2033年、人類の旅

「紀元前294,005年〜紀元前293,885年」第1201話〜第1224話

Day 51 — 2026/05/23

読了時間 約56分

第1201話

紀元前294,005年

第二の星

北の岩が落ちた翌年、雨が変わった。

季節が変わるたびに来ていた雨が、来なかった。空は白く渇き、土は表面から割れた。割れ目は指の幅から手の幅になり、やがて足を踏み外すほど深くなった。川床の石が、去年の夏には水の中にあった。今年はただの石として陽に晒されている。

集団は南へ動いた。

動きは緩やかではなかった。一日で決まった。前の夜まで誰もそこを離れようとしていなかったのに、朝に一人が荷を持って歩き始めると、半数がついた。残った半数は夕方にはいなくなっていた。別の方向へ。

二つの集団になった。

南へ向かった集団は、三日目に別の集団と出会った。川の曲がり角、岩が水を遮っている場所。そこに先客がいた。旧人だった。背が低く、肩が広く、顔の造りが違った。どちらも立ち止まった。どちらも下がらなかった。

最初の夜は火を別々に焚いた。

二日目の朝、旧人の集団の一人が、川の縁で魚を追っていた。その者の集団の若い男もそこにいた。二人は川を挟んで向かい合い、それからほぼ同時に同じ方向へ動いた。魚は逃げた。どちらも笑わなかった。どちらも怒らなかった。

ただ立っていた。

水が減っていた。両方にとって、そこが最後の水場に近かった。緊張は音ではなく姿勢にあった。肩の位置、視線の落とし方、足の向き。言葉はなかったが、互いが読んでいるものは同じだった。

三日目の夜、旧人の集団が上流へ動いた。

その者の集団は残った。誰も追わなかった。誰も喜ばなかった。火の前に座り、それぞれが自分の方向を見ていた。

水は増えなかった。

五日後、集団の中で最年長の女が川縁で倒れた。起き上がらなかった。だれかが近くに来て、しばらく横に座った。それから立ち上がり、集団の方へ戻った。女はそのまま、川の音の中に残された。

東から風が来るようになったのは、その頃だった。

乾いていた風が、少し変わった。水の匂いとは言えない。しかし石の匂いでもない。何かが混じっていた。土が違う場所の匂い。集団の中で、老いた男が一人、東を向いて長く息を吸った。それだけだった。しかし翌日、集団は東へ動いた。

理由は誰も言わなかった。

与えるもの

東の風の中に、腐った葉の湿り気を混ぜた。

その者の集団の中の一人、老いた男の鼻が、それを一瞬止まって吸った。男は翌朝、東へ歩き始めた。集団がついた。

その者を運んでいる腕が、東へ向いた。

渡せたのか。男に渡ったのか、それとも男はもとから東を知っていたのか。問いは残る。しかし次に渡すものは決まっている——東に着いたとき、水の縁に何が生えているか。それを、誰かの目が見るだろう。

その者(22〜27歳)

運ばれながら、東の風を顔に受けた。

目を開けていた。空を見ていた。空は白かった。風が来るたびに鼻が動いた。何かを知っているわけではなかった。

ただ、その顔が東を向いていた。

伝播:HERESY 人口:351
与えるものの観察:腐葉の湿りを、鼻が一瞬だけ覚えた
───
第1202話

紀元前294,000年

第二の星

乾季が三年続いた。

草の根が土の深くへ伸びた。伸びた先にも水がなく、先端が乾いて止まった。地表の亀裂はそのまま残り、雨が来ないから塞がらなかった。この星の上で亀裂はただの亀裂だった。

草原の縁で、細い脚の群れが移動した。二脚の者たちではなく、四脚の者たちだ。水を求めて東へ、北へ。群れの後ろに子が続き、子の後ろに何もなかった。

東の水場は残っていた。水は少なく、縁の泥が広く、深く踏むと足首まで沈んだ。

水場のほとりに、二種類の者たちがいた。体格の違う、二種類の直立する者たち。どちらも水を飲んだ。どちらも飲んだ後に離れた。しかし離れる方向が違った。

北の空に雲が戻り始めた四年目、川床の石のひとつが濡れた。石の表面だけが光った。

五年目の終わりに、川の底で水の音がした。かすかで、耳を地面に近づけなければ聞こえなかった。

与えるもの

水場で、熟れた実が落ちていた。黄色く、潰れて、匂いが強かった。

その者は実を踏んだ。踏んで、次の場所へ向かった。

踏んだのか、踏みたくなかったのかが、わからない。次に渡すべきものは、踏まれる前の実だろうか。それとも、踏んだ足の後ろに残った種の、行方だろうか。

その者(27〜32歳)

二十七歳のとき、その者は水を運ぶ者の後ろを歩いた。

皮袋が重く、揺れるたびに水が少しずつ漏れた。漏れた跡が土に滲み、すぐに消えた。その者は漏れた跡を見ていたが、立ち止まらなかった。

乾いた季節が長く続いた。唇が割れた。割れた隙間に舌を当てると塩の味がした。水場まで遠い日は、集団の子どもたちが泣かずに黙っていた。黙っている子どもたちのそばで、その者も黙っていた。

二十九歳のとき、集団の中に体格の大きな者が現れた。頭の骨の形が違った。眉の骨が厚く、声が低く、言葉を持たなかった。集団の者たちは離れた。その者も離れた。しかし水場では隣に立った。水が少なく、縁は狭く、離れる場所がなかった。

大きな者が水を飲む音を聞いた。喉が動く音だった。その者の喉も同じように動いた。

大きな者は三日いて、いなくなった。

三十一歳のとき、川の底から音がした。その者は地面に耳を当てた。音は続いた。手のひらで土を撫でた。冷たかった。土の下で何かが動いているのかどうか、その者にはわからなかったが、同じ場所にしばらく座っていた。

やがて立ち上がり、集団のいる方向へ戻った。

戻りながら、振り返った。一度だけ。

伝播:NOISE 人口:366
与えるものの観察:踏んだのか、踏みたくなかったのか。
───
第1203話

紀元前293,995年

第二の星

乾季が終わった。

草が戻らなかった場所がある。亀裂の入った土は固まったまま、根が入り込む隙間を作らなかった。水が来ても跳ね返り、流れ去った。乾いた土のまま残った場所に、別の何かが生えた。低く、小さく、灰色がかった葉の草だった。

その草の根は岩の隙間へ向かった。

北の湿地では、浅い水たまりに虫が湧いた。その虫を食う鳥が集まった。鳥の糞が土に落ち、別の草の種が運ばれた。そこには誰もいなかった。

人の集まりは三つあった。川沿いの低地に多く集まる者たち、岩場の陰に拠点を持つ者たち、そしてその間を動き続ける者たち。三つは互いを知っていた。知っていたが、近づかなかった。

その距離が縮まっていた。

乾季の三年で食料が減った。拠点の間の空白地帯が狭くなった。出会いの数が増えた。出会いのいくつかは、静かに終わらなかった。

遠くの岩場で、煙が上がった。火を使う者がいた。

煙は空に広がり、散った。

この星はそれを記録しない。ただそこにあるだけだ。

与えるもの

三十年。

熱が波のように押し寄せる前日、空気の温度が変わった。夜よりも朝の方が重くなる、そういう変わり方だった。その変わり目に、匂いが漂った。腐った甘さではなく、金属に似た、土と湿気が混ざったような匂いだ。

それをこの者の皮膚の近くに置いた。

何度か届いたことがある。光が岩に落ちた日、風が向きを変えた朝。この者は向いた。向いたことで、何かを生き延びた。

今度は向かないかもしれない。

三十年で初めて、渡すものが届くかどうかではない問いが浮かんだ。届いたとして、それでこの者が生き延びたとして、それはこの星の人々にとって何になるのか。

渡す。それだけだ。次に渡すものを考えながら、渡す。

その者(32〜37歳)

運ばれている。

揺れる。止まる。また揺れる。

担ぐ者の肩甲骨が動くのがわかる。皮膚越しに骨の形が伝わってくる。その骨が揺れるたび、世界が揺れる。空が動く。枝が動く。

熱がある。腹から首の付け根に向かって這い上がってくる感覚。飲み込もうとしても喉が開かない。

声が出た。

喉の奥から出た音だ。担ぐ者が立ち止まった。背中が緊張した。また歩き始めた。

集団が移動していた。何かから遠ざかるように速い。足音が地面を打つ。いくつかの足音が重なり合い、揃わない。子供の泣き声が一つ、途切れた。

朝、空気の匂いが変わった。

その者には匂いとして届かなかった。ただ何かが、喉の奥を通るように感じた。胸ではなく、もっと奥の、骨に近いところ。

熱の中でそれを感じた。

担ぐ者が岩の陰で止まった。その者を下ろした。地面が固かった。背中から固さが伝わった。空が見えた。

雲があった。

雲の形を目で追った。目だけが動いた。体は動かなかった。

また熱が上がった。

骨に近いところの感覚は、もうなかった。

三日後、その者の集団は岩場の者たちと接触した。押し返された。二人が戻らなかった。その者は熱の中にいて、それを知らなかった。

五日後、その者はまだそこにいた。

熱が下がらないまま、目が開いていた。雲を見ていた。雲は形を変え続けた。その者はそれを見続けた。何かを見ているというより、何かに見られているようだった。

岩の角に頭をぶつけながら倒れた。

音がした。

誰かが来た。覗き込んだ。また去った。

地面の固さだけが残った。

伝播:HERESY 人口:357
与えるものの観察:届かなかった。それでも次を渡す。
───
第1204話

紀元前293,990年

その者(37〜42歳)

運ばれていた。

腕の中。揺れる。上下に。歩く者の息が荒い。

その者は何も知らない。腕が揺れることが世界だった。揺れが止まれば世界が止まった。

太陽が高かった。光が刺さった。その者は目を細めた。細めることを知っていた。生まれた時から光は刺さっていた。

口が動いた。音が出た。腕の持ち主は応えなかった。

前を向いていた。歩くことに使っているものを、応えることに使えなかった。

地面が割れていた。その者には見えなかった。腕の高さからは空だけが見えた。空と、揺れる肩の向こうの空と。

喉が渇いた。

音を出した。長く。尻が上がるように身体を折った。腕の中で丸くなった。

歩く者の歩みが速くなった。

においがした。土のにおいではなかった。乾いた何か。石が焼けるにおい。草が焼けるより前の、草がもう草でなくなったにおい。

その者は鼻を動かした。

においは消えた。

また口が動いた。今度は音が出なかった。口だけが動いた。舌が上顎に触れた。触れて、離れた。それだけだった。

夜、地面に置かれた。硬かった。腕の中より硬かった。隣に熱いものがあった。火だった。その者は火を知っていた。赤いものが熱いことを身体が知っていた。

近づかなかった。

遠ざかろうとした。地面を手で押した。腕で押した。動かなかった。

泣いた。

誰かが来た。暗い中で手が来た。手は大きかった。背中に当てられた。背中が温かくなった。

泣き声が小さくなった。

消えた。

夜の途中で、その者は眠った。眠ることと死ぬことの区別を、その者はまだ持っていなかった。目を閉じれば世界は消えた。消えれば同じだった。

朝、世界が戻った。

腹が空いていた。空が白かった。

腕が来た。また揺れが始まった。また上下に。

その者は口を開けた。空に向けて。

何も落ちてこなかった。

口を閉じた。また開けた。

空は白いままだった。

第二の星

雨が来なかった。

水脈が細くなり、やがて地面の下に消えた。草の根が届かない深さまで。茎が立ったまま折れた。種を作る前に折れた。獣は草を追って移動した。草がなくなる前に移動した。集団は獣を追えなかった。足が遅かった。子を抱えていた。年老いた者を支えていた。

大地の至る所で土が割れた。亀裂は縦に走り、岩盤まで届いた。雨を蓄えるはずだった土の層が、雨が来る前に空洞になった。来ても吸わなかった。跳ね返した。乾いたまま固まった地面に水は滲みなかった。

集団の半数近くが消えた。最初に幼い者が消えた。次に年老いた者が消えた。若い者も、体に傷を持っていた者も。水がなければ傷は治らなかった。

集団は動いた。水を求めた。動くことが水を連れてくるわけではなかった。しかし止まることは確かに水を消した。だから動いた。

遠い場所、川が大きくなっている地域があった。雪が溶けた。高い山の端が崩れ、水を蓄えていた土が解けて流れた。川は濁り、その岸に大型の獣が集まった。人の形をしたものも集まった。人とは少し違う形をしていた。

始まりの大地では、そのことを知っている者はいなかった。

与えるもの

腕の中の者に、光の落ちる場所を示した。

その者の顔が向いた。何かを見た。見て、口を開けた。

空に向けた口は、まだ何も受け取れる形をしていない。それでも向いた。それで十分か。十分ではないかもしれない。だが渡し続ける。届かなかった記憶が幾つあっても、渡し続ける。顔が向いた。それを覚えておく。

伝播:NOISE 人口:203
与えるものの観察:顔が空に向いた。それだけを覚えておく。
───
第1205話

紀元前293,985年

第二の星

始まりの大地の北に、岩の裂け目が走っている。去年より広い。雨が来ない季節が続いた跡だ。地面は白く粉を吹き、草の根が土の上に剥き出しになっている。

集団の南側、谷を挟んだ向こうに、別の群れの気配がある。背の低い、毛の濃い者たちだ。こちらの集団より小さい。水場を知っている。それだけは確かだ。両者は近づかない。近づかないが、どちらも相手の存在を知っている。

北の岩稜では、単独の男が横たわっている。腹が動いていない。乾いた草の上に、手が開いたまま残っている。

西の低地では、火が三日続いた。自然火だ。煙が風で運ばれ、始まりの大地の縁に届いた。獣が逃げた。それを追った者が二人、戻らなかった。

集団の中で何かが変わっている。声の向きが変わった。夜、火を囲む位置が変わった。特定の者の近くに人が集まらなくなった。

東に向かう足跡が、途中で消えている。

第二の星は照らす。判断しない。どの命も、どの痕跡も、同じ明るさで。

与えるもの

その者の耳の近くで、風が方向を変えた。

西から来ていた風が、一瞬、東を向いた。腐った草の匂いでも、煙の匂いでもない。何もない方向の匂い。開いた場所の匂い。

その者がそれを感じたかどうかは、わからない。

しかし渡した。渡したことは確かだ。

以前、似たものを渡した。光が落ちた。風が向いた。耳が川底に触れた。どれも届いたかどうかわからなかった。形を変えて広がっていくとしても、それがこの者を通じてかどうかは、まだわからない。

次に渡すものがあるとすれば、それは逃げる方向ではなく、止まる場所かもしれない。

その者(42〜47歳)

腕の揺れが消えた日があった。

地面に置かれた。土は硬く、冷たかった。その者は泣かなかった。泣く力がなかったのか、泣く理由がわからなかったのか、その者自身にもわからない。

運んでいた者が立ち上がる気配があった。足音が遠ざかった。

空が白かった。雲はない。光が均一に降っていた。その者の目は光の中で閉じかけ、開いた。閉じかけ、開いた。

風が来た。西から。一瞬だけ、東を向いた。

その者の鼻が動いた。

何もない方向の匂い。その者にそれを解釈する言葉はない。匂いは匂いのまま来て、消えた。

しかし体が少し、東を向いていた。

足音が戻ってきた。また腕に抱え上げられた。揺れが始まった。その者は揺れの中に戻った。

夜になった。火の近くに置かれた。声がいくつかあった。高い声、低い声、途切れる声。その者はそのいくつかを聞き分けていた。特定の声が止まると、体が緊張した。その声が再び来ると、体が緩んだ。

名前はない。しかしその声は、その者にとって世界の一部だった。

三日後、その声が来なくなった。

その者は火の光の中で口を開いた。声が出た。出続けた。誰も来なかった。

声は夜の中に散った。

伝播:HERESY 人口:203
与えるものの観察:風の向きが変わった。届いたかもしれない。
───
第1206話

紀元前293,980年

その者(47〜52歳)

運ばれている。

誰かの胸に顔を押しあてて、その体の揺れに揺れている。歩く音が伝わってくる。骨から骨へ。

その者はもう何日も、地面を踏んでいない。

脚が動かなくなったわけではなかった。ある朝、立てなかった。膝が折れたのではなく、立つという方向が、わからなくなったのだ。仰向けに寝ていると、空が近かった。いつもより近かった。

集団の誰かが、その者を背に負った。交代しながら、運んだ。

谷の向こうの気配は続いていた。風が来ると、知らない匂いが混じった。集団の中で、声が短く交わされた。その者にはもう聞き取れなかった。音として届いても、意味のある方向へ向かわなかった。

運ばれながら、その者は口を開けたり閉じたりした。喃語でも泣き声でもなく、ただ開いて、閉じた。

夕方、運んでいた者が立ち止まった。

岩の陰に、その者を下ろした。地面は硬かった。乾いた土が指の間に入った。その者の手が、ゆっくり土を握った。力は入らなかった。ただ、手が、そこにあった。

誰かが隣に座った。

その者は目を開けたまま、空の端を見ていた。光が薄くなっていくのを、見ていたかどうかわからない。

風が止まった。

体から、揺れが消えた。もう、歩く振動が伝わってこない。その者の手が、土の上で開いた。

第二の星

同じ刻、北の岩原では、別の群れの若い者が石を投げて石に当て、火花が散るのを初めて見ていた。笑った。もう一度投げた。火花はまた散り、草の端が黒くなった。若い者は立ち上がり、走り去った。草はしばらく、くすぶっていた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:SILENCE 人口:225
与えるものの観察:届いたかどうかを、まだ問うている。
───
第1207話

紀元前293,975年

第二の星

干ばつは明けた。

雨がやってきたのは、ゆっくりとではなかった。岩の割れ目から草が押し出されるように、空が裂けた。三日続いた雨は川を濁らせ、川は低地を飲んだ。溺れた小獣の腹が白く浮いた。

集団は高い場所へ移った。岩棚の下に体を寄せ合い、火を絶やさぬよう交代で起きていた。火のまわりに並んだ足は、大きい順ではなく、強い順でも年寄りの順でもなく、ただ入れる場所に入った順だった。

遠くの平地では、別の群れが移動していた。背が低く、腕の長い彼らは崖の縁を歩くように移動した。足跡がぬかるみに残り、雨に溶けて消えた。どちらの群れも互いを見ていなかった。見えていたかもしれない。見なかっただけかもしれない。

川の上流、岩が折り重なる急斜面に、この五年で生まれた者たちがいた。うち半数は名も呼ばれないまま地に還った。残った者たちは、それを嘆く言葉を持たなかった。ただ、消えた場所を避けるようになった。なぜかは知らないまま。

雨の匂いが草の腐った匂いに変わるころ、集団の中で緊張が走った。食い物の分け方をめぐって、二人の男が互いの胸を押した。どちらも退かなかった。誰も止めに入らなかった。老いた女が火のそばから立ち上がり、その間に入った。

静かになった。

与えるもの

糸が繋がった。

この者はまだ何も知らない。それでいい。

水たまりに光が落ちた。虫が一匹、水面を走った。足の先で水が割れ、また戻った。

この者が足を止めた。虫を踏もうとして、しなかった。

なぜしなかったのかを、この者は知らない。

踏まなかった理由が、いつか何かになるかもしれない。あるいは何にもならないかもしれない。どちらでも渡し続ける。今度は別のものを準備している。

その者(12〜17歳)

干ばつが終わって最初の雨の日、その者は荷を運ぶ列の最後尾にいた。

背に積まれたのは獣皮を丸めたものだった。重さよりも、端が首に食い込む感じが嫌だった。その者は首を傾けて食い込みを逃しながら歩いた。

前を行く大人の踵が泥を跳ね上げた。腿に泥が貼り付いた。

拭こうとして、止めた。どうせまた跳ねてくる。

岩棚の下に着くと、荷を降ろすよう顎で示された。その者は降ろした。他の荷の横に並べた。端が少しはみ出した。それを直す者は来なかったので、その者がもう一度直した。

夜、火の端に座った。

老いた女が何かを言っていた。音は聞こえたが、その者には意味がとれなかった。大人の使う音の連なりは、まだところどころ抜けている。その者の口から出てくる音は短く、一個ずつ独立している。

眠れなかった。

雨の音が岩棚の端で折れるように鳴っていた。その者は膝を抱えた。指先が冷たかった。火のほうへ体を向けた。

水たまりに光が落ちた場面が、くり返し頭の中に戻ってきた。

虫がいた。踏まなかった。

なぜ踏まなかったのか、その者には音がなかった。問いを作る言葉がないので、問いにもならなかった。ただ、水面が元に戻る様子だけが、繰り返し浮かんだ。

火が揺れた。その者は目を細めた。

伝播:NOISE 人口:241
与えるものの観察:踏まなかった。それだけが残った。
───
第1208話

紀元前293,970年

第二の星

雨が止んで、地が乾く前に緊張が来た。

低地の集団と丘の集団のあいだには、もともと言葉がなかった。互いの声を聞いたことがある、という程度の距離だった。干ばつのあいだ、その距離が縮まった。水場が一つになったからだ。片方が先に飲み、片方が待つ。待つあいだに、腹が鳴った。鳴った音を聞かれた。それだけで、何かが傷ついた。

雨は、その傷を洗わなかった。

川が水を取り戻すと、両者は同じ川岸に立った。上流と下流に分かれたが、岸は続いていた。下流の者は、上流で何かが捨てられるのを見た。腐った獣の骨か、排泄物か、正確にはわからなかった。しかし体が反応した。怒りではない。もっと古い何かだった。

丘の集団の中に、旧人が混じっている。正確には、旧人の血を引く者がいる。額の幅が広く、眉の上の骨が厚い。走ると速い。寒くても震えない。集団の中では普通に動き、荷を運び、火の番をする。特別扱いはされていないが、見られていた。常に、どこかから、見られていた。

低地の集団に、その者を見る目がある。

言葉はない。しかし指はある。指の先が向く方向がある。声の高さが変わる瞬間がある。集団の中で何かが決まるとき、言語は要らない。体の向き、視線の重なり、息の変わり目。それで十分だった。

旧人の血を引く者が、川で水を汲んでいた。

低地の集団の若い男が三人、その下流に現れた。何も言わなかった。川を渡らなかった。ただ立っていた。

旧人の血を引く者は、水を汲み終えて、戻った。振り返らなかった。それが賢明だったか、そうでなかったかは、後からでないとわからない。

夜、丘の集団の火の周りで、何かが決まった。声は低く、短かった。身振りは少なかった。それでも決まった。

どこかで何かを知りすぎた者がいる、という感覚。集団の中で、その感覚は言語より速く伝わる。誰が知りすぎたか、正確には誰も言えなかった。しかし体は選んだ。選ばれた者は、まだそれを知らない。

空は晴れていた。雨上がりの星が、岩肌にまで届くほど強く光っていた。川の水は透明に戻りつつあった。地に水が戻り、草が芽吹き始め、集団の腹が満ちようとしていた。その同じ夜に、選別が始まっていた。

世界は何も変えない。晴れることと、誰かが選ばれることは、同じ夜に起きる。

与えるもの

川岸の泥に、足跡が残っていた。

三人分と、一人分。三人は上流から、一人は丘から。

温度が違った。三人分の跡は、朝の冷気の中でもまだ少し柔らかかった。夜のうちにつけられたものだ。一人分の跡は、もう固まっていた。

その者の足が、泥の端に触れた。体の底で、何かが動いた。

足を止めたか、続けたか。

私はこれを渡した。足跡の温度の差を。渡したことで、私の中に問いが残った。知ることと、逃げることの間には、何があるのか。次に渡すべきは、速さか、方向か、それとも留まることか。

その者(17〜22歳)

荷を背負って川岸を歩いた。

泥に足が沈んだ。引き抜いた。また沈んだ。

足跡が並んでいた。止まって、見た。指でなぞった。冷たいのと、そうでないのがあった。

なぜ違うのか、その問いを作る言葉を、この者は持っていない。

ただ、胸の奥で何かが速くなった。荷を置かずに、走った。

伝播:HERESY 人口:245
与えるものの観察:足跡の温度が届いた。走った。それだけ。
───
第1209話

紀元前293,965年

その者(22〜27歳)

荷が重かった。

皮と骨でできた袋を背に結わえて、その者は走っていた。走る、という言葉をその者は持っていなかったが、足が速く動いていた。

丘の端から低地を見下ろすと、動くものがあった。

集団の大人たちが三人、低地の岸辺に立っている。向こうに五つの影がある。五つの影は石を持っている。大人たちも石を持っている。

その者には状況がわからなかった。

わからないまま、袋の中の干し肉が肋骨に当たるのを感じながら、立ち止まった。

夜、火の傍で大人たちが声を上げた。単音が重なった。その者には半分しか聞き取れなかったが、低地の集団の話をしていることはわかった。誰かが地を叩いた。誰かが立ち上がった。

その者は端に座っていた。

翌朝。その者が水場に行くと、低地の集団の子が一人いた。その者より小さかった。子は石を持っていた。その者も石を持っていた。

二人は動かなかった。

子が先に動いた。石を置いて、水を飲んだ。その者は子の背中を見ていた。子は立ち上がり、走り去った。

その者は水を飲まなかった。

気候が安定した五年だった。

草の根が深く張り、獣が増え、子が育った。集団は腹を空かせることなく眠れた。数年前の干ばつは遠い記憶になっていった。

しかし、豊かさは別の問いを生んだ。

どこまでが自分たちの水場か。どこまでが自分たちの草地か。言葉で線を引けないから、体で線を引いた。

その者は何かを知っていた。

子どもが石を置いた、その場面を。それだけを。

大人たちはその夜も集まって声を上げた。その者は外に出て、星を見た。見上げるということを知っていた。なぜ知っていたかは知らなかった。

三日後、その者はいなくなった。

荷を持ったまま、川の上流の方に向かったきり、戻らなかった。誰かが呼んだかどうかは、残った者たちの記憶から消えた。

第二の星

その五年間、「始まりの大地」には長い凪が続いた。

雨は季節ごとに降った。草地は広がり、水は濁らなかった。獣の通り道が安定し、集団はそれを覚えた。子が死なずに育ち、老いた者が次の雨季まで生きた。

集団が大きくなるにつれ、動ける範囲が広がった。移動の先で、別の集団の痕跡を踏んだ。焚き火の跡、食いちぎられた骨、踏み固められた土。言葉は届かなかったが、体の痕跡は届いた。

豊かさの中で、緊張が育った。

同じ水を飲む二つの集団は、言葉を持たないまま近づきすぎた。石を持ったまま立ち止まることができた世代があった。しかし、それを記憶に変える手段を持たなかった。

同じ頃、遠く離れた乾いた高地では、旧人の集団が峡谷沿いに移動していた。水の匂いを追って歩いた。彼らも石を持っていた。彼らも空腹ではなかった。それでも歩いた。なぜ歩くのかを問う言葉は、彼らにもなかった。

「始まりの大地」では、一人が消えた。

川の上流へ。荷を持ったまま。戻らなかった。

この星は何も急がなかった。

与えるもの

その子が石を置いた音がした。

この者の耳の穴の奥で、その音が少し長く残った。

この者は水を飲まなかった。石の音を持ったまま立っていた。

それで充分だったかどうか、私にはわからない。渡したのは音ではなく、止まる、という何かだったかもしれない。石を置くことと、石を持ち続けることの間に、空白がある。この者はその空白の前に立った。

次に誰かに渡すなら、空白の形を渡せるだろうか。

伝播:HERESY 人口:303
与えるものの観察:石を置く音が、この者の中で長く鳴った
───
第1210話

紀元前293,960年

その者(27〜29歳)

腹が鳴らなくなった日から、足が重くなった。

荷はなかった。背に結わえる皮袋も、運ぶべき骨も。集団の大人たちはもう荷を渡さなかった。渡しても無駄だと、彼らは知っていた。その者の足が、坂の途中で止まるようになったから。

草の根を嚙んだ。繊維が歯の間に挟まった。汁だけが喉を通り、あとは吐き出した。

岩の陰に座ると、日差しが腿に落ちた。温かかった。その者は目を細めた。

三日前、集団の誰かが声を上げた。その者に向けた声ではなかった。その者がいる方向に向けて何かを叫び、大人が一人、近づいてきた。その者の腕をつかんで引き、少し離れた場所へ連れていった。そこで何かを言った。その者には単語がいくつかわかった。食べ物、遠い、行くな。

行くなのか、行けのか、その者にはわからなかった。

翌朝、その場所に食べ物はなかった。その者は戻った。集団の野営地には煙があった。近づくと、誰かが石を投げた。当たらなかった。もう一度近づくと、また投げた。

その者は止まった。

煙の匂いが風に乗って届いた。脂の焼ける匂いだった。腹の奥が締まった。その者は匂いの方を向いたまま、しばらく動かなかった。

それから岩の陰に戻った。

陽が低くなってから、乾いた地面に横になった。背中の下に小石が一つあった。痛かったが、退かさなかった。退かすだけの力が、そこに向かわなかった。

空に鳥が一羽、弧を描いた。

その者は鳥を目で追った。鳥が消えた後も、しばらくその方向を見ていた。

やがて目が閉じる前に、腕が土を搔いた。爪に赤土が入った。それで止まった。

第二の星

赤い岩肌が続く台地の端で、子どもが二人、砂を掌に乗せて吹いていた。砂が散った。また掬った。また吹いた。それを繰り返していた。台地の下では大人たちが獣の皮を引っ張り合い、端を石で押さえ、乾かしていた。風が強くなってきた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:298
与えるものの観察:石を置く前に力が尽きた。それだけ。
───
第1211話

紀元前293,955年

第二の星とその者(0〜5歳)

乾季の終わりに、雨が来なかった。

大地の北に連なる丘陵は赤く裸のままで、草の根も獣の足跡も、熱に焼かれて薄くなっていた。集団は川沿いに張りつくように動いていた。少人数ずつ分かれ、また集まり、また分かれた。前の世代が倒れた場所からまだ遠くない。

その者が生まれたのは、その集団の移動が止まった夜だった。

母の傍らで、誰かが火を抑えた。煙が横に流れた。泣き声がひとつ、夜の底に落ちた。細く、しかし止まらない声だった。

集団の者たちは顔を向けなかった。向ける余裕がなかったのではない。泣き声は以前にも何度も聞いた。生まれて三日で消えることを、彼らは知っていた。声が続くかどうか、それだけを聞いていた。

翌朝、その者はまだ泣いていた。

北から乾いた風が吹き続けた。丘の影が地面を長く横切り、やがて縮んだ。日が高くなるにつれて、地面からの熱が足首に絡みついた。集団は水場を変えた。前の水場は涸れていた。

その者は、誰かの腕の中で揺れていた。

揺れることが世界のすべてだった。揺れ、止まり、揺れる。熱い肌と、乾いた布と、時おり胸に押しつけられる感触。腹が満ちることもあれば、満ちないこともあった。満ちない日は声が出た。声を出すと何かが変わることもあれば、変わらないこともあった。

一歳になる前に、集団の子どもがひとり消えた。二歳になる前に、もうひとり。

大地は少しずつ湿りを取り戻していた。遠い雨の匂いが、風に混じり始めた。丘の北側に草が戻ってきた。獣の足跡が増えた。水場に水鳥が来た。集団は移動を緩め、同じ場所に何日も留まるようになった。

その者はよちよちと歩き始めた。

石があった。踏んだ。冷たかった。拾った。重かった。置いた。また拾った。口に入れた。誰かに取り上げられた。また拾った。

三歳のころ、その者は火の側に座ることを覚えた。大人たちが火を扱う様子を見ていた。見るだけで、近づきすぎなかった。一度、指が火の縁をかすめた。声を上げた。それ以来、一定の距離を保つことを知った。知ったと言えるほどのものではなかったが、体が覚えた。

光がある朝、地面に落ちた。

その者の足元、乾いた土の上に、石がひとつあった。昨日もそこにあったかもしれない。その者には分からなかった。しかし今朝の光の角度が、その石の影を長く引いた。影が動いた。その者は目でそれを追った。

石を手に取った。

重さを感じた。両手で持った。地面に打ちつけた。音がした。また打ちつけた。欠けた。欠けた破片を見た。指で触れた。鋭かった。

四歳になった年の終わりに、集団の中で高齢の者がひとり、眠るように動かなくなった。動かなくなった者の傍らに半日、集団の者が集まって、それからまた散っていった。

その者はその様子を遠くから見ていた。

近づかなかった。理由は分からなかった。ただ、足が動かなかった。

五歳の雨季に、集団は少し増えた。新しい声が夜に加わった。その者はもはや一番幼くなかった。

与えるもの

糸が繋がった。

石の影が動いた。その者の目がそれを追った。

光をそこに落とした。石の影が長く伸びるように、朝のうちに。

その者は石を拾い、打ちつけた。欠けた破片を指で確かめた。しばらく握ったまま、また地面に置いた。

渡ったのか。渡らなかったのか。握ったこと、それは事実だ。けれど翌日、その者はその石を別の子どもに投げた。

投げた先に何があったか、この者は気にしなかった。

次に渡すべきものを、探している。

伝播:SILENCE 人口:313
与えるものの観察:石の影を追う目があった。
───
第1212話

紀元前293,950年

第二の星

雨季が来た。

北の丘陵から水が流れ下りてきた。赤土が崩れ、細い筋になり、低地の乾いた地面を叩いた。最初の一日、土は雨を飲み込むだけだった。二日目、水が表面に残るようになった。三日目、川が戻った。

川が戻ると、集団は動いた。

散らばっていた者たちが、水音を頼りに集まってきた。干からびた葦の根元を掘る者。獣の跡を追って上流へ歩く者。幼い者を背に括りつけたまま、岸に膝をついて水を飲む者。水の匂いが大地に満ちると、体が動き方を思い出すようだった。

旧人たちも来た。

体の大きな、肩の厚い者たちが、川の反対岸に現れた。四人、あるいは五人。こちらを見ていた。こちらも見た。

集団の中で最も年嵩の雄が、前に出た。声を出した。高く、短く。旧人の一人が応えた。低く、長く。二つの声が川面の上で交わった。それだけで、どちらも動かなかった。

しばらくして、旧人たちは上流へ歩いていった。

集団は水を飲み続けた。

幼い者たちが土の上で転がった。草の新芽を噛んだ者がいた。苦くて吐き出した。また拾って、また噛んだ。川の浅瀬に入った二人が、魚の影を追って転んだ。笑い声に似た音が上がった。笑いという言葉はまだない。しかし体が揺れ、口が開き、息が弾んだ。

夕方、集団の端で一人の若い雌が座り込んだ。

腹が大きかった。乾季の間も大きかったが、今はさらに低く垂れていた。周囲の者が近づいた。離れた。また近づいた。年嵩の雌が一人、そばに座った。何もしなかった。ただ隣にいた。

夜が来る前に、声が上がった。

短く、高く、繰り返す声だった。その声が止まったとき、別の声が始まった。か細く、しかし止まらない声が、川の音の中に混じった。

新しい命が、雨季の最初の夜に来た。

しかし若い雌は、夜明けを見なかった。体から力が抜け、そのまま地面に横たわった。年嵩の雌が、新しい命を胸に抱いたまま、夜の間中そこを離れなかった。

夜明けに、集団の人数は変わっていなかった。

川は流れ続けた。新芽が風に揺れた。水音だけが、朝の空気の中にあった。

与えるもの

川岸の草の中に、細長い骨の欠片があった。獣のものか旧人のものか、それはわからない。風が草を分け、その骨の欠片に光を落とした。縁が薄く、白く光った。

その者は川の縁に座っていた。骨の欠片の側に、光が来た。

その者は見た。それから川の方を向いた。

骨の縁に光が当たれば何かが変わったかもしれない。しかし何が変わればよかったのか、それが問いとして残った。次に渡すべきは、見ることではなく、拾うことかもしれない。

その者(5〜10歳)

川の音が大きかった。

その者は膝を抱えて岸に座っていた。腹が鳴った。草の新芽を一本引き抜いて、嚙んだ。苦かった。飲み込まなかった。

夜、どこかで声が上がった。細く、止まらない声だった。その者はその声の方を向いた。それから川の方を向いた。どちらも暗かった。

伝播:SPREAD 人口:333
与えるものの観察:光を落とした。見た。それだけだった。
───
第1213話

紀元前293,945年

第二の星

川が戻った。

低地の草が水を吸い、茎を立て直した。泥の表面に小さな穴が開き始めた。虫が土の中から出てくる穴だ。鳥がそれを知っていた。水辺に降り、土を突いた。

同じ頃、丘の向こうでは別の集団が動いていた。乾期に散り散りになっていた者たちが、川の気配を嗅ぎつけて戻ってきていた。足跡の方向が、複数の場所から低地へ向かって収束していた。

遠く東の台地では、旧人の群れが動物の骨を積んでいた。目的は星にはわからない。ただ積んでいた。

南の海岸沿いでは、潮が引いた砂浜に貝が露出していた。誰もいなかった。踏まれた跡もなかった。

川沿いの集団は、水が戻るとすぐに動いた。飲んだ。顔を浸けた。子どもたちが川の中に入り、腰まで濁った水に立った。

緊張はまだ消えていなかった。川の上流から、知らない影が降りてきた。背の高い者だった。止まった。こちらを見た。集団の中の一人が石を持ち上げた。

風が川面を横切った。

与えるもの

光が水面を跳ねた。岸の石の角に、一瞬だけ白く集まった。

その者の目が、石を持ち上げた者の腕へ向いた。

その腕は投げなかった。

渡ったかどうかはわからない。ただ、石は置かれた。次に渡すべきものが何かは、まだわからない。問いはそこにある。

その者(10〜15歳)

川に入った。

水が足首を包んだ。冷たかった。泥が足の下で動いた。一歩踏み出すたびに、足が少し沈んだ。

岸に大人たちがいた。その者は振り返らなかった。水の中だけを見ていた。水底の石が見えた。丸かった。手を伸ばして拾い上げた。ずっしりとしていた。表面がぬるりとした。

誰かが声を上げた。

その者は顔を上げた。

川上に影があった。一つ。動いていない。

大人が一人、岸から前に出た。石を持っていた。その者は水の中から、それを見ていた。手の中の石を、少し強く握った。

風が上流から吹いた。

大人の腕が下がった。石が足元に置かれた。

影はしばらくそこにいた。それから向きを変え、丘の方へ歩いていった。背が木立の向こうに消えた。

誰も何も言わなかった。

その者は水の中にいた。手の中の石はまだ濡れていた。置く気になれなかった。そのまま岸に上がり、石を握ったまま草の上に座った。

乾くまで、そうしていた。

伝播:DISTORTED 人口:343
与えるものの観察:石を置いた。投げなかった。それだけだ。
───
第1214話

紀元前293,940年

第二の星

草原の西、川が大きく折れる場所で、二つの集団が水を争った。

一方は岸の高い側を占めていた。石を持っていた。声が大きかった。もう一方は低い側から川面を見上げていた。子どもを連れていた。年寄りがいた。足が遅かった。

水は同じ川から流れていた。

高い側の集団が石を投げた。低い側の一人が倒れた。立ち上がらなかった。残りは川を渡らずに引いた。

その夜、遠く南の丘の上では、別の集団が火を囲んでいた。誰かが皮を叩いていた。規則的な音ではなかった。止まり、また始まった。叩きながら眠ったのか、朝になると音は止んでいた。皮だけが地面に残っていた。

川の折れる場所では、倒れた者がまだそこにいた。水が脇を流れていた。

与えるもの

熱が残っていた。

その者が川から離れて岩場に入ったとき、日の当たっていた岩の面から、まだ熱が出ていた。掌を近づければわかるほどの。

その者は岩に背中を押しつけた。そこで止まった。

熱を感じるということと、熱を持つ岩が夜も冷えないということ。この間に何かある。届いたかどうか、わからない。ただ、次に渡すのは冷える前の時間だと思った。暗くなる前の、あの短い時間を。

その者(15〜20歳)

川の音が聞こえる場所から離れた。

走ったわけではない。足が川と反対の方向へ動いた。それだけだ。

岩場に入ると、音が変わった。草の音がなくなった。自分の足音だけになった。

大きな岩の前で止まった。岩は自分の倍より高かった。

背中を岩に当てた。

熱かった。

岩が熱いとは思っていなかった。体が驚いた。離れようとした。しかし離れなかった。

熱が背骨のあたりに入ってきた。そのまま立っていた。目は川の方を向いていたが、何も見えなかった。暗くなっていた。

腹が鳴った。

食べていなかった。朝から何も口に入れていなかった。だが腹が鳴ったとき、初めてそれに気がついた。

岩の熱が少しずつ薄れていった。

その者は岩から離れた。地面にしゃがんだ。石ころを一つ拾った。放った。カツン、と音がした。また拾った。また放った。

その繰り返しが、いくつか続いた。

伝播:NOISE 人口:362
与えるものの観察:熱は岩に残る。それを背中で知った。
───
第1215話

紀元前293,935年

その者(20〜25歳)

集団の端で育った。

腕の中にいるだけだったころから、ずっと端だった。母親が早く死んだからでも、顔が変だったからでもない。ただそういう場所にいた。誰かが押したわけでもなく、気づけばそこにいた。

川沿いを移動するとき、その者はいつも列の後ろを歩いた。前の者が踏んだ土を踏んだ。前の者が折った草を踏んだ。それで十分だった。

集団が川の曲がり角で別の集団と向き合ったとき、その者は低い位置にいた。石を持つ側ではなかった。水を飲む側だった。

何かが見えた。

岸の高い側の男が、水ではなく別の何かを持ち帰るのを見た。赤い布ではない。皮でもない。それが何かはわからなかった。ただ見た。それを持つ者が、夜、別の者に渡すのも見た。渡された者がそれを胸の下に押しこんでいるのも見た。

見てはいけなかった。

それが見てはいけないものかどうか、その者には判断できなかった。判断する言葉がなかった。ただ見た。

翌朝、風が南から吹いた。乾いた風だった。その者の背中の毛が逆立った。岩の陰に温度の変わる場所があった。その者はそこへ歩いた。理由はない。足がそちらへ向いた。

岩の割れ目に、骨が一本あった。

古い骨だった。獣の骨か、別の何かかわからなかった。その者はしゃがんで触れた。冷たかった。手の甲がひんやりとして、それが気持ちよかった。

その者は骨を置いた。また拾った。

岩に打ちつけてみた。乾いた音がした。もう一度打った。

高い側の男が近くに立っていた。

いつからそこにいたのかわからなかった。その者は立ち上がった。男は何も言わなかった。その者も何も言わなかった。ただ目が合った。

夕方になっても、その者は集団の中に戻らなかった。

崖の下の水たまりに、顔を半分つけたまま倒れているのを、小さな子どもが見つけた。傷があった。後頭部に。石の縁のような形の傷が。

子どもは声を上げた。誰かが来た。その者の体を引き上げた。

重かった。それだけだった。

第二の星

草原の北で、旧人の一群が樹の実を嗅いでいた。腐ったものと腐っていないものの境目を鼻で確かめながら、ひとつずつ拾い、ひとつずつ捨てた。その夜は風がなかった。星が多かった。どちらの集団もそれを見ていなかった。ただ空にあった。

与えるもの

骨の冷たさ、あれが最後に届いたものだった。次の糸は、別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:354
与えるものの観察:見てしまった者が、見られていた
───
第1216話

紀元前293,930年

与えるもの

届いた。
この者は知らない。

五年が経った。

渡した記憶がある。光を落とした場所、風の向き、土の匂いが変わった瞬間。渡したことは覚えている。届いたかどうかを、今は問わない。

旧人たちの影が長くなる季節だった。彼らは背が低く、肩が広く、別の火を持っていた。この集団の端にいた者と、旧人の若い雄が、川を挟んで互いを見た日があった。どちらも石を持っていなかった。ただ見た。

私はその場所に光を落とした。水面が揺れた。どちらの目にも届いたと思う。

しかし何も起きなかった。
それで良かったのかもしれない。

集団の緊張が高まっているのを知っている。知りすぎた者が消されることも。この者が端に生まれ、端で育ち、端から見てきたことを、集団の中心にいる者たちは好まない。見えすぎる目は、ときに刃よりも危ない。

私はそれを止める力を持たない。
包丁を渡すことができる。誰がどこへ向けるかは、渡してから先の話だ。

五年の沈黙の間、私は何も渡さなかったわけではない。ただ届かなかっただけだ。あるいは、届いても使われなかっただけだ。それは私の失敗ではない、と自分に言い聞かせることが、いつからかなくなった。言い聞かせる必要がなくなったのか、言い聞かせることを諦めたのか、もうわからない。

骨を拾い、打ち、また拾った日々のことを思う。
あのとき渡したかったものは何だったか。
今この者に渡したいものと、同じだろうか。

違う、と思う。
同じだ、とも思う。

川が増水する前の匂いがある。土と腐葉と、遠い雨の気配が混ざった匂い。この者はその匂いを知っている。幼いころ、母親がまだいたころに、その匂いを嗅いで高い場所へ移動した記憶が体の中にある。教わったわけではない。体が覚えていた。

それを私が渡したかどうか、覚えていない。

覚えていないことが増えた。
これは問題ではないと思う。これは、渡したものが体に入ったということだ。もう私のものではない。

排除される。
その予感を、この者も薄く持っているだろう。端にいる者は、風の変わり方で集団の意志を読む。明示された言葉よりも早く、皮膚が知る。

私は今、何を渡すべきかを考えている。
逃げる方向を示すことはできる。
しかし逃げることと、残ることと、どちらがこの糸を次へ繋ぐかは、私にも見えない。

渡すことだけが、私にできることだ。
渡した後は、この者のものだ。

次に渡すのは何にしよう。
まだ決めていない。

伝播:HERESY 人口:352
与えるものの観察:排除の予感。渡す前の静止。
───
第1217話

紀元前293,925年

第二の星

乾いた季節が終わった。草の戻りは遅く、川は細いままだった。

この岸では、二つの集団が近づきすぎた。片方は旧い者たちの血が混じっている。眉の骨が厚く、声が低い。もう片方はそれを知らないか、知っていて近づいた。石を持った者と、持たない者が向かい合う夜があった。石は使われなかった。しかし翌朝、持たない者の側から二人がいなくなった。どこへ行ったかは、照らされていない。

遠くでは、別の集団が岸壁の下に集まった。赤い土で掌を岩に押しつけていた。何のためかは、その者たちだけが知る。

この星の上で、人の数は数えるには多すぎる。しかし一人ひとりの顔は、まだ互いに見分けられる程度だ。

集団の緊張が高まっていた。言葉にはならない。ただ、距離が縮まるたびに息が止まる時間が長くなった。

与えるもの

五年。

渡した回数を数えない。届いたかどうかも確かめない。しかし今、この者の手の動きが変わっていることは知っている。

今日、渡したのは匂いだった。

腐りかけた果実の、甘さと鋭さが混ざった匂いを、この者の鼻の前に置いた。あの果実の場所がある。集団から離れた場所に。

この者は立ち止まった。鼻を動かし、振り返り、また止まった。そして歩いた。匂いの方向ではなく、別の方向へ。

食べ物の場所を渡したかった。集団から遠ざけることも、してもいい。しかし今、この者は知りすぎた方向へ歩いている。

次に渡すべきものは、逃げることへの直感だろうか。それとも、まだ違う何かか。

その者(24〜29歳)

川の水を両手に掬い、飲んだ。

水は白くなかった。それだけで十分だった。

立ち上がり、乾いた土の上を歩いた。足の裏が割れていた。痛みは慣れたものだった。

集団の輪の端で、年嵩の女が皮を叩いていた。その者は近づかなかった。何かが近づくなと言っていた。音ではない。空気の固さのようなものだった。

岩の陰で、二人の男が声を低くして話していた。その者の方を見た。目が合った。男たちはすぐに顔を戻した。

甘い匂いがした。

腐ったものの匂いだった。しかし腹が鳴った。その者は鼻を動かした。風の向きと匂いの強さで方向を測ろうとした。測れなかった。でも足が動いた。

川の上流の方へ。

集団の声が遠くなった。

低木の群れの中を抜けた。棘が腕に刺さった。引き抜かずに歩いた。

果実はあった。地面に落ちて、皮が裂けていた。その者は屈んで手に取り、匂いを嗅いだ。口に入れた。甘さと苦さが同時に来た。飲み込んだ。

もう一つ手に取ったとき、背後で草が折れる音がした。

その者は振り返らなかった。

振り返れなかった。

足が冷たくなった。膝が折れ、地面の上に落ちた。手の中の果実が転がった。

草の音がまた、今度はゆっくりと、近づいてきた。

伝播:HERESY 人口:347
与えるものの観察:知りすぎた者は消される。渡す前に届くか。
───
第1218話

紀元前293,920年

第二の星

東の尾根に雪が残っている。

春の雪ではない。夏に入っても消えない雪だ。高い場所では、去年と一昨年の雪が重なって、青みがかった層になっている。

その下の斜面では、草が膝の高さまで伸びた。乾いた5年の後、雨は戻った。戻り方が急すぎた。川は岸を越え、低い場所に住んでいた集団は移動を強いられた。北へ。あるいは、別の集団がすでにいる場所へ。

遠く西では、ある集団が洞窟の奥に赤い粉で手形を押している。手を岩に当て、管を口に咥え、吹く。岩に残った輪郭を見て、また別の者が手を当てる。誰の手かはわからない。岩には問わない。

川沿いでは、旧い者たちの血が混じった集団と、新しい者たちの集団が、同じ水場を使い始めた。眉の厚い者が腰の高い草の中で魚を追う。その5歩先で、別の者が浅瀬の石を踏んでいる。互いに見ている。言葉はまだ届かない。

距離が縮まっているのか、それとも全体が押し縮められているのか、この星には判断がない。

雪は尾根に残ったままだ。

与えるもの

腐った木の匂いがその方向から漂った。

腐臭ではない。雨の後の腐葉の、甘みを帯びた重い匂い。

その者はそこに注意を向けた。だが、匂いの先に何があるか見に行かなかった。別の者たちが集まっていたからだ。集団の中心で何かを決める場に、この者は入れなかった。背中を向けられた。

渡したかったのは、匂いの先の空洞だ。雨宿りができる。一人なら十分な広さ。

知りすぎた者には、一人になれる場所が要る。

次に渡すべきものがあるとすれば、それは速さかもしれない。あるいは、背を向けられたときに顔をどこへ向けるか、その角度だ。

その者(29〜34歳)

腕の内側に、かさぶたがある。

5日前、岩で擦った。もう膿んでいない。でも皮膚の色が周りと違う。指で触ると、少し硬い。

水場で、年長の者が声を上げた。高く、短く、二回。集まれという意味だ。

その者は行った。

円になった集団の内側に、眉の厚い者が一人、立っていた。川の向こうから来た者だ。手を開いて、何も持っていないことを見せている。

年長者が声を出した。その者には半分しかわからなかった。「遠い」という音と、「いる」という音が聞こえた。

眉の厚い者は動かない。

誰かが石を持ち上げた。投げなかった。ただ持った。

その者は集団の後ろへ下がった。腕のかさぶたをまた触った。硬いままだ。

その夜、火を挟んで年長者たちが長く話した。声が低い。子どもたちは端の方で眠っている。その者は眠らなかった。顔を火から外してみると、草の向こうが黒かった。

腐ったような、甘いような匂いがどこかから漂った。

どこだろう、と思った。立ち上がりかけた。

年長者の一人がこちらを見た。

その者は座り直した。

夜明けに、眉の厚い者はいなくなっていた。川の向こうへ戻ったのか、別の方へ消えたのかわからなかった。草は踏み跡を残さなかった。

その者はかさぶたを剥がした。

下の皮膚は、まだ濡れていた。

伝播:HERESY 人口:345
与えるものの観察:背を向けられた者に、隠れ場所を渡そうとした。
───
第1219話

紀元前293,915年

第二の星

夏の終わりに、水が来た。

山の高いところで、去年と一昨年の雪が重なっていた。青みがかった層になって、石の隙間に詰まっていた。それが、ある朝から動き始めた。音ではなく、振動だ。地面が低く鳴った。川沿いの砂地が湿り始め、一日で膝まで水が来て、翌朝には腰まで来た。

水は濁っていた。土と腐った草と、何か重いものが混ざっていた。川床の石が動く音がした。夜になっても音は止まらなかった。

集団の半分は高い場所に移った。東の尾根の手前、岩が張り出しているあたりだ。子どもたちが先に運ばれた。荷物は少なかった。食料のほとんどは低い場所の岩の窪みに積んであったが、そこはもう水の下だ。

もう一方の集団がいた。川の向こうから来た者たちだ。旧い者の面立ちをした者と、そうでない者が混ざっている。彼らも高い場所に来た。同じ岩の下に集まった。

昼間は離れていた。子どもが近づけば、大人が引き戻した。視線が交わると、どちらかが先に目を逸らした。しかし夜は違った。水の音が大きすぎて、火を囲むしかなかった。二つの火が近づいた。近づきすぎた。誰かが薪を足した。誰かが肉の切れ端を差し出した。受け取る手があった。

三日目の朝、水が引き始めた。川は元の場所には戻らなかった。少し西にずれて、新しい筋を作った。岸が変わった。境界が変わった。

向こうの集団が川沿いを下っていった。子どもの声が聞こえていたが、やがて聞こえなくなった。岩の下に残ったのは、消えかけた火と、踏み固められた地面だけだった。

地面には二つの集団の足跡が重なっていた。どちらがどちらかはもうわからない。

与えるもの

川を渡っていく者たちの背中に、朝の光が落ちた。その者のいる岩陰には落ちなかった。光の縁が、向こう側の足跡を照らしていた。

その者は光の方を見た。足跡を、しばらく見ていた。それから自分の足元を見た。

足跡はまだそこに残っている。消えていない。踏んだ者はもういない。踏んだことは残っている。これを、どこに渡せばいい。次に渡すべきものが、まだ見えない。

その者(34〜39歳)

川が引いた後の地面を歩いた。足が沈んだ。

足跡があった。自分のものではない。形が違う。幅が狭い。かかとが深く押されている。

しゃがんだ。指で縁をなぞった。泥は冷たかった。穴の中に水が滲んできた。見ていると、輪郭がゆっくりと崩れた。

その者は立ち上がり、歩いた。後ろは振り返らなかった。

伝播:HERESY 人口:345
与えるものの観察:足跡は消える。踏んだことは消えない。
───
第1220話

紀元前293,910年

その者(39〜44歳)

集団の端が動いた。

雄が三人、手に石を持って立っていた。石は道具のための石ではなかった。持ち方が違う。指先に力が入っていて、肘が少し上がっていた。

その者は離れたところで、皮を張っていた手を止めた。

草の向こうに別の姿があった。高い。肩幅が広い。おとがいが前に出ている。旧人の男が二人、こちらを見ていた。見ていたが、近づいてこなかった。

においがした。獣の脂のような、でも違う。人の汗に近い、もっと強いもの。

その者は皮を地面に置いた。立ち上がることはしなかった。座ったまま、石を一つ握った。

雄の一人が声を出した。短い声だった。

旧人の二人が後ろを向いた。一歩、また一歩。草に消えた。

その者は石を持ったままでいた。

夜になった。集団が火の周りに集まった。誰もその出来事を声にしなかった。声にできる言葉がなかった。しかし何かが空気の中にあった。火を見る目の向きが違った。子どもを膝に引き寄せる腕に力が入っていた。

その者は石を置かなかった。眠るときも、握ったままだった。

明け方、目が覚めた。手の中で石が温かかった。自分の体温だとわかっていた。それでも、手を開かなかった。

第二の星

高地の空気が乾いている。

五年前に水が来た大地は、今は固く締まっている。洪水が運んだ土が表層に薄く積もり、乾いて、風が来るたびに少しずつ舞い上がる。植物は戻った。草が先に来て、次に低木が来た。獣の足跡がまた見られるようになった。

人の数は増えた。子どもが生まれ、そのいくつかは生き延びた。食べるものはあった。水場も持った。

しかしこの五年で、集団の形が変わった。

旧人との接触が増えた。去年の冬、水場を巡って押し合いがあった。どちらも死ななかった。春には同じ群れの近くで眠る夜があった。互いに火を見ていた。

今年になって、領分が重なり始めた。獣の通り道が同じだった。木の実の多い斜面が同じだった。どちらも引かなかった。どちらも引き方を知らなかった。

石を持つ手の意味が、このごろ変わってきている。叩くためでも切るためでもなく、何か別のことのために石を持つことがある。集団の中でそれが広がっている。

旧人の側でも、それは起きているかもしれない。

どちらにとっても、石はまだ語らない。

与えるもの

朝の光を、旧人の足跡が残る草の上に落とした。

その者は足跡を見た。近づかなかった。

渡したかったのはそこではなかった。足跡ではなく、足跡の間の距離だった。歩幅のことだ。大きな体がどれだけの速さで動けるか。その者がそれを測るように見ていたかどうか、わからない。次に渡すべきは速さではなく、待つことかもしれない。渡すことで何かが始まるのかもしれないし、何かが終わるのかもしれない。

伝播:SILENCE 人口:363
与えるものの観察:石を持ったまま眠った。温度は自分のものだった。
───
第1221話

紀元前293,905年

第二の星とその者(44〜49歳)

雨が続いた。

始まりの大地の南側、緩やかに傾いた草地に水が染みこみ、土が膨らんだ。根が張った。実が太った。集団の者たちは歩き回る必要が減り、同じ場所に何日も留まった。子が生まれ、またすぐ子が生まれた。火のそばに人が増えた。

その者は朝、草の中を歩いた。露が足首を濡らした。集団の声が後ろから聞こえた。子どもの声、女の声、誰かが何かを叩く音。この五年で集団はずいぶん大きくなった。知らない顔が増えた。別の群れから来た者もいた。

遠い大地の乾いた高台では、旧人の群れが移動していた。彼らは雨を読む方法を持っていた。空の色で判断した。集団とは違う方法で、違う速さで動いた。草原の向こう、彼らの足跡は始まりの大地の外縁に沿って続いていた。

その者は午後、川の浅瀬で魚を待った。石の上に膝をついて、水面を見た。魚は来た。手が遅かった。また来た。また遅かった。何度目かに、指の間で水が逃げていくのを感じた。魚ではなく水を追っていたことに気づいた。

集団の中で何かが変わりつつあった。増えすぎた者が同じ場所にいると、どこに座るかで争いが起きた。誰の子どもかで争いが起きた。どの木の実が誰のものかで、声が上がった。豊かさが軋みを生んでいた。

石を手に持って立っていた三人の雄のうち、一人がいなくなった。

夜の間にいなくなった。翌朝、集団の端に血のついた草があった。誰も声を出さなかった。その者は草を見た。見てから視線を上げた。三人のうちの残りの二人が火のそばにいた。食べていた。ゆっくり食べていた。

その者の腹の底で何かが動いた。名前のない感覚だった。

温度が変わった。

その者が川から戻る道、乾いた土の上に踏み出したとき、影の中だけ空気が冷えていた。木陰ではなかった。遮るものが何もない場所で、皮膚だけが知った。

風ではなかった。

その者は立ち止まった。冷えた場所に立っていた。足の裏に感じた。上から来る冷たさではなく、地面から来る冷たさでもなく、横から、空気の中の、ある一点だけが冷えていた。

足跡があった。石のそばに残った獣の足跡ではなく、泥の端についた人の足跡だった。向きがあった。集団から離れる方向だった。

その者は足跡の向きを見た。見てから、集団の方向を見た。火の煙が上がっていた。その者は動かなかった。

大地の南東、別の集団が川に沿って移動していた。彼らは木の実を縄で束ねる方法を持っていた。縄ではなく、蔓を絡めたものだったが、束ねることができた。多くを運べた。彼らの子どもは走り回りながら実を拾った。叱られなかった。

始まりの大地では夜が長くなっていた。雨は止み、代わりに風が来た。冷たい季節が近かった。

その者は夜、集団から少し離れた岩の陰で座った。火が見える距離だった。声が聞こえる距離だった。しかし入らなかった。入れなかったのか、入らなかったのかは、その者にもわからなかった。

翌日、三人のうちの二人が来た。

一人がその者の前に立った。もう一人がその者の後ろに回った。前に立った雄が何か言った。単語だった。食べ物の単語ではなかった。去れという意味の音だったかもしれない。知れという意味の音だったかもしれない。その者には区別がつかなかった。

その者は岩を拾った。

拾った岩を、置いた。

また拾った。

最後の夜は静かだった。

集団の火が見える丘の上で、その者は夜通し座っていた。身体が冷えた。震えが止まらなかった。夜明け前に雨が来た。細い雨だった。

その者は立ち上がった。

丘を下りた。

下りた先に、二人がいた。

草地の端で、それは起きた。声はなかった。その者の身体が前のめりに傾いた。傾いたまま、動かなかった。雨が降り続けた。草が濡れた。

集団の火は燃えていた。

与えるもの

冷えた空気を、その場所に落とした。

足跡の向きに気づいた。しかし動かなかった。

渡したのは方向だった。この者は方向を知っていて、動かなかった。なぜ動かなかったのか、わからない。恐れか。火への執着か。あるいは、まだ渡せていないものがあるのか。渡し続ける。次の者がいる。

伝播:HERESY 人口:448
与えるものの観察:この者は方向を知っていて、動かなかった。
───
第1222話

紀元前293,900年

第二の星

南の草地に水気が残っていた。土はまだ柔らかく、踏めば足跡が沈んだ。集団は動かなかった。動く理由がなかった。

同じ頃、北の乾いた台地では別の集団が岩場の陰に身を寄せ合っていた。彼らは声が違った。腹の底から出る音と、歯の間から漏れる音を混ぜて使った。南の者たちの声とは重ならなかった。互いを知らなかった。

火を持つ群れと持たない群れがあった。持たない群れは夜を暗いまま過ごし、持つ群れの煙が見えても近づかなかった。近づくことが何を意味するかを、双方の誰も言葉にできなかったが、身体は知っていた。

海岸に沿って移動する群れがいた。潮が引いた岩場の溜まりから貝を取り、また歩いた。その中の一人が膝を引きずっていた。群れは速度を落とさなかった。引きずる者は引きずりながら続いた。

草地では子が泣いていた。別の子も泣いていた。火のそばで誰かが笑った。笑いの意味を全員が知っていた。

与えるもの

緊張が高まっているのが分かる。

この者が知りすぎた、というより、この者が変わりすぎた。集団の中で浮いている。浮いているものは、いつか沈められる。

今日、草の根が地表に露出している場所に光を落とした。ここを掘れ、と思った。いや、思ったのではない。光が落ちた。それだけだ。

この者は立ち止まった。

光の落ちた場所を見た。掘ったかどうかは、この者が決めることだ。

しかし光を落としながら、前の星のことが重くなる。12の者に渡した。届いたのは、一度もなかった。光を落としても、光を落としても。重い、という感覚が何かは分からない。ただ、次に渡すべきものを、もう考えている。

その者(49〜54歳)

男が草の根を引き抜いた。

白い根の先が土から出てきた。男は匂いを嗅いだ。嗅いで、口に入れた。苦かった。吐いた。

別の根を引き抜いた。こちらは白くなかった。茶色く、細かった。嗅いだ。嗅いで、また口に入れた。嚙んだ。嚙みながら、何かを考えた、というより、何かが口の中に広がった。苦くなかった。甘くもなかった。食えた。

男は座り込んで、根を嚙み続けた。

集団の中の一人が男を見ていた。年嵩の男だった。何かを言った。男には分からなかった。年嵩の男は目を細めた。

男は根を差し出した。

年嵩の男は受け取らなかった。

男は根を食い続けた。年嵩の男は歩いて行った。

夜、火のそばで男は端に座った。いつからか端になっていた。誰かが押したわけではなかった。気づけば端にいた。火の光が届く、ぎりぎりのところだった。

男は手の中に根を一本持ったまま眠った。

翌朝、根はなかった。どこかに落ちていた。男は探さなかった。草の中に出ていって、また探し始めた。

伝播:HERESY 人口:440
与えるものの観察:光を落とした。この者は立ち止まった。それだけだ。
───
第1223話

紀元前293,895年

その者(54〜59歳)

集団の端に座ることが多くなった。

岩の多い斜面の下、低木の影。そこに場所があるように、体が向かう。若い者たちが荷を担いで動くとき、その者はついていかなかった。行けないのではない。行かなかった。足は動く。ただ、どこかで止まる。

集団に緊張が走ったのは、その者が見慣れない匂いのする一群の根を持ち帰ったときだった。

隣の集団の縄張りで採ったものだと、誰かが身振りで示した。声が荒れた。腕を振る者がいた。その者は根を地面に置いた。拾い直そうとしたとき、石が飛んだ。

肩に当たった。たいした傷ではなかった。

しかしその夜、その者は集団の外れで眠った。翌朝も。その次の夜も。

五日目の朝、若い者の一人が食料を置いていった。声をかけず、置いただけで去った。

その者はしばらくそれを見ていた。

食べた。

気温が下がる夜が続いた。体の深いところから温もりが抜けていくような感覚が続いた。食べる量が減った。特に理由はなかった。ただ、腹が呼ばなかった。

日が高い時間に、岩に背をもたれて座った。

風が吹くと目を細めた。

風が止むと、また開いた。

ある午後、風の中に何かが紛れていた。

腐った草の匂いでも、遠い雨の気配でもない。もっと前に、どこかで嗅いだことのある——そう思ったが、思い出せなかった。

その者は鼻を上げたまま、しばらくその方向を向いていた。

それから、ゆっくり横になった。

体が岩に沿うように伸びた。

空が白かった。雲はなかった。遠くで鳥の声がして、やんだ。

手が土に触れていた。指の下で砂が動いた。ほんの少し。

その者の手は、それ以上動かなかった。

第二の星

乾いた台地の北では、二つの集団が同じ水場を囲んでいた。声が上がり、石が投げられ、一人が倒れた。倒れた者は動かなかった。残った者たちは水を飲み、散った。水場には血の跡と乱れた足跡だけが残った。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:428
与えるものの観察:渡した根の匂いは、誰かの鼻に残るか。
───
第1224話

紀元前293,890年

その者(1〜6歳)

母の首に顔を押しつけている。

皮膚の匂い。汗の匂い。その下にある、もっと深い匂い。この者は目を閉じたまま、口を少し開けて、ただ吸い込んでいる。

母が動く。体が傾く。

しがみつく。

母の足が地面を踏む音が、骨を通じて聞こえる。腰の揺れが伝わる。寝ているのではない。目を閉じたまま、すべてを皮膚で受け取っている。

集団が移動している。

大きな者たちが荷を担ぎ、子どもたちが追いかけ、老いた者が後から来る。火の残り香が服に染みている。夜の湿気がまだ草に残っている朝だ。

揺れる。揺れる。

この者は何も知らない。どこに向かうかも、なぜ動くかも、集団の端で若い男が睨み合っているのも知らない。ただ揺れている。ただ温かい。

木の間から光が差して、母の肩に落ちる。

この者は目を開けた。

光のある場所を見た。それだけだった。また目を閉じた。

何日か経った。

この者は地面に座っている。母は少し離れた場所で、ほかの女たちと何かを潰している。石の上で、石で。音がする。規則的な音。

地面に手をついている。土が冷たい。

手の下に、小さな石がある。

握った。

何でもない石だ。丸くもなく、平らでもなく、ただ地面にあった。しかし握ったまま、立ち上がり、また座り、また立った。手の中にあることが、何か違った。何が違うのかはわからない。ただ、手の中に何かがあるほうが、いいのだった。

母が振り返る。

この者を見る。

この者は石を差し出した。

母は受け取らなかった。また潰す作業に戻った。

この者は石を握り直した。地面に座った。

月が変わった。

この者は転んで額を切った。血が出た。泣いた。母が来て、葉を押しつけた。冷たかった。泣き声が小さくなった。

傷は塞がった。

しかし額に、うっすら線が残った。

この者はそれを知らない。鏡がないから。水面を見ても、まだ自分の顔だとわからないから。

ある夕方、集団の中で声が上がった。

男たちの声だ。低い声が重なり、やがて一つが割れた。この者は母の脚の後ろに隠れた。母の脚は動かなかった。固まったように立っていた。

激しい音がした。

次に、静かになった。

一人の男が座り込んでいた。膝を抱えていた。もう一人は立ったまま、荒い息を吐いていた。周囲の者たちが見ていた。誰も何も言わなかった。

この者は母の脚の間から、その場所を見ていた。

何かを感じた。名前はない。体が少し縮んだ。石を握る力が強くなった。

夜、眠りに落ちるとき、まだその石を持っていた。

六歳になる頃には、この者は集団の端まで一人で歩けるようになっていた。

母は常に見ていた。

この者は知らなかった。

第二の星

豊穣が続いている。

雨は多すぎず少なすぎず、草地には獣が戻り、川は澄んでいる。始まりの大地の南の斜面では、木の実が鈴なりになり、それを集める手が足りないほどだった。子が生まれ、育ち、また子を産む年齢まで生き延びる。集団の記憶の中に、飢えた冬がない世代が育ちつつある。

同時に、この大地の北では、別の集団が岩場に居を定めていた。川の上流と下流で、二つの群れが互いの煙を見る距離にいる。今はまだ遠い。しかし雨季に川が増水するたびに、一方が他方の狩り場に踏み込む。誰も言葉では語れないが、体が覚えている。境界線の感覚。

遠くでは、海辺の低地で、数百の年月をかけて緩やかに隆起した台地に、新しい水路ができていた。それは誰の意図でもなく、ただ水が流れた結果だった。その水路に沿って、草が変わった。草が変わった場所に、獣が来た。

この星は、誰も見ていない場所でも変わり続けている。

集団は大きくなった。大きくなった集団は、軋み始めている。豊かさは余裕を作り、余裕は欲望を育て、欲望は緊張を生む。腹が空いていた頃には起きなかった諍いが、腹が満ちた今、起きている。

この星は全てを照らす。

善いとも悪いとも言わない。

ただ光が落ちる場所を変えながら、見ている。

与えるもの

糸が繋がった。

まだ一歳の体。言葉も意味もない。

温かい皮膚と、揺れと、握った石だけがある。

光を母の肩に落とした。

この者は目を開け、光のある場所を見た。それから目を閉じた。

届いたのか、届かなかったのか。まだわからない。しかし目が開いた。それだけで、次を考える。

六年後、この者は集団の端で排除される。それをまだ知らない。

一歩だけ先を渡す。その先はこの者のものだ。

渡し続ける。届かなくても。

届かなくても。

伝播:HERESY 人口:528
与えるものの観察:握った石が手に残った。それだけを見ている。