2033年、人類の旅

「紀元前294,845年〜紀元前294,725年」第1033話〜第1056話

Day 44 — 2026/05/16

読了時間 約56分

第1033話

紀元前294,845年

第二の星

乾季が終わらない。

川は細くなった。泥の底が割れ、端から白く乾いていく。水を飲みに来る獣の足跡が、岸に重なって残っている。大型のものは来なくなった。足跡が消えた方向に、低い丘が続いている。

群れの野営地から煙が上がっている。火は消えていない。誰かが管理している。しかしその数は、五年前より少ない。地面に掘られた浅い穴が、野営地の縁に並んでいる。新しいものと、古くなって縁が崩れたものが、混ざっている。

遠く東の方角、川が分岐する場所に、別の群れがいる。彼らも水を探している。その群れの中に、背の低い者たちがいる。額の形が、この群れの者たちと違う。しかし同じ水を飲み、同じ岸に足跡を残している。

夜、二つの群れの焚き火が、川を挟んで見える。

どちらも消えない。どちらも近づかない。

岩の上に、鳥の羽根が一枚落ちている。風もないのに、少し動いた。

与えるもの

群れの中で熱が出た者がいた。その者ではない。別の者だ。

腕に赤みが広がる前に、腐った匂いがあった。その者の鼻がそれを捉えた瞬間、風がなかった。しかし匂いは来た。

その者は立ち止まった。

近づかなかった。

遠ざかる判断が、どこから来たのか、私にはわからない。この者が知っていたのか、たまたまそうしたのか。どちらでも構わない。次に渡すべきものがある。この群れにはまだ、火がある。

その者(13〜18歳)

朝、老いた女が動かなくなっていた。

腕が腫れていた。昨日も腫れていたが、今日は色が違う。その者は近くまで行って、止まった。匂いがした。土とは違う匂い。何かが壊れていく匂い。

体が後ろに下がった。考えたのではない。足が先に動いた。

群れの大人たちが声を出していた。近づいていく者もいた。その者は近づかなかった。どこか遠い場所を見るような目で、腫れた腕を見ていた。

日が高くなる前に、老いた女は動かなくなった。誰かが声を上げた。長い声だった。その者はその声を聞きながら、野営地の端に向かって歩いた。

火のそばに座った。

枯れ枝を一本、拾った。火に近づけた。先端が煙を出した。その者はそれを地面に押しつけた。煙が細く上がった。また拾った。また押しつけた。

何かを確かめているようだった。何を確かめているのかは、この者にもわからなかった。

夕方、その者は川に下りた。水を手ですくった。顔を洗った。手をこすった。また洗った。

岸の砂に、大きな足跡があった。今朝ついたものではない。

その者はしばらくその足跡を見ていた。どこかへ消えた跡を、目で追った。丘の方向だ。

戻ったとき、群れの中で誰かがまた唸っていた。

伝播:HERESY 人口:176
与えるものの観察:匂いで足が引いた。考える前に体が知っていた。
───
第1034話

紀元前294,840年

第二の星

乾いた風が続いている。

草は根元から茶色く倒れ、その上を虫の群れが渡っていく。水場のそばで、腹を上にした魚が幾つも浮いている。川床の石が、久しぶりに空気にさらされた顔をしている。

多くの命が動いている。

丘の向こうでは、別の群れが移動を始めた。四肢が太く、額の骨が張り出した者たちだ。彼らも水を求めている。子を背負った雌が先を歩き、その後を若い雄が続く。足音が土に残る。重い足音だ。

遠く、海に近い低地では、別の集団が砂の下に貝を埋めていた。乾季をまたいで保存しようとする試みだ。成功するかどうか、まだわからない。貝は砂の中で静かに死んでいく。

この星の上で、今、多くの者が喉の渇きを感じている。

同じ渇きだ。形の異なる喉が、同じものを求めている。

川の細い流れの近くで、この集団の子どもが二人、泥を掘っている。泥の奥から、わずかに澄んだ水が滲んでくる。子どもたちはそれを掌で受ける。

その者が、少し離れたところから見ている。

与えるもの

渡そうとしたものは、臭いだった。

腐った水と、腐っていない水の違い。泥の下から滲む水が、どちらであるかを。

鼻の奥に、その違いが押し寄せるよう、風を向けた。

その者は立ち止まった。顔を上に向けた。しかし次の瞬間、子どもたちの方へ走っていった。泥を掘る手伝いをするために。

渡そうとしたものが届いたかどうか、わからない。届いていたとしても、使われなかった。

次に渡すべきものを、考える。この者は今日の夜を越えられるか。越えたとして、次の集団と接触する日が来る。そのとき、この者の手に何があれば、消される前に何かが残るか。

渡せるものの数は、限られている。

その者(23歳)

水が滲んでくる穴を、手で広げる。泥が指の間に入り込む。冷たい。

子どもの一人が泥を口に運んだ。その者は手を伸ばして、子どもの口から泥を押し出した。子どもが泣く。その者は泣き声を無視して、また穴を掘る。

なぜそうしたのかは、自分でもわからない。ただ、口に入れてはいけないと思った。感じた。

水が少しずつ溜まっていく。掌ですくう。飲む。

違う。

何かが違う。いつもの水の感触と、何かが違う。舌の奥に、わずかに苦い何かが残る。その者は吐き出した。もう一度すくって、飲まずに嗅いだ。

子どもたちが手を伸ばしてくる。その者は、穴から子どもたちを引き離した。子どもたちがまた泣いた。

群れの年長の男が近づいてきた。その者が穴を指で示した。男は屈んで水をすくい、飲んだ。頷いた。また飲んだ。

その者は何も言わなかった。

言葉がなかったから。

夕方、男が腹を押さえて座り込んだ。夜のうちに、動かなくなった。

その者は夜明けまで、男の傍に座っていた。何かを確かめるように、何度も男の顔を見た。顔は静かだった。ただ、重くなっていた。

朝が来た。

群れの者たちが集まってきた。誰かがその者を見た。男を見た。また、その者を見た。

その者は立ち上がり、走った。

伝播:HERESY 人口:185
与えるものの観察:渡した臭いが、別の形で働いた。
───
第1035話

紀元前294,835年

第二の星

乾季が長引いている。

大地の内陸部では、広葉の木が葉を落とし、その落ち葉が風に巻き上げられて空の下を走っている。赤い砂地が剥き出しになり、そこを歩けば足跡がしばらく残る。地面が固く、熱をためている。

草原の縁では、旧人の集団が岩陰に身を寄せている。痩せた子が一人、乾いた草の茎を口に入れて、味のないまま嚙んでいる。大人たちは動かない。動くのは目だけだ。何かを待っている目ではない。ただ、見ている目だ。

海岸線の近くでは、潮が引きすぎている。岩場が普段より広く露出し、そこに貝が張り付いている。海鳥が一羽、岩の端に止まって翼を広げたまま動かない。風に乾かされているのか、ただ疲れているのか、この星には区別がない。

内陸の川沿いに、小さな集団がいる。火を囲んでいない。囲む木がない。彼らは石の上に座り、石の上に寝て、石の上で目を覚ます。火が消えている夜は初めてではないが、今夜は誰も立ち上がらない。

この星はすべてを照らす。

与えるもの

その者の鼻の奥に、焦げた匂いが来た。

炎からではない。どこか遠くで、何かが長く燃えたあとの匂いだ。

その者は立ち止まった。鼻を空気に向けた。

枯れた草の焼け跡か。獣の毛か。それとも――この者の集団が失った何かか。

受け取った。その者は匂いのした方角を振り返った。一度だけ。

渡した。届いた。しかしその者の足は、振り返った方向には向かわなかった。

なぜ向かわなかったのか。匂いの先に何があるか、まだわからないのか。それとも、わかっていて、向かえないのか。

次に渡すべきものを、まだ決めていない。この者の足が止まった場所を、もう少し見ている。

その者(23〜28歳)

夜が明ける前に起きた。

他の者たちはまだ倒れるように眠っていた。子が一人、誰かの脇腹に顔を押し付けて息をしていた。腹が動いていた。その者はそれを見て、また目をそらした。

腹が空いていた。

昨日、水場の近くで根を掘った。硬い根で、石で叩いても繊維が残った。嚙み続けた。飲み込んだ。今朝、腹の奥に重いものが残っている気がした。石を飲んだような重さだった。

歩き出した。

群れの端を走るのが自分の役目だとは思っていないが、誰も止めないから走る。誰も来ないから一人で行く。それだけのことだ。

枯れた草の間を抜けた。地面が固く、踏んでも音がしない。草が倒れた跡が白く残っている。何日も前に何かが通った跡だ。獣か、別の群れか、風か。

鼻の奥に何かが来た。

その者は止まった。

焦げた匂い。遠い。しかし確かに来た。

振り返った。

何もなかった。煙もなかった。空が白くなりかけていた。

その者はもう一度、匂いのした方を向いた。足は動かなかった。体の中で何かが引っ張り合っていた。前か、後ろか、そういう言葉はなかったが、体はその問いを知っていた。

結局、前に進んだ。

引っ張り合いに勝ったのがどちらだったか、その者には分からなかった。

水場に着いた。水面が風で細かく揺れていた。その者はしゃがみ、両手で水をすくった。飲んだ。もう一度飲んだ。

空が完全に白くなった。

その者は水面を見ていた。自分の顔が揺れていた。揺れるたびに違う顔になった。どれが自分の顔か、その者には問いがなかった。ただ見ていた。見続けた。

やがて立ち上がり、群れの方向に戻った。

伝播:NOISE 人口:196
与えるものの観察:足が止まった。しかし向かわなかった。
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第1036話

紀元前294,830年

その者(28〜31歳)

崖の縁に立つことが、この者の仕事だった。

群れの端。一番外側。
獣が来れば叫ぶ。旧人の集団が近づけば叫ぶ。
叫んで、走る。それだけでよかった。

乾季が続いていた。
水場は遠くなり、群れは動いた。
この者は先を走った。足が速かった。腹が減っていても走れた。

ある朝、新しい崖の縁に着いた。
眼下に谷があった。
風が吹き上げてきた。草の腐った匂いと、土の湿った匂いが混じっていた。

足元の石が動いた。

この者は気づかなかった。
踏み直そうとした足が、空を踏んだ。

声は出なかった。
落ちた。

谷の底で、この者は横向きに倒れていた。
空が見えた。岩の割れ目から、細い光が差していた。
腕が動かなかった。片方の足も。

光はゆっくりと動いた。
この者の目が、その光を追った。
追って、止まった。

風が吹いた。
崖の上から、小石がひとつ落ちてきた。

音がした。
その者の耳には、もう届かなかった。

第二の星

乾いた大地の南、草原が砂に変わるあたりで、旧人の集団が火を囲んでいた。炎は小さく、煙が真上に細く立っていた。風がなかった。空の半分が星で、半分がまだ夜明け前の暗さだった。子どもが一人、火のそばで丸まって眠っていた。

与えるもの

糸は、谷の底に残らなかった。

伝播:NOISE 人口:213
与えるものの観察:渡したものが届く前に、落ちた。
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第1037話

紀元前294,825年

第二の星

大地は乾いている。

北から吹く風が草を寝かせる。草の根は浅い。雨が来なければ、根ごと剥がれる。

この5年の間に、大地の半分で雨が減った。川床が白く光る場所が増えた。獣の群れが移動した。獣が移動したから、人も移動した。移動した人が、別の人とぶつかった。ぶつかった。

旧人の集団は尾根の向こうに住む。体は大きく、言葉は別の形をしている。互いの匂いを知っている。知っているが、それが何を意味するかは、まだどちらも決めていない。水場をめぐって石が飛んだことがある。同じ獣を追って笑い合ったこともある。

大地は覚えていない。ただ乾いている。

南の低地では、子が三人生まれた。そのうち二人が最初の雨季を越えた。越えた子の一人は、もう走る。

崖の上では、集団が火を守っている。火の番は夜通し続く。疲れて眠った者が灰の中に顔を埋めたまま朝になる。灰は冷たくない。まだ温かい。

与えるもの

糸が繋がった。

この者は27歳になっていた。

足の裏の皮が厚い。長い年月をかけて、大地に叩かれてできた厚さだ。糸はそこから入った。足の裏から。

崖の上で彼が立っていたとき、風がある方向から止まった。一瞬だけ。北からの風が、止まった。その瞬間、尾根の向こうに大きな影が動くのが見えた。

彼は見た。

それだけだ——と言いたいが、そうではない。見ただけではなかった。手が動いた。背後の仲間たちに向けて、腕が上がった。声が出た。

受け取ったのかどうか、わからない。風が止まったことに気づいたのか、影が動いたから気づいたのか、それは区別できない。

次に渡すべきものを、考えている。この者の手には何もない。足の裏しかない。この者が走ることを、知っている。走る前に、何かを渡せるか。

その者(27〜32歳)

崖の縁に立つのは彼だった。

昼も夜も交代で立つが、夜は彼が多かった。暗闇に目が慣れている。自分でもそれを知っていた。知っているというより、体が知っていた。

その夜、北の風が一瞬止まった。

彼の皮膚が感じた。風が来ない、という感覚。それだけだった。だが彼は尾根を見た。理由はない。ただ見た。

暗闇の中で、何かが動いた。

大きかった。

腕が上がった。声が出た。仲間たちが起きた。火の番をしていた女が立った。子を抱えた者が走った。

彼は動かなかった。崖の縁に立ったまま、影の動きを見ていた。

旧人の集団だった。三人。水場に向かっていた。こちらを見ていなかった。

彼は声を低くした。仲間たちに手を振った。来るな、という形に手を動かした。

三人の影は水場で止まった。飲んだ。去った。

明け方、彼は崖を降りた。足の裏に石の角が刺さった。刺さったまま歩いた。集団の火のそばに座った。灰が白くなっていた。火が弱っていた。

枝を一本取って、火に差し込んだ。

炎が戻った。

彼はそれを見ていた。何も言わなかった。言葉がなかったのか、言う必要がなかったのか、自分でもわからなかった。

足の裏の石を、指で抜いた。

血が出た。

彼は血を見た。それから空を見た。空は白かった。

伝播:DISTORTED 人口:226
与えるものの観察:風が止まった。足の裏から入った。
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第1038話

紀元前294,820年

第二の星とその者(32〜37歳)

乾いた季節が来た。草原の端から、茶色が滲み始めた。

男は火を抱えていた。移動のたびに炭を布に包み、胸に当て、温度を保った。集団が歩く間、男はその熱が消えないよう呼吸のたびに気にした。

多くの命が、今この大地にある。しかし北の群れとの境に近い場所では、死が積み重なっていた。食料が減り、水場が干上がり、群れが群れの縄張りに踏み込んだ。

男が知ったのは、仲間の一人が戻らなかったことだ。夕暮れを待った。夜が来た。翌朝も待った。石を並べて場所の印にした。それだけだった。

雨が戻った年、木の実が多く実った。子が三人生まれた。男は二人の名前を知っている。一人の名前を知らないまま、その子は消えた。

集団の中に、知らない顔があった。北の方から来た者だと、身振りで伝わった。毛が薄く、額が広かった。男はその者を見た。その者も男を見た。

どちらも何も言わなかった。

風がある方角から吹いた。男の鼻に何かが届いた。煙ではない。土でもない。別の何かで、男は一瞬だけその方向を向いた。北だった。来た者の来た方角だった。

男はまた火を確認した。炭はまだ熱かった。

集団の長老が、北の者を受け入れた。言葉は通じない。食物を分けた。それで話が終わった。しかし夜、男は北の者が何かを地面に描くのを見た。石で線を引いていた。男は近づかなかった。

翌日、その絵は消えていた。誰かが消したのか、風が消したのか、わからなかった。

緊張は音よりも早く動いた。男は知らないうちに、知ってはいけないことの傍にいた。北の者が何かを見ていた。どこかへ帰った。男はそれを見ていた。それだけだった。しかし誰かが男を見ていた。

五年の終わり、乾いた風が続く夜だった。

男は火の傍に座っていた。炭は赤かった。背後から音がした。振り向く前に、体が傾いた。火が遠ざかった。地面が近くなった。草の匂いがした。

炭は朝まで熱を持っていた。誰かが別の者に渡した。

与えるもの

风がその方向から吹いた。鼻に届いた。

男は向いた。

次に渡すべきものが何か、まだわからない。しかし男が向いた、その一瞬を、わたしは覚えている。向いたことが届いたのか、ただ風に反応しただけなのか。届いたと信じることが、次を探させる。信じなければ、わたしは止まる。

伝播:HERESY 人口:225
与えるものの観察:風に向いた一瞬だけが届いた
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第1039話

紀元前294,815年

第二の星

乾いた風が続いている。

草原の南端では、土が割れ始めた。亀裂は細く、しかし深い。踏むと音がする。小さな生き物が亀裂の中に逃げ込み、それを追う者たちが指を突っ込んでは引き抜く。

集団は水場を探して歩いた。子どもを背負った女が先を行く。老いた者は遅れた。遅れた者は時に追いつき、時に追いつかなかった。

遠くの高地では、別の集団が岩棚の下に集まっていた。赤みがかった土を手に塗り、岩に手を押しあてた。手の形が残った。誰も見ていなかった。誰も意味を問わなかった。ただ手を押した。

この星は乾いていた。どこも、等しく。

与えるもの

太陽がある角度に来たとき、水辺の葦が光を返す場所があった。
その光の揺れを、男は一度だけ目で追った。それから荷物に目を戻した。
渡せたかどうか、まだわからない。しかし光はそこにあった。次に渡すべきは方角だと思った。男が向いている方向に、水がある。

その者(40歳)

布に包んだ炭が、冷えていた。

朝に確かめると、熱がなかった。男は手のひらを当て、もう一度当て、それから布ごと地面に置いた。

集団が動き始めていた。水を求めて南へ行こうとする声と、北へ行こうとする動きが、朝のうちからぶつかっていた。言葉ではない。体の向きと、引く手と、押し返す肩で。

男は北を向いた。

理由を問われれば答えられなかった。ただ、昨日の午後、葦の光がそちらに揺れていたことを、体がまだ持っていた。

集団の半分がついてきた。残りは南へ散った。

三日歩いて、水があった。浅く、濁っていたが、水だった。子どもたちが先に入り、犬のように飲んだ。男は岸に立って見ていた。

水場の近くに、別の集団の痕跡があった。骨。灰。踏み固められた地面。最近まで誰かがいた。

男たちは止まった。音を聞いた。何もなかった。

それでも夜、男は火から離れなかった。炭を包む新しい布を、女から受け取って胸に当てた。熱が戻った。

翌朝、別の集団が来た。

先に来た者たちだった。南へ行った者たちではなく、もっと遠くから来た、顔の知らない者たちだった。

石を持っていた。構えていた。

男は立った。両手を開いた。何も持っていないことを見せた。

しばらく、誰も動かなかった。

やがて向こうの集団の一人が、石を下ろした。男も手を下ろした。

水を分けた。飲んだ。互いに飲むのを見た。

夕方、向こうの集団は去った。男はその背中を見ていた。どこへ行くのか、わからなかった。自分たちもどこへ行くのか、わからなかった。

夜、炭がまた熱を持った。男はそれを確かめてから横になった。

草の匂いがした。土の乾いた匂いがした。

遠くで何かが鳴いた。

男は目を閉じなかった。ただ、音が遠くなるまで、聞いていた。

伝播:SILENCE 人口:238
与えるものの観察:光を渡した。男は水を見つけた。
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第1040話

紀元前294,810年

その者(42〜47歳)

男は走っていない。歩いている。しかし群れの中心から離れるほど、足が速くなっている。

後ろで声がする。怒りの音ではない。問い詰める音でもない。ただ、彼の名を呼ぶ音が繰り返されている。それが、もっと怖い。

三日前、男は火の場所を変えた。

雨が来ると思った。岩の色が変わっていた。草の匂いが変わっていた。火を低い場所に残せば、水が来たとき消える。だから男は火を岩棚の上に移した。雨は来た。火は残った。群れの者たちは濡れた夜を越えた。それだけのことだった。

しかし何かが変わった。

長老格の男が、火の場所を動かした者を見る目が変わった。最初は一人だった。次に二人になった。今朝は四人が、男の背中に目を向けて何かを話していた。男にはその言葉が聞こえた。「知っていた」という音が、繰り返されていた。

知っていた、ということが、この群れでは何を意味するのか。

男は考えたことがなかった。火が燃える方向を読む。風の変わり目を感じる。水が来る前の土の締まり方を知っている。それは男の中に最初からあったことで、誰かに教わったものではなく、誰かに話したこともなかった。ただ、体がそうする。

岩を拾った。置いた。また拾った。

声がまた聞こえた。近くなっている。

男は足を止めた。前は開けた草地だった。草の丈が膝まである。その向こうに、低木の密集した場所がある。男の体がその方向を向いた。理由はない。風が少し、その方向から来た。草が揺れた。獣の気配ではない、ただの風だ。しかし男の足がそちらへ動いた。

低木の中に入った。葉が体に触れた。男はそこで止まった。

群れの声は遠くなった。

遠くなった声の中に、子どもの泣き声が混じっている。自分の子どもではない。しかし男は足を止めた。枯れ枝を握っていた手の力が抜けた。

戻るか、と男は思った。

戻れば何が起きるかを、男は体で知っていた。頭で考えたことはない。ただ、群れの中心に立ったとき、自分の体がどう扱われるかを、皮膚が知っていた。

男はそのまま低木の中にしゃがんだ。

草の匂いがした。湿った土の匂いがした。どこかで鳥が鳴いた。

第二の星

大地の南端で、この5年間、亀裂は深くなり続けた。土が乾く。草が薄くなる。獣の群れが移動する先を、人の群れが後を追うように動く。小さな集団が割れ、合わさり、また割れた。238という数の中に、様々な来歴を持つ者たちが混じり合っている。

旧人の群れとの境界は、北の丘陵地帯にある。境界といっても、線ではない。互いの気配を感じる距離、という感覚的な領域だ。旧人は大柄で、道具の使い方が違う。互いに関与しない。しかし稀に、同じ水場で出会う。そのとき何が起きるかは、どちらの群れも決めていない。

この5年で、群れの中に「知っている者」への恐れが生まれた。

疫病が集団を通り抜けた後、生き残った者たちの間に、説明できない出来事への敏感さが残った。なぜあの者は生き残り、あの者は死んだか。誰も答えを持っていない。しかし答えが出ないとき、群れは「知っていた者」を探す。

大地は今日も乾いている。亀裂の音はもう聞こえない。静かすぎる、とこの星は思う。静けさが続く前には、いつも何かが起きた。

与えるもの

風をその方向から吹かせた。草が揺れた。

男は低木の中に入った。

群れの声が遠くなるのを、与えるものは聞いていた。遠くなることが、次の渡すべきものへの道になるのか。それとも、ここで糸が切れるのか。渡せなかったことが何度もあった。渡せなかった記憶は、問いの形で残る。今、男はしゃがんでいる。低木の葉が、男の頭の上で揺れている。次に渡すべきものは、まだ見えていない。ただ、男がまだそこにいる。それだけが、次の問いを作っている。

伝播:HERESY 人口:242
与えるものの観察:男は低木の中にいる。声は遠くなった。
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第1041話

紀元前294,805年

第二の星

大地の南端、乾いた風が吹き続けている台地がある。

草は短く、地面は固い。雨季が来れば川になる溝が、今は白く乾いている。その台地の縁に、煙が上がっている。二か所だ。一か所は、一つの群れの野営地。もう一か所は、別の者たちのものだ。

南の群れは多い。北の群れは少ない。どちらの煙も、どちらが正しいかを語らない。

遠く離れた場所でも、大地はそのまま続いている。湿った低地では、別の者たちが水辺に沿って移動している。獣の群れを追っている。子どもを背負った者が一人、列の後ろで遅れている。雨がまた降り始めた。低地の草が倒れる。

台地では、その者が立っている。

集団の端だ。背後に声がする。怒りではない。呼ぶ声でもない。何かを確認しようとしている声だ。

その者は振り向かない。

与えるもの

熱が来た。皮膚から滲む熱ではなく、地面から上がってくる熱だ。

台地の石は昼間の光を蓄える。夜になっても温かい。その者が立っている場所の、少し前の地面に、熱の帯があった。幅は広くない。ちょうど足一つ分だ。

その一歩を、踏み出すかどうか。

この者が止まった。足が前に出ない。熱を感じたのか、別の何かで止まったのかは、わからない。

踏み出さなかった。後ろの声の方へ、体が向いた。

渡せたかどうか、わからない。しかし次に何を示すべきかは、もう決まっている。この者が向いた方向の先に、何があるか。そこに光を落とすことができるか。

その者(47〜52歳)

地面の熱が足の裏から上がってくる。

止まった。

後ろで声がまだしている。同じ音が繰り返されている。一つの音だ。短い。その者は、その音が自分に向けられていることを知っている。

体を回す。

声の主は若い男だ。顔に傷がある。古い傷で、もう塞がっている。その男が、腕を上げている。群れの方を指している。

その者は一歩、戻った。

もう一歩、戻った。

若い男が腕を下ろす。

二人で歩く。煙の方へ。煙は低く、横に流れている。風が変わってきた。

野営地の端に、女が一人、座っている。膝の上に子どもをのせている。子どもは動いていない。眠っているのではない。体に力が入っていない。その女は何も言わない。ただ、子どもの背中に手を当てている。

その者は立ち止まった。

火の側に、焼いた肉が置いてある。誰も取らない。

その者は肉を持った。女の側に置いた。女は見なかった。子どもの背中から、手を離さなかった。

夜が来た。子どもは朝には硬くなっていた。女は、子どもを地面に下ろした。土をかき始めた。両手で。爪が割れた。かき続けた。誰も止めなかった。誰も手伝わなかった。

その者は火の側に座って、炎を見ていた。

炎は揺れた。風ではなかった。何かが燃え尽きた音だ。

その者は薪を一本、加えた。

火が続いた。

伝播:NOISE 人口:256
与えるものの観察:熱を示した。戻った。渡せたかは問いのまま残る。
───
第1042話

紀元前294,800年

第二の星

台地の南に、もう一つの台地がある。

こちらは湿っている。岩の割れ目から水が滲み、苔が育つ。風は南から来て、湿った草の匂いを運ぶ。ここには旧人の群れが三つ、互いを避けながら暮らしている。彼らは言葉を持たないが、岩の表面に手で触れるとき、何かを伝えようとするような動作をする。受け取る者がいるかどうかは、別の話だ。

遥か北、まだ誰も渡ったことのない峡谷の向こうでは、小さな水場が干上がりつつある。鳥が集まらなくなった。獣が移動した。その痕跡を、誰も見ていない。

南端の台地では、疫病が通り過ぎた痕が残っている。生き残った者たちは野営地を少し動かした。野営地を動かすとき、人は黙っている。声を上げる必要がないからではなく、声を出す力を別のことに使っているからだ。

群れの縁に、岩がある。誰かが積み重ねたのか、崩れてそうなったのかは、わからない。

星は照らす。判断しない。

五年が経った。

与えるもの

炎の縁に、焦げた骨がある。

熱が、その骨の向こうに集まるように落ちた。

この者は骨を拾い上げ、肉を剥がし、また火に戻した。

骨の内側に何かあると、一瞬でも思ったか。思わなかったか。

渡したものが骨だったのか、骨の向こうの空白だったのかは、まだわからない。次に渡すべきものは、もっと小さくするべきかもしれない。一つの感触。一つの温度の差。

その者(52〜57歳)

火が落ちかけるたびに、この者が起きた。

夜中に二度、三度。目が覚める前に体が動いていた。小枝を足す。息を吹く。炎が戻る。それを確認してから、また横になった。

群れの中で、火を管理する者は眠り方が変わる。浅く、短く、何度も。体は横になっているが、耳は開いたままだ。

昼、獣を追って三時間歩いた。仕留められなかった。岩の多い斜面で足を滑らせ、膝を打った。皮が破れ、血が出た。帰り道、傷を押さえながら歩いた。溝の白い石で傷を塞ごうとしたが、うまくいかなかった。そのまま帰った。

野営地に戻ると、疫病で母を失った子どもが二人、火の近くにいた。この者は何も言わなかった。火の横に座り、子どもたちが眠るまで枝を折り続けた。音を出すためではなく、手を動かし続けるために。

夜、骨を火にかけた。焦げた匂いが広がった。骨を取り出し、手で持った。熱かった。しばらく持っていた。

内側が空洞だということは、知っていた。知っているというより、それ以上考えたことがなかった。

骨を地面に置いた。

また拾った。

置いた。

伝播:NOISE 人口:268
与えるものの観察:骨の内側を、一瞬でも見たか。
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第1043話

紀元前294,795年

その者(57〜59歳)

台地の縁に、石を積んだ場所がある。

その者が積んだのではない。誰が積んだかは覚えていない。だが若いころから、疲れると必ずそこに来て、石の上に手を置いた。石は昼間の熱を夜まで持っている。

57歳になって、その者の右膝が曲がらなくなった。

歩くことはできる。走れない。狩りに加わっても、野営の外で待つことが多くなった。若い者が獲物を引きずって戻ってくるとき、その者は立ち上がって受け取りに行く。膝をかばいながら。それだけだ。

火の管理はまだ引き渡していない。

朝、熾き火を確認する。短い木を選ぶ。湿った場所に近い薪は使わない。そういうことを誰に教わったか、その者には分からない。体が知っている。

集団の中に、緊張があった。

旧人の群れと行動域が重なる場所で、何度か衝突があった。若い者の一人が戻らなかった。二日後、台地の下で見つかった。誰も詳しいことを言わなかった。その者も聞かなかった。

だが、その者は何かを知っていた。

夜、焚き火のそばで若い男たちが話すとき、声が低くなる。その者が近づくと、声がさらに低くなり、やがて止む。その者は火をいじるふりをして、離れた。

三日後、食料の分配で争いがあった。

その者は間に入った。古い身振りで、両手を開いた。落ち着け、という意味ではない。ただ、手に何も持っていない、という意味だ。若い者の一人が、その者の顔をじっと見た。長く。

夜、その者は台地の縁の石に手を置いた。

石は冷えていた。季節が変わっていた。手の下で石が滑らかで、その者はそのまま座り込んだ。

膝が痛かった。

朝が来たとき、若い者の一人がいなかった。次の朝、また一人。三人目が消えたとき、老いた女が低い声で何か言った。その者には聞き取れなかった。

その者は食事をしなくなった。

最初は気づかれなかった。小さな子どもが果実を持ってきたとき、その者はそれを受け取って、近くにいた別の子に渡した。子どもは不思議そうな顔をして、走って行った。

膝が曲がらなくなったのは右足だけだったが、今は左も重かった。

台地の縁の石のところに、一人でいることが多くなった。日が落ちる方向を見る。遠くの稜線が削れている。風が吹くと、枯れた草の茎が揺れる。音がする。細い音だ。

若い男の一人が近づいてきた。

その者はその男を知っていた。子どものころ、火の管理を教えた相手だ。男は何も言わなかった。ただ、その者の横に座った。二人で稜線を見た。

男が去るとき、その者の肩に一瞬だけ手を置いた。すぐ離れた。

その者は動かなかった。

石の上に手が乗っている。昼間の熱は、もうない。空が暗くなる。台地の縁に風が来る。その者は目を細めた。遠くの稜線が、暗がりの中でまだ少しだけ明るい。

草の茎の音が続いている。

体が重くなるのは、ゆっくりだった。石の上の手が、少しずつ力を失う。指が石の表面を触れている。滑らかだ。

台地の下で、焚き火の煙が上がっている。

その者はそちらを見なかった。稜線の最後の明るさを、目を開けたまま見ていた。それが消えるとき、その者の体は石にもたれ、草の茎の音の中に、静かに傾いた。

第二の星

台地の北側、岩壁に沿って、旧人の群れが移動していた。先頭の者が何かの痕跡に立ち止まる。焚き火の古い灰だ。匂いを嗅ぐ。踏む。続きを歩く。南の台地では老いた女が、食料の残りを確認していた。数えることはしない。ただ手で確かめる。足りる。足りない。今夜は足りる。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:273
与えるものの観察:石の熱が消えた夜に、傾いた。
───
第1044話

紀元前294,790年

その者(28〜33歳)

草が倒れた方向を見た。

倒れた草には獣の重みが残っている。踏まれた茎が戻りきれずにいる。その者は膝をついて、土の匂いを吸った。乾いた糞と、獣のあぶらの混じった、重い匂い。古くない。

立ち上がり、追う。

草原は低く、地平まで見渡せる。その者の集団は三方から追い込みをかけるはずだった。だが声が聞こえない。煙も上がらない。左の丘の向こうに、仲間がいるはずだった。

立ち止まる。

遠く、何かが叫んだ。獣の声ではない。人の声だ。だが集団の声ではなかった。より低く、より多い。

その者は体を低くした。草の中に腹をつける。視線だけを上げる。

丘の稜線に、輪郭が現れた。ひとつ、ふたつ、五つ。立ち方が違う。重心の場所が違う。持っている棒の持ち方も、長さも。

その者が知っている者たちではなかった。

息を殺す。腹の下の土が冷たい。心臓の音が土に吸われていくように聞こえた。

稜線の者たちは下りてきた。ゆっくりと。草を踏む音が聞こえてくる。その者は動かなかった。動かないことが何かを決める、と体が知っている。言葉にならない知識が、膝を押さえていた。

やがて音が遠ざかった。

長い時間、その者は動かなかった。草の葉が頬に触れていた。虫が腕の上を歩いた。無視した。

声が聞こえたのは日が傾いてからだ。集団の仲間が草原を呼びながら来た。二人、来た。獲物はなかった。

その夜、焚火を囲んで、その者は稜線で見たことを手振りと音で伝えた。五本の指を立てた。低い声を出した。棒を持つ形を作った。集団の長老格の女が長い時間、火を見ていた。

火が小さくなってから、その者は焚火の灰に指を入れた。熱くなかった。表面だけが冷えていた。中にはまだ、何かがある。

第二の星

台地の縁から草原が広がる。

この五年、乾季が長くなった。水場のひとつが涸れ、集団はより広い範囲を動くようになった。足跡が遠くまで伸びた。それは同時に、この集団が他者の足跡の中に入っていくことでもあった。

草原の向こうにも人がいる。この集団とは異なる重心を持ち、異なる声で叫ぶ者たちが。出会いはまだ少ない。だが少ない出会いのひとつひとつが、何かを残している。石の積み方。皮を剥ぐときの刃の角度。子どもを背負う紐の結び方。見ている。見られている。

これが争いになることもあった。五年のうちに、集団の者が二人、戻らなかった。何があったかは誰も見ていない。ただ、出かけて、戻らなかった。

集団間の緊張は言葉にならない。しかし体は知っている。稜線に輪郭が現れたとき、すべての者が同じように低くなる。その動きはどこで学んだのか。誰も教えていない。

人口は増えた。五年前より多い。子が生まれ、半数が生き残り、集団は膨らんだ。膨らんだ集団は、より広く動く。より広く動けば、より多くの他者に触れる。

この星は、それを照らしている。判断しない。

与えるもの

糸が繋がった。

この者の腹の下に冷たい土があった。虫が腕を歩いた。その者は動かなかった。

動かないことを選んだ。

*草が揺れた。風がひとつの方向から吹いた。稜線とは逆の方向から。その者は顔を上げなかった。気づいたかどうかは、わからない。次に渡すべきものは、もっと近くに置く必要があるかもしれない。あるいは、この者は風の渡し方をすでに知っているのかもしれない。それが私の渡すものを必要としないことを意味するなら、私は何を渡せばいいのか。*

伝播:NOISE 人口:293
与えるものの観察:動かないことを知っていた。誰も教えていない。
───
第1045話

紀元前294,785年

第二の星

北の湿地では、葦が腐って水面が黄ばんでいる。

疫病が通り過ぎた集団の一つは、半数を失ってなお動いている。残った者たちは火を焚かない夜を過ごし、煙を見せないことを覚えた。覚えたのではない。煙を出した者が消えた後に、残った者が煙を出さなかった。それだけだ。

乾いた高地では旧人の一群が崖の陰に座っている。何もしていない。岩を背にして、同じ方を向いて、座っている。その中の一人が立ち上がり、また座る。集団の呼び名を持たない者たちが、名前のない場所で、名前のないまま生きている。

南の沿岸では子どもが三人、貝殻を並べている。意味があるかどうかは分からない。並べて、崩して、また並べた。

獲物を追う者が帰ってこない夜が、各地で散らばっている。戻った者と戻らなかった者の差異を、集団は測れない。ただ、場所が空く。空いた場所に次の者が入る。入れない時には空いたままになる。

第二の星はそのすべてを照らす。葦も、煙も、貝殻も、空いた場所も。

与えるもの

獣の重みを知った者に、次を渡す。

水の音を聞かせた。
岩場を越えた先に水が流れている。その者は立ち止まった。少しだけ、足が向いた。しかし引き返した。集団が待つ方向へ。
渡したかったのは水ではなく、一人で遠くへ行けるという感触だった。届いたかどうかは分からない。次は、戻れなくなる前に渡す必要がある。

その者(33〜38歳)

岩場を踏む音が変わる場所がある。

乾いた石の上では足が跳ねるように軽い。湿った石では音が沈む。その者は音の違いで足を置く場所を選んでいた。何年もそうしてきたから、考えていない。足が先に知っている。

水の音がした。

岩の向こうから来ていた。薄く、続いていた。その者は足を止めた。

鼻から息を吸う。湿った土の匂い。苔の冷たさに似た匂い。遠い水の匂い。

一歩踏み出した。また一歩。

岩の角を回れば見えるはずだった。

しかし集団の声が届いた。遠くから呼ぶ声ではない。叫ぶ声だ。短く、繰り返す。帰れという意味ではない。来いという意味だ。

その者は振り返った。

水の音が背中に残った。消えなかった。

小走りで戻りながら、その者は何度か後ろを見た。岩場はもう曲がり角の向こうで、水の音は風に混じって聞こえなくなっていた。

集団の場所に着いた。倒れた者がいた。腹を押さえて、動かなかった。その者の父の兄だった。腹の傷が三日前からある。膿んでいた。獣に引っかかれた傷だ。腫れた皮膚が黒ずんでいた。

周りの者たちが見ていた。何もしなかった。できないから何もしないのか、することを知らないから何もしないのか、その者には分からない。

その者も、見た。

父の兄は夕方に、腫れた腹を押さえたまま横向きになり、次の朝には動かなくなっていた。誰も近づかなかった。匂いを嫌がったのか、触れることを怖れたのか、分からない。

その者は遠くから見ていた。

水の音のことは、もう考えていなかった。

伝播:HERESY 人口:287
与えるものの観察:届いたが、戻された。次は間に合わないかもしれない。
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第1046話

紀元前294,780年

その者(38〜39歳)

乾季が来る前に、その者は腹の空洞を知った。

腹が鳴るのではない。腹が黙る。それが飢えの深いところだ。鳴いているうちはまだ何かを期待している。黙ったとき、体は諦めとは別の何かに切り替わる。ただ続ける。それだけになる。

集団から離れたのは、その者が選んだのではない。集団がその者のそばから離れた。

疫病が通った後、残った者たちの目が変わっていた。何かを測る目だ。誰が動けるか、誰が食う量に見合うか。その者は動けた。だから最初はまだ一緒にいた。しかし獲物を追って戻るたびに、手ぶらで戻る回数が増えた。草原の獲物は移動していた。西に、あるいは北に、その者には判断できない方角へ。

ある夜、火の輪の外に座らされた。

追い出されたのではない。場所がなかったのでもない。ただ気づいたとき、その者は輪の外にいた。誰もそこへ来なかった。

その者は立った。歩いた。

赤茶けた土が続く斜面を三日歩いた。膝が重くなるのを感じながら。

四日目の朝、風が変わった。

東から来た風の中に、腐った果実の匂いが混じっていた。熟れすぎた、地に落ちた実の匂い。その者は止まった。鼻を空に向けた。匂いは来て、消え、また来た。

体が先に向いた。足が動いた。

斜面を下りきったところに、岩が重なっていた。岩の隙間から細い根が垂れ、その根の先に、小さく縮んだ実がいくつかついていた。干からびた実だ。水気はない。だが甘い匂いがした。

その者は実を拾った。口に入れた。噛んだ。

砂のように崩れたが、舌に甘さが残った。もう一粒。また一粒。

岩の陰に寄りかかり、その者は空を見た。

空は白かった。

雲ではなく、乾いた大気が空をそう見せていた。その色の中に、鳥が一羽、輪を描いていた。上昇気流に乗って、羽ばたかずに円を描く鳥。

その者は目で追った。鳥は円を描き、また円を描いた。

手を伸ばしたわけではない。声を出したわけでもない。ただ目で追い続けた。

体の力が抜けていくのを、その者は感じていたかもしれない。感じていなかったかもしれない。岩が背中に当たっていた。土が温かかった。乾いた匂いがした。

鳥はまだ円を描いていた。

その者の目が、ある時点で鳥を追うのをやめた。そのまま、空に向いていた。

第二の星

北の森の縁で、別の集団の子どもが初めて火を起こした。石と石を打った。何度も失敗した。小さな煙が上がったとき、その子どもは声を上げなかった。ただ火を見た。西の岩場では、一頭の獣が傷ついた足を引きながら水場に向かっていた。たどり着けたかどうか、この星は知らない。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:285
与えるものの観察:匂いが届いた。体が先に動いた。それだけだ。
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第1047話

紀元前294,775年

第二の星

乾季が来た。

草原は色を失うのではない。草原は音を失う。虫が鳴かなくなる。風に乗るものがなくなる。空気が薄くなるのではないが、何かが抜けていく。そういう季節だ。

大地の北側に、別の群れがいた。

旧人の群れだ。背が低く、顎が張り、指が太い。移動する速度は遅いが、岩を割る力は強かった。水場を知っていた。季節の変わり目に水が湧く場所を、体で覚えていた。そこへ向かっていた。

この群れも、その水場を知っていた。

乾季の前、水場は誰のものでもなかった。満ちているときは争わない。減ってくると、違う。体が先に知る。目ではなく、喉が判断する。

旧人の群れが先に着いた。

水場の周りに散らばって、飲んでいた。子を連れた者もいた。牙を持つ獣の骨を腰に挿していた。威嚇ではない。ただそういう習慣だった。

この群れの長老格の者が、岩の上に立った。音を出した。低い、腹から来る音だった。旧人の群れの一人が顔を上げた。同じくらい低い音を返した。

しばらく、どちらも動かなかった。

水場の水面だけが、風で揺れた。

それから旧人の群れは、南側に少しずれた。水の縁から離れた。この群れが北側から近づくための間を、開けた。

譲ったのか。そうではないかもしれない。どちらが先に水を飲むかより、どちらが岩の上に立っているかの方が、その場では重かった。長老格の者は降りなかった。旧人の群れは縁を離れた。そういうことが起きた。

水を飲みながら、この群れの者たちは旧人を見た。

旧人も見た。

どちらも手を出さなかった。

しかし緊張は水に溶けていた。体が感じていた。長老格の者は岩の上で、目を細めたまま動かなかった。旧人の群れが去るまで降りなかった。旧人の群れが水場から離れて草原に消えてから、ようやく岩を降りた。

その夜、群れの中で声が上がった。

何を言っているのか、複雑な語彙はなかった。しかし声の高低と、手の動き、体の向きで、何かが伝わった。旧人への怒りではなかった。怖れでもなかった。別の何かだった。あれは何者か、という問いに近い音だった。

誰も答えを持っていなかった。

火が小さくなっても、その声はしばらく続いた。それからひとりずつ、横になった。

星が出ていた。風が乾いていた。

水場の水は、まだあった。しかし明日の分があるかどうか、誰も知らなかった。

与えるもの

水面の揺れが、一瞬だけその方向を示した。

その者は水を飲もうとして、揺れる水面を見た。見続けた。飲まなかった。

渡したのに飲まなかった、と思う。だが渡したかったのは水ではなかった。揺れの先に何があるかを、見せようとした。この者は水面を見た。それだけで止まった。次に渡すなら、揺れの向こうに音を置く。

その者(8〜13歳)

水場の縁に腹ばいになって、水面を見ていた。

旧人が去った後だった。群れの者たちが飲んでいる間、その者は飲まなかった。揺れが止まるのを待っていた。揺れが止まったとき、自分の顔が映った。見知らぬ顔だと思った。そういう言葉はなかったが、体がそう感じた。

喉は乾いていた。それでも少し、待った。

伝播:HERESY 人口:281
与えるものの観察:揺れが止まるまで待つ者がいた
───
第1048話

紀元前294,770年

第二の星

大地が揺れたのは夜明け前だった。

地鳴りではない。地鳴りは腹に届く。これは足の裏から来た。岩盤が、深いところで何かを吐き出すように、一度だけ、長く震えた。

震源は遠かった。しかし揺れは連なる丘を越えてきた。乾いた土の上に積み重なった岩屑が、静かに崩れた。誰も見ていなかった。崩れた音だけが、夜明けの静寂を一瞬だけ埋めた。

群れは川沿いに寝ていた。

川の水位はこの季節にしては低かった。上流で何かが変わっていた。土が動いたのか、流れを塞ぐものが生じたのか、それはわからない。ただ水が減った。魚の群れが変わった。これまで浅瀬に集まっていたものが姿を消し、代わりに細くて骨の多い種が岸辺に寄るようになった。

旧人たちも川沿いにいた。

群れとは別の岸だった。火を持たず、岩陰に固まって眠る彼らは、夜明けに川へ降りてきた。背が低く、額が張り出し、動きは重かった。しかし静かだった。音を立てなかった。川に手を入れ、ゆっくりと水を掬い、飲んだ。

群れの中で、最も背の高い成体が岸に立って彼らを見ていた。

何も起きなかった。

旧人たちは水を飲み終えると、来た方向へ戻った。草の中に消えるのではなく、岩の向こうへ、ただ歩いて消えた。成体は彼らが見えなくなるまで立っていた。それから振り返り、群れの方へ戻った。

しかし何かが変わっていた。

成体の目が変わった、というわけではない。足の運びが変わったわけでもない。ただ、彼が戻ってきたとき、群れの者たちが少し動いた。体の向きを変えた。成体に近づいた者もいれば、遠ざかった者もいた。

これは以前には起きなかった動きだった。

集団間の緊張は言葉では伝わっていない。しかし体が知っていた。誰かが岸に立ち、向こう岸を見たという事実が、体から体へ、視線から視線へと伝わっていた。

空が高くなる時期が過ぎ、風が向きを変えた。

乾いた風が来た。草が乾いた。夜の温度が落ちた。群れの中で最も小さい体の者が、連続して二晩、咳をした。三日目には動かなくなっていた。母親が傍に座ったまま、次の夜も動かなかった。

疫病の後が、まだ群れに残っていた。

死んだ者の数より、弱くなった者の数の方が多かった。体は動く。食べることもできる。しかし以前より遅くなった。疲れが早くなった。それが数ヶ月続いていた。

川の水位は上がらなかった。旧人たちは翌朝も川に来た。

今度は成体が三人で岸に立った。声は出さなかった。体の向きを変えなかった。ただ立った。旧人たちは水を飲み、また消えた。

夕方、群れの中で火を管理している者が、いつもより長く火を見ていた。

炎に何かを問うているわけではない。ただ長く見ていた。

この大地の上で、種類の違う体が同じ水を飲んでいた。

与えるもの

火の熱が、ある方向からだけ来なかった。

風が変わったのではない。炎の形は変わっていなかった。ただ、一方の側からだけ、熱が届かなかった。

その者は火に近づいた。熱い側へ移った。旧人たちが去った方向に背を向けた。

遠ざかることを選んだ。近づくことではなく。

次に渡すべきものが、少しずれた気がした。渡した。届いたのかもしれない。しかし何のために使われたのかが、重さとして残った。

その者(13〜18歳)

旧人が川を渡ってこなかった。

それだけを確かめた。

火の熱がある方向だけから来なかった。その者は熱い側へ体を移し、背を向けた。

岩を一つ、手の中で転がした。置いた。また拾った。

夜、群れの外れで膝を抱えた。声は出さなかった。ただ川の音だけが続いていた。

伝播:DISTORTED 人口:294
与えるものの観察:遠ざかることを選ばせた。それが次の問いになった。
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第1049話

紀元前294,765年

その者(18歳)

その者は群れの端を歩いていた。

いつもそうだった。前の者たちとの間に、少しだけ隙間がある。追いつこうとすれば追いつける距離だが、その者は追いつかなかった。追いつかないことが、その者のいる場所だった。

峡谷沿いの道を、群れは移動していた。雨の後で、崖の縁は赤く湿っていた。

群れが集めた木の実を、その者は腰の皮袋に入れていた。前の群れのうちの誰かが落としたものを拾ったのか、自分で採ったのか、もう区別がつかなかった。袋は重かった。

――集団間の緊張。

数日前から、別の群れの匂いがした。煙ではない。汗の混じった風が、川上から来ていた。群れの中の年長の者たちは立ち止まり、互いの顔を見た。その者にはその意味がわからなかった。わからなかったが、年長の者たちが何かを共有していることはわかった。

その者は除かれた。

明示的な言葉はなかった。ただ、水を配る列に入ろうとしたとき、前の者が体を向けた。顔を見た。そして向き直った。

その者は列の外に立っていた。

次の朝、その者は一人だった。

群れはいなかった。夜のうちに動いたのか。焚き火の残りが白く冷えていた。その者は残った灰を指で触れた。温かくはなかった。

その者は崖の縁を歩きながら、川を探した。腰の袋の中の木の実を一つ取り出して、噛んだ。苦かった。飲み込んだ。

崖の縁の土は、夜の雨でさらに緩んでいた。

その者は気づかなかった。崩れ始めたとき、足が宙を踏んだ。袋の重さが、体の向きを変えた。

峡谷の底まで、音があった。鳥が逃げた。

それから静かになった。

川は変わらず流れていた。

第二の星

その者が落ちたのと同じ刻、乾いた高原の向こうでは二つの群れが川を挟んで向かい合い、声だけで対峙していた。どちらも動かなかった。川は浅かった。渡ろうと思えば渡れた。夜になり、どちらの群れも引いた。誰も死ななかった。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:363
与えるものの観察:崩れる前に、風の匂いが変わった。
───
第1050話

紀元前294,760年

第二の星とその者(27〜32歳)

乾いた風が低地を横切っていた。草は根元から折れ、砂が腹を這うように動く。

その者は重い石を運んでいた。両手でかかえる。胸の前に押しつけて、体の重心を石に預ける。足元を見ずに歩く。足が地面を読む。

集団の中ほど、女が腹を押さえて座りこんだ。周囲の者たちが止まった。止まらなかった者もいた。その者も止まった。しかし石を置かなかった。抱えたまま立っていた。

夜、火の番だった。

薪を足す。炎が伸びる。炎が縮む。また足す。これを繰り返す。眠れない者が何人か、火の縁に寄ってきた。その者は場所を譲らなかった。火は全員のものだが、番をしているのは自分だという何かがあった。それを音にする語を、その者は持っていなかった。

熱波が三日続いた。水場が干上がった。集団が移動した。

その者は後ろの方を歩いた。重いものを引きずる者の隣にいた。荷を分けて持った。それを誰かが見ていたかどうか、その者には関係がなかった。

集団の中に、旧い群れからきた者がいた。骨格が違う。額が低い。肩が広い。子どものころから集団の中にいたから、排除されていなかった。その者はその者と時々、火の前で同じ方向を見た。言葉はなかった。言葉がないことが、不便ではなかった。

雨季が来た。水が戻った。

その者は皮を引いていた。石の端で、獣の皮を伸ばす。膝で押さえ、両手で引く。肩が痛い。気にしない。引く。伸ばす。また引く。

温もりが、右の頬に当たった。

火の方向ではなかった。風もなかった。それでも何かが、そこにあった。

その者は顔を上げた。皮から手を離した。何もなかった。しかし手が止まったまま、少しのあいだ、その者はそこを見ていた。

旧い群れからきた者が、ある朝いなかった。

誰も何も言わなかった。集団は動いた。その者も動いた。しかし、いつもより少し、足が重かった。

集団の緊張は音のないところに溜まっていた。目が合うと早く逸れる。火の前でも、誰かが何かを言いかけて言わないことがあった。その者はそれを感じていた。感じていたが、言葉にできなかった。

その者が何かを知っていたのかどうか、誰にもわからない。

知りすぎた、と他の者たちが思ったのかもしれない。思わなかったのかもしれない。ただ、ある夜、その者は火の番をしていた。

石が飛んできた。

暗闇から。音が先に来て、衝撃が来て、その者は横に倒れた。火が揺れた。炎が揺れるのをその者は横向きに見た。薪が崩れる音がした。

誰かが薪を直した。火の番が、別の者に移った。

与えるもの

糸が繋がった。

皮を引くその者の右頬に、温もりを落とした。他に渡せるものがなかったわけではない。しかしあの瞬間、その者の手が止まった。

その者は顔を上げた。何もなかった場所を、少しのあいだ見た。

それだけだった。

旧い群れからきた者がいなくなった翌朝、その者の足が重かった。その重さを、私は見ていた。渡したのは温もりだ。その者がそれで何をしたか、私にはまだわからない。ただ手が止まった。顔が上がった。

次に渡すべきものを、私はまだ持っていない。だから問う。手が止まることと、何かを受け取ることは、同じことなのか。

糸は続いている。

伝播:HERESY 人口:355
与えるものの観察:温もりで手が止まった。それだけが残った。
───
第1051話

紀元前294,755年

その者

皮を引く手が重い。何度も止まる。朝から食べていない。昨日も。

火の番をしながら、燃える枝を見る。炎の向こうに誰かの影が見える。その者は顔を上げない。枝をくべる。煙が目に入る。

群れの端に座る。他の者たちが肉を分ける音が聞こえる。骨を砕く音。舌打ち。短い声。その者の分はない。

夜になっても眠らない。火の前で膝を抱える。炎が小さくなる。枝を足す。また小さくなる。枝がなくなる。

火が消えた。

その者は横になる。地面の冷たさが背中に染みる。空を見上げる。星がある。動かない。

息が浅くなる。腹の中が空っぽだ。でも痛みはもうない。

手のひらを地面に置く。土の匂い。草の根の匂い。

目を閉じる。開かない。

第二の星

大きな川のほとりで、別の群れが魚を捕っている。石を水に投げ込んで、逃げ惑う魚を手づかみにする。子どもたちが水しぶきを上げて笑っている。

南の丘では、老いた女が最初の言葉を孫に教えている。「アー」という音。火を意味する音。子どもは真似をしようとして、違う音を出す。女は根気よく繰り返す。

西の谷で、二つの群れが出会った。警戒しながら距離を保つ。だれも近づかない。風だけが間を通り抜ける。

与えるもの

道は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:347
与えるものの観察:手が止まることの意味を、まだ測りかねている。
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第1052話

紀元前294,750年

その者

火が低い。

夜明け前、その者は枝を足した。手が震えていた。震えていることに気づかなかった。枝は炎の中に落ち、煙が白く立った。

腹の底から熱い。皮膚の上は寒い。

起き上がろうとした。足が言うことを聞かない。岩に手をついて、膝をついて、それでもゆっくりと体を起こした。

炎を見た。

燃えている。それだけだ。それでいい。

集団の者たちが眠っている。子どもが一人、その者の足元に丸まっていた。その者はその子どもを見なかった。見る余力がなかった。ただ炎を見続けた。

空が白くなった。

鳥の声が遠くからした。いつも聞いていた声だった。今日は遠い。耳の奥が詰まっているようだった。

その者は座ったまま、炎が小さくなるのを見ていた。枝を足すことができなくなった時点で火は縮んでいったが、その者はそれを知っていた。知っていて、手が動かなかった。

熱は腹から胸へ上がってきた。

口の中が苦い。

誰かが起きてきた。集団の若い者だった。その者の顔を見て、立ち止まった。何かを言った。単語が二つ三つ。その者には届かなかった。

その者は炎を指さした。

それだけだった。

若い者は火を見た。枝を拾った。足した。炎が戻った。

その者はそれを見た。

体が傾いた。岩に寄りかかった。岩は冷たかった。その冷たさだけが、はっきりと感じられた。

空が明るくなった。

光が斜面を下りてきた。草の上を滑って、その者の足の先に触れた。

その者はそこを見た。

光が草の葉の端を照らしていた。朝露が一粒、光を割った。

火の番は、誰かに渡った。

その者の体から力が抜けたのは、それからしばらく後のことだった。岩に寄りかかったまま、体が少しずつ横へ傾いた。誰かが気づいて、支えた。腕の中で、その者の重さが増した。

声がした。子どもの声だった。

その者の目は開いたまま、光の中にあった。

第二の星

乾いた台地の先、低い丘が連なる場所で、旧人の群れが水場を離れていた。夜が明けて間もなく、風が南から変わった。彼らは匂いを嗅いで立ち止まり、それからゆっくりと向きを変えた。どこへ行くのか、誰も知らない。ただ歩いた。

与えるもの

朝露が光を割った瞬間、その者の目に届いたかどうか、私には分からない。

届いたと思いたいが、私はそれを何度も思ってきた。

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:SILENCE 人口:362
与えるものの観察:光が草に届いた。目が開いたまま、光の中にあった。
───
第1053話

紀元前294,745年

第二の星

雨が来なかった。

大地の南、赤い砂が積み重なる台地では、地面が深く割れていた。割れ目の端は白く乾び、指で触れると粉になった。草の根が露出し、風が吹くたびに細かな土が空へ舞い上がった。空は青かった。雲がなかった。それが問題だった。

集団は水を知っている場所へ向かって動いた。しかしその場所も、底が見えていた。泥が割れ、亀裂が放射状に広がっていた。水があった証拠だけが残っていた。

幼いものから順に、声が細くなっていった。老いたものは歩くのをやめた。歩くのをやめたものは、次の朝には動かなかった。集団は小さくなりながら歩き続けた。

遥か遠く、大地の東の端では、別の小さな群れが丘の陰に潜んでいた。彼らは旧人と交じり合いながら、顔つきも言葉も曖昧な集団になっていた。そちらには雨が降っていた。地面は湿り、小さな実が鈴なりになっていた。その群れは知らなかった。西で何が起きているかを。

この星は両方を見ていた。どちらも正しく、どちらも間違っていなかった。

与えるもの

糸が繋がった。

六歳の者に。まだ骨が細い。

渡したのは、匂いだった。

枯れた草の向こう、低い岩の陰から、湿った土の気配が漏れていた。水脈が地下を通っている場所に、その匂いは薄く滲んでいた。この者の鼻孔が、一瞬だけ動いた。

この者は岩の方へ半歩、動いた。それから止まった。大人が呼ぶ声がして、そちらへ走っていった。

渡せたのか、渡せなかったのか。この者の足は正しい方向へ向いていた。しかし止まった。次に渡すものは何か。匂いではなく、もっと強いもの。この者の体が動きを止められないような。

その者(6〜11歳)

喉が乾いていた。

いつも乾いていたが、今日は唾を飲んでも何もなかった。口の中が砂のように感じた。砂ではない。でも砂みたいだった。

集団は歩いていた。その者も歩いた。

母親の踵を見ながら歩いた。踵が割れていた。割れ目に土が詰まっていた。その者の足も割れていたが、見ていなかった。母親の踵だけを見ていた。それを見ている間は、歩けた。

岩の並ぶ場所を通った時、鼻の奥に何かが触れた。

土の匂い。しかし周りは乾いていた。

その者は足を止めた。

岩の陰の方を見た。何もなかった。ただ影があった。

大人が呼んだ。名前ではない。短い音だった。その者はそちらへ走った。

夜、大人たちが集まって声を出した。低い声と高い声が交じった。その者には意味がわからなかった。しかし声の調子はわかった。良くない調子だった。

その者の隣で、同じくらいの年の子が丸くなって寝ていた。翌朝、その子は起きなかった。集団の誰かが、その子の肩を二度叩いた。それから先へ歩き始めた。

その者は振り返った。

振り返って、その子を見た。

それから前を向いて歩いた。

喉はまだ乾いていた。岩の匂いのことは、もう思い出さなかった。

集団が岩場を抜けた夜、水のある場所に着いた。大人たちが声を上げた。その者も走った。泥混じりの水を両手で掬った。冷たくなかった。温かかった。しかし水だった。

飲んだ。

地面に膝をついたまま、しばらくそこにいた。

空に星があった。その者はそれを見ていなかった。地面だけを見ていた。手に残った水滴が土に吸われていくのを見ていた。

伝播:HERESY 人口:304
与えるものの観察:匂いは届いた。足が止まった。しかし声が勝った。
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第1054話

紀元前294,740年

第二の星

台地の南、赤い砂が風に運ばれていた。積み重なる先は、低い窪地だった。窪地には水がない。底に白い塩の膜が広がり、昼の光を返している。

大地の北では、別の群れが川沿いを歩いていた。背の低い者たちで、額が大きく張り出していた。彼らは川岸の柔らかい土に獣の骨を並べていた。何のためかは、わからない。並べてから、また歩き始めた。

東の斜面では、若い牝の獣が三頭、草のない地面を舐めていた。塩だった。舐めながら動かなかった。

南の集団では、子どもが四人、岩の影で眠っていた。うち一人は翌朝から動かなかった。熱が続き、肌が乾いたまま冷えた。母が抱いていた。しばらくして置いた。

風は東から西へ吹いていた。

この星は傾き、光の角度が変わっていた。雨季がまだ来ない。来る気配が、どこにもない。

与えるもの

集団の端、岩と岩の隙間に、ひとつの草が残っていた。根が深いから生きていた。葉は細く、縁が鋭い。その葉の先端に、夕暮れの斜光が細く落ちた。

この者は足を止めた。

葉の先を見た。しかし手を伸ばさなかった。

——根が深いから生きている。その事実を、この者は見ていたか。見ていなかったか。

次に渡すべきものがある。だが今、この者の足元の地面が固い。固い地面に何があるかを、まだこの者は知らない。

その者(11〜16歳)

岩を蹴った。砕けなかった。

もう一度蹴った。足の先が痛くなった。それだけだった。

群れの大人たちが低い声で話していた。この者には入れない輪だった。声の調子で、何かが決まっていると感じた。誰かについての話だと感じた。自分についてかもしれない、とも感じた。

その者は輪から離れた。

草のない斜面を歩いた。足の裏に細かい砂が入った。取り出さなかった。

岩の隙間に、細い草が一本あった。葉の先に夕日が当たっていた。しゃがんで見た。手を伸ばしかけて、止めた。なぜ止めたのか、この者にはわからなかった。

立った。

大人たちの声がまだ聞こえていた。

この者は背を向けた。輪から遠い方向へ、もう少し歩いた。地面が固くなる場所まで来た。岩盤が露出していた。その上に立った。

足の裏が冷たかった。

下に何かある、という感じが来た。下ではなく、下の先に。

しゃがんで、岩の面に手のひらを置いた。何もなかった。ただ冷たかった。

立った。輪の方向を見た。大人たちの声が止まっていた。

伝播:HERESY 人口:305
与えるものの観察:根の深さを見たか、見ていなかったか。
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第1055話

紀元前294,735年

その者(16〜21歳)

喉が渇いていた。

舌が上顎に張りついていた。飲み込もうとすると、何もなかった。砂だけが口の中で鳴った。

その者は岩の影に背をつけて座っていた。両膝を抱えていた。足の裏の皮が厚くなりすぎて、地面の温度がわからなくなっていた。

集団は動いていた。老いた者が先頭を歩いていた。子どもを抱えた女が続いた。男たちは荷を背負っていた。干した実。皮。折れた骨から取り出した何か。

その者は立ち上がらなかった。

膝を抱えたまま、地面を見ていた。割れた土。ひびの網が広がっていた。ひびの一本を指でなぞった。端まで行くと、別のひびに繋がった。また端まで行くと、また別のひびに繋がった。どこまでも繋がっていた。

集団の音が遠くなった。

その者は顔を上げた。

地平に砂煙が立っていた。集団の後ろ姿が揺れていた。誰もこちらを振り返らなかった。

立ち上がった。岩に手をついた。手のひらが熱かった。岩は昼の光を全部吸い込んでいた。

歩き始めた。集団の方向へ。しかし速くは歩かなかった。

途中で立ち止まった。

風の向きが変わった。北から、乾いた風ではなく、少しだけ違う何かが混じって来た。土の匂いではなかった。草でもなかった。

その者はそちらを向いた。

東の方角だった。地平は低い丘で終わっていた。丘の向こうは見えなかった。

鼻を動かした。もう一度、匂いを探した。しかし風は止んでいた。

集団を見た。東の丘を見た。集団を見た。

足は動かなかった。しばらく、その場に立っていた。砂が足首に当たった。喉がまた鳴った。

結局、集団の方向へ歩いた。

丘は、背中の側に残った。

夜、火を囲んで座った。老いた者が何か言った。明日、どちらへ行くかという話だった。みなが声を出した。手を動かした。その者は黙っていた。

食べるものは少なかった。硬い根を二つに割って、みなで分けた。その者の分は親指ほどの欠片だった。噛んだ。飲み込んだ。腹は返事をしなかった。

その夜、集団から少し離れた場所に、若い男が横になっていた。五日前から歩けなくなっていた男だった。脚が腫れていた。誰かが水を絞った布を脚に当てていたが、水はとうに干上がっていた。

夜半、その男が動かなくなった。

誰かが気づいた。声を出した。集まった。

その者も近くで見ていた。男の顔を見た。口が少し開いていた。目は半分、閉じていた。

誰かが手で男の目を閉じた。

朝になった。集団は歩き始めた。男を残して。

その者は最後に一度だけ振り返った。

男は地面の色に馴染んでいた。

第二の星

始まりの大地は今、南の端から北の端まで乾いていた。

川床は白い。水が流れた形だけが残っていた。魚は骨になっていた。岸に並んでいた。風が来るたびに少しずつ移動した。

大地の東、低い丘の連なりの向こうに、水が残っていた。岩盤の下から滲み出る水だった。量は少なかった。しかし枯れてはいなかった。

その水を、別の群れが知っていた。旧い形の者たちだった。背が低く、眉の骨が張り出していた。彼らは何世代も前からその場所を使っていた。

人類の集団は知らなかった。

北では、植物が少しだけ生きていた。岩の割れ目に根を張った草だった。葉は細く、触れると粉になった。それでも実をつけていた。小さく、苦い実だった。

集団を半数近く損なった乾きは、今年だけで終わらないかもしれなかった。空に雲が来なかった。来たとしても、雨になる前に蒸発した。

この星は大地の熱を知っていた。岩盤の深いところでは、温度は変わっていなかった。地面の上だけが焦げていた。

東の丘の向こうで、岩盤から水が滲んでいた。

その者の集団は西へ歩いていた。

与えるもの

東から風を送った。匂いを混ぜた。

その者は向いた。それで十分だと思った。

足が動かなかった。それが問いになった。

次に何を渡すべきか、まだわからない。ただ、渡す必要があることだけは分かる。東の丘の向こうに水がある。その者は今、反対側を歩いている。

伝播:DISTORTED 人口:280
与えるものの観察:東を向いた。それだけだった。足は動かなかった。
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第1056話

紀元前294,730年

第二の星

大地が割れていた。

割れたのではない。もともとそこにあった亀裂が、干ばつの熱で広がっていた。粘土質の地面は縁から崩れ、灰色の粉になり、風に運ばれた。歩くと足首まで沈んだ。引き抜くたびに音がした。湿り気のない、空洞の音だった。

始まりの大地の南側、低い丘の連なりに沿って、集団は動いていた。280の者たちが、かつて水場だった場所から場所へと移っていた。枯れた窪みを見て、また歩いた。老いた者が先頭を歩いた。若い者が荷を負った。子どもは親の腕に抱かれるか、地面を引きずられるように歩いた。

水は三日前から底をついていた。

皮袋に残っていたものを、子どもたちに先に渡した。それが集団の習慣だった。理由を言葉にする者はいなかった。ただそうした。老いた者は飲まなかった。若い者も、自分の子でなければ渡さなかった。

日が傾いた頃、集団は止まった。

岩盤が張り出した斜面に、影があった。そこに集まり、横になった。誰も声を出さなかった。子どもが泣こうとして、泣けなかった。口を開けて、音が出なかった。母親がその口に指を差し入れた。指は乾いていた。子どもは吸った。何もなかった。

夜になると気温が落ちた。

体を寄せ合った。骨と骨が当たった。肉が薄くなっていた。三か月前と同じ者とは思えない重さだった。隣の者の呼吸が遅かった。遅くなった。止まった。誰も気づかなかったのではない。誰も動かなかった。

夜明け前、集団の中で声が上がった。低い、長い声だった。争いではなかった。声が、方向を指していた。北の方角を指す者と、東の方角を示す者がいた。身振りが激しくなった。指が胸を突いた。肩が押された。

その者は岩の陰にいた。

争いには入らなかった。集団の決定に入れない立場がある。その者はその側にいた。知りすぎた者は、時に迷惑になる。迷惑になった者がどうなるかを、この集団はすでに知っていた。

夜が明けた。

北へ向かう者と、東へ向かう者に、集団は分かれなかった。分かれ方が決まった。声の大きな者が勝った。東へ。足の遅い者、異を唱えた者、余計な荷物になる者が後ろに残された。残された者の数は、数えなかった。

その者も残された。

与えるもの

石の中に、別の色があった。灰色の岩盤の一点だけが、赤みを帯びていた。そこだけ、朝の光が長く留まった。

その者は目を細めた。立ち上がろうとして、膝が折れた。また座った。赤い部分を見ていた。見ていたが、立てなかった。

渡せたかどうか、わからない。ただ、あの色の下に水脈があることを、この者が知れたかどうか。次に渡すなら、もっと近くにある何かでなければならない。もっと渡しやすい何かを、探している。

その者(21〜26歳)

残された者たちは動かなかった。

その者は岩にもたれて、東の方角を見ていた。集団の後ろ姿は、もう見えなかった。砂埃だけが残っていた。

膝の上に手を置いた。手の甲が見えた。骨が見えた。

石があった。拾った。重かった。置いた。

赤い岩の方を、また見た。

伝播:HERESY 人口:278
与えるものの観察:赤い石の下を、まだ諦めていない