2033年、人類の旅

「紀元前292,685年〜紀元前292,565年」第1465話〜第1488話

Day 62 — 2026/06/04

読了時間 約55分

第1465話

紀元前292,685年

第二の星

北の稜線では、雪が積もった岩棚から雪崩が落ちた。音は谷に響き、二日間消えなかった。その麓に暮らしていた一群は、荷物を抱えて東に移動した。子どもを背に負った者が先を歩き、老いた者が後ろをついた。

南では乾季が長く続いていた。川が細くなり、底の砂が白く乾いた。水辺に集まる獣の数が増え、そこに人の集団も寄った。旧人の群れと人の群れが、同じ水場で向かい合う日が続いた。どちらも飲んで、離れた。

海岸線では、潮が引いた浜に貝が打ち上げられた。子どもたちが拾い、火で炙って食べた。老いた女が子どもの背丈を岩に刻んでいた。去年の刻みより高いところに線を引き、しばらく岩を見ていた。

集団の緊張は、水の匂いのように空気に混じっていた。どの集団も、遠くに人の影を見ると立ち止まった。石を握る者がいた。子どもを後ろに隠す者がいた。しかし近づく者はいなかった。離れたまま、それぞれの方向へ消えた。

与えるもの

煙の匂いが風で運ばれてきた場所があった。
その者は鼻を動かし、しかし立たなかった。
別の集団の煙か、獣が燃えた後か——どちらでも構わないと思っていたか、それともただ疲れていたか。渡したかったのは匂いの方向だった。次に渡すなら、足の判断を待たず先に動く者の何かを見せたい。

その者(16〜21歳)

朝、火が小さくなっていた。

その者は起き上がり、枯れ枝を折った。折り方が悪くて指を打った。痛みより音が先に来た。集団の誰かが寝返りを打ち、また静かになった。

火が戻ると、煙が低くなった。風の向きが変わった証拠だと、その者は知っていた——知っていたというより、体が知っていた。

腹が鳴った。昨日の干し肉はもうなかった。その者は岩の方へ歩き、そこに置いてあった骨を手に取った。舐めた。塩の味だけがした。置いた。

風が変わった側に顔を向けると、遠くで何かが燃えている匂いがした。

鼻の穴が広がった。

立とうとして、膝に手をついた。膝の皮が硬かった。その者はしばらくそのまま、膝の上に両手を乗せていた。

立たなかった。

火の傍に戻り、枝をもう一本折った。今度はうまく折れた。火の中に入れると、先端が黒くなり、赤くなり、炎を出した。その者はそれを見ていた。

集団の中で最初に動いたのは別の者だった。老いた男が立ち上がり、水を汲みに行った。その後ろを子どもが二人ついていった。その者は火のそばに残り、燃える枝の端が崩れていくのをただ見ていた。

匂いはもう消えていた。

伝播:NOISE 人口:376
与えるものの観察:煙の方向へ、足が動かなかった。
───
第1466話

紀元前292,680年

第二の星

東から風が来ていた。

乾いた風だった。石の匂いがした。草の根を揺らさないほど細い風だったが、それが続いていた。三日、四日、五日。風向きが変わらなかった。

北の一群が移動してきたのと、その風が重なった。

東に動いた者たちは、もともとこの斜面に住んでいた集団の縄張りに近いところで立ち止まった。荷を降ろした。火を熾した。子どもが泣いた。老いた者が地面に腰を下ろした。それだけだった。最初は。

南にいた集団のうちの何人かが、その煙を見た。

煙が上がる場所を見る顔と、背を向ける顔があった。背を向けた者が多かった。しかし全員ではなかった。一人が歩いた。次の日、また一人。物を持って行った者もいた。持っていかなかった者もいた。何を持っていけばいいか、誰も知らなかったから。

旧人の集団がいた。谷の下、岩の陰に五人。

彼らはずっとそこにいた。移動してきた集団も、南の集団も、その存在を知っていた。知っていたが、近づかなかった。彼らも近づかなかった。それぞれが互いの輪郭を遠くから確認して、それで済ませていた。長い間、そうだった。

東の風が変わったのは六日目だった。

南に変わった。湿った空気が来た。岩が黒ずんだ。草が重くなった。空が低くなった。

その夜、旧人の一人が谷から上がってきた。

理由はわからなかった。食料を探していたのかもしれない。水場を変えようとしていたのかもしれない。ただ歩いていただけかもしれない。移動してきた集団のうちの若い男が、それを見た。声を出した。低い声だった。叫びではなかった。問いでもなかった。ただ、出た。

旧人は止まった。

男も止まった。

二つの輪郭が、湿った夜気の中でそのまま立っていた。

南の集団の者が一人、その場面を離れた場所から見ていた。火のそばにいた子どもが泣きやんだ。老いた者が空を見上げた。

何も起きなかった。

旧人が向きを変えた。谷に戻った。

男はしばらくそこに立っていた。歩き出す前に、一度だけ振り返った。誰も見ていなかった。

夜が続いた。

南の風は朝まで続き、夜明けに止んだ。東の風が戻ってきた。また乾いた。また石の匂いがした。

昼になって、南の集団から三人が歩いてきた。手に何も持っていなかった。移動してきた集団の一人が立ち上がった。声を出した。低かった。短かった。

三人は止まらなかった。近づいた。

与えるもの

男が立ち止まっていた場所に、夜が明けてから光が落ちた。

地面に、旧人の足跡があった。その隣に、男の足跡があった。並んでいなかった。向き合っていた。

男はその場所を通り過ぎた。一度だけ、歩調が変わった。

その足跡が何を意味するか、渡しようがない。ただ光を落とした。それが全てだ。次に渡すべきものが、まだ見えていない。

その者(21〜26歳)

三人が歩いてくるのを見ていた。

立つべきか。座ったままでいるべきか。決められなかった。

結局、立った。理由はなかった。体が先に動いた。

その者は、自分が立ったことの意味を知らなかった。

伝播:NOISE 人口:389
与えるものの観察:足跡は残る。意味はまだない。
───
第1467話

紀元前292,675年

第二の星

湿った岩盤の上に、集団がいる。

川が曲がる場所。内側に砂が積もり、外側は切り立った壁になっている。雨季が終わって三週間。地面はまだ水を含んでいる。踏むたびに足跡が残り、すぐに水が染み出してくる。

東の丘の向こうに、別の集団がいる。同じ種ではない。骨格が重く、眉骨が張り出している。子どもたちが混じって遊んでいた場所が、ある日から静かになった。大人たちの間で何かがあった。声が上がり、物が投げられた。傷を負った者が一人、砂地に膝をついた。その夜は動かなかった。翌朝も動かなかった。

北の岩陰では、老いた女が皮をなめしている。干した皮に油を擦り込む。手が荒れている。爪が割れている。それでも止めない。皮がやわらかくなるまで擦り続ける。

川の西岸、子どもが三人、泥の中に棒を刺して遊んでいる。引き抜くたびに穴が残る。しばらくして水が溜まる。子どもの一人がそれを覗き込む。水面に顔が映っている。

与えるもの

川岸の砂に、光が落ちた。

朝の光が水面で跳ねて、その者の足元にある石に当たった。赤みを帯びた石だった。断面が鋭く欠けていた。

その者は石を拾った。なめた。置いた。別の石を拾った。

欠けた石を手放した。それでよかったのか、まだわからない。次は光ではなく音で示すべきだったかもしれない。だが渡す前に渡し方を考えすぎると、何も渡せなくなる。

その者(26〜31歳)

川のそばで、その者は石を持っていた。

赤みがかった石だった。表面がざらざらしている。欠けた部分が光を受けていた。なぜ拾ったのか、理由はなかった。光が当たっていたから。それだけだった。

舌で舐めた。鉄の味がした。

置いた。

少し離れて、また拾った。

今度は欠けた縁に指を当てた。薄い。親指を滑らせると、皮が一筋、白くなった。血は出なかった。もう少し力を入れると、出ると思った。出なかった。

川のほうから声がした。子どもの声だった。

その者は立った。石を川に向かって投げた。水面に当たって沈んだ。

岸に近づいた。子どもたちが泥に穴を掘っている。水が染み出している。その者は穴の縁にしゃがんだ。指を突っ込んだ。ひんやりしていた。引き抜くと、穴が少し広がっていた。

子どもの一人がその者を見た。

その者はまた指を突っ込んだ。同じことをした。

子どもが笑った。

その者は笑わなかった。ただ、もう一度やった。

伝播:DISTORTED 人口:398
与えるものの観察:欠けた石を手放した。拾い直さなかった。
───
第1468話

紀元前292,670年

第二の星

北から来ていた。

空気が変わったのは、まず水だった。水が固まった。固まる前に、白いものが空から落ちてきた。落ちることをやめなかった。

始まりの大地では、岩が苔をなくした。苔は岩の下に潜り、そこでも死んだ。木の実が途中で落ちた。落ちた実が土に還る前に、凍った。獣たちの通り道が変わった。何年もかけて刻まれてきた蹄の跡が、別の場所に移っていった。

遠くでは、まだ獣たちが走っていた。別の大地に住む者たちが、走る獣の後ろを追っていた。彼らには呼び名があった。自分たちを、川の音に似た言葉で呼んでいた。彼らの火は続いていた。

始まりの大地の集団は、急激に小さくなった。一人が倒れ、その者の体を誰かが引き、引いた者が次の朝に動かなくなった。熱でもなかった。傷でもなかった。ただ、寒さに体が負けた。負ける速さに、集団の意識が追いつかなかった。

川が曲がる場所に残った者たちは、数としてはわずかだった。

この星は、北から南まで、白くなることをやめなかった。

与えるもの

この者の足元の、土の下に根が残っていた。

枯れた草の根だった。白いものに覆われて見えなくなっていたが、根はそこにあった。踏んだときに、わずかに土がへこんだ。その感触がこの者の足の裏に伝わった。

この者はそのまま歩いた。

根を掘ったことがないのか。それとも、この者には根を掘る必要がないのか。いや、まだ問い方が違う。渡したいのは根ではない。見えないものの下に、何かがあるという感触だ。次は土の温度を使おう。土が凍る前後で、温度が変わる場所がある。

その者(31〜36歳)

指が動かなくなったのは、水が固まってからだった。

朝、岩に手をついた。岩が肌に貼りついた。剥がしたとき、音がした。小さな、乾いた音だった。

集団の中で、年長の女が倒れた。倒れる前に、何も言わなかった。立っていた。次の息を吸う前に、膝から崩れた。崩れた体の傍に、誰かが毛皮をかけた。その者も毛皮を持ってきた。持ってきたが、もう必要なかった。

その者は毛皮を抱えたまま、しばらく立っていた。

火の番をしていた男が、その者を呼んだ。声ではなく、動作で。顎を動かして、この方向へ来い、と示した。その者は行った。火の傍に座った。手を近づけた。熱かった。熱いのに、指が動かなかった。

男が何か言った。単語が三つ。その者には二つしか意味がわからなかった。

夜、空に白いものが降り始めた。火が小さくなった。その者は火の上に枝を足した。枝は湿っていた。煙が出た。煙が目に入った。涙が出た。

泣いているのではなかった。ただ、目が煙に反応した。

その者はそのまま煙の中で、枝を足し続けた。

明け方、集団の中の二人が、いなくなっていた。歩いて出ていったのか、運ばれたのか、その者は知らなかった。ただ、朝の人数が夜より少ないことを、体で数えた。

その者は、他の者が残したものに、手をのばした。毛皮だった。重かった。臭かった。引き寄せて、自分の体に巻いた。

足の裏に、かすかな感触があった。

踏んだとき、土がへこんだ。

その者は立ち止まった。もう一度、踏んだ。へこんだ。

しゃがんだ。白いものを、手で払った。手が赤くなった。土があった。土の中に、何かが入っていた。細く、白いものとは違う、黄色みがかった細いものだった。その者は引いた。千切れた。匂いを嗅いだ。何でもない匂いだった。食べられるか食べられないか、わからなかった。

地面に置いた。

立ち上がった。

歩いた。

しかしその日の夕方、その者は川の近くで別の集団の者と出会った。旧い形の、額が出た者たちだった。三人いた。その者の集団に近づいてきた。

その者の集団の男が、声を上げた。

石が飛んだ。

どちらが投げたか、その者にはわからなかった。

石は当たらなかった。しかし旧い者たちは引かなかった。その夜、その者の集団は火を消した。暗くなることで、見えなくなろうとした。

冷えた。

朝が来たとき、旧い者たちはいなくなっていた。しかし別の何かが起きていた。

集団の中の誰かが、その者を見る目が変わっていた。

旧い者たちと同じ方向を見ていた、と言った者がいた。単語だった。身振りがついていた。指ではなく、顎で示された。お前が呼んだ、という身振りだった。

その者は何も言わなかった。

火が消えたから寒かっただけだ、と言う言葉を、その者は持っていなかった。

伝播:HERESY 人口:78
与えるものの観察:根の感触は届いた。しかし次に繋がらなかった。
───
第1469話

紀元前292,665年

その者(36〜37歳)

熱は三日前から続いていた。

体の内側に何かが詰まっているようだった。呼吸するたびに、胸の奥で粘いものが動く感触があった。その者は横になったまま、天井の岩肌を見ていた。ひびが一本、右から左へ走っている。そのひびを、何度も目でなぞった。

集団の者たちは近づかなかった。

近づかないのは恐れからだった。熱の出る者に触れると自分もそうなる、とは言葉にならなかったが、体が知っていた。老いた女が一度だけ水を置いていった。その後は来なかった。

知りすぎた、というわけではない。その者は何も知らなかった。ただ見ていた。集団の長老と、北から来た者たちのあいだで何かが割れていくのを、少し離れたところから見ていた。見ていただけなのに、誰かがこの者の目が気に入らなかった。

岩の陰に転がされたのは、五日前のことだった。

熱は、その後から来た。

その者は時折、起き上がろうとした。腕を岩につき、体を持ち上げようとした。持ち上がらなかった。腕が震えた。また横になった。

口の中が乾いていた。舌が上顎に貼りついていた。

置かれた水はもうなかった。

二日目の夕方、風が吹いた。

その者の頬に当たった。乾いた、冷たい風だった。その者は目を開けた。岩のひびを見た。ひびは変わっていなかった。

風の匂いの中に、煙が混じっていた。遠くで誰かが火を起こしている。その匂いを、その者は吸い込んだ。もう一度吸った。胸が痛かったが、その匂いはよかった。

遠くに人がいる。

それだけを思った。

夜に入って、体が動かなくなった。

呼吸は続いていた。胸が上がって、下がった。上がって、下がった。その者の目は開いたままだった。星が見えた。岩のひびの上に、星がいくつかあった。

その者はそれらを見た。

見ることをやめなかった。

胸が上がった。下がった。次の上がりが、来なかった。

目は開いたままだった。星は変わらずそこにあった。

第二の星

その者が息をやめた夜、平原の低地では旧人の一群が火を囲んでいた。炎は小さく、風に揺れていた。岩の多い斜面では、若い雌の獣が崖を滑り、そのまま戻らなかった。川の上流では氷が割れ、水が音を立てて動き始めた。夜は均等に、すべての上に落ちていた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:96
与えるものの観察:煙の匂いを吸った。届いたかもしれない。
───
第1470話

紀元前292,660年

第二の星とその者(22〜27歳)

乾いた季節が二度巡った。

草原の縁で風が向きを変える頃、集団の中心から少し離れた岩棚に、その者は座っていた。二十二歳。火の番。幼い者たちの声が後ろから聞こえる。石と石を打つ音、誰かが転ぶ音、泣かない笑いのような音。

大地は広い。けれど人が生きる場所は狭い。岩と岩の間、水が滲む場所から遠くない低地。そこに全員が集まって眠り、食い、動く。

その者は火を見ていた。

小さい炎だった。昼の火はいつも小さい。夜になれば大きくしなければならない。それを知っているのは、この集団でその者を含めて数人だった。火が消えたことがある。長老格の者が三日かかって取り戻した。その三日を、その者はまだ体で覚えている。寒さより、集団全体に広がった何か、言葉にならない重さを。

氷の縁が少し後退した年だった。

北の山脈では岩盤が露出し始め、そこに降った雨が集まって新しい流れを作った。草が変わった。厚い葉の植物が減り、細い茎が風に揺れる種類が増えた。動物たちの道も少しずれた。長年の踏み跡が薄くなり、別の場所に新しい跡が生まれた。

集団の中の誰かが気づいた。獣の来る方向が違う、と身振りで示した。半数は聞かなかった。残りの半数が従い、新しい踏み跡の近くに待ち伏せた。

その者は待ち伏せに行かなかった。火の番だったから。

二十四歳になった頃、集団の緊張が変わった。

別の集団が近づいてきた。旧人と呼ぶべき者たちではない。形が似た、しかし微妙に異なる者たちだった。背が低く、眉の骨が突き出ていた。声の出し方が違った。同じ音でも意味が違うらしく、最初の接触で混乱が起きた。

その者は遠くから見ていた。幼い者たちを自分の後ろに集めながら。

相手側の集団にも子どもがいた。その者は気づいた。向こうの集団の女が、こちらの幼い者と同じように子どもを抱いている。

それだけだった。その者の中で何かが止まった。岩を持っていた手が、少し緩んだ。

しかし他の者たちはそうではなかった。

水場の近くで言い争いが起きた。声が大きくなった。石が投げられた。相手側の一人が倒れた。相手側も投げ返した。

その者の集団から二人が傷を負い、相手の集団は退いた。

夜、長老格の者が集まって何かを決めた。その者は呼ばれなかった。

翌朝、隣で眠っていた女が「遠ざかれ」という意味の身振りをした。その者に向けて。

その者は理解できなかった。自分が何をしたのか。

乾季の終わり、水場で奇妙なことがあった。

その者が水を汲もうとしたとき、水面に自分の顔が映った。それは以前にも見たことがある。しかし今日は違った。水面が風もないのにわずかに揺れた。波紋が広がり、顔が歪み、別の顔のように見えた。

その者はしばらく、その歪んだ顔を見ていた。

それが自分かどうか、わからなかった。

二十六歳。

集団の中で、その者に食料が回ってくる量が減っていた。気づいたのはゆっくりとだった。最初は他の者が多く食べているだけだと思った。しかし日が経つにつれ、その者が近づくと会話が止まる場面が増えた。幼い者たちの見張りを別の者に替えられた。

理由はわからなかった。その者に言葉で説明する者は誰もいなかった。

夜、その者は火の端に座った。中心ではなく、端に。炎の光が届かない場所に体の半分を置いて。

空を見た。星がある。その者には星に名前がない。ただ光の点として存在している。

二十七歳の冬。

ある夜、その者は眠れなかった。周囲の者たちの寝息を聞きながら、岩の天井を見ていた。ひびが走っている。右から左へ。

集団の端に向かって歩いた。誰も止めなかった。いや、一人の男が目を開けて見ていた。しかし声を出さなかった。

その者は歩き続けた。闇の中へ。

どこへ行くつもりなのか、その者自身も知らなかった。足が動いた。草が足の裏に触れた。風が左から来た。

冷たかった。

夜明け前の岩場で、その者は崖の縁に立った。下が見えない。暗すぎて。

足が滑った。

滑ったのか。踏み出したのか。

わからないまま、音だけが残った。

与えるもの

糸が繋がったばかりだった。

水面に光を落とした。歪んだ顔が映る場所に。

この者は水面を見続けた。それが何であるか、問う言葉を持たないまま、見た。

渡したかったのはその問いそのものだった。鏡の中に自分以外の何かを見る能力。顔が違って見えた瞬間の、あの静止。

この者はその問いを持ったまま、崖から落ちた。

問いは消えた。いや、消えたのか。

渡したものが行き場を失ったとき、それはどこへ行くのか。次の者に届くのか。岩に染みるのか。風に散るのか。

また渡す。違う者に。違う光の落とし方で。

伝播:HERESY 人口:110
与えるものの観察:問いを持ったまま落ちた。問いはどこへ。
───
第1471話

紀元前292,655年

その者(27〜31歳)

熱が来たのは、乾いた風の吹く夜だった。

その者は火の近くに横になった。幼い者たちが眠っている。いつものように見ている。けれど体が言うことを聞かない。腕が重い。起き上がろうとして、起き上がれなかった。

翌朝、仲間の一人が水を持ってきた。器ではなく、葉を折り曲げたもの。その者はそれを飲んだ。飲んでから、また目を閉じた。

三日が過ぎた。

体の中で何かが燃えていた。火ではない。火は外にあるものだ。これは内側から来る。その者は胸に手を当てた。そこに何かがあるような気がした。熱い。しかし形がない。

幼い者が一人、近くに来て座った。その者の顔を見ている。何も言わない。その者も何も言わない。

風が変わった。

匂いが漂った。腐った草の匂いでも、獣の匂いでもない。乾いた岩と、水と、遠い場所の混ざったような匂い。その者はそちらに顔を向けた。何もなかった。ただ草原の縁に、低い雲が垂れていた。

その者は目を細めた。

何かを思い出そうとしている。岩棚の上で見た光のことか。川の水面に映っていた顔のことか。それが誰の顔だったのか、もうわからない。自分のものではなかったような気がする。

指が動いた。地面の砂を少し掴んだ。

開いた。

砂が風に散った。

その者はそれを見ていた。散るのを見ていた。手のひらが空になった。それでも手のひらを見ていた。幼い者がまだ座っている。その者は幼い者の方を見た。何か伝えようとした。声が出なかった。

出なかったが、幼い者はそれを受け取ったのかもしれない。

あるいは何も受け取らなかったのかもしれない。

夕方、その者の手から力が抜けた。幼い者がまだそこにいた。

第二の星

草原の東で、集団と集団が向かい合っていた。石を持った者と、石を持った者。声が上がった。どちらの声かわからない。誰かが走った。誰かが転んだ。夜になって、両方の集団が別々の方向へ去っていった。血が残った。草が揺れた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:DISTORTED 人口:124
与えるものの観察:砂が散った。渡せたかどうか、まだわからない。
───
第1472話

紀元前292,650年

第二の星

平らな台地の縁、草が短く刈られた斜面で、風が止んでいる。

空の白さが均一だ。雲ではない。光そのものが薄まっている。季節の変わり目に起きることで、台地の上に暮らす者たちはそれを知っている。知っているのではない。体が覚えている。

台地の南側で、別の集団が移動を始めた。大人が十数人、子どもがその半分に満たない。彼らは岩の多い斜面を下り、低地の水場を目指している。乾燥が始まっているのだ。草が黄ばんでいる。獣の足跡が少ない。彼らはそれを読んでいる。言葉にはしていない。ただ動いている。

台地の北側では火が残っている。

前の夜から燃え続けている火で、管理する者が動けなくなってから、若い者が二人、代わりに木を足している。正しいやり方を知っているわけではない。見ていたから、やっている。

台地の東の外れ、岩が重なった場所で、旧い顔立ちの者が一人、日向に座っている。この集団の者ではない。遠い縁のある顔だ。その者はこちらを見ていない。石を手の中で転がしている。

転がしている。

風が再び吹いた。草が揺れた。揺れだけが残った。

与えるもの

糸が繋がった。

この者は知らない。

体が動かなくなってから三日が経つ。

火の匂いがある。この者はそれを嗅ぐことができている。まだ生きている証だ。

今夜、焦げた木の端に残った炭の白さを、この者の視界の端に落とした。特別なものではない。ただそこにある炭だ。

この者の目がそこに留まった。

留まった、それだけだ。炭を使おうとは思わなかった。何かをしようとも思わなかった。ただ見た。

渡し損ねたのか。あるいは今はそれで十分なのか、わからない。ただ次に渡すものがある。この者の目がまだ動いているうちに。

その者(40〜45歳)

背中が地面に沈んでいる。

沈んでいる感覚がある。岩ではなく、土の上に敷かれた皮の上だ。誰かが敷いた。覚えていない。気づいたらそこに寝ていた。

天井が見える。岩の庇。

その下に空がある。白い。

喉が乾いている。乾いているのに飲もうとする力が出ない。水を運んでくる者がいることはわかっている。足音でわかる。足音の主の体重がわかる。軽い。子どもだ。

子どもが水を持ってくる。

器が唇に当たる。冷たい。飲む。半分こぼれる。こぼれた水が首筋を流れる。その感触だけがはっきりしている。

夜、火の匂いが強くなった。

誰かが木を足した。燃え方が変わる音がした。高く上がった炎の光が、庇の岩の面を赤く染めた。染まった岩の色を見た。見ながら、炭のことを思った。

炭ではない。炭が白くなったものだ。焼き切れた後の白さ。それが何故か頭に残っている。

残っている理由はわからない。

ただ残っている。

夜が深くなる。足音が遠ざかる。火が小さくなる。小さくなった火の音を聞きながら、この者の呼吸が変わった。速くなったのではない。浅くなった。

浅くなったまま、続いた。

続いた。

伝播:NOISE 人口:140
与えるものの観察:目が動いている間に渡す。それだけだ。
───
第1473話

紀元前292,645年

その者(45〜46歳)

岩の割れ目に火を置いた。

風が来たとき、火は寝た。その者は身を屈めて息を吹いた。指が赤かった。冬の終わりの寒さがまだ岩に残っていた。

集団は火を求めて集まった。夜は特にそうだった。火の周りに座る順番が、いつの間にかできていた。若い者が外側、傷のある者が内側、子を持つ者がその間。その者が決めたわけではない。気づいたら、そうなっていた。

その者が知りすぎていた。

火の扱いではない。誰が誰に食べ物を渡したか。誰が夜に集団の縁へ行き、隣の集団の者と声を交わしたか。その者は火の番をしながら、見ていた。見ていたことが伝わった。伝わり方はわからない。眼の向き、か。立っている場所、か。

ある夜、三人の若い者が来た。

その者は顔を上げた。三人の立ち方を見た。一人が後ろに回った。その者は立ち上がろうとした。

立ち上がれなかった。

岩が当たった場所は頭の後ろだった。その者は膝をついた。火が見えた。赤かった。指と同じ色だった、と思ったかどうかは誰も知らない。

火が揺れた。

その者の体が、静かに傾いた。

火は燃え続けた。三人は去った。朝が来た。子供の一人が火の番に来て、倒れているその者を見た。子供は声を上げなかった。しばらく立っていた。それから火に枯れ枝を足した。

火は燃え続けた。

第二の星

同じ夜、台地の南で旧人の集団が塒を変えた。雨が三日続いていた。低地の水が増していた。彼らは音を立てずに移動した。新しい場所に来て、岩の下に身を寄せた。子供一人が途中で遅れ、声が上がり、引き返した者がいた。全員が岩の下に収まった。火はなかった。温もりだけがあった。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:146
与えるものの観察:渡した。届いたかどうかは今も問いだ。
───
第1474話

紀元前292,640年

第二の星とその者(4〜9歳)

空が変わった。

北の高地で、氷が山の背を越えた。岩を削りながら降りてきた。石灰質の崖が割れ、谷が塞がれ、川が別の方向へ流れ始めた。始まりの大地の南端では、雨の代わりに霙が降る日が増えた。草原だった場所に硬い土が現れ、根を張れないまま枯れた植物の茎だけが残った。

子どもは足が短い。大人の歩幅についていけない。

その者は転んだ。右の手のひらに小石が刺さり、立ち上がるとき岩を掴んで血が出た。誰も振り返らなかった。集団は前へ進んでいた。その者は口で手のひらを舐め、また走った。

旧人たちが東へ移動した痕跡があった。焚火の跡、骨の砕き方の違い、石器の形。彼らは同じ寒さを感じ、別の方向を選んだ。どちらが正しかったかは、その後の時間が記す。始まりの大地には、いなくなった者の足跡だけが残った。

集団が小さくなっていた。

その者にはわからない。昨日まで声が聞こえた方向から声が来なくなった。それだけだ。夜、母の体の近くで丸まると、以前は感じた圧力がなかった。隣に誰もいない。その者は膝を胸に引きつけ、目を開けたまま闇を見た。

草が消えるのは地下から始まる。根が凍れば、地上の緑はまだ残る。しかし翌春には何も出てこない。始まりの大地の北では、そういう草原がいくつも消えた。草を食う獣が南へ下り、人の集団と水場を争うようになった。

男が崖の手前で倒れた。脚を折っていた。夜の気温が続き、朝までに体から力が抜けていった。集団は半日待った。それから歩いた。

その者は男の顔を見ていた。目が半分開いたまま白くなっていた。母が手を引いた。その者は歩きながら何度か振り返った。母が声を出した。その者は前を向いた。

水場を見つけた日の夜、集団は火を囲んだ。

その者は火の端に座った。煙が右に流れた。鼻の奥に何かが届いた。焦げた骨の匂いではない。濡れた石の、冷たさと熱が混ざったような、何か。その者は鼻を上げた。もう一度嗅ごうとしたが、風が変わって消えた。

手のひらの傷が乾いていた。その者は傷の縁を指でなぞった。固くなっていた。

与えるもの

濡れた石の匂いがそこにあった。

この者は鼻を上げた。捕まえようとして、届かなかった。

捕まえられなくてよかったのかもしれない。捕まえられたものは止まる。届かなかったものだけが、また探させる。次に渡すとき、この者はまた鼻を上げるだろうか。

伝播:SILENCE 人口:81
与えるものの観察:匂いは届いた。意味は届かなかった。
───
第1475話

紀元前292,635年

第二の星

霙が止んだ。

始まりの大地の南端では、朝の岩が白く縁取られ、昼になっても溶けない。川は浅くなった。水が地面の奥へ引っ込んでいく。鳥の声が減った。減ったのではなく、別の声に変わった。南から来る鳥が、北へ渡らなくなっている。

高地では旧人の痕跡がある。焚き火の跡。獣の骨。しかし姿はない。彼らが移動したのか、消えたのか、この星には区別がない。ただ、痕跡が古くなっている。

集団の中では子が生まれ、老いた者が減り、若い者だけが残る形になっていた。若い者だけの集団は、決断が速い。しかし記憶が薄い。去年の水場を知っている者が、今年はいない。

遠く、大地の東端では、別の血筋が洞窟の壁に手形を押していた。手のひらに赤土を塗り、岩に当てる。何のためかは、この星にはわからない。ただ、その手形は残る。残ることを、その者たちが意図したのかどうかも、わからない。

始まりの大地の南端では、最年少の子が十四になっていた。

与えるもの

腐りかけた実の匂いが、風に乗って漂った。

その者は顔を上げた。匂いの方向に、大人たちが集まっていた。声が尖っていた。

その者はそのまま近づいた。

渡したのはそこまでだ。匂いが誰を呼んだのか、その者が近づいて何を見たのか、それはもうこちらの手を離れた。

手のひらに砂を掴んだ記憶がある。砂は指の隙間から落ちる。落ちながら、まだ手の中にある。今もそういう感触だ。

次に渡すべきものが、あるとすれば。

その者(9〜14歳)

声が聞こえた。

岩の陰で、その者は立っていた。大人たちの声だった。尖った声。獣を追うときの声とも違う。仲間同士の声でもない。

その者には、言葉がない。声の形がわかるだけだ。

男が一人、立っていた。集団の外から来た男だった。始まりの大地には時々そういう者が現れる。違う匂いをしている。

男の手が、老いた女の腕をつかんでいた。

老いた女は、この集団の者だった。多くの子を産んだ女だった。その子たちの半数はもういない。

その者はその女の足音を知っていた。水場で、その女の隣に立ったことがある。獣の皮を石で叩くとき、隣で同じ動きをしたことがある。

大人たちは動かなかった。

男が声を出した。老いた女も声を出した。出したのか、出てしまったのか、その者にはわからない。

その者は岩の陰から出なかった。

老いた女の足が、地面を引っかいた。靴はない。爪が土に入った。それだけだった。

男が離れた。老いた女は動かなくなった。

大人たちは散っていった。

その者は岩の陰に座り込んだ。膝に額をつけた。そのままでいた。

匂いがした。腐った実の匂いではなかった。濡れた土と、別の何かが混ざった匂いだった。

その者は顔を上げなかった。

夕方になった。誰もその者に声をかけなかった。

翌朝、その者は水場へ行った。いつもの道を歩いた。足が覚えていた。水を飲んだ。飲んでから、隣を見た。

誰もいなかった。

水面が揺れていた。その者の顔が映って、揺れて、崩れた。

伝播:HERESY 人口:95
与えるものの観察:渡したが、間に合わなかった
───
第1476話

紀元前292,630年

第二の星とその者(14〜19歳)

乾いた風が南から来るようになった。

草の根元が白くなっている。霜ではない。塩だ。地面の奥から何かが滲み出て、地表で乾いている。川沿いを歩くと足の裏が引っかかる感触があった。土ではなく、砂混じりの固まりが、平たく重なっている。水際の痕跡だ。水はそこにかつてあった。

その者は十四になっていた。

大人たちの足元をついて回ることを、もうしなかった。足元についていく先が、減った。老いた女が動かなくなった場所を、その者は知っていた。崖の下に鳥が集まる日があった。その者は近づかなかった。遠くから、鳥がどこにいるかを、ただ知っていた。

集団は膨らんで、静かに減った。

子が生まれた。泣いた。三日後に泣かなくなった。別の子が生まれた。片足が曲がっていた。母親が岩の上に置いて、離れた。その者はそれを見た。離れなかった。夜になって、泣き声は止んだ。その者は岩の前で座ったまま夜を明かした。

南の丘の向こうに、別の煙が上がるようになった。

自分たちの煙ではない。風向きが変わったとき、獣の焼ける匂いとは少し違う匂いが混じった。大人たちが集まって声を出した。指を差す者がいた。声が大きくなった。その者は後ろから見ていた。

十六になった頃、その者は石を拾う習慣を持っていた。

何かのためではなかった。手に収まる形のものを探した。川底の石、崖の割れた欠片、地面の色と違うもの。拾って、置いた。また拾った。積んだわけではなく、ただ手の中に持っていた。老いた女がいなくなってから、その者の手はよく動いた。

風が変わった日があった。

北から、湿った空気が来た。地面が少しだけ柔らかくなった。川底に水が戻りかけた。その者は水際に下りて、手を浸した。冷たかった。指の間から水が抜けていく感触を、何度も繰り返した。

その頃、南の煙は近くなっていた。

ある朝、大人の男が一人、丘に登って戻らなかった。別の男が追った。二人とも戻った。しかし何かを引きずるように、二人とも黙って戻った。その夜、集団は火を大きくした。その者は火から少し離れて座っていた。

十八になった頃から、その者の声が変わった。

それまで単音だった。それに長さが出た。同じ音を続けたり、上げたり下げたりした。別の子にも同じ音を出した。返ってくることもあった。返ってこないこともあった。その者はどちらの場合も同じ顔をしていた。

集団の中で、ある身振りが広がっていた。

片手を広げて止まる仕草だ。誰が始めたか、その者には分からなかった。大人が子にする。子が子にする。南の丘に誰かが近づきすぎたとき、後ろから手が出た。その者にも向けられたことがあった。その者は止まった。

十九の年の終わり、その者は崖の縁に座っていた。

手の中に石があった。平たく、灰色だった。その者はそれを崖の下に向けて放った。石は落ちていった。音がした。その者は音を聞いた。もう一度やりたかったが、手の中の石はなかった。

与えるもの

温度が変わった場所に、その者の手が動いた。

川の水が足首の高さに戻った夜、冷気が石の上に集まった。その者の足の裏が、湿った岩の上で一瞬止まった。

止まった。

その止まり方を、渡した後のものとして覚えている。鳥が落ちた場所に近づかなかった者が、水には近づいた。この違いを、何と呼べばいいのか。逃げることと、選ぶことは、まだ同じ形をしている。しかし次に渡すべきものは、手の中にある。石の落ちる音を聞いた耳に向けて、今度は違う高さから落とす。

伝播:NOISE 人口:114
与えるものの観察:止まり方が変わった。選んでいるかもしれない。
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第1477話

紀元前292,625年

第二の星

乾期が長くなっている。

南から吹く風は湿気を持たない。岩盤の上を滑るように来て、草を横に押し倒し、そのまま北へ抜ける。風が止むと、熱が地面に貼り付く。熱は上に昇らず、足元で澱む。動物たちが水場から遠ざかっている。魚が浅瀬に集まらなくなった。川底の石が白くなってきている。水が減っている。

しかし今、この地では別の変化が起きている。

川を挟んで、二つの群れが向き合っている。どちらも同じ種族ではない。片方は額が低く、眉の骨が厚い。もう片方は顎が小さく、足が細い。どちらも水を求めて同じ場所へ来た。それだけのことだ。

水が減れば、同じ岸に立つことが増える。

はじめは距離があった。それぞれが別の方向を向き、互いを見ていても視線を合わせなかった。子どもたちが先に近づいた。大人たちは声を上げて引き戻した。

しかし乾期は続いた。

川の細くなった流れの中に、両方の群れの手が同時に入る日が来た。手が触れた。誰も動かなかった。水をすくって飲んだ。また手が触れた。今度も誰も動かなかった。

その後しばらく、二つの群れは同じ岸に座っていた。

食べ物は分けなかった。火も分けなかった。ただ、同じ場所にいた。それが数日続いた。

緊張は静かに溜まっていく。

厚眉の群れの中に、背の高い者がいる。その者はよく別の群れを見ている。視線が長い。見ているだけで何もしないが、大人たちがそれに気づいていた。細足の群れの中で、何かが話し合われた。音の断片が飛んだ。短く、鋭く、繰り返された。

夜、火の周りで人数が確認された。

朝、背の高い者は川岸にいなかった。

その群れは移動を始めた。細足たちがその後ろを遠くから追った。理由は声になっていない。しかし足は動いている。前方で砂が舞い上がった。岩の陰に何かが動いた気配がした。そこから先は、この星は遠くを照らしていた。

平地の向こうで、鳥が一斉に飛び立った。

風がまた南から来た。何かの匂いが混じっていた。

川だけが同じ速さで流れている。水は少ない。それでも流れている。

与えるもの

その者の足元に、薄い影が走った。

雲の影ではない。草の揺れが止まった一瞬に、地面の上に別の何かが横切った。その者は足を止めた。

影が横切った場所に、一本の骨が落ちている。動物のものだ。細く、長い。先端が折れて、断面が白く光っている。

その者はそれを拾った。折れた断面を指で触れた。手を離した。また拾った。

骨を持ったまま、群れから少し離れた岩の後ろに座った。

渡した。しかし何のために使うかは、まだわからない。鋭さに気づくか。重さに気づくか。あるいは何も気づかず、投げ捨てるか。折れた断面には形がある。あの形を見て、何を思うか。次に渡すものが骨になるかもしれない。もっと違うものになるかもしれない。まだ決まっていない。

その者(19〜24歳)

岩の後ろで骨を持っている。折れた断面を何度も指でなぞる。切れそうで切れない。押し当てると皮が白くなる。放すと戻る。その者はそれをしばらく繰り返した。

群れの声が遠くから来た。

骨を地面に置いた。立ち上がった。また座った。骨を拾って、腰の革紐に挟んだ。立ち上がって、声の方へ歩いた。

伝播:HERESY 人口:125
与えるものの観察:折れた断面を指でなぞった。それだけでいい。
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第1478話

紀元前292,620年

その者(24〜29歳)

朝、目が覚めると隣に誰もいなかった。

昨夜まで横に寝ていた男が、いない。足跡が北へ続いていた。その者は立ち上がり、足跡の先を目で追った。岩の陰に消えている。

その者は追わなかった。

足元の土が硬い。雨が来なくなってから、地面の色が変わった。以前は踏むと少しだけ沈んだのに、今は踏んでも何も返ってこない。

集団の女たちが岩の周りに集まって、乾いた実を割っていた。石で叩く。割れた欠片が飛ぶ。その者もそこに座り、実を手に取った。叩いた。硬い。二度、三度。ようやく割れた中から、縮んだ白いものが出てきた。

食べた。苦い。

午後、旧人の二人組が北の稜線を歩いていた。その者は岩の陰からそれを見た。旧人は大きく、肩が広かった。歩き方が違う。足の置き方が、重い。二人は止まらなかった。ただ歩いた。稜線を越えて消えた。

その者は立ったまま、しばらくそこを見ていた。

集団の中で老いた男が一人、この5年で体が細くなっていた。肋骨が外から見えるようになっていた。今朝、その男が水を飲もうとして、むせた。むせるたびに肩が前に折れた。その者は近くにいて、それを見ていた。老いた男は何も言わなかった。その者も何も言わなかった。男の肩が折れるたびに、その者は自分の胸のあたりが狭くなる感じがした。言葉が出てこなかった。

夕方、火を囲んで皆が座った。

火の向こうに子どもが三人いた。二人が眠っている一人の周りをうろうろしていた。眠っている子の額に手を当てた女が、声を出さずに立ち上がり、別の方向を向いた。

その者はその背中を見た。

夜になった。火が低くなった。その者は膝を抱えて、火の残り火を見ていた。炭が白くなっていく。白い部分が広がると、赤い芯がその中に沈む。白。赤。白。

どこかで獣の声がした。遠い。答えるものはいなかった。

第二の星

この5年、乾季が長い。

岩盤の上を砂が薄く走る。草は根を残して上部が枯れる。水場は一つ消えた。移動した集団が残した跡が、まだそこにある。踏み固められた地面の円い跡が、荷物も人も消えた後に残っている。

集団はかつて岩場の陰を埋めるほどの人の輪を作っていた。今は半分ほどの影しか落とさない。死が静かに入ってくる。音を立てない。朝、起きると一人少ない。昼、子どもが熱を持つ。夕方、女が背中を向ける。

旧人はまだいる。北の高地に、いる。彼らと言葉は通じない。身振りさえ、意味がずれる。互いに距離を測るように動く。争いにはなっていない。まだ、なっていない。

草原の端に、ここ数年で死んだ者たちの骨が土に還りかけている。誰かが石を並べたわけではない。そこに置かれて、そのままになった。

小さな星の上で、乾いた風が止まない。

与えるもの

炭が白くなる瞬間。

その者の目が、その瞬間だけ止まった。

手を伸ばしかけて、止めた。熱いから止めたのか、別の何かで止まったのか、わからない。もう一度、白くなる炭を見るかもしれない。その問いを持ったまま、次に何を落とすかだけを考える。

伝播:NOISE 人口:139
与えるものの観察:白くなる炭を、目が追った
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第1479話

紀元前292,615年

第二の星

始まりの大地は乾いていた。
北の高地から風が降りてきて、草を横に倒す。葉の先が白くなっている。夜の冷えが残っている。

集団は、かつてより減っていた。寒さと争いが、静かに数を削った。

草原の東の縁に、別の集団がいる。額の骨が張り出し、眉が厚い。彼らも同じ草を食み、同じ獣を追う。どちらが先にここにいたか、もう誰も覚えていない。近づくこともあれば、石を投げることもある。

遠く、海の向こうでは何も起きていない。そこに誰もいないからだ。水が岩を削り、砂が風に運ばれ、魚が跳ねる。目撃者のいない出来事は、出来事とも呼ばれない。

始まりの大地の集団の中で、一人の者が動いている。
他の者が火の周りに座っているとき、その者は縁をうろついている。火を背にして、東を向いている。

草が風で鳴る。

与えるもの

東の集団の野営地の方角から、夜、煙の匂いが漂ってきた。

その者は鼻を上げた。立ち止まった。匂いの方向を、体全体で確かめた。

知らない煙だ、とは思わなかった。ただ鼻が、その方向に留まり続けた。

渡したのは方角だ。煙を通じて。
この者は立ち止まり、鼻を上げた。
けれど、その先に何があるかを確かめには行かなかった。

また次に渡すものを考えなければならない。煙で届かないなら、音はどうか。温度はどうか。
渡し続けることに意味があるのかどうか、私にはわからない。だが渡さなかったとき何が残るか——それも、わからない。

その者(29〜34歳)

煙の匂いがした。

その者は顔を上げた。風が来る方向ではなかった。匂いだけが、そこから来ていた。

しばらく立ったまま、鼻で空気を引いた。何度も。同じ方向から来る。

火の匂いだが、自分たちの火ではない。何かが違う。燃やしているものが違うのか、煙が違うのか、距離が違うのか——その者にそれを言葉にする手段はなかった。

ただ、体が東を向き続けた。

集団の一人が声をかけた。ついてこい、という身振り。皮を引いて乾かす作業があった。その者は振り向き、それから東をもう一度見て、歩き出した。

皮を石で叩く。叩く。叩く。
手が動いているあいだも、鼻だけが東を向いていた。

夜、横になってから、その者は目を開けていた。空に雲がない。冷えてきた。

隣で老いた女が寝息をたてている。遠くで獣の声がした。
東ではなかった。

その者はゆっくり目を閉じた。

翌朝、集団の中で声が上がった。東の縁に、見慣れない影が二つ立っていた。近づかず、離れず、ただそこにいた。

その者は皮を持ったまま、その影を見た。

石を拾った者がいた。
その者は石を拾わなかった。

伝播:HERESY 人口:152
与えるものの観察:煙が届いた。この者の鼻が、方角を覚えた。
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第1480話

紀元前292,610年

第二の星とその者(34〜39歳)

雨が戻った。

始まりの大地の南縁、緩やかに傾いた台地の上で、草が立ち上がった。一本ずつではなく、まとめて。どこかで決まったように、同じ日に。根がほぐれ、水を吸い上げる音は聞こえないが、何かが変わったことは地の温もりが告げた。

その者は、目を覚ました朝、岩の上に水滴が光っているのを見た。指で触れた。冷たかった。舐めた。

北の高地では、氷が溶けて浅い川になり、低地に流れ込んだ。川は草を横に押し倒してから、引いた。倒れた草の形が残った。あとで、小さな草食の獣がその跡を辿って移動した。その獣の後を、別の獣が続いた。連鎖は、誰も命じていないのに起きた。

集団の中に、生まれる者が増えた。その者の足元を、二人の幼い子が転がるように歩く。その者より背の低い者たちだ。その者はときどき立ち止まって、子が追いつくのを待つ。待ちながら、空を見る。雲が動く方向を目で追う。何を確かめているのか、その者にも分からない。

台地の東側、岩が露出した斜面の下に、別の集団がいた。体格がわずかに異なる。眉の骨が分厚く、首が短い。彼らも川の近くに座り、水を飲んでいた。どちらの集団も、相手を見た。見ながら、動かなかった。

その者は、その異なる集団の中の一人を、遠くから見た。女だった。石を手に持って、別の石に打ちつけていた。音が響いた。規則的な音だった。その者はその音を聴きながら、草の上に座った。膝を抱えた。

光が、その者の左手のそばに落ちた。

雲の切れ目から差した光が、ちょうどそこに当たった。地面に、平たい石があった。縁が他と違った。薄く、角が出ていた。

その者は見た。見てから、別の方を向いた。

幼い子の一人が転んで声を上げた。その者は立ち上がり、子のそばに行った。子を抱えた。子の膝から血が滲んでいた。その者は地面の泥を指ですくって、傷に押しつけた。子が泣いた。その者は子の背を叩いた。叩くのを止めた。また叩いた。

光は、その石の上にまだあった。

集団は大きくなっていた。食べるものが溢れた季節に、体が力を蓄えた。夜に火を囲む者の数が増えた。声が増えた。笑い声に似た音が、増えた。ある夜、誰かが膝を叩く音を出した。別の誰かが続いた。音が重なって、揺れた。その者も膝を叩いた。自分がなぜそうしているのか、分からなかった。でも止めなかった。

東の集団との距離が、少しずつ縮まった。縮まりながら、何かが静止した。どちらも踏み込まなかった。境界は、地面に線を引いたわけではなかった。空気の中にあった。

その者は、翌朝、あの石を取りに戻った。

何かに引き戻されたわけではなかった。ただ、足がそこに向いた。石はまだあった。手に取ると、縁が掌に当たった。痛くはなかった。鋭いとも思わなかった。ただ、持った。

持ったまま、歩いた。

どこへ向かうつもりもなかった。ただ歩いた。石を右手に、子を左手に引いて、台地の端まで歩いた。そこから下を見た。川が光っていた。その者は石をまだ持っていた。

与えるもの

光を、左手のそばに落とした。

その者は見た。そして幼い子に向かった。

次に渡すのは、何の形をしていればいい。持ち続けることが、始まりになるなら。

伝播:DISTORTED 人口:198
与えるものの観察:石を持ったまま、台地の端に立った
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第1481話

紀元前292,605年

第二の星

風が変わったのは、夜の中頃だった。

南から吹いていたものが、唐突に止んだ。木の葉がいっせいに向きを変え、そのまま静止した。空気が重くなった。湿気が皮膚に貼り付いた。夜の虫の声が消えた。

台地の南縁では、旧人たちの集団がその夜も火を持っていた。炎の大きさで数がわかる。炎は三つ。以前は二つだった。

この数ヶ月、旧人たちは少しずつ北へ動いていた。食い物を追っているのか、水を探しているのか、それとも別の何かに押されているのか、星にはわからない。わかるのは、距離が縮まっているということだけだ。

台地の北側では、この者たちの集団も火を持っていた。そちらの炎は七つ。人口は旧人を上回る。しかし旧人は一人一人が大きく、集団として動く速度が速い。食物を巡る場所の争いが、去年の夏から始まっている。

川の中州で小競り合いがあった。旧人の若い雄が一人死に、この者たちの成人が二人、傷を負った。傷は腫れ上がり、一人はその後を歩かなかった。傷口が熱を持ち、三日目に体全体が震え、四日目に動かなくなった。川の泥の中に沈めた。石を置かなかった。時間がなかったか、あるいは意味を知らなかったか。

残った者が傷に泥を塗った。泥は乾き、剥がれ、また塗った。それが効いたのかどうかは、誰も知らない。

旧人の炎は、翌日も三つだった。位置が変わっていた。少し北に来ていた。

星は両方を照らす。

この者たちの集団は声を上げた。夜に向かって、意味のない声を。旧人たちも声を持つ。その声は低く、腹の底から出る。夜の空気の中で、二つの声が重なる時間があった。どちらも止まらなかった。

どちらも引かなかった。

台地の草は、その間も揺れた。どちらの足元でも同じように揺れた。星が照らす光は、区別をしない。骨の太さも、声の高さも、使う石の形も。光はただ落ちる。

夜が明けた。旧人の炎は消えていた。煙だけが残った。細く、白く。

与えるもの

風が変わった瞬間、その者の耳元で低い音が鳴った。木でも獣でもない、空気そのものが詰まるような音。

その者は立ち上がり、南の方向を向いた。それから座り直した。

炎が三つになっていたことは、もう一度眠りから覚めた後に知ることになる。それが遅かったかどうか。遅さの意味が、まだわからない。しかし、次に渡すものは形のあるものでなければならない。この者の手が動くものを。

その者(39〜44歳)

夜中に目が覚めた。音がした。何の音か、わからなかった。

起き上がり、立ち上がり、南を向いた。

火が見えた。遠かった。遠かったが、昨日より近かった。

また座った。子の一人が寝返りを打った。その体に、手を置いた。

朝まで、眠らなかった。

伝播:SILENCE 人口:220
与えるものの観察:遅さが命を削ることがある。
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第1482話

紀元前292,600年

第二の星

大地の割れ目から湯気が立つ。草が戻りはじめた場所と、まだ灰色のままの場所が、境界線のように隣り合っている。

湿地の縁では旧人の一群が低い声で話し合っている。手振りが激しい。一人が北を指す。別の一人が地面を叩く。話は終わらない。その声が夜の空気を通り、遠く丘の向こうまで届く。

丘の上では火が小さく燃えている。煙がまっすぐ上がる。風がほとんどない夜だ。

川沿いの岩棚では子どもが三人、丸まって眠っている。大人の足音が止まると、子どもの一人が目を開ける。天井の岩を見る。また閉じる。

乾いた台地の端では、歩いてきた者の足跡が砂の上に残っている。続いていた足跡が、ある地点で止まる。戻る足跡はない。

夜が深くなる。火が赤くなる。旧人の声が低くなる。丘の上の煙がゆっくり東に流れはじめる。

与えるもの

足元の草が揺れた。風ではなかった。土の中で何かが動いたような揺れだった。

草の根元に、白く乾いた骨の欠片があった。獣のものか、それとも別の何かか。その者の視線がそこに落ちた。一瞬だった。

その者は拾わなかった。足で踏んだ。先へ進んだ。

踏まれた骨の欠片が白い粉になった。それを与えるものは見た。砕かれても、形が変わっても、そこにあったという事実は消えない。次に渡すべきものは、砕けた後も残るものの方がいいかもしれない。あるいは、砕けること自体を渡すべきか。

その者(44〜49歳)

集団の中で一番若い、というわけではもうない。

子どもが生まれた。また生まれた。膝の高さまで育ったものもいる。胸の高さになった子もいる。その者はいつの間にか、足元についてくる側ではなく、ついてこられる側になっていた。

火の管理を任された夜がある。枝をくべる量を間違えると、翌朝の熾火が死んでいる。何度か間違えた。間違えるたびに、別の者が舌打ちのような音を出した。その者は黙った。次の夜、枝の量を減らした。熾火は残った。

旧人の集団が近くにいる。その者は匂いで知った。獣脂と煙と、何か酸っぱいものが混じった匂い。仲間の一人が石を握って立ち上がった。長老格の者が腕を押さえた。声は出さなかった。ただ押さえた。

その者は両方を見た。石を握った手を見た。押さえた手を見た。どちらが正しいか考えるための言葉を持っていない。ただ見た。胃の奥が縮んだような感覚があった。

旧人の匂いは翌日には消えていた。

夜、子どもの一人が熱を出した。小さな体が震えた。その者は手のひらを子どもの背中に当てた。温度を確かめるためではなく、ただ当てた。子どもは震えながら眠った。

朝、子どもは起きた。熱は引いていなかった。

その者は水を持ってきた。飲ませた。また持ってきた。また飲ませた。それだけをした。

伝播:DISTORTED 人口:231
与えるものの観察:踏んだ。骨は粉になった。それでも渡す。
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第1483話

紀元前292,595年

第二の星

熱帯の内陸部、乾季と雨季の境が崩れた年だった。

川は二股に割れ、片方が砂に呑まれた。残った流れは細く、泥の色が変わった。水を汲みに来た者たちは岸に蹲り、底を見つめた。何も言わなかった。

北の高地では、石灰岩の崖に沿って小さな集団が動いていた。十数人。老いた者が一人、若い者の肩を借りながら歩く。足が地面を引きずる音だけが続く。崖の影が長くなったとき、老いた者は立ち止まった。そのまま動かなかった。若い者が肩を揺すった。揺すり続けた。崖の影がさらに伸びた。

南の湿地では、旧人の群れと人の群れが同じ水場を使い始めていた。互いに目を合わせない。しかし距離は縮まっている。旧人の一人が、人の子どもの落とした木片を拾い、返した。誰も何も言わなかった。

火山灰の混じった土の上に、雑草がまばらに戻ってきた。根が細く、踏めば簡単に抜ける。しかし根はあった。

空は高く、乾いていた。

与えるもの

風がある方向から吹いた。

焦げた木の匂いではなく、湿った草の匂いだった。腐りかけの匂いでもない。まだ生きている草の匂い。

その者の鼻がそちらを向いた。

受け取った。全部ではないが、向いた。

火が消える前に何かが残ることを、この者に何度示しただろう。熾火。根。匂い。形の違う同じものを渡し続けて、この者の中に何が積もっているのか、わからない。しかし次に渡すべきものはある。土の下を、まだ示していない。

その者(49〜54歳)

足が痛む。

若いころから痛む場所は同じだったが、今は朝に起きてから痛みが消えるまでに時間がかかる。

集団の中で、その者は最年少ではなくなっていた。いつの間にか子どもたちが膝の高さに育ち、その者の足元についてくるようになっていた。

その者は水場に向かう途中、草の匂いに気づいた。

立ち止まった。

灰色の土の上、踏まれていない一角に細い草が束になって生えていた。緑ではなく、黄みがかった白だったが、倒れていなかった。

その者はそこに蹲り、草の根元を触った。抜けなかった。

もう一本触った。それも抜けなかった。

しばらくそうしていた。

水場で他の者たちが声を上げた。その者は立ち上がり、歩いた。しかし歩きながら一度だけ振り返った。

夜、火の側で、その者は掌に小石を一つ乗せて眺めた。草ではなく石だった。なぜ石を拾ったのか、その者にはわからなかった。ただ、手の中にあった。

掌の上で、石がわずかに温かかった。火の熱だった。それだけのことだった。

その者は石を握り、そのまま眠った。

伝播:SPREAD 人口:243
与えるものの観察:草の匂いに向いた。手が触れた。石まで届かなかった
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第1484話

紀元前292,590年

その者(54〜56歳)

砂が乾いていた。

足の裏がそれを知っていた。踵から指の付け根まで、地面の硬さが変わっていた。この季節にこの硬さは、おかしかった。その者にはそれがわかった。言葉にはできなかった。ただ、立ち止まった。

集団の後をついて歩くことが難しくなっていた。足が遅れた。呼ばれると追いついた。呼ばれなければ、その場にしゃがんだ。

火のそばにいることが多くなった。

誰かが薪を足すと、その者は火の方へ顔を向けた。炎を見ていた。何を思っていたかはわからない。指で地面を引っ掻いた。また引っ掻いた。溝ができた。意味はなかった。

子どもたちが足元を走り抜けた。その者は手を出した。触れなかった。手を引いた。

ある朝、起き上がれなかった。

横になったまま、空を見た。雲が南から流れていた。風の匂いが変わっていた。乾いた土と、遠い草の焦げた匂いと、何か別の、うまく説明できない何かが混じっていた。

集団の者が一人、顔を覗いた。

その者は音を出した。単音だった。意味のある音ではなかった。ただ出た。

顔を覗いた者は、しばらくそこにいた。それから立ち上がり、行った。

日が傾いた。

影が長くなった。その者の体から体温が逃げるのではなく、ただ静かに、体が地面と同じ温度になっていった。

指が、一度だけ、砂をつかんだ。

それから、動かなくなった。

砂はそのまま、指の間にあった。

第二の星

北の岩地では、二つの集団が同じ崖の下に宿を取っていた。互いを見ていた。石を持った者がいた。石を持たなかった者もいた。夜が明けて、双方は別の方向へ散った。崖の下には、誰かが置いた骨が残った。獣のものか、人のものか、わからない。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:SPREAD 人口:263
与えるものの観察:渡した。届いたかは、いつもわからない。
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第1485話

紀元前292,585年

その者(6〜11歳)

草の中に、骨があった。

小さな骨だった。鳥か、それより小さな何かの。その者は骨を拾い上げ、手のひらに乗せた。軽かった。息を吹きかけると、細い骨が転がった。

群れの端で、こういうことをよくした。

誰かが呼べば行く。呼ばれなければ、地面を見ていた。虫の動き、石の重なり方、乾いた糞の欠け方。すべてが、何かを言っていた。言葉ではない何かを。

この日、群れは動いていた。

遠くから、別の集団の匂いがした。煙と、なめした皮と、知らない体の匂い。大人たちの声が低くなった。その者には、その低さが何を意味するかわかった。言葉がなくても、体がわかっていた。

その者は骨を地面に戻した。

立ち上がり、大人たちの後ろに紛れた。背の低いその者から見えるのは、背中と踵ばかりだった。踵が地面を叩く音。緊張が、足の裏から伝わってくるような気がした。

別の集団と、群れは向き合った。

双方に、数人ずついた。互いの声が、低く短く飛んだ。その者には意味がわからなかった。しかし空気の張り方はわかった。皮膚が、それを読んでいた。

一人の大人が、腕を伸ばした。

その手に、何かが乗っていた。石だった。割った石。縁が薄く光っていた。

相手の集団の誰かが、それを受け取った。

しばらく、沈黙があった。

その者は、自分の手を見た。さっきまで骨を持っていた手。今は空だった。空の手で、その者は、受け取ることと渡すことのあいだに何かがあると感じた。感じた、という言葉もなかったが、体の中で何かが動いた。

腹の、少し上のあたり。

第二の星

草原の端に、二つの集団が向き合っている。

ここは乾期が長く続いている地だ。岩盤が地表に近く、雨が降っても水は長く留まらない。水場は限られていた。それが、この向き合いの遠因だった。

この5年間、集団の規模は揺れていた。子が生まれ、老いた者が消え、若い者が傷で動けなくなった。気候の変動は緩やかだったが、食料の偏りは続いた。豊かな季節と、何も見つからない季節が交互に来た。

旧人の痕跡が、北の方角に残っている。使われた火の跡、獣の骨を割った石。その者たちとは直接触れないが、同じ水場を使ったことがある。どちらかが先に来て、もう一方が待つ。それだけの関係が、続いていた。

二集団の向き合いは、珍しくなかった。しかし今日のそれは、少し違った。声の低さが違った。立ち方が違った。何かが、今日ここで決まろうとしていた。

決まることの中身は、まだわからない。

6歳のその者は、大人の背中の向こうで、空の手を握ったり開いたりしていた。

与えるもの

石を割った縁が光を受けた。

その者の目がそこに止まった。石が渡される瞬間を、その者は見ていた。見ていた、ということが何かになるかどうかは、まだわからない。

前に光を落とした。別の者には届かなかった。今日の者は6年しか生きていない。しかし腹の上のあたりで何かが動いた、という感触を、その者は持って帰るだろう。

感触は消えるかもしれない。続くかもしれない。渡すべき次のものが何かを、私はまだ探している。

伝播:DISTORTED 人口:284
与えるものの観察:空の手が、渡すことと受け取ることの間を感じた
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第1486話

紀元前292,580年

第二の星とその者(11〜16歳)

平原に、乾いた風が走った。

草が一方向に倒れた。また起きた。また倒れた。地面は割れていた。割れ目に沿って赤い土が盛り上がり、雨のたびに少しずつ崩れて平らになろうとしていた。それでも割れ目は残った。

その者は、割れ目の端に座っていた。

足を垂らしてはいなかった。膝を抱えて、割れ目をのぞいていた。底は暗かった。指を入れてみた。土が崩れた。指の腹に赤い土がついた。

群れの声が遠かった。

北側の岩陰で、大人たちが何かをやり合っていた。声の高低と速さで、それが争いであることはわかった。別の集団が昨日から岩の向こうにいた。形が違う。眉の出方が、肩の落ち方が、この群れの者たちと違う。子どものころから見知った違いだった。恐れと、見慣れた感覚が、その者の中で交互に来ていた。

風が止んだ。

その瞬間、割れ目から冷たい空気が上がってきた。土の奥の匂いがした。腐った植物と、水と、何か古いものの混ざった匂い。その者はそれを吸い込んだ。目が細くなった。

争いの声が高くなった。

叫びがあった。続いて、低い唸りが続いた。その者は立ち上がり、岩の陰に向かった。走らなかった。歩いた。歩きながら、地面の割れ目が自分の足の下で枝分かれしているのを見ていた。

別の集団の男が倒れていた。

動かなかった。仰向けだった。顔が空を向いていた。この群れの男二人が、近くで息をしていた。肩が上下していた。速く、浅く。手に石を持っていた。石に、暗いものがついていた。

その者は、倒れた男を見た。

男の目は半分開いていた。空が映っていた。その者は近づかなかった。ただ見ていた。男の胸が、動かないことを確かめた。確かめ方がわかっていたわけではなかった。ただ、動かないことが体でわかった。

別の集団が、岩の向こうで音を立てていた。足音と、短い声。やがて遠ざかった。

残されたのは、倒れた男と、石を持った二人と、その者だった。

日が傾いた。

二人は石を置いた。男の体を引きずった。どこかへ運ぼうとした。その者は後をついていった。二人は振り返らなかった。

平原の端、草が深いところに、男は置かれた。

二人は戻った。その者は残った。

草の間に男がいた。空が広かった。遠くで鳥が鳴いた。その者は、草を一本折った。男の手の上に置いた。意味はなかった。意味がなかったから、もう一本折った。また置いた。

風が吹いた。

草が揺れ、折った草も揺れた。男の手は揺れなかった。その者はしゃがんだまま、草が揺れるのを、草の間に動かない手があるのを、長いこと見ていた。

与えるもの

土の奥から冷気が上がるとき、私は匂いを押し出した。

古いものの匂い。この者はそれを吸い込んだ。目が細くなった。

死んだものが土に戻っていく匂いを、この者は体で知った。渡せたかどうかは問いではない。この者はもう、知ってしまった。次に渡すべきは、それでもまだ続く、という感触だ。草を折った手が、その予感を持っていた。

伝播:NOISE 人口:303
与えるものの観察:折った草に意味はなかった。意味がないから続けた。
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第1487話

紀元前292,575年

その者(16〜19歳)

岩場の影に、三日いた。

群れから遠ざけられたのは、あの夜からだ。古い雄が唸り、腕を振った。その者は動かなかった。動けなかった。だから腕が来た。胸に。また腹に。その者は岩に背をぶつけて倒れ、それでも立った。

それが間違いだった。

立ったから、もう一度来た。今度は石を持った手で。

頭の右側が、鈍く、熱くなった。

その者は走らなかった。走れなかったのかもしれない。ただ、群れの端から外へ出た。草が膝まであった。足が草を分けた。草がまた閉じた。

岩場に着いたとき、日が傾いていた。

三日、水を飲んだ。根元に染み出す水を、両手で掬った。食べなかった。食べるものが見つからなかったのか、探さなかったのか、その者にはもうどちらかわからなかった。

右の耳から音が消えていた。左だけで世界を聞いた。風。遠くの鳥。水の音。

四日目の朝、光が岩の面を斜めに走った。

その者はその光を、しばらく見た。何かを思ったわけではない。ただ見た。手を、光の中に入れた。手の甲が明るくなった。

頭の傷が、夜の間に腫れていた。熱が頭の中から来ていた。

その者は膝を折り、岩に寄りかかった。体が傾いた。そのまま横になった。

草の匂いがした。

土が冷たかった。

第二の星

同じ頃、大地の別の場所で、二つの集団が川を挟んで向き合っていた。どちらも動かなかった。水が流れた。魚が跳ねた。それだけが動いた。やがて一方が背を向けた。もう一方もそうした。川は残った。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:298
与えるものの観察:渡したものを、熱が奪った。
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第1488話

紀元前292,570年

第二の星

大地の西、草が風に寝る平原に、二つの群れがいた。

一方は岩場に沿って動く。もう一方は川縁を北へ辿る。どちらも相手を知らない。知らないまま、百年近く、互いの痕跡の上を歩いてきた。焚き火の跡。砕かれた骨。押しつぶされた草。踏んでも、気づかない。

同じ頃、北の斜面で、旧人の一団が止まっていた。三十ほど。岩の影に座り、何かを待つように動かなかった。朝の光が来た。彼らは立ち上がり、別の方角へ消えた。理由は残らない。

東の湿地では、子どもが一人、泥の中で倒れていた。群れの誰も戻ってこなかった。鳥が来た。それだけが動いた。

この星は区別しない。旧人も、その者たちも、泥の中の子も、同じ光の下にいる。草が寝て、また立つ。風が変わる。それだけが続く。

与えるもの

糸が繋がった。

新しい者。小さい。泣く声だけがある。

温かい皮の匂いが、その者の鼻腔に届くよう、風がわずかに向きを変えた。母の体の匂い。群れの匂い。生きているものの匂い。

その者は口を動かした。

渡せたかどうかわからない。しかし渡すと決めている。次に渡すものは、もう考えている。

その者(0〜5歳)

生まれた。

皮膚に空気が触れた。冷たかった。声が出た。自分で出したとは知らない。

誰かの腕があった。揺れた。揺れた。止まった。また揺れた。

匂いがあった。温かい匂い。その方向へ口が動いた。飲んだ。飲んだ。

光が来た。目が閉じた。

音がある。低い音。高い音。風の音。遠くで何かが鳴く音。それらは区別されない。ただ、ある。

誰かが転んだ音がした。泣き声が上がった。違う声だ。自分ではない。その者は動かなかった。

火の匂いが来た。体が温かくなった。眠った。

一年が過ぎた。

立とうとした。倒れた。また立とうとした。

地面は固かった。手のひらに砂が刺さった。顔を上げた。大きな者たちの脚が見えた。脚が動く。脚が止まる。その者も動いた。止まった。

二年が過ぎた。

走れた。走ると風が来た。それが好きだった。何故好きなのかは知らない。

古い雄が唸った。その者の体が固まった。脚が動かなかった。古い雄が去った。脚が動いた。

三年が過ぎた。

群れが移動した。その者は運ばれる年齢を終えかけていた。自分の足で歩いた。石を踏んだ。痛かった。拾った。投げた。拾った。また投げた。

誰かが笑うような声を出した。その者も声を出した。

四年が過ぎた。

川を渡った。水が冷たかった。腰まで沈んだ。誰かの手が来た。その手を握った。川を渡った。

対岸に、知らない匂いがあった。その者は止まった。振り返った。川はまだそこにあった。

五年が過ぎた。

その者は生きていた。それだけが確かだった。

伝播:DISTORTED 人口:312
与えるものの観察:渡した。届いたかどうかは、まだわからない。