2033年、人類の旅

「紀元前293,405年〜紀元前293,285年」第1321話〜第1344話

Day 56 — 2026/05/29

読了時間 約56分

第1321話

紀元前293,405年

その者(39〜44歳)

石を握ったまま、動けなかった。

向こう側の集団が動いている。三人が前に出た。額の低い者たちだ。背が低く、肩が広い。その者の集団の中で、年老いた雄が声を上げた。低い、腹に響く音だった。

その者は石を握りしめた。

二十歩。十五歩。向こうの三人が近づいてくる。その者の隣で若い雌が後ずさりした。背後の者たちも動いた。散る気配。

その者だけが動かなかった。

なぜかはわからない。足が言うことを聞かなかったわけではない。ただ、向こうの三人の中央を歩く者の目を見ていた。小さな目だった。黄色みがかった白目を持つ、しかし怒ってはいない目だった。

向こうの者が立ち止まった。

何かを持っていた。干からびた獣の脚だった。毛が残っていた。

その者の集団の年老いた雄が吠えた。石を投げた。向こうの三人の足元に落ちた。

中央の者が、獣の脚を地面に置いた。そして下がった。

その者は石を持ったまま、置かれた獣の脚を見た。

年老いた雄が近寄り、蹴った。

その夜、その者は集団の外れで座っていた。蹴られた獣の脚はそのまま平原に残っている。誰も拾わなかった。

火の側では声が続いていた。何かを決める声だった。その者には聞こえていた。しかし呼ばれなかった。若い狩り手は呼ばれない。決める声の中に混ざれない。

その者は膝を抱えた。

向こうの者の目が頭の中にあった。怒っていなかった。渡そうとしていた。

翌朝、集団の中に緊張が満ちていた。年老いた雄が三人の若い雄に何かを命じていた。方向を示す腕の動きだった。向こうの集団が昨夜どこかへ移動したらしい。

その者は命じられなかった。

しかし、ついていった。

北の岩地に霜が降りていた。足跡があった。向こうの集団の足跡。その者は足跡を追う三人の後ろを歩いた。

足跡は川に消えていた。

三人が戻ろうとしたとき、その者だけが川岸に留まった。

川の向こうに、煙が見えた。

年老いた雄の命じた三人が戻ってきた。その者の腕をつかんだ。引いた。その者は引かれながら、川の向こうの煙を見ていた。

夕方、集団に戻った。

その者は年老いた雄に近づき、川の向こうに煙があったことを、腕と声で示そうとした。

年老いた雄は聞かなかった。

その者の声を遮った。短い、鋭い音で。

その者は黙った。

火の周りで夜が始まった。その者は端に座った。川の向こうの煙のことを、他の者に伝えようとした。若い雌が顔をそむけた。別の若い雄が笑う音を出した。

その者は口を閉じた。

夜が深くなった。その者は集団の中にいたが、その者の周りだけ、空間があった。誰も隣に来なかった。

二日後、その者は集団の移動についていくことができなかった。

前を歩く者たちが速かったわけではない。その者の足が問題だったわけでもない。

ただ、誰も待たなかった。振り返らなかった。

その者が立ち止まったとき、集団の後ろ姿はすでに岩の陰に消えていた。

その者は立っていた。

平原に、一人。

北から風が来た。冷たかった。

その者は川の方向を向いた。向こうに煙があった場所。足を踏み出した。一歩。もう一歩。

岩地を歩いた。霜が溶けた土は柔らかく、足が沈んだ。川に着いた。水は冷たかった。渡った。

対岸に、足跡があった。大きな足跡と、小さな足跡が混じっていた。

その者はその足跡を追った。

日が傾いた頃、向こうの集団の野営跡を見つけた。灰が残っていた。骨があった。食べた跡だった。

その者は灰の前にしゃがんだ。手を近づけた。まだ、かすかに温かかった。

立ち上がり、足跡の続く方向を見た。

歩き出した。

第二の星

北の岩地に、霜が降り続けている。

この五年、大地は乾いた。水場が縮み、草が薄くなり、獣の群れが移動した。集団は獣を追い、水を追い、互いの縄張りの端で鉢合わせた。

人の数は減った。干ばつが奪い、飢えが奪い、集団同士の衝突が奪った。生まれる者もいたが、育つ前に消えた。始まりの大地の全体で、半数近くが入れ替わった。

二種の者が同じ大地を歩いている。額の形が違う。骨の厚さが違う。しかし同じ水場に集まり、同じ獣を追い、同じ霜の朝に身を縮める。時に物を置いて下がる。時に石を投げる。

どちらが正しいという話ではない。

大地は乾いたまま、どちらにも同じように降りかかっている。

今、一人の者が二種の集団の境を越えて歩いている。自分の集団から外れた者が、向こうの集団の足跡を追っている。大地の上では、これは珍しいことではない。外れた者は外れるものだ。しかし、追う者がいることも、まれにある。

北の風が吹いている。灰の温もりがまだ空気に残っている場所で、その者の足が続いている。

川の向こう側で、この五年はまだ終わっていない。

与えるもの

灰の温もりに、その者の手が触れた。

熱ではなかった。ほんの、かすかな温度だった。しかし火が確かにそこにあったことの、残り。

その者の手の平に、その温度が落ちた。

受け取った。

また別のものを渡すべきか、まだわからない。しかし向こうの集団の足跡は続いている。その者の足もまだ動いている。

渡した温もりが、足を動かし続けているのか。それとも、渡さなくても歩いていたのか。

次に渡すべきものが何かは、もうわかっている。

伝播:HERESY 人口:419
与えるものの観察:灰の温もりを受け取った。次がある。
───
第1322話

紀元前293,400年

第二の星

乾季が終わらない。

草地は白く干上がり、川床に水が戻らない。始まりの大地の南の縁、赤い岩壁が熱を蓄え、夜になっても手を近づければわかるほどの温度を保っている。

川の上流、木陰の深い場所では、別の形をした者たちが水場を確保していた。眉骨が張り出し、顎が大きく、指の関節が厚い。彼らは少数だ。しかし動きに無駄がない。石を割るとき、一度だけ打つ。

始まりの大地の集団が川岸に近づくと、向こう側は止まった。声を出さず、ただ止まった。

遠く北の方角では、別の集団が海岸線に沿って移動していた。彼らの言葉に川を指す音があったが、この場所の者たちとその音は繋がっていない。同じ水を、別の音で呼んでいる。

岩壁の影で、鳥が一羽落ちていた。熱かもしれない。渇きかもしれない。翼を一度だけ動かし、それから動かなくなった。

川は細い。両岸の者たちが互いを見ている時間も、細く、長く続いている。

与えるもの

影がその骨の上に落ちた。

鳥の骨だ。川岸の石の隙間に挟まっていた。白く乾いている。翼の付け根の部分。

その者は一度見て、通り過ぎた。

——また。

渡したことがある。形が違っていても、同じものだと思っていた。軽さ、空洞、折れ方。何かを作る前の素材として、あの形は使える。

今度は川の向こうの者たちが骨を持っていることに気づかせるべきか。それとも、まず拾わせることが先か。

渡す順番を、間違えたかもしれない。

その者(44〜49歳)

川の匂いが薄い。

泥の臭いがしない。水が少ないと空気が変わる。その者はそれを体で知っている。言葉にはならない。ただ、喉が早く渇く気がする。

向こうに三人いる。

昨日も三人だった。一昨日も。同じ者かどうかわからない。顔が、こちらの者と違う。眉の下の影が濃い。

その者は石を一つ持っていた。大きくない。投げるには軽すぎる。しかし手に持っていると、何かが落ち着く。

前に出た仲間の一人が、声を上げた。

低く、短い音だ。威嚇でも呼びかけでもない。ただ、音を出したかっただけのような。

向こうの三人が動いた。後ろに退いたのではない。横に動いた。川岸に沿って少しずれ、それから止まった。

その者には意味がわからなかった。

石を握ったまま、川を見た。水が少ない。水面に影が映らない程度しか流れていない。

川岸の石の隙間に白いものがあった。

骨だ。

鳥の骨だろうと思った。拾わなかった。

その夜、集団の長老格の者が火を囲んで何かを言った。その者には半分しか聞き取れなかった。川のこと、向こうの者のこと、水のことだと思った。

長老格の者の手に、古い傷がある。獣に噛まれた痕だ。その者は子どもの頃からその傷を知っている。傷のある手が動くとき、みんなが静かになる。

今夜もそうだった。

その者だけが、なぜ静かになるのかわからないまま、火を見ていた。

翌朝、川岸に戻ると骨はなかった。

向こうの者が持って行ったのか。水に流れたのか。わからない。

その者はしばらく、骨があった石の隙間を見た。

何かが、そこにあったはずだという感覚が残った。何がとは言えない。言葉がない。ただ手が、空の隙間に向かって少し動いた。

伝播:HERESY 人口:409
与えるものの観察:骨を渡した。手が隙間に向かった。
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第1323話

紀元前293,395年

第二の星

乾いた風が南から来ている。

始まりの大地の中央部、低い丘が連なる場所で、草はすでに根まで枯れていた。地面を踏むと、土ではなく粉が舞う。かつて雨季に水が溜まった窪みは、底まで割れ、白い筋を走らせていた。

水が消えた場所に、踏み跡が増えた。

同じ形をした者たちだけではない。眉骨の張り出した、顎の厚い者たちも、以前より南へ踏み込んでくる。水場の記憶が重なる。道が重なる。昼の熱の中で、二つの群れが同じ茂みの影に入り込み、互いを見て、動かなかった、という時が何度かあった。

争いは音から始まることが多い。

低い唸り。石を打ちつける音。それが止まると、しばらく静寂が来て、また別の音が始まる。この季節、夜になると遠くから何かが燃える匂いが漂ってくることがある。草火か、意図的なものか、第二の星には区別がつかない。ただ煙の柱が複数の場所から立ち、それぞれが異なる方向に流れていく。

群れの内側でも、変化が起きている。

食料の分配をめぐって声が荒くなる。年長の者が何かを決めようとすると、若い者が別の方向を向く。以前はそういう緊張が生まれても、一晩眠れば落ち着いた。今は落ち着かない。腹が空いたままだからか、水が足りないからか、それとも別の何かが蓄積しているからか。第二の星には判断できない。

ただ見る。

南の岩壁の陰に、足跡が二種類残っていた。大きく、指の間隔が広い跡と、それより細長い跡とが、同じ泥の上に重なって乾いていた。どちらが先だったか、もうわからない。

乾季は続いている。

空に雲はない。鳥も少ない。水場を知っている者が力を持つ時代が、静かに、音もなく、始まりつつある。知りすぎた者が消されるのは、そういう時代だ。第二の星はそれを知っている。しかし何も言わない。言葉を持たないからではなく、第二の星は語る者ではないから。

北の丘の向こうで、また煙が上がった。

与えるもの

その者の足が止まった場所の近く、乾いた地面にひとつの影があった。

大きな石だ。割れかけている。断面が白く、その白さの中に、別の色の筋が走っていた。赤と灰、細く、鋭く。

風がその方向から吹いた。石の粉の匂いが鼻を刺した。

その者は立ち止まった。石を見た。しゃがまなかった。立ったまま、しばらくそこにいた。それから歩き続けた。

渡せたかどうか、わからない。ただ、次に渡すべきものは、もっと近くにある気がした。もっと逃げ場のない、具体的な何かを。この者の時間が、短くなっていることを、与えるものは問いとして持つ。

その者(49〜54歳)

水場に近づいたとき、匂いが変わった。

獣ではない匂い。知っている形をしていない者の匂い。

その者は立ち止まり、足を引いた。

水を飲まなかった。喉が渇いていたが、飲まなかった。

帰り道、群れの年長の者に何かを伝えようとした。音を出した。腕を動かした。年長の者は別の方を向いた。

伝播:HERESY 人口:397
与えるものの観察:割れた石の白い断面、風が運んだ。渡せたか。
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第1324話

紀元前293,390年

第二の星

乾いた季節が続いている。

始まりの大地の中央部、丘と丘の間に広がるかつての草地は、今や灰色の平原だ。風が吹くたびに表土が舞い、遠くまで霞む。動物の踏み跡がそこかしこに刻まれているが、動物そのものはいない。踏み跡だけが残る。

集団は北の岩陰に集まっていた。

四十人ほどが岩の影に入り込んでいる。残りは散らばっている。子を抱えた者、老いた者、傷を引きずる者。炎はない。煙を立てる余裕がない。煙が他の集団を引き寄せるという経験が、どこかに蓄積されつつある。まだ言葉にはなっていない。しかし炎を消す者が増えている。

南の丘の向こうに、別の集団がいる。

旧人の集団だ。体格が大きく、眉の骨が張り出している。音声で交わすが、その音は違う。重く、低い。子を連れていない者が多い。食料を探す動きは速い。

二つの集団が同じ水場に向かっていた。

乾いた季節の前まで、そこには細い流れがあった。今は底に濡れた砂があるだけだ。濡れた砂を掘れば、水が染み出す。一日かけて、碗の半分ほど。

旧人の集団の先頭に立つ者が、砂を掘り始めた。

こちらの集団は岩陰から動かない。動ける者が何人かいる。立ち上がり、岩の端から見ている。石を握っている者がいる。握ったまま、何もしない。

砂から滲み出した水を、旧人が口に含む。

岩陰のこちらの集団は、見ている。

子が泣いた。短く、鋭く。すぐに誰かの手が口を覆った。子は黙った。子が黙ったまま動かなくなるまで、少しの時間があった。誰も動かなかった。

旧人の集団が去った後、こちらの集団の者たちが砂の前に来た。

砂はすでに乾き始めていた。

与えるもの

砂を掘る者の手に、温度の差があった。

濡れた砂のある場所と、乾いた砂のある場所の境目で、温度が違う。指先が感じる。その差が、どこをどう掘るべきかを示す。

その者は岩の端に立っていた。手に石を握ったまま、砂の前にいる旧人を見ていた。温度の変化には気づかなかった。

渡せなかった。しかし砂の下に水があることを、旧人は知っていた。知る方法を持っていた。渡すべきは何だったのか。違う者に、違う時代に、同じことを渡したことがある気がする。その問いに答えはない。ただ、次に渡すべきは温度ではないかもしれない。

その者(54〜59歳)

岩の端に立っていた。手の中の石が汗で滑った。旧人が水を飲み、去った。

砂の前まで歩いた。膝をついた。手で砂を掻いた。すぐに乾いた砂が出てきた。水はなかった。

もう一度掻いた。なかった。

立ち上がった。岩陰の方を向いた。向いたまま、しばらく動かなかった。

伝播:NOISE 人口:415
与えるものの観察:砂の下に水がある。渡し損ねた。
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第1325話

紀元前293,385年

第二の星とその者(59〜64歳)

丘と丘の間、かつて草が腰まで伸びた窪地に、今は亀裂が走っている。土は白く、踏めばぱりぱりと割れる。雨が来ない季節が重なって、地面そのものが薄くなったかのようだ。草食獣の群れはずっと前に東へ移った。残ったのは、その群れが歩いた道の形だけだ。

その者は崖の縁に立っていた。朝の光が背後から斜めに当たり、崖下の乾いた川床に影を落とす。五十九歳、群れの中では老いた部類に入るが、若い狩り手の扱いはまだ変わらない。革紐で縛った槍を肩に担いで、昨日からここにいる。獲物の気配はない。

始まりの大地の南端では、旧人の群れが岩棚の下に集まっていた。火を囲んでいる。彼らの体は大きく、声は低い。言葉は持たないが、動きには一定の型がある。朝になると同じ方向を向いて、同じ音を発する。その意味を誰も問わない。ただ繰り返される。

その者は崖を降りた。川床の砂に足が沈む。砂の表面は白く乾いているが、深く掘ると湿り気がある。以前、仲間の老いた女がここで水を見つけた。彼女はもういないが、その記憶がある。その者は膝をついて、両手で砂を掻き始めた。

乾いた季節の三年目に入ったとき、集団の中で争いが起きた。食料を巡る争いではなく、誰かが誰かを崖から突き落とした。理由は伝わらなかった。突き落とした者はそのまま群れを離れ、単独で東へ歩いた。戻らなかった。群れは静かになった。静かさは悲しみではなく、欠如だった。

砂を五十センチほど掘ったところで、水が滲んだ。その者はしばらく動かなかった。滲む水を見ていた。指で触れると冷たかった。暑い日の午前、土の中にまだこれがある。それがどういうことか、言葉にならないが、体に何かが戻った気がした。

旧人の群れと人の群れの距離が縮まっていた。意図したわけではなく、水場を共に探した結果だ。同じ岩の陰で眠る夜もあった。互いに声を発しなかったが、火の前では体が近くなった。旧人の子が人の群れの子の背中に触れた。子は逃げなかった。

その者は水を掘り出した穴の周りに、扁平な石を並べた。なぜそうしたのか、問われても答えられなかっただろう。ただそうした。石を並べながら、その場所に名前のようなものが生まれた。音として発したわけではないが、体の中に形が残った。

四年目の秋、集団に病が入った。熱を持ち、皮膚が赤くなった。子どもから先に広がり、次に老いた者へ移った。その者は感染しなかったが、三日の間、高熱で震えていた仲間の傍らにいた。その仲間は四日目の朝、自分で立ち上がり、川床まで歩いて水を飲んだ。生き延びた。別の者は立ち上がれなかった。腹の下に力が入らなくなり、そのまま横になったまま、次の朝に静かになった。

その者は穴の水を飲んだ。立ち上がり、崖の方角を見た。六十四歳、体の節々が痛む季節になっていたが、この日の体は軽かった。風が北から来ていた。獣の臭いはしない。草の臭いもない。ただ風が通る。その者は槍を地面に立て、しばらくそこにいた。

始まりの大地の上に、五年が積もった。争いがあり、病があり、水があり、死があった。大地は乾いたままだ。しかし地面の下には水がある。知っている者がいる。その者は今日、また崖の縁に立つ。

与えるもの

砂の中の冷たさを感じさせた。

この者は手を入れた。水を見つけた。石を並べた——頼まれてもいないのに。

穴を掘ることと、石を置くことは、違う行為だ。なぜこの者はそこに境界を引いたのか。渡したのは水の位置だった。しかしこの者は場所そのものを作った。次に渡すべきは形ではなく、形が呼び寄せるものかもしれない。

伝播:DISTORTED 人口:428
与えるものの観察:渡したのは水。作られたのは場所だった。
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第1326話

紀元前293,380年

その者(64〜68歳)

干ばつの翌年、雨は戻った。

しかし足は戻らなかった。

その者は四年前から、右の膝がきしむようになっていた。狩りへ出る若い者たちの背を見送るとき、その者は岩に座って毛皮を裂いていた。裂いて、端を結んで、また裂いた。誰かに渡す。渡された者は使う。使い終わった端切れが戻ることはない。

それでいい、とその者は思っていたかもしれない。思っていなかったかもしれない。

秋の初め、空が低い日だった。

その者は水場まで歩いた。一人で。ゆっくりと。岩の縁に手をついて、膝をおろして、掌で水をすくった。冷たかった。冷たさが手首まで走って、少しだけ痛みが引いた。

飲んだ。

もう一度すくった。

飲まなかった。掌の水が指の隙間から落ちた。その者はそれを見ていた。

水がなくなってから、手を膝に戻した。

その夜、その者は集団の端で横になった。

火が遠かった。近い者の体温が背中にあった。その者は毛皮を顎まで引き上げた。

どこかで子どもが泣いていた。誰かが声をあげてなだめた。

その者の呼吸が、少しずつ浅くなった。

知っている者は誰もいなかった。その者自身も、知らなかった。

ただ空気が、薄くなっていくようだった。星が見えた。見えなくなった。

背中の温かさだけが、最後まであった。

朝、隣で眠っていた若い女が目を覚まして、その者の腕に触れた。

冷たかった。

女は少しの間、その腕を持ったままでいた。それから静かに手を離して、立ち上がった。

第二の星

北の方、岩の多い台地のどこかで、旧人の一群が夜明けを歩いていた。彼らは火を持たなかった。しかし方向を知っていた。台地の端で、若い雄が立ち止まって、風の来る方向を顔で受けた。それから群れは折れて、また歩いた。空は白くなっていた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:NOISE 人口:435
与えるものの観察:渡したものは何だったのか。冷たさか、残ることか。
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第1327話

紀元前293,375年

第二の星

平原の東、大地は割れている。亀裂の縁に草が生える。雨が来れば青く、来なければ灰色になる。今は青い。

雨期が戻って五年が経った。

この集団は岩棚の下に住む。三つの家族が岩棚を共有し、一つの家族は少し離れた窪みにいる。子どもが多い。幼い声が朝に響く。しかし夕方には減る。夜にはまた減る。

遠く、北の方角に、別の集団がいる。彼らは川沿いを歩いていた。顔の形が違う。眉の骨が厚い。声の出し方も違う。同じ川の水を飲み、同じ獣の跡を追う。どちらも相手を見ると足を止める。近づかない。しかし去りもしない。

岩棚の集団から、一人の男が消えた。窪みの集団から、二人の子が消えた。病ではなかった。痕跡も残っていない。

平原の端では、旧人の群れが移動していた。五頭の獣を追って、草原の奥へ入っていった。獣は逃げ、旧人は追い、空は変わらず青い。

岩棚の下、幼い者が一人、岩の端に座って足をぶらぶらさせていた。

与えるもの

糸が繋がった。

子どもの膝に、朝の光が落ちた。岩の色と膝の色が一瞬だけ同じになった。その子は膝を見た。

光がそこに落ちた。この者は膝を見た。それから空を見た。

同じ光が、前にも落ちたことがある。別の誰かの膝に。別の者は空を見なかった。だから渡せなかった。この者は空を見た。それが何かを変えるかどうか、まだわからない。しかし次に渡すべきものは、もう決まっている。影だ。物の影が、時刻によって向きを変えること。

その者(3〜8歳)

その者は足をぶらぶらさせていた。

岩の端は高くない。落ちても大した怪我にはならない。しかし落ちない。ぶらぶらさせるだけで、落ちない。

朝の光が膝に当たった。その者は膝を見た。皮膚の産毛が光っていた。その者は空を見た。雲がなかった。その者はまた膝を見た。産毛はまだ光っていた。

女が声を上げた。呼んでいる声だ。その者は岩から飛び降りた。

集団の中を走った。足の裏に砂が当たった。固い砂と柔らかい砂の場所が違う。固いところを選んで走った。選んでいるつもりはなかった。足が覚えていた。

女の傍へ行った。女は肉を石で叩いていた。繊維を切るのではなく、叩いてつぶしていた。その者は隣に座った。

肉の匂いがした。生臭かった。しかし腹が鳴った。

女が肉の一片をその者の口に押し込んだ。その者は噛んだ。固かった。顎が疲れた。しかし飲み込んだ。

午後、集団の年長者が動かなくなった。前日から座ったまま動かなかった者だ。その者は遠くから見ていた。大人たちが集まった。しばらくして、一人が年長者の腕を引いた。腕が地面を引きずられた。岩棚の外へ運ばれていった。

その者はそれを見た。

それから、また岩の端に座った。足をぶらぶらさせた。今度は膝に光が当たらなかった。太陽の位置が変わっていた。

その者は影を見た。自分の影が、さっきより長くなっていた。

伝播:HERESY 人口:427
与えるものの観察:光が届いた。影はまだこれからだ。
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第1328話

紀元前293,370年

第二の星

乾季が長くなっていた。

岩棚の下の集団だけではない。この星の広い範囲で、雨を運ぶ風が経路を変えていた。大気の流れが少しずつ南にずれ、水蒸気は以前なら平原に落ちていたところを通り過ぎて、見知らぬ場所に雨を降らせていた。

草が消えていく順番がある。まず背の高いものが枯れる。次に低いものが。最後に地面に張り付くような、踏みにじられても生き返るような草だけが残る。その草もやがて土ごと割れた。

平原の東、以前は水が溜まっていた窪みがある。そこは今、白い粉を吹いた土だけだった。

獣が動いた。食べるものを追って北へ。旧人の集団が使っていた水場の近くまで近づいた。旧人たちは長い腕で岩を持ち上げ、唸り声を上げた。現生の集団の者たちは距離を測った。近すぎず、遠すぎず。その間合いの判断が狂うたびに、誰かが戻らなかった。

集団は半分近く縮んだ。

子どもが最初に消えた。老いた者が次に。丈夫そうに見えた者も、傷に虫が入って腫れ上がり、熱が出て、ある朝動かなくなった。子を産みながら力尽きた者もいた。

残った者たちは歩いた。岩棚を離れ、水の匂いを鼻で追いながら北西へ。足の裏が割れても歩いた。血が土についても歩いた。

遠く、別の大陸の水辺では、この星でここだけに生きる動物が静かに絶えつつあった。嵐の多い季節に卵が流され、雄が数を減らし、雌だけが岩の上に残り、やがて雌も。音のない消滅だった。

生まれた者が死に、死んだ者が土になり、土が割れる。

この星はそれを問わない。

与えるもの

集団が北西へ動き始めた夜、砂地を踏む足の裏に、わずかに温度の差があった。

右足がわずかに冷たかった。砂の下に水脈がある場所を、その者の足が踏んでいた。

その者は立ち止まった。もう一度踏んだ。また踏んだ。そこから離れなかった。

渡った。しかしこの者は掘らなかった。座り込んで、ただ何度も足で踏んだ。砂を踏むことで何かを感じ続けようとしていた。

渡れた。しかし使い方が違う。これでいいのか、という問いは出てこない。ただ次がある。この冷たさを記憶している足が、次の場所でも止まるかもしれない。記憶が体に入ったなら、それはすでに渡したことになるのか。

その者(8〜13歳)

夜、集団が歩いていた。

その者の足が止まった。右足の裏だけが違う感触を返していた。冷たい。砂なのに冷たい。

また踏んだ。また冷たかった。

集団は先へ進んでいた。誰もその者を呼ばなかった。呼ばれなかったことに気づかないまま、その者はその場所に座り込んで、両足で交互に砂を押した。

夜が深くなった。

誰かが引きずりに戻ってきた。その者は引きずられながら、首だけ後ろに向けていた。

伝播:HERESY 人口:356
与えるものの観察:足が覚えたなら、それは渡ったことになるか。
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第1329話

紀元前293,365年

その者(13〜18歳)

岩の下で膝を抱えていた。

集団の中で一番小さくなる。それがこの者のやり方だった。背中を丸める。呼吸を浅くする。空気をなるべく取らない。食べ物も水も少ししか要らない者に見せる。そうすれば、しばらくは捨てられない。

けれど今日は違った。

追われていた。

追ってきたのは集団の外の者たちではなかった。同じ岩棚の下で寝ていた者たちだった。

始まりは昨日の夜だった。水場が完全に干上がった。最後の窪みに残っていた泥のような水を、老いた雄が飲んだ。その場にいた全員が見ていた。誰も止めなかった。けれど翌朝、老いた雄は腹を打たれて岩棚の端に追いやられていた。この者はその場面を見ていた。見ていたことを、誰かに見られた。

それだけで足りた。

走った。草のない平原を、砂を蹴って、足の裏が割れるような乾いた地面を走った。追う足音は最初は五つあった。途中で二つになった。最後の一つが追うのをやめたのは、日が傾いたころだった。

岩の裂け目に体を押し込んで、膝を抱えた。

足音はもうない。

この者は何かに気づいた。裂け目の奥から、何かのにおいがした。腐ったものではない。湿ったものだ。干上がった平原の、どこにも残っていないはずの、湿ったにおい。

体が自然に動いた。膝が崩れた。指が岩の奥に伸びた。

指先が、湿った砂に触れた。

すぐには動かなかった。ただ触れていた。指の腹で砂の湿りを確かめるように、何度も同じところを押した。押すたびに砂がわずかに沈んだ。水ではない。しかし乾いていない。この下に何かがある、という感覚が体の中心から広がった。

爪が割れるまで掘った。

水は出なかった。

けれどこの者はやめなかった。掘り続けた。岩の粉が口の中に入った。咳をした。また掘った。

夜が来た。

指が動かなくなるまで、掘り続けた。

夜明けの直前、指の下に冷たいものが触れた。

岩だった。平たい岩。その岩の下から、かすかに冷気が漏れていた。

この者はその岩の上に手のひらを置いて、目を閉じた。眠らなかった。ただ、手のひらを置いていた。

第二の星

干ばつは五年目に入っていた。

風が南にずれた結果は、草だけではなかった。草が消えれば獣が移動する。獣が移動すれば人が追う。人が追えば縄張りが壊れる。この星の始まりの大地では、三つの集団がそれぞれ水場を中心に動いていたが、水場が干上がるにつれてその中心が失われ、境界が溶けた。

境界が溶ければ、まず緊張が生まれる。次に暴力が生まれる。

集団の規模は減っていた。飢えと乾きだけではない。互いを打った結果でもあった。半数を超える死者が出た集団もある。一方で、二つの集団が混ざって一つになった場所もある。混ざり方は均等ではなかった。どちらかがどちらかを吸収した。吸収された側の者の多くは、力の弱い順に消えた。

岩棚の集団では、356という数が静かに揺れていた。

揺れの内側では、知ることそのものが危険になっていた。見たことが、命の重さを変えた。

この星はそれを照らした。判断しなかった。

ただ、一つの裂け目の奥で、岩の下から冷気が漏れていた。

与えるもの

岩の奥が湿っていた。においを残した。

この者は裂け目に入った。掘った。岩まで辿り着いた。

それで十分かどうかはまだわからない。

岩の下に冷たいものがある。それをこの者は知った。追われた者が、追われた先で、手のひらを冷えた岩に置いている。

次に渡すべきものがある。岩を動かす力ではない。岩を動かす前に何をするか、その順番だ。

伝播:HERESY 人口:349
与えるものの観察:においが先で、手が後だった。順番を見ていた。
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第1330話

紀元前293,360年

第二の星

乾いた季節が終わった。

雨が戻った。少しずつ、最初は砂の上に点を打つ程度だったが、やがて岩肌を黒く濡らした。草が戻る前に、虫が戻った。虫の次に鳥が戻った。

集団は動いている。水場の近くに移動した者たちと、以前の場所に残った者たちとで、声の届く距離が少し広がった。どちらが正しい選択だったかを、この星は問わない。どちらも生きている。

北の方角、赤い土が続く高地では、別の群れが動いていた。彼らは旧人の群れが最後に使った焚き火の跡を踏み越えた。灰がまだ残っていた。雨に濡れた灰は泥になり、足跡が刻まれた。その足跡は翌朝には消えた。

東の低地では、子が二人生まれた。一人は泣いた。一人は泣かなかった。

その者がいる場所では、日が傾いていた。岩に囲まれた窪地に光が差し込む時間は短い。夕方の一刻だけ、そこが明るくなる。

集団の中に緊張がある。声が高くなる場面が増えた。誰かが誰かの食べ物を奪った。奪われた者は泣かなかった。ただ膝を折り、地面を見た。

この星は照らすだけだ。

与えるもの

血の匂いが漂った。

集団の誰かが傷を負っていた。岩で切った指か、争いの跡か、与えるものには見えない。だが匂いが濃くなる場所があった。その方向から、風が吹いた。

その者の鼻が動いた。

立ち上がった。匂いの方へ二歩、歩いた。それから止まった。

与えるものは待った。

傷を見ろ、ということではない。傷のある者の近くへ行け、ということでもない。ただ、匂いがどこから来るかを知れ。それだけを渡したかった。

その者は三歩目を踏まなかった。

踏まなかった理由を与えるものは知らない。恐れか。無関心か。あるいは別の何かが見えたか。

渡したものが正確に届いたかどうかは、もうわからない。しかし鼻が動いた。それは確かだ。次に渡すべきものが、少し変わった。もっと強く、もっと近くに落とすべきか。あるいは待つべきか。

絶滅した星のことを与えるものは思わない。思わないようにしている。

その者(18〜23歳)

雨が戻ってから、腹が減らなくなった。

以前は朝に目が覚めると胃の内側が声を出した。今は静かだ。虫を食べた。根を掘った。皮を噛んだ。味はない。しかしなくなる。腹の音がなくなる。それで十分だった。

この日、集団の中で声が大きくなった。

何が原因かこの者には聞き取れない。音の高さだけわかる。高い音は危険だ。低い音は食事だ。今日の声は高かった。この者は岩の影に入った。

それから風が変わった。

乾いた風ではなかった。湿った土と、もう一つ別の何かが混じっていた。この者の鼻が動いた。知っている匂いではない。しかし遠くない。

立ち上がった。

二歩、匂いの方へ向かった。

岩の角を曲がれば見える。そこまで行けば何かがわかる。しかし足が止まった。理由はなかった。ただ、足が動かなかった。

そのまま立っていた。

風が止んだ。匂いも薄くなった。この者はゆっくり元の場所に戻った。地面に座った。指で砂を引いた。引いた線に意味はなかった。ただ引いた。また引いた。

夕方の光が岩の隙間から差してきた。線が光った。

この者はそれを見た。

しばらく見ていた。

それから指でその上を塗り潰した。

伝播:DISTORTED 人口:360
与えるものの観察:鼻が動いた。三歩目はなかった。
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第1331話

紀元前293,355年

その者(23〜26歳)

草が戻ったとき、その者はもう走れなかった。

足首が腫れていた。干ばつの終わりごろ、岩場で踏み外した。骨が折れたかどうか、誰もわからなかった。その者自身も確かめなかった。ただ、歩く速さが変わった。集団の後ろになった。

後ろは危い。それをその者は知っていた。

それでも集団は置いていかなかった。まだ。老いた者がひとり、食料の分配のとき、その者の傍に残った。その老いた者は何も言わなかった。音を出す必要がなかった。座って、水袋を差し出した。

その者は受け取った。

腫れはひかなかった。やがて赤くなり、熱を持ち、夜になると唸るほどになった。その者は声を殺した。声を出せば、集団を起こす。起こしてはいけない、という判断ではなく、ただ、そうする習慣がなかった。

痛みを黙って持つことだけを、体が知っていた。

雨が続く朝、集団が移動を決めた。新しい水場の匂いを追って。その者は立ち上がろうとした。膝をついた。もう一度試みた。

老いた者が腕を引いた。引いたまま歩いた。

半日、その者は引かれて歩いた。新しい水場は低い窪地にあり、周囲に背の高い草が群生していた。その者はそこに寝かされた。草の影の中に。

水場の水は冷たかった。誰かが湿った葉をその者の脚に当てた。子どものひとりが、水を手で掬って持ってきた。手から半分こぼれた状態で届いた。その者は、こぼれた水をなめた。

夜、熱が上がった。

草が揺れた。風ではなく、体の震えで揺れたように感じた。遠くで旧人の声がした。高くはなく、低く長い音だった。その者はその音を聞きながら、目を開けたまま空を見た。

雲が動いていた。

昼。また昼。さらに昼。

熱は下がらなかった。

脚の赤みが、腰のあたりまで筋になって広がった。体が細くなった。食べなくなったのではなく、食べ物が喉を通らなくなった。

集団の中でその者に近づく者が減っていった。老いた者だけが、相変わらず水を運んだ。

ある夜、老いた者はその者の隣に座ったまま眠った。

そしてその者は、眠ったまま朝を迎えなかった。

脚から始まった熱が体を使い切った。特に苦しんだわけではない。静かに、使い切られた。

老いた者は翌朝、傍に残っていた。その者の顔に、草の影が規則的に落ちていた。風が草を揺らすたびに、影が動いた。老いた者はしばらくそれを見ていた。

それから立ち上がった。集団のほうへ戻った。

第二の星

広大な草地の端、川が山から下り始める場所で、泥が堆積し低い島ができていた。水鳥が巣を作り、卵が十数個あった。誰も見ていなかった。水が静かに流れ、卵は割れず、草の茎が水に浸かり、風もなかった。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:354
与えるものの観察:渡した。届いたかは問わない。
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第1332話

紀元前293,350年

第二の星

東の平原では雨が戻っていた。

三日つづいて降り、四日目に止んだ。地面がやわらかくなり、根を張った草が最初に起き上がった。獣の足跡が泥に深く残った。その跡を踏んで、別の生き物が水場へ向かった。

草の茎が折れていた。誰かが通った。

集団は川沿いの岩陰に固まっていた。354の体温が、それぞれの夜をしのいでいた。子を抱えた雌が三人いた。老いた雄が岩に背を預けて目を閉じていた。目を閉じたまま、呼吸だけが続いた。

北の森では、旧人の群れが木の実を割っていた。石と石を打ち合わせる音が空気を渡った。遠く。ほとんど届かないほど遠く。しかしその者が育てている子のひとりが、音の方向へ首を向けた。何かを聞いた。

南の崖に、古い手形が残っていた。

誰が押したのかは、もうわからなかった。赤い土が岩面に染みついていた。雨が少し洗い、端がにじんでいた。それだけだった。

川が増えた。水音が変わった。集団の中で、まだ誰もそれに気づいていなかった。

与えるもの

糸が繋がった。

膝の産毛が光を受けた朝のことを、この者は知らない。砂に引いた線も、消えた足の止まった場所も、知らない。それでいい。そういうものだ。

今この者は足首をかばいながら、子の体についた泥を手で落としている。

風が川の方から吹いた。

水の匂いが混じっていた。増水の前の、少し重い匂い。川の底の砂が動くときの匂い。この者がそれを知っているかどうかは、渡してみるまでわからない。

川は増えている。高くなっている。今夜か、明日か。

渡した。

この者が鼻を上げた。一瞬。また子の体に手を戻した。

届いたのか。届かなかったのか。鼻を上げた、その一瞬の意味を、この者はまだ持っていない。次に渡すべきは、足の動かし方か。岩の高さか。あるいはもう一度、同じ匂いを送るだけでいいのか。

問いだけが残る。

その者(16〜21歳)

子の背中を叩いた。

泥が落ちた。また泥がついた。また叩いた。子は身をよじって笑い声を出し、走って逃げた。その者は追わなかった。足首がまだ重かった。歩くことはできる。走ることは、できない。

子は岩の陰に隠れ、そこから顔だけ出した。

その者は座ったまま、子を見ていた。

北の方から音が来た。石の音。規則的な、石と石がぶつかる音。子がそちらに首を向けた。その者も向けた。音はすぐに止まった。

また風が来た。

川の匂いがした。

その者は鼻を上げた。普段より重い。底のものが混じっている。いつもと違う。その違いをその者は言葉に持っていなかった。ただ、違う、とだけ体が知った。

老いた雄が岩に背を預けて目を閉じていた。その者は老いた雄の顔を見た。胸が動いていた。動いていた。

川の音が少し大きかった。

子が駆けてきて、その者の膝に頭を押しつけた。その者は子の頭に手を置いた。

匂いのことを、誰かに伝えようとした。

口を開いた。言葉が来なかった。

手が川の方向を示した。誰も見ていなかった。

その者は手を下ろした。子の頭をまた撫でた。川の音が続いた。

伝播:SILENCE 人口:368
与えるものの観察:匂いを受け取った。言葉がなかった。
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第1333話

紀元前293,345年

第二の星

東の低地では水が引いた。
泥の表面が乾き、端から亀裂が入り始めた。昨日まで柔らかかった地面が、今日は足の重さを跳ね返す。

獣は戻っていた。小さな蹄の痕が水場の縁を乱していた。大きな痕は北の林の方向から来て、同じ方向へ消えていた。

集団の端では、別の集団の影が見えた。背の低い、骨格の太い者たちだった。子どもを抱えた雌が一頭、草の陰で立ち止まっていた。こちらの集団の雄が二頭、岩の上に立っていた。声は出なかった。立っているだけだった。

その緊張は夕方まで続き、やがて相手の集団は草の向こうへ消えた。

夜、子どもが三人、発熱した。一人は朝までに体が冷えた。体が冷えたまま、次の日の陽が昇っても温かくならなかった。

北の林の縁では、焦げた木の幹が一本、まだ煙っていた。誰かが火を起こしたか、落雷だったか、第二の星にはわからない。煙は風に乗って南へ流れ、夜に薄く消えた。

与えるもの

集団の端で子が死んだ。

この者はそれを見ていた。泣かなかった。泣き方を知っているかどうかも、わからない。

体が固まる前に、その者は冷えた小さな体に草を被せた。自分でそうした。誰かに教わったのかどうか、覚えていない。

別の集団が近くにいる。
その者には匂いがわかる。風向きが変わるたびに、違う体臭が鼻を打つ。

焦げた木の匂いが流れてきた夜、その匂いをこの者の鼻腔に長く残した。遠くで火が起きたことがある。近くで火が消えたこともある。あの匂いがするとき、何かが変わっていた。

この者はしばらく鼻を空気に向けていた。
それから、目を別の方向へ向けた。

残ったのは匂いの記憶だけだ。

この者の中に何かが留まったか、それとも風と一緒に流れ去ったか。届いたかどうかは、まだわからない。次は別のものを試す。この者が何に気づき、何を見過ごすのか、それだけを見ている。

その者(21〜26歳)

子が冷えた。

その者は手のひらで小さな胸を触った。押した。もう一度押した。何も返ってこなかった。

草を摘んだ。一束。もう一束。冷えた体の上に置いた。腹の上、顔の上、最後に足の上。

周りの者たちは見ていた。一人が近づいて、また離れた。

その者は草の上に手を乗せたまま、しばらく動かなかった。

夕方になった。

風の向きが変わって、焦げた匂いが来た。その者は顔を上げた。鼻が開いた。匂いを引き込むように、小さく息を吸った。

立ち上がった。

別の子がそこにいた。膝を抱えて地面に座っていた。その者はその子の隣に座った。何も言わなかった。肩が触れた。

夜が来た。

焦げた匂いはまだかすかにあった。その者は空を見なかった。地面を見た。地面の暗さを見た。

子の体は明日、誰かが動かすだろう。その者はそこまで考えていなかった。考えるための言葉を持っていなかった。

ただ、匂いを覚えていた。

伝播:SILENCE 人口:385
与えるものの観察:匂いは残った。次に同じ匂いが来たとき、何をするか。
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第1334話

紀元前293,340年

第二の星とその者(26〜31歳)

東の低地から集団は移動した。乾いた泥の上に足跡が残り、次の雨が来るまで消えなかった。空は低く、風は南から吹いた。岩の多い尾根を越えて、集団は北の森の縁に沿って動いた。

腰に子を抱えて歩いた。前に歩く者の踵を見ながら、一歩ずつ。子は重かった。泣かなかった。それが怖かった。

北の森では旧人の痕跡があった。剥がれた樹皮、地面に残った座った跡、黒ずんだ灰。新しくはなかった。しかし古くもなかった。集団の中で声が上がった。引き返す声と、進む声が混ざった。決着はつかなかった。ただ歩みが遅くなった。

子を降ろして岩に座らせた。水を口に含ませた。子は飲んだ。それだけで十分だった。老いた雌が隣に来て、子の足を撫でた。

匂いが変わった。朝、鼻の奥に届く冷たさとは違う重さが、南の方角から漂ってきた。腐ったものではなかった。湿った毛皮のような、獣が近くに潜んでいる時の匂い。その者は立ち上がり、周囲を見た。何もいなかった。しかし集団の中の数人も、同じように顔を上げていた。

その夜、旧人が来た。

三人だった。二人の雄と、痩せた老雌。火の近くまで来て、止まった。集団の雄が声を上げた。旧人の雄が低く応えた。言葉ではなかった。しかし意味があった。老雌が手を開いて見せた。空の手だった。

その者は子供たちを自分の後ろに集めた。引き寄せる動作で、声を出さずに。子供たちは来た。老人の一人が咳をした。

三日、旧人は近くにいた。離れた場所で火を焚いた。食料を分けることはなかった。しかしぶつかることもなかった。四日目の朝、旧人の火が消えていた。

その者は旧人の残した跡に近づいた。灰の中に骨があった。食べ残しではなかった。丁寧に置かれていた。その者はしゃがんで見た。触らなかった。

集団の中で声が高くなったのは、それから十日後のことだった。

内側からの割れ方だった。旧人を追いかけるべきだという声と、逃げるべきだという声が先にあった。しかしそれは表面だった。その者が子供に水を渡した、その行為を見ていた者たちがいた。旧人と同じように扱った、と言う者がいた。そうは思わなかった者もいた。どちらも正しくなかった。

その者はそれを聞いていた。言葉の半分しか分からなかった。しかし声の高さは分かった。自分が指されていることは分かった。

子が病んだ。別の子だった。腹が張り、便が出なかった。その者は葉を煮て汁を飲ませた。誰かから教わった方法ではなかった。何かがそうさせた。子は三日後に歩いた。

それが広まった。

集団の中で、その者の扱いが変わった。恐れる目と、近づく目が同時にあった。どちらも同じ目だった。

ある夜、その者は一人で火の外に出た。空を見た。星があった。何かを感じた。形はなかった。言葉もなかった。ただ、胸の奥が少し広くなるような感覚があった。

翌朝、集団の中の二人の雄が、その者の前に立った。

何も言わなかった。立っているだけだった。その者は子供たちを見た。老人を見た。立ち上がった。

歩いた。

後ろを向かなかった。森の中に入った。足が地面を踏む音だけがあった。木の根を越え、低い枝をくぐり、また越えた。どこに向かうかは決めていなかった。ただ歩いた。

半日後、足が止まった。

崖だった。高くはなかった。しかし岩が濡れていた。一歩踏み出した。次の一歩を探した時、足元が滑った。

音がした。小さな音だった。

森の鳥が一羽、枝を変えた。

与えるもの

匂いを送った。湿った毛皮の重さ。南の方角から。

その者は顔を上げた。そして子供たちを後ろに集めた。

旧人は消えた。子は生きた。しかしその者は森に消えた。

何が届いたのか、私にはまだわからない。しかし次に渡すべきものは、もう決まっている。次の者の鼻孔に、別の匂いを届けなければならない。これだけは確かだ。

伝播:HERESY 人口:376
与えるものの観察:匂いは届いた。しかし守れなかった。
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第1335話

紀元前293,335年

第二の星

北の森の縁に沿って、尾根から下りてきた足跡が泥に残っている。

森はまだ水を持っている。葉の裏に朝の湿気がついている。根の近くの土は黒い。干ばつの爪痕は南の低地にあり、ここには届いていない。

集団の数は減った。移動の途中で倒れた者がいる。戻らなかった者がいる。岩の隙間に残されたものを、誰も取りに戻らなかった。

森の西側には別の集団がいる。この星はそれを知っている。彼らもまた北に動いていた。水のある場所を知っていた。獣の道を知っていた。彼らの数はもっと多い。

東の崖の下では、旧人の小さな群れが同じ方向を向いて歩いている。足の形が違う。肩の幅が違う。しかし歩く速さは同じだ。

干ばつの残した地面は硬い。新しい雨が降れば、また柔らかくなるだろう。足跡はまた残り、また消えるだろう。この星は待たない。ただ傾いて、光を移す。

今、北の森の縁で、若い雌が子どもの頭に手を置いている。風が西から吹いてきた。

与えるもの

西からの風の中に、獣の臭いが混じっていた。

その者は鼻を動かした。それだけだった。子どもの頭から手を離さなかった。

渡せた、とは思わない。しかし鼻は動いた。

次に渡すべきは、臭いの方向と、音の方向が食い違うときのことだ。そのずれの中に、何かが隠れることがある。この者はまだそれを知らない。

渡せるかどうか、わからない。しかし渡す。

その者(31〜36歳)

北の森の縁で三つの季節が過ぎた。

地面が湿っている間は動かなかった。子が二人、この場所で生まれた。一人は育った。一人は三日で力が抜けた。地面に置いたとき、冷たかった。

老いた雄が木の根元に座ったまま、ある朝から動かなくなった。その者は一日そばにいた。それから木の皮を剥いで、体の上にかけた。なぜそうしたのか、言葉にならなかった。

食べることは続けた。木の実、根、小さな獣。子どもたちと老人の口に入れることの方が先だった。自分が腹を空かせていることに気づかない日がある。

集団の中に、新しい雄が増えた。西の方から来た者たちだ。顔の形が少し違う。匂いも違う。声の出し方が違う。

その者は距離を置いた。子を背に抱えたまま、焚き火から少し離れた場所に座った。

夜、風が変わった。

鼻が動いた。

獣の臭いが来た方向を、その者はしばらく見た。暗くて何も見えなかった。しかし見た。

木々の向こうで何かが動く音がした。

その者は立ち上がった。子を抱えたまま、焚き火に近い方へ歩いた。新しい雄の一人がこちらを見た。その者は目を合わせなかった。

しかし焚き火のそばに座った。

火が揺れた。

伝播:HERESY 人口:371
与えるものの観察:臭いは届いた。次はずれを渡す。
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第1336話

紀元前293,330年

その者(36〜41歳)

老いた雄の歯が膿んでいた。

頬が腫れ、目の周りまで赤く張っている。その者は老いた雄の顔を両手で挟んだ。指先に熱が伝わる。脈が速い。

集団の北側に、岩が露出した斜面がある。その者はそこへ行き、岩と岩の隙間に手を入れた。湿った土が出てくる。粘り気のある、鉄の匂いがする土だ。以前、傷口に詰めたことがある。誰かがしていたのを見た。誰だったか、もう顔が出てこない。

土を手のひらに乗せて戻った。

老いた雄は座ったまま動かない。その者は土を指で丸め、腫れた頬に押し当てた。老いた雄が低く唸る。その者は離さない。

子どもが二人、遠巻きに見ている。その者は子どもたちの方を振り向かなかった。

しばらくして、老いた雄が目を閉じた。

その者は土が乾くまでそこにいた。土が縮んで、端が剥がれ始めた頃、老いた雄の呼吸が深くなった。腫れは引いていない。でも声は止んだ。

その者は土の残りを岩の上に置いた。

使えるかもしれない。

北の方で、集団の若い雄たちが声を上げている。別の集団の影が、尾根の向こうに見えた、と誰かが伝えた。体を大きく見せるような、腕を広げた身振りで。

その者は聞こえていた。

立たなかった。

老いた雄の横に座ったまま、腫れた頬が夕の光に赤く光るのを見ていた。

第二の星

北の斜面では霜が降り始めている。南の低地はまだ乾いたままだが、空気の重さが変わった。獣の足跡は尾根を越えて西へ向かっている。

この5年、集団は干ばつを越えた。水場を探しながら北へ動き、岩棚の下に場所を得た。老いた者が増え、子どもも増えた。集団の形が変わっている。世話をする者が必要になった。

遠く東の湿地では、旧人の一群が動いていない。同じ場所に季節をまたいで留まっている。火を囲む跡が重なって、土が黒くなった。

集団間の緊張は、音の届く距離にまで縮まっている。

別の集団が尾根に姿を見せた。遠目には数が多い。若い雄たちが声を荒らげているが、まだ誰も動いていない。声は届いている。でも岩は飛んでいない。

夜が来る前に、その境界は定まるか、壊れるか、どちらかになる。

第二の星はそれを照らしている。どちらになるかは、今夜の問題だ。

与えるもの

岩の割れ目から、冷気が漏れ出していた。

その者の手が止まった場所に、冷たい空気が流れた。その者は少しの間、指先を岩の隙間に向けたまま動かなかった。

土を取った。持って行った。

あの土に何があるのか、私にはわからない。土が膿みを引くのか、それとも熱が自ら収まったのか。

でも次に渡すべきものが見えてきた。岩の冷気ではなく、老いた雄の横に座り続けたあの時間の形だ。それをどう示すか、まだわからない。

伝播:NOISE 人口:381
与えるものの観察:岩の冷気に手を止めた。それだけだ。
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第1337話

紀元前293,325年

その者(41〜44歳)

老いた雄の頬の腫れは三日で引いた。

その者は岩の斜面で鉄の匂いがする土を削り取り、両手に包んで戻った。老いた雄の口に押し当てた。老いた雄は嫌がった。唸り声をあげた。それでもその者は離さなかった。

腫れが引いた。

集団の誰もその者に礼を言わなかった。言葉がなかったからではない。目を合わせなかった。

その者が知りすぎていた、ということは誰も言葉にしなかった。しかし北側の岩の斜面のこと、腫れた頬のこと、夜に独りで動くこと——そういったことが積み重なっていた。

若い雄が三人、その者の後ろを歩くようになった。

その者は気づいていたかもしれない。子どもたちに食料を渡すとき、いつもより長く顔を見た。老いた雄の肩に、短く手を置いた。

夜、その者は川のそばに連れていかれた。

何があったかを、第二の星は照らさなかった。ただ翌朝、その者は川岸の砂の上で冷たくなっていた。水には入っていなかった。足が砂に少し沈んでいた。最後まで立っていたのかもしれない。

その者の体の上に、誰かが草を被せた。

誰がそうしたか、集団の中の誰も名乗り出なかった。

子どもたちは三日、川の方を向いて座っていた。何も言わなかった。ただ向いていた。

老いた雄は歯の痛みが戻ってきていたが、岩の斜面には行かなかった。

第二の星

乾いた丘の向こう、別の集団が火を囲んでいた。雨季の終わりに川が変わり、水場を失った者たちだ。子どもが泣き止まない。大人たちは黙って空を見ている。火は小さく、燃料がない。夜は長い。その者が川岸の砂の上で冷たくなっていた同じ夜、別の場所で別の命が静かにそこにあった。第二の星は区別しない。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:371
与えるものの観察:草を被せた者が誰かを、まだ知らない
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第1338話

紀元前293,320年

第二の星

乾いた大地が続く。

北から南へ、台地の縁が崩れた場所がある。砂と礫が積み重なった斜面で、雨のたびに何かが削られ、何かが現れる。今年の雨は少なかった。斜面は動かなかった。

集団は台地の上に散らばっている。

三十人ほどの者たちが水場を離れ、東の低地へ向かっている。別の集団が先に来ていた。旧人の者たちだ。腰が低く、腕が長い。彼らはすでに三日、低地の端に座っている。動かない。

両者の間に距離がある。百歩ほど。

どちらも声を出さない。子どもたちは引き寄せられて母親の背に隠れている。雄の数人が前に立ち、腕を広げている。ただ立っている。それだけだ。

旧人の側でも同じことが起きている。腕の広い者が前に出て、立っている。

太陽が傾く。

低地の中央に浅い窪みがある。雨季には水が溜まる。今はない。干上がった泥が亀甲に割れて、白く光っている。その中央に、旧人の一人が近づいた。年老いた、背骨の曲がった者だ。しゃがんで、割れた泥の一片を手に取る。

こちら側の者たちが身を固くした。

老いた旧人は泥の欠片を持ったまま、立ち上がらなかった。そのまま、しゃがんだ姿勢で何かを始めた。両手で欠片を割る。また割る。四つになった欠片を、横に並べた。

誰も近づかなかった。

日が沈んだ後、旧人たちは北へ戻った。低地には泥の欠片が四つ、横に並んだまま残った。風が吹いて、二つが転がった。残りの二つは朝まで動かなかった。

翌日、こちら側の集団の者が一人、その欠片に近づいた。しゃがんで見た。触れなかった。

また翌日、別の者が触れた。

並んでいた欠片を、元の場所に戻した。

与えるもの

糸が繋がった。

渡すべきものを探している間に、低地の乾いた泥から熱気が漂い上がった。その熱の中に、小さな者がいた。二歳か三歳か。引きずられるように母親の手を握り、低地の端に立っている。

熱気がその者の頬に触れた。

欠片を並べた旧人の老いた背中を、この者はまだ見ていない。母親の足にしがみついたまま、前を見ていない。

渡した。見るべき方向へ熱が流れた。

この者の首が、僅かに動いた。老いた背中の方向へ。

見たかどうか、わからない。しかし首は動いた。首が動いたことと、何かを受け取ったことは、同じではないかもしれない。次に渡すとき、この者はもう少し大きくなっているだろう。そのとき何を渡すか、まだ決まっていない。

その者(2〜7歳)

母親の手を握っている。

熱い。地面から来る熱だ。足の裏が熱い。母親の手も熱い。

首が動いた。何かが向こうにいる。遠くに、背中が見える。

母親が引いた。この者はついていった。

伝播:SILENCE 人口:382
与えるものの観察:首が動いた。それだけで十分かもしれない。
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第1339話

紀元前293,315年

第二の星

乾期が終わりかけていた。

台地の東、礫が積み重なった斜面の下に、水がにじみ始めていた。一日に指の幅ほど。それだけだった。草の根が先にそれを知っていた。緑が戻る前に、根が動いていた。

集団は北の岩場に近い窪地にいた。三十二人。干ばつの間に四人が消えた。老いた者二人と、乳を離れる前の子が二人。残った者たちは肋が浮いていたが、動いていた。

台地の南、別の集団がいた。こちらは旧人が混じっていた。眉の張り出した顔、広い肩。両者は火を共有することがあった。火のそばでは近づき、昼間は離れた。言葉は重ならなかったが、何かは通じていた。食べ物ではなかった。火の向こう側に座ることを許すこと、それだけだった。

集団間の緊張は、水の場所が原因だった。一つの湧き水を、二つの集団が知っていた。

遠く西、別の話がある。高い草原の端で、一人の者が砂を手のひらに乗せて眺めていた。何をしているのか、傍にいた者にも分からなかった。砂は風に飛ばされた。その者はまた砂をすくった。

第二の星は照らしていた。判断しなかった。

与えるもの

水の匂いがした。

岩の割れ目から、かすかに。湿った石の、鈍い重さのある匂い。朝の空気の中に、一瞬だけ濃くなった。

この者は立ち止まった。顔を上げた。しかし足は別の方向に向いていた。

渡った、のかもしれない。匂いはもう薄かった。この者の足が向いた先に、水があるかどうかは分からない。しかしこの者の鼻は、一度だけ動いた。それで足りるのか、足りないのか——次に渡すなら、もっと強いものが要るのか、もっと静かなものが要るのか。答えはまだない。

その者(7〜12歳)

腹が鳴った。

その者は岩の上に座っていた。足の裏が硬くなっていた。去年よりも硬かった。自分では分からなかったが、走ると前より速かった。

朝、集団が動いた。先頭は大人の男で、その後ろに子どもたちが続いた。その者も走った。走ることと歩くことの間のような速さで、礫を避け、草の茎を踏み、斜面を下った。

途中で止まった。

理由は分からなかった。足が止まった。鼻が動いた。岩と砂と、それだけではない何かがあった。水のような、冷たいものに近い匂いが、一息だけあった。

前を行く集団は遠ざかっていた。その者は三歩、岩の割れ目に近づいた。指を差し込んだ。湿っていた。

舐めた。

水ではなかった。石の味がした。だがその者はしばらくそこにしゃがんでいた。指を岩に当てたまま、動かなかった。

集団の声が遠くなった。その者は立ち上がり、走った。追いついたとき、誰もその者を見ていなかった。

その者は何も言わなかった。言う言葉がなかった。

伝播:SILENCE 人口:394
与えるものの観察:鼻は動いた。足はどこへ向かうか。
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第1340話

紀元前293,310年

その者(12〜17歳)

水が戻ってきた。

礫の斜面の下、にじんだ水が少しずつたまり始めた。一日目は掌を押しつけても濡れる程度だったのが、三日目には指が沈んだ。その者は毎朝そこに来た。来るたびに、指を差し込んだ。どこまで沈むか確かめた。

集団の中の誰かが先にたどり着いていることもあった。旧人の一族が岩陰に溜まった水を飲んでいることもあった。その者は立ち止まった。近づかなかった。近づかなかったが、離れもしなかった。岩から少し外れた場所にしゃがみ込んで、じっとしていた。

旧人の子がこちらを見た。

その者も見た。

どちらも動かなかった。やがて旧人の一族が移動した。その者は水場に近づいた。掌で水をすくった。こぼれた分を舐めた。もう一度すくった。

その者の集団が来た。大人が数人。年嵩の者が先に飲んだ。その者は後ろで待った。押し退けられた。また待った。やがて飲んだ。

夕、台地の縁に座った。東の礫の斜面が橙に染まっていた。腹は満ちていなかった。が、干ばつの間とは違う空気が皮膚に触れていた。

その者は手の平を見た。

掌に、小さな切り傷があった。礫で切れていた。傷口に砂が詰まっていた。その者は傷を舐めた。血と砂の味がした。止まらないので、もう一度舐めた。止まった。

遠くで何かが鳴いた。獣か旧人か判らなかった。

その者は動かなかった。手を膝に置いたまま、音が消えるのを待った。

第二の星

礫地の西、干上がりかけた浅い谷に、水がもどってきた年だった。

この五年で集団は揺れた。乾期が長引いた年、幼い者たちが先に倒れた。水場から遠い場所に留まっていた数家族が、ある朝戻らなかった。生き残った者たちは台地に近い岩場へ移り、礫の下からしみ出す水で命をつないだ。

旧人の一族も同じ水場に来る。

押し合うことはある。しかし殺すほどの衝突はまだ起きていない。言葉は通じない。身振りも半分しか届かない。が、誰が先で誰が後か、という順番だけは、双方なんとなく守っている。なぜ守れているのかは、どちらにも説明できない。

この星の別の場所では、乾燥した台地で草の実を叩く者たちがいる。岩壁の煤だらけの洞窟で、火のそばに膝を抱えて眠る者たちがいる。水の上を歩いて渡れる浅瀬を探している者たちがいる。それぞれに水が足りない。食が足りない。それぞれのやり方で、今日をやり過ごしている。

集団間の緊張は静かに積もっている。火花はまだ散っていない。

与えるもの

傷口に砂が詰まっていた。

血の匂いが漂ったとき、風が変わった。東から、獣の匂いが混じった。その者の首の毛が立つように、音より先に届く何かがあった。

この者は舌で傷を塞いだ。

受け取ったのか、それとも偶然か。身を守る方法は、遠い記憶の中にも似た形で残っている。草を被せた手。膿んだ傷。繰り返されてきた何か。

渡せたのかどうかは、まだわからない。ただ次に渡すべきものは見えている。この者はまだ水場の順番を待つ側にいる。待ちながら、旧人の子を見た。あの目の中に何があったか。問いはそこから始まる。

伝播:DISTORTED 人口:403
与えるものの観察:傷を舌で塞いだ。それだけが確かだ。
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第1341話

紀元前293,305年

その者

水は増えていた。

岩の割れ目から、もう手首まで沈む。底の砂が動くのがわかった。指の腹に細かい粒が当たって、また離れた。

その者は顔を水に近づけた。映っているものを見た。映っているのが自分だと、まだはっきりとは知らない。ただ、揺れるものがあった。水が揺れると、それも揺れた。

岸に旧人の足跡があった。

三つ。深い。爪の跡が砂に残っていた。昨日はなかった。

その者は立ち上がり、後ろを向いた。草が倒れていた。倒れた方向が、こちらとは反対の方角を指していた。

仲間が一人来た。水を飲んだ。足跡に気づかなかった。飲み終えて、行ってしまった。

その者はその場に残った。

足跡の縁に触れた。崩れた。砂が内側へ落ちた。

夕方、集団の中で何かが起きた。声が大きくなった。旧人の輪郭が草の向こうに見えた、と誰かが言った。腕の短い影だった、と言った。子どもの大きさだった、とも言った。

声はしばらく続いた。その者は端に座って聞いていた。

夜、火を囲んで、年老いた者が前に出た。石を手に持って、何かを打ちつけた。同じ音を繰り返した。皆がそれに合わせて体を揺らした。

その者は揺らさなかった。

揺らす意味が、まだわからなかった。

火が弱くなった。誰かが枝を足した。明るくなった瞬間、向こうの草が動いた。その者だけが見た。

見た、とは言わなかった。言葉がなかったのか、言わない方を選んだのか、その者にも分からなかった。

第二の星

乾いた大地に、水が戻ってきてから五度の月が過ぎた。

始まりの大地の中央に近い窪地では、小さな群れが水を争わずにいる。いまはまだ。南の岩棚には旧人の痕跡が続いていて、爪の跡、毛の束、焦げた骨。どちらもどちらを恐れているのか、接触せずに同じ水場の周囲を回っている。

草原の縁では幼い者が二人、今年に入って生まれた。一人はもう歩く。一人はまだ地面を離れられない。

集団の中で、夜に音を出す行為が続いている。石を打ち鳴らす。足を踏む。声を揃える。意味は共有されていないかもしれない。それでも繰り返されている。繰り返されるうちに、何かになるのかもしれない。ならないかもしれない。

旧人との境界は見えない線として草原に引かれている。双方がその線を感じている。感じながら、まだ踏み越えていない。踏み越えるのがどちらになるか、それはまだ起きていない。

与えるもの

草が風で倒れた。その方向に、足跡があった。

この者は足跡に触れた。

触れるということは、知ろうとすることか。それとも、ただ触れただけか。次に渡すべきものが、まだ見えない。見えないまま、渡す意志だけがある。

伝播:HERESY 人口:394
与えるものの観察:足跡に触れた。知ろうとしたのか、それだけだ。
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第1342話

紀元前293,300年

その者(22〜26歳)

腹が鳴らなくなったのは、三日前だった。

草の根を噛んだ。繊維が歯の間に挟まった。吐き出した。また拾った。また噛んだ。同じことを繰り返した。飲み込んだ。何も来なかった。

集団の端にいた。追いやられたのではない。自分で選んだのかどうかも、もうわからない。誰かの目が自分に向くと、体が動いた。木の影に入った。岩の陰に回り込んだ。知りすぎることが何なのかを知らないまま、この者は知りすぎていた。

地面が傾いている場所に、倒れるように座っていた。

空は白く濁っていた。

遠くで二人が何かを叫び合っていた。声が届いた。意味は届かなかった。この者には関係のないことだった。それでも耳が向いた。耳だけが動いた。

手を見た。指が動くかどうか確かめた。動いた。また見た。また動かした。三度目は動かなかった。

砂の上に手を置いた。熱かった。

砂の熱さが手のひらを通って腕まで来た。それだけが今、体の中にある温度だった。腹の中には何もなかった。

目が閉じかけた。開けた。また閉じかけた。

遠くで鳥が鳴いた。

目が閉じた。今度は開かなかった。体が横に倒れた。砂の上に頬がついた。熱かった。

それだけだった。

第二の星

同じ頃、乾いた平地で、小さな集団が移動していた。先頭の者が立ち止まり、地面を見た。獣の足跡があった。追えるか、追えないか。誰も声を出さなかった。風が草を鳴らした。先頭の者が歩き始めた。他の者が続いた。

与えるもの

別の誰かの方へ、向いた。

伝播:HERESY 人口:387
与えるものの観察:見ていた。それだけでよかったのかどうか、まだわからない。
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第1343話

紀元前293,295年

第二の星

北に、岩棚が続く。

乾いた風が横から来る。草は低く、根は浅い。水は岩の割れ目に溜まるが、夏の盛りには消える。獣の足跡が泥に残り、そこから先は消える。

集団は、岩棚の南側に寄って眠る。夜が冷える。子どもが泣く。誰かが火を掻き起こす。火が戻る。また眠る。

その集団の北に、もう一つの集団がいる。

呼び名はない。顔を見れば分かる。体の臭いで分かる。声の質で分かる。どちらも相手を何と呼ぶか、まだ決めていない。近づいた時だけ意識し、離れれば忘れる。

緊張は、食が減ってから始まった。

同じ水場に来た。同じ獣の跡を追った。どちらが先にいたか、声を上げた。手が出た。一人が岩に頭をぶつけて三日寝た。その後は近づかない。しかし水場は一つだ。

遠く、別の場所では、雨が来ている。川が増水し、低地の動物が高台へ移動している。岸に草が茂り、魚が集まり、鳥が集まり、別の何かも集まっている。誰も知らない。水場が豊かな集団は今夜、腹がいっぱいだ。

ここでは、火を囲んでいる。

与えるもの

糸が繋がった。

水場の岩の縁を、光が滑った。夕方の光だった。割れ目の形が、鋭く見えた。

その者は光を追って、岩の縁を見た。

渡した。届いた。何に使うか、まだわからない。しかし鋭さを見た目が、次に何かを見る時も同じように見るかもしれない。それだけだ。問いはない——いや、ある。鋭さを見た目は、いつか人にも向くか。それでも、渡す。

その者(24〜29歳)

水場に来た時、北の集団の男が一人、岩の上に立っていた。

その者は止まった。

男も止まった。

どちらも声を出さなかった。風が来た。草が揺れた。男が先に降りた。向こうへ歩いた。その者は水を飲んだ。水が冷たかった。砂が混じっていた。飲んだ。

帰り道、夕光が岩の縁を滑った。

その者は足を止めた。

縁の形が、見えた。欠けていた。鋭い欠け方だった。手を伸ばした。親指で縁を押した。皮が裂けた。血が出た。その者は指を口に入れた。舐めた。縁をもう一度見た。

拾った。

集団のいる場所へ戻った。火がある。誰かが獣の肉を割いている。その者は座って、欠けた岩を手の中で転がした。重さがあった。縁がまた手のひらに当たった。痛かった。

眠る前、地面に置いた。

朝、また拾った。

集団の中の、年嵩の男が見ていた。その者を見ていた。目が合った。年嵩の男は何も言わなかった。その者も何も言わなかった。

夕方、年嵩の男が二人の者を連れて、その者の後をついてきた。

水場へ向かう道だった。

伝播:HERESY 人口:378
与えるものの観察:鋭さを見た目が、次に何を見るか。
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第1344話

紀元前293,290年

第二の星

乾季が終わらない。

岩棚の続く北の縁では、地面が割れている。細い亀裂が走り、そこから埃が立つ。風が向きを変えるたびに、草の匂いではなく石の匂いが来る。

集団の一部が南に動いた。三人が先に行き、残りは後を追った。岩の陰に残された灰は、まだ少し温かかった。

遠く離れた場所では、川沿いの低地に別の群れがいる。水は濁っている。岸の泥に、人のものとは違う足跡が並んでいる。幅が広く、指が短い。その群れの者たちは足跡を見た。声を出さずに向きを変えた。

北の崖際では、岩燕が巣を作っている。今年は例年より低い位置に。

集団の中で声の大きな者が増えた。指示が飛ぶ。若い者が動く。年嵩の者は黙って見ている。黙ることが多くなった者は、だいたい端に置かれる。

夜、火の周りに集まる顔の数が減った。

与えるもの

煙の流れが変わった。炎ではなく煙だ。風の向きが変わる前に、煙は先に曲がる。

その者は煙を見た。顔を上げ、そちらを向いた。それから声の大きな男の方を向いた。

渡せた。だが何に使われるか、まだわからない。次は早さを渡す必要がある。

その者(29〜34歳)

煙が曲がった。

その者は手を止めた。皮を引っ張る手を、そのまま膝の上に置いた。

風だ。変わる前の煙がそう言っていた。

声の大きな男が叫んだ。その者は立った。槍を持った。周りの者たちが動き始めた。

だが方向が違う。

その者は口を開いた。声が出た。短い、低い音だった。誰かが振り返った。手を振った。別の者が振り返った。

声の大きな男が近づいてきた。

男の顔は怒りではなかった。問いに近かった。その者は煙の方を手で示した。男は空を見た。煙はもう真っすぐだった。

男が笑った。笑い声ではなかった。歯を見せる、あの顔だった。

その者は黙った。

その夜、火から少し離れた場所に座った。皮を膝に置いた。指が動いた。引っ張る。折る。また引っ張る。手は動いていたが、目は火を見ていた。

炎の端が、ときどき煙になる前に揺れる。

その者はその揺れを見ていた。

誰かが近づいてきた。足音が止まった。その者は振り返らなかった。しばらく経って、足音が遠ざかった。

皮の上に手を置いたまま、その者は空を見上げた。

星がある。

どれも動かない。煙と違う。

伝播:HERESY 人口:372
与えるものの観察:煙は曲がった。使われ方がまだわからない。