紀元前293,885年
乾いた台地の縁に沿って、草が倒れている。
風のせいではない。獣の群れが通った跡だ。蹄の形が赤土に残り、そこだけ色が濃い。雨が来る前の匂いが低く漂っている。台地の向こう、丘の稜線が霞んでいる。
集団は大きくなった。
かつて手を伸ばせば届く距離に全員がいた。今は火の数が増え、眠る場所が広がり、誰の子かわからない幼い声が夜に響く。食べるものはある。水場も近い。穏やかな季節が続いている。
しかし大きくなったものには、ひずみが生まれる。
二つの火の間に、見えない境界ができた。誰も決めたわけではない。気がついたら、そこを越えない者と越える者が分かれていた。食料の分配に、順番ができた。誰が先に手を伸ばすか。誰が黙って待つか。それは力の問題であり、生き残りの問題でもある。
旧人の群れが、台地の東から現れた。
背が低く、腕が長い。毛の色が違う。彼らは遠くで立ち止まり、こちらを見た。動かない。水場を見ている。水場を、見ている。
この集団の者たちは石を拾った。投げなかった。しかし拾った。
旧人は引き返した。
夜、火のそばで声が上がった。意味のある音と意味のない音が混ざり、誰かが地面を叩き、誰かが立ち上がった。子を抱える者は火から離れた場所で背を丸めていた。何かが決まった。何が決まったかは、朝になるまでわからない。
朝になった。集団の端にいた一人の若者が、いなかった。
昨夜、声が大きかった者だ。何かを叫び、何かを指さし、旧人の方角を向いて腕を振っていた者だ。
地面に血はなかった。足跡が、台地の縁に向かって続いていた。
縁の先は、断崖だ。
誰も追わなかった。誰も泣かなかった。火の番をしていた老いた女が、薪を一本くべた。それだけだ。集団は動き続けた。子を抱える者は乳を与え、石を握る者は石を磨き、水を汲む者は水を汲んだ。
台地の草がまた揺れた。今度は風だ。
東の空に雲が出始めた。雨が来る。雨が来れば水場が増える。水場が増えれば、また別の群れが来る。旧人だけではない。同じ形をした、別の集団が来ることもある。
集団の中の、あの境界線は今日も見えない。しかしそこにある。
知りすぎた者は消された。あるいは、追いやられた。
台地の縁に、足跡の続きはない。
この者の頬に、血の匂いが届いた。
台地の縁から風が吹いてきた夕刻、その匂いは若者の消えた方角からではなく、もっと近い場所から来た。母の腕の内側。細い傷。乾きかけている。
この者は鼻を寄せた。
吸い込んだ。もう一度吸い込んだ。母は気にしていない。
血の匂いと、皮膚の匂いと、土の匂いが混ざっている場所があることを、この者の体は覚えた。
それで十分か、と与えるものは問わない。十分ではないかもしれない。しかし次に何かが倒れたとき、この者はその匂いの近くにいるだろう。その場所にいれば、渡せるものがある。
母の腕にしがみついている。
足が地面についている。自分で立っている。しかし離れない。母が動けば一緒に動く。母が止まれば止まる。
夜、火が小さくなったとき、この者は母の腕の内側に顔を押しつけた。傷の縁が唇に触れた。舐めなかった。ただ、当てていた。