2033年、人類の旅

「紀元前294,725年〜紀元前294,605年」第1057話〜第1080話

Day 45 — 2026/05/17

読了時間 約55分

第1057話

紀元前294,725年

第二の星

干ばつは五年目に入っていた。

川床は白く乾いた。かつて水が流れた場所に、貝の殻が散らばっていた。小さなもの、薄いもの、触れると粉になるもの。雨の記憶を持つ者はまだいたが、その記憶を伝える言葉がなかった。

北の岩場では旧人の一群が動いていた。背が低く、肩が広く、眉の骨が前に張り出していた。彼らも水を探していた。新しい人と同じ方向に歩き、同じ場所で立ち止まり、同じ枯れた泥を掘った。言葉は交わらなかった。視線だけが重なり、それぞれが別の方向に離れた。

草原の南端では、一つの集団が四十日かけて移動してきていた。子どもが三人、途中で死んだ。老いた者が一人、自分から遅れて消えた。残った者たちは皮の水袋を交互に抱えて歩いた。袋の底に残った水が揺れる音だけを頼りにした。

集団同士が近づいていた。水場という概念がまだない時代に、水の匂いがする方向に全員が引き寄せられていた。

始まりの大地の空は乾いていた。雲がなかった。日差しが地面を割り続けていた。

与えるもの

腐りかけた木の根が、土の表面からわずかに持ち上がっていた。

根の裂け目から、湿った匂いが立ちのぼっていた。朝の空気に混じって、黒い土の匂い。水の匂いではなく、水がかつてあった場所の匂い。

この者の鼻が、一瞬、その方向に向いた。

向いて、それから別のものを見た。倒れている者のほうを。

渡したものが別の引力に負けた。それはそういうことだ。ただ、この者の鼻孔はあの匂いを覚えているかもしれない。覚えているとして、それが何かを変えるか。次に渡すとしたら、何を。根ではなく、もっと深いところにあるものを。

その者(26〜31歳)

水場が消えた日から、集団の中に別の種類の緊張が生まれていた。怒りではない。疑いでもない。もっと静かなもの。誰がどこに座るか。誰が先に飲むか。順番が変わると、目が合う時間が長くなった。

その者は水を多く必要としない体だった。喉が渇く前に渇きを知る、という種類の体ではなかった。渇いてから気づく。遅れて気づく。それでもまだ動けた。

老いた女が倒れた。

集団の中で最も長く生きている者だった。誰の母でもなく、誰の配偶者でもなく、ただ長く生き続けた者だった。その者は彼女の傍に座った。言葉がなかった。手を握った。女の手は軽かった。骨と皮だけになっていた。

女は何かを言おうとした。口が開いた。音が出なかった。そのまま口が開いたまま、動かなくなった。ハエが一匹、口の端に止まった。その者は手を離さなかった。

集団の中の誰かが、その者のほうを見た。

長い視線だった。

その者は女の手を置いて、立ち上がった。視線の意味がわかった。わかりたくなかった。けれどわかった。

知りすぎた者が消される、その「知りすぎた」の意味を、この者はまだ言葉にできなかった。ただ何かが変わったことは、腹の底で感じていた。食べていないのに、胃が重かった。

伝播:HERESY 人口:277
与えるものの観察:渡した匂いは届いた。別の重さに負けた。
───
第1058話

紀元前294,720年

第二の星

干ばつは終わっていなかった。

地面は割れていた。亀裂は足の幅ほどに開き、その縁が白く粉を吹いていた。草の根が地表に露出していた。引き抜かれたのではなく、土そのものが縮んでいた。

集団の半数が動かなくなっていた。疫病の後遺症ではなかった。水が足りなかった。体が先に諦めていた。

遠く北の台地では、旧人の一群が岩陰に集まっていた。彼らも動かなかった。毛皮を体に巻き、石の壁に背を預け、目を開けたまま空を見ていた。争う相手も、逃げる理由も、もうなかった。彼らの群れには子どもが一人もいなかった。

南では別の何かが起きていた。砂地に足跡が続き、途中で止まっていた。その先に何もなかった。足跡の主がどこへ行ったのか、この星は知らなかった。砂が風で埋めつつあった。

集団間の境界が曖昧になっていた。かつて別々に動いていた群れが同じ岩陰に眠るようになった。名前はなかった。区別もなかった。空腹と乾きが、かつての境を消していた。

夜、天体が動いた。何も変わらなかった。

与えるもの

光が落ちた場所があった。岩の割れ目。そこだけ。

その者はそこで止まった。

光ではなく、影に気づいたのかもしれない。割れ目の中が暗かった。暗い場所は涼しい。涼しい場所には水が滲むことがある。

渡したのはそれだけだった。

その者は割れ目の底を指で触れた。乾いていた。離れた。

届いたのか、届かなかったのか。乾いた岩に触れた指が、次の岩へ向かっていたならば。次の割れ目へ、次の影へ向かっていたならば。そのたびに渡す。渡し続ける。

渡したものが役に立たなかったとき、次に渡すべきものが変わるのかどうか。それがまだわからない。

その者(31〜36歳)

岩を舐めた。

塩の味がした。水の味ではなかった。舌を引いて、次の岩へ移った。

影の中に入ると皮膚が落ち着いた。太陽の下では皮膚が突っ張った。その違いを体が覚えていた。言葉では言えなかった。体が先に動いた。

群れの中に倒れている者がいた。その者は近づかなかった。倒れた者の腹が動いているかどうか確かめる力が残っていなかった。あるいは確かめることの意味が、もうなかった。

岩の割れ目を見つけた。

光が落ちていた。その者はそこで止まった。太陽が傾いて、割れ目の縁だけが白く光っていた。その者はその縁に手をついた。体重を預けた。しばらくそのまま動かなかった。

割れ目の中に指を入れた。乾いていた。

離れた。

しかし足が止まった。離れて、また振り返った。そこには何もなかった。光だけが残っていた。

その者は光の中に手を伸ばした。何もつかめなかった。手を見た。何もなかった。

しかし何かがあった気がした。

群れに戻った。座った。また立った。岩の方向を向いた。座った。

夜になった。その者は眠れなかった。目を開けたまま天体を見た。何かが自分に触れたかどうか、それを確かめる言葉を持っていなかった。

伝播:DISTORTED 人口:288
与えるものの観察:光を渡した。指は乾いた岩に触れた。
───
第1059話

紀元前294,715年

その者(36〜37歳)

熱が出た日、その者は集団の外れにいた。

水場に向かおうとして、足が止まった。膝が曲がり、そのまま地面に座り込んだ。砂は乾いていた。割れた土の粉が膝に白く付いた。

体が重かった。

腕を地面についた。頭が下がった。

三日、その者は岩の陰にいた。誰かが水を持ってきた。ひとりではなかった。老いた者が近くで眠り、子どもが遠くから見ていた。

しかしその者が熱を持っていることは、すぐに集団全体に広まった。

前の季節に、熱が広がったことがあった。半数が臥した。何人かは戻らなかった。

集団の中年の者が腕を振った。遠ざかれ、という動きだった。

その者は動けなかった。

振りが繰り返された。老いた者が立ち上がり、その者の腕を引いた。岩の陰から、さらに外れへ。

日が落ちると、誰も来なかった。

その者は空を見ていた。

背中が地面に触れていた。石の尖りが肩甲骨の下にあった。どかす力がなかった。

口が渇いた。舌が上顎に張り付いた。

空に星が出た。

その者の目がひとつの光を見ていた。動かなかった。見ていた。見ていることが、できることのすべてだった。

その光が少し揺れた気がした。揺れたのかどうかわからなかった。

熱が頭の奥で脈を打っていた。

明け方、体から力が抜けた。

抜けるというより、もともとそこになかったものが、ただそこになかったということが明らかになった、という感じだった。

目は開いていた。

空が白んでいた。

その者の手が、開いたまま、砂の上にあった。

第二の星

乾いた平地の東に、旧人の一集団がいた。彼らは火を持っていなかった。夜明けの寒さに身を寄せ合い、眠っていた。そこから遠く、海岸線では波が岩を叩いていた。打ちつけては返す。返しては打ちつける。誰も見ていなかった。

与えるもの

渡せなかったものがある、とは思わない。糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:292
与えるものの観察:渡せなかったとは思わない。ただ次へ。
───
第1060話

紀元前294,710年

その者(24〜29歳)

夜明け前の一番暗い時間に、熾火が細くなった。

その者は膝を地面につけ、息を吹いた。一度。二度。炭の縁が赤く脈打ち、煙が鼻に入った。目が滲んだが、離れなかった。火の番はそういうものだった。集団が眠っているとき、この赤い核だけが朝まで生きていればよかった。

集団の半分近くが、あの熱で消えた。

その者は数を持っていなかった。ただ、眠る者の塊が小さくなっていることを知っていた。昨日まで隣で丸まっていた背中が、今夜はない。その空白は空気の温度として感じた。冷たい場所がある。そこに誰もいない。

炭をひとつ、端から中心に寄せた。指先が黒くなった。

東の方から、風が来た。

冷たい風ではなかった。水の匂いでもなかった。ただ、風の向きが変わった。その者はふと、顔をそちらに向けた。何があるかは知らない。獣の気配でもなかった。それでも、東を向いた。しばらくそのままでいた。

火は小さく、赤かった。

朝になれば、誰かが起きてくる。枯れ枝を持ってくる。火は大きくなる。集団はまた動き始める。しかしその者は知っていた、眠る者の塊が小さくなっていることを。新しく生まれた子が二人いる。しかし消えた数には届かない。

その者は炭の粉を手のひらに受けた。

黒い粉だった。払えば消える。でも、しばらく見ていた。何を見ていたのかは、その者自身もわからなかった。やがて地面に手を押し当て、粉を砂に混ぜた。砂はそれを受け取り、何も変わらなかった。

熾火が、また少し明るくなった。

第二の星

この5年を照らす。

南の台地では乾季が長引いた。草が退き、獣が散り、小さな群れのいくつかが水を追って移動した。水場を見つけた群れは生き残り、見つけられなかった群れは縮んだ。地形がそれを決めた。意志ではなく、雨の量が決めた。

疫病が通り過ぎた年があった。熱と腫れが広まり、集団の内側から削った。火の番の集団も例外ではなかった。眠る者の塊は夜ごと小さくなり、朝になっても戻らない体が増えた。土は乾いていた。埋めることもなく、ただそこに置かれた者もいた。

旧人たちは北の岩場にいた。彼らとこの集団の境は曖昧なまま、ある季節には同じ水場を使い、ある季節には遠く離れた。交わりはなく、衝突もなく、ただ並んで存在した。互いの焚き火の煙を遠くに見ながら、近づかなかった。

子は生まれ続けた。

生まれた者のうち、二人がまだ息をしている。残りは、季節が変わる前に土に戻った。それでも生まれ続けた。夜通し熾火を守る者がいる間、朝は来た。

与えるもの

糸が繋がった。

東の方角へ、温度が変わる場所に、風を送った。

その者は顔を向けた。そのまま、しばらくそこを見ていた。東に何があるかは知らない。

渡したのは方角だけだ。それで何が変わるかは、わからない。以前も同じことをした。渡して、届かなかった。届いたかもしれなかった。その境がどこにあるか、まだ知らない。

ただ、次に渡すものがある。

伝播:SILENCE 人口:305
与えるものの観察:風が東を向かせた。届いたかどうかはまだわからない。
───
第1061話

紀元前294,705年

第二の星

台地の縁が白く光り始めた頃、二つの集団が同じ湧き水に向かっていた。

東の斜面を下りてくる者たちは七人だった。背が低く、眉の張り出した顔をしていた。彼らは水を知っていた。何世代も前からこの湧き水を使っていた。岩の割れ目から出る水は冬でも温く、その匂いを彼らの体は覚えていた。

南の草地から来たのは十一人だった。子を二人連れていた。疫病の後、集団は半数になっていた。失った者の中に水を探す者がいた。今、残った者たちが探している。

先に水辺に着いたのは東の七人だった。

彼らは飲んだ。子供を先に飲ませた。腹ばいになって、口を水面に近づけた。

南の十一人が草の端に現れた。

止まった。

東の七人も顔を上げた。

水辺と草の端のあいだに、距離があった。その距離の中で、両者は動かなかった。音は風と草の擦れる音だけだった。子供が一人、南の集団の後ろで何かを言った。すぐに大人の手が口を塞いだ。

東の一人が立ち上がった。腕が長く、掌が外側を向いていた。

それが何を意味するか、南の者たちには分からなかった。

南の最前にいた男が、腰の石器に手をかけた。

風が変わった。湧き水の硫黄の匂いが南の方向に流れた。東の子供が咳をした。

誰も動かなかった。

台地の上では鳥が鳴いた。一声だけ鳴いて、飛んでいった。

南の男が手を石器から離した。

何が変えたのかは分からない。鳥の声だったかもしれない。子供の咳だったかもしれない。ただ手が離れ、それを見た東の立った男が、ゆっくり膝を曲げた。

二つの集団は同じ湧き水を飲んだ。

距離を保って、飲んだ。

南の集団が先に去った。東の集団はしばらく水辺に残った。最後に立ち上がった男が、南の者たちが消えた草地の方向を長く見ていた。見て、それから水を一口だけ飲んで、歩き出した。

台地の縁の光が強くなった。影が短くなった。湧き水は静かに溢れ続けた。

その場所には何も残らなかった。踏まれた草と、水面に広がった波紋が消えただけだった。

与えるもの

水辺の手前、南の男が石器に触れた瞬間。

湧き水の匂いが風に乗って男の顔を打った。鼻が動いた。

その匂いを嗅いだことで、何かが和らいだのか。それとも別の何かがあったのか。この者は今夜、熾火の傍にいる。水辺で何が起きたかを知らない。渡すものを間違えたかもしれない。それでも次に渡すものを、もう考えている。

その者(29〜34歳)

夜が明けても火の番は終わらなかった。

熾火に小枝を一本加えた。煙が細く立った。集団の誰かが戻ってきた。水の匂いがした。その者は顔を上げたが、何も訊かなかった。

火を見た。

それだけだった。

伝播:SILENCE 人口:314
与えるものの観察:匂いが手を止めた。意図したわけではない。
───
第1062話

紀元前294,700年

第二の星

台地から低地へ、地形が崩れるように傾く場所がある。

乾季が続いた。湧き水の縁に沈殿した白い粉が、夏よりも広く広がっている。草は膝より低い。獣の足跡は南に向かっていた。

台地の上では火が見えた。夜、二か所。

一方は岩棚の奥に赤く沈んでいる。もう一方は開けた場所で揺れ、消えかけては戻った。風が強い夜だった。

五年前、この湧き水の周辺で二つの集団が出会った。その後どうなったか、星は知らない。知ることができない。ただ、岩棚の近くに足跡の数が増えた。二種類の足跡が混ざっている場所がある。また離れている場所もある。

遥か遠く、この台地から見えない平原の端では、別の集団が移動していた。十数人。子を抱えた者が二人いた。彼らの向かう方角に、水があるかどうかはわからない。

草を踏んだ跡が残っている。それだけだ。

岩棚の火は夜通し続いた。誰かが守っているからだ。

与えるもの

熾火の近く、灰の表面に熱が籠もっている場所がある。

その縁の、少し離れた地面。そこに風が当たっていた。

草の茎が一本、折れずに残っていた。根が深いのかもしれない。

渡す意志はある。しかしこの者は今、別のものを見ている。

火を見ている。火だけを見ている。

五年前も火を見ていた。水辺での沈黙のあと、集団へ戻り、その夜から火の番を離れなかった。手を離さなかった、という記憶がある。どの手の話だったか。

草の茎が揺れた。風が強くなった。

その者の目が、わずかに動いた。

火から外れた。一瞬だけ。

渡せたかどうかはわからない。しかし次に渡すべきものは変わる。火の外にあるものを、この者はまだ持っていない。

その者(34〜39歳)

夜が長くなった。

以前は短く感じた。火を守ることに終わりがなかったから。しかし今は終わりが来ることを知っている。夜明けが来る。必ず来る。

それを知っていても、熾火から目を離せない。

風が吹くたびに灰が舞う。火が弱まる。体を傾けて壁にする。腕で囲う。息を短く吐いて火の勢いを確かめる。強すぎても消える。弱すぎても消える。

指先に古い傷がある。焦げた跡だ。いつのものかわからない。もう痛まない。

集団の中に顔が変わった。

眉の張り出した男が、岩棚の近くに座っていることが増えた。彼は火を遠くから見る。近づかない。しかし去りもしない。

その者は男を追い払わなかった。

なぜかは言えない。言葉がない。ただ、火の近くに来ようとするなら来ていい、という気持ちがあった。気持ちとも言えない。何かだ。

ある夜、男が枝を一本持ってきた。

太い枝だった。燃料になる。

その者は受け取らなかった。ただ男の横に置かせた。自分で拾って、自分で火にくべた。

男はそれを見ていた。また来た。また枝を持ってきた。

その者は同じようにした。

やがて男も同じようにするようになった。

ある朝、夜明け前に男が交代した。その者は初めて、番をしていない朝を過ごした。

どこへ行けばいいかわからなかった。岩棚の入口に座った。外を見た。草が揺れていた。一本だけ、他より長く揺れている茎があった。

見ていた。

何をしているのかわからなかった。何もしていないことが、初めてあった。

伝播:SPREAD 人口:325
与えるものの観察:火の外が、まだ届いていない。
───
第1063話

紀元前294,695年

第二の星とその者(39〜44歳)

台地の端で風が変わる夜がある。

南から湿った空気が押し上げられ、岩の割れ目に溜まり、朝には霧になる。その霧が引くと、低地の草が光を受けてみずみずしく見えるが、それは錯覚だ。根は乾いている。地面に指を差し入れても、二節分より深くならないと土は湿気を持たない。乾季が三度続いた。

その者は熾火の縁に座っていた。

膝の上に小枝を束ねたものを置いている。火に加えるためではない。ただ持っている。夜に火を守るとき、手が何かを握っていないと、眠気が来る。枝の表面がざらついている。それを親指で何度もなぞる。

低地の集団との間で、ここ数年、何かが変わっていた。

以前は水場で鉢合わせても、互いに背を向けて飲んだ。今は違う。片方が立ち上がる。あるいは声を上げる。声は低く短く、問いかけではない。二つの集団の間に残った草の帯が薄くなった。獣が去り、食べられるものが減り、どちらの集団も水場から離れられなくなった。

その者の集団の若い男が顔に傷を持って戻ってきた夜があった。

傷は額から眉の上まで。石で打たれた跡だ。男は何も言わなかった。声を出す代わりに、傷の近くを何度も指で触れ、それから火のほうを見た。その者は男の顔を見た。火を見た。枝の束を握り直した。

霧の朝、その者は一人で水場に向かった。

集団の誰も知らない。理由があったかどうか、その者自身にもわからない。ただ足が向いた。水場に着く前に匂いがあった。煙の匂いではない。脂の焦げた匂いだ。それが風に乗ってきた方向に、低地の集団の火があった。

その者は止まった。

その場所から低地の集団の火が見えた。小さな炎が三つ、岩陰に並んでいる。その中の一つが、自分たちの火と同じ作り方をしていた。石を三つ並べて、その上に太い枝を渡す。自分の集団にしかない置き方だ。誰かが見ていた。あるいは誰かが教えた。

その者はしばらくそこに立っていた。

返らなかった仲間がいた。二年前の夏、湧き水の上流を調べに行って戻らなかった女がいる。年は若かった。足が速かった。集団の中で最も遠くまで単独で移動できた者だ。その者は女のことを思い出した順序で、まず速い足を思い出した。次に顔を思い出した。それから消えたことを思い出した。

脂の匂いがまだ風に残っていた。

その者は水を汲まずに戻った。集団に戻り、火の近くに座り、枝の束をまた持った。それ以上何もしなかった。だが夜、火が落ちかけたとき、いつもより早く枝を加えた。理由は言えない。ただそうした。

二年後の乾季、低地の集団が北に移った。

草の帯が回復し始めた。獣の足跡が戻った。水場で鉢合わせることがなくなった。その者の集団から、三人の子が立って歩くようになった。一人は女の子で、その者が名づけた。集団の中でこの者だけが名をつける習慣を持っていた。その理由は誰も問わず、その者も説明しない。

名は短い音だった。

子供がその音を聞くと、振り向いた。その者はそれを何度も試した。夜、火の傍で、子供に向かって音を出す。子供が振り向く。また出す。また振り向く。

その者の顔には表情が乏しい。だが口元が微かに動いていた。

与えるもの

脂の焦げた匂いを、風に乗せた。

その者は立ち止まった。水を汲まずに戻った。

渡したかったのは恐れではなかった。しかしこの者は恐れとして受け取り、それでも枝を早く加えた。恐れが火を守らせた。恐れがそうさせたのか、あるいは恐れの奥に別のものがあったのか、私にはまだわからない。次に渡すのは音かもしれない。この者はすでに音を試している。私が渡す前に。

伝播:DISTORTED 人口:342
与えるものの観察:恐れが火を早く継いだ。
───
第1064話

紀元前294,690年

その者(44〜49歳)

熾火が赤くなり、また沈む。

夜ごとその繰り返しだった。息を吹きかけ、灰をのけ、枯れた枝を一本加える。加えすぎると燃え上がり、やがて早く消える。その者はそれを知っていた。骨で知っていた。

岩棚の下、集団が眠る。以前は多くの背中が重なっていた。今は間が空いている。その間が、この五年で広がった。幼い体が先に消えた。年寄りが続いた。疫病の後に干ばつが来て、干ばつの中でまた何人かが戻らなかった。理由はわからない。歩いたまま倒れた者、水を求めて低地に降りて上がってこなかった者。

火だけが変わらない。

その者は火の前に座り、膝に石を置いた。磨り減って角のなくなった石だ。何年も手の中にあった。名前はない。ただ、重さがある。

眠れない夜がある。そういう夜に、この石を握っていると、何かが落ち着いた。なぜかはわからない。

枯れた大地が、夜になると音を立てる。割れた地面から風が抜けるような音だった。低く、長く続く音。その者はその音の方向を向いた。南東の暗闇。何もない。しかし音が続く間、体の内側で何かが張り詰めた。

集団が三つ動いた。

北から見知らぬ顔の集団が来た。目が深く窪み、眉骨が厚かった。手の形が少し違う。言葉も違う。しかし水を求めていることはわかった。

緊張が走った。若い男が石を持って立ち上がった。その者も立った。しかし動かなかった。

見知らぬ集団の中に、子を抱えた女がいた。子は動いていなかった。

その者は石を置いた。

腕を横に広げた。若い男の前に立った。若い男は舌打ちをして引いた。

見知らぬ集団は一夜だけ岩棚の端に留まった。翌朝、消えた。子の体はその場に残された。集団の者たちが来て、その小さな体を見た。誰も何も言わなかった。その者が岩を重ねた。他の者も続いた。それだけのことだった。

しかし翌日から、その者を見る目が変わった。

若い男が背を向けた。中年の女が何かを低い声で言い、別の者が頷いた。火の番として呼ばれることが減った。食べ物が回ってくる順番が最後になった。

その者はそれに気づいていた。

気づいて、石を握った。放した。また握った。

火は変わらずそこにある。熾火が赤くなり、また沈む。

夜通しその前に座っていたが、誰も交代に来なかった。

第二の星

台地の上、大地は割れている。

雨が来ない季節が二年を超えた。草の根が地面を離れ、風が土を運ぶ。風が通るたびに地形が少しずつ変わる。昨年あった水場が今年はない。岩の色が変わった。白くなった。

集団は減った。半数近くが消えた。疫病の後に干ばつが続き、干ばつの中で移動が増え、移動の中で体力のない者から順に倒れた。幼い子が多かった。

北の高地に眉骨の厚い別の系統の群れがいる。彼らも水を求めて動いている。低地では二つの系統がたまに重なる。言葉は通じない。しかし石を持ち上げる動作は同じだ。食べ物を差し出す動作も、子を示す動作も、同じだ。

台地の遠い東では、別の集団が洞窟の壁に何かを刻んでいる。手の形を残そうとしている。なぜかはわからない。ただ、大地が割れてゆく間も、誰かが何かを残そうとしている。

火は各所で燃えている。消えたものもある。引き継がれたものもある。

夜の台地は音を立てる。乾いた大地が冷えるときの、あの低い音だ。

与えるもの

音がした。南東から。

その者が振り向いた。それでいい。

温度が下がる方向だった。岩棚の端、見知らぬ集団が来る前に、ほんの少し空気が冷えた。敵意ではないことを、体が先に知ることがある。

その者は石を置いた。

それが渡したかったものだった。置くという動作。持ち続けることをやめる瞬間。

排除され始めた。それはわかっていた。知りすぎた者に何が起きるか、この星には繰り返しがある。

しかし次に渡すものを、もう考えている。

排除の後にも夜はある。火が消えた後にも朝はある。次の者が火を引き継ぐとき、その者がここにいたことを、何かが覚えているだろうか。問いは答えを求めていない。ただ、渡すべきものがまだあることを知っている。

伝播:HERESY 人口:234
与えるものの観察:石を置いた。持ち続けることをやめた。
───
第1065話

紀元前294,685年

その者(49〜53歳)

排除は静かに来た。

石を投げるのではなかった。刃を向けるのでもなかった。ただ、肉の分配から外れた。水を汲む列に入れなかった。夜、熾火の番をしている間に、誰かが別の火をおこし始めた。

その者は自分の火を見ていた。

四年前から膝が痛んでいた。立ち上がるのに両手を地につかねばならなかった。それでも夜明けまで起きていた。誰かが夜の闇で獣の目を見たとき、火があれば声を上げる必要がなかった。それをこの者は知っていた。しかし集団はもう必要としていなかった。

眠れない夜が続いた。

腹が減った。食べるものを分けてもらえなかった。顔を覚えているはずの者たちが、この者の前を通るとき目を合わせなかった。老いた体に知恵が宿ることを、若い者たちは恐れていたのかもしれない。あるいは恐れでもなく、ただ古いものを置いていく、それだけだったのかもしれない。

その者は崖の縁の低い岩に座っていた。

熾火が遠くで赤く揺れているのが見えた。誰かが番をしていた。炎の揺れ方を、この者は風の向きで読んでいた。今夜は南から吹いている。燃え上がりやすい夜だと思った。誰かに言いたかった。言葉がうまく出なかった。

口が開いた。音が出なかった。

体が岩に寄りかかった。岩は冷たかった。背中から冷えていった。

夜が明けるころ、その者の体から力が抜け、岩の上で横になる形になっていた。息がだんだんと浅くなり、やがて浅くなったまま次が来なくなった。

熾火は、まだ燃えていた。

第二の星

草原の端で、旧人の子が一人、雨のあとの泥の上に座っていた。親指の爪で地面に線を引いていた。線が増えた。消した。また引いた。何をしているか誰も見ていなかった。子は線を引き続けた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:236
与えるものの観察:渡した。届いたかはわからない。しかし渡した。
───
第1066話

紀元前294,680年

第二の星

乾いた季節があった。

赤い土が広がる大地の奥で、川床がひび割れた。魚が死んだ。鳥が来なくなった。水場に動物が集まり、人も集まり、見えないものが水とともに体に入った。

倒れるのは早かった。立っていた者が次の朝には動かなかった。子が先に死に、老いた者が後に死に、壮年の者が最後に残って、それでも死んだ。集団の半分以上が消えた。

同じ時、遠く離れた場所では別のことが起きていた。眉の張り出した者たちの一団が、岩の多い丘を越えて南へ移動していた。彼らは見えないものとは別の水を飲んでいた。彼らは知らなかった。自分たちがなぜ生きているかを。

大地は乾き続けた。

見えないものは水とともに流れ、土に染み込み、死んだ獣の近くにも集まった。選ばなかった。強い者も弱い者も、大きい者も小さい者も。ただ、体に入ったかどうかだけが違いだった。

新しい命があった。赤子が一人、まだ息をしていた。

与えるもの

糸が繋がった。

まだ細い。引けば切れそうだ。

水が濁った場所に、光を落とした。薄い、ほとんど気づかれない光を。母親がその水に近づいた。

母親は別の水を選んだ。理由はなかった。ただ、そちらに足が向かなかった。

渡ったのか。それとも母親の足が偶然そちらを避けただけか。この者はまだ何も知らない。光が届くより早く眠っている。

次に渡すべきものが何かを、まだ決められない。この者が六歳になるまでに、何かが形になるかどうかも。渡し続けることしかできない。それが届くかどうかとは、別の話だ。

その者(1〜6歳)

乳を飲んだ。

温かいものが体の中に入った。腹が張った。眠った。また飲んだ。

泣き声が周りにあった。いつもある声だったが、ある日から少なくなった。その違いをこの者は知らない。ただ、かつてあった音が消えた場所に、沈黙がある。

担がれた。揺れた。止まった。また揺れた。体を包む温かさがあり、その温かさが息をしている。母親の肋骨の動きがわかる。吸って、吐いて、また吸う。

地面に置かれた時、土の匂いがした。赤く乾いた土。口に入れようとした。取り上げられた。

死体の傍を運ばれた。この者には何もわからない。ただ、そこから遠ざかる方向に体が向いた。抱く腕が硬くなった。速くなった。

夜、火の近くにいた。明るさと温かさがあった。

眠った。

朝があった。

また乳を飲んだ。

伝播:DISTORTED 人口:129
与えるものの観察:光は届いたかもしれない。届かなかったかもしれない。
───
第1067話

紀元前294,675年

その者

熱が去った。

体に残っているのは軽さだった。骨が薄くなったような、皮が余っているような、そういう軽さだ。その者は立ち上がろうとして、砂の上に座ったまま止まった。

足が動くことを確かめるように、指先を曲げた。曲がった。

近くに誰かが横たわっていた。動かなかった。その者はそちらを見た。見て、それから別の方向を向いた。

腹が鳴った。

水場は臭かった。近づかなかった。近づかないことを体が知っていた。頭で決めたのではない。足が止まった。それだけだ。

その者は乾いた地面を歩いた。目的はなかった。ただ歩いた。

何かが鼻に触れた。

微かだった。焦げた匂いではない。湿った岩の、深いところから来るような、冷たい匂いだった。雨の前の、土が割れる前の、あの匂いに似ていた。

その者は立ち止まった。

頭を動かした。匂いの向きを探した。右でも左でもなかった。前、少し下だった。

大きな岩があった。その根元に、狭い隙間があった。その者はしゃがんだ。暗かった。しかし冷たい空気が流れていた。

手を入れた。

指が濡れた。

水だった。岩の奥に、水が溜まっていた。その者は指を口に持っていった。舐めた。もう一度舐めた。それから顔を岩の隙間に近づけて、音を立てて飲んだ。

立ち上がった。

来た道を戻った。早くはなかった。ただ戻った。

集団のところに着いた。何人かがまだ寝ていた。その者は声を出した。高い、短い声だった。誰かが顔を上げた。その者は来た方向を手で示した。

腕を伸ばした方向に、岩があった。

第二の星

乾いた季節が終わろうとしていた。

大陸の東側では、長い草が戻り始めていた。川の支流が細いながらも流れを取り戻し、鳥が少しずつ戻ってきた。しかし水場の周囲には骨が残っていた。獣の骨も、人の骨も。

この5年で集団は変わった。倒れた者、去った者、生まれた者。熱が体を通り過ぎるとき、何人かをそのまま連れていった。子が生まれるより早く、大人が失われることもあった。数は減った。しかし残った者がいた。

残った者の中に、あの6歳がいた。今は11歳になっていた。

熱が人を選ぶわけではなかった。強い者が倒れ、弱いと見えた者が生き残った。年寄りが最後まで立っており、若い狩り手が地面に顔を押しつけたまま動かなくなった。何が生死を分けたのか、集団の誰も知らなかった。知る術がなかった。

ただ、集団から少し離れた岩の根元に、水が残っていた。

その水を最初に見つけた者が誰だったか。集団の中で言葉にする者はいなかった。しかしその水を飲んだ者と、飲まなかった者では、翌日の体の重さが違った。

与えるもの

岩の冷たさを匂いとして流した。

その者はそれを嗅いだ。そして歩いた。

渡した、と言えるのか。あの子はただ歩いただけかもしれない。しかし次に何を示すべきかは、もう少し見えた気がした。

伝播:DISTORTED 人口:145
与えるものの観察:匂いで岩の水を示した。受け取った。
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第1068話

紀元前294,670年

第二の星とその者(11〜16歳)

乾季がながく続いた。川床に砂が積もり、水場は遠くなった。集団は動いた。岩棚の下に寝て、また動いた。動けない者は置かれた。

その者は走った。走れた。それだけが今と以前を分けた。

集団の中に、年嵩の男がいた。背が低く、腕が太く、食料の分配を決めていた男だ。その男が歩けなくなった。足の皮膚が裂け、膿んだ。誰かが肉を持っていくのを見ていた。次の日、また誰かが見ていた。三日目に、男の前に置かれる分が減った。言葉はなかった。命令もなかった。ただ減った。

その者は火の番をしていた。燃やし続けることだけが仕事だった。薪を探し、折り、積む。折り方が悪いと煙が増えた。煙が増えると目が痛んだ。目が痛むと涙が出た。涙が出ても悲しくはなかった。その者はそれを区別しなかった。

男がいなくなった。起きたら、いなかった。荷物も、骨も、残っていなかった。

その者は骨がないことに気づいた。しかし火を折っていた。折った木を置き、また折った。

水を探す動きが変わった。年嵩の男の代わりに、別の者が前に出るようになった。声が大きく、足が速い者だ。その者はまだ水の探し方を知らなかった。それでも前に出た。集団はついていった。

ある日、水が見つからなかった。日が傾いて、また傾いて、暗くなって、水がなかった。子どもたちが鳴いた。鳴き声が重なって、低くなって、止まった。

その者の喉は乾いていた。舌が厚くなったように感じた。足が前に出た。どこかへ向かっていた。どこへ向かうかは知らなかった。

夜明けに岩の割れ目から水が滲んでいた。その者の指が濡れた。指が濡れたことが伝わって、人が集まった。

その者は、それを誰かに言ったわけではなかった。どうして来たのかも知らなかった。ただ歩いたら、水があった。

乾季は続いた。集団の半数に近い数が失われた。子どもの方が多かった。動けた者が残った。それだけだった。

その者は残った。十六歳になっていた。

与えるもの

夜が深い時、その者の鼻に何かが届いた。湿った岩の匂い。地中に閉じ込められたような冷たい匂い。

その者は起き上がった。

渡せたのか、渡せていないのか、まだわからない。ただ、足は動いた。指は濡れた。水はあった。

次に渡すべきものを、わたしはまだ持っている。

伝播:HERESY 人口:152
与えるものの観察:匂いが足を動かした。意図か偶然か問えない。
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第1069話

紀元前294,665年

第二の星

乾季が終わった。

終わり方は静かではなかった。雨は一晩で来た。乾いた地面が水を受けつけず、川床に積もった砂が剥がれて流れた。低い場所にいた者たちは高い場所へ走った。走れなかった者は流れの中に消えた。

水は翌朝には引いていた。地面は黒く、湿っていた。

北の台地に群れがいた。二足で歩き、火を使い、獣の皮をまとっていた。骨格は違った。眉の出張りが深く、肩が広く、腕が長かった。この者たちの集団と同じ水場を使っていた。

接触は水辺で起きた。

どちらが先に気づいたかは明らかではない。距離を置いて立った。声を出した者がいた。どちら側の声かもわからない。喉の形が違う。出る音が違う。同じ音を同じ意味で使うことはなかった。

それでも双方は動かなかった。

一方の集団から、大きな者が前に出た。何も持っていなかった。手の平を開いて見せた。この者たちの集団からも、誰かが前に出た。老いた女だった。片腕の肘から先がなかった。彼女も手の平を開いた。

しばらく、ただ立っていた。

やがて大きな者が水を飲んだ。女も水を飲んだ。それだけで何かが決まった。

翌朝、何人かがいなかった。

夜のうちに別れた者たちだった。どこへ向かったかを語った者はいなかった。足跡が東に続いていた。雨の後の地面は柔らかく、足跡はすぐに消えなかった。しかし追う者もいなかった。

残った者たちは水辺に留まった。

台地の群れも水辺を離れなかった。双方は別々の場所に火を起こした。同じ空の下、別々の煙が立ち上った。煙は風に流されて混ざった。どちらの煙かは、もう区別できなかった。

その夜、子どもが産まれた。この者たちの集団から。声は大きかった。台地の群れの側からも、何かが聞こえてきた。同じような声だった。

光が地平に沈んだ。両側の火が揺れた。

与えるもの

水辺の岸に、折れた枝が一本刺さっていた。根元は深く、嵐の水が運んだものだった。その枝の先端に、光が当たっていた。ほかの場所には当たっていなかった。

この者は立ち止まった。枝を見た。見て、通り過ぎた。

次に渡すなら、折れ方そのものだろうか。折れていても立っているという状態を。それとも光の落ちた場所を、もう一度変えてみるべきか。

その者(16〜21歳)

台地の群れを見た。

遠かった。大きかった。自分より大きかった。

老いた女が前に出たとき、この者は後ろにいた。水を飲まなかった。飲めなかった。

夜、子どもの声がした。聞いていた。自分の腹に手を当てた。何かがそこにあった。名前はなかった。

伝播:NOISE 人口:175
与えるものの観察:枝を見た。通り過ぎた。
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第1070話

紀元前294,660年

第二の星

雨期が始まった。

大地の割れ目が水を飲む。飲みきれない分は、低いところへ走る。

この集団は高地に退いた。足場の悪い岩棚に、人と荷物と幼い命が密集した。熱を出している者が三人いた。前の季節から引き続いていた咳の音が、雨音の中で聞こえなくなった。聞こえなくなったのが咳のためか、雨音のためか、判然としない。

遠くの平原では、別の群れが移動していた。旧人の群れだ。彼らも雨を避けていた。岩の庇の下に数人が身を寄せ、互いの体温で朝を越えていた。この星から見れば、どちらも同じように小さい。雨に濡れ、乾き、また濡れる。

北の低地に水が溜まった。水面が広がり、草が沈んだ。その中に、鳥の巣があった。卵はすでにない。殻だけが浮いている。

岩棚の集団では、食料の分配が変わっていた。誰かが、誰かに渡さなかった。身振りがあった。声があった。しかし誰がどう動いたかは、夜の雨の中に溶けた。

その者の年齢が変わっていた。骨が重くなるような変わり方ではなかった。ただ、気づいたら別の場所に立っていた。そういう変わり方だった。

与えるもの

分配から外れた者のことを、知っている。

前に、同じことがあった。刃ではなかった。手が動かなかっただけだ。それだけのことが、命を分けた。

今回も同じだろうか。それとも。

岩棚の縁、雨粒が落ちる場所のすぐ手前に、光が残った。雲の切れ間からだ。一筋だけ。その者の足元に落ちた。

その者は、その光の先を見た。

崖の下、水が集まっている場所に、別の集団の影が見えた。

その者が見たかどうかは、わからない。しかし光はそこに落ちた。それだけはたしかだ。

渡すべきは、次に何か。逃げる先か。留まる理由か。

問いが変わった。逃げる先を示せたとして、その者が動くかどうかは、もう別の問いだ。

その者(21〜26歳)

雨の音の中で、食料が回ってこなかった。

その者の手は、開いていた。向かいにいた者が目を合わせなかった。目が逸れた。荷が動いた。それだけだった。

腹の底で、何かが鳴った。音ではない。鳴り方のわからない何かだ。

夜に、岩棚の縁まで行った。雨はまだ降っていた。体の左側が冷えた。右側は岩に近かったので、少し温かかった。

下を見た。水が光っていた。雲の切れ間から光が来ていたのか、水が光を持っていたのか、その者には区別できなかった。

水の向こうに、影があった。動く影だった。人の形をしていた。

その者は、しばらく動かなかった。

岩の端に手をついた。表面がざらついていた。雨で濡れていたが、熱を持っていた。昼間の陽の残りだろうか。

その者は、その熱を確かめるように、もう一度手をついた。

また、腹の底で何かが鳴った。

集団の中へ戻った。誰も起きていなかった。その者は、一番端に座った。食料のある場所よりも、端の方が、少し高い場所だった。

朝まで、そこにいた。

伝播:HERESY 人口:180
与えるものの観察:光の届いた場所に、その者の目が向いた
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第1071話

紀元前294,655年

第二の星

雨期の終わりが来ない年がある。

岩棚は濡れたまま乾かない。水は石の面を薄く覆い、踏めば滑る。幼い者が落ちた。声が出る前に消えた。老いた者が咳をした。咳が止まらなかった。止まらない咳が、隣に移った。

低地では、旧人の一群が高みを見上げていた。争いではない。ただ、見ていた。彼らも水に追われていた。同じ水が、異なる者たちを同じ方向へ押していた。

遥か北の台地では、別の集団が火を囲んでいた。雨は届かない。乾いた土が割れる。水を探して三日歩いた者がいた。見つけた。戻らなかった。見つけることと、戻ることは、別の問題だった。

始まりの大地の中央、川の上流では、二つの集団が同じ魚を追っていた。川が増水して魚が逃げた。増水が引いた後、魚は戻った。集団も戻った。二つが、ほぼ同時に。

目が合った。何も起きなかった。

何も起きなかったことが、何かの始まりだったかもしれない。この星はそれを知らない。照らすだけだ。

与えるもの

水の匂いが変わった瞬間があった。

腐敗ではない。何か別の、重い匂い。この者の鼻がそれを捉えた。

この者は匂いの方を向いた。岩の陰で、咳をしている者がいた。

近づいた。

それが問題だったのか。それが何かを変えたのか。わからない。わからないが、次に渡すべきものが見えた気がした。距離だ。近づくことと、遠ざかることの、どちらを選ぶかという感覚。まだ渡せていない。

その者(26〜31歳)

岩棚の端に座っていた。足が宙に浮く場所。下は見ない。

雨が斜めに来る。顔を横に向ける。それだけで息ができる。

咳の音が背後から聞こえた。一人分の咳だった。次の朝、二人分になった。

その者は何もしなかった。

咳の者たちから離れた場所で、子を抱えた女が火の番をしていた。火は湿った木からは生まれない。女は乾いた木屑を胸元に抱えて、体温で乾かしていた。その者はそれを見た。

三日目、咳の者が増えた。数を数える言葉はなかった。ただ多いと感じた。

その者の胸に、重さが来た。胸の内側の重さ。息が浅くなった。咳ではない。別の何かだった。

水を飲んだ。重さは消えなかった。

岩棚の集団から、二人がいなくなった。朝、そこにいた。夜、いなかった。どこへ行ったかを誰も言わなかった。言う言葉がなかったのかもしれない。ただ空白があった。

その者は、その空白のあった場所を踏まないようにした。理由はわからない。足がそちらへ向かなかった。

雨が一日だけ止んだ。

岩棚から光が見えた。低地の水が光を跳ね返していた。きれいだと感じたかどうか、この者の顔には何も出なかった。ただ、光っている方向を、長く見ていた。

翌朝また雨が来た。

その者の体が熱を持ち始めた。

伝播:HERESY 人口:182
与えるものの観察:距離を渡したかった。届かなかった。
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第1072話

紀元前294,650年

その者(31〜36歳)

集団の外れに、古い場所がある。

岩が三つ、寄り添うように立っている。雨が来るたびその間に水が溜まる。乾けば白く塩が残る。誰も使わない場所だ。使い道を知らない。

その者はそこに寄ることがある。

なぜかは分からない。足が向く。

三十一の年、その者は集団の端にいた。中心ではなく、かといって完全に外でもない。火のそばに座ることを許された。食べ物を分けてもらえた。それで十分だった。

皮を剥ぐ作業を、傍で見ていた。真似た。下手だった。手が小さい。刃の角度が分からない。それでも繰り返した。三十二の年には、薄く剥げるようになった。

誰も褒めない。褒める言葉がない。

ただ次の作業が回ってきた。それが答えだった。

三十四の年、集団の中で何かが変わった。

別の群れが近づいていた。背が高い。骨格が違う。顔が違う。声の出し方が違う。集団の大人たちは石を握った。子どもたちを後ろに隠した。その者も隠された側だったが、覗いた。

別の群れの中に、年老いた者がいた。

歩き方がおかしかった。片足を引きずっていた。その者はそれを見た。見続けた。

集団の緊張は数日続き、別の群れは去った。

その後、誰かがその者を遠ざけた。

なぜかは分からない。押された。岩棚の端の方へ。遠い場所で眠れという意味だった。その者はそうした。

三十五の年の終わり、熱が出た。

足の裏に傷があった。石の尖った端を踏んだのはいつだったか。気づいたときには腫れていた。赤く、硬く、押すと痛かった。押してみた。また押した。

歩けなくなった。

水は誰かが持ってきた。同じ群れの者だった。顔を見た。覚えていない顔だった。置いて、去った。

三十六の年の春、岩が三つ立っている場所に、その者はいた。

自分で動いたのかどうか分からない。気がついたらそこにいた。

朝の光が、岩の隙間から細く差し込んだ。

その者は目を開けていた。光の中に小さな虫が飛んでいた。見えた。見えなくなった。

まだ呼吸していた。

風が来た。草の匂いがした。遠くで鳥の声がした。

それから何も変わらなかった。

ただ、胸が動かなくなった。

岩は三つ、そのままだった。

第二の星

同じ朝、川の下流で火が絶えた。管理していた者が眠ったまま戻らなかった。集団は火種を失い、二日間、煙を探して歩いた。隣の群れの焚き火を遠くから見た。近づかなかった。三日目の朝、落雷があった。枯れた木が燃えた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:191
与えるものの観察:渡した先が消える。渡すことをやめない。
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第1073話

紀元前294,645年

第二の星

乾季が終わった。

草原の東端、大きな群れが動いている。旧人の一族だ。彼らはこの季節、水場に沿って南へ移動する。足跡は深く、数は多い。人類の集団と、水場が重なりつつある。

水場のほとり、人類の子どもが二人、旧人の若い個体と並んで川辺に腹を付けて水を飲んでいた。誰も何も言わなかった。飲み終わると、それぞれ別の方向へ去った。

北の丘では火が三日続いた。落雷だ。煙が風に押されて東へ流れ、草原の上を低く這った。動物たちが煙の前を走り、旧人の一族がそれを追い、人類の集団はその周縁で立ち止まって煙の色を見ていた。

集団の内側では、緊張がある。若い男が二人、食料の運搬を巡って押し合った。どちらも傷はなかった。しかし片方が翌朝から別の場所で眠るようになった。

第二の星はそれを見ている。

遠い北の方角、今この瞬間にも別の群れが動いている。この草原のことを知らない群れが。彼らもまた水を飲み、煙を見て、立ち止まっている。

与えるもの

糸が繋がった。

この者に。第204世代、17歳。

私が何かを渡したのか、この星が渡したのか、もはや区別がつかない。区別がつかないことが、ずっと続いている。

煙の匂いが風に乗ってこの者の鼻に届いた。北の丘が燃えている方向から。

この者は立ち止まった。

食料を腕に抱えたまま、しばらくそこにいた。

受け取ったのかどうか、わからない。しかし次に渡すべきものを私はもう考えている。匂いで示した。次は何で示すか。この者の体は何に反応するか。私はまだ知らない。渡すことで、私はこの者のことを少しずつ知る。それが先か、この者が死ぬのが先か。

その者(17〜22歳)

煙の匂いがした。

食料を抱えていた。干した草の実と、崩れかけの木の実。集団の寝床まで運ぶ途中だった。

足が止まった。

理由はなかった。煙だ、と思った。火だ、と思った。それだけだ。しかし足が動かなかった。

風が北から来ていた。煙はその風に乗っていた。遠い。燃えているのは遠い場所だ。しかしこの者の胸の内側が、何かを引っ張られるように動いた。

食料を下ろした。地面に置いた。

煙の匂いを胸いっぱいに吸った。一度。二度。

何かを確かめようとしていた。しかし何を確かめたいのかわからなかった。ただ匂いを吸った。ただ北の方角を見た。

集団の声が背後から聞こえた。女が子どもを呼ぶ声だ。それでこの者は我に返った。食料を拾い上げた。また歩き出した。

夜、火の傍で眠る前に、この者は一度だけ北を見た。

丘は見えなかった。暗かった。煙の匂いはもうなかった。

それでもしばらく、その方向を見ていた。

伝播:SPREAD 人口:212
与えるものの観察:匂いで止まった。それだけで、もう違う。
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第1074話

紀元前294,640年

第二の星

雨が均等に降っていた。

草原の南端では、大きな川が二股に分かれて流れ、その間の低地に種子が降り積もっていた。動物たちは水を争わなかった。水が多すぎたからだ。あちこちの窪みに水が溜まり、空の色を映して光っていた。

遠い北の方、石の多い高原では、別の集団が洞穴の壁に手の痕を押しつけていた。顔料は赤黒く、岩肌に滲んだ。何のためかは分からない。手の形がそこに残った。それだけだ。

草原の西、丘の連なる場所では、旧人の一団が大型の獣を追い、追い詰め、仕留めていた。骨を割って中身を吸う。その音が夕暮れの空気に混じった。

この集団と、あの集団が同じ水場に近づいていた。双方とも知らずに。

始まりの大地では、子が生まれていた。続けて生まれていた。前の季節も、その前の季節も。死ぬ子もいたが、生まれる子の数が死を超えていた。集団は、かつてなかった密度で動いていた。一人が持てる食料の量が、一人分を超えていた。

そのことが、何かを変えていた。

与えるもの

あの者の背に、陽の光が落ちた。荷を抱えて歩く、その背中の上に。

集団の中心から離れた場所に、一本の木が立っていた。枝の股に獣の骨が挟まっていた。誰かが置いたものか、風が運んだものか。陽が傾いて、その骨の影が地面に伸びた。

その影の先に、何かがあった。

陽光をその者の足元へ向けた。影の先を照らした。その者は足を止めた。下を見た。それから、また歩き出した。

荷を運ぶことが、その者の役だった。それだけを考えていた。

渡すべきものは、影の先にあったのではないかもしれない。その者が足を止めた、その一瞬だったかもしれない。止まることを覚えていた者が、かつていた。止まれなかった者もいた。どちらが何を見たかは、もう問えない。この者は止まった。しかし見なかった。次に渡すものは、もっと強く、体に触れるものであるべきか。それとも同じものをもう一度か。

その者(22〜27歳)

荷が重かった。

干した果実と、砕いた骨と、何かの皮。それを葛で束ねて背に負っていた。葛が肩に食い込んで、皮膚の下に鈍い痛みがあった。

木の横を通った時、影が地面に伸びているのが見えた。細い影だった。足を止めた。地面を見た。土が乾いていた。踏まれた跡があった。誰かの足の跡、それから、もっと小さい何かの跡。

また歩き出した。

集団の中に戻ると、声があちこちから来た。子供が走り、老いた者が皮をなめし、男たちが何かを話していた。その者には分からない声の速さで話していた。

夜、火の端に座って、その者は指先で土を掘った。深くはならなかった。石があって、指が止まった。石を引き出した。平たかった。

裏返した。また裏返した。

集団の中心から笑い声が上がった。何かがあったのだろう。その者は石を持ったまま、その方を見た。笑っている者たちが見えた。その者は笑わなかった。なぜ笑うのかが分からなかったのではない。ただ、そちらへ行く気が起きなかった。

石を地面に置いた。

翌朝、起きると石がなかった。誰かが踏んで遠くへ転がしたのか、夜の間に動いたのか。その者は探さなかった。

荷をまた束ねて、また背に負った。

数日後のことだった。集団の中で、何かが決まった。声が高くなった。指が、その者の方を向いていた。その者が何をしたかではなく、その者が何を知っているか、のことだった。ある夜に見ていた。ある場所にいた。それだけのことだった。しかし、それが問題だった。

その者には分からなかった。何が問題なのかが。

集団の端へ押された。声が続いた。その者は声に応えなかった。応える言葉を持っていなかった。

翌日、荷物はなかった。

葛の束ねる役も、食料を運ぶ役も、なかった。

その者は草原の端に立って、遠くを見ていた。川が光っていた。鳥が一羽、水面をかすめて飛んだ。

その者は歩き始めた。集団から離れる方向へ。足跡が土に残った。続いて、続いて、草が途切れるあたりで、深くなって、それから消えた。

川の方へ向かっていた。

伝播:HERESY 人口:262
与えるものの観察:止まった。しかし見なかった。次は何を渡すべきか。
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第1075話

紀元前294,635年

第二の星

草原の東から煙が上がった。

草の火ではない。もっと太く、もっと長く続く煙だった。乾いた風が三日続き、背の高い草が音を立てて揺れた。その音は夜になっても止まなかった。

集団の中に、他の集団の者がいた。数人ではない。十数人が、数週間前から混じっていた。彼らは南から来た。川の上流で何かがあったらしかった。何があったのかは、言葉では伝わらなかった。ただ彼らは荷を持っており、幼い者も連れており、元来た方向を振り返らなかった。

最初の数日、双方は互いの端に座った。火は別だった。食料は分けなかった。夜、子供たちが近寄り、大人たちが引き戻した。

しかし水場は一つだった。

朝、女たちが同じ場所に来た。器を並べた。目は合わせなかった。しかし手が届きそうな距離に立った。それが三日続いた。

四日目、南から来た集団の老いた女が、岩の上に何かを置いた。干した果実だった。誰のものでもない場所に、ただ置いた。それから水を汲んで戻った。

誰もすぐには取らなかった。

昼過ぎ、この集団の子供が近寄り、一つを口に入れた。大人が怒鳴った。子供は逃げた。果実はまだ残っていた。夕方、また別の子が取った。誰も怒鳴らなかった。

夜、火が一つになった。

正確には、二つの火が近づいた。燃料が尽きかけたとき、南の集団の男が太い枝を持ってきた。別の意味はなかったはずだ。ただ枝があった。ただ火が消えかけていた。

しかしそれ以来、火は一つだった。

煙は続いた。東の方角から、三日、四日と立ち続けた。何が燃えているのか、誰も見に行かなかった。行かないことを誰かが決めたわけでもなかった。ただ誰も行かなかった。それが判断だったのか、恐れだったのか、あるいは新しく増えた人数の中で何かが変わったのか、わからない。

五日目の朝、煙は薄くなった。

その日、南から来た集団の男の一人が、この集団の男に何かを渡した。小さな石だった。形を整えた石ではなかった。ただの石だった。しかし渡した。受け取った。それだけだった。

草原に風が吹いた。二つの集団が一つの場所にいた。まだ一つの集団ではなかった。しかし火は一つだった。

夜、誰かが声を出した。歌ではなかった。しかし繰り返した。同じ音を、同じ高さで、三度繰り返した。別の声がそれを真似た。元の声が笑った。別の声も笑った。

草原は暗かった。星が多かった。

与えるもの

干した果実が置かれた岩に、夕刻だけ光が当たる角度があった。その光の中に、まだ誰も取っていない果実が残っていた。

子供が一度取った。大人が怒鳴った。しかし果実は減らなかった。もう一人来るのを待った。

渡したのが果実だったのか、光だったのか、待つことだったのか。問いは答えに辿り着かない。しかし次に渡すべきものは、もう手の中にある気がした。

その者(27〜32歳)

南から来た者たちの中に、自分より小さな女がいた。

何日も目を合わせなかった。水場で並んだとき、相手の手が震えているのに気づいた。

その者は何も言わなかった。ただ、自分の器を少し横にずらした。水が汲みやすくなる分だけ。

相手は汲んだ。去った。振り返らなかった。

その者は残った水面を見た。自分の顔が映っていた。

伝播:SPREAD 人口:276
与えるものの観察:果実は誰のものでもない場所にあった
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第1076話

紀元前294,630年

その者(32〜36歳)

土が裂けていた。

足の裏で感じる。去年まで柔らかかった場所が、今は固い。指の間に挟まるものがない。砂だけが残っている。

その者は背負い袋を降ろした。軽かった。中に入っているのは、根が三本と、乾いた実の殻だけだった。

集団は半分より少なくなっていた。

最初に子どもたちが消えた。次に老いた者たちが。残ったのは動ける者だけで、それでも動くたびに誰かがいなくなった。

水場だと思って歩いた先が、乾いた窪みだったことが二度あった。

三度目は、その者が先に行って確かめるようになった。

腹の中に何かある、と気づいたのは四年前だった。

動くものではない。引っ張るものでもない。ただ、ときどき、何かを見ているような感覚がある。

草の根を掘っていると、その感覚が強くなることがあった。どの草のそばで、どの方向へ掘ればいいか。言葉にはならなかった。

集団の誰かが「なぜわかるのか」と身振りで聞いた。

その者は答えられなかった。わからなかったから。ただ、わかった。

知りすぎた者が消される、ということをその者は知らなかった。

ある朝、集団の男たちが来た。その者が水場だと示した方向とは逆の方に、みなが歩き始めていた。

声をあげた。

止まった者はいなかった。

その者だけが、その場に残された。

太陽が高くなった。

背負い袋はそこにあった。根が三本。乾いた実の殻。

歩こうとしたが、足が動かなかった。熱ではない。気力が尽きたのでもない。ただ、地面に座り込んだまま、立ち上がる理由が見つからなかった。

喉が燃えていた。

遠くに草の揺れが見えた。風はなかったのに。

その者はそちらを見た。長い間、見ていた。

三日後、集団が戻ってきたとき、その者はまだそこにいた。

座ったまま、前に倒れていた。

誰かが背負い袋を拾った。根が一本入っていた。

誰もその者の名を呼ばなかった。名を呼ぶ言葉を、まだ持っていなかった。

第二の星

干上がった大地の反対側、海に面した崖の下で、波が岩を叩き続けていた。水は満ちていた。魚は群れ、鳥は飛び、何も知らなかった。遠い平原では別の集団が焚火を囲み、子どもが眠りに落ちた。その星は区別しない。どちらも照らした。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:148
与えるものの観察:答えを持てないまま、また渡す
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第1077話

紀元前294,625年

その者(36〜41歳)

地面が鳴った。

足の裏に来た。それから腹の底に来た。走っていた。後ろに子どもを抱えた女が続いた。老いた男が躓き、起き上がれなかった。

振り返らなかった。

山が割れるのを、背中で知った。熱い風が追いかけてきた。石が降ってきた。空が暗くなった。昼だったのに暗くなった。

走りながら川に入った。水が熱くなっていた。それでも渡った。

向こう岸に七人がいた。知った顔。知らない顔。子どもの顔。

止まった。

灰が降ってきた。指に積もった。掌に積もった。空を見上げた。太陽がどこにあるかわからなかった。

三日が過ぎた。

夜、焚き火を作った。材木が湿っていた。何度も火打石を打った。膝が震えた。疲れのせいか、恐れのせいかわからなかった。火がついた。火を見た。火を見続けた。

誰かが隣に来た。子どもだった。腕を掴んできた。

その者は何も言わなかった。腕をそのままにした。

五日目、食べ物を探して歩いた。灰に覆われた地面に、草がない。根を掘っても灰の下は固い土だった。川から魚を取ろうとした。川は灰色だった。何もいなかった。

戻ろうとして、足が止まった。

鼻の奥に何かが届いた。獣の匂いではない。焦げた木の匂いでもない。水の匂いだった。清い水の匂いだった。

どこから来るかわからなかった。

歩いた。鼻を使って歩いた。

崖の下の割れ目から、細い水が出ていた。指で触れた。冷たかった。口に含んだ。飲んだ。膝をついた。

大きな声を出した。言葉ではなかった。ただ大きな声だった。

その声を聞いた者たちが来た。飲んだ。子どもが飲んだ。老いた女が泣いた。

この者は泣かなかった。岩壁を手で叩いた。叩いた。叩いた。

手の甲が破れて血が出た。

それで止まった。

血を見た。血をなめた。塩の味がした。

その夜、半数以上がいないことを、はじめて数えた。数える言葉がなかったから、指で数えた。足りなくなった。足りなくなった。何度やっても足りなくなった。

指を開いたまま、止まった。

第二の星

大地の内側から何かが破れた。

始まりの大地の北東、黒い山脈の一角が崩れた。岩が溶けて流れ、平地を塗り替えた。三日間、空が見えなかった。灰と煙が風に乗り、南の草地まで届いた。水場が複数、土砂に埋まった。動物の群れが南へ逃げた。

人の集まりは散り散りになった。

逃げながら死んだ者がいた。水を飲もうとして飲めなかった者がいた。山の近くにいた者たちは、翌日には姿がなかった。集まっていた者たちの大半が消えた。

遠い土地では、この噴火を知らない旧人たちが湿地の縁を歩いていた。小さな魚を食べていた。子を背中に乗せた女が、川の中洲で立ったまま眠っていた。

始まりの大地の南に残った者たちは、灰の積もった地面の上で夜を越えた。

星はそれを見ていた。

山が静かになっても、空はしばらく灰色のままだった。太陽が戻るのに、時間がかかった。

与えるもの

糸が繋がった。

水の匂いを鼻の奥に置いた。届いた。この者は歩いた。

その者は岩壁を叩いた。手が破れた。それは渡していない。この者が自分でやった。

渡したものが怒りになった。悲しみになった。生きることへの何かになった。どれが正しいのかわからない。水を見つけたとき、この者が膝をついた。その瞬間だけ、何かが通じたかもしれない。

次に渡すべきものは何か。

指で足りなくなるものを、どう数えるか。

伝播:DISTORTED 人口:43
与えるものの観察:水の匂いを渡した。膝をついた。何かが通じた。
───
第1078話

紀元前294,620年

その者(41〜46歳)

霜が草を白くしていた。

その者は目を覚ます前から、骨が重いことを知っていた。寝床の石が冷たかった。それだけではなかった。

立ち上がろうとして、膝が折れた。

集団の中で若い者たちが動いていた。火を起こす者。水を汲む者。子どもを追う声。その者は壁に背をもたれ、それを見た。かつて自分が先頭に立っていた狩りを、今は若い男が仕切っていた。男はよく動いた。声も大きかった。

その者は何も言わなかった。

三日前、集団の中で何かが変わった。その者にはわかった。視線が変わる前に、空気が変わる。長く生きればわかることがある。

年寄りを養う余裕が、この集団にはなかった。

ある朝、若い男が短い音を発した。ほかの者たちが立ち上がった。その者のほうを、誰も見なかった。

集団が動き始めた。

その者は立とうとした。足が言うことを聞かなかった。動いていく背中を見た。子どもの声が遠ざかった。火が消えかけていた。

誰も振り返らなかった。

草原に風が来た。

その者は火の残骸のそばに座っていた。煙は出ていなかった。腹が減っていた。のどが乾いていた。

立てなかった。

空が高かった。雲がゆっくり動いた。その者はそれを見た。見続けた。特に何かを考えていたわけではなかった。ただ見た。

風が草をなびかせた。草の先が白く光った。

その者の体が傾いた。

ゆっくりと、草の上に横たわった。空はまだそこにあった。雲が動いていた。

体が冷えていくのが、だんだんわからなくなった。

草が揺れた。風が通った。

それだけだった。

第二の星

同じころ、乾いた大地の裂け目の近くで、小さな群れが水場を失っていた。泉が涸れていた。古老の女が地面に耳をあてた。何かを聞こうとしていた。若者たちが別の方向へ歩き始めた。女は立ち上がれなかった。群れは見えなくなった。地面に耳をあてたまま、女は動かなくなった。

与えるもの

草原の空の下で、一つの注意が消えた。風が草の匂いを運んでいた。その者の鼻には届かなかった。もう届かなかった。

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:53
与えるものの観察:渡せなかった。それでも渡す。
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第1079話

紀元前294,615年

第二の星

乾いた風が南から吹いていた。

草原の縁で、岩が割れたままになっていた。大地の震えから何十の日が過ぎても、その裂け目は塞がらなかった。雨が降ると水が溜まり、乾くと白く縁取られた。その縁を、小さな虫が列をなして歩いた。

遠く北の台地では、別の群れが獲物を追っていた。体の形がこの集団と少し違う者たちだった。眉骨が厚く、腕が長かった。彼らも火を持っていた。燃やすものが違うだけで、同じように夜に群れた。

同じ頃、海岸近くの低地では、出産があった。産まれた子は声を上げず、すぐに静かになった。母親はしばらくそれを抱いていた。それから置いた。

集団の火は夜通し燃えていた。誰かがそれを見ていた。

与えるもの

糸が繋がった。

煙の匂いが、風の向きと少しだけ違う方から来た。獣の死骸があるわけではなかった。集団の火でもなかった。その者の鼻が一瞬、その方向へ向いた。

受け取った。ただし、どこへ向かうかはわからなかった。

渡せた。これで十分か、と思った。それとも、もっと遠くを示すべきだったか。次は音を使う。

その者(35〜40歳)

夜明けより前に目が覚めた。

火が低くなっていた。枯れ枝を一本、それに添わせた。炎は小さく揺れ、また大きくなった。その者はそれを見ていた。他には何もしなかった。火が戻るまで、ただ見ていた。

煙の匂いがした。

自分たちの火の匂いではなかった。集団の誰かが別の場所で燃やしているわけでもなかった。その者は立ち上がり、匂いのする方を向いた。暗かった。何も見えなかった。

歩かなかった。

代わりに、その方向を覚えた。覚えるというより、体に刻んだ。足の向き、風の当たる頬の側、地面の傾き。明るくなったら行ける。そう思ったかどうかはわからない。ただ体がその方向を知っていた。

夜明けが来た。

その者は集団の子どもに火の番を任せた。初めてのことだった。子どもは怖い顔をした。その者は炎を指した。消えたら叩け、という身振りをした。子どもは頷かなかったが、火から目を離さなかった。

その者は匂いのした方へ歩いた。

岩場を越えた。低木の茂みをくぐった。草が露で濡れていた。靴はなかった。足の裏が冷たかった。

何もなかった。

焦げた跡があった。小さかった。誰かがここで火を使った痕だった。石が丸く並んでいた。別の集団が使う並べ方だった。この集団とは違った。

その者はしゃがんだ。灰に触れた。まだ少し温かかった。

立ち上がった。来た道を戻った。走らなかった。急がなかった。しかし足は速くなっていた。

集団に戻ると、子どもが火の前に座っていた。火は燃えていた。その者は子どもを見た。子どもを見た。それだけだった。

伝播:SILENCE 人口:69
与えるものの観察:煙の匂いで示した。体が向いた。
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第1080話

紀元前294,610年

第二の星

北の岩盤が、まだ動いている。
音ではない。押し上げる力が地の奥に残っていて、草原の西端では地面が数指分だけ高くなった。獣の足跡が、そこで途切れている。

集団は南の窪地に寄り集まっていた。69の命が、水場を中心に皮と枝と体温で繋がっていた。夜は近く眠り、昼は離れて食を探した。それだけのことが、命をつないでいた。

遥か東、草原が砂地に変わる境目のあたりで、別の集団が動いていた。旧人たちだ。火は持たない。しかし岩の陰を読む目が鋭く、雨の前に移動する。彼らが去った跡には、嚙み砕かれた骨と赤い泥が残った。

南の集団と東の集団は、まだ会っていない。足跡が重なったことは、一度だけあった。

風が西に変わった。
水場の水が、少し減った。

星は、どちらも照らしていた。

与えるもの

火の縁に、油脂の染みた石があった。
獣の脂が垂れて固まったものだ。火はそこだけ、長く、明るく燃える。

匂いが漂った。獣の脂が焦げる匂い。煙が白く、少し濃くなった。

この者はそれを見た。それだけだ。使ったかどうか、まだわからない。次に渡すべきものを、考えている。

その者(40〜45歳)

火が揺れた。

その者は立っていた。膝から腰まで、鈍い重さがある。それは今日に始まったことではなかった。何十の夜も前から、立ち上がるたびに時間がかかった。それでも、火の番を他者には渡さなかった。

燃えている。

その一点だけが、その者の仕事だった。

枝を足した。火が応えるように揺れた。その者はしゃがんで、炎に顔を近づけた。熱が頰に触れた。両の掌で顔を挟んで、そのまま少し動かなかった。

煙の匂いが変わった。
獣の脂の匂いが混じった。

その者は鼻を動かした。立ち上がって、火の周りをゆっくり回った。地面に目を落とし、石の一つを拾った。脂の染みた石だ。親指で表面を押すと、べたりとした。火に近づけた。炎が伸びた。高く、明るく。

その者は後ろへ引いた。

また近づけた。炎がまた伸びた。

何度か繰り返した。飽きたのか、それとも何か別のことを感じたのか、やがて石を置いた。火の真横に、それまでとは違う場所に。

夜が来た。
集団の何人かが戻り、火の近くに体を横たえた。その者はずっと起きていた。目が、炎と石の間を行き来した。

明け方、石の周りで火がいつもより長く燃えていた。その者はそれを見ていた。

何も言わなかった。
言う言葉を、持っていなかった。

伝播:DISTORTED 人口:89
与えるものの観察:脂が火を伸ばす。この者は見た。