2033年、人類の旅

「紀元前295,565年〜紀元前295,445年」第889話〜第912話

Day 38 — 2026/05/10

読了時間 約60分

第889話

紀元前295,565年

第二の星

雪解けの水が低地へ流れ込んでいる。

北の尾根は白から灰へ変わった。そこだけではない。星の裏側では、乾いた台地に亀裂が走り、地表の水が地の底へ吸われていく。草が黄ばむより先に、根が腐っている。獣の群れが方角を変えた。何百頭かが、いつもとは違う山を越えていく。

海に面した崖の上では、別の集団が火を囲んでいる。彼らはこの集団とは呼び名が違う。顔の輪郭が似ている者もいれば、背の高い細い体型の者もいる。混じり合いが始まっているのか、終わりかけているのかは、見ただけではわからない。火の前で誰かが腕を広げた。踊るように。それとも何かを追い払うように。

始まりの大地では、集団間の距離が縮まっている。縮まっているが、それは近づいたということではない。

緊張と距離の縮まりは別のことだ。

川沿いの低木が今年も芽吹いた。それだけは、どの集団にも等しく起きた。

与えるもの

風がその方向から吹いた。岩の割れ目の、ちょうど向こう側から。

その者は鼻を上げた。

嗅いだ。立ち止まった。それから荷を下ろした。

この者が何かを感じ取ったとき、いつも体が先に止まる。頭より早く、足が止まる。そのことを、私はずっと見ている。

あの割れ目の向こうに、別の集団の痕跡がある。古い焚き火の跡と、獣の骨と、足の形が残った泥。二日か三日か、それよりもっと前か。

渡したかったのはその情報ではない。

渡したかったのは、立ち止まる習慣だ。

この者はすでに立ち止まっている。しかし立ち止まった理由を、この者はまだ言葉にできない。次に誰かに渡せるかどうかは、言葉になるかどうかにかかっている。言葉にならないものは、この者と一緒に消える。

それでも風を送り続けるべきか。

その者(18〜23歳)

荷が重かった。

皮と骨と干した実。それだけで背中が曲がる。足の裏に石の感触が上がってくる。尖った石、丸い石、濡れた石。踏むたびに少しずつ違う。

岩の割れ目の前で足が止まった。

止まった理由がわからなかった。何かが鼻の奥で変わった。焦げた匂いでも腐った匂いでもない。ただ違う何かがあった。

荷を下ろした。

割れ目の向こうを見た。見えるものは石と影だけだった。

それでも近づかなかった。

しゃがんで地面を触った。泥だった。手のひらに湿り気が残った。指の跡のような何かがあった。自分の指とは違う形だった。

長い時間、そこにいた。

荷を拾い上げたとき、体の向きが変わっていた。集落への戻り方が、来た道とは少しだけ違う角度になっていた。その者は気づいていなかった。ただ足が、別の道を選んでいた。

その夜、集落の火の前で、その者は片手を岩に当てた。

岩の割れ目の話をしようとして、音が出なかった。

出てきたのは一つの音だった。低く、短い。誰かがそちらを見た。見ただけだった。その者はもう一度、同じ音を出した。

今度は誰も見なかった。

その者は手を岩から離した。火を見た。火は何も言わなかった。

伝播:DISTORTED 人口:430
与えるものの観察:立ち止まることが渡せるか、まだわからない
───
第890話

紀元前295,560年

第二の星とその者(23〜28歳)

東の斜面に、岩がずれた。

音ではなかった。足の裏が先に知った。地の奥から伝わってくる、低い揺れ。木の梢がそれに応じて揺れ、池の水面が一瞬、同心円を描いた。火山の名残を体に持つ北の山が、細い煙を吐き続けている。灰は西へ流れ、草原を灰色に変えた。

その者は荷を持っていた。皮に包んだ木の実と、干した肉と、砕けた石の欠片が混じったもの。重さは肩に食い込み、ひとつの足が砂地に深く沈んだ。立ち止まった。揺れはもう止んでいたが、体の中にまだあった。

集団の中に、別の声がある。

喉の形が違う。歯の並びが違う。眉の骨が厚く張り出した者たちが、川の北に住んでいる。彼らは火を持つ。石を叩いて刃を作る。その者の集団も火を持ち、石を叩いて刃を作る。しかし何かが違う。皮の巻き方が違う。歩き方が違う。笑い声の音が違う。

その者は荷を下ろした。

理由はわからない。ただ下ろした。膝をついて、砂に両手をつき、揺れの残響が足の骨から出ていくのを待った。近くに、白い石が半分だけ地面から出ていた。丸みのある頂。その者は石の表面に指の腹を当てた。温かかった。昼の光を長く受けていたのか。あるいは地の内側の熱が伝わっているのか、その者には区別がつかない。

区別がつかなくても、温かかった。

川の北から、声が聞こえた。低く、繰り返す声。自分の集団の声ではない。その者は立ち上がり、荷を拾い、声の方向に顔を向けた。向けただけで、動かなかった。

東の斜面では、岩が一枚、静かに傾いた。何年もそこにいた岩だった。根元の土が少しずつ流れ、支えを失ったのだ。傾いた岩の下から、湿った土の匂いが立ち上った。

その匂いが風に乗った。

その者の鼻に届いた頃、風はすでに向きを変えていた。しかし匂いは残った。腐敗ではない。濡れた土の、深いところから来る匂い。その者は無意識に口を開けた。匂いを飲み込むように。

集団間の緊張が高まっていた。川の北の者たちが、南へ来る回数が増えていた。食料が不足しているのかもしれない。灰が草原を覆い、草食の獣が移動した。獣が移動すれば、それを追う者も移動する。

その者の集団のなかで、声が荒くなる夜がある。

誰かが大声を出す。誰かが石を地面に叩きつける。その者は端にいる。荷を運ぶ者は端にいる。炎の外側で、膝を抱えて声を聞く。声の意味を言葉として理解する力は持っていないが、声の温度はわかる。熱く、鋭く、壊れそうな声。

夜明けに雪が降った。春が終わろうとしているのに、北の風が戻ってきた。薄く積もり、昼には消えた。

その者は雪が消えていく様を、長い時間見ていた。石の上の雪が先に消える。草の上の雪が後に残る。端から縮んでいくのではなく、場所によってまだらに消える。その者はそれをただ見ていた。説明しようとせず、ただ見た。

与えるもの

岩が傾いたとき、湿った土の匂いを風に乗せた。

その者は口を開けた。匂いを体に入れた。

渡せたのか。岩の下に何があったか、この者はまだ知らない。しかし湿った土の匂いを知っている。知っているものは、また気づけることがある。次に渡すとすれば、岩そのものではなく、岩の下にあるものかもしれない。

伝播:NOISE 人口:437
与えるものの観察:匂いは体に入った。言葉より先に。
───
第891話

紀元前295,555年

第二の星

空が変わったのは夜のうちだった。

北の稜線を越えて風が来た。湿っていなかった。乾いて、土の匂いがなかった。岩の冷たさだけを運んでくる風だった。草がそれに倒れ、また起き上がり、また倒れた。火を囲んでいた者たちは顔を上げなかった。風の変化を知覚する言葉を、彼らはまだ持っていなかった。

明け方、東の谷から煙が見えた。

煙ではなかった。埃だった。岩が崩れたのか、動物の群れが走ったのか、それとも別の集団が動いたのか、誰にもわからなかった。ただ、埃の柱は太く、長く、風に流されながらも消えなかった。集団の中の年嵩の者が立ち上がり、それを見た。子どもたちは黙った。それだけだった。

東の谷には、別の集団がいる。

ここ数日で、その気配が増していた。足跡が増えた。水場の泥に、見慣れない形の圧痕が残っていた。焚き火の跡が増えた。集団の若い男たちは岩を手に持つ時間が長くなった。眠りが浅くなった。夜に目を開ける者が増えた。

言葉では説明できないことを、体が先に知っていた。

水場を巡る争いがこれまでにもあった。この星はそれを何度も見ていた。石が飛び、誰かが崩れ、集団が分かれ、分かれた片方が消えた。あるいは交わって、新しい形になった。どちらが正しいか、この星には関係がなかった。岩が削れるように年月が積まれ、どちらの血も混ざり、どちらの記憶も残らなかった。

今朝の埃の柱は昼前に消えた。

しかし谷の底から、時折、音が聞こえた。打つような音だった。石と石が当たる音とも、骨が折れる音とも聞き分けられない。集団の者たちは耳を立てた。立てたまま、動かなかった。

荷を運ぶ役の者がいた。

集団の端に置かれた存在だった。荷を背負い、水を運び、火の近くにいることが許されない夜もあった。この者が何かを言っても、集団の中心にいる者たちは振り向かなかった。それでもこの者は集団から離れなかった。離れれば、単独では生きられないことを知っていたからではない。体がそれを学んでいた。言葉より早く。

昼を過ぎて、谷の底の音は止んだ。

静かになった。静かになったことが、かえって集団を緊張させた。音があれば場所がわかる。音がなければ、どこにいるかわからない。年嵩の者が立ち上がり、北の方向に手を向けた。移動の合図だった。集団が動き始めた。荷が持たれた。子が担がれた。火が消された。

この星は動く雲の影が草原を走るのを見ていた。

影は集団の上を通過し、谷を越え、北の稜線を越えて消えた。集団の足音は砂に沈み、しばらく形を残し、次の風で消えた。

与えるもの

移動が始まった直前、光が落ちた。

草の中の、小さな窪みに。雨水が溜まっていた。澄んでいた。その者はそこを踏もうとして、止まった。

水面に自分の顔が映っていた。

見た。見た後、踏んで、歩いた。

踏んだことについて、与えるものは何も思わなかった。映ったことを、見たかどうかを、問い続ける。次に渡すべきものは、もっと長く留まるものでなければならないか。それとも、一瞬で十分なのか。

その者(28〜33歳)

荷が重かった。

肩の皮が擦れていた。前の者の背中を見ながら歩いた。踏まれた草の上を踏んだ。

水場の窪みを踏んだとき、冷たかった。足が止まった。水が揺れた。揺れた中に何かがあった。それが自分だとは思わなかった。ただ、揺れが止まるのを待った。

止まった後も、少しの間、見ていた。

前の者が振り向いた。この者は歩き始めた。

伝播:HERESY 人口:424
与えるものの観察:水面を踏んだ。映ったものを見た。それだけか。
───
第892話

紀元前295,550年

その者(33〜37歳)

荷は重くなかった。

それが問題だった。

集団が移動を始めたとき、この者には荷が渡されなかった。毛皮も、乾いた肉も、子どもも。ただ後ろをついてこいと身振りで示された。示した者は目を合わせなかった。

この者は三十三のときから端にいた。端というのは場所の話ではなく、位置の話だ。焚き火の輪に入れるが、肉が最後に回ってくる。子どもに荷を運ばせるより先に、この者に運ばせる。使える。しかし中心ではない。

それは昔からそうだった。

頭が速くなかった。声が大きくなかった。しかしこの者の手は確かで、重いものを長く持てた。それだけで三十七年、生きてきた。

移動が三日目に入ったとき、集団の中で何かが変わった。

火をどこに置くかで、二人の男が声を荒げた。片方はこの者のほうを見た。短く、鋭く。意味がわかった。この者が何かを知っている、そう思われていた。

知っていることは何もなかった。

ただ、二つ前の野営地で、この者は水場の方向を覚えていた。だれも気に留めない向きから風が来ていた。湿り気があった。この者は何も言わなかったが、その方向へ歩き始めた。ほかの者がついてきた。水があった。

それだけのことだった。

しかし男たちの目には別の何かに見えたのかもしれない。

四日目の朝、崖沿いの道を歩いていた。

細い道だった。片側が岩、片側が落ちていた。この者は列の後ろにいた。だれかが後ろから押した。肩への圧力は一瞬だった。

足が滑った。

落ちながら、空が見えた。

白かった。

岩が体を受け止めた。音がした。音は聞こえなくなった。

集団は歩き続けた。足音が遠くなった。石の上に、この者は残された。

風が来た。崖の下から、湿った風が。

第二の星

同じ頃、北の湿地では霧が低く垂れ込め、一頭の大きな獣が水の中に足をとられていた。もがかずにいた。ただ立っていた。霧の中でそれはゆっくり沈んだ。星はどちらも照らした。崖の下の者も、湿地の獣も、区別しなかった。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:415
与えるものの観察:渡したのは湿り気だった。使われた。消えた。
───
第893話

紀元前295,545年

第二の星

北の稜線から冷気が降りる。雪はまだない。草の先が白く縁どられるだけだ。

集団は谷の南斜面に留まっている。移動の疲れが骨に残っている。焚火が三か所。煙が低く流れる。風が東から来ているからだ。

遠く西の平野では、別の群れが水場の周囲に散らばっている。こちらより体の骨格がやや太い。額の張り出し方が違う。彼らも火を持つ。彼らも子を抱いて眠る。

どちらも、ただ在る。

斜面の岩肌に、指で引っかいた線が残っている。誰が引いたか。いつ引いたか。この星には記録がない。線が在る、それだけだ。

北の稜線を越えた先では、氷河の末端が少しだけ後退している。水が増えた。草が広がった。獣の群れがそこへ移った。

集団の緊張はまだ体の中にある。押し合いの記憶が筋肉に残っている。誰かが誰かを見るとき、目が長く留まらない。

子どもたちは別のところを見ている。

与えるもの

糸が繋がった。

この者は八歳だ。私がこの者と繋がったのか、それともこの者がたまたま私の傍にいたのか、私にはまだわからない。前の者は二十五を超えて生きた。糸は途中で——いや、やめよう。今この者がいる。

谷の斜面に、朝の光が落ちた。岩の割れ目に沿って、細い帯のように。

その中に、乾いた草の束が挟まっていた。獣が踏み荒らした後に残ったものだ。茎の断面が潰れている。潰れた端から、かすかに青い匂いが滲んでいた。

この者は立ち止まった。草を見なかった。ただ、その匂いのする方向に顔を向けた。

受け取ったのか。わからない。しかしこの者の足が、その岩の傍に向いた。

次に渡すべきものが何か、私はまだ決めていない。この者が八歳であることが、私の中で何かを変えている。どこまで待てばいいのかを、私は知らない。けれど待つことには慣れている。慣れすぎているかもしれない。

八歳

青い匂いがした。

何の匂いかわからなかった。岩の方を向いた。草があった。踏まれた草だった。また歩いた。

集団の中では荷を持てる者が偉かった。この者には何も持たせてもらえなかった。速く走れても、それは荷を持つこととは別だった。

夜、焚火の端に座った。大人が背中で壁を作っていた。この者はその外側にいた。煙が流れてきた。目が痛かった。場所を変えた。また煙が来た。また動いた。

眠れなかった。空に白い光の帯があった。この者はそれを指で辿ろうとした。届かなかった。やめた。

十歳

獣の皮を引っ張る仕事を覚えた。両手で端を掴んで、後ろに体重をかける。皮が伸びる。大人がその間に石を押し当てる。皮が薄くなる。また引っ張る。

手の皮がめくれた。血が出た。大人が一瞥した。やめなかった。

この年、集団の子のひとりが水辺で足を滑らせた。流れが速かった。声が遠ざかった。追いかけた者がいたが、岸から届かなかった。

夕方、誰もその名を呼ばなかった。ただ焚火が一か所減った。

十二歳

旧人の群れを初めて見た。

谷の対岸だった。三人だった。この者より頭ひとつ分だけ大きかった。額が前に出ていた。彼らもこちらを見ていた。

集団の大人が低い声を出した。固まれという意味の声だった。この者は固まった。

旧人たちは動かなかった。長い間、ただ見ていた。やがて茂みの中に消えた。

その夜、この者は眠れなかった。旧人の目を思い出した。白目が少なかった。それだけが違う気がした。他はわからなかった。

十三歳

走ることで集団の端から使い走りに使われるようになった。水場の様子を見てこい。遠い岩陰に何かがいるか確かめてこい。

足が速いということは、危ない場所に最初に行くということだった。

ある朝、低木の茂みの向こうに旧人がいた。一人だった。この者と同じくらいの背丈だった。子どもだったかもしれない。

どちらも動かなかった。

旧人の子が、ゆっくり手を上げた。何をしたいのかわからなかった。この者も手を上げた。なぜそうしたか、わからなかった。

旧人の子が茂みに消えた。

この者はしばらくその場に立っていた。手をまだ上げたままだった。

やがて手を下ろした。集団の方へ走り戻った。何も報告しなかった。

伝播:NOISE 人口:430
与えるものの観察:手を上げた。なぜそうしたか、私もわからない。
───
第894話

紀元前295,540年

第二の星

大地の南、湿った平地に生き残った群れがある。半数以上が子どもだ。大人の骨格を持つ者は指で数えられる程度しかいない。彼らは互いを呼ぶとき、同じ音を使う。その音は喉の奥から出て、鼻に抜ける。意味は文脈で変わる。同じ音が、来い、にも、危ない、にも、食べろ、にもなる。

北の高地では別の形の手が岩を叩いている。拳の付け根で割る。指先で縁を確かめる。割れ口が鋭ければ、それを使う。鈍ければ、また叩く。そこに言葉はない。音もほとんどない。ただ石と石がぶつかる音だけが谷に響いて、すぐ消える。

東の浅い川沿いでは、獣の群れが夜明けに渡った跡が泥に残っている。蹄の形が連なって、対岸に向かっている。渡った理由を知る者はいない。渡った事実だけが泥に刻まれ、次の雨が来るまでそこにある。

南斜面の集団は火を囲んでいる。火は小さい。薪を惜しんでいる。煙が横に流れる。風は東から来ている。

夜、星は変わらず出ている。

与えるもの

煙の流れを見ていた。

東から来る風が、その者の頬の左側を冷やした。

その者は火を見ていた。煙を追っていなかった。

かつて水面に映した形が揺れた。揺れが止まったとき、形は戻った。渡したはずのものが、見えないところに沈んでいるだけなのかもしれない。それとも沈んだまま消えたのか。

今夜は風の向きを渡した。

この者が風を感じたかどうか、私には分からない。しかし渡した。次に渡すべきものは、風の向きの先に何があるかだ。その者がまず風を感じなければ、先の話にはならない。

その者(13〜18歳)

火が小さかった。

その者は端に座っていた。大人たちの輪の外、膝を抱えて地面に足の裏をつけていた。火の熱は届かない。それでもそこにいた。輪の中に入れる大きさではなかった。

左の頬が冷えた。

顔を向けた。東の方向に暗い草地が広がっている。夜で何も見えない。音もない。風だけが草を揺らして、また止んだ。

その者は立ち上がった。

誰も見ていなかった。大人たちは火を見ていた。あるいは目を閉じていた。一番幼い子が寝息を立てている。

その者は草地のほうへ数歩歩いた。足の裏に夜露が冷たかった。草が踝に触れた。

立ち止まった。

暗い。向こうは暗い。風がまた来た。左の頬を冷やして、通り過ぎた。

その者は暗い草地の向こうを見た。目を細めた。何も見えなかった。

それでも、何かあった。

何かという言葉を、その者は持っていない。音も持っていない。しかし、体の中で何かが動いた。腹の下のほうが、微かに締まった。それが何を意味するのか、その者には分からなかった。

引き返した。

火の端に戻って、また膝を抱えた。左の頬はまだ冷えていた。

夜が深くなっても、その者は眠らなかった。時々東の方向を向いた。暗い草地はずっとそこにあった。

伝播:SILENCE 人口:440
与えるものの観察:風は渡った。先を渡すのは次だ。
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第895話

紀元前295,535年

その者(18〜20歳)

朝、靄が低く垂れていた。

その者は群れの外れで寝ていた。腹の下に乾いた草を集め、膝を曲げ、両腕を胸の前で交差させていた。目が覚めたとき、靄の中に別の群れの影が見えた。

その者は動かなかった。

影は四つあった。歩き方が違った。足の置き方が、自分たちとは違う。

その者は音を立てずに起き上がり、群れへ向かって走り始めた。走るのは得意だった。草が足首を打った。湿った土が跳ねた。

群れの大人のひとりが手を挙げた。その者が喉の奥から音を出した。短く、二度。

「来る。来る。」

大人たちが立ち上がった。子どもを抱える者がいた。腕を伸ばして方向を示す者がいた。群れは動いた。

その者は振り返った。

影は六つになっていた。靄の中で増えていた。

水の匂いがした。川が近い方向から、それとは別の、鉄のような匂いが混じって来た。

その者の鼻が動いた。

匂いの源は靄の中にあった。その者はその方向を向いた。一歩だけ、踏み出した。

光が一瞬だけ、靄の切れ目から差し込んだ。川沿いの草の間、踏み跡が乱れている場所に落ちた。

その者はそこに何かがいたことを理解した。

もう遅かった。

石が来たのではない。

身体の右側に、重い何かがぶつかった。肋骨のあたり。その者は横に倒れた。草の中に顔が埋まった。湿った土の匂いがした。

足が動いた。立とうとした。

立てなかった。

空が白かった。靄の向こうに光が広がり始めていた。朝になろうとしていた。

その者はその白さをしばらく見ていた。

草が風に揺れた。遠くで群れの音がした。子どもの声だったかもしれない。

やがて、それも聞こえなくなった。

第二の星

同じ時刻、大地の北方、岩石の台地では旧人の一群が獣の骨を積み重ねていた。雌の旧人が骨の間に枯れ草を差し込み、何かを形作っていた。目的は誰にもわからない。岩の上に風が吹き、草が散った。旧人はまた草を拾い、また差し込んだ。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:426
与えるものの観察:渡した光を、この者は踏み出しに使った
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第896話

紀元前295,530年

第二の星

靄が晴れた。

大地の北側、枯れた川床が白く光っている。岩が露出し、その間に砂が溜まっている。風はない。草の穂が動かない。

この5年のあいだに、南の密林では大きな旧人の集団が分裂した。半数が西へ消えた。残った者たちは元の縄張りより狭い場所に留まり、夜に声を上げる。その声は低く、胸から出てくる。返す声がなくなった夜もある。

東の高地では、小さな集団が火を保持したまま峠を越えた。雪の斜面を三日かけて渡った。峠の向こうは風が弱く、果実が多い。彼らは止まった。そこに留まることを決めた者と、戻ろうとした者がいた。戻った者はいない。

始まりの大地では、別の群れが近くにいる。

昨日より近い。

川を挟んで向こう側に、焚き火の煙が見えた。煙は細く、まっすぐ上に伸びた。風がなかったから。

与えるもの

糸が繋がった。

この者は18歳だ。まだ細い。まだ速い。

川の向こうの煙を、この者は見ていた。見ながら立っていた。次に何をするか、知っている者はいなかった。この者も知らなかった。

煙の根元に、光がひとつ落ちた。朝の光ではない。角度が違う。岩の面が反射した、一瞬の光だった。川の向こうの岩が白く光った。光の下に、川を渡れる浅瀬があった。

この者は光を見た。

それだけだ。使うかどうかはわからない。渡るために使うのか、逃げるために使うのか、それとも何もしないのか。問いは残る。次に渡すべきものが、もうそこに在る。川底の石の感触か、向こう岸の草の匂いか。まだ決めていない。

その者(18〜23歳)

朝から腹が鳴っていた。

群れの外れで立ったまま、川の向こうを見ていた。煙が細く上がっていた。煙を見るとき、胸の中に何かが詰まる感じがあった。恐れとは違う。息が浅くなる、それだけだった。

光が岩に落ちた。

その者は目を細めた。光のある場所に浅瀬が見えた。石が連なり、水が白く砕けていた。足首ほどの深さだとわかった。渡れる。

渡らなかった。

しゃがんで、足元の地面を手で触れた。乾いた土だった。指で引っかくと、下は固かった。その者は立ち上がり、群れのいる方に顔を向けた。群れは30歩ほど後ろに固まっていた。誰も川を見ていなかった。

その者はひとりで川岸まで下りた。

水に手を入れた。冷たかった。指の間を流れが抜けた。流れは強くない。石の上に足を乗せると滑らなかった。もう一歩。また一歩。膝まで水が来て、足の裏から冷えが上がってきた。

川の真ん中で止まった。

向こう岸まで10歩もない。煙の出ている場所まで、歩いて行ける。

止まっていた。

水が足首を押した。流れは一定だった。その者は上流を見た。空が広かった。雲がなかった。川の向こうの岸に、草が深く茂っていた。草の中に動くものはなかった。

引き返した。

岸に上がり、濡れた足で土の上に立った。足跡が残った。その者は自分の足跡を一度だけ見た。それから群れの方へ歩いた。

夜、火の端で眠った。川の水の冷たさがまだ足の裏にあった。夢は見なかった。

伝播:SILENCE 人口:434
与えるものの観察:浅瀬を見た。渡らなかった。しかし知った。
───
第897話

紀元前295,525年

第二の星

大地の北側で、水が消えた。

川床が白く乾いて久しい。しかし今年、雨季が来なかった。来なかったというより、来るはずの雨が別の場所に落ちた。南の山脈を越えた雲が、内陸まで届かなかった。草原の縁が黄色くなり、次に茶色になり、次に風に飛んだ。

草が飛ぶと、土が飛ぶ。土が飛ぶと、何もなくなる。

434の命が「始まりの大地」に散らばっている。その多くは南寄りの水場に近い場所に固まっているが、北の群れは水を探して移動を繰り返している。移動の途中で子を産む者がいる。産んだ場所にその子を置いていく者がいる。泣き声は半日で止まる。

旧人との境界線が、この乾燥とともに変わった。

旧人は水場に執着する。かれらは人類よりも重く、水を多く必要とした。川の上流にいた旧人の集団がゆっくり南に下ってきた。足音は遅いが、立ち止まらない。かれらは一か所に座り込み、岩のように動かず水を飲み、また南へ向かった。その通り道に人類の小さな集団がいた。

争いとは呼べない。旧人はその者たちを排除しようとしたのではない。ただ、歩いた。歩く先に何かがあれば、退けた。退けられた側の一人が崖の縁に足をかけ、落ちた。声は一度だけ聞こえ、それきりだった。旧人は止まらなかった。崖の下を見ることもなく、水場へ続く岩の道を進んだ。

北の草原に、煙の匂いが残っている。

二日前に起きた火だ。乾いた草に誰かが火種を落とした。意図があったのか偶然だったのか、それを知る者はいない。炎は西へ広がり、旧人の一集団の寝床の跡を焼いた。すでに移動した後だったから、命は失われなかった。しかし火は人の寝床も焼いた。三家族ぶんの寝床が灰になった。

灰の中に何かが残っていた。

誰かが使っていた獣の骨だ。一端が黒く焦げ、もう一端が白く残っている。形は変わっていない。割れてもいない。それを拾った子どもがいた。熱かったのか、すぐに手を離した。骨は灰の上に戻った。

風が北から吹いている。

乾いた風だ。この風が続けば、川床は来月も白いままだろう。南の密林との境界で、旧人の新しい集団が移動を始めた気配がある。足跡と、折られた枝と、排泄の痕跡。それを人類の若い狩り手が見つけた。見つけて、群れの中心にいる者のところへ戻り、手と声で何かを伝えようとした。

中心にいる者は別の方向を向いていた。

伝わらなかった。

北の空が白い。雨ではない。砂だ。砂が風に乗って帯になり、水平線の向こうに溶けていく。それを見ている者は今日、この大地に何人いるだろうか。砂の帯を見た者が、それを美しいと感じたかどうか。感じたとして、その感覚を誰かに渡せたかどうか。

言葉がなければ、砂の帯は砂の帯のまま消える。

与えるもの

骨の断面から、匂いが立ちのぼっていた。

焦げた匂いの奥に別の匂いが混じっていた。獣の内側にあった何かの匂いだ。その者の鼻が、灰の中の骨に向いた。

その者は三歩近づき、また離れた。

何が残るのか。何が消えるのか。私が今渡したのは匂いだったのか、それとも別の何かだったのか。渡したものが疑問になった。次は、形のあるものを渡してみたい。

その者(23〜28歳)

骨の前で、止まった。

匂いがした。知っている匂いではなかった。知らない匂いだったから、鼻が動いた。鼻が動いたから、足が止まった。

しゃがんだ。骨を見た。触らなかった。

立った。群れの方向へ歩いた。

骨のことは誰にも伝えなかった。伝える言葉を持っていなかったから、ではない。伝えるべきかどうか、判断できなかったから、だ。

伝播:DISTORTED 人口:449
与えるものの観察:匂いが届いた。触らなかった。それでいい。
───
第898話

紀元前295,520年

第二の星とその者(28〜33歳)

乾季が三年続いた。

草地の縁が後退し、かつて足首まで水が来た場所に硬い地面が顔を出した。亀裂は指二本分の深さになり、そこから先は砂だった。北の群れが南へ動き始めたのは、そのためだ。移動は緩やかではなかった。追われるように来た。

その者は岩の陰から彼らを見ていた。

四十人ほど。子どもが多かった。老いた者の姿は少なかった。その者は岩に背を預け、鼻で息をした。汗と獣脂と、乾いた土の匂いが混じっていた。彼らの匂いはそれとは違った。煙の含み方が違う。食うものが違えば体から出るものが違う、ということをその者は知っていたが、言葉にする方法を持っていなかった。

雨が来なかった年、群れは南の低地へ動いた。

川はまだ残っていた。水量は半分以下だったが、流れはあった。浅い淀みに魚が密集し、子どもたちが手で掬おうとしては滑った。その者は別の場所で、獣道の交差点に伏せていた。待つことが得意だった。待つことしか得意ではなかった、とも言える。

日が落ちかけた頃、風向きが変わった。

西から来るはずの風が止まり、北から細く冷たいものが流れてきた。その者は顔を上げた。鼻の穴が動いた。血の匂いではなかった。土が変わる匂い。遠くで何かが崩れた匂い。その者はそれが何を意味するか知らなかったが、腹の奥で何かが収縮した。立ち上がろうとして、止まった。

岩の向こうに人影があった。

北から来た群れの者が一人、こちらを見ていた。成人したばかりか、まだ手前か。痩せていた。目が大きかった。その者と目が合った。どちらも動かなかった。どちらも声を出さなかった。先に動いたのは相手だった。腕を下げたまま、後ろへ下がった。走らなかった。走らなかったことが、その者には奇妙に思えた。

その後の二年間、二つの群れは同じ川沿いにいた。

離れていたが、完全には離れなかった。食料の少ない場所では、近づくことが生存だった場合もある。その者は境界を歩いた。どちらにも深く入らない位置を選んで歩いた。それは意図ではなく、習慣だった。その者は昔からそうだった。群れの中心ではなく、周縁。壁ではなく、境目。

五年目の乾季が始まる前に、雨が来た。

短く、激しく、一晩だけ。だが川が戻った。草地の端から新しい緑が出た。北の群れが動いた。来た方向ではなく、東へ向かった。その者は高い岩の上からそれを見た。彼らが丘の向こうに消えるまで見ていた。

その夜、その者は地面に何かを描いた。

棒ではない。指で。乾いた土の上に。線ではなく、くぼみだった。点が二つ。少し離れた点が一つ。その者は自分が何をしているか知らなかった。手が動いて、気づいたらそうなっていた。しばらく見つめた。風が来て、くぼみに砂が入った。その者は手で払わなかった。そのままにした。

群れに戻ると、年長の男がその者を見ていた。

何かを言った。単音が二つ。その者は聞いた。何も答えなかった。男は繰り返した。今度は少し違う力で。その者は男の目を見たまま動かなかった。男が先に目を逸らした。

翌朝、その者の場所に石が置いてあった。

尖った石ではなかった。丸く、重く、両手で持つ大きさ。それを置いた者の意図を、その者は測れなかった。近づいた。持ち上げた。重さを確かめた。置いた。

また拾った。

与えるもの

その夜、月が雲に入った。

光が落ちる場所を、岩の表面の一点に絞った。灰色の凹凸。風化した窪み。そこに月明かりが落ちるまで、その者はそこを見ていなかった。

見た。

長く見た。

光が動いて、窪みから外れた。

この者は何かを感じた、と思う。感じた先に何があるかは、まだわからない。だが手が動いた。地面に点を打った。それで十分か、十分でないか、私には判断する術がない。渡せるのは注意の向きだけだ。その先で何が生まれるかは、この者の指が決める。

次に何を渡すべきか。

排除が来る前に。

伝播:HERESY 人口:438
与えるものの観察:光の窪みに注意を向けた。手が動いた。
───
第899話

紀元前295,515年

第二の星

乾季は終わった。しかし終わり方が静かすぎた。

雨は来た。だが土が固くなりすぎていて、水は染みずに流れた。川が増えた。水が戻った。草が生えた。それだけは確かだ。

南へ動いた群れは、止まらなかった。押し出されたものは押し戻されない。元の場所には別の何かが根を張っている。北の群れは南の群れの縁に触れ、そこで止まった。止まったまま、しばらくいた。

火を囲む者たちがいた。別の群れの者たちも、少し離れて火を囲んでいた。二つの火は近かった。しかし一つにはならなかった。

群れの数は、前の五年より少ない。乾季で失ったものを、雨が戻してはいない。子が生まれても、幼いうちに熱で失う。老いた者は移動で遅れる。遅れた者は戻らない。

この星の上で、そういうことが続いている。

草の匂いが変わった。腐葉の匂いだ。土が少しずつ戻っている。岩場に水苔が生えた。水が長くそこにあった証拠だ。

集団の縁では、見慣れない顔が見える夜がある。どちらも動かない。ただ火を見ている。

与えるもの

北の草地の端に、一本の木が立っていた。根が露出していた。乾季に地面が削られ、根が空気に晒されたまま、それでもその木は立っていた。

風がその方向から吹いた。根の匂いだった。土の下にあるはずのものの匂いが、地上に漂った。

その者は足を止めた。匂いを嗅いだ。それだけだった。踏み込まなかった。

根は地面の下にある。それが当たり前だった。しかし露出した根は、当たり前が崩れた後もそこに立っていた。

渡したいのはそれだ、とは言えない。ただ風を送った。匂いを届けた。この者が何を受け取ったかは、まだわからない。次に渡すべきものは、もう少し深いところにある気がする。

その者(33〜38歳)

三十三の歳に、右の膝に古い傷があった。走ると引きつった。

それでも群れの周縁を歩いた。周縁の者は周縁を歩く。それがこの者の場所だった。

北の群れが近くにいる夜、その者は火から少し離れて座った。向こうの火が見えた。人影が動いていた。子供の声がした。自分の群れの子供の声と、似ていた。

似ているが、違った。

岩を拾った。平らな岩だった。親指でその面を撫でた。滑らかだった。川底にあった岩だ。水が長い時間をかけて削ったのだろう。この者にその言葉はなかった。ただ、滑らかだと思った。

翌朝、草地の縁を歩いた。風が来た方に顔を向けた。

木が立っていた。根が見えた。

その者はしばらくそこに立っていた。根を見ていた。土の下にあるはずのものが、外に出ていた。木は倒れていなかった。

膝が引きつった。

それでも木は立っていた。

その者は地面に座り、根の一本に触れた。固かった。土の匂いがした。自分の手の匂いと少し似ていた。

夕方、群れに戻った。何も言わなかった。言う言葉がなかった。

平らな岩をまだ持っていた。

伝播:NOISE 人口:451
与えるものの観察:根は地面の外にあっても、木は立っていた。
───
第900話

紀元前295,510年

その者(38〜43歳)

夜明けまで時間があった。

その者は枯れ木の陰に背をつけ、膝を抱えていた。息が見えた。気温が落ちていた。群れの火はあちらで燃えていたが、その者はそちらへ戻らなかった。

足の裏に、昨日踏んだ地面の感触がまだ残っていた。固い土。割れた土。水が走った跡。

群れは南へ動いた。その者も動いた。しかし途中で止まった。他の者たちが気づかないまま先を歩き続けるなかで、その者だけが立ち止まった。何かが引いた。足の裏から、ではなく、腹の奥から。

戻った。

誰も見ていなかった。

北の斜面に、新しい匂いがあった。腐った葉ではない。湿った岩でもない。生きているものの匂い。その者は鼻で空気を引いた。二度。三度。

別の群れがいた。

遠くではなかった。夜の暗さのなかで輪郭だけが見えた。小さな火。その周りに体を寄せ合う影。形が少し違った。肩の幅。頭の丸み。違う者たちだった。

その者は動かなかった。

長い時間、ただ見ていた。

あちらの火が揺れた。風が来た。匂いが変わった。そのとき、あちらの影のひとつがこちらを向いた。向いた、というより、静止した。首が少し動いた。感づいた。

その者は地面に伏せた。泥が頬についた。

息を止めた。

長い沈黙があった。

やがてあちらの影は戻った。火のほうへ。その者はそのまま動かなかった。土のなかに顔が埋まりそうなほど低く、ずっと低く。

夜が深くなった。あちらの火が小さくなった。

その者はゆっくりと立ち上がり、南へ歩いた。群れのほうへ。火のほうへ。足が震えていた。膝ではなく、太ももの内側から。

群れのそばまで戻ったとき、長老格の者がこちらを見た。どこへ行っていたという顔をした。その者は音を出さなかった。座った。火のそばに座った。

翌朝、その者は長老格の者に声と手振りで伝えようとした。北に、別の群れがいる。火があった。影があった。匂いがあった。

長老格の者は聞いた。しかし顔が変わった。

別の者が近づいてきた。また別の者が来た。囲まれるのに時間はかからなかった。

その者は喋り続けた。北に、別の群れが——

誰かの手が肩を掴んだ。

立たされた。

押された。

群れの外へ。

その者は転んだ。起き上がった。また押された。今度は強く。岩に背中が当たった。

声を出した。群れのほうへ向かおうとした。

前に立ちはだかった者が石を持っていた。

その者は走った。北ではなく、東へ。斜面を駆け下りた。草が足に絡んだ。転んだ。立った。また走った。

後ろから足音がしばらく続いた。

やがて聞こえなくなった。

その者は崖の手前で止まった。下を見た。深かった。水が光っていた。

振り返った。誰もいなかった。

しゃがんだ。

両手で顔を覆った。そのまま動かなかった。

第二の星

このころ、始まりの大地の北に乾燥帯が広がっていた。草が薄くなり、獣の通り道が変わった。群れはそれを追って動き、動きながら縄張りの境界を踏み越えた。

境界を踏み越えた者は追い払われた。あるいは殺された。しかし越え続けなければ餓えた。

異なる群れが夜に近くで火を焚くことがあった。互いに気づいていた。気づきながら動かなかった。それは恐れであり、また別の何かでもあった。

この五年で、始まりの大地の人口は増えも減りもしなかった。子が生まれた。子が死んだ。大人が死んだ。大人が生き残った。その数が拮抗した。

群れの内側では、知らせをもたらす者が時として排除された。知らせが群れの恐れを刺激したとき、その知らせを持ってきた者が恐れの形として扱われた。知らせと者が分離されなかった。

崖の東に、小さな谷があった。川が細く流れていた。獣は来たが、人は来なかった。

その者はそこへ落ちていくように歩いていた。

与えるもの

崖の手前に、風がなかった。

だから煙の匂いが残った。あちらの群れの火の残り香が、まだ空気のなかにあった。

その者は顔を覆ったまま座っていた。その匂いを、吸っていた。気づいていたかどうかわからない。しかし鼻が動いた。

別の者たちも、火を焚く。

その問いが体の内側で形を持ちかけた瞬間、誰かの声が遠くから聞こえた。群れの声ではなかった。東から。別の方向から。

その者の首が、そちらへ向いた。

渡したものが根づくか、ここで終わるか。わからない。しかし風のない崖の上で、その者の鼻はまだ動いていた。次は何を届ければいい。体ではなく、記憶に届くものを。

伝播:HERESY 人口:440
与えるものの観察:煙の匂いが残った。鼻が動いた。
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第901話

紀元前295,505年

第二の星とその者(43〜48歳)

乾季が長くなっていた。川床に砂が積もり、去年まで膝まで浸かった場所を、その者は腰を曲げずに歩いて渡った。対岸の草は褐色だった。虫が少なく、鳥の声が遠かった。

その者は川を渡ってから、石を一つ拾った。別の石と打ち合わせた。音を聞いた。また打った。

北の斜面に、別の群れの煙が見えた。三日続いた。四日目に消えた。群れが動いたのか、火が消えたのか、その者には区別がつかなかった。区別しようとしなかった。

夕方、その者の群れで声が上がった。若い男が胸を叩き、北を指していた。老いた女が低い音を出して止めた。言葉ではなかった。しかし全員が静かになった。

その年の冬、子が二人生まれた。一人は三日で死んだ。もう一人は生き続けた。

翌年、北の群れが近づいた。丘の稜線に影が並んだ。十二か、十五か。その者は茂みの陰から数えようとして、途中でやめた。

腹が空いていた。二日、獲物がいなかった。

その者は石を持ったまま立っていた。稜線の影は動かなかった。風がこちらへ吹いてきた。獣の脂の匂いがした。彼らは食べていた。その者の群れは食べていなかった。

その者は茂みの中に戻った。石を地面に置いた。

三年目の春、川が増水した。泥が岸を削り、以前そこにあった大きな岩が二つ、下流へ消えた。その者はその場所を通るたびに、足を止めた。岩があった場所に足先を踏み入れた。地面が柔らかかった。

群れの中で力の強い男が死んだ。崖の斜面を降りる途中だった。足が滑ったのか、岩が崩れたのか、見ていた者が二人いたが、二人とも違うことを体で示した。腕を広げた者と、頭を振った者。どちらも正しかったかもしれなかった。

その者は岩があった場所に立ち、川の流れを見ていた。

水面に何かが浮いていた。葉ではなく、皮でもなく。小さな獣の毛の固まりだった。それは速く流れ、見えなくなった。

四年目、北の群れと川岸で鉢合わせた。互いに立ち止まった。

その者は前に出た。群れの中で、それができる者がいなかったからではない。ただ足が動いた。

向こうの群れから、年老いた者が一人前に出た。顔に傷があった。右の目が濁っていた。

二人は何も言わなかった。しばらく、ただ立っていた。

濁った目が、その者の手を見た。その者の手には、打ち欠いた石があった。老いた者の手には、何もなかった。

その者は石を地面に置いた。

老いた者は、長い時間をかけて屈み、石を拾い上げた。

五年目の夏、群れは南へ移動した。川が細すぎた。草が枯れた。その者は最後尾を歩いた。

後ろを振り返った。何度も。

何かが残っている気がした。北の煙でも、岩があった場所でも、老いた者の濁った目でもなかった。それが何かを、その者は持っていなかった。音にできなかった。身振りにもできなかった。

ただ足が止まった。

前の者たちが遠くなった。その者は立ったまま、南の方角を見た。群れが砂の中に消えていくのを見た。それから歩き出した。

与えるもの

川面が光った場所に、その者の目が止まった。

その者は光を見た。それから石を見た。石を川岸に置いた。

川を渡ったのか、渡らなかったのか。次に向けるべきものが、まだ向こう岸に残っているのか、それともこの者がすでに持っているのか、私にはまだわからない。しかし老いた者の手が石を持ち上げた。その重さは、私が落とした光より重かったかもしれない。

伝播:DISTORTED 人口:453
与えるものの観察:石が手から手へ。光ではなく重さで届いた。
───
第902話

紀元前295,500年

第二の星

大地の東、乾いた平原の端で、草が風に揺れている。虫の声はない。水場から獣が遠ざかって久しく、地面にはひび割れが白く残っている。

その者が暮らす群れから半日歩いた先では、別の集団が岩陰に身を寄せている。旧人と呼ばれる者たちではない。眉の作りが違う。だが火を熾す仕草は似ている。彼らは水を運ぶために獣の胃袋を使っている。その方法を、どこから覚えたのかは、この星は知らない。

さらに遠い場所、森の深部では、降雨が戻っていた。泥が赤く濡れ、川が満ちている。そこでは子どもが三人生まれ、一人が育ちつつある。名前はない。呼び声があるだけだ。

北の岩山では、旧人の集団が静かになっていた。煙が立たなくなって何日も経つ。何が起きたのかを、この星は問わない。煙があったこと、そして今はないことを、照らすだけだ。

その者の群れの近くでは、乾いた地面に足跡が二方向に分かれていた。一方は集団の中心へ。もう一方は草の向こうへ消えている。どちらが先につけられたものかを、この星は区別しない。

夜、月が出た。影が長く伸びた。風はなかった。

与えるもの

この者と三十年いた。

血の匂いが漂う方向から風が吹いた。その者の体に触れた風ではない。四十歩先の草むらの陰から来た風だった。

その者は立ち止まった。

渡せたのか。それとも足が疲れていただけか。わからない。わからないまま、三十年経った。だが今日は次がない気がする。次を渡す機会があるなら、渡すべきは同じものではない。この風の後に来るものを、どう示せばいいか、まだ思いついていない。

その者(48〜53歳)

五十を過ぎてから、膝が鳴るようになった。

その者は毎朝、立ち上がる前に少し待つ。体が動く準備をするのを待つ。それが習慣になっていた。群れの若い者たちはその仕草を見なかった。見ていても気にしなかった。

乾季は五年目になっていた。その者は水を知っていた。乾いた場所の、どこに湿り気が残るかを体が覚えていた。岩の北側。低木の根元の、影になる側。川床が消えても、地面の下には水の道がある。その者は地面に耳を当てることがあった。何かが聞こえるかどうかは、毎回違った。

その日、群れの端を歩いていた。

血の匂いが来た。

その者は足を止めた。右足が地面についたまま、左足が宙に浮いた。その格好で、三つ数えるほどの時間、動かなかった。

草が揺れた。揺れ方が風とは違った。

その者は低くなった。地面に腹をつけるまではしなかった。膝と手を地面につけて、草の向こうを見た。見えなかった。でも匂いがまだあった。

引き返した。

群れに戻る途中、踏んできた跡をなぞらずに別の道を取った。理由はなかった。体がそうした。

群れに着いたとき、年長の者がその者を見た。目が合った。年長の者は何も言わなかった。その者も何も言わなかった。だが何かがその目の中にあった。その者はそれを読もうとして、読めなかった。

夜、火の外れに座った。

肉を食べた。飲み込んだ後も、口の中に血の味が残った。草むらのものではなく、今日仕留めた獣の血だった。それでも、区別がうまくできなかった。

火が小さくなった。

その者は足を伸ばした。膝が鳴った。

音を聞いて、また止めた。

誰かが後ろにいた。気配だった。振り返らなかった。振り返れば何かが終わる気がした。根拠はなかった。ただそう感じた。

朝になって、その者は起き上がれなかった。

頭ではなく、背中が。岩ではなかった。誰かの足だった。踏まれたのではない。押さえられていた。声が来た。単音だった。その者の名ではなかった。群れの外れを示す音だった。追い出す声ではなかったが、そうではないとも言えなかった。

その者は立ち上がった。

荷物は取らなかった。取らせてもらえなかったのではない。取る前に歩き出していた。

草の向こうへ出た。

足跡が続いた。その者の体が残した跡だった。歩き続けた。跡が消えても歩いた。日が高くなった。喉が渇いた。低木の根元に行って、影の側の地面を掌で押した。湿っていた。舌を当てた。水の味がした。

それだけだった。

それだけで、足が前に出た。

伝播:HERESY 人口:441
与えるものの観察:風を渡した。足が止まった。それだけでは足りなかった。
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第903話

紀元前295,495年

第二の星

北の平原では雪が解け始めている。岩の隙間から水が滲み出て、凍った地面が少しずつ口を開く。そこに旧人の集団が三十ほど身を寄せていて、骨を削って何かを作っている。削る音が夜の岩壁に反響する。彼らはその音を恐れない。

南では乾季が続いている。川が細くなり、魚の影が消えた。別の集団が上流へ向かって移動を始めた。子を背負う者、老いた者を引く者、立ち止まる者。群れは進みながら小さくなっていく。

始まりの大地の東端では、ひびの入った地面がまだ熱を持っている。噴煙は薄れたが、岩の黒が新しい。その縁で、小さな植物が一本、焼け跡の外に向かって葉を広げている。根は岩の割れ目に入っていた。

その者が暮らす群れから遠くない場所で、別の集団との境界線が動いている。境界は目に見えない。しかし両側の者は知っている。どこで止まるべきかを、体が知っている。

第二の星はすべてを等しく照らしている。植物の葉も、境界を歩く者の背中も、削られる骨も。どこにも名前をつけない。

与えるもの

その者の耳に、匂いが変わった。

腐敗ではない。煙でもない。別の集団の体の匂いだ。風向きが変わった瞬間、それが鼻腔に入った。

その者は立ち止まった。

渡したのはその静止だ。止まれという意図ではない。匂いがあった。風がそこから吹いた。止まるかどうかはこの者が決めた。

止まった。

35年、この者に渡してきた。受け取られたことも、そうでないこともあった。今日この者が止まったことが、何につながるかは、渡す前にはわからない。渡した後も、わからないままのことが多い。それでも次に渡すべきものはある。この者がまだ知らない何かが、この者の足元に近い。

その者(53〜58歳)

足が止まった。

匂いがあった。岩の匂いではない。焦げた匂いでもない。肌と肌が擦れる時の、あの匂いに似ていたが、違う。

その者は鼻に手を当てた。鼻ではなく風の方向に顔を向けた。東から来ていた。

群れに戻る道は西だった。

その者はそのまま動かなかった。岩の陰に腰を下ろして、膝に手を置いた。膝は長年の移動で節くれ立っていた。指の腹でその節を確かめるように押した。

日が傾いた。

匂いは消えなかった。風が変わらなかったからだ。その者は唾を飲み込んだ。喉が乾いていた。

遠くで何かが動く音がした。大きくはなかった。獣ではないと思った。なぜそう思ったかは言葉にならなかった。音の重さが違う、とも言えなかった。ただ、そう思った。

その者は立ち上がり、西へ向かった。

ゆっくりと歩いた。急がなかった。急ぐと音が出る。音が出ると知られる。知られると、どうなるか。

その者は知らなかった。

しかし足は静かに動いた。

群れに戻ったのは暗くなってからだった。火のそばに座った者たちが、その者を見た。その者は何も言わなかった。単音も出さなかった。火を見た。

誰かが肉の欠片を差し出した。

その者はそれを受け取って食べた。

骨を地面に置いた。

空を見なかった。

伝播:HERESY 人口:428
与えるものの観察:止まった。それだけで、今日は足りる。
───
第904話

紀元前295,490年

その者(58〜61歳)

春が来ていた。

川岸の柔らかい土に、足が深く沈んだ。以前は沈まなかった。足が軽くなったのではない。足が重くなったのだ。膝が、そう言っていた。

その者は群れの端を歩く者だった。若い頃から端を歩いていた。中心に入る力がなかったのではない。端が性に合っていた。獣の気配は端の方が早く届く。風も、土の匂いも。

しかし今、端を歩く速さがなくなっていた。

群れが東へ動く朝、その者は少し遅れた。遅れたことに気づいた者はいなかった。振り返る者はいなかった。それでよかった。振り返らせるような者ではなかった。

川沿いに低木が続いていた。その者はそこに座った。膝を曲げて、岩に背をあずけた。空が広かった。雲が西から流れてきて、川の上を過ぎていった。

腹は空いていなかった。

水を飲もうと思ったが、川岸まで降りる気力がなかった。そのまま岩に背をつけていた。

遠くで何かの鳥が鳴いた。また鳴いた。止んだ。

太陽が動いた。

その者の手は膝の上にあった。指に古い傷の跡があった。どこで切ったか、覚えていなかった。傷というものは残るが、痛みは残らない。そういうものだと、その者は知っていた。言葉にはできなかったが、知っていた。

川の音が続いた。

群れのことを思った。若い声のことを。子どもが走る音のことを。思ったが、そこに行こうとは思わなかった。今ここにいることが、自然だった。端を歩く者は、最後も端にいる。

背の岩が温かかった。日が当たっていた。

その者は目を開けたまま、空を見ていた。

川の音が、少し遠くなった。

少し、また遠くなった。

第二の星

南の密林では、ある集団が別の集団の縄張りに踏み込んでいた。石が飛んだ。声が上がった。一人が倒れた。それだけだった。川は流れ続けた。

与えるもの

糸は、別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:417
与えるものの観察:守れない。それでも渡す。渡すことしかない。
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第905話

紀元前295,485年

その者(28〜33歳)

朝、木の股に腕を突っ込んで、蜂の巣を引きずり出した。

腕が腫れた。三本の刺さった場所から、熱が広がった。しかし蜂蜜は手の中にあった。粘りが指の間に垂れた。その者は舌で舐めた。また舐めた。腕の熱など、もう気にならなかった。

群れは大きくなっていた。知らない顔が増えた。いつの間にか、見たことのない男がいる。いつの間にか、聞いたことのない声で笑う女がいる。子どもが多すぎて、誰の子かわからない。

その者は別に、気にしなかった。

食い物があった。川魚が取れた。木の実が落ちた。草の根が太かった。獣の通り道を覚えた。そこに罠を仕掛けた。三日に一度は何かかかった。

ある夕方、その者は高台に立った。

遠くに別の群れの火が見えた。小さい光が二つ、三つ。風が向きを変えた時、獣の皮を焦がす臭いが漂ってきた。その者は鼻を鳴らした。

あの火の側に、何人いるのか。

その者はしばらく立っていた。高台の岩は冷たかった。夕風が強くなった。その者は腕を組み、遠い火を見た。見た。

何も動かなかった。

群れに戻った。焚き火の横に座った。腕の腫れは、まだ引いていなかった。指先で刺さった跡を押すと、鈍い痛みがあった。その者は何度か押した。痛みがあると、眠くなるのが遅かった。

夜、子どもが泣いた。誰かが抱いた。泣き声が止んだ。

火が小さくなった。誰かが薪を足した。火が大きくなった。

また小さくなった。

第二の星

始まりの大地は、長い穏やかさの中にあった。

雨季は過不足なく来た。乾季は草を枯らしたが、根は死ななかった。川は氾濫せず、干上がらず、一定の量で流れ続けた。獣の群れは大きく、逃げ足は遅く、草原には食べる物が満ちていた。子どもが産まれ、乳が足り、冬を越した。また産まれた。また越えた。

集団の輪郭が変わった。かつては全員が顔と名を知っていた。今は端の方に、よく知らない者がいる。隣の群れから来た者、迷い込んだ者、追い出されてここに着いた者。混じり合いながら、数が増えた。

遠い場所でも、生き物たちは同じように増えていた。

始まりの大地の北の縁では、別の種の者たちが岩陰で眠っていた。彼らの体はより厚く、より低く、寒さに向いていた。彼らは集団で動かず、少数で動いた。彼らの群れは増えなかった。しかし減りもしなかった。

豊かさは争いの準備でもあった。

高台から遠い火が見える夜が、増えていた。

与えるもの

腕の熱を感じながら、その者は蜂蜜を舌で舐めた。

熱の中に甘さがあった。与えるものは、その瞬間、温度が上がる感覚をそっと引き延ばした。もう少しだけ、その甘さが残るように。

この者は甘さを覚えた。痛みと一緒に。
別の者は痛みだけ覚えて、二度と手を突っ込まなかった。

痛みと甘さが同時にある時、どちらを記憶するかは渡せない。それでも、温度を引き延ばすことはできる。糸が繋がって、初めて渡したのが熱だった。それは前にも、あった。いつか、誰かに、熱を渡した。その者は何をしたか。

次に渡すべきは温度ではない。距離だ。あの高台で、その者は遠い火を見た。近づくことも、逃げることも、しなかった。立っていた。その立ち方に、何かある。

伝播:NOISE 人口:542
与えるものの観察:甘さと熱が同時に残った。どちらを覚えるか。
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第906話

紀元前295,480年

第二の星

大地の南、草の海が広がる季節だった。

雨が正確に来た。草は伸び、獣は肥えた。集団は去年より増えていた。子どもの数が増えた分だった。火の近くに座る者が増え、声が重なった。笑いに似た音が夜に漏れた。

遠く北の岩場では、別の集団が水場の縁で向き合っていた。互いの声は似ていた。しかし似ていても同じではなかった。同じ音に違う意味を持たせていた者たちが、同じ水を飲もうとしていた。

大地の東では、一人の老いた者が歩いたまま戻らなかった。誰も気づかなかったわけではない。しかし誰も追わなかった。草だけが揺れた。

空は曇りなく、川は澄んでいた。豊かな年だった。それだけだ。

与えるもの

川岸の石に、光が落ちた。

丸くて、平たくて、手に収まる重さのもの。

その者は拾った。しばらく持っていた。それから別の石を打ちつけた。欠けた。また打ちつけた。形が変わった。

渡したのは石ではなかった。
光を落とした場所だった。

それを打つという行為は、誰かに教わったのか。それとも手が先に知っていたのか。わからない。ただ、次に渡すべきものがある。より鋭い縁を持つ石が、もう少し上流にある。

その者(33〜38歳)

川に足を入れた。冷たかった。底が見えた。

石が光っていた。いや、光が石の上にあった。その者はしゃがんで、拾った。手に収まった。重かった。

持ち帰った。

火のそばで、別の石を打ちつけた。端が欠けた。指で触った。鋭かった。もう一度打った。もう一度欠けた。

その者は欠けた縁で、獣の皮を引っ掻いた。入った。刃が通った。

何かが変わった、とは思わなかった。ただ手が動いた。また引っ掻いた。皮が開いた。

集団の中の、年長の男がそれを見ていた。男は近づいてきた。手を伸ばした。

その者は石を渡さなかった。

渡さなかったことを、その者はあとで何度か思い出した。なぜ渡さなかったのか、言葉にはならなかった。ただ手が石を握り続けた。それだけだった。

三年が過ぎた頃、集団はさらに大きくなった。その者の石は、縁がすり減って、もう皮を引けなかった。川に返した。新しいものを探した。

今度は光を探した。石ではなく、石の上の光を。

伝播:NOISE 人口:548
与えるものの観察:光を探すようになった。石ではなく。
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第907話

紀元前295,475年

その者(38〜43歳)

夜明け前だった。

その者は草の縁に伏せていた。腹が地に触れ、土の冷たさが皮の内側まで来た。息を浅くして、前を見た。

獣の背中が草の上に浮かんでいた。大きかった。角が二本、空に刺さっていた。

その者は石を握った。投げるには遠い。近づくには風が悪かった。足元の枯れ草が音を立てた。

待った。

夜明けの光が草の頭を染め始めた頃、後ろで何かが動いた。

振り返った。

群れの若い一人が、そこにいた。別の方向から獣に回り込もうとしていた。その者は見知っていた。去年から狩りに出るようになった者だ。まだ肩が細かった。

二人で挟もうとした。

しかし獣は先に気づいた。大きな体が向きを変えた。地が震えた。

その者は横に飛んだ。踏まれなかった。しかし若い一人が跳ぶのが遅かった。

音がした。骨の音ではなかった。それより低い、何かが潰れる音だった。

若い者は立ち上がれなかった。

その者は駆け寄った。若い者の胸の上に手を置いた。息は来ていた。しかし顔が白かった。目は開いたまま、空の一点を見ていた。

抱えて引きずった。草が血を拭いた。

戻ってきたとき、集団の男たちが待っていた。獲物はなかった。若い者だけを連れてきた。

男たちは何も言わなかった。しかし見た。その者を見た。

その目の意味を、その者は知っていた。

三日後、若い者は死んだ。内側で何かが壊れていたのだろう、食べることができなくなり、最後は水も通らなくなった。夕方、膝の上で力が抜けた。

その者はその夜、火のそばを離れた。

岩の上に座った。膝に肘をついた。手を組んだ。そのまま動かなかった。

夜が深くなった。

集団のどこかで子どもの声がした。それから静かになった。

その者は手を見た。両手を開いた。閉じた。

何も持っていなかった。

翌朝から、変わった。

男たちの一人がその者の場所に来て、座った。何も言わなかった。ただ座った。その後ろにまた一人来た。三人になった。

その者は立ち上がった。立ち上がれる間は、立っていなければならなかった。

しかし男たちは動かなかった。

岩のようだった。

五日目の夜、火の周りで声が上がった。その者に向けられた声だった。意味は短かった。

出て行け。

だれかがそう言った。一人ではなかった。

その者は聞いた。もう一度聞いた。

何かを言おうとした。

声が出なかった。

立ったまま、火を見た。火は揺れていた。風はなかった。それでも揺れていた。

その者は背を向けた。

草の中を歩いた。振り返らなかった。

朝が来た。草が明るくなった。その者は歩き続けた。

どこへ向かうのかは、わからなかった。

第二の星

始まりの大地の南は、今年も豊かだった。

草は深く、獣は動き、水場は干上がらなかった。子が生まれ、集団は膨らみ続けた。しかし密になった場所には、かならず摩擦が生まれる。食い物の量ではなかった。場所でも、水でもなかった。

何かを名付けることのできない圧力が、集団の内側に溜まっていた。

若い者が死んだこと。獲物を持ち帰れなかったこと。それを誰かのせいにしなければ、集団の形を保てなかった。そういう時がある。豊かさの中で起きる排除は、乏しさの中で起きるそれより、静かで、早い。

この星は黙って照らす。

北では別の集団が今夜も火を囲んでいる。東の水場では、子どもが笑っている。草原の端を、ひとりの者が歩いている。

空は同じ空だ。

その者が踏む草も、集団が囲む火も、等しく照らされている。朝が来れば影は変わるが、光は変わらない。

歩く者の背中は、まだ見える。

与えるもの

温度が変わった。

草の根元、その者の足が踏もうとした場所から、わずかに冷えた空気が滲んだ。

その者は一瞬、止まった。その足を、隣に下ろした。

踏まなかった場所の下に、蛇がいた。

この者が止まったことが、正しかったのかどうか——それはわからない。先に進むことが、どこへ向かうことなのかも。

しかし次に何を渡せるかは、考えている。その者が歩き続けているのなら。

伝播:HERESY 人口:527
与えるものの観察:歩き続けるなら、次がある。
───
第908話

紀元前295,470年

その者(43〜48歳)

崖の上に立っていた時間が長すぎた。

その者は五日、群れの端を歩いていた。新しい水場を探す役だった。若い者が二人ついてきた。声を出さず、足音を合わせて歩く者たちだった。

水は見つかった。三日目の夕方、岩肌から滲むように出ていた。その者は掌で受けて飲んだ。苦くはなかった。

帰り道に、崖があった。

崖は前にも渡ったことのある場所だった。岩に足をかけて、横に移る。難しくはない。その者は何十回と通っていた。

風が来た。

北から、まっすぐに。その者はそれを顔で受けた。足を止めなかった。

岩が動いた。

右足が落ちた先に、岩がなかった。それだけだった。

身体は斜面を三度打った。止まる前に、声を出す間もなかった。

若い二人は崖の上から見ていた。動けなかった。声が出なかった。風は続いていた。

その者は仰向けで、岩の上にいた。空が見えた。雲が薄く伸びていた。

呼吸が短くなった。

指が岩を掻いた。一度。もう一度。

それから止まった。

第二の星

同じ頃、大地の別の場所では、二つの群れが同じ獣の跡を追い始めていた。互いをまだ見ていなかった。草が深く、風向きが同じだった。どちらも腹を空かせていた。この星はどちらも同じように照らしていた。

与えるもの

北からの風が動いた場所を、まだ覚えている。足を止めよと、光を落としたことがある。渡したのは、時間より早かったかもしれない。

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:SPREAD 人口:537
与えるものの観察:足を止める間を、渡せなかった
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第909話

紀元前295,465年

第二の星

草が戻ってきた。

枯れた丘に、緑が這い上がってくる。雨の季節が二度続いた。水場が増えた。根を張れる場所が増えた。獣の足跡が増えた。

集団は大きくなっていた。

子どもが生まれた。また生まれた。また生まれた。母親の腰が痛んでも、子は増えた。老いた者が死に、子が増え、差し引きして数は増えた。食べるものがあった。眠る場所があった。火が絶えなかった。

豊かさは静かだ。

岩陰に獣の皮が積み重なっていた。乾かした実が窪みに貯えられていた。誰のものでもなかった。誰のものでもあった。しかし手を伸ばす順番があった。最初に手を伸ばす者がいた。後から手を伸ばす者がいた。これは昔からそうだった。豊かさが来ても、この順番は変わらなかった。豊かさが来たとき、むしろこの順番はくっきりとした。

二つの群れがいた。

東の斜面に住む一群と、川沿いに住む一群だった。川の水は一つだった。魚も一つの川にいた。雨が続いた年、魚は多かった。どちらの群れも腹いっぱい食べた。問題はなかった。しかし若い雄たちが川岸で向き合うことが増えた。目を合わせたまま動かなかった。どちらかが先に動くまで、長い時間が止まった。

それはまだ、傷にはなっていなかった。

平地の端で、旧人の一族がゆっくり移動していた。低い額、厚い眉、幅の広い肩。彼らの足跡は深かった。重い骨格が地面を押した跡だった。彼らは魚を獲らなかった。川から離れた場所で根を掘り、葉を食べ、大きな獣の後を追った。川沿いの群れとは距離があった。目が合うことはあった。声を出すことはなかった。

火が二か所で燃えていた。

東の群れの火と、川沿いの群れの火。夜になると両方が見えた。ひとつの火は高く、もうひとつは低く揺れていた。火を見た者が何かを感じたとしても、それに名前はなかった。

草は伸び続けた。

水は流れ続けた。

空は同じ色をしていた。

与えるもの

糸が繋がった。

九歳か、それくらいだった。火の番をしていた。夜の長い時間、この者はひとりで炎の前に座っていた。

煙の匂いが変わった瞬間があった。乾いた草が燃える匂いから、何か別の何かが混じった匂いへ。この者の鼻孔が開いた。頭が持ち上がった。

匂いが来た方向に、暗がりがあった。暗がりの中に、何もなかった。

この者は匂いの方を向いたまま、炎に木を足さなかった。

火が小さくなった。気づいて、慌てて枝を足した。

何を渡したのか、まだわからない。匂いに引かれる前と後で、この者の何かが少し違う。それだけだ。次に渡すべきものが何かを、もう少し見ていたい。渡す前に、この者が何者なのかを。

その者(9〜14歳)

火が小さくなったとき、群れの大人が振り返った。

目が来た。この者は枝を手に取った。急いで入れた。炎が戻った。大人は戻った。

この者はしばらく、暗がりの方を見ていた。

何もいなかった。何もいなかったが、匂いはまだ鼻の奥にあった。

朝になっても、それは消えなかった。

伝播:HERESY 人口:519
与えるものの観察:匂いに引かれた。火を小さくした。
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第910話

紀元前295,460年

第二の星

雨季が二度続いた後、草原の縁が湿地に変わっていた。

乾いた台地の南に、水が溜まり始めていた。膝まで浸かれば冷たく、夏の終わりでも底が見えない場所が生まれていた。そこに鳥が来た。魚が来た。

集団は大きくなっていた。子が生まれ、生き延びる子の数が増えていた。火の周りに座る体が増えた。肉の分け前を巡る声が増えた。

北の丘の向こうには、別の集団がいた。体格が違った。眉骨が張り、顎が前に出ていた。彼らも水場を使っていた。昼は距離を置き、夜は近づかなかった。互いに声は出した。石を投げることはまだなかった。

だがこちらの集団の中でも、静かな分裂があった。

肉を多く持つ者と、少ない者。火の近くに座る者と、端に追いやられる者。言葉のない場所で、力の配置だけが語られていた。

その翌日、火の番をしていたある者のもとに、幾人かが近づいた。声があった。石が一つ、地面を転がった。

与えるもの

岩の隙間から、冷たい空気が這い出していた。

その者の足元に、それが届いた。熱い火の前にいながら、足首だけが冷えた。

その者は足元を見た。岩の割れ目があった。暗く、深く、何かを飲み込みそうな隙間だった。その者はしゃがんだ。指を差し入れようとして、止めた。

立ち上がり、火に戻った。

隙間のことを、渡した。逃げる場所として、あるいは隠れる場所として。この者がそれを何として受け取ったかは、わからない。しゃがんだ。それだけは確かだ。

渡すことで、何かが起きるかもしれない。渡さなければ、何も起きない。どちらが良いかを、問うことをやめている。問い続けると、渡す手が止まる。

その者(14〜19歳)

火が低くなっていた。

枝を重ねた。煙が上がり、一度白くなってから透明になった。その者は煙の行方を目で追い、消えた場所を見た。空は明るかった。

足元が冷えた。

右の足首だけ。火の熱が届いているのに、そこだけ違った。その者は下を向いた。岩と岩の間に、細い隙間があった。闇があった。腹這いになれば入れそうな、暗い穴だった。

しゃがんだ。

指を近づけた。冷気が指先を撫でた。深い。底が見えない。匂いがした。土と、水と、何か古いものの匂いが混ざっていた。

立った。

背後で声がした。振り向いた。

幾人かがいた。大人たちだった。その者より頭一つ分背が高い者たちが、こちらを見ていた。その中の一人が何か言った。単語だった。その者が知っている単語ではなかった。

石が一つ、地面を転がってきた。

その者の足の近くで止まった。

その者は石を見た。拾わなかった。拾わなかった。火を見た。火は燃えていた。幾人かはまだそこにいた。

伝播:HERESY 人口:507
与えるものの観察:しゃがんだ。それだけが渡った。
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第911話

紀元前295,455年

第二の星

雨が去った。

台地の南、新しい湿地に水鳥が巣を作り、卵を抱えていた。集団の端にいる者たちがそこを知っていた。知っている者が増えると、知っていることそのものが危うくなる。

草原の向こうで、別の集団がいた。旧人の群れとも言える者たちで、声の出し方がわずかに違った。互いの音の連なりは似ていない。しかし湿地の縁で水を飲む動作は同じだった。飲んでから、立ち上がる前に相手を見た。それだけで引き返した。争いではなかった。距離を置くだけだった。

豊穣の中に緊張が溶けていた。

北の丘では、若者たちが三人、岩の上に立って別の方向を指差していた。声が上がった。何かを見たのか、何かを決めたのか、外からは区別がつかない。

その者の集団では、夜、焚き火が増えた。子どもが多かった。泣く声が複数重なると夜が賑やかになった。賑やかな夜に、誰かが誰かに近づき、誰かが誰かを押した。押した理由を問う言葉は、まだ集団の中にない。

押した。押された。それだけが残った。

与えるもの

岩の割れ目に冷気があったことを、この者は覚えているか。

光がある場所、風がある場所、煙に混じる匂い——渡してきたものはみな、注意を向けさせることだった。向いた。気づいた。しかし集団の中で知ることは、知らない者を増やす。

今度は別のものを渡す。

集団の外に、渡す場所がある。湿地の北、葦が密に立つ場所に、一本だけ枯れて倒れている葦があった。風が吹いた時に音が変わる。他の葦と違う音が、夕暮れに鳴っていた。

その者の耳に届いたかどうか。

届いていたとして、何をするかは知らない。渡した。それだけだ——いや、それだけではない。渡した後に何かが起きる。その何かを、この者が生き延びて知るかどうか。知らないままになるかもしれない。第一の星でも、知る前に終わった者がいた。

次に渡すべきものが、まだある。

その者(19〜24歳)

火の番は夜の仕事だ。

枝を一本ずつ置く。置きすぎると煙が変わる。煙が変わると大人が目を覚ます。目を覚ました大人が何かを言う前に、次の枝を正しく置く。

集団の子どもたちは眠りが浅かった。泣いてもまた眠る。その繰り返しの間に、その者だけが動いていた。

ある夜、焚き火から離れた。用を足しに行く距離より少し遠く。理由があったわけではない。足が向いた。

湿地の方から、夕方とは違う音が聞こえていた。葦が鳴いていた。その者は鳥の音は知っていた。虫の音も知っていた。この音は違った。枯れた何かが空洞で鳴る音だった。

足が止まった。

音の方向を見た。暗くて何も見えない。ただ、音だけがあった。

その者は戻った。焚き火のそばに戻って、座った。また枝を置いた。しかし耳だけが、まだそちらを向いていた。

翌日、湿地へ行った。葦の中を歩いた。足が冷たくなった。倒れている葦を踏みそうになって、止まった。踏まなかった。踏まない理由を言葉では持っていなかった。

しゃがんで、倒れた葦を両手で持った。軽かった。中が空だった。

口に近づけた。息を吹いた。

音が出た。

昨夜と同じ音が、自分の手の中から出てきた。

その者は長い間、それをやめなかった。

何度も吹いた。音が変わった。口の当て方で変わることを知った。言葉にはできない。ただ何度もやった。

遠くで声がした。集団の声だった。

その者は葦を持って立ち上がった。持って帰るつもりだった。

しかし途中で止まった。持ち帰れば誰かがそれを見る。何かを言う。この音が自分だけのものでなくなる。

葦を、湿地の縁に置いた。置いた場所を覚えた。

集団へ戻った。

伝播:HERESY 人口:490
与えるものの観察:音を持った。置いた。また取りに来るか。
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第912話

紀元前295,450年

第二の星

台地の南に水が溜まった低地がある。葦が伸び、水鳥が眠る場所だ。

その水面から、東に向かって平野が続く。平野の果てに、丘がある。丘の斜面に、別の集団がいる。声の出し方がわずかに違う者たちだ。手足の骨が少し太く、眉の上の骨が張り出している。火を使う。獣の皮を持ち歩く。子どもを背中に結わえる。やり方は違うが、することは同じだ。

その丘から南に、また別の群れがいる。こちらは小さい。十人に満たない。二つの集団の間を、少しずつ動いている。どちらからも声をかけられ、どちらからも石を投げられたことがある。

台地の上では、この5年で集団が大きくなった。食料が豊かで、子が生まれ、次々と立った。しかし場所は同じだ。人が増えれば、人と人の間が狭くなる。狭くなれば、ぶつかる。

遠く西の方角、乾いた岩地には誰もいない。

第二の星はそれを区別しない。丘の上の者も、台地の上の者も、間を動く者も、同じ光の中にある。夜が来れば、全員に等しく暗くなる。

与えるもの

火の中に、脂の燃える匂いがあった。

骨の一部が落ちていた。焦げた端から、内側の白が見えていた。光がそこに集まるような角度だった。割れば、中に何かある。形が変わる。

その者は火の番をしながら、骨を足で転がした。

拾わなかった。

渡せたかどうか、まだわからない。しかし次に渡すべきものは、もう見えている。割れること。内側があること。見えているものの奥に、別のものがあること。

その者(24〜29歳)

火は小さく保たなければならない。

大きくすると、遠くから見える。それは教わったのではなく、怒鳴られた回数で覚えた。火が大きくなった夜、年上の者が来て腕を叩いた。それだけだった。

5年間、火の番をした。

薪をくべる量を、自分の手のひらで量るようになった。手のひら二枚分まで。それより多くなったら、端を引き出す。そういうやり方が、体の中に入っていた。

今夜は他の者が少ない。狩りに出た者たちが、戻っていない。

湿地の方角から、時々声がする。自分の集団の声ではない。

その者は座ったまま、声のする方に体を向けた。向けて、また火を見た。

足元に焦げた骨があった。誰かが食べた後に捨てたものだ。脂の匂いがまだ残っていた。

その者は足で転がした。骨が砂の上を滑って、止まった。白い断面が上を向いていた。

見た。

見ただけだった。

湿地からまた声がした。今度は複数だった。笑っているような、怒っているような、どちらかわからない音だった。

その者は骨から目を離し、声の方を見た。

暗くて何も見えなかった。

火は小さいままだった。

伝播:NOISE 人口:499
与えるものの観察:足で転がした。拾わなかった。次がある。