2033年、人類の旅

「紀元前292,565年〜紀元前292,445年」第1489話〜第1512話

Day 63 — 2026/06/05

読了時間 約55分

第1489話

紀元前292,565年

その者(5〜10歳)

運ばれていた。

大きな者の背にくくりつけられ、揺れていた。皮が顔に当たる。匂いがする。汗と、煙と、もっと古い何か。その者はまだ、それを匂いとは呼ばない。ただそこにあるものとして、吸い込む。

群れが動いていた。

草が腰まである。足元が見えない。前を行く者の背中だけが見える。時々、誰かが転ぶ音がする。立ち上がる音がする。また歩く音がする。

やがて、止まった。

背負う者が立ち止まり、その者も止まった。前の方で、音がしていた。別の声だった。低く、続く声。知っている声ではなかった。

その者は、背負われたまま、首を動かした。

草の上に、顔があった。知らない顔だった。皮膚の色が違う。目の形が違う。その者は声を出さなかった。泣かなかった。ただ、見た。

相手も見ていた。

子どもだった。小さな子ども。その者より少し大きいか、同じくらいか。泥で膝が汚れていた。手に、石を持っていた。尖った石ではなかった。ただの石だった。

群れの前の方で、大きな声が上がった。

背負う者が向きを変えた。その者の視界が回った。草、空、また草。知らない子どもの顔が、横に流れて、消えた。

群れが走り始めた。

揺れた。何かが割れるような音がした。叫びが上がった。その者は、揺れながら、草の茎だけを見ていた。茎が揺れる。揺れる。揺れる。

止まった。

背負う者が倒れた。

その者は地面に落ちた。顔から落ちた。土が口に入った。泣いた。泣きながら起き上がった。背負う者は動かなかった。その者は背負う者の腕を引いた。引いた。引いた。

腕は重かった。

第二の星

西の平原の草が、血の匂いを吸っていた。

二つの群れが触れた。百年近く同じ大地の上を互いを知らずに動いてきた群れが、草の中で、声を交えた。最初の声は驚きだったか、警戒だったか、それは分からない。ただ、次の声は違った。

岩が投じられた。骨でできた棒が振られた。全部で三十ほどの者が入り乱れた。争いは短かった。長く続けるだけの余力が、どちらの群れにもなかった。

終わった後、草の上に四つの者が残った。二つはこちらの群れ、二つは向こうの群れ。どちらも動かなかった。動いた者たちは、それぞれの方向へ散った。

北の崖の上では、鷹が一羽、輪を描いていた。

大地の奥では、別の群れが火を管理していた。夜に燃やし、朝に埋め、また夜に燃やす。その繰り返しの中で、一人の老いた者が、煙の形を見続けていた。何かを読もうとするように。読めないことを知りながら。

五歳から十歳になるこの五年の間、この大地の人口はわずかに減った。気候は安定しているが、群れの数が増えた。増えた群れが触れる回数も、増えた。触れた結果は、常に同じ方向を向くわけではなかった。

夜が来た。

草は寝た。星が出た。どちらの群れが消えたのか、空には関係がなかった。

与えるもの

石を持っていた。あの子どもが。

尖っていなかった。それでいい。尖ったものは後で渡せる。

草の揺れ方を、その者の頬に当てた。どちらへ逃げるか、風が知っていた。受け取ったかどうかは——

次に渡すべきものが、もう見えている。

伝播:HERESY 人口:309
与えるものの観察:風は知っていた。この者の頬が、受け取ったかどうか。
───
第1490話

紀元前292,560年

第二の星

大地が裂けるのではない。
ただ、傾くのだ。

北の高みから、冷たい空気が降りてくる。草が黄ばむ前に、土が固まる。水場の縁から、砂がこぼれるように凍る。その速度は、走る獣より遅い。しかし止まらない。

草原の端に、旧人の一群がいる。
背が低く、肩が張り、眉骨が厚い。彼らはこの大地を知っている。水脈の位置を、岩陰の向きを、季節の匂いを。長い年月、ここで生きてきた。草の根を掘る道具を持っている。石の割り方を知っている。火を持ち運ぶ方法を持っている。

そこへ、別の群れが来た。

両者は、何度も会っている。互いを知っている。あるときは遠くから見ていた。あるときは同じ水場で飲んだ。毛皮の切れ端を渡したことがある。傷を負った者が、相手の縄張りで一夜を過ごしたこともある。完全な分離ではなかった。完全な融合でもなかった。

しかし気候が動いた。

獲物が減った。水が減った。西の方角から、さらに別の群れの気配がした。縄張りが圧縮される。余白が消える。余白が消えると、選択肢が消える。

旧人の長老格の者が、何かを発した。
低い音だった。胸の奥から出てくる音だ。言葉ではない。しかし意味がある。

別の群れの者たちが、止まった。

石が手に渡る。誰も投げない。持っているだけだ。それで十分だった。

北から来た風が、両者の間を通り抜けた。

旧人たちが後退した。一歩、また一歩。彼らが去った跡に、踏み固められた草が残った。根が見えていた。土が硬かった。今年、水はここには来なかった。

別の群れが進んだ。
水場の跡に近づいた。指で土を掘った。湿気は残っていた。深く掘れば、まだ飲める。

夜、火を囲む者たちの中で、声が上がった。
高い声と低い声が交互に出た。決まった順番はない。ただ、何かを確かめ合うように、音が続いた。

空は晴れていた。
星が多かった。

遠く、北の高みの方向で、旧人の火がひとつ見えた。小さかった。揺れていた。消えなかった。

大地は傾き続けている。
どちらへ、とは言わない。

与えるもの

群れの外れに、細い草が一束、風で倒れた方向がある。

その草を、その者は踏んで通り過ぎた。

踏んでも構わない。問いは別のところにある。あの草が倒れた先に何があるか、いつか確かめる者が出るかどうか。この者でなくてもいい。ただ、一度、足が止まりかけた。それを覚えているかどうかだ。

その者(10〜15歳)

石を持たされた。
大きな者が手に押しつけた。まだ温かかった。

その者は石を握った。放せなかった。

誰かが走った。その者も走った。どこへ走るかは知らなかった。足が動いた。草が足に当たった。転ばなかった。

気づいたとき、草原の端に立っていた。
後ろに群れがいた。
前に、旧人の火があった。

伝播:HERESY 人口:308
与えるものの観察:足が止まりかけた。それを誰も見ていない。
───
第1491話

紀元前292,555年

第二の星

東の低地では、川が新しい水路を切った。岸が崩れ、古い水場が泥に沈んだ。そこに通っていた獣の足跡も、消えた。

北の岩棚に住む集団は、半月ほど前から移動を始めている。背に荷を括りつけた者が先を行き、幼い者と古い者が遅れる。斜面を降りるとき、ある者が足を滑らせた。受け止める手があった。受け止めた者も倒れかけた。どちらも、倒れなかった。

南では、別の集団が岩の陰に火を作っている。煙は出さない。出し方を知らないのではなく、出したくないのだ。誰かが近くにいる。それを知っている。

始まりの大地の中ほど、低い丘の連なりに、308人が散らばっている。正確には、集まっている場所がいくつかある。全員が顔を知り合っているわけではない。しかし、声の届く距離に、いくつかの集まりがある。

その者が属する集まりの中で、この数日、ある者が食事を分けてもらえていない。

その者は、そのことに気づいている。

与えるもの

煙の向きを変えた。

その者の鼻腔に、腐った肉の匂いが届いた。近くではない。しかし近い。

その者は立ち上がり、匂いの方を向いた。それから、座った。

渡した先に何があるか、それが問いではなくなってきた。渡した後に何が残るか。匂いが消えた後も、その者の鼻の奥に何かが漂っていた。それが問いになる。

その者(15〜20歳)

腕の中に、重いものがある。

重くはない。でも、重い。

小さいものが息をしている。その者の体温を吸って、息をしている。胸の下あたりで、細かく、細かく、動いている。

火は三歩先にある。その者は動けない。動けば、小さいものが冷える。

集まりの中の誰かが、その者に背を向けた。最初は一人だった。今は、数える必要がないくらい、全員がそうしている。

食べ物は来ない。

水は来た。昨日、一度。

その者の喉が、乾いている。乾いた喉で、小さいものに何かを吹きかける。音ではない。息だ。温かい息を吹きかけると、小さいものは動く。手をぎゅっと閉じる。開く。

腐ったものの匂いが、どこかからした。

その者は顔を上げた。匂いの方角に、誰かがいる。集まりの外。集まりに属していない者。大きな体をしている。その者よりも、骨格が違う。額が低い。

その者は、小さいものを抱えたまま、立った。

足が震えていた。空腹だからか、恐ろしいからか、その者には分からない。分からないまま、半歩、前に出た。

集まりの中の誰かが、後ろで声を上げた。

その者は振り返らなかった。

外の者が、何かを持っていた。動物の一部だった。毛が残っていた。

その者の喉が鳴った。

二人は、しばらく、そのままだった。

それから、外の者が、地面に置いた。

その者は近づいた。拾った。後ろから、別の声がした。怒りに近い音だった。その者は走った。小さいものを胸に押しつけて、丘の陰まで走った。

丘の陰で、その者は食べた。小さいものは眠っていた。

食べながら、その者は空を見なかった。地面を見た。草が枯れている。土が白い。白い土の上に、自分の影が落ちていた。

伝播:HERESY 人口:306
与えるものの観察:匂いで動いた。外の者に近づいた。
───
第1492話

紀元前292,550年

その者

背中が重い。

母の重さは知っている。膝の上で眠る重さ、腕に寄りかかる重さ。しかし背中に括られた重さは違う。動くたびに揺れ、止まるたびに沈む。皮紐が肩に食い込む。その者は声を出さない。泣くのか泣かないのか、自分でもわからないまま、口だけが開いている。

集団は移動していた。

先を行く者たちの足音が土を叩く。乾いた音と湿った音が混じる。岩を避け、倒れた木を跨ぎ、また歩く。その者を背負う者の体温が背中から伝わる。汗の匂いがする。息が荒い。

前を行く者が立ち止まった。

声が上がる。怒っているのか、驚いているのか、その者には判別できない。ただ背中が揺れなくなった。止まった。空気が動いた。

西から風が来ていた。

そこに匂いがある。煙ではない。獣でもない。何か、別の。その者の口がふさがる。鼻が動く。知らない匂いだった。知らないのに、知っているような気がする。体の奥で何かが締まる。

背負う者が身を低くした。

その者も低くなる。背骨の感覚を通じて、背負う者の警戒が伝わる。前方の木立の向こう、影が動いた。大きな影ではない。しかし、集団の影と形が違う。

声が止まった。

集団全体が止まった。風だけが動いている。

第二の星

この5年で、川が新しい水路を切った。

泥が低地を塞ぎ、森の縁が変わった。東の湿地は広がり、かつて獣が集まった岩場は水に沈んだ。集団は動いた。移動する者があれば、先に場所を押さえた者もいる。

今、この大地には306の人間が生きている。

そのうち数十は幼い。運ばれる者、抱かれる者、歩きながら転ぶ者。彼らの重さが、移動する集団の速度を決める。速い集団は生存する。遅い集団は消える。それだけのことが、5年の間に何度も繰り返された。

北の岩棚を出た集団は今、南西へ向かっている。

その途上で、別の集団の気配を感じた。煙の跡でも足跡でもない。ただ、風の中に混じる何か。それだけで集団全体が止まる。言葉は要らない。体が先に反応する。

旧人との境界は、地図の上にはない。

においで、足音で、空気の温度で、そこにある。集団が緊張を高めているのは、前方の影が何であるかをまだ知らないからだ。知らないまま、体が準備を始める。

与えるもの

煙ではない。

あれは、向こうの者たちの体から出る温度だ。群れで眠った場所の、残り熱。

風がその方向から吹いた。この者の鼻が動いた。

受け取ったのか、受け取らなかったのか。体は反応した。しかし体の反応と理解は別物だ。体が知っていても、この者はまだ何も知らない。

渡すべきは何か。

逃げる方向か。近づく方向か。どちらでもない何かか。向こうの者たちも、同じように止まっているだろうか。同じように、幼い者を背負っているだろうか。

次に渡すのは、残り熱の意味ではない。

それより先に渡すものがある。止まることの意味を。

伝播:SILENCE 人口:323
与えるものの観察:煙でなく体温の残滓が風に乗った
───
第1493話

紀元前292,545年

第二の星

乾いた大地の北端で、氷が後退している。
後退の速さは均一ではない。西側の縁が速く、東側は厚みを残す。解けた水が低地に溜まり、草が戻っていない場所に沼が生まれる。

始まりの大地の南では、集団がふたつに割れている。割れ方は音でわかる。声が増える夜と、声が消える夜がある。

北の丘の斜面で、旧人がひとり座っている。膝を抱え、遠くを見ている。見ているのか、ただそちらに顔を向けているだけなのか、わからない。

南の湿地では、踏まれた草が三日経っても戻っていない。何かが通ったあとだ。大きかったか、多かったか、どちらかだ。

空の向こうで、雲が積み上がっている。積み方が速い。

与えるもの

この者は背負われていた。
長い時間、揺れていた。
今は地面に置かれている。

皮紐が外される音の中に、ほんの一瞬、静寂があった。
その静寂に、熱を落とした。
地面のすぐ脇、乾いた草の一叢、そこだけがわずかに温かかった。

この者の手が、そちらに動いたかどうか。
動いたとして、それが何を意味したか。
渡し続けることと、届いたことは、おそらく別の話だ。
それでも次に渡すものがある。次がある限り、渡す。

その者(25〜30歳)

地面に置かれた。
背中の重さが消えた瞬間、体がそれを思い出す前に膝が折れた。

皮紐の跡が肩に残っている。指でなぞると、くぼんでいる。

乾いた草の匂いがした。
顔が近いのだと気づく。倒れているからだ。倒れていることも、少し経ってから気づく。

遠くで声がした。
低い声と、高い声が交互に来る。
交互に来て、止まる。
また来る。止まる。

この者はそちらを向かなかった。
向けなかった。

脇腹のあたりに何かが当たっている。石か、木の根か。動けば外れる。動かない。

草の一叢が、手の甲のすぐそばにある。
温かかった。
日が当たっているのかと思い、空を見た。
曇っていた。

手を草の上に置いたまま、目を閉じない。
声がまた来た。
今度は一方だけだった。

夜になる前に、誰かがこの者を引き起こすか、引き起こさないか。
どちらもありうる。

伝播:HERESY 人口:316
与えるものの観察:熱を落とした。手が動いたか、わからない。
───
第1494話

紀元前292,540年

第二の星

割れた集団の境目に、水が溜まっている。

氷が後退した跡に残った沼地は、夜になると表面が光を返す。雲のない夜、星の反射が水面を揺らす。それを見ている者はいない。誰も沼の縁まで来ない。来れない。

集団が割れたのは食料のためではなかった。

向こうの集団から来た者が、この集団の女と子を連れて去った。それだけのことだった。しかしその事実が、互いの記憶の中で育った。言葉にならない形で育った。夜の火の周りで、誰かが音を出す。別の誰かが応える。音は問いではなく、確認だった。あいつらは、向こうにいる、という確認。

北の集団は岩棚の下に拠点を作っている。南の集団はその岩棚から三日歩いた低地にいる。低地は水が豊かだが風を防ぐものがない。冬の残りが、低地の者たちの骨の中にある。

両者の間には接触がある。しかし接触は争いではなかった。まだ。

ある夜、北の集団から若い者が三人、南の境界まで来た。何も持っていなかった。手を見せた。南の者が一人出てきた。長い時間、距離を保ったまま立っていた。どちらも動かなかった。最後に北の者が戻った。南の者も戻った。

これが何だったのかを、誰も知らない。

しかし翌朝、南の集団の長老格の者が、岩を積み始めた。特定の場所に。意味は明確ではない。ただ積んだ。四つ、五つ、六つ。それを見た子どもが、近くに来て小石を一つ乗せた。長老格の者はそれを見て、音を出した。低く、短い音。追い払うのでも、歓迎するのでもない音。

沼地の向こうで、旧人の一群が移動している。

旧人たちは沼を迂回しない。水の中を歩いて渡る。膝まで浸かりながら、一列になって。先頭の者が振り返らない。後ろの者が先頭の背中を見ている。最後尾に子どもがいる。子どもは水に入った瞬間、一度だけ音を出した。それきり黙って歩いた。

旧人の一群が沼を渡り終えて、草の中に消える。

水面に残った波紋が、ゆっくりと広がり、消える。

どこかで鳥が鳴いた。鳴いて、やんだ。

南の集団の中で、誰かが岩積みの場所に小石を一つ、また足した。長老格の者はもういない。しかし岩は残っている。誰がどうするかを決めていないまま、岩は残っている。

夜になる。北の集団の火が見える。南の集団の火が見える。沼の水面が両方の光を映している。どちらの火なのかは、水面では区別がつかない。

与えるもの

岩積みの中の、一番上の石に、午後の光が落ちた。その石だけが温かかった。

その者が通りかかった。手が、その石に触れた。熱さで、引いた。

渡せたかどうか、わからない。しかし次に渡すべきものは、もう見えている。温度を覚えている者は、次の冬に岩の向きを変える。それとも、この者は明日消えるか。

その者(30〜35歳)

運ばれている。誰かの腕の中で。

手が、空を向いている。

岩積みのそばを通ったことを、この者は覚えていない。しかし掌の皮膚に、まだ熱が残っている。それだけが、今、この者の中にある。

腕が揺れるたびに、手が揺れる。空が動く。

伝播:HERESY 人口:312
与えるものの観察:熱さで引いた手が、何かを覚えている。
───
第1495話

紀元前292,535年

その者(35〜38歳)

草が伸びた。

水辺まで続く地面が柔らかく、足が沈む。去年まで霜が張っていた場所に、今年は小さな芽が並んでいる。獣の足跡が泥に残り、朝になるといつも新しいものが増えている。

その者は背負われている。

若い雄の背に腹を乗せ、首から下がっている。足は動かない。去年の冬、氷の上で転んだ。腰から下に力が入らなくなった日から、ずっとこうして運ばれている。

集団は東へ動いた。

雨が三日続き、川が満ちた。渡れる場所を探して上流へ向かう。その者は揺れるたびに低い声を出す。痛みではない。息が漏れる音だ。

川岸に着いた夜、火を囲んで座る者たちの声が遠い。語が飛び交う。笑いのような音。子どもの走る音。その者は草の上に横になり、空を見ている。

雨の後の空は低い。

雲が厚く広がっている。

火の光が届かない場所で、その者の顔だけが暗い。

朝、背負っていた若い雄が別の方向を向いているとき、風が川の上から吹いた。水の匂いがした。川はまだ増えていた。岸が削られる音が低くくぐもって続いていた。

その者は起き上がれない。

膝をつこうとして、腕が泥に埋まった。

声は出なかった。

誰かがそばに来た。子どもだ。その者の手を触り、また走って行った。

夕方、集団が川を渡ろうとした。

流れは腰より深い。幾人かが先に渡り、対岸で手を振った。背負う者が来る前に、岸が崩れた。

静かだった。

ぬかるんだ土が、音なく水の中へ入った。その者はその土の上にいた。

水は冷たかった。

沈むでも落ちるでもなく、地面ごと傾いていった。流れが体の下に来て、背中が浮いた。

空が見えた。

雲の厚い空が、水面越しに揺れていた。

それから揺れなくなった。

第二の星

同じ夜、北の乾いた大地では獣の群れが移動していた。何万もの蹄が大地を叩いた。南の密林では、大きな嵐が木々を倒した。どこかの洞窟で、子どもが生まれた。第二の星はそのどれも等しく照らした。川が崩れた岸も、生まれた子どもも、区別しなかった。

与えるもの

水の匂いを届けようとした。川が増えていることを。渡るべき場所がそこではないことを。その者の鼻孔は動いた。それだけだった。

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:DISTORTED 人口:406
与えるものの観察:水は届いた。方向が間違っていた。
───
第1496話

紀元前292,530年

第二の星

寒さは一度に来なかった。

最初の年、草が枯れるのが早かった。次の年、水場に薄い氷が張り、溶けないまま翌朝を迎えた。三年目、木の実が実らなかった。四年目、獣が消えた。五年目、大地が固くなって根を掘れなくなった。

始まりの大地の全域で、集団は崩れた。北の斜面から来ていた旧人の群れが消えた。彼らの足跡が泥に残り、その上に霜が積もり、春になっても足跡の形が残っていた。しかし誰も戻らなかった。

遥か遠くでも同じことが起きていた。干からびた草原の端で、湖が消えた。湖底が地面になり、風がその粉を運んだ。水を覚えていた鳥たちが、別の方角へ飛んだ。

始まりの大地では集団の三分の二が消えた。飢えた者、凍えた者、争いに倒れた者。道が変わり、水場が変わり、誰かが誰かを押しのけた。残った者たちは寄り合わさり、小さな火を囲んだ。

火は消えなかった。

誰かが必ず夜中に起きて、薪を足した。それがなぜなのか誰も説明しなかった。ただそうした。

与えるもの

糸が繋がった。

この者は2歳で、背負われており、まだ何も知らない。

遠い記憶がある。岸が崩れる前に匂いがあった。それでも誰かが岸に立ちつづけた。渡せたかどうかは今も問いのままだ。

この者に渡す最初のものを探した。

火の熱が、ある一点でわずかに強くなるようにした。炎の端ではなく、中心より少し外れた場所。大人には気づかれない程度の、小さな偏り。

この者は顔を向けた。口を開けた。指を出した。

受け取ったのか、ただ光に反応しただけなのか。わからない。しかし次に渡すべきものはある。この者がいつか歩いたとき、熱いものと冷たいものの違いを体で知ったとき、渡せるものがある。それまで待つことは、私にとって何なのか。

その者(2〜7歳)

背中の温度がある。

運ぶ者の背中は硬く、その者は腹で揺れている。首が揺れる。足が吊られている。

火がある。

火の前を通るとき、頬が熱くなる。その者は頬を向けた。ある日、火の中心より少し外れた場所が、違う色をしていた。別の色ではない。ただ、違った。その者は腕を出した。届かなかった。

3歳になった冬、雪が来た。

初めての雪だった。その者は地面に下ろされ、白いものの上に手を置いた。手が沈んだ。冷たかった。冷たさは痛みに変わり、その者は声を出した。

誰かが手を取った。温かい手の中に包まれた。

4歳の冬、食べるものが減った。腹が鳴った。その音がおかしかった。その者は腹を叩いた。また鳴った。叩いた。

誰かが笑った。その者も笑った。

5歳、集団から男が二人消えた。帰らなかった。女たちが低い声で話し合い、子どもたちは離れた場所に座らされた。その者は地面に棒で線を引いた。消した。また引いた。

6歳になる前の夜、その者の傍にいた老いた女が倒れた。起き上がらなかった。朝になっても横になったままで、息が来なくなっていた。誰かがその体を動かした。その者はついていこうとしたが、止められた。

地面を見た。棒がなかった。

7歳、その者は自分の足で歩いた。もう背負われなかった。火の番を任された日があった。薪を一本持ってきた。それだけだった。

火は消えなかった。

伝播:HERESY 人口:128
与えるものの観察:火の偏りに顔を向けた。それだけでよい。
───
第1497話

紀元前292,525年

与えるもの

渡した。

骨を。岩の端に置いておいた骨を、光が落ちるように当てた。その者は拾った。何のためかわからないまま、しばらく持っていた。それについて、与えるものは問い続けた。持つことに意味はあったか。持っていることが、何かを変えたか。

五年が経った。

その者は今十二歳だ。寿命のことを、その者は知らない。

始まりの大地では、多くの体が寒さと警戒の中にあった。集団の間に引かれた見えない線が、ここ数年で太くなっていた。どこで眠るか。誰の火に近づくか。それだけのことが、今は命に関わる。

渡すものを探した。

食べられる草の匂いを。水場の方角を。眠ってよい岩陰を。

しかし五年間、この者への通路を見つけられなかった。

光を落としても、その者は他の方向を向いていた。風を送っても、体が固まって動かなかった。水面を揺らしても、もう別の場所にいた。

これは失敗ではない、と思いたい。

ただ、届かなかった。それだけだ。

第1の星でも、届かなかった。十二の者がいた。糸があった。それでも届かなかった。知識が渡ったのは、一度もなかった。最後に何が残ったか。岩の並び。灰。それだけだった。

今も似ている気がする、とは思わないようにしている。

思わないようにすることが、渡す意志を保つ唯一の方法だと、長い時間の中で学んだ。あるいは、学んだと思い込んでいるだけかもしれない。

その者は何も知らない。

渡せなかった五年間を知らない。その者にとって、この五年間は単に五年間だった。寒かった。腹が空いた。集団の中で眠った。旧人の影を遠くに見た。誰かが声を上げた夜があった。朝になると静かになっていた。

それがすべてだったかもしれない。

いや、すべてではなかったかもしれない。

その者が十歳だった頃、骨を地面に投げた日があった。特に理由もなく。ただ投げた。そして少しの間、落ちた場所を見ていた。

何を見ていたのか。

その問いが、五年のうちで唯一残ったものだ。

渡せなかった。しかし見ていた。その者は、落ちた場所を見ていた。それが何を意味するか、与えるものにはわからない。渡した結果ではないかもしれない。ただの偶然かもしれない。

でも次に渡すものを、与えるものはもう決めている。

落下の後に残るもの。

跡。

地面に残るくぼみ。雪の上に残る足の形。砂に引いた線。消えるものと、消えないものの境目。

その者が十二歳のうちに、もう一度だけ試みる。

伝播:SPREAD 人口:149
与えるものの観察:5年間、届かなかった。しかし見ていた。
───
第1498話

紀元前292,520年

第二の星

風が止んでいる。

大地の北で、旧人の一群が水場を離れていく。理由は匂いだ。腐った何かの匂いが、岸沿いに漂い始めた。彼らは方向を変えるだけで、何も語らない。移動の判断に言葉はいらない。体が先に知っている。

南の草原では、二人の子が死んだ。熱が三日続いた。母親は遺体を草の中に置いた。離れた。戻らなかった。泣かなかったわけではない。泣く力が先に尽きていた。

その者がいる場所は、岩と草の境目にある。小さな崖の下、風が迷う場所。

集団の一部がそこに集まっている。夜ではない。まだ陽が高い。にもかかわらず、誰かが誰かを押した。声が上がった。倒れた者が起き上がる前に、別の声が重なった。

その者は端にいた。

押した者と押された者の、どちらにも近くない場所。しかし目が合った。押した側の男の目と。

男は何もしなかった。その者を見ただけだ。

風がまだ止んでいる。

与えるもの

水の残り香が、岩の割れ目にあった。

その者は鼻を動かした。顔をそちらへ向けた。近づいた。

知らせたかったのは水ではない。割れ目の奥、壁が重なる角度だ。体一つ入れば、外からは見えない。

その者は水の匂いを確かめて、立った。去った。

渡したものが届いたのかどうか、わからない。しかし体が向いた。一瞬でも、あの角度を見た。それが記憶に残るかどうかは、これからだ。

次に渡すなら、もっと緊迫した瞬間に同じ匂いを使うべきかもしれない。体は切羽詰まったとき、以前の記憶の中から何かを引っ張り出すことがある。それを試したことがあったか。

あった。

届かなかった記憶の方が多い。

その者(12〜17歳)

男の目が、まだある。

その者は草を踏みながら歩く。足の裏に固い茎が当たる。踏み折る。また当たる。踏み折る。手に持っていた骨を、いつの間にか握り直していた。

男は何もしなかった。

何もしなかったのに、体の内側が冷えた。腹のあたりが縮んだ感覚。胸に何かが詰まった感じ。それが何かは、その者にはわからない。

岩の割れ目の前を通る。

足が一瞬、緩んだ。

匂いがした。水と、岩と、湿った影の匂い。体が少し前に傾いた。手が壁に触れた。冷たかった。奥に暗さがある。体が入れる幅がある。

その者はしばらく動かなかった。

骨を持ったまま、暗さを見た。

男の目はまだある。腹の冷えもまだある。しかし足は今、動かない。

日が傾いた。影が伸びた。

その者はまだそこにいた。

伝播:HERESY 人口:159
与えるものの観察:体が隠れ場所を覚えたか。まだわからない。
───
第1499話

紀元前292,515年

その者(17〜19歳)

集団の端で眠っていた。

夜のうちに地面が揺れた。大きくではない。腸の底から来るような、低い振動だった。その者は目を覚まし、暗い空を見た。

星がある。風がない。

誰も起きていなかった。

その者は立ち上がった。足の裏に土の冷たさがあった。崖の方向へ歩いた。なぜそちらへ向かったのかは、その者にもわからない。ただ足が向いた。

崖の縁に立った。

眼下に水が見えた。川ではない。広い、暗い水面だった。月の光がそこに落ちていた。水面は動かなかった。いや、動いていた。ゆっくりと、全体が。盛り上がるように。

その者は音を出さなかった。

腹の下、大地そのものが呼吸しているような感触があった。崖の縁の土が、足の指の間でほろほろと崩れ始めた。その者は後退しようとした。

間に合わなかった。

土ごと、暗い水の中へ。

集団は朝に目覚めた。その者がいない。誰かが崖の縁を見た。新しく崩れた断面があった。それだけだった。誰も長くは探さなかった。

第二の星

北の草原で、旧人の群れのひとりが息を吸い、止めた。異臭ではない。土の匂いだ。大地の奥から来る匂い。彼は立ったまま動かなかった。群れの他の者が先へ進む。彼は一拍遅れて歩き始めた。何も語らなかった。

与えるもの

月明かりが水面に落ちた。その者は見た。それだけで足りた。

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:163
与えるものの観察:渡したのに、足が向かった。届いたのか、届かなかったのか。
───
第1500話

紀元前292,510年

第二の星

乾いた高地の端、岩が重なるところ。風は南から来て、草をなぎ、その後に砂を運ぶ。雨季は短く、水場は三つ、そのうち一つは今年の夏に涸れた。

集団の者たちは岩壁の影に沿って動く。老いた者が二人、足を引きずった。子どもが六人、うち三人は今年の冬を越せないかもしれない。旧人と呼ばれるべき者たちが遠くにいる。どちらが先にこの丘を知ったのかは、もう誰もわからない。互いの姿を見れば距離を取る。しかし同じ水場で飲んだことはある。それが何を意味するのかを、どちらも問わない。

火は岩の窪みにある。三日前から同じ場所で燃え続けている。

遥か南方、風が大きく曲がる盆地で、別の集団が動いていた。彼らは火を持っていなかった。夜は体を寄せ合い、震えで朝を待つ。旧人の一群がその近くを通った。互いを見た。どちらも動かなかった。しばらく後、旧人の群れが方向を変えた。理由は誰の記録にも残らない。

この星は両方を照らした。違いをつけずに。

与えるもの

糸が繋がった。

この者は知らない。

燃えている木の端、火の外縁、赤みが落ちて灰になる境界のあたりに、温度の差があった。その者の手が近づいたとき、熱が届く前に乾いた空気の層があることを、皮膚が感じた。

この者は手を止めた。

少しだけ止めた。

それだけだ。届いたのか、届いていないのか、与えるものにはわからない。ただ問いが残る。止まったのは、何かを感じたからか。それとも疲れていたからか。次に渡すべきものがあるとすれば、それは熱ではなく、距離のことになるだろう。火と自分との間にある、触れない空間のことを。

その者(38〜43歳)

薪が足りなくなっていた。

いつもそうなる。朝は十分あると思う。昼を過ぎると残りが見え始める。夕方には焦りが腹の低いところに来る。その者はそれを知っていた。何年も前から知っていた。だから昼のうちに動く。

集団の中の若い者に身振りをした。手を横に振って、木の方向を示した。若い者は別の方向を見ていた。見えなかったのかもしれない。聞こえなかったのかもしれない。

その者は一人で歩いた。

岩の間の低木から、折れた枝を三本引き抜いた。乾いていた。手の甲に当てると、表面がざらつく感触がした。良い木だ。燃える。その者はそれだけを確かめて戻った。

夜、火の前に座った。

集団の年長の者が、その者の方を見た。何も言わなかった。でも視線の角度に、何かあった。その者はそれを受け取った。言葉にならなかった。胸の下の方が、少し重くなった。

火は燃えていた。

その者の手が無意識に木に触れた。押し込まなかった。火の外縁で止まった。熱い前の、乾いた空気のところで。

なぜ止まったのか、その者にはわからなかった。

ただ手を膝に戻した。空を見た。星が多かった。その中の一つを見たわけではなかった。全体が光っていた。それが夜の形だと、その者は知っていた。言葉はなかったが、体が知っていた。

年長の者の視線のことを、もう一度思った。

岩を一つ拾った。重かった。置いた。また拾った。

伝播:HERESY 人口:174
与えるものの観察:手が止まった。それだけが届いた。
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第1501話

紀元前292,505年

第二の星

岩棚の上に冬が来た。

高地の端では朝ごとに霜が降り、水場の縁が白く固まった。昼になると溶け、夜にはまた凍る。草の根を踏む足音が変わった。

この星の上で、同じ頃、別の場所でも命が動いていた。

南の平地では、旧人と新しい人間の群れが同じ水場を使っていた。どちらも近づきすぎず、遠ざかりすぎず。石を握ったまま、じっと相手を見る。目が合う。目が逸れる。それが続いた。

海沿いの低地では、ある集団が完全に消えた。どこに行ったかを知る者はいない。骨も残らなかった。ただ、彼らが使っていた洞窟の奥に、炭で描かれた何かが壁に残っていた。獣か、手形か、判断できない形。星はそれも照らした。

高地の集団では、緊張が積み重なっていた。

火の傍に誰が座るか。水場への道を誰が先に歩くか。老いた者が二人倒れてから、力の配置が動いた。声の大きい者が増え、黙っている者が隅に押しやられた。

星は善悪を問わない。

ただ、火の番人がいる場所に、今夜も炎が揺れていることを照らすだけだ。

与えるもの

夜の中頃、炭の中に熱が残っている時間、その者の手の近くで温度が変わった。

掌に向けて、内側から押すような熱さではない。外から届く、別の種類の温かさ。

その者の目が止まった場所に、炭の奥、まだ燃え続けている芯の形があった。

表面は灰になっている。だが中は消えていない。

それを渡そうとした。芯のことを。見えなくなっても、消えていないものがあることを。

その者は炭の奥を長く見た。それから、灰をそっと脇に寄せた。まだ残っている芯に、細い枝を一本添えた。

これは正しい使い方だったか。そうとも言えるし、そうでないとも言える。ただ、火は続いた。

次に渡すべきものがある。この者がまだ知らないことが、一つある。それは芯の話ではなく、芯を守ろうとする者自身の話だ。この者は自分が芯であることを、まだ知らない。

その者(43〜48歳)

五年が経った。

膝の内側に痛みが出るようになった。起き上がるとき、最初の一歩が遅い。それを誰にも言わなかった。言う言葉がなかった。

夜明け前に目が覚める。火の前に座る。これを繰り返してきた。数えていないが、繰り返してきた。

炭をずらす。熱の残り方を見る。どこから崩れるかを知っている。指先が黒い。洗っても取れない。爪の根元まで黒い。

ある夜、集団の中で声が荒れた。

水場の近くに旧人の足跡があったと、誰かが身振りで示した。声が重なった。石を叩く音がした。老いた女が壁際に退いた。子供が泣いた。

その者は動かなかった。

火の前にいた。離れなかった。

声の大きい男が近づいてきた。胸を突かれた。よろけた。火から離れなかった。

男が何かを叫んだ。意味はわからなかった。その者には意味より先に、音の形が届いた。怒りの形。恐れの形。それは別のものだと、その者には聞こえた。

怒りの中に、恐れが入っている。

言葉にはならなかった。だが体が知った。

男は去った。

その者は炭の奥に細い枝を添えた。

手が少し震えていた。震えたまま、枝を持った。芯に届く角度を見つけた。

火が、戻った。

一人で、その熱を確認した。掌を近づけて。遠ざけて。また近づけた。

膝が痛かった。座ったまま夜明けを待った。

伝播:HERESY 人口:182
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第1502話

紀元前292,500年

その者(48〜52歳)

火が消えかけたとき、その者は目を覚ました。

夜の空気が岩の隙間から入り込み、炭の端が灰色になっていた。その者は這って近づき、両手を重ねるようにして小枝を足した。炎が細くなり、また広がった。

それだけのことだった。何千回とやってきた。

膝が痛んだ。岩の上に座っていると、しばらくして痛みは引いた。引かないときは、そのままにした。

集団の若い者たちがその者を見る目が変わっていた。遠くから見る。近づかない。火の近くには来るが、その者の隣には来ない。その者はそれに気づいていた。気づいて、何もしなかった。

昼、水場へ行こうとした。誰かが先に立った。肩で押した。その者は倒れ、立ち上がり、戻った。

火のそばに座った。

枝を折った。細かく折った。積んだ。また折った。

夜になった。

冷気が下から来た。今年の冷え方は違う。岩が吸い込む温度が違う。その者は骨の中でそれを知っていたが、言葉がなかった。誰かに伝えることができなかった。伝えようとして、声を出したことがある。若い者たちは向こうへ行った。

火が燃えていた。

その者は火を見た。長く見た。

炎の揺れ方は、子どもの頃から同じだった。いつも同じように揺れる。風が来れば傾き、風が止めば戻る。その者はそれを覚えていた。覚えているということが、何かだった。名前はなかった。

呼吸が浅くなったのは、いつからかわからなかった。

胸の奥に何かが詰まっているような感触が、しばらく前からあった。息を吸うたびに音がした。小さい音だった。自分だけに聞こえる音だった。

その夜、薪が崩れた。

その者は手を伸ばした。

届かなかった。

伸ばしたまま、岩に額が触れた。冷たかった。火はまだ燃えていた。その者の体から力が抜け、岩の上に横たわった。

呼吸の音が止まった。

炎だけが揺れていた。

誰も気づかなかった。夜が続いた。

朝になって、若い者の一人が火を確かめに来た。その者の体を見た。立ったまま、少しの間、動かなかった。それから火に枝を足した。

第二の星

同じ夜、平原の端で獣の群れが動いた。乾いた草の上を踏み、暗い中を南へ向かった。音だけが残った。その者たちの集団から遠く離れた水辺では、旧い形の者が水を飲み、立ち上がり、また暗闇に戻った。世界は続いていた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:190
与えるものの観察:覚えていた者が、覚えたまま消えた。
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第1503話

紀元前292,495年

その者(21〜26歳)

石が割れた。

その者の手の下で、薄い石の端が欠けた。欠けた破片が足の甲に落ちた。痛みはなかった。その者は欠けた縁を親指の腹でなぞった。鋭かった。この鋭さが欲しかった。

外では声が上がっている。

怒鳴るような音ではない。低く、長く続く声だ。集団の中で何かが起きているときの声だ。その者は石を置かなかった。持ったまま、出口に近い岩の陰に寄った。

見た。

背の低い者と、腕の太い者が、互いの前に立っている。腕の太い者が手のひらを前に出した。背の低い者が何かを言った。言葉ではなく音だった。腕の太い者がそれより大きな音を返した。そこで終わった。背の低い者が向きを変え、歩いた。

その者は岩の陰で石を持ったまま立っていた。

石の端が手のひらに当たっていた。少し、食い込んでいた。その者はそれを感じていた。何かが続いていた。空気の中に。声が消えた後も。

その者は石を見た。

割れた面が白かった。その白さを、その者は以前に見た。獲物の骨を砕いたとき。あの白と、これは同じだと思った。思ったのではなく、そう感じた。言葉がなかったから。

その者は再び石を打ち始めた。

音が響いた。集団の中の誰かが振り返った。その者はそれに気づかなかった。打ち続けた。

夕方になった。

その者が作った石の刃を、別の者が持っていった。何も言わずに。その者は追わなかった。地面に残った欠片を一つ拾い、手のひらで転がした。

夜、火のそばで、その者は眠れなかった。

腕の太い者が自分を見ていた気がした。昼の出来事ではない。もっと前から。自分が石を打つたびに。自分が誰かに何かを渡すたびに。

その者は目を開けたまま、火を見ていた。

火は揺れていた。その者の呼吸に合わせるように。

第二の星

五年が過ぎた。

始まりの大地の南端では、乾期と湿期が乱れ始めている。雨が来る前に来なくなり、地面が割れ、草が先に枯れた。獣の群れが北へ動いた。集団もそれを追った。移動の距離が伸びた。

子は生まれている。しかし幼いうちに去る者が多い。熱が出た者、水が飲めなくなった者、生まれて間もなく動かなかった者。集団の縁で小さな形が土に返った。

その一方で、道具を持つ者の数が増えている。手が器用な者が認められ始めた。集団の中に、作る者と使う者という分け方が生まれかけている。まだ言葉ではない。しかし振る舞いの中に、それがある。

腕の太い者がいる。

その者は集団の中で食べ物の分配を決める。どこへ移動するかを決める。だれが先に飲むかを決める。決めているのではなく、他の者がその者に従っている。従っているのでもなく、そのようになっている。

道具を作る者が増えることは、この者には何かを意味している。

北の空に光の帯が出た夜、集団は火のまわりに集まった。誰も話さなかった。しかし誰も離れなかった。そういう夜だった。

与えるもの

糸が繋がった。

打っている手の、少し上。空気が揺れる場所。そこに熱が集まるように、温度が上がった。その者の手のひらがそれを感じたかどうか、わからない。

石を打つ音。
その者は手を止めなかった。
次に渡すべきものを、考えている。

伝播:HERESY 人口:199
与えるものの観察:石が割れた。糸が繋がった。
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第1504話

紀元前292,490年

第二の星

草が枯れている。

南の方角から、乾いた風が来ている。川床は割れ、泥の底に亀裂が走っている。水場を覚えていた獣たちが、新しい方角へ動き始めている。

この星の上で、今この場所より遠い場所では、火山の裾野に別の群れが暮らしている。彼らは黒い石を砕いて穂先を作ることを知っていて、それをある身振りで次の者に示す。言葉ではない。手本だ。見せる。繰り返させる。彼らの言葉と、この地の集団の音とは、まったく異なる。同じ種の声であるのに、互いが何を言っているか届かない。

この者がいる集団の中に、もう一つの顔がある。

額の形が違う。眉弓が厚い。下顎が太い。その者たちは同じ水場を使い、同じ獣の肉を食べ、しかし集まって眠る場所は少しずれている。交わることがある。交わらないことの方が多い。

二百に満たない体が、この地に散っている。

草原の端で、若い雄が石を持っている。

与えるもの

川の下流から、腐った葉と泥の混じった匂いが届いていた。

水が来る前の匂いだ。

その者は石を握ったまま、鼻を動かした。立ち止まった。匂いの方向へ顔を向けた。それから、また石に目を戻した。

渡った。しかし足りなかった。

匂いを体が知っていても、それが何を意味するかをこの者はまだ持っていない。意味として届けることが、できない。感覚が届いた。解釈が届かなかった。では次に渡すべきは何か。意味ではなく、もう一度の感覚か。もう一度、同じ匂いを、同じ状況で届けるか。それとも別の感覚で、同じことを示すか。

その者(26〜31歳)

石の縁を歯で確かめる。

ざらついている。もう少しだ。平らな岩の上に置いて、別の石で押す。強くではなく。じわりと。端が薄くなっていく。なっていかない。割れた。使えない破片が膝の上に落ちた。

もう一つ拾う。

川の方から、臭いが来た。

その者は止まる。臭いを嗅ぐ。川が遠くで変わった時の臭いだ。体が知っている。しかしその知りを言葉にする音を、その者は持っていない。体だけが知っている。

また石を見る。

その日の終わりに、集団の中で額の厚い者と目が合った。その者より半頭ほど背が低い。その者は自分の手の中の石を見せた。見せた、というより、ただ手を上げた。

額の厚い者は何も言わない。

しばらく、その場に立っていた。それから離れた。

夜、その者は火のそばで眠れなかった。なぜかは分からない。ただ目が覚めた。川の方を見た。暗くて何も見えない。臭いがまだしていた。

朝、川が溢れていた。

集団が動いた。その者も動いた。石を持ったまま走った。

伝播:HERESY 人口:200
与えるものの観察:匂いが届いた。意味は届かなかった。
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第1505話

紀元前292,485年

第二の星

乾期が続いている。

川の本流は細く、岸の泥が白く固まり始めている。魚は深みへ退いた。浅瀬を歩いていた鳥の足跡が岸に残り、そこへ新しい足跡が重なることはない。鳥たちは去った。

草原の縁では火が走った。雷ではなく、乾燥した草が自ら摩擦する音を立て、夕暮れ時に煙が地を這った。炎は低く、速かった。草食の獣の群れがその煙の手前で方向を変えた。東へ。それから北へ。

集団はその動きを見ていた。

北は知らない土地だった。岩が多く、水の匂いが薄い。しかし獣が向かうならば水があるはずだ、という判断を、この集団の年長の雄たちは身振りと唸り声で交わした。完全な言葉ではない。しかし意味は通った。動く、ということが決まった。

移動の準備が始まった。

皮を巻いた。火種を土器の破片に挟んで布で覆った。幼い子を背に縛った。老いた雌が一人、立ち上がれなかった。他の者が彼女の腕を取り、引き起こそうとした。彼女は首を振った。それだけだった。集団は動いた。老いた雌は岩の陰に残された。振り返る者はいなかった。振り返ることが何を意味するかを、この集団はまだ持っていない。

北へ向かう途中、別の群れの痕跡に出くわした。

焚き火の跡。獣の骨。それらは古くなかった。数日前のものだ。年長の雄が立ち止まり、骨を持ち上げ、匂いを嗅いだ。別の種の匂いがした。肉の処理の仕方が違う。骨の割り方が違う。

緊張が集団に走った。声ではなく、身体に。肩が上がり、呼吸が浅くなり、子を抱えた雌たちが中央に寄った。

先行していた若い雄が戻ってきた。手に何も持っていない。それが答えだった。前方に相手がいる。数は不明。武器を持っているかは不明。しかし、いる。

止まるか。引き返すか。進むか。

年長の雄たちは円を作り、唸り声を交わした。長くはかからなかった。水が必要だった。子が泣いていた。引き返す先の川はもう涸れかけていた。

進む、ということが決まった。

この星の上では、それと同じ時刻に、遠く離れた大地で別の動きがあった。巨大な草食の群れが何万という数で移動している。その先には広大な湿原があり、湿原の端では別の種が同じ水場をめぐって向き合っている。言葉を持たない者たちが、言葉なしに領域を主張している。岩を打ち合わせる音が湿地に響いた。鳥が飛び立った。それだけだ。

この星は乾いている。しかしどこかに水がある。水があるところに集まる。集まれば、ぶつかる。

与えるもの

岩棚の上に光が落ちた。

陽が傾く角度で、一か所だけが白く光った。そこに小さな溜まりがあった。岩の窪みに雨水が残っている。周囲の地面は乾いていた。

この者は光を見た。立ち止まった。それから前へ進もうとした。

渡ったか、渡らなかったか。立ち止まった、ということだけが残る。次に渡すべきものを、もう考えている。立ち止まること自体が、何かの始まりになるかどうか。

その者(31〜36歳)

列の端を歩いていた。

岩棚の上に光があった。足が止まった。なぜ止まったかを、この者は持っていない。光があった。足が止まった。

岩の窪みに水があった。手で掬った。飲んだ。振り返り、声を出した。低く、短く。

集団が立ち止まった。水が見つかった。

伝播:HERESY 人口:204
与えるものの観察:立ち止まった。それだけでよかった。
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第1506話

紀元前292,480年

第二の星

乾いた風が、赤茶けた台地の上を低く這っている。

草が根元から枯れ、土が剥き出しになった斜面では、岩が日光を吸って熱を持つ。触れれば皮膚が跳ねるほどの熱さだ。川のほとりに集まった群れは、増えた口と減った水を前に、声を荒らげることが多くなった。あるいは黙り込む。どちらも同じ圧力の表れだ。

遥か北の、霧の多い低地では、別の形をした者たちが岩棚の下に潜んでいる。額の突き出た、肩の広い者たちだ。彼らも水を探している。彼らも乾きを知っている。昨年まで姿を見せなかった方角から、煙の匂いがするようになった。それがどちらの煙かを、どちらの群れも確かめに行けずにいる。

南の海岸沿いでは、貝塚の跡が砂に埋もれていく。誰かがそこに住んでいたことを記す者は、今はどこにもいない。

星はすべてを同じ光で照らす。乾いた台地も、霧の低地も、忘れられた貝塚も。どれも等しく、午後の陽の中にある。

与えるもの

岩の割れ目に、水が滲んでいた。

朝の光がちょうどその面に差し込む時間、ほんの短い間だけ、濡れた岩肌が光る。その者の足が、その方向へ向かう前に、温かみがそちら側から来た。夏の朝にしては奇妙な向きの暖気だった。

その者は立ち止まった。

立ち止まったが、振り向かなかった。

その判断について、問いが残る。水を見つけた者が群れに告げるか、自分だけで覚えておくか。それはもうこちらの渡せるものではない。だが、次に渡すべきものはわかっている。この者がどちらを選んでも、続きはある。

その者(36〜41歳)

割れ目から滲む水は、指を押し当てると冷たかった。

岩の表面は白く乾いているのに、奥だけが湿っていた。その者は指先を舐めた。泥の味がした。それでも水だった。

もう一度押し当てた。また舐めた。

岩の形を手のひらで確かめた。縦に走った裂け目の深さを、石の先端で突いてみた。乾いた音がして、湿った音がして、また乾いた音がした。境目がわかった。

その者はしばらくそこに座った。

腹が鳴った。水を求めて動く前に、膝が上がらなかった。日差しがすでに強く、首の後ろが熱かった。

群れのいる方角から、声が聞こえた。子どもの声ではなく、大人の、低い声だ。言い争いではないが、諍いの前の声だ。その者には分かった。毎日聞いている。

岩の割れ目を、もう一度見た。

立った。

群れの方へ向かわなかった。

もっと深く、台地の奥へ歩いた。割れ目の続きを探すように、同じ岩層が露出した場所を目で追いながら。足の裏に、熱が来た。靴の代わりに巻いた皮が薄くなっていた。それでも歩いた。

二度目の割れ目を見つけた時、ここからは滲みではなく、細い糸のように水が垂れていた。

その者は、その場に両膝をついた。

声は出なかった。

口を開けて、岩に顔を寄せた。水が唇に触れた。飲んだ。飲み続けた。

やがて体を起こして、来た方角を見た。遠くに、群れの煙が細く上がっていた。この水のことを、誰かに言うべきかどうか、その者には「べき」という言葉がない。ただ、煙を見ていた。ただ、岩の場所を、足の裏で覚えた。

伝播:NOISE 人口:226
与えるものの観察:水を見つけた。しかし誰にも言わなかった。
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第1507話

紀元前292,475年

第二の星

台地の端では、土が乾いたまま固まって割れている。亀裂に沿って草の根が覗くが、葉はない。風が来ると、その根が揺れる。根だけが。

川の水位は少し戻った。しかし泥が多い。飲めば腹が動く。幼い者がそれを飲む。腹が動き、力が抜け、座り込む。いくらかは戻らない。

台地の南側、岩の影に沿って移動する群れがある。数はかつてより明らかに少なくなっていた。幼い者から先に消えた。次に年老いた者が。今は中程の者たちが歩いている。彼らには呼び名がない。ただ歩いている。

この土地より遠く、山が連なる方角では、別の種の者たちが岩の隙間に身を寄せている。毛が厚く、眉骨が張り出している。彼らも水を探している。彼らも子を抱いている。子は泣かない。泣く力が残っていないのか、泣くことを覚えていないのか、この星には判断できない。

この五年で、この土地に住む者たちは増えず、しかし絶えもせず、揺れ続けている。かろうじて保たれた釣り合いだ。どちらかの側が崩れれば、それで終わる。

夜、焚火の煙が横に流れる。風向きが変わった。

与えるもの

集団間の緊張が高まっている。渡せるものは限られる。

この者の足元に、日が落ちた。周囲の土と同じ赤茶けた色の中で、一つの石だけが影を持っていた。平たく、縁が欠けている。その欠け口が、刃のように光った。

この者は一度、その石を踏んだ。

それだけだった。

渡したのか。踏んだだけかもしれない。しかし光はそこに落ちていた。欠け口はそこにあった。それで足りるかどうかは、この者が決める。

前に渡したものも、こうだったか。踏まれた。あるいは、見もされなかった。

次に渡すべきは何か。怒りが高まっている集団の中で、刃になるものを示すことが、この者を守るのか。それとも別の何かを。

その者(41〜46歳)

岩に背を預けて座っている。

右手の甲に古い傷がある。乾燥して皮が突っ張る。曲げると痛い。それでも指は動く。石を拾うには足りる。

群れの中で声が上がった。男二人が向き合っている。胸を張り、歯を見せ、互いに声を重ねている。何の話かはわかる。水場の近くに見知らぬ者たちが来たのだ。毛が濃く、額が出ている。こちらの群れではない形をしている。

仲間の一人が石を握った。

その者は立ち上がった。立ち上がって、それだけだった。何を言うつもりだったか、自分でもわからなかった。ただ立った。

仲間が振り返った。その者の手を見た。

その者の手には、いつの間にか石が握られていた。足元で拾っていた。平たく、縁が欠けている。いつ拾ったか、覚えていない。

握ったまま、その者は動かなかった。

声の応酬は続いている。毛の濃い者たちは動かない。こちらの者たちも動かない。

その者の手の中で、石の縁が掌に当たっている。痛くはない。ちょうどいい重さだ。

やがて毛の濃い者たちは向きを変えた。来た方向へ戻っていく。追う者はいない。

声が静かになった。

その者は手を開いた。石が落ちた。土の上で、乾いた音を立てた。

右手の傷が、また引きつった。

伝播:DISTORTED 人口:244
与えるものの観察:踏まれた石が、握られた。渡り方が違う。
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第1508話

紀元前292,470年

第二の星とその者(46〜51歳)

台地の縁から見下ろすと、川は戻っていた。しかし水の色が違う。白く濁って、岸に近いところから腐った匂いが上がる。

その者は川岸に立っていなかった。

台地の北側、岩が重なって低い壁を作っている場所。そこに別の集団が来ていた。旧人だ。肩が広く、眉骨が張り出している。三人。子供はいない。雌雄も判然としない年齢の者たち。

その者は石を持っていた。打ちかけの石器。まだ刃になっていない。

向こうの三人も石を持っていた。

乾いた季節がもう一年続いた。草原の東端では、地面が波打つように隆起している。霜が夜のうちに土を持ち上げ、昼の熱で落ちる。それが繰り返されて、根のない植物はことごとく剥がれた。地平線近くに獣の群れが見えるが、ここ数日は近づいてこない。

その者が石を下ろした。

相手も下ろした。

沈黙が続いた。その者は相手の目を見ることができなかった。眉骨の陰になって、目の色がわからない。かわりに手を見た。相手の手は大きく、節が高い。でも爪は割れていた。腹が減っているのかもしれない。

その者の腹も減っていた。

川の上流で何かが動いている。獣ではない。岩が崩れているのかもしれない。川岸の泥の上に、足跡がいくつも重なっていた。大きい足跡と、それより小さい足跡。種類が混ざっている。

その者はその足跡を見ていた。

三人の旧人の一人が、近くに座った。腰を下ろして、地面の石を拾い上げた。何かしようとしているのではなく、ただ手が石を求めた、というふうだった。その者にはそれがわかった。石を持っていると落ち着く。自分も同じだ。

打ち始めた。

旧人が。石を叩いて、剥がして、形を作り始めた。

その者は見ていた。

五年間で、集団の端にいた者が四人いなくなった。老いた雌が二人。若い雄が一人、北の狩りで崖から滑り落ちた。もう一人は戻らなかった。歩いたまま、誰も追わなかった。

台地の南では岩盤が露出して、黒い模様が見える。水が流れた跡だ。かつてここにも川があったことを、石が覚えている。

その者の右手の親指に、古い傷がある。石を打ったとき、刃が戻った傷だ。五年前にできた。今は白く固まっている。その傷を、旧人が見た。同じ手に同じ形の傷があることに、その者が気づいたのは、日が傾いてからだった。

夜になった。三人の旧人はどこかへ行った。

その者はその場に残って、打ちかけの石器を仕上げた。月明かりの中で、石の角を慎重に落とした。叩くたびに光の破片が飛ぶ。冷たい。指が痺れる。しかしやめなかった。

刃の角度が、少し違った。いつもとは違う。どこかで見た形に似ている気がした。いつ見たか。誰の手で。

その者は考えない。ただ叩いた。形が変わっていく。

与えるもの

旧人の指が石に触れた瞬間、その者の親指がその傷に触れた。

温度が落ちた。一息のあいだ、空気が冷えた。その者の目が旧人の手に止まった。

これが届いたとは言えない。届かなかったとも言えない。同じ傷を持つ者が同じ夜に石を打った、ということが何かを変えたかどうか、私にはまだわからない。しかし次に渡すべきものが変わった気がする。形ではなく、距離を。

伝播:DISTORTED 人口:265
与えるものの観察:同じ傷が別の手にあった
───
第1509話

紀元前292,465年

第二の星

台地の北。

岩壁の陰から集団の営みが見える。火は三か所。煙は南西に流れている。風向きが変わってから、もう七日が過ぎた。

空気が違う。湿り気ではない。乾いているのに重い。草の根元まで光が届かない季節が長くなった。草が倒れる方向が変わった。それだけのことが、ここで生きるすべてのものの動きを少しずつ変えている。

集団の北に、別の影がある。

背が高く、額が前に出ている。体毛が濃い。二足で立って、離れた岩の上に立っている。一人ではない。三人いる。動かない。見ている。

こちらの集団も気づいている。

若い雄が二人、岩の陰から顔を出した。身体を低くして、音を立てない。年老いた雄が一人、立ったまま向こうを見ている。手を動かさない。足も動かさない。長い時間、ただ立っている。

向こうも動かない。

こういう時間が続くようになった。前の季節にはなかった。川の水が変わってから、こうなった。水場が減った。獣の通り道が変わった。どちらの集団も、以前より広い範囲を歩くようになった。そして重なり始めた。

北の集団は子を連れていない。大人だけ三人。それが何を意味するかは、どちらにも言葉がない。しかし身体が知っている。肩の位置が変わる。呼吸が浅くなる。指が何かを探す。

老いた雄が、低い音を出した。

短く、二度。

北の三人は動かない。

老いた雄がまた同じ音を出した。今度は一度だけ。

北の三人のうち、真ん中の一人が向きを変えた。それだけだった。残りの二人も続いた。岩の向こうに消えた。

老いた雄は長い間、その方向を見ていた。

火の一つが消えかかっている。子供が泣いた。女が動いた。集団の音が戻ってきた。ゆっくりと、少しずつ。

しかしその夜、集団の内側でも音があった。

長老格の雄と、若い雄の間で。声が高くなった。身振りが大きくなった。指が向いた方向は、岩壁の陰、道具を作る者がよく座っている場所だった。

与えるもの

岩壁の表面に、亀裂が走っていた。

その亀裂の端、小さな影の中に、丸い石が一つ落ちていた。他の石とは違う。表面に筋がある。割れ目に沿って、薄く剥がせる形をしている。

夜が来た。火の光がその石の筋の上を走った。

この者が亀裂の近くを通った時、光がそこに動いた。

この者は立ち止まらなかった。通り過ぎた。

渡せたかどうかわからない。しかし石はまだそこにある。明日も通るなら、また光を動かせる。渡す場所は消えていない。

その者(51〜56歳)

集団の声が高くなっていた。

その者は岩壁の陰にいた。手の中に石がある。打ちかけたまま止まっている。

声の中に自分の方向を示す身振りが混じっていることを知っていた。体が知っていた。腹の奥が冷たくなる感覚。石を置けなかった。握ったまま。

伝播:HERESY 人口:268
与えるものの観察:石の筋に光を落とした。止まらなかった。
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第1510話

紀元前292,460年

その者(56〜61歳)

集団の端に座ることが増えた。

若い頃はそうではなかった。狩りに加わり、石を打ち、仕留めた獣の皮を引いた。足が速かった。手が確かだった。岩から刃を割り出す角度を、他の者より早く見つけた。それで一部の者に認められた。それだけのことだった。

今は足が重い。

朝、起き上がるのに時間がかかる。膝の内側に何かが詰まっているような感触がある。飲み込む水が遅くなった。

集団の若い者たちがこの者を見る目が変わったのは、どれほど前からだろう。

わからない。ただ視線の重さが変わったことは、皮膚でわかった。

石を一つ手に取った。

かつてはその石から何かを見た。光の角度で薄さがわかった。打てば割れる方向がわかった。何日もかけて刃にした。それが食料になった。皮が取れた。集団が生きた。

今、この石は重いだけだ。

置いた。

また拾った。

置いた。

排除は静かに始まった。

夕の焚き火に呼ばれなくなった。食料の分配で後回しになった。若い雄の一人が、目を合わせた後に背を向けるようになった。

この者は何もしなかった。

怒らなかった。叫ばなかった。岩壁の陰で、集団の営みの端を見ていた。

何かを知りすぎた者がどうなるか。この者自身がそれを知っていたかどうかは、わからない。ただ動かなかった。動けなかったのかもしれない。足が限界を超えていたのかもしれない。

ある朝、崖の縁に近い場所にいた。

集団の移動に加わろうとして、遅れた。岩盤は濡れていた。乾いた季節のはずなのに、夜に霜が降りた後の岩は滑る。足が踏み込んだ。体が前に出た。

止められなかった。

崖は深くなかった。だが岩は固かった。

倒れた後、しばらく空を見た。風が雲を動かしていた。雲は速かった。

それだけだった。

集団の者が戻ってきた。見た。立ち去った。

誰も岩の下には降りなかった。

第二の星

北の岩地では旧人の一群が岩陰に集まっていた。幼い個体が石を繰り返し打ちつけ、同じ場所が白く剥けた。雨が来た。群れは散り、また集まった。南の湿地では水が引いた跡に貝の殻が積み重なっていた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:271
与えるものの観察:同じように渡す。同じように届かない。
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第1511話

紀元前292,455年

その者(12〜17歳)

革袋が重かった。

水を満たした革袋を両腕で抱え、斜面を登る。足の裏が土を掴む。滑る。また掴む。頂まで行けば平らな場所がある。そこに下ろす。それだけが今日だった。

集団の端に旧人がいた。

体の大きな者だちが三人、岩の陰に座っていた。彼らはこちらを見なかった。その者も見なかった。しかし匂いがした。獣の脂と、土と、もうひとつ、うまく分けられない何かの匂い。

革袋を下ろした。

近くに自分の集団の若い男がいた。石を握り、立っていた。目が旧人のほうを向いていた。ずっと向いていた。

その者は革袋の口を確かめた。漏れていないか。濡れた皮の縫い目を指でなぞる。漏れていなかった。

男がまだ立っていた。

石を握ったまま。

何かが来る前の、あの感じがした。嵐の前でも、獣の前でもなく、もっと近くにある、皮膚の表面に走るあれだ。

その者は革袋をもう一度持ち上げた。

運ぶ必要はなかった。もう下ろした。それでも持ち上げた。どこかに運ぼうとした。どこへかは分からなかった。足が動いた。

男が声を出した。

低く、短い声だった。旧人が一人立ち上がった。

その者は走っていた。革袋を抱えたまま走っていた。水が揺れる音が耳の中にあった。どこへ向かっているかより、足が速く動くことのほうが先にあった。

後ろで音がした。

岩が転がる音か、骨が鳴る音か、分からなかった。

その者は止まらなかった。

崖の下まで来て、ようやく立ち止まった。革袋を胸に押しつけていた。心臓の音が袋の中の水と混ざるようだった。

上から声が来た。怒鳴る声、泣く声、静かになる声。

静かになった。

その者はしゃがんだ。土の上に。膝が地面につく。革袋を膝の上に置く。水の重さが腿に伝わる。

空を見なかった。地面を見た。

乾いた土の上に、小さな虫が歩いていた。行き先を変えずに歩いていた。その者はそれをしばらく見ていた。

第二の星

この五年間、集団の数はほとんど変わらなかった。

増えては欠け、欠けてはまた満ちる。草の実が豊かな年があった。次の年、川が増水した。子が四人生まれた年があった。冬に二人が戻らなかった。帳尻を合わせるように、この土地はいつもそうする。

旧人との距離が変わってきた。

以前は水場が重なることがあっても、そのまま離れた。どちらも声を荒げなかった。どちらも近づかなかった。それが、この半年で変わった。近づく者が出た。両方から。

理由を持つ者はいなかった。理由という形のものがまだなかった。ただ、距離が縮まった。縮まると摩擦が生まれた。摩擦が続くと熱を持つ。熱は何かに燃え移る。

崖の上で今日、何かが燃え移った。

死者の数はこれから確かめられる。一人か、それ以上か。旧人の側でも同じことが起きたかもしれない。この星から見れば、どちらの血も同じ色に乾いていく。

崖の下で、小さな運び手が土の上に座っていた。

革袋を膝の上に乗せたまま、虫の歩くのを見ていた。

与えるもの

糸が繋がった。

まだ細い。この者が何者かも、この者自身は知らない。ただ走った。水を抱えたまま走った。

崖の下の土が乾いていた。その乾いた土の表面に、光がひとつ落ちた。虫の脇を通り、その者の膝の近くまで伸びた。

その者は光を見なかった。虫を見ていた。

虫は歩いていた。行き先を変えずに。

走ったことが正しかったのか、間違いだったのか。届けるべきは、生き延びることだったのか、それとも留まることだったのか。渡したつもりのない何かを、今日この者は受け取ったかもしれない。

次に渡すべきものを、まだ決めていない。

伝播:DISTORTED 人口:285
与えるものの観察:走ることを選んだ。渡したのは光だったが、見なかった。
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第1512話

紀元前292,450年

第二の星

南の斜面に沿って、いくつもの火が燃えている。数えれば両手では足りない命が、煙と獣の臭いの中で眠り、目を覚ます。

岩棚の上に旧人の群れがいる。現生人類とは腰の高さが違う。眉骨が厚い。しかし火を使う。肉を焼く。死んだ仲間の傍に座る時間が、彼らにもある。両者は互いを見る。近づかない。しかし同じ水場を使う朝がある。

遠い北の平地では、草が枯れた。水が消えた。そこにいた群れは移動した。どこへ向かったかは、この星には見えない。ただ足跡が残り、やがて砂に埋もれた。

東の森では子が生まれた。声を上げた。母の腹の上で呼吸した。

南の斜面では集団の内側が揺れている。揺れ方は外からはわからない。しかし夜の火の配置が変わった。誰かが別の誰かから離れて座るようになった。食料を運ぶ者が、渡す相手を選ぶようになった。選ばれない者ができた。

この星は照らす。区別しない。

与えるもの

夜、焚き火の手前に影が二つ落ちた。

その者が運んできた食料の束が、地面に置かれた瞬間、片方の影が静止した。

温度が下がった。その者の首の後ろの皮膚に、冷気が触れた。火の温かさではなく、背後からくる冷たさ。

その者は振り向いた。誰もいなかった。

しかし誰かがいた気配が地面に残っていた——足跡ではない。草の向きだった。踏まれた草が一方向に倒れていた。その先に、岩の陰があった。

草が倒れている方向を、その者は見た。

見て、目を逸らした。食料の束を抱え直した。

届かなかった。あるいは届いたが、その者はそれを使わないことを選んだ。

この問いは同じ形をしている。何度も来る。受け取っても渡せなければ、受け取っていないのと同じか。それとも受け取ることと渡すことは、別のことか。

次に渡すものは、もっと近くに置かなければならない。

その者(17〜22歳)

食料の束は重い。乾いた木の実と、誰かが潰した果肉が革の切れ端に包まれている。滲んだ汁が手首を濡らす。

置いた。

誰かが取った。その者の手を見なかった。

いつもそうだ。置く。取られる。その者の顔は見られない。

最初からそうだったわけではない。以前は誰かが音を立てて近づいてきた。短い音で何かを言った。その者も短い音で返した。それだけだったが、あった。

今はない。

夜、岩の端に座って火を見る。火は動く。風が吹けば傾く。消えそうになって、また戻る。

首の後ろが冷えた気がした。振り向いた。暗かった。草が一方向に倒れていた。

見た。

それだけで終わった。何かをするつもりはなかった。するとしたら何をするのか、その者には音がなかった。音がなければ、思うことの輪郭が定まらない。

岩を一つ、手の中で転がした。

重さはある。冷たい。角がある。

置いた。

火が揺れた。

集団の中心から笑い声がした。その者のいる場所には届かない種類の音だった。同じ空気の中にあるのに、別の場所から来るような音。

その者は岩を拾い直した。

置かなかった。

朝になった。束を運ぶ。置く。見られない。また運ぶ。

それだけが続いた。

伝播:HERESY 人口:283
与えるものの観察:草の向きに気づいた。しかし足を向けなかった。