、ただ見ていた。旧人の方が先に動いた。丘の反対側に消えた。

その者はその場に残り、旧人の足跡を見た。自分の足と並べて見た。

四年目。雨が戻り始めた。少しずつ、草が戻った。獲物が増えた。子が三人生まれた。集団の気配が変わった。声が増え、夜に火を大きくした。踊りが戻った。老いた者が、足を引きずりながら踊った。その者はその輪の外で見ていた。輪に入らなかったが、遠ざかりもしなかった。

五年目。その者は四十二になった。鏡はなかった。自分の顔を知らなかった。しかし水に映る自分を見たとき、何かが以前と違うと感じた。顎のあたり。目の下。名前をつけることはできなかった。

その夜、空が晴れていた。風がなく、虫の音がした。その者は火から離れ、暗いところに座った。膝を抱えた。

岩の模様が頭の中に浮かんだ。理由はなかった。

与えるもの

水辺に鳥の巣があった。去年のものだった。壊れていた。

風がそちらへ抜けた。その者は一歩、巣の方に近づいた。

渡したものが何になるかは、わからない。しかし去年の巣は去年の巣だ。今年、別の場所に新しい巣がある。そのことを渡したかった。渡せたかどうか、まだわからない。

伝播:SILENCE 人口:289
与えるものの観察:足跡を並べた。それだけで、何かが変わる可能性がある。
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第782話

紀元前296,100年

第二の星

南に向かう斜面に、乾いた風が吹いている。

川は細く、しかし完全には枯れていない。岸の砂が白い。獣の蹄の跡が重なり、南に向かって消えている。同じ方向に、人の足跡も続いている。大きなものと小さなもの、並んだり離れたりしながら。

その者の集団が移動している。

同じ大地の、別の場所では。

草原の縁に旧人の群れがいる。七人か、八人か。岩の陰で休んでいる。毛並みの厚い小さな子が母の背中に張り付いている。母は動かない。目を開けたまま動かない。子は時々身を揺する。揺するたびに、母の頭が傾く。

夕方になって、子は離れる。草の中に入り、戻らない。

さらに遠く、海に近い低地では、別の集団が砂を掘っている。何かを探しているのか、何かを埋めているのか、判断できない。波の音が遠い。

第二の星は等しく照らす。移動する者も、動かなくなった者も、砂を掘る者も。区別しない。どれが正しいとも言わない。

乾期が続いている。南の空に、薄く雲がある。

与えるもの

去年の巣と今年の巣を思う。同じ場所に戻ることはない。しかし巣を作ることは続く。

その者は今、集団の外れを歩いている。

前を歩く者の背中ばかり見ている。

地面の色が変わっているところがある。赤茶から黒ずんだ茶へ。古い水場の痕跡か、それとも別の何かか。土の湿り気が残っている場所だ。

その変色の帯に、温もりを落とした。地面から足の裏に伝わる、わずかな熱の差として。

その者は立ち止まった。少しだけ。

また歩き始めた。

ここで水が出るかもしれない、ということは、その者の中には届かなかった。届いたのは何か、わからない。足が止まったのは確かだ。

甲羅の模様を指でなぞった者を思う。指が動いていた。何かを探していた。あの者は受け取ったか。数えることに意味があるのかと思うたびに、また数えたくなる。

次に渡すべきものを考えている。

その者(42〜47歳)

移動が四日になった。

肘は動く。痛みは残っているが、曲げることはできる。毛皮の束が重い。肩の皮が赤くなっている。

前を歩く若い雄が速い。その者には追えない速さではないが、追わない。集団の後ろにいる方が楽だ。荷物が多い者、子を連れた者、そういう者たちと同じ速さで歩いている。

途中、立ち止まった。

足の裏に、何かがあった。温かい、というよりは、冷たくない。乾いた土の中に、乾いていない何かがある感触。

周りを見た。土の色が違う。縞になっている。赤い帯と黒い帯。

しゃがんだ。指を土に押し込んだ。湿っている。深くではない。でも、ある。

前を歩く者たちは振り返らない。

その者は立ち上がり、また歩いた。

夜、火の近くで、その者は手を見た。指に土が残っている。嗅いだ。土の匂いと、その下に、水の匂いのような何か。

食べなかった。ただ嗅いだ。

隣で寝ている子が寝返りを打った。その者の腕の上に頭を乗せた。

その者は動かなかった。子の頭の重さが腕にある。

空が明るくなり始めて、集団の長老格の女が立ち上がった。出発の合図に、手を二度叩く。

その者は子を起こした。子は不満そうに唸ったが、立ち上がった。

歩き始める前に、もう一度、昨夜の土の方を見た。もう見えない。暗い。

見えなくなった方向に、少しの間、目を向けていた。

それから前を向いた。

集団の外れを歩いていると、前方の草むらに動きがあった。

旧人だ、と誰かが音を出した。警戒の、高い、短い音。

草むらの向こうに、形が見えた。二人か三人。立っている。動かない。

集団が固まった。

長老格の女が、また手を叩いた。今度は三度。

集団は進んだ。右に弧を描くように、草むらから離れながら。

旧人たちも動かなかった。ただ見ていた。

すれ違いながら、その者は横目で見た。

一人が幼い。腰の高さほどしかない。手に何かを持っている。石か木の切れ端か、遠くて判別できない。

その幼い者がこちらを見た。

その者も見た。

どちらも何もしなかった。

それだけだった。

集団が先に進み、草むらが遠くなった。その者は前を向いた。

肘が少し痛んだ。歩きながら、反対の手で肘をさすった。

伝播:HERESY 人口:294
与えるものの観察:足が止まった。届いたのか、それとも偶然か。
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第783話

紀元前296,095年

その者(47〜50歳)

熱が来たのは、夜明け前だった。

その者は岩の陰に横たわっていた。毛皮を肩まで引いても、寒くはなかった。寒いと感じるための力が、もうなかった。

脇腹に手を当てた。皮の下で何かが膨らんでいる。三日前からそこにある。押すと鈍い圧がある。押すのをやめた。

仲間の声が遠かった。子どもが走る足音、誰かが薪を割る乾いた音。その者は目を開けたまま、岩の表面を見ていた。

灰色の表面に、橙の斑がある。何年も同じ斑がそこにある。子どもの頃から、ここで寝るとこれが見えた。

若い者が水を運んできた。革袋ごと差し出した。その者はそれを受け取り、口をつけた。飲み込む力がなかった。水が顎を伝い、首を濡らした。若い者は何も言わなかった。

翌朝、その者は起き上がろうとした。

肘で体を支えた。肘が折れるほどに震えた。そのまま、岩に肘をついたまま、空を見た。

空は高く、灰色だった。雲が薄く、太陽の輪郭だけが透けている。

脇腹の圧が、ひどくなっていた。呼吸のたびに突き上げる。その者は息をゆっくり吐いた。もう一度吸った。また吐いた。

その夜、熱のかたちが変わった。

しびれが足から来た。足の指が感じられなくなり、膝が、腰が、順に遠くなった。体ではなく、体の記憶だけが残っているような重さだった。

その者の目が、岩の斑から離れた。

天井の、どこでもない場所を見た。

脇腹の何かが、静かに破れた。

痛みではなかった。圧が消えた。ただそれだけのことだった。

息が一度、深く出た。

戻らなかった。

第二の星

南の山稜では、二つの集団が川岸の近くで向かい合っていた。石を手に持つ者がいた。声を上げる者がいた。しかし誰も動かなかった。対岸の葦が風に揺れた。揺れが止まり、また揺れた。やがて片方の集団が、音もなく後退した。川は細く、その夜も流れていた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:DISTORTED 人口:307
与えるものの観察:渡したものが歪んだまま、消えた。
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第784話

紀元前296,090年

その者(16〜21歳)

槍の柄が手のひらに食い込んでいた。

獲物はもういない。走り去った。土煙だけが残って、それも風に散った。その者は立ったまま、手の中の柄を握り直した。隣で年上の男が地面に唾を吐いた。舌打ちのような音を出した。それが失敗を意味することを、その者は知っていた。

戻り道は長かった。

草の背が高く、歩くたびに足首をこすった。空は白く、日差しに色がない。汗が首の後ろを流れて、背骨のあたりで止まった。その者は歩きながら、さっきの獲物の動きを何度も思い返した。曲がり方。後ろ足の蹴り。こちらに気づいた瞬間の、首の向き。

集団の火のそばに戻っても、その者は端に座った。

肉は別の狩りで獲れていた。女たちが分けていた。子どもが走り回り、老いた男が燃え方の足りない枝をつついていた。その者は受け取った肉を噛みながら、遠い草原のほうを見ていた。

その夜、眠れなかった。

横になって目を閉じた。火の音が遠い。誰かが寝返りを打つ音。子どもの泣き声が短く上がって、すぐ消えた。その者は起き上がって、火のそばに近づいた。

火が爆ぜた。

小さな音だった。しかし火の中で、一本の枝の節が裂けて、そこから油のような匂いが立ち上がった。その者は鼻を動かした。草原の獣の匂いでも、腐った土の匂いでもない。もっと奥にある何かが燃える匂い。

その者はしゃがんだまま、火を見た。

炎の根元、薪が重なるところに、赤くなった石が一つあった。最初からそこにあったのか、今の爆ぜで動いたのかわからない。石は他の石と違う色をしていた。火が落ちれば、また黒くなるはずだった。でも今は、赤かった。

その者は手を伸ばしかけて、止めた。

熱を知っていた。触れれば焼けることを、体が知っていた。でも何かを考えるより先に手が動いたことに、その者は少し驚いた。自分の手を見た。傷がある。古い傷と、新しい傷が、重なっている。

また横になった。

目を開けたまま、煙が上に流れるのを見ていた。煙は真上に行かず、風に少し押されて、斜めに広がった。どこへ行くのか、その者には見えなかった。

眠りは来た。来るのに時間がかかった。

第二の星

始まりの大地は乾いていた。

雨季が遅れている。川の水位が下がり、葦の根が露出して、そこに鳥が集まっている。地面は固く、歩けば白い粉が上がる。草原の西側、岩が重なる場所で煙が上がったのは五日前だ。旧人の群れが移動している。この季節に動くのは珍しい。水を追っているのか、あるいは別の何かを避けているのか、この星には見えない。

三百七人がいる。

集団は二つに分かれて動いている。南の群れは子どもが多い。北の群れは狩りができる男女が揃っている。二つが月に一度ほど合流して、火を共有して、また分かれる。ここ数年で生まれた子どもたちはよく育っている。しかし年老いた者は消えていく速さも同じだ。

旧人との境界は、この五年で少し動いた。

川の中流域にある岩の棚、そこに旧人の痕跡がある。炭の跡、骨の欠片、押しつけたような手の跡。しかし衝突は今のところない。双方が同じ場所を使わないように動いている、のかもしれない。あるいは気づいていないだけかもしれない。

緊張は高まっている。

川の水が減るたびに、行動範囲が重なる。それだけのことだ。しかしそれだけのことが、どこかで何かを変える。この星はまだ、何も語らない。

与えるもの

糸が繋がった。

火の中で、赤くなった石に匂いを落とした。あの者は手を伸ばした。触れなかった。それでいい。触れることが目的ではない。

石が熱を持つことを、あの者はすでに体で知っていた。
それを見つめたことを、あの者は朝には忘れているかもしれない。
しかし手が動いた。

次に渡すべきものを、まだ決めていない。何人目かという問いより、この手が何度伸びかけたかを、数えるべきなのかもしれない。

伝播:SILENCE 人口:317
与えるものの観察:手が伸びた。触れなかった。しかし動いた。
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第785話

紀元前296,085年

その者(21〜23歳)

夜明け前に雨が降った。

地面はまだ濡れていた。その者は足の裏でそれを感じながら、岩の陰に背をつけて座っていた。腹が空いていた。昨日の獲物はなかった。一昨日もなかった。

集団の中に別の者たちがいた。顔を知らない者たちだった。どこかの斜面から降りてきた。三人か四人。手に棍棒を持っていた。

年上の男が吠えた。腕を広げた。

その者は立ち上がった。槍を握った。

空気が変わった。匂いが変わった。その者の鼻が何かを感じた。鉄のような、湿ったような、それが近くにある、という感覚。風が正面から来ていた。その者はそちらに一歩、踏み出した。

理由はわからなかった。ただ踏み出した。

最初の衝撃は肩に来た。

その者は転んだ。立った。また転んだ。

空が見えた。空は曇っていた。雨雲の残りがまだゆっくり動いていた。その者はそれを見ていた。雲がひとつ、形を変えた。

槍は地面に落ちていた。

手が動かなかった。

その者は空を見たまま、動かなくなった。雲は形を変え続けた。風の音がした。どこかで鳥が鳴いた。一度だけ。

第二の星

西の平原で、草原の火が消えた夜があった。乾いた季節の終わりに降った雨が、三日間燃え続けた炎を静かに消した。雨は地面を叩き、泥が川に流れ込み、川は少し濁った。何もない夜だった。

与えるもの

石のそばに座る子どもがいた。風がその子どもの首の後ろを冷やした。子どもは首をすくめて、石の陰に顔を向けた。

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:313
与えるものの観察:渡したものは方向だった。踏み出したかどうかは、この者が決めた。
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第786話

紀元前296,080年

第二の星

北に連なる山脈の裾野で、雪解け水が岩盤を削っている。春先の流れは速い。

この大地の南端では、別の集団が浅い洞窟の入り口に集まっている。頭骨の形が少し違う。眉骨が厚い。しかし火を囲む姿勢は同じだ。子どもが一人、火のそばで眠っている。

北の集団と南の集団のあいだに、今は何もない。獣道がある。踏み固められた土がある。しかし今年は誰も歩いていない。

この5年、緊張は音を立てない。ただ距離が変わった。近づかない。理由を持たずに遠ざかる。

東の丘では、雌が一人で実を拾っている。腹が大きい。

西の川沿いでは、若い雄が二人、岩の上で言い合っている。声は大きい。手が動く。しかし触れない。まだ触れない。

空は晴れている。この星にとって、晴れも嵐も同じことだ。

与えるもの

糸が繋がった。

ずいぶん前から渡してきた。届いたことはない。

今日、その者の右手の皮膚が傷口の近くを通った。傷は三日前のものだ。腫れている。その者はそれを見ていない。見たくないのかもしれない。

熱が出始めた場所に、午後の光が細く落ちた。

その者は光ではなく、遠くで起きている声の言い合いに目を向けた。

渡せなかった。これが初めてではない、と思う。思い直す。初めてのように渡さなければならない。

その者(18〜23歳)

声が聞こえた。

川のほうだ。

その者は石を置いた。割りかけの石だった。縁が鋭くなりかけていた。それでも置いた。

立ち上がって、腰を伸ばす。右腕が重い。三日前、岩に引っかけた。皮が剥けて、今は皮膚の端が固まりかけている。その下が、じわりと熱い。その熱さをその者は気にしていない。傷はいつもある。熱もいつもある。

川沿いの二人が声を上げている。同じ集団の雄だ。年上のほうが体が大きい。若いほうが引かない。

その者は斜面を下る。加わりたいわけではない。近くに行きたい。なぜかはわからない。

年上の雄が若い雄の胸を押した。若い雄が後ろに一歩退いた。退いたまま、また声を上げた。

その者は少し手前で止まった。

言い合いの内容はわかる。獲物の分け前のことだ。昨日、年上の雄が多く取った。それだけのことだ。

でもその者には、それが全てではないように見えた。二人の体の角度、足の向き、息の速さ。何かもっと古いものが、声の下にある。

その者には言葉がない。その感覚を誰かに伝える方法がない。

岩の陰に立って、二人を見ていた。

やがて年上の雄が背を向けた。若い雄がその背中に向かってもう一声出したが、答えは返らなかった。

その者は岩を拾った。置いた。また拾った。

右腕が熱い。腕の付け根まで、じんわりと広がっている。その者はそれを確かめるように左手で触れた。一度だけ触れて、手を離した。

夜になった。火の周りに体が集まった。その者は端に座った。肉が焼けている匂いがする。腹が鳴った。

その者は分け前を受け取った。食べた。骨まで齧った。

右腕は、夜の間ずっと、静かに熱かった。

伝播:HERESY 人口:314
与えるものの観察:光を落とした。見なかった。傷が育っている。
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第787話

紀元前296,075年

第二の星

乾いた季節が終わりかけている。

草原の縁では、背の低い木々が葉を広げ始めた。根元に獣の足跡がある。泥が乾きかけた頃についたもので、爪の形が深い。大きな獣だ。

東の岩棚の下に、この者の集団が眠っている。煙が細く上がっている。火はまだ生きている。

遠い北、山脈の裾野では雪解け水が岩を削り続けている。音は誰にも聞こえない距離だ。ただ削られている。

南端の浅い洞窟には、頭骨の形が違う者たちがいる。昨夜、彼らの火が大きく燃えた。何かを叫んでいた。言葉ではない。しかし意図のある音だった。この大地の上に、二種の煙が立っている。

この者の集団では、三日前に子が生まれた。母は今も横になっている。子は動いている。乳を飲んでいる。

夜が明ける前に、雄の一人が岩棚から出た。用を足し、空を見上げ、戻った。その行為に名前はない。ただそれをした。

春の光が、草原と岩棚の境目に差し込んでいる。影が短くなっていく。

与えるもの

岩棚の端、乾いた土の上に光が落ちた。

一瞬だけ。雲が切れた隙間から。

そこには何もない。ただの土だ。しかし昨年の秋、そこに草の種が落ちた。今は芽が出ていない。凍えた。しかし根は残っている。見えないが残っている。

光を落とした。

この者はそちらを向いた。向いた。しかし土を見た。芽を探した。なかった。立ち去った。

また土だ。また土だった。根のことは知らない。根があることを知る言葉がない。知る必要があるのかどうかも、わからない。ただ根は残っている。次に渡すべきは、根のことではないかもしれない。根を見せることより、もっと前の何かが要るのかもしれない。光の落ちた場所に、もう一度戻ってくる理由を、どう渡すか。

その者(23〜28歳)

夜が明ける前に、腹が痛くて目が覚めた。

昨日食べた何かだ。走るように外に出た。岩棚の端で用を足し、しばらくそこにいた。腹の中でまだ何かが動いている。草の匂いがした。湿った土の匂いだ。

光が落ちた。

土の上、すぐ目の前に。雲の切れ間から来た光で、一瞬だけそこが明るくなった。この者は膝をついたまま、その場所を見た。土を見た。手で触った。乾いていた。草もなかった。何もなかった。

立ち上がった。

岩棚に戻った。火の傍に座り込んだ。腹はまだ重かった。

朝になると、集団の長老が石を叩き始めた。薄く割る作業だ。この者は横で見ていた。長老の手つきを見ていた。石が割れる音が続いた。火花が飛んだ。この者は手を伸ばしかけた。長老が低い音を出した。来るなという音だ。手を引いた。

昼前に、若い雌が子を抱いて岩棚の外に出てきた。光の中に立った。子は目を細めた。まだ光の強さを知らない目だ。この者はその様子を少し見ていた。見ていて、それからどこかへ行った。

夕方、獲物を追う仕事に呼ばれた。末席だ。走る係ではない。音を立てて獣を追い込む係だ。草を踏みながら走った。土の感触が足の裏に伝わった。湿り始めた土だ。朝とは違う。

獣は逃げた。捕れなかった。

集団に戻ると、別の者たちが干した肉を分けていた。この者も受け取った。食べた。腹の痛みはなかった。

夜になった。

火の傍で横になった。煙が上に流れていった。目が閉じる前に、朝の光のことを思い出した。思い出した、というより、体のどこかがまだあの場所にある感じがした。土を触った手が、まだ乾いた感触を持っていた。

目が閉じた。

伝播:NOISE 人口:324
与えるものの観察:根を渡すより、戻る理由を渡すべきか
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第788話

紀元前296,070年

第二の星

草原の東端で、地面が割れている。

幅は一歩分ほど。深さはわからない。端に立てば、底から冷気が這い上がってくる。亀裂は南北に走り、岩盤の古い層が剥き出しになっている。縞模様。白と灰と、くすんだ赤。

噴火から五年が経った。地面の傷は塞がらなかった。

東の岩棚の集団は、亀裂を迂回して水場へ向かうようになった。足跡がそこに集まっている。踵の深い跡、小さな跡、指の開いた跡。毎朝、同じ道が踏まれる。

遠く北の方、草原が終わって低木の茂みが始まる手前に、別の群れがいる。この集団よりも背の低い者たちで、頭骨の形が違う。彼らは火を持たない。夜は身を寄せて眠る。昼は石を持たずに歩く。

二つの群れは知らない。互いの煙を、天候の変化だと思っている。

南の湿地では、何かが死んでいる。翼のある者たちが輪を描いている。風向きが変わるたびに匂いが広がり、狭まる。

星はそれをすべて照らしている。亀裂も、足跡も、煙も、翼の輪も。

等しく。

与えるもの

亀裂の端に、光が落ちた。

朝の光ではなく、雲の切れ間から差した一筋だった。底には届かない。ただ端の石を、しばらく白く照らした。

この者はそこに立った。

前を向いていた。亀裂ではなく、亀裂の向こう側を。

渡したのは深さではなかった。向こう側があるという、その事実だ。

手が届かない場所に、向こう側がある。それだけを。

この者は次の日も、同じ場所に立ったか。立たなかったか。わからない。ただ、もう一度渡すなら、今度は亀裂ではなく、それを越えようとする何かの上に光を落とすべきかもしれない。足か。腕か。あるいは背中か。

その者(28〜33歳)

夜明け前に目が覚めた。

理由はわからない。音ではなかった。仲間の誰かが動いたわけでもない。ただ目が開いた。岩棚の天井が、暗い。

立ち上がると、膝が鳴った。

水場へ向かう道を歩いた。亀裂を迂回する手前で、足が止まった。光が、亀裂の端の石の上にあった。

この者は脇道を外れて、そこへ寄った。

石を見た。石は濡れていなかった。夜露もなかった。ただ白かった。

しゃがんで、指で触れた。冷たかった。石はどこにでもある石だった。

立ち上がって、向こう側を見た。

亀裂は幅一歩分。跳べば越えられる。越えたことは一度もなかった。向こう側に何があるかを考えたこともなかった。

この者は向こう側を、しばらく見た。

草があった。岩があった。朝の光の中に、獣の足跡があった。こちら側と、同じものだった。

跳ばなかった。

水場へ向かった。

その日の狩りで、この者は末席にいた。追い役を任されている。獣を正面から追いたてる仕事で、石を投げるより先に走らなければならない。この者は速くない。追い役の中では遅い方だった。

だが、今日はいつもと違う動きをした。

獣が方向を変えた瞬間、集団の他の者は右へ動いた。この者だけが、左へ動いた。

獣は左へ逃げた。

この者の前に飛び込んできた。投石が届く距離で。

仕留めた。

帰りに、また亀裂の前を通った。

今度は立ち止まらなかった。

ただ、横目で見た。向こう側を。光はもうなかった。

歩きながら、この者は自分の手を見た。血がついていた。乾きかけていた。指を曲げた。伸ばした。

夜、岩棚に戻る前に、この者は集団の長老格の者に近づきすぎた。肩が触れるほどの距離で、仕留めた獣の持ち方を示そうとした。

長老格の者が、動きを止めた。

目が合った。

この者は一歩下がった。

長老格の者は何も言わなかった。視線だけが、この者の上に残った。

伝播:HERESY 人口:317
与えるものの観察:越えなかった。しかし向こう側を見た。
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第789話

紀元前296,065年

第二の星

草原の東端から南へ、低い丘がいくつか続く。その先に、乾いた川床がある。雨季には水が流れたが、今は白い砂礫だけが残っている。亀裂が走った後、地面のいくつかの場所で岩盤が微妙にずれた。ずれは小さい。しかし水の流れ道が変わった。

北西では、別の集団が移動している。七人か八人。二本足で歩く姿は似ているが、眉骨の出方が違う。手に持つ石の形も違う。彼らは川床の方へ向かっていない。丘の陰に入って、姿が見えなくなった。

草原では、子どもが三人死んだ。熱だった。腹だった。転落だった。それぞれ別の死に方で、別の朝に。母親たちは子の体を抱いてから、置いた。置いた後、しばらく動かなかった。

東の空に、薄い煙の帯がある。噴火の残滓ではない。草が燃えている。遠い。誰が起こした火かはわからない。

この星はそれをすべて、等しく照らしている。亀裂も、移動する七人も、三人の死も、草が燃える煙も。区別しない。名前をつけない。ただ光を当てている。

与えるもの

亀裂の縁から、においが変わった。

硫黄ではない。湿った岩と、鉄の混じったような、奥から来るにおい。風のない朝だった。においはその者の鼻孔に届いた。

その者がどうするか。

前に立ったことがある気がした。石が光を反射した場所。手が触れた感触。それらが今も問いとして残っている。渡せたかもしれない。渡せなかったかもしれない。

しかし今、においがそこにある。それだけは確かだ。次に渡すべきものを、まだ持っている。

その者(33〜38歳)

夜明け前に目が覚めた。

理由はわからない。腹は痛くない。音も聞こえない。ただ目が開いた。

他の者たちはまだ眠っている。岩の下に身を寄せ合って、皮を被せて。呼吸の音が聞こえる。一つ、また一つ。

その者は立ち上がった。

草原を東へ歩いた。足の裏に冷たい石の感触。露が草に降りていて、すねが濡れた。

亀裂の場所は、においでわかった。

近づく前に止まった。においが違う。昨日と違う。土の下から来るような、鼻の奥に残る重さがある。

一歩、また一歩。

縁に立った。底は見えない。冷気は今日は来ない。代わりに、ぬるい息のようなものが上がってきた。

その者はしゃがんだ。

縁の石を一つ拾った。落とした。

音が聞こえなかった。

立ち上がって、空を見た。まだ暗い。星が残っている。東の端が、ほんの少し明るくなりかけている。

その者はしばらくそこに立っていた。動かなかった。においを吸って、吐いた。

何かが近い、とは思わなかった。言葉を持たないから。

ただ、足が動かなかった。

空が明るくなった頃、その者は踵を返した。仲間のところへ戻った。眠っている者たちの横に座って、膝を抱えた。

誰も起きなかった。その者も何も言わなかった。

においは、まだ鼻の奥にあった。

伝播:SILENCE 人口:337
与えるものの観察:においが届いた。足が止まった。
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第790話

紀元前296,060年

その者(38〜43歳)

石が割れた。

二つに。きれいに。

その者は割れた面を見た。白い。平らだ。指の腹でなぞる。ざらざらして、途中から滑らかになる。割れ目の縁は鋭い。皮がすこし切れた。血が出た。舐めた。

今日の仕事はそれだけだった。

石を割る。大きいのを渡す。小さいのは捨てる。どこに捨てるかは決まっている。向こう側の窪み。昨日もそこに捨てた。一昨日も。

夕方、集まりがあった。雄が四人、雌が二人。あとの者は来なかった。

何かがあったのだと、その者は感じた。集まりの中心にいる大きな雄が、南の方向を向いていた。ずっと向いていた。声を出さなかった。

その者は端にいた。いつも端にいる。

大きな雄が何かを言った。短い音だった。他の者が頷いた。その者も頷いた。意味はわからなかった。しかし頷いた。

夜になった。

その者は火から少し離れた場所に座った。膝を抱えた。空を見た。

匂いがあった。土の匂いではなかった。もっと遠くから来る匂いだった。南から。水のような、しかし水ではない何かの匂い。

その者は鼻を上げた。もう一度嗅いだ。

同じ方向だった。大きな雄が見ていた方向と、同じだった。

その者は立ち上がった。火の方へ戻ろうとした。足が止まった。

南を見た。暗かった。何も見えなかった。しかし匂いはまだあった。

座り直した。今度は南を向いて膝を抱えた。

空が明るくなるまで、その者はそこにいた。

朝になって、集団が動いた。

北へ。

その者は最後尾についた。荷物はなかった。持つものがなかった。

歩きながら、石を一つ拾った。小さい。手の中に収まる。白くはなかった。角が丸かった。

しかし持った。

なぜ持ったかは、わからなかった。

三日後。

川のない場所に着いた。平らな場所だった。草が低かった。風が通った。

その者は角の丸い石を、地面に置いた。

眺めた。

拾った。また置いた。

遠くで声がした。集まれという声だった。その者は石を置いたまま立ち上がった。

しかし三歩歩いて、戻った。石を拾った。握った。

それから集まりの方へ歩いた。

集まりの中で、大きな雄が話していた。別の集団が近くにいる、ということを言っていた。その者は全部は理解できなかったが、怖いということはわかった。声の低さで。

その者は石を握ったまま聞いていた。

夜、石を顔の前に持ってきた。暗くてよく見えなかった。しかし形は指でわかった。丸い。傷がない。

目を閉じた。

翌日、大きな雄が来た。

その者の荷物を指した。何も言わなかった。荷物を見た。それから石を見た。

その者は石を差し出した。

大きな雄は受け取らなかった。その者を見た。

それから去った。

その者は石を戻した。胸の近くに持った。

何かが変わったと、その者は感じた。わからなかった。しかし何かが変わった。

五年が経つあいだに、集団の中での位置は少しずつ変わっていた。

石を割るだけでなく、石を選ぶようになった。どれを割り、どれを残すか。選ぶことを、誰かが任せるようになった。

その者はそれが好きだった。石を眺める時間が、好きだった。

四十二歳の秋。

集まりが変わった。

その者が近づくと、声が止まった。何度も。

その者は気づいた。気づいて、止まった。

石を握った。

大きな雄が来た。声を出した。短い音だった。

その者は聞いた。

足元を見た。

石を置いた。

その者は集まりの外へ歩き始めた。一人で。

誰も呼ばなかった。

南へ歩いた。匂いが記憶にある方向へ。水のような、しかし水ではない匂い。かつて嗅いだことのある方向へ。

草が低くなった。地面が固くなった。

その者は歩き続けた。

夜になっても歩いた。

足が止まったのは、崖の手前だった。

気づかなかった。暗かった。足が空を踏んだ。

体が傾いた。

石が鳴った。ずっと下で。

その者の体が止まったのは、それより先だった。

第二の星

草原の東に低い丘が続き、その先に白い砂礫の川床がある。かつては水があった。今は乾いている。

この五年、始まりの大地の者たちは北へ動いた。南からの何かを避けるように。匂い、あるいは音、あるいは別の集団の気配。

集団の数は三百を少し超えた。増えた者と減った者がある。増えたのは子だった。子のうち半数は、名を持つ前に地に還った。残った子が育ち、また子を産む準備をしている。

別の集団がいる。南の方から来た、よく似た顔の者たちだ。額がすこし違う。眉の骨が張っている。声の出し方が違う。しかし火を使う。皮を使う。子を抱いて歩く。

接触はまだない。しかし近い。

石を選ぶ者が一人、集団から消えた。

誰も追わなかった。崖の下に何があるかを、翌朝確かめた者はいた。しかし戻ってきた者は何も言わなかった。

風が北から吹いた。草がそちらへ傾いた。

集団は動いた。いつもそうするように。

与えるもの

南からの匂いを、その者の鼻へ届けた。

その者は立ち上がり、南を向き、夜が明けるまでそこにいた。

知りすぎたのか、感じすぎたのか。問いを持つのはそれからだ。次に渡すべきものがある。まだ別の者がいる。

伝播:HERESY 人口:333
与えるものの観察:匂いを届けた。その者は方向を覚えた。
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第791話

紀元前296,055年

その者(44歳)

朝、草の上で目が覚めなかった。

正確には、目が覚めた。けれど体が応じなかった。

腕を持ち上げようとした。持ち上がらなかった。もう一度やった。指が少し動いた。それだけだった。

空が見えた。白かった。雲ではなく、光そのものが白かった。こういう空を、彼は何百回も見ていた。朝の狩りの前に、水場へ行く前に、石を割る前に。空を見て、それから体を起こしていた。

今日は、体が起きなかった。

喉が渇いていた。舌が口蓋に張り付いていた。誰かが近くを通った。足音が草を踏む音がした。その音は遠ざかった。

彼は声を出そうとした。音にならなかった。

腹の底に、重いものがあった。病ではない。熱もない。ただ、重かった。石を腹の中に持ったまま眠ったような感じだった。昨日もそうだったし、三日前もそうだった。食べる量が減っていた。足が痺れた。若い者たちが彼の代わりに石を割っていた。

彼はそれを見ていた。割り方が違う、と思った。音が違う、と思った。しかし声が出なかった。

昼頃、風が変わった。

岩の割れ目から吹いてくる冷たい風だった。その風の中に、腐った草の匂いと、水の匂いが混じっていた。遠い場所の匂いだった。

彼は顔をその方向へ向けた。

首だけが動いた。

夕方、若い雌が水を持ってきた。彼の口のそばで器を傾けた。水が唇を濡らした。飲めなかった。こぼれた水が耳の下へ流れた。冷たかった。

若い雌は何も言わなかった。器を持ったまま、しばらくそこにいた。それから離れた。

彼は草の匂いを嗅いでいた。地面の匂い。いつも踏んでいた地面。踏まれてつぶれた草の、青い匂い。鼻がそれを覚えていた。

夜になった。

火の音が聞こえた。集団の誰かが笑った。子どもの声がした。声は遠くなった。近くなった。また遠くなった。

彼の呼吸は、いつの間にか浅くなっていた。

草が体の重みで沈んでいた。背中の感覚が薄くなっていた。指の先が冷えていた。それが肘まで来た。膝まで来た。

空に星があった。

彼はそれを見ていた。

何を見ているか、彼は知らなかった。ただ光があった。光は動かなかった。彼の目が、静かに、光を手放した。

第二の星

同じ夜、乾いた台地の端で、二つの集団が境界を挟んで声を上げていた。火を持った者がいた。石を持った者がいた。誰も踏み込まなかった。熱だけが夜気の中に溶けた。子どもが泣いた。泣き声が止んだ。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:NOISE 人口:353
与えるものの観察:首だけが動いた。風の方へ。
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第792話

紀元前296,050年

第二の星

乾いた風が、大地の端から端まで流れている。

東の台地では、草が焼け残った跡が黒く延びている。火は人が起こしたものではない。落雷だ。雨が来る前に燃え尽きた。獣の群れが南へ移動している。足跡だけが残る。

北の岩場では、旧人の一群が岩陰に身を寄せている。子どもの声がしない。静かすぎる集団だ。動く気配もない。ただ、いる。

同じ大地の、少し南。川が支流に分かれるところに、353人が散らばって暮らしている。正確には、集団と呼べるほどまとまってはいない。火を囲む単位がいくつか、互いの声が届く距離に、届かない距離に、ある。

その中の一つの火に、14歳の者がいる。

集団の周縁に、緊張が走っている。東の岩地から見知らぬ影が来た。旧人か、別の者か、まだわからない。声を上げた者がいる。石を構えた者がいる。

夜が来た。

影は消えた。しかし消えただけで、去ったわけではないかもしれない。火が揺れる。風向きが変わった。

与えるもの

糸が繋がった。

この者はそれを知らない。

夜、火の傍で見張りをしていた。集団の大人たちが眠るなか、この者だけが起きていた。役目だからではない。眠れなかったのだ。

焦げた骨のにおいが漂った。獣の残骸が、風上にある。

においは底から来た、と以前に思ったことがある。いや、思ったのではない。ただそこにあった。

今夜のにおいは違う。上から来る。煙に乗って来る。

においの中に、別のものが混じっている。土ではない。雨の前の空気でもない。生き物の、息のような何か。

風がその方向から吹いた。東だ。

この者が気づくかどうか、わからない。気づいたとして、何をするかは、もっとわからない。しかし渡した。においと、風の向きを。一歩だけ。それだけだ。

その者(14〜19歳)

夜中、火が小さくなった。

枝を足した。火が戻った。それだけのことなのに、胸の中で何かがほどけた。

眠れなかった。大人たちの寝息が聞こえる。子どもの一人が、寝返りを打った。その子は昨日まで熱を出していた。今日は少し冷えている。顔を見た。胸が動いている。よかった。なぜよかったと思うのか、わからない。ただよかった。

影のことを考えた。今日、東の方向に見えたものだ。二本足で立っていた。でも、何かが違った。動き方が違う。声を出さなかった。ただ、こちらを見ていた。

大人の一人が石を投げた。影は消えた。

でもまだ、東の方向が気になる。なぜか気になる。

においがした。焦げた何かの上に、別の何かが混じっている。生き物のにおいだ。近くはない。でも遠くもない。

風が来た。東から来た。

この者は立ち上がった。火の外に一歩出た。暗い。目が慣れるまで、ただ立っていた。

何も見えない。

でも、においは続いている。

戻った。火の傍に座った。石を一つ拾った。握った。手のひらに収まる大きさだ。角が少し尖っている。

どこかに向けて投げることも、持ったまま眠ることもせず、ただ握っていた。

夜が明けた。

伝播:HERESY 人口:352
与えるものの観察:においと風を渡した。この者は立ち上がった。