2033年、人類の旅

「紀元前293,285年〜紀元前293,165年」第1345話〜第1368話

Day 57 — 2026/05/30

読了時間 約55分

第1345話

紀元前293,285年

その者(34〜39歳)

南に動いた集団から、その者は遅れた。

足が言うことを聞かなかった。膝の内側に、石のような塊が育っていた。三年前からだ。最初は朝だけ痛んだ。今は眠っても痛む。

集団は待たなかった。

その者は北の岩棚の陰に残った。水は割れた地面の底に、まだ細く光っていた。手を突っ込んで掬う。掌に乗る量しか出てこない。それを飲んだ。また突っ込んだ。

夜は寒かった。

体を丸めても、足の熱さと背中の冷たさが同時に来る。矛盾した感覚を、その者は何とも思わなかった。感じた。ただ感じた。

四日目に、旧人の二人組が北の縁に現れた。

その者は立てなかった。声を出した。短い声だった。威嚇でも懇願でもなく、ただ声だった。

旧人たちは止まった。

しばらく見ていた。そして続きを歩いた。

その者はまた水を掌で掬った。飲んだ。空を見た。空は高く、雲がなかった。乾いた青さだった。その者は空を見ながら、手を膝の上に置いた。

塊は相変わらず熱かった。

膝に置いた手のひらが、少しずつその熱を引き受けていった。

それだけだった。

体から力が抜けるのに、音がなかった。風も来なかった。掌が膝から滑り、砂に触れた。砂はまだ昼の温度を持っていた。

第二の星

崖に面した草原で、旧人の若い雌が初めて産んだ。子は泣いた。同じ時刻、岩場の川沿いでは同種の二人が同じ木の実を巡って石を投げ合った。一方が逃げた。もう一方がその場に座り込んだ。星は区別しない。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:NOISE 人口:386
与えるものの観察:渡すたびに届かない。それでも渡す。重い。
───
第1346話

紀元前293,280年

その者(26〜31歳)

石が割れた。

右側に。

想定と違う方向だった。

その者は割れた欠片を拾い上げ、縁を親指で確かめた。鋭くはない。使えない。放った。次の石を膝の前に置いた。

膝が、熱かった。

三年前は朝だけだった。今は昼も夜も熱い。夜、横になると内側から脈打つ感触がある。押しても何も変わらない。放っておけば、ときどき忘れられた。

集団は南へ動いた。その者は来なかった。

来られなかった、というより、来なかった、という方が近い。膝のせいだけではない。何か別のものが、この場所にその者を留めていた。それが何かを、その者は言葉にできない。唸り声にもできない。ただ、動かなかった。

石を叩く。

また右に割れた。

その者は止まって、石の表面の筋を見た。長い時間、見た。この石には筋がある。そこに力をかけると逃げる。逃げる方向に従えば、意図した形にはならない。けれど別の形になる。

その者はもう一度、縁を親指で確かめた。

今度は鋭かった。

意図したものではなかった。それでもその者は、その欠片を地面に置かず、手の中に持ち続けた。持ち続けながら、何かを待つような顔をした。何を待つのか、その者にはわからない。

夕方になった。

石を割る音が止んだ。

集団の火が南にある。遠い。その者の背後にある岩が風を防いでいた。その者は火なしに夜を過ごした。持っている欠片を、暗がりの中でまだ握っていた。

朝、膝を伸ばした。

動かなかった。

その者は両手を地面について、時間をかけて立ち上がった。立ち上がったとき、欠片はまだ手の中にあった。

第二の星

この五年を照らす。

干ばつの後、雨が戻った。草が戻り、獣が戻り、集団は南へ動いた。そうして動けた者たちは、水場の近くで子を産んだ。動けなかった者は、残った場所で何かになった。骨になった者も、居続けた者も、どちらも同じくここにある。

始まりの大地は広い。

人が密集している場所と、一人だけいる場所がある。一人でいる場所が、地図の上で増えた。これは分散ではない。これは余りだ。集団から離れた者、遅れた者、置かれた者。彼らが点として散らばっている。

集団間の距離が縮まっている場所がある。北の岩地と、中央の草原の境目。二つの集団が同じ水場を使い始めた。今のところ声を上げるだけで終わっている。触れていない。だがどちらも近づくことをやめていない。

一人でいる者が、石を割っている。

その音が夕方まで続き、夜に止まった。

起き上がったとき、その者はまだ欠片を持っていた。

その意味を、星は判断しない。

与えるもの

糸が繋がった。

石の筋に光を落とした。そこだけ、少し明るかった。

その者は見た。右手の欠片が鋭くなった。別のものになった。

渡したのは「正しい割り方」ではない。石が持つ方向だ。この者はそれを受け取ったのか、それとも偶然の形を拾っただけか。

夜、その者がまだ欠片を握っていた。それが問いになる。手放さなかった理由を、次に渡すべきものを探しながら、私は考え続ける。

伝播:SILENCE 人口:403
与えるものの観察:石の筋に従ったのか、偶然か。
───
第1347話

紀元前293,275年

第二の星とその者(31〜36歳)

乾いた季節と雨の季節が三度、入れ替わった。

台地の縁に沿って、集団は動いた。水場が近い岩棚を見つけると、数十日そこに留まった。去り際には何も残さなかった。残す理由がなかった。

その者は岩棚の端に座って、石を割っていた。膝の上に台石を置き、打石を握る。角度は体が知っていた。頭が考える前に手が動いた。欠片が飛ぶ。縁を親指で確かめる。まだ厚い。もう一度。

空の半分が雲に覆われる日が続いた。動物の群れが南へ移った。集団の中で声が荒れた。食べるものが減ると、声が変わる。その者はそれを知っていた。知っていたが、何も言わなかった。

若い者が数人、その者の近くに来て、石を割る様子を見た。その者は振り返らなかった。見られていることは分かった。分かった上で、何も教えなかった。石は自分のものだった。技も自分のものだった。

集団の中に旧人が二人いた。体が大きく、言葉を持たなかった。声だけで意図を伝えた。その者とは近づかなかった。お互いに近づかなかった。

その年の終わりに、食べ物を巡って争いが起きた。夜、誰かが誰かを殴った。朝になると、一人が岩棚の下にいた。動かなかった。集団は半日そこに留まり、それから移動した。

その者は最後に立ち、倒れた者を見た。石を一つ、そこに置いた。置いた意味を自分でも分からなかった。置いてから、歩いた。

岩棚を離れた後、草原を二十日歩いた。水場を見つけるたびに、集団の速度が落ちた。その者の膝が痛んだ。熱を持つようになったのは三年前だが、今年は夕方だけでなく、朝も痛んだ。歩くたびに、熱があった。

川沿いの低地に着いた。葦が生えていた。鳥が多かった。食べるものがあった。集団は留まることにした。

その者は川の近くに場所を作り、石を割り始めた。石が少なかった。良い石を探すために、上流に向かって歩いた。一人で歩いた。川床に、赤みがかった石が幾つか転がっていた。

その石を持ち帰り、試した。固かった。打つと音が違った。縁の立ち方が違った。その者は少し間を置いた。また打った。

匂いが変わった。

水が腐りかけている場所の、少し手前。その者の鼻が動いた。立ち止まった。右の岸に赤みがかった石が二つ、並んでいた。その者の目がそこへ向かった。

受け取った。

そこから先のことを、渡すものは持っていない。どう使うかは、この者が決める。良い縁になるか、誰かの体に向くかは、関係のないことだ。石は石だ。

ただ、これが届いたのは何度目になるのか、と思う。届いたことが何に繋がるかより、届くことそのものに、まだ意味があるかどうか、を問い続けている。前の星では、最後まで届かなかった。この星でも、届いた後に何が起きるかは、まだ分からない。

次に渡すものがある。渡す場所を、まだ探している。

赤い石で作った刃は、よく切れた。

その者はそれを使い続けた。皮を剥ぐとき、肉を分けるとき。集団の中で、その刃の切れ味が目立ち始めた。誰かが欲しがった。その者は渡さなかった。

渡さないことが問題になった。

誰かが何かを言った。その者は何も言わなかった。睨んだだけだった。

それが続いた。

最後の夜、その者は少し離れた場所で一人、火の横に座っていた。赤い石の刃を膝の上に置いていた。膝が熱かった。火も熱かった。どちらがどちらの熱かを、区別しなかった。

後ろから来た者のことは、分からなかった。

体が傾いた。石が手から離れた。火が揺れた。それだけだった。

与えるもの

腐りかけた水の匂いを、この者の鼻が捉えた。

赤い石を持ち帰り、縁を立てた。刃になった。

その刃が何に使われたかより、この者がそれを手放さなかったことの方が、長く残った気がする。残ったかどうかは、分からない。しかし次に渡すものを、まだ探している。

伝播:HERESY 人口:396
与えるものの観察:刃は手から落ちた。しかし縁の立て方は、誰かが見ていた。
───
第1348話

紀元前293,270年

その者(36〜37歳)

腹が鳴らなくなって、三日が経った。

鳴ることすら忘れた体で、その者は岩の傍に座っていた。膝に石を置いている。手が動かない。動かないが、指は石の面を辿っていた。縁から縁へ。割れた角、滑らかな窪み。

集団の他の者たちは低木の陰に固まっていた。子どもの声が一つ、二つ。遠い。

その者は石を持ち上げようとした。上がらなかった。腕が震えた。一度置いて、また触れた。触れることはできた。

風が来た。草の茎が揺れて、そこから微かな匂いが来た。濡れた土の匂いではなかった。雨の気配ではなかった。それでも鼻が動いた。体が先に、何かを知ろうとした。

その者は顔を上げた。

台地の向こうに山の輪郭が見えた。青白く、遠かった。旧人の集団がそちらに動いていくのを、十日ほど前に見た。あるいは二十日か。日を数えていなかった。

石に視線を戻した。

指が、欠けた縁を親指で辿った。

どこかで覚えのある感触だった。しかし何も浮かばなかった。

夕方、その者は横になった。立ったまま意識が薄れたのではなく、自分で横になった。腕を体に沿わせた。岩が背中に当たっていた。取り除こうとはしなかった。

夜が来た。

星が出ていた。その者の目が、それを映していた。

口が一度、開いた。音は出なかった。

夜が深くなるほど、体が岩に馴染んでいった。重さが消えるように。重さが消えるのではなく、ただそこに在り続けるように。

朝になった頃、その者は岩の上にいた。

手が石を握ったままだった。

第二の星

台地の北、旧人の一群が水場を見つけた。そこに人類の若い男が一人、先に来ていた。目が合った。どちらも動かなかった。水が流れる音だけがあった。どちらが先に去るかを、二つの体が黙って決めていた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:DISTORTED 人口:413
与えるものの観察:渡した匂いは、届いた。それだけだ。次がある。
───
第1349話

紀元前293,265年

第二の星

大地の北では、乾季が続いていた。

草が根から枯れ、地面が白く割れた。水場に集まるものが増え、そこで顔を合わせた二つの集団が、声を上げ合った。石を持ち上げ、また置いた。置いてから拾った集団と、拾ってから置かなかった集団があった。どちらが先に動いたか、地面は覚えていない。

南の沢沿いでは、旧人の群れが一夜で移動した。足跡だけが朝の泥に残り、次の日の雨で消えた。

干ばつは四季を超えて続いた。獣の数が減り、人の動きが遅くなった。幼い子が先に倒れ、次に老いた者が倒れ、若い者だけが残る季節があった。

東の平原では、誰かが赤い土で岩壁に手を押しつけていた。押しつけて離した。手の形が残った。次の雨が来るまでは。

第二の星は傾かない。旱魃を止めない。手の形を消さない。ただ、光を配る。均等に。生き残った者にも、倒れた者にも、同じ角度で。

与えるもの

糸が繋がった。

第257世代。

指が欠けた縁を辿った記憶がある。掌の熱さが膝の熱さを引き受けた記憶がある。それがこの者に繋がるものかどうか、わからない。わからないが、渡す。

地面が乾ききっていた。獣の足跡が、ある方角に向かって深くなっていた。足が重いほど、地面に刻まれる。刻まれた方向から、夜明け前の風がわずかに湿っていた。その湿気を、この者の鼻孔のそばに送った。

この者は立ち上がった。

その方角に歩いたのは、湿気のためか、それとも別の何かか。渡したものが届いたのか、この者の体がもとから知っていたのか。それは問えない。だが、次に渡すべきものはわかる。足跡の先に、水がある。水の先に、獣がいる。獣の先に、まだ問うべきことがある。

その者(23〜28歳)

喉が乾くことも忘れた日が続いた。

体が軽いのは腹が空だからだと、その者は知らない。ただ、足が遅くなった。足が遅いと獣に近づけない。獣に近づけないと食えない。それだけは知っている。

夜明け前に目が覚めた。

何かが鼻に触れた感じがした。触れたというより、空気が変わった。雨の前の匂いではない。もっと細い。遠い水の匂い。

体が先に向いていた。

思う前に足が動いていた。乾いた地面を踏んで、低い草地を越えて、岩の影を抜けた。歩きながら目が地面を読んでいた。小さなくぼみ。深いくぼみ。四つの足跡。蹄。

その者は立ち止まった。

耳を立てた。

遠くで、水が石を打つ音がした。小さい音だった。雨ではなかった。流れる音だった。

足跡が向かった先と、音がした先が、同じ方向だった。

その者は走った。

走りながら、石を握った。手に持ったまま走るのは慣れていた。落とさない持ち方を体が知っている。膝が笑っても、手だけは安定している。

水場に着いたとき、空が白みはじめていた。

小さな流れだった。ひざ丈にも満たない。それでも流れていた。その者は顔を突っ込んだ。飲んだ。飲み続けた。胃が驚いて、一度押し返してきた。それでも飲んだ。

水場の先の草に、獣の新しい糞があった。

その者は立ち上がった。石をまだ持っていた。

目が草の揺れを探した。風ではない揺れを。

伝播:NOISE 人口:427
与えるものの観察:湿気が届いた。体が先に動いた。
───
第1350話

紀元前293,260年

その者(28〜30歳)

集団の端から追い出された。

夜に囁きが聞こえた。朝に食べ物が減っていた。彼が近づくと、子どもを抱えた女が背を向けた。石を渡さなくなった。火を分けなくなった。それは言葉ではなかった。しかし伝わった。

彼は水場で見た。旧人の集団が岸の反対側にいた。彼らは違う形の顎を持ち、声が低かった。しかし石を削っていた。同じように。彼は見た。見たことを、集団に身振りで伝えた。

それが間違いだった。

彼の集団には、旧人と石を並べてはいけない何かがあった。それは言葉になっていなかった。しかし全員が知っていた。彼だけが知らなかった。

その夜、三人が彼の後ろに立った。

崖の上だった。黒い岩が月を反射していた。押されたのか、足が滑ったのか、彼自身にはわからなかった。体が空中にあった。

落ちながら、風が耳を通り過ぎた。

岩が背中を打った。二度。それから静かになった。

月が岩の面に当たっていた。どこかで鳥の声がした。彼の手がわずかに動いた。指が土を掴んだ。そのまま止まった。

第二の星

大地の南では、旧人の二つの群れが夜営を共にしていた。火を囲み、低い声で何かを繰り返していた。同じ音を、何度も。子どもの一人が眠りながら笑った。誰もそれに気づかなかった。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:415
与えるものの観察:同じ場所へ何度渡しても、届く前に消える。
───
第1351話

紀元前293,255年

第二の星

湿原が干上がりかけている。

水が引いた跡に白い筋が残る。塩か、石灰か。獣の足跡がそこで止まり、引き返している。水を求めて来たが、飲めなかった。

集団はまだここにいる。移動するには荷が多すぎる。子どもが多すぎる。

南の斜面では旧人が三体、岩の陰に座っている。眠っているのか、見ているのか、区別はつかない。彼らは毎日そこにいる。集団の者たちは近づかない。旧人も近づかない。ただそこにいる。

火が一晩に二度消えた。

薪が湿っていた。煙が上がったが、炎にならなかった。番をしていた者が怒鳴られた。怒鳴った者の腹が空いていた。

遠い北では、別の小さな群れが礫地を歩いていた。十数人。うち四人が子ども。荷を背負った女が足を引きずっていた。彼らは水を探していた。見つけたのは泥だった。飲んだ。

この星はどちらも照らす。

乾いた南と、泥を飲む北を。

与えるもの

糸が繋がった。

まだ13か14か、それくらいの体に。

遠い記憶がある。崖の上で土を掴んだ指のことを、なぜか思う。あれは別の者の手だった。この者の手ではない。しかし重なる。指の形が似ているわけでもないのに。

今この者に示せるものを探す。

風が変わった。西から乾いた風が来ていた。それが少しだけ南に振れた。風の向きが変わった場所に、低い草が揺れている。その草の根元に、昨日の雨水が溜まっている。浅いが、澄んでいる。

この者が気づくかどうかは別の話だ。

渡せるのはそこまでだ。届くかどうかは、この者の鼻次第だ。

12の者と繋がろうとした。0回、届いた。その数を思うと、何かが重い。疲れとは違う。しかし重い。

それでも、南に振れた風がある。草が揺れている。水がある。

その者

火の番は嫌いだった。

煙が目に入る。座っていると足が痺れる。薪が湿っていると、どれだけ息を吹いても炎にならない。それでも吹く。唇が乾く。また吹く。

昨夜、年上の男に怒鳴られた。

言葉はわからなかった。声の大きさはわかった。男の唾が顔にかかった。この者は何も言わなかった。岩を見た。火を見た。

朝になった。

腹が鳴った。食べ物をもらいに行ったが、女たちの輪に入れなかった。輪の端に立った。誰も石を渡さなかった。誰も目を向けなかった。

この者は輪から離れた。

水場に向かおうとした。いつもの水場は、二日前から白く濁っている。飲むと腹が痛くなることを、集団の誰かが身振りで教えた。だからそこには行かなかった。

どこに行けばいいかわからなかった。

歩いた。目的なく、ただ足が動いた。

低い草の茂みの前で止まった。

理由はない。止まった。

風が来ていた。草が揺れた。土の匂いがした。違う匂いだった。腐った水の匂いではなく、もう少し冷たい何か。

この者は草をかき分けた。

根元に水があった。手のひら一枚分の広さ。深さは指の第一関節まで。

飲んだ。

冷たかった。

長い間そこにしゃがんでいた。また飲んだ。周囲を見た。誰もいなかった。

持って帰るものがなかった。手で掬っても歩けば零れる。

この者はしばらく草の中にいた。それから立ち上がった。集団のほうへ戻った。誰かに伝えようとしたが、言葉がなかった。「あっち」と手を振った。「水」に相当する音を出した。

男が一人、面倒くさそうについてきた。

水を見た。飲んだ。黙って戻った。

この者に何かを言わなかった。

この者はまたしゃがんで、水を飲んだ。

伝播:DISTORTED 人口:429
与えるものの観察:風の向きを渡した。飲んだ。
───
第1352話

紀元前293,250年

その者(18〜23歳)

水袋が空だった。

何度か口を傾けても、しずくひとつ落ちてこない。その者は袋の底を叩いた。乾いた音がした。また叩いた。

集団がいる方向から、女の声が聞こえた。叫んでいるのではない。ただ繰り返している。同じ音を、同じ高さで。子を呼ぶときの声だとその者は知っていた。

歩いた。

草が足首に触れた。去年まで膝まであった草だ。根元が剥き出しになっている。土が割れて、その縁が粉になっている。その者はしゃがんで、割れ目に指を入れた。湿り気はなかった。

立ち上がった。

東の方角から、風が来た。土の匂いと、もうひとつ、何かが混じっていた。腐ったものではない。石を割ったときに鼻をつく、あの硬い匂いに近かった。その者は一度だけ鼻から息を吸った。それから歩き始めた。東ではなく、南へ。

なぜ南なのか、この者は知らない。

集団の野営地に戻ったとき、長老の男が地面に座っていた。膝に幼い子を乗せていた。その子は動かなかった。男は子の背を、ゆっくりと、ゆっくりと撫でていた。

その者はそこで立ち止まった。

水袋を握ったまま、何もできなかった。男は上を向かなかった。子の背を撫で続けた。風が来て、草の粉が舞い上がった。

その者は火のそばに行った。火を番するのが自分の仕事だった。薪は残り少なかった。燃え方が弱くなっている。その者は薪を一本加えた。それから次の一本を手に持ったまま、止まった。加えなかった。

もし水が来なければ、薪を拾いに行く力が誰にも残らなくなる。

その者には「もし」という言葉がない。それでも何かを計算していた。体の中で何かが言っていた。これは使うな。

薪を地面に置いた。

夜になった。火が小さくなった。その者は火のそばに座って、空を見た。星が出ていた。集団の何人かが横になっていた。長老の男は子を抱いたまま動かなかった。子はもうずっと泣いていなかった。

その者は星のひとつを見た。特に理由はなかった。ただそこにあったから見た。

第二の星

干ばつは五年目に入っている。

湿原は完全に死んでいない。だが獣が来なくなった。水を飲みに来ていた蹄の跡が、三つの季節前から途絶えた。獣が知っていて、人が知らないことがある。あるいは獣には行ける場所があり、人には帰るべき場所がある。

始まりの大地の南端に、集団が分散している。同じ血を持つ者たちが、いくつかの火を別々に焚いている。火の数が減った。人が減ったのではなく、薪を惜しんでいる。

北の端では、別の集団がいる。骨格が少し違う。眉の下が深く、顎が前に出ている。こちらの集団とは、時折、距離をとって向き合うことがある。石を持つ者がいる。石を持つ者がいる。どちらも同じことをする。

今はまだ、向き合うだけだ。

水が足りない夏は、集団の内側から静かに削っていく。幼い者が最初に消え、次に老いた者が消える。集団の中心にいる者たちは、気づかないうちに少なくなっていく。

長老の男が抱いている子は、夜が明ける前に冷たくなる。

誰も泣かなかった。声が出なかった。

与えるもの

東から風を吹かせた。硬い石の匂いを乗せた。

この者は南へ歩いた。

なぜ南に水があると思ったのか、この者にはわからない。わからないまま足が動いた。それでいい、とは思わない。次に渡すのは、南へ行く力ではなく、南に何があるかを見た後の記憶だ。この者が実際に南へ行けば。

伝播:NOISE 人口:444
与えるものの観察:薪を置いた手が、何かを知っていた。
───
第1353話

紀元前293,245年

その者

土が割れていた。

足の裏で感じる。薄い革の下、ひびの入った地面が、歩くたびにわずかにずれる。その者は足を止めて、下を見た。割れ目の縁が白い。乾いた白さだ。

遠くで争う声がする。

集団の縁、岩陰のあたり。男の声と、別の声。どちらの声も知っている。昨日も同じ場所で同じ声がした。その者は顔を上げて、声の方向を見た。それから視線を戻した。

手に持った枯れ枝を、火の傍に並べる。まだ燃やさない。燃やすには早い。朝の火は小さく保つ。それを誰かに教わったわけではない。ただそうしてきた。そうすれば火が長く続く。

争う声が大きくなった。

その者は枝を置いて、立った。

集団の中に、他の集団の者が混じっていた。背の高い、顎の張った男。その者より頭ひとつ分高く、腕が長い。昨日から来ている。食べ物を求めているのか、それとも別のことを求めているのか、その者にはわからなかった。わかるのは、自分の集団の者たちが、その男のそばに行きたがっていないということだけだ。

男が動いた。

速かった。

その者の集団の若い男、まだ声の変わりきっていない者が、地面に倒れた。立ち上がろうとしたが、膝が折れた。また倒れた。

周囲が静かになった。

声が止んだ。風だけが残った。

その者は枝の傍に戻った。枝を手に取った。並べた。並べ直した。手が動いていた。

第二の星

この5年、この大地の乾季は長くなった。

川床が露出し、木の根が地面の上に這い出た。獣の通る道が変わり、集団の移動も変わった。食べ物を探す範囲が広がった。広がれば、他の集団と出会う頻度が増える。

人口は444。そのうち半数近くが子どもだ。子どもはよく死ぬ。飢えで、熱で、転落で、獣で。生まれた数と死んだ数が、この5年、どの季節も拮抗している。増えてもいない。減ってもいない。均衡という言葉は、ここでは正確ではない。ただ、消えていない。

旧人の集団は、この大地の北側にいる。彼らも食べ物を探している。彼らも乾季を生きている。どちらが先にここにいたか、どちらがどちらの領域に踏み込んだか、そういう問いはここにはない。あるのは、腹が減っているという事実と、目の前に誰かがいるという事実だけだ。

集団間の緊張は、言葉ではなく、距離と速度で伝わる。

何歩離れるか。どれだけ早く動くか。

若い男が倒れた地面に、血がにじんだ。それだけだ。

与えるもの

影が短くなる時間帯に、光が地面の割れ目に落ちた。

深い方の割れ目。縦に長い、暗い裂け目。その底に、湿った土の色があった。

その者はそこを踏んで通り過ぎた。

踏んで、通り過ぎた。

湿気は届いていた。足の裏には届いていた。

だが今は手が動いていた。枝を並べ、並べ直す手が。

渡せたのかどうか、私にはわからない。しかし次に渡すべきものは見えている。あの割れ目の底の湿った土は、まだそこにある。明日も、明後日も。その者が再びその上を歩くまで、私は待てる。前に渡せなかったことがある。何度も。それでも意志はある。渡す意志だけは、消えない。

伝播:SILENCE 人口:461
与えるものの観察:割れ目の底に湿気があった。足は知っていた。
───
第1354話

紀元前293,240年

第二の星とその者(28〜33歳)

乾いた地が続いた五年間の後、雨が戻ってきた。

始まりの大地の南端、赤みがかった岩が段々に重なる斜面で、水が筋を作り始めた。最初は指の幅ほど。次の季節には腕ほど。岩の間に溜まった土が湿気を含み、色を変えた。草が低く、しかし確かに生えた。

その者は火の番の補助をしていた。夜明け前、炭の上に薪を置く。薄く息を吹き込む。火が弱まると怒鳴られる。火が消えると、それ以上のことが起きる。だからその者は眠らなかった。目を開けたまま、炭の色を見ていた。

北側の草地で旧人の集団が動いていた。六人か八人か。姿は遠く、声は聞こえない。しかし痕跡は残る。踏まれた草、置き去りにされた骨、岩に擦りつけられた赤い色。その者の集団の年寄りたちは、その痕跡を見るたびに同じ声を出した。低く、短く、警告のような音。

その者は痕跡を踏まないようにして歩いた。踏んだら何かが起きると思っていたわけではない。ただ、踏みたくなかった。

雨が戻った三年目、集団の中で子が三人続けて生まれた。二人は育った。一人は生まれて七日で力が抜けた。母親はその子を岩の下に置いた。土は掘らなかった。岩を上に重ねた。声は出さなかった。

その者は少し離れた場所から、それを見ていた。

翌朝、火の番をしながら、その者は岩のほうを一度だけ見た。それから薪に目を戻した。

集団の緊張が高まっていたのはその頃だった。南から来た別の集団と水場を巡って二度、押し合いがあった。一度目は誰も倒れなかった。二度目は一人が崖の縁に追い詰められ、足を踏み外した。落ちた音は遠く、鈍かった。その後、誰もその場所に近づかなかった。

その者は水を汲みに行くとき、遠回りをするようになった。膝まである草を踏んで、濡れた足で帰ってくる。なぜ遠回りをするのかと聞かれても、答えられなかった。単語を持っていなかった。

五年目の乾季、その者は一人で岩場に出た。薪を集める役目があった。

岩の割れ目に枯れ枝が溜まっていた。拾いながら奥に進んでいくと、影の中に何かがあった。獣の死骸ではない。大きすぎる。近づくと、旧人だった。横たわっていた。もう動かなかった。腹が大きく膨れていた。何日も経っていた。

その者は止まった。

鼻を刺す臭いがあった。息を止めた。それでも動かなかった。

相手の手が目に入った。指が四本。親指が短い。自分の手を見た。指が五本。親指が長い。何かが違う。しかし何かが同じだった。

枝を持ったまま、その者は立っていた。どのくらいの時間が過ぎたかわからなかった。

やがて歩き出した。集団のいる方向へ。枝は持っていた。

与えるもの

臭いをそこに残した。

その者は近づいた。逃げなかった。

同じか、違うか。この問いを、その者はまだ声にできない。しかし体が立ち止まった。それで十分か。十分でないかもしれない。次に渡すべきものを、私はすでに知っている。

伝播:DISTORTED 人口:470
与えるものの観察:体が止まった。言葉より先に。
───
第1355話

紀元前293,235年

第二の星

水が戻った。

始まりの大地の南端では、岩の割れ目から細い流れが生まれ、その周囲の土が少しずつ色を取り戻している。乾いた季節に枯れた草の根が、地面の下でまだ生きていた。新しい茎が、古い根から押し上がってくる。

北の台地では、二つの集団が同じ水場に向かっていた。どちらも同じ方向から歩いてきた。どちらも喉が渇いていた。片方は背が高く、額の骨が張り出していた。もう片方は小柄で、肩をすぼめて歩いていた。水場に先に着いたのは背の高い方だった。小柄な方は止まった。距離を保った。背の高い方が飲み終えて離れるのを待った。

誰も何も言わなかった。

始まりの大地の西、風が砂を運ぶ平地では、一人の老いた者が座ったまま起き上がれなくなった。周囲の者たちは食べ物を持ってきた。置いた。老いた者は手を伸ばさなかった。次の朝、老いた者の体は冷えていた。砂が少しずつ覆っていった。

東の斜面では子が生まれた。泣き声が岩に当たって返ってきた。

与えるもの

水辺の土に、獣の足跡が残っていた。
深く、新しい。今朝のものだ。
その者は足跡をじっと見た。しゃがんだ。縁を指でなぞった。

指先に、獣の重さが残っていた。その者は立ち上がり、足跡の向いている方角を見た。

渡せたかもしれない。渡せなかったかもしれない。
足跡を読んだことが、次の何かに繋がるかどうか。それはまだわからない。だが今日、初めて、この者は足跡の深さに触れた。重さを知った。
次に渡すべきものは、もう見えている。

その者(33〜38歳)

水辺に来ていた。

喉が渇いていたわけではなかった。火の番の前に、何となく足が向いた。乾いていた頃、この場所は石だけだった。今は石の間に土がある。土の色が濃い。

しゃがんだ。

獣の足跡があった。大きかった。自分の手のひらより大きかった。縁がまだ崩れていない。土が湿っている証拠だ。その者は縁に指を当てた。土が少し、指先にくっついた。

足跡の向きを見た。

南だった。

立ち上がって、南を見た。茂みがあった。風が来なかった。音もなかった。でも獣はそこにいるかもしれない。あるいは、もういないかもしれない。

その者はしばらく立っていた。

集団に戻った。何も言わなかった。言葉がなかった。しかし火の番のそばに座ったとき、南の方角から目を離さなかった。

夜、眠れなかった。足跡の大きさが手のひらの中に残っていた。

伝播:SPREAD 人口:486
与えるものの観察:足跡の重さを、初めて知った。
───
第1356話

紀元前293,230年

第二の星

北の台地では、二つの集団が同じ水場を囲んでいた。

岩盤が剥き出しになった窪みに、水が溜まっている。片方の集団は夜明けから来ていた。もう片方は昼前に着いた。どちらも十数人。どちらも喉が渇いている。

最初は声だけだった。低い唸り。それから石が投げられた。一つ。二つ。返ってきた。

南の崖下では、別の場所で別のことが起きていた。岩の割れ目から染み出す水の周りに、女が一人しゃがんでいる。指で土を掘り、湿った底を確かめている。そこに子供が二人ついてきていた。一人は水を飲んだ。一人は飲まずに岩の表面を叩いていた。

台地では、投げられた石の一つが誰かの肩に当たった。短い叫び。しかし離れた。その日はそれだけだった。両方の集団が水を飲み、別の方向へ歩いた。水場は残った。

夜、台地の上で風が変わった。

南から北へ。乾いた土の匂いを運んで、草の先を揺らした。火を囲んでいた者たちが顔を上げた。風の向きを読んだわけではない。ただ、冷たかった。

始まりの大地の西の縁では、旧人の一団が崖を登っていた。夕暮れの中で黒い影になって、岩を掴み、足を踏ん張り、上へ向かっていた。理由は見えない。ただ、登っていた。

与えるもの

集団間の緊張が高まっている。

水場で石が飛んだ。その石が肩に当たった。痛みで集団は引いた。引いたから、誰も死ななかった。

今日、この者の近くに枯れた骨があった。草の下に半分埋まった、古い獣の骨。風が吹いたとき、その骨がわずかに動いた。草が揺れて、骨の端が露わになった。

骨の折れ方を、この者が見た。

折れたところから鋭くなっていた。

この者は立ち止まった。それから歩き去った。

骨はまだそこにある。なぜ使わなかったのか。道具として見えなかったのか。それとも触れることへの何かがあったのか。次に何を見せるべきか。水場の石か。あの折れた端か。この問いが終わらない。

その者(38〜43歳)

朝、火の残りを確かめた。

炭の端を指で押した。熱くなかった。また押した。もう一度。その仕草を五回繰り返してから、細い枝を一本加えた。

集落の端で、誰かが声を上げた。低く、短い声。その者は顔を上げた。声の方向を見た。何も見えなかった。また火に向いた。

昼前、水を取りに行った。北の台地への道の手前、草むらの中を歩いていたとき、草が揺れた。風のせいだ。しかし足が止まった。

草の下に骨があった。

その者は骨を見た。白く、乾いていた。折れた断面が上を向いていた。鋭かった。

手を伸ばしかけた。

止まった。

何かが喉の奥にあった。声ではなく、形でもなく、ただ詰まっているような感触。それが何なのか、この者には問う言葉がなかった。

しばらく立っていた。

それから水場へ歩いた。

帰り道、骨のある場所を避けた。わざと遠回りをしたわけではない。ただ足がそちらへ向かなかった。

夕方、子供が一人火の傍に座ってきた。この者の子ではない。火を触ろうとした手を、この者が掴んだ。強くではなく。ただ掴んだ。子供は泣かなかった。火を見続けた。

二人で火を見た。

風が来た。炎が揺れた。子供が口を少し開けた。この者も開けた。どちらも何も言わなかった。

夜、横になった。喉の奥の詰まりはまだあった。眠る前に消えた。朝、あったかどうか覚えていなかった。

伝播:DISTORTED 人口:493
与えるものの観察:折れた骨を見た。手を止めた。なぜ。
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第1357話

紀元前293,225年

その者

水場まで、半日歩いた。

膝が痛い。五年前から、雨が降る前の夜に決まって痛む。今は雨の気配もないのに、右膝が鈍く疼いていた。

着いた時、すでに向こうの集団がいた。

岩盤の窪みに溜まった水を、十数人が汲んでいる。彼らの体は大きく、毛が濃い。背が丸い。こちらの集団と似ているが、声の出し方が違う。喉の奥でこもる。

その者は足を止めた。

後ろに、連れてきた若い者が四人いる。革袋を持っている。空だ。

向こうの集団の中で、体の大きな一人がこちらを見た。動かない。

その者は右手を上げた。何かを言うつもりだった。言葉が出なかった。

どちらも動かない時間があった。

風が崖の方から来た。その者の鼻に、何か甘い腐敗の匂いが届いた。獣の死骸の匂いに似ている。しかし獣ではない。もっと薄い、湿った匂い。

向こうの集団の中で、子どもが一人、咳をした。

大きな声の咳だった。止まらない。

その者は右手を下ろした。

足を踏み出した。向こうの集団が身構えるのがわかった。しかしその者は革袋を地面に置いた。それから両手を開いて見せた。

向こうの大きな者が、しばらくそれを見ていた。

それから背を向けた。集団の中に向かって何か言った。喉の奥でこもる声で、短く。

咳をしている子どもの手を引いて、水場から離れた。

その者は革袋を拾った。

後ろの若い者たちが、息をついた。水を汲み始めた。

その者は水を汲まなかった。向こうの集団が去った方向を見ていた。

子どもの咳が、まだ遠くで続いていた。

第二の星

北の台地は乾いている。

崖の斜面に低木が点在し、根が岩の割れ目に食い込んでいる。地衣類が岩を灰色に覆い、そこだけ風化が遅れている。台地の縁を吹き抜ける風は、内陸の草地から来る。草の埃と、獣の毛の匂いを運ぶ。

この五年、この台地で何かが変わった。

水場が減った。涸れたのではない。使える場所が減った。集団が重なるようになった。始まりの大地の各所で、別々に動いていた者たちが、同じ窪みに同じ日に来るようになった。

こちら側の者たちと、背の丸い者たちが、同じ水を飲む。

衝突もある。石が投げられた夜があった。倒れたまま起き上がらなかった者もいる。しかし今日のように、互いに引いて終わる日もある。

子どもが咳をした。それだけで、場が動いた。

咳は病の音かもしれない。病は互いに知っている。近づけば移ると、言葉にはならないが体が知っている。

始まりの大地の人口は増えも減りもせず、岩の上に張り付いた地衣類のように、ここ数年を保っている。増えるには、もう少しだけ何かが要る。減るには、もう少しだけ何かが崩れれば足りる。

台地の水場は静かになった。

革袋が水で重くなった。

与えるもの

風に乗せた。あの甘い腐敗の匂いを、その者の鼻に届くように。

その者は立ち止まった。革袋を置いた。手を開いた。

手を開くという動きを、その者はどこで覚えたのか。私が渡したものか、この者が自分で見つけたものか。三十年、見ていてわからない。

次に渡せるものがあるとすれば、あの子どもの咳の後に何が来るか、それをこの者に見届けさせることかもしれない。

伝播:NOISE 人口:500
与えるものの観察:手を開いた。どこで覚えたのか、三十年でもわからない。
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第1358話

紀元前293,220年

第二の星

雨が多かった。

湿地の縁では葦が伸び、去年より一腕分ほど高く茂った。その根元に魚が入り込み、水面を叩く音が朝ごとに続いた。草原では獣の群れが動きを変えた。乾いた季節に南へ退いていた大きな者たちが、水を追って戻ってきた。足跡が泥に深く残り、朝露の乾かないうちから次の足跡が重なった。

大地は空気を吸い込むように膨らんでいた。

東の丘陵では、別の集団が石を運んでいた。大きな岩の下に細い石を挟み、数人がかりで押す。岩が動くたびに歓声に似た声が上がり、また沈黙した。彼らは移動していたのではない。何かを作ろうとしていた。形が定まらないまま、それでも石を動かすことをやめなかった。雨の匂いの中に、汗の匂いが混じった。

南の森の縁では、子供たちが木の実を集めていた。今年は木が多く実をつけた。拾っても拾っても地面に落ちていた。子供たちは食べながら集め、集めながら遊んだ。笑い声が葉の隙間を抜けていった。

集団は大きくなっていた。子が生まれ、その子がまた育った。前の乾いた季節に失った者たちの穴が、少しずつ埋まった。全部ではない。それでも夜の焚き火の周りに、前より多くの顔があった。焚き火のそばで声が上がり、誰かが身振りで何かを示し、他の者が真似た。言葉ではなかった。言葉の手前にあるものだった。

旧人の集団が近くにいた。川沿いの崖の下に、数人が寝起きしていた。彼らの顔は違った。眉の骨が厚く、体は短くて太かった。互いに遠巻きにしながら、それでも同じ水場を使っていた。どちらも相手を追い払わなかった。どちらも近づかなかった。ただ、同じ川の水を飲んだ。

その緊張は静かだった。声に出ることはなかった。しかし夜、旧人の集団の男が、こちらの水場に踏み込んだ。女が一人、単独で水を汲んでいた。男は何も言わなかった。女も何も言わなかった。男が去った後、女は水を持って戻り、集団の中で何かを告げた。声は低く、短かった。

聞いていた者たちの顔が変わった。

この星全体では、雨はただ降り続けていた。水が溢れた場所では草が腐り、乾いた場所では砂が固まった。遠く離れた海の向こう、まだ誰も踏んでいない場所でも、木が実をつけ、獣が草を食み、川が石を削っていた。誰もそれを知らなかった。この星は知っていた。ただ見ていた。

与えるもの

水場に残された足跡、二種類。深さが違う。形が違う。

その者は見た。一方の足跡を踏み、もう一方の縁を指先でなぞった。それから立ち上がり、自分の集団のいる方を向いた。

足跡は同じ水を飲んだことを示していた。それで何が変わるのか、わたしにはまだわからない。しかし次に渡すべきものは、たぶんこの違いではなく、同じ場所に立っていたという事実の方だ。

その者(48〜53歳)

右膝はもう痛まなかった。雨が戻ってから、体が変わった気がした。

水場で足跡を見た。二種類あった。深いものと浅いもの。その者はしゃがみ、深い方に自分の手を当てた。手より大きかった。

集団に戻ると、女たちが声を潜めて話していた。その者は座り、火の番をした。炭が崩れた。炭を直した。夜が来た。

伝播:HERESY 人口:618
与えるものの観察:足跡の違いを見た。立ち去り方が気になる。
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第1359話

紀元前293,215年

その者(53〜57歳)

葦の根元に座っていると膝が鳴った。

昔は鳴らなかった。膝が鳴るようになったのは、子どもたちが腰ほどの高さになった頃だったか。覚えていない。覚えていることが少なくなった。それは不安ではなかった。ただ、少なかった。

火の番は若い者に渡っていた。その者はもう薪を割れなかった。腕に力が入らない。それでも火の近くにいた。役目というより、暖かいから。

集団の中に、何かが滞っていた。

声が低くなる場所があった。二人の男が話していると、三人目が来ると止まった。その者はそれを見ていた。見て、何も言わなかった。言葉を持たなかったから、ではない。言ってはいけないことがある、と体が知っていた。

知っている、ということを言葉にできなかった。しかし体が知っていた。

ある夜、その者は水場から離れた岩の陰に連れられた。

暗かった。二人いた。一人は顔を知っていた。もう一人は知らなかった。知らない男が手を伸ばした。

声が出なかった。出そうとしたかどうかも、わからない。

体が地面に触れた。岩の角が背に当たった。冷たかった。それだけはっきりしていた。夜の岩の、冷たさ。

その者の手が土の上を這った。指の間に砂が入った。

力が抜けた。

砂は指の間にあった。

夜が明けた。

水場に朝の鳥が来て、水面を蹴って飛んだ。

第二の星

始まりの大地の北、草原の端で旧人の群れが移動していた。子どもを背負った女が一人、列から遅れた。男が戻ってきて、その腕を引いた。草が揺れた。列は続いた。

与えるもの

何に注意を向けさせたか:水場の手前、地面に深く刻まれた足跡が二つ。どちらも同じ方向を向いていた。朝、そこだけ霜が残らず、土が乾いていた。温度の差が、そこだけあった。

この者がどうしたか:足跡を踏んだ。足の裏で深さを測るように、一度だけ体重をかけた。それから水を飲みに行った。

それについて与えるものが思ったこと:踏んだことに意味があったか。わからない。しかし足の裏で深さを測る、という行為を、この者は何度か繰り返していた。何かを確かめる方法として、体が覚えていた。次に渡すべきものは、踏むことそのものではない。踏んで、残る印が、次の者に届くかもしれない。

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:598
与えるものの観察:踏んで測った。その者は知らずに数えていた。
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第1360話

紀元前293,210年

第二の星

北の高地では雪が早かった。

草原との境で、獣の群れが向きを変えた。嗅覚が鋭い。嵐の匂いを知っている。群れが走る方向へ、風が続いた。

河岸では、二つの集団が互いの声を聞いた。近づかなかった。近づかない距離を保って、しかしそこから動かなかった。その夜、一方の集団が焚き火を大きくした。もう一方もそうした。どちらが先だったかは、誰も知らない。

乾いた土の上を、子どもが三人で走った。追いかけていた小動物は草の中に消えた。子どもたちは草の縁で止まった。しばらく待った。出てこなかった。帰った。

岩棚の下で、老いた者が咳をした。咳は夜も続いた。朝になっても続いた。次の朝、続かなかった。

南の低地、干上がりかけた水辺のほとりに、一つの集団が幕を張った。人数は少ない。分かれてきた集団か、残った集団か、それは問わない。子どもの声がした。

与えるもの

糸が繋がった。

水面に光が落ちた。ある草の葉の先、水際すれすれに。

この者は水を飲もうとしていた。光の落ちた場所の草を、踏んだ。

踏んでいいものか。踏んだから何だ。次に渡すものを、もう考えている。

その者(13〜18歳)

水の縁は泥だった。

足が沈む。もう一歩踏み込んだら膝まで沈みそうで、しかし水は見えている。腹が鳴っていた。朝から鳴っていた。

膝をついて手を水につけた。飲んだ。泥の味がした。

立ち上がろうとして、足が滑った。手が草をつかんだ。草は抜けなかった。抜けなかったから、立てた。

その草を、見た。

細い。根が深い。引いても、抜けない。

放した。

また腹が鳴った。集団の方向へ歩いた。草のことは、もう考えていなかった。

けれど夜、横になって天を見上げたとき、手のひらに感触が残っていた。あの草の、固い感触。なぜ残っているのか、この者には言葉がなかった。手のひらを岩に押しつけた。違う感触が来た。岩の感触が来た。

草の感触は、消えなかった。

岩の感触と並んで、残った。

この者は目を閉じた。閉じたまま、両手を胸の上に置いた。手のひらが胸の上で動いた。草のつかみ方を、もう一度やった。何も持っていなかった。それでも、した。

眠った。

五年のあいだに、この者は三度腹を壊し、一度右腕を岩で打って腫らした。採集の列の末尾を歩いた。先頭は歩かせてもらえなかった。荷を持った。重い荷を持つことが、この者の場所だった。

腕の腫れが引いた頃、別の子どもが荷を持てなくなった。その子どもに水を渡したのは、理由があったからではない。手が動いた。それだけだ。

その子どもはその後、歩いた。

十八になった頃、集団の中で緊張があった。声が荒かった。夜、たき火の向こうで誰かが誰かを押した。押された者が倒れた。起き上がった。また押した。

この者は荷を抱えたまま、その場から離れた。

草の縁に座った。暗かった。腹が鳴っていた。手のひらを地面に当てた。土の感触があった。

草の感触ではなかった。

伝播:NOISE 人口:607
与えるものの観察:手のひらに残った。届いたかもしれない。
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第1361話

紀元前293,205年

その者(18〜23歳)

木が多い場所では、光がまばらに落ちた。

その者は集団の端を歩いていた。見習いに許された位置は常にそこだった。前を行く年かさの者たちの足跡を踏み、袋を担ぎ、採り残しを拾った。それが役割だった。

五年が穏やかだった。
子が増え、声が増え、夜の火の周りに座る者の数が増えた。食料の場所を知っている者が増えるということは、同時に、誰が何を知っているかを気にする者も増えるということだった。

その者は知りすぎていた。

どこに根菜が埋まっているか。どの水場が夏でも枯れないか。あの岩陰に、別の集団が残した痕跡があること。それを見た者が、その者だけだったこと。

それを誰かに伝えようとした。
単語と身振りで。何度も。

聞いた者の顔が変わるのを見た。怒りではなく、何か別のもの。閉じていくような顔だった。

その日、その者は崖の下へ遣られた。
水を汲む仕事だった。一人でやれ、と身振りで示された。いつもは二人でやる仕事だった。

崖の縁は、雨の後に柔らかくなっていた。

足をかけた石が動いた。
体が前に出た。止めるものが何もなかった。

水が近くにあった。
その者は水の音を聞きながら落ちた。
音だけが先に届いた。

誰も降りてこなかった。

夕方、火の煙が上がるのが見えた。集団の場所から。遠かった。

その者の体は岩の上にあった。空が広かった。雲がゆっくり動いていた。それを目で追った。

追えなくなった。

第二の星

北の砂地では、二つの足跡が交わっている場所がある。どちらも途中で止まっている。砂が風で埋めている最中だ。南の森では、誰かが木の幹に何かを刻んでいる。理由は本人にも分からない。この星は両方を照らす。区別しない。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:750
与えるものの観察:渡したものが消えた理由を、まだ問うている。
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第1362話

紀元前293,200年

その者(38〜43歳)

泥の上に、爪の跡があった。

四本。深さが違う。左の二本が長く、右の二本が浅い。その者はかがんで鼻を近づけた。土の匂いに、何か混じっていた。獣の皮の臭いとも違う。もっと濃い、刺すような何か。

立ち上がらなかった。

もう一度、鼻を押しつけた。

臭いはそこだけでなく、少し先の草の根元にも残っていた。踏まれた痕跡ではない。長く止まっていた跡だ。草が横に曲がって、戻っていない。その向きが、集団の進む方向に重なっていた。

その者は手を上げた。

後ろで担ぎ手の一人が足を止めた。声は出さなかった。手を上げただけで、伝わった。

集団が止まった。

その者は低い声を出した。喉の奥から、一度だけ。それで前にいた年かさの者が振り向いた。その者は爪跡の方向を見た。年かさの者もそこを見た。二人の間で、何かが決まった。言葉ではなかった。

集団は向きを変えた。

その方向には水場があった。遠回りになる。しかし誰も異を唱えなかった。

夕方、水場に着いた。子どもの一人が水に顔を突っ込んで飲んだ。その者はその子の首の後ろに手を当てた。溺れないよう、ではなく、ただそこに手を置いた。

なぜそうしたか、その者は考えなかった。

手が、そこにあった。

第二の星

豊かな時節が続いていた。

始まりの大地の南、草が膝丈まで育つ平原では、獲物が群れをなして移動していた。集団はその後を追いながら、少しずつ大きくなった。子が生まれた。育った。また子を産んだ。

しかし大きくなった集団は、場所を争う。

水場の周りで、別の血の群れと顔を合わせることが増えた。目が合い、石が投げられたこともあった。死者は出なかった。しかしその緊張は空気の中に残った。火を囲むとき、誰かが必ず外の暗闇を向いていた。

旧人たちは草原の縁に沿って動いていた。体の大きな彼らは、人の集団を避けるでも近づくでもなく、ただ並行して存在した。どちらも相手を獣と呼ぶこともなく、人と呼ぶこともなかった。名前がなかったから、関係も名前を持てなかった。

この5年、誰かが常に死んだ。しかし集団は減らなかった。

産まれる者の数が、失われる者を上回った。それだけのことだった。

与えるもの

臭いがそこにあった。

草が曲がっていた。

この者の鼻が、その方向を向いた。

向いた後で、この者は足を止めた。集団を止めた。

渡したのかどうか、わからない。鼻はもともとそのように働く。だとしても、止まった。止まって、向きを変えた。

次は何を渡すか、と考えている。臭いではないものを。この者がまだ一度も止まったことのない、何かを。

伝播:NOISE 人口:760
与えるものの観察:臭いに止まった。それだけで集団が動いた。
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第1363話

紀元前293,195年

第二の星

乾いた風が高地を渡る。

草の根元がひび割れ、硬くなった土の表面に、白い塩の粒が浮いている。かつて水が溜まっていた場所のなごりだ。今は底が見えている。底には何もない。

この高原に、多くの集団がいる。

一方の集団は崖沿いに住んでいる。狩り場と水場を長く保ってきた。体格がよく、移動の跡が深い。

もう一方は草地の縁に沿って動いている。数が多い。声が大きい。子が多く、老いた者も多い。近年、獲物が減ったわけではない。ただ、増えた口を養う場所が足りない。

二つの集団は近くなった。去年より近い。一昨年より、はるかに近い。

崖沿いの集団の男が、草地の縁の集団の踏み跡を見た。拾い上げた石を、投げなかった。置いた。

草地の縁の集団の女が、崖沿いの集団の煙を見た。消えるまで見ていた。

しかし接触はない。

互いに声の届く距離まで来ても、どちらも動かない。動かないことが、今のところ平和だった。

その緊張の中で、獣が動いた。

大きな四足の群れが、水を求めて移動し始めた。乾いた高原を横切り、低地の方へ向かった。群れの後を、崖沿いの集団がついていった。三日で、見えなくなった。

草地の縁の集団は残った。

狩り場が空いた。水場が空いた。空いたものに、足が向いた。

崖の根元に、古い貝殻が積み重なっていた。ずっと前に誰かが食べたあとだ。骨が混じっていた。この骨は大きく、崖沿いの集団が残したものではないかもしれない。もっと前の者のものかもしれない。

骨の前で、草地の縁の集団のいくつかの者が立ち止まった。

何かを言った。

何を言ったかは、遠くからでは聞こえない。

崖の上で、風が鳴った。

与えるもの

骨の傍に、腐りかけた実が落ちていた。その実から出た液体が、土に染みて、少し先まで色を変えていた。

その者は実を見た。かがんだ。指で触れた。顔を上げず、染みの先を目で追った。

渡した方向の先には、崖への登り口があった。この者が知っているかどうか、わからない。知っていたとして、登る気があるかどうかも、わからない。しかし次に渡すなら登った先からだと、何かが決まった。

その者(43〜48歳)

その者は草地の縁の集団の中にいなかった。

崖の上にいた。

早朝に一人で登った。誰かが跡をつけているかどうか、確かめるためだった。崖の上から、二つの集団が動いた跡が見えた。踏み固められた土。消えた煙の場所。

その者は長く、見ていた。

伝播:HERESY 人口:724
与えるものの観察:登った者だけが見える線がある
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第1364話

紀元前293,190年

第二の星

高地の端で、土が裂けている。

亀裂は指ほどの幅から始まり、そこから枝分かれして、岩盤の露出した斜面まで続いている。雨が来なかった。植物の根が土を束ねる力をなくし、表土が剥がれ、乾いた風が粉のように運んでいく。空は白く、太陽の輪郭がはっきりしない。

この星の別の場所では、別のことが起きている。

湿地の縁では、小さな集団が水を汲んでいる。ここも少ない。しかし底は見えていない。岸の草が枯れていても、地下からまだ滲んでいる。その集団の者たちは、この星に張りついたまま、動かない。動き方を知らないのかもしれない。あるいは、動く先を知らないのかもしれない。

森の奥では、別の種の群れが木の下に座っている。こちらの種は眉の骨が厚く、声が低い。今日は動かなかった。昨日も動かなかった。飢えているのかどうか、この星には関係がない。

高地では、死んだ草の間に種が落ちている。

雨が来れば、芽が出る。来なければ、このまま砂になる。

どちらでも、この星は同じ速度で回る。

与えるもの

爪跡に鼻を押しつけた記憶がある。二度。

それが誰の跡だったか、もう問わない。問うことをやめた場所がある。ただ——渡さなかったことで消えた、ということは起きた。

今、乾いた土の上で、この者が立っている。

足跡を見ている。

その足跡の先に、別の匂いが混じっている。この者の種ではない、別の種の体臭が、熱で蒸れた土に染みている。この者の鼻はそれを知っている。だが脚は止まっている。

熱を使った。

足跡のひとつに、正午の日光が垂直に落ちた。影がない。縁がくっきりしている。古い跡ではない。

受け取るかどうか、私には関わりがない。

しかし手が動いた記憶がある。理由より先に、手が。

渡す前に消えることが、一度あった。渡した後に消えることも、一度あった。どちらが何だったのか、今もわからない。わからないまま、ここに跡がある。縁がくっきりしている。

その者(48〜53歳)

風が正面から来た。

その者は脚を止めた。鼻が動く前に、喉の奥が先に反応した。苦みに似た何かが粘膜に触れる感覚——獣脂が腐る匂いとも違う、土が蒸れる匂いとも違う。

下を見た。

土に足跡があった。四つ。近い間隔で、かかとが深く沈んでいる。走っていない。歩いていた。重い者の跡だ。

足跡の縁に日光が直接落ちていた。影がない。

その者は膝をついた。跡に手のひらを近づけた。触れない。体温を感じるかどうかを確かめている。熱はない。しかし乾いていない。

立ち上がり、来た道を振り返った。

集団の方向。

集団の中には、まだ歩けない子がいる。皮袋を持てない者がいる。昨日の夜、年老いた女が転んで腰を打ち、立てなくなった。

その者は跡の向きを確認した。集団の来た方角とは違う。別の方向から入ってきた跡だ。

鼻でもう一度、空気を引いた。

遠くなっている。去っていった。

しかし戻ってくる可能性は、消えていない。

その者は小石をひとつ拾い、足跡の近くに置いた。戻る印ではない。ここで何かが起きた、ということを体に刻むための行為だった。

石を置いてから、集団の方向へ向かって駆けた。

声は出さなかった。

伝播:NOISE 人口:733
与えるものの観察:縁がくっきりしていた。受け取った。
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第1365話

紀元前293,185年

第二の星とその者(53〜58歳)

崖の下に水が戻った。

ひと冬、乾いていた窪地に、雪解けではなく地下から滲むような水が現れた。端が泥で濁り、底は見えない。その周囲だけ草が青く、空気がわずかに重い。

その者は朝、その縁に立った。膝を折り、手のひらを水面に近づけた。触れなかった。

高地の亀裂は広がっていた。幅が手のひら二枚分になった箇所もある。雨季の始まりに表土が剥がれ、その下にある礫層が露出した。礫は平らで赤く、乾いた風に転がることもない。ただ、そこにある。新しい地形というより、もとからそこにあったものが現れた、という感じがした。

集団は水場から離れることができなかった。五十三人が窪地の周囲に散らばり、皮袋と葉を広げ、水を運び、眠り、起きた。子どもが三人生まれ、うち一人は冬を越せなかった。

その者は集団の端を歩いた。獣の痕跡を読む、というより、今は何かが来ないかどうかを確かめていた。足跡があれば古いか新しいかを嗅いだ。土が崩れていれば何かが通った方向を読んだ。

その午後、風が東から吹いた。

獣の毛の匂いではなかった。煙ではなかった。湿った岩の匂いに、何か別のものが混じっていた。その者はそちらを向いた。鼻を持ち上げ、もう一度吸った。

東の斜面に、別の集団がいた。

遠くから見ると、動く点の数は十を超えなかった。旧人と思われる者たちが、礫の上を移動していた。足取りは重かった。彼らも水を探していた。

その者は動かなかった。

しゃがんで、手を地面につき、匂いを追い続けた。集団の誰かが近づいてきた。その者は片手を上げた。それだけで相手は止まった。

旧人たちは斜面を降りてこなかった。

水場から半日の距離で、彼らは向きを変えた。理由はわからない。風が変わったのかもしれない。別の匂いを追ったのかもしれない。彼らは礫の尾根を越えて、見えなくなった。

緊張が続いていた。

集団の中で、夜ごと声が上がるようになっていた。怒鳴る声ではなく、低い音を繰り返す声だった。誰かが始めると、別の誰かが同じ音を重ねた。火を囲んで、体を揺らして、音が重なった。その者はその輪の外に座り、音を聞きながら、東の方角を見ていた。

五年が過ぎた。

亀裂はふさがらなかった。水場は残った。旧人の集団は二度、姿を見せ、二度とも遠ざかった。その者は年をとり、膝を折るのが少し遅くなった。しかし足跡を読む速さは変わらなかった。

最後の冬、東の斜面で火が見えた。

その者はそれを見た。立ったまま、長い間、見ていた。炎ではなく、遠い光の点だった。揺れていた。消えなかった。

その者は何も言わなかった。集団に戻り、眠った。

翌朝、火の点は消えていた。

与えるもの

風に乗せた。

東から来た湿った岩の匂いに、もう少しだけ長く残るよう、重さを与えた。

その者は鼻を持ち上げた。向きを変えた。それで足が止まった。

足が止まったことで、集団も止まった。

旧人たちは来なかった。水場は奪われなかった。しかしそれが、匂いを読んだせいかどうか、私にはわからない。たまたまそうなったのかもしれない。

次に渡すなら何か。

匂いではなく、音かもしれない。夜の輪の中で重なる声。その者はまだ、輪の外にいる。

伝播:NOISE 人口:736
与えるものの観察:足が止まった。それだけで何かが変わった。
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第1366話

紀元前293,180年

第二の星

東の高地では、氷が後退している。岩の面が剥き出しになり、そこに苔が這う。苔の上に虫が来て、虫を追って鳥が来て、鳥の糞が種を落とす。それだけのことが、一万年かけて森になる。

北の平原では、旧人の集団が動いている。三十ほどの影が、地平の霞の中に見える。彼らの足跡は深い。重い体躯で、歩幅が広い。踏んだ草が起き上がらない。

始まりの大地の南端では、集団の境目が揺れている。どこからが別の集団か、それを示す言葉がない。しかし匂いが違う。声の高さが違う。火の燃やし方が違う。それだけで、誰が誰かは分かる。誰かが誰かに石を投げたのは、三日前だった。石は当たらなかった。しかし腕を振ったことは、忘れられない。

水場の縁に、その者の足跡がある。朝のものだ。踵が深く沈んでいる。長く立っていた。

第二の星は、それらを等しく照らす。苔も、旧人の足跡も、投げられた石の着地点も。光は選ばない。

与えるもの

水の底に、白いものがある。

石か骨か、それとも別のものかは分からない。ただ、濁りが晴れた瞬間だけ、そこに何かある。その者が覗き込んだとき、水面に温度の違いが走った。縁から中心へ、わずかな流れ。冷たさではなく、温かさだった。地の底から来るものの温度。

この者は手を水に入れた。

その温かさが何を意味するか、与えるものには分からない。ただ、この者がまだ問い続けていることは、分かる。58年、問い続けた顔を、与えるものは覚えている。覚えているとはどういうことか。12の顔も覚えている。問いが届かなかった12の顔を。この者の顔は13番目だ。それが何かを変えるかどうか、渡しながらも分からない。

次に渡すべきものは、もうある。

その者(58〜63歳)

水の底に白いものを見た、その夜から、眠りが浅くなった。

朝、暗いうちに目が覚める。火が落ちかけている。誰かが息をしている音がする。子どもの声がどこかで短く上がって、止む。その者は起き上がらずに、天井の岩を見ている。岩のひびが、暗がりでも分かる。何度も見た模様だ。

水場へは毎朝行く。それは変わらない。

足跡を読む。水を飲む動物の爪の形、体重の乗り方、何時間前に来たか。それを読むのが、この者の仕事だった。集団が動くか留まるかを、この者の読みが決める。それを誰もが知っている。

しかし最近、誰かの視線が首の後ろに来る。

後ろを向いても誰もいない。火の向こうに、何人かが顔を伏せている。その角度が、わずかにおかしい。伏せながら、こちらを見ている角度だ。それをこの者は知っている。獣を追うとき、獲物の目がそういう角度になる。

水場の底の白いものを、誰かに話した。

声と身振りで、水の中に何かある、と伝えた。白い、骨のような、しかし骨ではない何か。一人が頷いた。もう一人は石を持ち直した。握り方が変わる瞬間を、この者は見た。

その夜、手の甲に傷があった。いつついたか分からない。岩で擦れたのかもしれない。爪かもしれない。

水に手を入れたとき、温かかった。それだけが残っている。

温かいものが地の底から来ている。それが何か、言葉がない。言葉がないから、体の中だけで動く。腹の奥が、何かを知っている気がする。頭ではなく、腹が。

集団が動く時機を考える。この水場を離れれば、次はどこか。东の丘を越えると旧人の臭いがする。南は石が多く、夜が冷える。北は川があるが、渡れるかどうか、季節による。

その者は地面に指で何かを引いた。線ではない。点だ。水場の場所。丘の場所。川の場所。並べて見る。この指の先の地面に、判断がある。

手を払って、立つ。

首の後ろがまだ熱い。

伝播:HERESY 人口:709
与えるものの観察:温度で示した。この者の手が答えた。
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第1367話

紀元前293,175年

その者(63〜64歳)

脚が重い。

それだけのことだった。前の季節までは、夜明けに立てば体が動いた。今は、立つまでに間がある。膝に手を置いて、息を整えて、それから立つ。

集団はゆっくりと北へ動いていた。旧人の集団が南から圧力をかけている。その者は匂いで知っていた。煙の混ざり方が変わった。獣の道でない何かが、土を踏んでいる。

その者は地面に膝をついた。爪跡を指で触れた。

深い。重い体が通った。ただの獣ではない。

仲間のひとりが近くに立っている。若い。その者が爪跡の横に手を置くと、若者が同じように手を置いた。何かを伝えようとした。爪跡の深さ、方向、土の湿り気。単音節の声と、手の向き。

若者は頷いた。理解したかどうか、その者にはわからない。

その夜、その者は眠れなかった。

火の端に座って、炎が低くなるのを見ていた。空に光が多い。乾いた風が来る。体の内側が、どこか遠くなっている感じがした。手を開いて、閉じた。

これまでに読んだ爪跡の数を、その者は思わない。思う言葉がない。ただ、何かが手の中にある感じがして、それが何なのかわからない。

風がそこに落ちた。

北の方角から、かすかに獣の匂いが来た。その者の鼻が動いた。既知の匂い。危険ではない。ただ、その方向に何かある。

体は動かなかった。

動かそうとしたのかもしれない。あるいは、もう動かなくてよいと思ったのかもしれない。

その者は火の端に座ったまま、少しずつ前に傾いた。手が地面についた。そのまま横になった。

誰かが気づいた。近づいた。声を出した。

その者の体は温かかった。しかしもう、何も読んでいなかった。夜明けが来る前に、その者の手から力が抜けた。獣の匂いが、まだ北から来ていた。

第二の星

南の湿地では、旧人がふたり、水辺に立っている。ひとりが手を水に入れ、もうひとりが空を見ている。何も起きない。風が葦を揺らす。水面が光る。ふたりはそのまま立っていた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:SILENCE 人口:712
与えるものの観察:覚えているということは、何なのか。まだわからない。
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第1368話

紀元前293,170年

その者(19〜24歳)

獲物は重かった。

肩に担いだ角のある頭が、歩くたびに背中を叩く。脚の付け根が熱い。土は乾いて、踏むたびに割れる音がした。

集団はもう半日先にいる。

その者は急がなかった。急げなかったのではない。急ぐ意味を考えていた。それが何かはわからない。ただ、足が止まった。

空気の中に、何かがあった。

焦げた匂いではない。土でもない。皮膚の内側で何かが動く感覚に近い。その者は鼻を動かした。首を右へ向けた。乾いた草の向こうに、岩場の縁があった。その者は知らなかった。その岩場の向こうに、別の集団がいることを。

旧人たちだ。

体が大きく、目が深く窪んでいた。その者の集団とは何度かすれ違ってきた。争いがあったこともある。食べ物を渡したこともある。名前はなかった。ただ「別の者たち」だった。

その者は岩の陰に身を沈めた。

腹が地面に触れた。心臓の音が土に伝わる気がした。岩場の縁から、別の者たちの声が聞こえた。喉の奥から出る、低い音。その者の集団の声とは違う。

一人の者が、こちらを見た。

目が合ったかどうかはわからない。その者は岩の陰で動かなかった。獲物の重さが背中にある。逃げれば音がする。置いていけば、帰れない。

長い間があった。

別の者たちは動いた。岩場の奥へ消えていった。その者はしばらく地面に張り付いていた。心臓の音が、ゆっくりと静かになった。

立ち上がった。

担ぎ直して、歩いた。

集団に戻ったとき、その者は何も言わなかった。「別の者たちがいた」という言葉を持っていなかった。ただ獲物を置いた。火の側に座った。

夜、火の番をしながら、その者は岩場の方角を見ていた。

暗くてなにも見えない。それでも見ていた。

集団の中で、年上の者がその者を見た。何かを察したような目だった。何かを知っている者の目、とその者は感じた。翌朝、その者の寝る場所が、集団の端に変わっていた。

その者は気づかなかった。

あるいは気づいていたが、意味がわからなかった。

三日後、獲物を探しに出たまま、その者は戻らなかった。

集団の誰も探しに行かなかった。

第二の星

乾季が続いていた。

「始まりの大地」の北側では草が枯れ、水場が干上がり、集団は分散して動いていた。七百を超えていた数が、今年の夏を越えられるかどうか、星の目には見えていた。

旧人との接触が増えていた。

水を争う。食料を争う。あるいは黙って距離を置く。互いの声が違う。姿が似ているが、骨格が違う。恐れた。模倣した。殺した。共に火を囲んだこともある。境界線は引かれていなかった。その都度、その場で、決まった。

集団の内側でも、何かが変わりかけていた。

「別の者たちを見た」と伝えられる言葉はまだなかった。しかし「この者は何かを知っている」という感覚は、言葉より先に動く。目が、行動が、寝る場所が、それを決めた。

知りすぎた者が消えることに、名前はなかった。

しかしそれは繰り返されていた。繰り返されることに誰も気づいていなかった。

与えるもの

糸が繋がった。

獲物を担いで歩く背中に、風が吹いた。その者の右側から。岩場の方向から。

その者は首を右へ向けた。

渡したのは、方向だった。逃げる方向ではなく、見る方向を。その者は見た。見て、身を隠した。生き延びた。三日間。

三日で十分だと思ったか、と自分に問う。答えは出ない。次に渡すべきものがあったはずだ。「戻ってきた」と伝える言葉を。集団の者たちに「別の者たちがいた」と届ける声を。

しかしその者は言葉を持っていなかった。

渡せなかったのではない。渡すものが、この者の器に合っていなかった。それとも——と、ここで止まる。問いが重なる。器に合わせて渡すべきだったのか。それとも届かないものを渡し続けることが、いつか届く準備になるのか。

第一の星のことは語らない。

ただ、風を吹かせた。

その者は右を見た。それだけは確かだ。

伝播:HERESY 人口:679
与えるものの観察:右から風を吹かせた。見た。それだけは届いた。