夜が明ける前に、声が来た。
単音ではない。長い声だ。のばしてのばして、途中で割れる。群れの誰でもない。水場の向こうから来る声だ。
その者は火のそばから立たなかった。
膝が土についている。両手が灰の上にある。夜通し番をした火は、まだ息をしていた。赤い芯が、かさぶたの下の血のように光っている。声はまた来た。今度は二つ、重なった。
群れの若い雄が、岩陰から首だけ出して水場の方を見ていた。その者と目が合った。若い雄が身振りで問うた。どうする、と。
その者は首を横に振った。
動くな。
火を守れ。それだけだ。
声はしばらく続いて、やがて消えた。夜明けの風が、水場の方からではなく、草の根の方から吹いてきた。その者は灰をならした。薪を一本加えた。炎が一度大きく揺れて、落ちついた。
五年前、干ばつが終わったとき、群れは喜んだ。
その者は喜ばなかった。
水が戻れば、動物が戻る。動物が戻れば、別の者たちも戻る。別の骨格を持つ者たち。額の低い、肩の広い、腕の長い者たち。水場を知っている者たちが。
案の定、足音が増えた。最初は遠くで。次に近くで。
群れの中で、その者だけが警戒を緩めなかった。
老いた体で夜ごと火の番をした。昼は眠り、夕に起きた。群れの若者たちは笑った。なぜそこまで火を守るのか、と身振りで言った。その者は答えなかった。火が消えれば何が起きるか。それを知っているのは、この群れでその者だけだった。
干ばつの前の記憶。さらにその前の記憶。火が消えた夜のことを、その者は体で覚えていた。腹の底が冷えた感覚。声が届かなかった暗さ。
声が来るたびに、その者は薪を足した。
怖いから大きくするのではない。見えているから大きくするのだ。火は境界だ。火の届くところまでが、ここだ。
その日の昼すぎ、群れの中に緊張が走った。
水場から若い雄が走って戻ってきた。息が切れている。声が出ない。身振りだけで伝えた。向こうの者たちが、水場のすぐそこにいる、と。
群れの男たちが集まった。石を持った。槍を持った。
その者は座ったまま、火を見ていた。
呼ばれた。来い、と身振りで言われた。老いた者でも、長く生きた者は来い、と。
その者は立ち上がった。膝が鳴った。杖がわりの枝を持った。
水場へ向かう途中、その者は一度だけ振り返った。
火が、揺れていた。
風はなかった。
向こうの者たちは、七人いた。
男が四人。女が二人。子が一人。子は小さく、抱かれていた。腕の長い女が、子の頭を胸に押しつけていた。
両群れは、水場を挟んで立った。
石が飛んだ。誰が投げたか、その者には見えなかった。向こうの男が肩を押さえた。血が出た。向こうの群れが声を上げた。こちらの群れも上げた。
その者は声を出さなかった。
子を見ていた。
小さな体が、声の波に揺れていた。目が開いていた。怖がっているのか、怖がり方を知らないのか、その者には判断できなかった。
もう一つ石が飛んだ。
向こうの者たちが後退した。草の中へ消えた。子の頭だけが、最後まで見えた。
夜、その者は火のそばに戻った。
誰かが薪を足していた。若い雄だ。その者が戻ったのを見て、場所を空けた。
その者は座った。
膝が、震えていた。体が震えているのではない。膝だけが、ひそかに震えていた。手を置いて、止めた。
子の目のことを考えた。
怖がっているのか、怖がり方を知らないのか。
どちらだったか。
炎が揺れた。答えは来なかった。
翌朝、群れの中で声が上がった。
その者を指す身振りが、複数の方向から来た。
その者は灰の上に手を置いたまま、顔を上げなかった。何が言われているか、単音の断片から拾えた。老いた者。火だけの者。役に立たぬ者。水場で石を投げなかった者。
若い雄が一人、その者の前に立った。
体格がいい。肩が広い。声は出さなかったが、目が言った。
その者は炎から目を離さなかった。
若い雄はしばらく立っていた。やがて離れた。
その日は、それで終わった。
三日後。
その者が目を覚ますと、火の番を誰もしていなかった。
灰の中の芯が、薄く光っていた。その者は這い寄って、口を近づけた。吹いた。吹いた。吹いた。
芯が赤くなった。枯れ葉を一枚、そっと置いた。葉が縮れた。煙が出た。炎が生まれた。
その者は額を地面に押しつけた。
しばらく、動かなかった。
五日目の夕方。
群れが移動を始めた。
道具を持つ者、子を抱く者、老いた者を引く者。次々と火から離れていく。
その者は立った。
ついていこうとした。
肩を押された。転んだ。
地面が頬に当たった。土の匂いがした。乾いた土だった。干ばつの終わりに戻ったような土の匂い。
体を起こそうとした。
また押された。今度は強く。
仰向けになった。空が見えた。雲が一つ、ゆっくり動いていた。
足音が遠ざかった。
火は、まだそこにあった。
その者は這った。時間がかかった。
火に手が届いた。
熱かった。当然だ。でも離さなかった。掌を地面に近づけて、熱を受けながら、寝た。
雲が動いた。
火が揺れた。
その者の体から、力が抜けた。ゆっくりではなく、急にではなく、ただ、抜けた。水が砂に染みていくように。
火は燃え続けていた。
誰も番をしていない火が、一人で燃えていた。