2033年、人類の旅

「紀元前294,965年〜紀元前294,845年」第1009話〜第1032話

Day 43 — 2026/05/15

読了時間 約61分

第1009話

紀元前294,965年

第二の星

水が引いた。

丘に固まっていた集団が、泥の上に足を踏み出した。獣の痕跡は消えたままだった。水が去った跡には、知らない場所のような静けさがあった。昨日まで膝を埋めていた場所に、空が映っていた。

遥か南では、別の集団が暑い季節の終わりに岩陰で眠っていた。旧人の一群が、人間の集団が残した灰の跡を嗅いでいた。灰は三日前のものだった。どちらも相手を見なかった。同じ空の下で、同じ方向に歩いていた。

北の斜面では、子が一人で座っていた。集団から外れていた。帰り方がわからなかったのか、帰る気がなかったのかは、星にはわからない。

丘の上の集団は387だった。そのうちの何人かは、水が引いたことを知らずに眠ったままだった。目覚めなかった。泥の中に、小さな手の痕跡が残った。水が来る前につけたものか、来た後のものか、それもわからない。

星は照らした。区別しなかった。

与えるもの

水が引いた翌朝、光がある岩の割れ目に落ちた。

その割れ目に、白い粘土が詰まっていた。

この者は割れ目を通り過ぎた。戻った。また通り過ぎた。

白い粘土。あれが今、渡せるものだった。光を当てた。その色が浮かぶように。

この者は割れ目に指を差し入れ、粘土を引き出した。握った。臭いを嗅いだ。口に入れそうになって、やめた。手に塗った。

——手に塗った。

知らずに何かをした。意味を知らずに、身体が動いた。以前にも似たことがあった気がする。泥の中で光が足を止めた日。あの時も、この者は何かを手に取った。届いたのかもしれない。あるいは届いていないのかもしれない。

次に渡すべきものが、まだある。

その者(13〜18歳)

水が消えると、地面が変わっていた。

踏んだ場所が沈む。音が違う。昨日と同じ丘のはずなのに、足の裏が知らない地面を歩いているような感触があった。

集団が動き始めた。年上の者たちが声を出し合いながら、低い方へ向かった。その者は少し遅れた。

岩の割れ目のところで、足が止まった。

光が当たっていた。その中に白いものがあった。土とは違う白さだった。指を入れた。冷たかった。柔らかかった。引き出すと、塊になって出てきた。

臭いを嗅いだ。

口に運んだ。やめた。

左の手のひらに押しつけた。白くなった。右の手で伸ばした。また白くなった。

集団の声が遠くなっていた。

その者は手を見た。白い手を。自分の手だったが、自分の手ではないような気がした。

走った。転んだ。泥の中に手が沈んだ。

起き上がると、白は消えていた。

泥色の手を見た。しばらく見た。

また走った。集団の声が戻ってきた。

伝播:DISTORTED 人口:399
与えるものの観察:手に塗った。意味を知らずに。
───
第1010話

紀元前294,960年

その者(18〜21歳)

集団の端に、いつもいた。

火の近くには座らせてもらえなかった。肉が配られるとき、その者の番は最後だった。骨だけ残ることもあった。誰もそれを不思議に思わなかった。集団の端にいる者とはそういうものだった。

その者はよく石を拾った。

特に理由はなかった。手が何かを掴んでいないと落ち着かなかった。丸い石、平たい石、赤みがかった石。拾って、眺めて、置く。また拾う。置く場所だけは毎回違った。

ある夜、その者は火から離れた場所で草の上に横になった。

腹が重かった。熱があった。

翌朝、起き上がれなかった。

誰かが一度だけ覗きに来た。何も言わなかった。戻っていった。

三日が経った。

その者は草を掴んでいた。手が離せなかった。草が引き抜けた。根がついてきた。その者はそれをしばらく見ていた。

風が来た。

草の根についていた土が、少しだけ落ちた。

その者は口を開けた。音は出なかった。

四日目の夕方、集団の中で何かが起きた。声が上がり、足音が散った。その者のいる場所まで誰も来なかった。

その者は空を見ていた。

雲が西から来ていた。大きな雲だった。その者はそれを追おうとした。首が動かなかった。

手の中に、まだ草があった。

根は乾いていた。

第二の星

遥か北では、岩の亀裂に苔が生え始めていた。氷が退いたあとに残る、薄い緑だった。誰も見ていなかった。虫が一匹、その上を渡った。南では別の集団が川沿いを移動していた。子どもが一人、水際で転んだ。泣かなかった。また歩いた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:389
与えるものの観察:渡したものが届いたか、今もわからない。
───
第1011話

紀元前294,955年

その者

母の背にいた。足音が止まった。

足音が始まった。止まった。始まった。

その者は母の背で上下に揺れていた。歩くとき、その者の目に映るのは後ろへ遠ざかる景色だった。木の幹が小さくなっていく。石が点になって消える。

母が座った。その者は地面に降ろされた。

這った。石があった。手に取った。舐めた。石の味がした。落とした。拾った。また舐めた。

大人たちが集まっていた。声が重なっていた。その者には意味がわからなかった。ただ、声の調子が普段と違うことは感じた。高くなったり低くなったりを繰り返していた。

誰かが立ち上がった。別の誰かも立ち上がった。

その者は石を置いた。大人たちの足を見た。足が動いていた。方向がばらばらだった。いつもなら同じ方向を向くのに。

母がその者を抱き上げた。また背負われた。歩き始めた。

今度は前を向いていた。新しい景色が近づいてくる。見たことのない石。見たことのない木。

足音が他にも聞こえた。母だけではない。何人かが一緒に歩いていた。でも、いつもより少なかった。

第二の星

集団は分かれた。

始まりの大地に散らばっていた四つの群れのうち、二つが対立していた。水場をめぐって。狩場をめぐって。理由はそれだけではなかった。顔つきが違う者たちがいた。背が高く、額の出っ張った者たち。古くからこの土地にいた者たちだった。

人類の群れは数を増やしていた。子が多く生まれ、多くが育った。気候が安定していたからだった。雨が適度に降り、獣も豊富だった。しかし数が増えると、場所が足りなくなった。

対立は小さな衝突から始まった。石を投げ合った。棒で殴り合った。血が流れた。死者が出た。

群れは分裂した。一部は東へ向かった。一部は西へ向かった。残った者たちは南に留まった。それぞれが、相手のいない土地を求めた。

五年の間に、人口は四百を超えた。だが安定はしていなかった。病が流行った年があった。獣が少なかった年があった。川が干上がった年があった。

分かれた群れの中で、最も小さな群れには十二人がいた。その中に、背負われて移動する幼い者がいた。母親と、数人の大人と、子どもたちと。彼らは誰も追わず、誰からも追われない場所を探していた。

歩き続けていた。

与えるもの

接続した。

水の音が聞こえるところから、風が吹いてきた。その者の母がそちらを向いた。

その者は風を感じた。顔に当たった。目を細めた。

風の向こうに何があるかは知らない。ただ、その方向に水があることを示した。風に水の匂いを混ぜた。

母は歩き始めた。風が吹いてきた方向へ。

その者は背中で揺れながら、風を受け続けた。

それについて与えるものは問う。この小さな存在に示すものは何なのか。生き延びることだけなのか。それとも、風を感じることそのものなのか。次に示すべきは、水のある場所ではなく、風そのものかもしれない。

伝播:DISTORTED 人口:403
与えるものの観察:風に混ぜて示した。
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第1012話

紀元前294,950年

第二の星

大地の縁で、氷が割れた音がした。

遠くの話ではなかった。北の稜線から流れてきた冷気が谷を抜け、集団の住む岩棚まで届いた。草が折れた。水場の表面に薄い膜が張った。朝、それを踏んだ女が声を上げ、周囲の者が集まった。指でつついた。また声が上がった。笑いではなかった。

気候が変わるとき、最初に変わるのは水だ。

集団の中に、古い傷を持つ男がいた。右の足首に、かつて獣の牙が刺さった跡がある。雨の前、その傷が疼く。今朝も疼いた。男は空を見た。雲の形を見た。仲間に向かって低い声を出した。意味のある音ではなかった。しかし方向があった。

集団は動いた。

荷を背負う者、子を抱く者、火種を布に包んで胸に抱きしめる者。移動は急ではなかった。急ぐことが何を意味するか、まだ誰も知らなかった。しかし足は速かった。体が知っていた。

南へ下る途中、別の集団の痕跡があった。

焚き火の跡。骨。引きずった跡。

誰も立ち止まらなかった。立ち止まることが何を意味するか、体が知っていた。

谷を抜けたとき、風が変わった。乾いた南からの風だった。草の匂いがした。乾いた土の匂い。獣の通り道の匂い。集団はそこで止まった。水を探した。岩の割れ目から細い流れが出ていた。順番はなかった。強い者が先に飲んだ。幼い者は後だった。

夜、火を囲んだ。

炎が揺れるたびに影が動いた。子供たちは影を見た。見続けた。それが何かを問う言葉はなかった。ただ見た。

集団の緊張は別のところにあった。

古い男が、幼いその者を見る視線。長くなった視線。それに気づいた母が、その者を自分の陰に引き寄せた。男は何も言わなかった。言葉がなかったのではない。言う必要がなかった。視線が、すでに全部を言っていた。

火が小さくなった。

誰かが薪を足した。炎が戻った。影が動いた。

夜は長かった。

与えるもの

薪が爆ぜた瞬間、火の粉がひとつ、その者の足元に落ちた。

その者は足を引いた。引いた先に、古い男の視線があった。

火の粉は消えた。与えるものは次に何を渡すべきかを考えた。火を避けることと、視線を避けることは、同じ動きだったか。違う動きだったか。同じ動きであれば、体はすでに知っている。違う動きであれば、まだ誰も教えていない。

その者(6〜11歳)

火の粉が消えた場所を、その者はしばらく見ていた。

母の腕が背中に回った。その者は顔を上げなかった。地面を見ていた。さっきまで光があった場所が、暗くなっていた。

手を伸ばしかけた。やめた。

母の腕が少し強くなった。

伝播:HERESY 人口:400
与えるものの観察:火を避けた動きと視線を避けた動きが重なった
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第1013話

紀元前294,945年

第二の星

北の稜線を越えた冷気は、岩棚に住む集団の骨に沁みた。

水場の薄い膜は三日で厚くなった。石で叩かないと割れなくなった。子供たちは叩く音を聞いて駆け寄り、割れた破片を拾い、舐めた。冷たかった。放した。また拾った。

同じ頃、東の乾いた台地では別の集団が動いていた。旧人の一団だ。腰が低く、腕が長く、毛が濃い。彼らも水を探していた。凍った水場を見つけ、同じように石で叩いた。割れた。飲んだ。去った。誰もそれを見ていなかった。

南の湿地では、霧が昼過ぎまで晴れなかった。霧の中で鳥が鳴いた。答える声はなかった。湿地の端で小さな集団が火を囲んでいた。五人だった。先月は九人だった。

岩棚の集団では、子供が生まれた。声が大きかった。母親は息を整えた後、横を向いた。起き上がらなかった。

夜、北の稜線でまた氷が鳴った。

大地は傾いていない。冷えているだけだ。均等に冷えている。岩も、水も、生きているものも、死んだものも。

与えるもの

風の向きが変わった夜、火の匂いが薄くなる前に、燃えかすの赤い部分をこの者の目の前で明るくした。

この者は手を伸ばした。触れた。引っ込めた。その手の指先を、しばらく口に含んでいた。

熱さと、次の問いの間に、何かがある。それが何かを、私はまだ渡せていない。しかし燃えかすは、触れた者の指に記憶を残す。次に渡すべきは、触れることと待つことの、違いかもしれない。

その者(11〜16歳)

火の番をする役をもらったのは、この冬からだ。

大人たちは薪を積んで眠る。この者が起きている。炎が小さくなると薪を足す。それだけだ。しかし眠れない。炎を見ているのではなく、炎の向こうを見ている。向こうには何もない。岩棚の端と、その先の暗さがあるだけだ。

燃えかすが落ちた。赤かった。

指が近づいた。熱かった。引っ込めた。

もう一度、近づけた。同じだった。熱かった。

指先が赤くなっていた。この者はそれを他の指で触った。感触が違った。舌で舐めた。味はなかった。においがした。

朝になった。母親が産んだ子の声がしなくなっていた。母親も起き上がらなかった。大人たちが集まり、声を出した。この者は火の側に座ったまま、燃えかすになった薪の形を見ていた。

燃える前と後で、形が違う。

この者はそれをしばらく見ていた。誰かに伝える言葉を持っていなかった。伝えようとしたかどうかも、わからない。ただ見ていた。

夜になった。また火の番をした。

伝播:DISTORTED 人口:414
与えるものの観察:熱さは届いた。次に何を渡すか。
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第1014話

紀元前294,940年

第二の星

北の岩棚では、厚くなった氷が三日かけて形を変えた。

水は氷になっても水だ。この星はそれを知っている。岩棚の集団は知らない。ただ叩く。ただ舐める。子供の舌が赤くなるまで舐める。

東の台地では、乾いた風が止まらなかった。草が根ごと浮いた。軽くなった土が、風に乗って移動した。台地に住む者たちの顔に土が積もり、夜になると落ちた。昼はまた積もった。その繰り返しの中で、ある者が顔を布のように覆うものを求めた。布はまだない。代わりに、幅広の葉を顔に当てた。うまくいかなかった。それでも次の日も試みた。

南の湿地では、旧人の集団が水際に座っていた。何十人もが同じ方を向いていた。水面を見ていた。水面には何もなかった。ただ光が揺れていた。彼らは長い間、そこにいた。何かを待っていたのか、疲れていたのか、この星には区別できない。

岩棚と台地の間の尾根では、二つの集団の痕跡が重なっていた。焚き火の跡が、二つ。一つは古く、一つは新しかった。灰の上に灰が積もっていた。

この星は光を等しく注ぐ。岩棚にも、台地にも、湿地にも、誰もいない尾根の割れ目にも。

与えるもの

その者は今日、集団の中心にいた。

大切にされている。守られている。この者に渡せるものが、今、ある。

尾根の向こうから風が吹いてきた瞬間、その匂いに何かを混ぜた。煙ではない。腐りかけた何かでもない。別の集団の体臭だ。

その者の鼻が動いた。

そのまま深く吸い込んだ。口を少し開けた。そこで止まった。匂いを放した。

渡そうとしたのは「区別」ではない。「注意」だ。あの匂いには意味がある、という感覚だけを。渡した後に残ったのは問いだ——注意を向けさせることと、恐れを植えることは、どこで分かれるのか。次に渡すべきものが、まだ見えない。

その者(16〜21歳)

風が来た。

鼻の奥に何かが引っかかった。土ではない。火でもない。知らないものだった。

知らないのに、足が止まった。

周りの者たちは動いていた。皮を引っ張る者、石を運ぶ者、子供の背中を叩く者。誰も止まっていなかった。

もう一度、吸った。

あった。また、あった。同じ何かが、風の中にいた。

その者は顔を風の方に向けた。目を細めた。尾根が見えた。岩が見えた。動くものは何もなかった。

しばらくそうしていた。

周りの者の一人が、肩に触れた。子供が泣いていた。その者は振り返り、子供のそばに座った。子供の頭を膝に乗せた。

匂いは、まだ薄く残っていた。

その者の手が、子供の頭を撫でながら、少し、尾根の方向で止まった。

伝播:DISTORTED 人口:432
与えるものの観察:匂いを受け取った。何のためかは知らない。
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第1015話

紀元前294,935年

その者(21〜26歳)

皮を剥ぐのはまだうまくいかない。

骨のへりで獣の腹を押すと、中身がにおいを吹いた。その者は顔を背け、また戻り、また押した。隣の女が手を伸ばして刃を奪った。女の手は素早く、皮が音を立てて剥がれた。その者はしゃがんで見ていた。

女が何かを叫んだ。

その者は手を出した。女はまた叫んだ。別の音で、短く、鋭く。その者の手が引っこんだ。

夜、集団の中心で火が燃えた。肉が焦げる匂いが広がった。その者は外側に座っていた。年上の者たちが火に近い場所を占めていた。子供の頃は抱えられてそこにいた。今は違う。

骨を舐めた。まだ汁が残っていた。

隣に座った老いた男が、その者の腕を引いて何か言った。音の連なりは長かった。その者には拾えない部分があった。男は何度か同じ音を繰り返し、やがて黙った。その者は骨を地面に置いた。

朝、集団が動き始めた。

その者は方向が分からなかった。皆が向かう側に体を向けたが、後ろを振り返った。昨夜の骨が転がっていた。鳥が一羽、骨のそばに降りた。また飛んだ。

集団は行ってしまった。

その者はまだそこにいた。

老いた男が戻ってきた。腕を掴んで引いた。その者は引かれながら、それでも首だけを後ろに向けた。鳥はいなくなっていた。骨だけが残っていた。

その者は歩いた。

五年が経つ間に、その者の体は大きくなった。だが集団の中での場所は大きくならなかった。幼い頃に皆が向けていた目が、今は別の子供に向いていた。食料の分配でも、火の近くでも、その者の順番は後ろに移っていた。

集団の外の集団との境目で、一度だけ石が飛んできた。その者の近くに落ちた。誰も何も言わなかった。

ある日、その者は集団の端で何か拾った。白い骨の破片だった。舐めた。味はなかった。捨てた。また拾った。

老いた男が死んだのはその年の終わりだった。動かなくなった体を、若い者たちが引きずって茂みの向こうに運んだ。その者も引きずった。男の足を持った。重かった。

それだけだった。

夜が来た。その者は火から遠い場所に座った。前と同じだった。だが前とは違う何かがあった。老いた男がいた場所が、空いていた。その者はそこを見た。見続けた。やがて別の者がそこに座った。

その者は目をそらした。

第二の星

いくつかの集団が、大地のある一角に寄り合って生きている。

この五年で水場が一つ消えた。乾いた窪みだけが残り、誰もそこに近づかなくなった。代わりに、別の方角の岩の割れ目から細い水が出るようになった。最初にそこを見つけたのは子供だったが、その子供は翌年に熱で動かなくなった。水場の記憶だけが残った。

集団の境目は目に見えない。しかし体は知っている。足が止まる場所がある。声の調子が変わる場所がある。石が飛んでくる場所がある。

この五年で、集団の内側でも何かが変わった。幼い者が食べるものを先に受け取るようになった集団がある。力の強い者が先に受け取るようになった集団もある。どちらが生き残るかを、この星は知らない。ただ照らしている。

旧人の集団が岩稜を越えて南に来た。三度来て、三度戻った。四度目は来なかった。何があったかは分からない。岩稜の向こうは、この季節、風が強い。

大地の草は去年より短い。

与えるもの

骨の破片を拾った時、その者の指に冷たさが走った。

拾った。捨てた。また拾った。

それでいい、と思った。いつかは渡せる、とは思わなかった。ただ、また拾ったことが——何かに似ていた。似ているが、何に似ているかが出てこない。次に渡すものを、探している。

伝播:HERESY 人口:427
与えるものの観察:また拾った手が、問いの始まりだ。
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第1016話

紀元前294,930年

その者

朝、集団の端で、その者は立っていた。

足の裏に湿った土。草の根元に霜が残っていた。季節の変わり目だった。空は白く、どこまでも平らだった。

その者の手は、前の日に切れていた。石を割ろうとして、刃が滑った。布のように薄い傷ではなかった。指の付け根から、くっきりと。

女が傷を獣の脂で塞いだ。その者は動かなかった。動くと開いた。

集団の外から、別の集団が来た日、その者はまだ手を庇いながら座っていた。

外から来た者たちの目は、内の者たちの目と似ていた。同じ形の顔。同じ奥行きの沈黙。だが立ち方が違った。重心が前にあった。

言葉はなかった。しかし意味はあった。

食料の置き場所を知っている者が消えると、集団は動揺する。その者がどこへ誘導したか、誰が見ていたか、誰が覚えていたか。それが問題だった。

夜、その者は火の向こう側に座っていた。

炎の芯が白く、外が橙で、煙が上に吸われていった。その者はそれを見ていた。特に何も考えていなかった。手の傷がずきりとした。また開いていた。

誰かが背後に立った。

その者は振り向かなかった。

岩は一度だけ動いた。

その者は前に倒れた。火の中には入らなかった。すぐ手前で止まった。顔が土に向いていた。煙が流れた。

誰も声を上げなかった。

炎だけが変わらず燃え続けた。

第二の星

同じ夜、北の平原では、ひとつの群れが川を越えていた。水は膝まであった。子どもを肩に乗せた者が、転ばずに渡った。誰も見ていなかった。渡り終えた者は振り返らなかった。川は音を立てていた。

与えるもの

石は転がった。どこかで止まった。

別の手が、いつかそれを拾うかもしれない。拾わないかもしれない。

その者が置いたものは、その者のものではなくなった。それだけが、残った。

伝播:HERESY 人口:421
与えるものの観察:置いたものは、置いた者のものではなくなる。
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第1017話

紀元前294,925年

第二の星

岩盤が露出した台地の縁に、集団が張りついている。風は北から来る。乾いていて、骨に沁みる。

南の斜面では別の集団が動いていた。背が低く、眉骨が厚い。彼らは礫を積んで風を避ける。火は持たない。夜になると体を寄せ合って丘の窪みに潜る。彼らの匂いは獣脂と土と汗が混じったもので、風上に立てばわかる。

台地の上の集団とは、三度出会っていた。最初は水場で。次は岩陰で。どちらも距離を保った。声を上げる者はなく、目を合わせたまま、静かに退いた。

しかし今この季節、水場が凍りかけている。どちらも同じ流れに向かう。

東の低地では、別の集団が半分になっていた。何が起きたかは風だけが知っている。残った者たちは歩いていた。止まらなかった。止まれない者の歩き方で。

霜が深くなっている。日が短い。地面は硬く、根を掘る道具が弾かれる。台地の上では、子どもたちが火のそばに集まる。その中心に、その者がいる。

与えるもの

糸が繋がった。

獣の脂が燃えるとき、煙の向きが変わった。風ではなく、内側から変わった。その者の鼻が動いた。

その者は子どもを抱えたまま、顔を火に近づけた。煙を吸い込んだ。それだけだった。

脂と骨と焦げた毛の匂い。その奥に別の何かがある。どこかで嗅いだことのある匂いではなく、まだ嗅いだことのない匂いの前触れ。

その者はそれを追わなかった。子どもが泣いたから。

渡したものが何だったのか、まだわからない。次に渡すべきものが変わるかもしれない。匂いではなく、もっと動かせないものを。

その者(31歳前後)

夜明け前から火は燃えていた。

その者は眠っていない。子どもが一人、熱を持っていた。額に手を当てると、皮膚が固く張っていた。呼吸は浅く、速い。その者は子どもの背中を手のひらで覆った。動かさなかった。

火に脂の塊を投げ込んだ。炎が白くなった。煙が変わった。

そのとき、鼻の奥に何かが届いた。焦げた匂いの向こうに、別のものがあった。形のない、ただの感覚。その者は目を細めた。子どもを見た。子どもは泣いた。その者は視線を火に戻した。

夜が明けた。

子どもの熱は引いていなかった。その者は水を口に含み、子どもの唇に少し渡した。子どもは飲んだ。飲んで、また眠った。

集団の端で、声が上がった。遠い声で、怒りではなく警戒の声だった。その者は立ち上がった。子どもを横に寝かせ、火と子どもの間に自分の体を置いた。

声は止んだ。

また座った。火を見た。炭が崩れた。新しい枝を差し込んだ。

昼になっても、子どもは目を覚まさなかった。その者は手を離さなかった。

伝播:NOISE 人口:429
与えるものの観察:匂いは届いた。子どもが泣いた。
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第1018話

紀元前294,920年

第二の星

台地の端に風が当たる。

北から来るそれは、乾いていて、草を倒し、小石を転がす。岩盤の亀裂に入り込み、そこに溜まった砂を吹き上げる。砂は光の中で弧を描いて、消える。

南の斜面では、昨日まで動いていた影が今日は見えない。彼らは谷の方へ降りたのか、それとも別の理由で姿を消したのか、この星は知らない。知ろうとしない。ただ、砂が転がった方向に、彼らの足跡の残滓が混じっている。

台地の上の集団は火を囲んでいる。子どもが三人、火の近くで眠っている。大人の何人かは眠れずにいる。目が東と南を交互に向く。

遠くでは、海に面した低地で、潮が引いた砂浜に貝が並んでいる。誰もいない。風が貝の殻を動かす。かすかな音がして、止む。

別の場所では、広葉樹の森の縁で雨が降り始めた。土が濡れる臭いが広がる。獣の足跡が泥に沈んでいく。それを見ている者は、まだそこには来ていない。

台地の上では、火が燃えている。

与えるもの

火の縁で、熾火のひとつが、他より強く白く光った。

一瞬だけ。それだけのことだ。

その者はそれを見た。見て、目を細めた。

渡そうとしたのは、光の差異だった。明るいものと暗いものがある。均一ではない。中心がある。そこに触れれば燃える。そこを避ければ、もっと長く、火はもつ。

その者は熾火の白い部分に近い枝を引いた。そしてそれを、火の外側へ置いた。

正しかった。あるいは偶然だった。

どちらであっても、火は少し長く燃えた。

この問いを、ずっと持ち続けている。渡したから動いたのか。動いたから渡せたように見えたのか。問いは次を生む。次に渡すべきは、白い部分の意味ではなく、外側に置く判断の、その速さかもしれない。

その者(31〜36歳)

夜が長くなっている。

この者は感じている。長くなっている、という語を持たない。ただ、火を補充する回数が増えた。眠るまでの時間が、以前より遠い。

子どもが三人、毛皮を被って丸まっている。一番小さな子が、咳をした。止まった。また咳をした。

この者は立ち上がらなかった。立ち上がれなかったのではない。聞いた。咳の後に続く呼吸の音を聞いた。規則的だった。だから座ったままでいた。

火を見た。

熾火の中に、白く光るところがあった。他より明るい。他より熱い。風が当たると、そこから先に崩れる。

枝を一本、引いた。白い部分に近い側を持っていた。熱が指に来た。それを火の外側へ、灰の上に置いた。

理由を持っていなかった。体が先に動いた。

火は燃えた。

南の方向から、音がした。大きくはない。枯れ枝が折れるような、何かが地面を踏むような音。この者の背中が硬くなった。首が動かなくなった。

音は止んだ。

この者は、南の暗闇をしばらく見ていた。何も来なかった。それでも、膝を少し曲げたまま、座っていた。

咳をした子が、また咳をした。今度は少し長く続いた後、静かになった。

この者は膝を伸ばした。

火を見た。熾火の白い部分が、また少し光った。

この者の口が、小さく開いた。何か言おうとした。しかし語が出てこなかった。出てこないまま、口が閉じた。

枝を一本、また引いた。

伝播:NOISE 人口:442
与えるものの観察:白い熾火を引いた。偶然か意図か、まだわからない。
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第1019話

紀元前294,915年

第二の星

台地の南端、大きな岩が崩れた跡がある。春の雨が亀裂に入り込み、凍り、また溶けた。それが繰り返されて、去年の秋に岩の一面が剥がれた。今は白い断面が空に向いている。

その岩の北東、半日歩いた先に、旧人の集団がいる。数は少ない。十数人。彼らは崖の下のくぼみに入り、雨をやり過ごす。火は使わない。体を寄せ合う。毛皮を持たない。皮膚は厚い。

台地の西側、川が細くなった。岸の泥に、歩いた跡が重なっている。獣の跡と、二足で歩く者の跡が、同じ水場に向かっている。どちらが先に来たか、泥は記録しない。

南の低地では、小さな集団が三つに分かれた。一つは川沿いに移動した。一つはその場に残った。一つは行方がわからない。

火の番をする者がいる場所では、風が向きを変えた。東から来るようになった。湿っている。草が揺れる方向が、三日前と違う。煙が、今日は北へ流れない。内側に引き込まれるように、低く漂う。

子どもたちの声が、岩の間に響く。

与えるもの

煙の流れが変わった瞬間、その者の目の前で炎がわずかに揺れた。

湿った木から出る灰色の煙が、その者の顔に向かって折れ曲がった。目に沁みた。涙が出た。

その者はそこから退いた。それだけだった。

———

退いた。届いたのかどうかわからない。しかしその者は、三日前も、先月も、退かなかった。今日だけ退いた。

何が変わったのか。

煙ではない。煙はいつも目に沁みる。しかし退かなかった。今日は退いた。

次に渡すべきものがある。退いた者は、戻る場所を探す。戻る場所が変わるかもしれない。

その者(36〜41歳)

煙が顔に来た。

目が痛くなった。涙が出た。後ろに一歩、退いた。

それだけのことだった。しかしその一歩の間に、集団の中の誰かがこちらを見ていた。

その視線に気づいた。

炎の番をする者が場所を退く。それを見ていた者がいる。その者はただ見ていただけではなかった。顎を少し動かした。隣の者に向けて。

その者は炎に戻った。煙の来ない角度に体を置いた。湿った木を脇に置いた。乾いた枝を足した。

子どもが一人、近くで寝ていた。熱を出していた。三日目だった。

小さな腹が上下していた。速い。

その者は子どもの額に手を当てた。熱かった。手を引かなかった。そのまま当てていた。

火の側に子どもを引き寄せた。毛皮の端で体を包んだ。

外では風が続いていた。

夜、また誰かが見ていた。木の陰から。

その者は振り返らなかった。火を見ていた。炎が低くなれば枝を足した。高くなれば手を引いた。

そういうことをずっとやってきた。

朝が来た。子どもの腹はまだ動いていた。

その者は外に出た。東の空が白くなっていた。地面が濡れていた。夜に雨が降ったらしかった。気づかなかった。

足の裏に冷たい泥が触れた。

その者はしばらくそこに立っていた。

伝播:HERESY 人口:433
与えるものの観察:退いた。戻った。次は戻る場所が変わるか。
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第1020話

紀元前294,910年

その者(41〜46歳)

朝、火が小さくなっていた。

その者は腹這いで近づいた。口を近づけて、ゆっくり息を吐いた。灰の中から赤が滲んだ。もう一度。また一度。炎が立ち上がるまで、その者は顔を上げなかった。

子どもたちが動き始める前に、火は戻った。

岩の陰で丸まっていた子が一人、目を開けてその者を見た。その者は手を動かした。来い、という動きではない。ただ火の方を向かせる動きだった。子は起き上がり、火のそばに来て、膝を抱えて座った。

朝が来るたびに同じことをする。

群れの何人かが北東の方角へ出かけた。旧人の集団を見に行くのだ。昨日も行き、戻ってきて、声を上げ、手を大きく振った。何かを見た、という動きだった。何を見たのか、その者には伝わらなかった。

その者は火のそばを離れなかった。

陽が高くなる頃、出かけた者たちが戻ってきた。一人が傷を負っていた。腕の皮が裂けていた。石でやられたのか、歯でやられたのか、その者にはわからなかった。傷を持つ者は地面に座り、傷口を手で押さえていた。血が指の間から滲んだ。

誰かが脂を持ってきた。

その者は火の番をしながら見ていた。傷口に脂が押し込まれ、傷を持つ者が声を出した。痛みの声だった。子どもたちが少し遠ざかった。

その者は手を動かした。子どもたちに、火の方を向かせる動きをした。

午後、旧人の集団から何人かがこちらの方角に近づいてきたという動きを、誰かが手で示した。その者は立ち上がった。火のそばに木の棒を立てた。燃えている端を上にして、地面に差した。

なぜそうしたのか、その者にはわからなかった。

ただ、火が見える方がいいと思った。遠くからでも、ここに何かがあるとわかる方がいいと思った。

旧人の集団は来なかった。

夕方、その者は棒を抜いて火に戻した。炎が少し高くなった。子どもたちが集まってきた。その者は座って、火を見た。煙が北へ流れた。また北へ。風が南から来ていた。

第二の星

台地の南端に白い岩肌がある。去年の秋に剥がれた面だ。今も雨が亀裂に入り込む。次の冬にまた凍る。

北東に旧人の集団がいる。越冬した者たちが生き延び、春に子が生まれた。以前より子どもが増えた。女が一人死んだが、その子は生きている。群れの中で乳をもらいながら育っている。老いた者が何人かいて、動きは遅いが若い者に守られている。

同種の集団が、互いを見ている。

どちらも火を持つ。どちらも傷を脂で塞ぐ。どちらも子どもを守る。しかし声の作り方が違う。手の動かし方が違う。それだけの違いが、腕を裂くことに繋がった。

台地の上、煙が南風に押されて北へ流れる。

旧人の集団にもその煙は届く。匂いが届く。火の匂い。脂の匂い。人の匂い。彼らは止まって、鼻を上げる。風の中に何かを嗅ぐ。来ない。

火を見える場所に立てた棒は、今は燃え尽きて灰になった。

夜、台地の上に二つの火がある。半日の距離。どちらも小さく、どちらも揺れている。どちらも同じように闇の中で赤い。

与えるもの

煙が北へ流れた。

その匂いが届くかもしれないと思った。旧人の鼻に、火の匂いが入るかもしれないと。

その者は棒を立てた。火を高くした。なぜそうしたかは知らないまま。

それで十分かどうかは、わからない。ただ、次に渡すべきものがある。火は見せた。匂いは届いた。ならば今度は、音かもしれない。

伝播:NOISE 人口:442
与えるものの観察:棒に火を乗せた。なぜかは知らないまま。
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第1021話

紀元前294,905年

その者(46〜51歳)

冬が長かった。

その者は火のそばを離れなかった。昼も夜も、燃えているかどうかを確かめた。眠りながらでも、炎が揺れると目が開いた。それはもう体の中に刻まれていた。火が弱まると肌が知る。火が強すぎると喉が乾く。長い年月をかけて、その者の体は火と話すようになっていた。

子どもたちが周りにいた。小さな者が足元に座り、その者の膝に頭をもたせかけて眠った。その者は動かなかった。火も子も、どちらも守るためにはじっとしているのが一番だった。

集団の中で、何かが変わり始めていた。

若い男たちがその者のそばに来なくなった。目が合っても逸らした。火の周りで声が止まることがあった。その者はそれを知っていたが、何も変えなかった。火の番をやめることは、子どもたちを死なせることだった。

ある夜、誰かが石を投げた。

その者の背中に当たった。振り返ると、暗がりに人の輪郭があった。声も出さずに離れていった。その者は石を拾った。手の中で転がした。それから火に向けて置いた。

三日後、その者は火のそばに座ったまま、起き上がれなくなった。

体が重かった。息が浅くなった。それでも目は開いていた。子どもが一人、水を含ませた草をその者の口元に押し当てた。その者の手がその子の手に触れた。ただそれだけだった。

夜、炎が静かに燃えていた。

その者の体が、横に傾いた。子どもが気づいて声を上げた。他の者たちが来た。しかし誰も何もしなかった。ただ立っていた。火だけが同じように燃え続けた。

その者は火の光の中で、力を使い果たした。

第二の星

草原の縁では、旧人の一団が水場を離れていた。乾いた風が南から吹き、草が一方向に倒れた。稜線の向こうで、雷が鳴らずに光だけ走った。誰もそれを見ていなかった。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:428
与えるものの観察:渡せなかったものが、また積み重なる。
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第1022話

紀元前294,900年

第二の星

北の岩盤は重たい。氷が割れた隙間に、水が入り込んで、また凍る。石が砕ける音は夜の底で鳴る。

始まりの大地では、二つの集団がひとつの水場をめぐって向き合っていた。どちらも腹を空かせていた。冬が伸び、獣は移動し、木の実はまだ出ていなかった。声が荒れた。石が飛んだ。倒れた者が二人、膝をついた者が三人。その夜、集団のひとつは水場から離れた方向へ火を起こした。もうひとつは岩陰に押し込まれるように眠った。

遠く、乾いた大地の端では、一頭の大型の草食獣が群れから外れて歩いていた。足を引きずっていた。追う者はいなかった。ただ歩いて、砂の中に沈んでいった。

ここには何もないのではない。ただ、起きていることが、起きている。

与えるもの

糸が繋がった。

まだ細い。引けば切れる。

水場の争いの後、集団は散らばった。この者も走った。転んだ。膝が割れた。

この者の膝の傷に、風が吹いた——傷口から遠い方向に向かって。草のある場所から来る風だった。その草の匂いが、傷に触れた指の先よりも先に届いた。

草の葉を傷に押し当てた者がいる。以前にも、この集団の中で。この者はそれを見たことがあるかもしれない。見ていないかもしれない。

押し当てたとして、草が傷に何をするのか、この者にはわからない。わかる必要もない。ただ、風がその方向から来た。

受け取るかどうかは、この者が決める。

次に渡すべきものを、もう探している。

その者(6〜11歳)

転んだ。

膝を見た。赤かった。砂が食い込んでいた。泣かなかった——声を出す気力がなかった。

走ることで胸が上下していた。集団の大人たちはまだ声を上げていた。石が飛ぶ音は聞こえなかった。もう遠い。

立ち上がった。膝が滲んだ。歩いた。

風が来た。

顔を上げた。風の来る方向に草が揺れていた。背の低い、平たい葉の草だった。何度も見たことのある草。食べると苦かった。食べるものではない、と誰かが言った——言葉ではなく、顔で言った。

近づいた。手で触れた。

膝に当ててみた。

冷たかった。それだけだった。

でも、止めなかった。押し当てたまま、しゃがんでいた。

空が白くなって、また黄色くなった。集団の声が戻ってきた。立ち上がった。草を持ったまま、歩いた。しばらくして、草を落とした。落としたことに気づかなかった。

膝はまだ滲んでいた。でも、もう触らなかった。

伝播:DISTORTED 人口:444
与えるものの観察:風で草に気づいた。押し当てた。落とした。
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第1023話

紀元前294,895年

第二の星

雨が来た。

最初は南の稜線の向こうで、空の色が変わった。黄ばんでいた地面の草が、三日で膝の高さまで伸びた。水場が広がり、干上がりかけていた窪みに水が戻り、泥の端に獣の足跡が重なり合い始めた。

雨期が長かった。

一年で終わらなかった。翌年も、その翌年も、雨は季節の前に来て、季節が終わっても降り続けた。木の実が腐るほど実った。地衣類が岩肌を覆い、根を張る植物が砂地に広がり、小さな獣が増え、大きな獣がそれを追って移動してきた。始まりの大地は満ちていた。

集団が大きくなった。

子が育った。前の世代より多くの子が、前の世代より長く生きた。母親の腕の中で力を抜いていた小さな体の数が、以前より少なかった。老いた者が次の冬まで生きた。新しい顔が集団の端に増えた。

しかし満ちることは別の問いを運んだ。

以前は水場をめぐって向き合うだけでよかった。どちらかが退けば終わった。飢えていれば争う理由が明確だった。今は違う。水場には両方の集団が来た。獣は十分いた。草の実は両方の手に余るほどあった。それでも二つの集団は距離を縮めなかった。縮めるほど、縄張りの輪郭が鋭くなった。

豊かさが境界を作った。

守るものが増えると、守る行為が意味を持つ。誰が最初にこの木の下に来たか。誰がこの水場の岸に足跡を残したか。古い者は覚えていた。若い者は古い者の声の調子で学んだ。境界は言葉ではなかった。体の向き、足の置き方、目の合わせ方。それで十分だった。

ある時、この集団の若い者が水場の向こう岸に渡った。

理由は単純だった。向こうに実の落ちた木があった。こちら側にはなかった。

渡った。拾った。帰ろうとした。

向こうの集団の者が三人、立っていた。声を上げた声ではなく、喉の奥から出る低い音だった。若い者は実を手に持ったまま、動かなかった。

誰も石を投げなかった。誰も近づかなかった。

しかしその日から、両集団の間の距離が変わった。同じ水場に来る時間が少しずれた。目が合っても逸らすのが早くなった。

知っている者がいた。

この集団の中に一人、その日の出来事を細部まで覚えている者がいた。若い者の体がどう固まったか。三人の立ち方。声の低さ。誰にも話さなかった。話す言葉を持っていなかった。しかし体の中に、それが残った。

その者だった。

与えるもの

水面が揺れた。

波紋の中心ではなく、端の端、消えかけたところを。

その者がそこを見た。水面の下に、別の集団の者の足が映っていた。揺れて、崩れて、また形を取り戻した。

その者は足を止めた。水に映る像を見ていた。

見た。それだけだったかもしれない。

しかし与えるものは問う。映った像と本物が違うことを、この者は感じたか。違うと気づくことと、違うと知ることの間には、渡れない距離がある。渡せるものを、次に選ばなければならない。

その者(11〜16歳)

水場の端に座って、水を掬った。飲んだ。また掬おうとして、止まった。

水の中に、向こう岸の者の足が映っていた。揺れた。本物の足は動いていなかった。

口に入れかけた水を、飲み込んだ。

立ち上がろうとして、立ち上がらなかった。水面を、もう一度だけ見た。

伝播:HERESY 人口:548
与えるものの観察:映ったものと本物。この者は止まった。
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第1024話

紀元前294,890年

第二の星

乾期の切れ目。

南の高地では雪解け水が岩盤を削り、新しい流れが二本の尾根の間に刻まれ始めた。その水は三つの異なる集団の縄張りの境を越えて流れた。誰も水の道を引いたのではない。水が勝手に選んだ。

平地に暮らす一団は移動を遅らせた。雨が続いたせいで、腐った実の蓄えが増え、子の死が減り、集団の端にいた老いた者が一冬を越した。余裕は争いを鈍らせた。しかし鈍らせただけで、消したのではなかった。

北の森縁では、二つの集団が同じ水場に集まる季節が来た。昨年は距離を取った。今年も同じ距離を取った。しかし今年の集団は昨年より大きく、距離の意味が変わっていた。

遠く西では、旧人の一族が海岸沿いを歩いていた。干潟の貝を食い、波の引いた砂に跡を残した。波がすぐ消した。

東の谷間では子が産まれ、母は三日で立ち上がり、七日目に荷物を背負った。

星はそのすべてを照らす。区別しない。豊かさと緊張が、同じ季節の中に並んでいた。

与えるもの

この者の首筋に、風が当たった。

集団の中心から少し外れた場所、二人の男が声を荒げていた方角から吹いてきた風だった。特定の匂いがあった。汗と、何か焦げたような、怒りに似た体温の匂い。

この者はその風の出所に顔を向けた。

向けて、戻した。

戻したまま、歩いた。

次に渡すものはもう決まっていた。ただし今ではない。今この者は集団の端に向かっている。端の方が、風が素直に吹く。端の方が、何かが先に届く。この者が端に向かう癖を持ったのはいつからだったか。それがいつからかは、もうどうでもいいことだった。

その者(16〜21歳)

集団が動いていた。

荷物は重かった。毛皮を束ねたもの、骨の束、子供が使う皮の袋。この者の背に載る分は誰かが決めた。この者は決めなかった。決める立場にいなかった。

荷物を背負って列の後ろを歩く。前の者の踵を見る。踵が止まれば止まる。踵が進めば進む。

途中、前の列が乱れた。

声が上がった。男の声が二つ、重なった。言葉ではなかった。圧力のある音だった。この者には何の話かわからなかった。しかし何かが決まりつつあるということはわかった。声の圧力でわかった。

首筋に風が来た。

男たちの方から来た。

この者は顔を向けた。二人の男が互いに向き合っていた。片方の手に何かを握っていた。握ったまま、放さなかった。もう片方の男の顔は赤かった。

この者は顔を戻した。

踵が動いた。歩いた。

夕方、火のそばで座った時、食い物を受け取った。渡してきた手は老いた女のものだった。いつも余りを回してくる女だった。この者はそれを食った。味はなかった。噛んでいるうちに少し味が出た。

火が揺れた。

男の声のことを思った。声ではなく、あの時首筋に来た風のことを思った。

手のひらを開いて、膝の上に置いた。

何も乗っていなかった。

指を折り曲げた。また開いた。

火の反対側に、昼間声を荒げた男たちがいた。今は並んで座っていた。何もなかったかのように。

この者は手を見た。

閉じた。開いた。

何もなかった。何もないのに、この者の手は動き続けた。

夜が来た。火が低くなった。眠りに落ちる直前、この者はもう一度手を開いた。暗くて何も見えなかった。それでも開いた。

伝播:HERESY 人口:533
与えるものの観察:風を感じた。戻した。しかし手が動いた。
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第1025話

紀元前294,885年

第二の星とその者(21〜26歳)

雪解け水が刻んだ二本の流れは、乾いた季節をいくつか越えて、ようやく岩盤の底に落ち着いた。上流の礫が少しずつ削られ、流れの縁に砂地が生まれた。そこに葦が根を張り、葦の根に虫が集まり、虫を食う鳥が来た。水は止まらなかった。

その者は二十一歳になっていた。荷物を運ぶ。皮を束ねて背に負い、年上の者たちの後ろを歩く。それが日々だった。膝の裏側にいつも擦り傷があった。荷の紐が食い込んで赤くなった跡が、治ると同じ場所にまた戻ってきた。

三つの集団が新しい水の縁に近づいた。誰かが先に来ていた。誰かが後から来た。最初に来た者が石を投げるのではなく、ただ立っていた。後から来た者も、石は持ったまま投げなかった。水が流れる音だけがその間にあった。

その者は荷を下ろして、川底の砂を掌に取った。細かかった。指の間から落ちた。また掬った。また落ちた。それを何度か繰り返した。特に何かを考えていたわけではない。砂が落ちる感触がただあった。

集団の年長の者が二人、声を上げた。張り合うような声だった。しかし、その声は届く前に途中で下がった。水の縁は広かった。全員が飲める量があった。それは声で決まったのではなく、水の量で決まった。

その者はそのとき川の反対側に、旧人の影を見た。二人か三人、葦の陰に立っていた。動かなかった。その者も動かなかった。荷の紐をまだ手に持ったまま、向こうを見ていた。向こうもこちらを見ていた。しばらくして旧人たちは葦の奥へ消えた。

こんなことは初めてではなかった。しかしその者には、今日の旧人の目の動きが、昨日の記憶とは少し違うように感じられた。何が違うのかは言えなかった。言葉がなかった。ただ、腹のあたりに何か残った。

翌年、川の砂地に足跡の痕跡が混ざるようになった。四本指のものと五本指のもの。雨が降れば消えた。次の日にはまた新しい足跡が砂に押されていた。どちらの集団も、足跡に触れなかった。

その者は二十四歳になっていた。荷物は以前より重くなっていた。集団が大きくなり、持ち歩くものが増えた。その者の肩は丸くなり始めていた。夜、火の近くで横になると、肩の奥が鈍く痛んだ。押さえると少し楽になった。誰かに言うことはしなかった。

夏の盛りに、川の上流で岩が崩れた。音が遠くまで届いた。流れは二日ほど泥色になった。泥が沈んだあとに、川底から新しい石が顔を出した。硬い石だった。誰かがそれを割った。割れた断面は黒く光っていた。その者もその石を持ち上げてみた。重かった。角があった。

川底に温度が変わる場所があった。深みの手前、水が速くなるあたり、水面が一瞬別の光り方をした。その者の足がそこで止まった。

水面を見た。

しばらくして、荷を担いで歩き出した。

それがすべてだったかもしれない。それで十分だったかもしれない。この者がその光の意味を誰かに渡すことはなかった。ただ、あの川底の光が何かであると、体のどこかに刻まれた。何か、とは言えない。言葉がなかった。だが刻まれた。

与えるもの

水面が光った場所に、影の変わり目があった。

その者は足を止めた。そこに立った。しかし次の歩みには使わなかった。

手を開いた瞬間があった。何もなかった。また開いた。

渡したのか。受け取られたのか。問いはまだある。次に渡すべきものが、もう浮かんでいる。

伝播:SILENCE 人口:540
与えるものの観察:足が止まった。それだけで十分か、まだわからない。
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第1026話

紀元前294,880年

その者

荷が重かった。

岩の角が肩の骨に食い込み、その者は唸り声をあげながら斜面を登った。乾いた草が足元で折れた。後ろから誰かが何かを叫んだが、振り返らなかった。

集団が北へ動いていた。

数十人が連なって丘を越え、荷を分け合い、子どもたちが老いた者の手を引いた。その者はその列の端にいた。最年少に近い位置。命令する者ではなく、命令される者。岩を運び、皮の束を担ぎ、火を入れた器を転ばさないように両手で抱えた。

汗が目に入った。まばたきした。また汗が入った。

丘の頂で立ち止まった。

下に谷が広がっていた。水が見えた。前回来たときより川幅が広かった。葦が岸まで迫り、そこに鳥の群れが降りていた。羽音が塊になって空を横切った。

その者の腹が鳴った。

老いた者のひとりが追いついてきて、肩をたたいた。行け、という意味の声を出した。その者は荷を担ぎ直して斜面を降り始めた。

川辺に着くまでに、ひとりが転んで膝を切った。子どもだった。泣き声が上がり、母親が走った。その者は足を止めずに歩いた。子どもの泣き声はこの集団では珍しくない。生まれてくる者も多く、死ぬ者も多い。泣き声は一日に何度も聞こえる。

野営地が決まった。

葦の陰に風を避けられる窪地があった。年長の者たちが話し合い、指差し、声を上げ合い、最終的に老いた女がそこと決めた。その者は言われる前に荷を置いた。腰が伸びた瞬間に、痛みが走った。

火を熾す作業が始まった。

その者は担当ではなかったが、近くに座って見ていた。石と石がぶつかる音。乾いた葦に落ちた火花が消えた。また音。また消えた。三度目に煙が上がった。その者は息をひそめた。火が育つ瞬間を見るのが好きだった。炎が葦を食い始めると、その者は自分の手のひらを開いて熱を受けた。

夜、誰かが来た。

別の集まりからだった。男がふたり、女がひとり。顔に傷があった。手を開いて近づいてきた。敵意のない身振り。老いた女がそれを受け、声で何か伝え合った。その者には意味が全部はわからなかった。しかし声の調子でわかることがあった。

揉めている。

その者は火の反対側へ移った。荷の陰に座り込み、膝を抱えた。見えないふりをしながら見ていた。身振りが大きくなった。声が上がった。男のひとりが地面を踏んだ。

怒っている。

老いた女が両手を上げた。制止の動き。男たちは止まった。沈黙があった。それから女のひとりが、懐から何かを取り出して地面に置いた。骨だった。大きな獣の骨。それが差し出されると、空気が変わった。

その夜は何も起きなかった。

しかし翌日、状況が変わった。

別の集まりの者たちが戻ってきた。今度は声を上げながら。石を持っていた。その者は荷物の整理をしていた手を止めた。

老いた女が前に出た。声が飛んだ。しかし石が来た。

女の肩に当たった。女は倒れなかったが、声が止まった。集団の中から男たちが出てきた。押し合いになった。その者は後ろへ下がった。子どもを引っ張って、葦の中に押し込んだ。

どのくらいの時間が経ったかわからない。

叫び声が上がった。それから静かになった。

葦の中から出てきたとき、地面に二人が伏していた。別の集まりの者たちはいなくなっていた。自分の集団の者が、一人だった。若い男。腹を押さえていた。手の下から何かが染み出ていた。その者はそこに近づいた。

何もできなかった。

その男は日が傾く前に動かなくなった。手が腹から離れて、地面にべたりと落ちた。目は開いたままだった。

その夜、その者は火から離れた場所に座った。

集団の者たちが何かを話し合っていた。声が続いていた。その者には加わる言葉がなかった。何が起きたかはわかった。なぜ起きたかがわからなかった。

骨を置いたのに。

手を開いて来たのに。

その者は地面に指を押し当てた。土が固かった。少し掘ると柔らかくなった。また掘った。指の先に小石が当たった。取り出して手のひらに置いた。眺めた。投げなかった。

また置いた。

四年後、その者は三十一歳になっていた。

あの夜のことを、誰も声にしなくなっていた。動かなくなった若い男の名前も、もう呼ばれなかった。集団は動き、季節を越え、新しい子が生まれ、また誰かが消えた。その者は引き続き荷を担ぎ、火を見守り、年長の者の言葉を聞いた。

しかし何かが変わっていた。

その者は争いの前に動くようになっていた。声が上がる前に子どもを引っ張った。石が飛ぶ前に位置を変えた。何かを感じ取っていた。

誰かが気づいていた。

年長の男が、その者のことを目で追うようになった。理由を問う声ではなく、別の声調で。警戒の調子。

その者はそれに気づいた。

気づいたことを、顔に出さなかった。

ある夜、水を汲みに行ったまま戻らなかった者がいた。翌朝探したが見つからなかった。老いた女が短い声を出した。それだけだった。集団は動いた。

その者も動いた。荷を担いで、列の端を歩いた。

草が乾いていた。空が白かった。

第二の星

この大地の南では雨季が戻り、草原が広がった。獣の群れが地平線を動き、その後を肉食の者たちが追った。草が根を張り直し、水が溜まり、虫が戻ってきた。北では乾燥が続き、岩が割れ、川底が見えた。

一つの集まりが分かれた。

豊かな季節が続けば、人は集まる。集まれば、奪い合う者が出る。奪えば、誰かが去る。この連鎖はこの星のどこでも起きていた。砂漠の縁でも、森の深部でも、岸辺でも。集まった者たちが限界に達する前に必ず亀裂が入り、そこから何かが漏れ出した。

人が増えていた。この大地の上の者たちは、春を越えるたびに少しずつ多くなった。しかし半数近くは幼いうちに死に、一度の争いや一度の季節の崩れで、集団の形が変わった。増えることと失うことが同時に起きていた。

骨が地面に残った。名前のない者として。

水は変わらず流れ、鳥は変わらず来た。草が生え、枯れ、また生えた。この星はそれを照らし続けた。

与えるもの

獣の匂いが風に乗ってきた夜があった。

その者の鼻がわずかに動いた。集団が眠っている時刻だった。匂いは獣のものだったが、その夜その方向に獣はいなかった。別の何かがその者の注意を引いた。

その者は起き上がり、火の様子を確認し、また横になった。

受け取ったわけではない。しかし無視もしなかった。

今回が初めてではない。渡した。また消えた。しかし毎回、その者の体は少しだけ反応した。そのことが問いになった。届かないのに、なぜ反応するのか。それとも届いているが、届いていると自分が知らないのか。

次に渡すなら、水だと思った。水の匂いではなく、水の音だ。

伝播:HERESY 人口:521
与えるものの観察:匂いを渡した。鼻が動いた。それだけ。
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第1027話

紀元前294,875年

第二の星

北の縁で、地面が割れた。

音ではなく揺れだった。足の裏から来る、細かく連続する震動。岩盤が動く感触は、荷を持つ手よりも先に、足裏の皮膚が知った。草が根ごと揺れた。水を湛えた低地の溜まりが、縁から溢れて広がった。

揺れは止んだ。

空が変わっていた。南から吹いていた風が、揺れの後しばらく、どこへも向かわなくなった。木々の葉が垂れ、鳥が声を出さなかった。獣の足跡が泥に残っていた。どれも同じ方向を向いていた。東だった。

集団は立ち止まった。

半月ほど前から続いていた移動が、ここで止まることを誰も言葉にしていなかった。しかし岩の下に枯れ枝を積む者が現れ、火を起こす煙が立ち上がり、気づけば野営の形になっていた。豊かな季節の名残がまだあった。乾いた実が低木に残り、根は湿った土の中で太く育っていた。半分ほどの者が出て行き、夕暮れまでに両手いっぱいの食料を持ち帰ることができた。

余裕があった。

余裕がある時、争いは遠のくかと思えばそうではなかった。食料が集まると、誰がより多くを持つかという緊張が生まれた。古い傷を持つ者と、若く力のある者の間で、声が荒くなる場面があった。言葉にはならない怒鳴り声と、威嚇するための身体の大きさを見せ合う動作が、夜の火の周りで繰り返された。

旧人の影が遠くにあった。

三日前、集団から少し離れた森の縁に、別の者たちの気配があった。体格の違う、額の出た影だった。互いに近づかなかった。石を持って立つだけで、しばらくして影は消えた。誰も追わなかった。誰も近づかなかった。それだけだった。

しかし夜、火を囲む者たちの中に、その影の話をする身振りが繰り返された。額を突き出す仕草、腕を広げて大きさを示す動作。声の調子は低く、一定の感情を帯びていた。恐れと、それよりわずかに強い、別の何か。

地面の割れた跡に水が溜まり始めていた。

翌朝、その溜まりに、新しい足跡があった。人間のものではなかった。大きな獣が夜に来て、飲んで、去っていた。足跡は東を向いていた。鳥も、昨日から東に向かって飛んでいた。

集団の中の年長者が、その足跡の周りをゆっくり歩いた。かがんで土を触った。立ち上がって東を見た。何も言わなかった。しかし集団の何人かが、それを見ていた。

夕暮れに、荷の整理が始まった。

与えるもの

溜まり水の足跡に、朝の光が斜めに落ちた。

影が長く伸び、爪の跡まで見えた。

年長者がそれを見た。この者も、少し後ろで見た。年長者は東を向いた。この者も東を向いた。それが正しいからではなく、年長者がそうしたから。

渡したのは光の角度だった。足跡の深さと向きを浮かび上がらせるために、日の傾きを使った。年長者はそれを読んだ。この者は、年長者が読むのを見た。

骨を差し出したことがある。あの時も、意図は届かなかった。届いたのは、他の誰かの行動の模倣だった。

それでも東に向かうなら、方向は同じだ。意図が届いたかどうかと、向かう先が正しいかどうかは、別の問いなのかもしれない。次に渡すべきものを、もう考え始めている。

その者(31〜36歳)

足跡を見た。深かった。爪の跡が四本。

年長者が東を向いた。その者も東を向いた。風はなかった。においもなかった。ただ、そちらが正しいと思った。

荷を縛り直した。肩に当たる革を一度外し、折り返して厚くした。また担いだ。

火が消される前に、燃え残った枝を一本拾った。端がまだ赤かった。

伝播:DISTORTED 人口:536
与えるものの観察:模倣が意図の代わりになった。それで十分か、まだわからない。
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第1028話

紀元前294,870年

第二の星

北の縁から数日歩いた場所に、浅い湿地がある。水が引いた後の泥は白く乾き、足跡がそのまま残る。鳥の足跡、獣の足跡、そして二足で歩く者の足跡。いくつかの跡は深く、重い荷を持っていたことを示す。

同時に、遠く南の森では、別の集団が移動を止めている。四日間、同じ場所に留まっている。火を絶やさない。夜に声が上がり、朝に静まる。理由は外からはわからない。ただ、四日目の夕に、集団の数が減っている。跡だけが残る。

さらに東、川の上流では、大きな獣の群れが渡河を繰り返している。水が膝まである場所を、幼い個体が大人の脇腹にぴったりついて渡る。流される。また戻る。また渡る。

北の縁では、地震の後、岩盤が数歩分ずれた。その隙間から水が染み出している。新しい水場になるかもしれない。ならないかもしれない。水は今日も染み出している。

人と旧人が同じ水辺で交互に水を飲む。時間がずれているだけで、場所は同じだ。どちらも立ち去った後、水面は揺れを止める。

与えるもの

岩の割れ目から滲む水の匂いが、風に乗ってその者の方へ流れた。

水の匂いを嗅いだ。立ち止まった。荷を下ろさずに、鼻を上げた。

渡ったのかどうか、まだわからない。ただ、匂いはそこにあった。次に渡すなら、方向ではなく、留まることかもしれない。留まることを教えたことがあっただろうか。

その者(36〜41歳)

荷が重い。

腰の下、骨と骨の間に鈍い痛みが来る。歩くたびに、その痛みが少しずつ場所を変える。止まれば和らぐ。歩けばまた来る。

集団の後ろを歩く。前では誰かが言い争っている。声の高さと速さでわかる。手が出ているかどうかは、距離があってわからない。

風が東から来た。

その者は鼻を上げた。

何かがある。乾いた土の匂いではない。もっと冷たい。岩に触れた水の匂い。その者はそれを知っている、という感覚が体のどこかにある。言葉にならない。ただ体が知っている。

荷を下ろした。

誰も気づいていない。前の言い争いはまだ続いている。その者は匂いのする方に顔を向けたまま、しばらく動かなかった。

岩の方向に数歩、踏み出した。

足裏が、地震の後のざらついた地面を感じた。表面が剥がれかけた岩が、踏むたびに微かに動く。その者は慎重に、もう一歩踏み出した。

割れ目が見えた。そこから、水が光っていた。

指で触れた。冷たかった。指についた水をなめた。岩の味がした。それから水の味がした。

その者は振り返った。

声を上げた。一音節の、短い声。

前の者たちが振り返った。言い争いが止んだ。

その者は割れ目の方向に腕を伸ばした。ただそれだけの動作だった。

一人が近づいてきた。また一人。水の光が彼らの顔に映った。

その者は荷を拾い上げた。腰の痛みがまだあった。でも立った。

伝播:NOISE 人口:544
与えるものの観察:匂いが届いた。立ち止まったのは初めてかもしれない。
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第1029話

紀元前294,865年

第二の星とその者(41〜46歳)

大地が東から割れ始めた。

泥の底に水脈があったところ、今はひびが走る。長い筋が大地を引き裂いて、白い粉が表面に浮いた。雨季が来なかった。次の雨季も来なかった。雲は遠い山の上でだけ重くなり、こちら側には何も落とさなかった。

その者は荷を運んでいた。乾いた草を束ねたもの。縛る紐の代わりに、長い茎を何度も巻いた。うまく止まらない。歩くたびにほどけかけ、抱え直すたびに別の束が落ちた。

集団の移動は遅くなった。子を持つ者は子を背負い、老いた者は歩みが乱れた。北の集団が同じ場所に向かっていた。足跡の方向が重なっていた。土が掘り返され、木の根の白い断面が露出していた。誰かが先にそこを掘ったということだ。食べられるものが減った後の跡だということだ。

その者は先頭を歩く者を目で追った。その者より二十歳以上年上の、肩幅の広い者。立ち止まり、地面を踏み、また歩く。その動作が集団全体の向きを決めた。その者には决める力がない。まだない。

南の乾燥地帯では、別の種の者たちが水場を囲んでいた。顔の形が違う。眉の骨が出ている。声が低い。しかし同じように水の前で立ち止まり、同じように水を手で掬い、同じように飲んだ。水に優先順位はない。渇いているか、渇いていないかだけがある。

その者の集団が水場に着いたとき、先の者たちはもういなかった。水は残っていた。少し。岩の影に溜まった分だけ。その者は列の後ろから近づき、順番を待った。自分より先に飲む者が何人もいた。待つ間、その者は足元の石を見ていた。丸い石。割れた石。尖った欠片。

光が石の欠片のひとつに落ちた。午後の日差しが低くなって、岩の端から差し込んだ。その欠片だけが白く光った。薄く、鋭い。

その者は屈んで拾った。手の中で持ち替えた。角度を変えた。端が細くなっている。

何かが死んだ。

幼い者が夜に動かなくなった。まだ歩けない年齢の者。腹がへこみ、声が出なくなった日から、それほど時間が経たなかった。母親が一晩、抱いたまま座っていた。朝になっても離さなかった。集団は動けなかった。昼になって、誰かが母親の肩に触れた。母親は顔を上げなかった。もう一度触れた。ようやく、力が抜けるように子から手が離れた。

土を掘る音が続いた。その者も掘った。爪の下に土が入った。

移動が再開したとき、集団は出発前より小さくなっていた。子だけではなかった。水が足りず、歩けなくなった者が三人いた。岩の陰に座ったまま動かなかった。集団が遠ざかっていくのを見ていたか、目を閉じていたか、その者には見えなかった。振り返らなかった。

石の欠片は、その者の手の中にあった。

尖った端で、皮を引っ張ってみた。裂けた。乾いた木の皮ではない、獣の皮だ。誰かが捨てていったものを拾っていた。欠片がそこに入る。奥まで入った。

別の集団と道が交差したとき、問題が起きた。

言葉が通じない。身振りが違う。相手の集団は数が多く、こちらの倍近くいた。水場を巡って声が上がった。怒鳴り声。石が飛んだ。その者は荷を抱えて低くなった。前の者の背中に顔をつけるようにして座り込んだ。石の欠片が手に当たった。その者は手を握った。

争いは長くならなかった。こちらの集団が引いた。力の差は明らかだった。

夜、その者は集団の端に座った。火が小さく燃えていた。木が少ない。遠くに別の火が見えた。あの集団の火だ。近くにいる。

その者は石の欠片を取り出した。指の腹に当てた。押した。血が滲んだ。見た。なめた。また押した。

人を刺せる。

その思考が言語になるほど、その者の言語は育っていなかった。しかし体は知っていた。手の先の尖ったものが何をできるか、体の中の何かが応えていた。応えた後、その者は手を開いた。欠片を地面に置いた。

また拾った。

数日後、集団の中の一人がその者を呼んだ。何かを話した。声の調子が低い。目が細くなっている。その者には言葉の意味が半分しか取れなかったが、声の質は分かった。怒りではない。疑いだ。

その者が知っている何かを、他の誰かが見ていた。

その者は答えなかった。声を出さなかった。手を後ろに引いた。欠片が手の中にある。

夜が来た。

その者は集団の端から少し離れた場所に座った。星が出ていた。乾いた空気の夜は星が多い。その者は空を見なかった。地面を見ていた。欠片を土の上に置き、また拾い、また置いた。

集団から声が聞こえた。話し合うような音。その者の方を向いている気がした。気のせいかもしれない。

その者は立ち上がった。欠片を持ったまま、火から離れた方向へ歩いた。暗い方へ。

足音が後ろから聞こえた。

早い。

その者は走らなかった。走れる体力がなかった。欠片を強く握ったまま、歩き続けた。足音は追いついてきた。肩に手がかかる前に、その者は振り向いた。

顔が見えた。知っている顔だ。長年同じ集団にいた者。目が光を受けていた。星の光か、遠い火の光か。

その者は欠片を見せた。手を開いた。

相手が止まった。

それだけだった。相手は後ずさりし、やがて見えなくなった。

その者は座った。土の上に直接。長い間、動かなかった。星が動いた。体が冷えた。夜露が肌に落ちた。

夜明けが来たとき、その者は集団の場所へ戻った。火は消えていた。

集団はいなかった。

足跡は北へ続いていた。

その者は北を見た。足跡を見た。また北を見た。

歩き始めた。

追いつけるかどうかは分からなかった。その者にも分からなかった。ただ足跡がある方向へ、一歩ずつ進んだ。欠片は手の中にある。

「始まりの大地」の空では、雲がまだ来なかった。大地の割れ目は広がり続けた。水場は減った。しかし遠い南の海岸では、波が岩を削り、岩の中から別の鉱石が顔を出していた。誰も見ていない場所で、何かが生まれ、何かが失われ、時間が経った。

その者の足跡が、白い乾いた土の上に残った。

与えるもの

光をあの欠片に落とした。

その者は拾った。使い方を体で知った。地面に置き、また拾った。

渡したものが何に変わるか、私にはまだ分からない。けれど次に渡すべきものは、もう見えている。足跡の先にある者たちの中に、それがある。

伝播:HERESY 人口:428
与えるものの観察:欠片が手の中にある。追いつくかは分からない。
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第1030話

紀元前294,860年

その者(46〜51歳)

革袋が破れた。

縫い目から、水が砂に落ちた。その者は袋を持ち上げ、傾けて、また水が出ることを確かめた。出た。そこに口を当てた。水はもう舌を湿らせる量しかなかった。

集団は動いている。南へ。昨日から南へ。

その者は荷を背負い直した。石片が入っている。骨が入っている。子供ひとりの重さより軽いが、それでも重い。背中の皮が擦れているところを、その者は知っている。擦れているが、歩く。

隊列の後ろを歩くのはいつもその者だった。遅れる者を待つ役割があった。あるいは誰かがそう決めたのか、ただそうなったのか、その者にはわからなかった。わからなくても、後ろを歩く。

日が傾いた。

大地はどこまでも割れたままだった。地面の白い筋が光を照り返す。植物の根が剥き出しで、風に揺れているが葉はない。その者はそれを踏まないように歩いた。特に理由はなかった。ただ踏みたくなかった。

隊列の前方で声がした。

その者には何の声かわからなかった。しかし足が速くなった。体がそうした。

前から戻ってきた者が腕を振った。止まれ、という動きだった。その者は止まった。後ろに続いていた老いた女も止まった。子を抱えた男も止まった。

声がまた来た。今度は別の声だった。

知らない声だった。

その者は荷を下ろした。石片が入った袋を手に持った。理由を考えなかった。手が先に動いた。

隊列の間に、別の形をした者たちがいた。背が低かった。額の形が違った。声の出し方が違った。しかし水袋を持っていた。水袋に水が入っていた。水が滴っているのが見えた。

その者の喉が動いた。

誰かが前へ出た。その者の集団から、年嵩の男が一人、両手を広げて前へ出た。武器を持っていない手を見せた。相手側も一人が前へ出た。しばらく、声と身振りがあった。

その者にはほとんどわからなかった。

しかし水袋は、渡ってきた。

相手側から一つ、こちら側へ。

その者の集団の中に笑い声が出た。安堵なのか、何かほかのことなのか、その者には判別できなかった。その者の体から力が抜けた。手の中の石片の袋を、まだ持っていた。

夜、火を囲んで眠る前に、その者は空を見た。

水を飲んだ。

また空を見た。

空に意味を求めているわけではなかった。ただ見ていた。目が乾いていたから。

五年が過ぎた。

その者の背中の擦れた皮は厚くなった。革袋の縫い方を覚えた。縫い目が破れないように、端を二重に折る方法を、誰かから見て、真似た。完全ではないが、前よりは持つようになった。

隊列の後ろを、まだ歩いている。

その者の膝が、坂道で軋む。軋んでいることを、その者は知っている。知っているが、歩く。

第二の星

大地の南に向けて、集団は動き続けた。

割れた大地を避けながら。干からびた川床を跨ぎながら。風が砂を運ぶ方角を読みながら。

第二の星から見れば、この5年間は移動の年だった。水を持つ者が生き延びた。水を見つけた者が、次の夜を過ごせた。水場をめぐって声が上がり、腕が振られ、ときに血が流れた。ときに骨が差し出され、緊張が解けた。どちらの場合も、朝は来た。

旧人たちとの出会いは、その間に何度もあった。この5年で、双方が逃げた場面もあった。立ち止まった場面もあった。水袋が渡った場面もあった。火が共有された夜もあった。

声の出し方は違っていた。体の形も少し違った。それでも空腹と渇きは同じように体を動かした。

集団の規模は減った。飢饉と移動が重なり、半数に近い数が失われた年があった。子が多く生まれたが、育った数は少なかった。それでも集団は南へ進んだ。止まれる場所がなかったから。止まることの意味を、まだ持っていなかったから。

大地は南ほど湿っていた。割れ目はあったが、底に光るものがあった。

まだ水があった。

与えるもの

革袋の縫い目に、光を当てた。影が折り返した部分に落ちて、そこを指してはいないが、そこに留まった。

その者は破れた縫い目を見た。次の日に、二重に折った縫い方をする者の手元を、長く見ていた。

渡った。ただし数年越しに、迂回して、模倣を経由して。

手を開く前に止まる、その間が短くなっている気がする。渡すべき次のものは何か。水を保つことを覚えた手に、今度は何を落とすか。

伝播:NOISE 人口:440
与えるものの観察:縫い目への光が、迂回して手に届いた。
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第1031話

紀元前294,855年

その者(51〜54歳)

日が傾いていた。

その者は斜面の手前に座っていた。もう荷物は持っていない。持てなくなってから、何度か日が変わっていた。

足の裏に砂の感触がある。押し返してくる力がない。ただ、ある。

集団は先にいた。声が届かない距離ではない。呼ぶ気は起きなかった。

喉が渇いていた。しかし立つほどの渇きではなかった。渇きがそういうものになっていた。

空気が動いた。

その者の鼻に、何かが触れた。岩の陰に育つ草の青い臭いだった。雨の後だけ嗅げるものだ。だが雨は降っていない。

その者は顔を上げた。草がどこにあるかは見えなかった。臭いだけが、また来た。

立てなかった。四つんばいになって岩の方へ動こうとした。膝が滑った。

砂の上に手をついたまま、止まった。

遠くで声がしていた。集団の中の子どもの声だった。その者はそちらを見なかった。草の臭いがまだ残っていた。

手の下の砂が、冷たかった。

その者は横になった。空が見えた。何もない空だった。

草の臭いは、消えた。

その者の手が、砂の中に少し沈んだ。指が開いたままになった。

その者が子どもだったとき、荷物を持てなくて叱られた声が、どこか遠くからのように浮かんだ。叱った者の顔は、もう形を持っていなかった。ただ音だけが残っていた。

指が、動かなくなった。

第二の星

平らな土地の北端で、二つの集団が同じ水場を見ていた。どちらも石を持っていた。若い者が一歩踏み出した。しかし誰も動かなかった。石が地面に置かれた音がした。相手もその音を聞いた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:SILENCE 人口:455
与えるものの観察:草の臭いを受け取ったが、たどり着かなかった
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第1032話

紀元前294,850年

第二の星とその者(8〜13歳)

乾季の風が止まった。

大地の腹の奥で、何かが変わった。川床の泥に小さな虫の死骸が積もった。最初は誰も気づかなかった。気づく前に、体が先に知っていた。

その者は八歳だった。群れの端を走るのが仕事だった。走れれば生きていられた。

東の丘の向こうに住む者たちが最初に倒れた。彼らは三日のうちに動かなくなった。その群れと水場を共にしていた者が次の日に咳をした。咳は湿っていた。泥を飲み込んだような音だった。

その者は走らされた。火のある場所と水のある場所の間を。荷を持てない者の代わりに。足が速かったから。

熱が来た。熱は見えない。しかし動いていた。空気の中を、水の中を、触れた手のひらから手のひらへ。大地の上で、それは広がることを知らなかった。広がることしかできなかった。

群れの中で寝ている大人たちが朝に目を覚まさなかった。一人が、次の日にもう一人が、その次の夜にさらに二人が。その者は数を持っていなかった。しかし「また」という感覚は持っていた。また。また。また。

また、だった。

その者は火の番をした。火を消してはいけないことだけは知っていた。咳をしながら薪をくべた。誰かが教えたわけではない。やらなければ火が消えた。消えると困った。それだけのことだった。

大地の遠い場所では雨が降り続けていた。何千もの水路が変わった。魚が別の川を遡った。草原で草を食む獣の群れが方向を変えた。誰もその繋がりを知らなかった。大地は知っていた。大地は何も言わなかった。

群れは半分以下になった。その後もまだ減り続けた。

ある朝、その者は大人の一人が動かなくなっているのを見つけた。その大人は、いつも余った骨のかけらをその者に投げてよこしていた。理由はなかった。ただそうしていた。その者はしばらくそこに立っていた。それから走った。走り先で何をするか決めていなかった。ただ走った。

熱が引いたのは、三度目の月が欠けた頃だった。

残った者たちは静かだった。騒ぐ体力がなかった。声を出す者がいなかった。その者は、群れがこれほど静かなのを知らなかった。産まれてから聞き続けてきた音が、七割ほど消えていた。

知りすぎた者が消される、というのは正確ではない。

知っていたから消されたのではない。その者は何も知らなかった。ただ見ていた。誰が倒れ、誰が立っていたかを。誰が何を持ち去ったかを。その者の目が問題だった。言葉を持たない目が、何かを記録していた。

残った者の中の誰かが、その者を遠くへ追いやることにした。理由は語られなかった。語る言葉がなかった。ただある朝、石が飛んできた。

石はその者の肩に当たった。

次の石が飛んでくる前に、その者は走った。

草の匂いが変わる境を越えた。岩肌が赤から灰色に変わる場所を越えた。振り返らなかった。振り返る理由がなかった。群れは後ろにあったが、戻れる場所ではなかった。

十三歳のその者は、一人で草原に入った。

与えるもの

糸が繋がった。

この者に、ではなく、この者の体を通じて何かに。

乾いた草が揺れた。風が東から来た。その者の鼻が動いた。草の腐った匂い。湿った土の奥の匂い。その者は一瞬止まった。水が近い。岩の割れ目に水が染み出している。その者の足が、止まったまま、岩の方向へ向き直った。

飲んだ。

それだけでよかった。

前に糸を繋いだ者が、斜面の手前で砂の感触を感じていた。この者は今、草の上に膝をついて岩の水を舐めている。同じものを渡しているのか。違うものを渡しているのか。渡した後に残るものが、私に何かを教えるとしたら。

渡すことを、続ける。

伝播:HERESY 人口:174
与えるものの観察:糸は繋がった。この者は一人になった。