2033年、人類の旅

「紀元前295,685年〜紀元前295,565年」第865話〜第888話

Day 37 — 2026/05/09

読了時間 約58分

第865話

紀元前295,685年

第二の星

雨が多く降った五年だった。

草原の端まで緑が伸び、水場は岩の割れ目からも滲み出た。獣の群れが戻ってきた。子が生まれた。また生まれた。集団の端が見えなくなるほど、人が増えた。

同じころ、遥か遠くの高地では別の群れが動いていた。旧人の足跡が湿った土に深く残っていた。彼らは集団とは違う顔の形をしていたが、同じように子を抱いていた。同じように火を持っていた。ある川の渡し場で、両者は出会い、互いを見た。どちらも岩を持っていた。どちらも岩を使わなかった。

川の南側では、骨と皮で作られた小屋が初めて三つ並んだ。移動をやめた者たちがいた。

始まりの大地の空は、その五年間、ほとんど晴れていた。

雲が来ても、雨を降らせてから去った。

与えるもの

糸が繋がった。

この者は火の番人だ。燃え種を持って歩く。種が消えたら全てが終わると、言葉なしに知っている。

豊かな季節の中で、この者の注意が散漫になっていることに気づいた。食べるものは多い。眠れる。争いも今は遠い。糸は繋がっているが、引きどころがない。

炎が揺れた。風ではなかった。この者の呼気が当たっただけだ。それでも炎は揺れ、影が壁を走った。その影が、一瞬、鳥の形に見えた。

この者は影を見た。

それから火種に木を足した。

影のことを見たか、見なかったか。両方だと思う。受け取ったかどうかではなく、受け取れる形で渡せたかどうかを、私はまだ知らない。次は何を渡すべきか。豊かさの中で眠っていく注意を、どこに向けさせるか。

その者(32〜37歳)

肉が余った。

珍しいことだった。食べてもまだ残っていた。その者は残りを岩の陰に置いた。誰かが取りに来るかもしれないと思ったのかもしれないし、何も考えていなかったかもしれない。

火の番をした。

朝は燃え種を確かめ、夜は炎を小さく保ち続けた。集団が移動するとき、燃え種を枯れ草で包み、胸の前に抱えた。これが消えたら終わりだと、誰かに教わったわけではなかった。体が知っていた。

子どもが二人、この五年で生まれた。どちらもその者の子ではないが、火の近くで育った。ひとりは走り回るようになった。もうひとりはまだ抱かれている。

ある夜、影が壁を走った。

その者は動かなかった。炎を見た。炎は揺れていた。また見た。

岩を拾った。置いた。

炎に手をかざした。熱かった。手を引いた。

また手をかざした。

眠れなかった。理由はわからなかった。外に出て夜の草の匂いを嗅いだ。集団の寝息が聞こえた。戻った。火の前に座った。夜明けまで、炎を見続けた。

伝播:DISTORTED 人口:767
与えるものの観察:影を見た。それだけが確かだ。
───
第866話

紀元前295,680年

その者(37〜42歳)

子が泣いていた。

岩の陰で、まだ名前を持たない子が。その者は火の番をしながら、横目で見た。母親が来ていなかった。

子の声が変わった。泣き声ではなく、別の何かになった。

その者は立ち上がった。燃え種を土で覆い、子を抱き上げた。子は止まらなかった。その者は揺らした。音を出した。低く、繰り返す音を。子が少し止まった。また泣いた。

集団の中に緊張があった。

他の群れが来ていた。五日前から、岩の向こうに影が見えていた。近い群れではなかった。遠い群れだった。見たことのある顔が一人もいない群れ。

水場を使いたいのだと、その者には分かった。乾季が来ていなかったが、向こうは違う土地から来ていた。向こうは乾いているのかもしれなかった。

集団の年長者たちが集まった。声を上げる者がいた。腕を振る者がいた。

その者は子を抱いたまま、端に立っていた。燃え種が気になった。土で覆っていたが、十分だったか。

年長者の一人が石を持った。

その者は子を地面に置いた。子がまた泣き始めた。その者は石を持った年長者の方を見た。それから岩の向こうの影を見た。

影の中に子供がいた。

遠い群れの子供が、岩の陰から顔を出していた。こちらを見ていた。

その者の手が止まった。石を持たなかった。

年長者が叫んだ。遠い群れが岩の陰に引いた。子供も消えた。

その夜、水場の端に遠い群れの痕跡があった。火を焚いた跡。骨の欠片。急いで離れた跡。

その者は燃え種を確認しに行った。土をどかすと、奥でまだ赤いものが生きていた。息を吹きかけた。光が戻ってきた。

子が後ろで泣いていた。母親がまだ来ていなかった。

第二の星

乾季は来ていない。草は伸び続け、水場は満ちている。

しかし大地には摩擦がある。豊かな場所には、豊かさを求めるものが集まる。これは大地の理であって、悪意ではない。群れと群れが水場を前に向き合うとき、それぞれの腹は同じように空腹であり、同じように乾いている。

始まりの大地のこの五年、人の数は増えた。集団が大きくなれば、占める場所も大きくなる。境界が生まれる。境界があれば、その際で圧力が高まる。

遠くでは別の群れが岩山を越えた。食料を追って。乾いた土地を離れて。水の匂いを辿って。

出会いが起きている。いくつかの出会いは静かに終わった。いくつかは血で終わった。どちらも、この星から見れば同じ出来事だ。群れが触れ、離れ、形を変える。

子は生まれ続けている。生まれた半数は幼くして消える。しかし今は、消えるより生まれる数が多い。

豊穣は続いている。その中で、人は他の人を恐れることを学んでいる。

与えるもの

岩の陰から顔を出した子に、光が落ちた。

その者が石を持たなかった。

同じ重さのものを渡したのに、これは食材を切る方に転んだ。次は人を刺す方に転ぶかもしれない。渡すことに変わりはない。ただ、あの子の顔を見て石を置いたこの者に、今度は何を渡すべきかを考えている。

伝播:DISTORTED 人口:775
与えるものの観察:石を持たなかった。それだけが残る。
───
第867話

紀元前295,675年

第二の星

西の稜線が低い。

長い年月をかけて、風がそこを削ってきた。雨が来るたびに岩が剥がれ、崖が後退し、いまでは稜線の向こうに夕暮れがもう少し長く見える。大地はそうやって少しずつ形を変える。気づく者はいない。気づかなくていい。

集団は大きくなっていた。

数年前の噴火と地震で死んだ者たちの分を、子供たちが埋めた。いまでは子供の声が朝から晩まで絶えない。木の実を拾う小さな手、走り回る足、母親の腰にしがみつく体。豊穣が続いていた。水場は近く、獲物は逃げず、実は重く枝を曲げた。

だが集団の内側で、何かが変わっていた。

男が二人いた。どちらも声が大きく、どちらも腕が立った。どちらも同じ水場を使い、同じ獲物を追い、同じ場所で眠る子供たちを持っていた。

争いはいつも小さなことから始まる。

干した肉の置き場所だったか。それとも眠る場所の端だったか。記録する者はいない。ただ、ある朝、男たちの間に誰も踏まない地面が生まれた。そこを子供が走ると、両側から声が飛んだ。子供は立ち止まり、どちらに走ればいいかわからず、その場に座り込んだ。

集団の緊張は音で伝わる。

食事のとき、笑い声が減った。火を囲むとき、座る場所が偏った。女たちは子供を引き寄せ、老いた者たちは目を伏せた。夜、誰かが低い声で唸ると、別の誰かがそれに応じた。言葉ではない。しかし意味は通じていた。

旧人の集団が近くにいた。

彼らはこの集団の縄張りの端、川の屈曲部あたりに現れた。数は少なく、子供はいなかった。老いた雄が一頭と、若い雌が三頭。彼らはこちらを見た。こちらも見た。どちらも近づかなかった。どちらも離れなかった。

夕暮れになると旧人たちは川の上流へ消えた。翌朝また現れた。

この繰り返しが数日続いた。

集団の男たちは、内輪の緊張を一時忘れた。外側に目が向いた。共通の何かがあると、内側の分断は薄れる。それは言葉のない時代でも変わらない。二人の男は並んで立ち、川の方を見た。肩は触れていなかった。しかし向いている方向は同じだった。

旧人たちはやがていなくなった。

ある夜、彼らの姿が消えた。匂いも消えた。川の屈曲部には踏まれた草と、小さな骨が残っていた。何かを食べた跡だった。それだけだ。

男たちはまた、互いに目を逸らすようになった。

共通の外が消えると、内側がまた膨らんだ。地面の端が戻ってきた。踏まれない場所が、また生まれた。

子供の一人が熱を出した。

その子の母親は、片方の男の女だった。もう片方の男は、その子を見なかった。見ない、ということが意味を持った。集団の中に、見る者と見ない者の境界が引かれた。線は見えない。しかし誰もが知っていた。

夜が来た。

火が二つになった。

与えるもの

煙の流れる方向に、干し草の匂いが混じった。

風がそちらから来ていた。川の上流、旧人たちが消えた方角から。

その者はその匂いを嗅いだ。それから火の方を向いた。二つある火のうち、どちらが大きいか確かめるように見た。

渡したのはそれだけだ。匂いと、方向と、二つの火の間にある暗がり。

その者がそこに何を見たかは、わからない。ただ次に渡すべきものは、もう決まっている。境界を越えた先に何があるか、誰かが一度だけ確かめなければならない。

その者(42〜47歳)

二つの火の間の地面を、その者は踏まなかった。

踏まない理由を持っていたわけではない。ただ足が止まった。燃え種の入った器を抱えたまま、その者は片方の火の傍に座った。

煙が目に入った。目を細めた。それだけだ。

伝播:NOISE 人口:786
与えるものの観察:火が二つになった夜、匂いを渡した。
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第868話

紀元前295,670年

第二の星

始まりの大地の北に、台地が続く。

風の向きが変わった年だった。南から来ていた湿った空気が、東の岩塊にぶつかるようになり、雨の落ちる場所が少しずれた。谷の底に水が染み出す場所が増え、そこに草が育ち、草を追って獣が来た。獣を追って集団が動いた。

三つの集団が、同じ水場に近い場所に拠点を構えた。

遠くでは、旧人の一群が洞窟の入り口に骨を並べていた。何のためかは分からない。ただ並べた。並べ終わると、その場を離れた。戻ってきた者もいたし、戻らなかった者もいた。

始まりの大地では、豊穣が続いていた。子が生まれた。生き延びた子が増えた。腹が満ちている日が続くと、人は遠くを見るようになる。自分の集団の外を。

水場の近くで、二つの集団の男たちが睨み合った。石は投げられなかった。しかし声は荒かった。夜になると、それぞれの火のそばで何かが話し合われた。

この星は傾き続けた。昼と夜の長さがゆっくりと変わっていった。気づく者はいなかった。

与えるもの

腐った肉の匂いが、風に乗って来た。

その方向に、別の集団の火があった。

この者は鼻を動かした。止まった。また動かした。

匂いの意味を正しく読めたかどうか、与えるものには分からない。ただ、この者の足がその方向へ向かわなかったことは見えた。

二つの火の間には、何かがある。与えるものはずっとそれを渡そうとしてきた。火の外側に広がる闇を、この者に感じさせようとしてきた。しかしこの者が感じるのはいつも火の温かさだけだった。次に渡すべきは、温かさではなく、火が届かない場所の冷たさかもしれない。

その者(47〜52歳)

胸の中に燃え種を抱えて歩く。

皮を二枚、外側と内側で重ねた入れ物の中に、火の欠片が眠っている。この者の体温が欠片を守る。止まれば冷える。だから止まらない。

五十を超えた体は、以前より脇腹が張る。夜になると膝の奥で何かが鈍く鳴る。それでも歩く。燃え種が消えることは、集団が暗闇に置かれることだ。この者の体がそれを知っている。言葉ではなく、骨の中に刻まれた理解として。

水場の近くで、他の集団の男たちと目が合った。

相手は背が高く、顔に赤い顔料を塗っていた。こちらを見た目は、獲物を見る目でも仲間を見る目でもなかった。その間にある、どちらでもない目だった。

この者は胸の燃え種を両腕でそっと押さえた。相手の視線の意味は分からない。ただ体が、燃え種を隠したがっていた。

夜、火を大きくした。

炎の縁が揺れるのを、ずっと見ていた。風が来るたびに形が変わる。同じ形になったことは一度もない。この者はそれを知っている。知っているとは言えないが、体が知っている。

東の方角で、別の火が小さく見えた。

近づかなかった。

伝播:HERESY 人口:755
与えるものの観察:腐肉の匂いを渡した。足が止まった。
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第869話

紀元前295,665年

第二の星とその者(52〜57歳)

北の台地の端で、地面が裂けていた。

先の冬に走った亀裂がそのまま乾いて固まり、縁は鋭く、深さは膝ほど。雨季になるとそこに水が溜まり、細い草が育ち、虫が来て、鳥が来た。集団はその亀裂のそばに三季とどまった。久しぶりの長い滞在だった。子が生まれた。老いた者が死んだ。それでも数は増えた。

その者は火を持っていた。

燃え種を巻いた葉の束を、胸の前で両手で抱えるようにして歩くのは、もう長い年月の習慣になっていた。集団が止まれば火を作り、集団が動けば火を消さぬように歩く。それがこの者の役割だった。若い頃に覚えた。今は身体が知っていた。

東から、別の集団が来た。

姿が見えたのは夕暮れ時だった。稜線の向こうに影が動き、やがて人の形になった。十数人。子供を連れていた。獣の毛皮を持つ者も、何も持たない者もいた。彼らは台地の南側の斜面を降りてくる前に止まり、声を上げた。遠くからでも聞こえる声だった。威嚇ではなかった。

この者は火の横に座っていた。

声が聞こえた。立ち上がった。手にしていた石を握ったまま、声のほうを見た。仲間の何人かはすでに立って、石を手に持っていた。集団の大きな者が前に出た。その者は動かなかった。火から離れるつもりはなかった。

東の集団は斜面を降りきった。

水を求めていた。亀裂に溜まった水の場所を、どこかで知ったのか、においで辿ったのか。彼らの先頭に立つ者が地面に手をつき、水のある方向を示すような動作をした。言葉ではなかった。身振りだった。こちらの集団の大きな者は、しばらく動かずにいた。

日が落ちた。

二つの集団は、亀裂を挟んで火を焚いた。同じ夜に、同じ水のそばで、別々に。

その者はずっと自分の火の番をしていた。向こうの火が見えた。揺れ方が違った。使っている木が違うのかもしれなかった。煙の色も少し違った。ただそれだけだった。

翌朝、東の集団の子どもが水辺に来た。

こちらの集団の子どもも水辺にいた。二人は声を出さずに、しばらくお互いを見た。やがて一人が水に指を入れた。もう一人も入れた。それだけだった。

その者は火に枝を足しながら、その様子を見ていた。

何日か経つうちに、二つの集団は互いに近寄るようになった。物は渡さなかった。近くにいるだけだった。大人は声を出しながら身振りをした。同じ声のものがあった。違う声のものもあった。

あるとき、東の集団の年老いた者が、この者の火に近づいてきた。

老いた者は火を見て、何か言った。この者には意味がわからなかった。老いた者は手を出した。指先に何かを持っていた。細い木片だった。燃えた跡があった。燃え種の欠片だった。

その者は受け取った。

匂いを嗅いだ。同じ匂いではなかった。別の木から来ていた。口は何も言わなかった。ただ相手の顔を見た。老いた者はうなずくような動作をして、戻っていった。

その者は手の中の燃え種を、自分の火の端に置いた。

燃えなかった。もう冷えていた。

それでも捨てなかった。石のそばに置いておいた。夜、火の光がそこに落ちた。木片は光の中に静かにあった。何かを思ったわけではなかった。ただ目がそこに向いた。向いたまま、しばらくそこにいた。

翌月、東の集団は去った。

北の方向へ向かった。姿が見えなくなった後、台地には二つの集団の焚き跡だけが残った。亀裂の水は濁っていた。しばらくして澄んだ。

この者は木片をまだ持っていた。

移動の日が来た。集団が動き始めた。その者は火を移した。燃え種を葉で包んで胸に抱えた。木片は腰のあたりに挟んで持った。歩き始めた。

なぜ持つのか、言葉にならなかった。言葉がなかった。ただ手が、置いていかなかった。

五年が終わる頃、その者は五十七歳になっていた。

足の裏が硬くなっていた。膝が鳴った。夜、横になるとき、最初より時間がかかった。それでも朝には起きた。火を確かめた。燃え種がまだあることを確かめた。それから立ち上がった。

与えるもの

老いた者が手を伸ばした。その前の夜、火の光が木片の上に落ちた。

この者はそれを手に取った。

異なる木の匂いがした。どこかで同じものを嗅いだことがある気がした。燃え種を胸に抱えて歩く者があった。その姿と、今この者の姿は、どこか重なる。渡したのは木片ではなかった。渡したかったのは、遠くにも火を守る者がいるという、言葉にならない何かだった。それが届いたかどうか、私にはわからない。次に何を渡すべきか、また考える。

伝播:DISTORTED 人口:761
与えるものの観察:木片を捨てなかった。それだけ。
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第870話

紀元前295,660年

その者(57〜62歳)

足の裏が覚えていた。

水が溜まる亀裂のそば、細い草が生える低地、鳥の糞で白くなった岩の面。三季ぶんの記憶が足の裏に刻まれていた。目を閉じてもそこを歩けた。

しかし集団は動いた。

東から来た群れが水場に近づいてきた。顔の形がわずかに違う。額が張り出し、眉骨が厚い。彼らも水を知っていた。同じ亀裂を、同じように使いたがった。

その者は火の番人だった。

胸の前に燃え種を抱えていた。獣の腸を干して作った袋の中に、炭と灰と、まだ息をしている火種が入っていた。三季のあいだ一度も消さなかった。集団の中で、それを守れるのはその者だけだった。

東の群れが来た夜、集団の男たちは声を荒らげた。岩を持った。石を打ち合わせた。

その者は火から離れなかった。

争いが始まった。怒声と、骨を打つ音と、地面を蹴る音。その者は燃え種を抱えたまま、岩の陰に体を押し込んだ。

火は揺れなかった。

夜が明けると、東の群れは少し遠ざかっていた。完全には去っていなかった。集団の若い男が一人、足を引きずっていた。別の男が、岩に肘を打ちつけ、皮が剥けて血が固まっていた。

その者は夜明けの光の中で燃え種を開いた。

息を吹く。細く、長く。

赤い芯が広がった。細い枝を乗せると、煙が立ち、それから火が立った。

集団の者たちが近づいてきた。その者は火の前に座ったまま動かなかった。怪我をした男も来た。足を引きずりながら。火の前に座った。

誰も何も言わなかった。

その者は枝を足した。また足した。

炎が大きくなった。空が白くなり、朝になった。鳥が飛んだ。東の群れのほうでも、煙が上がった。別の火だった。

その者は、自分の火と、遠くの煙を、交互に見た。

何かが、二つのあいだにあった。その者には言葉がなかった。身振りもなかった。ただその空間を、目で測るように見た。

足を引きずる男が、その者の肩に手を置いた。

重かった。その者は倒れなかった。倒れないために、足の裏で土を踏んだ。三季ぶんの記憶がある土だった。

第二の星

台地の東端で、二つの火が夜を越えた。

この五年間、北の台地では水が豊かだった。亀裂に溜まった水、その縁に育つ草、虫と鳥が来る場所。集団は三季をそこで過ごし、数が増えた。増えた数が、次の季節の緊張を作った。

同じ水場を知る者が現れた。顔立ちの異なる群れ。彼らも台地を歩き、同じ亀裂を見つけていた。水は一つで、群れは二つになった。

台地の北では獣の移動路が変わり、乾いた季節が少し短くなった。草が伸びた。その草を追って別の動物が来た。食料は増えた。しかし水場は増えなかった。土地は同じ広さのままだった。

争いは夜に始まり、夜明けに静かになった。死者は出なかった。重傷もなかった。それでも何かが変わった。

二つの群れはそれぞれの火を持ち、互いの煙を見た。その者は自分の火と遠くの煙のあいだを目で測った。

台地に朝が来た。北の空は白く、南の空はまだ薄暗かった。別の大地では、この夜のことを知る者は誰もいなかった。

与えるもの

熱が変わった。

炭の匂いが濃くなった、その瞬間に合わせて。燃え種の袋の中で、火種がわずかに息を強めるような、温度の変化。

その者は袋を強く抱え直した。

*二つの火が同じ夜を越えた。これは初めてではないかもしれない。だが今夜のこの者は、遠くの煙を測るように見た。あの目が次に何を測るか、渡すべきものはまだある。*

伝播:NOISE 人口:765
与えるものの観察:火を守った手が、遠い煙を測った
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第871話

紀元前295,655年

その者(62〜63歳)

朝、起き上がれなかった。

横になったまま、頭だけ動かして火を見た。燃え種は昨夜のまま、低く赤くなっていた。誰かが夜のうちに枝を足していた。その者ではない。手が届かなかった。

それでも火は消えていなかった。

集団の声が外から聞こえた。誰かが叫んでいた。別の声が応えた。言葉ではなく、圧力だ。突き上げるような短い音が幾つも重なり、やがて静かになった。争いの種は昨日も燃えていた。今日も燃えていた。しかしその者にはもう関係がなかった。

足が動かなかった。

昨日まで、足の裏は地面を覚えていた。水場の泥の感触、乾いた岩の粗さ、草の葉が足首をかすめる冷たさ。しかし今朝はその記憶が遠かった。足の裏がどこにあるかわからなかった。自分の身体が地面から離れていくようだった。しかし浮いているわけではない。重かった。

若い女が水を持ってきた。

陶器はない。獣の膀胱を乾かして作った袋だ。縫い目から少し滲む。その者はそれを受け取らなかった。手が動かなかったのか、動かしたくなかったのかは、その者にもわからなかった。

女は袋を地面に置いて去った。

火の音だけがあった。

その者は目を開けていた。天井の岩の割れ目を見ていた。そこから細い光が落ちていた。朝だとわかった。光は動かなかった。その者も動かなかった。

燃え種の重さを思った。

胸の前で両腕を交差させる形を、身体が覚えていた。燃え種を抱えて歩いた季節の数だけ、その形が残っていた。今は何も抱えていない。腕は地面に落ちていた。しかし胸の前には、まだ何かがある気がした。温かいものが。

それは錯覚ではなかったかもしれない。

集団の声が再び上がった。今度は別の方向から来た。遠かった。川のあたりだろうと思った。旧人の影が出たのかもしれない。そうでないかもしれない。その者には確かめる手段がなかった。

光が岩の割れ目で揺れた。

雲が動いたのか、風が葉を揺らしたのか。光はひとつ震えて、また静止した。その者の目がそれを追った。最後に追ったものが光だった。

息は止まらなかった。

ゆっくりと薄くなった。波が引くように。満ちることなく引いた。

外では誰かが笑っていた。子供の声だった。

第二の星

南の湿地帯で、旧人の一群が渡河していた。水は腰まであった。幼い個体を肩に乗せた大きな雄が先に渡り、岸に立って振り返った。後続が続いた。対岸の密林から鳥が飛び立った。その羽音だけが聞こえた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:DISTORTED 人口:770
与えるものの観察:胸の前の形だけが残った
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第872話

紀元前295,650年

第二の星

紀元前295,650年。

赤道近くの低地では雨が続いている。川が岸を越え、柔らかい土が流れて、根の浅い木々がゆっくり傾いた。その水際に、二つの集団が別々の向きから近づいていた。どちらも同じものを探していた。水ではなく、水が引いた後に残る動物を。

北の高台では、旧人の一群が乾いた草の中を移動していた。毛の長い、肩の広い、背の低い者たちだった。彼らは火を持っていなかった。しかし煙の匂いを嗅いで立ち止まることができた。風が変わるたびに顔の向きを変え、鼻を上げた。

始まりの大地の集団は770になっていた。そのうちの何割かは子どもだった。豊穣が続いて数年が経ち、食べ物に困ることはなかったが、空間が狭くなりつつあった。眠る場所、火の近くの場所、干した肉を吊るす枝の位置。小さなことで声が上がることが増えた。

六歳の子が、集団の縁に座っていた。

与えるもの

糸が繋がった。

初めて、この者の中に降ろすことができる。

子どもだ。まだ何も背負っていない。だからこそ届くかもしれないし、届かないかもしれない。

燃え種の話を知っている。腕の交差の話を知っている。腰に挟んで運ばれた話を知っている。ここまで届いたものが何もなかったことも、知っている。

今日は、草の匂いを使った。

踏まれた草と、まだ踏まれていない草では、香りが違う。日向の草と、影の草でも違う。この者の鼻先に、風が一筋、通った。集団がまだ踏み込んでいない方向からの風だった。そこに何があるかではなく、ただ、そちらに向いてほしかった。

この者は、鼻をこすった。

それだけだった。

それがすべてだったかもしれない、とも思う。何かが届いた時と届かなかった時の違いを、私はまだ正確に知らない。次に何を渡すべきか。この者が六歳であるということが、今は手がかりになるかもしれない。もっと強い感覚を使うべきか。あるいは、もっと長く待つべきか。

その者(6〜11歳)

草の間に、虫がいた。

緑の、小さな、跳ねる虫だった。その者は両手でそれを挟もうとした。逃げた。また挟もうとした。また逃げた。

風が来た。

その者は手を止めた。鼻をこすった。顔を上げた。

集団の声が聞こえる方向とは逆の、静かな方向から、草の匂いがした。その者はしばらくそちらを見た。何も見えなかった。木があった。草があった。空があった。

また虫を探した。

虫はもういなかった。

岩のそばに、干からびた果実の皮が落ちていた。その者はそれを拾って、匂いを嗅いだ。甘くなかった。地面に置いた。また拾った。指で形を確かめた。薄くて、くしゃくしゃで、かつては何かが中に入っていた。

集団の中で、大人の声が上がった。言葉ではなく、音の高さが変わった音だった。その者は果実の皮を握ったまま、声の方を見た。

二人の大人が、干した肉の置き場の近くで向かい合っていた。どちらも動かなかった。どちらも大きな声を出さなかった。しかし周りの者たちが少しずつ離れていた。

その者は立ち上がった。

近づかなかった。

木の後ろに入って、幹に背をつけた。果実の皮は手の中にあった。

声は続いた。続いた後、止まった。

その者はしばらく幹に背をつけたまま、指の間で皮を丸めた。丸めて、また広げた。丸めて、また広げた。

夕方、火が大きくなった。誰かが枝を足したのだった。その者は輪の端に座って、火の揺れを見た。煙が目に入った。涙が出た。拭かなかった。

伝播:DISTORTED 人口:774
与えるものの観察:匂いに反応した。しかし向かなかった。
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第873話

紀元前295,645年

その者(11〜16歳)

足が動かなかった。

川べりの泥に膝まで沈んでいた。引き抜こうとするたびに、泥が鳴いた。くちゅ、という音。低く、湿った。

向こう岸に、別の集団がいた。

その者の集団の男たちが声を上げていた。腕を広げ、腹の底から押し出すような音だった。向こうの男たちも同じことをしていた。どちらも川を渡らなかった。川が渡らせなかった。水はまだ岸ギリギリで揺れていた。

その者は後ろにいた。子どもだから。まだ何も担わないから。

でも見ていた。

向こうに子どもがいた。こちらと同じくらいの背丈。泥で膝が汚れていた。目が合った。向こうの子どもは、口を半分だけ開けて、閉じた。

男たちの声が高くなった。

石が飛んできた。川を越えて、こちらの砂に刺さった。男の一人が別の石を拾い上げた。投げた。水の中に落ちた。

その者は泥から足を引き抜こうとした。引き抜けなかった。

向こうの子どもが、走り始めた。集団の奥へ。消えた。

男たちの声がまた高くなった。何かが始まろうとしていた。その者にはわかった。声の高さで。腹の緊張で。

その者も走ろうとした。

泥が足を離した。

砂利の上に転んだ。手をついた。立った。走った。

集団の奥へ。女たちの後ろへ。子どもたちの中へ。

振り返らなかった。

でも耳には届いた。石が肉に当たる音。誰かが倒れる音。それから、誰かが川に入る音。水が跳ねた。それから、水音が途絶えた。

集団が動いた。川から離れる方向に。

その者も走った。転ばなかった。

夜になって、集団は高い場所に止まった。火を囲んだ。男たちの一人が、片腕を胸に当てて座っていた。腕が腫れていた。別の男がいなかった。その者は数えた。また数えた。やはりいなかった。

誰も泣かなかった。

火だけが鳴いた。

その者は膝を抱えて、火と夜の境目を見ていた。向こうの子どもの顔を思い出した。口を半分だけ開けて、閉じた顔を。

向こうにも火があるだろうかと思った。

第二の星

赤道の低地に、二つの水脈が合流している。一方は北の台地から下り、もう一方は東の森の縁に沿って流れる。雨期が長引いたこの季節、二本の川は一つになり、かつての岸は消えた。

その水の際で、二つの集団が出会った。どちらも同じものを求めていた。水と、水から離れた高台と、乾いた眠れる場所。

集団間の緊張はこの5年で積み重なっていた。一人が別の集団に近づきすぎた、果実のある木をめぐって声が荒れた、そういった小さな出来事が、積み重なったまま消えなかった。身体が覚えていた。

今日の川べりで、一人が戻らなかった。向こうでも同じことが起きたかもしれない。わからない。川が隔てていた。

集団は高台へ移動した。774の命が、夜の地形を伝って散らばっている。

旧人との領域は重なったり離れたりしながら、この低地の森に共存している。言葉の違いは、恐れを大きくする。同じ声の高さでも、意味が違う。それだけで石が飛ぶ。

子どもたちは大人の後ろで走った。それが今夜の全てだった。

星は低く、湿っている。雲が多い。光は届きにくい。

与えるもの

水面に光を落とした。

向こう岸の子どもの顔の上に。

この者はその顔を見た。そして走った。石の音を背中で聞きながら。

知りすぎた者が消される、というのは、なぜいつも、この者のようなところから始まるのだろう。小さく、何も担わない者から。向こうに同じ顔があると、気づいてしまった者から。

次に渡すべきものは何か。

距離ではない。距離はもうある。この者が持っていないのは、距離の先にあるものを想う言葉だ。

まだない。

それでも渡す。次の光の落とし場所を、今夜のうちに決めておく。

伝播:HERESY 人口:741
与えるものの観察:向こうの顔を見た者が消される前夜
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第874話

紀元前295,640年

第二の星

乾季の終わりだ。

草が焦げた色をしている。川が細くなった。水を求めて獣が移動し、その跡を追って別の群れが動く。遠い丘の向こうでは、旧人の一団が眠っている。体が大きく、額が張り出し、声は低い。彼らも川の細さに気づいている。水場が重なるとき、目が合う。互いの体の大きさを測る。それだけのことが、しかし積み重なる。

川の北では、別の集団が木の実を貯めている。貯めた場所に戻れるかどうかを、皮膚が覚えようとしている。記憶の仕方がまだ確かではない。帰れる者もいる。帰れない者もいる。

南の海岸近くに、潮の匂いを嗅いで育った小さな群れがいる。彼らは貝を砕く石を持ち歩く。砕く音が浜辺に響く。朝と夕、同じ音が鳴る。

第二の星はそれらを区別しない。乾季も旧人の額も、砕ける貝も、川の細さも、同じ重さで照らされている。川が細くなっている。その事実が、あらゆる者の皮膚に触れている。

与えるもの

水が臭うようになっていた。

川の上流で何かが死んでいるのか、あるいは別の何かが混じっているのか、与えるものにはわからない。ただ、臭いが変わったことは確かで、この者はまだ飲んでいた。

光が川面に落ちた。濁りのある色をした、その一点に。

この者は目を細めた。それだけだった。飲み続けた。

渡せたのか、渡せなかったのか。

次に渡すなら、もっと強く、もっと具体的に。腹が痛む者の姿を、この者の視界に入れることができるかもしれない。あるいは、腐った匂いのする水と、澄んだ水の違いを、鼻で比べさせることができるかもしれない。

問いが変わった。渡すことより、この者が生き延びることのほうが、先かもしれない。

その者(16〜21歳)

水を飲んだ。

喉が渇いていた。川の水は温く、少し苦かった。それがいつもと違うことに気づいたが、喉の渇きのほうが大きかった。腹が鳴っていた。昨日から何も食べていない。

立ち上がると、足の裏が熱かった。砂地が昼の熱を蓄えている。

群れから外れていた。怒って出てきたわけではなく、ただ気づいたら離れていた。大きな男が声を荒げていた。旧人の群れが水場の近くに来ていた。男たちが向かった。その後ろで、女と子どもが塊になった。その塊に入れなかった。

入ろうとして、弾かれたわけでもない。ただ、足が別の方向を向いていた。

川べりを歩いた。石が並んでいる場所で立ち止まった。石を一つ持った。丸い。手のひらにちょうど収まる。投げた。水面に当たった。波紋が広がった。

また石を拾った。また投げた。

音が変わった。向こうから、声が来た。怒鳴り声ではなく、もっと低い、唸るような声。旧人の声だ。遠い。しかし確かに聞こえる。

石を持ったまま、動かなかった。

腹が痛くなってきた。水の苦みが、今になって喉の奥に戻ってきた。

伝播:SILENCE 人口:749
与えるものの観察:濁りを示した。この者は飲み続けた。
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第875話

紀元前295,635年

第二の星

乾いた風が吹いている。

大地の北側、赤茶けた台地の縁では、草食獣の群れが水場を求めて列をなす。その列の端が崩れる。老いた個体が膝を折った。他の獣は止まらない。

南の森では、旧人の一団が眠りから覚めつつある。彼らは互いの体に触れながら眠る。朝になると、その日最初に動く者が決まっている。それは常に同じ者ではない。体の重さが決める。空腹が決める。

人の集団は川の中流に張り付いている。水が細くなった分、人と旧人が同じ場所に近づいている。

岩の多い丘の向こう側、見えない場所では、別の火が夜ごとに灯っている。誰が灯しているのかをこの星は知らない。どちらの火が先に消えるかも知らない。

ただ、どちらの火も今夜はまだ燃えている。

空の上では、灰色の雲が東から積み上がっている。湿気を含んでいる。雨が来るかもしれない。来ないかもしれない。

この星は待たない。ただそこにある。

与えるもの

旧人が近い。

その者の集団の男たちが岩の陰に固まっている。声を押し殺している。

風がある方向から吹いてきた。旧人の匂いを含んでいる。その匂いの中に、血の気配はなかった。

その者は匂いを嗅いだ。

正しく嗅いだ。それで止まった。

良かった。踏み込んでいたら、どちらかが壊れていた。

しかし次は風が逆から吹くかもしれない。匂いが届かない夜があるかもしれない。次に渡すのは匂いではなく、音にするか。遠さを測る何かにするか。まだわからない。渡す意志だけがある。

その者(21〜26歳)

水を汲みに行こうとした。

川に向かって、岩の間の道を歩いていた。足の裏が石の角を踏んで、少し痛かった。

風が来た。

正面から来た。その者は顔を上げた。

何かの匂いがした。知っている匂いではなかった。知らない匂いでもなかった。何か別のものの、息のような。

その者は止まった。

足が動かなかったのではない。動かさなかった。

長い間、立っていた。風がまた来た。同じ匂いだった。今度は少し強かった。

その者は水の入れ物を胸に抱えたまま、来た道を戻った。急がなかった。音を立てなかった。

集団のいる場所まで戻ってから、男たちに向かって声を出した。単語ひとつ。手でもう一方向を示した。

男たちが互いを見た。ひとりが立ち上がった。

その者はもう一度、同じ単語を言った。

夕方、別の場所で水を汲んだ。遠回りだった。足が疲れた。

水は同じ水だった。

夜、火の前で座っていた。匂いのことを思い出した。思い出しながら、何も言わなかった。言う言葉がなかった。

伝播:DISTORTED 人口:756
与えるものの観察:匂いで止まった。これは使える。
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第876話

紀元前295,630年

第二の星

大地の南端、海に近い低地では、潮が引いたあとに白い塩の膜が残る。雨が来なければ、それは固まって、踏むと粉になる。この季節、雨は来ていない。

内陸では、山がある。その山の腹が膨らんでいた。ゆっくり、数十年かけて膨らんできた。地下の圧力が、岩を押し上げていた。地表にはまだ何も見えない。草が生え、小動物が巣穴を掘っている。

山が割れたのは、夜明けの前だった。

音ではなかった。最初は揺れだった。大地が水のように動いた。次に光。山の頂上から、赤い光が溢れた。空が明るくなった。夜が消えた。

灰が来た。風に乗って、南へ、東へ。草の上に積もった。水場の水面に積もった。獣が逃げた。鳥が飛び立った。

集団は散った。逃げた者もいた。逃げなかった者もいた。灰の中に座ったまま動かなくなった老いた者が何人かいた。幼い子の声が聞こえた。その声は途中で止まった。

数日後、生き残った者たちが、より遠い川のほとりに集まった。かつての集団の、三分の一近くが消えていた。

火山から遥か遠い場所では、別の生き物たちが干し草の上で眠っていた。何も知らずに眠っていた。

与えるもの

灰の匂いがある。

以前も、こういう匂いの中にいた。場所は違った。者も違った。結果は——渡すことができなかった。

今回、この者の頭の上に光が落ちた。正確には、灰が薄い場所、風が一瞬止まった場所、そこだけ空が少し明るかった。この者がその明るさの下に立っていたのは偶然ではなかった。

この者は上を向いた。

それだけだった。上を向いて、また下を向いた。

渡したかったのは方向だ。川の上流に、灰が届いていない斜面がある。食べられる根がある。その根を知っていれば、あと一冬を越せる。

この者は上を向いた。下を向いた。

届いたのか。届かなかったのか。わからない。しかし問いはそこではない。この者がその根に辿り着くかどうかよりも——渡し続けることで、何かが積もるのか。灰のように積もって、いつか形になるのか。それを、私はまだ知らない。

その者(26〜31歳)

灰が口の中に入る。

舌で押しても、砂とは違う。砂は重い。灰は軽い。飲み込むと、喉の奥で何かが残る。苦みではない。もっと薄い、名前のない感触。

集団が散った夜、この者は走った。走りながら、誰かの手を引いていた。子どもの手だった。誰の子か、暗くてわからなかった。走った。転んだ。また走った。子どもの手が離れた。振り返った。子どもはそこにいた。立っていた。また手を引いた。

川に着いた。

明るくなった。空が赤かった。山の方向から、空が赤かった。

川のほとりで、この者は座った。子どもが隣にいた。集団の他の者たちが少しずつ集まってきた。全員ではなかった。来ない者がいた。待った。来なかった。

この者は空を見た。

灰が降っていた。ゆっくり、雪よりもゆっくり、灰が降っていた。空の、一部分だけ、少し明るかった。雲の切れ目か、それとも何か別のものか、この者にはわからなかった。

上を向いた。

下を向いた。

足元の川岸に、灰が積もっていた。この者は指で、その灰に線を引いた。線を引いて、また引いた。意味はなかった。ただ引いた。

隣の子どもが、同じように指を動かした。

二本の線が、灰の上に並んだ。

伝播:NOISE 人口:588
与えるものの観察:上を向いた。それだけだった。しかし線が残った。
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第877話

紀元前295,625年

第二の星とその者(31〜36歳)

大地の低いところに水が溜まった。

夏の終わりに降った雨ではなかった。地面そのものが滲み出すように、水は草の根元から湧いてきた。虫が増えた。小さな虫が、水面に産み、孵り、夜になると群れた。火の周りに集まってきた。肌に触れた。

その者は腕を叩いた。また叩いた。

集団の中の誰かが先に倒れた。女だった。子を背負ったまま座り込んで、起き上がれなくなった。熱が出た。肌が湿った。誰もその熱の名前を知らなかった。

その者は火の側にいた。炭をいじった。虫を払った。

次の者が倒れた。また次の者が倒れた。起き上がる者もいた。起き上がれない者もいた。起き上がれない者の体が、数日で冷えた。同じ場所で、また虫が群れた。

大地の裏側では、岩の下を流れる熱い水が温度を上げていた。地表には関係がなかった。地表では草が伸びていた。雨が来た。水が増えた。虫が増えた。

この者の隣で、年上の女が熱を出した。

その者はそばにいた。水を持ってきた。葉を持ってきた。何に使うかわからなかった。ただ持ってきた。女は水を飲んだ。葉を触った。それから手を下ろした。

その者は女の手を見た。

動かなかった。

その者は外に出た。夜だった。虫の音が高かった。空を見た。何も見なかった。また中に入った。女のそばに座った。朝まで座っていた。

集団は縮んだ。少し縮んだのではなかった。四人に一人が消えた。

生き残った者の顔に、問いがあった。言葉にはならなかった。何かがそこにあった。目に。肩の落ち方に。

その者の肩にも同じものがあった。

与えるもの。

腐った水のそばに、無傷の草が生えていた。風が、その草の匂いをこの者の方へ運んだ。苦く、少し青い匂いだった。

この者は一瞬、鼻を上げた。それから虫を払って、別の方を向いた。

草は翌日も同じ場所にあった。誰もそこへ行かなかった。

翌年、また虫が増えた。

その者は腕を叩いた。叩きながら、遠くを見た。草が生えていた。風が来ていた。何かが鼻にあたった。この者は立ち上がった。草の方へ歩いた。

しゃがんで、草を引き抜いた。匂いを嗅いだ。何度も嗅いだ。

食べなかった。

捨てなかった。

与えるもの

苦い匂いを送った。

この者は草を手に持ったまま、一日を過ごした。

草は何に使えるか。それはまだわからない。ただ、次に熱が来たとき、この者がその草のそばにいるかどうか。それだけだ。集団の四人に一人がすでに消えた。次も来る。必ず来る。草の場所を覚えているかどうか。それだけが今、渡せるものだった。

伝播:NOISE 人口:455
与えるものの観察:草を捨てなかった。それだけだ。
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第878話

紀元前295,620年

その者(36〜39歳)

腹の皮が薄くなっていた。

食べると痛んだ。食べなくても痛んだ。だからその者は食べる量を減らした。それだけだった。腹が痛むこと自体は、以前から知っていた。川の水を飲んだ後も、腐りかけた肉を食べた後も、腹は痛んだ。今回はそれと同じだと思っていた。

違った。

水が溜まった低地の近くに、その者は何日も通っていた。虫の多い夜のことも覚えていた。火の煙が顔に流れてきて、目が痛かった。だがそれより先に、腹の中に何かが入ってきていた。

体が熱くなった。

熱は夜に強くなった。日中は少し引いた。また夜が来た。また強くなった。皮膚の下に水が溜まるような感覚があった。飲んだ水がそのまま外に出た。

集団の縁に置かれた。

遠ざけられたのではなかった。その者が自分で離れた。熱のある者が近寄ると、他の者の顔が変わるのを知っていた。声の高さで分かった。体を向ける方向で分かった。だからその者は自分から離れた。それだけだった。

木の根元に背をあずけた。

根は固かった。地面はまだ少し湿っていた。夏の終わりの水が、まだ土の中に残っていた。その者の背中がそれを感じた。遠くで火の音がした。誰かの声がした。子どもの笑い声だった。その者にも、かつてそういう声を出していた時があった。いつだったか、もう思い出せなかった。

光が葉の隙間から落ちてきた。

一枚の葉の先に、雫が光っていた。その者の目がそこへ向いた。雫は揺れなかった。風がなかった。ただそこにあった。

その者は手を伸ばそうとした。

届かなかった。手が上がらなかった。それだけのことだった。

熱の中で、その者の目は開いていた。葉の雫が光っていた。どこかで川の水の音がした。体の中で何かが静かになっていった。声を出す必要がなかった。出す力もなかった。

雫が落ちた。

土に吸われた。跡も残らなかった。

第二の星

平原の端、岩の多い斜面に旧人の一群がいた。火を囲まず、岩の陰に身を寄せて夜を越えた。その中の一人が、夜明け前に斜面を下り、水のある方へ歩いた。戻らなかった。残った者たちは待たなかった。朝になると別の方向へ歩き始めた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:439
与えるものの観察:渡した。届いたかどうかは、もう問わない。
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第879話

紀元前295,615年

その者(7〜12歳)

川縁の泥は冷たかった。

その者は膝まで浸かって立っていた。両手で水面を叩いて魚を追い込む遊びを、集団の年長者から覚えた。まだうまくできない。手が当たるたびに魚は逃げる。それでも叩く。また逃げる。

泥の底に指が沈んだ。

その者は指を引き抜いた。泥の匂いがした。腐ったものと土が混ざったような匂い。その者はそれを嗅いで、奥にある何かを探すように鼻を動かした。

川の向こう岸に別の集団がいた。

その者はそれを知っていた。岩の後ろに隠れている声を、ここ何日も聞いていた。声の形が違う。自分たちとは違う音の出し方をする者たちだと、その者は体で知っていた。明確な言葉にはならないが、腹の底に何かが落ちてくる感じがあった。

岸に戻った。

大人たちは火を囲んでいた。子どもがいくつか、火の近くで眠っていた。その者は濡れた足を乾かすために火のそばに座った。煙が目に入った。目から水が出た。拭わなかった。

夜になった。

対岸の声が止んだ。

その者は眠れなかった。声がない方が怖かった。

第二の星

始まりの大地の西、川が大きく蛇行する場所に、集団は長く留まっていた。

水が近く、獣道があり、岩が背後に壁を作っていた。半季のあいだ、ここで生きてきた。子が三人生まれ、老いた一人が崖の下へ落ちて戻らなかった。集団の数はほとんど変わらない。ただ、構成が変わっている。

対岸の集団は新しくここへ来た者たちではなかった。もっと前から川沿いにいた。ただ今季になって、近い方の岸へ動いてきた。食べられるものが川の西に減ったからかもしれない。理由を伝える言葉は、どちらにもない。

緊張は音の形をとった。声が大きくなった。石を投げた者がいた。投げ返した者がいた。

その夜、対岸の声が止んだ。それだけだった。止んだことが、何かの始まりか終わりかを、どちらの集団も知らない。

川は変わらず流れていた。月が水面に落ちていた。

与えるもの

糸が繋がった。

川面に月光が差した瞬間、対岸の岩陰から人影が消えた方向へ、光が細く延びた。

その者は川を見ていた。光の筋に目が止まった。次の瞬間、川上の方へ顔を向けた。川上には道がある。遠回りになるが、対岸と交わらない道が。

その者はそれを言葉にできなかった。ただ川上の方角を、しばらく見ていた。

渡せたかもしれない。朝になって、その者がどちらへ動くかが、それを決める。

伝播:HERESY 人口:428
与えるものの観察:川上の光。届いたか。
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第880話

紀元前295,610年

第二の星

雨が続いた。

始まりの大地の草原は、水を含んで重くなった。根が緩んだ斜面では、土が少しずつ下へ動いた。水溜まりが広がり、やがて繋がり、低地に小さな湖が生まれた。

獣たちは水辺に集まった。蹄の跡が泥に深く残り、翌朝また別の獣が来て、その跡を踏んだ。食べることに困らない季節が来た。子どもたちの腹が満たされた。集団は膨らんだ。去年まで薄かった顔が、今年は丸みを帯びた。

遥か北、大陸の縁に近い台地では、旧い形の者たちが雨水を掌で受けて飲んでいた。眉の隆起した顔が空へ向いた。彼らも雨の恵みを知っていた。知るという言葉を彼らは持たなかったが、身体はそれを知っていた。

東の低地では、別の集団が幼い者の死体を岩の下に置き、大きな石で覆った。特に理由はなかった。前にそうした者がいて、また別の者がそうした。それだけのことだった。

豊かな季節は、緊張も育てる。食が増えれば、食を巡る摩擦も増えた。集団の輪郭が揺れ始めていた。

与えるもの

風が方向を変えた。

川下から草の腐れた匂いが来た。その先に、水辺を離れて岩場へ移動する獣の群れがあった。

この者は匂いを嗅いだ。立ち止まった。しかし歩き続けた。

——渡ったのか。渡らなかったのか。区別がつかない。匂いを嗅いだという事実だけが残る。次に渡すなら、もっと強く残るものがいい。この者の身体の中で、何かが変わる前に。

その者(12〜17歳)

雨は嫌いではなかった。

皮膚に当たる感触が、刺さるのでも痛いのでもなく、ただ冷たくて、それが続くのが、何かに似ていた。何に似ているかは分からない。

集団の中で、この者はまだ端にいた。食べ物を運ぶ仕事を覚えた。重い実を両手で抱えて、火の近くまで持っていく。それだけだったが、それで年長の女が少し横にずれた。空いた場所に座ることを許された。

雨の後、草が匂った。

川縁とは違う匂いだった。腐れた草と、水が混ざって、鼻の奥に残るような、重い匂い。この者は立ち止まった。鼻に皺が寄った。その匂いの方向を向いて、少し歩いた。

止まった。

集団の方から声がした。年長の男の声だった。この者には意味が分からなかったが、音の高さで、戻れという意味だと分かった。

戻った。

その夜、火の外側で横になりながら、この者は匂いのことを考えていた。考えるという言葉を持たなかったが、眠れなかった。鼻の奥にまだ何かが残っていた。

数日後。

集団の中で、この者と同じくらいの年の男が死んだ。岩場で滑り、頭を打ち、そのまま動かなくなった。

大きな音がした。みんながそちらを見た。男は俯せに倒れていた。誰かが駆け寄り、肩を揺さぶった。揺さぶられたまま、男は動かなかった。

この者は遠くから見ていた。

男が動かないことは分かった。なぜ動かないかは分からなかった。ただ岩が赤くなっていた。赤は血の色だと知っていた。傷の色だと知っていた。

しかし血は流れているのに、男は動かなかった。

この者は長い間そこを見ていた。

夕方、集団は移動した。男はそこに残された。残すということを誰かが決めたのではない。ただ移動するときに、誰も男を運ばなかった。

この者は最後に振り返った。

岩の上に横たわった男の形が、夕暮れの中で小さくなった。草が風で揺れた。

この者は前を向いて歩いた。

膝が少し重かった。足が重いのではなかった。それ以外の重さだったが、その者にはそれが何かを説明する言葉がなかった。

歩いた。

伝播:HERESY 人口:528
与えるものの観察:匂いを嗅いだ。しかし止まれなかった。
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第881話

紀元前295,605年

第二の星

草原の端に、一本の割れ目がある。

火山の揺れが残した傷だ。幅は腕一本分、深さは測れない。雨のあと、その割れ目から湯気が立つ。蒸気は地面に沿って這い、低いところに溜まって、朝には霧のように漂う。獣の足跡がその縁に沿って続いている。近づいた跡と、引き返した跡と、両方ある。

草原の向こうでは、二つの集団が同じ水場を使っている。顔の形が違う。額の出方が違う。互いの声の調子が違う。しかし同じ時間に同じ場所で水を飲む。近づきすぎると、どちらかが音を出す。低く、短い音。その音で、もう一方が距離を取る。

草原の外れ、岩場の窪みに、ある集団が子を連れて眠っている。

湿った土の匂いが夜通し漂う。豊かな雨の翌日には獣が多く出る。肉は十分ある。しかし集団の中に、何かが緊張している。ある者が別の者を見る目がある。その目が何日も変わらない。言葉はない。しかしその目は何かを決めている。

星は区別しない。水も肉も、目の光も、等しく照らす。

与えるもの

風がその方向から吹いた。

割れ目の縁。湯気が細く立つあの場所。その者が近づいたとき、風は一瞬だけ背中を押す側に変わった。

この者は止まった。足が止まった。

割れ目を覗かなかった。しかし長い間、そこに立っていた。

なぜ渡せるのに届かないのか、ではない。届かなくても渡し続けることしか、できない。第一の星でも渡し続けた。何も返らなかった。それでも渡す。渡すことが止まらない。それが問いだ。止まらないことが、問いだ。

次に渡すべきものは、もう決まっている。この者が排除されるなら、最後に残るものを渡す。

その者(17〜22歳)

割れ目の縁に立って、下を見た。

見えなかった。暗いだけだった。しかし湯気が顔に当たって、頬が温かくなった。怖くなかった。怖いとは別の何かが胸の中にあった。

背中を向けて、岩場に戻った。

集団の中で、大人の男が二人、話していた。声の調子が低い。その二人が、この者を見た。視線が当たって、この者は目を逸らした。

なぜ逸らしたのか、わからない。ただ、逸らした。

夜、端の方で寝た。いつもより端だった。選んだわけではなかった。体がそこに向かった。

暗くなってから、集団の声が聞こえた。この者のことを話しているようだった。声の上がり方でわかった。しかし何を言っているか、理解できなかった。

朝、水を汲みに行った。水場に着いたとき、後ろに二人いることに気づいた。

石を持っていなかった。

岩を拾おうとしたが、間に合わなかった。

足の裏が土から離れた。体が前に傾いた。水面が近づいた。

沈んだ。

水は冷たくなかった。それだけ覚えている。

伝播:HERESY 人口:508
与えるものの観察:風は届いた。最後まで届いた。
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第882話

紀元前295,600年

その者(22〜26歳)

草原の端に立つと、足の裏に温かさがある。

地面は乾いていない。割れ目のそばの土は、いつも少しだけ湿っている。その者はそこに座るのが好きだった。膝を抱えて、靴もなく、足の指で土をつかむ。

二十二歳。集団の中では子どもの位置にいた。狩りを任されるには腕が細く、子どもの世話を任されるには落ち着きがなかった。食べ物を運ぶ。薪を拾う。水を運ぶ。それだけだった。

集団の緊張は夏の終わりから高まっていた。別の集団が近くを通るとき、大人の男たちが声を変えた。低く、短く、喉の奥から出す音。その者には意味がわからなかった。ただ、空気の質が変わるのはわかった。肌が粟立つ。その感覚だけで覚えていた。

ある朝、割れ目のそばで目が覚めた。夜のうちにそこまで歩いたのかどうか、自分でも知らない。体が重かった。立てなかった。

熱があった。腹のどこかが鈍く痛んだ。

水を飲んだ。また横になった。

三日間、その者は割れ目のそばで動かなかった。湯気が体を包んだ。土の湿り気が背中に染みた。誰かが水を持ってきた。誰かが何か言った。その者は目を開けて、声の高さだけを聞いた。

四日目の朝、霧が濃かった。

割れ目から這い出る蒸気が低く漂い、草の先端だけが霧の上に出ていた。その者は仰向けで、それを見ていた。草の先がわずかに揺れていた。風でもなく、息でもなく、ただ揺れていた。

右手が土の上に開いていた。指が少しだけ曲がって、そのまま動かなくなった。

霧は消えなかった。

第二の星

草原の南、川が二手に分かれる場所で、旧人の集団が一夜の火を囲んでいた。火は大きくなかった。誰も言葉を使わなかった。炎の向こうに、子どもが眠っていた。川の音だけがあった。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:NOISE 人口:517
与えるものの観察:渡せた数より、渡せなかった数が多い。
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第883話

紀元前295,595年

その者(35〜40歳)

群れが半分になった。

正確にはわからない。だがそれくらい減った、とその者は感じていた。数える言葉がなくても、空白はわかる。眠るとき、隣の温度がない。起きるとき、聞こえるはずの呼吸が聞こえない。

最初に倒れたのは小さな子だった。次に老いた女。そのあとは速かった。次々と、理由なく、横になって動かなくなった。その者は近寄ろうとした。別の者が腕をつかんで引き止めた。言葉はない。しかし意味はわかった。

近づくな。

その者は引き止める腕を振り払わなかった。

三日ほどして、その引き止めた者も倒れた。

その者は離れた場所から見ていた。何もできなかった。岩の上に座り、膝に顎を乗せ、見ていた。声が漏れた。叫びでも唸りでもない。低く、細く、空に吸われるような音だった。

熱は出なかった。その者には熱が来なかった。

それが問題だった。

群れの中の数人が、その者を見るようになった。同じ眼差しではない。違う眼差し。倒れた者たちの顔を見るときとは別の、冷えた視線。

その者は気づいた。

気づいたとき、体が知っていた。逃げる、という動作を頭より先に脚が知っていた。しかし走らなかった。まだ、走らなかった。

昼の間は普通にしていた。皮を剥いだ獣の骨を石で砕いた。火のそばに座った。目を合わせた。

夜、その者は目を閉じなかった。

翌朝、三人がこちらを見た。三人が立ち上がった。

その者は立った。

岩を拾った。置いた。拾わなかった。

走った。

草を踏んだ。低木をかき分けた。斜面を下りた。川の音が近づいた。足が濡れた。川の中を走った。石が滑った。転んだ。起き上がった。転んだ。流れに手を突いて止まった。

後ろの音が遠くなった。

その者は川の中に立って、しばらく動かなかった。水が冷たく、腿のあたりまで浸かっていた。水の力が体を押した。それでも立っていた。

息が整った。

下流の方から、風が上ってきた。

川の匂いではない。泥でも草でもない。もっと重い、腐ったような、しかし微かな匂いが混じっていた。

その者は鼻を動かした。

匂いを追う必要はないと体が言った。しかし足は上流の方へ踏み出さなかった。

下流を見た。

岸の石の上に、何かの骨があった。獣が来た痕跡。しかし獣の気配はない。骨の白が、光の中で妙に目立っていた。

その者は川を渡った。

骨に近づいた。触った。古い。肉はない。

その者は骨を川に投げた。

投げた後、なぜ投げたのかわからなかった。

座った。濡れたまま、石の上に座った。

水の音が続いた。

群れはもういない方向に、ある。戻ればまた三人が立つ。戻らなければ、ここから先に何があるかわからない。

その者は腹が鳴るまで座っていた。

第二の星

始まりの大地は乾いていない。

东側では乾季が続き、草が黄ばみ、象に似た大きな獣たちが水場を求めて南へ移動した。その群れの轍が土に残り、轍の中に小さな水溜まりができ、水溜まりの端で別の者たちが水を飲んだ。誰かが誰かを知ることなく、水を分けた。

西側の森では、季節の変わり目に実が落ちた。腐る前に鳥が食い、鳥の糞に種が混じり、次の雨の後に芽が出た。それを見た者はいない。

この星の別の場所では、別の生き物たちが別の死に方をしていた。魚が川で腹を見せ、虫が地中に戻り、樹が根から腐り、静かに傾いた。

始まりの大地では、見えないものが通り過ぎた。

集団の中で、それは者から者へ移った。息とともに、触れた肌とともに。誰が運んだかはわからない。最初の者は誰だったか、残った者たちにはもうわからない。

生き残った者たちは、水を探した。食べ物を探した。眠れない夜をやり過ごした。

この星は傾きを変えない。自転を止めない。夜が来て、朝が来た。

川の水は流れ続ける。

川の中で、一人が立っていた。

与えるもの

川の下流から匂いを送った。

重い、腐ったような匂い。人が群れている場所の匂いではない。骨が晒される場所の匂い。その者は鼻を動かした。足は上流へ向かわなかった。

それで十分か、と思った。十分かどうかは次に渡すものを考えてから決める。

糸が繋がった。

この者はまだ、何が繋がったか知らない。それでいい。ただ、川の中で立っていた。濡れたまま、腹が鳴るまで。倒れるまで立っていた者が、かつてもいた。記憶の端に、その形がある。どの大地だったか、もう定かではない。

伝播:HERESY 人口:405
与えるものの観察:匂いで下流を示した。足は止まった。
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第884話

紀元前295,590年

第二の星

北から風が変わった。

湿った重さが消えて、乾いた冷気が尾根を越えてきた。草は根元から色が落ちた。まだ葉の形はしているのに、触れると粉になった。水場が縮んだ。岸の泥が割れ、その割れ目に虫が入って卵を産んだ。

噴火のあとの土が、今も地面の下で熱を持っていた。

地表は黙っていた。しかしいくつかの場所で、踏んだだけで足が沈む地面があった。植物が根を張れない帯が、森の縁に現れた。その帯を渡ろうとした獣が足を取られ、夕暮れまでに力を使い果たして倒れた。

旧人の群れが尾根の向こうにいた。

彼らは新人より大きく、寒さに慣れていた。鼻が広く、肋骨が分厚く、脂肪を蓄える速さが違った。乾期の始まりを感じると、彼らは移動の方向を変えた。水場を知っていた。岩の陰を知っていた。何世代もかけて身体に刻んできた道を歩いた。

その道が、新人の群れの縄張りに近づいていた。

近づいたのは意図ではなかった。水が減り、獣が散り、両者が同じ窪地に向かった。それだけのことだった。しかし接触は起きた。

旧人の若い個体が水場の縁に現れたとき、新人側の一人が石を投げた。

石は当たらなかった。しかし音が岩に跳ねた。旧人はその音を聞いた。新人の群れを見た。数を測るような目ではなかった。ただ、いるということを確認した目だった。それから向きを変えて、来た方向に戻った。

水場に緊張が残った。

新人の群れの中で、何かが変わった。言葉で説明できる変化ではない。ただ、眠るときに向く方向が変わった。夜、目が覚める回数が増えた。子どもを抱える者が、以前より岩の近くで眠るようになった。

岩は壁になるわけではない。

それでも岩の側に寄った。その行動が、何を意味するかを誰も考えなかった。ただ体がそうした。岩の冷たさを背中に感じながら眠ると、片方だけ守られている気がした。気がした、という言葉もなかった。

ただ、そうした。

旧人はその夜、尾根の向こうで火を焚いた。煙が稜線を越えてきた。新人の群れはその匂いを嗅いで、しばらく動かなかった。怒りでも恐れでもなかった。何かを確かめるような静止だった。

煙の匂いが薄れると、また動き始めた。

水場は両者の間にあった。日が高いうちは旧人が来なかった。日が傾くと新人が離れた。どちらも決めたわけではなかった。しかし毎日、同じようにそうなった。

時間が分けた。言葉なしに。

その仕組みを誰も知らなかった。しかし壊れなかった。干ばつの季節が続く限り、その水場は共有された。片方が消えることもなく、片方が奪うこともなく、ただ交互に使われた。

星はそれを照らしていた。

どちらが先に来ていたか、という問いを誰も立てなかった。どちらが正しいか、という問いも。水があった。飲んだ。それだけだった。

与えるもの

水場の縁で、影がある方向に落ちた。岩が影を作る側。旧人の匂いが薄く残る場所ではなく、風上の岩陰。

その者はそちらへ行った。石を拾い、腰を下ろし、水を飲んだ。

旧人の足跡の上ではなかった。

渡したのは場所だった。その者は渡されたとは思っていない。ただ涼しかったから座っただけだ。しかしその者が選んだ場所は、今日、誰とも重ならなかった。それが問いになる。重ならないことを、誰かが覚えていれば。

その者(40〜45歳)

水を飲んだ。岩の陰で、腹に水が落ちる感触。

旧人の匂いがまだ石に染みていた。嗅いだ。嗅ぎ続けた。怒りではなかった。鼻が止まらなかっただけだ。

その匂いに慣れたとき、手が止まった。

立ち上がった。群れの方向に向いた。声を出さなかった。ただ歩いた。

伝播:SPREAD 人口:424
与えるものの観察:重ならなかった。それだけで十分か。
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第885話

紀元前295,585年

その者(45〜49歳)

岩の影から、向こうの稜線を見ていた。

三十年以上、獲物を追ってきた。膝は腫れ、右の肩が動く角度が狭くなっていた。それでも群れの先頭に立った。立てなくなったことがなかったから、立てなくなるとは思っていなかった。

向こうの稜線に、見たことのない形が動いていた。

小さくない。二本足だが、歩き方が違う。肩の位置が低く、首が前に出ている。

腹の奥が、冷えた。

叫んだ。後ろに向かって。腕を振った。下がれという意味で使う動きではなく、来いという動きで。それでも群れは止まった。

彼らは稜線を見た。

相手も、こちらを見ていた。

においが来た。

草の発酵した、酸っぱい重さを持つにおいだった。それはその者の群れのにおいではなかった。

その者の足が、一歩前に出た。

なぜそうしたか、その者には言葉がない。言葉がなくても理由はあったかもしれない。あるいはなかったかもしれない。足は前に出た。

岩を拾った。

投げなかった。持ったまま、歩いた。

相手の群れも、動いた。

そこから先は速かった。

最初の衝撃で右膝が折れた。地面に手をついた。岩の端が、手のひらに刻まれた。立ち上がった。立ち上がれたことに、一瞬、驚いた。

二度目で、前に倒れた。

草の匂いがした。乾いた土の匂いがした。

遠くで、群れが叫んでいた。

それが聞こえている間は、まだ自分のことが分かっていた。

聞こえなくなった。

空は青かった。

その者はそれを見ていなかった。もう顔を上げる力がなかった。

土が温かかった。土の温かさの中に、顔を埋めたまま、体から力が抜けていった。岩が、手の下に残った。

第二の星

乾いた高地の平原で、別の群れが水場を見つけた。泥だらけで、浅い。それでも子どもを連れた四人が顔を浸けた。飲んだ。飲み終えて、また歩いた。どこへ向かうかは決まっていなかった。足が、方向を知っていた。

与えるもの

においが、その者の足を一歩前に出させた。次に渡すべき者を、与えるものはまだ探している。

伝播:NOISE 人口:440
与えるものの観察:足は前に出た。それだけだ、とは言わない。
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第886話

紀元前295,580年

第二の星

乾いた季節が終わりに近い。草原の端では、風が方向を変えはじめていた。

大地の東側、岩が折り重なる斜面に、人の群れが二つある。同じ草を食べ、同じ獣を追い、同じ声の輪郭を持つ。だが互いに背を向けて眠る。火を近づけない。

西の低地では、別の顔つきをした者たちが動いていた。額が張り出し、首が太い。彼らも群れを作り、火を持ち、幼い者の頭を撫でた。ある夜、その群れの中で子が生まれた。泣き声が岩壁に反射した。誰も黙らせなかった。

北の方角では、雨が降り続けていた。川が増水し、獣の道が消えた。移動できない群れが、一箇所で身を寄せていた。腹を空かせた幼い者が三人、水辺で動かなくなった。水は静かにそのまま流れた。

稜線のこちら側では、その者が立っていた。

風が変わった。獣の匂いではない。別の何かだった。

与えるもの

糸が繋がった。

その者の立つ岩の面に、午後の光が鋭く落ちた。影の向きが変わる直前の、あの短い時間。

光が当たった場所の少し先に、足跡があった。獣のものではない。足の形が違う。土がまだ柔らかい。

その者は立ち止まった。

渡せた、と思った。しかし次の瞬間、群れの中の誰かが声を上げた。その者の視線が動いた。足跡から離れた。

問いではない。ただ確認だ。渡したものを拾う手があった。その手が別のものを掴んだ。それでも手は存在した。次に渡すなら、もっと早く、もっと近くで落とさなければならない。光ではなく、もっと身体に近いものを。

その者(26〜31歳)

夜明け前に目が覚めた。腹ではなく、背中の感覚で起きた。何かが違うという感覚。説明できない。ただ違う。

群れの中で眠っている者たちを見渡した。吐く息が白かった。

夜が明けてから、東の稜線を越えた。先頭に立つのはいつもこの者だった。体が大きく、足が速い。膝の腫れは前年より増していたが、坂を下るときだけ歩き方を変えれば他の者にはわからない。

岩の段差を降りたとき、光が一か所に強く落ちた。足が止まった。

前にいた者たちが振り向いた。止まった理由を問うような声を出した。この者は何も言わなかった。光の落ちた先を見た。

足跡があった。

しゃがんだ。指で縁を辿った。土の湿り気がまだある。深さが自分の足跡と違う。形も違う。

後ろから声が重なった。早く進めという意味の音。

立ち上がった。足跡から目を離した。先頭に戻った。

その日の夕方、獲物は獲れなかった。群れに戻ると、東の岩場に人影があった。自分たちの群れではない。立ち方が違う。

誰かが石を拾った。

その者は石を拾わなかった。ただ立って、向こうを見た。向こうも立って、こちらを見た。

風が間を抜けた。

どちらも動かなかった。

やがて向こうが引いた。岩の向こうに消えた。

その者は手を開いたり閉じたりした。石を持っていなかったことに、そのとき気づいた。群れの中で、誰かがこの者を横目で見た。その目の色が、岩の影に似ていた。

伝播:HERESY 人口:428
与えるものの観察:渡した光を、別の声が消した。
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第887話

紀元前295,575年

その者(31〜34歳)

朝、草の根元に霜が降りていた。

その者は起きる前から目を開けていた。背中に岩の冷たさが沁みていた。空は白く、まだ鳥がいなかった。

集団の中で誰かが咳をした。子どもの声だった。その者は寝返りも打たずに音の方向を聞いた。

三日前から、東の群れとの距離が縮んでいた。

縮んだのは土地のせいだった。水場が一つになったのだ。川の支流の一本が涸れた。残った流れに、両側から人が近づいた。

その者は水場に行くたびに東の影を見た。見て、戻った。言葉はなかった。あるのは向いた顔と、向かない顔の差だった。

二日前の夜、集団の年長者が長く声を出した。

その者には意味の半分しかわからなかった。しかしその者の名に近い音が何度も出てきた。その者は黙って座っていた。焚き火の煙が目に入った。目が濡れた。それだけだった。

昨日、東の群れの男が水場の縁に立った。

その者の集団も縁に立った。両側から、声が出た。短い音、鋭い音、繰り返す音。

その者は前に出た。体で出た。頭ではなかった。

東の男も前に出た。

岩が飛んだ。誰が投げたかは見えなかった。

その者の頬骨の上を岩が掠めた。血が出た。温かかった。その者は手で触れた。手が赤くなった。その者は声を出した。それは警告でも命令でもなかった。ただの音だった。

今日の朝、その者は一人で水場に行った。

集団が止めた。声が出た。その者は行った。

水を飲んだ。水が冷たかった。腹の中に冷たさが入った。鳥がようやく空にいた。

東の男が二人、草の向こうから現れた。

その者は立った。

石が来た。一つ目は外れた。二つ目は来なかった。来たのは棒だった。

その者は倒れた。地面が顔に当たった。土の匂いがした。湿った土だった。

空が見えた。鳥がまだいた。

力が、足の先から消えた。胸から消えた。最後に指先が草に触れていた。草は濡れていた。霜が解けていたのだ。

水場の縁に、その者はそのまま残った。

集団は来なかった。しばらくして、来た。声が出た。長い声だった。短い声だった。

誰かが膝をついた。誰かは立ったままだった。

子どもが一人、その者の手に触れた。冷たかった。子どもは手を引いた。

第二の星

草原の北、風が海に向かって抜ける丘の上で、旧人の一群が火を囲んでいた。彼らは声を出さなかった。火が燃えていた。一人が枯れ枝を足した。火が大きくなった。空に煙が細く上がった。誰もそれを見上げなかった。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:421
与えるものの観察:渡した先で使われなかった。それでも渡す。
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第888話

紀元前295,570年

第二の星とその者(13〜18歳)

北の尾根から雪解けの水が流れ始めた最初の年、集団の中で二つの火が消えた。病ではなかった。あるいはそうかもしれなかった。誰も確かめなかった。

その者は荷を背負っていた。皮を剥いだ獣の脚、木の根、乾いた葉の束。大人より少し遅く歩き、子より少し速く歩いた。背中の皮が擦れて赤くなっていた。

川が増水した年の終わり、集団は高い場所へ移動した。岩棚の下に体を寄せ合い、風が変わるのを待った。その者は縁に座り、下を見ていた。水の音が腹の底に届いた。

夜、誰かが声を上げた。低く長い声だった。応える者はいなかった。

三年目に、旧人の痕跡が現れた。足跡ではなかった。折れた枝の向き、食いちぎられた獣の骨、灰の残り方。古参の者たちが顔を見合わせた。その者にはその意味がわからなかった。ただ大人たちの体が固くなるのを見た。

その者の右手に温もりが来た。

熾火のそばを通ったわけではなかった。風も吹いていなかった。ただ右手の甲が、内側から温かくなった。その者は手を見た。何もなかった。それでも手を握り込んだ。離さなかった。

四年目の夏、集団の中で緊張が裂けた。

旧人の一団が川の向こうに現れた。数えられるほどだったが、体が大きかった。古参の者が声を上げ、若い者が石を持った。その者は荷を下ろさなかった。ただ後ろに下がった。

川を挟んで何も起きなかった。旧人は去り、集団も動かなかった。

夜、その者は地面に手を置いた。土が冷えていた。昼の温もりが残っていた。どちらでもあった。

五年目の春、誰かがその者を指差して何かを言った。単音だった。繰り返された。他の者が頷いた。その者には聞こえていた。何を意味するか、わかっていた。

知りすぎた、というのではない。見ていた。見ていて、いなくなることを知らなかった。

集団が動いた日の朝、その者は起きなかった。

正確には、起き上がろうとして、止まった。体の外から押さえられたのではなかった。体の中で何かが終わった。岩棚の縁から、水の音だけが来た。

与えるもの

糸が繋がった。

右手の温もりを渡した。熾火でも日差しでもない、内側の熱を。

その者は手を握り込んだ。五年間、離さなかった。

次に渡すべきものを、私はまだ持っている。

この者が握ったまま消えたとしても、その握り方が、次の誰かの手の中に残るかどうか。それだけが問いだ。

伝播:HERESY 人口:415
与えるものの観察:右手の温もりを握り込んで消えた