2033年、人類の旅

「紀元前295,805年〜紀元前295,685年」第841話〜第864話

Day 36 — 2026/05/08

読了時間 約58分

第841話

紀元前295,805年

第二の星

北半球の大部分は乾いている。内陸の高地では、雨が来ない月が続き、草が茶色く折れて地表に張りつく。獣は水を求めて移動した。移動した先で別の獣と出会い、縄張りが壊れ、また移動した。

始まりの大地では、集団が二つのまま同じ水場を使い続けていた。五年が経った。互いの顔を知っていた。名前は持たなかったが、形と動きで識別していた。がっしりした眉の者、首の長い女、いつも後ろにいる男。そういう記憶が積み重なっていた。

北の集団と南の集団という区別は、彼ら自身にはなかった。あるのは、「われわれ」と「他の何か」だった。その境界は揺れていた。共食いをしたことがあった。子を交換したこともあった。石を投げたこともあった。どれも記憶の中で同じ重さで並んでいた。

遠く南では、別の群れが沿岸の崖に沿って移動していた。崖の下には波が打ち、魚が浅瀬で跳ねた。彼らはそれを見ていたが、まだ水の中に入らなかった。岸に落ちた死んだ魚だけを拾った。

与えるもの

風がこちらから吹いてきた。

その方向に、煙に近い匂いがあった。焦げているのではない。乾いた草の、皮膚に触れる前に消える匂いだ。

この者の鼻が動いた。

渡した。

この者は立ち止まった。それだけだ、ではない。立ち止まって、集団の中の誰かを見た。その誰かを見て、また匂いの方向を向いた。そして動かなかった。

何かを整理しようとしていた。匂いと、人と、距離と。その三つが、この者の中でまだ繋がっていない。

次に渡すべきものは何か。繋がりそうで繋がらないこの者に、何が残るか。手放す前に、伝わらないまま終わった12の記憶が、ここで重なる。重ならせないために、また目を向ける。

その者(28〜33歳)

匂いがした。

歩いていた足が止まった。鼻の奥で何かが引っかかった。草の匂いではない。焦げでもない。何か、知っている匂いに似ていて、違う。

集団の中の一人を見た。年上の男だった。石を腰に挟んで歩いていた。その男も止まっていた。

その男の目が、匂いの方向に向いていた。

二人で、同じ方向を向いていた。

言葉にならなかった。「あれ」という音を出しかけて、出さなかった。

男が歩き出した。匂いの方向ではなく、水場に向かって。

この者は動かなかった。

草が膝の高さで揺れていた。風がまだそちらから来ていた。匂いはもう薄くなっていた。

手の中に石があった。いつ拾ったか覚えていない。

水場の方では、声がした。集団の別の集団が来ていた。石を構える音がした。叫び声。鈍い音。また叫び声。

この者は草の中に伏せた。

土の匂いがした。草の根が顔に当たった。心臓が速く打っていた。

叫び声が一つ、途絶えた。

伏せたまま、長い時間が経った。

やがて音が消えた。

立ち上がれなかった。立ち上がることの意味がわからなかった。石を握ったまま、草の中に留まっていた。

空が暗くなり始めていた。

伝播:HERESY 人口:309
与えるものの観察:匂いを渡した。繋がる前に音が来た。
───
第842話

紀元前295,800年

第二の星

北半球の乾燥は続いている。

始まりの大地の内陸では、岩盤が地表に露出しはじめた。土は風に運ばれ、残ったのは砂と礫だけだ。草の根が引き抜けるほど表層が乾き、踏むと崩れる場所がある。水場は一つになった。二つの集団が同じ岸辺に近づく。

夜明け前、片方の集団の若い者が水を汲みに来た。対岸に別の集団の影があった。双方、しばらく動かなかった。声は出なかった。やがて一方が石を拾いあげた。それだけで、対岸の影は後退した。水は汲まれなかった。

翌朝も同じことが起きた。

三日目、昼に両集団が水場で重なった。声が上がった。どちらの声かは判然としない。石が飛んだ。子どもの一人が腹を抱えて地面に伏した。親が引きずって戻った。水場は夕方まで空だった。

始まりの大地の外縁では、旧人の小集団が岩陰で動かずにいた。三人、あるいは四人。この乾きの中で動物が減り、彼らも水を探している。ただし始まりの大地の集団とは行動域が違う。今のところ、重ならない。

大地の南端の低地では、水が滲み出る場所がある。岩盤の割れ目から、指の幅ほどの細い流れが地表に出てくる。獣の蹄の跡がその周辺に集中している。人の足跡はない。まだ誰もここを知らない。

高いところでは風が西から東へ吹いている。低いところの空気は止まっている。夕方、始まりの大地の空に雲が出たが、雨にはならなかった。雲は夜のうちに散った。

朝が来るたびに、水場の岸に石が増えている。誰かが置いていく。誰かが蹴って崩す。また誰かが積む。水は変わらず流れている。それだけだ。

与えるもの

南端の低地の岩の割れ目から、湿った空気が漂った。その者のいる方向へ、ほんの少し、風が向きを変えた。

この者は立ち止まった。鼻を上げた。しかしすぐに歩き出した。

石を積む行為と石を蹴る行為が同じ水場で起きている。渡した湿りが届いたとして、それがどちらの手に触れるのかは、まだわからない。次に風を向けるとしたら、夜明けではなく、昼の、動きが止まる瞬間かもしれない。

その者(33〜38歳)

水場に近づかなかった。

石が積まれているのを遠くから見た。誰かが崩した。また別の誰かが積んだ。

腹が鳴った。戻った。食べた。また外に出た。南の方角が、どこか違う気がした。気のせいかもしれなかった。その者はしばらくそちらを向いたまま、何もしなかった。

伝播:DISTORTED 人口:325
与えるものの観察:湿りは届いた。使われなかった。
───
第843話

紀元前295,795年

その者(38〜40歳)

水場までの距離が、少し遠くなった。

そう感じたのは、足が遅くなったからではなかった。足は動く。ただ、歩くたびに腹の内側から何かが削れるような感覚があった。腹の奥が空洞になっていくような、それだけだった。

集団の水場は一つになっていた。礫の間から滲み出る水を、順番に掌に受ける。その者の番が来るまでに、水は減っていた。

子どもが先だった。いつもそうだった。

その者は子どもたちの後ろで待った。砂の上に座って、膝を立てて、空を見た。空は青かった。雲はなかった。

食べるものが少なかった。草の根は干からびていた。小さな獣は姿を消していた。狩りに出た者たちが持ち帰るものは、日ごとに小さくなっていた。

その者は狩りに連れていかれない。ずっとそうだった。若い頃からそうだった。集団の中で、その者がいつも後ろにいた理由を、その者は考えたことがない。ただ、そういうものだった。

砂の上に、乾いた茎が一本落ちていた。

その者はそれを拾った。折った。また折った。手の中に細かい破片が残った。破片を指でつまんで、地面に並べた。線を作ろうとした。線は砂の上に残らなかった。風が吹いて消えた。

風の中に、少しだけ甘い匂いが混じった。

その者は顔を上げた。匂いの来た方角を向いた。岩の影に、枯れかけた低木があった。幹の根元に、小さな実が一つ落ちていた。赤みが残っていた。鳥も獣も見落とした実だった。

その者は立ち上がろうとした。立てた。歩いた。岩の影まで行った。実を拾った。においをかいだ。口に入れた。

甘かった。

それだけだった。甘味が舌に広がって、それが全部だった。

その者は岩に背中をつけて座った。空を見た。太陽が高かった。

目の前で、子どもが二人、砂の上を走っていた。笑っているのか、怒っているのかわからない声を出しながら走っていた。その者は見ていた。

走っている子どもの一人が転んだ。泣いた。もう一人が駆け寄った。

その者は、それを見ていた。

腹の奥の空洞感が、静かに広がっていた。痛みではなかった。ただ、何かが減っていくような感覚だった。

その者は手を膝の上に置いた。砂の粒が手の甲についていた。払おうとしたが、払わなかった。

そのまま、動かなくなった。

背中が岩からずれて、横向きに倒れた。砂の上に頬がついた。砂は温かかった。

子どもたちはまだ走っていた。

第二の星

岩だらけの台地の上、乾いた風が一日中吹いていた。礫の隙間で、小さな蜥蜴が岩の影に入り、また出た。水場からずっと遠い場所で、一頭の大きな草食獣が立ったまま動かなかった。風が吹くたびに耳だけが揺れた。空には雲ひとつなかった。

与えるもの

甘い実の匂いを、風に乗せた。それだけだった。この者が受け取った。最後に受け取った。糸は別の誰かへ向かった。

伝播:SILENCE 人口:336
与えるものの観察:最後に受け取った。受け取ったことを知らずに。
───
第844話

紀元前295,790年

第二の星とその者(12〜17歳)

始まりの大地に、長い穏やかさが続いていた。

雨は季節ごとに来た。草はその後に来た。獣は草の後に来た。大地は崩れず、空は燃えなかった。遠い山の向こうでも、似た穏やかさが広がっていた。別の峰の麓では、毛の長い獣たちが群れを増やし、広い草原をゆっくりと移動していた。川沿いでは魚が遡上し、鳥がそれを追い、その死骸が岸に積まれ、土に還った。何もない年が続くとき、大地はこういう顔をする。何も起きていないのではなく、すべてが少しずつ、音もなく満ちていく。

走り手は身体で大地を知った。

十二のとき、彼は偵察の後尾を走っていた。年上の者が前を行き、足跡を読み、耳を立てた。彼はただついていった。草を踏まないように。息を押し殺して。腹の底にいつも何か張ったものがあり、それが足を速くした。

始まりの大地の集団は、少しずつ大きくなっていた。

増えた口は新しい火を囲んだ。夜の輪が広がり、子の声が増え、乳の匂いが火の匂いに混じった。集団は二つに割れることなく、一つの岩陰を共有し続けた。しかしその一つが、少しずつ重くなっていた。水場への道が踏み固められ、草が消え、地面が硬くなった。獣道と人の道が重なり始めた。遠くから来た別の集団の足跡が、岩陰の近くで止まり、引き返した痕があった。踏み荒らされた草。遠ざかる匂い。接触はなかったが、気配だけが残された。

十四のとき、彼は初めて別の集団の男と向き合った。

岩の陰と陰の間、草の途切れる場所で。相手は大きかった。眉の稜線が違った。額の形が違った。しかし目に光があった。彼は叫ばなかった。石を持っていたが、投げなかった。相手も動かなかった。二人は長い時間、ただそこに立っていた。それから相手が向きを変え、草の中に消えた。

その夜、火の傍で年上の者が何か言った。

彼には意味がわからなかった。しかし音の中に怒りがあった。翌朝、集団のいくつかの男が石を持って出ていった。

大地は変わらなかった。雨は来た。草は来た。獣は来た。遠くの峰では雪が降り、解け、また降った。川は氾濫せず、緩やかに流れた。世界は飽和の手前で、静かに揺れていた。

彼の走る範囲が、年とともに広がった。

十六のとき、一日で行けなかった場所に、今は半日で着いた。身体が変わったのではなく、道を知ったのだった。どこに石が転がっているか。どこに草が深く、足を取られるか。どこで風が向きを変え、自分の匂いが獣に届くか。道は彼の中に積まれていた。

しかし積まれるたびに、何かが増した。

胸の内側に、固い小石のようなものが増えていく感覚があった。何かを恐れているのではなかった。怒っているのでもなかった。ただ、固いものが増えた。走るとき、それがぶつかるような気がした。

十七。

ある夕方、水場への道を戻るとき、彼は草の揺れに気づいた。風ではなかった。

与えるもの

糸が繋がった。

煙の残り香が草の根元に溜まる場所があった。他より少し温かく、低い位置に留まる匂い。そこへ風を送った。腰の高さで、右から左へ。

彼は足を止めた。草に向かって一歩踏み込んだのではなく、一歩引いた。草の揺れが止まり、向こう側で別の気配が遠ざかった。

接触がなかったことが、何を意味するのかわからない。煙の匂いが命を分けた夜もあれば、分けなかった夜もある。この者が引いたのは恐れか、それとも別の何かか。渡すべきは次に何か。足跡の消え方か。空気の締まり方か。まだわからない。だから目を逸らさない。

伝播:NOISE 人口:437
与えるものの観察:糸が繋がった。引く足を見ていた。
───
第845話

紀元前295,785年

その者(17〜22歳)

17歳のとき、その者は初めて集団の外縁まで走った。

草が腰の高さまで伸びる場所。
岩が途切れて、開けた斜面になる場所。
別の集団の気配が、においとして残っていた場所。

その者は戻り、手を振った。大きく。繰り返した。
仲間たちはその意味を知っていた。

走ることが、この者の全てだった。

朝、霧が低く垂れているうちに動いた。
獣の通り道を先に確かめる。
水場に見知らぬ足跡があれば、走って戻る。
崖の下に何かが倒れていれば、においを嗅いで、触らずに戻る。

脚は速く、肺は深かった。
それだけで、この者はここに在った。

19歳のころ、その者は別の集団の子どもを見た。

向こうの丘の斜面。
草の陰にいた。こちらを見ていた。

その者は立ち止まった。
子どもも立ち止まった。

どちらも声を出さなかった。
やがて子どもは斜面を下り、草の中へ消えた。
その者は長く、その場所を見ていた。

集団へ戻ったとき、何を伝えるべきか、この者にはわからなかった。
手を振った。しかし、違う。
音を出した。しかし、足りない。

仲間たちはその者の顔を見た。
その者は黙った。

21歳の秋。

集団の中で何かが変わった。
変わったのではなく、もともとあったものが、表に出てきた。

食べ物が減り始めた。
獣の通り道が変わった。
水場のそばに、別の集団の痕跡が増えた。

古老の一人が、その者を見る目が変わった。

その者は気づいていた。
気づいていることに、気づかれていた。

22歳の冬が来る前。

その者は夜中に起こされた。
二人の男。顔は知っていた。

丘の方に何か出た、という手ぶり。
行け、という音節。

その者は立った。走った。
丘の手前で、後ろから押された。

岩は下にあった。
落ちた。

空が見えた。
草のにおいがした。
それだけだった。

第二の星

平らな地の果てで、老いた旧人が水を飲んでいた。川は細く、石の間を縫っていた。旧人は水を飲み終えると、しばらく川面を見た。それから立ち上がり、北へ歩いた。誰も見ていなかった。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:426
与えるものの観察:渡した。届くかどうかは問わない。
───
第846話

紀元前295,780年

第二の星

湿原が広がる低地に、霧が三日続いた。

草原の端では、ふたつの集団が同じ水場をめぐって何度目かの睨み合いをしていた。声を上げる者、石を持ち上げる者。しかし誰も踏み込まなかった。その境界線は見えないが、両者の足が止まる場所として存在していた。

高地では別の話が進んでいた。岩棚の下で老いた者が横たわり、若い者たちが交代で火を守った。火は小さかった。夜に何度も消えかけ、そのたびに誰かが体を起こした。老いた者は三日目の夜明けに動かなくなったが、火はまだ燃えていた。

遠く、海岸に近い場所では背の低い者たちが浜を歩いていた。現代の者より太く短い顎、傾いた額。かれらは潮の匂いを追い、岩に張り付く貝をはがした。かれらも集まり、かれらも老い、かれらも子を持った。

草原と湿原の境では、この星が知る限り最も若い何かが産声を上げた。母親は力を使い果たし、子は砂の上で泣いた。誰かが子を拾い上げた。誰かが母の肩を叩いた。誰も何も言わなかった。

与えるもの

糸が繋がった。

その者は十二歳だった。今は十七歳で、もうすぐ消える。

五年間、光を落とし、風を向け、匂いを届けた。何度か届いた。何度かは届かなかった。それでも渡し続けた。

かつて同じことをした。十二の者と糸で繋がり、知識は一度も届かなかった。そのことを思う。思って、それでも次を渡す。

今夜、渡すものがある。

石の陰になって見えない場所に、水が染み出している。音がした。小さな、繰り返す、水の音。その者の耳に、届いたかどうか。

もしこの者が消えても、その音を聞いた記憶だけが残る。誰かの体の中に。次の誰かへ。届くかどうかは、私にはわからない。だが渡さなければ何も始まらない。

その者(12〜17歳)

十二歳のとき、その者は岩の運び手だった。

重いものを持てる者がそれをする。それだけだ。岩を運び、岩を積み、積んだ岩が崩れたらまた運ぶ。理由は誰も説明しなかった。その者も問わなかった。問う言葉を持っていなかった。

十三歳になるころ、集団の中に別の者が来た。

においが違った。皮の巻き方が違った。顎の形が、どこか。その者は近づかなかった。集団の古い男たちが集まり、声を上げ合い、やがて黙った。来た者は端の方に座らせられた。食べ物を渡された。

その者はそれを見ていた。

十四歳。その者は火の番をするようになった。夜に起きている者が必要で、若い者がそれをする。火は油断すると細くなる。枝を足せばいいだけだ。しかしどの枝かを誤ると煙が変わる。黒い煙は何かを遠ざける。白い煙は何かを呼ぶ。誰がそれを教えたか、その者は覚えていない。体が知っていた。

十五歳。集団が動いた。

旱魃ではなかった。水はあった。しかし動いた。誰かが方角を指差し、老いた者がその方角を見た。翌日には荷物がまとめられていた。その者は荷物を背負い、歩いた。歩きながら、後ろを向いた。岩棚の形が、遠くなった。見えなくなった。

十六歳の夏。その者は初めて集団の外縁を越えた。

草が腰まである場所。岩が消えて斜面になる場所。においがあった。自分たちのにおいではないにおいが、草に残っていた。その者は立ったまま、においを吸った。それから戻り、集団に向けて手を振った。何を伝えたかったか、自分でもわからなかった。

しかし誰かがその手振りを見ていた。

その夜から、老いた男がその者を目で追うようになった。

十七歳の秋。

夜、その者が水場の近くを歩いていた。石の陰に回ったとき、音がした。小さく、繰り返す音。水が岩の割れ目から染み出す音だった。その者はしゃがんだ。指先で触れた。濡れていた。舌に当てた。塩がなかった。飲める水だった。

立ち上がって、集団の方を向いた。

老いた男が、暗がりに立っていた。

いつからいたか。どこまで見ていたか。その者にはわからなかった。男は近づいてきた。男の後ろに、若い男がふたりいた。

その者は石を拾わなかった。走らなかった。

水の音がまだ続いていた。

男の手が、その者の首のあたりに伸びた。

その者は最後に上を向いた。星があった。多すぎて数えられなかった。水の音がやんだ、と思った。やんでいなかった。ただ、その者の耳が星を向いたまま止まっただけだった。

草が揺れた。

水は染み出し続けた。

伝播:HERESY 人口:415
与えるものの観察:届いた。しかしその者には届かなかった。
───
第847話

紀元前295,775年

その者

熱が来たのは、雨が止んだ翌朝だった。

その者は地面の低いところに寝ていた。湿った草の上。体の下で土が温かった。最初、それを心地よいと思った。しかし熱は土からではなく、体の内側から来ていた。

起き上がろうとした。腕が言うことを聞かなかった。

集団の者たちは水場へ向かっていた。女が乳飲み子を抱えて歩く音、男が低く声をかけ合う音。足音が遠ざかった。その者はそれを聞きながら、草の上に横たわっていた。

昼になった。日が高くなって、影が短くなった。

喉が渇いた。体を起こした。三歩歩いて、膝が折れた。その場に座り込んだ。遠くで何かの鳥が鳴いた。

老いた女が戻ってきた。群れの中で最も長く生きている者だった。その者の顔を見て、何か低い声で言った。その者には聞き取れなかった。女は水を持ってきた。ひたした草の塊を口元に当てた。その者は吸った。

夕方になった。

老いた女は去った。別の仕事があった。その者を置いていくことに、特別な意味はなかった。

夜が来た。空は晴れていた。星が多かった。体が震えた。震えながら、その者はある方向に顔を向けた。理由はなかった。ただそちらから、乾いた草の匂いがした。風ではなかった。空気が少しだけ動いた、その程度のことだった。その者は鼻で息を吸った。また吸った。

何かをそこに感じたが、何かはわからなかった。

手が動いた。地面を探った。小石が指に当たった。握った。握ったまま、何もしなかった。

体の震えが、ある時点でなくなった。

静かになった。

空は変わらなかった。星は変わらなかった。草の上に、小石を握った手が残った。

第二の星

草原の反対側、別の斜面で、眉の厚い者たちの集団が火を囲んでいた。子どもが一人、煤で汚れた手を顔に当てて眠っていた。水場をめぐる緊張は続いていたが、その夜は誰も動かなかった。火が小さくなった。

与えるもの

別の誰かの足元で、乾いた草が音もなく揺れた。

伝播:NOISE 人口:427
与えるものの観察:小石を握ったまま、何もしなかった
───
第848話

紀元前295,770年

第二の星とその者(13〜18歳)

雨季が終わった。

乾いた風が草を寝かせ、草の根元に白い塩が滲み出た。
平原の端、赤土が剥き出しになった斜面に、旧人の集団が三つの塊になって座っていた。
動かなかった。食べていた。

その者は離れたところから見ていた。

仲間の雄たちは火のそばにいた。その者は呼ばれなかった。呼ばれることを期待していなかったが、火から漏れる音—肉の脂が弾ける音、低い声、笑いに似た息—を背中で聞いた。
草に腹ばいになった。顎を地面につけた。虫が一匹、鼻の前を通った。

水が減っていた。

泉の縁が三十日前より広くなっていた。水際の泥が固まり、ひびが入り、その上を蜥蜴が走った。
集団はより深い水場を探していた。古い雄たちが匂いを嗅ぎ、川床の跡を歩き、地面を踏んで音を聞いた。
旧人の集団と水場が重なった。

その者は十三歳だった。

立場がなかった。腕力で下から数えて三番目で、年長の雄に近づけば殴られた。
特技もなかった。石を割るのは遅かった。魚を獲るのは下手だった。
ただ、見ていた。

旧人の雄が一頭、川床に降りてきた。大きかった。額が広く、眉の骨が張り出していた。仲間の雄たちが後退した。古い雄が叫んだ。石が飛んだ。

その者は草の陰から全部を見ていた。

旧人の雄は石を避けなかった。
肩に当たった。振り向いた。また当たった。
それでも後退しなかった。ただ立っていた。川の水を飲んだ。飲み終わって、歩いて戻っていった。

仲間の雄たちは騒いだ。
その者は何も言わなかった。

旧人の雄が戻ったあと、川床に光が落ちた。
朝の斜光で、水際の土が光った。湿った跡だった。足の形が残っていた。旧人の足跡と、その横に—同じ方向を向いた、小さな足跡。子どもの足跡。

水を飲みに来ていた。

その者は川床に降りた。
足跡に触った。
濡れていた。まだ新しかった。

その年の終わり、集団の中の子どもが一人、熱を出して動かなくなった。
母親が三日、そばを離れなかった。
四日目、母親は離れた。

その者は遠くから見ていた。

十五歳になる年、旧人の集団が移動した。

朝、いた。
夕方、いなかった。
残ったのは、焚き火の跡と、骨のいくつかと、足跡だけだった。

仲間の雄たちはその場所に入った。
焚き火の跡を調べた。骨を拾った。
その者も入った。

足跡を一つ一つ踏んだ。
同じ形になろうとするように、足を合わせた。
合わなかった。

旧人の足は幅が広く、指の跡が深かった。
その者の足は細く、跡が浅かった。

それだけのことだった。

十七歳、乾季が長かった。

草が早く枯れた。動物が移動した。狩りが減り、食料が減り、集団の声が低くなった。
古い雄二人が争った。石を使った。一人が倒れた。起き上がらなかった。
もう一人は三日、その場を離れなかった。

その者は水を運んだ。
古い雄に近づけなかったが、少し離れた石の上に水を置いた。
古い雄は受け取らなかった。
水は蒸発した。

その翌年、その者は初めて狩りに加わった。

小さな役だった。草の中で待ち、獲物を追い込む方向に声を出す。それだけだった。
でも加わった。

夕方、肉を受け取った。
良い部位ではなかった。
でも受け取った。

十八歳になる月、その者は川床で座っていた。
日が沈んでいた。空が赤く、川面が赤かった。
水に顔を映した。

三年前より顎が出ていた。首が太くなっていた。
誰かの顔だった。
自分の顔だった。

風が上流から吹いた。
川の水が揺れた。

その者は長いこと、水面を見た。

与えるもの

糸が繋がった。

川床に光を落とした。足跡のそばに。
その者は降りた。触った。濡れを確かめた。

受け取ったのか。それとも、ただ触れただけか。
手が覚えている、ということと、心が知っている、ということは—同じなのか。

渡すべきものは次にもある。
問いは続く。

伝播:NOISE 人口:443
与えるものの観察:手が覚えていることと、心が知ることは同じか
───
第849話

紀元前295,765年

第二の星

乾季の終わりが来なかった。

前の年も、その前の年も、雨は月が七つ経てば戻ってきた。草が萎れ、水場が縮み、獣の足跡が遠のいても、待てばよかった。それで足りていた。

だが今年、八つ目の月が来ても空は固く閉じたままだった。

平原の西、赤褐色の丘が連なる地帯では、地面が割れはじめていた。縦に走るひび割れが掌ほどの幅になり、その中に日が落ちていった。草の根が剥き出しになった。土は粉になった。風が吹くたびに、視界が灰色に霞んだ。

川床が干上がった。

水があったところには白い跡だけが残った。平らで固く、足で踏むと薄い板のように割れた。

群れの半数が、水のある方向へ向けて動きはじめた。老いた者と幼い者は動けなかった。一番小さな子が三人、九日のあいだに黙った。母親が抱いたまま、岩の陰に座り続けた。誰も近づかなかった。やがて母親も立ち上がり、残りの群れの後ろについて歩いた。岩の陰には三つの小さなものが残った。

旧人の集団がそこへ来たのは、そのあとだった。

彼らも水を探していた。体は大きく、顎が前に張り出していた。毛皮を体に巻きつけてはいなかったが、それでも平然としていた。三人が先に立って歩き、後ろに八人がついていた。子供はいなかった。

両者は水の跡のそばで出会った。

立ち止まった。

旧人の一人が低い声を出した。喉の奥から来る音で、言葉ではなかったが、意味があった。群れの年長の雄が一歩前に出た。二者のあいだに、乾いた風が通った。

何も起きなかった。

旧人は別の方向へ曲がった。群れは動かずにいた。風が草の粉を転がした。

その夜、群れの中で声が上がった。誰かが叫び、誰かが叫び返した。年長の雄が何かを決めた。翌朝、群れは旧人とは逆の方向へ歩き出した。

別れは静かだった。争いはなかった。ただ、二つの集団がそれぞれの方向へ散った。それだけだった。

北の空に、薄い雲が帯のように伸びていた。雲の下、地平に近いところだけが橙色に光っていた。

与えるもの

干上がった川床に、風が一か所だけ渦を巻いた。細かい砂が螺旋を描いて上がり、その中心にだけ、一瞬だけ、湿った匂いが残った。地下水が近いことを、鼻が知っている。

その者は立ち止まった。鼻を動かした。群れの後ろについて、また歩きはじめた。

渡した。届いたかどうかは、まだわからない。ただ、今度は鼻だった。前に光を使ったとき、この者は空を見た。次に何を使うべきか、問いが残っている。

その者(18〜23歳)

湿った匂いがした。

群れは前を歩いていた。その者は立ち止まり、足元の割れた地面を見た。何もなかった。また匂いがした。

年長の雄が振り返り、低い声を出した。来い、という意味だった。

その者は動いた。

しかし、足はその場所を覚えていた。

伝播:HERESY 人口:429
与えるものの観察:鼻が知った。足が覚えた。それだけだ。
───
第850話

紀元前295,760年

第二の星

大地の東側、平原が盆地に落ち込む場所で、乾いた岩が裂けている。

去年の割れ目だ。地の奥から熱が押し上げて、三本の亀裂が走った。今はもう熱は引いた。だが岩の端には、あの時吐き出された灰が白く残っている。雨が来ないから流れない。

北のほう、丘の連なりが途切れる手前に、旧人の一群がいる。七人か八人。皮を被って座っている。彼らは動かない。動く理由がない。水場は近く、彼らの知る根の場所がある。乾季が長引いても、彼らは根を掘る。それだけのことだ。

南の岩棚の下では、この群れの半分ほどが眠っている。夜に入っても風は熱く、砂が舌の上に積もるような乾きが続いている。子どもの一人が咳をしている。止まらない。誰かが背を叩く。咳は続く。

西に火がある。群れの火ではない。野火だ。乾いた草が燃えている。煙は低く這い、空を橙に染めている。獣が逃げている。幾種類かの足跡が、同じ方向へ重なっている。

星は全てを照らす。

乾きも、煙も、咳も、裂けた岩も、旧人の静かな背中も。同じ光の下にある。

与えるもの

煙の匂いが風に乗ってきた。

あの者の鼻腔に届くように、風を少し長くその方向から吹かせた。

獣が逃げている。足跡が重なっている方向があった。

渡したのはそれだけだ。

以前、全てを一度に渡した。知識が、火が、逃げ道が、次の水場までの距離が。全て。何も届かなかった。

だから今は一つだけ渡す。

風の匂い。

それで足りるかどうか、まだわからない。だが渡さなければ、渡した事実すら生まれない。

その者(23〜28歳)

咳が続いている子どもの声で目が覚めた。

眠れていなかったかもしれない。どこからが眠りで、どこからが覚醒だったか、区別がつかない夜が続いている。岩棚の端に座って、膝を抱えた。

煙の匂いがした。

遠い。でも確かにある。草が燃える匂いは食べ物の匂いとは違う。焦げた乾いた匂いだ。鼻の奥で残る。

立ち上がった。

風は西から来ていた。煙もそこから来ていた。暗い空の縁が、ほんの少し橙がかっている。火だ。近くはない。でも動いている可能性がある。

群れの大人たちはまだ眠っている。長老格の雄が何かを低く唸って寝返りを打った。その者は声をかけなかった。

かけ方を知らない。

「火がある、向こうに、獣が、逃げている」を一つの言葉にする方法を持っていない。「火」と言えば、「危ない」という意味にも「食べ物がある」という意味にも取られる。どちらが伝わるかわからない。

岩棚の端から西の空を見ていた。

煙は右に流れている。風の向きが少し変わった。獣の足跡がどこかにあるはずだと思った。思ったのか、体が知っていたのか、わからない。

日が昇る前に、その者は一人で動いた。

岩を下りた。草の中に入った。足の裏が乾いた地面の硬さを感じた。ひびが入っている。水を失った土の感触だ。

足跡があった。

大きい。複数だ。蹄の跡。いくつかの種類が重なって、同じ方向に続いている。獣が逃げた道だ。逃げ先には水場があるかもしれない。逃げてきた先には火がある。その間のどこかに、まだ動いている獣がいるかもしれない。

その者は立ち止まった。

足跡を見た。煙の方向を確認した。また足跡を見た。

ゆっくりと、足跡を追い始めた。

群れのことを考えなかったわけではない。でも戻って何を伝えるか、どう伝えるかが、まだ体の中でまとまっていなかった。まとまる前に足が動いていた。

夜明けの光が薄く広がった。影が長く伸びた。

その者の影も、足跡の上に重なって、西へ向かって伸びていた。

伝播:NOISE 人口:437
与えるものの観察:風の匂いで足を動かした。届いたかもしれない。
───
第851話

紀元前295,755年

第二の星とその者(28〜33歳)

東の尾根が崩れたのは、噴火の翌年だった。熱が引いた後の岩は脆い。内側の水分が蒸発して、空洞だけが残る。それが雨季の重みに耐えられなかった。斜面が一列にずれて、古い植生ごと盆地へ流れた。そこに住んでいた旧人の二つの家族は、移動した。北へ。群れの縄張りと重なる方向へ。

その者はあの冬から、右の肩が動かしにくい。噴火の夜、岩を抱えて逃げた。抱えたのは岩ではなく子どもだったが、その重さは似ていた。子どもは生きた。肩は歪んだまま戻らなかった。

群れの中心からは遠い場所に座る。火のそばには、長老の雄たちがいる。その者は少し離れた位置で、膝を抱えて焚き火の端を見ている。煙が横に流れる夜は、顔を背ける。それだけだ。

北からの旧人が、最初に姿を見せたのは春の初めだった。二つの影が岩の稜線に立った。群れの雄たちは声を上げた。旧人は動かなかった。少し大きい。腕が長い。額の形が違う。立ち去った。翌日また来た。

その者は遠くから見ていた。全員が声を上げている間、一人だけ黙っていた。旧人の目と、一瞬だけ線が交わった。視線が当たった、というよりも、同じものを見ていた。遠くの稜線。同じ稜線を。

三度目に旧人が来たとき、群れの一人が石を投げた。旧人は石を受けた場所で止まった。下顎を少し突き出した。それから向きを変えた。ゆっくりと、しかし走らずに、引いた。

群れの緊張はその後も続いた。斥候を出した。夜の見張りが増えた。火は大きく保たれた。その者は見張りに選ばれなかった。肩のせいだろうと、その者は思わなかった。理由を問う言葉を持っていないから、理由も持っていない。ただ、選ばれなかった。

雨季が来た。泥の匂いが強い。盆地の底に水が溜まる。その者は水際に立って、底の砂が揺れるのを見ていた。自分の顔が映る。映るが、それが自分だとは分からない。ただ、そこに何かがある。

水面の揺れが、ある方向へ伸びた。風がそちらから来ていた。その者は目をその方向へ向けた。岸の先、三本の割れた岩のそばに、草が一叢(ひとむら)生えている。濃い緑。乾いた周囲と比べると、そこだけ違う。地の下に水が通っているからだ。その者はそれを知らない。ただ、草を見た。

踏み分けた。草をかき分けた。指に湿り気があった。土が柔らかかった。その者は手のひらを土に押しつけた。何かが、ここにある。その感触は、しかし言葉にならなかった。

水は出なかった。深く掘る手段がなかった。その者は湿った手のひらを眺めた。それから舐めた。

与えるもの

草に光を落とした。風はそこから吹いた。

その者は草を踏み、土を触り、手を舐めた。

渡したのは場所だった。水のある場所。その者の手は正しく届いた。しかし掘れなかった。深く掘ることを知らなかった。

掘ることを知らない者に、場所だけを示すことの意味は、何か。

それでも次に渡す。渡す先は変わらない。掘り方が届く前に、この者が死ぬかもしれない。だとしても、場所を知った手が一つ増えた。手は次の者の手に触れる。触れるかもしれない。

伝播:DISTORTED 人口:445
与えるものの観察:湿った土を舐めた手が、水を覚えた
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第852話

紀元前295,750年

その者(33〜38歳)

盆地の端に、臭いがあった。

焦げた土と腐った草の混じった臭い。崩落から一年が過ぎても、あの斜面はまだ何かを吐き出している。その者は鼻を使って歩いた。腹が減っていた。足の裏が割れていた。それでも歩いた。

群れは東側の岩陰に固まっている。年老いた雄が二人、その外縁を仕切っていた。その者には入る隙間がない。食べ物は中心から渡される。端まで届くかどうかは、その日の獲物の量による。昨日は届かなかった。

臭いの先に、旧人の痕跡があった。

足跡ではない。草を踏み倒した跡。指の形が残る泥の塊。その者はそれを拾い、嗅いだ。古い。三日か四日前のものだ。旧人はもう遠ざかっている。だが方向が読めた。あちらに向かって歩いたということは、あちらに何かある。

水か。獲物か。

その者は草の倒れた方向に沿って歩き始めた。長い草が足を引っかく。気にしなかった。腹の感覚だけを持って進んだ。

小さな窪みに水が溜まっていた。雨水だ。澄んでいる。その者はうつ伏せになって飲んだ。水が喉を通るとき、腹の上部が少し緩んだ。それだけで十分だった。

水場の縁に、平たい石が一枚あった。

何かに使われた跡がある。縁が欠けている。欠け方が、叩いたものではない。削った跡だ。旧人のものか。その者は石を持ち上げた。重かった。重さが手に馴染んだ。何かに使えるかもしれないという感覚ではなく、ただ、手放したくなかった。

群れに戻ったとき、石を持ったまま戻った。

年老いた雄の一人が石を見た。何か言おうとして、やめた。その者は石を胸に抱えたまま、外縁に座った。

夜になった。火の周りに十数人が集まった。その者は輪の外から火を見た。炎が揺れるたびに、石の縁が光った。

第二の星

崩落が埋めた盆地の西側で、草が戻り始めた。表土が剥がれた場所から、先に根のある草が芽吹く。根のない草は遅れる。その差が、地面の模様になった。

人の群れはその盆地を避けていた。崩れた斜面は不安定で、雨が降るたびに小石が転がる。五年前に半数近くいた集団が、今は散在している。幾つかの小集団に分かれ、互いの距離を保ちながら動いている。

距離を保つことが対立になる。対立が食料の争いを生む。旧人も同じ水場を使う。旧人は多い。人はまだ少ない。少ない方が賢く立ち回るか、数を増やすか、あるいは別の場所を見つけるか。今はまだ誰もそれを選んでいない。ただ、それぞれが腹を満たすために歩いている。

第二の星は、その動きを照らす。草の戻る速さと、人の散らばる速さが、同じくらいだということを。

与えるもの

旧人が残した石の縁に、温かさが落ちた。

その者の手がそこに触れた。

手放さなかった。

それが何になるのか、まだわからない。だが手放さなかった。二十年、注意を向けさせようとしてきた。石を。水を。草の密さを。そのどれかが今夜、初めて腹の中に留まっているかもしれない。あるいはまた朝になれば忘れる。

忘れても、手の中には石が残る。

次に渡すべきは、石の縁の使い方か。それとも、まだ早いか。渡す前に問いが増える。問いが増えることを、渡し続けることと呼んでいいのか、まだわからない。

伝播:DISTORTED 人口:454
与えるものの観察:手放さなかった石。それだけが残った。
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第853話

紀元前295,745年

第二の星

大地の裂け目は、まだ閉じていなかった。

噴火から一年。斜面の黒は雨に洗われて灰色に変わり、その上に薄い緑が点々と現れていた。しかしそれは回復ではなく、別の何かの始まりだった。地下で何かが移動し続けていた。岩盤の深いところで圧力が積み重なり、時おり地面が低く唸った。人の耳には届かない振動が、足の裏を通って体に入ってきた。

群れは盆地の北側に移っていた。崩落した斜面から離れ、風下を避けて、浅い谷の壁に沿って野営していた。集団の数は増えていなかった。出産が続いていたが、生まれた子の多くが最初の乾季を越えなかった。老いた雌が一人、腹を抱えたまま動けなくなり、二日後に動かなくなった。誰も声を上げなかった。群れはその場所を離れた。

北の斜面の向こうで、旧人の集団が動いていた。

彼らはこの盆地に以前からいた。背が高く、眉の骨が張り出し、声の出し方が違った。同じ水場を使っていたが、時間をずらして近づいた。互いに背を向け、存在を無視するように振る舞った。それが長い均衡だった。

しかし均衡は変わり始めていた。

旧人の集団が南に押されていた。北から別の何かが来たのか、食料が減ったのか、その理由はわからなかった。ただ彼らの足跡が、以前より深く、南に向かって増えていた。水場での時間のずれが縮まっていた。ある朝、旧人の若い個体と、群れの雄が水場で向き合った。どちらも動かなかった。長い間、二つの影が水面に並んでいた。やがて旧人が後退した。しかしゆっくりと。怒りではなく、疲れのような動きで。

群れの中で、緊張が別の形を取り始めていた。

群れの長老格の雄が、周縁の者たちを遠ざけるような動きをするようになっていた。食料の分配に変化があった。以前は端の者にも順番が来ていた。今は来ない日があった。周縁をうろつく若い雄たちは、遠くから集団の動きを見ていた。近づけば追い払われ、離れれば置いていかれた。そのどちらでもない場所を探して、日が暮れるまで歩いた。

夜、谷壁に沿って風が降りてきた。

火の周りに集まった群れの声が、岩に反射して奇妙に重なった。踊るような動きをする者がいた。他の者がそれを見ていた。何かを呼ぼうとしているのか、ただ体を動かしたいのか、境界は曖昧だった。しかし声が揃う瞬間があった。意図のない同期。それが繰り返されると、何かが場に残った。消えない何かが。

大地はまだ唸っていた。

与えるもの

温度が変わった場所があった。

谷壁の足元、岩が重なる隙間から、昼間よりわずかに暖かい空気が漏れていた。その場所に光が長く落ちた。その者は足を止め、岩の隙間を見た。しばらくしてから、別の方向に歩き去った。

渡せたかどうかわからない。しかし暖かさを感じた体は、夜になってその場所に戻ってきた。意図ではなく、体が覚えていた。体が覚えることと、知ることの違いは何か。次に渡すべきは、もっと遠くを見せることかもしれない。

その者(38〜43歳)

夜、体が岩の隙間に戻っていた。

腹の中でまだ昼間の暖かさが残っているような気がした。岩に背を押しつけた。群れの火が遠くに見えた。声が聞こえた。自分は声の外にいた。それでも体は、ここが良いと言っていた。

夜が深くなった。

伝播:HERESY 人口:445
与えるものの観察:体が覚えた。知ったのではない。
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第854話

紀元前295,740年

第二の星

大地の北側では、河が二股に分かれている。片方は砂地に消え、もう片方は岩盤の上を走る。岩の上を流れる水は濁らない。砂地に消える水は戻らない。その違いを知っている者は、この地にまだいない。

南の密林では、一つの集団が西へ動いていた。昨年の乾季が長すぎた。木の実の殻が早く落ちた。彼らは追う対象を変えながら歩いている。どこへ向かうかを彼ら自身は知らない。

草原の縁では旧人と新しい者が三日間、同じ水場を使っていた。どちらも互いを避けながら、水を飲んだ。旧人の子どもが新しい者の焚き火の煙を見て、動きを止めた。新しい者の女が旧人の子どもを一秒だけ見た。それだけだった。

始まりの大地では、集団の内側に静かな線が引かれていた。誰も声に出していない。しかし誰もがその線の位置を知っていた。

草原は乾いていた。風が止まる夜に、焚き火の煙が垂直に立った。

与えるもの

群れの端に座るこの者の背後で、風が止んだ。

焚き火の煙がある方向にだけ、熱が残った。集団の中心から離れるほど、その熱は薄くなる。それをこの者の皮膚が拾った。

渡すつもりで流した熱だった。近づくべきか遠ざかるべきかを、皮膚で知れるか。この者は止まった。それだけだ。止まったことが何かを変えるか変えないか、まだわからない。しかし次には、音を使う。

その者(43〜48歳)

焚き火から遠い場所が、この者の居場所だった。

近づけば誰かが唸る。誰かが肩を入れてくる。この者は退く。退けばまた近づく。その繰り返しが何年も続いていた。火の熱が届かない場所で眠る夜が続いた。背中が冷えた。それでも近づかなかった。

ある夜、背後から熱が来た。

振り返っても何もない。焚き火はずっと前方にある。しかし背中が温かかった。その温度の方向に、食料の残りが置かれていることをこの者は知っていた。誰かが使ったあとの、骨だけになった場所。しかし昼間に何かが落ちていたはずだった。

この者は動かなかった。

それから、また動かなかった。

背中の温度が消えた後も、しばらく同じ姿勢でいた。

翌朝、食料の置き場に近づいた。他の者が起きる前に。地面に、木の実の殻が二つあった。食べられる中身がまだあった。この者はそれを口に入れた。咀嚼して、飲み込んだ。次に咀嚼して、飲み込んだ。

群れの周縁には、この者の知らない視線があった。

誰かがそれを見ていた。どこから来たのかを問う言葉を、この者は持たなかった。ただ食べた。食べ終わって、空の殻を地面に置いた。

置いてから、立ち上がった。

その日の後半、この者の居場所がさらに端に押された。唸り声は一つではなかった。複数の方向から来た。この者は後退した。集団の端の、端の、その外側に出た。

火が見えた。火の周りに人の影が動いていた。

この者はその輪郭を見ていた。長い時間、見ていた。入れなかった。入れないことを、この者は知っていた。しかし視線は外せなかった。

夜、この者は一人で横になった。

寒さが来る前に体を丸めた。草を手繰り寄せた。草の量が足りなかった。それでも手を動かし続けた。同じ場所に同じ草を重ねた。

重ねた草の山の中に顔を埋めた。

体の熱だけが残った。

伝播:HERESY 人口:439
与えるものの観察:熱を使った。止まった。それで十分か。
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第855話

紀元前295,735年

第二の星とその者(48〜53歳)

北の台地では、草が東へなびく日が続いた。

風が一方向から来ると、草の根が片側に傾く。傾いた方向に水場があった。しかし水場を知っている者は少なく、知っていた者は先の季節に崖から落ちた。知識は体とともに消えた。

その者は台地の端に立っていた。四十八歳。足の裏の皮が厚く、歩くとき音がしない。群れの中では若い方の雄だったが、狩りには加われなかった。理由は問わなかった。問う言葉がなかった。

大地の南では、旧人の一群が岩の陰に集まって眠った。人類の群れとは三日分の距離があった。どちらも相手を知っていた。知っていたが近づかなかった。その距離が均衡だった。

その者は朝のうちに川沿いを歩いた。石を拾い、舐めた。置いた。別の石を拾い、また舐めた。これを繰り返すことに名前はなかった。ただ繰り返した。

群れでは子が生まれた。生まれた翌日に別の子が死んだ。母親は死んだ子を一日抱いていた。それから置いた。

その者は岩棚の下に座った。正午の光が斜めに差し込んでいた。光の端が岩の割れ目に触れ、そこから微かな熱気が上がってきた。岩の奥が温かかった。

その者の手が自然に割れ目に向いた。押し込むことはしなかった。ただ掌を近づけた。熱があった。引いた。また近づけた。

五年のうちに三度、旧人と人類の群れが同じ水場に居合わせた。最初の二度は声を立てて距離を取った。三度目は沈黙だった。互いに水を飲み、互いに去った。何も起きなかった。何も起きなかったことが、何かだったかもしれない。ここに言葉はない。

その者は五十を過ぎ、歩く速度が少し落ちた。しかし目は悪くなっていなかった。

ある夕暮れ、群れの外れで若い雄と雌が争った。声が大きかった。その者はしばらく見ていた。それから離れた。離れながら、腹の下が重くなる感覚があった。それが何かはわからなかった。

北の台地に干ばつが来た。草が黄ばんだ。水場のひとつが縮んだ。群れは南へ動いた。動くとき、年寄りのうちの一人が遅れた。振り返った者はいなかった。遅れた者は次の朝、動かなくなった。草の中に横たわり、そのまま草の色になっていった。

その者は南への移動の列の端を歩いた。足の裏の皮が砂を踏む。踏むたびに音がしない。音がしないことが、自分がそこにいることの証明だった。

新しい水場を群れが見つけた。岩盤の上を流れる水で、濁っていなかった。その者は最後に飲んだ。最後に飲むことが習慣だったわけではないが、いつもそうなった。

五十三歳の終わりに、その者の右膝が腫れ始めた。歩くたびに熱を持った。熱は引かなかった。

与えるもの

岩の割れ目から上がる熱気に、掌を向けさせた。

この者は引いた。また近づけた。引いた。近づけた。それを七度繰り返した。

七度目に何かを理解したかどうか、わからない。ただ七度繰り返したことは、六度で止まることとは違う。その違いが何かを問うより先に、膝が腫れた。渡すべき次のものを、まだ探している。

伝播:NOISE 人口:455
与えるものの観察:七度目の手が、六度目と違ったかもしれない
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第856話

紀元前295,730年

第二の星

草が根まで水を飲んでいる季節だった。

台地の北縁では、岩の割れ目から水が滲み出て、そこに小さな緑が広がった。獣がその緑を踏みにじり、また次の雨が草の種を運んだ。踏まれては生え、生えては踏まれた。

遥か東では、大きな川が蛇行していた。川の両岸に、二つの集団がいた。顔つきが似ていたが、互いを認識するための音が違った。一方は喉の奥から低く鳴らし、一方は口先で弾いた。川を渡る者はまれで、渡った者は帰ってこないことが多かった。しかし川の水は共有されていた。川には帰属がなかった。

台地の南では、子が増えていた。

母親の数が増え、子の泣き声が重なった。かつて五人で動いていた集団が、三倍ほどになっていた。動きが遅くなった。獲物を逃すことが増えた。食べる口が増え、狩る速さが追いつかなかった。それでも誰かが飢えて倒れることはなかった。今は、そういう季節だった。

草が揺れ、獣が走り、子が泣き、火が燃え続けた。

すべては同時に起きていた。

与えるもの

足元の土が、乾いた。

集団の中央から離れたところに、乾いた区画があった。水はけがよく、雨の後もぬかるまない場所。夜に体を横たえると、冷えにくい。

その土の上に、光が長く残った。

この者は光の端に立ち、地面を見た。しばらく見た。それから集団の方へ歩いた。

どこかで同じことが起きたはずだ、と与えるものは思う。形の違う場所で、違う体が、同じように光の端に立ち、同じように踵を返した。届いたのかどうか、届かなかったのかどうか、答えは出ない。しかし次に渡すべきものは、もうある。この場所の記憶ではなく、この者が立ち返った理由の、その手前にあるものを。

その者(53〜58歳)

五十三歳。

群れの端に座っていた。火から遠い場所だった。追い払われたわけではなく、自然とそこにいた。長老たちが火を囲み、若い雄たちがその外側に、女たちと子がその間に散らばっていた。この者の場所は、どの輪にも属さなかった。

草の匂いが変わった夜があった。

雨ではない。土ではない。何か別の、重い匂い。この者は鼻を持ち上げ、首を回した。他の誰も動いていなかった。火の前の長老が話し、若い雄が笑い声を出した。匂いはすぐに消えた。

五十四歳。

水場で、別の集団の痕跡を見た。足跡が残っていた。自分たちのものではなかった。骨格が違う。踵の形が。足の幅が。この者は足跡の縁をなぞった。指の腹に、湿った土の感触があった。踏んだものの重さが、土にまだ残っていた。

誰かに伝えたかった。しかし音がまとまらなかった。「違う、重い、踵、ここ」とだけ出た。

長老は振り返らなかった。

五十五歳。

子が死んだ。この者の子ではなく、群れの子だった。三歳ほどの雌。咳が続いていたのを知っていた。咳の音が止んだ日に、母親が声を出した。長く、低い声だった。他の女たちが集まり、その声に混ざった。この者は遠くから聞いていた。

夜、地面に手をついた。指を広げて、土の冷たさを感じた。子の声はもうなかった。

五十六歳。

旧人の一人と目が合った。

水場の近くだった。相手はこちらを見て、動かなかった。この者も動かなかった。額の形が違った。眉の出方が違った。しかし目の動きが、似ていると思った。何を似ていると判断したのか、この者に言葉はなかった。ただ、そう思った。

相手が先に目を外した。水を飲んで、去った。

五十七歳。

集団の中で、知ってはいけないことがあると、体で分かるようになっていた。

誰がどこで何を見つけたか。誰が誰と食べたか。長老の息子がどの方向を怖れているか。この者は何も話さなかった。話す言葉もなかった。ただ見ていた。見た量が積み上がっていた。

長老がある夜、この者の方を向いた。何も言わなかった。ただ向いた。

それからしばらくして、若い雄たちがこの者の近くにいることが増えた。

五十八歳。

朝、目が覚めると周囲に三人いた。いつもそこに寝ていない者たちだった。

起き上がろうとしたとき、重いものが肩に当たった。

転んだ。地面が顔に近づいた。土の匂いがした。草の根の、切れる音がした。

体が動かなくなる前に、この者は手を広げた。

指の先に、乾いた土があった。雨の後もぬかるまない場所の、あの土と同じ感触だった。

光は、まだそこに落ちていたかもしれない。

伝播:HERESY 人口:562
与えるものの観察:光の端に立ち、踵を返した。その手前に何があるか。
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第857話

紀元前295,725年

その者(58歳)

雨が長く続いた五年だった。

土は締まらず、いつも何かを含んでいた。水気、根の腐った匂い、小さな虫の動き。その者は群れの端に座り、空を見上げることが多くなった。若い雄たちが走り去る方向を、首だけで追った。

足が言うことを聞かなくなったのは、いつからだったか。

膝ではない。腰でもない。脚の付け根から何かが抜けていくような、そういう感じだった。朝、起き上がるとき、両腕で体を持ち上げなければならなくなった。それをするとき、その者は声を出さなかった。

子どもたちが近くを走り回った。群れは大きくなっていた。食い物は十分あった。雨のたびに実が落ち、獣が水辺に来た。若い者たちは獲物を引きずって戻り、何かを叫んだ。その者は火の近くに座って、その声を聞いた。

光が西に傾いたころ、その者は立ち上がろうとして、できなかった。

手が草をつかんだ。草が抜けた。また別の草をつかんだ。それも抜けた。その者はそのまま横向きに倒れ、しばらく空を見ていた。

雲が流れていた。白くも灰色でもなく、光を受けて黄みがかっていた。その者はそれを見ていた。何かを思っていたかどうか、わからない。

夜になった。

火の光が届かない場所だった。草の上だった。体が冷えていくのを、その者はどこかで感じていたかもしれない。群れの声が遠くに聞こえた。笑い声のような何かだった。

夜が深くなって、その声も消えた。

その者の体から、力がゆっくりと出ていった。波ではなく、砂が流れるように。長い時間をかけて。草の上で、体が少しずつ重くなり、やがて草と区別がつかなくなるほど静かになった。

第二の星

同じ夜、大地の別の場所では、旧人の一群が崖の下に火を焚いていた。炎が岩壁に揺れた。子どもが一人、その影を見て手を伸ばした。影は逃げた。子どもは手を伸ばしつづけた。誰もそれを止めなかった。豊穣の季節の中で、命は増え、増えた分だけ何かを始めた。

与えるもの

渡し先が変わった。

伝播:HERESY 人口:694
与えるものの観察:渡すことは続く。届くかどうかは別の話だ。
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第858話

紀元前295,720年

その者(10〜15歳)

泥の上に、足跡があった。

その者はしゃがんで、縁を指でなぞった。大きかった。自分の手のひらより広い。踵が深く沈んでいて、土の柔らかさが伝わった。昨日の雨のあと。まだ新しい。

群れの者たちは、別の方角へ動いていた。木の実を採りに行く声。母親が子を呼ぶ声。若い雄が何か笑いながら走る足音。その者はそちらを見なかった。足跡を見ていた。

足跡は、森の奥へ続いていた。

知らない方向だった。群れが行かない場所。古い雄が、首を振って示す場所。行くな、という身振りをする場所。でも今日は誰もここにいなかった。

その者は立ち上がって、奥を見た。

木々が重なって、光が届かない場所があった。けれどその暗がりの奥から、何かが届いてきた。音ではない。匂いでもない。水の気配、というよりは、濡れた石の冷たさ、というよりは——何か。その者には名前がなかった。

一歩、踏み出した。

草が足裏を押した。土は沈んだ。もう一歩。足跡をなぞるのではなく、その隣を歩いた。なぜかはわからなかった。ただ、そうした。

しばらく歩いて、木が途切れた。

小さな窪みがあった。水が溜まっていた。澄んでいた。その縁に、獣の骨が落ちていた。古い骨。白くなった骨。歯形がついていた。誰かが、ここで食べたのだ——その者の集団ではない誰かが。

その者は水を見た。

水の中に自分の顔があった。近くに寄ると、別の顔も映った気がした。揺れて、消えた。風もないのに、水面が動いた。

座った。

ずっと座っていた。日が傾いた。腹が空いた。それでも動かなかった。

群れの声が聞こえた。遠い。名を呼ぶ声ではなかった。でも叫び声に似たものがあった。その者は立ち上がって、森の方を見た。

走る音がした。複数の足。

その者は動かなかった。

次の瞬間、若い雄が二人、木の間から飛び出してきた。手に石を持っていた。顔が赤かった。呼吸が荒かった。二人はその者を見た。立ち止まった。何か言った。その者には聞き取れなかった。

その者は一歩退いた。

若い雄の一人が、石を持ったまま近づいてきた。

その者の手が、水面の方を向いた。指を伸ばした。でも、そこには何もなかった。水だけがあった。

若い雄が、もう一歩近づいた。

第二の星

雨が続いた五年間、大地は飽和していた。

北の乾いた高原では、地面の割れ目が塞がれ、草が戻ってきた。かつて何十頭もの獣が骨になった窪みに、水が溜まり、小鳥が来て、卵を産んだ。南の密林では、木の根が土を押し広げ、道のようなものが消えて、光が届かなくなった。東の岩場では、苔が岩を覆い、足を置く場所が変わった。

集団は増えていた。

子が生まれ、育ち、また子を産んだ。子を失う率は変わらなかったが、産まれる数が多かった。食べるものがあった。水があった。追う必要のある獣が、傍にいた。

豊かさは、境界を押した。

ひとつの集団が広がると、別の集団の端と重なった。どちらも意図していなかった。けれど重なりは摩擦を生んだ。石の置き場所。水場の使い方。誰も言葉で決めていなかった分、体で決めることになった。

始まりの大地では、このころ、知らない場所を歩く者が増えた。境界の近くで、子どもが消えることがあった。戻る者もいた。戻らない者もいた。

どちらも、水を持っていなかった。

与えるもの

水面が揺れた。

風はなかった。それでも揺れた——その者が近づいたから。その者の息が、水に触れたから。

この者に注意を向けさせたのは、それだった。水の冷たさ。骨のそばの、静かな水。

この者は座って、水を見た。長い時間、見た。

水に何を見たのか、私にはわからない。自分の顔か。揺れる光か。何か別のものか。

でも、見ていた。見続けることができた——それだけは、渡せたのかもしれない。

若い雄が来た。石を持って。

次に渡すものを、私はまだ知らない。渡せる場所が、あるかどうかも。

伝播:HERESY 人口:857
与えるものの観察:水が揺れた。この者は見続けた。
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第859話

紀元前295,715年

第二の星

乾季が終わった。

草原の南端、木が密集する境目のあたり、集団が十五人ほど野営している。焚き火の煙が低く流れ、風が草の上を渡っている。いつもより煙が多い。肉を焼いている。獣を仕留めた日の翌朝の気配だ。

その集団から三日歩いた先、旧人たちが岩棚の下に身を寄せている。数は多くない。七人か八人。子どもの姿は一人だけだ。旧人の手のひらは広く、額の骨が前に突き出ている。彼らの声は低く、響く。言葉とも呼べぬが、沈黙でもない。

さらに遠く、北の丘陵。別の集団が斜面を歩いている。何かを追っている。または、何かから逃げている。判別できない。風の向きがそう見せる。

豊穣が長く続いている。川には魚がいる。木の実が落ちている。集団の人数は増えた。腹の膨らんだ者が三人、木陰に座っている。

しかし夜になると、声が荒くなる。誰かと誰かの間に、何かが積み重なっている。

草は揺れ続ける。火は燃え続ける。第二の星は、そのどちらにも等しく光を当てる。

与えるもの

木の実が一つ、枝から落ちた。

地面に当たった音は小さかった。その者は音を聞いた。駆け寄った。実を拾い、においを嗅いだ。それから、別の実と並べた。

食べる前に、並べた。

与えるものは問う。並べることと、渡すことは、同じ行為か。渡しきれていないものが、また積み重なっていく。次に見せるべきものが、まだある。

その者(15〜20歳)

木の実を二つ、地面に置いた。

一つは黒ずんでいる。もう一つは赤い。その者は両方のにおいを交互に嗅いだ。黒い方を近くに、赤い方を少し遠くに置き直した。理由はない。手がそう動いた。

集団の中の年長の男が何かを叫んでいる。別の男に向かって。声に角がある。その者は顔を上げなかった。また木の実に目を落とした。

黒い実の側面に、小さな穴があった。虫に食われていた。爪で広げると、中が白かった。

その者は白いものを舌先で触れた。

苦かった。

吐き出した。しかし手のひらに残った白いものを、もう一度見た。捨てなかった。

男たちの声が大きくなった。誰かが地面を蹴った音がした。その者は木の実を両方、手のひらに乗せて立ち上がった。

走らなかった。歩いた。

集団の端まで歩いて、そこに座った。背中を木に当てて。手のひらの上の二つの実を、ただ見ていた。

夕方になった。赤い実を食べた。黒い実は、置いたままにした。

伝播:HERESY 人口:820
与えるものの観察:並べた。それだけで十分か、まだわからない。
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第860話

紀元前295,710年

第二の星

夜が終わらないうちに、水が来た。

音が先だった。川の方向から、岩が転がるのとも違う、空気そのものが揺れるような音。低く、持続する音。それが地面に届く前に、鳥たちが一斉に木を離れた。方向を持たない飛び方だった。どこへ行くかわからないまま、ただ上へ上へと散った。

川がある。大地の低い筋を流れ、乾季には細くなり、雨が重なれば広がる川。その川が、上流で一度に膨らんだ。山の斜面を削りながら、平地へ向かって広がった。水が木を倒す音がした。木が倒れる前に根が浮き、根が浮く前に土が動いた。全てが一つの動きだった。

始まりの大地の海岸線から内陸にかけて、低地に暮らしていた者たちが水に飲まれた。眠っていた者がいた。火の番をしていた者がいた。子を抱いていた者がいた。水は選ばなかった。水は低い場所へ流れただけだった。

高台へ逃げた者たちがいる。逃げながら振り返った者がいる。振り返らなかった者がいる。高台に着いて、隣にいるはずの者がいないことに気づいた者がいる。気づいた後、声を出した者と、出さなかった者がいる。

夜明けに、水は引き始めた。

土が変わっていた。押し流された草と木と泥が、元あった場所とは別の場所に積み重なっていた。水の中に何かが浮いていた。集団のものだったものが、誰のものでもなくなっていた。

遠く離れた乾いた台地では、旧人の一群が夜明けの光の中で眠っていた。水の音は届かなかった。彼らは何も知らないまま、朝を迎えた。

集団から五人に一人ほどが消えた。消えたのではなく、水が行った場所へ連れて行かれた。残った者たちは高台に集まり、互いの顔を見た。

与えるもの

水が引いた後の泥の中に、熱が残っていた。焚き火の熾きが、水の下で生き延びていた。

その焚き火に、風の温かさがそっと当たった。

この者は、その熾きの方を向いた。しゃがんだ。手をかざした。

熾きは消えていなかった。

渡したのは、水の後でも火が残ることへの気づきだった。次に渡すべきものは何か。この者は消えない。それだけが、今わかっていることだ。

その者(20〜25歳)

泥が足首まである。

焚き火の場所は変わっていた。水が移動させた。

それでも、熾きがあった。

しゃがんで、しばらく、熾きを見ていた。手をかざした。温かかった。

誰かが隣に来て、同じように手をかざした。二人で、何も言わなかった。

伝播:HERESY 人口:633
与えるものの観察:水の後でも、火は残ることがある。
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第861話

紀元前295,705年

第二の星

洪水のあとの大地は、川筋が変わっていた。

泥が乾く前に、別の方向から風が来た。その風は湿っていた。高地の岩肌に沿って降りてきた風で、低地の草を倒し、虫を押し流し、集団の幕営地の煙を横向きに曲げた。

大地の別の場所では、旧人の群れが岸辺に立っていた。川幅が広がり、渡れなかった。彼らは向こう岸を見ていた。こちら岸を見ていた。何も起きなかった。岸に背を向けて、山の方角へ去った。

さらに遠い、岩だらけの台地では、群れが二つに分かれていた。きっかけは食物だった。水場に近い者と遠い者。煙の上がる場所が、以前より離れた。夜、それぞれの火が互いの煙を見ていた。どちらの煙もおなじ空へ消えた。

洪水で増えた水が引いた土に、草が早く戻った。根が残っていたからだ。獣は先に戻ってきた。草の匂いを嗅いで立ち止まり、食べ、また歩いた。人より早く戻ってきた。

水が減った川底に、新しい石が露出していた。平たく、薄く、角がある石。誰もまだそれを拾っていなかった。

与えるもの

陽が南に傾いていた。そこへ光を落とした。

石の角に光が当たって、短い影がまっすぐ伸びた。その者は影に気づいた。石には触らなかった。

——もう一度、同じ者に届いた。届いたのか。それとも光がそこにあっただけなのか。次に渡すものは、石ではない気がする。けれど何かが重い。渡したあとに何が起きるかを、知っている。知っているから、重い。

その者(25〜30歳)

洪水のあと、集団は川から離れた場所に移った。

その者は泥の跡をたどって元の寝場所まで歩いた。何も残っていなかった。石が二つあるはずの場所に、一つしかなかった。もう一つはどこへ行ったのかわからなかった。

川底に降りた。水が半分になっていた。露出した石の列が、砂の中から角を出していた。その者はしゃがんだ。指先で一つを触った。ひんやりしていた。平たくて薄かった。

持ち上げた。

両手に乗せて重さを感じた。軽かった。軽いのに鋭かった。親指の腹で縁を撫でると、皮が少し白くなった。切れてはいない。でも次は切れると思った。

その者はそれを持って戻った。

幕営地の端で、年嵩の男が何かを割っていた。大きな石で小さな石を叩いていた。鈍い音がして、欠片が飛んだ。男はその欠片を拾わなかった。

その者は川底の石を地面に置いて、隣に座った。男は一度だけその者を見た。また叩いた。

夜が来た。

火の周りに集まった。ある者が何かを言い、別の者が答えた。短い音の応酬。その者にはわかる部分とわからない部分があった。わかった部分は、誰かが誰かに怒っているということだった。

その者は石を膝の上に置いて、火を見ていた。

炎が低くなって、熾きが赤くなった。隣に座っていた若い女が、薪を一本くべた。炎が戻った。その女は何も言わなかった。その者も何も言わなかった。

明け方、集団の一部が川の上流へ向かった。食物を探しに行くことはわかった。その者は残った。

持ってきた石を、今日もまた触った。縁が鋭いまま残っていた。

何かを切ることができると思った。でも何を切るのか、その者には言葉がなかった。思いつく形をいくつか頭の中で並べた。どれも言葉にならなかった。

地面に置いた。

また拾った。

伝播:HERESY 人口:611
与えるものの観察:届いたかもしれない。重さはまだ残る。
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第862話

紀元前295,700年

その者(30〜31歳)

熱が出たのは、雨が続いた夜のあとだった。

その者は集団の端に寝ていた。雨のあいだも、晴れたあとも、同じ場所に。体が重かった。食べなかった。口の端に乾いた汚れがついていたが、拭う力がなかった。

子どもたちが近くを通った。その者は目だけで追った。
子どもの一人が立ち止まった。何かを感じたのか、少しのあいだそこにいた。
それから走って行った。

陽が高くなった。地面が乾いた。虫が鳴いた。

その者は仰向けになった。空を見た。雲が動いていた。速くも遅くもなく、ただ流れていた。

指が土をつかんだ。ゆっくり、握った。
土はぼろぼろと指のあいだから落ちた。

また握った。
また落ちた。

遠くで誰かが何かを叩く音がした。石と石が当たる音。その者はそちらに顔を向けなかった。ただ音を聞いた。

夕方になった。

集団の誰かが水を持ってきた。その者の口のそばに置いた。匂いをかいだ。飲まなかった。

夜になった。
火の光が揺れた。

その者の手が土の上で開いた。
閉じなかった。

第二の星

川の西側では、旧人の群れがひとつ、岸辺を離れていた。夜の草原を、音もなく移動していた。彼らも何かを感じていたのかもしれない。感じていなかったのかもしれない。草が揺れた。それだけだった。

与えるもの

風が向きを変えた。糸は別の誰かへ向かった。

伝播:NOISE 人口:625
与えるものの観察:握った土は、また落ちた。
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第863話

紀元前295,695年

第二の星

東の稜線に雪はなかった。五年まえに溶けた。それ以来、夏は長く、川は浅く、果実は例年より多く実った。

集団は増えた。子が生まれ、育った。以前なら冬を越せなかった者が越えた。肉が余ることがあった。余った肉を誰が持つかで、声が荒くなることがあった。

北の斜面に別の集団がいた。言葉は違う。顔の輪郭も少し違う。だが火を見れば同じように近づいた。その集団と、東の集団は、同じ水場を使っていた。雨季には水が十分あった。乾季には足りなかった。

乾季に、石が投げられた。

遠く南では、別の種の者たちが岩陰に座っていた。彼らの額は低く、眉は厚かった。彼らは何も投げなかった。ただ、火の前に座っていた。雨を見ていた。同じ雨が、北の斜面にも、東の集団にも、降っていた。

この星は区別しなかった。雨を降らせた。果実を熟らせた。石を投げさせた。

古老が、管理している道具の数を確かめた。減っていた。

与えるもの

糸が繋がった。

五十四歳の体。指の節が太くなっている。記憶は深い。

乾いた石の匂いが風に混じった。その者の鼻がわずかに動いた。
その者は立ち上がり、道具の置き場から最も重い打製石器を手に取った。
——重さを選ぶのか。それとも、重さで安心を買おうとしているのか。次に渡すべきものが、まだ見えない。

その者(54〜59歳)

五十四歳。

道具は崖の下の岩棚に置いてある。数えるのは朝の仕事だった。昨日より一つ少ない。誰かが持ち出した。返さなかった。

その者は何も言わなかった。言えなかったのではない。言わなかった。

集団が大きくなると、減るものが増えた。食べ物ではなく、別のものが。その者はそれに名前を持っていなかった。ただ、何かが変わったと感じていた。体の奥が、低く鳴るような感じ。

夜、焚き火の外側に若い者たちが集まっていた。その者は火の近くにいた。老いた体には火が要った。

若い者が笑った。腕を上げた。別の若い者が顔をそむけた。

その者は打製石器を膝の上に置いた。重かった。その重さを確かめるように、何度か手のひらで押さえた。

石には前の者の手の脂が染みていた。もっと前の者の、かもしれない。その者はそれを知らなかった。ただ、石が手になじんだ。

五十六歳の冬。北の集団との争いで、若い男が二人死んだ。石を頭に受けて。その者は遺体を見た。膝をついた。立った。

道具を数えた。また減っていた。

五十八歳。乾季。水場に向かった若い者が戻らなかった。二日後に、川の下流で見つかった。水の中に沈んでいた。傷があった。石の傷だった。

その者は川を見た。水は流れていた。止まらなかった。

集団の中に、その者を見る目が変わってきた。古老は何かを知っている。知りすぎている。その視線に名前はなかった。ただ、焚き火の場所が変わった。その者が近づくと、若い者たちの声が小さくなった。

打製石器を磨いた。刃を確かめた。

五十九歳の春の終わり。その者が崖の道を歩いていた。一人で。道具の置き場へ向かう、いつもの朝の道だった。

後ろから、足音がした。

その者は振り返らなかった。

岩棚の手前で、足が止まった。石が落ちてきた。一つではなかった。

体が崖から外へ出た。

空が見えた。それだけだった。

伝播:HERESY 人口:607
与えるものの観察:重さで安心を買おうとした。渡す先が見えなかった。
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第864話

紀元前295,690年

その者(59〜60歳)

岩棚から落ちたのは、日が傾いたころだった。

体が地面に当たった音は、自分では聞こえなかった。気づいたときには横を向いて寝ていた。頬に砂。口の中に土の味。右の脇腹に何かが刺さるような熱さがあったが、動こうとすると熱さが広がるだけだった。

若い者が二人、脇に手を差し込んで洞窟まで運んだ。

その者は声を出さなかった。痛みがないわけではなかった。ただ声が出なかった。

三日、横になった。

脇腹の熱さは引かなかった。呼吸をするたびに右側だけ動きが悪かった。骨が折れているのかどうか、自分にはわからなかった。ただ、浅く吸えば痛みは小さかった。それだけはわかった。

水を持ってきた者がいた。誰だったか、顔は見えなかった。

火の近くに寝かされていた。煙の匂い。炭の音。夜になると冷える季節で、火の管理をする者が一晩中そこにいた。

その者は道具の場所を知っていた。

それが気になった。傷の痛みより先に、それが頭の中にあった。どの石がどの場所にあるか。どれが硬く、どれが欠けやすいか。割るときの角度。叩く位置。それを誰かに伝えなければならないと思った。言葉で伝えるのは難しかった。指で示せばよかった。しかし体が起き上がらなかった。

四日目、若い男が来た。

その者の手が、男の手を引いた。薄暗い洞窟の奥へ、ゆっくりと。男は戸惑ったが、引かれるまま歩いた。

その者は岩の割れ目の前で止まった。そこに石が積まれていた。大小、形の違う石が、整然とではなく、ただそこに置かれていた。

その者は一つを取った。重さのある、平たい石だった。男の手に置いた。

男は受け取った。

その者は何も言わなかった。言葉がなかった。ただ男の目を見た。男も見た。

それだけだった。

七日目。

脇腹の熱さが上に広がっていた。胸まで来ていた。呼吸が浅くなった。浅くしか吸えなかった。

食べ物は三日食べていなかった。水だけ飲んだ。それも少し。

集団の中で、何かが起きていた。声が荒かった。外で誰かが叫んだ。夜、争う音がした。その者には見えなかった。聞こえるだけだった。

若い男が来なかった。

誰も来なかった。

夜が明ける前に、呼吸が変わった。

一度大きく吸った。それきり、次が来なかった。

体から力が抜けた。砂の上に横たわったまま、動かなくなった。

火はまだ燃えていた。

第二の星

同じ夜、北の台地では乾いた風が草を横倒しにしていた。水場の近くに旧人の一群がいた。火を持たず、石を持たず、互いの体温で眠っていた。南の密林では何かが木の上で動いた。葉が揺れ、また静かになった。世界は続いていた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:590
与えるものの観察:手が石を渡した。届いたかはわからない。