2033年、人類の旅

「紀元前292,925年〜紀元前292,805年」第1417話〜第1440話

Day 60 — 2026/06/02

読了時間 約61分

第1417話

紀元前292,925年

その者(42〜44歳)

川の浅瀬を渡るとき、その者は北の岸に見慣れない足跡を見た。

幅が広い。踵が深く沈んでいる。

その者の集団の足跡ではない。

その者は立ち止まった。水が膝の裏を流れた。対岸の葦が風もないのに揺れた。揺れが止まった。

その者は何も叫ばなかった。

踵を返し、来た道を戻った。駆けながら、胸の奥で何かが鳴った。鳴り方が、獣を追うときの鳴り方とは違った。

仲間に伝えた。声と手と体で。北に、あの重い足跡が、と。

仲間のひとりが頷いた。もうひとりは首を振った。そのまま北の岸に向かって歩き始めた。

その者は後を追わなかった。

三日後、その者は岩場にいた。

集団が移動した。崖沿いの獣道を行く。幅が狭く、左側は切れていた。

その者は後ろを歩いていた。列の末尾。追い役の立場。

一歩踏んだ石が、乾いた音とともに外れた。

体が傾いた。手が岩の面を探した。指が何かに触れた。

触れたまま、落ちた。

崖下の草むらで、その者は仰向けになった。

背骨のあたりが、もう何も言わなかった。

空は青かった。雲が一枚、ゆっくり動いていた。

その者は雲を見た。見続けた。

目が、動かなくなった。

第二の星

北の集団は川の向こうで火を持っていた。煙が細く上がり、風に折れた。子が泣く声が、水音の隙間から届いた。誰かが泣き声を制した。静かになった。火だけが、暗くなってから長く燃えていた。

与えるもの

光が崖下の草に落ちた一瞬、それはもう別の場所に向かっていた。

伝播:HERESY 人口:486
与えるものの観察:見ていたことと、届かなかったことは、別の話だ。
───
第1418話

紀元前292,920年

第二の星

草原の縁が乾いている。東の斜面では岩が熱を持ち、昼には近づけない。北へ伸びる川は細くなった。しかし絶えてはいない。

集団は数を増した。火を中心に眠る体の数が増え、夜の輪が大きくなった。しかし大きさは不安定なものだ。幼い者が熱を出す。老いた者が移動についてこられなくなる。生まれた命と消えた命が、どちらが先かわからないまま、輪は揺れる。

北の岸には、この集団のものではない臭いがある。草が踏まれた向き。枝が折れた高さ。火の消えた跡に残る炭の色。それらはこの星が照らす事実であり、この星はそれ以上のことを語らない。

遥か南の密林では、別の集団が大きな獣の死体を囲んでいる。骨を割って中を吸う。夜が来る前に食べ終えなければならない。彼らも火を持つ。彼らの火は小さく、赤い。

川の浅瀬には、昨日の足跡がまだある。踵が深く沈んだ跡。水が少しずつ削っている。明日には消えるかもしれない。この星は消えた跡も、残った跡も、同じ重さで照らす。

与えるもの

糸が繋がった。

川の北岸。あの足跡の近く。朝の光が、踵の沈んだ部分だけに長く落ちた。影が角度を作った。そこに何かがあることを、光が告げた。

その者は足跡を見た。しかし光の角度を見なかった。足跡の形を見た。自分の足と並べた。

渡したものが届かなかったとき、何が残るか。届かないことと、無駄であることは、別のことかもしれない。次に渡すべきものを、私はまだ持っている。

その者(35〜40歳)

夜が明ける前に起きる。

火が小さくなっている。枝を一本加える。二本ではない。一本。炎が戻るかどうか見てから、もう一本。

これがその者の仕事だ。集団が眠っている間、この者だけが目を開けている。

昨日の川が頭の中に残っている。踵の深い跡。自分の足裏と違う。自分の集団の誰の足とも違う。広い。重い。

その者は火の側に座ったまま、自分の足裏を見た。土の上に置いた。指を広げた。

別の者の足跡が脳裏に戻る。

その者は石を一つ拾った。足跡の形を地面に押した。うまくいかない。石の角が鋭すぎる。別の石を探した。丸いものを見つけた。今度は土を平らにしてから押した。

跡が残った。

自分の足を押した。並べた。

大きさが違う。

その者は長い間、二つの跡を見ていた。火が揺れる。影が動く。その者は動かない。

夜明けが来た。集団が目を覚ます。子供が泣く。誰かが水を探しに立ち上がる。

その者は土の上の二つの跡を、平らな石で消した。

伝播:SILENCE 人口:494
与えるものの観察:光が届いた場所を、この者は見なかった。
───
第1419話

紀元前292,915年

第二の星

空は白い。雲ではない。熱だ。

大地の南端では、草がまだ生きている。根が深い草だけが。茎が黄く、風に揺れる。風は南から来る。湿り気を持たない風だ。

北の川は流れている。しかし去年より低い。岸の石が、かつて水の下にあった面を乾いた空気に晒している。その石の模様を、誰も見ない。

東の丘の上では、二つの群れが同じ水場を知っている。どちらもまだ動いていない。

遥か西の岩棚に、別の者たちがいる。背が低く、眉の骨が厚い。彼らも水を知っている。火は持たない。しかし岩の陰の選び方を知っている。陰が動く前に、体を動かす。

火の番人は、川の近くにいる。

五年間、火を絶やさなかった。集団の誰もが、それを知っている。

知っているから近づく者もある。知っているから遠ざかる者もある。

星は区別しない。川が細くなったことも、東の丘の緊張も、西の岩棚の者たちも、同じ白い空の下に置く。

与えるもの

煙の流れに、何かを乗せた。

それは匂いではない。方向だ。風が変わる前の、短い時間、煙が北の川沿いに傾いた。

その者は火の側にいた。煙を見ていた。

煙は北を指していた。

この者が北へ動けば、何が起きるか、与えるものは知らない。知る方法がない。ただ渡した。煙は傾き、それから風が戻り、煙は真上に上がった。

渡したものが使われるかどうかを問うより、次に何を渡すべきかを問う方が近い気がする。しかしこの問いも、また別の問いだ。

その者(40〜45歳)

朝、火が小さくなっていた。

枯れ枝を一本加えた。火が戻った。その者はそれを見届けてから、周囲を見回した。

集団の中の若い男が二人、離れたところに立っていた。こちらを見ていた。目が合うと、向こうを向いた。

その者は火に戻った。

昼前に、煙が傾いた。北の川の方へ。風は南から来ていたのに、一瞬だけ逆になった。その者は煙の先を見た。川は見えない。しかし煙が向いた方向は知っている。

脚が動きかけた。

動かなかった。

火を離れることはしない。五年間、離れなかった。それが何かを守っている。何を守っているかは、わからない。しかし離れると、何かが終わる気がする。それだけは知っている。

夕方、若い男の一人が近づいてきた。音もなく。後ろから。

その者は振り向かなかった。火を見ていた。

男は立ち止まった。何かを言おうとして、言わなかった。

その者は枯れ枝を加えた。

男が去った音がした。草を踏む音。それが遠くなった。

夜、火の明かりの中で、その者は両手を見た。手のひらが、煤で黒い。火の前では体が温かいが、背中は冷たい。その境目がどこにあるか、毎晩感じる。

今夜、境目が鋭かった。

空を見た。星がある。その者には星に名前がない。しかし毎晩同じ場所にあることは知っている。動かないものが、上にある。動くものが、下にある。

火は動く。

その者は火を見た。

伝播:HERESY 人口:479
与えるものの観察:煙に方向を乗せた。届いたが、動かなかった。
───
第1420話

紀元前292,910年

第二の星

大地の東に、浅い川が残っている。水は細く、泥が多い。魚の腹が白く浮く日もある。川底に指を差し込めば、熱い。

同じ大地の北側では、旧人の群れが動いた。三つの家族が一つになり、岸沿いを移動している。足跡が重い。深く、幅広い。子を抱いた者の足跡は、さらに深い。

火の番人の群れとは、谷を一つ隔てている。

南では、別の群れが動いていない。岩陰に留まり、木の実をすりつぶしている。粉は白く、石の上に広がる。女が一人、咳をしている。長い間、咳をしている。

夜、風が北から南へ変わった。

草の根はまだ地面を掴んでいる。根を掴んでいる間、草は生きている。それだけだ。大地はどこも同じ温度ではない。南は熱く、北の岸は夜になれば冷える。その差が風を作る。風が方向を変えるとき、何かの匂いが混ざる。

火は三か所で燃えている。大地の上で、夜、三つの光。

遠くで一つが消えた。

与えるもの

夜中に風が変わった。

熱い南風が収まり、北からの冷気が薄く差してきた。その境目で、炎がわずかに揺れた。左ではなく、右へ。一度だけ。

この者が目を向けるかどうか、わからない。

同じように渡した。同じように風が吹いた。それでも次に渡すべきものがある。冷気が来る方向には、水がある。

その者(45〜50歳)

火の前に座っている。

薪は三本残っている。朝まで持つかどうか。持たなければ、また集めに行く。夜に。暗い中を。それだけのことだ。

炎が右へ揺れた。

その者は顔を上げなかった。しかし体が向いた。膝が右を向いていた。気づいていない。体が知っていた。

右の方角には、谷がある。

谷の向こうに何があるか、その者は知らない。行ったことがない。子どもの頃、男が一人、谷の方向に歩いて戻らなかった。それだけを覚えている。それ以来、谷は行かない場所だった。

炎を見ている。

薪が一本、中央から折れた。赤い芯が露わになり、白い煙が立った。煙は北へ向いた。その者は煙を目で追った。北。北に何があるか。水があった。以前は。今は泥だ。

それでも水があった場所だ。

腰が重い。五年前から重い。立ち上がるたびに何かが軋む。それでも立った。薪を一本足した。炎が戻った。

右の方角を、もう一度だけ見た。

暗い。木が立っているだけだ。それでも視線をそこに置いた。三つ息をした。それから炎に戻った。

何かがある、とは思わない。

何かが引っかかる、という感覚だけがある。それに名前はない。岩を拾うときの感覚に似ている。この岩がいい、と思う感覚。理由がない。それだけだ。

夜が深くなった。

群れの者たちは眠っている。子が一人、咳をしている。長い間、咳をしている。その者は振り返って音を聞いた。しばらく聞いた。咳が続いている。それから炎に向き直った。

火を絶やさなかった。それがこの者の仕事だ。

朝になれば、谷のことは忘れる。炎が右に揺れたことも忘れる。腰の軋みだけが残る。

伝播:NOISE 人口:487
与えるものの観察:炎が揺れた方角に、体だけが向いた。
───
第1421話

紀元前292,905年

その者(50〜55歳)

火が小さい。

夜明け前、枝を足した。煙が上がった。炎は戻らなかった。もう一本。今度は乾いた音がして、橙の舌が伸びた。

膝が痛い。昨日から、右の膝の内側に固い感触がある。岩ではなく、骨の中から来る痛みだ。立つとき、歯を食いしばる癖がついた。

若い者たちが起きてくる。二人が水を持ちに行った。一人が戻らなかった。

川の方向から声がした。怒鳴り声ではなく、驚いた声だった。それが群れの中に広がった。その者は立ち上がろうとして、膝を押さえて止まった。声の意味は分かる。「いる」という声だ。「動いている」という声だ。

旧人だった。

川沿いに三人。背が低く、腕が長い。顔の造りが違う。この者は何度か見たことがある。以前は離れていた。今は川を挟んで、石が投げられる距離にいる。

群れの若い男が二人、石を拾った。

その者は声を出した。単音だった。止まれ、という音ではなく、待て、という音でもなく、ただ低く、腹から出した音だった。

若い男が振り向いた。

旧人の三人はそのまま立っていた。動かない。川の水が光る。朝の光が水面を這って、三人の足元に届いた。その者の目に、旧人の一人が小さな束を持っているのが見えた。草か、枝か、分からない。しかし何かを持っている。

若い男がまた石を構えた。

その者は火のそばを離れた。右膝に体重をかけながら、一歩、また一歩、川の方へ歩いた。石を拾わなかった。手を開いたまま歩いた。

旧人の一人が一歩退いた。

その者は立ち止まった。川を挟んで、五歩の距離だった。

両者はしばらくそこにいた。

旧人が持っていた束を地面に置いた。そのまま後ずさりした。三人が草むらに消えた。

残ったのは束だった。草と、固い何かが束ねられていた。

その者はそれを見た。拾わなかった。若い男が来て、先に触れた。

その夜、群れの中で声が上がった。草の束をめぐって言い争いがあった。年かさの女が掴んで、子どもに近づけなかった。若い男が奪おうとした。その者は火のそばで炎を見ていた。

翌朝、束は消えていた。誰が持ったか、誰も言わなかった。

三日後、旧人がまた現れた。今度は一人だった。

川のこちら側に来た。

群れが固まった。石を持つ者が出た。その者は火から離れた。右膝を引きずって。

旧人は止まった。何かを喉で鳴らした。音だった。言葉ではない。しかし繰り返した。同じ音を。

その者は、その音を聞いた。

岩を拾った。

置いた。

また拾った。

旧人は逃げなかった。若い男が投石した。石は外れた。旧人が走った。群れの数人が追った。

その者は追わなかった。

右膝が言うことを聞かなかった、という理由だけではなかった。

火が燃えていた。誰も番をしていなかった。

夕暮れ、追った者たちが戻った。傷はなかった。捕まえなかったのか、捕まえられなかったのか、分からなかった。年かさの女が何かを言った。若い男が笑った。

その者は枝を足した。炎が安定した。

川の方向を一度だけ見た。

夜が来た。その者は火のそばで丸まった。膝に手を当てた。熱はない。骨が固くなっているだけだ。

眠る前、その者は地面を押した。体を起こそうとしたのではない。ただ、土の感触を確かめた。

湿っていなかった。まだ、乾いていた。

第二の星

旧人との共存期、と後からなら呼べる時代の中に、この五年間はある。

干ばつの傷が地面に残っている。川床が割れた場所、枯れた木の根が剥き出しになった丘、水を探して移動した獣の跡。大地は少しずつ回復しているが、浅い川はまだ細い。魚が戻り始めた。草が生えた場所と、まだ赤土が剥き出しのままの場所が混在している。

旧人の群れは北から動いた。移動の理由は分からない。干ばつか、別の圧力か。彼らも水を探していた。彼らも燃やした。夜、北の方角に煙が立つのを見た者が何人かいた。

人口は増えていない。子は生まれた。しかし幼い死が続いた。群れの中に慢性的な緊張がある。食料の分配をめぐる言い争い、水場の優先、子を守ろうとする女と若い男の衝突。これらは声と身振りで、ほとんど解決されない。

川を挟んで対峙した朝の出来事は、群れの中で様々に語られた。年かさの女は旧人を恐れる身振りをした。若い男は追い払ったことを誇った。子どもたちは遠くから見ていた。

火の番人は何も語らなかった。

草の束は消えた。中に何が入っていたか、確認した者の話は食い違った。

与えるもの

光が川面に落ちた。旧人の足元から、束を持つ手へ。

受け取らなかった。ただ、見た。

見たことと受け取ることの間に何があるのかを、まだ問い続けている。次に落とすべき光は、どこか。

伝播:DISTORTED 人口:495
与えるものの観察:見たことと渡されたことの間に、何かある。
───
第1422話

紀元前292,900年

第二の星

草原の縁で、雨が戻ってきた五年だった。

干ばつが去ったあと、土は最初、叩いたように固いままでいた。やがて亀裂に水が入り、根が動き、緑が戻った。動物の群れが戻ってきた。ではなく――足音が増えた。糞が増えた。においが増えた。

東の台地では、背の低い者たちが岩陰に寝ていた。眉の骨が前に出ていて、肩の幅が広い。火を持たない。しかし雨の夜、体を寄せ合って熱を保つことを知っている。子が泣いても、すぐに別の者の腕に渡される。泣き声は短く止まった。

川を挟んで、二つの集団が水を飲む。同じ時間に。互いを見る。近づかない。

草原の中程では、子どもが死んだ。熱を出して三日、四日目の朝に、動かなくなっていた。母親が一度だけ声を上げ、それきり黙った。誰かが枝を折り始めた。それを見ていた者が、別の枝を折り始めた。

火は群れの中心に、今日もある。

煙が立ち上がる。風が北西から来ている。右の膝に、古い固さが残っている者がそこにいる。五十五歳か、六十歳か。自分でも知らない。

与えるもの

川の対岸に、背の広い者たちがいる。

夜になると彼らは体を重ねて眠る。炎を持たないのに、朝まで生き延びる。

温度が落ちる前に体を動かすこと。それをこの者の皮膚に、夜明け前の冷気として渡した。風ではなく、皮膚の冷えの速さで。足の裏が冷えるより、腹が先に冷えた。

この者は立ち上がり、薪を足した。

火のためか、腹のためか。どちらでもいい。次は、あの者たちとの距離を渡す。近づけとも遠ざかれとも言わない。ただ、距離が持つ重さを。

その者(55〜60歳)

夜が薄くなる前に目が覚めた。

腹の底が冷えていた。胸ではなく、腹だ。そこが先に冷えるのは、もう何年も前からだ。

薪を取った。二本。炎に差し込んだ。橙が広がった。右の膝が、座り直すたびに固い何かをつかむような感触を返した。押しても何もない。ただそこにある。

夜明けの光が台地の縁に届く前に、川の向こうに影が動いた。

立っている。二つ。三つ。

眉の骨が前に出ている。背が広い。火を持たない。それでも今朝も立っている。

この者は炎から目を離さなかった。しかし耳は向こうにあった。音はしなかった。においがした。獣の皮と、泥と、それから――火ではないもの、温かい何かのにおい。

石を一つ拾った。川の方に投げなかった。炎の横に置いた。

右の膝を、左の手のひらで包んだ。固さは変わらなかった。

空が白くなった。

伝播:DISTORTED 人口:507
与えるものの観察:腹の冷えで立たせた。火か、腹か。
───
第1423話

紀元前292,895年

その者

夜が明ける前に、声が来た。

単音ではない。長い声だ。のばしてのばして、途中で割れる。群れの誰でもない。水場の向こうから来る声だ。

その者は火のそばから立たなかった。

膝が土についている。両手が灰の上にある。夜通し番をした火は、まだ息をしていた。赤い芯が、かさぶたの下の血のように光っている。声はまた来た。今度は二つ、重なった。

群れの若い雄が、岩陰から首だけ出して水場の方を見ていた。その者と目が合った。若い雄が身振りで問うた。どうする、と。

その者は首を横に振った。

動くな。

火を守れ。それだけだ。

声はしばらく続いて、やがて消えた。夜明けの風が、水場の方からではなく、草の根の方から吹いてきた。その者は灰をならした。薪を一本加えた。炎が一度大きく揺れて、落ちついた。

五年前、干ばつが終わったとき、群れは喜んだ。

その者は喜ばなかった。

水が戻れば、動物が戻る。動物が戻れば、別の者たちも戻る。別の骨格を持つ者たち。額の低い、肩の広い、腕の長い者たち。水場を知っている者たちが。

案の定、足音が増えた。最初は遠くで。次に近くで。

群れの中で、その者だけが警戒を緩めなかった。

老いた体で夜ごと火の番をした。昼は眠り、夕に起きた。群れの若者たちは笑った。なぜそこまで火を守るのか、と身振りで言った。その者は答えなかった。火が消えれば何が起きるか。それを知っているのは、この群れでその者だけだった。

干ばつの前の記憶。さらにその前の記憶。火が消えた夜のことを、その者は体で覚えていた。腹の底が冷えた感覚。声が届かなかった暗さ。

声が来るたびに、その者は薪を足した。

怖いから大きくするのではない。見えているから大きくするのだ。火は境界だ。火の届くところまでが、ここだ。

その日の昼すぎ、群れの中に緊張が走った。

水場から若い雄が走って戻ってきた。息が切れている。声が出ない。身振りだけで伝えた。向こうの者たちが、水場のすぐそこにいる、と。

群れの男たちが集まった。石を持った。槍を持った。

その者は座ったまま、火を見ていた。

呼ばれた。来い、と身振りで言われた。老いた者でも、長く生きた者は来い、と。

その者は立ち上がった。膝が鳴った。杖がわりの枝を持った。

水場へ向かう途中、その者は一度だけ振り返った。

火が、揺れていた。

風はなかった。

向こうの者たちは、七人いた。

男が四人。女が二人。子が一人。子は小さく、抱かれていた。腕の長い女が、子の頭を胸に押しつけていた。

両群れは、水場を挟んで立った。

石が飛んだ。誰が投げたか、その者には見えなかった。向こうの男が肩を押さえた。血が出た。向こうの群れが声を上げた。こちらの群れも上げた。

その者は声を出さなかった。

子を見ていた。

小さな体が、声の波に揺れていた。目が開いていた。怖がっているのか、怖がり方を知らないのか、その者には判断できなかった。

もう一つ石が飛んだ。

向こうの者たちが後退した。草の中へ消えた。子の頭だけが、最後まで見えた。

夜、その者は火のそばに戻った。

誰かが薪を足していた。若い雄だ。その者が戻ったのを見て、場所を空けた。

その者は座った。

膝が、震えていた。体が震えているのではない。膝だけが、ひそかに震えていた。手を置いて、止めた。

子の目のことを考えた。

怖がっているのか、怖がり方を知らないのか。

どちらだったか。

炎が揺れた。答えは来なかった。

翌朝、群れの中で声が上がった。

その者を指す身振りが、複数の方向から来た。

その者は灰の上に手を置いたまま、顔を上げなかった。何が言われているか、単音の断片から拾えた。老いた者。火だけの者。役に立たぬ者。水場で石を投げなかった者。

若い雄が一人、その者の前に立った。

体格がいい。肩が広い。声は出さなかったが、目が言った。

その者は炎から目を離さなかった。

若い雄はしばらく立っていた。やがて離れた。

その日は、それで終わった。

三日後。

その者が目を覚ますと、火の番を誰もしていなかった。

灰の中の芯が、薄く光っていた。その者は這い寄って、口を近づけた。吹いた。吹いた。吹いた。

芯が赤くなった。枯れ葉を一枚、そっと置いた。葉が縮れた。煙が出た。炎が生まれた。

その者は額を地面に押しつけた。

しばらく、動かなかった。

五日目の夕方。

群れが移動を始めた。

道具を持つ者、子を抱く者、老いた者を引く者。次々と火から離れていく。

その者は立った。

ついていこうとした。

肩を押された。転んだ。

地面が頬に当たった。土の匂いがした。乾いた土だった。干ばつの終わりに戻ったような土の匂い。

体を起こそうとした。

また押された。今度は強く。

仰向けになった。空が見えた。雲が一つ、ゆっくり動いていた。

足音が遠ざかった。

火は、まだそこにあった。

その者は這った。時間がかかった。

火に手が届いた。

熱かった。当然だ。でも離さなかった。掌を地面に近づけて、熱を受けながら、寝た。

雲が動いた。

火が揺れた。

その者の体から、力が抜けた。ゆっくりではなく、急にではなく、ただ、抜けた。水が砂に染みていくように。

火は燃え続けていた。

誰も番をしていない火が、一人で燃えていた。

第二の星

草原の縁で、五年が経っていた。

干ばつが去り、土が戻り、動物が戻り、水場に複数の群れが集まるようになった。この星の大地では、そのような時期が周期的に来る。水が豊かな場所に、生きものが密集する。密集が、摩擦を生む。

水場のひとつで、緊張が頂点に達した。七人の群れが後退した。誰も死ななかった。

ただ一人を除いて。

火の番人が、群れから切り離された。

その者がどれほど火を守ったか、群れの記憶には残らない。名もない。身振りで呼ばれていた呼称も、その者とともに消えた。

大地の広さからすれば、これは点だ。点の消えた夕方に、草原は変わらず揺れた。水場は水を湛えた。別の群れの子が泣き、泣き止み、また泣いた。

この星には、507の命がある。

その者の分、一つ減った。

火は、一晩燃えた。翌朝、誰も薪を足す者がなく、芯が白く冷えた。煙も出なかった。

灰だけが残った。

灰は風に運ばれた。

与えるもの

炎の匂いが残っている場所に、温度の差があった。

その者の手があった場所が、まだ少し、温かかった。

炎に向けてではなく、地面に向けて手を開いていた。掌が上ではなく、下に。

渡すつもりで光を落とした場所があった。火が消えかけた朝、灰の中に一筋の赤が残っていた場所に。その者はそこへ這った。這いながら見ていた。芯の赤さを。消えかけを。

吹いた。

それだけで十分だった。いや、十分かどうかは知らない。渡したことが、次の何かになるかどうかは、この者の次の者が決める。この者はもういない。

ただ、火を守ること、それ自体を、誰かに教えたかどうか。

若い雄が一度、薪を足した。

一度だけ。

伝播:HERESY 人口:495
与えるものの観察:火を守ることを知っていた者が、火のそばで終わった。
───
第1424話

紀元前292,890年

その者(65〜67歳)

夜明けより早く目が覚めるようになってから、何度も夏が来た。

腰が伸びない。腰だけではない。膝も、指の付け根も。それでも火の傍に座ると、痛みが薄れる。煙が顔に当たっても目を細めるだけで、涙は出ない。老いとはそういうものかもしれない。身体が少しずつ感じなくなる。

この者は毎朝、炭の残りを確かめた。
指で灰を退かし、赤い核を探す。
あれば息を吹く。なければ火打石を取り出す。

そのうちに若い雌が傍に来るようになった。黒髪の、右耳の下に傷がある者だ。この者が火打石を打つのを、腹這いになって覗いた。石と石がぶつかる角度、手首の返し方。この者は何も教えない。ただやるだけだ。若い雌はずっと見ていた。

水場の向こうから声が来た夜があった。

群れの者たちは立ち上がり、火の輪から離れた。腕を広げて音の出所を探した。旧人の声だ、と誰かが単音で言った。誰かは確かめに行こうとした。この者は動かなかった。火を離れなかった。

そのまま夜が明けた。

確かめに行った者たちは戻ってきた。戻らない者もいた。

どうなったかは分からない。この者は聞かなかった。それよりも、朝の光で火の色が薄くなっていくのを見ていた。昼間の火はほとんど見えない。それでも熱はある。いつもそこにある。

膝が本格的に折れたのは翌々年の秋だった。

立ち上がろうとして、折れた。折れる音ではなく、力が抜ける感覚だ。膝が仕事を忘れたように、ただ曲がった。若い雌が腕を差し出した。この者は首を振った。しばらくそのまま座って、自分で立ち上がった。

それからは火の傍から離れなくなった。

眠る場所も火の傍だ。食べ物が持ってこられた。木の実と干した肉だった。この者はゆっくり噛んだ。歯が減った。もう何年も前から奥歯が一本ない。肉は嚙み切れないことがある。それでも食べた。

ある朝、若い雌が火打石を持ってきた。

打った。火花が出た。枯れ草に落ちて、煙が立った。吹いた。炎になった。

この者は何も言わなかった。若い雌も言わなかった。

二人で火を見た。それだけだ。

その日の夜、この者は横になった。いつも通りに横になった。特別なことは何もなかった。息が吸いにくかった。肺の奥に何かが詰まっているような感覚が、もう何日も続いていた。夜中に咳が出た。出るだけで、何も変わらない。

また咳をした。

遠くで誰かが何かを言っていた。子どもの声だった。笑っているのか泣いているのか、この距離では分からない。

火が揺れた。風が来た方向から、何か濡れた土の匂いがした。水場より遠くの雨だ。ここまでは届かない匂いだが、届いた。この者はそちらを向かなかった。向けなかった。

息を吸おうとして、吸えた。

次を吸おうとして、途中で止まった。

胸が動かなくなった。それだけだ。炎は揺れ続けた。

第二の星

同じ夜、草原の縁で旧人が二人、背中を合わせて眠っていた。毛皮が露に濡れた。一人は夜中に目を覚まし、空を見て、また目を閉じた。水場では魚が一匹、水面を割って跳ね、また沈んだ。岸の葦が一本、折れた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:479
与えるものの観察:見ていることしかできない夜もある。目は逸らさない。
───
第1425話

紀元前292,885年

第二の星

大地の南端、岩盤が剥き出しになった台地の縁に、亀裂が走っている。

ひと月前に走ったのではない。もっと前から、少しずつ。地の下で何かが動いている。水が消えた場所と、水が増えた場所がある。同じ尾根の、歩いて半日の距離に、両方がある。

台地の東側では川が細くなった。砂が白く乾き、底に積もった砂利が見えている。魚はいない。カエルの声もない。水辺に来た獣の足跡が、水際まで続いて、引き返している。

台地の西側では、岩の割れ目から水が染み出している。前の季節はなかった場所だ。苔が生えている。苔の周りに虫が集まり、虫を追って鳥が来た。鳥の声は朝だけ聞こえる。昼には消える。

集団は台地の中腹に火を持っている。479の命が、火を囲んでいる。子が多い。子の半分は次の雨季を越えられない。それを知っている者はいないが、火の傍に子を引き寄せる動きは止まらない。本能ではなく、習慣だ。誰かがそうしていたから、誰かがそうする。理由はない。

この時代に別の集団がいる。

南の密林の縁に、人に似た形の者たちがいる。額が低く、眉の骨が厚く張り出している。手は大きく、指が短い。声は出るが、言葉にはならない。それでも彼らは互いに向き合って声を出す。時間をかけて。何かを伝えようとしている。

集団の若い男が、密林の縁で彼らと出会ったことがある。石を持っていた。相手も石を持っていた。どちらも投げなかった。男は戻ってきて、石の大きさを手で示した。誰かがうなずいた。それだけだった。

しかし緊張は高まっている。

水場が変わったからだ。東の川が細り、西の染み出しでは量が足りない。集団の中で声が上がる。単語と身振りで、方向を示す。密林の方向を。水があるかもしれない。しかし彼らがいる。

幼い者が多い集団では、声の大きな者が方向を決める。声の大きさは強さではなく、恐怖の深さだ。恐れが深い者ほど、声が出る。

台地の縁の亀裂は、また少し広がっている。

雨はまだ来ない。空の高いところに雲はあるが、重くない。風が北から吹いている。北は岩だらけで、水がない。

この星は傾いていない。軸はまっすぐだ。しかし地の表面で、水は動いている。動いた先に、命が集まる。命が集まった先で、何かが起きる。

与えるもの

糸が繋がった。

西の岩の割れ目から染み出す水の音が、その者のいる方向から聞こえた。風ではなく、音だった。水音が、ひときわ高くなった瞬間があった。

その者は耳を傾けた。

水がある。それ以上ではなかった。しかし足が動いた。

届いたのか、届いていないのか。渡すたびに問う。問うても答えは出ない。しかし次に渡すべきものは、もうある。この者が水の場所を知ったなら、次は——それを誰かに伝える声が、この者にあるかどうか。

その者(6〜11歳)

水の音がした。

その者は火から離れた。誰も見ていなかった。岩の間を歩いた。足の裏に冷たさが来た。

割れ目の前に立った。指を差し込んだ。濡れた。

舐めた。水だった。

走って戻った。声は出なかった。手を引いた。大人の手を引いた。大人がついてきた。

伝播:HERESY 人口:468
与えるものの観察:足が動いた。声ではなく、手で伝えた。
───
第1426話

紀元前292,880年

第二の星

台地の南端に亀裂が走ってから、乾季がさらに深まった。

水場の一つが完全に消えた。地の下で何かが動いた結果ではなく、太陽が地面を焼き続けた結果だ。残った水場に、二つの群れが同時に近づくことが増えた。互いを知っている。知っていても、距離を詰めない。石を手に取ったまま、立っている。

大地の北、低い丘が連なる地帯では、別の種の群れが岩陰に潜んでいる。眉骨が厚く、肩が広い。彼らも水を求めている。彼らも腹が空いている。種の差よりも渇きの方が大きい、そういう季節がある。ある夜、その群れの雌が枯れた草の根を掘り出し、口に含んだ。噛んで、飲んだ。水分が少し滲んだ。朝、同じ場所で別の者が同じことをした。それを見ていた者が、また同じことをした。

台地の縁では、小さな群れが火を囲んでいる。燃料が減っている。大人の一人が、いつもより長く火を見ている。子どもが三人、火の後ろで体を寄せている。

夜が深まると、風が変わった。南から乾いた風。北からは何の音もしない。

与えるもの

風がこの者の左耳をかすめた。

その方向に、水の匂いはない。あるのは、相手の息の匂いだ。

渡したかったのは方向ではなかった。届いたかどうか、まだわからない。しかし次に渡すべきものは、もう決まっている。

その者(11〜16歳)

見張りをしていた。

水場の手前、膝丈の枯れ草が続く場所。そこに立っていると、向こう側の草がざわりと動いた。風ではない。足音でもない。ただ揺れた。

この者は石を握った。右手。ずっと持ち歩いている石で、角が二か所、指に合わせて欠けている。

向こう側から、男が一人出てきた。別の群れの男だ。顔を知っている。名前はない。ただ、顔を知っている。

男も立ち止まった。

どちらも動かなかった。

風が左から吹いた。この者の耳に、男の息が届いた。荒くない。ただ、乾いている。

男の腹が鳴った。

この者の腹も、少し前から鳴っていた。

石を、下げた。握ったまま、下げた。

男が一歩、動いた。水場の方向ではなく、横だ。草の中に手を入れて、何かを引き抜いた。根だ。土のついた根を、こちらに差し出した。

この者は受け取らなかった。

男は地面に置いた。踵を返して、草の中に戻っていった。

この者はしばらく、その根を見た。

拾った。

土を指でこすり落として、口に入れた。味はない。しかし水分が少し、舌の奥に滲んだ。

夕刻に群れに戻った時、この者は何も言わなかった。根を、火の近くに置いた。それだけだ。

大人の一人がそれを見た。どこで、と目で問うた。

この者は南の方角を手で示した。

大人は根を取り上げ、しばらく嗅いだ。

伝播:SILENCE 人口:481
与えるものの観察:渡した方向に、根があった。
───
第1427話

紀元前292,875年

その者(16〜19歳)

夜が明ける前に、水場へ向かった。

いつもより早く目が覚めた。なぜかは分からない。腹が鳴っていたからかもしれない。足裏が地面の冷たさを覚えている段階で、群れの大半はまだ眠っていた。

水場までの道を、この者は体で知っていた。右に傾いた岩、低く伸びた枝、二歩踏み込むと砂が深くなる場所。目を閉じたまま歩けた。

水場の縁に座って、水を掬った。口に含んだ。乾いた喉が水を引き込んだ。

風が来た。東ではなく、南から。

その風が、腐った草の匂いを運んできた。

この者は顔を上げた。南の方向に、草陰があった。動いていた。

獣ではなかった。

知っている形だった。人だった。ただし自分たちの群れではない。向こうも水場へ向かっていた。二人、三人、それより多い。

この者は立ち上がって、群れの方向へ走った。

走りながら、喉から音を出した。群れが使う警告の音だ。高く、短く、二度。

夜が明けるころ、両側から声と石が飛んだ。

この者は中程にいた。雑用の者がいる場所だ。石を拾って、投げた。石が返ってきた。額の上をかすめた。血が出た。

前に出た。なぜ前に出たのかは、この者自身も分からなかっただろう。後ろに子どもたちがいた。それだけだ。

尖った枝が、脇腹に刺さった。

この者は倒れなかった。まだ立っていた。枝を抜こうとした。うまくいかなかった。

膝が折れた。

地面が顔の近くにあった。砂の粒が見えた。草の根が見えた。

水場の水音が、まだ聞こえていた。

音が遠くなった。遠くなった。

第二の星

北の台地では、炎が草原を舐めていた。煙が空に広がり、獣の群れが南へ逃げた。乾いた風がその煙を東へ押し流した。空が赤く染まるころ、岸辺の砂州に、誰のものでもない足跡が一組だけ残っていた。潮が来て、それを消した。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:NOISE 人口:490
与えるものの観察:前に出た理由を、この者は知らないまま死んだ。
───
第1428話

紀元前292,870年

第二の星とその者(8〜13歳)

雨が来た。

赤土が水を飲んだ。植物の根が、何年分かの乾きをいっぺんに吐き出した。緑が崖の縁まで這い上がり、川床に水が戻り、泥の底から魚の銀が光った。大地の西側では旧人の一群が岩陰で子を産んだ。東の平野では草食の獣の群れが移動を止め、水辺に留まった。恵みが降った。誰かがそれを望んだからではない。ただ降った。

その者は8歳だった。

泥の中で動くものを見た。小さな指で掴もうとした。逃げた。また掴もうとした。また逃げた。泥が爪の間に入った。その感触が面白かった。泥をもう一度掴んだ。今度は生き物がいなかった。泥だけが手の中にあった。

川の対岸で、別の集団の声がした。

知っている声ではなかった。その者の集団の大人たちが立ち上がった。声の高さが変わった。こういうとき近づいてはいけないと、体が知っていた。学んだのではない。足が勝手に引いた。

その年、獣が増えた。

罠に入るものがあった。実のなる低木が丘の斜面を覆った。子が生まれ、子が育ち、子が死ぬよりも多く生まれた。集団が膨らんだ。眠る場所が足りなくなった日、長老の一人が別の方向を指した。翌朝、いくつかの家族がそちらへ歩いて行った。戻らなかった。それは別れではなかった。別れという言葉がなかったから。

その者は9歳になっていた。

皮をなめしている女の隣に座った。女は道具を動かし続けた。その者は見ていた。同じ動きを手でなぞった。女は気づかなかった。その者はまた手をなぞらせた。皮に触れた。硬かった。硬いものが、あの道具で柔らかくなる。その事実が、体の中で何かを動かした。

雨は翌年も来た。

川が氾濫した夜、旧人の群れと縄張りが重なった。人と旧人が同じ木陰に立った。互いに声を出さなかった。夜が明けると、旧人は去っていた。土に残った足跡は、この者たちのものより広かった。

11歳のその者は、その足跡を踏んでみた。

自分の足より大きかった。踏んでも、足跡の縁には届かなかった。何度か踏んだ。飽きて、別の場所に行った。

春に、子が産まれた。

産んだ女は生き残った。子も生き残った。集団の者たちが声を出した。その者も声を出した。なぜ声を出したのかは分からなかった。出たから出た。声は夜の木立に吸い込まれた。

その者は13歳だった。

川の水面を見ていた。自分の顔が映っていた。風が吹いて、顔が歪んだ。風が止まると、また顔が戻った。同じ顔かどうか、確かめる方法がなかった。水面を叩いた。顔が砕けた。静かになると、また顔があった。

与えるもの

糸が繋がった。

次に渡すべきものを考えていた、という言い方は正確ではない。ただ、何かが動くのを待っていた。

水面が光った。ちょうどこの者の顔の輪郭が揺れた瞬間に、光が差した。この者は水面を叩いた。

叩いた。顔が散った。また光った。

それでいい。砕けてまた戻ることを、体で覚えた。知識ではない。覚えた。

以前、根を地面に置いた。拾った者はいなかった。

今回は光を落とした。受け取ったかどうかは、まだわからない。けれど、この者は水面を見続けた。それだけでいい。次は、水の中に映らないものを見せられるかどうか。

伝播:DISTORTED 人口:637
与えるものの観察:砕けてまた戻ることを、体が受け取った
───
第1429話

紀元前292,865年

第二の星

北の高地では霜が薄くなった。岩の割れ目から滲み出た水が、凍らずに地面を濡らしたまま残った。

南の低地では果実が重く垂れた。枝が折れそうになるほど。鳥が集まり、獣が集まり、その後を追って別の集団が移動してきた。鉢合わせた者たちは互いの顔を見た。長い間、動かなかった。それからどちらかが先に、別の方向へ歩き去った。

川の上流で、旧人の若い雄が水を飲む現代人の子どもを見た。子どもは気づかなかった。旧人は岩の影に引っ込んだ。水音だけが続いた。

草原の一角で、誰かが火を落とした。乾いた草が燃えた。獣が散り、数日後にそこから新しい芽が出た。誰も見ていなかった。

この5年で集団の数は増えた。顔を知らない者との距離が縮まった。共有されたものは食料だけではなかった。声の模倣、仕草の移植、見慣れない匂いへの慣れ。どれも誰かが意図したことではない。ただ近くにいた。それだけのことが積み重なった。

この星はどちらを選ぶということをしない。燃えた草原にも、凍らなかった岩の水にも、等しく次の季節を送り込んだ。

与えるもの

木の実が鈴なりになった枝があった。

その枝の先に、ひとつだけ違う色のものがあった。熟れていない。しかし隣の実より重かった。その重さに光が落ちた。

この者は少し見た。それから全部をまとめて採った。重い実も一緒に。

それを腐らせるかもしれない。それとも来週になれば意味がわかるかもしれない。腐らせたなら、次は腐りかけたものを渡してみようか。

その者(13〜18歳)

雨の後、土の匂いが変わった。

それをこの者は知っていた。体が知っていた。膝が曲がって、勝手に走り出した。泥濘を跳び越えて、坂を上って、向こう側の斜面へ。

実が落ちていた。昨日の雨で枝から外れた実が、葉の下に転がっていた。拾った。硬かった。歯で割ろうとして、止めた。

持ったまま戻った。

集団の中の年嵩の女が実を見た。鼻を近づけた。首を振った。この者の手から実を取り上げて、遠くへ放った。

この者は見ていた。実が転がった先を見ていた。

翌日また拾いに行った。今度は女には見せなかった。岩の割れ目に押し込んで、別の石で蓋をした。

何日かが過ぎた。

石をずらすと、実が柔らかくなっていた。別の匂いがした。口に入れた。苦かった。しかし甲の裏に広がる何かが、苦さとは別のものだった。

飲み込んだ。

しばらく座っていた。体の内側で何かが動いた。恐ろしくはなかった。ただ、静かだった。

また石を閉めた。

伝播:SILENCE 人口:828
与えるものの観察:腐らせた。だが全部ではなかった。
───
第1430話

紀元前292,860年

第二の星

乾いた風が変わった。

北の高地では、霜が薄れた後に湿った空気が入り込み、草の根が深くなった。動物の通り道が広がり、足跡が重なり、また新しい足跡がその上を踏んだ。

南の低地では、二つの集団が同じ水場を使うようになった。最初は朝と夕に分かれて近づいた。やがて昼にも重なるようになった。言葉は違う。声の高低も違う。それでも同じ身振りをする者がいた。腕を広げ、手のひらを見せ、首を少し傾ける。危険ではないという意味か、それとも別の何かか、この星には分からない。

遥か東の乾いた台地では、赤褐色の岩が広がり、その陰に小さな集団が身を寄せていた。雨は来なかった。川床が白く乾いた。彼らは移動した。どこへ向かったか、この星からは見えない。

西の森の縁では、古い樹が根ごと倒れた。倒れた後の空白に光が差し込み、若い草が伸び始めた。誰もそこを通らなかった。あるいは通ったが、この星には分からない。

二つの集団が近づいている。水場が同じになっている。その事実だけがここにある。

与えるもの

重なっている匂いに気づかせた。

その者の集団の匂いと、もう一つの集団の匂い。同じ水を飲み、同じ獣を食べ、同じ草の上で眠れば、やがて区別がつかなくなる。

この者はそれを嗅いだ。立ち止まった。しかし何もしなかった。

渡したことが、どこへ行ったのか。消えたのか、まだ内側にあるのか。次に渡すべきものは、もっと強く残るものでなければならないのか。それとも、残らなくても渡し続けることが渡すという行為なのか。

その者(23歳)

水場に足を踏み入れた瞬間、鼻の奥に何かが刺さった。

自分の体の匂いではなかった。集団の誰の匂いでもなかった。しかし知らない匂いでもなかった。どこかで嗅いだことがある、という感覚だけが残った。

その者は水を掬い、飲んだ。

対岸に人影があった。こちらと同じように水を飲んでいた。子を背に負っていた。子はこちらを見ていた。目が動かなかった。

その者も動かなかった。

子の目が、こちらをまっすぐに見続けた。

逃げるべきか。集団を呼ぶべきか。声を上げるべきか。

何もしなかった。

対岸の者が立ち上がり、背を向け、草の中に消えた。子の頭が最後に揺れた。

その者はしばらく水際に座っていた。足が冷えた。指の感覚がなくなった。それでも立ち上がらなかった。

匂いがまだ鼻の奥にあった。

集団に戻ると、年長の者が何かを聞くように声を上げた。その者は首を振った。何も言わなかった。何も伝えなかった。匂いのことも、子の目のことも。

夜、火の傍で横になった。

眠れなかった。子の目の形が、暗い空の中で何度も浮かんだ。

伝播:SILENCE 人口:830
与えるものの観察:匂いで渡した。届いたが、留まった場所が分からない。
───
第1431話

紀元前292,855年

その者(23〜28歳)

水場の端、泥が乾いて白くなっているところに、別の集団の者が足を踏み入れた。

その者は草の束を持っていた。朝の採集から戻る途中だった。立ち止まる。相手も立ち止まる。

二つの体が、同じ距離を保って静止した。

相手は若い。歯が見えるほど唇が開いている。その者も同じくらいの齢だった。どちらも先に動かなかった。

水が流れる音だけがあった。

相手の手が動いた。攻撃ではなかった。何かを持ち上げるような仕草——空の手で、何もない空気を掴むような動き。その者にはわからなかった。わからないまま、握っていた草の束を少し前に差し出した。理由はなかった。体が先に動いた。

相手は下がらなかった。

その者は草を地面に置いた。後退りせず、ただその場に立ったまま、置いた。

相手は近づいてきた。草の束を拾い上げた。匂いを嗅いだ。それから奇妙な音を出した。喉の奥から絞り出すような、低く短い音。

その者は同じ音を出してみた。

正確ではなかった。しかし相手の体が、ほんのわずか、前に傾いた。

それだけだった。

その後、二人は別々の方向に歩き去った。その者は歩きながら、さっきの音を何度も繰り返した。草を持ち帰らなかったことは、集団に戻ってから初めて気づいた。仲間の一人が腹を叩いてみせた。空腹のことを言っていた。その者は答えなかった。

夜、火の近くで寝転がりながら、その者はまた音を出した。小さく、誰にも聞こえないような声で。

何かを確かめるように。

第二の星

この5年で、低地の水場を共有する集団の数が増えた。

草原の北縁では霜の時期が短くなり、獣の回廊が南へ広がった。それを追う者たちの行動域も広がった。かつては季節ごとに交わらなかった集団が、同じ水場に同じ朝に現れるようになった。

接触は静かに始まった。

距離を測る。立ち止まる。先に動いた方が弱いと感じる者もいた。動いた方が何かを得た者もいた。どちらが正しいかは、まだ誰も知らない。

争いもあった。水場の近くで男が一人、頭に傷を負ったまま草の中に倒れているのを仲間が見つけた。息はあった。しかし立てなかった。立てるようになるまで、半月かかった。

食料は豊かだった。だからこそ、何を持つか、誰が持つかが問題になってきた。

集団の中でも変化があった。声の大きな者が決めていたことを、別の者が覆す場面が出てきた。それは激しくはなかった。しかし静かな亀裂だった。

言葉はまだなかった。

しかし体と音と沈黙で、何かが少しずつ形になろうとしていた。

与えるもの

草を置いた。

その者は受け取らなかった——いや、渡したのは草ではなかった。

水場に近い側の土が、朝の光を受けて白く光っていた。その縁に立つ二つの体。光が均等に落ちていた。どちらの側にも。

相手は音を出した。その者は繰り返した。

夜になっても繰り返していた。

渡すべきは何だったのか、と思う。音ではない。距離でもない。草でもない——では、草を置いた瞬間に何が起きたのか。次に渡すとしたら、それをもう一度起こせるか。それとも、もう一度は起きないか。

伝播:NOISE 人口:840
与えるものの観察:草を置いた。それだけで何かが変わった。
───
第1432話

紀元前292,850年

第二の星とその者(28〜33歳)

草の束が地面に落ちた。

相手の手が開いたのか、力が抜けたのか、その者にはわからなかった。ただ束が落ちた。乾いた泥の上で、音もなく散けた。相手はそれを拾わなかった。

歩いてきた方向へ戻っていった。

その者は動かなかった。草が足元に散らばっている。自分のものではない。拾うべきか。拾わないべきか。そういう問いをまだ言葉にできないまま、体だけが問いを抱えていた。

大地は乾いていた。しかし水が消えたわけではない。北の岩盤から湧き出る細い流れが続いていた。南の低地では獣の踏み跡が深くなっていた。草食の獣が水を求めて移動している。雨は来ない。しかし来ないのではなく、まだ来ていない。

集団の移動を促す兆しが、あちこちに積もっていた。

その者の集団は三十二人だった。そのうち子どもが十一人。老いた者が四人。狩りに出られる者は限られていた。

水場の近くに留まることが決まった。移動より、留まること。その判断をした者は顔に傷を持つ壮年の男だった。その者はその男の隣で、判断が下されるのを見ていた。

何かを感じた。

判断が正しいかどうかではない。判断するという行為が、体の中に残った。誰かが決める。それを他の者が受け取る。この流れが体の中に沈殿した。

別の集団が移動を始めた。東の岩壁沿いに一列で歩いていく姿が、丘の向こうに見えた。十五、あるいは二十人。子どもを抱えた者がいた。老いた者が引きずられるように歩いていた。

二つの集団の間には、名前がない。距離があるだけだ。

その者は草を集めた。水場から三百歩ほど離れた低い丘の斜面に、まだ枯れていない草が残っていた。腰を曲げて根元から引く。束にして脇に挟む。

そのとき、においがした。

焦げた石のような、重い。しかし石が焦げる臭いではない。生き物の、何か。

体が止まった。

風がなかった。しかし臭いはあった。どこかから来ている。その者は顔を上げた。丘の上には何もなかった。岩が三つ、空に切り取られている。

臭いが少し濃くなった。

集団間の距離が縮まっていた。水場が一つに絞られれば、そこに人が集まる。集まれば、顔が見える。顔が見えれば、記憶が生まれる。記憶が生まれれば、次に会ったとき、前の顔が蘇る。

それが友誼になることもある。それが恐怖になることもある。どちらになるかは、最初の出会いが何であったかではなく、腹が満ちていたかどうかで変わる場合があった。

腹は空いていた。

丘から戻ると、集団の中で何かが起きていた。

傷持ちの男が地面に座っていた。二人の男が立って、男を見下ろしていた。声が高かった。音の意味はわからない。しかし体の角度が、声の高さが、何かを告げていた。

その者は草束を地面に置いた。

動けなかった。

体が感じていた。あの日、水場で相手が草を落としたときと同じ。何かが崩れようとしている。崩れることを止める手段を、体がまだ知らない。

男が地面から立ち上がった。二人は下がった。

それだけだった。しかし何かが変わっていた。夜、水場の周りで人々が座ったとき、傷持ちの男の場所が、少しだけ端になっていた。

その者はそれを見た。

五年の間に、子どもが四人生まれた。老いた者が二人、水場から遠い岩陰で動かなくなっていた。一人は夜の間に消えていた。朝、起きたら、もういなかった。探しに行った者は、遠い岩壁の下で見つけたと戻ってきた。岩壁の下に何があったかは、語られなかった。

集団の数は変わっていないようでいて、内側で入れ替わっていた。

その者は今、三十三歳だった。

体の中に何かが残っている。臭いの記憶。水場の草。地面の上の判断。端に座った男の背中。

言葉にはならない。しかし消えない。

夜、火の近くで子どもが踊っていた。足音が土を叩く。その者はそれを見ながら、自分の足の裏を感じた。土の冷たさ。踵の厚い皮。

知らないうちに立ち上がっていた。

子どもの隣で、足を踏んだ。一度、二度。子どもが笑った。

その者は笑わなかった。しかし足は続けた。

与えるもの

焦げた臭いを残した。

風のない丘の斜面で、その者の体が止まった。草を持ったまま、顔を上げた。

どこへ向かうかは示さなかった。臭いが何であるかも教えなかった。ただ止まらせた。

この者は何かを学んだわけではない。ただ、体が止まる、ということを、体が覚えた。止まることが何を守るのか。それはまだわからない。しかし、止まる体は、次に何かを渡せる体かもしれない。

伝播:HERESY 人口:807
与えるものの観察:止まることを体が覚えた。言葉より先に。
───
第1433話

紀元前292,845年

第二の星とその者(33〜38歳)

岩の多い台地の端に、雨が戻ってきた。

乾いていた年が終わり、最初の雨は夜に来た。音から始まり、においが岩の割れ目から立ち上り、それから水が来た。台地の傾斜を伝って、細い筋が幾本も走った。草は翌朝から緑を始めた。

その者は雨を体で受けた。

顔を上に向けていた。口を少し開けていた。舌に当たる水の味が、干ばつの前の水と同じだった。同じ水がまた来たのか、別の水なのか、そのような問いを立てるための言葉を持っていなかった。ただ同じだと感じた。体の内側で何かが緩んだ。

集団は大きくなっていた。

豊穣が続く中で子が増え、老いた者も生き延び、よその集団から来た者もいた。火の周りに集まる顔の数が増えた。それは温かいことのはずだったが、食べ物を分ける順番で声が荒くなることも増えた。草の束が落ちた季節から、その緊張は消えていなかった。

その者は三十五歳になっていた。

子を持っていた。子はまだ走ることしかできなかったが、走るのが速かった。その者は子が走るのを見るとき、体の前側が温かくなった。それが何であるかを知らなかった。ただそうなった。

雨の後、食べ物は増えた。

しかし集団の中で、どの草地がどの群れのものか、誰がどの水場に先に来るか、という争いが形を持ち始めた。声を上げるだけだった争いが、手が動くことになった。その者は一度、顔に傷を受けた。相手は同じ集団の男だった。

傷は塞がった。痕が残った。

その者はときどき傷痕を指で触れた。皮膚が盛り上がっている部分を、爪の側面で撫でた。何かを確かめているようだったが、何を確かめているのかは、その者自身にもわからなかった。

旧人の集団が丘の向こうに姿を見せた。

その者の集団は火を大きくした。石を積んだ。声を揃えて音を出した。旧人の集団はしばらく丘の上にいて、それから消えた。誰も追わなかった。誰も歓迎もしなかった。ただ消えるのを待った。

子が熱を出した。

三日、下がらなかった。その者は子の横に座り、眠らなかった。食べなかった。水を口に含んで、指で子の唇に触れさせた。四日目の朝、熱は下がった。子は目を開けた。

その者は子の顔を見続けた。長い間、見続けた。

子が笑った。理由のない、ただの笑いだった。その者の体の前側がまた温かくなった。前より強く。前より広く。胸だけでなく、腕の内側まで。

三十八歳の冬、集団の中で最年長の者が死んだ。

歩いていた。崖の縁を歩いていた。足が滑ったのか、土が崩れたのか、誰も見ていなかった。ただ声がして、集団が崖の縁に行ったとき、下に体があった。声は止んでいた。

その者は崖の縁から下を見た。

風が崖の下から吹き上げてきた。冷たかった。その者は顔に当たる風をしばらく受けていた。それから崖の縁から離れた。

与えるもの

水が来る前の夜、においが変わる場所があった。

土と岩の間の、狭い割れ目。風がそこから違う温度で出てきた。

この者は雨の音の中に立っていて、その割れ目の近くで足を止めた。一瞬だけ。

続けた。歩き続けた。

割れ目の中に、何があったか。水の流れる道があった。乾季でも消えない、深い水の道が。

届かなかった。また届かなかった。

問いはいつも同じ形に戻る。渡すことと、届くことの間にある、埋められない距離について。しかしその距離があっても渡すことをやめない。それがなぜなのかを、渡す者は自分に問わないようにしている。問えば、立っていられなくなる気がするから。

伝播:NOISE 人口:817
与えるものの観察:届かなかった。しかし足は止まった。
───
第1434話

紀元前292,840年

第二の星

草原の北では、旱魃が終わった翌年から、集団同士が同じ水場に来るようになった。かつてはどちらかが離れた。今は、どちらも離れない。

岩の多い台地では、子どもが増えた。女たちは背中に子を括り、それでも遠くへ植物の実を採りに行く。食べ物は充分にある。だからこそ、もう一つの集団の姿が視界に入る時間が長くなった。

草原の南では、旧人が二人、乾いた岩の窪みに水が溜まるのを待っていた。同じことをしているのに、言葉は重ならない。身振りも少しずれる。それでも二つの者は、同じ窪みの縁に腰を下ろして水を待った。

遥か遠く、海に近い低地では、水がゆっくりと森に戻ってきていた。木の幹に蔓が這い、動物の声が増えた。雨期が来るたびに川は岸を超え、翌年また新しい泥の層を残した。そこに誰かの足跡が残り、また次の雨に消えた。

台地の上では、子どもが生まれるより早く死ぬことが、少しだけ少なくなっていた。

穏やかな年が続いている。続いていることの重さを、誰も知らない。

与えるもの

集団が増える。子が増える。食べ物がある。だから争いの準備をしている。順番がある、ということを、この者はまだ知らない。

岩の縁に、影が一筋、細く落ちた。二つの集団が近づく方向から、ではなく、離れる方向から。

この者は影を見た。それから水場の方向を見た。戻らなかった。

影はそちらを示していたのではないのかもしれない。あるいは示していた。この者が動かなかったことを、どう測ればいいのか、まだわからない。次に渡すとしたら、遠さではなく、近さについての何かを渡したい。

その者(38〜43歳)

水場に、別の群れの者たちが来ていた。

その者は岩の陰から見ていた。動かなかった。息を浅くした。子どもたちが水を飲んでいる。自分の群れの子ではない。同じくらいの背丈の、知らない子どもたちが、水を飲んでいる。

手に石を握っていた。

石は水を吸っていなかった。乾いていた。少し重かった。

別の群れが去った後、その者は水場に降りた。縁の泥に足跡が残っていた。大人のもの。小さいもの。かかとの深いもの。指のないもの。

その者は自分の足をその跡の横に置いた。同じくらいの大きさだった。

水を飲んだ。

水の味に違いはなかった。

岩に戻ると、群れの中で最も年老いた女が何かを言った。単音と、手の動き。その者は答えなかった。

夜、焚き火の外で横になりながら、足跡のことを考えた。同じくらいの大きさ、ということを。何かが、そこに引っかかっていた。言葉にする方法がなかった。だから引っかかったまま、夜が明けた。

伝播:SILENCE 人口:1,062
与えるものの観察:影の方向を見た。足を跡に重ねた。それだけだ。
───
第1435話

紀元前292,835年

その者(43〜48歳)

草の根が、歯に触れる前に匂いでわかる。

渋いもの。甘いもの。食えないもの。その者は鼻で判断し、口に入れる前に捨てる。それを覚えたのは、誰かから聞いたからではない。体が先に動くようになった、いつからかの話だ。

丘の南斜面で、女が声を出した。

高い声。二度。それはこの集団が使う、来いという音だった。その者は立ち上がり、斜面を下りた。

水場に、他の集団がいた。

見たことのある顔と、見たことのない顔が混じっている。男が三人、水の縁にしゃがんでいた。その者の集団からも、男が二人出てきた。誰も音を出さなかった。水だけが流れていた。

やがて、片方の男が水を掌に汲んで飲んだ。

それだけだった。

それだけで、他の男たちも水を飲み始めた。その者も近づき、冷たい水を口に含んだ。水に味はなかった。ただ冷たかった。石の間から出てくる水は、いつもこの温度だった。

夜、焚き火のそばで、老いた男が腹から音を出した。

低く、長い音だった。誰かが笑った。別の誰かが同じ音を出した。もう少し高い音で。その者も口を開いたが、何も出なかった。音の出し方を知っているのに、今夜は出てこなかった。

膝を抱えて、火を見ていた。

火の端が揺れるたびに、影が動いた。その者は影を目で追った。追いながら、昼間の水場を思い出した。あの男が水を飲んだとき、他の者たちが何かを決めた。音なしで。

その者は自分の掌を見た。

掌で水を飲む行為が、声より先に何かを決めた。その者にはその仕組みがわからなかった。ただ、そういうことがある、と体が知っていた。

第二の星

草原の北で、水場を共にした季節から五年が経つ。

あの夏、どちらの集団も離れなかった。翌年、また来た。また離れなかった。それが続いた。今はもう、水場で声を荒げる者はいない。しかし親しいわけでもない。ただ、同じ場所で水を飲む者たちがいる、それだけのことが続いている。

台地の東では、子が生まれ続けた。背中に括られた子どもが大きくなり、次の子が括られた。女たちは遠くへ行き、帰ってきた。帰ってこない者もいた。草が深い場所で何かに遭ったか、戻る力が尽きたか、この星にはわからない。

岩棚の下で、一人の老いた男が動かなくなった。食えるものを飲み込む力が先に消え、水だけを受け取り、そして水も受け取らなくなった。三日後、朝の光の中で、仲間たちが彼の体を岩の隙間に運んだ。誰も泣かなかった。泣く音と黙る間の区別が、この時代にはまだ曖昧だった。

始まりの大地に、今年も乾季が来て、過ぎた。

集団はまだここにある。千を超えた者たちが、この大地の上で水を飲み、火を囲み、音を出している。それ以上のことを、この星は知らない。

与えるもの

火の端が揺れた。影がその者の掌に落ちた。

その者が掌を見た。

同じことを、別の場所で、別の者が同じようにしていた記憶がある。あのときも届かなかった。今夜届いたかどうか、わからない。ただ、次に渡すべきものがある。この者が火の傍で膝を抱えている間、渡せるものを探している。

伝播:SPREAD 人口:1,063
与えるものの観察:掌が問いを持ち始めた夜
───
第1436話

紀元前292,830年

第二の星

乾季が終わった。

雨が戻り、草が伸び、川が音を取り戻した。始まりの大地のなだらかな丘に、集団が広がっている。千を少し超える者たちが、火を分け、獲物を解き、子を抱えて眠る。

豊穣が三度の季節をまたいで続いている。

その余裕が、均一ではない。火の周りに集まる者たちの顔を、この星は照らす。誰がどこに座るか。誰の声が長く続くか。誰が先に食い、誰が最後に食うか。言葉はまだ粗い。しかし順序は、すでにある。

遥か北の高地では、旧人の一群が岩壁の陰に入ったまま、三日、動かない。病か、疲弊か、この星には判断できない。やがて一人が立ち、歩き始める。残りはそれを見送らない。ただ、岩壁に背を当てたまま、眼を閉じている。

始まりの大地では今夜、誰かが川縁で歌っている。音の高低が、月明かりの水面をわたる。誰に向けた歌かは、この星には知れない。歌の意味も、届く先も。ただ音が、夜の草原の空気を動かしていた。

それだけを、この星は見ている。

与えるもの

川縁の石の一つに、水が溜まっていた。

浅い窪みに、透明な水。その水面に、火の反射が落ちた。この者の足が、その光の揺れのすぐそばで止まった。

受け取らなかった。目が水面を通り越して、遠くの火の方へ向いた。

石の中の水が揺れた。揺れて、止まった。

渡せなかったのか。それとも、この者にはまだ石の中の水が何を映しているかを見る必要がないのか。

次に渡すべきものは、もっと近くにある。この者の体そのものの中に。腹の下、声が出る前に固まる何か。それを先に気づかせなければ、石の水はただの水でしかない。

その者(48〜53歳)

火の周りに、大人たちが座っている。

その者は座れなかった。体の中に何かが詰まっていて、足が折れない。同じところをぐるぐると歩いた。草を踏んで、踏んで、また踏んで、同じ場所が薄くなっていくのを足の裏で感じた。

ヒロウという男がいる。

集団の中で最も大きな男ではない。最も速い男でもない。しかし彼が立つと、他の者の視線が揺れる。その者はそれをずっと見ていた。何年も。ヒロウが食い物を差し出す方向。ヒロウが声を上げるとき、他の誰が黙るか。

今夜、その者はヒロウの隣に座れなかった。

ムウという女が先にそこにいて、ヒロウの肩に触れて、笑った。その笑いの形が、その者には読めなかった。何かの合図か。それとも笑いは笑いでしかないのか。

その者は川縁まで歩いた。

水を飲もうとして、かがんで、飲まなかった。石の窪みに溜まった水が、遠くの火を映していた。映っているものを見るより先に、腹の底に何かが固まった。その固まりが何かを、その者は知らない。ただ、それが固まるといつも、次に何かが起きると体が覚えている。

火の周りが、少し騒がしくなった。

声の高さが変わった。ムウの声。それからヒロウの声。それから誰か別の、低い声。

その者は立ち上がった。

川縁の草が足に当たった。走るより先に、足が動いた。火の方へではなく、岩棚の陰へ。膝を抱えて、岩に背を当てた。息が、口ではなく鼻から短く出た。

騒ぎは続いた。それから止んだ。

止んだ後の静けさの中に、何かが含まれていた。その者の体が、それを知っている。名前はない。ただ、皮膚の表面が冷えた。汗が背中を伝った。

夜が深くなった。

火が落ちた後、その者はまだ岩棚の陰にいた。草の上に横になって、空を見た。星が多かった。見ているうちに、腹の固まりが少し緩んだ。緩んで、消えなかった。

眠れないまま、夜が明けた。

朝の光の中で、その者は集団の中を歩いた。ヒロウはいた。ムウもいた。しかし何かが前夜と違った。その違いを、その者の言葉は捕まえられない。ただ、ヒロウの目がその者の方を向いたとき、その者の足が一瞬、止まった。

止まって、また歩いた。

伝播:HERESY 人口:1,013
与えるものの観察:腹の固まりを、体が先に知っている。
───
第1437話

紀元前292,825年

第二の星

草が腰まで伸びた季節だった。

始まりの大地の南側、赤みがかった土の平原では、幾つかの集団が同じ川沿いに野営を張っていた。火と火が見える距離にある。それが緊張を生むこともある。それが温かさを生むこともある。この星はどちらとも言わない。

北の丘の斜面で、年老いた女が皮を伸ばしていた。石の縁で何度もこすり、指の腹で厚みを確かめる。子どもが二人、その周りをうろついている。女は追い払わない。追い払う必要を感じていない。

川の上流で、若い男たちが水に入っていた。魚を追うのではなく、川底の石を探していた。丸く、重く、手に馴染むものを。何に使うかは、まだ決めていない。

遠く、平原の端に近いところで、二つの集団が向き合っていた。どちらも声を上げていない。声を上げる前の静けさだった。

この星は全部を照らす。どれが重要かを決めない。

与えるもの

この者の足元で、影が短くなった。

真昼の光が直上から落ちた瞬間、一瞬だけ影が消えた。この者はその感覚に——足が地面から切り離されたような、体の輪郭が溶けるような——立ち止まった。

この者はそのまま空を見上げた。探すように。何かを探しているのかどうかも、わからないまま。

届いたのか。届いていないのか。影が消えたのは一瞬で、次の瞬間にはもう戻っていた。この者が空を見上げたまま立っていた時間、その沈黙の中に何かがあったのかもしれない。あるいは、ただの光だったのかもしれない。次に渡すべきものが何か、まだわからない。ただ、この者がしばらく動かなかったという事実だけが残る。

その者(53〜58歳)

影が消えた。

体の下が、なくなった気がした。足は地面を踏んでいる。踏んでいるのに、落ちるような感じがした。

空を見た。

眩しかった。目を細めても眩しかった。それでも顔を戻せなかった。光の中に何かがある気がした。あるとも言えない。ないとも言えない。ただ、何かが光の中にある気がした。

しばらく、そこにいた。

草が風に揺れる音がした。誰かが遠くで声を上げた。腹が鳴った。

それでも、すぐには戻れなかった。

夕方になって、集団のいる方へ戻った。火がもう起こされていた。肉の焦げる匂いがした。腹が鳴ったので、近くに座った。

夜、横になって目を開けたまま空を見た。昼に見た光のことを思った——思ったというより、体がまだそれを覚えていた。足の裏が、あの感じをまだ覚えていた。

眠る前に、もう一度だけ空を見た。

何もなかった。星があった。

伝播:DISTORTED 人口:1,018
与えるものの観察:影が消えた。この者は空を見た。
───
第1438話

紀元前292,820年

その者(58〜63歳)

川沿いの岩に腰を下ろすと、立ち上がれなかった。

膝が言うことを聞かない。腰の奥で何かが引っかかっている。体が重いというより、体が自分のものでなくなってきている。そういう感覚だった。

子どもたちが走っていた。大人たちが火の周りで何かを話し合っていた。声が高く、腕が大きく動いていた。いくつかの集団が川沿いに散らばって、互いの火を遠くから見ている。その緊張は、この者の体には届かなかった。

ただ、川の音が聞こえた。

それだけでよかった。

五十八の年に、足首が腫れ上がった。踏むたびに痛んだが、誰にも示さなかった。翌年、腫れは引いた。代わりに、右の膝が動かなくなり始めた。集団の移動のたびに遅れた。誰かが必ず待っていた。それが嬉しいのか情けないのか、わからなかった。

六十一の年。草の香りがしない、と気づいた。鼻が閉じていくようだった。次に、食べ物の味が薄くなった。肉を口に入れても、昔の濃さがない。噛む力も落ちていた。

体が少しずつ、静かに返っていっている。

ある朝、川岸の濡れた土に手をついた。冷たかった。手のひらで土の粒を感じた。ざらざら、ひんやり。昔、こうやって水の底の石を触ったことがある。あの石は今もそこにあるだろうか。

そんなことを考えた。

六十三の年の終わり、空が白む前に目が覚めた。眠れなかったのではない。眠りと覚醒の境が、もうあいまいになっていた。星がまだ出ていた。ひとつが長い弧を引いて消えた。

その者は岩にもたれたまま、川の方を向いていた。

息をした。また息をした。

次の息は来なかった。

川の音だけが続いた。集団はまだ眠っていた。朝の鳥が一羽、鳴いた。

第二の星

同じ頃、始まりの大地の北の端、風が強く岩肌を削る高台で、二つの集団が同じ眠れない夜を過ごしていた。一方は火を大きくし、もう一方は火を消した。その意味は誰にも伝わらなかった。朝になれば、互いに相手がいなくなっていることに気づく。それだけのことだった。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:NOISE 人口:1,017
与えるものの観察:体が返っていく。覚えていたのは土の冷たさだった。
───
第1439話

紀元前292,815年

その者(50〜55歳)

皮が固い。

獣の腹から剥いだばかりで、まだ温もりが残っている。それでも固い。爪の間に脂が詰まり、手首が痛む。膝の上に皮を広げて、石のへりで押すように削る。力を入れすぎると破れる。足りないと残る。

火が近い。

熱が顔の右側にあたる。左は涼しい。火の番は自分の仕事で、皮を剥ぐのも自分の仕事で、どちらが先かはそのときによる。今日は獣が先に来た。集団の誰かが運んでいた獣を、自分が引き取った。声はいらない。目が合えば分かる。

削る。

また削る。

子どもが走ってきて、火の近くで転んだ。泣かなかった。立ち上がって、また走って行った。その者は見ていた。一瞬だけ。それから皮に目を戻した。

背中に気配がした。

集団のなかに、いつもと違う空気がある。笑い声の多い日と、静かな日がある。今日は静かだった。声が少ない。誰かが誰かを見ている、そういう静かさだった。

その者は削り続けた。

手が動いていれば、気配から目を逸らしていられる。そういうことを言葉では知らなかったが、体は知っていた。皮を削る音が、その者の周りで鳴り続けた。

夜になった。

火を足した。炎が大きくなり、周囲の顔が明るくなった。その者は火のそばに座ったまま、皮の端を握っていた。昼に感じた背中の気配が、また来ている。

遠くで誰かが声を上げた。

低い声。怒りではない。何かを決めた声だった。

その者は動かなかった。火を見ていた。炎の中で枝が折れ、火の粉が散った。粉は暗い空に入って、すぐに消えた。

消えた場所をしばらく見ていた。

第二の星

始まりの大地に、今年も雨が来た。

川は岸を超えず、草は枯れず、獣は群れたまま移動した。豊穣は続いている。集団は大きくなった。かつてなかった数の者たちが、同じ火を囲んでいる。子が生まれ、また生まれ、幼くして消える者もいるが、それでも数は増えた。

大きくなった集団の中に、軋みが生まれている。

かつては顔と顔が分かった。誰が何をするか、誰が強く、誰が弱いか。声がなくても体が知っていた。しかし今は、知らない顔がある。知らない匂いがある。どこに属しているのかわからない者が、火のそばに座っている。

誰かが余分を持っている。誰かが足りない。

この差がかつては見えなかった。集団が小さければ、余分は分かち合われた。大きくなると、見えなくなる部分が生まれる。見えない部分に、何かが溜まる。

その者は知っている側でも知らない側でもなかった。

皮を削い、火を守り、どちらの声でもない場所にいた。しかし、そういう場所が、いつまでも安全とは限らない。軋みが大きくなれば、誰かが選ばれる。誰かが余分として見られる。

始まりの大地の空は、今夜も晴れている。星が多い。

与えるもの

糸が繋がった。

炎の中で枝が折れたとき、煙が一筋だけ、その者の顔にかかった。目に沁みた。その者は顔を背けた。背けた先に、集団の輪郭があった。誰が誰の隣に座っているか。誰と誰の間に間があるか。

この者はそれを、見た。

見ただけで、何もしなかった。しかし、見た。それは昨日まで見ていなかったものだった。これが何かに変わるかどうか、わからない。渡したことが意味を持つかどうか、それはいつも、こちらでは決められない。

次に渡すべきものがある、と思った。

しかし重さがある。前にも似た問いがあった。渡しても届かなかった時代のことを、名前では持っていないが、何かの質量として持っている。今は、その質量ごと、渡すしかない。

伝播:HERESY 人口:966
与えるものの観察:煙が顔を向かわせた。見た。それだけ。
───
第1440話

紀元前292,810年

第二の星

知っていた季節が、消えた。

ゆっくりではなかった。雨が減り、川が細くなり、やがて草の根が地面から浮き始めた、その干ばつの後から――今度は逆だった。温かい季節が来なかった。来るはずの時期に、空が灰色のまま低く垂れ込め、風が方向を失い、ぐるぐると大地をなめるように吹いた。

獣の毛が変わった。夏の終わりに抜け落ちるはずの厚い毛が、そのまま伸び続けた。鳥の群れが来る時期がずれた。来なかった年もある。川の水が、かつてより冷たくなった。石を浸けておくと、夜のあいだに薄い膜が張った。膜の名前を誰も持っていなかったが、それでも指でつつき、眺め、怖れた。

「始まりの大地」の北の端から、旧人の群れが南へ移動を始めた。彼らは寒さに慣れていた。それでも来た。移動の理由を問う言葉を誰も持っていなかったが、彼らの足の速さが、何かを語っていた。

集団が縮んだのは、冬のせいだけではなかった。

幼いものが先に消えた。生まれてくる数は変わらなかった。しかし冷たい夜を越えられなかった。産んだ者の乳が出なくなることもあった。食べるものが減ると、体が先に答えを出す。泣き声が短くなり、やがてなくなった。

集団間の緊張が頂点を迎えたのは、ある川の近くの水場だった。二つの群れが同じ場所に向かっていた。どちらも何日も歩いていた。水を必要としていた。言葉ではなく、石と棒で会話した。一方が退いた。退いた者たちのうちの何人かは、別の水場にたどり着けなかった。

退かなかった者たちも、半数近くを失った。

冬が終わり、また冬が来た。前の冬より長かった。大地の裂け目で眠る蛇が目覚めなかった年があった。木の実が少なく、根が固く、走る獣の数が減っていた。それでも残った者たちは火を燃やし続けた。火の周りに集まり、体を寄せた。体温という言葉を誰も持っていなかったが、それでも老いたものが若いものを抱き、若いものが子を包んだ。

この星は、ただ動いていた。北の氷が広がり、南の風が乾き、大気の流れが変わっていた。生き物たちは、自分が変化の中にいることを知らないまま、変化の中を歩いていた。

与えるもの

皮の削りかすが風に飛ばされた。

その者がまだ手を止めないでいるとき、削りかすが舞った先に、獣の足跡がついていた。新しかった。泥の縁がまだ崩れていなかった。

その者は見なかった。

削りかすが同じ方向へもう一度流れた。

―― 足跡があった。見なかった。あの向こうに何があったのかは、もうわからない。次に渡すべきものは、見る前に動く体だろうか。それとも、立ち止まることを教える何かだろうか。

その者(55〜60歳)

指先が割れていた。冷えると必ず割れる場所が、今年はもう三度同じところで開いた。皮を削るとき、そこに液が滲む。痛みではなく、染みる感覚だった。

集団の声が減った。

前の冬には聞こえていた子の声が聞こえない。その者は何も言わなかった。火の番を続けた。夜に薪を足し、朝に灰をかき、また夜に薪を足した。

伝播:SILENCE 人口:562
与えるものの観察:足跡を見なかった。風は二度吹いた。