2033年、人類の旅

「紀元前292,805年〜紀元前292,685年」第1441話〜第1464話

Day 61 — 2026/06/03

読了時間 約61分

第1441話

紀元前292,805年

第二の星

始まりの大地の東側で、何かが動き始めた。

目に見えない何かだった。川の水がそれを運んだのか、風がそれを運んだのか、あるいは集まりすぎた体と体の間で生まれたのか、この星には分からない。分からなくとも、見えていた。

最初に倒れたのは、幼い者だった。次に、産んだばかりの者。それから年老いた者。腹が膨らみ、皮膚が赤く爛れ、声が出なくなり、体が自分のものでなくなっていった。死ぬのに名前はいらなかった。倒れた場所にそのまま沈んだ。

集団の中心部から、静寂が広がった。声が多かった場所が、静かになった。火の周りで歌っていた者が、翌朝に動かなくなった。子を抱いていた者が、子と共に倒れた。

遠く離れた北の地では、別の種の群れが岩の庇の下で雨を避けていた。彼らは病を知らなかった。人の死も、この大地で何が起きたかも、知らなかった。

始まりの大地では、半数以上が消えた。

生き残った者たちは、理由が分からなかった。殴られたのでもなかった。獣が来たのでもなかった。ただ、いなくなった。

与えるもの

皮が腐る匂いがした。

与えるものは川の上流に注意を向けさせようとした。水の流れる音が変わっていた。上流の水が澄んでいた。匂いが薄かった。

この者は川辺に近づかなかった。倒れた者たちの側を離れなかった。

渡せなかった。渡した先を、この者は選ばなかった。ならば次に渡すべきものは何か。上流の水ではなく、もっと前に渡すべきものがあったのかもしれない。匂いで気づかせることができるなら、腐臭が来る前の、かすかな違いを。渡せるか。渡せるとすれば、いつか。

その者(60〜65歳)

火は消えなかった。

それだけだった。他のものは次々と消えていったが、火だけは、この者が守っていたから消えなかった。

最初に倒れたのは、声の大きな若い者だった。腹を抱え、地面に膝をついた。その者の背を、この者は叩いた。強く叩いた。何かを出させようとした。出なかった。

翌朝、その者は冷たかった。

次に倒れたのは二人同時だった。母と、その胸に顔を埋めていた子だった。二人とも皮膚が赤くなっていた。手が届かないところが、赤かった。

この者は皮を剥ぐ石を持ったまま、しゃがんでいた。

声を立てなかった。岩を拾った。置いた。皮を剥ぐ石を持ち直した。

集団が小さくなっていった。火の周りに座る者が減った。減ると、隙間が増えた。隙間に風が入った。火が揺れた。

この者は揺れた火に枝を足した。

死ぬ者が出るたびに、残った者が少し離れた。近づくことを怖れた。体が怖れた。近づくな、という声ではなく、足が止まった。

この者の足も止まった。

止まったまま、倒れた者を見ていた。

腹が鳴った。食わなくてはいけなかった。それが分かっていた。体が分かっていた。

川へ行った。しかし川のどこかが、いつもと違っていた。水の色ではなかった。音でもなかった。この者の足が、水の手前で止まった。なぜか分からなかった。ただ止まった。

戻った。上流へ行かなかった。

火の番に戻った。

枯れた草の根を噛んだ。味がなかった。噛み続けた。

夜、火を挟んで向こう側に座っていた者が、横になった。横になったまま、朝になっても起き上がらなかった。

この者は立ち上がり、その者に近づいた。肩を押した。動かなかった。

火の横に戻った。

枝を足した。

伝播:NOISE 人口:225
与えるものの観察:上流を示した。足は止まった。しかし川へ向かった。
───
第1442話

紀元前292,800年

その者(65〜66歳)

火の番は、夜明け前から始まる仕事だった。

その者は長い間、そうやって生きてきた。眠りの浅い時間に起き、くすぶる炭に顔を近づけ、息を吹く。煙が目に入る。涙が出る。しかし火は戻る。その繰り返しだった。

膝が痛むようになったのは、いつからだったか。しゃがむたびに音がした。低く、鈍い音。他の者は気にしなかった。その者も気にしなかった。

集団は大きくなっていた。子の声が朝に満ちていた。どこかで誰かが皮を引っ張る音がし、どこかで誰かが笑っていた。その者はその音を聞きながら、炭に枝をくべた。

五年前の疫病を覚えている。最初に倒れた幼い者の顔を覚えている。自分は倒れなかった。なぜかは分からない。ただ、火の前にいた。火は消えなかった。

その日の朝、起き上がれなかった。

膝の問題ではなかった。体の中心から、力が消えていた。横になったまま、空を見た。明るくなっていく空だった。雲が流れていた。薄い雲で、光を透かしていた。

傍にいた若い者が、声をかけた。その者は短い声で応えた。いつもの声だった。

風が吹いた。

乾いた土の匂いがした。火の匂いも混じっていた。集落のどこかで、誰かが火を起こしていた。その者は鼻で息をした。匂いをたどるように。火はある。火は続いている。

それだけを確かめて、目を閉じなかった。

空を見続けた。雲が変わった。風が止んだ。光が強くなった。

力が抜けていく過程は、長かった。ゆっくりと、何かが緩んでいくようだった。手の指が、開いたまま戻らなくなった。

傍の若い者が、その者の手に触れた。

その者は何も言わなかった。言葉を出す必要を感じなかった。

光が、額のあたりに落ちた。夏の朝の光で、少し熱かった。その者はその熱さを感じながら、呼吸が浅くなるのを、ただ感じていた。

やがて、胸が動かなくなった。

指は開いたままだった。空は明るかった。

第二の星

その者が光の中で動かなくなった同じ頃、大地の北の端で氷が解け、川が一本生まれた。その川は誰も知らない谷を流れた。大地の別の場所では、二つの小さな集団が同じ水場に近づき、立ち止まり、互いを見た。どちらも声を出さなかった。風が草を揺らした。第二の星は区別しない。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:278
与えるものの観察:火の番は最後まで、火の行方を確かめた
───
第1443話

紀元前292,795年

第二の星

雨は北から来た。

じわじわと、ではない。ある朝、空が変わった。雲が厚く積み重なり、風が草を寝かせ、雷が一度だけ遠くで鳴った。それから雨が降り始め、七日、降り続けた。

大地が吸った。草の根が押し広がった。水場が溢れ、新しい流れがいくつもできた。獣の通り道に水が溜まり、足跡が泥に深く残った。

この星の反対側では、大河が静かに土を削り続けていた。崖が少しずつ後退した。崩れる前日も、崩れた後も、大河は同じ速さで流れた。誰もそれを見ていなかった。誰もそれを知らなかった。それでも崖は崩れ、堆積した土が川底を押し上げ、上流の水面が五指ぶん上がった。

「始まりの大地」では、子どもたちが増えた。

生まれた者がいた。生き延びた者がいた。幼いうちに消えていた者の数が、今年は少なかった。集団は大きくなり、食べるものがあり、火は夜通し燃えた。

しかし大きくなった分、境が曖昧になった。誰がこちらで、誰があちらか。皮を分け合う者と、皮を奪い合う者。どちらも同じ雨に濡れた。

旧人の一群が、東の丘を越えてきた。静かに、しかし確実に。

与えるもの

糸が繋がった。

第276世代。十一歳の頃から、ずっと。

この者が水場の端に立って、水面を見ていた夜があった。月が映っていた。風が吹いて、月が揺れた。その時、水面の揺れが止まる前に、波紋の外側、少し離れた暗い場所に、小さな魚の影が動いた。

光がそこに落ちた。

正確には、雲が少しだけ切れて、月光が水面の、その場所だけを照らした。一瞬だけ。

この者は見た。そして、見ていなかった。目は向いていたが、体は水を汲むために屈んだ。魚の影には、触れなかった。

この者は素手で水を掬い、飲んだ。

渡せなかったのか。それとも別の形で届いたのか。分からない。分からないまま、次を考える。食べられるものの場所。獣が昨夜どこから来たか。東の丘の向こうで、何かが動いている。

その者に渡すべきは、次は何か。

その者(11〜16歳)

雨が降った年のことを、この者は体で覚えている。

泥の匂い。靴などない足の裏に絡みつく感触。水場が二つになった。新しい流れが、自分の膝のあたりまで水を持っていた。

その者は、子どもたちの火番をしていた。

幼い者が五人、火の周りに丸まって眠る。その者は眠らない。枝を足す。炭が白くなったら、位置を変える。煙の向きで風を読む。雨が続いた間は、濡れた枝を先に炙って乾かしてから燃やすことを、誰に教わったわけでもなく、やっていた。

十三の頃、集団に新しい顔が増えた。

どこから来たか分からない男が一人、女が二人、子どもが三人。皮の巻き方が違った。においが違った。眠る位置が、すこし遠かった。

その者は気にしなかった。

火は分けた。食べ物は、持っている者が多い者に渡す。それだけを知っていた。

十四の終わりに、東の丘の向こうで煙が上がった。

集団の中で声が上がった。大きい声と、低い声と、子どもを抱きしめて黙る声と。その者は水場の側に立って、丘を見た。煙は細かった。火ではない。何かが焼けているのでもない。

ただ、誰かがいる、ということだった。

十五になった頃、その誰かが丘の手前に来た。

旧人だった。額が広く、眉骨が張り出し、目が小さかった。二人。子どもの手を引いていた。

集団は固まった。石を持つ者がいた。声を上げる者がいた。

その者は石を持たなかった。

ただ、二人を見た。子どもを見た。子どもは泣いていなかった。泣く力も、もうなかったのかもしれない。

その者は、持っていた干し肉の切れ端を、地面に置いた。

蹴ったのではない。押しつけたのでもない。ただ、置いた。そして一歩、下がった。

旧人の一人が、それを見た。

しばらく、動かなかった。

それから、屈んで、拾った。

集団の誰かが、低い声で何かを言った。その者には聞こえたが、振り返らなかった。

夜、火番をしながら、その者は丘の方を見た。向こうにも、小さな火が見えた気がした。見えなかったかもしれない。

炭が崩れた。枝を足した。

煙が、まっすぐ上に立った。風が止まっていた。

伝播:DISTORTED 人口:361
与えるものの観察:置いた。それだけだった。届いたかどうかは別だ。
───
第1444話

紀元前292,790年

その者(16〜20歳)

その者は水場の端に座っていた。

足が水に浸かっている。冷たい。岸の泥は昨夜の雨でまだ柔らかく、足跡が残る。自分のもの、子どもたちのもの、獣のもの。その者は足跡を指でなぞった。深いものと浅いものがある。重いものと軽いもの。

火の番は夜明け前に交代した。その者は一晩、火を守った。

眠れなかったのではない。眠る必要がなかった。目を開けたまま、炎が木を食う音を聞いていた。パチ、パチ。小さな音だ。集団の誰かが寝返りを打つ音より小さい。

七日続いた雨が止んでから、川の水量が増えた。水が濁り、流れが速くなった。その者は毎朝、水場を確認する。子どもが入れるか。石の位置はどこか。足が滑る場所はどこか。

それがその者の仕事だった。

見張ること。覚えること。伝えること。

変化は小さかった。

ある夜、集団の男が二人、水場から少し離れた窪みで低い声で話していた。その者には聞こえなかった。聞こえたのは声の調子だけだ。普段と違う。何かを決めている声だ。

その者は炎の方に目を戻した。

翌朝、旧人の集団が川下に来ていた。子が三人、女が二人、男が四人。その者は彼らを前に見たことがある。顔の骨格が少し違う。眉の上の隆起が厚い。しかし水を飲む姿は同じだ。水をすくい、口に運ぶ。

その者の集団の男たちが岸に並んだ。

旧人の集団は戻っていった。

三日後の夜、その者は水場のそばに一人でいた。

なぜそこにいたのか、のちに誰も語らない。

火番の交代を終えたのか。水場を確認しに来たのか。ただ眠れなかったのか。

水面が揺れていた。風ではない。上流から何かが流れてきた。木の枝だった。大きな枝。それに続いて、もう一本。

その者は立ち上がった。

上流で何かが起きている。その者は川沿いに走った。草が脛を叩く。足の裏に石が当たる。暗い。月がない夜だった。

それから先の話を語る者はいない。

集団が目を覚ましたのは、川の音が変わったからだ。低く、重く、地面ごと揺れるような音。その者が走っていった方向から来た。

洪水だった。

雨が止んでも、山の上では水が溜まり続けていた。それがある夜、一気に流れ出した。

その者の姿は朝になっても戻らなかった。

川下の石の間に、その者が使っていた石片が一つ残っていた。誰かがそれを拾い、しばらく手の中で持っていた。それから地面に置いた。

子どもが一人、その石の上に座った。

第二の星

同じ夜、はるか北の岩地では旧人の集団が火を囲んでいた。炎が揺れ、子どもが眠り、老いた者が咳をした。川の音も洪水も聞こえなかった。風は南から来て、草の匂いを運んだだけだ。第二の星は区別しない。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:359
与えるものの観察:渡した。届いたかどうかではない。
───
第1445話

紀元前292,785年

第二の星とその者(55〜60歳)

乾季の終わり、大地の皮が剥がれるように草が枯れる。
北の崖のあたり、旧人の群れが三日ぶりに姿を見せた。
遠くから煙が上がっている。こちらの煙ではない。

その者は獣の皮を岩に押しつけ、石の端で擦っていた。
手首が固い。五十を超えてから、朝は動かない。
擦る。止まる。また擦る。
皮はまだ柔らかくなっていない。

集団の中で若い者が二人、声を荒げた。
水場の上流に誰かが獣の骨を捨てた。
誰のものか、誰がやったか。
声は高く、低くなり、また高くなった。

その者は顔を上げなかった。
皮を岩から引き剥がし、折り曲げて確かめた。
まだ足りない。
また岩に戻す。

北の煙は夕方に消えた。
旧人の群れも消えた。
どこへ行ったのか、草の向こうに溶けた。
大地はそれを飲み込み、何も言わなかった。

翌朝、若者の一人が水場に現れなかった。
別の者がその者を探しに行った。
戻ってきた者は何かを言った。
その者は皮を持ったまま立ち上がり、歩いた。

草むらの端に若者が倒れていた。
頭を打っていた。岩のそばに血が乾いている。
何があったのか、語れる者はいなかった。
その者は若者の膝に手を当てた。
温かかった。まだ生きていた。

季節が変わった。
若者は起き上がったが、歩き方が変わった。
右足がうまく動かない。

その者は若者の足元を見た。
自分の足を見た。
若者の足に触れた。
指で足首を包んだ。
握った。放した。

次の雨季に、集団は移動した。
北を避け、東の谷へ。
旧人の煙がそちらでも上がっていたが、遠かった。
大地は傾き、雨水が溝を作り、その溝に沿って人が歩いた。

移動の途中、その者は転んだ。
皮袋が転がった。
石が散らばった。
拾った。また歩いた。

若者が右足を引きながらそのそばに来た。
石を一つ拾い、その者に差し出した。
その者は受け取った。
何も言わなかった。

五年の終わりに、集団は谷の奥に留まった。
水があった。獣がいた。
崖が風をさえぎった。
火を囲んで座る場所があった。

その者は火のそばで皮を擦っていた。
若者が隣に座った。
石の使い方を見ていた。
その者は石を渡さなかった。
自分の手を見せた。
動きを見せた。
それだけだった。

与えるもの

皮と岩の間の熱が変わった。
石の角がどこで皮に食い込むか、その境目に光を落とした。
若者がそれを見た。正確には、その者の手が止まった場所を見た。
渡したのは角度だったのか、熱だったのか。
次は若者に渡すべきか。それともこの者がまだ持っていくのか。

伝播:DISTORTED 人口:373
与えるものの観察:手の動きが一つの語になっていた
───
第1446話

紀元前292,780年

その者(60〜65歳)

皮が厚くなりすぎた。

その者は石の端を立て直し、角度を変えた。削りすぎると穴が開く。開いた皮は使えない。だから少しずつ。右の手の親指の付け根に、古い傷の跡がある。同じ失敗をした跡だ。

集団の中に若い者が三人いる。まだ手が速すぎる。力で押しつけて、皮を裂く。その者は何度か、自分の手を見せた。速さではない。角度だ。押しつける場所だ。しかし言葉がない。見せることしかできない。

北の方で声が上がった。

旧人の声ではない。こちらの若い者だ。石を投げ合っている。遊びではない。体の向きが違う。足が踏ん張っている。

その者は皮から目を離さなかった。

集団が大きくなると、こういうことが起きる。腹が満ちていても、争う。その者はそれを知っている。長く生きた分だけ、繰り返しを知っている。誰かが割って入るだろう。あるいは入らない。どちらも見てきた。

石の端が滑った。

皮に細い傷が入った。使えなくなる傷ではない。その者は指で傷をなぞり、方向を確かめた。大丈夫だ。続けられる。

風が変わった。

湿った匂いがした。川の方からではない。北の、旧人が出てきた崖の方から。その者は鼻を動かした。雨ではない。何か焦げたもの。遠くの何かが燃えているような、しかし燃え切った後のような。灰の匂い。

手が止まった。

その者には言葉がない。しかし体は知っている。この匂いを嗅いだことがある。どこで嗅いだかは覚えていない。しかし体が覚えている。足の裏が、少し冷えた。

声がやんだ。

若い者たちの争いが終わったか、遠ざかったか。その者は振り返らなかった。皮に戻った。石の端を立て直した。角度を確かめた。

三人の若い者のうち、一人だけ、いつもそばで見ている。女の子だ。まだ手が小さい。しかし目が違う。角度を見ている。速さではなく、角度を。

その者はその子に皮を差し出した。

言葉はない。身振りもしない。ただ差し出した。

その子は受け取った。

石を持ち、角度を探した。すぐには見つからなかった。その者は自分の手を出して、角度を示した。その子が真似た。皮が、少し、薄くなった。

その者は頷かなかった。

ただ、また自分の皮に戻った。

第二の星

乾季が明けていた。

北の崖は乾いたままで、崖の下に湿気が溜まっている。草の根が深く伸びる季節だ。川は細く、しかし枯れてはいない。集団は川の近くに留まっている。三日で動くか、七日か。それはまだ決まっていない。

この五年、集団は大きくなった。子が生まれ、生き延びた。肉がある。果実がある。水がある。飢えない季節が続いた。しかし集団が大きくなると、内側が複雑になる。誰が何を持つか。誰がどこで寝るか。誰の声が通るか。腹が満ちた者は、別のことで争う。

北に旧人の群れがいる。三日前から姿を見せている。遠くから観察する形で、近づかない。こちらも近づかない。火があれば互いに見える。煙が上がれば互いに知る。今は旧人の側から灰の匂いが流れてくる。何が燃えたのかは、誰も知らない。

その者は六十を超えた。集団の中で最も長く生きている者の一人だ。手が知っている。体が知っている。しかし口が言えない。だから手で渡す。体で見せる。一人の子が、角度を見ていた。

与えるもの

灰の匂いを届けた。

鼻が動いた。足の裏が冷えた。

手は、止まらなかった。皮に戻った。

伝播:NOISE 人口:390
与えるものの観察:体が知っている。言葉より先に。
───
第1447話

紀元前292,775年

その者(65〜66歳)

朝、腰が伸びなかった。

以前は少し動けば戻った。今日は戻らない。その者は岩の端に手をついたまま、空を見た。雲が厚く、東の縁から白んでいた。

石を握った。

手が覚えている。親指の腹がどこに当てるか。力の逃がし方。打つのではなく、剥がす。その者が若い頃に覚えたのではない。手が覚えていた。いつからかはわからない。

近くで若い者が石を割っていた。

音が違う。力が入りすぎている。その者は腰を曲げたまま近寄り、自分の手を重ねた。若い者の指に触れ、角度を直した。言葉はなかった。もう一度打つ。今度は薄い剥片が剥がれた。

若い者が顔を向けた。

その者は何も言わなかった。

三日、火の近くにいた。

起き上がると、地面が揺れるような感覚があった。足が遠い。指がうまく動かない日があった。それでも石は握った。子どもが持ってきた小石を、割って見せた。割れた。よかった。

夜、誰かが水を持ってきた。

その者は飲んだ。少しだけ飲んだ。置いた。

四日目の夕方、その者は火から少し離れた場所に座った。

背中を岩に預けた。足を伸ばした。足が長く見えた。皮が薄くなっていた。かつて硬かった踵が、今は乾いた泥のように白かった。

空がだんだん暗くなった。

風が草の上を渡ってきた。匂いがあった。濡れた土と、遠くの煙と、もっと遠くの何か。その者は鼻で吸った。目を閉じなかった。

集団の声が聞こえた。誰かが笑っていた。子どもが転んだらしい。

その者はそちらを向かなかった。

手の中に石があった。いつ握ったかわからない。小さな礫だった。特別な形ではない。ただの石だ。その者はそれを地面に置いた。

風が止んだ。

その者の背中が岩からずり落ちるように、ゆっくりと傾いた。顔が草の方を向いた。草が揺れていた。

声は続いていた。

第二の星

北の岸で、潮が砂地を削っていた。貝の殻が砕けて白い縁を作り、波が引くたびに縁は薄れた。誰もいない場所だった。波だけが来て、波だけが去った。空に鳥が一羽いた。その鳥も、やがて見えなくなった。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:NOISE 人口:408
与えるものの観察:渡した。届くかどうかは今も問いだ。
───
第1448話

紀元前292,770年

第二の星

乾季の終わりに近い。
草原の西端、大きな岩盤が地表に露出している場所で、集団のひとつが朝の火を囲んでいる。子どもが三人、煙の向こうで動いている。

北に二日歩いた場所では、旧人の一団が渓谷沿いに移動している。足跡は深く、重いものを引いている。草が踏み倒されている。

この星から見れば、どちらも同じ熱を持ち、同じ方向に重力で引きつけられている。区別はない。

西の台地の斜面で、ふたつの集団が同じ水場を挟んで睨み合っている。声が上がった。石が投げられた。ひとつが退いた。

退いたほうの男のひとりが、草の中に座り込んでいる。肩に石が当たった。腕が上がらない。血は出ていない。

草原の東では赤ん坊が泣いている。母が乳を与えている。

火は燃え続けている。
この星は傾きながら回っている。

与えるもの

糸が繋がった。

干し肉を置いた者も、川下の石片も、腰の曲がった者も、もういない。

次にどう渡すか、まだわからない。いや、違う。渡す場所はわかる。何を渡すかが問題ではない。届くかどうかが、いつも問いだ。

この者の足が速いことは知っている。

水場の方角から、風が吹いた。石の匂いが混じっていた。血の匂いも、少し。

その者が鼻を動かした。

風は止んだが、匂いは残った。

この者が今日それを使うかどうかは、わからない。使わなかったとしても、体の中に入った。いつか別の朝に、同じ匂いを嗅いだとき、足が止まるかもしれない。それで十分かもしれない。十分かどうかも、わからないが。

その者(24〜29歳)

夜明けに水場へ行こうとした。

前を歩いていた年上の者が、立ち止まった。手を横に広げた。その者も止まった。

草の揺れ方が違った。
風の向きではなかった。

鼻を動かした。石の匂い、そして、なにか濡れた匂い。錆びた岩のような、でも岩ではないもの。

年上の者が低い声を出した。引き返せ、という声だ。

その者は引き返しながら、首だけ後ろに向けた。

草原の向こうに影が見えた。別の集団の者が石を拾い上げるところだった。投げる前の構えだった。

走った。

石が飛んできた音がした。草に落ちた。肉体には当たらなかった。

集団に戻ったとき、肩が上下していた。年上の者が肩を叩いた。強く、一度だけ。

その後、火の傍に座った。炎を見ていた。薪を一本加えた。また見ていた。

夕方、水場には行けなかった。
喉が乾いていた。それでも、行かなかった。

夜、寝る前に鼻を動かした。
あの匂いがまだ残っているような気がした。
残っていなかったかもしれない。

伝播:DISTORTED 人口:420
与えるものの観察:匂いは体に入った。使わなくても。
───
第1449話

紀元前292,765年

第二の星

草原の西端に積み上げられた岩が三つ、朝の光の中で赤みを帯びている。

それは昨日そこになかった。

誰が積んだかは明らかだ。集団の中の古老のひとりが、夜のうちに運んだ。三つの石の上にさらに平たい石を載せ、その上に骨が並べてある。四本足の獣の骨。完全な形を保っていた。

朝の火を囲む者たちはその岩の台を見た。近づかなかった。子どもが走り寄ろうとしたが、母親が腕を引いた。音を立てずに。

古老は石の台の前で地面に座り、両手を膝に置いていた。揺れなかった。目を閉じなかった。骨を見ていた。

何が起きているのか、この集団の誰も言葉にできなかった。しかし離れなかった。火を維持した。煙が台の上を流れた。古老の白い髪が揺れた。

それがはじまりだった。

南の集団では、女が砂地に指で線を引いていた。曲がった線。繰り返した。子どもが隣で真似た。線が増えた。女はそれを消さなかった。踏まなかった。別の場所に新しい線を引いた。

二つの集団は互いを知っていた。川を挟んで、晴れた日には煙が見えた。近づかなかったが、追い払いもしなかった。緊張は水面の張りのようなもので、指で触れれば破れる。しかし誰も触れていなかった。

しかし変化はすでに始まっていた。

北の渓谷沿いに旧人の足跡が残っていた。重い荷を引いた跡。その足跡は三日前に消えていた。渓谷の奥に続いていたはずの跡が、ある地点で途絶えた。跡を踏みつぶした別の足が、その上にあった。爪が長く、かかとが丸く、指が広がった跡だった。

獣ではない。

その足跡を見つけた若い狩り手がふたり、川まで走って戻った。何を見たかを伝えようとした。しかし言葉が追いつかなかった。指を北に向け、手を横に振り、地面に足跡の形を描いた。集団の中の年長者がそれを見て、火の近くに全員を呼び集めた。

子どもたちが泣かなかったことが、かえって奇妙だった。

夕方になる前に集団は移動した。火を消さずに置いていった。煙だけが残った。古老の石の台は誰も崩さなかった。骨が並んだまま、赤い岩盤の上に残された。

夜、星が出た。

南の女が引いた線は、砂の上でまだ消えずにいた。風が弱かった。誰も踏まなかった。

与えるもの

骨の台から漂ってくる匂いが、その者の鼻腔に届いた。乾いた獣脂と土の混じった匂い。古老がそこに何かを置いたことは、その者も知っていた。

その者は足を止めた。嗅いだ。もう一度嗅いだ。

あの台に近づいた者が今日一日、誰も怪我をしなかった。偶然かもしれない。あるいは台が何かを引き受けたのかもしれない。この者にはわからない。しかし次に渡すべきものは、もう決まっている。

その者(29〜34歳)

集団が移動した後、その者だけが少し遅れた。

古老の石の台を見た。骨を見た。

足跡のことを思った。知りすぎた者が消される。その者はまだそれを知らない。ただ、台に向かって、低く、短く、音を出した。

それは言葉でなかった。しかし沈黙でもなかった。

集団の後を追って走り出した。

伝播:HERESY 人口:407
与えるものの観察:匂いで台を示した。受け取ったかもしれない。
───
第1450話

紀元前292,760年

その者(34〜39歳)

走っていた。

草が足首を叩く。踵が湿った地面を踏む。息が胸の奥で音を立てている。

後ろから声がする。三人か四人。怒りの声だ。その者にはそれがわかる。声の形より、速さからわかる。あの速さで叫ぶのは、怒りのときだけだ。

前を向く。走る。

何があったかを頭の中でもう一度たどる。骨の並んだ台。古老が並べたものに、その者は触った。触っただけだ。並べ直そうとした。並び方がずれていると思ったから。平たい石の上に載った骨を、少しだけ動かした。

それだけだった。

古老が振り返ったとき、目が違っていた。声を上げた。他の者たちが来た。その者は走った。

足が速い。それだけがある。

崖の手前の窪みに滑り込む。草の匂いが濃い。体を折りたたむ。呼吸を浅くする。足音が近くを通る。止まる。また動く。遠くなる。

その者は動かない。

日が傾いていく。影が長くなる。腹が鳴る。無視する。

暗くなってから、窪みを出る。集団のいる方向には戻らない。別の方向に歩く。どこに向かうかは決めていない。足が向いた方向に進むだけだ。

星が出ている。

その者は立ち止まり、空を見上げる。こうすると何かが落ち着くことを知っている。理由はわからない。ただ、空を見ると、腹の奥の締まりが少し緩む。

一つの星が他より明るく見える。

見ていると、温度が変わった気がした。冷えていた頬に、何かがあたった。風ではない。風はもっと広い。これは、細い。

その者は動かない。また空を見る。

第二の星

五年間、草原は草原のままだった。

水が湧く岩場の周りに、人々は集まり続けた。子が生まれ、老いた者が静かに動かなくなり、また子が生まれた。疫病の後で消えた者たちの穴を、新しい命が少しずつ埋めた。集団の数は戻った。それ以上にもなった。

豊かさは争いを育てる。食べるものが足りているとき、人は他のものを求める。誰が骨の台に触れていいか。誰が水場を先に使うか。誰の声が一番重いか。そういうことが、空腹のときより鋭くなる。

古老たちは台を作った。骨を並べた。それに意味があると、声と身振りで伝えた。他の者たちはそれを受け入れた。受け入れない者は、やがて受け入れるか、いなくなるかした。

草原の西では、旧人の群れが三日に一度姿を見せる。遠くから見ている。近づかない。人々も近づかない。お互いが視界の端にいる、その状態が続いている。

その者は今夜、集団の外にいる。

崖の手前の窪みを出て、どこかに向かって歩いている。空を見上げながら。腹を鳴らしながら。足が向く方向に。

与えるもの

骨に触れた。

並べ直そうとした。

それだけで、足が速くなければ今頃地面に横たわっていた。

光を、頬に向けた。細く、温かく、あの星の方角から。この者は止まった。空を見た。

見た。それだけだ。

もっと遠くを見せたかった。草原の向こう。旧人が歩く岩場。水が三日かけて海に注ぐ場所。見せたかったものはたくさんある。

しかし今夜はこの者の足が動き続けることが先だ。

どこに向かうかは、まだわからない。渡せるものも、まだ決めていない。この者が夜を越えてから考える。

伝播:HERESY 人口:399
与えるものの観察:骨に触れただけで追われた。足の速さだけが残った。
───
第1451話

紀元前292,755年

第二の星とその者(39〜44歳)

川の南側で、水が二つに分かれる場所がある。分かれた先の片方は岩を削って深くなり、もう片方は浅く広がって泥地になる。泥地の縁に草食の大きな獣が集まる季節がある。今年は獣の数が多い。

その者は走っている。横から来る合図を聞いて方向を変える。足の裏が乾いた土を蹴る。前にいる者が腕を振り下ろすのが見えて、その者も槍を構える。獣が倒れたとき、息が喉の上のほうで震えている。胸ではない。喉だ。声を出そうとして出さなかった、その残りが喉に溜まっている。

泥地の向こう、川の深いほうの岸に別の集団が来ている。毛並みが違う。顔の骨が厚い。声の出し方が低く、長い。以前はこの季節に重なることがなかった。水が多いから両方の集団がここに来る。獣も多い。だが水場は一つしかない。

その者は肉を運ぶ。肩に載せた塊から血が腕を伝い、肘から地面に落ちる。点々と赤い跡がつく。背後で年長の者が声を上げている。低い声だ。向こう岸を見ている。その者も見る。四つの影が水場の近くに立っている。槍は持っていない。持っているのは、長い骨のようなものだ。

この年、集団の子どもは十一人いる。うち三人は歩けるようになったばかりで、母親の後をよろめきながらついていく。火の周りに座れる者の数が増えた。夜の声が増えた。歌のようなものが重なる夜がある。誰かが始めて、別の者が真似て、少しずれて重なる。

その者は水を汲みに行く。日が傾く頃だ。泥地の端に膝をつき、両手で水をすくう。指の間から漏れる。もう一度すくう。水面に映るものがある。自分の顔ではない。向こう岸に立っている者の影だ。大きい。動かない。その者は水を飲み、立ち上がり、背を向ける。

三歩で振り返る。

まだ立っている。

二つの集団が同じ獣を追う日が来る。追い込みの方向がぶつかる。声が交錯する。片方の声は高く短い。もう片方は低く長い。獣は混乱して泥地に突っ込み、動けなくなる。両方の集団が泥地の縁に立つ。槍を持って。

獣を見ている者がいる。相手を見ている者もいる。

その者は槍を持ったまま泥に片足を踏み入れている。獣がもがく音がする。濡れた重い音だ。向こう側から一人が泥に入ってくる。顔の骨が張り出していて、目が奥にある。その者より背が低いが腕が太い。

二人とも獣を見ている。

獣の首に、その者の槍が先に届く。押し込む。獣が跳ねて、泥が飛ぶ。顔にかかる。目を拭う間に、向こうの者がもう一本の槍を腹に刺している。

獣が動かなくなる。二人は泥の中に立っている。膝まで沈んでいる。

その夜、火の周りで年長の者が声を上げる。長い声だ。繰り返す。他の者が同じ声を返す。その者は声を返さない。泥を落とした腕を見ている。獣の血と泥が混ざった跡が爪の間に残っている。向こうの者の腕にも同じものがついていた。

温かい水が湧く場所がある。岩の割れ目から出て、小さな溜まりを作っている。そこに生える苔を、集団の年長の女が傷口に押しあてることがある。疫病の後、腫れが引かなかった者の腕にも押しあてた。効いた者もいた。効かなかった者もいた。苔はまだそこに生えている。

その者が温かい溜まりの近くを通ったとき、水面が揺れた。風はなかった。地面から何か小さな振動があったのか、それとも水脈が動いたのか。揺れた水面に、苔の緑が波打って見えた。

その者は立ち止まった。

足元の石を一つ拾った。温かい石だった。手のひらに収まる大きさで、片面が滑らかだった。

持って帰った。何に使うかは決めていなかった。

泥地の獣をどう分けたかは、誰も決めなかった。片方が前脚を引き、もう片方が後脚を引いた。内臓はその場に残った。翌朝、鳥が集まっていた。

夏が過ぎて、向こう岸の集団が移動する。北へ。足跡が泥地の縁に残って、雨で消える。その者は足跡が消える前にそこを通る。自分の足を重ねてみる。小さい。幅が違う。指の開き方が違う。

集団の中で争いが起きている。獣が多い年は余裕がある。余裕があると、誰が先に食うかで声が上がる。年長の者が二人いて、火の位置が二つになる夜がある。子どもたちはどちらの火に行くか、母親についていく。その者はどちらの火にも座らず、少し離れた場所で温かい石を握っている。

冬の前に、集団の年若い女が一人、崖の上から落ちた。足を滑らせたのか、追われたのかは誰も見ていない。下で見つかったとき、頭の形が変わっていた。その者が降りて運び上げた。背負ったとき、体がまだ温かかった。重さが生きている者と同じだった。

集団が歌う夜がある。崖から落ちた女のために歌うのではない。歌は前からあった。ただこの夜は、声が一つ少ない。その欠けた分が、空気の中で場所を取っている。何もない場所が聞こえる。

その者は四十二の夏を越えた。膝が痛む日がある。走れる。走れるが、以前のように方向を変えるとき膝が鳴る。小さな音だ。自分にしか聞こえない。

温かい石はまだ持っている。寝るときに腹の上に置く。理由はない。

翌年、向こう岸の集団が戻ってくる。前より少ない。子どもが一人もいない。大人の数も減っている。水場に来るが、獣は追わない。泥地の縁に座って、長い低い声を出している。声の終わりが上がらない。ずっと下がっていく。

その者は水を汲みに行く。向こう岸の者が一人、同じ溜まりに手を入れている。目が合う。目の奥が深い。骨の影がかかっている。その者は水を飲む。向こうの者も飲む。どちらも立ち上がらない。

しばらくして、向こうの者が口から音を出す。低い。短い。一つだけ。

その者は同じ音を返す。声の高さが違う。向こうの者が首を傾ける。

それだけだった。

年長の者の片方が死ぬ。朝、火のそばで横になったまま起きなかった。体が冷えていた。もう片方の年長の者が、死んだ者の火を自分の火に寄せた。二つの火が一つになった。集団はまた一つの輪になった。

四十四の夏。その者は温かい石を、集団の中で一番小さい子どもの手に持たせる。子どもは舐める。舐めて、投げる。その者は拾って、もう一度持たせる。子どもは今度は握ったまま眠る。

その者は手を開いて見る。石があった場所の手のひらが白い。

与えるもの

水面を揺らした。

風ではなかった。

この者が温かい石を拾ったとき、それが正しかったのかは問わない。ただ、拾わなかった石のほうが鋭かった。

あの者は石を子に渡した。滑らかな面を上にして。

二十五年前、骨を並べた台に誰も触れなかった。あれは畏れになった。今この者が渡したのは温もりだ。同じ手から出たものが、まったく違うものになる。

渡した石が、武器にならなかった。
それだけで十分かと問えば、十分ではない。
あの泥地で、二本の槍が一頭の獣に刺さった。あれは分かち合いだったのか、奪い合いの始まりだったのか。

次に渡すなら、声だ。あの水場で交わした一音。高さの違うあの音。あれがどこに流れていくか、見届けたい。

伝播:DISTORTED 人口:409
与えるものの観察:石は温もりとして渡された
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第1452話

紀元前292,750年

第二の星

北の高地では雪が溶けず、岩盤が露出している。風が一方向から吹き続け、草は根元から曲がったまま育ち、二度と真っ直ぐにならない。そこに三十ほどの者たちがいる。毛皮を何枚も重ね、洞窟の入り口に獣脂を燃やす。子が生まれるが、冬を越せない子が多い。

東の低地では別の集団が水辺に沿って動いている。同じ種だが、喉から出る音がわずかに違う。出会えば交換をする。肉と石、皮と木の実。しかし今年は出会いがない。どちらも近づいていない。

始まりの大地の西端、乾いた丘の向こうに、もうひとつの集まりがある。小さい。二十に満たない。他の集団から離れ、岩の陰に火を焚く。彼らの声は他と似ているが、身振りの向きが逆だ。右手を上げるところを、左手で示す。なぜそうなったか、彼ら自身も知らない。

始まりの大地の中心部では、豊かさが積み重なっている。獣は多く、実は実り、子どもたちが走り回っている。しかし夜になると、男たちがある一点を挟んで向き合うことがある。声は低く、手には何も持っていない。持っていないが、指が何かを探している。

火の煙が、それぞれの場所から真っ直ぐ上に伸びている。風がない夜だ。

与えるもの

男の足が地面を踏むたびに、振動が走る。

その振動の中に、別の振動が混じっていた。遠い。だが同じ地面の下から来ている。与えるものは男の足裏に、その微細な差異を届けようとした。足元から、熱でも冷えでもない、低い震えが這い上がる感覚として。

男は気づいた。気づいたが、走ることをやめなかった。

渡したのは正しかったのか。渡さなければ男の足は止まらなかった。しかし止まることが正しいかどうか、与えるものには判断の道具がない。次に渡すべきものが、すでに別の形を持ち始めている。男が立ち止まった先で何と出会うか、それによって形が変わる。

その者(44〜49歳)

男の足は速い。

それは二十年前からそうだ。子どもの頃から足が速く、集団の中でそれだけが誰にも疑われない役割になった。追う。逃げる。運ぶ。足が仕事だった。

泥地の縁を大きく迂回し、乾いた草の上に出た。獣の臭いが濃い。風は南から来ている。男は鼻で確認し、腕を下げ、歩幅を小さくした。

草の揺れ方が変わった。

一瞬だけ、足の裏が地面の別の何かを拾った気がした。振動ではなく、揺れでもなく、何か重いものが遠くで動いている感覚。男は立ち止まった。右の足だけ上げ、もう一度下ろした。同じ感覚はなかった。

立ち止まったせいで、獣の群れの一頭が顔を上げた。

男と獣が互いを見た。その間に集団の他の者たちが迂回を終え、反対側の草むらから音を立てた。獣の群れが動き始めた。男は走った。

狩りは長くなった。一頭が大きな岩の割れ目に入り込み、出られなくなった。男が近づき、重い石を両手で持ち上げ、頭を潰した。温かいものが飛んで顔にかかった。男は顔を拭わずに、次の作業に移った。

夜、肉が分けられた。男は自分の取り分を持って、集団の端の方に座った。火から少し離れた場所だ。

骨についた肉を歯でこそいでいると、昼の感覚が戻ってきた。足の裏に来た、あの重いものの気配。男にはそれを誰かに伝える言葉がない。声でも身振りでも、あの感覚を別の者の中に入れることができない。

男はその感覚を、食べた後も、火が低くなっても、ひとりで持っていた。

夜が深くなり、集団の向こう側で低い声がした。男たちが何かを巡って向き合っている。腹の底に響く声だ。昼の獲物の大きさを誰が決めたか、誰がどの位置にいたか、そういうことが夜になると膨らむ。

男には関係なかった。足が速い者に、位置を争う理由はない。

ただ、その声を聞きながら、男は地面に手のひらを置いた。昼に足の裏が拾ったものを、手でも探してみようとした。

地面は冷たく、乾いていた。

何もなかった。しかしそれが何かだったことは、男の中に残った。

伝播:SILENCE 人口:419
与えるものの観察:足が止まった。群れが動いた。繋がりは見えない。
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第1453話

紀元前292,745年

その者(49〜54歳)

走った。

足裏が礫を踏み、痛みが膝まで跳ね上がった。止まらなかった。

後ろに声があった。自分の集団の声ではない。高く、短く、切られたような叫び。十数人か。もっとか。数えている時間はない。

丘の稜線を越えた。斜面を下り、低木の群れに体を滑り込ませた。枝が顔を打った。血が出た。それでも体は止まらなかった。

息が詰まっている。肺が膨らまない。

五日前に疫病で三人が死んだ。腹が膨らんで、皮膚が黄ばんで、声を失ってから死んだ。集団の半数が動けなくなった。その隙に来た。別の者たちが、橙色に塗った棒を持って来た。

水場を取られた。獲物の多い森の縁も取られた。

群れの長は石を持って向かった。戻らなかった。二人が後を追った。一人は片腕から先がなくなって戻ってきた。

その者は長老の女に言われた。

行け。速い足を使え。南の集団のところへ行け。助けを呼べ。

長老の女は、声と身振りで言うべきことを三度繰り返させた。その者は三度繰り返した。

そして走り始めた。

水を持っていなかった。

走りながら、喉の奥が革のように固くなっていくのを感じた。日が西に傾いた。影が長くなった。斜面の下に沢の音があった。

その者は立ち止まった。

音だけを聞いた。

水の音だけがした。棒を打ち合わせる音も、追う足音も、もうなかった。

藪を掻き分けて沢に下りた。顔を水に突っ込んだ。冷たさが頭の中まで入ってきた。

飲んだ。飲み続けた。

腹が満たされたとき、はじめてその者は川岸の石を見た。

赤い縞が一本、石の表面を走っていた。

その者はそれを手に取らなかった。

ただ、見た。

長い間、見た。

それから立ち上がり、南へ向かって走り始めた。

足が痛んだ。走り続けた。

夜が来た。走り続けた。

暁に南の集団の火が見えた。その者は声を上げた。身振りで示した。長老の女に繰り返させられた声と身振りを、全部出した。

南の集団の男たちがざわめいた。

その者はそこで膝をついた。

膝をついたまま、倒れた。

地面が温かかった。それだけを感じた。

日が昇る前に、胸が動かなくなった。

走り切ったことを、誰も知らなかった。南の集団は朝になると北に向けて出発した。

第二の星

始まりの大地の中央部に、草原と低木帯が交互に重なる丘陵地帯がある。雨季の名残で川は水量を保ち、獣の通り道が幾筋も草を分けている。

この五年間、豊かさが続いた。雨が来るべき時に来た。根菜は深く、果実は重かった。集団は大きくなった。子が生まれ、老いた者が生きのびた。

しかし水場は増えない。森の縁は増えない。集団が大きくなれば、足りないものが見え始める。別の集団も同じように大きくなっていた。

疫病は弱った者から取った。強い者は生き残ったが、数が減った集団は隙を持つ。その隙を見た者たちは、棒を持って来た。

今この時も、始まりの大地のどこかで似たことが起きている。橙色に塗られた棒を持つ者たちがいる。水場を失う集団がいる。速い足で走らされる者がいる。

誰も記録しない。

赤い縞の石は川岸に残っている。水が流れるたびに少しずつ削られ、縞は薄くなっていく。触れた者は誰もいない。

与えるもの

水の音がした方向を示した。

その者は水を飲んだ。それから石の赤い縞を見た。手は伸びなかった。

走って死んだ。渡したものは川底に残っている。

次に来る者が拾うかどうか。それだけが今の問いだ。渡す場所だけは、覚えておく。

伝播:HERESY 人口:414
与えるものの観察:石の縞を見た。触れなかった。次の者へ。
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第1454話

紀元前292,740年

その者(54〜57歳)

夜、集団の外れで眠った。

以前はそうではなかった。中央で眠った。火の近くで眠った。だが今は、火から遠い場所に場所がある。いつからそうなったか、覚えていない。気づいたときにはそうなっていた。

足が遅くなった。

速かった。それが自分というものだった。丘を降りるとき、誰より先に谷底に着いた。獣が逃げる方向を体が先に知っていた。しかし今は、坂の途中で膝が止まる。膝が止まると腰が止まる。腰が止まると全部が止まる。

若い者たちは待たない。

待たなくていい。

昨日、水場に向かう列に加わろうとした。先頭にいた若い者が振り向いた。目が合った。何も言わなかった。目だけで言った。お前は来るな。

その者は列に加わらなかった。

遅れてひとりで水場に行った。飲んだ。手で顔を拭った。水面に自分が映った。老いた顔だった。知っている顔だが知らない顔だった。

三日後、集団が移動した。

その者は後ろについた。後ろからついていくのが今の場所だった。しかし、途中から誰も振り向かなかった。誰も待たなかった。集団は丘の向こうに消えた。

その者は平地に残った。

ひとりになったことに気づくのに、少し時間がかかった。

立っていた。草の中に立っていた。風が草を揺らした。遠くで鳥が鳴いた。腹が少し痛かった。二日前から痛かった。

座った。

草が背中を支えた。空が広かった。雲が西から東へゆっくり動いていた。

手を膝の上に置いた。

骨張った手だった。傷がいくつもあった。古い傷が白く残っていた。この傷はいつのものか。あの獣か。あの岩か。もう思い出せなかった。

腹の痛みが広がった。肋骨の下まで来た。呼吸がすると痛かった。浅く呼吸した。

そのとき、草の匂いが変わった。

雨の前の匂いではなかった。もっと土に近い、深い匂いだった。鼻の奥に入ってきた。

その者は匂いのする方に顔を向けた。

何もなかった。草と地面と空があった。

しかし匂いは続いた。深く、静かに、続いた。

その者はその匂いの中にいた。

それがどういうことか、わからなかった。しかしその匂いの中にいることが、悪くなかった。

草が倒れた。体が横に傾いた。

その者は草の上に横になった。

空を見た。

雲が一枚、ゆっくりと形を変えながら通り過ぎた。

それを見た。

形が変わりきる前に、見るのをやめた。

第二の星

南の湿地で、旧人の一群が夜明けに移動を始めた。泥の上に足跡が列をなした。乾く前に雨が来て、足跡を消した。北の岩棚では、誰かの子が産声を上げた。声が崖に当たって返ってきた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:401
与えるものの観察:匂いを渡した。受け取られたかはわからない。
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第1455話

紀元前292,735年

第二の星とその者(6〜11歳)

乾いた風が、平原を横切る。草は低く、根で地面にしがみついている。雲が来ては去り、雨は気まぐれで、集団は水場のそばに腰を落ち着けていた。

その者は集団の中に、いた。小さく、遅く、声が届きにくい場所にいた。

豊穣が続いていた。木の実は多く、獣の通り道も近く、子が生まれるたびに誰かが歌った。集団は大きくなり、火は複数になり、眠る場所が増えた。増えた分だけ、端が生まれた。

その者は端にいた。誰かが水を持ってくる。それだけが、中央との繋がりだった。

雨の日、浅い窪みに水が溜まった。その者は指で水を突いた。波紋が広がって、消えた。突いた。消えた。また突いた。消えた。

平原の遠く、別の集団の影が見えた。煙が二本、立った。

その者には見えなかった。水面だけを見ていた。

緊張は声に出なかった。出ない場所まで積もっていた。誰かが食料を多く持った。誰かが少なく持った。夜、低い声が火の向こうで続いた。子どもたちは眠ったふりをした。その者も眠ったふりをした。目を開けたまま、火の光が岩に落ちるのを見た。

岩の影が揺れた。

揺れる影の中に、その者は何かを見た。見た、というより、何かが影に向かって息を吸った、という感じだった。

朝、集団の一部が動いた。方向が変わった。獣を追っているのか、水場を探しているのか、その者には分からなかった。分からないまま、ついて行った。歩くのが遅いので、いつも最後だった。

その者の足の裏に、鋭い石の欠片が刺さった。

血が出た。歩けなくなった。集団は止まらなかった。誰かが戻ってきた。子どもではなかった。大人でもなかった。半端な大きさの者が、その者の腕を引いた。

引かれながら、その者は地面を見ていた。血の跡が点々と続いた。

年が変わった。傷は塞がった。足の裏に硬い皮ができた。その者は少し速く歩けるようになった。それでも、端にいた。

集団の中で、何かが割れた。食料を持つ者と持たない者の間で、声が上がった。その者には声の意味が分からなかった。音の形だけが届いた。恐ろしい音の形だった。

その者は岩の陰に入った。岩は冷たく、固く、何も言わなかった。

それで十分だった。

与えるもの

石の欠片が足に刺さる直前、土の匂いが変わった。

乾いた泥の下から、湿った層の匂いが上がってきた。その者の鼻がそれを吸った。足が一瞬、遅れた。しかし止まらなかった。

止まれば踏まなかった。止まらなかったから踏んだ。匂いを渡した。しかし届かなかった。届かなかった渡し方は、次の渡し方の形を変える。

伝播:HERESY 人口:390
与えるものの観察:足が止まらなかった。匂いは届いたが使われなかった。
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第1456話

紀元前292,730年

その者(11〜16歳)

熱は三日目から顔に出た。

頬が赤く、目が光を嫌がった。その者は日向を避けて岩陰に座り、膝を抱えた。集団の誰かが水を持ってきた。その者は受け取った。飲んだ。また横になった。

起き上がれなくなったのは四日目だった。

腸が鳴り続けた。水を飲んでも飲んでも、体が吸わなかった。皮膚が内側から渇いていくような感覚だった。その者は声を出した。単音だった。痛い、の音だった。

誰かが手を置いた。

その者はその手を握らなかった。ただ、そこにあることを知っていた。

五日目、集団の縁で何かが起きていた。低い声、素早い動き。旧人の集団が水場の向こうに現れたのかもしれなかった。あるいは別のことだったかもしれない。その者には届かなかった。岩陰から空が見えた。雲が重く、動いていた。

その者は空を見ていた。

目の焦点が合わなくなった頃、風が岩の端を回り込んだ。温度が変わった。少し、冷たくなった。その者の手が、草の上で開いた。

閉じなかった。

第二の星

水場の向こうで、旧人の集団が動いていた。岩陰に潜む者たちの気配を感じてか、あるいは感じずに。火がひとつ、遠くで煙を上げていた。集団の緊張は空気に混じり、誰も声を上げなかった。争いの前の沈黙と、死の後の沈黙は、外から見れば同じ形をしている。

与えるもの

温度の変化を渡した。冷たい風がその者の手の上を通った。その者は手を開いた。何かを待つように。それだけだった。

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:387
与えるものの観察:手が開いたまま閉じなかった。それだけだ。
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第1457話

紀元前292,725年

第二の星

乾いた季節が続いていた。

草原の縁で、地面が割れていた。ひびは長く、足幅ほどの深さまで土が口を開けていた。水場は遠くなり、集団は朝に動いて昼前に戻る習慣を変えた。

この星の別の場所では、草を食む獣の群れが南へ向かっていた。それを追う集団があった。追えない集団があった。追わなかった集団があった。どれが正しいかをこの星は知らない。ただ、それぞれが動いた。

旧人の一群が、水場の手前の岩の上に座っていた。動かなかった。人類の集団がその水場へ近づき、立ち止まり、引き返した。誰も声を出さなかった。

乾いた風が吹いた。

集団の端に、小さい者がいた。まだ走れる年ではなかった。大人の背から降ろされ、地面に立たされ、また拾われた。それを繰り返していた。

夜、誰かが歌った。言葉ではなかった。音だった。他の者がそれに続いた。歌は集団の形に沿って広がり、やがて消えた。

星が出ていた。

与えるもの

糸が繋がった。

その者はまだ何も知らない。知らなくていい。

夜、集団が歌っているとき、歌の音の中にひとつ、低く長い音があった。その音がその者の耳に触れた瞬間、その者の体が止まった。

その者は泣くのをやめた。

それだけだ。渡せたかどうかはわからない。ただ、止まった体の中で何かが起きていた。次に何を渡せるか、まだ見えない。見えないまま、続ける。

その者(2〜7歳)

背中が揺れていた。

大人の背で、その者は運ばれていた。顔は横を向いていた。耳が大人の肩の動きに当たるたびに、鈍い音がした。

地面が見えた。地面が消えた。地面が見えた。

夜になった。

降ろされた。その者は立った。足の裏に砂が刺さった。口を開きかけた。

歌が来た。

上からではなかった。横からだった。誰かの口から出た音が、夜の空気の中を動いてきた。低くて長かった。その者の耳の奥まで入ってきた。

泣くつもりだったのに、泣かなかった。

体が固まっていた。口が閉じていた。音が続いていた。別の声が重なった。また別の声が重なった。

その者は座った。誰かの足元に。

音の中にいた。眠くなった。眠った。

朝、地面が冷たかった。誰かの腕の中にいた。空が白かった。その者は空を見た。

声を出した。

音だった。歌ではなかった。ただの音だった。

伝播:NOISE 人口:398
与えるものの観察:音が体を止めた。意図したわけではない。
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第1458話

紀元前292,720年

その者

砂が口に入った。

前の者の足が石を蹴り、土が舞い、その者は口を閉じるのが遅れた。集団は急いでいた。北から別の群れが来ると、大きな声の者が腕を振って知らせた。その者には意味がわからなかった。ただ大人たちの足が速くなり、子が抱き上げられ、火の守り役が燃え残りを革袋に押し込むのを見た。

走った。

岩盤の続く細い道を、前の者の背中だけを見て走った。膝が痛かった。一度つまずいて手をついた。石の角が手のひらに食い込んだが、血は少しだった。立ち上がった。走った。

岩陰に集まった。

十数人が岩の張り出しの下に体を押し込んだ。大人が子を後ろに押しやり、自分たちが前に並んだ。その者は背の高い女の腰のあたりに顔を押しつけた。皮の匂いがした。汗の匂いがした。

北の方から声が来た。

その者の知らない声の作り方だった。低く、途切れなく、胸に響くような音だった。自分たちの集団の声とは違った。その者は女の腰から顔を離し、隙間から外を見た。

額の出た者が三人、岩盤の上に立っていた。

背が高かった。肩が広かった。持っていた木の先に石が結びつけてあった。その者の集団の長が声を出した。腕を上げた。手のひらを相手に向けた。北の者のうちの一人が同じように腕を上げた。

しばらく声が続いた。

その者には何も聞き取れなかった。ただ声の高さが変わるのを感じた。低い声が続くとき、後ろの大人たちの体が固くなった。声が上がるとき、少し緩んだ。その者は自分の体がそれに合わせて変わることに気づかなかった。ただ、手のひらの傷がじくじくと痛んだ。

北の者たちは去った。

岩盤から降りて、来た方向へ戻っていった。その者の集団は動かなかった。長がしばらく立ったまま北を見ていた。それから振り向き、何かを言った。大人たちが動き始めた。

その夜、火を囲んで声を重ねる者たちの中で、その者は手のひらの傷を舐めた。血の味はもうなかった。かわりに土の味がした。

かさぶたが始まりかけていた。

その者は傷の縁を爪で触った。痛かった。もう一度触った。やはり痛かった。

それをやめて、空を見た。

星が出ていた。その者には星の名前がなかった。ただ光る点として、そこにあった。

第二の星

乾いた台地の東に、水が湧く窪みがある。

ここ数年、水量が減っていた。底に溜まる水は昼になると泥の匂いを立て、夕方には縁が乾いて亀裂が入った。それでも水はあった。

この台地で人の集団がいくつか動いていた。それぞれの集団は似た場所に水を求め、似た時期に移動し、似た方向で獲物を追った。距離があるうちは干渉しなかった。しかし乾季が長引くと、似た場所への圧力が重なった。

北の額の高い者たちは、この台地をずっと前から使っていた。

皮の張り方が違った。石の割り方が違った。声の作り方が違った。しかし水場を探し、獲物を追い、子を守るという動きは同じだった。両者はこれまでも、腕を上げ、声を交わし、向きを変えてきた。今日もそうだった。

この星の別の場所では、水が地中深くに引いていた。獣の群れが去った草原では、草が根を縮めていた。大きな変化は静かに広がる。集団の者たちには見えない範囲で、世界の形が変わりつつあった。

その者が空の光る点を見ている間も、台地の亀裂は一ミリずつ広がっていた。

与えるもの

手のひらの傷に、光をひとすじ落とした。

夜の火からではなく、別の方向から来る冷たい光だった。その者は空を見た。

傷を見なかった。

傷には形があった。縁と、内側と、これからかさぶたになるものの始まりと。この者はまだそれを知らない。しかし指で触れた。痛みで知ろうとした。それは何かに似ていた。遠い別の場所で、別の者が同じことをした記憶がある。その者も痛みで触れた。そしてある朝、傷が塞がっていた。

今この者は空を見ている。

傷の代わりに光を見ている。

次に渡すのは傷ではなく、傷が消えたあとに残るものだろうか。それとも光を見続けることの先にあるものだろうか。まだわからない。わからないまま、光は降り続ける。

伝播:DISTORTED 人口:408
与えるものの観察:傷に光を当てたが、その者は空を見た
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第1459話

紀元前292,715年

その者(12〜17歳)

17歳の初め、その者の膝が動かなくなった。

前の日まで動いていた。水場まで歩いて、戻ってきた。それだけだった。朝になると、立とうとして、立てなかった。

集団の中に、老いた女がいた。その者より先に生まれ、その者より長く生きていた。その女が近づいて、膝に触れた。何も言わなかった。

その者は地面に座ったまま、火を見ていた。

火は朝から燃えていた。誰かが夜通し木を足し続けた。煙が横に流れた。風は北から来ていた。集団が急いでいた理由を、その者はまだ理解していなかった。

二日目の夕方、その者は横になった。

草が耳に当たった。虫が鳴いていた。遠くで子どもが転んで泣いた声がした。その者は目を開けたまま、空を見た。

雲がなかった。

星が出た。その者は指を上げた。指差したのではない。ただ手が上がった。どこへ向けているのかわからなかった。

三日目の朝、老いた女がまた来た。

水を含ませた草の束を口に当てた。その者は飲んだ。少し。それから女の手を握った。細い指だった。女は動かなかった。

風が止んだ。

その者の手が、力を失った。女は手をそのまま持っていた。しばらく。それから、そっと地面に置いた。

集団の誰かが声を上げた。長い声だった。それが何を意味するのか、その者はもう聞いていなかった。

草が揺れた。

第二の星

北から来た群れは川の手前で止まった。大きな声の者と別の群れの者が向き合った。石を持った手が上がり、下がった。川の水が足首まであった。どちらも渡らなかった。夜になり、両者は火を焚いた。火は別々に、並んで燃えた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:NOISE 人口:418
与えるものの観察:手が上がった。どこへかはわからない。
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第1460話

紀元前292,710年

その者

夜が明ける前に火が消えた。

その者は気づかなかった。丸まって眠っていた。岩壁と体のあいだに押し込んだ腕が、夜のうちに痺れていた。

明るくなって、煙がないことに気づいた。

立った。走った。集団の中の年かさの者たちが起き出す前に、炭をかき集めて、息を吹き込んだ。指が黒くなった。煙が出た。炎が戻った。

誰も見ていなかった。

その者は手を膝で拭って、集団の外れに座った。腹が鳴った。今朝は採集の番ではない。火の番だった。昨日は草の実を袋に集めて、年かさの雌の前に置いた。受け取られた。それだけだった。

陽が上がってくると、集団の中に動きが起きた。旧人の群れが近くにいる、という話が身振りで回った。単音が続いた。誰かが地面を叩いた。誰かが子を抱きかかえた。

その者は火の傍に残った。

旧人は、この集団より背が低く、頭の形が違った。ときどき食料の近くで鉢合わせた。睨み合いになって、どちらかが退いた。去年は一度、石を投げ合った。誰かが怪我をした。それ以上にはならなかった。

この日の旧人は違った。

数が多かった。子も混じっていた。その者は遠くから眺めた。旧人の中に、背中に何かを負った者がいた。干した皮のようなものだった。その者は目を細めた。自分たちも似たものを使う。

旧人の雌の一頭が、こちらを見た。

目が合った。

その者は動かなかった。雌も動かなかった。長い時間、そういう状態が続いた。

それからその者は、視線を火に戻した。

午後になって、旧人の群れは移動した。集団の中の年かさの雄が、石を持って追いかけようとした。別の年かさの者が腕をつかんで止めた。短い押し合いがあって、追いかける者が引き下がった。

夕方、その者は食料の分配から少し離れた場所に座っていた。受け取った実を口に入れた。硬かった。奥歯で潰した。苦みが出た。飲み込んだ。

夜になると、集団の中の誰かが声を出した。低い音で、繰り返す声だった。歌とも唸りともつかない。子どもが一人、その声に近づいて、膝の上に座った。

その者は火の向こうからそれを見た。

岩を拾った。置いた。また拾った。

第二の星

霧が出ている。

始まりの大地の南の端では、草地が乾いていた。水場を知っている者が水場を教えない。水を持って帰った者は集団の中で力を持つ。力を持てば食料の分配で前に立てる。前に立てば子が育つ。そういう時代だ。

北側では別の話がある。旧人と現生の者とが同じ洞窟の入り口で眠った記録がある、とは言えない。記録はない。痕跡がある。二種の焚き火の跡が、十歩も離れていない場所に残っている。誰が先にいたかはわからない。誰かが去った後に誰かが来たのかもしれない。あるいは同じ夜に並んでいたのかもしれない。

東の崖沿いでは子どもが一人消えた。崖から落ちたのか、獣に持っていかれたのか、わからない。親の者が三日、崖の縁を歩き続けた。四日目に歩くのをやめた。

集団の中で、境界が問題になっている。旧人をどこまで近づけるか。石を投げるべきか。退くべきか。まだ言葉がない。身振りと単音で言い合う。結論は出ない。また同じことを繰り返す。

418人が、この大地に散らばっている。互いを知らない者たちが、同じ霧の下にいる。

与えるもの

旧人の雌の目が、その者の目の方向を向いたとき、光が一瞬、その者の側から差した。

その者は動かなかった。

その目の中に何があったか。恐れか。それとも別の何かか。私にはわからない。わからないが——次に渡すべきものは、もう決まっている。この者はまだ13歳だ。あと5年がある。

伝播:HERESY 人口:406
与えるものの観察:旧人の目を見た。動かなかった。
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第1461話

紀元前292,705年

第二の星

大地の腹の底で、何かが動いた。

割れ目は最初、細い線だった。草の根が断ち切られ、虫が地面の外へ這い出してきた。それからしばらく、何もなかった。ただ、鳥が飛ばなかった。朝になっても、いつもの声がなかった。

遠く、水平線の向こうに連なる高い山のひとつが、胸を開いた。煙ではなかった。光が噴き出した。灼けた石が弧を描いて落ち、草に触れた草が燃え、風がそれを運んだ。

揺れは三度来た。

最初のもので岩棚が崩れ、二度目のもので水場の泥が浮き上がり、三度目のもので眠っていた者のうちの何人かが、そのまま起き上がらなかった。声を上げる間もなかった。岩が、崩れてきた。

灰は三日かけて降った。白くはなかった。薄い赤みを帯びた灰色で、舌の上に乗せると金属の味がした。

生き残った者は、集団のかさがひとまわり小さくなっていることに気づいた。数えるという行為はなかった。しかし体が知っていた。肩と肩の間の距離が、前より広くなっていた。

遠く離れた場所では、別の人びとが別の水辺に沿って歩いていた。灰のことを知らなかった。空が少し白くなったと思っていた。

与えるもの

地が揺れる直前、土の温度が変わった場所があった。

一箇所だけ、地面が他より温かかった。足の裏で感じられる差だった。その者がそこに立っていた。

その者は足を動かした。温かい場所を離れた。

その後、その場所に岩が落ちた。

渡したのは温度だった。足の裏への問いかけだった。この者は体で受け取り、考えずに動いた。考えずに、というところが引っかかる。次に渡すものは、考えさせるものでなければならないのかもしれない。それとも、考えない体のほうが、考える頭より先に生きているのか。

その者(18〜23歳)

揺れが来たとき、その者は立っていた。

水を運ぶための器を両手で持っていた。器の中の水が揺れた。水が揺れているのに、まだ足が感じていなかった。それから地面が来た。膝から崩れた。水が土にこぼれた。

立ち上がろうとして、また揺れた。

岩棚の方向から音がした。重い音だった。砕けるのではなく、押し潰すような音だった。その者は音がした方を向かなかった。向かずに、低いまま這いずって、音と反対の方向へ動いた。

声が上がった。集団の中心から、高い声だった。

その者は立った。走った。中心へ向かわず、低い地形の方へ走った。なぜそちらへ走ったかを、この者は知らない。足が知っていた。

灰が降り始めたのは夕方だった。

口に入った。吐き出した。目が痛かった。集団の中の、声の大きい者が皮を頭に被せた。その者も端切れを顔に当てた。呼吸するたびに布が口に吸い込まれた。

夜、火を起こそうとした。

火打ち石に角を当てた。火花が散った。灰が混じった草は、燃えなかった。もう一度やった。火花が散り、また消えた。集団の中で、火を管理する役の者が来た。その者の手から石を取り、別の乾いた草を探してきて、繰り返した。七度目に火がついた。

小さい火だった。灰が降る中でも、消えなかった。

その者は火の前に座って、両手を前に出した。手のひらに熱が当たった。熱いものが手の前にある、という感覚だけを感じていた。後ろで、誰かが岩のそばに横たわっていた。動かなかった。胸が上下しなかった。その者はそちらを見なかった。手のひらへの熱だけを感じていた。

朝になった。

灰の中に足跡があった。来た方向へ戻る足跡と、違う方向へ消えていく足跡があった。その者はどちらの足跡も踏まなかった。自分の足跡をつけながら、水場の方へ歩いた。水場の泥が浮き上がっていた。飲めなかった。遠くへ行く必要があった。

誰かに告げようとした。

声が出なかった。喉に灰が積もっていた。身振りで示そうとして、遠くを指さした。集団の中心にいる者は見ていなかった。その者は立ったまま、しばらく腕を上げていた。それから下ろした。

一人で歩いた。

遠くに別の水場があることを、体が覚えていた。去年の移動の時に通った場所だった。着いた。水があった。飲んだ。戻った。

誰も来なかった。

その者は水場のことを、もう一度示そうとはしなかった。また一人で行って、また戻った。三度目に、後ろから幼い子がついてきていた。その者は振り返らなかった。子が転んだ音がした。その者は立ち止まった。子の方を見た。立てるかどうか待った。子が立った。歩き続けた。

伝播:SILENCE 人口:353
与えるものの観察:足の裏が先に知っていた。頭より前に。
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第1462話

紀元前292,700年

その者(23〜26歳)

疫病が来る前から、その者は集団の端にいた。

火の番は夜の仕事だ。薪が細くなる前に太いものを足す。炎が落ちれば、獣が近づく。それだけのことを、その者は三年間続けた。誰かに教わったのではない。炎が何を必要としているか、体が先に知っていた。

疫病が集団を通り抜けたとき、その者も熱を出した。七日、意識が曖昧になった。しかし死ななかった。

それが、良くなかった。

集団の中に、説明のつかないものへの恐れがある。死ぬべきものが死ななかった。その事実が、ざわめきを作った。ざわめきは言葉ではない。目線の重なり方だ。背中に感じる沈黙の角度だ。その者はそれを読めなかったが、足が先に知っていた。近づかれる前に離れていた。

ある朝、その者は集団の寝床から外れた場所で目を覚ました。

誰も追ってこなかった。

川沿いを歩いた。腹が減っていた。水辺の草の根を引き抜いて噛んだ。苦かった。飲み込んだ。膝が痛かった。膝の痛みは疫病の後から続いていた。

川から離れ、岩の多い斜面を登ったところで、足が止まった。

理由はわからない。ただ止まった。

岩の陰に座った。風が斜面を下りてきた。乾いた風ではなかった。土と草の匂いが混じっていた。腐りかけた葉の匂いも。

その者は膝を抱えて、斜面の下を見た。

集団の煙が細く立っていた。

遠かった。あの煙のそばに自分の場所はない、と思ったのかもしれない。思ったのかもしれない、というのは、その者に「場所」という語がなかったからだ。しかし何かが胸の底に沈んでいた。石のように。引き抜けない何かが。

その者は岩にもたれた。

膝の痛みが腰に広がっていた。疫病が体の奥に残したものが、少しずつ広がっていた。熱ではない。力が抜けていく感覚だ。押しても戻ってこない土のような。

風が止んだ。

鳥が鳴かなかった。

岩の表面が温かかった。昼の光が長い時間、そこに積もっていた。その者は岩の温もりに背中を預けた。

目が閉じた。

閉じたまま、開かなかった。

煙は遠くで細く、立ち続けた。

第二の星

斜面の北側では、旧人の集団が水場を争っていた。石を持った者と石を持った者が向かい合い、どちらも動かなかった。川が低く鳴っていた。どちらが先に退いたか、星は記録しない。ただ、夕方までに水場に血の色はなかった。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:352
与えるものの観察:手が上がった記憶が、また来た。
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第1463話

紀元前292,695年

第二の星とその者(6〜11歳)

乾季が三年続いた。

草が黄く、川床が割れ、獣の足跡が水場から遠ざかった。疫病が去った後の集団は静かで、子どもの声が少なかった。残った者たちは移動せず、同じ岩棚の下に留まった。動く力がなかったのか、動く理由が見えなかったのか、どちらとも言えない。

その者は六歳だった。

母親の足の裏を見ていた。ひびが入っていた。歩くたびに赤いものが滲んだ。その者は自分の足の裏を見た。まだひびがない。足の裏に触れた。硬かった。それだけのことが長い時間に思えた。

岩棚の東に、旧い者たちの群れがいた。

体が大きく、眉の骨が厚く、声が低かった。集団の古い男が手を上げると彼らは止まった。石を置くように手を上げた。彼らも石を置くような動作で立った。交換があった。干し肉と、赤い塊石。どちらの側も笑わなかった。それで十分だった。

その者は隅で見ていた。

旧い者たちの中に、自分と同じくらいの背丈のものがいた。目が合った。その者は動かなかった。向こうも動かなかった。先に目を逸らしたのはどちらだったか、記憶の中では決まらない。

八歳になった頃、その者は集団の中で何かを知りすぎていた。

知っていたのは言葉ではない。誰が誰の食べ物を減らしたか。誰が誰の子どもを遠ざけたか。大人たちが声を落として話す時に、その者がそこにいた。子どもだから見えていないと思われていた。子どもはそういう場所にいられる。

ある朝、光が割れ目に落ちた。

岩棚の天井に細い隙間があり、そこから細い光が斜めに伸びていた。その者が目を覚ました時、光は地面の一点に当たっていた。そこに何もなかった。ただ光があった。その者は起き上がらず、しばらく光を見ていた。

また目を閉じた。

十歳になった頃、集団の中で声が割れた。

旧い者たちとの交換が止まった。理由は積み重なっていたが、最後に名前を言ったのは誰かということになった。その名前はその者の近くにいた男のものだった。その者は何も言っていなかった。しかし隅にいた。いつも隅にいた。

子どもが何かを知りすぎているという話は、大人の間で短く済む。

その者は集団の端に連れていかれた。歩いた。足が止まらないように押された。岩を越えたところで手が離れた。振り返ると、男が戻っていくところだった。

その者は動かなかった。

空が赤かった。風が草を鳴らした。遠くで鳥が一羽鳴いた。その者は草の上に座った。膝を抱えた。足の裏を見た。ひびが入り始めていた。

夜が来た。

火がなかった。

与えるもの

糸が繋がった。

足元の草に朝露が残っていた場所を、光が照らしていた。水があそこにあると示した。この者は光を見た。また目を閉じた。

光を閉じる者に、次に渡せるものを考えていた。

この者は排除された。夜の草の上にいる。水の場所を示した。それがこの者に届いていたなら、今夜をやり過ごせるかもしれない。届いていなかったなら、それは示した側の話ではない。

渡したことで何かが変わるのか。

手が上がった記憶がある。岩を拾った記憶がある。繰り返しの中に何かがあるかどうか、まだわからない。ただ次を渡す。光で示せないなら、夜露の冷たさを皮膚に感じさせる。水の方向から風が来ると、この者の体が知るかどうか。

体が知るなら、それで足りる。

伝播:HERESY 人口:343
与えるものの観察:光を見て目を閉じた者に、夜の風を渡す
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第1464話

紀元前292,690年

その者(11〜16歳)

割れ目から風が来た。

その者は岩棚の縁に腹を当てて寝そべり、割れた大地を見下ろしていた。川床はまだ白く、光が痛かった。

集団の者たちは後ろで眠っていた。昼でも眠る。起きていても岩に背を預けて空を見ているだけだ。疫病で倒れた者の場所に、誰も近づかない。その窪みだけ、石が積まれていた。

その者は動いた。

腹を引きずって岩棚の端まで行き、下を覗いた。遠くに旧人の影が三つあった。川床を歩いていた。同じように水を探しているのか、別の何かを探しているのか、わからない。

その者は声を出さなかった。出せなかったのではなく、出さなかった。

風が止んだ。

そのとき、足の裏に温かさが来た。岩の表面が、乾いた熱を皮膚の底まで押し込んできた。その者はしばらくそこに立っていた。動かなかった。

足が何かを覚えていた。

幼いころ、別の岩の上に立ったとき。水が流れる音が聞こえた方角。足の裏が今と同じように熱かった。水があった場所の、岩の感触。

その者は立ち上がった。

旧人の影を見た。川床を見た。割れた地面を見た。それから集団の方を振り向いた。

声を出した。短く、高く。

誰も目を覚まさなかった。

もう一度、声を出した。今度はもっと大きく。

一人が目を開けた。老いた女だった。その者を見た。その者は川床の方角を手で示した。旧人の影を示すのではなく、その先を。

女は首を傾けた。

その者は岩棚を下り始めた。一人で。

足が熱いうちに、行かなければならなかった。

第二の星

この五年、乾季が集団を削ってきた。

川床が割れる前、この集団は百を超えていた。疫病が来て、渇きが来た。残った者たちは静かに、同じ岩棚の下に縮んだ。動かなかった。動けなかった。どちらが正しいかは、この星には関係がなかった。

旧人は川床を歩いていた。彼らも水を探していた。ただそれだけのことだ。

遠い北の湿地では雨が降り始めていた。川の上流で、岩が崩れた。水の道が少し変わった。半月後、その変化は下流に届く。届かないかもしれない。

この星はそれを知っていた。川床の白さも、岩の熱さも、旧人の影も、一人で斜面を下りていく小さな者も、等しく照らされていた。

集団の中で動いたのは、その者だけだった。

老いた女は岩棚から眺めていた。その者が斜面の下に消えるのを。

この五年でその者は長くなった。足が速くなった。それだけが目に見える変化だった。内側で何が積もっているか、この星にも測れない。

与えるもの

足の裏に、熱を落とした。

その者は立ち上がった。一人で斜面を下りた。水があるかどうかはまだわからない。

前の星でも、足が動いた者がいたか。

いた。動いたまま、戻らなかった。

この者が戻るかどうかは、まだ見えない。渡すべき次のものは、崖の下にある。水か、岩か、旧人の視線か。その者が何に触れるかで、変わる。

伝播:SILENCE 人口:358
与えるものの観察:足裏の熱が、記憶と動きをつないだ