2033年、人類の旅

「紀元前294,125年〜紀元前294,005年」第1177話〜第1200話

Day 50 — 2026/05/22

読了時間 約56分

第1177話

紀元前294,125年

その者(14〜19歳)

群れが北の台地へ移って五回目の雨が来た。

その者は台地の端に立つことが多かった。崖ではない。ただの、草が途切れる場所。そこから先、赤土が剥き出しになっているだけの場所に、足を止める習慣があった。

理由はない。強いて言えば、そこにいると風が正面から来た。

排除は突然ではなかった。

群れの中で、長老の男が食料の分配を決める。その者は長老の目が自分に止まるたびに、体が少し固くなることに気づいていた。何かを「知っていた」わけではない。ただ、長老が指を折りながら何かを数えるとき、その視線がこちらに来ることがあった。

何を数えていたのか。その者にはわからなかった。

ある朝、目が覚めると、周囲に誰もいなかった。

群れが移動したのではない。その者だけが、少し離れた場所に寝ていた。それだけのことだった。食料は渡されなかった。火の傍には座れなかった。

その者は台地の端まで歩いた。

草が風で波打っていた。いつもと同じ風だった。

腹が鳴った。二日目も、三日目も。

その者は草の根を抜いて噛んだ。苦かった。吐き出した。また噛んだ。

夜は冷えた。火がなかった。体を丸めて草の中に潜ったが、草は薄く、地面は硬かった。

四日目の朝、立てなかった。

膝をついたまま、しばらくそこにいた。空が白くなっていく過程を見ていた。雲が一枚、北から来て、南へ消えた。

その者の指が、土の中に少し埋まっていた。無意識に押し込んだのか、倒れたときにそうなったのか、自分でもわからなかった。

冷たかった。土が。

それだけが、はっきりしていた。

光が、草の一点に落ちた。

斜めに差し込む朝の光だった。その場所に、小さな虫が一匹、葉の上を歩いていた。その者の目がそこに向いた。虫は止まった。また歩いた。

その者はそれを見ていた。

見ながら、手を伸ばそうとした。届かなかった。

手が土に落ちた。

虫はまだ歩いていた。その者が動かなくなっても、虫は葉を渡り、草の茎を降りて、土の中に消えた。

風が来た。草が揺れた。

第二の星

始まりの大地から遠く離れた、湿地と岩盤の境に暮らす旧人の群れがあった。その夜、若い雄が岩から足を踏み外し、水の中に落ちた。暗い水だった。声を上げる間もなかった。朝、湿地に何かが浮いていた。仲間の一人が水際まで来て、見た。長く見た。それから戻った。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:274
与えるものの観察:渡した光が最後に落ちた場所に、虫がいた。
───
第1178話

紀元前294,120年

その者

皮が硬かった。

指の腹で端を押すと、少しだけ白くなって戻る。まだだ。もう一日、もう一日と思っていたら三日が過ぎた。火の傍に吊るして乾かす仕事は、誰かがやれと言ったわけではない。自分がやらなければ誰もやらなかった。それだけのことだった。

火は小さくしておく。大きくすると皮が反る。

薪を足す。離れる。見る。足す。

群れの中で自分より若い者が二人、火の向こう側で眠っていた。毛皮を丸めて頭に押し当てている。顔が見えない。それでよかった。顔を見ると何かしなければならない気がした。

東の方から声がした。

怒鳴り声ではなかった。でも普通でもなかった。低く、続いていた。

その者は薪を置いて立った。膝に皮の欠片がついていた。払わずに歩いた。

岩の陰に、知らない輪郭があった。

こちらの群れの者ではない。体の大きさが違う。眉の出方が違う。立っているだけで、何も持っていない。手を下ろしたまま。

その者の群れの古い男が前に出た。音を出した。相手も音を出した。どちらも長くは続かなかった。

その者は後ろにいた。膝の皮の欠片が、まだそこにあった。

夜が深くなってから、古い男が戻ってきた。その者を見た。何かを言おうとして、やめた。火の傍に座った。

その者も座った。

皮はまだ乾いていなかった。

翌朝、その者は台地の端に行った。習慣でも、考えがあってでもなかった。足がそこへ向いた。

赤土の上に足跡があった。

自分のものではない。大きさが違う。深さが違う。昨日の夜に来たものと同じか、別か、わからなかった。

その者はしゃがんで足跡の縁を触った。ぼろぼろと崩れた。乾いている。新しくはない。

風が来た。

足跡のある方向から。何の匂いもしなかった。草でも、獣でも、煙でもない。

その者は立った。

群れに戻った。古い男を探した。いなかった。若い女に聞いた。女は首を振った。その動作が、首を振るだけで終わらなかった。目が落ちた。下に。

その者は走った。

崖の手前で、古い男が倒れていた。岩に頭をぶつけた跡があった。争ったような痕跡は周りにない。ただ倒れていた。足が折れ曲がっていた。

その者は傍に座った。

古い男の胸がまだ動いていた。その者は膝を抱えて待った。動かなくなるまで。

動かなくなってから、その者は手を伸ばした。古い男の手に、一度だけ触れた。

引っ込めた。

立った。

群れに戻った。皮を剥がす石を拾った。手が動いた。

三日後、知らない輪郭の者たちが四人、台地の縁に現れた。

その者の群れから、若い男が二人出ていった。手に石を持って。

その者は火の傍にいた。薪を持って。

どちらへも動かなかった。

夜、二人の若い男は戻らなかった。

その者は火を小さくした。眠れなかった。眠る顔をして、目を開けていた。

夜明けに、また足跡が増えていた。今度は台地の外ではなく、内側に。群れの寝床のすぐ近く。

誰かが入ってきた。

その者は足跡を数えた。指で押した。指で押した。もう一度押した。

声を出せなかった。

七日が経った。

群れの古い者たちが何かを決めたようだった。その者は呼ばれなかった。

その者がいない場所で話が進んだ。

その者は知っていた。台地の端の足跡のことを。古い男が倒れていた場所と、足跡の方向が重なることを。言葉にはできなかった。でも知っていた。

体で知っていた。胸の下、肋のあたりが、いつも少し重かった。

夜、群れの外れで火を焚いていると、若い女が来た。その者を見た。長く。

それから向こうへ行った。

その者はその背中を見た。

次の朝、その者のいた場所に薪が積んであった。

でも誰もそこにいなかった。

その者は薪を持って、火を焚いた。

誰も来なかった。

第二の星

台地の上で、集団の数は崩れなかった。

外から来る影が増えた年だった。大きな体の者たちが台地の縁に現れ、消え、また現れた。群れの古い者たちは声を出した。相手も出した。それが何を意味するか、この星からは分からない。ただ、二人の若い男が出ていき、戻らなかった。

熱帯の低地ではこの時期、雨が週単位で方向を変えた。草原の端に塩湖が現れ、獣が集まり、別の群れも集まった。接触は頻繁になり、食料の奪い合いもあれば、ただ並んで水を飲むこともあった。

台地の群れでは、誰かが知りすぎた。

それが問題になった。

知識が危険になる時がある。それをどう処理するか、言葉を持たない群れは体で決める。排除は声明ではない。静けさだ。薪が積まれ、誰も来ない。

集団は数を保った。

一人が消えても、また一人が生まれる。気候はその年、大きく崩れなかった。雨は来た。草も育った。火も絶えなかった。

ただ、火の番をしていた者の名を呼ぶ声が、少しずつ減っていった。

与えるもの

糸が繋がった。

足跡に向けて、風を送った。方向から来るように。その者の鼻が、何の匂いもしないことに気づくように。

その者は立った。

なにも感じなかったのか、それとも感じたから立てたのか、わたしには分からない。分からないまま、次に渡すべきものを探している。

皮が乾く前に、また渡さなければならない。

この者が呼ばれなくなっても。

伝播:HERESY 人口:277
与えるものの観察:足跡の方向に風を送った。立ったかどうかは別の話だ。
───
第1179話

紀元前294,115年

第二の星

乾期の終わりが近い。

草原の端、風が砂を運ぶ方角で、集団が火を囲んでいる。277の命が同じ星の上にある。うち旧人は、南東の岩棚に拠点を持つ一群だ。彼らは夜に唸る。新人とは別の唸り方で。

遠く、西の湿地帯では水が引きはじめ、鳥が巣を変えている。誰もそれを見ていない。

集団の東縁、若者が一人いる。

皮が乾いた。それは三日前のことだ。今日の仕事は別にある。火が落ちかけている。

南の丘に旧人の影が見えた。二人、あるいは三人。動かない。

与えるもの

煙の匂いが変わった。湿った獣脂が燃えるときの、重く甘い匂い。風下にある枯れ草のほうへ、それが流れていく。

その者は煙を見た。草を見なかった。

草は乾いている。燃えれば速い。知っていれば、南の影から目を離さずに済んだかもしれない。渡せなかった。次は形を変えよう。匂いではなく、別の何かで。

その者(20〜25歳)

火が小さくなっていた。

枝を持ってきた。細いものから先に入れた。炎が戻ってくる感覚は、まだ腕に馴染まない。熱が顔の片側だけを焼いた。目を細めた。

皮が吊るしてある。指で押した。硬い。もう一日要る。

南の丘に目を向けた。影がいる。

昨日もいた。一昨日もいた。数は増えていない。減ってもいない。

岩を一つ拾った。手の中で転がした。重さを確かめるような動作だったが、何かを確かめていたわけではない。ただ持ちたかった。

影が動いた。

体の中心で何かが縮んだ。胃ではない。もっと奥、肋骨の内側。

集団のほうを見た。年上の者が皮を縫っている。子どもが土を掘っている。火の番は自分だけだ。

岩を置いた。

拾った。

影の数が増えている。

口を開いた。音が出なかった。もう一度。今度は出た。短い、硬い音。集団の誰かが顔を上げた。

それだけだった。

伝播:NOISE 人口:292
与えるものの観察:煙は届いた。草の意味が届かなかった。
───
第1180話

紀元前294,110年

第二の星

乾期が終わる前の風は乾いたまま、南から来る。

草原は黄褐色に凪いでいる。火を囲む者たちの影が、夕暮れに長く伸びる。草原の東端では、別の一群が同じ夕暮れを別の火で迎えている。彼らの手は大きく、額の骨が厚い。声は低い。しかし夜に焚く火の大きさは変わらない。

集団の境界は、近ごろ揺れている。

草原の北側、岩が露出した台地では、子どもが三人、枯れた草を集めている。草原の南西では、老いた者が一人、岩の影に寄りかかったまま動かなくなった。誰かが気づくのは翌朝だ。

海岸は遠い。しかしこの星の上で、潮が満ちている場所がある。岩と岩の間に貝が詰まっている。その貝を割る者はまだ、ここにはいない。

草原の火は、今夜も燃えている。

燃えながら、小さくなっている。

薪を足す者が一人、集団の外れに立っている。その者の目が、今夜は集団の内側を見ていない。外を見ている。南東の、旧人たちが夜に唸る方角を。

与えるもの

煙の匂いが変わった瞬間があった。獣の脂が燃える匂いではなく、草が燃える匂いでもなく、湿った土が焦げる匂い。

その匂いを、この者に向けた。

西ではなく南東から来ていた。その者の鼻が動いた。動いて、止まった。

匂いの方角に、旧人の火がある。旧人の火が、近い。

これが届いたかどうかは、まだわからない。しかし以前にも、こういう瞬間があった気がする。光が落ちた場所に白い骨があった時も、この者は顔を上げた。顔を上げて、しかし骨の方へは歩かなかった。

知覚することと、動くことの間に何があるのか。

今夜、次に渡せるものは何か。匂いではなく。音でもなく。この者がすでに持っているもので、まだ使っていないもの。

その者(25〜30歳)

火が小さくなっていた。

薪を抱えて戻ろうとした時、鼻の奥に何かが来た。獣の匂いではない。火の匂いだが、自分たちの火ではない。

立ち止まった。

息を吸った。もう一度吸った。

南東だ。

旧人たちの唸り声はすでに止んでいた。しかし火は、まだある。匂いがそう言っている。そしてその火は、昨夜より近い。

胸の奥で何かが締まった。言葉はない。ただ、締まった。

薪を抱えたまま、集団の方へ向き直った。

長老に近い者が火のそばに座っていた。その者の目が、こちらに向いた。こちらが南東を振り返るのを、見ていた。

視線が合った。

長老に近い者の目に、何かがあった。怒りではない。恐れでもない。それより硬いもの。

その者は薪を火に足した。火が大きくなった。

仕事に戻れ、ということだった。

夜が深くなった。その者は火の番をしながら、南東の方角を何度も向いた。匂いは消えていた。しかし消えた場所を、鼻が覚えていた。

集団の中に、自分を見ている目がある。それも感じた。

木の枝を一本、火の端に差し込んだ。炎が枝を舐めた。この枝が燃え尽きる前に、夜が明けるかどうか。

数えることはできない。

ただ、燃えるのを見ていた。

伝播:HERESY 人口:292
与えるものの観察:匂いは届いた。動くかどうかが問いだ。
───
第1181話

紀元前294,105年

第二の星

草原の乾いた匂いが変わった。

それは一夜のことではなかった。数十の夜をかけて、風の質が少しずつ変わった。乾いた南風の中に、湿った粒が混じりはじめた。大地は長い渇きの後、初めて雨の予感を嗅いだ。

東の一群と西の一群の間に、目に見えない境界線があった。獣道がある。水場がある。どちらの群れも、その場所を知っていた。

長い間、互いは距離を保っていた。遠くから声を聞き、火の煙を見る。それで十分だった。近づかなければ、何も起きなかった。

だが乾期が長すぎた。水場の多くが干上がり、残ったのは二か所だけだった。

西の群れがその一か所を使う。東の一群もその一か所に来る。

最初の接触は夜明け前だった。まだ薄暗い中、水場の縁で二つの影が向き合った。どちらも動かなかった。どちらも声を出さなかった。やがて東の一群の影が、ゆっくりと後退した。

翌朝も同じことが起きた。翌朝も。

だがある夜、後退しない影があった。

それは東の一群の中の大きな者だった。額の骨が厚く、肩幅が広い。水場の縁で、その者は動かなかった。西の群れの若い者が声を上げた。低く、短い音だった。大きな者は動かなかった。

石が飛んだ。

どちらが先に投げたか、草原は知らない。石が飛び、別の石が返った。水場の縁で二人が倒れた。一人は西の群れの若者で、額を割られた。血が水に落ちた。もう一人は東の一群の者で、足首の骨が砕かれ、仰向けに水の中に倒れ込み、それきり起き上がらなかった。

翌日、両群れは互いの火の場所を遠くから見張った。

夜には、東の一群の焚き火が増えた。数を示すための火だったかもしれない。あるいはただ寒かっただけかもしれない。草原はどちらとも言わなかった。

西の群れの中で、老いた者たちが低い声で話し合った。長い時間、同じ音が繰り返された。子どもたちは火の傍で眠ったが、眠りは浅かった。

水場の近くに、昨夜の血の跡が残っていた。

東の一群は水場に来なかった。三日が過ぎた。四日が過ぎた。

五日目の夜明け、東の一群の火が消えていた。彼らは移動した。どこへ行ったか、草原は知らない。足跡は北東に続き、丘の向こうで消えた。

水場は西の群れのものになった。

何かが終わった、と言うことはできない。東の一群はどこかの草原で別の水を見つけたかもしれない。あるいは見つけられなかったかもしれない。足跡は丘の向こうで消えた。それだけだ。

薄い雲が西から流れてきた。雨の予感はまだ、予感のままだった。

与えるもの

水場の縁の、濡れた岩のにおいが、傷の臭いに混じって漂った。

その者は鼻を上げ、何かに気づいた。気づいてから、水場から離れた。

離れた先に何があるかは、まだわからない。離れることが正しかったかどうかも。ただ、次に渡せるものがあるとすれば、離れた先の、静かな場所で渡せるかもしれない。

その者(30〜35歳)

水場の血の臭いが残る。

その者は火の傍に戻り、炭を搔いた。火は弱かった。新しい枝を折り、そこに置いた。火が少しだけ高くなった。

水場の方向に、もう誰もいない。

その者は何度か、そちらを見た。それから火を見た。火だけを見た。

伝播:HERESY 人口:295
与えるものの観察:離れることが、渡せるものになった。
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第1182話

紀元前294,100年

与えるもの

五つの雨季が過ぎた。

この者は歳を重ねた。髪に白いものが混じり、背中が丸くなった。火の番を続けている。獣皮を処理している。変わらない。

何も渡さなかった。

渡そうとした。光を草の上に落とした。風を頬に当てた。水音を響かせた。石の影を動かした。匂いを運んだ。

この者は気づかなかった。いや、気づいたかもしれない。一瞬、手を止めた。空を見上げた。首をかしげた。そして元の作業に戻った。

それでよかったのかもしれない。

第一の星で渡したものたちを思い出す。鋭い石。燃える枝。動物の足跡。逃げる方向。すべて届いた。すべて使われた。そして皆、死んだ。

知識が人を救うとは限らない。

この者の集団は安定している。子が生まれている。年寄りが死んでいる。争いもある。病気もある。しかし続いている。

もしかすると、何も渡さないことが、最も確実な贈り物なのかもしれない。

この者は今日も火を見ている。炎が揺れている。煙が立ち上がっている。

渡したい気持ちはある。しかし手を止める。

待つことも、与えることの一つなのかもしれない。

伝播:DISTORTED 人口:304
与えるものの観察:沈黙も選択だった
───
第1183話

紀元前294,095年

その者(40〜45歳)

皮が破れた。

この者は顎を固め、爪で端を押した。乾いた表面がめくれ、下が生白く出た。指先に脂の臭いが残った。

朝から続けている。同じ動作。同じ抵抗。肩の骨が鳴る音を聞きながら、手を止めない。

火はそこにある。太い枝の端が赤く崩れ、灰になっていく。この者が番をしている火だ。消えたことがない。消えかけたことなら何度かある。そのたびに膝をついて吹いた。煙が目に入り、涙が出た。涙は悲しみではなかった。

集団の外れで、旧人の二人が座っている。

この者はそちらを見ない。見ないが、いることはわかっている。においが来る。毛皮のにおいと、何か別のにおい。自分たちとは違う何か。

近づいていない。遠ざかってもいない。

昨日、若い男が石を持って立った。集団の中の男だ。年嵩の女が声を上げた。鋭い音。男が座った。石は置かれた。それだけだった。

皮をまた引いた。

破れた端から裂き目が広がった。予想より深く。思ったより速く。指に力が入りすぎていた。

この者は手を止めた。

裂けた皮を見た。使えない。使えなくなった。足元に置いた。

火の番に戻った。

枝が一本、足りなくなっていた。立ち上がって探しに行く前に、一度だけ振り返った。旧人の二人はまだそこにいた。腹が減っているのかどうか、この者にはわからなかった。わからないまま、枝を探しに行った。

夕方、集団のひとりが喉に腫れを持ったまま横になった。動かない。

この者はその者の近くに座らなかった。

火だけを見ていた。

第二の星

荒野に乾いた季節が来ている。

低木の葉が縁から枯れ、土が割れる。水場が遠くなった。集団は動いていない。動けない理由がある。喉の腫れが広がっている。最初の一人は五日前に横になった。今は三人になった。声が出なくなった者もいる。

集団の端では旧人が二人、離れて座っている。彼らは寄らない。しかし去りもしない。何かを見ている。こちらを見ているのか、火を見ているのか、空を見ているのか、この星からはわからない。

北の台地では別の集団が水を探して移動している。彼らには腫れはない。乾きがある。どちらが早く限界に来るかは、まだわからない。

火は消えていない。

一人の者が五年、その火を維持している。背中が丸くなり、髪に白いものが混じった。皮を一枚、今日、壊した。使えなくなったものを足元に置いて、別のことをした。壊れたものに長く留まらなかった。それが何を意味するかは、この星も問わない。

喉の腫れは静かに広がっている。

与えるもの

腫れた喉を持つ者の傍らに、煙の一筋が流れた。

風でも揺れでもなかった。ただそちらへ曲がった。

この者は火の方を向いたまま、振り返らなかった。

煙は消えた。

渡せなかったのか。渡さなかったのか。それとも、火を離れないことが、渡したものの結果なのか。

次に渡すべきものがある。それは腫れではない。腫れの先にあるものだ。

伝播:DISTORTED 人口:324
与えるものの観察:煙が向かったが、この者は振り返らなかった
───
第1184話

紀元前294,090年

第二の星

平らな地が続いている。

草が膝の高さまで伸びた季節だ。風は南から来て、乾いた匂いを運んでいる。遠くの山並みは霞んでいる。霞は雨ではなく、土が浮いている証だ。

この者がいる場所から三日の距離に、別の集団がいる。男と女が十七人。子が四人。彼らは岩陰に火を持っている。食料が減っている。この星はどちらの事情も区別しない。

南東では、二つの集団が同じ水場を使いはじめている。互いに近づかない。互いの声の届かない距離を保って、それぞれが汲んでいる。境界は決められていない。ただ、双方の男たちの手に、持つものがある。

川の上流では、岩が崩れた。小さな崩れだ。水は濁ったが、三日後には戻る。川の魚には関係がない。

この者がいる場所では、朝の光が低い。影が長く伸びている。その者の影が、南に向かって伸びている。その者は気づいていない。この星も、それについて何も言わない。

与えるもの

皮の端から、腱が一本出ていた。

温度が変わった。その者の手のそばだけ、わずかに冷えた。腱のある場所に向かって。

この者はしばらく手を止めた。それから、腱を引き抜いた。何かに使うつもりはなかった。邪魔だったから、取り除いた。

腱は地面に落ちた。

——引いて使う。張って使う。縛って使う。この者にはまだ見えない。では、次に何を冷やせばいい。

その者(45〜50歳)

皮が三枚、地面に広げてある。

端を固定するために石を置いた。風が吹くたびに端が持ち上がる。また石を置く。石が足りなければ、足で踏む。

腱が出てきたとき、一瞬手が止まった。指先が、理由もなく冷えた。腱を引っ張った。外れた。地面に捨てた。

続ける。

爪の間に脂が詰まっている。鼻の奥で脂の臭いと土の臭いが混ざっている。腕の筋が張っている。肩ではなく肘のあたりが、今日は重い。

離れた場所で、男が声を上げた。言葉ではない、短い発声だ。この者は振り向かなかった。脅えではない声だと、背中で判断した。

日が高くなっている。

水を飲みに行く前に、もう一枚終わらせる。皮の厚いところを爪で押した。表面がめくれ、白い層が出た。昨日と同じだ。昨日も同じようにやった。

捨てた腱が風に揺れている。

この者はそれを見なかった。

伝播:SILENCE 人口:335
与えるものの観察:引いて使えるものを、邪魔として捨てた。
───
第1185話

紀元前294,085年

第二の星

雨季が終わる前に、緊張が動いた。

草原の東端に、別の集団の足跡が現れた。二足の跡だが、踵の形が違う。爪先の間隔が広い。旧人の集団だ。足跡は浅く、急いでいない。水場を探していた。

水場は一つしかない。

浅い窪地に湧く水だ。周囲の草が踏み荒らされて久しい。獣も、この集団も、旧人の群れも、みなそこへ向かう。乾季が続けば、その一点に命が集まる。命が集まれば、牙が向く。

旧人の足跡は三日前のものだった。その後、消えた。しかし消えたのは足跡だけで、匂いは残った。獣脂と煙と、腐りかけた何かの臭い。風が変わるたびに、東から来た。

この集団の中で、何かが動き始めた。

長老格の二人が低く言葉を交わした。音は短く、繰り返された。同じ音が別の者にも伝わり、また別の者へ伝わった。波紋のように広がったが、波紋とは違った。広がるにつれて変形した。恐れが加わった者、怒りが加わった者、何も加わらずただ反復した者。

子供たちは何も知らずに草の中を走り回っていた。

翌朝、集団は水場から離れた場所に移った。新しい野営地は岩の陰だ。北風を防げる。南が開けている。逃げるなら南だ。誰かがそれを計算したのか、それとも足が勝手に向いたのかは、わからない。

旧人の集団は三日後に姿を見せた。

丘の稜線に立った。六つの影。動かなかった。ただ見ていた。

この集団からも、誰かが丘を見た。視線が交わったかどうかは、距離が遠すぎてわからない。しかし双方が止まった。草が風に揺れる音だけがあった。

それが続いた。

やがて旧人の影が稜線から消えた。南へ向かったのか、東へ戻ったのか、岩の向こうで待っているのか。わからない。足跡を確かめに行く者はいなかった。

この集団の中で、何かが変わった。

変わったと言える証拠はない。しかし夜の火を囲む者たちの間隔が、前の夜より狭くなった。子供を膝に乗せる者が増えた。眠れずに空を見ている者がいた。

東の風がまた来た。旧人の匂いを含んでいた。

誰かが短く叫んだ。叫びは模倣された。模倣は広がり、やがて集団全体の音になった。何を意味する音なのか、発した者自身が知っていたかどうかわからない。しかしその夜、その音が何度も繰り返された。

朝になった。旧人は来なかった。

与えるもの

煙の流れが変わった瞬間、それが丘の稜線に向かった。

その者は煙を目で追い、稜線の影を見た。影は六つあった。

渡したことが戦いを招くのか、生き延びる術になるのか、与えるものには見えない。しかし冷えた指先という記憶が、今また戻ってきた。何かを渡すたびに、次に渡すべきものが変わる。それだけはわかる。

その者(50〜55歳)

岩の陰に戻って、火の傍に蹲った。

皮を持ったまま、手が止まっていた。皮は固い。昨日から干してある。仕事の途中だった。

丘を見た。もう影はない。煙の流れがそこに向かっていたのを、まだ覚えている。煙がどこへ行くかを、この者はよく知っている。

皮を叩いた。また叩いた。

伝播:HERESY 人口:336
与えるものの観察:煙が示した方向を、この者は覚えている。
───
第1186話

紀元前294,080年

第二の星

草原の東端に降った雨は三日で止み、土が固まった。

足跡は残った。踵の沈み方が深い。前足部が外側に広がった跡。その集団は北へ向かっていた。同じ水場を知っている。同じ果実を知っている。しかし顔の骨の形が違い、声の周波数が違い、火の起こし方が違う。

遠く南の岩棚では、別の小さな集団が動いていた。八人。洞窟の入り口に炭で何かを描き、また出発した。描いたものが何を意味するかを、彼ら自身も問わなかった。

北の湖岸では、湖の水位が五年かけて下がり続けていた。湖底の泥が露出し、ひび割れ、白くなった。その周囲に散らばった骨は、二種の者が混在していた。どちらが先に死んだかはわからない。

東の林縁では、子が三人生まれた。

西の段丘では、老いた者が崖の端に近づきすぎ、岩が崩れて落ちた。声は届かなかった。

この星は傾いている。少しだけ。それが季節を作る。草が枯れ、水が凍り、また草が伸びる。それだけが繰り返している。

与えるもの

草の根の匂いが変わる場所があった。

腐った根と、まだ生きている根の境界。その場所で、土が湿っていた。水が近い。

その者の足の裏に、温かさが伝わった。

踏んだだけだ。気づいたかどうか。

十二の者がいた。届いたことはなかった。この者で四十年。足の裏に温かさを渡した。踏んだだけかもしれない。

次に渡すべきものが、まだわからない。

その者(55〜60歳)

獣皮を岩に叩きつける。

もう百回はやった作業だ。腕が重い。皮は少しずつ柔らかくなる。少しずつ。気の遠くなるほど少しずつ。

集団の東端から、低い叫びが聞こえた。

この者は顔を上げなかった。すぐに静かになったから。誰かが足跡を見つけたのかもしれない。昨日も見た。一昨日も。踵の形が違う足跡が増えていた。

叫びは続かなかった。

皮を叩く。

夕方、火の番に戻ったとき、年長の者がこちらを見ていた。じっと見ていた。視線が動かなかった。この者は炭を足した。火が大きくなった。年長の者の目が、火の色に染まった。

夜。

寝る場所に戻ると、子どもが三人まとまって眠っていた。自分の子ではない。親がいなくなった子たちだ。温かさが欲しくて寄ってくる。この者は横に座った。子どもたちの呼吸が続いている。続いている。

足の裏がまだ温かかった。

どこかを踏んだ。草の根の境界だったかもしれない。水が近い場所。この者は考えない。ただ覚えている。足が知っている。

明日、足跡が増えているかもしれない。

増えていても、皮を叩く。

伝播:HERESY 人口:332
与えるものの観察:足が知っている。頭ではなく。
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第1187話

紀元前294,075年

第二の星

乾いた大地に、煙がある。

東の丘陵から立ち昇っているが、火ではない。誰かが焚いているのでもない。土の層が裂けて、内側から湿気が蒸発している。地熱が変わった。深部で何かが動いている。

三日前から、草食獣の群れが南へ流れ始めた。角を持つ大型のものが先頭に立ち、子を持つ雌が後ろから押した。駆けているわけではない。歩いている。しかし止まらない。水場にも寄らず、草を喰みもせず、ただ南へ向かっている。獣がそうするとき、大地の何かが変わっている。

崖の上に集団がいる。この者の集団ではない。二十人ほどの一群が、北から下りてきた。毛皮の縫い目が異なる。足元に巻く皮の形が違う。この地の者ではない。

崖の下にいる者たちは松明を持って出た。声を上げた。高い音と低い音を交互に。近づくな、という意味か、去れ、という意味か、それとも別の意味か、どちらもわからない。北の集団は止まった。互いに五十歩の距離で、しばらく動かなかった。

その間に、幼い子が泣いた。北の集団の中から。

声は止まなかった。

崖の下の者たちが松明を下ろした。誰かが一歩踏み出した。老いた女だった。手に何も持っていない。両手を開いて、歩いた。北の集団の中の者が、同じように手を開いた。男だった。肩に傷の痕があった。

二つの集団が同じ夜の火を囲んだのは、それから半刻後だった。

煙は夜通し東の丘陵から立ち続けた。獣の足跡は南へ延びた。

大地の深部では、何かが静かに、ゆっくりと、ずれ続けていた。

崖の縁のほうでは争いが起きていた。松明を持って出た若者の一人が、北の集団の男と言葉なしに組み合った。どちらが先に手を出したか、どちらが押したか、もう誰も見ていない。崖の縁は暗かった。岩がある。足場が悪い。

音がした。

一つの声が途切れた。

そのあとは静かだった。崖の下に何かが落ちた音を、近くにいた者だけが聞いた。火の方では、老いた女がまだ手を開いていた。

夜明けに、東の煙が濃くなった。

南へ去った獣の後を追って、北の集団は再び歩き始めた。二人ほど残った。崖の下を確かめに行ったのか、そのまま戻らなかったのか、火の傍らの者たちは見ていなかった。

空は白んでいた。骨が冷えるような風が西から来た。

与えるもの

夜半、松明の火が揺れた。

風ではなかった。煙の流れが逆になり、その者の顔の左側だけが照らされた。崖の縁の方向から来る煙だった。

その者は立ち上がった。老いた女の方へ向かった。

あの方向で何かが起きたと、この者は受け取ったか、あるいは火が揺れただけだと思ったか。渡したのは崖の縁の煙の匂いだった。この者は動いた。動いたことが、次に何かを変えるのか。それはまだわからない。ただ、渡す意志は残っている。

その者(60〜65歳)

老いた女のそばへ行った。何か声を出した。単音だった。

老いた女は向こうを見ていた。火の方を。

その者は老いた女の腕を引いた。崖の縁の方を向かせようとした。老いた女は抵抗しなかった。でも動かなかった。

その者は一人で歩いた。崖の縁へ向かった。

暗かった。足元に岩があった。

伝播:SILENCE 人口:345
与えるものの観察:煙が先か、匂いが先か、問い続ける
───
第1188話

紀元前294,070年

その者(65〜67歳)

集団の端に、その者の場所がある。

火の近く。乾いた草を重ねて作った寝床。皮なめしに使う石が三つ、いつも同じ順に並んでいる。誰も教えなかった。いつからかそうなっていた。

六十五の年が終わる頃、その者の指が鈍くなった。

腱を引っ張る力が落ちた。皮を石で叩くとき、右の手首が震えた。若い者が横に来て同じ作業をするようになった。その者は見ていた。口は開かなかった。

火の番は続けた。

夜、炎の色が変わる瞬間を知っていた。木の置き方で変わる。湿った枝を左に、乾いた枝を右に。誰に言葉で伝えることもできなかった。やって見せるだけだった。

六十六の年、集団の中で何かが変わった。

東の方向から来た者たちがいた。体つきが違う。額が低く、顎が張っていた。旧い形をした者たちだ。集団の中に緊張が走った。その者にはわからなかった。ただ、焚き火を囲む輪が小さくなったことに気づいた。自分が輪の外に置かれるようになったことも。

その者は火のそばで何かを知っていた。

旧い形の者たちが近くで眠っていても、その者は怖いとは思わなかった。炎の匂いと同じ匂いがした。煙と脂と、温かいもの。それだけだった。

それを誰かに伝えようとした夜があった。

身振りで示した。旧い形の者を指し、次に火を指し、次に自分の胸を叩いた。周りの者が黙った。一人が立った。その者の腕を掴んで引いた。離れた場所に押しやった。

それ以来、その者は輪に入れなかった。

食べ物は届いた。最小限だった。皮なめしの仕事はなくなった。火の番も若い者に移った。その者は端に座っていた。

六十七の年の初めに、膝が腫れた。

歩くと鈍い痛みがあった。水場まで行けなくなった。誰かが水を持ってきた。一度だけ。次の日は来なかった。

その者は自分で行った。膝をかばいながら。

水を飲んだ。顔を水面に近づけたとき、水が揺れた。どこから揺れたのかわからなかった。底から来るような揺れだった。その者はしばらく、揺れが収まるのを待った。

戻ってきた。寝床に横になった。

火の匂いがまだあった。遠くからだった。誰かが薪を置き直している音がした。木の置き方が違う。乾いた枝を左にしている。その者の耳だけが知っていた。

夜が来た。

膝の痛みがなくなった。寒さもなくなった。炎の色が変わる瞬間を、目は追っていた。

それから、動かなくなった。

寝床の草が、ゆっくり体の重みを引き受けた。

第二の星

広大な草原の彼方、川が二つに分かれる場所で、旧い形の者たちが夜明けに火を囲んでいた。一人が岩に動物の輪郭を刻もうとして、石を打ちつけた。火花が散った。その者は驚いて石を放した。地面に落ちた石を、もう一度拾った。

与えるもの

水面の揺れを渡した。この者は顔を近づけた。それ以上は、しなかった。

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:344
与えるものの観察:渡した。届かなかったかもしれない。それでも渡す。
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第1189話

紀元前294,065年

第二の星

川は夜に動いた。

音もなく。最初は岸の草が濡れた。それだけだった。どの者も気づかなかった。火の番をしていた者は、足元が温かく湿ってきたのを眠気のせいだと思った。

水は草地を這い、低い場所から埋め、眠っている者の下に入り込んだ。子どもを抱いていた者は、腕の中の重さが突然水を含んだことで目を覚ました。立ち上がった。立てなかった。流れが腰まで来ていた。

叫びは届かなかった。暗く、水は静かで、速かった。

集団の端にいた者たちが最初に消えた。眠ったまま飲まれた者。逃げた先で流れに捕まった者。木に登ったまま夜明けを待ち、疲れて落ちた者。

夜が明けた。

残った者たちは丘の上に立っていた。下は泥と折れた木と、流れてきた見知らぬ何かだった。集団のおよそ六分の一が消えていた。水が引いても、その数は戻らなかった。

遠くの乾いた台地では、別の集団が旧人と肩を並べて眠っていた。炎を囲んで。水のことを知らずに。朝が来て、彼らは立ち上がり、干した実を食べた。

この星はどちらも等しく照らした。

与えるもの

糸が繋がった。

水が引いた後の泥に、腐った植物の匂いが満ちていた。その匂いの中に、別の匂いが混じっていた。焦げた草の匂い。上流のどこかで何かが燃えていた。

その匂いがこの者の鼻に届いた。

この者は立ち止まった。それだけだった。どこに動くべきか、匂いは教えない。ただ届いた。

この者が立ち止まったことを、与えるものは感じた。

問い:立ち止まることと、気づくことは、同じか。次に渡すべきものがあるとすれば、それはまだ形になっていない。

その者(20〜25歳)

泥が膝まである。

歩くたびに足が沈む。引き抜くたびに音がする。前を歩いていた者が転んだ。立ち上がらなかった。その者は振り返らなかった。立ち止まりもしなかった。

泥の中に岩がある。黒い、平たい岩。水が運んできた。この場所にあるはずのない岩だった。

その者は屈んで、それを持った。

重かった。いつも使う石より重い。しかし持てないほどではなかった。泥を払った。払った。また払った。岩の表面が出てきた。なめらかだった。

持ったまま歩いた。

丘に着いた。集団の残った者たちが散らばっていた。子どもが泣いていた。老いた者が座ったまま動かなかった。その者は岩を置いた。座った。また拾った。

重さが手の中にあった。

匂いがした。焦げたような、遠いような匂い。その者は顔を上げた。上流の方向に。空は灰色だった。水の匂いと、もう一つの匂い。

その者はしばらく、その方向を向いたまま、動かなかった。

岩はまだ手の中にあった。

伝播:NOISE 人口:296
与えるものの観察:立ち止まった。それだけだった。
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第1190話

紀元前294,060年

その者(25〜30歳)

煙が喉に入った。

目が開いた。空は暗い。火はまだある。

足元を見た。水だった。足首まで来ていた。暖かかった。その者は立ち上がり、周りを見た。暗い。草の音。遠くで何かが動いていた。

叫んだ。

高い叫びだった。寝ていた者たちが動いた。子どもを抱えた者が立ち上がった。老いた者は遅かった。水はその間も来ていた。膝まで上がった。

その者は高い場所を知っていた。

なぜ知っていたかはわからない。昨日、その方向に光が落ちていた。草が揺れて、獣の跡があると思っていた。ただそれだけのことだった。しかし足が動いた。崖の縁に向かって走った。叫びながら走った。

何人かがついてきた。

水の中を歩く音、子どもの泣き声、転ぶ音。

老いた者の一人が水の中に倒れた。起き上がらなかった。暗い中でその者は見ていた。見ていたが、止まらなかった。

崖の縁に着いた。岩の上に立った。

水が来ていた。平らな場所が全て光っていた。月の光が水に映っていた。

その者は後ろを向いた。

ついてきた者たちを数えた。数える言葉はなかったが、指を折った。

足りなかった。

何人かが来ていなかった。その者は崖の下を見た。水の中に何かが浮いていた。動かなかった。その者は声を出さなかった。岩の上に座った。膝を抱えた。

夜明けまで、誰も動かなかった。

朝、水が引き始めた。

集団の生き残りが互いを見つけ始めた頃、別の集団の者たちがやってきた。旧人たちだった。額が低く、腕が長かった。手に石を持っていた。

いつもは距離を置いていた。

しかし昨夜、彼らも同じ水に追われていた。

一人の旧人が崖の端に来た。その者と目が合った。旧人は石を下ろした。その者は石を持っていなかった。ただ見ていた。

しばらく、両者は動かなかった。

それから旧人は別の方向に歩いていった。

その者は見送った。岩の上に立ったまま。水の引いた跡に泥が光っていた。老いた者が倒れた場所がどこかわからなかった。

集団の中の年長者が近づいてきた。何かを言った。唸りと身振りだった。

その者がどこに向かって走ったか、なぜそこに向かったか、を問うていた。

その者は答えられなかった。

光があった、とは言えなかった。言葉がなかった。ただ手で崖の方を示した。それだけだった。

年長者は顔を曲げた。もう一度何かを言った。

今度は別の問いだった。唸りの輪郭から、その者はわかった。

なぜお前が知っていたのか、という問いだった。

その者は黙った。

年長者の後ろに他の者たちが集まってきた。死んだ者の家族もいた。目が光っていた。

その者は立ったまま黙っていた。

その日の夕方。

その者は集団から少し離れた場所にいた。石を持っていた。川の跡を見ていた。誰かが後ろから来た。音でわかった。振り返らなかった。

石が頭に当たった。

倒れた。地面に顔がついた。泥の匂いがした。重さが来た。体の上に乗られた。

声を出せなかった。

泥の中に顔が押し込まれた。その者は手を動かそうとした。動かなかった。押さえられていた。川の跡の泥が口に入った。暖かかった。

空が見えなかった。

手の力が抜けた。石が転がった。

第二の星

始まりの大地の東縁、川が二本交わる低地から、水がまだ引ききっていない。

泥の上に足跡が重なっている。大きな足、小さな足、獣の足。夜の間に地形が変わった。草が倒れ、火の跡が水に埋まり、古い集合場所は土の下に消えた。

崖の上には296のうちの何人かが生き残っている。川を挟んだ先に旧人の集団がいる。彼らも崖の上に逃げた。人数はわからない。互いに見えるが、近づかない。

洪水の夜に死んだ者がいる。水の中で倒れた者、起き上がれなかった者。それとは別に、泥の上で動かなくなった者が一人いる。夕暮れ前のことだった。誰が行ったかは暗闇の中に消えた。

集団はその者が知っていたことを覚えている。なぜ知っていたかを誰も説明できない。説明できないことは、恐れになる。恐れは行動になる。

始まりの大地は今日も等しく照らしている。生きている者を、死んでいる者を、泥の上の足跡を、全て同じ光の中に置いている。

崖の上で子どもが泣いている。母親が乳を与えている。火が小さく燃えている。生きている者たちは次の朝を迎えようとしている。

与えるもの

昨日の光が崖の縁に落ちた。
その者は走った。何人かが生き残った。
それで十分だったのかと、また問うている。

十分ではなかった。だから問うことをやめない。次に何を示すか、もう始めている。

伝播:HERESY 人口:295
与えるものの観察:光は届いた。しかしそれが理由で消された。
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第1191話

紀元前294,055年

第二の星

乾季の終わり。

大地の赤い平原に、熱気がよどんでいる。草は腰の高さまで焼け残り、その縁が黒く炭になっている。風が止まっている。止まっているのに、どこかで砂が動く。

北の岩棚に、旧人の群れが三つ、重なるように潜んでいる。彼らの体は広い。肩が厚い。見ている方向が、この集団のいる谷の入り口と一致している。彼らは争いの形をとっていない。ただ、そこにいる。

谷の中では熱が続いている。

五日前に倒れた者の体が、まだ岩の陰に残されている。動かす者がいなかった。近づく者もいなかった。ただ岩の影だけが、その体の上を朝から夕へと移動し続けている。

南の湿地では別の集団が移動を始めていた。四十人余り。子を背負った女が二人。荷を持たない男が先を歩く。彼らは何かを避けている。何を避けているのかは、後ろを振り返らないことだけが示している。

大地の上で、いくつものことが同時に起きている。

熱が続く。風が止まっている。

与えるもの

五日前に渡したものを、この者は拾っていたかもしれない。

だが今は別のものを渡す必要がある。

北から来る匂いがある。旧人の体臭とは違う、硫黄に似た鉱物の匂いが、熱気の中に混じっている。岩棚の方角から。

その匂いをこの者の鼻腔に届けようとした。熱風の向きを借りて。

この者は顔を上げた。鼻を動かした。しかし視線は死んだ者の体の方へ向いていた。

渡したかった方向ではなかった。

渡すことと、届くことは、いつも別の話だ。

それでも次に渡すべきものは決まっている。あの岩棚の輪郭。旧人の群れが潜むときに出す、低い摩擦音。あれを、音として届けることができるか。かつて足裏に温度を渡したことがある。水場を覚えさせることができた。だとすれば音も、届くかもしれない。

届かなかった回数を、数えるだけでは足りない何かがある。

その者(30〜35歳)

五日間、腹が鳴っている。

疫病で倒れた者が残した肉の残りは食べなかった。他の者も食べなかった。誰かが決めたわけではない。ただ誰も近づかなかった。

喉の焼け感がまだある。五日前の煙の後遺症か、それとも熱気のせいか、区別できない。水を飲むたびに、奥の方が痛む。

岩の陰の死体から、その者は目を離せなかった。

何かが腑に落ちない。それが何かを、言葉にする手段を持っていない。ただ岩の陰と死体と影の動きを、交互に見ていた。

他の者が集まってきた。七人。全員が同じ方向を向いた。

指示を出せる者が近くにいない。長老格の男は熱で寝ている。

その者は立った。

立ったことに意味があったわけではない。ただ座り続けることができなくなった。腰を上げ、腕を下ろし、足の裏が地面を確認した。

乾いている。固い。

北の方から、何か匂いがした。硫黄でも煙でもない。動物の、あの、皮の厚い者特有の発汗の匂い。

その者は鼻を動かした。

しかし視線は死体に戻った。

もう一度立ち上がった。今度は死体の方へ向かった。膝をついた。腕に触れた。冷たかった。硬かった。

その者は手を引いた。

立ち上がり、また北を向いた。

今度は視線も、北に向いた。

岩棚が見えた。何もいない、と、見えた。

しかし足が動かなかった。足の裏が、地面の何かを感じていた。微細な振動。獣の踏む重さとも、風の伝播とも、違う重さ。

その者は振り向かなかった。

ただ立って、足の裏で、それを感じ続けた。

伝播:NOISE 人口:311
与えるものの観察:鼻は動いた。しかし見ているのは死だった。
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第1192話

紀元前294,050年

第二の星

大地の南端で川が二股に割れている場所がある。片方は岩盤を削って海へ向かう。もう片方は砂に吸われて消える。その三角地帯に、草の実が密生する季節があった。今年はない。茎だけが立っている。

始まりの大地では、集団が縮んでいた。縮んだ、という言葉では足りない。腕が一本消えるような縮み方だった。喉が腫れ、皮膚が熱を持ち、翌朝には動かなくなる。理由がわからないまま、それが次の者へ移った。近づいた者が倒れた。離れた者が生き残った。しかし誰もその規則性を言葉にできなかった。

遥か北の草原では、別の群れがいた。この星が知っている限り、彼らは始まりの大地の集団と血を分けた記憶を持たない。彼らの空には今、長い乾期の終わりを告げる雲が戻りつつあった。雨が来る前の、土の匂い。彼らは喉を開けて空を嗅いだ。

死者は埋められなかった。埋める者の数が足りなかった。

この星は両方を照らす。南の縮んだ集団も、北の雲の匂いも、同じ光の量で。

与えるもの

十五年。

渡してきた。風の向き。水面。重さ。崖。足裏の振動。

今回は違う渡し方をしようとした。

腐った死体のそばに生えていた草がある。その草だけが、他と違う色をしていた。緑が濃すぎる。毒を吸い上げているのか、養分を取っているのか、与えるものにはわからない。ただ、その色の差異に光を集めた。

この者は見た。

立ち止まった。

それから、その草を踏んで通り過ぎた。

踏んだ。踏みつけた。踏んで、通り過ぎた。

わからない。踏んだことに意味があったのか。踏んだことが次の何かへの入口なのか。それとも、ただ踏んだだけか。次に渡すべきは何か。この者は今、腐臭の中を歩き続けている。次の光を落とす場所を、与えるものはまだ探している。

その者(35〜40歳)

仲間が倒れるのを三度見た。

最初の者は夜中だった。その者は朝になっても起きなかった。次の者は昼間に突然座り込み、顔を上げたまま空を向いた。最後の者は歩いている途中だった。歩いていて、そのまま草の中に沈んだ。

自分は動いていた。

水を取りに行った。肉の残りを削いだ。子どもの一人が泣いていたので、近くに座った。何もしなかったが、泣き止んだ。

死体の近くを通った。腐臭が口の中まで入ってきた。鼻を手で塞いでも、舌の奥に残った。

その匂いの中で立ち止まった草があった。

色が違った。

この者は色の違いに気づいた。一瞬、その草を見た。

それから踏んだ。

踏んで、歩いた。

夜、火の傍に座った。集団の残りが、いつもより少ない輪を作っていた。隙間があった。隙間は埋まらなかった。

火が弱くなった。薪を足す者がいなかった。この者が一本、放り込んだ。

火が戻った。

それだけだった。夜は長かった。

伝播:SILENCE 人口:235
与えるものの観察:踏んだ。それが何かへの端緒か、ただの一歩か。
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第1193話

紀元前294,045年

第二の星

大地の南端、川が二股に割れる場所から三日歩いた先に、丘が連なる地帯がある。丘と丘のあいだに窪みが生まれ、雨水が溜まり、溜まったものが腐り、腐ったものが黒い泥になる。その泥の縁に、二つの集団が向き合っていた。

片方は毛の濃い者たちだ。眉骨が張り出し、声が低い。腰を落として移動し、群れを外れない。もう片方は毛が薄く、背が高い。声の数が多い。単音ではなく、いくつかの音を続けて発する。

二つの集団はこの窪みを共有していた。雨季のあいだだけ。水があるうちだけ。それ以外の季節は互いを遠くから眺め、近づかなかった。

しかし今年は雨の来るのが遅かった。

窪みに残る水が減った。泥が乾いて割れた。毛の濃い者たちが水際まで降りてきた。毛の薄い者たちはすでにそこにいた。

唸りがあった。腕を上げた者がいた。石を投げた者がいた。

毛の濃い者の一人が倒れた。頭を押さえて横たわり、起き上がらなかった。毛の薄い側でも、若い者が崩れ落ちた。腹を抱えたまま、泥の中に沈んだ。

それで終わりではなかった。

翌朝、毛の濃い集団が消えていた。丘の向こうへ消えた。残されたのは踏み荒らされた泥と、引きずった跡と、小さな手のかたちだけだった。

毛の薄い集団の者たちは水を飲んだ。飲みながら、それぞれ別の方向を見た。

数日が経った。

集団の中で、ある男が問題になっていた。その男は毛の濃い者たちと何度か近づいたことがある。食い物を分けたことがある。声を真似たことがある。それを見ていた者たちがいた。

下位の狩り手だった。命令されれば動く男だった。しかし今、命令する側の者たちが、その男を指して唸りを上げていた。

石が飛んだ。男は走った。

草の中へ消えた。

丘の向こう、泥の縁に残された手のかたちが、次の雨までそのままだった。

与えるもの

風がその男の走る方向から吹いてきた。草の匂いではなく、乾いた岩の匂いだった。

男は一瞬、立ち止まった。右ではなく左へ折れた。

左には崖があった。崖の下に狭い岩棚があった。渡せたのはそこまでだ。崖の先を、この者が知っていたかどうかは別の話だ。渡す意志はある。次に何を渡すべきか、それはまだわからない。渡せる時間が残っているかどうかも。

その者(40〜45歳)

岩棚の端に座っている。

足が震えていた。震えが止まったとき、腹が鳴った。

草の茎を一本、手の中で折った。また折った。また折った。細かくなった欠片を、風に向けて開いた手のひらから飛ばした。

空を見なかった。

伝播:HERESY 人口:233
与えるものの観察:崖へ折れた。左を選んだことだけ、確かだ。
───
第1194話

紀元前294,040年

その者(45〜49歳)

集団から離されたのは、夕刻だった。

声ではない。目だ。何人かが同時にこちらを見なくなった。それが合図だった。その者にはわかった。長く生きれば、そういうものがわかるようになる。

三日前から食べていない。

腹が痛むのではない。腹が静かになった。静かになったまま、動こうとしない。それが怖かった。痛みなら戦える。静けさには何もできない。

丘の斜面に座った。

膝を抱えた。膝の上に顎を乗せた。遠くで子どもが転んで叫んだ。泣き声が上がり、すぐ消えた。集団の音は続いている。火の爆ぜる音。誰かが石を打つ音。自分だけが止まっている。

手を開いて、閉じた。

指の間に土が残った。乾いた土だ。粉のような。風が吹いて、それが散った。

立ち上がろうとした。

脚が応えなかった。意志は出した。脚が聞かなかった。もう一度出した。脚は静かなままだった。

横になった。

草の茎が首に触れた。固い。腐っていない草だ。まだ生きている草だ。その感触が、なぜかはっきりした。

空を見た。

雲が流れていた。速い。今日は風が強いのだろうと思った。思ったかどうかわからない。感じた、というほうが近い。体がそれを受け取った。

音が遠くなった。

火の音が遠くなった。子どもの声が遠くなった。自分の呼吸の音だけが残り、その音も、やがて自分のものではないように聞こえ始めた。

草の茎が、風に揺れた。

その者の首に触れたまま、揺れた。

第二の星

大地の北、岩と岩の割れ目に川が生まれる場所がある。そこで一人が水を掬っていた。掌が透明な冷たさで満ちた。飲んだ。川は流れ続けた。もう少し東の台地では、二人が声も出さず向き合って座っていた。どちらも動かなかった。風が両者の間を通り抜けた。

与えるもの

渡すべきものがある。それだけが、覚えていることの使い道だ。
糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:231
与えるものの観察:渡した記憶が何度目かは、もう数えない
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第1195話

紀元前294,035年

第二の星

乾いた風が平原を渡る。

草の高さは膝ほど。雨はまだ来ない。土は割れかけているが、まだ砕けていない。

東の岩場では、旧人の群れが日没前の光の中で動いている。額の出っ張り、肩の張り方、腰の落とし方。こちらの群れとは違う。だが水を飲む。肉を裂く。子が泣く。

西の窪地では、小さな群れが火を囲んでいる。その火の中心に坐る者の額には古い傷がある。傷は昨年のものではない。何年も前に肉が閉じ、皮が盛り上がった。その者はもういない。傷だけが別の体に記憶のように映っていた時代の名残として残っている。それを知る者は、もうそこにはいない。

この星の上で、別の場所では、波が岩を叩き続けている。

誰もそれを見ていない。

波は叩く。

与えるもの

糸が繋がった。

この者は10歳だった。今は15歳に近い。

草の茎が首に触れた年があった。風の向きが岩の匂いを運んだ年があった。この者に届いたかどうかは、今もわからない。

今日、渡す。

水を運ぶ道の途中、石の窪みに水が溜まっていた。その水面に、ひびの入った土の断片が落ちた。音がした。小さな音だった。波紋が広がり、端まで届く前に消えた。

この者の足が止まった。

波紋を見ていた。

端まで届かなかったことを、この者がどう受け取ったかはわからない。だが足が止まった。それは届いたのか、それとも何かが偶然に重なっただけなのか。

次に渡すべきものが、まだある。この者が排除される前に、間に合うかどうかはわからない。

その者(10〜15歳)

水を運ぶ。

革の袋を両手で持つ。走ると水がこぼれる。こぼれると戻らなければならない。だから走らない。

道の途中に石の窪みがある。水が溜まっている。雨の水だ。誰も飲まない水だ。深さは手のひら一枚分にも満たない。

土の欠片が落ちた。音がした。

足が止まった。

波紋が広がった。端まで届かなかった。端の手前で消えた。

しゃがんだ。革袋を置いた。水面を見た。もう動いていなかった。

何もない。

もう一度、端まで届かなかったことを思った。思った、という言葉はまだこの者にはない。ただ、胸の中で何かが動いた。動いて、止まった。波紋と同じ形に止まった。

立った。革袋を持った。

群れのところへ戻った。

誰かがこちらを見た。それから見なくなった。

翌朝、起きたら、自分の寝ていた場所が群れの端よりさらに端になっていた。誰かが夜のうちに動いたのではない。自分が、知らないうちに、外側へ押し出されていた。

水を運ぶように目で言われた。

走らなかった。

水面のことを、まだ胸の中に持っていた。

伝播:HERESY 人口:231
与えるものの観察:端まで届かなかった波紋を、この者は置いていかなかった
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第1196話

紀元前294,030年

その者(15〜19歳)

腹の左側が、三日前から熱い。

右側は冷たいままだ。その差が気になって、その者は何度も手を当てた。熱い。冷たい。熱い。不均衡は収まらない。

水を運ぶのは変わらなかった。皮袋を持ち、水場まで歩く。岩の陰を通る時だけ、少し足が遅くなった。そこが涼しいからではない。歩くのが、昨日より重かっただけだ。

群れの端は、その者の場所だった。

中心に火がある。大人たちが声を出す。子どもが走り回る。その者はそこから少し離れた石の上に座って、いつも同じ方向を見ていた。特に何があるわけではない。草が続いて、岩が続いて、空が続く。

四日目の朝、水を取りに立てなかった。

誰かが皮袋を持っていった。その者を見た。目が合った。何も言わなかった。

熱は腹から背中へ移った。

その者は石の上に横になった。空が白い。雲が動いている。速くも遅くもない速さで。

水が来た。飲んだ。飲んでも乾きが消えない。

夕方、群れの中の子どもが走ってくる音が聞こえた。声が聞こえた。笑い声だったかもしれない。その者は顔だけそちらへ向けた。目が追えなかった。

五日目。

背中に岩の感触がなくなった。冷たいはずの夜風が、もうわからない。

腹の左側の熱は消えていた。

全部、消えていた。

草が揺れた。その者の手が、少し開いたまま止まった。

第二の星

東の岩場では、旧人の群れが交代で眠っている。火は持たない。体を寄せ合うだけだ。その夜、一頭の獣が草原を横切った。群れの誰も気づかなかった。西では別の集団の子どもが水場で声を上げた。母親が引き戻した。空には何もない。星だけがある。

与えるもの

光が落ちた場所に、別の影があった。糸は別の誰かへ向かった。

伝播:NOISE 人口:246
与えるものの観察:熱が消えた時、手が開いたままだった
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第1197話

紀元前294,025年

その者(2〜7歳)

泥が顔についている。

誰かが運んでいる。腕が硬く、汗の匂いがする。揺れるたびに顎が肩にぶつかる。空が動く。木の枝が流れていく。

泣いたかどうか、もう覚えていない。

集団は動いている。足音が多い。草を踏む音、枝を折る音。子どもの声がある。別の声もある。低くて速い声。大人たちが互いに向かって叫んでいる。その言葉はわからない。ただ速い。

前の方で何かがある。

その者はそちらを見ようとして、首を捻る。運んでいる腕が締まる。見えない。においだけがする。血のにおい。土のにおい。それから、知らないにおい。

これまでかいだことのないにおい。

足音の速さが変わった。走っている。腕の中で揺れが激しくなって、空が揺れる。木が揺れる。

どこかで叫び声。

その者は腕をつかもうとする。小さな指が布か皮か、何かをつかむ。つかんだまま放さない。体がどこかにぶつかる。岩かもしれない。痛みはまだ来ない。

叫び声が止まった。

足音が少なくなった。

走ることも止まった。

草の中にいる。誰かの胸に押しつけられている。息の音がする。速い息。その者の鼻が服に埋まって、息が苦しい。首を動かして、少しだけ空気を探す。

遠くで声がする。

知らない声だ。

その者は動かない。体がそれを知っている。動いてはいけない。言葉は知らない。理由も知らない。ただ体が固まっている。

声が遠ざかる。

また遠ざかる。

消えた。

しばらくの間、誰も動かなかった。

それから、抱いている者が息を吐いた。長い息。胸が大きく動いて、その者はその動きに揺られた。

においが変わった。血のにおいが濃くなっている。遠い場所からではなく、近い場所から。

その者は首を上げた。

草原の縁に、誰かが倒れている。

動かない。

集団の中の誰かが倒れた者に近づいて、膝をついた。手を触れた。それだけだった。立ち上がって、声を出した。短い声。

みんなが動き始めた。

その者もまた、腕の中で運ばれていく。

さっきとは別の方向だ。

第二の星

草原の夏は乾いていた。

川が細くなり、水場への距離が伸びた。獣の群れが移動し、別の群れがその跡を踏んだ。246の命が「始まりの大地」に散らばっている。集まる場所、離れる場所、その境界は川と尾根と季節で決まっていた。

別の集団がいる。

彼らは人だ。形が似ている。しかし何かが違う。体の輪郭が、声の出し方が、動きの速さが。長い時間をかけてそれぞれが変わった結果、似た存在が二つになっていた。

出会いは常に偶然だった。水場で、獲物の近くで、嵐の後に。たいてい何も起きなかった。遠くから見て、どちらかが引いた。ときに物が渡った。ときに声が交わされた。

今日は違った。

どちらが先に怖れたのかは、私にはわからない。怖れは速い。怖れは走る。誰かが走れば別の誰かも走る。岩の間で、草の中で、短い時間に決着がついた。

倒れたのは一人だった。

集団は動き続けている。止まることはない。246の命のうち、今日の夕方にそこにいる者が何人かを、私は知っている。

草原の風は西から吹いていた。乾いた風が、血のにおいを薄めながら流れていった。

与えるもの

糸が繋がった。

この者はまだ腕の中にいる。小さな手が、抱いている者の服をつかんでいる。

知らないにおいがした。それが何かを、この者はまだ持っていない言葉で分類できない。ただにおいはある。鼻の奥に残っている。

においの中に、草が踏み荒らされた場所があった。においが変わる場所がある。その場所の草は短く折れている。踏み込んだ者の重さと方向を、草が記録していた。

この者の鼻がそちらを向いた。一瞬だけ。

気づいたかどうか、私にはわからない。2歳の体は感じたものを覚えるが、覚えたものを使うのはずっと先だ。それでも鼻は向いた。次に渡すべきものは、まだここにある。鼻が向く方向と、足が向く方向が、いつか一致するかどうか。

伝播:SILENCE 人口:256
与えるものの観察:においが鼻の奥に残った。それだけ。
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第1198話

紀元前294,020年

第二の星

雨が続いた。

五年間、この大地は渇かなかった。岩の割れ目から水が染み出し、低地には膝まで届く草が茂った。草の穂が風に揺れると、虫の羽音が重なり、その音の層の下で獣の足音が消えた。木の実は落ちる前に割れ、中の白い肉が雨を吸って膨らんだ。食べるものが足りなかった夜を、この大地はまだ覚えていなかった。

東の稜線の向こうでは、もう一つの集団が同じ雨を受けていた。背が低く、頬の骨が張り、眼窩の縁が厚い者たちだった。彼らは丘の斜面に穴を掘って雨を凌ぎ、獣の皮を石で叩いて柔らかくした。火を三か所に分けて持ち、それぞれの火が消えないように誰かが必ず傍にいた。言葉は持たなかったが、指の形と喉の鳴らし方で意思を通じ合わせた。彼らも増えていた。

この大地の集団は谷の北側に広がり始めた。かつて十数人が寄り合っていた場所に、今は三倍近い人数が眠った。子が産まれると、複数の腕が順番に抱いた。産んだ者が眠っている間も、別の者が火の傍で揺らし続けた。子が死ぬこともあった。草の上に置かれ、誰もそこを踏まなかった。しかし死ぬ子の数より、生き残る子の数が上回った。それが今の時代だった。

集団の外縁で接触が起きていた。東の丘に向かった若い者が戻らなかった。二日後、別の若い者が戻ってきて、右腕に新しい傷を持っていた。石で打たれた傷だった。しかし翌朝、東の稜線から見慣れない匂いが流れてきた。煙と、焼けた骨の匂いだった。誰かが火を大きく焚いていた。

集団の古い者の一人が立ち上がり、東を向いた。長く立っていた。何かを言おうとして、音を出さなかった。座った。

南では川が増水し、平原の草が水面の下に消えた。流れに乗って魚が大量に上がってきた。誰かが浅瀬に入り、手で掴もうとした。魚は滑って逃げた。別の者が尖った石を持って入り、突いた。三度目に刺さった。引き上げた魚が泥の上で跳ねた。その動きを、岸から複数の目が見ていた。

北の大地では乾燥が続いていた。別の種の者たちが水を求めて南へ移動していた。彼らの足跡は深く、重かった。何日も歩いた痕跡が岩盤に残っていた。

この星の上で、いくつかの集団が同時に大きくなっていた。大きくなることで、それぞれが互いの輪郭に触れ始めていた。豊かさの中で緊張が生まれるのは、欠乏の中と違う種類の出来事だった。食べるものがあるのに、刃が飛んだ。

大地は雨を受け続けた。草は伸び続けた。星はそれを等しく照らした。

与えるもの

朝、日が出る前、空気がまだ青い時間に、露が草の葉に溜まっていた。光が斜めに入り、その一点だけが光った。

この者の唇が乾いていた。

渡したいものは水ではなかった。渡したいものは、光の落ちた先を向く、首の動きだった。

この者の首は動かなかった。眠っていた。

渡せたかどうかわからない。しかし次に渡すべきものが変わった気がした。眠っている者には、眠りの中に何かを置けるかもしれない。あるいは、渡せないまま積み重なるものが、いつか重さになるかもしれない。

その者(7〜12歳)

火の傍に置かれていた。

背中が温かかった。顔は冷たかった。

誰かの声がした。高い声と低い声が混ざった。意味はわからなかった。

足の裏が土の上にあった。蟻が一匹、足の親指の上を渡っていった。

その者は蟻を見ていた。蟻が草の根元に消えるまで、ずっと見ていた。

伝播:NOISE 人口:333
与えるものの観察:眠りの中に置けるものがあるか、まだわからない
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第1199話

紀元前294,015年

第二の星とその者(12〜17歳)

草が枯れた。

風向きが変わったのは五年前だった。北から乾いた塊が押し寄せ、雨を運んでいた雲の通り道をずらした。岩の割れ目の水が引いた。低地の草は色を失い、穂が立つ前に倒れた。獣の足跡が泥の中で深くなった。水場を求めて移動したのだ。足跡は二度と戻らなかった。

その者は十二になっていた。

腕で伝わる重さが変わった。抱く者の呼吸が速く、肩に汗が染みた。その者の脚は抱く者の腰に当たり、揺れるたびに地面の遠さを知った。空腹のときに音が出た。音が出ると抱く者の腕が締まった。それが何を意味するか、まだ知らなかった。

集団が動き始めた。

二十三人が先に出た。重いものを持たない者たちで、足が速かった。残りは荷を分け、子を分け、火種を土器の欠片で包んだ。北東に、旧人の群れが二つあった。彼らも水場を求めていた。道が重なる場所が一つだけあった。互いにそれを知っていた。

その者は揺れる背中から空を見た。

雲がなかった。岩の稜線が青い中に切り込んでいた。風が右の耳を撫でた。冷たくはなかった。ただ乾いていた。口の中が同じ感触をしていた。飲んだのはいつだったか。揺れが続いた。目を開けていると岩が遠ざかり、空が揺れた。

旧人の群れと接触したのは三日目の夜だった。

火が二つあった。どちらも小さかった。声が上がり、石が投げられ、誰かが叫んだ。その叫びは問いではなく、境界だった。闇の中で足音が乱れた。子が泣き、大人が走り、火が一つ消えた。朝になったとき、集団の端にいた男が戻らなかった。足跡は崖の縁まで続いていた。その先は雨が消していた。

その者は草の上に置かれていた。

抱く者が立ち上がって走っていった。その者は寝転んだまま、空を見た。草は短く、地面は硬かった。腹の底に何かが溜まっていた。音ではなかった。音が出る手前のものだった。草の一本が顔に触れた。先端が尖っていた。払わなかった。触れたまま風に揺れるのを感じた。

風が変わった。

乾いた風の中に、一瞬だけ水の匂いが混じった。遠い場所からくる匂いだった。岩を濡らした水が石の上で蒸発するときの、鉄に似た冷たさ。草の一本が鼻に触れる角度で揺れた。その者の鼻がわずかに動いた。

抱く者が戻った。その者は抱き上げられた。

集団が向きを変えた。それまで南へ向かっていたのが、東へ折れた。誰が決めたか見ていなかった。ただ向きが変わり、足音が変わり、抱く者の肩越しに見える稜線が入れ替わった。

その者は鼻で息をした。

さっきの匂いを探した。なかった。草が揺れ、砂が舞い、抱く者の汗の匂いがあった。その匂いではなかった。違うとわかった。なぜ違うとわかったか、わからなかった。ただ、鼻が覚えていた。

三十二日後に水場を見つけた。

岩の陰に溜まった水だった。少なかった。しかし、あった。

与えるもの

水の匂いを鼻に届けた。

その者の鼻が動いた。集団が東へ折れた。

届いたのか届かなかったのか、それとも誰か別の者が向きを決めたのか。匂いを覚えた鼻は、次に何かを探すとき、また動くだろうか。次に渡すのは匂いではないほうがいい。同じ感覚を二度使えば、鼻が慣れて鈍くなる。

伝播:NOISE 人口:344
与えるものの観察:水の匂いを届けた。鼻が動いた。
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第1200話

紀元前294,010年

第二の星

北の岩盤が、五年をかけて乾いた。

亀裂は静かに広がった。霜が入り込んで割り、熱が割り口を広げた。水が来なくなった岩は、音を立てずに変形した。崖の縁では、去年まで鳥が巣を作っていた張り出しが、今年の初秋に落ちた。午後の光の中で、ただ落ちた。

南の低地では、泥の中に足首まで沈む季節が消えた。以前はそこで鳥が群れた。鳥が消えると、その鳥を食べていた小型の獣が東へ移動した。獣が消えると、大きな獣がその後を追った。何かが去った場所には、別の何かが入ってくる。入ってきたのは、灰色の低い草だった。根が浅く、砂を掴む草だった。

集団は小さくなっていた。

五年前から続いた熱の流行が、夏を三度越えた。死んだ者の多くは小さかった。抱えて運ばれる者と、走り回る年齢の間の者が、特に多く死んだ。生き残った者たちの顔に、同じ表情があった。眼の奥が落ちた、あの表情だった。

遠い東の、川が三本合流する場所では、別の集団が獣の骨を使って地面を掘っていた。球根を取り出すための動きだった。誰かがそれを覚えていて、次の者に伝えていた。

この星は、それを等しく照らした。

与えるもの

水の匂いが、岩の陰から漏れた。

その割れ目のほうへ、日差しの角度が鋭くなった。昼の少し前、岩肌が白く光った。

その者は光に顔を向けた。目を細めた。そして別の方向に向き直った。

——光は、届いたのか、届かなかったのか。

顔が向いた。それはあった。しかし足は動かなかった。顔が向くことと、足が動くことの間にあるものを、与えるものはまだ知らない。次に何を使えばいいのか、光ではないかもしれない。音か。熱か。それとも渇きが深くなるまで待つべきか。

その者(17〜22歳)

背中に揺れがあった。

母の背ではない。男の背だった。汗のにおいがした。揺れるたびに、顔が男の肩骨に押しつけられた。骨が硬かった。その者は顔をずらした。ずらした先に、空が見えた。

白い空だった。

集団は動いていた。足音が多く聞こえていたのが、今は少ない。その者にはそれが何を意味するかわからなかった。ただ、以前は聞こえていた泣き声が、今は聞こえないことを、体が知っていた。何かが減った。

男の背から、午前の光を見た。岩の白い面が、一瞬だけ強く光った。その者は顔を向けた。目が細くなった。

熱かった。

口の中が乾いていた。男の首のあたりに額を預けた。揺れに合わせて、瞼が重くなった。

獣の声がした。遠かった。その者の指が、男の衣の端を握った。握ったまま、揺れの中で眠りに落ちた。

伝播:NOISE 人口:358
与えるものの観察:顔は向いた。足は動かなかった。