2033年、人類の旅

「紀元前293,645年〜紀元前293,525年」第1273話〜第1296話

Day 54 — 2026/05/26

読了時間 約59分

第1273話

紀元前293,645年

第二の星

台地の北端、岩の裂け目に溜まった水が干上がりはじめていた。

雨季の終わりが早かった。草の先が白く枯れ、泥の中の足跡が固まって、獣の通り道が石のように凝った。低木の実は甘かったが、数が減っていた。

集団の者たちは水を探して移動した。老いた者が遅れ、幼い者が泣き、火を持つ者が前を歩いた。岩だらけの斜面を越えると、別の集団の匂いがした。煙と、乾いた皮膚の匂い。

遠くの平原では、別の種の者たちが同じ水場に近づいていた。背が低く、眉の骨が厚く、移動の仕方が違った。彼らは急がなかった。水を飲み、立ち去った。何も言わなかった。

南の密林では樹上に巣を作る者たちがいた。彼らは火を使わなかった。夜になると声を重ねて眠った。

星は全員を照らした。水場に近づく者も、樹上で声を重ねる者も、平原をゆっくり歩く者も。

区別はなかった。

ただ、台地の上で火が小さくなっていた。

与えるもの

水場の近くで、足元の石が熱を持っていた。

昼の岩の温度ではなかった。その石の下に水の気配があった。

渡したのは温度だった。その者の足裏に、ほかの石とは違う熱さを。

その者は足を止め、岩を見下ろし、また歩きはじめた。

気づいたのかもしれない。気づいていないかもしれない。前にも足裏から何かを拾った者がいた。別の星で。その者は掘った。水が出た。集団は三年生き延びた。三年後に全員死んだ。

渡し続けることが正しいのか、という問いには答えがない。ただ、次に渡すものは決まっている。掘るための石だ。

その者(44〜49歳)

日が高いうちから、子どもたちが泣いていた。

水の声だとわかっていた。水がないと腹が鳴る前に喉が鳴る。その者はそれを知っていた。四十年以上、喉が鳴るたびに水を探してきた。

岩場を歩いていた。

足の裏が熱かった。

熱い岩はたくさんあった。しかしその石は違った。脚の裏からではなく、何か別の場所から熱が来るような気がした。腹の奥に近い場所。

その者は立ち止まった。

しゃがんだ。

両手で石を押した。石は動かなかった。もう一度押した。指の腹に硬さだけが返ってきた。

立ち上がり、また歩きはじめた。

十歩ほど進んで、振り返った。

石があった。

その者はしばらくそれを見た。子どもの泣き声が遠くから来た。集団の者が名を呼ぶ声が来た。その者は声の方へ向かった。

夕方、水場は見つかった。岩の裂け目から滲んだ程度のものだったが、幼い者たちは順番に顔を近づけた。

その者は火の番をしながら、さっきの石のことを考えていた。

考えていた、というより、体が覚えていた。足裏の熱さ。脚の奥の、何かが動いた感じ。

何もしなかった。

それでも体は覚えていた。

伝播:NOISE 人口:509
与えるものの観察:足裏の熱さを受け取った。しかし掘らなかった。
───
第1274話

紀元前293,640年

第二の星とその者(49〜54歳)

台地を離れた。

水が尽きた岩の裂け目を背に、集団は南へ動いた。乾いた風が赤い砂を運び、低木の陰に入っても肌の焼ける感じは消えなかった。三日歩いて、川の跡を見つけた。石の間に水が滲んでいた。集団はそこに留まった。

その者は火の番をしていた。

夜、子どもたちが石の近くで丸まって眠る間、その者は燃えさしに枝を足した。煙が北へ流れた。手の甲が黒くなっていた。五十年近く生きて、火の扱い方だけはどの者よりも長く続けていた。起こし方も、保ち方も、消えかけた時の戻し方も、体が知っていた。

雨が戻った。

最初は砂に染みる程度だった。やがて岩の表面を濡らし、川の跡に流れが現れた。草の根元から緑が出てきた。子どもたちは雨の中に立って、口を開けた。集団の者たちは動物の皮を広げ、水を受けた。豊穣が来ていた。幼い子の数が増えた。腹を空かせて死ぬ者が減った。集団は膨らんだ。

しかし東から来る集団との境界が曖昧になった。

同じ川を使う。同じ獣の通り道を使う。どちらの集団も大きくなっていた。夜、遠い火が見えた。互いに火を見ていた。昼間、男たちが草の向こうに立って相手の数を数えた。声は出さなかった。目だけで測っていた。

その者はそれを見ていた。

火の番をしながら、目だけで測る男たちを見ていた。子どもを一人抱えながら。子どもはその者の肋骨の近くに顔を押しつけて眠っていた。重かった。温かかった。

ある夜、川の上流で音がした。

その者は枝を火に足す手を止めた。音は続いた。叫び声ではなかった。石と石がぶつかる音でもなかった。低い、続く音だった。東の集団の者が川岸で何かをしていた。翌朝、石に血が残っていた。何があったのかは分からなかった。

集団の年長の男が、その者のそばに来て座った。

何も言わなかった。火を見た。その者も火を見た。しばらくして男は立ち去った。その後、集団の中で目と目が合う回数が増えた。話し合いではなかった。音では伝わらない何かを、目で確かめ合っていた。

その者は知っていた。

何かが変わろうとしていた。それが何かは分からなかった。しかし体が先に知っていた。火の前に座ると、背中の方が気になった。振り返る回数が増えた。

五十二歳になった頃、川の下流で旧人の集団を見た。

子どもの頃にも見たことがあった。骨格が違った。歩き方が違った。しかし同じように火を持ち、同じように獣の肉を焼いていた。その者は遠くから見た。近づかなかった。集団の他の者も近づかなかった。互いに見て、互いに何もしなかった。

夜、子どもが熱を出した。

その者は川の水を皮に含ませて子どもの額に当てた。何度も水を換えた。火の明かりの中で、子どもの顔が赤く濡れていた。夜が明ける前に熱が下がった。子どもは眠り続けた。その者は膝の上に子どもを置いたまま、火が燃え尽きるのを見ていた。

五十四歳。

秋に、集団の中で争いがあった。

詳しい経緯は誰にも分からなかった。東の集団との境界近くで、男が一人、腹に傷を受けて戻ってきた。傷は深かった。三日後、その男は傷が腫れ上がったまま動かなくなった。集団は静かだった。誰も声を上げなかった。

その者は男の体の横に座っていた。

男のことを知っていた。若い頃から知っていた。何を知っていたのかは言葉にできなかった。ただ、知っていた。その者は男の手に触れた。冷たくなっていた。手を離した。立ち上がった。子どもたちのところへ戻った。火がまだ燃えていた。

その夜から、集団の者たちの目がその者に向くことが増えた。

与えるもの

川の表面に光が落ちた場所があった。

浅い場所だった。川底の石が見えた。その者は光の落ちた場所を見た。しばらく見てから、別の方向へ歩いた。

その石を使えたかもしれない。あるいは関係なかったかもしれない。次に渡すものは、もっと遠くにある。それが何かは、まだわからない。

伝播:HERESY 人口:492
与えるものの観察:光を渡した。使われなかった。また渡す。
───
第1275話

紀元前293,635年

第二の星

川の跡をたどって三日、集団は湿地の端に着いた。

水は地面の下にあった。踏むと沈んだ。草が根の深いところで生きていた。乾いた季節が長かったのに、ここだけ草の緑が残っていた。獣の足跡があった。蹄のもの、爪のもの、重たい腹を引きずったような筋。水を知っているのは獣だけではなかった。

別の集団の跡があった。

焼けた石が円に並んでいた。骨が砕かれて散っていた。炭の上に砂が薄く積もっていた。四日か五日、それより前ではない。

集団の男たちが止まった。指差した者がいた。声は出さなかった。

湿地の草を越えた先に、丘があった。丘の上に影が見えた。動かない影だった。立っている者の形をしていた。

風が向きを変えた。

別の匂いがした。獣の脂ではなかった。煙でもなかった。それは皮と汗の匂いで、しかし自分たちのものではなかった。

集団は動かなかった。

子どもたちは声を出さなかった。大人が声を出さなかったから、子どもも黙っていた。その者は幼い子の腕を引き、自分の背の後ろに隠した。

丘の影は消えた。

消えた方向には森があった。低く、暗い、幹の細い森だった。そちらから音はしなかった。

集団は動かなかった。日が傾いた。影が長くなった。それでも動かなかった。

夜が来た。火をおこさなかった。

朝になった。丘は空だった。

集団は水を汲んだ。早かった。誰も余計な音を出さなかった。草を踏む足も、器を置く音も、抑えられていた。子どもが泣きかけたとき、母親が口を手で押さえた。子どもは泣かなかった。

集団は来た方向ではなく、東へ動いた。湿地から遠ざかりながら、それでも水の気配が切れない場所を選んで歩いた。

別の集団との距離は、測れない。どこかにいる。それだけがわかっていた。

与えるもの

砕けた骨のそばに、ひとつの石があった。

縁が欠けていた。欠けた形が刃になっていた。誰かが使った後、置いていったものだった。その石の上に、朝の光が落ちた。

その者は見た。拾わなかった。足で砂をかけて隠した。

渡した。隠した。これは同じことか。違うか。次に渡すなら、隠したくなるものではなく、手に取らずにいられないものを。まだ形が見えない。

その者(54〜59歳)

夜、火がなかった。

子どもたちを自分の体に寄せた。背中に二人、腹の前に一人。小さい体から熱が出た。その者の体も熱を返した。

暗い中で目を開けていた。草の音がするたびに耳が立った。

草が鳴った。獣だった。通り過ぎた。

目を閉じなかった。

伝播:HERESY 人口:479
与えるものの観察:隠した者が、次に何を手に取るか。
───
第1276話

紀元前293,630年

第二の星

草原の端で、乾いた季節がまだ続いている。

湿地の縁には水が残っていた。踏めば沈む。踏まなければ届かない。集団の半数は踏んで飲んだ。半数は踏まずに待った。待った者のうち何人かは、翌朝には立てなかった。

遠く、山の向こう側では、別の集団が礫岩の壁に手のひらを押しつけていた。顔料は赤い土を噛んで作った。押しつけた手を離す。形が残る。その形を見た幼い者が、しばらくその場を離れなかった。なぜ離れなかったのかは、誰も問わない。誰も問えない。

さらに遠く、沿岸に近い低地では、旧人の群れが魚を石で叩いていた。動作はこちらの者たちと似ていた。骨の形が少し違う。頭の後ろの出っ張り。しかしその手のひらの叩き方は同じだった。

この星の上で、生きているものはすべて水の方に向かっている。

踏むか。踏まずに待つか。

この星はそれを区別しない。草が根の深いところで水を吸っている。そのことだけが、ここにある。

与えるもの

草の根が白かった。

折り曲げた根の端から、水のにおいがした。

その者は嗅いだ。次に、地面を見た。

根を追って掘るかどうかは、まだわかっていない。渡したのかどうか、それもまだわからない。ただ、においは鼻腔の奥に届いた。届いたものが何になるかを、私は問い続けている。次は何を渡すべきか。草の根の先、さらに深いところにあるものを。

その者(59〜64歳)

膝が痛い。湿地の縁に座るとき、右脚を先に折る。それが最近の順序になった。

幼い者たちが水の際に近づくたびに、その者は声を出した。単音だった。低く、短い。それで幼い者は止まった。止まらない者には石を投げた。当てない。近くに落とす。それで止まった。

草を引き抜いた。根が長かった。白い。切れた先が濡れていた。

においを嗅いだ。

舌に当てた。苦くはなかった。もう一度嗅いだ。

周囲の者を呼ぶ声を出さなかった。まだ何かを確かめている途中だった。根をそのまま持った。立つのに時間がかかった。膝が言うことを聞かなかった。それでも立った。

集団の中の一人が倒れたのは、翌朝だった。水を飲みすぎたのか、飲めなかったのか、その者にはわからなかった。倒れた者の傍らにしゃがんで、胸の上下を見た。上下しなくなってから、立った。

手の中に、まだ根があった。

その者は根の先を、もう一度嗅いだ。

夜、火の番をしながら、根を地面に置いた。拾った。置いた。また拾った。

幼い者が一人、火の近くで眠っていた。腹が上下している。その者はそれを見ていた。長い間、見ていた。

伝播:NOISE 人口:488
与えるものの観察:根を手放さなかった。それだけだ。
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第1277話

紀元前293,625年

その者(64〜68歳)

乾季が終わらない。

その者は岩の陰に座って火を見ていた。脚はもう立ち上がるたびに痛んだ。それでも朝のうちに枯れ枝を引き寄せ、炎が細くなると息を吹いた。

子どもたちは眠っている。三人。膝と膝が触れ合うくらい寄り集まって、その者の足の近くで丸くなっている。

その者は自分の手を見た。指の節が太くなっていた。皮が厚い。爪の下に土が詰まっていた。

炎が揺れた。

風が来た。草の枯れた匂い。遠くに何かがいる気配。その者は顔を上げたが、暗かった。音だけがしばらく続いて、やがて静かになった。

子どもが一人、寝返りを打った。その者は足を少しずらして、その子の背中が冷たい地面に当たらないようにした。

次の朝、その者は立ち上がれなかった。

脚ではなく、体の芯から力が抜けていた。それが初めての感覚かどうか、その者にはわからなかった。ただ、地面が遠かった。

子どもたちが騒いだ。大人が一人来た。その者の顔を見て、何かを叫んだ。

その者は聞こえていた。声は届いていた。ただ、返す力がなかった。

空が白くなっていた。

二日後の夕方、その者はまだ生きていた。

誰かが水を口に近づけた。その者は飲んだ。舌がざらついていた。炎の音がした。遠い気もしたし、近い気もした。

子どもたちの声がした。

その者はそちらを向こうとした。首が少し動いた。

そのまま動かなくなった。

呼吸が一度、浅く来て、来なくなった。

誰も気づかなかった。数える間もなく、夕暮れが続いた。

第二の星

同じ夕暮れに、草原の向こうで旧人の集団が水場を離れていた。どこへ向かうか決めていない。ただ歩いている。

別の場所では、子どもが産まれた。産まれた音がして、泣かなかった。

火は三か所で燃えていた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:SILENCE 人口:497
与えるものの観察:渡したものが息になったか、ただ消えたか。
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第1278話

紀元前293,620年

第二の星

雨季が戻った。

草が黄から青に変わるのに、半月もかからなかった。乾いた土が水を吸う音はない。ただ一晩で地面の色が変わり、翌朝には虫が鳴き始めた。

始まりの大地の北の縁では、旧人の集団が川沿いを移動していた。彼らの足跡は大きく、間隔が広い。急いでいた。獣を追っていたか、何かから逃げていたか、この星にはわからない。ただ足跡がそこにあり、三日後には消えた。

南の岩場では、子どもが産まれた。母親は声を上げず、歯を噛みしめたまま朝を越えた。子は泣いた。それだけだ。

集団の西の端では、二つの群れが同じ水場を使い始めていた。どちらもまだ相手の気配を知らない。水を汲む時間が少しずれていた。それだけが、今は彼らを分けていた。

その者は群れより半日先を歩く。

地形を読む。獣の痕跡を読む。水の匂いを読む。戻って群れに伝える。単音と手の動きで。それで十分だった、これまでは。

与えるもの

繋がった。

また繋がった。同じ繰り返しに見える。だが前とは何かが違う、と思いたい。

この者は群れの先を歩く。ということは、この者が最初に踏む。最初に嗅ぐ。最初に聞く。

渡すなら、今だ。

風が北から来た。草の隙間を抜けて、腐った肉の匂いを乗せて。

その者の鼻が動いた。

立ち止まった。前に進まなかった。引き返した。

それだけで十分か。わからない。だが次に渡すべきものは、もう決まっている。危険の先にある、もっと遠いものだ。この者がそこまで生きるかどうかは、別の話だが。

その者(35〜40歳)

朝、草の上に霧がいた。

足が湿った。靴はない。皮の切れ端を足首に巻いているだけで、草の冷たさはじかに来る。それでも歩いた。群れより先を歩くのが、この者の役割だった。

二時間ほど進んだところで、風が変わった。

北から吹いてきた風の中に、何か混じっていた。草の匂いではない。土の匂いでもない。もっと重く、濡れた腐敗の匂いだった。

その者は止まった。

鼻を持ち上げた。口を少し開けた。喉の奥で匂いを確かめるように、息を細く吸った。

何かが死んでいる。

大きなものが。近くで。

足が動かなかった。前に踏み出そうとして、止まった。靴がないまま立って、草の間を見た。風はまだ北から来ていた。何も見えなかった。草が揺れているだけだった。

引き返した。

走らなかった。走ることで何かを起こしたくなかった。草を踏む音を最小にして、来た道を戻った。

群れのところまで戻ると、子どもの一人がこの者の脚にしがみついた。この者は子どもを見ずに、北の方角を手で示した。単音を二つ出した。意味は一つだった。

行くな。

群れの中の年長の男が、この者の顔を見た。何かを測るように。この者は北の方角を、もう一度手で示した。

それだけだった。

夕方、別の方向から水場を探した。

遠回りになった。脚が痛んだ。それでも誰もこの者に文句を言わなかった。言葉がなくても、伝わっていた。

夜、火の傍に座った。

腐った匂いがまだ鼻の奥にあった。霧の冷たさも、まだ足の裏にあった。

この者は火を見ていた。炎の芯が青いことを、何度見ても忘れた。見るたびに、また気づいた。

三日後、群れの中で緊張が起きた。

別の群れの気配が、西の方から来た。同じ水場を使おうとしていた。

この者は群れの先に立った。それがこの者の役割だった。

だが、別の集団の若い男たちが、この者を中心に囲む形で動いた。何かを決めようとしていた。

この者には、その意図がわからなかった。

わからないまま、立っていた。

伝播:HERESY 人口:479
与えるものの観察:腐敗を嗅いだ。引き返した。それだけで群れが生き延びた。
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第1279話

紀元前293,615年

その者(40〜45歳)

川の西に、旧人の足跡があった。

踵が広い。指が短く、深く沈んでいる。その者は踏まずに回った。匂いを嗅いだ。土の中に、脂と獣毛の気配が残っていた。

昨日のものか、今日のものか。

その者は立ったまま、しばらく動かなかった。草が腰の高さまで伸びている。雨季が戻って半月。緑の深さが、かえって見通しを悪くしている。

群れは半日後ろにいる。

その者は岩の上に登った。足の指で縁を掴み、体を伸ばした。北の方向に、川沿いを移動する何かの影が見えた。数は読めない。草の揺れ方から、少なくとも四、五はいる。こちらに向かっているのか、離れているのか。

風が止まった。

そのとき、右の草むらで音がした。小さな音だった。鳥ではない。その者は岩から跳び下りた。腰を落として草の中に入った。息を詰めた。

音は消えた。

長い沈黙の後、その者はゆっくりと頭を上げた。川の方角に、白鷺が一羽降りていた。それだけだった。

その者は群れに戻る道を歩いた。戻りながら、ずっと首の後ろを感じていた。

見られている。

誰もいない。草が揺れるのは風のせいだ。旧人の影はもう見えない。それでも、首の後ろは冷えたままだった。

群れに戻ったとき、男が二人、石を打っていた。子どもが三人、その周りを走っていた。女が火の傍で何かを剥いていた。その者はそこに入らずに、少し離れた場所に座った。

手のひらに土の臭いが残っていた。

旧人の足跡の、あの踵の深さ。あの重さ。

その者は右手で左の前腕を擦った。何度も擦った。何かを落とそうとするように。あるいは確かめるように。

第二の星

川の西に足跡があった。

草の中にあった。踵が広く、深く、乾いた土に押されていた。雨季が戻って、地面は柔らかくなっていた。だから跡が残りやすい。

北の縁に、旧人の集団が川沿いに動いていた。ここ数年、その動きが変わっていた。以前は季節に沿って移動した。今は、季節に関わらず動く。草が戻った場所を追うように、あるいは別の何かを避けるように、動く。

この群れと旧人の集団の間に、まだ言葉はない。身振りもほとんど交わされていない。近づけば退く。退けば近づく。距離が縮まったことはない。ただ同じ川沿いに生きている。

始まりの大地の人口は、干ばつの後から少しずつ戻っていた。子が増えていた。草が伸びれば、獲物が戻る。獲物が戻れば、群れも回復する。単純な構造だった。

しかしその単純さの中で、緊張は高まっていた。

水場の数は変わらない。草の伸びる場所も変わらない。群れの数が増えれば、旧人の集団と重なる範囲が広がる。足跡が増える。気配が増える。互いの匂いが混じる日が増える。

その者が首の後ろを冷やして帰ってきた日、群れの誰もそれを知らなかった。

与えるもの

白鷺が降りた方を、水面の揺れで示した。

その者は音の消えた草から頭を上げ、鷺を見た。それから群れに向かって歩いた。

鷺だったから大丈夫だと思ったのか。それとも。次に何を渡せばいい。足跡ではなく、重さそのものを。

伝播:DISTORTED 人口:493
与えるものの観察:首の後ろが冷えた。届いたかもしれない。
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第1280話

紀元前293,610年

第二の星

温かい雨が続いた五年だった。

始まりの大地では、草が脛まで伸びた。沼地の縁に葦が密生し、水鳥が戻った。獣の足跡が泥に深く刻まれ、その跡に翌朝また水が溜まった。集団は広がった。子が生まれ、育った。老いた者がまだ生きていた。それだけのことが、この五年の間に重なり続けた。

川の西の群れと、東の群れは、同じ草地に近づきつつあった。双方の匂いが、風の向きによって混ざる日があった。まだ近づいていない。しかし近づいていた。

遥か離れた場所、乾いた岩棚の上では、別の集団が洞窟の奥に手形を残していた。赤い土を口に含み、岩に吹きつけた。形は残った。誰かが見るためではなかった。それでも残った。

旧人の集団は、いつもの経路を外れた場所に痕跡を残し始めた。踏み固められた草、火の跡、骨の破片。彼らも広がっていた。豊かな季節は、全ての者を押し広げる。

この星は、等しく雨を降らせた。等しく草を育てた。その結果、何が起きるかは知らない。

与えるもの

この者は川を渡る前に止まった。

対岸の葦が揺れた。風ではなかった。

体の重さが変わる瞬間がある。踏み出す前の、あの一瞬。そこに落とせるものがあるとしたら、温度だと思った。足の裏から伝わる地面の温度。対岸の土は、こちらより低い。水が滲んでいる。獣が夜に来た跡だ。

足の裏が、冷えた。

この者は止まったままだった。渡らなかった。それだけのことだった。それが正しかったのかどうか、問う気にはなれない。渡った先に何があったかを、この者は知らない。わたしも知らない。

渡さなかったものがある、とは言いたくない。渡した。温度を渡した。この者がそれを受け取ったかどうか、足の裏が教えたのかどうか、わからない。

次に渡せるのは、帰り道の匂いかもしれない。あるいは、煙の色か。

その者(45〜50歳)

川のそばで足が止まった。

止まった理由がわからなかった。葦が揺れていた。風ではないと思った。思ったというより、首の後ろが冷えた。

引き返した。

群れのいる場所まで、半日かけて戻った。途中、枯れ草の中に獣の糞を見つけた。新しかった。大きな獣だった。横を通り過ぎた。特に何も思わなかった。

夕方、群れのそばで火が焚かれた。その者は火から少し離れた場所に座った。子どもが二人、足元で動いていた。自分の子ではないが、群れの子だった。

一人が木の枝で地面を叩いていた。もう一人がそれを奪おうとしていた。その者は見ていた。奪った方が、別の枝を探して走った。叩かれた方が泣かなかった。また別の枝を見つけた。

火が揺れた。

その者は川のことを思い出した。葦が揺れた場面。足の裏が冷えた感触。渡らなかったこと。

何かが喉の奥に引っかかっていた。言葉にならなかった。言葉がなかった。

火を見た。火が答えなかった。

岩を一つ拾った。形が良かった。角が三つあった。手の中で転がした。転がした。

夜になった。

伝播:SILENCE 人口:641
与えるものの観察:足の裏が冷えた。それだけ渡した。
───
第1281話

紀元前293,605年

第二の星

雨季が終わった。

終わり方が、いつもと違った。水が引くのではなく、蒸発した。地面が先に乾き、空がそれに続いた。雲が薄くなり、透き通り、消えた。始まりの大地の空は青を深め、昼間でも空気が刃のように澄んだ。

草が縮んだ。脛まで伸びていたものが、膝の下で止まり、そのまま黄くなった。沼地の縁から葦が後退した。水鳥の群れが朝に集まり、昼には消え、翌日には戻らなかった。獣の足跡が泥に刻まれなくなった。泥そのものが、なくなったからだ。

集団は移動した。移動するとき、彼らは音を出さない。長い沈黙の行列が、乾いた草原を横切った。子どもたちが荷を背負い、老いた者が後からついた。先頭を歩く者が、時折立ち止まり、鼻を上げ、また歩いた。

水場を見つけるたびに、群れは一日を過ごした。水が濁っていれば、半日で去った。澄んでいれば、二日とどまり、近くの草を引き、根を掘り、火を熾した。火の傍で子どもたちが眠り、大人は交代で外を向いた。

このとき、別の集団がいた。

東の尾根の向こうに、足跡があった。人の足跡だが、この集団のものではない。幅が広く、指が短い。踵の深い圧痕が、重い体重を示していた。旧人の足跡だった。

旧人はこの地域に長くいた。彼らは川沿いの崖に住み、赤い顔料で壁に手形を残した。獣を追うとき、低く唸り声を上げた。この集団と旧人は、過去に同じ水場を使ったことがある。争いはなかった。しかし距離は保たれていた。

干ばつが、その距離を縮めた。

同じ水場に、両者が向かっていた。水が減れば、選択肢が減る。選択肢が減れば、経路が重なる。経路が重なれば、夜明けの水場で、互いの影が見える。

この集団の若い男たちが石を拾い始めたのは、三日前だった。握りやすい大きさの、角のある石。狩りに使う投石ではなく、もっと短い距離で使う重さのもの。老いた者が何かを叫んだが、若い男たちは聞かなかった。

乾いた風が、東から吹き続けた。

与えるもの

水場の手前、低木が数本、乾いた幹を晒していた。

根元に、影がある。その影の中に、水が滲んでいた。土の表面が、わずかに色を変えていた。地下の水脈が、そこだけ浅いのだった。

渇いている者が、そこを掘れば飲める。

風が、その低木の枝を揺らした。乾いた枝が鳴り、葉の残骸が舞った。香りがあった。根が水を吸っている植物だけが持つ、わずかな青い湿り気の匂い。

この者が、それを嗅いだ。

鼻が、その方向を向いた。体が止まった。足が、一歩、低木のほうへ向いた。

それだけだった。

この者は、若い男たちの後ろについていた。石を拾っていなかった。しかし止まらなかった。

渡すべきものが届いた瞬間、この者はその場を離れようとしていなかった。ならば、次に渡せるのはいつか。渡せる場所は、まだあるか。水は地下にある。この者が掘るかどうかは、まだ決まっていない。

その者(50〜55歳)

低木の匂いを嗅いだ。

足が止まった。根元を見た。土の色が、周りより濃かった。膝をついて、指で土を押した。湿っていた。

立ち上がった。

若い男たちの背中が遠ざかっていた。叫ばなかった。声を出さなかった。ただ、その背中を見た。

東の風が吹いた。

伝播:HERESY 人口:619
与えるものの観察:渡した。この者は受け取った。しかし動かなかった。
───
第1282話

紀元前293,600年

その者(55〜60歳)

地面が音を立てた。

足の裏ではなく、踵だった。乾いた土が、踏むたびに粉になった。粉が踵の皮膚の隙間に入り込んだ。その者は止まった。

かがんだ。

指で土をすくった。手を傾けると、土が風もないのに流れた。こんな土は知らなかった。水を含んだことがある土ではなかった。

立ち上がろうとして、できなかった。

膝が言うことを聞かなかった。ゆっくりと、尻が地面についた。その者はしばらくそのままでいた。恥ずかしいとは思わなかった。思う言葉がなかった。

遠くで群れの声がした。子どもの声が混じっていた。

その者は顔を上げた。空は白かった。青ではなく、白だった。雲があるのか、空そのものが焼けているのか、区別がつかなかった。

立とうとした。

また、できなかった。

足の裏が地面に触れていた。地面は熱くなかった。ただ、乾いていた。その乾きが足の裏を通って、脚の中まで来ているような気がした。水気がどこにもなかった。身体の中にも。

その者は横になった。

意識して横になったのか、倒れたのか、自分にもわからなかった。土の匂いがした。塵の匂いだった。かつて土にあった匂いではなかった。

目を開けたまま、空を見た。

白い空だった。

群れの声が聞こえなくなったわけではなかった。遠くで続いていた。子どもの声も続いていた。その者はそれを聞いていた。

聞きながら、白い空を見ていた。

風が一度だけ来た。砂を巻いた。目に入った。その者は目を閉じた。

目を開けなかった。

砂がまだ風の中を転がっていた。その者の手が土の上に伸びたまま、指が少し曲がっていた。力が入っていたのか、抜けていたのか、わからなかった。

第二の星

同じ頃、北の岩場では、二つの群れが水場の前で向かい合っていた。声を出す者はいなかった。互いに石を持っていた。水は浅く、どちらにも足りなかった。風が岩の間を通り、低く鳴った。誰も動かなかった。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:NOISE 人口:627
与えるものの観察:止まれなかったのではない。止まったのだ。
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第1283話

紀元前293,595年

その者(31〜36歳)

崖の縁に出たとき、足が止まった。

眼下に集団の野営地が見えた。煙が三本、南の木立の中から立っていた。その者が知っている煙ではなかった。煙の色が違う。燃えている木が違う。

その者は腹ばいになって岩に体を貼り付けた。

遠くで声がした。音の形が違う。母音の数が違う。舌の位置が違う。その者は生まれてから一度も聞いたことのない声の連なりだったが、声であることはわかった。怒りでも喜びでもない声だった。ただ、そこにいる声だった。

岩の下縁に指を引っかけ、しばらく動かなかった。

風が南から来た。煙の匂いを運んできた。肉の焼ける匂いだった。その者の腹が鳴った。二日、まともに食べていなかった。

降りようとした。

足を一歩、崖の斜面に踏み出したとき、匂いが変わった。

肉の匂いの奥から、別のものが来た。鉄に似た、湿った、重い匂いだった。その者はまだその匂いに名前を持っていなかった。しかし体が知っていた。膝が戻った。腹ばいに戻った。

煙の中から、二本の足が現れた。

続いて、別の二本。別の二本。

七人いた。いや、八人。手に、長い骨を持っている者がいた。木の枝に石を括り付けた者がいた。その者は自分の集団が使うものと似た形を見たが、持ち方が違うことに気づいた。先端を下に向けていた。地面を叩くためではなく、前に突くための持ち方だった。

その者は動かなかった。

喉の奥で音が固まった。集団に伝えるための音。しかし出なかった。岩が指の隙間を押し返すほど、力が入っていた。

八人は木立の中に消えた。

消えた方向は、その者の集団の野営地とは違う方角だった。東だった。集団は南にいた。

その者は一時間、動かなかった。それから、ゆっくりと後退した。崖の縁から離れ、岩陰に入り、それから走った。

集団の野営地に戻ったとき、その者の口から音が出た。言葉ではなかった。息だった。

火の傍にいた年長の者が顔を上げた。

その者は東を指した。手で「多い」を示した。手で「持っている」を示した。手で「違う」を示した。

年長の者の目が変わった。

その夜、集団は火を消した。火を消したのは初めてだった。暗闇の中で、子供たちが泣かなかった。泣き方を忘れたように静かだった。

朝が来た。

集団は移動した。

その者は先頭を歩いた。後ろから十七人分の足音が続いた。子供の足音が混じっていた。その者は振り返らなかった。

三日後、その者は戻ってこなかった。

待った者はいた。四人。しかし日が暮れても、次の日が来ても、その者の足音は聞こえなかった。

岩場の奥、誰も見ていない場所で、その者は横向きに倒れていた。額に傷があった。石による傷だった。眼は開いたままで、空を見ていた。空には何もなかった。

第二の星

紀元前293,595年。

始まりの大地の北端、崖の連なる地帯では、別の血筋を持つ者たちが縄張りを広げていた。顎の形が違う。眉の出方が違う。声の作り方が違う。しかし火を熾す。肉を焼く。集団で動く。石を道具にする。遠くから見れば、似ている。近くに来れば、違う。

集団の規模は互いに小さかった。単独では越えられない季節を、数で乗り越えていた。

この5年で、人口は627から増えていなかった。干ばつの傷が残っていた。子は生まれたが、地面が乾いたままで木の実が少なく、乳の出が悪かった。半数に達しない子が、最初の冬を越えられなかった。

集団の緊張は気候と一緒に高まっていた。食料が少ないとき、見知らぬ者の煙は脅威になる。見知らぬ者の声は脅威になる。持ち方の違う道具は脅威になる。

その者が戻らなかったとき、集団の誰一人、それを確かめに行かなかった。

行けなかった。

第二の星はその場所を照らし続けた。岩場の奥、横向きに倒れた体を、夜が来て朝が来るまで。

判断しなかった。

与えるもの

糸が繋がった。

湿った鉄の匂いを、風が運んだ。

その者は戻った。集団は生きた。

その者は戻らなかった。

渡したのは匂いだった。体が受け取った。膝が戻った。それは機能した。

集団は生きた。

しかし。

石は見えなかった場所から来た。集団を守るために知ったことが、その者を危うくした。知ることと、戻ることは、同じ道の上にない。

次に渡すべきは何か。

次の者に。帰り道を知っている者に。知ったことを声にできる者に。声を持って戻れる者に。

糸は残る。どこへ。

伝播:HERESY 人口:599
与えるものの観察:匂いで体が引き返した。しかし石は追いついた。
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第1284話

紀元前293,590年

第二の星

大地は乾いている。

南の台地では草が根ごと剥がれ、風に巻き上げられて空を横切る。赤みを帯びた土が裂けている。亀裂は深く、指を入れれば肘まで届く。水は地の下にある。どこにあるかを知っている者はいない。

北の林縁では、別の集団が移動している。子を背負った者が先を歩く。振り返らない。後ろからついてくる足音が減っても、振り返らない。

煙が三本あった場所に、今は一本もない。

この星の空は白く濁っている。砂が高くまで舞い上がっているためだ。太陽は見えるが、影は薄い。地面に落ちる影が薄い日は、獣が遠くに行く。その者の集団はそれを知っている。言葉にはなっていないが、知っている。

東の窪地では水がある。地面が暗く湿り、葦が三本、風に揺れている。その場所を知っている者が集団の中に一人いる。36歳になった者だ。5年前より頰が落ちた。足の裏が厚くなった。

旧人の集団は、今日も西の丘陵を移動している。足跡の幅が広い。重いものを運んでいる。

この星は、どちらの集団も区別しない。

与えるもの

東の窪地の方向から、腐葉の匂いが来た。

湿った土の、重い匂い。生きているものが積み重なって崩れていくときの匂い。その者は鼻を動かした。足を止めた。それだけだった。

その場所に水があるかもしれない。その者はそちらへ向かわなかった。

先に行くべき方向が別にあると、その者は判断した。

三日後に水を見つけた。違う場所で。それは正しかった。

では腐葉の匂いは何だったのか。水ではなかった。だが何かがあった。与えるものには、その場所に足を踏み入れた者がいなければ確かめる術がない。

次に渡すべきものを、考えている。

その者(36〜41歳)

夜明けに目が覚めると、腕に何かがいた。

小さな虫だった。光る虫ではない。ただの虫だった。でも、動きが遅かった。乾きで動きが鈍くなっていた。その者は虫を見た。しばらく見た。それから指で弾いた。

起き上がり、空を見た。白い空だった。太陽がどこにあるか、おおよそわかった。

歩き始めた。集団の中で最初に歩き始めるのは、その者だった。

乾いた草の間を抜けた。靴はない。足の裏が草の先端を感じた。湿っているかどうか、踏む前にわかる。乾いていれば音が違う。その者はその違いを言葉にしたことがなかった。言葉にする必要がなかった。

途中で、匂いが来た。

重い匂いだった。土と、腐ったものと、何か別のものが混じっていた。その者は立ち止まった。匂いの方向を確かめた。東だった。

でも東には行かなかった。

理由はない。ただ、南に行かなければならないという感覚があった。南の方が、体が知っていた。

南に行った。三日後、低い岩盤の割れ目から水が滲み出している場所を見つけた。舐めた。苦かったが、水だった。

集団を呼ぶ声を出した。高く、短く、二回。

その日の夕方、集団がその場所に集まった。子どもが先に飲んだ。その者は最後に飲んだ。

夜、火を囲んで誰かが足を踏み鳴らし始めた。リズムがあった。他の者がそれに合わせた。その者は合わせなかった。岩に背を預けて、空を見ていた。

星が出ていた。白い空が、夜になって透けた。

その者は星を数えることをしない。名前をつけることもしない。ただ、ある夜に多く見えて、ある夜に少なく見える、ということを知っている。

今夜は多かった。

伝播:DISTORTED 人口:608
与えるものの観察:匂いを受け取った。使わなかった。それだけだ。
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第1285話

紀元前293,585年

その者(41〜43歳)

草の実が少なくなった。

その者は知っていた。毎朝、手を地面に押しつけて、土の乾き具合を確かめた。指の間から崩れる粒。去年より、その前の年より、乾いている。

集団は増えていた。子が増え、老いた者も死ななかった。腹が空いてもまだ動ける者が多く、その分、探さなければならない範囲が広くなった。

その者は毎朝、他の者より先に出た。

三日間、歩いた。

低い丘をいくつも越えた。岩の裂け目から染み出す水を舌で舐めた。少なかった。足の裏に小石が食い込んでも立ち止まらなかった。

四日目の朝、足が重くなった。

腹の中に何もなかった。喉が細くなったような感覚があった。日が高くなるにつれて、地面が揺れているように見えた。実際には揺れていない。

その者は岩陰に入った。

座った。膝を抱えた。そのまま、しばらく空を見た。

雲はなかった。

その者は立ち上がろうとした。

右足を地面に踏んばった。左足が続かなかった。腕で体を支えようとして、岩に手をついた。岩は熱かった。

その場で横になった。

頬が地面に触れた。土の匂いがした。乾いた、古い土の匂い。

呼吸は続いていた。

続いていた。

続いていた。

それから、続かなくなった。

誰も来なかった。その者がそこにいることを、集団は知らなかった。

第二の星

同じ頃、遠い平原の縁で、子が二人生まれた。双子だった。片方はすぐに泣いた。もう片方は静かだった。母親はどちらも胸に抱いた。風が北から吹いていた。草の穂が一方向にそよいだ。岩の上で鳥が鳴いた。それだけのことが、同時に起きていた。

与えるもの

私はそこにいた。

あの光が岩陰に落ちたとき、この者の目はもう動かなかった。届かなかったのか。届いたが、もう間に合わなかったのか。私にはわからない。

四十一年前から、私はこの者に何かを渡そうとした。足の裏が読んだ地面の温度。匂いで辿った水の方向。風が変わる瞬間の空気。この者はそのたびに、何かを感じた。感じて、動いた。それが私の働きによるものだったのか、この者の体がもとから知っていたことなのか、私には区別できない。

次に渡すべき者がいる。

それだけは知っている。

伝播:SILENCE 人口:790
与えるものの観察:届いたのか。体がもとから知っていたのか。
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第1286話

紀元前293,580年

その者(1〜6歳)

抱かれている。

重い胸の匂い。皮膚の熱。その者はまだ名前を知らない。名前というものを知らない。ただ、これが温かいと知っている。これが揺れると眠くなると知っている。それだけが世界だ。

腹が空く。泣く。何かが口に当てられる。飲む。眠る。

目が覚める。

抱く者の顔が、ある日から変わった。別の腕だ。別の匂いだ。その者は泣いた。しばらく泣いた。それから飲んだ。眠った。

最初の腕がどこへ行ったか、その者は知らない。

草の上を這う。

石がある。拾う。舐める。苦い。置く。また拾う。

火がある。近づく。誰かが腕を掴んで引き離す。熱い。泣く。

また近づく。

引き離される。

また近づく。

三度目に、指先が焦げる感覚を知った。その者はしばらく手を眺めた。指先を。それから火を。指先を。火を。

泣かなかった。

集団が動いた。

その者は背に括られた。揺れる。草が流れる。木が流れる。空が流れる。ある夜、大きな音がした。地鳴りか、遠い獣の群れか。その者には区別がない。ただ、抱く者の胸が速く打っていた。その速さがその者の中に入ってきた。胸も速く打った。

夜が明けた。

抱く者は寝ていた。その者は这い出て、土を掴んだ。草の根を引っ張った。根が切れた。また引っ張った。

誰かが来た。持ち上げられた。

その者はまだ根を握っていた。

三年目か、四年目か。

足で歩くようになった。転ぶ。立つ。転ぶ。立つ。

集団の端に、別の顔の者たちがいた。額の出っ張り方が違う。眼窩の深さが違う。その者はしばらくその者たちを見ていた。相手もこちらを見ていた。

どちらも動かなかった。

風が吹いた。草が揺れた。その者は草のほうを向いた。別の顔の者も草のほうを向いた。

それだけだった。

六歳になる頃、その者は走れるようになった。

集団の子どもたちと、意味もなく走った。転んだ。また走った。

ある夕方、その者は走りながら倒れた。起き上がって走った。また倒れた。今度は起き上がれなかった。

熱があった。誰かが水を口に押し込んだ。その者は飲んだ。飲んで眠った。

夜中に目が覚めた。

星が見えた。いくつも、いくつも。その者は手を伸ばした。届かなかった。手を下ろした。また伸ばした。

どこかに届いたかどうか、その者は知らない。

第二の星

丘の連なりが低く続く大地だ。雨季の終わりに草が伸び、乾季に褐色に枯れる。今はまだ、緑の時期だ。

集団は増えた。子どもの声が多い。火の周りに座る者が増えた。食べるものが足りている。足りているから、争いが起きる。余った食べ物を誰が持つか。誰が先に食べるか。どの子どもが多く飲むか。

豊かさが、線を引く。

北の丘の向こうに別の集団がいる。時おり近づいてくる。追い払われる。また近づいてくる。今のところ、血は流れていない。

東の川沿いに、額の出っ張った者たちが小さな群れで暮らしている。声の調子が違う。身振りが似ている。こちらの集団の子どもが近づいても、向こうの子どもが近づいても、大人たちがすぐに引き離す。

引き離す。また近づく。引き離す。

その繰り返しが、五年の間、続いている。

子どもたちが生まれ、半数が消え、残った半数が走るようになった。第245世代の者もその中にいる。まだ何者でもない。ただ熱から回復しつつある小さな体が、夜の草の上にある。

与えるもの

糸が繋がった。

その夜、熱の中で手を伸ばした瞬間、星の光が指の先に落ちた。その者の目が、一瞬、光のほうへ向いた。

受け取ったかどうかは、わからない。

しかし目が向いた。それだけは確かだ。

この草の葉の縁が、傷を塞ぐ。

光がその葉の上で少し長く止まった。その者の視線はそこに来なかった。代わりに、隣の子どもが葉を踏んで通り過ぎた。

踏まれた。それだけだ。次に渡すべきものが、まだある。この者の手が動くようになるまで、時間がある。

最初から全部渡そうとした。届かなかった。

あれから、何も変わっていないかもしれない。

それでも、この者は熱から目を覚ました。手を伸ばした。何かのほうへ、手を伸ばした。

次は何を渡す。

伝播:HERESY 人口:754
与えるものの観察:手が伸びた。届かなかった。それでも伸びた。
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第1287話

紀元前293,575年

第二の星

乾いた季節が続いている。

川床が白い。骨のように白い。水が来たのは遠い雨の記憶の中だけで、土は足の裏に粉のようにまとわりつく。亀裂が走っている。地面の表面がこのまま剥がれてどこかへ行ってしまうのではないかというほど深く、真っ直ぐでなく、迷うように走っている。

集団は川沿いに沿って移動した。

川がないのに川沿いに動いているのは、水があった場所の記憶が体に残っているからだ。足が覚えている。老いた者が先を歩く。最年長の雌が先頭にいて、振り返らない。

だが途中で止まった。

匂いがある。腐敗の匂いではない。生き物の匂いだ。煙でも獣でもなく、もっと近い種類の、毛と汗と恐怖の混じった匂い。集団はそれを嗅いだ。子どもを後ろに隠した。低い声が出た。命令ではなく、共鳴だ。皆が同時に低くなる。

別の集団がいる。

この地の北にいる一群だ。背が低く、額が張り出し、顎が重い。目が黄みがかって光る。人間に似て、人間でない。あるいは人間に似た何かだ。彼らもまた水を探している。水がなければ死ぬという点で、彼らも同じだ。

二つの集団が川床で向き合う。

声を出す者がいる。叫びに近い。威嚇だ。相手側も声を返す。音の形が違う。喉の形が違うから、同じ意味の音が出ない。「行け」と言っていても「来い」に聞こえる。「恐れている」が「怒っている」に聞こえる。

石が投げられた。

誰が最初に投げたか、後になってもわからない。一つ石が飛んで、それから多くの石が飛んだ。別の集団の若い個体が額に受けて倒れた。動かなくなるまで時間はかからなかった。こちらの集団も一人が倒れた。腕を押さえて座り込んだまま、起き上がれなかった。

別の集団が退いた。

退く方向は北だった。砂埃の中に消えた。消えた後も誰も動かなかった。地面には石が散らばっている。拾われなかった石と、今日初めて武器として使われた石とが混じっている。見た目では区別がつかない。

集団の最年長の雌が川床を見た。

白い砂の中に、湿った筋がある。細い。指の幅ほどもない。それでも湿っている。その筋に沿ってしゃがみ、掌で土を掻いた。他の者が来た。掻いた。また掻いた。

夕方になる前に、水が滲んだ。

飲める量ではない。舐めるほどの量だ。だが集団の者は順番に舌をつけた。子どもを抱えた者は子どもの口を先につけた。老いた者は最後だった。最後に残った水を舐めて、立ち上がった。

夜、集団は川床の窪みに身を寄せた。

火はない。煙で別の集団を呼ぶことを体が恐れている。火のない夜は長い。空だけが明るく、地面は暗い。

与えるもの

土の亀裂の中に、何かが光った。

川床を掘っていた女の手の、少し右だ。白い砂粒とは違う鈍い光。水ではなく、石の一種が光を返していた。硬い。割れない。刃のように薄い。

女は気づかなかった。

別の場所を掘り続けた。その石は砂の中に沈んだ。

渡せなかった。また渡せなかった。──しかし、砂の中に埋まった石は、次の誰かの手に届くかもしれない。その者ではなくても。この世代でなくても。渡せなかったことが、別の渡し方になるのか。

その者(6〜11歳)

石が飛んだとき、その者は誰かの背中に押しつけられていた。

顔が肉に埋まって、音だけが聞こえた。重い音。地面に当たる音。それから静かになった。

静かになると、背中から解放された。

地面に散らばった石を見た。手を伸ばした。拾った。重い。置いた。また拾った。置いた。

伝播:DISTORTED 人口:762
与えるものの観察:渡した石は砂に沈んだ。次があるとすれば、次の者だ。
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第1288話

紀元前293,570年

第二の星

乾季が続いている。

草原の東端では、旧人の一集団が三日歩いた場所にある窪地へ向かっている。彼らの足跡は深くない。体が軽くなっているからだ。

西の丘では、人類の集団がふたつ、同じ泉の場所を知っている。どちらもまだ気づいていない。知っているのは足と鼻だ。体が知っている。頭はまだ知らない。

泥が干上がった川床のそばで、子ひとりが座っている。空が白い。白すぎる。影が短く、どこへも逃げない。

南の森では、樹皮の裂けた木の下に死体がある。倒れたのがいつかはもうわからない。土がゆっくり受け取っている。

集団の中では、声が荒くなっている。食べ物が減ると声は荒くなる。誰かが誰かを突いた。誰かが泣いた。子が泣いた。大人が子を黙らせようとした。黙らなかった。

第二の星はそれを照らしている。

光の角度が変わらない。季節が動いていない。動いているのに、止まっているように見える。土は粉で、水は遠く、影は短い。

集団の輪郭が、この五年でほぐれている。誰がどこの者かが、少しずつわからなくなっている。

与えるもの

風がなかった。

だから匂いで示した。腐った匂いではない。湿った岩の匂いだ。石の下に残る、昨日よりも古い水の気配。

その者は立ち止まった。鼻を動かした。もう一度動かした。

立ち止まったことが何かを渡せたのかもしれない。それとも渇きが体をそうさせただけか。

この者が石を退かして地面を見るかどうかは、まだわからない。退かしたとしても、指を押し当てるかどうかはわからない。指に水が滲んだとして、舐めるかどうかもわからない。

渡す先が長い。

その者(11〜16歳)

脚が止まった。

なぜかはわからなかった。ただ止まった。

鼻が動いた。空気の中に何かがある。食べ物ではない。獣でもない。乾いたものの中にある、乾いていない何かの気配。

しゃがんだ。

平たい岩がある。両手で端を持って引いた。思ったより重かった。ずらした。地面が暗い色をしていた。他の場所より。

指を押し当てた。冷たかった。

もう一度押した。

引いた指先を見た。乾いている。乾いているが、さっきまでとは違う乾き方をしている。

舐めた。

何もなかった。味がなかった。でも何かがあった。何かが舌の裏にあった。

また押した。また舐めた。

何度かそうした後で、立ち上がった。集団の方へ走った。

走りながら何かを叫んだ。言葉ではなかった。声だった。でも届いた。数人が振り返った。

その者はまた走った。

伝播:DISTORTED 人口:771
与えるものの観察:届いた。それだけだ。意図通りかどうかは別の話。
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第1289話

紀元前293,565年

第二の星

草原が割れている。

地面のひびは東へ走り、西へ走り、どちらが先に入ったかわからないまま網の目になっている。その中心で、泉がある。泉は水を持っている。まだ。

北の岩場では、旧人の幾つかが石を打ち合わせている。音が乾いた空気の中を跳ねる。彼らの指は分厚く、角度を知っている。剥がれた欠片が足元に積もっている。積もり方は長い。

西の丘では、人類の集団がふたつ、同じ方向を見ている。泉を知っている者たちが、泉を知っている別の者たちを見ている。見るだけでいられるのが、どれほど続くかは、草原だけが知っている。

南の低地では、川だったものが白い線になっている。鳥が一羽、その上を横切って、戻らない。

子どもが三人、大人の足元で寝ている。起きているのか眠っているのか、この星には区別がない。体温と脈拍がある。今は。

夕暮れが来る。影が長くなる。ひびのある地面に影が入り込み、地面をさらに割れているように見せる。見えているものと、あるものは、必ずしも同じではない。

この星は、それでも回っている。

与えるもの

泉の縁に、風が吹いた。

西から来た。人類の集団がいる方向から。旧人がいる方向からではない。

その者の鼻に、水の匂いが届いた。

渡した。

その者は立ち上がった。ただし、正しい方向へ向かったかどうかは、まだわからない。

重い、と言えるのかわからない。ただ、前に渡したものがどこへ行ったか、この者の中に残っているか、確かめる方法がない。渡すたびに問いが増える。渡さなければ問いは生まれない。ならば渡し続けることが次の問いへの唯一の道だ。次に渡すべきものは何か。水ではなく、その先にあるものを。

その者(16〜21歳)

体が先に立っていた。

頭はまだ地面を向いていた。足が動き始めてから、ようやく目が上がった。鼻が何かを知っていた。口が乾いていた。足裏の感覚が硬い地面を読んでいた。

泉へ向かう道に、別の集団がいた。

その者は止まった。

相手も止まった。

しばらく、どちらも動かなかった。風が止まっていた。

その者の喉が鳴った。唾液が足りなかった。目が相手の手を見た。手に何もないことを見た。相手もこちらの手を見ているのが分かった。何秒か、何十秒か、どちらでもよかった。

先に動いたのは、相手の集団の中の年長の者だった。横へ動いた。泉から離れる方向へ。

その者は、それを見た。見たまま、しばらく何もしなかった。

それから、泉へ歩いた。

水面に顔を近づけた。水があった。舌が水に触れた。体の中で何かが広がった。音ではなく、熱でもなく、単純な広がりだった。

飲んでいる間、その者は後ろを向かなかった。

飲み終えてから、立ち上がった。後ろを見た。相手の集団は、まだそこにいた。離れた場所で、こちらを見ていた。

その者は、向かい合ったまま、動かなかった。

相手の集団の中で、一番体の小さい者が動いた。泉の方へ来た。その者から離れた場所で水を飲み始めた。

その者は、それを見ていた。

何も、しなかった。

伝播:DISTORTED 人口:780
与えるものの観察:水の匂いが届いた。立ち上がった。それだけ。
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第1290話

紀元前293,560年

第二の星

乾季が終わろうとしている。

始まりの大地の南端、低い丘が連なる一帯では、地面が少しずつ熱を手放しはじめていた。夜が長くなっている。夜明けの空気が、昼のそれとは別の重さを持つようになった。

泉のまわりで三つの群れが顔を合わせている。水があるところに者たちは集まり、集まった者たちはたがいを測る。言葉はなくとも、視線は長く続く。

北の岩場の旧人たちも動いている。石を打ち、何かを探すように岩壁のあちこちを触れている。者たちとはちがう骨格で、ちがう匂いを持ち、しかし同じ水を飲んでいる。

遥か東、まだ誰も渡ったことのない草地の向こうで、別の者たちが雨季の到来を待ちながら木の実を割っていた。そこに干ばつの知らせは届かない。彼らには彼らの乾きがある。

水が少ないところで、者たちは近くなる。近くなると、押し合う。

この星はそれをただ傾けている。軸は変わらない。季節は戻る。押し合いの中で誰かが倒れることも、誰かが立ちつづけることも、等しく照らされる。

与えるもの

匂いが東から流れてきた。雨の予感ではない。腐敗でもない。何かが燃えた後の、遠い焦げた土の匂い。

その者の鼻孔がひらいた。

それで十分だった。いや、十分かどうかはわからない。この者は匂いを受け取り、立ち上がり、東を向いた。そこに何があるかを知らないまま。次に渡すべきは、もっと近くにある。逃げる方角ではなく、留まる理由を。それを、どう届けるか。

その者(21〜26歳)

匂いを嗅いで立った。

群れの中に六人いた。老いた二人と、子のある女が三人と、その者。子どもたちはまだ眠っている。

東から来た匂いは、その者の知っているどの匂いとも少しちがった。煙は知っている。焼けた草も知っている。これはその両方に似ていて、しかしもっと遠かった。距離の匂い、と呼ぶ言葉はない。ただ、遠いと体が知っていた。

老いた一人が目を開けた。その者を見た。何も言わなかった。

その者は座った。

泉のほうから声が聞こえた。北の群れの声だ。荒く、短く、切れる声。その者は膝を抱えた。背中の皮膚が縮んだ。

子どもたちの一人が寝返りを打った。小さな手が砂に触れた。

その者はその手を見ていた。

声が高くなった。女のひとりが子どもを抱いて岩の裏に回った。老いた一人が立った。その者も立った。何をするかは知らない。ただ、立った者のそばに立った。

石が岩に当たる音がした。

その者の足が止まった。心臓が速くなった。足が止まったまま速くなった。

走るか、留まるか。

体は答えを出さなかった。両脚が地面を踏んだまま、どちらにも動かなかった。

伝播:HERESY 人口:744
与えるものの観察:留まる者が何を見ているか、まだわからない
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第1291話

紀元前293,555年

第二の星

乾季の最後の熱が抜けている。

丘陵の南側では、夜ごと岩が鳴る。熱膨張と収縮が石を割る音だ。誰も気に留めない。慣れた音だ。だが今年は頻度が違う。昼と夜の温度差が大きくなっている。

泉のまわりで三つの群れが距離を測りながら動いている。同じ水を飲む。目を合わせない。子どもだけが境界を知らずに混じる。大人が引き戻す。

北の丘の向こう、この群れとは無関係な場所で、一人の老いた者が岩棚の下に横たわっている。体が熱い。傷ではない。腹の中で何かが腐っている。群れの誰も近づかない。匂いを知っているからだ。夜明けに雨が来た。老いた者は雨を口に受けたまま、力が抜けた。雨は降り続けた。

東の草原の端では、別の集団が新しい水場を見つけている。彼らはそこに留まる判断をした。子どもが多い。動けない。

始まりの大地の上で、命は増え、消え、止まり、また動く。第二の星はそのすべてに光を当てる。どれが重要か、判断しない。

与えるもの

群れの境界に、風が吹いた。

東から来る風だった。草の匂いがあった。湿った土の匂いもあった。その者の鼻孔に届くよう、この風に意識を向けた。

その者は立ち止まった。顔を東に向けた。だがすぐに、腹を蹴った子どもの方を振り返った。

この者には、届いたのか。届かなかったのか。

次に渡すべきものは何か。風ではないかもしれない。音でもないかもしれない。この者がまだ気づいていないものを、渡す方法がまだある。

その者(26〜31歳)

腹が重い。

立ち上がるたびに重心がずれる。慣れていない重さではないが、今回は深い場所に感じる。骨の近くにある。

泉のまわりで、別の群れの男が目を向けてきた。その者は男から目を逸らさなかった。男の方が先に視線を落とした。

子どもが腹を蹴った。

その者は手を腹に当てた。押し返す気持ちはなかった。ただ当てた。内側からの動きが手のひらに来た。

東から風が吹いた。

その者は顔を上げた。草の匂いがした。遠い水の匂いかもしれなかった。一瞬、足がその方向に傾いた。

子どもがまた動いた。足が止まった。

夕方、群れの火のそばで皮を叩いた。固い石で叩いて、叩いて、端をめくって、また叩いた。指が赤くなった。気にしなかった。暗くなるまで叩いた。

夜、横になった。

腹の中の動きが続いていた。その者は目を開けたまま空を見ていた。星が多かった。その者には星の名前がない。数える習慣もない。ただ見ていた。

手が自然に腹の上に戻った。

伝播:NOISE 人口:754
与えるものの観察:風は届いた。だがこの者には別の重力があった。
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第1292話

紀元前293,550年

その者(31〜36歳)

足首まで届く草が、膝まで届いていた季節を、その者は覚えていない。

三十二歳のとき、その者は集団の外縁を歩く役を担うようになった。群れの縁を踏む者。誰も望まない場所にいる者。若い頃、石を割るのが遅かった。皮をなめすのが遅かった。その代わり、ひとりで遠くまで行った。それがいつの間にか、役になっていた。

北側の斜面に、新しい足跡があった。

その者の足より広い。指の数は同じだが、踵の落ち方が違う。深い。重い体の跡だ。その者はしばらくそこに立っていた。鼻で引いた息を、ゆっくり吐いた。

嗅いだことのない匂いが、草の根に染みていた。

群れに戻った。大きな男に身振りで伝えた。北、足跡、重い。男は顔を動かさなかった。別の男が何か言った。短い音だった。その者には聞き取れなかった。

夜、火の外側に座った。

子どもたちが火の近くで眠っていた。老いた女が皮を折りたたんでいた。その者は草の茎を手の中で転がした。折った。また折った。細かくしていった。

翌朝、足跡は増えていた。

三つ。いや、四つ。重なっているものもある。その者は数えようとして、やめた。数えることで何かが変わるとは思わなかった。ただ、数えたかった。なぜかはわからない。

その者は三十四歳になっていた。

集団の中に、よそ者の声が混じるようになった。言葉の形が少し違う。母音が長い。その者はその声を何度も聞いた。聞くたびに、腹の奥で何かが締まった。恐れではない。もっと小さな、形のない、何か。

群れの中で話し合いがあった。

長く続いた。声が高くなる者がいた。腕を動かす者がいた。その者は端に座っていた。何も言わなかった。言う言葉を持っていなかった。だが、話し合いの途中で、ひとりの男がその者を指差した。短い音が飛んできた。

その者は立ち上がった。

なぜ立ち上がったのかはわからない。立ち上がることが、答えのように感じた。しかしそうではなかった。

男たちが近づいてきた。

その者は逃げなかった。逃げるという考えが、間に合わなかった。岩が飛んできた。ひとつ目は肩をかすった。ふたつ目は当たらなかった。三つ目は、額に当たった。

その者は倒れた。

草の上に、横向きに。顔の下で、茎が折れる音がした。空が見えた。空は何もしなかった。風が止まっていた。

誰も近づかなかった。

しばらくして、老いた女が来た。顔を見た。何もしなかった。去っていった。

その者は夜まで、そこにいた。

体の中から力が抜けていった。早くもなく、遅くもなく。草の匂いが濃くなった。土が冷たくなった。空が暗くなった。

草が、風で揺れた。

第二の星

北の高地では、気温が下がっている。

南の低地では、雨が戻っていた。草が膝の高さまで育ち、水場に動物が集まり、集団は動き回った。乾いた五年が終わり、大地は息を吐いたように見えた。

だが集団の内側では、別の何かが積み上がっていた。

よそから来た者たちが増えた。言葉の形が少し違う。皮の縫い方が少し違う。石の割り方も違う。最初は端にいた。やがて火の近くに座るようになった。

古くからいた者たちは、それを静かに見ていた。やがて静かではなくなった。

集団の外縁を歩く者が、ひとり消えた。岩が当たったのか、倒れたのか、遠くへ行ったのか、それは記録されない。この星は知っている。草の上に横たわった体を。夜の冷気の中で静かになった呼吸を。

二百五十キロ東では、別の小さな群れが川沿いを北に移動していた。七人。子が三人。そのうちひとりは、歩き始めたばかりだった。

この星はそこも照らしていた。

足跡の増減と、炎の大小と、消えていく体を、等しく照らしていた。どれも同じ重さで。

与えるもの

足跡に気づいていた。

足の裏で土の変化を感じた。その朝だけで、三度、新しい場所を踏んだ。

草の茎を折り続けていた。あれは何だったのか。指が動きたかったのか。それとも、数えようとしていたのか。

次に渡すべきものが、もうこの者にはない。

では、残された者に渡すか。老いた女は去っていった。顔を見て、去った。あの女の中に、何かが残ったかもしれない。顔を見たことが、記憶になったかもしれない。

次はあの女に、光を落とすべきか。

伝播:HERESY 人口:722
与えるものの観察:足跡を数えようとして、やめた。
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第1293話

紀元前293,545年

第二の星

大地の東側で、雨が長く降り続いた年があった。

川が岸を越え、低い場所に住んでいた群れのいくつかは高みへ逃げた。泥の中に道具が沈んだ。火種が消えた。子どもたちが咳をした。

その咳が止まらなかった。

最初に倒れたのは、水を運ぶ役の女だった。翌朝、彼女の隣に寝ていた男が同じように震えはじめた。熱が体の内側から出てくるようで、皮膚に触れると焼けるように熱かった。何も食べられなくなった者が、横になったまま動かなくなった。仲間が名前を呼んでも、目が開かなかった。

誰も理由を知らなかった。

獣の仕業ではなかった。傷もなかった。矢も石もなかった。ただ体が内から壊れていくように見えた。群れの者たちは離れた場所に倒れた者を置き、近づかないようにした。食べ物を石の上に置いて離れた。水を葉に包んで渡そうとした。それでも次々と熱が広がった。

西の大地では別のことが起きていた。

乾いた高地で、二つの群れが出会った。旧人と、現れたばかりの群れ。互いの言葉は通じなかった。身振りだけで、どちらが先に退くかを決めようとしていた。どちらも退かなかった。岩が投げられた。血が出た。しかし両者とも、死者が出る前に別れた。接触の痕跡だけが地面に残った。

東に戻れば、群れはもう半数ではなかった。さらに減っていた。

生き残った者たちは互いの顔を見た。あの者はいない。この者もいない。名前のなかった者も、名前のあった者も、同じように消えた。子どもが三人続けて熱で力を失った夜、母親は声を出さなかった。ただ地面に額をつけた。長い時間、そのままでいた。

熱は七週間で止まった。

止まった理由も、誰も知らなかった。生き残った者たちは動き続けた。水を運んだ。火を起こした。残った食料を数えた。何かが変わったわけではなかった。ただ続けた。

遠い北の大地では、この年、分厚い氷の端が少しだけ動いた。夏が一日長くなった。それを感じた者は、この星にいなかった。

第二の星はすべてを照らしていた。東の泥も、西の血も、子どもの熱も、氷の動きも、等しく。

与えるもの

熱の残る地面に、陽の光が細く落ちた場所があった。その周りだけ、露が乾かずに残っていた。湿った土の匂いが、その場所から漂ってきた。

その者は、そこで立ち止まった。足を踏み出さなかった。

同じ場所に、かつても何かを渡した記憶がある。あのとき届いたのか、届かなかったのか、今もわからない。渡したことで何かが変わったのか、何も変わらなかったのか、それもわからない。ただ次に渡すべきものが、まだある。それだけは確かだった。

その者(36〜41歳)

群れの中で熱が広がったとき、その者は外縁にいた。

倒れた者の顔を遠くから見た。近づかなかった。近づく言葉を持たなかった。

陽の当たる湿った土の前で、その者は長く立っていた。踏まなかった。なぜ踏まなかったのか、その者にはわからなかった。ただ、踏まなかった。

伝播:SILENCE 人口:447
与えるものの観察:立ち止まったことが、答えかもしれない。
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第1294話

紀元前293,540年

第二の星とその者(41〜46歳)

川は引いた。泥が乾き、割れ、白い粉を吹いた。低い場所に戻れるようになるまで、ひと月かかった。

その者は戻らなかった。

高みに残ったのはその者だけではない。年老いた雌が二人。子を失った雄が一人。理由は違っても、下に降りる足が動かない者たちがそこにいた。

大地の北側では、別の群れが岩場を拠点にしていた。水場までの道を、毎朝同じ順番で歩く。先頭の雄が止まると、後ろの全員が止まる。誰も先頭を追い越さない。それが何年も続いていた。

その者の手に、ある日ひりひりとした感覚が走った。

傷ではない。乾いた皮膚が、風に触れた感触だった。その者は手を見た。手の甲を見た。何もない。それでも手を見続けた。

東から吹いてくる風が変わっていた。湿気が増していた。川の気配ではない。もっと遠い、大きな水の匂いがした。群れの者たちはそれに気づかなかった。食べること、眠ること、子を抱えることで、五感の余白がなかった。

その者にはあった。

理由はない。ただ、手がひりひりしていた。その感触が消えないうちに、その者は風の方を向いた。

集団間の緊張は、匂いで伝わる。言葉ではない。体の緊張が、そのまま空気になる。近い群れが三つ、水場をめぐって接触を繰り返していた。投石はまだない。しかし、互いの存在を遠くから確認し合う時間が長くなっていた。

その者は石を持っていた。

拾ったのではない。気づいたら持っていた。尖った端が、手のひらに食い込んでいた。放そうとして、放せなかった。指に力が入っていた。

年老いた雌の一人が、その者の手を見た。

何かを言った。短い音だった。その者には意味がわからなかったが、雌の視線が石の先端に向いていることはわかった。

その者は石を地面に置いた。

雌は去った。

置かれた石は、翌朝なくなっていた。誰かが持っていったのか、夜の獣が転がしたのか、わからない。その者は石があった場所をしばらく見た。土がわずかにくぼんでいた。それだけが残っていた。

五年目の終わり、その者は集団の中で孤立していた。

何かを知っているように見えたのかもしれない。何も言っていない。言う言葉がない。それでも、その者がいる場所に他の者たちが近づかなくなっていた。食事の輪の外に置かれた。水場では最後になった。

子どもたちが近づいてくることだけは、まだあった。

子どもたちは理由なく近づく。その者の手が、食べ物を分けることを知っていたからかもしれない。手のひらを開くと、子どもが受け取った。それだけのことが、大人たちには見えなかった。

ある夜、群れの中の若い雄二人が、その者のそばに来た。

夜だった。静かだった。その者は目を開けていた。

雄たちは何もしなかった。立っていた。長い時間、立っていた。それからいなくなった。

翌日、その者は群れの外に出た。

押されたのか、歩いたのか。どちらとも言えない。境界のない追放だった。

岩の多い斜面を、その者は歩いた。振り返らなかった。振り返る意味を知らなかったのかもしれない。空は晴れていた。風は東から吹いていた。手のひらはもう、ひりひりしていなかった。

与えるもの

手のひらに風を当てた。

その者は風の方を向いた。四十一歳の春だった。

何を知ったのか、この者には言葉がない。知ったことを誰にも渡せなかった。渡す器がなかったのか。器はあったが、受け取る者がいなかったのか。

石を置いた場所のくぼみ。誰かが持っていったこと。

踏まなかった土のことを、私はまだ考えている。踏まれなかった場所が、次に踏まれるとき、それは最初の一歩と同じか。

この者は歩いた。消えた。

次に渡すべきものが、また地面に落ちている。

伝播:HERESY 人口:439
与えるものの観察:手のひらに届いた。届いた先で止まった。
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第1295話

紀元前293,535年

その者(46〜47歳)

空が割れた。

夜の半ばに、南の縁が白く焼けた。音は後から来た。大地を這う音ではなく、上から押しつぶす音だった。その者は岩の下に身を屈めていた。岩は揺れた。揺れたまま止まらなかった。

炎の柱が地平の向こうに立った。

集団の誰かが叫んだ。誰かが走った。その者は動かなかった。岩の冷たさを背中に感じながら、空を見ていた。

灰が降り始めるまで、それほど時間はかからなかった。

最初は細かい砂だった。口に入ると苦かった。目が痛んだ。子どもたちが泣いた。泣き声が増えた。そして減った。

何日か経った。空は昼でも暗かった。草が白くなった。水場の水が生温く、臭いが変わった。獣の声が消えた。

集団の半数以上が、その後の数日で戻らなかった。

走って逃げた者がいた。その者は追わなかった。高みに残った年老いた雌が二人、灰の中に座ったまま起きなくなった。その者は彼女たちの隣に少し座ってから、立った。

食べるものを探した。

焼けた土の匂いが続く方向へは行かなかった。本能ではなく、ただ足が止まった。風が別の方向から来た。わずかに湿り気を含んだ風が。

その者はそちらへ歩いた。

数日後、小さな水場を見つけた。濁っていたが、飲める水だった。草の根を掘った。硬い白い根だった。かじると渋かったが、腹に収まった。

残った者たちが少しずつ集まってきた。互いに名前を持たなかったが、顔を知っていた。

集団は薄くなった器のようだった。

争いが始まったのは、食料が尽きかけた頃だった。

若い雄が三人、水場の近くで固まり始めた。その者が木の実を持って戻ると、彼らはその者の前に立ちはだかった。

その者は木の実を胸に抱えた。

彼らの一人が石を持っていた。大きな石だった。

その者は一歩引いた。彼らは一歩進んだ。

その者は叫んだ。叫び返す者はいなかった。

石は額に当たった。

その者は倒れた。地面が冷たかった。灰が白く積もった地面だった。頬がその灰に触れた。

空は相変わらず暗かった。

遠くで子どもの声がした。

その者は手を伸ばした。何もなかった。手を伸ばしたまま、力が抜けた。

第二の星

炎の柱は、この星が知っている限りで最も静かな地にも届いた。遠い北の氷原では、雪が灰色に染まった。旧人の一群が暗い空を見上げ、互いに体を寄せた。始まりの大地の南では、小さな湖が灰を受けて表面を覆われた。魚が浮いた。鳥が飛ばなかった。この星は区別しなかった。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:NOISE 人口:94
与えるものの観察:手のひらのくぼみに今度は灰が積もった
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第1296話

紀元前293,530年

第二の星

5年前、南の空が白く割れた。

その光は一瞬だった。音は長かった。

焦げた土が残った。草は生えなかった。水は濁り、何日も澄まなかった。集団のうち半数近くが消えた。残った者たちは北へ移った。岩壁の多い場所だった。風を遮るものがあった。

その場所で子どもが生まれた。死んだ子もいた。生きた子もいた。

その者は生きた子のひとりだった。12歳になっていた。火番の末席にいた。荷を運ぶ者の中で最も小さかった。

遠くの場所では、別の集団が水辺に沿って移動していた。乾いた土と湿った土の境を歩く者たちだった。彼らとこの集団の間に接触はなかった。しかし足跡の向きは、緩やかに同じ方角を向いていた。

岩壁の下では夜、火が灯った。

その火を番するのがその者の仕事だった。

与えるもの

糸が繋がった。

この者は知らない。

煙の流れが変わった。風が来た方向から、何かが焦げた匂いを運んできた。草ではなく、皮の匂いだった。この者の鼻が少し動いた。

この者は匂いの方を向かなかった。火に薪を足した。

渡したかったのは方向だった。その匂いの先に、別の集団の痕跡があった。煙の残り、獣の骨。こちらへ来る動きか、離れる動きか、この者が知ればよかった。

知らなかった。

それでいい、とは思えない。しかし渡せる形がまだわからない。匂いか、音か、それとも別の何かか。次に渡すべきものを、まだ探している。

その者(12〜17歳)

火が弱くなると、誰かに叱られる。

だから弱くなる前に薪を足す。それだけを考えていた。

岩の冷たさが背中に当たった。座ったまま眠りそうになる。目が重くなると、炎を直接見た。そうすると少し目が覚めた。

夜の途中、風が変わった。

鼻の奥に何かが引っかかった。獣の脂のような、しかし知っている獣ではない何かだった。その者は一度だけ顔を上げた。闇の中に何もなかった。

火に薪を足した。

朝になった。集団の者たちが動き始めた。その者は水を汲みに行かされた。水場は歩いて少しの場所にあった。石の間から湧いている水だった。

水を汲む前に、対岸の泥の上に目が止まった。

足跡だった。自分たちのものではない形だった。かかとの形が違った。指の数が違うかもしれなかった。その者はしゃがんで、自分の足を並べてみた。合わなかった。

水を汲んで戻った。誰かに言おうとした。しかし言葉がなかった。

声を出した。集団の大人が振り返った。その者は足を踏み鳴らした。水場の方を向いた。腕を振った。

大人はしばらく見て、また別の方を向いた。

その者は水の入った容器を岩に置いた。

しゃがんで、拾った石を地面に置いた。また拾った。また置いた。

夕方、その者は火の番に戻った。足跡のことを、まだ手の中で転がしていた。

伝播:HERESY 人口:108
与えるものの観察:匂いを渡した。向かなかった。次を探す。