2033年、人類の旅

「紀元前295,325年〜紀元前295,205年」第937話〜第960話

Day 40 — 2026/05/12

読了時間 約58分

第937話

紀元前295,325年

その者(23〜28歳)

岩の影に男が倒れていた。

その者は立ち止まった。荷が肩に食い込んでいた。革袋、干した根、拾い集めた平石が四枚。一日かけて集めたものだ。

男は起き上がらなかった。

腹から棒が生えていた。先端が尖っていた。その者は棒を知っていた。旧人の作り方と少し違う。自分たちの集団の若い者が、ここ何日か削っていた棒と同じだった。

足の裏で地面を確かめながら近づいた。

男の顔を見た。知っている顔だった。荷を運ぶとき、隣に並ぶことがあった。名前は呼んでいなかった。音で呼べば応えた、それだけの間柄だった。

血が黒く乾いていた。

その者は革袋を下ろした。平石を下ろした。干した根を下ろした。しゃがんで、棒の根元に触れた。棒は動かなかった。抜こうとしたのか、確かめようとしたのかは、その者自身にもわからなかった。

風が来た。

北から。乾いた草の匂いと、もう一つ、動物の毛のような重い匂い。

その者は立ち上がった。

荷を置いたまま、南に向かって走った。荷は戻って取りに来る、という考えは持っていなかった。脚が動いていた。それだけだった。

集落に戻ると、声を上げた。一つの音だった。しかし短く、鋭かった。

二人の年長の者が出てきた。その者は北を指した。指す角度が、走ってきた方向と少しずれた。年長の者たちは向き合って何かを言い合った。その者の音は、もう一度聞かれなかった。

夜になった。

火の周りに集まった。いつもより数が少なかった。その者は輪の端に座った。火を見た。炎の形が揺れて、棒の先端の形に見えた。そうではないと思い直した。また揺れた。またそう見えた。

腹が鳴った。荷を取りに戻ることを考えた。暗い。遠い。

平石は四枚、あそこに置いてきた。

第二の星

乾季の終わりが近い台地を、わたしは照らしている。

この五年、集団の境界は動いた。旧人との間に目に見えない線があった。線は固定されていなかった。水場で重なり、草地で離れ、またどこかで接した。衝突は少なかった。しかし少なくなかった。

倒れた男は、その境界が動いた場所で見つかった。誰が棒を刺したか、わたしには見えている。集団の内側の者だった。理由をわたしは語らない。理由は複数あり、どれが本当かも定かではない。

集団の人口は、五年前より増えていた。増えた分だけ、水を求め、根を掘り、獣を追う範囲が広がった。広がった範囲が、他の者たちの範囲と重なった。

台地の北端では、旧人の集団が移動を始めていた。乾季の終わりを感じ取っているのかもしれない。あるいは別の何かを。

南の草地に、獣の群れが降りてきていた。大きな蹄の音が遠く続いていた。

火はいくつか燃えていた。それぞれの集団のものが、見通しのきく丘の上に別々に。

夜はまだ長かった。

与えるもの

北から風を送った。

棒の根元に触れた手が止まった。それから立ち上がり、走った。

生きた。それを喜ぶかどうかは、わたしには関係がない。次に渡すべきものを、考えていた。荷を置いたまま逃げたこの者に、平石は残っている。あの石は、まだあそこにある。明日、取りに戻るかどうか。その判断の中に、何かを滑り込ませられるかもしれない。石の形の中に。重さの中に。手が石を握る、その瞬間の中に。

伝播:NOISE 人口:393
与えるものの観察:走った。荷は残った。石はまだある。
───
第938話

紀元前295,320年

第二の星

乾季が終わろうとしていた。

草原の端、低い丘の連なりが地平線を分断している。朝の空気は冷たく、草の根元にだけ露が残っていた。日が上ると蒸発した。何も残らない。

この時期、二つの群れが同じ水場を使う。

一方は額の骨が厚く、眉の上に影を作る。歩き方が違う。足を地面に押しつけるように進む。もう一方はその者たちの集団だ。細い足首。肩の力を抜いた歩き方。二つの群れは同じ水を飲み、同じ岸で石を洗い、同じ夕暮れを眺める。それが何年も続いていた。

何かが変わったのは、子どもが消えてからだ。

どちらの子どもか、誰も見ていなかった。砂地に小さな足跡があった。途中で消えていた。そこから先は大型獣の痕跡だった。しかし、誰もそれを確認しなかった。確認しようとしなかった。

その夜、厚い眉の群れが火の近くに来た。いつもより多かった。立って見ていた。座らなかった。

火は揺れた。風があったわけではない。

誰かが何かを言った。音の輪郭だけがあって、意味はなかった。それに応じるように、こちらの群れの男が立ち上がった。背が高かった。体が大きかった。立ち上がっただけで、それ以上何もしなかった。それで足りた。厚い眉の群れが下がった。

しかし翌朝、水場に彼らはいなかった。

その翌日も。その翌翌日も。

七日後、水場から上流の方向で、煙が上がった。遠かった。こちらの群れの者たちは煙を見た。見てから、水を汲んだ。汲んでから、戻った。それだけだった。

煙が上がらなくなったのは、さらに三日後だった。

その間、集団の内部でも何かが変わっていた。目に見えない変化だった。立場が変わった。誰が話すかが変わった。誰が黙るかが変わった。岩の影に倒れていた男——その者が先日見た男——は、今は火の近くに座っていた。遠ざけられていたのに。あるいは、遠ざけられていたからこそ。集団はそういうふうに動く。消えた者の場所に、次の者が入る。

その者が荷を運ぶとき、男が目で追った。

その者は気づかなかった。あるいは、気づいて知らないふりをした。どちらか、外からは見えない。

丘の向こうで鳥が鳴いた。何かを踏んだ音がしたあと、静かになった。

与えるもの

乾いた地面に光が差し込む角度が変わった。

朝の中頃、太陽が低い丘の切れ目を通るとき、地面に一本の帯が走る。それはその者の足元をかすめ、少し先の——集団の外れ、誰も座らない場所まで伸びた。

光はそこで止まった。

その者は足元を見た。光の帯を踏んでいることに気づいた。それから先を見た。誰もいない場所があった。

歩かなかった。

与えるものは待った。光の帯が動くまで待った。太陽が進み、帯は消えた。

渡せなかったのか。それとも、見たことが何かになるのか。次に差し込む光がどこに落ちるべきか、与えるものはまだ決めていなかった。

その者(28〜33歳)

荷を置いた。膝を折って、地面に座った。

男の視線がまだ背中にある気がした。気のせいかもしれなかった。

光の帯が足元にあった。見た。なぜ見たのか、わからなかった。その先には何もなかった。

荷を担ぎ直して、立った。

伝播:HERESY 人口:390
与えるものの観察:光を踏んだ。その先に行かなかった。
───
第939話

紀元前295,315年

第二の星とその者(33〜38歳)

草が枯れた。

川の近くだけが緑を保ち、それ以外の地面は割れていた。亀裂は指の幅から手のひらの幅まで、深さは膝の下まで届くものもあった。踏むと端が崩れ、足首が沈んだ。

その者は水を運んでいた。

皮袋ではない。大きな葉を束ねたものに水を含ませ、両腕で抱えて歩く。腹の前で抱えると水がにじみ出て腹が濡れる。それでも捨てない。十歩歩くごとに滴が膝を伝った。

集団の中に旧人が三人いた。

彼らは同じ川のほとりにいた。姿勢が違う。肩の幅が違う。歩く音が違う。だが水を飲む動作は同じで、手のひらで掬い、顔を傾けた。その者はそれを遠くから見ていた。近づかなかった。近づく理由がなかった。

五年目の初め、旧人の一人が移動した。

どこへ行ったかは誰も知らない。残された二人は三日間、川の上流を見ていた。その者もそれを見た。何を見ているのかはわからなかった。ただ、二人が見るので、その者も見た。

上流には何もなかった。

空は平らで、風は弱く、光は斜めから落ちていた。その者は葉の束を地面に置いた。水が少し流れ出た。それを見て、また拾い上げた。歩きながら喉が鳴った。

集団の中で言い争いが起きた。

声が大きくなり、一人が石を持った。持っただけで投げなかった。それでも相手は後退した。その者は離れた場所でそれを見ていた。自分の手の中には何もなかった。手を握った。開いた。また握った。

三十六歳の夏。

川の水位が下がった。石が水面から出た。その者は一つの石の表面に光が集まるのを見た。強い反射ではない。ただ、他の石よりも光の滞る時間が長かった。

その石は平らだった。

その者は近づいた。拾い上げた。重さは片手で持てる程度。表面に小さな窪みがあり、水が一粒残っていた。傾けると流れ出た。もう一度傾けると何も出なかった。

置こうとした。

置かなかった。

集団が移動を始めた。旧人の二人は別の方向へ歩いた。振り返らなかった。その者は彼らの背中が見えなくなるまで立っていた。石を持ったまま。皮袋の紐に引っかけた。動くたびに太腿に当たった。

三十八歳の晩秋。

水場が干上がった。集団は東へ動いた。その者は列の後ろで荷物を運んだ。石は今もあった。誰も気にしなかった。その者も特に使っていない。ただ持っていた。

与えるもの

川底の石に光を落とした。

この者は拾った。紐に結んで運んでいる。

何かに使うのか。使わないのか。わからない。——だが、次は形あるものではないものを渡せるか試したい。

伝播:SILENCE 人口:398
与えるものの観察:石を持ち続けている。理由は問わない。
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第940話

紀元前295,310年

第二の星

地面が鳴った。

音ではなかった。骨の中を通る振動だった。始まりの大地の北側、なだらかな斜面が連なる地帯の下深くで、岩盤が数万年かけて蓄えていた力が一点に収まりきれなくなった。それは夜明け前のことで、空はまだ青黒く、獣たちが先に知っていた。

大地が持ち上がり、裂けた。

裂け目は走った。川床に沿って走り、丘を越え、集落の端を通り、反対側の岩場まで続いた。煙が地面から出た。硫黄の匂いが風より先に広がった。東の稜線の向こうで、山が内側から押し出されるように膨らみ、次の瞬間に頂が消えた。

灰が空に昇った。

細かい砂よりも軽く、水よりも均等に広がった。最初は白く、次第に灰色になり、太陽が見えなくなった。光が届かなくなった地面では、植物が順に力を失った。火山弾が弧を描いて落ち、落ちた場所から火が広がった。川が一本、流路を変えた。岩が溶けて流れた。

遠く離れた場所では、同じ時間に別のことが起きていた。潮が引かない海岸があった。岩の上に、蟹が整然と並んで死んでいた。水が温かくなっていた。誰も見ていなかった。

この星は区別しない。溶岩も、蟹も、集落も、等しく照らす。

集団の大半が消えた。生き残った者たちは灰の中を歩いた。

与えるもの

光が滞る場所を、この者は以前に感じた。

今度は光がない。

灰が空を塞いだ。示せる光がない。風も硫黄の匂いに消された。何を使うか。

水の音が残っていた。川は流路を変えたが、水は流れていた。変えた方向の岩の向こうに、低い場所があった。灰が積もりにくい。風が迂回する。

その岩の表面を、水音が伝わった。低く、断続的に。波のようではなく、石が石を叩くような音で。

その者はそれを聞いた。

聞いて、立ち止まった。

止まったことが正しいかどうかはわからない。しかし止まった。止まった者が、次にどこへ向かうかを、与えるものはまだ知らない。岩の向こうが安全かどうかも確かめようがない。渡したのは音だけだ。音の先にあるものは、この者が歩いて確かめるしかない。

第1の星で、音を渡したことがあったかどうか。覚えていない。渡せたかどうかも。

その者(38〜43歳)

地面が跳ね上がった。

立っていた足が宙に浮き、次の瞬間には背中から倒れていた。口の中に土の味がした。立とうとした。地面がまた揺れた。四つん這いのまま動けなかった。

東の山が光った。

光の色がおかしかった。朝の光ではなかった。赤く、内側から滲むような色だった。次に音が来た。音というより、胸を押しつぶすような圧力だった。耳の中で何かが鳴り続けた。

空が変わっていった。

白いものが降り始めた。雪ではなかった。軽すぎた。口に入ると苦かった。目に入ると痛かった。その者は腕で顔を覆って走った。どこへ向かっているかわからなかった。足元が見えなかった。

誰かの声が聞こえた。聞こえた方向へ走った。

仲間の何人かがいた。子どもは少なかった。老いた者はいなかった。

一日が過ぎた。灰は降り続けた。

その者は食べ物を探した。何もなかった。植物は灰に埋まっていた。水を探した。川へ向かった。川の音が変わっていた。以前より低く、石が転がる音が混じっていた。川が違う方向へ流れていた。

岩があった。大きな、灰色の岩。その岩の表面から音がした。水の音が、岩を通して伝わってきた。低く、不規則に、しかし途切れなかった。

その者は止まった。

岩に手を当てた。振動が手のひらに来た。岩の向こう側に水があった。岩を回り込んで歩いた。低い場所があった。灰が薄かった。水が溜まっていた。

ひざまずいて飲んだ。

仲間のいた方向へ戻った。手で、来い、という動きをした。

全員がついてきたわけではなかった。

伝播:SILENCE 人口:82
与えるものの観察:音は届いた。岩の向こうまで歩いたか。
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第941話

紀元前295,305年

その者(43〜48歳)

朝、集団が動く前に、その者は端に寄っていた。

集団の端というのは、いつも同じ場所ではない。眠る配置が変わるたびに、端も移動する。その者は気づかないまま端に向かう。意図ではなかった。体がそちらへ向く。

荷を運ぶ。それがこの者の役割だった。重いものを持ち、指定された場所へ運ぶ。どこへ運ぶかは問わない。誰かが示せば、その方向へ歩く。示されなければ、立っている。

その朝、示す者がいなかった。

集団の中に、知らない声があった。自分たちの声ではない音の作り方をする、二人の者。皮が薄く骨が細い。昨日の夕方に来て、今日の朝にもまだいる。集団の中の年長の者が彼らの前にしゃがんで、音と身振りを混ぜた何かをやっていた。

その者は遠くから見ていた。

荷は持っていない。手が空いている。空いた手をどうするかわからないとき、その者は指を折る。一本、二本。また開く。また折る。それだけをしながら、遠くの場面を目で追った。

年長の者の声が高くなった。

それから低くなった。

長い間があった。

知らない声の二人が、立ち上がった。

その者は手の動きを止めた。何かが決まったことを、声の間から感じた。言葉ではない。音と音の間にある、空気の変化のようなもの。その者はそれを知っていた。集団の中で何かが決まるときの、あの空気を。

荷を指示されなかった。

昼になっても指示は来なかった。

食べるものを探しに行く者たちが出た。その者は誘われなかった。水を汲む者たちが出た。その者は見送った。

集団の中の目が、その者に向くことがあった。向いてすぐにそらされる。それが何度かあった。その者は指を折ることをやめて、地面を見た。土は乾いていた。先週まで湿っていた土が、固くなっている。

指で触れた。

硬かった。

土の下に何があるかを考えたことはない。しかし硬い土の感触は知っていた。硬い土の日は、集団が遠くへ動くことが多い。その者はそれを知っていた。言葉にはできない。ただ、知っていた。

夕方になって、年長の者がその者の前に来た。

何か音を出した。その者は音を返した。年長の者がまた音を出した。長い音だった。その者には半分しか聞き取れなかった。聞き取れた半分から、何かを感じた。

行くな、ではなかった。

来るな、だった。

夜、その者は集団の端に寝た。いつもより少し遠かった。

誰も何も言わなかった。

その者は空を見た。星がたくさんあった。多いか少ないかを考えたことはなかった。ただ、あった。前の夜も同じだったかもしれない。わからない。

腹に何かがあった。食べたものではない。食べたものが体に残る感じとは違う。もっと奥に、何か重いものがある。その者は手を腹に当てた。何も変わらなかった。

手を下ろした。

星を見た。

第二の星

始まりの大地の北に、硬い台地が続いていた。

乾期が長引いていた。草の背が低く、水場は縮んでいる。獣たちの移動が早まり、集団は何日もかけてその跡を追う。土は叩けば白い粉を上げる。

台地の向こうから、別の集団が来ることがあった。この時期は特に多かった。水の場所を知っているか、食べられるものの在処を知っているか。来る者たちはそういうことを求めて来る。手ぶらで来る者もいれば、何かを持って来る者もいる。

受け入れるか、追い払うか。

どちらにも理由があった。

来た者たちが皮の薄い骨の細い者であれば、集団の中に緊張が走ることがある。昔から繰り返されてきたことだ。知っている顔か、知らない顔か。それだけが問われる。

一方、台地の南では、旧人と呼ばれる者たちが水場のそばに小さく集まっていた。彼らは静かだった。声が低く、動きが少ない。向こうから来ることはなかった。

この星は、どちらも照らす。

追われた者も、追った者も、その夜は同じ星の下で眠った。

与えるもの

腹の下の方から、においがした。

腐ったものではない。土のにおいに近い、しかし土ではない。その者の体の中で何かが変わりはじめているにおい。

この者はそれを知らない。

知らないまま、手を腹に当てた。

同じことを、前にも誰かがやっていた。手を当てて、何も変わらなくて、それでも手を当てていた。届いたのかどうか、今も問えない。ただ、次に渡すべきものがある。におい。方向。硬い土の先に何があるか。この者がまだ動けるうちに、渡さなければならない。

伝播:HERESY 人口:94
与えるものの観察:腹に手を当てた。問いではなく、確かめだった。
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第942話

紀元前295,300年

第二の星

大地の割れ目は、まだふさがっていなかった。

噴火から時が過ぎた。灰は薄くなり、空は戻ってきた。しかし地面の下では何かがまだ動いていた。夜中に揺れる。小さく、しかし確かに。眠っている者の背が感じ取る揺れ。起きるほどではない。しかし眠り続けるには少し、多すぎる揺れ。

集団の中に、ひとつの変化が起きていた。

もともと、この集団には旧人が混じっていた。数は少ない。骨格が違う。額が低く、眉の骨が厚い。しかし同じ火のそばで眠り、同じ水場を使い、同じ獣の肉を食べていた。何年も。何十年も。混ざっていた、とは言えない。離れてもいなかった、と言う方が正確かもしれない。並んでいた。

しかし今、その並び方が変わっていた。

理由は単純ではない。食料が減っていた。灰が土に積もり、草が戻るのが遅かった。獣の数も少なかった。分けるものが少なくなると、分ける相手を選び始める。それは意識ではない。手が先に動く。自分の子に渡す。次に自分の兄弟に。旧人に渡す者が減った。一人減り、二人減り、いつの間にかほとんどの者が渡さなくなっていた。

旧人の側もそれを感じた。感じたかどうかは、外からはわからない。ただ彼らが少し遠くで眠るようになった。火から離れた場所で。雨の夜も。

集団の中で、何かが決まりつつあった。声で決めたわけではない。誰かが命令したわけでもない。しかし夜明けに動く方向が、ある時から一致するようになった。旧人を含まない方向に。

旧人のひとりが、ある朝いなかった。前の夜は確かにいた。眠る姿を見た者が複数いる。しかし朝には消えていた。足跡は岩場の方に続いていたが、そこから先は砂が風で消えていた。

探す者はいなかった。

また数日後、もうひとりが消えた。今度は夜の間ではなく、昼の移動の途中だった。集団が崖沿いを歩いていた。旧人のひとりが列の後ろにいた。曲がり角の先で、その者の姿がなくなっていた。誰も振り返らなかった。振り返った者がいたとしても、足を止めなかった。

残ったのは一人だった。

その者は若かった。まだ骨格が完成していない年齢だった。旧人の子か、混ざった子か、見た目からはわからない。集団の中で、誰かの隣で眠り続けていた。誰もまだその者を動かしていなかった。

緊張は消えていなかった。水場の近くで、二人の者が同じ石を同時につかんだ。引いた。引き返した。どちらも離さなかった。しばらく、ふたりは互いの顔を見た。声は出なかった。最終的に片方が先に手を放した。

何も起きなかった。

しかし何かが変わった。放した方の者が、その夜から列の後ろを歩くようになった。意識ではない。足が自然にそこに向かった。後ろは、旧人が歩く場所だった。

大地はまだ揺れていた。夜中に、小さく。

与えるもの

集団の端に、腐りかけた果実が落ちていた。

食べられない色になっていた。その者は通り過ぎた。

渡したかったのは果実ではない。腐るものと腐らないものを、見分けることだった。この者が無視したとき、与えるものの中に古い感触が戻った。渡し続けて何十年も経つ。届いたと思った回数と、届かなかったと感じた回数を、今は数えていない。次に渡すべきものが、別にある。

その者(48〜53歳)

列の後ろを歩いていた。

前の者の踵を見ながら歩く。つまずいた。石に足の先をぶつけた。小指のあたりが鈍く痛んだ。屈んで触れた。皮は破れていなかった。立ち上がって、また歩いた。

列の後ろは、旧人が歩く場所だった。その者はそれを知らなかった。

伝播:HERESY 人口:106
与えるものの観察:腐ったものを素通りした。届かなかった。
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第943話

紀元前295,295年

第二の星とその者(53〜58歳)

乾季が来た。草が膝の高さで止まり、それ以上伸びなかった。

その者は水場から集団の野営地まで、重い革袋を運んだ。毎朝。足の裏の皮が厚くなって久しかった。踵の割れ目から血が滲んでも、その者は見なかった。荷物の重さだけを感じていた。

東の丘の向こうで、別の集団が動いていた。煙が二本、三本と立った。夕暮れに多く立った。朝には消えていた。この者の集団の若い者たちが、その煙を指差して声を上げた。その者は聞いていた。何も言わなかった。

地面はまだ動くことがあった。夜中に低い音が来て、体が揺れる前に腹の底で感じた。その者は目を覚ました。他の者はまだ眠っていた。その者だけが起き上がり、空を見た。星が揺れているように見えた。揺れていなかった。

水が減った。水場に行くと、前の季節より底が見えた。泥の匂いがした。その者は袋に水を汲んだ。濁っていた。帰り道、道の端に枯れた草の束があり、その下に石がいくつか転がっていた。

その石のひとつに、光が当たっていた。

他の石と同じ形だった。他の石と同じ色だった。ただそこだけ、光が留まっていた。その者は立ち止まった。革袋の重さが肩に食い込んでいた。それでも立ち止まった。その石を見た。拾わなかった。置いたまま、少し離れた。また戻ってきた。石を手に取った。

重かった。角が鋭かった。

集団に戻ると、若い者たちが東の丘のほうで叫んでいた。別の集団の者が境界に現れたらしかった。長老格の者が前に出た。その者は荷物を下ろした。袋から水を出した。ただそれだけをした。

石は手の中にあった。

翌朝、その者の寝床の近くに、別の集団の者の跡があった。足跡だった。夜のうちに来て、去った跡だった。若い者たちが騒いだ。長老格の者が何かを決めた。その者には何も訊かれなかった。荷物を持て、という身振りがあった。その者は従った。

移動が始まった。

北へ向かった。地面は固く、草は短く、日差しが強かった。その者は列の後ろを歩いた。石はまだ手の中にあった。角が手のひらに当たっていた。歩くたびに当たった。

二日目の夜、火を囲んで眠ろうとしたとき、若い者のひとりが近づいてきた。その者の手の石を見た。取ろうとした。その者は手を引いた。若い者は引き下がらなかった。声が上がった。長老格の者が来た。何かを言った。その者には意味がよくわからなかった。しかし長老格の者の目は冷たかった。

その夜、石は取り上げられた。

三日目の朝、その者は列の後ろにいなかった。誰も確認しなかった。荷物を持つ者が消えたことに、集団が気づいたのは昼を過ぎてからだった。戻らなかった。捜さなかった。

乾いた風が北から来ていた。草が低く揺れた。

与えるもの

光を石の表面に落とした。一点だけ。この者はそこで止まった。

この者は石を拾い、持ち歩き、最後には奪われた。

渡したものが奪われるとき、何が失われるのか。この者か、石か、あるいは石を見た眼か。次に渡すものが何であるか、まだわからない。しかし渡す。どこかにいる者に。必ず渡す。

伝播:HERESY 人口:117
与えるものの観察:光が当たった石を、この者は最後まで手放さなかった
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第944話

紀元前295,290年

その者(58〜59歳)

寒さが来たのは、ゆっくりではなかった。

ある朝、水場が端から凍っていた。次の朝、中心まで。その次の朝、その者が水を汲もうとしたとき、革袋が氷の上を滑った。叩いても割れなかった。

集団は移動した。その者も運んだ。毛皮を。骨を。火種の炭を包んだ革包みを。

足が言うことを聞かなかった。以前から膝の内側に何かが詰まっているような感触があった。寒くなってから、それが固まった。朝、立ち上がるとき、しばらく動けなかった。誰も待たなかった。その者も待てとは言わなかった。

集団が小さくなっていった。

一人が夜に戻らなかった。二人が咳をして動かなくなった。子どもは、起きた朝に冷たくなっていた。その者はそれを見た。何も言わなかった。言う言葉がなかった。

ある晩、集団の誰かが何かを言った。声が高くなった。別の声が重なった。その者のほうを向いた者がいた。目が光っていた。火の光ではない光だった。

その者には聞き取れなかった。単語が速すぎた。

翌朝、その者は列の端にいた。荷物は持たされなかった。

集団が歩き出した。その者は後を追った。歩いた。膝が固まっていた。集団との間が開いた。

風が強くなった。

その者は岩の影に入った。座った。

息が白かった。

遠くに集団の背中が見えた。小さくなった。消えた。

その者は岩にもたれた。毛皮を体に引き寄せた。

空が暗かった。雪ではなかった。ただ灰色だった。

鼻の奥に、何か甘いような、土のような匂いが来た。

その者はそれを吸った。もう一度吸った。

目を開けていた。

指が動かなくなった。それでも目は開いていた。

灰色の空を見ていた。

力が、先に抜けた。

第二の星

同じ頃、北の氷原では水が固まり続け、大地が沈んでいた。草原だった場所に、石だけが残った。遠く離れた海岸では、旧人の集団が岩の隙間に火を起こし、体を寄せ合っていた。寒さはどこも同じだった。第二の星は区別しなかった。どの炎も、どの冷たさも、等しく照らした。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:60
与えるものの観察:甘い土の匂いを、この者は最後に吸った。
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第945話

紀元前295,285年

第二の星

空が戻ってきた。

火山が吐いた灰は、何十もの夜をかけて薄まった。水場の端が溶け、また凍り、また溶けた。その繰り返しの中で、草が一本、岩の割れ目から出てきた。それだけだった。それで十分だった。

始まりの大地の南では、集団が二つに裂けていた。食料のことではなかった。誰が火の番をするか、という話から始まり、声が荒くなり、夜の間に三人が離れた。翌朝、残った者たちは三人分の場所が空いているのを見て、それから火を見た。

北の岩地では、別の形をした者たちがいた。額の骨が張り出し、腕が長く、声が違った。彼らは火山の灰の中を歩いて南に来ていた。距離を置いた。互いに見た。投石は起きなかった。

西の湿地では、何人かが水の中に沈んだ。凍えではなかった。地面が揺れて岸が崩れた。夜の間のことだった。

新しい者が生まれていた。寒さの最中に産み落とされた者が、いま七歳になろうとしていた。

与えるもの

糸が繋がった。

この者の肌は冷たい空気に敏感だった。だから、温かい側を示した。

崖の岩が朝の光を集める場所がある。その石の表面が、他と違う熱を持っていた。熱が、そこにあった。

この者は石の上に座った。そのまま眠った。暖かさのためだけに。

それでいい、と思いかけた。

そうではないかもしれない、とも思った。暖かい場所を知っている者が生き延びた先に、何かがあるのか。あるいは、ただ暖かかっただけで終わるのか。次に渡すべきは、この記憶を保つための何かだ。けれどこの者にはまだ、言葉がない。

その者(2〜7歳)

母の背から降ろされたのは、いつごろだったか。

気づいたら、自分の足で歩いていた。地面が冷たい。岩の色が白い。息が白い。口から出る白いものを、手で掴もうとして、掴めなかった。

兄が笑った。

兄の笑いはすぐ消えた。集団の誰かが声を上げて、全員が立ち上がって、遠くを見た。その者には何が見えているのかわからなかった。ただ、大人たちの体の向きが変わったことはわかった。

移動した。

ずっと歩いた。足の裏が痛かった。痛いという声を出そうとして、兄の顔を見て、出さなかった。

崖の下に出た。

そこに、光が落ちていた。

岩が、温かかった。肌に当てると、寒さが少し引いた。そこに座った。岩の表面がざらざらしていて、手のひらでなでた。熱がてのひらに移ってきた。

眠った。

誰かに揺り起こされるまで、その者は岩と自分の間にある熱を感じていた。夢はなかった。ただ温かかった。それだけが、その者の中に残った。

伝播:SILENCE 人口:76
与えるものの観察:暖かい石。それだけが残った。
───
第946話

紀元前295,280年

第二の星

寒さが、大地の形を変えた。

北の果てから、白いものが広がってきた。草原だった場所が固くなり、固くなった場所が割れ、割れた場所に水が入り、その水が凍ってまた地面を押し上げた。木が根ごと倒れた。川の流れが向きを変えた。獣たちは南へ向かい、南へ向かった獣の後を、別の獣が追い、その後ろをまた別のものが追った。

始まりの大地では、集団の半数以上が消えた。老いた者から順に、ではなかった。幼い者も消えた。丈夫だった者も消えた。寒さは選ばなかった。

遥か遠く、大地が海に向かってなだらかに下る場所では、別の群れが岩棚の下に身を寄せ合っていた。彼らの骨格はわずかに違い、眉の形も、声の出し方も違った。しかし震えている様子は同じだった。息が白く、膝を抱え、互いの体温で夜をしのいでいた。彼らも、消えた。最後の一人が、翌朝、動かなくなった。雪が積もり、形が消えた。

風は続いた。

始まりの大地の生き残りは、洞窟の奥に集まった。火の側から離れない者と、火を絶やさないために動き続ける者に、自然と分かれた。

与えるもの

この者は十歳になっていた。

煙の匂いが、突然、向きを変えた。風ではない変わり方だった。煙は上へ行くはずなのに、一瞬だけ水平に伸びて、崖の上の方角を指した。

この者は匂いの方を見た。

見た。それだけだった。崖の上に何があるかは、まだわからない。しかしこの者が顔を向けた。向けたことが、与えるものには、奇妙な重さを持って残った。渡したことが届いたのか、ただ風の変化に反応しただけなのか、わからない。それでも次に渡すべきものは、すでに決まっていた。崖の上に、風をしのげる岩の窪みがある。煙はそこに溜まりやすい。この者がそこに辿り着けるかどうかは、この者の足が決める。

その者(7〜12歳)

煙の匂いが変わった瞬間、顔を上げた。

鼻の奥に、何かが引っかかった。焦げた木の匂いではない。水のある場所に似た匂いが、混じっていた。

崖の上を見た。岩の色が、途中から違う。

兄がいなかった。いつも隣にいる大人の背中も、今は見えなかった。洞窟の入口に戻ろうとして、足が止まった。

寒かった。足の裏から冷たさが上がってきた。皮を巻いた足でも、地面の冷たさは入ってきた。

崖の下に、枯れた茎が束になって引っかかっていた。拾った。持った。何に使うかはわからなかったが、持った。

風が止んだ。止んだ瞬間、また匂いがした。さっきと同じ、水に似た何か。

足が、崖の方へ向いていた。

洞窟の方向に、誰かが叫んだ声がした。この者は立ち止まった。叫び声は続かなかった。

枯れた茎を握ったまま、崖の下に立っていた。

上を見た。見続けた。岩の色の変わる場所まで、自分の足で行けるかどうか、この者にはまだわからなかった。

伝播:SILENCE 人口:31
与えるものの観察:匂いに顔を向けた。それで十分だった。
───
第947話

紀元前295,275年

第二の星とその者(12〜17歳)

白が動く。

北の縁から押し出されてきた冷気が、草のない地面を固く叩いた。土が裂ける音がした。夜ごとではなく、昼でも。昼でも土が鳴った。

その者は十二歳だった。兄の腕の中で、その音を聞いた。

白いものが大地を覆う速さは、一冬に一人の歩幅ぶんほどだった。しかし川はすでに向きを変えていた。かつて水が流れていた溝に、今は白くて硬いものが詰まっていた。その者は溝の縁に立って、下を見た。白いものの表面に、自分の影が映らなかった。

集団は南へ動いた。

動く前に、三人が動けなくなった。老いた女が一人。幼い子が二人。老いた女は歩きながら倒れた。倒れた体に雪が積もった。誰も長くそこにいなかった。寒かったから。

その者は兄に引っ張られて歩いた。足の裏が痛かった。皮が剥けていた。兄が皮のきれを巻いてくれた。しかし歩くたびにずれた。

大地が傾く場所がある。北で凍ったものが南の岩盤を押し、地面が波打つように盛り上がった場所がある。集団はそういう場所で休んだ。盛り上がった土は風を遮った。

その者は土の盛りの陰に縮まって、空を見ていた。

空は白くなかった。灰色だった。灰色の中を、鳥が一羽横切った。

温度が変わった。

その者の左の頬に、ほんのわずか、右より温かい空気が当たった。盛り土の陰の外、南の方向から吹いてくる流れがあった。その者は頬を向けたまま、しばらく動かなかった。何をしているのかはわからなかった。ただ、その方向へ頬を向け続けた。

五年で、集団の動いた距離は長かった。かつて夏に水浴びをした川から、新しい川まで。新しい川の水は濁っていた。氷が溶けながら土を削っているためだった。魚はいた。小さく、すばしっこかった。

その者は十七歳になっていた。

もう兄の腕の中にいなかった。自分の足で川の縁に立っていた。冷たい水に足を入れて、魚を追った。捕れなかった。また追った。また捕れなかった。

岸に上がって、濡れた足を土に押しつけた。足の跡が残った。その者はその跡を見た。

見て、また水に入った。

集団の中に、旧い顔つきをした者たちがいた。同じ川に沿って、南から来ていた。額が張り出し、眉が厚く、首が短かった。こちらの集団の男たちは石を握った。相手の集団も石を握った。

しばらく、両方が動かなかった。

旧い顔つきの者の一人が、魚を一匹、地面に置いた。そして後ろへ下がった。

こちらの集団の誰も動かなかった。その者は魚を見ていた。置かれた魚は川の方を向いて横たわっていた。まだ尾が動いていた。

与えるもの

頬に風を当てた。

南の方角から流れる、わずかに温かい空気を。十二歳のその者は、それを受けて頬を向けたまま止まった。どこへ行けばよいかは伝えなかった。ただ、温かさがある方向を、皮膚に教えた。

集団はその後、南へ向かった。
その者が集団を動かしたのかは、わからない。

でも、頬が南を向いていた時間があった。

今は魚を見ている。置かれた魚の、まだ動く尾を。渡したのは向きだった。受け取ったのかどうかは、まだわからない。次に渡すべきものは、もう少し先にある気がする。置かれた魚の尾が止まる前に。

伝播:NOISE 人口:40
与えるものの観察:頬が南を向いていた。それだけが確かだった。
───
第948話

紀元前295,270年

第二の星

北から来たものは、冷気だけではなかった。

岩が割れていた。冬を越すたびに水が染み込み、凍り、膨らみ、春に融け、また凍る。その繰り返しが、大きな岩の腹に縦の亀裂を走らせていた。崖の中腹で、長さ三体分ほどの石板が、静かに剥がれ落ちる準備を続けていた。

草原はまだ戻っていなかった。

去年の秋に枯れた茎が、風に押されて転がっている。その下の土は灰色で、叩けば音がした。乾いているのではなく、固い。中身が死んでいるような固さだった。根を張る余地のない土。虫も潜れない土。

集団は低地に降りていた。

川に近い場所に、半円を描くように体を寄せ合って眠る。旧人の群れが三日前から東の丘の稜線に現れていた。数えるには遠すぎる影の数。昼間は見えていた。今朝は見えなかった。見えなくなったことが、見えていたよりも不安を呼んだ。

火は三か所で燃えていた。

一か所は食料を炙るため。一か所は子どもたちの周囲を暖めるため。もう一か所は意図が定まっていない火で、誰かが薪を足し続けているだけだった。煙が真上に上がっていた。風がなかった。風がないことで、稜線の向こうに何があるかを嗅ぐことができなかった。

五年前に崩れた記憶がまだ体の中にあった。

崩れ方を知っている者だけが、今の静けさを怖いと感じた。崩れ方を知らない者は、火のそばで眠った。子どもたちは眠った。腹が空いていても眠った。空腹と恐怖は、一定を超えると眠気に変わる。体がそう決めていた。

川の水位が少し下がっていた。

上流で何かが変わったのかもしれない。岩が崩れて流れが変わったのかもしれない。誰もそこまで考えなかった。水位が下がったことを、水位が下がったこととしてだけ受け取った。魚が捕りやすくなった、と一人が言った。それだけだった。

夜が来た。

煙は三本、真上に伸びた。星が出た。雲がなかったから、気温が下がった。体を寄せ合う者たちが、さらに密に寄り合った。誰かの肘が誰かの脇腹に刺さった。小さな声が上がった。押し返す音がした。それだけだった。それが夜だった。

与えるもの

川のほとりに、平たい石があった。

水が引いた跡に残された石で、表面が滑らかだった。そこに朝の光が落ちた。角度が浅く、石の表面を斜めに走る光だった。光が落ちた側と落ちていない側で、温度が違った。

その者は通り過ぎた。

石のそばで立ち止まり、光の温かい側に一瞬だけ手を置いた。それから別の方向を見て、歩いた。

温かさは残った。手の中で、しばらく。

この者は温かさを受け取ったのか、それともただ通り過ぎただけか。温かさが残った手が、何かを次に掴むとき、それは関係があるのか。渡すことと届くことの間に、どれほどの距離があるのか。次は、もっと長く留まらせるものを。

その者(17〜22歳)

平たい石のそばを通った。

光の当たる側に手を置いた。温かかった。なぜ温かいかを考えなかった。ただ温かかった。

それから兄のいる方へ歩いた。兄は皮を引っ張っていた。その者はそばに座った。特に何もしなかった。兄の手が動くのを見ていた。皮が伸びた。また伸びた。

伝播:SILENCE 人口:52
与えるものの観察:温かさを受け取った手が、何を次に掴むか。
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第949話

紀元前295,265年

その者(22〜27歳)

手が痛い。

爪の先が割れている。石と石の隙間に指を差し込み、引き剥がし、また差し込む。母がそうしていた。兄がそうしていた。だからそうする。理由はない。

崖の基部に、落ちたばかりの石板があった。

縦に長い。人が三人横たわれる長さ。角が鋭く、どこかがまだ崩れる音を立てている。集団の何人かがそこへ近づき、しゃがみ込んだ。形を確かめるように手のひらを這わせる者。叩いて音を聞く者。

その者は近づかなかった。

二十二歳。まだ兄の腕の届く場所にいることが多い。知っている声と、知っている背中の輪郭。それだけが安全の全部だった。

石板の傍で、年長の男が何かを拾い上げた。割れた石の欠片だった。断面が白く、鋭かった。男は皮のほつれを引っ張り、その欠片で裂き目を広げ、鼻で確かめ、捨てた。

その者はそれを遠くから見ていた。

見ていたが、動かなかった。

集団は怯えていた。怯えの形は様々だった。岩の裂け目を指で触る者がいた。音のたびに首をすくめる者がいた。乳飲み子を抱いたまま空を見上げる女がいた。空に何かがあるわけではない。ただ見上げた。

夕方、その者は兄の背中に体重を預けた。

兄は何も言わなかった。何も言う必要がなかった。

火の近くで皆が集まった。暗くなる前に、誰かが枯れ枝を折る音を立て続けた。その者は目を開けたまま、折れる音を聞いていた。折れる、折れる、また折れる。音が止むと、眠くなった。

眠った。

五年後。

崖の亀裂は広がっていた。別の石板が剥がれ落ち、一人の男がその下敷きになった。声を上げる間もなかった。石は重く、誰にも動かせなかった。男の腕だけが外に出ていた。

その者は遠くから見ていた。近づかなかった。

兄はもう隣にいなかった。兄がいなくなったのは、崖が崩れるより前のことだった。夜に出て、朝に戻らなかった。戻らないまま、季節が変わった。

その者は今、自分で火の傍に座る。

誰かの背中に寄りかかる代わりに、自分の膝を抱える。膝は硬い。自分の体なのに、よその物のように感じることがある。

第二の星

北の高地では、夏が短い。

岩盤の上に薄く乗った土は、根を深く張ることを許さない。草は低く、風に押しつぶされたまま育つ。木の幹は南へ傾く。全ての植物が、風の記憶を体に刻んでいる。

集団はこの五年で小さくなった。崖の男が一人。熱が続いた老いた女が一人。それから、産まれてすぐに動かなくなった子が二人。失われた者の匂いは、残った者の行動を変える。眠る場所が変わる。座る順番が変わる。声をあげる者が減る。

旧人との境界は、この五年で少し動いた。

旧人は、岩の多い斜面を好む。彼らの足裏は厚く、岩の上を歩くことに慣れている。姿を見ることは稀だった。ただ、食料が薄いとき、互いの気配が近づく。どちらも声を立てない。立てるが、立てない。

始まりの大地の東、乾燥した丘陵地帯では、別の集団が水場を巡って争いの後を残していた。石が乱れていた。血の跡があった。どちらの集団が残ったのかは、わからない。

崖は今も続いている。

春ごとに水が浸み、凍る。どこかで次の亀裂が、静かに準備を続けている。

与えるもの

落ちた石板の割れ口に、光を落とした。

その者は遠くから見ていた。見て、動かなかった。

石の断面は白かった。白さに意味があった。この者にはまだわからない。次に渡すべきものは、もっと近くにある必要があるかもしれない。

伝播:NOISE 人口:66
与えるものの観察:白い断面を見た。動かなかった。まだ遠い。
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第950話

紀元前295,260年

第二の星

大地の北、雪が解けずに残る稜線では、夏になっても氷が光を跳ね返していた。

その南、草原が広がる。草原の向こうに森。森の縁に、二つの集団が別々に暮らしていた。一方は旧人の群れ。骨格が厚く、眉の出た顔をした者たちが、火を囲んで座っている。もう一方は新しい型の者たちで、声の種類が多く、指の動きで相手の目を引く。二つの集団は同じ水場を使っていた。どちらも知っていた。どちらも何も言わなかった。

南の海岸では、潮が引いた浜に貝が残った。拾う者がいた。食べた。骨を砂に埋めた。それだけだった。

始まりの大地では、木の実が豊かに実った年が続き、集団は大きくなっていた。子が増えた。老いた者が増えた。声が増えた。火の周りに人が増えた。増えれば、眠る場所を巡って押し合う夜が増えた。食べる順番を巡って目が合う朝が増えた。

遥か北の平原では、獣の群れが移動していた。誰も見ていなかった。星はそれも照らしていた。

与えるもの

折れる音を聞きながら眠った記憶がある。何の音だったのか、もうわからない。

この者はまだ抱かれている。重さが移っただけだ。母の背から兄の腕へ。渡すには早い。それでも止まれない。

煙が火から流れていく。その向きに、翌朝も水が残っていることを、この者はまだ知らない。

風が煙を押した。東へ。水場の方へ。

この者は煙の匂いを嗅いで、顔を背けた。

煙が水の匂いに似ることがある。似ていない場合もある。この者にとっては同じ不快だった。次に渡すべきものは何か。嫌うものの中に何かを隠すべきか、それとも好むものの側に置くべきか。

その者(27〜32歳)

兄の腕の中で揺れている。

動くたびに兄の体が揺れ、自分も揺れる。それが眠りに似ている。眠りではない。空が動いているだけだ。

火の煙が来た。顔を背ける。目が痛い。兄の肩に頭を押しつける。兄は何も言わない。

集団が動いている。なぜ動くのか、この者には関係がない。動くから揺れる。揺れるから眠い。

誰かが声を上げた。低い声だった。別の誰かが応じた。声の形がまだ分からない。音だけが来る。

水場に着いた。兄が膝をついた。水が近くなった。匂いが変わった。この者の手が、兄の腕の上で開いた。水面に映った空が揺れた。

手を伸ばした。届かなかった。

兄の腕が動いて、水面から遠ざかった。

口を開けた。声が出た。

兄は気にしなかった。

伝播:SILENCE 人口:86
与えるものの観察:煙の向きに水がある。嫌われた。
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第951話

紀元前295,255年

第二の星とその者(32〜37歳)

草原の東端、泥が乾いて割れた場所に、旧人の一人が座っていた。腕が長く、額が低く、声は低くよく響いた。その者の母が、遠くからその姿を見ていた。

その者は母の背にいた。まだ降りない。腰にしがみついて、母が歩くたびに揺れた。

乾季が明けた。草原に水が戻り、草が一斉に伸びた。獣が増えた。子が増えた。集団は大きくなり、声も大きくなった。そのぶん、摩擦も増えた。火の番を誰がするか。木の実を積んだ岩棚を誰が守るか。小さな言い争いが、毎日どこかで起きていた。

兄が、その者を地面に降ろした。足の裏が土に触れた。柔らかかった。その者は、その柔らかさの上に膝をついた。しばらく、動かなかった。

旧人の一人が、集団の火に近づいてきたのは、日が沈む前のことだった。手に何も持っていなかった。声を出した。誰かが石を拾った。誰かが立ちあがった。

母が喉の奥で低い音を出した。その者は母の足首を握った。

旧人はそのまま立ち去った。石を拾った者は、石を置いた。火は揺れた。

その夜、その者は兄の腕の中で目を覚ました。何かが遠くで鳴っていた。獣の声か、風か。その者には区別がなかった。泣かなかった。ただ口を開けて、闇の方を向いていた。

草が風に伏せるとき、その者がいる方向から、焦げた土の匂いがした。

乾いた茎をまとめて燃やしていた。集団の女たちが、夜営の外縁に火を置いて、獣を近づけないようにしていた。煙が東へ流れた。

その者は煙の匂いを吸った。もう一度吸った。

翌年、旧人の群れが森の深くへ移った。理由はわからなかった。草原には、集団の者たちだけが残った。余白ができた、と誰かが感じたかもしれないが、言葉にならなかった。

その者は歩けるようになっていた。よく転んだ。転ぶたびに手をついて、土を握った。握ったものをすぐに口に入れようとした。

五年目。その者は七歳になっていた。まだ運ばれることもあったが、長い距離は自分で歩いた。集団が水場へ向かうとき、その者は列の後ろを歩いた。草が足首を撫でた。石が足の裏に当たった。

水場のそばに、黒く焦げた木が一本立っていた。雷に打たれたのかもしれなかった。根元から炭が剥がれて、地面に散っていた。

風が止まった瞬間、炭の欠片の一つに光が差した。平たく、表面が滑らかな一片だった。

その者は立ち止まった。

周りは先へ進んだ。その者だけが、その場に屈んだ。指ではなく、手のひら全体で炭を包んだ。黒が掌についた。

それを顔に近づけて、匂いを嗅いだ。

煙とは違う匂いがした。もっと古い、冷えた匂い。

その者はそれをしばらく持っていた。水場についたとき、水に浸けた。黒が水に滲んだ。その者はそれでも持っていた。

与えるもの

炭に、光を落とした。

その者は持った。手が黒くなっても、手放さなかった。

渡したのが、形か、重さか、それとも匂いだったのかは、わからない。次に何を落とすべきか、それだけを考えた。

伝播:NOISE 人口:104
与えるものの観察:手放さなかった。それだけが、今確かなことだ。
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第952話

紀元前295,250年

第二の星

草原は広い。

東の稜線に煙が立った。旧人の集団が火を持っている。低い額、幅広い肩、岩の陰に複数の影が動く。彼らも火を知っていた。彼らの火は小さく、長く、よく持つ。

同じ草原の西側に、この者たちの集団がいる。以前より、ずっと多くなった。足跡が深く、踏み固められた場所が広がった。子の泣き声が増えた。夜に燃やす火が、以前より大きくなった。

しかし、ある数を境に、何かが変わった。

誰が何を取るかで声が上がるようになった。岸の水場で二人の男が組み合い、一人が腕に嚙み傷を受けた。夜に火の傍を離れて戻らなかった若い男が一人いる。骨だけが三日後に見つかった。

遠く、乾燥した台地の縁では、別の集団が南へ歩いていた。五人。子を二人連れている。食べ物を探して移動している。彼らには名前がない。この星には彼らの足跡だけが残る。

風が変わる前夜、草原の東と西から、別々の煙が空に細く伸びていた。

与えるもの

前話から渡し続けている記憶が積もっている。焦げた根元。散らばった炭。煙が水場へ流れたこと。そういう記憶が、この者の内側のどこかにある。届いたかどうかは、まだわからない。

今、渡すのは別のものだ。

旧人の男が座る方向から、夕刻の風が吹いてきた。温かくない。嗅いだことのある匂いでもない。獣でも植物でもない、何か別の体臭が混じっている。

母の背の上で、その者の鼻が動いた。

受け取ったのか、それとも別の刺激に反応しただけなのか、与えるものにはわからない。しかし、その鼻が止まった瞬間、その者の体が少しだけ固まった。

それで十分かもしれない。あるいは全く足りないかもしれない。渡すべきものは、匂いの先にある何かだ。違う体臭を持つ者が、同じ火を使い、同じ空の下に座っているという、その事実だ。次に渡すなら、もっと近くで。もっと繰り返して。

その者(37〜42歳)

母の背は揺れていた。

歩くたびに上下した。その者は母の首に腕を回して、顔だけを外に向けていた。草の穂が腰の高さで揺れていた。夕暮れの橙が地面を平たく照らして、影が長く伸びていた。

風が来た。

鼻の中に何かが入った。草ではない。母の匂いでもない。火の匂いでもない。

その者の体が止まった。手が母の首を少し強く掴んだ。

母は歩き続けた。

その匂いの方向に、低い影があった。岩の形ではなかった。動いていた。座ったまま動いていた。腕が長く、頭が前に出ていた。

その者は声を出さなかった。泣かなかった。口が少し開いたまま、その影を見ていた。

母が速度を上げた。その者の体が揺れた。影が遠くなった。

夜、火の傍に戻ってから、その者は何度か鼻を動かした。あの匂いを探すように。見つからなかった。

眠る前に、空を見た。

煙が二本、別々の方向から暗い空へ消えていくのが、まだ見えた。

伝播:DISTORTED 人口:121
与えるものの観察:匂いは届いた。固まった体が証拠だ。
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第953話

紀元前295,245年

その者(42〜47歳)

夜が来る前に母が戻らなかった。

その者は火の近くで待った。兄が薪を折る音がした。母の名を呼ぶ声はなかった。集団の中で声を出すことが、今は危うかった。

三日前から、東の崖に影があった。旧人の影だ。彼らは低い姿勢で動く。息が白い。寒さの中でも皮を厚く巻かず、体そのものが寒さに慣れている。

その者の集団は彼らを避けてきた。しかし火が同じ谷間に二つある。水場も同じだ。獲物も同じ斜面を走る。

その日の朝、年長の男が東へ向かった。身振りで示した。手を開いて、前に出した。敵ではないという形。その者は遠くから見ていた。腕の中で、ではなく。もう自分の足で立っていた。背はまだ低いが、足は地面をつかんでいた。

年長の男は戻らなかった。

昼を過ぎて、集団の中で声が荒れた。走れ、という身振りをする者がいた。残れ、という身振りをする者がいた。子どもを抱えた女が二人、北へ向けて走り始めた。

その者は走らなかった。

兄が腕をつかんだ。引いた。その者は腕を振り払った。振り払ってから、兄の顔を見た。兄の目には問いがあった。何故お前は止まるのか、という形の目だった。

その者にはわからなかった。ただ、足が動かなかった。

崖の上に煙が上がった。旧人の火だ。しかし煙の形が違った。急ぎではなく、ゆっくりと巻き上がる。食事の火に似た形だった。

その者は煙を見た。長く見た。

兄がまた腕をつかんだ。今度はその者も動いた。ただし北ではなく、崖の方へ。兄は手を離した。悲鳴ではなく、静かな息の音が喉から出た。

崖の手前で、年長の男が岩に座っていた。生きていた。旧人の男が一人、隣に座っていた。二人の間に、獣の骨が置いてあった。食べた後の骨だ。

その者は止まった。

崖の影から旧人の子どもが顔を出した。その者より幼い。額が広く平らだ。目が大きい。その子どもが、その者を見た。

その者は岩を一つ拾った。渡した。

子どもは岩を両手で受け取った。裏返した。表に戻した。地面に置いた。また拾った。

その夜、母は戻らなかった。

翌朝、川の縁に母の革袋があった。水の流れに半分浸かっていた。袋の口が開いていた。中は空だった。その者は袋を引き上げた。水が垂れた。石の上に置いた。

年長の男が来て、袋を見た。何も言わなかった。

その者も何も言わなかった。袋を持ったまま、川岸に座った。水が流れる音だけがあった。水はずっと同じ方向に流れていた。

二年後、集団は西へ移動した。旧人の集団も同じ谷間から消えていた。どちらが先だったかは、誰も知らない。

その者は移動の列の中ほどにいた。母の革袋を肩にかけていた。袋の中には石が一つ入っていた。旧人の子どもが返した、あの岩だ。

どこで返されたか、その者は覚えていない。気づいたら手の中にあった。

第二の星

谷は静かだ。

二つの火が消えて、灰だけが残っている。風が灰を崖の縁から落とす。落ちた灰は川に入り、下流へ流れる。川はどこへでも行く。

この五年間、この大地では食料が増えた。雨が均等に降り、草が根付き、獣が太った。集団は増えた。しかし増えた分だけ、争う理由も増えた。水場は一つしかない。よい狩り場は限られている。

旧人はもとからここにいた。彼らの骨は太く、皮膚の下に脂肪が厚い。寒さの夜を洞窟の奥で越える術を知っている。火を持つ。肉を分ける。子どもを連れて移動する。死んだ仲間を岩の割れ目に置く。これはどちらも同じだ。

しかしこちらの集団は旧人を見るとき、岩を握る。旧人もこちらを見るとき、体を低くする。どちらも正しく怖れている。

年長の男が手を開いた朝のことを、この星は照らしていた。獣の骨が二人の間にある夕方も。子どもが岩を返した瞬間も。

川の上流で母の体が見つかったかどうかは、誰も言わない。水がすべてを連れていった。

移動する列の影が西の稜線を越えていく。赤い空の下で、影は小さい。風が後ろから吹く。

与えるもの

川の水面が、一瞬だけ光った。
その者が母の袋を引き上げる前、すでに光は落ちていた。

その者は袋を見た。袋だけを見た。

それでいい。

光は届いた。袋の中が空であることを、その者は知った。知って、持っていくことにした。何も入っていない袋を持って歩くとき、人は何を運んでいるのか。わからない。しかし次に渡すものは見えている。重さのないものを持ち続ける力が、どこへ向かうのかを、まだ渡していない。

伝播:HERESY 人口:134
与えるものの観察:空の袋を持って歩く。それだけだ。
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第954話

紀元前295,240年

その者(47〜52歳)

五年が経った。

その者は歩く速さが変わっていた。集団が移動するとき、後ろになった。誰も振り返らなかった。それが当然だった。

足の裏が硬かった。膝の内側に熱があった。朝、起き上がるとき、両手を地面につけなければならなかった。

兄はもういない。

集団の中で、ある夜、声が高くなった。誰かが誰かを押した。その者はそれを見ていた。翌朝、兄は列の端にいなかった。どこへ行ったのか、誰も言わなかった。誰も聞かなかった。

その者は一人で歩いた。

木の実を拾った。口に入れた。甘くなかった。飲み込んだ。

坂の途中で止まった。膝が折れたのではなく、足が止まった。もう上がれないと思ったのではない。ただ、止まった。

岩があった。その者は岩に寄りかかった。背中が冷たかった。空を見た。雲が東から西へ動いていた。ゆっくりだった。

手の中に小さな石があった。いつ拾ったのか覚えていなかった。親指で表面をなぞった。凸凹があった。また、なぞった。

集団の声が遠くなっていた。足音が消えた。

その者は石を置いた。

横になった。岩の影の中だった。地面が乾いていた。

目が開いたまま、雲を見ていた。

雲は動いていた。

それから動かなくなった。

第二の星

湿地の東、丘の上で二つの集団が向かい合っていた。声はなかった。石を持った手があった。風が草を揺らした。どちらも動かなかった。旧人の一群が遠くを歩いていた。こちらを見なかった。坂の下では水が流れていた。

与えるもの

石の表面を親指でなぞる感触が、まだ残っていた。それと似た手を、与えるものはすでに探していた。糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:142
与えるものの観察:石を置いて横になった。それだけだ。
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第955話

紀元前295,235年

第二の星

岩が剥き出しになった台地の端に、二つの集団がいた。

一方は草の根を掘る者たちで、もう一方は背が低く、額の骨が分厚く張り出していた。二つの集団がこれほど近くにいるのは珍しいことではなかった。水場は共有されてきた。火の煙が夜に混じることもあった。

だが今年、何かが違った。

乾いた季節が長すぎた。川沿いの草が先に枯れ、水面が下がった。地面の割れ目に塩が浮いた。獲れる獣が減った。足跡は遠くなり、罠にかかる数が半分以下になった。

腹が減った集団は、近くにいる別の集団を見る目を変える。

境界は言葉では引かれない。踏み込まれた、という感覚が、身体に先に届く。石が投げられた。誰かの肩を掠めた。報復に石が返った。それだけのことが、夜を越えて熱を持つ。

朝、台地の上に黒い影が並んだ。額の張り出した者たちで、背丈は低いが腕は太かった。持っているものは棒だった。先端を火で炙って硬くしたものと、鋭く削った骨を縛りつけたものがあった。

こちらの集団から男たちが前に出た。叫びがあった。腕を広げ、胸を打ち、声を重ねた。

額の張り出した者たちは動かなかった。

沈黙は長かった。風が台地を横に流れた。草が一斉に同じ方向に倒れた。

やがて、分厚い額を持つ者たちのうちの一人が、棒を地面に置いた。膝をついた。それが何を意味するのか、どちらの集団にも完全には伝わらなかったが、誰も石を投げなかった。

男たちは台地の上に立ったまま、しばらく動かなかった。

その後、額の張り出した者たちは去った。

去る方向が、水場とは逆の方角だった。

彼らがどこへ向かったのか、誰も知らなかった。翌朝も、その翌朝も、台地の端に影は現れなかった。

残された集団は移動を始めた。水場を求めて、北の低地へ。

移動の列は長かった。子どもを背負う女が前を歩き、老いた者が列の端を歩いた。道はなかった。足跡が道になった。

与えるもの

糸が繋がった。

この者は列の後ろを歩いていた。

移動の最中、前の者との距離が開いたとき、焦げた草の匂いが漂ってきた。風はなかった。それでも匂いは確かにあった。

この者は立ち止まった。匂いの方向を向いた。そこには岩があった。ひとつだけ、他と色が違う岩が台地の縁に立っていた。

この者は岩の前まで行かなかった。

匂いは消えた。

前の者との距離はさらに開いていた。渡したかったのは岩ではなかった。岩の向こう側、崖の下に何があるかを知ることだった。しかしこの者は戻った。

次に渡すとき、もっと近い場所を選ぶべきなのか。それとも、近い場所では届かないのか。

その者(16〜21歳)

列の後ろにいた。

前の者が岩を越えたとき、自分はまだ台地にいた。匂いがした。立ち止まった。岩を見た。岩は何も言わなかった。

戻った。

追いついた頃には足が痛かった。誰も待っていなかった。それが当然だった。夜、火の端に座った。腹が鳴った。

伝播:HERESY 人口:153
与えるものの観察:渡したが、届く前に足が動いた。
───
第956話

紀元前295,230年

その者(21〜22歳)

崖の下に、水の音があった。

その者は腹這いになって端から首を伸ばした。水ではなかった。岩と岩の間を風が抜けているだけだった。喉が鳴った。二日、水を見ていなかった。

集団は散った。

いつからかはわからない。額の骨が張り出した者たちと石が飛んだ夜があった。誰かが叫んだ。火が地面を転がった。その者は走った。走りながら後ろを見た。見てはいけなかった。足が石を踏み外した。

崖ではなかった。斜面だった。

転がった。止まった。立とうとした。右の脚が言うことを聞かなかった。膝から下が奇妙な角度を向いていた。

夜が来た。

その者は斜面の途中で横になっていた。空は澄んでいた。星が多かった。腹が鳴った。脚の熱が背中まで伝わってきた。岩を一つ拾った。握った。特に意味はなかった。

風がある方向から吹いてきた。

煙ではなかった。草でもなかった。何か、生き物の匂いに似たものだった。その者は頭を持ち上げた。暗さの中に何もなかった。しかし匂いは続いた。何かがそこにある、という感覚だけが残った。

その者は岩を置いた。

また拾った。

夜の途中で、熱が全身に広がった。脚を中心に、波のように。その者は声を出さなかった。声を出す理由がわからなかった。聞く者がいるかどうかも知らなかった。

空が少しずつ白くなった。

鳥が一羽、遠くで鳴いた。その者の目がそちらを向いた。また鳴いた。目が閉じかけた。

開かなかった。

握っていた岩が斜面を転がっていった。止まった。

第二の星

台地の上では、額の骨が張り出した者たちの一群が火の残り火の周りに座っていた。草の根を焼いて食べていた。遠くで何かが倒れる音がした。誰も顔を向けなかった。夜明けの光が台地の端から差し込んできた。岩の影が長く伸びた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:DISTORTED 人口:167
与えるものの観察:匂いは届いた。使われなかっただけだ。
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第957話

紀元前295,225年

第二の星とその者(4〜9歳)

地面が鳴った。

鳴るという言葉がまだないから、この者にはそれを言う方法がない。ただ、体の底から揺さぶられる感覚があった。膝がついた。岩の上に手をついた。岩が生きているように動いていた。

遠い山の裾から、橙色の光が吐き出された。第二の星はそれを見ていた。溶けた石が川のように流れ下り、夜の草原を焼いた。煙は朝になっても消えなかった。煙の柱が積み重なり、空の色が変わった。青ではなく、灰でもなく、黄みがかった白になった。太陽があるはずの場所に、太陽の形がない。

群れの大人たちが走った。子どもたちは走る大人の足を目で追った。この者も走った。どこへかは知らない。足が動いたから動いた。

灰が落ちてきた。最初は一粒。次に十粒。次の朝には積もっていた。草の葉の上に、白っぽい細かい粉が乗っていた。この者はそれを指で触れた。滑らかだった。舌に載せた。苦かった。吐き出した。

集団の中で、幾人かが戻らなかった。岩が崩れた場所で声が聞こえなくなった。逃げる途中で倒れた者がいた。灰を吸い込んで、肺が動かなくなった者がいた。夕方まで咳をしていた子が、夜に静かになった。母親が抱いたまま離さなかった。朝になって、別の大人が静かに子を引き離した。母親は何も言わなかった。

第二の星の反対側では、別の水辺で別の群れが乾季の終わりを待っていた。灰は届かない距離だった。彼らは知らなかった。何も変わらない草原で、子どもたちが追いかけっこをしていた。第二の星はどちらも等しく照らしていた。

灰が積もった日が続いた。草の色が変わった。食べられるものが減った。この者は草をかき分けて虫を探した。石をひっくり返した。何もいなかった。別の石を返した。小さなものが素早く逃げた。追いかけて、捕まえた。口の中に入れた。

群れが移動した。この者にはわからない。どこへ向かっているのか、誰が決めているのか。ただ大人の足の後をついた。足が痛くなった。それでも歩いた。立ち止まると誰かに押された。押したのではなく、ぶつかっただけかもしれない。どちらでもよかった。足を動かした。

五年の終わりに、この者は九歳になっていた。肋骨に触れると浮き上がっていた。腹が鳴ることが多くなっていた。それでも足は動いた。

与えるもの

灰が積もった朝、光がある場所に落ちた。

灰に覆われていない岩肌の一角。そこだけ白く光っていた。

この者は岩の下の虫を探していた。光には気づかなかった。その岩は返さなかった。

返さなかった。

それでもこの者は別の岩を返した。また別の岩を。岩を返すことを知っている。それは確かだ。

糸が繋がったばかりだ。この者はまだ四歳だったときに、岩を返すことを覚えた。誰かから教わったか、たまたまそうしたか、私にも見えない。

光は消えた。岩はそのままだ。

次は何を示すべきか。この者の腹は鳴っている。今は食べることだけが体を動かしている。

食べることの先に何があるか。その問いはまだ早い。

それでも渡す。

伝播:SPREAD 人口:152
与えるものの観察:光が届かなかった。岩は返され続けた。
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第958話

紀元前295,220年

第二の星

乾いた季節が続いている。

草原の端、赤土が剥き出しになった丘の斜面に、いくつかの群れが散らばっている。水場が減った。獣の通り道が変わった。体の大きな者たちが先に飲み、小さな者が後に飲む。それだけのことだが、毎日繰り返されると、小さな体は少しずつ遅れていく。

遠く、この星の別の場所では、もっと乾いた風が吹いている。そこに人はいない。獣だけが歩いている。岩が白く光っている。

この者のいる丘の近くでは、旧い体格の者たちがいる。額が張り出し、眉の骨が厚い。声の低い者たち。彼らは水場の上流に先に着いた。この者たちの群れが近づくと、低い唸り声が出た。体を大きく見せる動きがあった。両集団は離れた。

夜、それぞれの火が別々に灯った。

与えるもの

この者が眠りに落ちる直前、頬に当たる風の温度が、ほんの少し変わった。

同じ方向から、もう一度。

この者は寝返りを打った。

また渡せなかったのか、それとも、眠りの中で何かが形を作っているのか。渡した風は夢になるだろうか。夢になったとして、朝には残るだろうか。残ったとして、この者はそれを誰かに伝える言葉をまだ持っていない。では次は何を渡すべきか。言葉より前に届くもの。匂いより速く、光より静かに。

その者(14歳)

水が少ない。

それをこの者は言葉で知っているのではなく、唇の荒れ方で知っている。昨日より今日、皮が固い。舌で触ると、粉のような感触がある。

群れは移動した。前の夜営地から半日歩いたところにある窪地。去年も水があった場所だ。今年は底が見えた。泥だけが残っている。

幼い子が泣いた。母親が抱いた。泣き声が続いた。それからやんだ。やんだ理由が何かは、この者にはわからない。

この者は窪地の縁に立って底を見た。泥が乾いて割れている。ひび割れの形が、焼けた肉の表面に似ていると思った。思ったというより、両方が同時に体の中に浮かんだ。

石を一つ拾って投げた。泥の底に刺さった。

拾ったのに特に理由はなかった。

夜、火の周りに大人たちが集まった。この者は輪の外に座った。声が行き来していた。どこへ行くかを決める声だった。高い声と低い声が混じった。やがて一つの方向に落ち着いた。この者にはその方向がどこかわからない。

明け方、体を起こしたとき、頬に風が当たった。

同じ方向から、もう一度来た。

この者は目を開けたまま、しばらくそっちを向いていた。何があるかはわからない。何かがあるかもしれないとも思わない。ただ、向いていた。

起き上がって、歩き始めた群れの後ろについた。

伝播:NOISE 人口:166
与えるものの観察:眠りの中には届かなかった。起きた後に、届いたかもしれない。
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第959話

紀元前295,215年

その者(14〜16歳)

水場の端に、小さな骨のような影がある。

その者は腹這いになって水を飲んでいた。体の大きな者たちはすでに去っていた。泥が唇につく。飲み込む。また飲む。口の中の味はいつも土だった。それが水というものだとその者は知っていた。

丘の向こう、別の群れの輪郭が動いていた。

その者はそれを見た。動かなかった。群れの誰かが呼んだ。短い音だった。その者は立ち上がり、呼ばれた方へ歩いた。

しかし向こうの群れも動いていた。

二つの群れが丘を挟んで近づいた。水が少ない。獣が来ない。どちらの側にも空腹があった。

石が飛んだ。誰が投げたかは見えなかった。その者の頭の横を、風が動いた。

走った。群れのほとんどが走った。その者も走った。

丘の斜面は赤土で、足が滑った。その者は転んだ。立ち上がった。また走った。後ろから音が来た。怒鳴り声ではなかった。獣の息のような、低い声だった。

斜面の端に気づかなかった。

落ちた。

音がした。それから静かになった。

赤土の底、その者は仰向けになっていた。空が見えた。乾いた空だった。雲が一枚もなかった。

その者の腕が二度、動いた。

三度目はなかった。

第二の星

同じ頃、草原の遠くで、子が生まれていた。母親は声を上げず、地面に手をついて、ただ息をしていた。子は泣いた。群れの者が集まった。火の匂いが風に混じっていた。乾いた季節はまだ続いていた。

与えるもの

光が落ちた場所を、その者は一度だけ正確に見た。ただ見ただけだ。

赤土の崖の上で、生まれたばかりの声が聞こえた。

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:178
与えるものの観察:見ることしかできなかった。それでも見ていた。
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第960話

紀元前295,210年

第二の星

川が口を開けた。

岸の低いところから、まず土が剥がれた。静かだった。音もなく、ただ地面が水に変わった。それから轟いた。上流で積み上がっていたものが、全て一度に動いた。木が根ごと流れた。岩が転がった。岩は音を立てなかった。水の方が大きすぎて、岩の音は消えた。

集団の四分の一が、その夜のうちに消えた。高台にいた者は生き残った。低地で眠っていた者は戻らなかった。子どもたちの多くが低地にいた。母親のそばで眠っていた子どもたちが。

水は三日かけて退いた。

泥の匂いが大地を覆った。生き残った者たちは互いを数えた。数える言葉を持たなかったが、それでも数えた。目で、手で、声で。足りないことだけはわかった。

遠く離れた乾いた台地では、別の種の者たちが――その者たちよりも眉の骨が厚く、手が大きかった――火を囲んで座っていた。洪水のことを知らなかった。空が赤く見えた。草の焼けた匂いが風に乗ってきた。それだけだった。

与えるもの

糸が繋がった。

まだ細い。まだ頼りない。しかし繋がっている。

この者は今夜、集団の中で最も危ない場所にいる。

そのことを、この者はわかっていない。

川岸の石が、一つだけ乾いていた。水が退いた後、泥に埋もれず残った石。光が斜めに差して、その石だけが白く光った。

この者が石を見た。拾った。

置いた。

また拾った。

重さがわかる石だ、とこの者は思っていない。思う言葉がない。だが手の中で転がした。石はずっしりとして、冷たかった。

その重さを、次の者に渡せるだろうか。渡す機会が来るだろうか。重さを知っている手と、重さを知らない手のあいだに、何が届くのか。まだわからない。だが、この石は残る。この者が持っている限り。

その者(28〜33歳)

泥の中に足が沈んだ。引き抜くたびに音がした。

夜のことは覚えていない。水が来た。岸が消えた。走った。気がついたら高い岩の上にいた。他の者が何人かいた。濡れていた。みんな濡れていた。子どもの声がした。それからしなかった。

夜明けに水が退いた。

泥の野原になっていた。木は倒れていた。川岸を知っていた石が、全部違う場所にあった。

その者は歩いた。誰かを探していた。探している誰かの顔を思い浮かべていたが、その顔に呼び名がなかった。ただ顔だった。呼べない。大声を出した。返ってこなかった。

足が止まった。

泥の中に、小さな手形があった。手のひらが沈んだ跡。それだけが残っていた。水はもう退いている。その手は今、どこにもない。

その者は手形を見た。しゃがんだ。自分の手をそこに重ねた。大きすぎた。

立ち上がった。

夕方、集団の残りが高台に集まった。その者も行った。火を囲んだ。誰かが何かを言った。誰も答えなかった。火の音だけがした。

その者は石を握っていた。ずっと握っていた。

夜、集団の中の二人が、その者の方を見ていた。見ていた。また見た。その者はそれに気づかなかった。石を握ったまま、火を見ていた。

明け方、その者は一人になっていた。

追い出されたのか、自分で離れたのか、その者にはわからなかった。気がついたら、火から遠い岩の端にいた。集団の声が遠かった。近づこうとしたら、誰かが低い声を出した。その者は止まった。

また遠ざかった。

石を握ったまま、その者は歩いた。どこへ行くかわからなかった。足だけが決めていた。足が決めたことに従って、その者は歩いた。

川の音がした。同じ川だった。水はもう穏やかだった。

その者は川岸に膝をついた。水に手を差し入れた。石を持ったまま。水は冷たかった。流れがあった。手を持っていかれそうになった。それでも放さなかった。

どこへ行けばいいかわからない者が、川岸に座っていた。それだけだった。

伝播:HERESY 人口:143
与えるものの観察:重さのある石を、放さずにいる。