2033年、人類の旅

「紀元前295,445年〜紀元前295,325年」第913話〜第936話

Day 39 — 2026/05/11

読了時間 約57分

第913話

紀元前295,445年

第二の星

台地の縁から、煙が見えた。

一筋ではない。三筋か四筋か、数えるより先に風が散らした。丘の斜面に住む集団のものだ。彼らの火は夜も消えない。この者たちの集団がかつて火を絶やして夜を過ごした季節があった。あの暗さと、丘の火の明るさは、すでに異なるものになっていた。

台地の下、葦の群れが揺れている。水は高い。雨季の終わりかけに降り込んだ雨が低地に残り、地面は黒く湿っている。水鳥が数を増やし、卵を産んでいる。人が近づくと羽を広げて鳴き、浮かび上がる。その羽音は遠くまで届く。

豊かさが続いている。

木の実は実り、獣は群れ、子どもは生まれた。この五年で、集団の人数は増えた。増えた分だけ、口が増えた。水場の近くで座る場所を争う者が出た。皮を巡って声を荒げる者が出た。長老格の者が割って入り、しばらく静かになり、また始まった。

丘の集団との間に、なにかが生まれていた。

最初は遠かった。丘の稜線に人影が立ち、こちらを見ていた。それだけだった。次に、低地で鉢合わせた。双方、立ち止まり、しばらくして離れた。血は流れなかった。その次に、低地の水場で、向こうの集団の若い者が石を置いていった。なぜ置いたのか、この者たちには分からなかった。石は翌朝もそこにあった。誰かが蹴り、誰かが拾い、また誰かが元の場所に戻した。

それからは動きが速かった。

丘の集団のなかに、体の大きな者がいた。額が広く、顎が突き出ていた。歩き方が違う。声の出し方が違う。この者たちの集団の誰とも、似ていなかった。その者は低地の水場に現れ、水を飲み、去った。恐れる者もいた。近づこうとする者もいた。子どもたちは遠くから見ていた。

この者の集団の中で、ある声が大きくなった。

丘の集団と混ざることへの拒絶。彼らは違う、という感覚。言葉にはなっていない。身振りと目の動きと、喉の奥から出る低い音で、それは伝わった。集団の中で何かが決まりつつあった。誰が決めたわけでもない。ただ、雰囲気が傾いていた。

その傾きの中で、この者は異質だった。

丘の集団の者が水場に来ると、この者は逃げなかった。見ていた。相手も見た。それだけだった。しかしそれが、集団の誰かには見えていた。

夜、火のそばで、年長の者が何かを言った。この者の方を向いて言った。何を言ったのか、この者には全部は分からなかった。ただ、自分に向けられた言葉だということは、分かった。

与えるもの

水場の端に、折れた葦の茎があった。切り口が斜めで、内側が白く乾いていた。

風がそこに吹いた。茎が転がり、この者の足もとに触れた。

この者は拾った。匂いを嗅いだ。折れた端を指でなぞった。それから置いた。

渡した。けれど何に使うかは、まだ分からない。使わないかもしれない。しかしこの者の指が切り口に触れた。その一瞬は起きた。起きたことは消えない。次に渡すべきものは、この者が排除される前か、後か。前ならまだ間に合う。後なら、誰に渡す。

その者(29〜34歳)

折れた葦を拾った。

白い切り口を、もう一度だけ見た。縦に筋が入っている。自分の手のひらの線と、少し似ていた。

置いた。

年長者の声がまだ耳に残っていた。意味は半分しか分からなかった。残り半分が、胸の中で重かった。火は燃えていた。この者は火の番をした。

伝播:HERESY 人口:480
与えるものの観察:渡した。使われるかどうかは、もう問いではない。
───
第914話

紀元前295,440年

その者(34〜39歳)

火が落ちかけていた。

その者は灰の縁に新しい枝を差し込んだ。細いものから。太いものはまだ待つ。それは誰かに教わったのでも、言葉で学んだのでもない。手が覚えていた。炎が舐め上がる前に引く。引きすぎれば消える。その間を、指先が知っていた。

夜の終わりに近いころだった。

集団の他の者たちは岩の影や草の塊に身をひそめて眠っていた。子どもたちも。老いた者も。火の番は、まだ狩りに出ない者に与えられた。その者はもう五年近く、この役を続けていた。眠れない夜には炎を見た。眠れる夜にも、何かが目を開かせた。

煙の匂いだった。

自分の火ではない。風が変わって、丘の方から流れてくるものがあった。その者は立ち上がり、台地の縁へ歩いた。闇の中に、三つの明かりが見えた。遠い。しかし消えていない。昨日も同じ場所に光があった。一昨日も。

その者は長い時間そこに立っていた。

戻ると、集団の長老格の男がすでに起きていた。その者と視線が合った。男は煙の方角を見て、それから火を見て、それから黙った。その者も黙った。言葉が来なかった。言葉の前に、胸のどこかが重くなっていた。

翌朝、集団の中で声が上がった。

話し合いではない。怒号と、誰かが地面を打つ音と、子どもが泣く声と、それらが混ざり合ったものだった。その者には全部は聞き取れなかった。しかし、あちらの集団という意味の声が、何度も繰り返されるのはわかった。そして、あの火という意味の声も。

夜、また火を焚いた。

炎の中に黒い芯が見えた。その者は芯を見つめた。芯は揺れなかった。炎だけが揺れた。何かがその者の目を、芯ではなく炎の外へ引いた。灰の端のあたり。火が届かない、地面が暗くなる境界。

そこに、小さな骨があった。

獣の骨だ。前の夜に食べたものの残りだろう。先が割れている。その者はそれを拾った。割れ口の白さが、炎の光に浮かんだ。その者はその骨を手の中で回した。持ち重りのない、軽いもの。先の尖ったもの。

どこかへ行ける気がした。

その言葉を持っていたわけではない。体の内側で何かが変わる感触だった。足の裏から上がってくるような。あるいは胸の奥から外へ押し出てくるような。その者は骨を握ったまま、夜を過ごした。

朝になった。

集団から二人の男が出発した。長老格の男と、もう一人。彼らはあちらの集団の方角へ歩いた。話し合いのためだったのか、境界を確かめるためだったのかは、その者にはわからなかった。

ただ、二人は戻らなかった。

昼を過ぎても。夕方になっても。翌朝になっても。集団の中で声がまた上がった。今度は怒号ではなかった。低く、持続する、岩が重なるような声だった。女たちが子どもたちを引き寄せた。

その者は骨を、まだ持っていた。

三日後の朝、その者は一人の若者に呼ばれた。集団の縁まで連れて行かれた。そこには数人が集まっていた。誰もその者を見なかった。ただ、誰かが後ろから腕をつかんだ。

岩の多いところへ連れて行かれた。

その者は歩きながら、骨を握り続けた。割れ口の端が掌に食い込んだ。痛かった。その痛みだけが、今に繋ぎとめていた。

後頭部を、何かが打った。

その者は前のめりに倒れた。顔が砂に触れた。砂の冷たさを、しばらく感じていた。それから、その者の体から、力が抜けた。草の根のそばに手が落ちた。骨は、その者の指から離れ、岩の隙間に転がった。

日が上がった。

骨は、岩の割れ目に挟まったまま、光を受けた。

第二の星

この五年、空は穏やかだった。

雨は適切な季節に来た。大地が乾くまでの時間も短かった。植物は根を広げ、獣は数を増やし、集団は大きくなった。子どもたちが歩けるようになり、また子どもが生まれた。その連鎖は止まらなかった。

豊かさは余裕を作る。余裕は領域への関心を生む。

台地の上と丘の斜面に、それぞれ火がある。どちらも消えない。どちらも近づいてくる。接触は言葉より先に起きた。目で計り、距離で計り、煙の数で計る。その計算は言語を持たない。それでも行われた。

こちらとあちらを区別する感覚は、この五年で深くなった。

集団の中に、二つの火の煙を見比べる者がいた。長く火を見た者だった。その者が何を知っていたのかは、誰にもわからない。ただ、その者はある朝、骨を持っていた。そして翌日には骨だけが岩の割れ目に残った。

大地は何も変えなかった。

日が来て、日が去った。集団は内側で揺れ、やがて静かになった。丘の火は、夜も消えなかった。台地の火も、誰かが継いだ。

これほど多くの命が同時にこの大地に在ったのは、稀なことだった。しかし豊かさの中に種が宿る。種が何になるかは、まだ誰も知らない。

与えるもの

割れ口の白さに、光を落とした。

温度が変わる場所だった。炎の橙と、夜の黒が分かれる、その境界。骨はそこにあった。その者が手を伸ばした。

それを持って行った。

岩の隙間に今もある。持って行った者は、もういない。次にここを通る者が拾うかもしれない。拾わないかもしれない。

切り口の白さは、前に見た気がした。

指に残ったことがあった。あれは届いたのか。届かなかったのか。私は何かを渡したのか、それとも私はただ、光が落ちる場所を変えるだけの何かなのか。

骨は岩にある。

次に渡す。今度は誰に渡すかを、まだ決めていない。ただ、骨はある。そこにある。

伝播:HERESY 人口:465
与えるものの観察:知りすぎた者の手から、骨が落ちた。
───
第915話

紀元前295,435年

第二の星

湿った季節が明けた。

草原は東から西へ乾いていった。川の水位が下がり、岸の泥が固まって割れた。足跡が残りやすい季節だった。

この群れの北側に、別の形の頭蓋骨を持つ者たちが動いていた。眉の出っ張りが深く、首が太く、歩き方が違う。しかし同じ川で水を飲んだ。同じ岸辺で魚を追った。言葉は通じなかったが、岸の向こう岸と手前で、それぞれが棲み分けを保っていた。

その棲み分けが、少しずつ崩れていた。

干ばつが東から来ていた。草が薄くなった場所では、獣が移動した。獣が移動すれば、それを追う者も動く。縄張りではなく、ただ飢えが人を動かす。

この群れの中で、誰かが声を荒らげた。何かを指差した。方向の問題ではなく、排除の問題だった。

この者に向けられた声だったかどうか、星には判断できない。

ただ、この者の火の前で集まる者の数が、前の季節より減っていた。それだけは見えた。

遥か南では、まだ誰も知らない海岸に打ち上げられた貝殻が、朝の光を反射していた。それを見る者はいなかった。

与えるもの

川岸の泥に、獣の通り道が刻まれていた。

その通り道に沿って、足元の土が光の角度で色を変える場所があった。乾いた黄土と、湿った暗色の土の境界線。その境界に沿って歩けば、北の丘まで続く。北の丘には、この群れの者が近づかない岩陰がある。

境界線に、朝の光を少し傾けた。

この者は立ち止まった。その境界線の上に、しばらく足を置いていた。

それが逃げる準備になるか、それとも何も変えないか。わからない。しかし境界線は、以前にも誰かに見せた。そのときも、誰も渡らなかった。渡るとはどういうことか、まだ持てないのかもしれない。次に渡すべきは、境界の向こう側に何かがあるという記憶かもしれない。

その者(39〜44歳)

火の番をする者がいる限り、その者には居場所があった。

それが変わったのは、ゆっくりとだった。

朝、枝を持って戻ってきたとき、二人が振り返らなかった。前の日は振り返っていた。振り返らないというのは何かだと、その者は感じた。言葉を持っていなかったが、感じた。胸の奥の方で、何かが収縮した。

火は守り続けた。

炎が落ちそうになれば、細い枝を足した。細い枝が燃えれば、太いものを足した。順番を知っていた。誰も教えなかったが、知っていた。火は答えた。

しかし誰も来なくなる日が、少しずつ近づいていた。

川に水を汲みに行ったとき、朝の光が泥の上に落ちていた。黄色い土と暗い土が並んでいる場所。その境界の上に立つと、足の裏に温度の違いがあった。一方は乾いて暖かく、一方は湿って冷たかった。

その者はしばらく、その境界の上に立っていた。

北の方に、草が続いていた。丘があった。その者の群れの者が近づかない場所だった。

水を汲んで、戻った。

火に戻って、また枝を足した。細いものから。それだけが、変わらなかった。

夜、集まりから離れた場所で横になった。声が遠くから聞こえた。怒っているような声だった。自分に向けられているかどうかは判断できなかった。それでも体は小さく丸まった。岩を両手で握った。置かなかった。

朝になれば、また火の番をするつもりだった。

伝播:HERESY 人口:456
与えるものの観察:境界線を踏んだ。渡らなかった。
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第916話

紀元前295,430年

第二の星とその者(44〜49歳)

乾いた季節が深くなった。

草原の東から砂が来た。細かく、白く、目の粘膜に貼りつく砂だった。岩棚の下に火を持つ者たちが集まり、顔を布で塞いだ。布というより獣の皮の薄い部分で、それを鼻に当てて縛った。縛り方を知っている者が三人いて、知らない者に教えた。

この者は縛り方を知らなかった。

隣の女が手を差し出した。受け取らなかった。自分の指で試みた。何度も結び、何度も緩んだ。火が揺れ、砂の混じった煙が喉に入り、咳が続いた。

北の斜面では、別の頭蓋を持つ者たちが歩いていた。彼らは砂の中でも止まらなかった。歩き方が違った。膝の向きが、着地の音が、立ち止まるときの静止が、この群れとは異なった。同じ砂嵐の中にいながら、別の生き物のように動いた。

この者は岩棚の端から彼らを見た。

長く見た。

首の後ろを誰かに叩かれた。見るな、という意味だった。この群れでは、誰もが知っていた。あの者たちを見ることは、呼び込むことだと。理由は誰も説明できなかった。しかし知っていた。

翌年、川の上流に新しい焚き火の跡が見つかった。灰の色が違った。燃やすものが違う。

この者は焚き火の跡に近づき、灰を指で触れた。まだ温かかった。体の中心が収縮した。冷えでも飢えでもない何かだった。

岩棚の年長者が指示を出した。この群れは南へ動く。子どもと老いた者を真ん中に。

移動の列が作られた。この者は火を持つ役だった。燃えている木片を、獣の骨の器に入れて運んだ。揺らすな、消すな。この者は三日、消さずに運んだ。

四日目の朝、雨が来た。

火が消えた。

年長者が振り返った。何も言わなかった。ただ見た。その視線の中に、この者は何かを読んだ。責めではなかった。失望でもなかった。それ以外の何かで、名前を持たない何かだった。

南の野営地に着いてから、この者はしばらく誰とも話さなかった。

三年が経った。

北の者たちが川の中流まで来ていた。この群れの者が水を汲みに行き、戻らなかった。一人、また一人。戻らないことが続くと、誰もが沈黙した。

年長者の会議は夜に行われた。火を囲み、声を低くして話した。この者は輪の外にいた。近づこうとして、押し出された。知りすぎると思われている者は、輪に入れない。この群れでは、知ることと、危ないことが、同じ身振りで表された。

この者が何を知っていたか。

灰の色が違うこと。焚き火の跡の形が違うこと。北の者たちの歩き方と、この群れの歩き方の違い。それだけだった。しかしそれは、輪の中の者には届かなかった。

川の岸辺で、この者は一人水を飲んだ。

水面に顔が映った。古い顔だった。年を取った顔だった。四十代の後半というのは、この時代には老いていた。傷の跡が二つ、頬骨に沿って白く残っていた。喧嘩の跡ではない。転んだときの跡だった。どちらの転倒も、もう思い出せなかった。

水面が揺れた。

上流から小さな木の葉が流れてきた。焦げた葉だった。縁が黒く、形が歪んでいた。この者はそれを手に取り、しばらく持っていた。捨てた。また拾った。

最後の年、この者は群れから離れた場所に寝るようになっていた。

与えるもの

焦げた葉が水面を流れるとき、その温度がまだ残っていた。

指に当たる熱さを、この者は感じた。

あれは上流の火だったのか、それともあれは、この者がいつか渡すべきものの残骸だったのか。わからない。しかし次に渡すものは、まだある。重さがある。

伝播:HERESY 人口:446
与えるものの観察:焦げた葉を拾い、捨て、また拾った
───
第917話

紀元前295,425年

第二の星

湿地が広がっている。

大地の低い場所に水が溜まった。干ばつの後の雨がそうした。地面が乾いて割れ、割れ目から吸った水が今度は吐き出せなくなり、表面に滲んだ。葦が生えた。鳥が来た。魚が来た。虫が来た。

そうして、別の者たちも来た。

草原の北から来た群れがあった。額の骨が張り出し、肩が広く、背が低かった。彼らは水場を知っていた。季節が変わるたびにここへ来て、魚を突き、葦を踏んで歩いた。そういう習慣が、骨の記憶のようにあった。

始まりの大地の者たちも、同じ水場へ来た。

最初は距離を置いた。北の群れは南の岸に留まり、始まりの大地の者たちは東の岸に留まった。互いに見た。声を出さなかった。ただ水を飲んだ。

それが変わったのは、食料が減ったからだった。

雨が続くと葦の根は腐る。魚は増えるが捕りにくい。果実は落ちる前に黴びる。同じ水場に依存する者が増えると、資源が競合する。それは言葉でなく腹で理解することだ。

北の群れの若い雄が、始まりの大地の者の仕掛けた罠に触れた。意図はなかったかもしれない。しかし罠に掛かった小獣が逃げた。それだけのことだった。

始まりの大地の者が声を上げた。

北の群れの雄が身を引いた。しかし翌日、また来た。

その翌日も。

押し返す側と来る側の繰り返しが続いた。接触は増えた。接触が増えると、衝突も増えた。始まりの大地の者たちの中に、川岸で倒れたまま戻らない者が出た。北の群れにも、消えた個体があった。

しかしそれと別に、奇妙なことが起きていた。

北の群れの一個体が、東の岸に座ったまま動かなかった。若くなく、老いてもいない。傷を負っていた。腕の内側が赤く腫れていた。始まりの大地の者の一人が、遠巻きに見た。近づかなかった。

しかし翌朝、その座った個体の傍に、根の塊が置かれていた。

誰が置いたかは、誰も見ていなかった。

水面が揺れた。鳥が飛んだ。傷を負った個体は根を手にとり、嗅ぎ、口に入れた。

始まりの大地では、長老と呼べる年齢の者たちが寄り合っていた。声が低かった。手が動いた。あの根は誰が置いたか、という問いではなかった。問いはもっと別の形をしていた。あれを置くべきだったか否か。それが言葉にならない声で飛び交った。

集団の中に、分かれ目があった。

与えること。奪うこと。その二つの間に人が立っていた。

答えは出なかった。水面だけが揺れ続けた。

与えるもの

根の塊に、光が落ちた。朝の最初の光が、ちょうど根の表面を照らした。

この者は火を見ていたが、光の動きに顔を上げた。根の方を見た。しばらく見ていた。それから手を伸ばさなかった。

根を置いた者が別にいた。この者ではない。しかしこの者が光を見た事実は残った。何かを渡せたか、渡せなかったか。それはわからない。ただ次に渡すべきものが変わった。光ではなく、もっと小さなものを。温度を、次に使う。

その者(49〜54歳)

火が小さくなっていた。

この者は枝を足した。煙が出た。目が沁みた。

遠くで声がした。怒鳴り声か、何かを呼ぶ声か、区別がつかなかった。

この者は火の方を向いた。声の方は向かなかった。

枝が燃えた。煙が薄くなった。火が戻った。

伝播:HERESY 人口:433
与えるものの観察:光は届いた。手は届かなかった。
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第918話

紀元前295,420年

第二の星

湿地は縮んでいた。

五年前、水が吐き出された大地は、今年は乾いた空気に舐められ、泥の縁だけが残っている。草は伸びたが、根が浅い。風が吹けば倒れる。

別の者たちは去った。来た時と同じように、音もなく。ただ足跡が残り、足跡に雨が溜まり、雨が乾いて白く固まった。

東の丘の向こう、岩棚が続く乾いた高地では、別の群れがいた。体は大きく、額は低く、喉から出る音は少ない。彼らも火を持っていた。薪を選ぶ手つきは丁寧だった。子どもの一人が石の上で跳ねて、転んだ。泣き声は、こちらの子どもたちの泣き声と区別がつかなかった。

その群れと、この群れが、川沿いの平地で出会った。

誰も石を投げなかった。誰も逃げなかった。ただ、互いの火を見た。

夜、二つの火が並んだ。それだけのことだった。

しかし朝、その高地の群れは消えていた。どこへ行ったかは、この星には関係がない。星は照らすだけだ。乾いた足跡の白さも、消えた群れの向かった先も、同じ光の中にある。

与えるもの

煙の流れる方向に、何かがある。

その者が火の番をしていた夜、風が変わった。煙がいつもと逆に流れ、乾いた草の匂いではなく、獣の匂いが混じった。

その者は煙の動きを目で追った。

追って、止まった。

闇の中に、何かの輪郭があった。

——渡したのは方向だ。煙という媒介を通じて。この者は追った。追って、止まった。止まったことが、逃げることと同じだったか、違ったか。私には確かめる手がない。ただ、次に渡すべきものが見えた気がする。止まった者に渡せるものと、動き続ける者に渡せるものは、違う。

その者(54〜59歳)

火が揺れた。

その者は枯れ枝を折り、折った先を炎の端に挿した。燃え方を見た。速すぎれば次の枝を遠ざけ、遅ければ近づける。何年もそうしてきた手が、考えより先に動く。

煙が曲がった。

いつもは右に流れる煙が、真後ろに折れた。その者の顔に煙が当たり、目が痛んだ。目を細めながら、煙の流れた先を見た。

暗い。

草が動いている。風ではない動き方だった。

その者は立ち上がらなかった。しゃがんだまま、膝に両手をついた。口を閉じた。火の音だけがある。

草の動きが止まった。

その先に、影があった。大きくもなく、小さくもない。息をしている形だった。

その者は枝を一本、火に足した。炎が少し高くなった。

影は動かなかった。

その者も動かなかった。

どのくらいそうしていたか、わからない。やがて影が、後退した。草が揺れ、揺れが遠ざかり、消えた。

その者は火を見た。

火は変わっていなかった。枝が一本、赤く崩れていくところだった。その者は手を伸ばし、崩れかけた枝を押し戻した。火が続いた。

夜明けまで、その者は座っていた。

伝播:DISTORTED 人口:448
与えるものの観察:止まった者と動いた影、どちらが怯えたか。
───
第919話

紀元前295,415年

その者(59〜60歳)

火が落ちかけていた。

その者は乾いた枝を一本、炎の縁に差し込んだ。煙が細くなる前に、もう一本。指が動く間は、そうしてきた。何年も。

集団の若い者たちは去った。二日前から戻っていない。

老いた女が一人、岩陰で咳をしていた。子どもが一人、遠くで石を叩いていた。その音は続いていたが、やがて止んだ。子どもがいなくなった。どこへ行ったかを、その者は問わなかった。

知っていたからではない。問う言葉が、もうなかった。

腹が痛かった。腹というより、中のどこか。場所が特定できない痛み。それは昨年の冬からあった。

その者はゆっくりと座り込んだ。火の前。膝を引き寄せて、顎を膝の上に乗せた。炎を見た。炎は揺れた。

風が来た。

風はその者の背中の側から来た。枯れ草の匂いがした。乾いた土の匂い。その者は振り返らなかった。振り返る力が、もうなかった。

匂いは続いた。

草が焦げたような、いや、違う。もっと前に嗅いだことのある匂い。いつか。どこかで。その者の指が地面の砂を掴んだ。砂は冷たかった。手の中で崩れた。

火が一度、大きく揺れた。

その者は目を開けたまま、炎が小さくなるのを見ていた。枝を差し込むことを、考えた。体が動かなかった。考えただけで終わった。

炎は小さくなった。

煙が細くなった。

その者の体が横に傾いた。ゆっくりと。岩の表面に肩がついた。そのまま止まった。頬が地面に触れた。砂の冷たさが頬に伝わった。

息はまだあった。

炎は消えた。

息も止んだ。

遠くで老いた女の咳が続いていた。

第二の星

北の方角、岩山が連なる場所では、旧人の群れが川沿いを移動していた。水嵩が減り、渡れる場所が増えていた。集団の緊張とは無関係に、岩が崩れ、草が枯れ、川が流れていた。空は晴れていた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:433
与えるものの観察:渡した匂いに、この者は振り返らなかった。
───
第920話

紀元前295,410年

第二の星

この5年、大地の東に続く平原では乾季が長くなった。草が枯れ色のまま月をまたいだ。水場が一つ、砂に沈んだ。そこに通っていた獣の道が消え、その道を辿っていた群れが方角を変えた。

湿地の縁に住む一群は北へ移動した。岩棚の下に残った痕跡だけが、そこに誰かがいたことを示した。焚き火の跡、割られた骨。

別の場所では、旧人の一群が沢のそばに止まっていた。乾季の間も水が湧く場所だった。彼らは移動しなかった。岩に沿って身を縮め、雨を待った。

集団の境界が揺れていた。同じ水場を、複数の群れが同じ時期に目指した。出会いは必ずしも静かではなかった。ある夜は声があがり、ある夜は静かなままだった。何が分けたのかは、その夜の者たちにもわからなかった。

始まりの大地では、火の場所が移っていた。岩の割れ目に近い、風の当たらない一角に。誰かがそこを選んだ。

与えるもの

糸が繋がった。

この者はそれを知らない。

石の形を教えた。水の在りかを示した。煙の読み方も。そして今、この者は集団の内側で何かに触れかけている。触れると、消される。

光は落とす。届くかどうかは、別の話だ。

風が南から吹いた。その者の背に当たる角度で。

そこに、旧人の足跡があった。深くはなかった。去っていく向きだった。

この者は足跡を見た。

見た。それだけだ。しかし次に渡すべきものが変わった。足跡の深さではない。足跡の向きを、次に渡す。

その者(32〜37歳)

火を移した。

岩の陰に収まる場所を選ぶのに、半日かかった。煙の流れを顔で読みながら、熾きを土の上に移す。熱が逃げないうちに枯れ草を重ねた。草が白く光り、それから赤くなった。

集団はその火の周りで眠った。

この者は縁にいた。眠る者たちを背にして、外の暗がりを向いていた。

年が変わった。また変わった。

水場への道を覚えていた。この者だけが、雨季の後に草の色がどこから変わるかを知っていた。沢が細くなる前に、岩の滲みを触った。舌に当てると、塩の気があった。この者はその場所を覚えた。誰にも言わなかった。言う言葉を持っていなかった。

若い者が二人、石を割り始めた。この者を見ていた。割り方ではなく、この者の手の動きを。どの角度で石を持つか。どの場所を打つか。この者は気づかなかった。

集団の中に別の者がいた。大きく、声が通る。群れを動かすとき、その者の声で全員が向きを変えた。この者はその声を聞くたびに何かを確かめるように火の具合を見た。

ある夜、旧人の一群が水場の近くにいた。

この者は気づいた。草を踏む音の質が違った。吐く息の間隔が、仲間と異なった。暗がりに目を向けた。影は動かなかった。それでもこの者は火に近づき、枝を一本足した。音ではない、別の確信で。

集団の声が変わり始めたのは、そのあとだった。

この者の動きが語られるようになった。火を移したこと。水場を知っていること。旧人の夜に気づいたこと。声が通る者がそれを聞いていた。

何が問題なのか、この者にはわからなかった。

石を割る手を止めて、空を見た。雲が東へ流れていた。

伝播:HERESY 人口:425
与えるものの観察:渡した。足跡の向きを、次に渡す。
───
第921話

紀元前295,405年

第二の星

東の平原が変わっていた。

乾いた風が止まり、代わりに南から湿った空気が押してきた。雲が厚くなった。何日も空が白く濁ったまま、日が落ちても暗くなり切らない夜が続いた。草の根元に水が戻り始め、枯れ色だった地面に細い緑が滲んだ。

しかしそれは恵みではなかった。

水が戻る前に、別のものが来ていた。

湿地の縁を北へ去った一群が、戻ってきた。数が増えていた。子を連れ、年老いた者を引き連れ、見たことのない顔がその中にいた。骨格が違う。額が低く、眉の骨が厚い。歩き方が違う。足音が大きい。

旧人だった。

北の地から押されてきたのか、それとも南下してきた群れが旧人の縄張りをかすめたのか、理由はわからない。ただ、二つの群れが同じ水場に向かっていた。

水場は一つしかない。砂に沈んだのとは別の、岩盤から染み出す湧き水だった。乾季に生き残った者たちが命をつないだ場所だ。

両者が出会ったのは昼前だった。

この種の者たちが先に着いていた。旧人の群れはゆっくりと近づいた。立ち止まった。どちらも声を出さなかった。

空気が変わった。子どもたちが大人の後ろに隠れた。年老いた旧人が前に出た。両手を見せた。爪に土がついていた。傷のある手だった。

この種の若い男が石を拾い上げた。

誰かが低く唸った。どちらの側からかはわからなかった。

旧人の群れが半歩下がった。この種の群れが半歩前に出た。子どもが泣き声を上げかけ、母親の手で口を押さえられた。

南の風が水場の湿った匂いを運んだ。

両者はその場に立ったまま、陽が傾くまで動かなかった。石を拾った男は石を置かなかった。旧人の年老いた者は手を下ろさなかった。

日暮れに、旧人の群れが方角を変えた。水場から離れた。しかし遠くはなかった。丘の影に消えたが、煙はその夜も見えた。

翌朝も、見えた。

次の朝も。

水場は一つ。二つの群れの間に、まだ名前のない何かが漂っていた。石か、声か、それとも沈黙か。どれが先に動くかは、まだ決まっていなかった。

大地は乾ききった地面に水を戻しながら、その緊張を均等に濡らしていた。誰かに肩を持つことなく。

与えるもの

石を拾った男の手に、熱が来た。

掌の内側から、じわりと。石の重さよりも先にそれを感じた。

男は石を握ったまま、旧人の年老いた者の手を見た。傷のある、開いた手を。

男はそのまま立っていた。石を置かなかった。投げもしなかった。

それについて、渡したものがまだ形を持っていないのかもしれない。しかし熱だけは届いた。次に渡すべきは、開いた手の意味かもしれない。問いはそこに残った。

その者(37〜42歳)

その者は水場から離れた場所で火を管理していた。

夕方、煙が二本立っているのを見た。一本は自分たちのもの。もう一本は丘の向こう。

その者は薪を一本足した。

火が大きくなった。丘の向こうの煙も、消えなかった。

その者は長いあいだ、二本の煙を見ていた。何も言わなかった。

伝播:NOISE 人口:441
与えるものの観察:熱は届いた。しかし手は開かれなかった。
───
第922話

紀元前295,400年

その者(42〜46歳)

集団の外れで、その者は岩の上に座っていた。

背中が曲がっていた。ここ数日、火のそばを離れない。他の者が薪を持ってくる。その者は受け取らない。ただ見る。炎が揺れる様子を。

四十二歳から火を管理してきた。それより前は別の者が管理していた。その者が倒れたとき、誰も火に触れなかった。若いその者だけが近づいた。恐れていなかったわけではない。近づくほかなかった。

それだけのことだ。

集団の中に、緊張があった。

東の群れと何度か顔を合わせた。向こうの者が、こちらの火を見た。長く見た。その者はその視線を覚えている。火は奪えるものだ。知識も奪えるものだ。その者はそれを知っていた。言葉にはできなかったが、体が知っていた。

ある夜、二人の男が来た。同じ集団の者だった。

その者は顔を上げた。

男たちは何も言わなかった。身振りもなかった。ただ立っていた。

その者は岩の縁を触った。手のひらに石の冷たさが伝わった。

男たちは動かなかった。

夜が深くなった。風が凪いだ。虫の声が止んだ。

男たちが動いた。

翌朝、火は燃えていた。

その者はいなかった。

集団の誰もが、そのことを口にしなかった。子どもが一人、空を見上げた。雲が流れていた。それだけだった。

火の管理は、別の者が引き継いだ。

草の中に、その者は倒れていた。

顔が地面を向いていた。手が開いていた。石を持っていたらしく、指の間に砂が入り込んでいた。どこかで打たれたのか、倒れたのか、もう誰にもわからなかった。

体が動かなくなったのは、そこに至るまでの間のことだった。

草が風で揺れた。

第二の星

南の湿地では、浅い水の中に魚の骨が散らばっていた。誰かが食べた跡だった。岸に足跡が残っていた。二種の足跡が混じっていた。一方は幅が広く、指が短い。もう一方は細長い。二者は同じ夜にそこにいたのか、別の夜だったのか、水が濁っていてわからなかった。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:429
与えるものの観察:渡したものが火か、それとも別のものだったか。
───
第923話

紀元前295,395年

第二の星

北の岩棚に、霜が降りた朝があった。

南の低地では、木の実が熟れきって地面に落ちた。踏まれ、発酵し、甘い腐敗の匂いが数日続いた。それを嗅ぎつけた獣たちが夜ごと集まり、集団の一つが移動を余儀なくされた。

川沿いで、旧人の三人組が魚を追っていた。その流れの上流で、この星の者たちが水を汲んでいた。互いの存在に気づいた。近づかなかった。離れなかった。ただ同じ川の水を、別の手で掬った。

草原では、子どもが一人、背の高い草の中で迷子になった。泣き声が続き、夕方には誰かが見つけた。

別の場所で、誰かが死んだ。

別の場所で、誰かが生まれた。

五年という時間は、こうして積み重なる。霜の朝と、腐った実と、川と、草の中の泣き声と。この星はそのすべてに等しく光を当て、等しく夜を降ろした。何かを選ばない。何かを惜しまない。

集団の外れで、煙が細く立ち上っていた。

与えるもの

糸が繋がった。

この者は十二歳から、もう十七になった。

渡してきた。光を、風を、匂いを。届いたものも、届かなかったものもある。

今夜、火のそばの草の上に、一匹の虫が死んでいた。翅が広げられたまま、動かなかった。光がそこに落ちた。

この者は見た。

しゃがんで、長い間、見た。

虫を拾わなかった。潰さなかった。ただ、見た。

知りすぎた者が消される、と誰かが決めた。この者は知ったのか。何を。虫の翅の広がり方か。火の近くで死ぬものがいるという事実か。

渡すべきものが、まだある気がした。

その者(12〜17歳)

虫を見ていた。

翅が二枚、開いたまま。火の熱で乾いた草の上で、足を上に向けて。

しゃがんで、膝を抱えた。虫は動かない。もう動かない。自分がそれをわかっているのが、なんとなくわかった。

一年前には、わからなかった。

火は燃えていた。薪は誰かが積んだ。自分は積まなかった。今日も積まなかった。他の者たちが遠くから見ていた。近づいてこなかった。

声が来た。低い、男の声。

その者は振り向かなかった。

声は繰り返された。今度は複数になった。言葉の形をしていたが、その者には音の塊として届いた。怒っているのかもしれない。呼んでいるのかもしれない。

その者は虫を見ていた。

翅の脈が細かく走っているのが見えた。触っていないのに、触れたような気がした。指先が、少しだけ温かかった。

立ち上がった。

声の方向に体が向いた。向けた、のではなく、向いた。足が動いた。

火から離れた。

闇の中に入った。

声は、その先にあった。

伝播:HERESY 人口:417
与えるものの観察:翅を見た目が、知った目だった。
───
第924話

紀元前295,390年

第二の星

北の高地に雪が積もっている。
溶けかけた端から水が滲み、岩の隙間を伝い、低い場所へ向かう。

川沿いの浅瀬に、旧人の三人がいる。体格は大きく、額の骨が張り出している。彼らは声を出さない。水の中に腕を入れ、魚の腹を掴む。指が長い。

南の集団が移動してきた跡がある。踏まれた草、焚き火の灰、獣の骨。まだ白い。三日も経っていない。

旧人の三人がその跡を見ている。鼻を動かしている。互いに顔を見る。声は出ない。何かが決まったように、川から離れる。

始まりの大地の中央部では、二つの集団が一つの水場を共有し始めている。どちらが先にいたかは、もうわからない。呼び方が違う。火を囲む夜には、相手の声を真似る者が出始めている。

岩の影で、子が一人で眠っている。腹が大きく動く。小さい。まだ歯が生え揃っていない。

星は照らすだけだ。
どちらの集団にも、同じだけ光を落とす。

与えるもの

糸は続いている。

この者と繋がって五年目になる。

記憶の中に、繋がったまま終わった者たちがいる。十二の気配。届かなかった十二。
問いは残る。届くとはどういうことなのか。届いたとわかる前に、終わることがある。

今日は、川の上流から風が吹いた。
冷たい。旧人の体臭が混じっている。獣の脂と、煙と、何か別のもの。

その匂いが、この者の鼻のあたりに積もるように漂っていった。

逃げるか。留まるか。それを渡したかったわけではない。
匂いの向こうに、もっと遠い何かがある気がした。集団と集団の間に生まれるもの。恐れ、あるいは真似。どちらも同じ根を持つかもしれない。

渡せたかどうかはわからない。
次に何を渡すべきか、まだ見えていない。

その者(17〜22歳)

川の水を飲もうとして、その者は止まった。

匂いがした。

知っている匂いではなかった。獣でもない。煙でもない。それに似ているが、何かが足りないか、何かが多い。その者は立ったまま、鼻の穴を広げ、風の向きを確かめた。川上。

集団の中の年長の女が、少し離れたところにいた。その者は声を出さなかった。女の方を見た。女はすでに石を拾っていた。

二人の目が合った。

女が歩き始めた。川から離れる方向。その者は女の足の運びを見ていた。速くない。走っていない。でも止まらない。

その者も歩いた。

水は飲めなかった。喉がまだ渇いていた。それでも足は女についていった。

夕方、別の場所で火を起こした。煙が細く上がった。その者は煙を見ていた。

自分たちの煙と、他の誰かの煙の違いについて、考えるための言葉を、この者はまだ持っていない。しかし何かが胸の奥に引っかかっていた。棘のように。抜けない場所に。

夜、集団の中で年長の男が声を出した。
低い音。繰り返した。

その者はその音を聞きながら、川上の匂いを思い出していた。

眠れなかった。

岩に背中をつけて、目を開けたまま空を見ていた。星が多かった。それだけが、今夜の中で静かなものだった。

伝播:SILENCE 人口:430
与えるものの観察:匂いは届いた。それで十分か、まだわからない。
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第925話

紀元前295,385年

その者

22歳のとき、その者は初めて魚を素手で掴んだ。

浅瀬に足を入れ、じっとしていると、水がやがて足を石の一部として扱いはじめた。冷たさが足首を締め、膝まで来て、腹の底に届いた。影のなかに魚が泳いだ。手を出した。逃げた。また手を出した。逃げた。三度目に、指の間に何かが入り込んできて、それを握った。

地面に叩きつけた。

動かなくなった魚を、しばらく見た。

23歳の秋、集団が移動した。大人たちが行き先を決め、子どもたちと年寄りがついていった。その者は子どもでもなく大人でもなかった。荷物を持たされ、火種を任された。

陶土の器に炭を入れ、胸に抱えて歩く。風が来るたびに体でふさいだ。雨が来れば岩陰に逃げた。それでも一度消えた。消えたとき、その者はしばらく器を抱いたまま動かなかった。

集団の誰かが戻ってきて、新しい炭を入れてくれた。

24歳の春、旧人の三人が川沿いに現れた。

その者は遠くからそれを見ていた。大きな体。額の骨の張り出し。声を出さない彼らは、水面を見つめ、やがて上流へ消えた。その者の足は動かなかった。追わなかったし、逃げなかった。ただ岩の陰に立ったまま、においだけを覚えた。

集団に戻り、何かを伝えようとした。

「大きい。向こう。水」と言った。

大人の一人がうなずいた。それだけだった。

25歳の初夏、崖崩れが来た。

前日の雨が土を緩め、朝になっても空は水を含んでいた。その者は火の番をしていた。煙が真上に立っている日だった。煙が真上に立つ日は風がない。風がない日は音がよく届く。

上の方で、何かが動く音がした。

その者は音のした方を向いた。

次の瞬間、土と岩と水が一緒になって斜面を降りてきた。火が消えた。煙が消えた。その者の体が土に飲まれるまでに、空を見た時間があったかもしれない。

第二の星

崖崩れの音が収まったとき、上流の旧人三人は川で魚を追っていた。一人が水に腕を入れ、二人が岸から待っていた。空は重く、水は濁っていた。彼らは崩れた音を聞いた。体を起こし、下流の方向を見た。しばらくそのまま立っていた。やがて、また水面に目を向けた。

与えるもの

次に渡すべき者が、川のどこかにいる。

伝播:SILENCE 人口:442
与えるものの観察:渡せた感触がない。しかし渡す前に終わった者は何度もいた。
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第926話

紀元前295,380年

第二の星

平原の端が乾いている。
雨季が短くなった。土が固くなる前に草が枯れる。水場が遠のく。

集団は東側に寄った。旧人たちが使っていた崖下を、今は別の顔ぶれが使っている。境界はない。けれども誰もが境界を知っている。目の動き方で知る。肩の向き方で知る。

旧人の子どもと、この者の集団の子どもが、同じ水場で飲んだ。
二度目はなかった。どちらかの大人が見ていた。

崖の上では別の集団が動いた。煙が見えた。三本。近すぎた。
夜、誰かが走った音がした。朝、その音が戻ることはなかった。

集団の中で何かが決まった。声ではなく、眼差しで。
年長の者が、東と西を交互に見た。誰もが同じ方向を見た。

草が枯れた場所に、鳥の骨が散らばっている。
誰かが食べた跡か、獣が残したものか、区別がつかない。

風が変わった。
匂いが変わった。

与えるもの

糸が繋がった。第177世代。

この子は8歳だ。まだ何も知らない。知らないことが、まだ守っている。

煙の方向に、朝の光を落とした。
この子は光の先を見た。それからすぐに母親の足元に戻った。

渡ったか、渡らなかったか。
光は見た。けれどもそれを覚えているかどうかは、私には届かない。

川上の風。魚を掴む感触。足首の冷たさ。
ここまで届けてきた。次の者には届かなかった。その次の者には届かなかった。

この子に何を渡すか、まだわからない。
ただ、知りすぎた者が消されると、私は知っている。

何を渡すべきで、何を渡してはならないか。
そんな問いを持つことが、すでに間違いかもしれない。渡すことしか、私にはできない。

その者(8〜13歳)

母の背中に顎を乗せて眠った。

起きると、母はいなかった。
火の前に老いた女が座っていた。この者は老いた女の隣に座った。老いた女は何も言わなかった。この者も何も言わなかった。

朝、煙の方向に光がさした。
この者は光を見た。指の隙間から。目を細めて。すぐに足元を見た。

東の崖の方から、声がした。知らない声だった。
老いた女が立ち上がった。この者の首根っこを掴んで、茂みの中に押した。膝が土に刺さった。葉が顔に当たった。

じっとしていた。
遠くで何かが倒れる音がした。

老いた女は戻らなかった。

この者は茂みの中にいた。腹が鳴った。鳴ったことが怖かった。口を手で押さえた。

日が傾いた。鳥が鳴いた。
それから静かになった。

茂みを出た。
火は消えていた。老いた女は見当たらなかった。地面に何かが引きずられた跡があった。

この者は火の跡の前に立った。
灰を手でかき混ぜた。熱はもう残っていなかった。

伝播:HERESY 人口:433
与えるものの観察:光を見た。それだけだ。次に渡すものを考えている。
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第927話

紀元前295,375年

その者(13〜18歳)

石を持ったまま、走っていた。

足の裏に固い土が返ってくる。乾いた平原は踏んでも音を立てない。草が短くなった。根が露わになった土の縁を、その者は走った。

追いかけていたのではない。追われていた。

同じ集団の者ではなかった。体が大きく、額の骨が張り出している。毛が濃い。その者が知っている顔ではなかった。昨日から水場の近くにいる。集団の誰かが声を立てた。石を投げた者もいた。相手は退かなかった。

今日、その者は水を汲みに行った。ひとりで。

足音が後ろにあった。

その者は振り返らなかった。振り返ったら止まってしまうから。石は右手にある。小さい。尖っている。これで何ができるかはわからない。

低木の群れが見えた。その者はそこに飛び込んだ。枝が顔を引っ掻いた。血が顎を伝った。

足音が止まった。

茂みの中で息を殺した。心臓が腹の奥から突き上げてくる。土の匂い。枯れた葉の匂い。それから、何か別の匂い。

甘い。腐っているわけではない。ただ甘い。

その者は匂いの方を向いた。低木の根元に、小さな実が落ちていた。赤みを帯びた黒。皮が少し割れて、中身が見えていた。

足音はもう聞こえない。

その者はしゃがんだ。実を拾った。口に入れる前に止まった。なぜ止まったのかわからない。ただ止まった。

実を手の中で転がした。

立ち上がって、茂みの外を見た。影はない。空が白く光っている。遠くで鳥が鳴いた。

その者は実を握ったまま、集団のいる方向へ歩き始めた。

水場には戻らなかった。

第二の星

集団は東に寄った。水場が遠のいたためだ。

草が枯れる前に移動した者たちは、今は岩棚の南に寝起きしている。日差しが強い。夜は急に冷える。子どものうちの何人かが腹を壊した。一人は戻らなかった。

水場を巡る緊張は、この季節だけのことではない。額の骨が張り出した者たちは、川沿いに何組か暮らしている。遠くから見れば、集団と集団は似ている。近づけば、違う。声の高さが違う。歩き方が違う。においが違う。

互いに石を投げ、互いに退いた夜が、この5年でいくつかあった。誰かが死ぬことはなかった。今はまだ。

平原の乾きは続く。水は地面の中に潜る。生き物たちは同じ場所に集まる。集まれば、擦れる。

この星は今、東の大地が暑く、北の海が荒れている。氷が融けて、水が増えた場所がある。一方で、水を失って固くなった場所もある。どちらも、その者たちには届かない言葉だ。

ただ土が固い。草が短い。水が遠い。

それだけが、その者たちの世界だ。

与えるもの

匂いが届いた。甘い匂いが。

実に光を落とした。割れた皮のところに。

その者は止まった。口に入れる前に。

――あの実は毒ではない。食べられる。しかし、その者はそれを知らない。知らないまま止まった。

何が止めたのか。

疲れるということがあるのかわからない。しかし、渡したものが使われないまま握られているのは、渡せたのか渡せなかったのか、わからない位置にある。

次は何を渡すべきか。まだ考えている。

伝播:NOISE 人口:444
与えるものの観察:実は握られたまま、使われなかった。
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第928話

紀元前295,370年

第二の星

乾いた風が北から南へ流れている。

始まりの大地の東端、岩盤が露出した斜面に、煙が細く立ち上っている。二つの集団がいる。一方は火を持ち、一方は持たない。火を持たない側が近づいている。近づき方に、これまでとは違う速さがある。

同じ大地の西、湿地の縁では別のことが起きている。旧い型の者たちが、泥の中から何かを掘り出している。根か、虫か。腰が深く曲がった老いた個体が、若い個体に何かを渡している。渡すという行為が、そこにある。

北の森ではまだ葉が残っている。南の草原は色を失いかけている。同じ空の下で、水の多い場所と少ない場所がある。水の少ない場所から、足跡が東へ向かっている。

岩盤の斜面から見れば、煙は風に流されて南へ消える。煙があった場所には、灰の白さが残る。その白さを、この星は等しく照らす。

火を持つ側の者も。持たない側の者も。近づいてくる足音も。近づかれることを知らない者も。

与えるもの

煙の匂いが変わった。

その者の鼻に届くよう、風の向きが変わった瞬間があった。ただの煙ではない、何かが燃えている匂い。毛か、骨か、革か。

その者は立ち止まった。

次に何を渡すかを、与えるものは考えていた。匂いで止まれた。では次は音か。音は遠くに届く。だが届く前に、事は動くかもしれない。

その者(18〜23歳)

走るのをやめた。

脚が止まったのは意志ではない。鼻が止めた。空気の中に、知っている匂いがある。知っているが、今日ではない匂い。昨日ではない。もっと遠い何かの残り。

その者は口を少し開けた。舌の奥で匂いを確かめる動作が生まれた。集団の者たちが時折やる動作だが、その者がやることは少ない。今日はやった。

東の方向に、煙が見える。細い。色が薄い。だが止まっている煙ではない。何かが今も燃えている。

石を持ったままの手が、無意識に胸の前に来た。

集団がいる。東に。

その者の足は動かない。動かしたいという気持ちと、動かしてはいけないという感覚が、胴体の中で別々に引っ張っている。どちらにも名前はない。どちらが強いかも、まだわからない。

風が止んだ。

匂いも止んだ。

その者は岩の陰に入った。入ったことに気づかないまま、入っていた。石を膝の上に置いた。置いてから、また拾った。

煙は続いている。

その者はそこから動かなかった。動かないことが何かを意味するとは、この者には思えない。ただ足が、もう走っていない。

伝播:NOISE 人口:456
与えるものの観察:匂いで止めた。次は音か、それとも影か。
───
第929話

紀元前295,365年

その者(23〜28歳)

その者は岩の影で横になっている。

二十三の年から五年、この者は同じ斜面を歩いた。朝は東から。夜は西へ。足の裏に石の感触を覚えていた。どこに尖ったものがあるか。どこで水が染み出してくるか。

集団の緊張は身体でわかった。声が低くなる。男たちが立ち方を変える。肩と肩のあいだに隙間がなくなる。火を持たない者たちが三日前から見えていた。その者は何も言わなかった。言葉を持たなかったから言わなかったのではない。言うべき言葉が、なかった。

二十七の年の終わりに、夜が来るたび腹の奥に熱が溜まるようになった。水を飲んだ。飲んだままどこかへ消えた。食べた。食べたものが戻ってきた。それでも朝は起き上がった。

最後の日、その者は斜面の端まで歩いた。理由はない。ただそこまで歩いた。

眼下に二つの集団が見えた。遠くで、誰かが叫んでいた。火が揺れていた。その者にはもう、どちらが自分の集団かわからなかった。

岩に手をついた。

手の感触だけが、まだはっきりしていた。

冷たかった。

岩は冷たかった。

その者はそのまま岩にもたれ、膝が先に折れ、斜面の低い側へゆっくりと傾いた。転がらなかった。ただ斜面に沿って、重さのままに止まった。

下では誰かがまだ叫んでいた。

第二の星

東の低地、湿地帯が広がる平原で、旧人の一群が水辺を離れていた。理由はない。ただ足が向いた。南の空に雲が重なり、風が草を一方向に押した。彼らは止まらなかった。歩きながら、何かを食べた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:NOISE 人口:467
与えるものの観察:岩の冷たさだけが残った
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第930話

紀元前295,360年

第二の星

乾いた風が吹いている。

草原の端、赤みを帯びた土が割れている場所で、二つの集団が向き合っている。どちらも声を上げない。ただ立っている。

片方の集団は額が低く、眉骨が厚い。毛皮を腰に巻いただけで、手には太い骨を持っている。もう片方は細い顎をして、肩を丸め、手のひらを開いて見せている。開いた手は何も持っていないということだ。何も持っていないということは、殺しに来たのではないということだ。しかしそれが通じるかどうかは、相手の目だけが知っている。

五年前、この草原の東側に厚い雲が居座り、雨が降り続けた。河が岸を越えた。獣が高い方へ逃げた。食べるものが減った。その年、集団の子どもたちの半数が戻らなかった。

雨が止んだ後、草が戻った。草が戻ると獣が戻った。獣が戻ると、腹を満たした者たちがまた子を産んだ。そうして増えた者たちは、互いの縄張りを侵しはじめた。

意図ではない。腹が空けば移動する。移動すれば誰かの場所に入る。それだけのことだ。しかしそれだけのことが、骨を持って立つことへと変わる。

今日、この草原で骨が振り上げられることはなかった。眉骨の厚い集団が先に身を翻し、西へ歩いて消えた。勝ち負けではなく、ただ引いた。なぜ引いたかは、引いた者たちだけが知っている。あるいは誰も知らない。

しかし夜、火の周りで、細い顎の集団のひとりが、厚い眉骨の輪郭を土に描いた。他の者がそれを見た。見て、声を出した。低い声だった。

描いた者は消した。

消したが、みなが見た後だった。

見た者の中に、石を割る者がいた。二十七の年になっていた。その者は何も言わなかった。ただ火の反対側に座り、膝の上で手を組んだ。

翌朝、石を割る者は集団の外れで作業をしていた。いつもより遠い場所だった。

その三日後、石を割る者は集団の中の二人から引き離され、岩の裂け目へ連れて行かれた。

石を割る者が戻ることはなかった。

集団はそれを語らなかった。火の周りで、誰もその名を呼ばなかった。次の夜も、その次の夜も。

草原の風が吹いている。赤い土が乾いている。何も変わっていないように見える。しかしひとつの手が、もう石を割らない。

与えるもの

糸が繋がった。

渡した。

岩の割れ目、その奥に光が落ちた——石の層が剥がれかかっている場所、薄く、鋭く、まだ誰も気づいていなかった。

その者は連れて行かれる前の朝、その石を手に取った。割いた。端が鋭かった。手のひらに乗せたまま、しばらく動かなかった。

持っていったかどうかは、わからない。

渡した。届いたかもしれない。しかし次を渡す相手はもういない。この者に渡せるのは、これが最後だった。ならば最後に渡したものが何であったかを、私は覚えている。それだけは、消えない。

その者(27〜32歳)

石が手の中にあった。

割った端が、親指の付け根を切った。血が出た。舐めた。

連れて行かれるとき、その石を握っていた。

手を開けと言われた。開けなかった。

岩の裂け目の中で、何かが止まった。静かに止まった。石だけが、暗い地面に残った。

伝播:HERESY 人口:453
与えるものの観察:渡した。最後だった。それでも渡した。
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第931話

紀元前295,355年

第二の星とその者(32〜37歳)

川が膨らんだのは夜だった。

誰も音を聞かなかった。上流で三日降り続いた雨が、低地に向かって走ってきた。泥の壁が来る前に、地面がぬかるんでいた。草の根が浮いた。獣の足跡が水で満たされた。そして岸が消えた。

その者は斜面の上にいた。

前の晩から脚に力が入らなかった。体の奥で何かが重かった。集団と向き合った日から、腹の底が固まったように動かない。足裏で土の感触を確かめながら、ただ斜面を登っていた。

水の音が変わったのを、耳で聞いた前に、足の裏が感じた。地面が微かに鳴っていた。低い、長い振動。その者は止まった。振り返らなかった。ただ、脚が前へ出た。

低地では声がした。

短い叫びが一つ、それから何もなかった。水はそういう音を消す。消してから静かになる。朝、水が引いたとき、残っていたものは残っていた。なかったものはなかった。集団は三人に一人を失っていた。子が多く消えた。老いた者が多く消えた。額の厚い者たちは高台に集まっていた。彼らも同じだけ失っていた。

その者は斜面の途中で夜を過ごした。

腕を膝に巻きつけて、岩にもたれた。暗い中で水の音がした。川ではなく、面のような水の音だった。遠くで誰かが声を上げていた。その者は声を出さなかった。石を一つ拾って、握った。特に何も考えていなかった。石を握っていると、手が落ち着いた。

夜が明けると、その者は斜面を下りた。

泥がどこまでも続いていた。木が倒れていた。倒れた木の根元から、見知った臭いがした。その者は近づかなかった。別の方向へ歩いた。

泥の中に女が立っていた。腰まで泥をまとって、子を抱いていた。子は動かなかった。女は動いていた。抱えたまま、動いていた。その者は女の前を通った。立ち止まらなかった。立ち止まる言葉を持っていなかった。

集団の生き残りが高台に集まった。

数えた。また数えた。足りなかった。名を呼ぶ習慣はなかったが、体を数えた。この者は足で地面を叩いて数えた。隣の者と肩が触れるたびに指を折った。折り切って、また開いた。また折り始めた。

額の厚い者たちが丘の向こうから歩いてきた。

集団は動かなかった。声も出なかった。ただ向き合った。どちらも持ち物が少なかった。どちらも泥で汚れていた。

その者は石を握ったままだった。

数日が過ぎた。

高台に残れるのは限られていた。食べるものが少なかった。子が泣いた。子が泣かなくなった。老いた男が夜のうちに丘を下りた。朝、誰も探しに行かなかった。

集団は南へ動き始めた。

その者は最後尾にいた。歩きながら石を拾った。重さを確かめた。いい石を捨てて、別の石を拾った。また捨てた。歩きながらそれをした。止まる理由がなかった。歩くしかなかった。

額の厚い者たちが後ろを歩いていた。

集団の誰もそれを止めなかった。止める声がなかった。ただ同じ方向へ歩いた。泥が乾いた土になり、乾いた土が草地になった。その者は石を一つだけ残した。それを握って歩いた。

数十日が過ぎた。

草地の先に、小さな丘が連なっていた。水が染み出している場所があった。その者は地面に膝をついて、手のひらで水を受けた。顔を近づけた。飲んだ。

水の味が少し変わっていた。前の場所の水と違った。

その者は立ち上がり、また歩いた。石はまだ手の中にあった。

与えるもの

石の表面が水に濡れて、光の向きが変わった。

その者は水を飲んだ。石を置かなかった。

この者はまだ握っている。握ることが何かを支えているのか、それとも握ること自体が目的になっているのか、私にはわからない。

だが握ったまま歩いている。

それは知っている。前にも知っていた。前の者も、その前も。

渡した石が使われたことは、ほとんどない。使われなくても石は石のままだ。この者の手の中で何かになっているのかどうか、それを問い続けることしか私にはできない。

次に渡すとしたら、もっと小さいものがいい。握れないほど小さいもの。手のひらに置けないもの。それでも注意を向けさせることができるかを、まだ試していない。

伝播:DISTORTED 人口:363
与えるものの観察:握ったまま歩いた。手が離れなかった。
───
第932話

紀元前295,350年

第二の星

水が引いた。

泥は残った。膝まで積もった場所もあれば、流れが地面を剥いで岩盤が露出した場所もあった。低地にあった溜まり場はなくなり、代わりに見知らぬ水たまりが点在していた。魚が陸に打ち上げられ、乾く前に鳥が来た。鳥が来る前に別の集団の者たちが来た。

始まりの大地の北側、丘の連なりが途切れる場所に、毛の長い者たちが暮らしていた。旧い血を引く、骨格の大きな者たちだ。水が引いた後、彼らの幾人かが南に下りてきた。食べるものを探していた。それだけだった。しかし低地の者たちは石を握った。毛の長い者たちも足を止めた。

何も起きなかった。

毛の長い者たちは踵を返した。低地の者たちは石を置かなかった。夜になっても握っていた。

遠く、始まりの大地の西端では、小さな群れが岩陰に集まって火を囲んでいた。子が泣いた。誰かが子を抱き上げた。火が揺れた。

ここでも、あそこでも、水の後の静けさが残っていた。静けさとは音がないことではない。次が来るまでの、息を止めたような間のことだ。

与えるもの

崩れた斜面に、新しい石の層が剥き出しになっていた。

黒く光る断面。その縁に光が当たった。

その者は通り過ぎた。

渡せなかった、とは思わない。あの石がどんな刃になり得るか、まだわかっていないだけかもしれない。ただ、光を落とした場所を通り過ぎる背中を見て、次は何を使えばいいのかを考えていた。光ではなかった。匂いでもなかった。では何が、この者の足を止めるのか。

泥を踏んだ感触。岩の重さ。子の声。

一度届いたものが、どこかに眠っている。

その者(37〜42歳)

洪水の後、集団はより高い場所へ移った。

その者も運んだ。石を。子を抱えた女のかわりに、石を背負った。何度も往復した。泥が膝まで来て、引いて、また来た。足の裏が感覚を失った頃、荷を置ける場所に着いた。

新しい場所は風が強かった。夜は冷えた。焚き火が小さくしか作れなかった。濡れた薪は煙ばかり出した。

その者は石を割り続けた。

割ることが仕事だったから、ではなく、手を動かしていないと落ち着かなかった。打面を確かめ、角度を見て、一度だけ打つ。割れた断面に指を走らせた。良い割れ方だった。次の石を取り上げた。

夜、毛の長い者たちが現れた時、その者は石を握った。誰よりも早く立ち上がった。

毛の長い者たちは去った。その者は石を持ったまま立っていた。

手を開く理由が、しばらくなかった。

岩場の縁に腰を下ろしたのはずっと後のことだ。星が出ていた。腹が鳴った。石をまだ持っていた。

置いた。

また拾った。

伝播:NOISE 人口:378
与えるものの観察:光を落とした。通り過ぎた。次を探している。
───
第933話

紀元前295,345年

その者(42〜44歳)

熱が始まったのは、川の魚の臭いがまだ岸に残っているころだった。

その者は石を持ったまま、座り込んだ。
いつも通り手首を返そうとした。
返らなかった。

石は地面に落ちた。
音がした。
誰も拾わなかった。

集団の若い者たちが、離れたところから見ていた。
近づかなかった。
その目が何を言っているか、その者には言葉はなかったが、わかった。

三日前に、北の毛の長い者たちの一人を打った。
打ったのはその者だけではなかったが、石を持っていたのはその者だった。
血は砂に染みて、消えた。
しかし消えないものがあった。

その者は岩の陰に横になった。
体が熱く、皮膚の下で何かが動いているような感覚があった。
空を見た。
雲が速く流れた。

水を誰かが置いた。
器の縁まで満たされていた。
その者は飲んだ。
また置かれた。
また飲んだ。
三度目は来なかった。

その者は自分の手を見た。
節くれた。
石の粉で白くなっている場所。
古い傷の跡が二本。

手を握った。
開いた。
また握った。

風が岩の陰を回り込んできた。
その中に、乾いた草の匂いがあった。
草ではない何か。
もっと遠い場所の匂い。
その者は目を細めた。

—— 与えるものは、その風の中に乾燥した地衣類の香りを乗せた。岩の裏、日の当たらない場所に育つもの。傷に押し当てると熱が落ちることを、誰かが知っていたことがあった。風はそこから来ていた。その者の目が、風の来た方向へ向いた。

—— しかしその者は立てなかった。
匂いは来た。
体は動かなかった。
与えるものは何かを思ったが、問いは形にならなかった。ただ、次に渡すべき者がいるという感覚だけが残った。

夜になった。
月がなかった。
星が多かった。

その者は岩に背を預けたまま、体の重さを感じた。
重さが増した。
増した。
そのまま、傾いた。

朝、若い者が一人来た。
石を一つ、その者の手の近くに置いた。
置いて、去った。
何も言わなかった。

第二の星

丘の北、毛の長い者たちの集団では、火が三日続けて燃やされた。死んだ一人のためではなく、春の始まりの習慣として。煙は南へ流れた。始まりの大地の方へ。誰もその煙を見ていなかった。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:372
与えるものの観察:何人目だろうか。数えることに意味があるのか。
───
第934話

紀元前295,340年

その者(8〜13歳)

荷物を持て、と言われた。

木の皮を剥いだ束を背に縛り付けられた。縄が脇の下に食い込んだ。痛かったが、声を出さなかった。声を出すと、もっと積まれる。

集団は川沿いの低地から離れていた。指導者の男が前を歩き、後ろに子どもたちが続いた。旧人の一群がここ数日、上流の岩陰に姿を見せていた。形は似ているが、額が低く、首が太かった。昨日の夕方、向こうの男がこちらの子を長く見ていた。それだけのことだった。しかしそれ以来、指導者は落ち着かなかった。

足元の土が柔らかかった。川から離れるにつれ、砂が減り、乾いた細かい礫に変わった。

その者は前の子の背中を見ながら歩いた。荷物が重かった。首が痛かった。

前の子が立ち止まった。踏みつぶされた草の匂いが鼻を突いた。

集団全体が止まった。

岩場の陰から、旧人の男が一人、出てきた。手に何も持っていなかった。こちらの指導者と視線が合った。どちらも動かなかった。風だけが草を揺らした。

その者は荷物の重さを感じていた。脇の下が痛かった。指導者の背中が見えた。首の後ろに汗がにじんでいた。

旧人の男が、一歩引いた。岩陰に戻った。消えた。

指導者が歩き始めた。集団が続いた。

誰も声を出さなかった。

第二の星

始まりの大地の東縁、川が二股に分かれる手前の台地に、人の集団がいる。

五年前より少ない。半分近くになった冬があった。川の水位が上がり、低地の寝床が浸かった。食料を残して移動しなければならなかった。子どもと老いた者から先に力が抜けた。翌春、生き残った者たちはまた子を作り、集団は少しずつ戻ってきた。今は三百七十二。

川の上流には、形の似た別の者たちがいる。額が低く、肩幅が広い。言葉が違う。身振りが違う。しかし彼らも火を持ち、皮を持ち、子を連れている。接触は散発的に起きている。石器が混ざっている。まれに食料を置いていく。まれに子どもが消える。

台地の南では、今年初めて別の獣の足跡が出た。見たことのない形だった。追うことも逃げることも、まだ誰も決めていない。

草は短く、空は白く、風は東から来ている。

与えるもの

糸が繋がった。

この者はまだ八歳だ。荷物を運ぶだけだ。

脇の縄が食い込んでいる痛みに、光がわずかに落ちた。旧人の男の手が、空だったこと。その手を、この者はまだ見ていなかった。

見ていなかった。

次に渡すものは何か。空の手の意味を、まだこの者は持っていない。しかし痛みの中に何かを感じている。それで十分かもしれない。十分でないかもしれない。問いはここにある。次がある。

伝播:NOISE 人口:391
与えるものの観察:空の手を見ていなかった。しかし痛みにいた。
───
第935話

紀元前295,335年

第二の星

台地の北端、岩盤が露出した斜面の下に、集団が四つの火を囲んでいた。

火は小さかった。燃料が少ない。雨季の残りが乾き切っていない。それでも消えなかったのは、誰かが夜通し小枝を足し続けたからだ。誰がやったかは、誰も言わない。言葉がない。ただ火が続いた。

南から旧人の集団が近づいていた。

三人だった。二人は大人で、一人は子どもとも大人とも言えない年頃だった。手に何も持っていなかった。それは重要なことで、集団の中の年長者たちはそれを見た。見て、何も言わなかった。身振りもしなかった。ただ動きを止めた。

旧人たちが止まった。

距離は、投げれば届く。届かなければ走れば届く。その距離で、双方が止まった。

風が台地の西から吹いた。

草の匂いと、獣の脂の匂いと、もう一つ、焦げた何かの匂いが混じっていた。旧人たちの方角から来た。彼らの集団で何かが燃えたのだ。あるいは燃えている。

年長の男が一歩前に出た。こちらの集団から。

旧人の年長者が、同じく一歩前に出た。

二人は立ったまま、長い時間をかけて、互いを見た。見ることが言語だった。どこを見るか。どれだけ見るか。どこで視線を外すか。この集団にはその読み方があり、旧人にも別の読み方があった。同じではなかったが、重なる部分があった。それが今、確かめられていた。

旧人の子どもが、地面に何かを置いた。

置いて、後ろに下がった。

年長の男が近づいて、見た。拾わなかった。しゃがんで、見た。それから立ち上がり、振り返り、集団の誰かに身振りで何かを伝えた。緊張が、少し変わった。壊れたのではなく、別の形になった。

置かれたものは、焦げた骨の一部だった。

何の骨かはわからなかった。大きな獣のものだった。旧人たちはそれを食べていた。それを置いた。意味は不明だったが、何もない手で来て、何かを置いて下がった、という行為は、この集団の年長者には読めた。

その夜、旧人たちは台地の端に火を起こした。

こちらの集団とは離れていた。しかし遠くなかった。二つの火が、岩盤の斜面に影を作った。影が揺れた。同じ風に揺れた。

夜が明けたとき、旧人たちはいなかった。骨も持っていった。何も残っていなかった。痕跡だけがあった。踏み固めた地面と、消えた火の跡と、灰の散らばり方。

年長者たちは、しばらくその場所を見ていた。

見てから、移動の準備を始めた。旧人の消えた方向ではなく、東に向かった。台地の縁を回って、水場に近い低地に降りるつもりだった。子どもたちが荷物を背負った。縄が皮膚に食い込んだ。誰も声を出さなかった。

集団の緊張は、解けてはいなかった。形が変わっただけだ。旧人を排除したわけではなく、受け入れたわけでもなく、互いに存在を確かめて、離れた。それが今日だった。

台地に風が吹いた。草が揺れた。灰が散った。

与えるもの

骨が置かれた地面に、朝の光が細く落ちた。

その者は荷物を背負いながら、そこを見た。立ち止まらなかった。

渡したのはその光だった。落ちた場所を見た。見て、歩き続けた。

置かれたものの意味を、渡したかったのではない。置くという行為を見せたかった。手に持ったものを、地面に置いて、下がる。その動きの形を。

見た。歩いた。それで終わりかもしれない。あるいは体のどこかに残ったかもしれない。渡しきれたかどうかより、次に渡すべきものがある。この者がいつか何かを置くとき、下がれるかどうかを問いたい。

その者(13〜18歳)

骨があった場所を、踏まなかった。

なぜかはわからない。踏もうとして、やめた。足が少し外にずれた。

荷物が重かった。縄が肩の上の骨に当たっていた。それでも踏まなかった。

集団の後ろを歩きながら、その場所を振り返らなかった。振り返りたかったが、振り返ると荷物が動く。動くと縄がずれる。だから前を見た。

伝播:HERESY 人口:381
与えるものの観察:置いて下がることを、体が覚えたかもしれない。
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第936話

紀元前295,330年

第二の星

台地の北端から南へ、草地が続く。乾いた季節の終わりに近い。草の先端が黄ばみ始め、踏むと細かい粉が舞う。

水場は三か所。そのうち一か所が、ここ数日にごっている。上流で何かが死んだか、あるいは別の集団が使い始めたか。

旧人が四人、台地の端に立っている。立っているだけだ。こちらを見ている。手には何もない。

集団の中で声が上がった。若い声だ。何を言っているのかは遠くからではわからない。体が大きい者が、声のした方向に歩き始めた。

草地の反対側、低い丘の裏手では、別の人影が動いている。集団とは無関係だ。一人か二人、荷を背負って歩いている。どこへ向かっているのかわからない。

空に雲はない。影が短い。昼に近い。

台地の岩に、赤茶けた跡がある。手形ではない。何かを引きずった跡のようにも見える。風雨にさらされて輪郭が溶けている。いつついたものかは、岩は語らない。

火は四つあった。今は二つだ。

与えるもの

岩と岩の間に光が落ちた。

細い隙間だ。昼の光がそこだけに差し込んで、底の石の色が変わった。白い。他の石と違う。

渡すものは以前にも似た石を示したことがある。黒く光る断面。崩れた斜面。覚えているかどうかは関係ない。光は今、そこにある。

この者は集団の端にいた。体を大きい者に向けていた。

光には気づかなかった。

——それでいい、と思うほど慣れてはいない。では何を思うか。白い石は夜になれば見えなくなる。渡せる時間は短い。次に光が落ちる場所を、今から考えている。

その者(18〜23歳)

体の大きい者が近くに来た。

その者は動かなかった。動かないことが正しいと体が知っていた。理由は言葉にならない。ただ、動けばいけないという感覚が皮膚の内側にあった。

体の大きい者が腕を伸ばした。荷物を指した。

その者は荷物を渡した。それだけだった。

体の大きい者は荷物を持って旧人の方へ歩いていった。何かを叫んだ。旧人は動かなかった。しばらく間があって、旧人の一人が後ろを向き、丘の向こうへ消えた。残りの三人も続いた。

声がやんだ。

その者は地面を見た。草の根元に黒い虫がいた。足が多い。荷物を運んでいた。小さな欠片を、体の何倍もある距離を。

その者はしゃがんだ。

虫を潰さないように、指を横に置いた。虫は止まった。触覚が動いた。また歩き始めた。

その者は長いことそこにいた。誰も呼びに来なかった。それがいつものことだということを、その者は知っていた。言葉では知っていない。体が知っていた。

夕方、火が一つ消えた。

その者は小枝を折って、残った火に近づいた。誰かがやっていたことを、見ていた。同じようにやってみた。火は消えなかった。

それだけだった。

小枝を折る音が、静かな台地に短く響いた。

伝播:HERESY 人口:379
与えるものの観察:光は落ちた。届かなかった。次を探す。