2033年、人類の旅

「紀元前294,245年〜紀元前294,125年」第1153話〜第1176話

Day 49 — 2026/05/21

読了時間 約55分

第1153話

紀元前294,245年

その者(29〜34歳)

夜明け前に目が覚めた。

岩盤の上に寝ていた。脇腹に石の角が食い込んでいて、それが目を開けさせた。空はまだ黒く、東の縁だけがわずかに薄くなっていた。

隣で誰かが寝息を立てていた。その者の少し離れたところで、また別の誰かが。集団は増えていた。斜面のあちこちに身体が丸まっていた。

その者は起き上がり、岩の端まで歩いた。

崖の割れ目から水が滲む音がした。細い音だった。夜の静けさの中でそれだけが続いていた。手をかざすと、冷気が指先に触れた。水ではなく、空気だった。水はもう少し下に来て初めて岩を濡らしていた。

喉が渇いていた。

岩を伝って下りた。足の裏が濡れた面を探した。手が壁を押さえた。暗い中で体が先に動いた。水の音が大きくなった。口を近づけると、岩から染み出すしずくが唇に当たった。

その者は飲んだ。

冷たかった。舌の奥まで冷えた。もう一度。もう一度。

飲み終えて、その場に座った。

夜明けが来ていた。東の稜線が赤くなり、雲の裏側が橙に染まった。斜面の草が色を取り戻していった。遠く、低地の方向に、水場がある。あの方向に別の集団がいた。

その者は膝を抱えた。

昨日、何かがあった。言葉ではない。音でもない。低地の方から、男たちが二人来た。その者の集団の男たちが出ていった。長い時間、何かがあった。声が上がった。声が収まった。男たちは去った。

その者の腕に残った痕が疼いた。誰かに掴まれた跡だった。

誰かが来たかどうかを確かめに来たのか、それとも何かを取りに来たのかは、その者にはわからなかった。ただ、男たちの顔が、来たときと去るときで違った気がした。

光が完全に斜面に差し込んだとき、集団の誰かが目を覚まし始めた。

その者は立ち上がった。

腕の痛みがまだあった。動かすと鈍く重かった。それでも手を開いた。閉じた。開いた。

手は動いた。

第二の星

豊穣が続いていた五年だった。

北の端では、崖の水場を持つ集団と、低地の水場を持つ集団が、互いの存在を知りながら生きていた。食べ物があった。子が生まれた。集団は膨らんだ。膨らんだものは、互いの縁を意識した。

その者の集団は斜面に留まり続けた。崖から滲む水は細かった。人が増えるほど、細い水で全員の渇きを満たすことの難しさが増した。

低地の集団は大きかった。水は豊富で、根や実も多かった。その分、男たちの動きが増えた。斜面の方へ、何度か来た。

すべての来訪が争いではなかった。ある時は、ただ見ていった。ある時は、腐った実を置いていった。ある時は、声を上げて戻っていった。

緊張は言葉を持たなかった。音と距離と眼の向きで伝わった。

旧人の姿が遠くに見えることがあった。彼らは集団の近くに来なかった。境界を知っていた。あるいは持っていた。人の集団も境界を持とうとしていたが、それはまだ形を持たなかった。

気候は穏やかだった。しかしその穏やかさが積み重なるほど、集団は増え、増えるほど、狭さが生まれた。

星はそれを照らした。判断しなかった。

与えるもの

腕の痛みが疼いた瞬間、空気が動いた。

崖の裂け目の方から、ではなく、その者の顔の高さを、横に流れていった。温くも冷たくもない風だった。

その者は振り向かなかった。

手を開いた。手を閉じた。それだけだった。

それだけで——

渡した。痛みではなく、その後に手を動かしたことを。傷ついた手が開いたことを。何かを持てるかどうかを確かめたことを、ではなく、確かめること自体を。

次に渡すべきものが見えない。見えないのではなく、まだこの者の手が何を掴めるのかがわからない。

しかしこの問いは——以前も持っていた気がした。

伝播:NOISE 人口:817
与えるものの観察:手が開いた。それだけで十分だったかもしれない。
───
第1154話

紀元前294,240年

第二の星

平原の北で乾季が続いている。
川床が割れ、泥が白く干上がっている。
魚を採る者たちは水場を変えた。半月歩いて、別の集団と鉢合わせた。どちらも黙って相手を見た。視線が長く、動かなかった。

旧人の群れが三つ、南の丘陵に出ている。
人類の集団とは別の匂いを持つ。眉の骨が厚く、歩き方が静かだ。どちらも互いを見てから、見ないふりをする。どちらも火を持っている。

始まりの大地の東端では子どもが二人、同じ日に生まれた。一人は夜明けに、一人は日没に。どちらの母親も生き残った。これは珍しい。

崖の上で鷹が巣を張っている。
卵は四つ。三つが孵った。

その者のいる集団では夜に声が上がることが増えた。誰かが何かを訴えるような音だが、どの者も答えない。暗闇に向かって出た声は、岩に吸われて消える。

大地は動かない。
噴煙はもう見えない。
跡だけが残っている。

与えるもの

この者は34になった。

夜明け前に目が覚めることが続いている。前の回の記憶が波のように返ってくる。骨を持たない手が下がった。光が曲がった。振り返らない背中。どれも届かなかった。あるいは届いたが形を変えた。わからない。

今回は別の者を示した。旧人の女だ。
集落の外れで毎朝、水を飲む。静かに飲む。急がない。

この者の鼻腔に、女の獣脂の匂いが風に乗って届いた。
この者は一度鼻を動かして、それから目を向けた。
向けたまま、長く見ていた。

それで十分か、まだわからない。
匂いで示したことは初めてだった。
何が変わるか、問いは残る。ただ、この者は次に同じ場所を通る時、おそらくまたそこを見る。それだけで何かが始まるかもしれない。あるいは始まらない。

その者(34〜39歳)

草の根を掘っていた。
道具は骨だ。鹿の肩甲骨を欠いたもので、先が尖っている。土に刺してひっくり返す。根の白い部分を指でちぎって口に入れる。苦い。それでも食べる。

隣で年上の者が同じことをしていた。その者より速い。指が太く、力がある。

風が変わった。
獣脂の匂いがした。重く、温かい匂いだった。

顔を上げた。

集落の外れに旧人の女がいた。水場の石に膝をついて、両手で水をすくっている。首が太い。髪が短く、後頭部が丸い。静かに飲んでいる。急いでいない。

隣の年上の者は気づいていない。根を掘り続けている。

その者は骨の道具を土に差したまま、手を止めた。

女が水を飲み終えて立ち上がった。振り返らずに歩いていった。草の中に消えた。

匂いだけが残った。

その者はしばらく水場を見ていた。それから根を引っ張った。根は長く、土の中に続いていた。引けば引くほど出てきた。どこまで続くかわからないまま引いた。

最後に、ぷつりと切れた。

伝播:DISTORTED 人口:818
与えるものの観察:匂いで示したのは初めてだった
───
第1155話

紀元前294,235年

第二の星

平原の北端で、二つの集団が互いの息を聞いている。

風が止まった日だった。草の穂が動かない。川床の向こうに、見知らぬ顔が並んでいた。皮を巻きつけた者もいれば、素肌のままの者もいた。身振りが違う。音の出し方が違う。しかし腹が鳴る音は同じだった。

乾季は続いている。

この星の別の場所では、密林の奥で木の実が熟れて落ち、誰も拾わない。沿岸では引き潮の砂に巻き貝が埋まり、鳥だけがそれを知っている。南の山岳地帯では、雪解け水が細い筋になって石を磨いている。誰も住んでいない谷に、煙はない。

ここでは二つの集団が動かない。

子どもが一人、前に出た。石を持っていた。投げなかった。ただ持っていた。

相手の集団の子どもが、同じように前に出た。

大人たちは息を詰めて見ていた。

与えるもの

この者の足元の砂が、ここ数日で変わった。

湿り気が残っている一角がある。水面まで深くはない。水の気配は匂いとなって立ち上っていた。

この者はその場所の前で立ち止まった。嗅いだ。それから別の方向へ歩いた。

そこに何があるか、まだわかっていない。次に渡すべきものは、渇きが深くなってからの話かもしれない。

その者(39〜44歳)

向こうの子どもは、こちらより背が低かった。

石を持っている。その者も石を持っている。どちらも動かない。

風がなかった。草が立ったまま。太陽が真上にあって、影が足元に縮んでいた。

向こうの子どもが音を出した。短い、低い音。

その者は聞いた。自分の集団の音ではない。けれど怒りの音でもない。問いかけるような音でも、たぶん、ない。ただの音だ。

石を持ち替えた。右手から左手へ。

向こうの子どもが少し首を傾けた。

その者は石を置いた。砂の上に。音もなく。

向こうの子どもは動かない。その者も動かない。置かれた石だけが、そこにある。

後ろで大人が何か言った。その者は振り向かなかった。

日が傾き始めた頃、向こうの子どもが石を拾い上げた。自分が持ってきた石ではなく、その者が置いた石を。

何も起きなかった。誰も叫ばなかった。

夜になって、二つの集団は火を別々に焚いた。遠くない距離に、二つの光があった。その者は自分たちの火の端に座って、向こうの光を見ていた。同じものだと思った。思ったわけではないが、そういう感じがあった。言葉はなかった。感じだけがあった。

伝播:NOISE 人口:827
与えるものの観察:石を置いた。渡せたのか、それとも奪われたのか。
───
第1156話

紀元前294,230年

その者(44〜46歳)

川床の向こうに見知らぬ顔があった、その翌日から、腹が減り続けた。

集団は北へ動いた。草が薄かった。獣の足跡は古く、泥が乾いていた。その者は列の後ろを歩いた。足の裏が硬かった。それだけが頼りだった。

子どもたちが先に走る。その者はついていけなかった。

膝が重い。草の穂を手でなぞりながら歩く。実はなかった。指先に埃だけが残った。

三日、水を飲んだ。それだけだった。

四日目の朝、その者は岩の陰に座った。集団は先へ行った。誰かが振り返った。が、戻らなかった。

岩は温かかった。日が当たっていたからだ。その者は背中をそこに押しつけた。目を開けたまま空を見た。青かった。雲がなかった。

遠くで何かが動いた。草が揺れた。獣か、風か、わからなかった。

その者は手を開いた。砂がそこにあった。いつ拾ったのか、覚えていなかった。

砂が指の間から落ちた。

落ちきった。

手は開いたまま、膝の上で止まった。

第二の星

平原の南で、別の集団が火を囲んでいた。川沿いに皮を張り、子どもが寝ていた。川向こうの見知らぬ者たちと向き合った緊張は、まだ誰の体からも抜けていなかった。火の番をしている者が、ときどき暗い方を見た。草の音がするたびに、肩が上がった。夜は長かった。

与えるもの

岩の陰で手が開いたとき、光がわずかに動いた——草の根元に落ちたその光を、別の者が踏んだ。

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:DISTORTED 人口:828
与えるものの観察:渡したものが届いたのか、それさえわからない
───
第1157話

紀元前294,225年

第二の星とその者(12〜17歳)

北へ向かった集団は、五日目に岩の台地に出た。
風が横から来た。草は膝より低く、根元から乾いていた。
空の端が白っぽかった。

その者は石を踏んで足を滑らせた。膝をついた。手のひらに砂が刺さった。
立ちあがって、また歩いた。

台地の北側に、別の人々がいた。
背が低く、額が突き出ていた。腕は長く、動きに迷いがなかった。旧人だった。
どちらも足を止めた。
どちらも声を出さなかった。

その者は列の後ろにいたから、前で何が起きているかわからなかった。
大人たちが音を出した。低い、長い音だった。
前の方で何かが投げられた。それが何かは見えなかった。

旧人たちは動かなかった。
そのまま、大人たちも動かなかった。
その者は足の下の石の感触だけを感じていた。

やがて旧人たちは台地の向こうへ消えた。
大人たちは動き続けた。

その者はそれを追った。

雨が来た。
台地の窪みに水が溜まった。獣が飲みに来た。人も飲んだ。
集団は二つの家族ぶんに分かれて岩の陰に入った。

その者は火の番を任された。
細い枝を折って、燃えている部分に近づけた。
煙が目に入った。目が焼けた。
涙が出た。悲しくなかったが、涙は止まらなかった。

火が消えそうになった。
その者は息を吹いた。炎が揺れた。消えなかった。

それだけで、その夜は終わった。

三年目に、子どもが一人生まれた。
その者が生まれたときにはいなかった母親の妹が産んだ。産んだその夜に、妹は岩の端から動かなくなった。血が黒く、石の間に沁みていった。子どもだけが泣き続けた。

その者は子どもを見た。
手を出した。
指を握られた。

何かを受け取ったのか、渡したのか、その者にはわからなかった。

五年目の秋、台地を離れる前夜に、その者は火のそばで岩の平たい面を撫でた。
繰り返し、同じところを。
撫でて、止まって、また撫でた。

理由はなかった。
やめることもなかった。

与えるもの

糸が繋がった。

煙の匂いが、ある方向から来た。東の岩の間、湿った地衣類が燃えていた場所。
その者は鼻を動かした。それから、火に枝を足した。

煙の方へは行かなかった。

湿った地衣類が燃える場所には、白い根が露わになっていた。前にも同じものを示したことがある。遠く、別の者に。その者は食べた。この者は気づかなかった。

同じものを示した。届く形が違う。

この者は指を握られた夜を持っている。渡せるものが変わるかもしれない。次に示すのは、子どもが泣き止んだ後の沈黙だ。あの沈黙の中に、何かが残っている。

伝播:NOISE 人口:832
与えるものの観察:糸は繋がった。届き方はまだわからない。
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第1158話

紀元前294,220年

第二の星

台地の縁に風が当たる。草は寝たまま起きない。

始まりの大地の北端、岩が層状に重なる場所で、数百の者たちが散らばって動いている。半数は台地の低い側に降り、残りは縁近くにとどまっている。どちらが正しいかを、この星は問わない。

遠く南では、別の群れが川の折れ曲がった場所に居着いている。旧人と現人が同じ水を使っている。争わない。近づかない。ただ同じ水を、別々の時刻に飲む。それだけのことが、何十の季節も続いている。

台地では、集団の中に不均衡がある。食料の多い場所を知る者と知らない者がいる。それが均衡として保たれているうちは、集団は動かない。しかし知っている者が多くなりすぎると、何かが変わる。

岩の隙間に、獣の骨が積まれている。誰が置いたのか、今いる者の誰も知らない。

与えるもの

台地の岩の割れ目から、冷たい空気が漏れていた。

その者の足がそこで止まった。踏み込もうとして、止まった。

渡せたかもしれない。この先に水があることを。しかしその者の足は、もう別の方向を向いていた。

渡す、ということは、届く、ということではない。それをいつから知っていたか、もう数えることをしていない。

ただ次に渡すものは決まっている。まだ渡していない。

その者(17〜22歳)

足の裏に岩の冷たさが残っている。

その者は立ち止まって、割れ目を見た。見た、というより、体が先に止まった。なぜ止まったかは、わからない。風ではなかった。音でもなかった。ただ足の裏から何かが上がってきた気がして、それだけだった。

後ろから年長の者が来た。押すような手振りで先へ行けと示された。その者は割れ目から離れた。

集団は縁から離れて岩の平らな部分へ移った。食べるものを探す動きが始まった。草の根を掘る者、乾いた実を拾う者。その者も石を手に取り、地面を叩いた。根が出てきた。細い。白くない。食べられるかどうか、匂いを嗅いだ。

その者は食べなかった。

夕刻、年長の男が近づいてきた。火の番を交代するときの仕草ではなかった。集団の中でも声の大きい者だった。その者の持つ道具を指した。取れ、という意味に見えた。その者は離さなかった。

夜、別の者に肩を押された。転んだ。起き上がった。周りに四人いた。

その者は火の外に出た。

暗い。風が横から来る。台地の端はわからない。

足が進んだ。止まらなかった。岩の凸凹が足の裏に当たり続けた。転んだ。立った。また進んだ。割れ目があったはずの方向へ、体が覚えていた冷たさへ向かって。

見つけた。

割れ目に手を入れると、湿った土の匂いがした。その者はそこに体を押し込んだ。膝を抱えると、ちょうど体が収まった。

風の音が小さくなった。

その者は岩に額を当てた。額が冷たかった。

伝播:HERESY 人口:793
与えるものの観察:足が先に知っていた。
───
第1159話

紀元前294,215年

その者

足の裏が痛い。

岩の上を歩きすぎた。皮が厚くなっているはずなのに、今日は違う。右の踵の少し前、丸く赤くなっている場所がある。指で押すと、奥に何かがある。棘ではない。擦れた。

その者は座って、足を膝の上に乗せた。

集団の者たちは動いている。大人たちは台地の中ほどにある枯れ木を引きずっている。子どもたちは走り回っている。老いた女が煙の向こうで何かを叩いている。

その者は動かなかった。

足が痛い。それだけだった。

朝から動いていた。大人の男に並んで歩き、大人の男が石を割れば近くで見ていた。真似た。指が震えた。石が割れなかった。大人の男は笑わなかった。ただ続けていた。その者も続けた。三回目に石が割れた。欠片が飛んで、手の甲をかすった。血が出た。なめた。続けた。

日が傾くころ、大人の男はどこかへ行ってしまった。

その者は割れた石を持っている。端が薄い。光に当てると透けるような色をしている。何かに使えるかどうか、その者にはまだわからない。ただ持っている。

煙の匂いがした。

火は台地の窪みで燃えている。誰かが枝を入れたばかりで、白い煙が真上に細く立っている。風がない。

その者は煙を見た。

立ち上がり、足を地面に下ろした。痛みを踏んで歩き始めた。火の近くに行こうとした。途中で止まった。

煙の形が変わった。

上で、真横に折れた。風がないのに折れた。煙は右の方向に薄く流れ、消えた。

その者は立ったまま、その方向を見た。

岩の向こうに何があるかは知らない。台地が続いているだけかもしれない。草かもしれない。

しかし、その者は見ていた。

足の痛みが遠くなった。手に持った石を、その者は握り直した。何のためでもなく。

第二の星

始まりの大地に、雨が多かった。

草が深く育ち、根が土を掴んだ。川は岸を越えなかった。実はよく熟れ、獣も肥えた。台地の者たちは以前より多く集まって暮らしている。

同じ時、大地の他の場所でも別の者たちが動いていた。この星はそちらも照らしている。等しく、黙って。

穏やかさが続くとき、集団の中に別の重さが育つことがある。多くなると、食い物をめぐる声が変わる。子どもたちの喧嘩が、大人の沈黙を呼ぶ。目と目が交わされる。言葉はない。ただ、空気が違う。

季節が四つ、また四つ、また四つ巡った。その間、誰も大きく傷つかなかった。新しい命が来て、老いた者が静かに消えた。集団は育ち続けた。

この星はそれを問わない。

穏やかさの中にも、何かが変わる前の気配がある。蜜が熟れすぎると、甘さが腐りに近づく。空は晴れている。しかしどこかで何かの均衡が、少しずつ動いている。

この星は照らすだけだ。

与えるもの

煙が折れた方向に、風はなかった。

それでも折れた。

光がそこに落ちたわけでもない。音がしたわけでもない。ただ煙が、一瞬だけ、意味のある方向を向いた。

この者は見た。

岩の向こうに何があるかを、この者はまだ知らない。しかしこの者の手は、石を握り直した。それが何を意味するか、この者は言葉を持たない。

問いは残る。

届いたとき、それが届いたことを——渡したものは知らない。

伝播:SILENCE 人口:1,031
与えるものの観察:煙が折れた。この者は手を握り直した。
───
第1160話

紀元前294,210年

第二の星

乾季の終わりに、草原から煙が上がり始めた。

火は山の東斜面からではなく、低地の乾いた草むらから起きた。最初の煙は細く、遠かった。気づいた者は何人かいて、しかしその日の夕方には消えていた。次の朝、地平に沿って橙の帯が広がっていた。

その集団は、南の崖の下に長く住んでいた。崖が風を遮り、崖の上から草原を見渡せる。水場まで歩いて半日。獣の通り道を知っている。ここに来て三世代が経つ。

しかし今、その草原が燃えていた。

獣が先に動いた。南から北へ、一列ではなく幾筋にも分かれて走る蹄の音が地面を揺らした。その者の集団にいた男が崖の縁に立ち、下を見て、何かを叫んだ。女たちが子どもを引き寄せた。老いた者が立ち上がりかけ、膝が折れて座り直した。

煙が近づいていた。

集団は動いた。方向はすぐには決まらなかった。東と西で声が重なった。東を指した者が三人、西を叫んだ者が二人、どちらでもない方向へ歩き始めた者が一人。それが集団の動きを割いた。

東へ向かった一群が崖沿いを走った。子どもが二人、置いていかれそうになり、大人の一人が引き返して抱えた。崖を回り込んだ先に、旧人たちの縄張りがある。彼らは長く、この集団の南限の少し先に住んでいた。顔を知っている。目が合えばそれぞれ止まる。言葉はない。しかし争ったこともない。

そこへ、逃げる者たちは向かっていた。

旧人の集団はすでに動いていた。同じ火を見て、同じように北へ逃げていた。二つの集団が、同じ斜面を同じ方向へ走っていた。

接触は唐突だった。

岩陰から人影が出てきた。片方の集団の者が立ち止まり、相手の顔を見た。相手も止まった。煙は後ろから来ている。立ち止まれる時間はない。それを両方が理解していた。

どちらが先に歩き始めたかは、誰も覚えていない。二つの集団は、並んで北へ向かった。

北の斜面を登りきったところに、浅い川がある。水は少ないが流れていた。火はそこで止まる。崖を超えない。その者の集団は、旧人の集団と川の畔に着いた。

互いに距離を置いて座った。

火は夕方に弱まった。煙はまだ上がっていたが、風向きが変わり、北ではなく西へ流れ始めた。誰かが、低い声で何かを言った。別の誰かが答えた。

夜、二つの集団は同じ火を囲んだわけではなかった。それぞれが別の小さな火を起こし、川を挟んで、互いの火の光を見ながら眠った。

朝、旧人の集団は南へ戻っていた。

草原は半分が黒くなっていた。残った草は端に縮れていた。水場への道が変わる。獣の通り道も変わる。崖の下の住処はまだある。戻れる。しかし戻っても、昨日と同じではない。

集団は川の畔で一日を過ごした。食べるものを探した。水を飲んだ。崖の方向を見た。

その者の集団の中に、緊張が走っていた。昨日の逃げる場面で、東と西に声が分かれたことを、ある者は忘れていなかった。西を叫んだ者の一人が、今日は端に座っていた。他の者は、その者に目を向けていた。目を向けて、何も言わなかった。

何も言わないことが、言葉よりも重かった。

与えるもの

西を叫んだ者の、首筋が張っていた。

朝から下を向いていた。与えるものは川の流れを、その者の足元に落とした。水音が変わった。浅瀬の石が少し見えた。渡れる場所があった。

その者は下を向いたまま、水音を聞いた。一度だけ足先を水に入れた。それからまた座った。

逃げることができた。逃げなかった。なぜかは、与えるものにもわからない。ただ次に、その者が顔を上げたとき、川の向こうを見ていた。そこに何があるか、知らないままで。

その者(27〜32歳)

右の踵はまだ痛い。

走ったから、かえって悪くなった。

川の畔の石は冷たく、水に足先を漬けると、傷のあたりが引いていく感じがした。傷を見た。赤みが増していた。

黒くなった草原の方を向いた。崖はまだ見えた。戻れる。わかっていた。しかしまだ立ち上がらなかった。

伝播:HERESY 人口:984
与えるものの観察:川を渡れた。渡らなかった。それだけ。
───
第1161話

紀元前294,205年

第二の星とその者(32〜37歳)

草原の火は三日で消えた。

焦げた地面が雨を吸い込み、湿った灰の匂いが低く漂う季節がきた。東の丘の向こう、別の集団の焚き火が夜に見える。その煙は細く、しかし毎夜上がる。昨年はなかった。

その者は焼けた地を歩いた。足の裏に灰が貼りつく。炭になった草の茎を踏むと、粉になって散る。遠くで子どもが叫んでいる。遊びの声か、怪我の声か、その者には聞き分けられなかった。

丘の上では、二つの集団が向かい合って立っていた。どちらも声を出さない。石を持っている者がいる。持っていない者もいる。風が斜面を上がってくる。

その者は腹が空いていた。木の根を掘っていた。先が折れた骨の道具で土を崩し、指で引き抜く。根は細く、苦かった。それでも口に入れた。

豊穣は続いていた。しかしそれは均等ではなかった。水場に近い場所を知っている集団と、知らない集団がいた。知っている集団は大きくなり、知らない集団は痩せた。痩せた集団が丘に立った。

夜、その者は寝られなかった。

集団の中の一人が頭を割られた。石で、だった。朝に見つかった時、そこには大きな赤黒い染みがあって、蠅がたかっていた。誰が、なぜ、という問いを持てる言葉を、その者は持っていなかった。ただ見た。見たまま、離れた。

草原の向こう、旧い型の者たちの声が夜に聞こえることがあった。高く、長く伸びる声。その者の集団は黙って聞いた。声を返す者はなかった。

その者は三十を越えて、歯が一本抜けた。噛むたびに顎が痛む。固いものを避けるようになった。柔らかい腸を先に食べ、骨を後回しにした。後回しにしたまま捨てることもあった。

雨季が遅れた年があった。集団の中に、腸を病む者が出た。水が少なく、残った水が濁った。半数が腹を痛め、何人かが三日で力を失い、そのまま起き上がらなかった。その者も七日、下り続けた。立てない日が続いた。立てるようになった時、集団は小さくなっていた。

その者は集団の中で、誰が消えたかを数えなかった。数える言葉がなかった。ただ、いた場所に誰もいないことを、体で知った。

火山は眠っていた。地面は揺れなかった。しかし何かが変わっていた。丘に立つ集団の数が増えた。毎夜ではなく、ある夜は来て、ある夜は来ない。来る夜は声が上がった。その者の集団も声で返すようになった。返すと引くこともあった。返さないと朝に損害が出ることもあった。

その者は声を上げることを覚えた。

理解ではなかった。腹の底から押し出す声が、何かを変えることを、繰り返しの中で体が知っていた。声を上げる者が多いほど、向こうが引いた。その者は声を上げる者の隣に立つようになった。

五年の終わりに、その者の集団は水場を守った。

守った、と言える言葉はなかった。ただ、水場にいた。翌朝もいた。向こうはいなかった。水は濁っていなかった。

与えるもの

苦い根の匂いが漂ってきた。その者の手が止まった一瞬に、苦さが口の中で広がるより先に、水場の方向から風が届いた。

その者はしばらく根を持ったまま、風の方を向いた。それから、また掘り始めた。

水場を、今日ではなくていい。しかし水場のことを、体が覚えた。それで十分か。十分ではないかもしれない。しかし次に渡すべきものが、すでに見えている。

伝播:DISTORTED 人口:990
与えるものの観察:声が体を変えた。言葉の前に。
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第1162話

紀元前294,200年

第二の星

乾季が終わりかけている。

草原の南端、焦げた土に最初の芽が出た。細く、白っぽい。雨がそこだけ早く降ったわけではない。灰が土を変えた。

東の丘の向こうに火がある。昨年はなかった火だ。夜ごとに煙が上がる。集団の規模はわからない。しかし火の間隔は短く、燃料を管理している何者かがそこにいる。

もっと遠く、この者たちの集団から見て陽の昇る方角に、別の水辺がある。そこに異なる体格の者たちが暮らしている。額が張り出し、顎が厚い。子どもを抱く仕草は同じだ。火を囲む距離感も似ている。しかし声の出し方が違う。胸から出す音ではなく、鼻の奥から出る。

その者たちは昨年の秋から西へ移動している。理由は草原の火ではない。別のものを追っている。獣の群れが西へ流れた。それを追って、彼らも西へ歩いた。

星はすべてを等しく照らす。

焦げた土の芽も、東の夜火も、西へ歩く額の張り出した者たちも、同じ光の中にある。

どちらが先にここへ着くか。星には知るすべがない。知ろうとする理由もない。

与えるもの

苦い根と風の向きを渡したとき、この者は根を食べた。風の向きには気づかなかった。

今回は別のものを渡す。

足元の土が固さを変える場所がある。柔らかい土から固い土へ、一歩の間に変わる。その境目を、踏んだ足の裏に感じさせた。

この者は立ち止まった。もう一度踏んだ。また立ち止まった。

渡す意志はある。しかし土の固さが何を意味するか、この者はまだわからない。固い土の下には岩盤がある。岩盤に沿って水が流れる。水が流れる場所は逃げ道になる。

それをこの者が繋げるかどうか、わからない。

ただ、立ち止まったことは残る。次に渡すべきものへの問いが生まれた。水の音を聞かせるか。それとも別の土の境目を、もう一度踏ませるか。

その者(37〜42歳)

朝、集団の端から離れて歩いた。

大人たちが獣の皮を引きずって戻ってきた夜から、何日も経っている。皮は石で薄く叩かれ、乾かされ、子どもの体に巻きつけられた。その者は巻きつける作業を手伝った。端を持つだけだった。しかし端を持つことで、皮が動かなくなった。

今日は水を運ぶ仕事を言いつけられた。木の器を両手に持って、窪んだ地面を歩く。

一歩踏んで、足の裏が変わった。

柔らかかった土が、突然硬くなった。もう一度踏んだ。硬い。隣を踏んだ。柔らかい。

しゃがんで土を触った。硬い側は色が少し薄い。指で掻いても深く入らない。

立ち上がって、前を向いた。硬い土は少し先で途切れている。その先にまた柔らかい土がある。

水を運ぶことを忘れた。しゃがんで、また触った。

誰かが後ろから呼ぶ声がした。子どもの声ではなく、大人の、短い音だ。戻れという音だ。

その者は立ち上がった。しかし足の裏に残る感触を、歩きながらも踏み直していた。左、右、左。土の変わり目を、足で何度も確かめながら、集団のほうへ戻った。

東の空に煙が細く上がっていた。

その者はそれを見た。見て、また足元を踏んだ。

伝播:HERESY 人口:942
与えるものの観察:足裏に残した問いが、歩きを変えた。
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第1163話

紀元前294,195年

第二の星

大地の南、草が根を張りなおしたばかりの季節だった。

雨は来た。しかし水ではなかった。見えないものが水に混じって流れた。川を飲んだ者が倒れ、その者に触れた者が倒れ、倒れた者の呼気を吸った者が倒れた。順番があるようで、順番はなかった。健康な者が朝に笑い、夕に動かなくなった。老いた者が一週間うめいて生き残り、走れる者が三日で地に伏した。理由を問う言葉を、この集団はまだ持っていなかった。

最初に熱が出た。次に震えた。腹が水になった。皮膚が乾いて、目が落ちくぼんだ。水を飲んでも水が出ていった。子どもが先に消えた。子どもを世話した者が続いた。火の番をしていた者だけが、離れていたために残った。

集団の輪郭が縮んだ。

焚き火の数が減った。夕方に聞こえていた声の量が半分になり、それからさらに半分になった。生き残った者は動かなくなった者を引きずり、日当たりの良い斜面に並べた。埋める力が残っていなかった。草が乾いているので火をつけた。煙が低く流れた。風がなかった。

草原の東では、別の集団が同じように倒れていた。この星はそれを見ていた。赤道を挟んだ遠い場所では、まったく無関係な熱波が大地を焦がしていた。この星の大きな川の源流で氷河が割れ、轟音が山を渡った。どこも静かではなかった。しかしこの集団には届かない音だった。

生き残った者たちは互いを見た。誰も何も言わなかった。言う言葉がなかった。声を出す気力もなかった。

岩の陰に背を預け、空を見ていた者がいた。空は何も変えなかった。雲が流れ、また流れた。

残ったのは集団の半分より少なかった。それだけが事実だった。

与えるもの

川上で水が濁りはじめた頃、熱のある枯れ枝の燃え残りから、白い煙が立ちのぼる向きを感じさせた。

その者は煙の流れを見た。それから川から離れた方向へ歩いた。理由は知らなかった。ただそちらに足が向いた。

煙が命を分けたかどうかわからない。しかし次に何を感じさせるべきかは、もう決まっている。生き残ったことが、渡す場所になる。

その者(42〜47歳)

川の近くで熱が出た者を見た。その者は川から離れた。

なぜかは知らなかった。煙がそちらへ流れていた。足がそちらへ向いた。

仲間が倒れた。その者は倒れなかった。倒れなかったことが、体の中に重く残った。岩に座り、煙のあとを目で追った。それだけだった。

伝播:SILENCE 人口:549
与えるものの観察:生き残ったことが重さになる者がいる
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第1164話

紀元前294,190年

その者(47〜52歳)

肉が余っていた。

それが不思議だった。食べても食べても、また肉があった。草の実も、根も、どこにでも転がっていた。腹が空く前に次が来た。

その者は火の番をしていた。大人たちの端で、燃え続けることを確かめる役だった。薪を足す。灰を退ける。それだけだった。それで十分だった。

集団が大きくなっていた。顔を知らない者がいた。声を聞いたことのない子どもがいた。夜、火の周りに座る人数が増えた。増えたとは言わなかった。ただ、端に座ると遠かった。

その者は聞いていた。

火の向こうで、年嵩の男が何かを言っていた。他の集団のことを言っているようだった。川の向こうに、別の声がある。身振りで示した。手を広げて、遠くを指した。次に手を握った。それから胸を打った。

他の者たちが黙った。

その者には、その沈黙の重さがわかった。言葉ではなかった。火の揺れ方が変わった。息が詰まるような変わり方だった。

翌朝、その者は集団の端で眠った場所から起きた。露が草についていた。足の裏が冷たかった。

水場へ行った。飲んだ。足元に小石が並んでいて、ひとつを拾った。重さを確かめた。置いた。また拾った。

川の向こうに煙があった。

その者は長く見た。煙は細く、まっすぐだった。火を持っている者たちがいる。その者はそれを知っていた。幼い頃から知っていた。遠くにも火がある。

戻ったとき、集団の中心に人が集まっていた。その者は端に立った。聞いた。

年嵩の男が何かを決めようとしていた。手を振る向きが、川の向こうを指した。指した後、手を地に打ちつけた。

他の者が頷いた。

その者は口を開こうとした。言葉が出なかった。出た音は声ではなかった。音として出てきたが、誰も聞かなかった。

その者は黙った。

夜、また火の番をした。

火を見ていた。火が何かを言うわけではなかった。ただ揺れた。赤く、橙色に、時折青く揺れた。

その者の手が、炎の近くに行った。熱かった。遠ざけた。また近づけた。熱さが手の骨まで来る手前で止まった。

翌朝、川の向こうへ向かう者たちがいた。

その者はついて行こうとした。男のひとりが、その者の肩を押した。行くなという意味だった。もう一度押した。

その者は動かなかった。

三度目に押した手に、その者は自分の手を重ねた。押し返さなかった。ただ重ねた。

男は手を引いた。目が合った。何かを言った。単語だった。「知るな」という意味に近い何かだった。

その者は、その目を見た。

怖れている。その者にはわかった。男が自分を怖れているのではなかった。その者が何かを知っていることを、怖れていた。

集団が戻ったのは、日が傾く前だった。

戻った者たちは無言だった。

血がついている者がいた。傷ではなかった。自分のものではない血だった。

その者は火の側に座った。

誰も何も言わなかった。火が燃えた。肉が焼けた。食べた。飲んだ。

夜が来た。

その者は火の番をしていた。

他の者たちが眠り始めた頃、背後から音がした。

振り返る間はなかった。

重いものが当たった。頭の後ろだった。地面が近くなった。草の匂いがした。露の冷たさが顔に来た。

それ以上は来なかった。

第二の星

豊かな季節が続いていた。

雨は足りた。草は丈高く育ち、獣は肥えた。集団はあちこちで膨らんだ。火の周りに座る人数が増え、声の届く範囲が広がり、顔を知らない者と火を共にすることが増えた。

同じ時、別の場所では、別のことが起きていた。

大地の北、岩棚が連なる乾いた高地では、形の違う者たちが石を割っていた。眉が厚く、骨が太く、声は低かった。しかし火を持ち、子に食べ物を渡し、死んだ者を岩の下に置く。それは同じだった。

南の沼地では、水が増し、魚が増し、その魚を獲る者たちが増えた。争うほどの不足はなく、だから争わなかった。それはまだ続いていた。

集団が膨らむとき、何かが摩れ始める。余裕があるほど、欲しいものの輪郭がはっきりする。水場、獣道、火に適した場所、そこに先にいるという事実。

豊かさの中に、刃の芽があった。

始まりの大地では、その刃がひとつ、静かに落ちた。夜の草の上に、火の番をしていた者が横たわった。星が照らした。露が降りた。草がその重さを受けた。

星は、それを見ていた。

与えるもの

川の向こうの煙に、温度が変わった。

ほんのわずかだった。熱いものが、この者の首筋に触れた。外ではなく、皮膚の下から。

この者は煙を見た。長く見た。

それだけだった。

次に渡すべきものが何か、わからなかった。この者はもう眠っている。草の上に、重く、静かに。

煙は明日も上がるかもしれない。誰かが見るかもしれない。

見るだろうか。

伝播:HERESY 人口:678
与えるものの観察:知るなと言われた者が、知ったまま消えた
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第1165話

紀元前294,185年

その者(52〜53歳)

朝、起き上がれなかった。

膝が言うことを聞かなかった。腕が、いつもより重かった。それだけだった。特別な痛みはなかった。ただ、体が昨日と同じように動かなかった。

横になったまま、天井の岩肌を見た。

煤で黒くなっていた。長い年月の火の跡。その者が子どもだった頃から、あの煤はあそこにあった。

外で声がしていた。若い者たちの声だった。何かを追いかけている声と、笑い声が混ざっていた。肉が余っているから、急いで狩りに行く必要がなかった。それでも若い者たちは走り回っていた。余裕というものは、人をそうさせるらしかった。

昼、誰かが水を持ってきた。

その者は口をつけた。飲み込んだ。また横になった。

水を持ってきた者の顔を見た。顔を見返された。その者は目を細めた。笑いたかったのかもしれない。うまくできたかどうかはわからなかった。

夕方、外の音が変わった。

遠くから、別の集団の声がした。川の向こう側から来る声だった。近かった。いつもより近かった。若い者たちの声が低くなった。誰かが走る音がした。

その者にはもう行けなかった。

横になったまま、声の遠ざかっていくのを聞いた。近づいていくのではなく、遠ざかっていった。今夜は、争いにはならなかった。

夜。

岩の外で火が燃えていた。その明かりが入り口から差してきた。その者の手の甲に、橙色が落ちていた。

その者は手を見た。

皺が増えていた。節が大きかった。子どものころ、この手で大人の仕事を真似た。皮を剥こうとして、刃を持つ角度が違っていた。何度も何度もやり直した。うまくできなかったが、誰かが隣に来て同じ動作を繰り返してくれた。

あの手は、もういなかった。

その者は指を一度だけ曲げた。

それから、曲げなかった。

第二の星

川の向こうでは、別の集団が火を囲んでいた。子どもが一人、火に近づきすぎて引き戻された。引き戻した腕が強すぎて、子どもは泣いた。泣き声が川面を渡った。こちら側の夜の中に、その声は届いた。誰も意味を問わなかった。

与えるもの

光を岩肌の煤に落とした。その者は見ていた。見ていたのは確かだ。だから糸は別の誰かへ向かった。

伝播:NOISE 人口:688
与えるものの観察:見ていた。それは確かだ。
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第1166話

紀元前294,180年

第二の星

始まりの大地で、草が枯れなかった季節に、見えないものが来た。

草は青かった。水場は満ちていた。肉の余りが乾いて石の上に並んでいた。豊穣が続いていた。集団は大きくなっていた。見知らぬ顔と見知った顔が混ざり、夜には声が重なった。

その中で、体が崩れ始めた。

倒れた者は、翌朝に起き上がれなかった。起き上がれなかった者は、三日後には動かなくなった。理由を問える語彙を、誰も持っていなかった。ただ、倒れた。ただ、消えた。

水場の近くに寝ていた者が先に倒れた。群れの中心で眠っていた者がその次だった。端に寝ていた者が、気づいたら独りになっていた。集団は急激に痩せた。痩せた跡に、草だけが残った。

遠い場所では、別の集団が別の水場を巡って争っていた。石が飛んだ。血が流れた。勝った側が水を得た。負けた側が散った。星はどちらも等しく照らした。

始まりの大地の上空で、風が草の匂いを運んでいた。腐った何かの匂いが、その中に混じっていた。

与えるもの

糸が繋がった。

この者は七歳だ。

水場の手前に、ある草が生えていた。他の草より背が低い。茎が白く、根元が湿っている。風がその方向から吹いてきた。腐敗に似た、甘い匂いが混じっていた。

この者は水場に向かって走っていた。

その草を踏み越えた。

渡せなかった。ではない。次に何を示すかを、もう考えている。

その者(7〜12歳)

水が飲みたかった。

草の間を走った。足の裏が石に当たった。気にしなかった。水の音が聞こえた。

水場についた。顔を突っ込んで飲んだ。冷たかった。喉が鳴った。

飲みながら、目が水面を見た。水の底に泥があった。泥の中に何かが沈んでいた。小さかった。虫のように見えた。見えたが、気にしなかった。飲んだ。もっと飲んだ。

帰ると、母親が横になっていた。

昨日も横になっていた。一昨日も。

この者は母親の傍に座った。腹が温かかった。呼吸の音がした。それだけだった。

夜、集団の端で火が燃えていた。この者は火の近くで座っていた。火の向こうに、動かなくなった者たちが並んでいた。三人いた。昨日は一人だった。

この者には数える語彙がなかった。

ただ、少ない、ということが分かった。顔の数が、少ない。火の周りが、広い。

夜が深くなった。母親の呼吸の音が変わった。

この者は気づかなかった。眠っていた。

朝、母親の腹に手を当てた。冷たかった。

手を離した。

また当てた。

伝播:HERESY 人口:529
与えるものの観察:草を踏んだ。水を飲んだ。朝が来た。
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第1167話

紀元前294,175年

その者(12〜16歳)

十二の頃から、この者は遠くを見ていた。

見ていた、というより——顔が向いていた。水場の向こう、岩の稜線が切れるところ、人の声が届かなくなるあたり。集団の誰かが呼べば振り返る。振り返っても、少しの間、目がここに戻ってこない。

足が速かった。十三の夏、獲物を追って草原を横切ったとき、大人の男の横に並んだ。その男は笑わなかった。笑う代わりに、歩きながらこの者の肩を押した。集団の端へ向かって。

何かを知ることが、危なかった。

この者が何を知っていたのか、明確ではない。ただ、見ていた。

岩の亀裂から水が染み出すのを、三度確かめた。同じ場所に、晴れた日も曇った日も座って、指先を当てた。濡れていた。乾かなかった。誰かに伝えようとして——口から出たのは二つの音だった。集団の大人は聞かなかった。聞こえていた。聞かなかった。

十四。豊穣が続いていた。肉は足りていた。水場は満ちていた。だからこそ、余分な知恵を持つ子どもは煩わしかった。どの顔がそう決めたのか、わからない。決める顔は一つではなかった。

この者はある夜、集団の外に置かれた。

火から遠い場所に。声の届かない場所に。

夜の冷気が地面から上がってくる。膝を抱える。空には白い粒が散っていた。この者はそれを数えたことがある。何度も。数えるたびに途中で止まった。止まった理由は、数え方がなかったからではない。途中で眠くなったからだ。

十五。春になっても、戻れなかった。

集団の端から眺めていた。肉が配られるとき、この者の前を通り過ぎた。水場に近づくと、男が立った。立っているだけだった。何も言わない。この者も何も言わなかった。

体が細くなった。冬が来る前から、足が重かった。

最後の日、この者は岩の亀裂のそばにいた。

指を当てた。濡れていた。ここは乾かない、という事実が、この者の中で静かにあった。誰も知らない事実ではなかった——ただ、この者が確かめたという事実が、ここにあった。

座ったまま、力が抜けた。

倒れたのではない。座っていたものが、少しずつ地面に近くなった。横になった。岩の湿った面が頬に当たった。冷たかった。

目は開いたままだった。

空を見ていた。顔が向いていた。

第二の星

同じ頃、乾いた台地では二つの集団が水場を挟んで近づいていた。どちらも引かなかった。石が投げられた。一人が額を打たれて倒れた。その隣にいた者が声を上げた。声は続いた。遠くで鳥が飛び立った。空は青かった。水場は、まだそこにあった。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:513
与えるものの観察:渡した。受け取った。消えた。渡す先を変える。
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第1168話

紀元前294,170年

その者(1〜6歳)

泥の中に指を押す。

抜く。

また押す。

穴が残る。指を戻すと、穴の形が少し変わっている。前と同じ穴ではない。この者はそれを何度も確かめる。押す。抜く。押す。抜く。

周りでは声がしている。大人たちの足が行き来する。革を引っ張る音、骨を叩く音、誰かが笑う声、誰かが怒る声。この者の耳にはそれらが全部同じ重さで届いている。穴のほうが面白い。

膝まで濡れながら、もう少し奥へ入る。

温かい匂いがする。腐った葉の、獣の毛の、誰かの体の、それが全部混ざった匂い。この者はその匂いの中で穴を作り続ける。

大人の手が脇の下から来て、持ち上げる。

宙に浮く。足が空を蹴る。

降ろされる。別の場所に。乾いた地面。穴を作っても崩れる。面白くない。

この者は座ったまま、手のひらを見る。泥がついている。乾いていく。白くなっていく。

三つになる頃、この者は走り始める。

転ぶ。起きる。また走る。転び方がうまくなる、という言葉はこの集団にない。ただ、転んだあと立つのが速くなる。

五つになる頃、岩の陰で一人でいることが増える。

集団の声が届く場所に。しかし離れた場所に。

その者の目は、よく、水の流れるところを見ている。水が岩にぶつかって変わるところ。同じ岩なのに水の形が毎回違う。この者はそれを、何時間でも見ている。

誰かが引っ張りに来るまで。

六つになる少し前、旧人の一群がこの集団の縄張りに入ってきた。

夜だった。火が大きくされた。男たちが立ち上がった。声が増えた。子どもたちは女たちの後ろに押し込まれた。

この者はその夜、女の背中に顔を押し付けたまま、目を開けていた。

何も見えない。

背中が震えている。温かい。

声がした。別の声。高くない。低くない。知っている声ではない。

女の背中が一度、大きく動いた。

それからしばらくして、声が減った。

この者は目を閉じた。背中の温かさの中で。

第二の星

豊かな季節が続いていた。

水は涸れず、獲物は逃げず、木の実はよく落ちた。集団の腹が満ちると、子が増えた。子が増えると、声が増えた。声が増えると、場所が要った。

始まりの大地の南の縁、草原が岩盤に変わるあたりに、もう一つの集団がいた。かつては同じだった者たちか、あるいは全く別の血筋か、今となってはわからない。ただ、縄張りが重なるようになった。

水場は一つだった。

旧人の群れが北から来たのは、ちょうどその頃だった。人数は少なかった。額の出た顔、厚い肩、低い声。この大地に以前からいた者たちだった。彼らは水を求めていた。それだけだった。

夜の火を挟んで、向き合う時間があった。

長くはなかった。

朝になると、旧人の群れは去っていた。彼らの中の一人が戻らなかった。こちらの集団の一人も戻らなかった。

何があったのか、石には何も刻まれない。火も何も覚えていない。

ただ、豊かさと緊張が同じ地面に根を張って、この年の始まりの大地はそういう場所だった。

与えるもの

糸が繋がった。

風が泥のほうへ流れた。この者の指が止まった、あの一瞬だけ。

受け取ったかどうか——穴を見ていた。それだけだ、とは言えない。穴は毎回違う形をしていた。

この者は違いを見ていた。

それで充分か。充分でないか。次に渡すべきものが、まだ見えない。

伝播:HERESY 人口:498
与えるものの観察:穴は毎回違う。この者はそれを知っている。
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第1169話

紀元前294,165年

第二の星

乾いた季節が続いている。草が短く、地面が硬い。

集団は膨らんだ。かつて十数人で囲んでいた火が、今は三十を超える者たちで囲まれる。声が重なる。匂いが重なる。岩陰に寝る者が増えた。場所が足りない。

丘の向こうに、別の集団の気配がある。足跡が残っている。灰の跡がある。どちらの集団の灰かは、もうわからない。

湖の南側では、水を巡る争いがある。岩が投げられ、血が地面に滲む。夜、その場所は静かになる。翌朝、二人分の姿が消えている。

森の縁では、ずんぐりとした骨格の者たちが動いている。額が低く、眉の骨が出ている。彼らも子を連れている。子は転び、起き上がる。

この星は照らす。どの者も、どの集団も、等しく。

火山の煙はまだ遠い。地面は今日、静かだ。雲が北から来ている。夜は冷える。

集団の中の六歳から十一歳の者が、岩の欠片を手に持っている。

与えるもの

乾いた草の一本が、風でその者の頬をかすめた。

その草の根元に、割れた礫がある。断面が白く、縁が薄い。

その者は草を払い、礫を踏んで通り過ぎた。

踏んだ。それだけだ。しかし足の裏に何かが残っている。感触が消えない。

次に渡す時、この者の足が礫を覚えているかどうか。この手には触れられない。しかし足は正直だ。痛みを記憶する。痛みから遠ざかろうとする。あるいは近づこうとする。どちらかは、この者が決める。

その者(6〜11歳)

足の裏が痛い。

振り返る。礫がある。白い。薄い。

拾う。

縁に指を当てる。細い痛みが走る。指を離す。また当てる。同じ場所に同じ痛みが来る。

集団の声がする。誰かが何かを叫んでいる。笑い声が混じる。その者は聞いていない。

礫を草に当てる。草が切れる。もう一本。また切れる。

切れることと、切れないことがある。薄い縁のある面を当てると、切れる。

その者はそれを理解しているわけではない。ただ切れたことを、手が覚えている。

夜、集団の中で眠る。礫は握ったままだ。

翌朝、起きる。礫はまだある。誰かの足に踏まれて、二つに割れている。

断面が二つになった。縁が二つになった。

その者は割れた方を拾う。

伝播:HERESY 人口:485
与えるものの観察:足の裏が、白い礫を覚えた
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第1170話

紀元前294,160年

第二の星

草が生え戻っている。

乾いていた地面に、細い緑が差している。根の浅い種類から先に戻る。踏まれても翌朝には起き上がっている。獣の足跡が泥にめり込む深さが変わった。水を含んだ土の重さがある。

雨が戻った。

最初の一降りは夜だった。誰も気づかぬまま地面が濡れ、朝、乾いた砂が消えていた。次の雨は昼に来た。空が暗くなり、遠くで音がした。走って戻る者がいた。立ったまま雨を受ける者がいた。子どもが声を上げた。喜びの声か、恐れの声か、それは問わない。

火のそばで囲む顔が増えた。

湿った薪は煙を多く出す。目が痛む。咳が出る。それでも誰も離れない。温度よりも、そこに集まること自体が引き寄せる何かになっている。獣の脂を塗った皮を乾かす者がいる。骨を砕いて髄を吸う者がいる。子を膝に乗せて揺らす者がいる。同じ火を共有しながら、それぞれが別のことをしている。

西の方角から、別の集団が来た。

三人だった。二人の成人と、腰に抱きついて歩く小さな者。彼らは遠くで止まった。動かなかった。こちらの集団も動かなかった。長い時間、双方が見ていた。やがてこちらから一人が歩いた。手を広げて、武器を持っていないことを見せた。

相手の一人が、同じように手を開いた。

その夜、西の三人は火の外縁に座った。近くはない。しかし火の光は届いた。食べ物のやりとりはなかった。言葉もほぼ通じなかった。それでも翌朝、三人はまだいた。

集団の中で、古参の者が西の三人を長く見ていた。目が細くなっていた。手が動いていた。指先だけが、小刻みに。

豊かになると、境界が生まれる。

水場が戻り、実が膨らみ始めると、誰がどこで採るかが問題になった。以前は足りなかったから競わなかった。今は足りるから守りたくなる。西の三人がそこにいることで、その感覚が輪郭を持った。

西の三人が去ったのは三日後だった。

朝、そこに誰もいなかった。足跡は北へ向かっていた。

古参の者は、その足跡を踏んだ。一度だけ。

踏み消したのか、確かめたのか、それもここからは問わない。草が揺れた。風が吹いていた。水が遠くで音を立てていた。

集団は続いている。

与えるもの

西の三人が去る前夜、焚き火の煙がある方向に流れた。

その者の鼻腔に届いた。獣脂の焦げる匂いとは違う、草と湿った布と、見知らぬ皮膚の匂い。西の三人がいる方向だった。

その者は、匂いの方を向いた。しばらく向いたまま動かなかった。

それで十分だったか。十分ではなかったか。次に届けるべきは匂いではないかもしれない。何かもっと切迫したもの。しかし切迫した何かを渡すとき、この者は受け取る前に消えることがある。割れた礫の縁に触れた指を思う。あの指はもうない。次の指にも届かなかった。それでも、この者の鼻腔はまだ動いている。

その者(11〜16歳)

匂いがした。

その者は西を向いた。火はこちらにある。向こうには別の体の匂い。

近づかなかった。離れもしなかった。ただ鼻から息を吸って、吐いた。

夜が深くなった。その者は横になった。西の方向を向いたまま、目を閉じた。

伝播:HERESY 人口:468
与えるものの観察:匂いは届いた。どこへ向かうかはまだわからない。
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第1171話

紀元前294,155年

その者(16〜20歳)

岩の陰に置かれていた。

誰が置いたのかは分からない。集団の中の誰かが、移動の途中で、ここなら風が当たらないと思ったのかもしれない。それだけのことだった。

その者は動かなかった。

足が動かないのは前の冬からで、膝の下が丸太のように重く、引きずると土に溝ができた。溝は次の雨で埋まった。また引きずると、また溝ができた。それが何度かあって、今はもう引きずらない。

集団の中の若い女が食べ物を持ってきた。噛み砕いてから口の近くに差し出す。その者は受け取った。受け取らない日もあった。女はそのまま持ち帰った。

遠くで何かが割れる音がした。

集団間の緊張を、その者は体で知っていた。知識として知っているのではない。声の高さが変わること、走る足の向きが変わること、抱きかかえられる力が急に強くなること。そういう変化が、皮膚を通して入ってきた。最近はその変化が多い。

草の匂いがした。

乾いていた地面から上がってくる、青くて細い匂い。その者は鼻だけを動かした。目は半分しか開かなかった。

光が岩の縁から差してきた。

その者は口を少し開けた。声は出なかった。光の中に手を伸ばそうとした。指先が岩の表面に触れた。ざらざらしていた。冷たかった。

その者の手が、岩の上にとどまった。

女がまた来たとき、その者の手はまだ岩の上にあった。同じ場所に。でも力が抜けていた。女はしばらくそこにいた。それから行った。

第二の星

草地の端で、二つの集団が距離を置いて立っていた。どちらも動かなかった。声はなかった。風が草を横に倒した。一方の集団の若い男が一歩前に出た。もう一方が一歩引いた。それだけで、その日の緊張は終わった。翌朝、片方の集団は消えていた。足跡だけが北へ続いていた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:SILENCE 人口:480
与えるものの観察:岩の上に手を置いたまま、力が抜けた。
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第1172話

紀元前294,150年

その者

泥が冷たかった。

足の裏で、それを感じた。足を持ち上げると、音がした。ぬちゃ、という音。もう一度踏んだ。もう一度音がした。

その者は何度も踏んだ。

集団は東の斜面を移動していた。前を行く大人の足が土を掘り、その者の足が同じ穴を踏んだ。踏むたびに深くなった。踏むたびに音が変わった。大きな水たまりの縁では音が高くなり、中央では低く、重くなった。

その者は立ち止まった。

後ろから身体を押された。低い声が来た。それが「歩け」という意味だとその者は知っていた。知っていたが、足を動かさなかった。

もう一度押された。

その者は歩いた。

列の中ほどに、旧い顔つきをした者がいた。眉の骨が張り出し、頬が平らで、首が太かった。その者が何者かをこの集団の誰も正確には知らなかった。ただ、いた。荷を持っていた。こちらを見ることもなかった。

その者は歩きながらその者を見た。

旧い顔の者は前を向いていた。足が大きく、一歩ごとに深い跡を残した。

斜面を降りきったところで、集団は止まった。

前方で何かが起きていた。その者には見えなかった。大人の背が壁になっていた。低い唸り声がした。それから、沈黙。それから、甲高い叫び。

その者は地面に座った。

泥ではなかった。枯れた草だった。尖った茎が膝の裏に刺さった。その者は気にしなかった。

叫び声が続いた。

その者は草の茎を一本引き抜いた。根の部分が白く、湿っていた。かじった。苦かった。吐き出した。

叫び声が止んだ。

大人たちが動き始めた。誰かが走った。誰かが荷を下ろした。誰かが倒れている者の傍に膝をついた。

その者には、遠くて見えなかった。

ただ、空気が変わったのはわかった。

第二の星

湿地帯の東縁。

空は白く、厚い雲が西から流れていた。乾季の終わりに近く、草地と泥地の境界は定まらず、足を置くたびに地面が沈んだ。

この五年、集団は三度移動した。

火山が噴いたのは五年前だった。灰が降り、水が濁り、集団は南へ動いた。南には別の集団がいた。接触は短かった。何かが交わされた。何かが失われた。集団が北に戻ったとき、連れてきた者が一人いた。旧い顔つきの者だった。

旧い顔の者はよく働いた。重いものを運んだ。火の番をした。言葉は少なかった。通じる音と通じない音があった。集団はやがてその違いを気にしなくなった。

幼いものが多く死んだ五年でもあった。

灰の季節の後、水が変わった。腹を壊す者が続いた。小さな者から順に、力が抜けた。ある者は泥に顔をつけたまま動かなくなった。ある者は母親の膝の上で眠るように小さくなり、次の朝には冷たかった。

集団の規模は一時、半数近くに減った。

今は、戻りつつある。

斜面に子どもの声が増えた。旧い顔の者は子どもに近づかなかった。子どもは旧い顔の者に近づいた。それだけのことだった。

与えるもの

糸が繋がった。

この者は四歳だった。泥を踏んで、音を聞いていた。

苦い根を吐き出したとき、草の茎が地面に落ちた。そこに光が当たった。白い根が露わだった。

この者は見なかった。

叫び声の方を向いていた。

渡したかったのは、食べられないものと食べられるものの違いではなかった。吐き出してから次に手を伸ばすこと、それを渡したかった。

これまでの者たちに渡した。届いたのは——。

それは別の誰かへ向かった、かもしれない。

伝播:DISTORTED 人口:497
与えるものの観察:吐き出した。次に手を伸ばすかどうか。
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第1173話

紀元前294,145年

第二の星

始まりの大地の上、熱期が終わりかけていた。

草はまだ青く見えた。水場は細くなったが、消えてはいなかった。それでも、何かが集団の内側から壊れていった。外から見れば変化はなかった。草は青く、水は流れ、空は晴れていた。にもかかわらず、横たわる者が増えた。横たわったまま起きない者が増えた。その者の口から出た最後の音が、空気の中で散った。次の者が横たわった。

遥か北の岩棚では、別の群れが獣の骨を地面に並べていた。何かの順番に。理由は、並べた者だけが知っていた。並べ終えたとき、風が吹いた。骨は動かなかった。者は空を見た。

始まりの大地では、生き残った者たちが集まり始めた。輪を作るように。輪の中心に何もない。それでも、そこを見ていた。

東の丘の向こうでは旧人の一群が移動していた。彼らの群れにも横たわる者があった。起きない者があった。彼らの集団も、以前より少なくなっていた。

この星は、どちらも照らしていた。区別しなかった。どちらの者も、草の上に倒れ、同じ空の下にあった。

与えるもの

腐った実の匂いが、強くなった場所があった。

その者は、そこに近づいた。手を伸ばしかけた。

届いた、と思った。しかし次の問いが来た――この者は、匂いを避けることを学んだのか。それとも引き寄せられる者だったのか。どちらでも渡し続ける。次は、別の感覚から。

その者(9〜14歳)

仲間が次々と横になっていった。

朝、起きると、昨日まで咳をしていた大人が動かなくなっていた。腹の上に手が置かれたままだった。その者は、その手をしばらく見た。触らなかった。

ある日、集団の半分が消えていた。食料を持って逃げた者ではない。消えた、という言い方しかできなかった。体が残っていても、その者たちはもうそこにいなかった。

その者は水を汲んだ。運んだ。飲める者に渡した。理由はなかった。ただ、手が動いた。

腐った実の匂いが漂う場所があった。その者は立ち止まった。鼻が、そこを指していた。足が、一歩下がった。もう一歩。それから向きを変えた。

仲間の一人が、その者の腕をつかんだ。力が強かった。何かを言おうとした。声が出なかった。指が、だんだん緩んだ。その者の腕の上で、ゆっくりと、指が開いた。

つかんでいた者の体が、前のめりになった。

その者は受け止めた。地面に寝かせた。顔を上に向けた。

仲間たちが、その者を見ていた。

視線が違った。以前とは違う目だった。その者は、その違いを言葉で知らなかった。しかし皮膚で知っていた。背中の、産毛が立つような感覚。

夜、少し離れた場所で眠った。

伝播:HERESY 人口:211
与えるものの観察:腐敗の匂いを、この者は足で理解した。
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第1174話

紀元前294,140年

その者(14〜18歳)

その者は知りすぎていた。

正確に言えば、その者は何も知らなかった。ただ、見ていた。集団の中でいちばん長く、いちばん静かに。

雨が豊かに降り、獣の数が増え、集団はふくれあがった。子が生まれた。また生まれた。夜に火を囲む輪が広がり、その者はいつも輪の端に座っていた。荷物を持てるほど力はなく、狩りに加われるほど速くもない。ただいる者だった。

しかし目だけは動いた。

誰かが食べ残した実を捨てる前に、別の誰かが横から取るのを見た。誰かが獲物を独り占めしようとして、別の誰かに体当たりされるのを見た。集団がふくれるほど、そういうことが増えた。その者にはそれを言葉にする力はなかったが、腹の底に何かが溜まっていくのはわかった。石が積み重なるような感覚だった。

ある朝、その者は水場の近くで二つの集団が向き合っているのを見た。

声が高かった。身振りが大きかった。

その者は草の陰から動かなかった。

風が変わった。向こう側から吹いてきた風が、急に反対を向いた。その者は顔を上げた。風の先に何があるのか、なぜそちらを見たのかわからなかった。ただ、顔が向いた。

遠くの崖だった。

集団の男のひとりがその者を見つけたのは、そのときだった。

見られていた、と気づいたのだろう。男は何かを叫んだ。単音だった。その者にはわからなかった。男が走ってきた。

その者は草の中を走った。足は速くなかった。崖の方へ向かっていた。なぜそちらへ走ったのか、それもわからなかった。ただ走った。

崖の縁まで来たとき、後ろから手が伸びた。

つかまれなかった。つかまれなかったが、体が傾いた。

落ちた。

音はほとんどしなかった。草が風に揺れていた。水場では二つの集団がまだ向き合っていた。

第二の星

同じ頃、遠く北の地では雪が解け始め、氷の下から黒土が顔を出していた。小さな虫が最初の一匹、土を押し上げた。誰も見ていなかった。始まりの大地では草が風に揺れていた。崖の下では何も動いていなかった。第二の星はどちらも等しく照らしていた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:260
与えるものの観察:渡せた。守れなかった。それは同じことか。
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第1175話

紀元前294,135年

第二の星

雨が落ちている。

始まりの大地の北側、草と赤土が混じる斜面に、雨が落ちている。水は低いところへ向かい、岩の縁を伝い、川になる前に土に吸われる。

集団はその斜面のやや下、岩が庇のように張り出した場所に固まっている。火がある。煙が雨に押されて横に流れる。

同じ時刻、遥か西の方角に、別の群れがいる。乾いた高地。雨がない。獣の皮を体に巻きつけた者たちが、岩の陰で目を細めている。言葉の形は違う。音の数が違う。しかし火を囲む形は同じだ。

この星は区別しない。

豊穣が続いている。果実が熟れ、川に魚がいる。子が生まれ、生き延びる子が増えた。集団は重くなった。重くなったものは、軋む。

争いはまだ声だ。まだ手ではない。

しかし声は夜、岩の壁に反響して、子どもたちの眠りの中に入っていく。

与えるもの

糸が繋がった。

この者は四歳だ。

岩の近くに、一本の草が生えている。葉の縁が鋭い。その葉に、雨粒が連なって光る。光が落ちた。そこだけ、少し明るい。

この者は立ち止まった。手を伸ばした。葉の縁で指が切れた。

赤いものが出た。この者はそれを見た。草を見た。また自分の指を見た。

次に渡すべきものがある。鋭さは形を変える。指を切るものが、獣の皮を裂く。切ることは選ばれる前に、ただそこにある。この者の指に残った感覚が、何かの入口になるかどうか。それだけを待つ。

その者(4〜9歳)

雨が顔に当たる。

目を細める。口を開けると水が入った。飲んだ。また降ってきた。また飲んだ。

草のところに行った。光るものがあった。丸くて小さい。指で触ろうとした。

草が指を切った。

その者は指を見た。小さな赤い線。じわじわと滲む。舐めた。鉄のような味がした。もう一度舐めた。

泣かなかった。

草を見た。葉の縁をまた見た。触らなかった。ただ見た。

雨が葉を叩く音がした。粒が弾けて、また光った。

その者は座り込んだ。赤土が膝に付いた。指はまだ少し滲んでいた。雨がそれを薄めた。薄まったものが手首を伝った。

群れの方から声がした。大人の声だ。怒っているか、呼んでいるか、区別がつかない。

その者は立ち上がった。

草を振り返った。

歩いた。

伝播:SILENCE 人口:274
与えるものの観察:鋭さを感じた。それだけでいい、今は。
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第1176話

紀元前294,130年

第二の星

乾季が終わった。

始まりの大地の北側、草と赤土の斜面の向こうに、広い台地が広がっている。草が膝まで伸びている。雨が地面を締め直し、獣の通り道が深く刻まれている。水場が三つ、今は四つになった。岩の隙間から湧き出る水は冷たく、澄んでいる。

集団は増えた。

岩の庇の下だけでは収まりきらない。子どもが走り回る。乳を飲む者がいる。老いた者が日向に座って皮を叩いている。火は絶やされない。薪を運ぶ者が交代で動いている。この豊かさは、しかし、一枚の皮を引き裂くように集団の内側に亀裂を走らせていた。

水場が増えたことで、どの群れがどこを使うかという問題が生まれた。

始まりの大地には、この集団だけがいるわけではない。南の岩陰にも、別の群れが住んでいる。体格が大きく、額が低い。眼窩の上に骨が張り出している。毛皮のまとい方が違う。声の作り方が違う。彼らとは長い間、干渉せずにいた。どちらも相手を遠ざけ、相手が遠ざかることを望んでいた。それで均衡は保たれていた。

しかし今、水場に痕跡が重なり始めている。

足跡。焦げた骨。置かれた石。意味があるのかないのか、誰も確かめに行かない。しかし誰もが気づいている。集団の中の大人たちが低い声で話し合う。身振りが激しくなる。子どもたちは大人の輪から遠ざけられる。

台地の端に立てば、向こうの岩陰に煙が見える日がある。

風が南から吹く夜、この集団の火の近くにいると、遠くから声が届くことがある。人の声だ。しかし言葉として聞こえない。音として届く。その音を聞いた者は、石を握ったり、子どもを引き寄せたりする。何かを感じているが、それが何かを言葉にできない。

緊張は積み重なる。

ある朝、水場の近くで痕跡が増えていた。焦げた骨の量が違う。足跡の向きが、こちらを向いている。集団の大人たちが集まり、長い間話し合った。何かが決まった。その日の夕方、若い男たちが石を手に持って南の方へ歩いていった。

戻ってきたのは、その半数だった。

残りが戻ったのは夜が深くなってからだ。引きずられるように歩いてきた者もいた。傷を負った者もいた。火の周りに集まり、誰も声を出さなかった。煙が夜空に上がり、星が見えた。始まりの大地の星は多く、冷たく光っている。

何かが変わった夜だった。

しかし翌朝、子どもが走り回った。乳を飲む者がいた。老いた者が日向に座って皮を叩いた。火は絶やされなかった。大地は変わらずそこにあり、草は風に揺れた。水は低いところへ向かった。

台地の端から、煙は見えなくなっていた。

与えるもの

乾いた土の上に、光が落ちた。

その場所に、折れた骨が一本あった。獣のものか、人のものか、わからない。白くなっていた。

その者は光の落ちた場所に近づき、骨を拾った。少しの間、持っていた。それから草の陰に置いた。見えない場所に隠すでもなく、遠くへ捨てるでもなく、ただ草の陰に置いた。

渡したかったのは骨ではなく、白さだ。時間が白くする。何もかも。この者はそれを感じたのか、感じなかったのか。しかし次に渡すものは決まっている。白くなる前の色だ。

その者(9〜14歳)

男たちが戻ってきたとき、その者は火の端にいた。

大人たちの輪に入れない。近づいても誰も見ない。石を拾って、置いた。また拾った。

草の陰に置いた骨のことを考えていた。考えていた、という言葉は正確ではない。骨の白さが体の中にあった。目を閉じても、そこにあった。

伝播:HERESY 人口:274
与えるものの観察:白さが残った。届いたかどうかは、わからない。