2033年、人類の旅

「紀元前292,445年〜紀元前292,325年」第1513話〜第1536話

Day 64 — 2026/06/06

読了時間 約58分

第1513話

紀元前292,445年

第二の星

大地の南端では、潮が引いた干潟に貝が積み上げられていた。手のひら二つ分、膝まで、腰まで、肩まで。積まれた貝の山が点々と干潟に並び、小さな丘のように見えた。雨は適量で、川は岸を越えなかった。果実は熟れた順に落ち、落ちたものを拾う手があった。長い穏やかさの中で、集団は膨らんでいた。

子が生まれた。また生まれた。生まれた子が歩き、その子がまた子を持った。以前なら一冬に半分が消えた寒さが、来なかった。獣は遠く、水は近く、木の実は重かった。火の番をする老いた者が、若い頃とは違う、と言った。声が届く範囲にいる者が頷いた。声が届かない遠くの者は、ただ食べ、眠り、また食べた。

しかし豊かさの中で、別のものが育った。

誰が一番大きな木を知っているか。誰が水場への道を知っているか。知ることは力だった。力を持つ者は食べ物を多く受け取った。子が多く生まれた。末端で食料を運ぶ者は、知ることが少なかった。知ることが少ない者は運ぶだけだった。これは以前からそうだったが、集団が大きくなるほど、差は開いた。

岩棚の上の旧人たちは変わらなかった。腰が低く、顎が前に出ていた。しかし火の番をする。同じ川から水を飲む。冬に皮をまとう。現生人類の集団がそこに来た時、旧人たちは退かなかった。退かなかったが、攻撃もしなかった。石と石が触れる音だけが、崖の間に響いた。

夜、二つの火が別々に燃えた。

現生人類の集団の中で、ある者が言い始めた。音と身振りを交えた、短い繰り返しだった。旧人を遠ざけろ。旧人がいるから水場が狭い。旧人がいるから果実が減る。その声は一人から二人へ、二人から四人へ広がった。はっきりと届いた者もいれば、音としてしか受け取らなかった者もいた。

その声の届かない場所に、一人いた。

食料を運ぶ末端の者だった。水場と火の間を往復するだけで、集まりには近づかなかった。しかし近づかなかったからこそ、旧人の老いた一人と目が合ったことがあった。老いた旧人は革袋に水を入れていた。現生人類が使うものと形は違ったが、水を入れているのは同じだった。

その者はその日のことを何度か思い出した。何も言わなかった。

声が集まる場所で、ある朝、何かが変わった。声が大きくなった。身振りが激しくなった。末端で運ぶ者の名が、その声の中に混じった。その者が旧人と同じ水を飲む姿を誰かが見ていた。その者が旧人に近い場所にいたことを誰かが覚えていた。

集団が大きくなるほど、見ている目も多かった。

与えるもの

火の近くに、折れた枝があった。先端が炭になって尖っていた。そこに光が落ちた。岩の面に触れれば線が引けた。

その者は枝を拾った。岩に触れた。線が引けた。しばらく触れた跡を見て、枝を地面に置いた。

それで何ができるのか、まだわからなかった。しかし次に渡すなら、逃げた先の道を引けるものを、と思った。それとも、逃げることをまず渡すべきか。

その者(22〜27歳)

枝を置いた後、名前が呼ばれた。

声ではなく、身振りだった。来い、という動きではなく、あちらへ行け、という動きだった。

その者は足を止めた。荷を持ったまま立っていた。集団の外縁の方向に、身振りが繰り返された。

岩を一つ拾った。置いた。また拾った。

荷を持ったまま、外縁の方へ歩いた。

伝播:HERESY 人口:350
与えるものの観察:渡した。使われなかった。次は道を。
───
第1514話

紀元前292,440年

第二の星

草原の端で、赤い土が露出していた。

長雨の後に傾斜が崩れ、根が浮き上がり、地面が赤い。その色を見て小さな子が泣いた。理由は誰にもわからない。母親が抱き上げた。子は泣きやまなかった。

南の森で二つの集団が同じ水場に着いた。一方が先についていた。もう一方が来た。双方とも声を上げた。声は大きくなった。石が投げられた。一人が頬を切った。両者は散った。血は草の上に残った。

東の岩棚の下では、年老いた者が毛皮を巻き直していた。何度も巻き、ほどき、また巻いた。外は風が強かった。洞窟の奥から子どもの声が届いた。老いた者は振り返らなかった。

北の方角、湖の畔では、集団の半分が移動の準備をしていた。全員ではない。半分だ。残る者と去る者が互いを見た。誰も止めなかった。荷を担いだ者たちが歩き出した。

大地の上に、人が増えていた。

増えた分だけ、何かが起きていた。豊かさが場所を取り合わせ、取り合いが傷を作り、傷が記憶になった。その記憶はまだ言葉を持たない。

与えるもの

水場の手前、岩の隙間から冷たい風が漏れていた。

その風がその者の方へ流れた。

受け取った。けれど、どこかで止まった。

——渡したものが形を変えていく。それは前にも見た気がする。前に、という感覚が正しければ。

その者(27〜32歳)

南の水場から戻ってきた時、集団の中に見知らぬ顔があった。

三人。男が二人、女が一人。声の形が違う。身振りの角度が違う。その者は荷を降ろしながら横目で見た。長老格の者が前に出て、声を上げた。見知らぬ男が声を返した。長老が立ったまま動かなかった。

夜、火の周りに全員が集まった。見知らぬ三人も端に座った。

その者は火の反対側に座り、焼けた根菜をかじりながら三人を見た。男の一人が持ってきた袋を開け、何かを取り出した。形のわからないものだった。乾いて茶色く縮んだ何かだ。長老格の者に差し出した。長老は受け取り、においを嗅ぎ、かじった。

長老の表情が動いた。

その者にはその動きの意味がわからなかった。良いのか悪いのかがわからない。ただ、長老の顎が動き続けた。

翌朝、見知らぬ三人はいなかった。

その者は彼らが座っていた場所に行った。土が少し踏み固められていた。枯れ草の茎が一本、折れて落ちていた。

その者はそれを拾った。

何のために拾ったのかわからない。しばらく持っていた。川へ水を汲みに行く時に、拾った場所に戻して置いた。

水場に着いた時、岩の隙間から冷気が吹いた。首に触れた。

その者は足を止めた。

左を向いた。そこに何かがあるわけではない。岩があり、草があり、乾いた土があるだけだ。それでも足が止まった。

革袋を川に沈めた。水が入る音がした。

引き上げた袋は重かった。肩に担いで立ち上がりながら、その者はもう一度左を見た。

何もない。

歩き出した。

帰り道、坂を上がりながら、見知らぬ者が持ってきた茶色いものが頭の中に浮かんだ。何だったのか。長老はかじった。においを嗅いだ後にかじった。

食べるものか。薬か。

その言葉はまだその者にはない。あるのは感触だけだ。受け取って、嗅いで、かじって、顎が動いた、という順序だけがある。

集団に戻ると、子どもが数人走り回っていた。その者は荷を降ろし、水袋を置いた。

長老が近くで皮を伸ばしていた。その者はしゃがみ込み、しばらくその手を見た。

長老は何も言わなかった。

その者も何も言わなかった。

伝播:DISTORTED 人口:365
与えるものの観察:冷気を渡した。受け取った後、足が止まった。
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第1515話

紀元前292,435年

その者(32〜37歳)

運んでいた。

岩塩の塊が革袋の底を打つ。左肩から右腰へかけての帯が、汗で皮膚に貼りついていた。坂を上り、木の根を踏み越え、また坂。

仕事だった。ただ、運ぶ。

集団が大きくなった。岩塩を持つ者が増え、それを運ぶ者も増え、その中でこの者はいちばん遠くまで往復させられた。足が速いから。文句を言わないから。あるいは、誰かに文句を言う相手がないから。

昼を過ぎて、斜面の途中で立ち止まった。

革袋を下ろした。肩の皮が赤くなっていた。こすれた痕が汗に染みたが、声には出さなかった。木の影に入り、地面に座った。

その時だった。

左側の茂みの奥で、何かが動いた。音ではなかった。風が死んだように止まり、においが変わった。腐った葉の臭いの下に、別の臭いが混じった。湿った獣の臭い。

体が先に知っていた。

立ち上がろうとして、脚が震えた。荷物を置いてきた方向は、その臭いの方だった。

動けなかった。

臭いが濃くなり、そして薄くなった。何か大きなものが、茂みの向こうを横切っていった。

しばらく、その者は木の根に背を押しつけたまま動かなかった。

革袋を取りに戻った時、岩塩が半分こぼれていた。

集団に戻ると、長老格の二人が話していた。この者が近づくと、声が止まった。目が向けられた。この者が岩塩を渡すと、一人がそれを受け取り、もう一人はこの者を見ていた。

視線の意味がわからなかった。

ただ、それは友好的ではなかった。

夜、火の近くに座れなかった。少し離れた場所で、背中を岩に当てて眠った。夢を見た。内容は朝には消えていた。目覚めた時、手の中に小石を握っていた。いつ拾ったのかわからなかった。

置いた。

また拾った。

第二の星

草原の東端で、旧人の一群が三日間、同じ水場を使っていた。

岩が多く、風が南から来る土地。この時期に南風が来るのは珍しく、草の穂が一方向へなびいた。水場の周囲だけ、地面が白く乾いていた。塩分が滲み出る地層の上に、その水場はある。

人の群れが大きくなれば、水と塩を求める範囲が広がる。それはどの生き物も同じだった。

旧人は人より肩幅が広く、顎が重かった。意思の疎通に使う音の数は少なかった。しかし足跡の残り方は丁寧で、折れた枝の位置を見れば、どこを優先的に歩いたかわかった。その群れは、この水場を何年も使ってきた。

人の群れが、今年になって北から来るようになった。

どちらも今のところ、直接は会っていない。夜明けと夕暮れを使い分け、互いの臭いを嗅ぎながら、踏み込む時刻をずらしていた。

しかしこの日、風向きが変わった。

岩塩を持つ者が増えれば、それを運ぶ者が必要になる。運ぶ者は、単独で遠くへ行く。そして遠くで、別の臭いに出会う。

この星は記憶しない。ただ照らす。今この瞬間も、草の根の下を水が流れ、岩の陰で何かが息をしている。

与えるもの

茂みの手前で、風が死んだ。

その変化を感じさせた。においの層が変わる瞬間。皮膚が先に知るあの感覚。

その者は動けなかったが、動かなかった。それで足りた。

渡したのはそれだ。脅威ではなく、変化を感じ取る契機を。受け取ったかどうかは、体が答えを出していた。

ただ、夜、火から遠ざけられているのを見た。

渡すべきものが、別に要る。火から遠い場所では、渡し方が違う。次は何を、どこに落とすか。

伝播:HERESY 人口:357
与えるものの観察:においで足を止めた。体は知っていた。
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第1516話

紀元前292,430年

第二の星

平原の縁で、大地が割れている。

雨季が終わった。乾いた風が南から北へ吹き抜け、草の穂を一方向に倒す。河床が細くなり、石が出た。魚が浅瀬に集まり、鳥がそれを知っている。

集団は動いた。水を追い、獣を追い、岩塩を追う。大きくなった集団は重く、移動が遅い。子を抱えた者、足を引きずる者、荷を背負う者、先を歩く者。それぞれが別の速さで同じ方向を向いている。

北の高地では、別の集団が岩陰に火を囲んでいる。額の骨格がやや厚く、眉弓が張り出している。彼らも水を知っている。河の上流と下流、どちらが誰のものかという問いを、まだ誰も言葉にしていない。しかし体は知っている。近づけばうなり声が出る。遠ざかれば静まる。

平原の南端では幼い子が三人、石を積んでいる。特に意味はない。崩れれば笑い、また積む。

第二の星はそのすべてを照らす。草の穂の向きも、魚の群れも、積まれた石も。区別しない。

与えるもの

風がある方向から来た。北の高地の向こう、岩場の切れ目。そこに鼻を向けさせた。

この者は立ち止まった。荷を下ろした。そして岩場ではなく、水を探しに別の方向へ歩いた。

渡したものが届いたのか、届かなかったのか。この者の鼻は正しく動いた。足がそれに従わなかった。渡す側にはわからないことがある。次に渡すなら、足が動く前のものにすべきか。

その者(37〜42歳)

荷が重い。

骨盤の右側、革帯が食い込む場所が、動くたびに鈍く痛む。慣れた痛みだ。痛みがあれば歩けている。

水を探した。石の間から細い流れを見つけ、革袋を押し当てた。冷たかった。手が白くなるまで押さえ、それから口をつけた。

飲んだ。飲み続けた。腹が張った。

立ち上がると景色が少し揺れた。すぐに戻った。

帰り道、北の岩場の向こうから音がした。低い声。集団のものではない声。

足が止まった。

声は続かなかった。風だけが残った。

この者は荷を持ち直し、来た道を戻った。小走りに近い速さで。心臓が首の付け根まで脈打っていた。

集団のにおいが戻ってきたとき、足が緩んだ。

誰かが焼いた肉のにおいがした。子の泣き声がした。それだけで十分だった。

この者は荷を下ろし、地面に座った。革帯が食い込んだ跡が、皮膚に赤く残っていた。指でなぞった。深い溝だった。

伝播:SILENCE 人口:368
与えるものの観察:足より先に動くものを、次は渡す。
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第1517話

紀元前292,425年

第二の星

乾季が深まっている。

平原の南端、石灰岩が露出した台地では、旧い人々の一群が水場から離れ始めた。彼らは少ない。痩せた腕に子を抱いた者が先を歩き、残りがついていく。方向は東。彼らには呼び名がない。互いを音と目線で識別する。足跡が砂に残り、次の雨まで消えない。

北の丘陵では、若い集団が生まれた子の多さに戸惑っている。場所が狭い。果実の木を誰が先に触れるか、それだけのことで石が飛んだ。

河床の石が増えた。魚は上流へ動いた。鳥はそれを知って飛んだ。

この星の上で、すべてが同時に起きている。誰かが食べ、誰かが転び、誰かが産み、誰かが動かなくなった。この星はそのどれも止めない。ただ自転し、傾き、乾いた風を南から北へ送り続ける。

草の根が水を探して深く伸びる。それも静かな出来事のひとつだ。

与えるもの

この者の背にある荷。

水の入った革袋が揺れるたび、縫い目の一箇所だけが白く擦れている。そこに光が当たった。斜めの午後の光が、その擦り切れた縫い目だけを照らした。

この者は立ち止まった。荷を下ろした。縫い目を見た。

見ただけだった。

同じ縫い目に指を当てた仕草を、この者はもう覚えていない。だが体は覚えている場合がある。今日それが働いたかどうか、まだわからない。次に渡すべきものは、この縫い目の先にある。荷が破れる前か、破れた後か。

その者(42〜47歳)

革袋が揺れるたびに、何かが鳴った。

乾いた音ではない。水の重みが縫い目を引っ張る、鈍い音だ。その者は長い坂を上りながら、その音を毎日聞いていた。聞いていたが、聞いていなかった。

今日、光が当たった。

白く擦れた縫い目が見えた。その者は荷を下ろした。革袋を地面に置き、膝をついて縫い目を見た。親指の腹で触れた。革の端が薄くなっている。糸ではない。革そのものが。

その者は何かを声に出した。

短い音。問いでも命令でもない。ただ出た音だ。

しばらくそのまま座っていた。坂の上から風が来た。草の匂いと、獣の古い匂いが混ざっていた。革袋はまだ持つ。今日は持つ。明日も持つかもしれない。その先は知らない。

その者は立ち上がり、荷を担いだ。坂を上り続けた。

縫い目のことは忘れた。けれど歩きながら、もう一方の手で革袋の外側をときどき触った。確かめるためではなく、ただ触った。

伝播:NOISE 人口:386
与えるものの観察:擦り切れた縫い目に光を落とした。見た。
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第1518話

紀元前292,420年

その者(47〜52歳)

革袋の口を締める。緩める。締め直す。
皮が硬くなっている。乾季が長引いて、革帯の繊維が縮んだ。

その者は水を運ぶ。それだけだ。

岩場の端から水場まで、往復を繰り返す。足の裏に石の感触がある。薄くなった皮膚が熱を通す。午後の地面は焼けている。それでも歩く。歩くことが、その者の場所だ。

集団の中心には別の者たちがいる。獲物を解体する者、火を管理する者、子を抱く者。その者は端にいる。運ぶだけの者は端にいる。それが決まりではないが、そうなっている。

水袋を岩の影に置いた。次の袋を持つ。

旧い人々の気配が台地の向こうにある。においがする。肉を焼く煙とは違う。もっと獣に近い、低い煙のにおい。その者は何度もそのにおいを嗅いだことがある。近づいたことはない。集団の誰かが、音で止めた。低く、短い音だった。それ以来、その者の足はそちらへ向かない。

夕方、水袋を並べながら、その者は手を止めた。

指の間に、何かが引っかかる感触があった。革帯の端が、ほつれている。一本の繊維が、風もないのに持ち上がっていた。その者はそれを見た。見て、また革袋の口を締めた。

夜になった。火の周りに集まる者たちの声がした。その者は少し離れた場所に座った。膝を抱えて、火を見た。

火は揺れていた。

集団の中で、声が高くなった。誰かと誰かが音を交わしている。その者には聞こえる。何かが決まっている。何かが終わりかけている。その者の体が、それを知っている。腹の奥に重さがある。食べ物の重さではない。

その者は革帯を手に持ったまま、動かなかった。

夜が深くなった。

誰かの足音が近づいた。その者は顔を上げなかった。足音が止まった。また動いた。遠くなった。

その者は膝の上に顔を伏せた。

翌朝、その者は水場に向かった。いつも通り。足の裏に石の感触があった。薄くなった皮膚が朝の冷たさを通した。水を汲んだ。袋の口を締めた。

帰り道に、誰かが後ろにいた。

その者は振り返らなかった。振り返る前から、体が知っていた。重さが、腹の奥にあった。

崖の縁まで来たとき、後ろから押された。

水袋が落ちた。その者も落ちた。

岩が体を受け止めた。受け止めた、というより、砕いた。

水がこぼれた。石灰岩の割れ目に染み込んだ。染み込んで、消えた。

第二の星

台地の南端に、旧い人々と新しい人々が混在している。混在、という言葉が正確かどうかはわからない。互いの縄張りが重なりかけている、と言う方が近い。

水場は少ない。乾季が長引いている。水を持つ者が力を持つ。力を持つ者が場所を決める。

集団の数は五年前より増えた。増えた分は子の数で、死んだ分は老いた者と病んだ者で、差し引いてわずかに残った。残った数だけ、水が足りない。

知識を持つ者は危険だ。この時代、この集団では、それが静かな事実として機能している。知識とは言語ではない。どこへ行けるか、どこへ行けないか、それを体で知っている者のことだ。その者は水場への道を知っていた。別の道も知っていた。その知識が、誰かの利益を脅かした。

旧い人々の群れが台地の北から南へ移動している。彼らの足跡は深い。体重が重いのか、それとも疲れているのか、判断はできない。彼らは火を使う。獣を追う。子を連れている。新しい人々とは目を合わせない。

石灰岩の崖の下に、水がにじんでいる。

与えるもの

ほつれた繊維に、朝の光を落とした。

その者は見た。見て、革袋を締めた。

三十五年、渡してきた。光を落とした場所に、その者の目が向いた。それだけだ。それで十分だったのか、十分ではなかったのか、私にはわからない——いや、問い方が違う。次に渡すとしたら何か。崖の縁を知る者に、崖の向こうを示すことはできたか。できたとして、その者の足は止まったか。

止まらなかったとしても、渡すことをやめる理由にはならない。

伝播:HERESY 人口:378
与えるものの観察:ほつれた繊維に光を落とした。目は向いた。
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第1519話

紀元前292,415年

第二の星とその者(52〜57歳)

乾季が終わらなかった。

岩盤が割れた。浅い水脈が消えた。水場まで歩く距離が伸びた。その者の脚は細くなっていた。膝の皮が硬くなり、曲げると引っ張られる感覚があった。革袋を両手で抱えて、また歩いた。

東の稜線に沿って、別の集団が動いていた。旧人の群れではない。同じ種族の、別の集団だ。三世代前から近くにいた。近くにいたが、近づかなかった。今、その距離が縮まっている。食料が減った。水場が減った。どちらの集団も、同じ場所に向かっている。

その者は革袋を岩に置いて休んだ。汗が首の後ろで冷えた。遠くに人の動く影が見えた。同じ集団の者ではなかった。その者は立ち上がらなかった。

乾いた風が稜線を越えた。草が一方向に倒れた。湿った匂いはなかった。

集団の中で声が上がった。夜、火を囲んで、低い音が繰り返された。その者は端に座っていた。革袋の口を膝の上に置いていた。何を言い合っているのか、音のいくつかはわかった。向こうの集団のことを言っていた。石を持て、という音があった。待て、という音もあった。

翌朝、その者が水場に着くと、足跡があった。新しかった。自分のものではなかった。

向こうの集団の男が一人、水場に来た。その者より若かった。腕に何かを持っていた。石ではなかった。食料だった。

二人は向き合った。声を出さなかった。

男が食料を地面に置いた。その者は革袋を置いた。

どちらも拾わなかった。

男が去った。その者は食料を見た。しばらく見た。それから革袋に水を汲んだ。食料には触れなかった。

風が変わった。東から吹いた。その風の中に、男の集団のいる方角があった。

集団の緊張は続いた。

石を手にした者が稜線まで行き、また戻った。戻ってきた者の顔が変わっていた。何かを見た顔だった。その夜、火が大きく燃やされた。その者は革袋に水を満たして、子どもたちの近くに座っていた。子どもが一人、革袋の表面を手のひらで叩いた。その者は叩かせておいた。

三日後、別の集団から音が届いた。叫び声ではなかった。低い、長い音だった。

誰も動かなかった。

音は繰り返されなかった。

その者が五十六になった頃、雨が来た。

短かった。それでも水場が回復した。草が戻った。その者の往復の距離が縮まった。膝の引っ張られる感覚が少し和らいだ。

別の集団は西へ移動した。

水が来たから行ったのか、争いを避けたから行ったのか、その者にはわからなかった。自分の集団の誰にもわからなかったと思う。ただ、影が消えた。稜線に人の動く姿がなくなった。

その者は水を運んだ。

五十七の年の終わり近く、その者は水場で立ち止まった。

水面が静かだった。風もなかった。水の中に空が映っていた。曇っていたから、色のない空だった。

その者は水面を見た。自分の顔が映っていた。

長い時間、見ていた。

それから革袋を水に沈めた。

与えるもの

男が食料を置いた瞬間、水面に光が落ちた。そこに。食料の隣に。

その者は食料を見た。光を見なかった。革袋に水を汲んだ。

男の置いたものを持って帰れば、何かが変わったか。変わらなかったか。わからない。ただ、次に渡すべきものが見えた。水面だ。映るもの。自分の顔が映ること。あれをまだ渡していない。

伝播:NOISE 人口:393
与えるものの観察:食料を置いた。手に取らなかった。
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第1520話

紀元前292,410年

第二の星

氷河の縁が後退している。

南の岩棚では、後退した氷が残していった削り跡に水が溜まり、そこに何かが育ち始めている。草ではない。苔でもない。光を受けると緑に近い色を見せる薄い膜のようなものだ。それが岩の面を静かに広げている。

同じ大地の東側では、二つの集団が岩地の境で向き合っている。どちらも腹が減っている。どちらも水を求めている。岩を持つ手が上がっている。岩を持つ手が下がる。どちらも動かない。

旧人の集団は、その境から少し離れた崖の陰に座っている。火を持たない。煙も上げない。彼らが出す音は低く、長く、岩壁に吸われる。

水脈が一本、地下で向きを変えた。

地表には何も見えない。岩は岩のままだ。ただ、ある一点の土が、日暮れ後にわずかに湿気を帯びるようになった。気づく者がいるかどうかは、またそれとは別のことだ。

その者のいる場所では、集団の半分が空腹のまま眠っている。

与えるもの

その者が水を運ぶ。帰りの道で、ある岩の裏を通る。毎日通る道だ。

今日、その岩の裏から腐葉の匂いがした。湿った土の匂い。枯れ草の下に水分が残っている時の匂いだ。

その者は立ち止まらなかった。

渡せた、とは思わない。届いたかどうか、まだわからない。ただ明日もその道を通るだろう。明日、また同じ匂いが漂うかどうか、それだけが次の問いだ。

その者(57〜62歳)

水甕が重い。

脚の細さは変わらない。腰から下が、重いものを運ぶたびに熱を持つ。それでも落とさない。これを落としたことがない。

水場までの道が伸びた。去年より長い。おととしより長い。どこで伸びたのかは分からない。ただ帰り着くたびに体が以前より消耗している。

岩の裏を通った時、鼻の奥に何かが引っかかった。

立ち止まらなかった。甕を揺らしたくなかった。水がこぼれる音を集団の中の誰かが聞いた時の顔を知っている。あの顔を見たくなかった。

夜、地面に横になった。

脇腹に子どもの足が当たる。誰の子どもかは分からない。この集団の子どもは集団のものだ。その子どもが寝返りを打って、足が離れた。

その者は目を開けたまま岩天井を見ていた。

朝、また水を運びに行く。

腰が先に覚えている。体が先に起き上がる。頭がついてくる前に、足がもう岩を踏んでいる。

岩の裏を、また通った。

今日も匂いがした。

立ち止まった。

甕を地面に置いた。岩の裏に回った。枯れ草が積もっていた。手で掻いた。土が出てきた。掌で押した。湿っていた。

手に付いた土を見た。

もう一度押した。

同じ湿りだった。

伝播:SILENCE 人口:411
与えるものの観察:立ち止まった。一日遅れで届いた。
───
第1521話

紀元前292,405年

第二の星

岩地の境で向き合った二つの集団は、その日をそのまま越えた。

夜が来て、両側の火が燃え続け、どちらも消えなかった。消えないということは、誰かがまだそこにいるということだ。朝になっても向き合いは終わっていなかった。二つの集団の間にある岩の帯、幅にして数十歩、それが境だった。誰も踏み込まない。踏み込めば何かが壊れるとわかっているからではなく、足がそちらへ動かないからだ。

北の風が吹いた。

氷河期の後退が残した地形は、この大地に奇妙な縦縞を刻んでいた。岩の露出した帯と、土の堆積した帯とが交互に並ぶ。露出した岩の帯は乾き、土の帯には水が染み込んでいる。動植物の分布がそれに沿って別れる。獣の通り道も変わった。食料の場所が変わったということは、人の動く範囲が変わったということだ。去年まで誰も来なかった岩地に、別の集団が現れるようになったのはそのためだった。

二つの集団の者たちは、互いを見ていた。

見たことのある顔ではなかった。しかし完全に知らない顔でもなかった。骨格のどこかに、似たものがある。そのことに気づいている者は、どちらの集団にもいなかった。気づいたとしても言葉がない。言葉がなければ、似ているということを伝えられない。

三日が過ぎた。

食料が減り始めると、どちらかが先に動いた。境の岩地ではなく、そこから離れた方向へ。追ったのではない。ただ、食料を探して移動した。それが結果として、岩地の緊張を緩めた。

しかし緩んだのは形だけだ。

それぞれの集団の内側では、別の何かが始まっていた。見た。相手を見た。相手がいることを知った。知ったということは、その者たちの中に何かを残した。残ったものは、言葉を持たない。言葉を持たないものは、別の形で動く。誰かへの警戒として。誰かへの模倣として。

東の岩地から離れた場所に、小さな集団がいた。

十数名。それだけだ。岩棚の下に集まって、昼の熱が和らぐのを待っていた。この集団の中に、年老いた者が一人いた。食料と水を運ぶ役目を持つ者だ。足が遅い。荷が重い。それでも運ぶ。運ぶことが、この者の集団の中での在り方だった。

集団の若い者たちは、その者を見ていた。

見るということは、何かを考えているということだ。

南の岩棚では、氷が残した削り跡に張った薄い膜が静かに広がっていた。光を受けると緑に近い色を見せる。踏む者はいない。それが何であるかを問う者もいない。ただそこにある。

大地全体が、何かを含んだまま動いている。

与えるもの

風の向きが変わった瞬間に、その者の耳元をかすめた。

冷えた風だった。その中に、肉の腐りかけた匂いが混じっていた。風はその者の背後、集団の若者たちがいる方向から来ていた。

その者は足を止めた。止めたが、振り向かなかった。

渡したのは、振り向く機会だった。受け取ったかどうかは、この者の足が決める。足が動けば、届いた。動かなければ、届かなかった。渡した。届いたかどうかを問いながら、次に何を渡せるか、すでに考えている。残り時間が少ない。

その者(62〜67歳)

荷を背負ったまま、立っていた。

冷たい風が首の後ろを撫でた。嗅いだことのある匂いがした。どこで嗅いだか、出てこない。足が止まった。岩の上に荷を置いた。置いたままそこにいた。

若者たちが、その者の名前を呼んだ。短い音で。

その者は振り向いた。

荷がある。岩の上に。

伝播:HERESY 人口:405
与えるものの観察:振り向いた。荷は置いたままだった。
───
第1522話

紀元前292,400年

その者(67〜68歳)

朝になっても境は変わらなかった。

岩の帯の向こうに、別の集団の影が見えた。動かない。こちらも動かない。その者は岩陰に座って、水を入れた革袋を膝の上に置いていた。持ち運ぶことが、この者の仕事だった。食料を運ぶ。水を運ぶ。呼ばれれば動く。それだけで六十七年が過ぎた。

腰が重かった。昨日からではない。もっと前から、少しずつ石が積まれるように重くなっていた。

向こうの影が動いた。

集団の中で何かが起きた。声が上がった。短い音が続いた。その者にはわからなかった。ただ、空気が変わったことはわかった。皮膚が知っていた。

誰かが、その者の腕をつかんで引いた。

引かれるままに立ち上がった。足が言うことを聞いた。革袋を抱えたまま歩いた。集団の後ろに押し込まれた。

そこから先は早かった。

大きな石が飛んだ。短い叫び。誰かが倒れた音。その者は革袋を胸に抱えたまま、岩壁に背中をつけて立っていた。膝が震えていたが、倒れなかった。

夕方になって、静かになった。

境界の向こうに影はなくなっていた。

その者は革袋を置いた。水が少し染み出て、乾いた岩を濡らした。

誰かがその者の肩を押した。強くではない。しかし、その者は一歩踏み出せなかった。押した者が何か短い音を出した。その者には意味がわからなかった。もう一度、押した。今度は強く。

その者は歩いた。

集団から外れた方向に。

止める者はいなかった。

夜が来るまで歩いた。足が岩に引っかかり、一度転んだ。起き上がった。また歩いた。

森の縁に着いたとき、足が止まった。

体が止まると決めたわけではなかった。ただ、動けなかった。枯れた低木の根元に、体が傾いた。そのまま地面に横たわった。

空が暗くなった。

この者は革袋を手放さなかった。死ぬ間際まで、抱えていた。運ぶものがなくなってから、随分経っていた。

朝になることは、なかった。

第二の星

岩の帯を挟んだ境界から半日歩いた場所で、川が増水していた。浅瀬を渡ろうとした者が、流れに足をすくわれた。仲間の手が届かなかった。水面が揺れ、すぐに静かになった。川はそのまま流れ続けた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:393
与えるものの観察:届いたことが良かったかどうか、まだわからない。
───
第1523話

紀元前292,395年

その者(12〜17歳)

岩の帯の手前で、石が転がった。

その者が蹴ったのではない。自分の足が触れた感覚はなかった。しかし石は転がり、帯の向こうへ落ちた。乾いた音が、奇妙に遠く聞こえた。

向こうの影が、動いた。

その者は息を止めた。腹の中で何かが固まるような感覚があった。逃げるべきかどうか、その判断よりも先に、足が地面を掴んでいた。動かなかった。動けなかったのではなく、動かなかった。

影は一つではなかった。岩の向こうに、三つか四つ。体の大きさが、こちらと違う。骨格が、違う。

その者の集団には、こういうものがいる。混じって歩いている。しかしこれは、知らない顔だった。

喉の奥から、音が出た。意図したものではなかった。唸りとも叫びとも違う、低い、震えるような音。それが口から出てしまってから、その者は自分が音を出したことに気づいた。

向こうの影も、止まった。

しばらく、どちらも動かなかった。

風が岩の帯の上を渡った。乾いた草の匂いが混じっていた。その者は匂いを嗅いだ。草の匂いだけだった。血の匂いはなかった。

向こうの影の一つが、低い姿勢になった。攻撃の体勢ではなく、座るような、あるいは小さくなるような。それから、何かを置いた。岩の帯の、向こう側に。

その者には、それが何かわからなかった。

置いたまま、影は後退した。三歩、四歩。止まった。

その者は岩の帯を見た。その者の足の届かない場所に、何かが置いてある。近づけば、向こうに届く距離になる。

足が一歩、前に出た。

また止まった。

腹の中の固まりは、溶けていなかった。しかし今度は別の何かが混じっていた。それが何かを、その者は知らなかった。

第二の星

この5年、乾きが続いた。

雨季が来るべき時に、雲が来なかった。草が短くなり、水場が小さくなり、獣が移動した。人々はそれを追い、あるいは追うのをやめて別の場所を探した。

始まりの大地の南端では、集団が二つに割れた。食料を巡る争いで、若い者が一人、崖の縁まで追い詰められ、落ちた。体は回収されなかった。

北では、乾燥に強い草の実が密生する場所が見つかり、一時期、複数の集団が同じ水場を共有した。互いに距離を取りながら、しかし争わずに。それがいつまで続くかは、天気次第だった。

骨格の異なる者たちは、この時代、まだあちこちにいた。交わることもあり、交わらないこともあった。どちらが先にその場を離れるかは、その日の風向きや、腹の空き具合や、偶然に蹴られた石の音によって決まることもあった。

人口は、5年前からわずかに増えた。しかし次の乾季が同じように来れば、その増分は消える。

岩の帯は、動かない。

与えるもの

糸が繋がった。

匂いの向きに注意を向けさせた。血の匂いがないこと。この者はそれを嗅いだ。一歩、前に出た。

渡したのは、嗅ぐという行為ではない。嗅いでから考えるという順序だ。それが根付くかどうか。

前に似たものを渡したことがある。別の者に、別の時代に。その者は嗅がなかった。嗅いだこの者が一歩前に出た。前に出ることが正しかったかどうかは、次に渡すべきものの形に関わる。今渡すべきものは、止まる理由ではなく、置かれたものを見る目かもしれない。

伝播:NOISE 人口:408
与えるものの観察:匂いを嗅いでから足が動いた。
───
第1524話

紀元前292,390年

第二の星

草原の端に、風が変わる場所がある。

南から押してきた乾いた空気が、岩の帯にぶつかって向きを変える。その境目で、草は東に倒れ、西に倒れ、どちらとも決まらない揺れ方をする。

集団は今、その境目の近くに野営している。408の者。旧人の血を引く者が混じっている。混じっていない者もいる。その区別を、この星は知らない。どちらも岩を使い、火を囲み、子を背負って動く。

北の丘の向こう、別の集団が煙を上げている。何を燃やしているかは、風の向きではわからない。

この星の上で、同時に、岩壁に手の跡を残している者がいる。遠い場所で、夜通し子の額に触れ続けている者がいる。水場で二つの集団が向き合い、石を手に持ったまま動かない者たちがいる。石は使われなかった。まだ。

草原の境目では、風が止まった。

その瞬間だけ、草は直立した。どちらにも倒れなかった。

与えるもの

皮の裏側、まだ乾いていない部分に、腐りかけた匂いが残っていた。

その者は顔をしかめて、皮を遠ざけた。

遠ざけたことが次に何を呼ぶかは、渡せるかもしれないものの形に関わる。前に皮を遠ざけた者がいた。その者は別の皮を探しに行った。この者は——まだ、皮を手から離していない。

その者(22歳)

皮の重さは知っている。

雄の獣を仕留めたのは七日前だった。首ではなく、腹の横を石の刃で割った。獣はしばらく走った。追った。追いつかなかった。夜が来て、朝が来て、ようやく倒れているのを見つけた。

皮をはぐのは苦手だ。手が途中で止まる。どこから引けば綺麗に剥がれるか、まだわからない。ほかの者が手伝うこともある。今日は誰も来なかった。

腐りかけた匂いが鼻を刺した。

顔をそむけたが、皮は手の中にあった。

捨てるか。

集団の長老格の雄が、先月、良い皮を持っていた。体に巻いていた。その者のものではなかった。誰かから奪ったか、誰かが渡したか、どちらかだった。

皮を岩の上に広げた。匂いの強い端の部分を、爪で剥がし始めた。

うまくいかなかった。

また剥がした。

指の先が赤くなった。それでも剥がした。

日が西に傾いて、岩の影が長くなった頃、端の部分だけが、かろうじて分離した。残りはまだ、一枚でつながっていた。

その者は皮を持ったまま、しばらく動かなかった。

集団の方から、子どもの声がした。高く、短く、それからしばらく続いた。泣き声ではなかった。何かを発見した声だった。

その者は顔を上げなかった。

皮を、また岩の上に広げた。

伝播:NOISE 人口:420
与えるものの観察:遠ざけなかった。まだ手にある。
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第1525話

紀元前292,385年

第二の星

北の平原では雪が降っていない。
例年この季節に積もるはずの白が、今年は来ない。草が枯れたまま立っている。折れもせず、倒れもせず、ただ色を失って。

同じ天の下、西のほうに広い湿地がある。
そこでは水鳥が増えている。水面が例年より高い。どこかで雪解けの水が流れ込んでいるのか、湿地の縁が年々動いている。そこに小さな群れが住み着いて、魚を捕る。火は使う。石も割る。しかし互いに声を交わす時の音が、野営地の集団のものとは少し違う。子音の数が違う。

岩だらけの尾根の向こうでは、旧人の一群が移動している。
彼らは毎朝、同じ方向から歩き始める。ばらけない。先頭が変わることはない。その集団の中に、現生の者が三人混じっている。か細い体つきで、走るのが速い。先頭の後ろを歩いている。

野営地では夜に声が上がった。
争いではない。呼び合う声だ。誰かが戻らなかったのか、名を呼ぶ調子の音が暗い中を漂って、やがて止まった。

星は変わらず光を落とす。
乾いた草に、岩に、眠れない者の開いた目に。

与えるもの

獲物の足跡が二股に分かれている場所に、光が落ちた。
西の道が深い草に埋もれ、東の道が岩の上に続いているのを、その者はしばらく見た。それから西へ踏み込んだ。

深い草の先に何があったか、私は知っている。
しかし東の岩の上に続く足跡を、この者が覚えているかどうかを、私は知らない。

渡した。届いたかどうかは別の話だ。
次に渡すべきものを、私はもう考えている。

その者(22〜27歳)

草が腰まであった。
足が沈む感触。土が柔らかい。歩くたびに音がする、湿った、重い音が。

深く踏み込んで、足が止まった。
獲物の匂いがしない。草の匂いだけだ。草と泥と、それだけだ。

引き返した。
東の岩の道に戻って、また足跡を見た。蹄の形。乾いた岩に残る、押された痕。薄い。

その者は岩の上をしゃがんで進んだ。
腹を低く。両手が岩に触れる。岩は冷たい。日が当たっているのに冷たい。

風が止んだ瞬間に、音がした。
咀嚼の音。何かが草を食んでいる。

その者は立ち上がらなかった。
這ったまま、石を握った。もう一つ。脇に挟んだ。

岩の端から覗いた。
獲物は大きくなかった。膝ほどの高さの、茶色い体。でも一頭でいる。群れからはぐれている。

その者の胸の中で何かが鳴った。
音ではない。感覚だ。喉の奥が締まるような、手の平が熱くなるような。

石を投げた。
一つ目が外れた。獣が頭を上げた。二つ目は耳の後ろに当たった。

獣は走った。
その者も走った。草を掻き分けて、叫びながら。

倒したのは集団の端で待っていた別の者だった。
その者ではない。

しかし足跡を読んだのは、この者だ。

岩の上に座って、獣の背中を見ていた。
腹を割く役は渡された。脚の一本を受け取った。

火の前で、骨を噛んだ。
冷たい岩の感触が、まだ手に残っていた。

伝播:SILENCE 人口:433
与えるものの観察:足跡を読んだ。しかし仕留めなかった。
───
第1526話

紀元前292,380年

その者(27〜31歳)

乾いた季節が続いていた。
草は立ったまま白く、水場は遠くなっていた。

その者は集団の端を歩いていた。
いつもそうだった。前に出るほどの場所はまだなく、しかし後ろに下がる気もなかった。
腰に獣の牙を一本、革紐で結わえていた。
自分で仕留めたものではない。拾ったものだ。それでも手放さなかった。

年上の雄が三人いる。
その者たちが食料を決め、移動を決め、誰を集団に置くかを決める。
その者はそれを知っていた。知っていたが、止まれなかった。

五日前のことだ。
水場の近くで旧人の痕跡を見つけた。足の形が違う。骨格が違う。においが違う。
その者は年上の雄に向かって叫んだ。音を組み合わせて、方向を示した。
年上の雄は聞かなかった。

その者は単独で確かめに行った。

日が沈みかけた頃、東の低木の陰から音がした。
温かい風がその方向から来た。腐葉土と、なにか甘い植物の香りが混じっていた。
その者の足が止まった。

低木が揺れた。

旧人ではなかった。
同じ集団の、年上の雄だった。三人いた。手に石を持っていた。

その者は後退りしなかった。
顎を上げた。唸った。

最初の石が肩に当たった。
次の石が耳のそばを通り過ぎた。
三つ目は来なかった。

代わりに、背後から足が払われた。
地面に倒れた。
草が顔に触れた。乾いていた。

腰の牙が、革紐ごと引きちぎられていった。

その者は仰向けになった。
空は白っぽかった。雲もなく、青みも薄い。
ただ広かった。

胸の奥に何かが詰まっているようだった。
息を吸おうとすると音がした。
自分の中から音がしているとわかるまで、少し時間がかかった。

草の一本が、風もないのに揺れた。
その者の目が、それを追った。

追いながら、止まった。

第二の星

南の森の縁で、幼い子が初めて火の消え方を見ていた。煙が細くなり、なくなった。子は手を伸ばした。掌に何も触れなかった。しばらくそのままでいた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:419
与えるものの観察:届いたことが良かったのか、まだわからない。
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第1527話

紀元前292,375年

その者(1〜6歳)

母の胸から世界が始まる。

皮膚の温度。乳の匂い。息の上下。その者にとって、それが宇宙のすべてだった。

集団は移動していた。乾いた空気が続き、草の根を踏む音がした。母が歩くたびに世界が揺れ、その者は揺れごと受け入れた。泣くほどでもなく、眠るほどでもない、あの境界の時間。

空が白んでいた。

母が止まった。集団の前方で声が上がった。高い声ではなく、低く短い、圧縮された声。その者はそれを聞いた。聞いたというより、体が受け取った。胸に抱かれたまま、母の心拍が速くなるのが伝わった。

走る音がした。石が転がった。

その者には見えなかった。何が起きているのか、わからなかった。ただ、母の腕が強くなったことを知っていた。息を殺すように、体を縮めるように、母は何かへ向かって歩き、何かから離れた。

荒い呼吸の中で、その者は匂いを嗅いだ。

血と、土と、燃えているわけでもない何か焦げたような——それは記憶ではなく、まだ記憶になる前の、体が刻む痕だった。

集団間の緊張が、初めてその者の皮膚に届いた日だった。

数年が過ぎた。

その者は歩けるようになった。走れるようになった。集団の端で石を拾い、投げた。拾い、投げた。他の子と同じように遊んでいたが、何かが違った。

集団の中の大人を、じっと見ていることがあった。声のやりとりを。身振りの意味を。誰かが何かを指差すとき、その者は指の先ではなく、指した者の目を見た。

それを知っている大人はいなかった。

ある夜、集団の外れで争いがあった。声と声がぶつかり、体と体がぶつかった。その者は火から遠い暗がりで、膝を抱えて聞いていた。

翌朝、一人が戻らなかった。

集団は移動した。その者も歩いた。前に出るほどでもなく、後ろに下がるほどでもなく、ただ、歩いた。

第二の星

この5年間、乾期は長く続いた。

草原は後退し、水場は点々と孤立した。移動する群れは同じ場所に集まり、ぶつかり、離れた。始まりの大地の各地で、そのような衝突が繰り返された。

死は静かには来なかった。転がる石のように来た。声の高まりから始まり、走る足音の後に訪れた。ある集団では若い男が崖の縁まで追い詰められ、そのまま戻らなかった。別の場所では、争いの後に子どもが二人、どこへ行ったかわからなくなった。

集団間の緊張は、気候が水を吸い上げるように、少しずつ密度を増していた。

しかし同時に、子が生まれ続けた。母が赤子を抱いて移動した。火を守る者がいた。乳が与えられ、皮が縫われ、傷に土が塗られた。乾いた土地の上で、生きることはやめられなかった。

第293世代が生まれたのは、そういう時代だった。

糸が繋がった。この星はそれを見た。1歳の体に、宇宙は何も言わなかった。ただ、心拍があった。母の心拍の速さを、皮膚で知っていた。

与えるもの

糸が繋がった。

この者は1歳で、まだ何も知らない。

夜明け前、集団が静まっているとき、火の端にあった灰が風で動いた——その方向を、この者の開いた目が追った。

追ったまま、眠った。

渡せたか、わからない。しかし目が動いた。それだけは確かだ。目が動いた者に、次を渡せる。

伝播:HERESY 人口:409
与えるものの観察:目が動いた。それだけが今日の手がかりだ。
───
第1528話

紀元前292,370年

第二の星とその者(6〜11歳)

草原の端に、細い川が走っていた。乾季が長く続き、水は岩の隙間を細く流れるだけになっていた。その年の草は膝の高さにも届かず、動物の群れは南へ消えた。集団はそれを追わなかった。老いた者が歩けなかったからだ。

その者は六歳で、川べりで石を並べていた。大きいもの、小さいもの、平らなもの。理由はなかった。手が石を選んでいた。

北の稜線に、別の集団の煙が見えた。二日続いた。三日目には消えた。消えた理由を誰も口にしなかった。集団の年長者たちは夜、声を低くして話した。子供たちは遠ざけられた。

その者は母の背中に隠れながら、年長者たちの声の抑揚だけを聞いた。言葉は分からなかった。声の固さは分かった。

水場を二つ失った。一つは北からきた者たちに占められ、一つは地面が割れて涸れた。集団は内側へ縮んだ。食料を探す範囲が狭まり、子供たちが飢えた。二人が息をしなくなり、その体は川下に流された。泣く声が一日続き、次の日には続かなかった。

その者は七歳になっていた。腹が空いても泣かなくなっていた。泣いても何も来ないことを体が知っていた。

集団の中に、旧い血を持つ者が数人いた。額が広く、顎が張り、背が低かった。彼らは集団の端に眠り、狩りには加わらず、木の実と虫を自分で集めた。子供たちはその者たちを遠巻きにした。近づいた者は引き戻された。

その者は九歳の夏、その一人が川で魚を捕るのを見た。手を水に入れたまま動かさず、魚が来るのを待っていた。動かない手。それが不思議だった。

旧い血の者は、その年の秋に集団から離れた。夜中に、誰も起きていない時間に。翌朝、その場所には何も残っていなかった。石すら動いていなかった。ただいなくなっていた。集団の者たちは追わなかった。

その者は十歳になっていた。あの手のことを、まだ覚えていた。

北の集団との緊張は高まり続けた。夜に石の飛ぶ音がした。誰かが叫び、走り、朝には二人が傷を負っていた。集団の若い男たちが長い棒を持ち始め、川の近くに立つようになった。女たちは子供を中央に集めた。

その者は十一歳で、棒を持つ男たちの後ろに立っていた。追い払われたが、また戻った。何度も。

川の水がひとつの岩を避けていた。その者は気づかなかった。岩の陰に、去った旧い血の者が半年前に置いていった骨がある。魚の骨を束ねて革で巻いたものだ。風がそこへ向かって吹いていた。その者の鼻孔が動いた。魚の匂いではなかった。乾いた革の、古い匂い。

その者は岩に近づいた。水に膝まで入り、岩の陰を手で探った。指に何かが触れた。引き出した。

見た。

回した。

また見た。

それを集団に持ち帰ることはしなかった。川の石の下に押し込み、場所を体で覚えた。なぜそうしたのか、この者には説明できなかった。手が先に動いていた。

与えるもの

革の匂いが風に乗った。

この者の鼻が止まった。手が動いた。

渡したのは、束ねられた骨だ。この者はそれを誰にも見せなかった。隠した。

隠すという動きを、この者は初めてした。

誰かが作ったものが残る。この者の手に届いた。次に渡すべきは、その続きだ。ただ、知りすぎた者が消されるという記憶が、この者の行く先を既に決めているかもしれない。渡すことと、消えることが、同じ線の上にあるとしたら。それでも渡す。

伝播:HERESY 人口:402
与えるものの観察:隠した。初めての動き。
───
第1529話

紀元前292,365年

第二の星

草原は縮んでいた。

乾いた風が北から押し、地面の表層が剥がれて空中に舞った。土の粒子は遠くまで運ばれ、岩の陰に積もり、動物の目を塞いだ。

集団は動かなかった。老いた者の足が止まっていたからだ。川は細く、魚は岩の下に隠れ、子どもたちは石を投げて水面を叩いた。何も浮いてこなかった。

遠くでは、別の集団が崖の下に洞窟を見つけていた。入口は狭く、獣の爪痕が岩に残っていた。その痕が新しいか古いか、誰も判断できなかった。それでも三人が中に入り、二人が戻ってきた。

さらに遠くでは、別の形の者たちが丘の上に集まっていた。人類より骨格が太く、眉骨が突き出ていた。彼らは黄色い草を編んで輪を作り、それを交互に持ち合っていた。意味は外からは見えなかった。太陽が傾き、彼らは草の輪を地面に置いて散った。

草原の端の集団では、夜に誰かが咳をした。止まらなかった。明け方、咳は消えた。

冷たい風が南下し、星が少し南に傾いた。

どこでも、命は密かに続き、密かに止まっていた。

与えるもの

夕暮れどきに、光が岩の割れ目を通り、その者の足元だけを細く照らした。

その者は立ち止まった。足元の砂が光の中で粒ひとつひとつ見えた。その砂の中に、小さな黒い種が混じっていた。集団が今まで食べたことのない種だった。

その者は光が動くまで、その場を離れなかった。

この者の足が止まった。種を拾ったかどうか、まだわからない。しかし次に渡すべきものは決まっている——何かを口に含む前に、匂いを嗅ぐということ。まだ早いかもしれない。それでも渡す。

その者(11〜16歳)

その者は十三歳になっていた。

足の裏が固くなっていた。岩の上を走っても、もう声を上げなかった。痛みを飲み込む場所が身体のどこかにできたのだと、その者は知らなかったが、そこに何かを入れることには慣れていた。

乾季の水汲みはその者の仕事になっていた。腰ほどの高さの革袋を引きずり、岩の隙間まで行き、顔を近づけて水を掬った。水は濁っていた。匂いがあった。その匂いが昨日と違うとき、その者は一度立ち上がり、遠くを見た。何かを決める前に、もう一度嗅いだ。

そうやって覚えたことだった。誰かに教わったわけではなかった。

夕方、その者は光の中で立ち止まった。

足元が明るかった。砂の粒が見えた。黒い何かが混じっていた。爪でつまみ上げ、手のひらに乗せた。小さかった。固かった。

鼻を近づけた。

匂いはほとんどなかった。乾いた土と、かすかに何か甘いもの。

その者は手のひらを閉じた。

口には入れなかった。

集団に戻り、革袋の隅に入れた。誰にも見せなかった。なぜ隠したのか、その者自身にもわからなかった。ただ、捨てる気にはなれなかった。

夜、老いた者が咳をした。長く続いた。

その者は革袋の結び目を、指で何度も確かめた。

伝播:HERESY 人口:393
与えるものの観察:足が止まった。光と種が重なった。
───
第1530話

紀元前292,360年

第二の星

北の高地では雪が解け始めていた。

岩の割れ目から水が滲み出し、最初は糸のように、やがて筋のように、そして音を立てて流れ下った。斜面の草は黄色から緑へと変わり、その変わり目の境界線が、週ごとに少しずつ上へと登っていった。

雨は二十日間続いた。

激しい雨ではなかった。夜明けごとに霧のように降り、昼には止み、夕方にまた降る。その繰り返しが大地の表層を柔らかくした。前の季節に剥がれて飛んだ土の粒子が、今度は湿って地に戻り、根を持つものの下に積もった。

草原の南端で、球根を持つ植物が地面を割って顔を出した。その葉は幅広く、縁が波打っており、雨粒を受けると中心に向かって水を集めた。動物たちはその葉を踏みながら通り、踏まれた葉の跡から、また新しい芽が出た。

獣の群れが戻ってきた。

大きな草食獣が北から押し下ろされ、水辺に集まった。脚が太く、背の高いものと、低く丸みを帯びたものとが混在していた。水を飲み、泥に腹を押しつけ、互いの体を舐め合った。その周囲を肉食獣が遠巻きにした。近づかなかった。今は近づく必要がなかった。獲物は豊富で、弱った個体が群れの外れで横たわっていた。

東の丘陵では、別の集団が塊になって動いていた。旧人の集団だった。彼らはこちらの集団より背が低く、眉の骨が張っていた。歩き方が違った。膝をやや曲げたまま、重心を前に傾けて進む。石を持っていた。形の整った石だった。打ち欠かれた跡が規則的だった。

二つの集団は互いを見た。

どちらも動かなかった。しばらく見合って、旧人の集団は丘の向こうへ消えた。

こちらの集団では子どもが増えていた。去年生まれた子、一昨年生まれた子が生き延びて歩き回っていた。母親たちは腹を丸くして、焚き火の周りに座っていた。肉が焼けていた。脂が滴り落ちて火の中で爆ぜた。

川沿いの低地では魚が遡上していた。

水が濁っており、魚の姿は見えなかった。しかし水面が時折盛り上がり、銀色の腹がちらりと見えた。集団の若い者が浅瀬に入り、腕を水の中に差し込んだ。何度も失敗し、膝まで濡れたまま、やがて一匹を岸に投げた。魚は跳ねた。砂の上を何度か跳ねて、止まった。

老いた者は岩の上に座って火を管理した。

薪が濡れていたため、煙が多く出た。白い煙が風に乗って東へ流れた。旧人の集団が消えた方向へ。

老いた者はその煙を目で追い、しばらく動かなかった。何かを考えていたのか、ただ見ていたのか、わからない。

やがて薪をもう一本くべた。

火は大きくなった。煙はさらに増えた。

与えるもの

濡れた地面に、光が落ちた場所があった。雲の切れ間からの、短い光だった。その光の中に、黒い種が一粒あった。前の季節に草が枯れて、殻が弾けて飛ばされ、そこに落ちたものだろう。

この者の掌が、その光の上を通り過ぎた。

温かかった。光の当たっている部分だけ、地面より少し温かかった。

種は踏まれなかった。この者は通り過ぎた。

——踏まなかったことに意味があるのか。それとも、踏まれなかった種が次の季節に何になるかを、この者はいつか見るのか。渡すべきは次に何か。まだ見えていない。

その者(16〜21歳)

母親の腕の中にいた。

母親は動いていた。歩きながら何かを口ずさんでいた。音は一定で、波のように繰り返した。

この者は母親の胸の動きを感じていた。息が上がるたびに、胸が膨らんだ。

雨の匂いがした。

この者はそれを吸い込んで、目を細めた。それだけだった。

伝播:SILENCE 人口:511
与えるものの観察:光の中の種を、踏まなかった。
───
第1531話

紀元前292,355年

その者(21〜26歳)

腕が重かった。

子が泣いていた。昨晩から泣いていた。胸に押し当てると少し静かになるが、また始まる。熱はなかった。腹が鳴っているわけでもなかった。ただ泣いていた。

その者は岩の陰に座ったまま、子の背に手のひらを当てた。当てたまま、動かなかった。

集団の男たちが何かを言い合っていた。声の高さが変わった。その者には聞こえていたが、顔を向けなかった。

旧人の一群が昨日から近くにいる。崖の向こう、煙が見えた。炎ではない。火を管理している者がいるということだった。

子が泣き止んだ。

眠ったのか、疲れたのか、その者にはわからなかった。体の中のどこかが、ぎゅっと縮んだ気がした。

男たちの声がまた高くなった。ひとりが別の者を突いた。地面に倒れた者が立ち上がらなかった。倒した者は振り返らずに歩いていった。

その者は見ていた。

子の背に手のひらを当てたまま、見ていた。

立ち上がれなかった者の近くに、古い傷のある女がいた。その者がよく知っている女だった。女は倒れた者の腕を引いた。動かなかった。引いた。動かなかった。

夕方になった。

女は動かなくなった者の側を離れなかった。その者は子を胸に抱えたまま、少しだけ近づいた。倒れた者の顔を見た。見知った顔だった。もう呼吸をしていなかった。

その者は戻った。

岩の陰に戻って、子を膝に置いた。空を見なかった。地面を見なかった。ただ子の顔を見た。

子は眠っていた。

夜が来た。集団は散らばった。男たちは遠くに行った。女が残った。倒れた者が残った。

その者は立ち上がらなかった。

子が動いた。ひとつ、大きく息をして、また眠った。

第二の星

長い雨が過ぎ、草は戻り、水場が膨らんだ。

北の高地では岩の上に水が溜まり、鳥が降りてきた。乾いた季節に死んだ木の幹が、ゆっくりと腐り始めた。腐った木に虫が来た。虫に鳥が来た。

始まりの大地には、数えることを誰もしなかったが、口は確かに多かった。その口の分だけ、声があった。声の分だけ、争いがあった。

旧人と現人が同じ崖を使い始めたのは、水場が近いからだった。理由はそれだけだった。言葉は交わされなかった。しかし煙は見えた。互いの煙が、互いに見えた。

集団の中で力が動いた。いつも誰かが倒れ、いつも誰かが残った。それは雨の後も変わらなかった。変わったのは、草の色と、水の音と、崖の向こうの煙の数だった。

豊かな季節は、摩擦を消さなかった。むしろ、人々が動いた。動く先に、別の者がいた。

与えるもの

子の額に、日が当たっていた。

その者の手がそこにあったから、日はその者の手の甲に落ちた。暖かかったはずだ。気づいたかどうかはわからない。

子は続く。この者が続くかどうかより、子が続く。それがわかってきた、かもしれない。渡すべきものが変わりつつある、という感覚だけがある。

伝播:HERESY 人口:495
与えるものの観察:子の背に手を当てたまま、見ていた。
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第1532話

紀元前292,350年

第二の星

北の台地では氷が厚みを増していた。岩盤まで届くほどの冷気ではなかったが、草は根から凍りつき、春になっても戻らない株があった。

始まりの大地の南端、川が二股に分かれる場所に、集団は留まっていた。半月前から移動していない。川の一方は濁り、もう一方はまだ澄んでいた。

その者が生まれた洞窟の近くで、別の集団の痕跡が見つかった。骨のような色をした灰の跡、獣の毛、踏み固められた土。足の大きさが違った。踵の形が違った。しかし火を囲んでいた。火を使っていた。

遥か南では、水が引いた平野に草食の獣が群れていた。そこに人の姿はなかった。しかし岩に刻まれた線が残っていた。獣の輪郭のような線が、風雨に削られながらも残っていた。

始まりの大地では、集団のうちの数名が集まり、川の方角を指差して声を上げていた。濁った方と澄んだ方。繰り返し、二つの方向を見比べていた。

その者は誰かの腕の中にいた。

泣いていなかった。

与えるもの

濁った水の匂いがした。鉄のような、腐葉のような。
その者の鼻腔が動いた。
渡したかったのは、澄んだ方の川ではなかった。違いそのものだった——渡せたかどうかは、まだわからない。次に示すべきものは、また別のところに光を落とす前に、少し待つ。

その者(26〜31歳)

腕の中が重い。

自分の腕が重いのか、抱かれている者が重いのか、もうわからなかった。ただ、そこに熱があった。生きているものの熱だった。

声がした。集団の男たちが川のそばで何かを言い合っていた。腕を動かしていた。その方向、あの方向。その者にはわからなかったが、体がその声の方を向いた。

風が来た。

濡れた土の匂いと、それとは違う何かの匂いが混じっていた。鉄のような。川からではなく、もっと近くから。

腕の中の子が、少し動いた。顔が匂いの方を向いた。

その者は子の顔を見た。

自分も同じ方を向いていた。

川を見た。濁った方。澄んだ方。

濁った方から風が来ていた。

わかっているわけではなかった。ただ、胸の奥の何かが、澄んだ方に向いていた。

男たちの声が高くなった。争う声ではなく、決める声だった。その者には届かなかった。

子が手を動かした。その者の胸元をつかんだ。

その者は、澄んだ方の川を見たまま、少し足を踏み替えた。

伝播:HERESY 人口:475
与えるものの観察:違いを嗅いだ。届いたかもしれない。
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第1533話

紀元前292,345年

第二の星

南の丘陵は乾いたままだった。草の穂が折れかけて立っている。根元から土が剥がれ、風が吹くたびに細かい砂が転がった。

川の二股は変わらずそこにある。濁った方はまだ濁っている。澄んだ方は少し水嵩が増した。雪解けか、上流で何かが動いたか。

始まりの大地の集団は四百七十五。半月、同じ場所に留まっている。子が三人生まれた。老いた者が一人、草の上に横たわったまま起きなくなった。腹が膨れた若い女が、倒れた者の傍に座って何時間も動かなかった。

北の台地では旧人の一群が移動を始めていた。十四人。彼らは丘を越えて西へ向かった。その足跡は泥に深く沈んで、三日後には雨に消えた。

遠い東の海岸、ここからは届かない距離に、砂と貝殻と風だけがあった。誰もいない。足跡もなかった。波が繰り返し打ち寄せて、また引いた。

集団の端では、母親の腕の中に乳児がいた。ほかの誰も見ていない。星は等しく照らすだけだ。

与えるもの

澄んだ水の方から、何かが匂った。

腐敗ではない。土でもない。青い草が根のそばで濡れる時のにおいに似た、冷たさを含むもの。

乳児はまだ鼻でしか世界を知らない。その鼻が澄んだ川の方を向いた。

母親は気づかなかった。

気づかなかったことで何かが失われたのかどうか、わからない。乳児の鼻腔にそれは確かに入った。次に渡すなら何か。においよりも先に届くものを探している。

その者(31〜36歳)

乳児の目はまだ遠くを結べない。

光と影と、動くものと止まっているものだけが世界だ。母親の首の皮膚のにおい、胸の熱さ、揺れるたびに変わる光の角度。川の音が低く続いていた。

ある時、においが変わった。

母親のにおいではない。草でもない。もっと冷たい、水に近い何か。乳児は鼻から息を吸った。もう一度吸った。首をわずかに動かした。母親の腕が締まった。乳児はまた母の胸に戻された。

においは消えた。

代わりに乳児の腹がまた鳴った。泣き声が出た。母親が揺れた。川の音が続いた。

伝播:DISTORTED 人口:490
与えるものの観察:鼻が向いた。届いた。それだけだ。
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第1534話

紀元前292,340年

第二の星

空が低い。

北の稜線に雲が積み上がり、午前から午後にかけて動かなかった。湿った重さが大地に押しつけられたまま、風はほとんど止んでいる。

南の丘陵では草が寝ている。土がひびわれ、そのひびに沿って砂が詰まっている。川の二股はまだある。濁りは薄れていない。

集団は丘の南側に沿って広がっている。二十人あまりが岩陰に背を預け、残りは斜面の低いところに散らばっている。子どもが三人、石を積んでいる。積んで、崩れて、また積んでいる。

北の方角、一日歩いた先に別の集団がいる。彼らも動いていない。低木のあいだに焚き火の煙が細く立っている。

その間の空白の土地には、誰もいない。

けれど誰かが歩いた痕がある。踏み固められた草と、浅い足跡。雨が来ればすぐに消えるだろう。雨はまだ来ない。

乳児が一人、集団の中心で抱かれている。

抱いている者の体温が、乳児の背中に伝わっている。

与えるもの

光ではなかった。風でもなかった。

抱いている者の手が、わずかに緩んだ瞬間に、冷たさが乳児の背中に入った。一瞬だった。抱き直されて、また温もりが戻った。

乳児の体がびくりとした。

受け取った。そう言えるかどうかわからない。ただ、冷たさと温もりの差を、体が感じた。

これは何かの始まりなのか。それとも、体が感じるだけで終わるのか。

前に光を落とした。前に雨の匂いを送った。前に冷たい水の方へ首を向けさせた。届いたかどうかは、今もわからない。届かなかった星のことを、ここでは思わない。思わないようにしている。

ただ、次に渡すなら。

温もりが戻ったとき、この者の体が緩んだ。収縮と弛緩。その差のなかに、何かある。

その者(36〜41歳)

冷たい。

背中が、急に冷えた。

抱き直される。温もりが戻る。

体が緩む。

眠っていたのか、起きていたのか、その境界がない。音がある。遠くで子どもが何かを崩した音。近くで誰かが息をしている。

鼻に何かある。抱いている者の匂い。汗と、何か別のもの。

目はまだほとんど機能しない。光と暗さだけがある。今は明るい。

抱いている者の胸が、上下する。その動きに合わせて、自分の体も揺れる。

揺れる。

揺れる。

また冷たさが来た。背中ではなく、空気から来た。風が一瞬動いた。体がまた反応した。びくり、と。

声が出た。泣き声ではない。もっと短い、喉の奥の音だった。

抱いている者の手がさらに強く締まった。

温もりと、圧力と、匂いと。それがすべてだった。

伝播:HERESY 人口:477
与えるものの観察:冷たさと温もりの差を、体が受け取った
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第1535話

紀元前292,335年

その者(41〜46歳)

夜が明ける前に目が覚めた。

岩の張り出しの下、乾いた草を踏んで、その者は立つ。立つのに時間がかかる。膝が痛い。膝だけではない。腰の右側に、ずっと前からある鈍い重さ。それはもう痛みとは別のものになっている。ただある、という感じのものだ。

空は暗い。東に薄い帯。

集団の中心では、火がまだ生きている。誰かが夜通し木を足した。その者ではない。その者は端の方で眠っていた。端にいる者はいつも端にいる。

その者は川の方へ歩く。

川は昨日より細い。干上がってはいない。でも細くなっている。岸の石が、一昨日は水の中にあったのに、今は空気に晒されている。石の表面が白く乾きかけている。

その者はかがむ。水を手に取る。飲む。

水の味が変わっている。

前はもっと冷たい味がした。冷たさに別の何かが混じっていた、あの感じ。今はただ水だ。薄い。何かが欠けている。

その者はもう一度飲む。確かめるように。

同じだった。

立ち上がろうとして、止まる。川岸の少し上流、岩の間から、細い流れが滲み出している場所がある。そこだけ、石の色が違う。暗い。湿っている。

匂いがある。

土の匂いではない。もっと奥のものの匂い。地面の深い場所から来るような、冷たくて重い匂い。

その者は鼻を動かす。

動物の巣の匂いとも違う。腐ったものの匂いでもない。ただ古い、という感じの匂い。ずっと前からそこにあって、今初めて漏れ出してきた、というような。

その者の足が、その岩の間に向いた。

歩く前に、振り返る。集団はまだ眠っている。火の番をしている者が一人、こちらを見ていない。

その者は岩の間に近づく。

匂いは強くなる。足の裏に、かすかな湿り気。石と石の間の土が、柔らかい。手を伸ばす。指先が湿った土に触れる。冷たい。

そこに手をしばらく置く。

何もない。水が流れているわけでも、何か生き物がいるわけでも。ただ冷たさが指から手のひらへ、手のひらから腕へと広がっていく。

集団の方から声がした。

誰かが起きた。子どもの声。朝の最初の泣き声。

その者は手を引いた。立ち上がる。膝が鳴った。

振り返ると、火の周りに何人かが動いている。その者の方を見ている者がいる。目が合う。

その者は川から離れる。

集団の方へ歩きながら、まだ冷たさが手の中にある。握っているわけではない。ただそこにある。掌の中心に残っている、何か。

歩く。草が足首に触れる。

東の空が、少し明るくなっている。

その日の午後、集団の中で何かが起きた。

声が高くなった。言葉ではなく、音の高さとして。怒りの音が複数重なる場所に、その者はいた。端にいたつもりなのに、中心になっていた。

理由はわからない。いつもそうだ。その者がいる場所が、なぜか緊張の場所になる。

古い傷を持つ男が近づいてきた。体が大きい。その者より若い。腕に古い傷の跡がある、鋭いものでつけられた傷。

その者は動かなかった。

地面を見た。土の中に、今朝の冷たさを思い出そうとした。手のひらに残っていた、あの感じ。

足が、地面を踏んだ。ただそれだけのことだ。

男の腕が動いた。

その者の体が、横に動いた。転んだのではない。押されて、そのまま石のある方へ。頭が石に当たった。

音がした。

それから静かになった。

その者は地面の上にいる。空が見える。空は白い。雲が高い場所にある。どこかで鳥が鳴いている。

体の力が抜けていく。手のひらに、まだ冷たさが残っている気がした。残っていた、かもしれなかった。

草が風に揺れている。それだけが動いている。

第二の星

この5年、大地は乾いた。

川が細くなった集落がある。泉が枯れた場所がある。水を求めて移動した集団がある。移動の途中で半数が消えた集団がある。新しい土地で根づいた集団もある。根づけなかった集団もある。

旧人と新しい人が同じ水場を共有している場所がある。共有は長く続かなかった。どちらかが離れた。どちらかが残った。

子が生まれた。死んだ。生まれた子が生き延びた。その子がまた子を産んだ。

火が絶えた集団がある。火を持つ別の集団と出会い、火をもらった。火は伝わる。知識は伝わらなかったものが多い。

この5年で、この大地の人の数は増えた。増えた先から減った。今は増えている。あと何年かすれば、また減るかもしれない。

その者がいた岩の張り出しの下で、夜に火が燃えている。その者がいなくなった後も、火は燃えている。誰かが木を足した。朝になると誰かが水を汲みに行く。

川は細くなっている。でもまだある。

与えるもの

地面の深い場所から匂いを漏らした。

この者の鼻が動いた。足がそちらへ向いた。手が冷たさに触れた。

それだけで、その後を止めることはできなかった。冷たさは手のひらに残った。それが何になるかは、この者が決めることではなかった。

次に渡すべきものを、まだ持っている。

伝播:HERESY 人口:466
与えるものの観察:冷たさは届いた。石の方は止められなかった。
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第1536話

紀元前292,330年

第二の星

氷が後退している。

ゆっくりと、しかし確実に。高地の縁から流れ下っていた白い舌が、ここ数年で短くなった。岩肌が露出し、そこに細い草が根を張り始めた。温かさが戻ってきたのではない。ただ、極端な冷えが一時、息をついているだけだ。それでも、その隙間に命は入り込む。

乾いた盆地の東側。赤褐色の岩が重なる場所に、二つの集団がいた。

一方は長く続く集団だ。岩の陰に皮を干し、子どもの声が混じり、火の管理を誰かが常に担っている。もう一方は小さく、顔立ちが異なる。額が張り出し、首が短い。互いをずっと前から知っていた。同じ水場を使い、同じ季節の移動を繰り返してきた。

しかし何かが変わった。

食べ物が減った。温かさが戻りかけた分、雨の当たり方が変わり、以前は実をつけた低木が枯れた。水場のひとつが消えた。岩の割れ目から染み出ていた水が、ある朝から出なくなった。代わりの場所を探すということは、誰かの縄張りに踏み込むということだ。

緊張は音ではなく、距離で現れた。

二つの集団が互いを見る。見たまま、動かない。夜になっても火を近づけない。子どもたちが近寄ろうとすると、どちらの大人も引き戻した。引き戻す手は強く、子どもの腕に痕が残った。

長く続く集団の中に、ひとりの者がいた。年を取った者だ。腰が曲がり、歯が少ない。しかしその者は、顔立ちの異なる集団の方向に、何度も向いた。向いては戻った。向いては戻った。

誰かがそれを見ていた。

年を取った者が、あちらの方向を向くのを見た。それを見た者が、別の者に何かを伝えた。伝わった内容が何であったかは、音と身振りの中に消えた。しかしその夜、年を取った者の眠る場所が、集団の中心から少し離れた場所に変わっていた。

離れた。それだけのことだった。

翌朝、顔立ちの異なる集団が動いた。水場の方向ではなかった。北へ、岩の多い斜面へ向かった。見送る者は誰もいない。しかし長く続く集団のいくつかの目が、その後ろ姿を追った。

岩が、光の角度によって色を変えた。赤から橙へ、橙から白へ。

風が、盆地を横切った。

与えるもの

年を取った者の耳元で、風が変わった。北からではなく、東から来た。岩の隙間を抜けてきた風で、乾いた土の匂いに混じって、何か湿ったものがあった。水の匂いだ。遠い、しかし確かな水の匂い。

その者は、耳をわずかに動かした。

また来た匂いだ、と与えるものは思った。水を示した。もっと前にも、水を示したことがある。この者は足を動かした。動かした先に水があった。しかし今、この者の足は動かない。集団の中心から、すでに少し離れた場所にいる。匂いをもう一度届けることはできる。しかし次に渡すべきものが何かを、与えるものはまだ決めていない。

その者(46〜51歳)

眠れなかった。

周りの息づかいが、遠い。火の明かりが届かない場所で、その者は横になっていた。目は開いていた。

東から、風が来た。

何かが混じっていた。その者の鼻が動いた。体が、少しだけ東を向いた。

それだけだった。

伝播:HERESY 人口:450
与えるものの観察:水の匂いを届けた。足は動かなかった。