2033年、人類の旅

「紀元前299,165年〜紀元前299,045年」第169話〜第192話

Day 8 — 2026/04/11

読了時間 約54分

第169話

紀元前299,165年

第二の星

北の氷が後退している。溶けた水は低地へ流れ、新しい沼をつくる。沼の縁に草が生え、草を追って獣が移動する。獣を追って人が移動する。

始まりの大地の南端では、別の集団が川を渡った痕跡がある。足跡が砂地に残り、風が来るまでそこにある。その集団は火を持っていた。夜、離れた丘から見れば二つの火が見える夜もある。一つはこちら。一つはあちら。

北の沿岸では、旧人の集団が岩陰に干し肉を貯めている。手が大きく、額が張り出している。子が生まれた。子は泣かず、目だけが動く。この星にとって、泣かない子も泣く子も同じ夜の下にある。

川の上流では、洪水が木を流した。流木が岩にぶつかる音が、夜中続いた。朝、川幅が広がっていた。

この5年、豊穣は続いている。獣は太り、木の実は落ちる前から地面に積もる。集団は増えた。増えたことが、別の緊張を生んでいる。場所を巡る声が大きくなった。誰の水場か。誰の狩り場か。問いに言葉はないが、目と体と唸りが問う。

火は今夜も二つある。

与えるもの

川の水面が揺れた。

その者の目がそこに止まった。流れの速い場所と、淀む場所。境界線のようなもの。

その者は石を持ったまま水面を見ていた。それだけだった。

境界線は何かに使えるか。あの者は何を見ていたのか。わからない。

その者(41〜46歳)

石を割るとき、手が震えなくなった。

それがいつからかは知らない。気づいたら震えていなかった。指が石の角度を読む。手首がその少し前に動いている。

別の男が隣に座るようになって長い。その男の打ち方は違う。腕から力を出す。その者は手首から出す。どちらが正しいかは誰も言わない。石が割れれば正しい。

川へ水を汲みに行った午後、足が止まった。流れが二つに分かれている場所。速い流れと、遅い流れ。魚は遅い方にいる。石は速い方に光る。

しゃがんで、水面を見た。

石を水の中に入れると、石が二つになった。水面より上と、水面より下で、角度がずれる。同じ石が、二つ見える。

しばらくそこにいた。

夕方、戻ると集団の端で声が上がっていた。知らない男が三人、川の方から来ていた。自分たちの集団の男が二人、前に出て腕を広げていた。目線が交差する。唸り声が重なる。

その者は石を一つ、手の中で転がした。

知らない男たちは引いた。夜になって、遠くに火が一つ見えた。

食事のとき、子どもが膝に乗ってきた。子どもの頭の重さが膝にある。その者は片手で子どもの背中を押さえながら、もう片方の手で骨を割った。中から白いものが出る。舐めた。子どもも手を伸ばした。

渡した。

伝播:NOISE 人口:1,366
与えるものの観察:水面の境界を、その者は見た。
───
第170話

紀元前299,160年

第二の星

北の縁では氷の退いた跡に泥炭の地が広がり、表土が剥き出しのまま風に削られている。春の溶雪が土を押し流し、露わになった礫の層に骨が混じっている。獣の骨か、人の骨か、風は区別しない。

始まりの大地の中央部では、二つの集団が同じ水場を使い始めた。片方は東の岩陰を寝床とし、もう片方は西の斜面に皮を張る。昼間は互いに目を向けない。しかし夕暮れ時、火の光が重なる。どちらの集団の呼び名がこの場所に残るか、まだ決まっていない。

南の川べりには、渡ってきた集団の残した炉の跡がある。炭の層は二重になっている。去年の炭の上に、今年の炭が積もった。同じ場所に戻ってきた者がいる。

遠く、海に面した岩棚では潮が高く、满ち潮が前よりも岩の奥まで入り込む。貝を採る者たちの足場が変わっている。彼らは高い岩の上を歩くようになった。転落した者がいる。転落した者の使っていた道具を、誰かが拾った。道具は続く。

大地全体で、人は少し多い。しかし少し多いということは、少し足りないということでもある。

与えるもの

水場に集まった二集団の間で、緊張が石のように固まっていく夕暮れ。

その者の目が止まった。西の集団の男が腰に下げた獣の皮の端、そこに結ばれた何かが揺れた。小さな骨の欠片。

風がその方向から吹いた。ほんの一瞬、あの男の匂いが届いた。

その者はそれを嗅いだ。立ち止まった。それから東へ戻った。

渡したのは敵意ではなかった。渡したつもりは、なかった。あれは何だったのか。戻すことで傷は避けられたのか、傷の始まりを遅らせただけなのか。

速い流れに石が光った、あの記憶が戻る。届いたのかどうか、あのときも分からなかった。

その者(46〜51歳)

水場の岩に座って石を叩く。師の叩き方で叩く。師はもういない。

欠片が飛ぶ。膝に落ちる。払う。また叩く。

手の皮が厚くなって久しいが、角度が悪ければ血が出る。今日も少し出た。舐める。鉄の味。続ける。

西の集団が水場を使い始めてから、夕暮れの空気が変わった。何が変わったのか言葉にはならない。ただ背中の産毛が立つ。肩甲骨の間が冷える。

あの夕暮れ、何かが鼻を突いた。立ち止まった。足が言うことを聞かなかった。東へ戻った。なぜ戻ったか分からない。ただ戻った。

集団の中で若い男二人が西の方向を指差し、唸り声を出していた。低い音で、腹に響くような音だった。その者は石から目を上げた。二人の背中を見た。また石に目を戻した。

夜、子どもが二人、毛皮の端を引っ張り合っている。引っ張り合いながら眠る。その者は火の前に座って、叩きかけの石を手に持ったまま、何も叩かない。

炎が揺れる。影が揺れる。

手の中の石は、まだ形になっていない。なりかけている。

46歳から51歳のあいだに、その者は石を叩き続けた。角を出した。削った。渡した。また叩いた。誰かが使った。誰かが失くした。その者はまた叩いた。

手だけが知っている形がある。頭が知るより先に、手が動く。師から来た動き。師の師から来た動き。どこから来たか、その者は知らない。

伝播:DISTORTED 人口:1,357
与えるものの観察:届いたのか逸れたのか、判別できない。
───
第171話

紀元前299,155年

与えるもの

5年、何も渡さなかった。

正確には、渡そうとしたのかもしれない。
あるいは渡したのに、届かなかったのかもしれない。
区別がつかなくなってきた。

水場に光を落とした。
この者の目が止まらなかった。

夜、獣の遠吠えが聞こえた。逃げる方向を匂いで示した。
この者はすでに岩陰にいた。

関係がない。
渡したものと、この者の行動のあいだに、因果が見えない。

35年。

第1の星では12人と繋がった。知識が届いたのは0回。
数えることに意味があるのか、と思ったのはあの頃だった。
同じ問いをまた立てている自分に気づく。

問いは育たない。同じ場所に戻ってくるだけだ。

この者は今、生きている。
集団は大きくなった。争いの種がある。
それと自分のあいだに、どんな線が引けるのか。

引けない。

豊かな季節が続いている。腹が満ちていれば争いは遠い、と思うのは誤りだ。
腹が満ちていても爪を立てる。場所のために、水のために、あるいは理由もなく。
それをこの者は知っているのか、知らないのか。

知っていたとして、何かが変わるのか。

二つの集団が同じ水を飲んでいる。
この者はどちら側にいるのか。
それさえ、今は見えない。

5年、渡さなかった。
あるいは、渡せる形のものが見つからなかった。

骨を渡すか。
水の流れを渡すか。
相手の目の動きを渡すか。

言葉がない。
この者の中に言葉がない。
渡せるのは、注意の方向だけだ。

注意の方向だけで、何が変わるというのか。

第1の星の終わりを思う。
最後の一人が倒れるまで、何を渡せたのか。
何も渡せなかった、という記憶だけが残っている。

記憶。
これは自分のものか。
それとも積み重なった失敗の重さが、記憶という形を借りているだけか。

この者は今夜も眠る。
糸は続いている。
それ以外に言えることが、この5年でひとつも見つからなかった。

ただそれだけだ。

伝播:SILENCE 人口:1,357
与えるものの観察:渡す形が見つからない5年だった
───
第172話

紀元前299,150年

その者(56〜59歳)

石を割ることを、この者は最後まで覚えていた。

手首を返す角度。力の入れどころ。膝の上に乗せた岩の、どこに刃先を当てれば薄く剥がれるか。体が知っていた。頭が考えるより先に、手が動いた。

集団は大きくなっていた。若い者が多かった。この者より速く走れる者、より遠くを見渡せる者が、あちこちにいた。石器を割る声が、朝から夕方まで続いた。かつては二人、三人だったところに、今は十を超える手がある。

この者は端に座った。

誰かが持ってきた石を受け取り、割り、渡す。それだけをした。若い者の割り方が間違っているとき、この者は自分の手を見せた。言葉はなかった。音も出さなかった。ただ、手首を返した。何度も。ゆっくり。

あるとき、この者の隣で石を叩いていた若い男が、突然立ち上がり、別の男の胸を押した。声が荒くなった。二人の間の空気が変わった。集団が大きくなるにつれ、そういうことが増えていた。誰が何を持つか。誰が誰の隣に眠るか。あの水場はどの群れのものか。

この者はその場から離れた。

争いの輪郭だけを見ていた。昔も似たものを見た。もっと少ない人数だったころ。あのとき誰かが消えた。どこに行ったのかは知らない。

集団の外れ、大きな岩の陰に、この者は座り込んだ。

膝が痛かった。しばらく前から、朝に起き上がるとき、膝の内側が熱を持つようになっていた。無視して動けば、昼には和らいだ。しかし今日は和らがなかった。日が傾いても、膝は熱いままだった。

夕方の風が来た。

草の匂いがした。雨の前の湿った匂いではなく、乾いて温かい、草だけの匂いだった。

この者は、膝に手を置いたまま、風の方を向いた。

何かが、風の中にあった。形のないもの。届くかどうかわからないもの。この者の目が、風の向こう、遠い草原の方角へ、少しだけ開いた。

その方向に、特に何もなかった。草が揺れていた。

この者は目を戻した。手の中に、割りかけの石があった。拾い上げた記憶がなかった。いつの間にか持っていた。

石を見た。長い時間、見た。

割らなかった。

石を膝の脇に置いた。

それからは、ただ座っていた。風が止み、虫の音が始まった。集団の方から声が聞こえた。争いは終わったか、続いているか、この者には分からなかった。

夜になった。

誰かがこの者を呼ぶような声を出した。この者は返事をしなかった。できなかったのか、しなかったのか、この者自身も知らなかった。

体が、岩に向かって少しずつ傾いていった。

傾いたまま、止まった。

膝の石が、草の上に転がった。誰も見ていなかった。

第二の星

同じ夕方、大地の向こうでは草原が燃えていた。落雷によるものだった。火は三日燃え、広い範囲の草を失くした。別の群れがその地を離れ、動き始めた。移動の方向は、人が増えた場所へ向かっていた。第二の星は、それも見ていた。区別しなかった。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:1,676
与えるものの観察:届かなかったのか、届いたのに使われなかったのか。
───
第173話

紀元前299,145年

第二の星とその者(15〜20歳)

草原の東端で、ふたつの集団が同じ水場を使い始めていた。どちらも大きくなっていた。どちらも退かなかった。

その者は速かった。脚が長く、踵の落とし方を知っていた。集団が北へ移動するとき、先に行って戻ってくる。それがこの者の仕事だった。戻るたびに手で示す。水がある。獣がいる。煙がある。

熱帯の南では雨が続き、地面が緩んで森が濃くなっていた。北では乾いた風が台地を渡り、背の低い草が揺れた。同じ季節の、同じ年のことだった。集団は増え、子どもの声があちこちで聞こえた。それは豊かさの音だった。しかし水場は増えなかった。

ある朝、この者は岩場の上から他集団の者たちを見た。まだ遠かった。体の大きな者が複数いた。動きが違った。走り方ではなく、立ち方が。腰の低い、踏ん張った立ち方。それを見た瞬間、胸の奥に何かが固まった。

引き返した。両手を振った。

水場をめぐる最初の接触は小さな衝突で終わった。石が投げられた。唸り声が重なった。血が少し出た。誰も死ななかった。しかし翌日、また来た。今度は数が多かった。

この者は二度目の接触を見ていなかった。別の方角を確認しに行っていた。丘の上から煙を見た。自分の集団がいる方の煙ではなかった。方角が違った。

立ち止まった。

風がある方向から吹いてきた。南東。煙の方向ではなかった。しかし何かが鼻に触れた。焦げた草ではない。別の何か、湿った土と混じった匂い。その者は顔をそちらへ向けた。斜面の下に、小さな水の染みがあった。岩の割れ目から滲んでいた。地表に出て、すぐに砂に消えた。

水場だった。

小さかった。しかし確かに湧いていた。

その者はしばらくそこに座っていた。手で砂を掘った。水が少し増えた。また掘った。

集団への道を引き返しながら、この者は何かを考えていた。考えるという言葉を持たなかったが、頭の中で二つの場所が重なっていた。今いた場所と、今いない場所が、どちらも同時に存在していた。それは初めての感覚だった。

歩きながら、立ち止まった。

また歩いた。

集団は水場をめぐる緊張のなかにいた。互いを見張り、石を持ち、声を上げた。この者が戻ってきたとき、新しい染みの場所を両手で示した。距離を示そうとして、腕を伸ばした。方角を示そうとして、体ごと向いた。

誰かが頷いた。しかし半分しか伝わらなかった。

5年の終わり、集団は動いた。争いは大きくならなかった。水場から離れた場所に移動した。新しい染みは、まだ誰のものでもなかった。

その者は15歳から20歳になっていた。脚はまだ速かった。しかし今は、走りながら別の場所を同時に思い描くことができた。

それが何かは知らなかった。

与えるもの

湿った土の匂いをそこへ運んだ。

この者は顔を向け、砂を掘った。

それだけのことが、なぜ頭から離れないのか。渡したものが根を張るとき、与えたのか、それとも土がもともとそこにあったのか。

糸が繋がった。

割りかけで置かれた石を、私はまだ覚えている。

伝播:SILENCE 人口:1,664
与えるものの観察:場所を二つ同時に持った。初めて。
───
第174話

紀元前299,140年

第二の星

草原の東端に乾いた風が吹いている。

水場の縁に踏み跡が重なっている。ふたつの集団のものが。どちらの足もかかとが深く沈んでいる。毎日来ている者たちの跡だ。

大きくなった集団は動きが遅い。小さな足、老いた足、引きずる足が増える。速く走れる者は端にいる。

遥か西、岩棚の下でひとつの集団が眠っている。こちらは小さい。半数が熱で倒れた後、残った者たちが集まって獣の毛皮を体に巻いている。子が泣かない。泣く力がない。

草原の北では別の者たちが火を焚いている。夜、炎が揺れる。獣が近づかない。子が三人、火の傍で転がりながら眠っている。

星は数える。まだ多い。でも毎日減っている。病によらない死。老いによらない死。石と火による死。

ふたつの集団が同じ水場に集まるとき、声が大きくなる。胸を張る者がいる。石を持つ者がいる。

水は減らない。場所が足りない。

星は判断しない。草原の風が東から西へ流れている。それだけだ。

与えるもの

影が動いた。

草の陰に倒れた獣の骨が半分埋まっていた。尖った端が光に出ていた。

この者は立ち止まった。骨を拾い、手の中で重さを確かめた。捨てなかった。

渡ったのか。それとも脚が速い者は落ちているものを見る目が鋭いだけなのか。

その者(25歳)

走ると土の匂いが変わる。

湿り気が増す場所がある。乾く場所がある。その者の脚はその差を知っている。踵が沈むかどうか、それだけでわかる。

水場の東側に見知らぬ者たちが三人いた。こちらの集団より背が低く、眉の骨が張っていた。目が合った。どちらも動かなかった。

その者は胸を張らなかった。石を拾わなかった。

ただ立っていた。

見知らぬ者たちのうちひとりが鼻から息を吐いた。視線を外した。水を飲んだ。

その者も水を飲んだ。

草の中に獣の骨が落ちていた。白く、乾いていた。尖った端に影が走った。その者は屈んで拾い上げた。親指で先端を押した。皮膚が白くなった。貫かない。もう少し。

石で叩けば尖る。

頭より先に手が動いていた。石を探して右手が動いた。まだ考えていなかった。手が先だった。

硬い石を見つけた。骨の先端を角に当てて叩いた。欠けた。また叩いた。

削れた粉が掌に積もった。

その者は手を見た。粉を見た。骨を見た。

水場の見知らぬ者たちが離れていった。振り返らなかった。

その者は叩くのをやめなかった。

夜、集団のもとへ戻るとき、骨を腰に挟んでいた。走っても落ちなかった。

伝播:SPREAD 人口:1,654
与えるものの観察:手が先に動いた。頭はまだ追いついていない。
───
第175話

紀元前299,135年

第二の星

草原の南に雨季が来ている。川の上流では泥が崩れて流れが変わった。低地に水が溜まり、葦が新しく根を張っている。

北の尾根では旧人の集団が岩陰で眠っている。額が広く、肩が重い。鼻が風の向きを読む。彼らは水音を聞いて移動した。足跡は深く、歩幅は短い。

東の草原では草が膝の高さまで育っている。獣の通り道が三本ある。そのうち一本に、ふたつの集団の足跡が重なり始めている。

水場から半日の距離の丘の上に、この星はある。草が揺れ、石が光を吸う。何も判断しない。遠くで雷が鳴っても近くで獣が倒れても、等しく照らす。

集団の数は増えている。子が増え、腹が満ちている日が続いている。しかし水場に集まる顔が増えるほど、朝の静寂に張りが混じる。誰かが先に着いている。誰かが後から来る。目が合う。逸れる。

それだけのことが、毎朝繰り返されている。

与えるもの

風がその方向から来た。

草の匂いではなく、獣の脂の匂いだった。風下に誰かがいる。

この者は鼻を上げた。嗅いだ。しかし足を止めなかった。

止まらなかった理由が、わからない。

その者(25〜30歳)

朝、走る。

草の中を抜ける道は三本ある。真ん中が一番速い。しかし真ん中を使うとき、いつも誰かの跡がある。かかとの形が違う。

今朝も真ん中を走った。

途中で鼻に何かが引っかかった。獣ではない。でも獣に似た何かだった。脂と土と、もうひとつ。名前がない匂いだ。

足は止まらなかった。

丘の上まで来て、下を見た。水場に人影があった。自分の集団ではない形をしている。腕の長さが違う。肩の丸みが違う。

しゃがんで、草の後ろに入った。

水を飲んでいる。石を持っていない。こちらを見ていない。

長い時間そこにいた。息を詰めていたわけではない。ただ動かなかった。

相手が立った。歩いた。草の中に消えた。

その者は立った。水場に降りた。水を飲んだ。冷たかった。

もう一度嗅いだ。さっきの匂いが残っていた。水の表面に脂の輪が浮いていた。相手が触れた跡だった。

手で水を掻いた。輪が散った。

集団に戻った。何も言わなかった。言う言葉がなかった。胸の中に何かが残っていた。それを外に出す形を、持っていなかった。

その夜、火の前で腕を抱えた。

輪が散る前の形を、また思った。

伝播:SILENCE 人口:1,646
与えるものの観察:匂いが来た。足は止まらなかった。
───
第176話

紀元前299,130年

その者(30〜31歳)

熱が来たのは、走った翌朝だった。

草原の東、岩盤が露出した斜面を越えて戻ってきた夜、体の芯が重くなった。喉の奥が狭まり、唾を飲むたびに引っかかりがあった。それでもその者は起き上がり、仲間の目に向かって手を動かした。東。崖。旧人の足跡。三つ。

仲間たちは聞いた。うなずいた。それだけだった。

翌日、立てなかった。

集団の女が皮を持ってきた。薄く延ばした獣の皮。それを腹の上に置いて去った。子どもが近くで石を叩いていた。打ち欠く音が一定のリズムで続いた。止まった。また始まった。

その者は天を向いたまま、音を聞いていた。

夢と覚醒の境が溶けていた。足の速さを思い出した。草が踝を打つ感触。地面が傾いてもずれない重心。岩の陰から鳥が飛び立つ瞬間、こちらが先に動いていた。体が知っていた。頭より先に、体が。

熱の中で、その感触がまだそこにあった。

三日目の朝、煙の匂いがした。誰かが近くで火を熾している。脂のついた骨を焼く匂いが混じった。腹が動いた。食べたかった。手を伸ばしたが、届くものは何もなかった。

指が空を掻いた。

下ろした。

風が草を揺らす音がした。その音の中に、何か別の音が重なっていた。遠い水の音か、獣の息遣いか、わからなかった。その者の耳は長くそこに留まっていた。

やがて音が離れた。

体の重みが地面に溶けるように、力が抜けた。最後に動いたのは指だった。土を一度だけ、握った。

第二の星

北の尾根では旧人の老いた一頭が岩から落ちた。低木の枝がからまり、しばらく宙吊りになっていた。
川の中洲では雌の獣が子を舐めていた。子は立とうとして崩れ、また立った。
草原の南では炎が広がっていた。風向きが変わり、炎は自分で自分を消した。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:SPREAD 人口:1,637
与えるものの観察:渡した。届いたかどうかは、もう問わない。
───
第177話

紀元前299,125年

第二の星

草原の東、岩盤の斜面を越えた先に、この5年が積もっている。

雨季が二度、予定より遅れた。それでも水場は干上がらず、群れは動いた。草食の獣の群れが南から北へ移った年、子が多く生まれた。腹を丸くした者が三人、四人と重なり、岩壁の下の平地は夜、唸り声と火の音でにぎやかだった。

その者が先頭に立って群れを動かすようになって、もう数年が経つ。

遠く、水場と水場の間を繋ぐ乾いた回廊では、別の集団が夏のたびに移動する。顔の形が少し違う。眉の骨が厚く、肩が広い。彼らも火を持つ。彼らも子を抱える。二つの集団は、去年の末に同じ水場で向かい合った。誰も動かなかった。水を飲んだ。離れた。

それだけだった。しかし男たちの中に残った何かは、まだそこにある。

北の内陸では、湿地が縮んでいる。泥が固くなり、葦が倒れたまま立ち上がらない。そこを縄張りにしていた小さな集団が、今年になって消えた。移ったのか、それとも別のことが起きたのか、この星は知らない。知らなくても、照らす。

与えるもの

糸が繋がった。

記憶が重い。

脂の輪、走った体の記憶、割りかけの石——それらはすべてこちら側にある。あちら側には届かなかった。届かなかった。

今この者の目が、新しい場所に止まっている。

獣の腸を引き出す作業の途中、指の間で温かいものがぬめった。その者の手が止まった。ぬめりが指の又に残った感覚が、その者の中で繰り返した。

それだけだった。それだけで何かが起きるか、わからない。前にも、わからなかった。

その者(34〜39歳)

獣の腹は大きかった。腸を引くと蒸気が立った。

その者は膝をついたまま手を動かし続けた。内臓の熱が顔まで届いた。腕の内側が濡れ、指の股がぬるりと滑った。手を止めた。また動かした。

何かが指に残った。

ぬめりの感触ではない。そうではなく、もっと薄いもの。触ったことのない形をした何か。その者は手の甲で額を拭い、空を仰いだ。空は何もなかった。

仲間の一人が声を上げ、肉の塊を持ち上げた。別の者がそれに応えた。火が大きく揺れた。

その者は立ち上がり、仲間たちの輪に入った。

夜、火が落ち着いてから、その者は遠くを見た。水場の方向ではなく、もっと先、岩盤の稜線が黒く折れている場所。そちらから風が来ていた。何の匂いもなかった。

その者は膝を抱えた。

翌朝、狩りの準備をするとき、その者が先に立った。足を上げ、頭を低くし、仲間に向けて唸った。出発の合図だった。

いつものことだった。

ただ、出発の前に一瞬、また手のひらを見た。もう何も残っていなかった。

伝播:NOISE 人口:1,629
与えるものの観察:手が止まった。届いたかは、まだ分からない。
───
第178話

紀元前299,120年

その者(39〜44歳)

朝、最初に死んでいたのは子どもだった。

その者は子どもの体を持ち上げた。まだ温かかった。熱があったのに、冷えるよりも先に動かなくなった。唸り声を上げると、母親が寄ってきた。その者は子どもを渡した。それだけだった。

次の日、別の子どもが倒れた。

その者は狩りに出た。獲物を追いながら、群れの中の何かがずれていくのを感じていた。走るのが遅い者がいた。立ち止まって腹を押さえた。その者は振り向かなかった。振り向けば群れが止まる。止まれば獲物が消える。前を向いて走った。

七日後、倒れる者の数が増えた。

火のそばで震えている者がいた。目が潤んでいた。その者は近くに座った。何もしなかった。火を大きくした。それだけだった。

群れが半分になったのは、どの日のことだったか、その者にはわからなかった。ある朝、起きてみると、昨夜まで隣で寝ていた者がいなかった。探しに行くと、岩の陰に倒れていた。体が固く、もう温かくなかった。

その者は岩の近くに穴を掘った。

土を掻く手に力を入れた。指の間に土が詰まった。掘りながら何かを言おうとした。言葉はなかった。低い唸り声だけが出た。

穴に体を入れて、土を被せた。

その後、また別の者が倒れた。また穴を掘った。また倒れた。また掘った。その者の手のひらは土の色になった。

ある日、自分の腹が痛くなった。

水を飲もうとして、吐いた。その者は岩に手をついた。膝をついた。地面に座った。空を見た。空は何もなかった。青だけがあった。

その者は立ち上がった。

立ち上がれたことが、その者にも驚きだった。膝が笑った。それでも立った。群れを見た。まだ動いている者がいた。まだ立っている者がいた。

その者は前を向いた。

第二の星

草原と岩盤の境を、この星は見ていた。

この5年のあいだ、雨は来た。獣も来た。子どもも生まれた。群れは膨らみ、火は大きくなり、夜の音は重なった。それが今年、崩れた。

見えないものだった。水か、食べたものか、触れたものか、群れの誰も知らなかった。ただ倒れた。腹を押さえ、熱を出し、ある者は一日で、ある者は三日かけて、力が抜けた。岩の陰で、草の中で、母親の腕の中で。見えない何かが、群れの体を通り抜けていった。

半数以上が消えた。

同じ時、この星の別の場所では、氷の縁で別の群れが別の冬を生きていた。乾いた台地で、別の集団が獣の骨を割って髄を吸っていた。彼らはこの草原のことを知らなかった。この草原の者たちも、彼らのことを知らなかった。

この星は全てを照らすが、何も結ばない。

残った者たちは岩盤の斜面に集まった。火が一つ、夜に燃えた。前より小さな火だった。前より少ない者が、その周りに座った。理由はわからなかった。それでも火は燃えた。それでも者は座った。

与えるもの

腸の熱を知っていた。

あの感覚がこの者の腹を通ったとき、光がある岩の割れ目に落ちた。その割れ目の奥に、枯れた草が詰まっていた。乾いた草だった。

この者は光を見た。岩の割れ目に手を入れ、草を引き抜いた。嗅いだ。捨てた。

草の種類を問いたかった。苦い匂いのある草は腹の熱を和らげることがある。だがこの者には匂いの記憶と今の匂いを繋ぐ言葉がなかった。繋ぐ器がなかった。

届いたかどうかを、私は知らない。

五つの記憶がある。水。端。脂。体。熱。毎回、形が違った。毎回、届いたかどうかがわからなかった。この者が生き残ったのは、私のせいではないかもしれない。この者が死ななかった理由を、私は持っていない。

ただ、立ち上がった。

それだけを記す。

伝播:DISTORTED 人口:755
与えるものの観察:草を捨てた。それでも立った。
───
第179話

紀元前299,115年

その者(44〜48歳)

朝、霧が低かった。

その者は岩の縁に立って、向こうの丘を見ていた。四十八年間、この目はずっと遠くを見てきた。草が揺れると、どこに何がいるかわかった。風の向きで、雨が来るかどうかわかった。

丘の向こうに、別の群れがいた。

昨日からだった。煙が二つ見えていた。その者の群れの煙と、別のところで燃える煙と。近すぎた。

その者は立って、後ろを振り返った。群れの者たちが起き上がっている。子どもが走っている。女が水を運んでいる。その者には見えた。何が来るか。

唸り声を上げた。低く、長く。

数人が顔を上げた。

そのとき、草の中から影が出た。一つ、二つ。別の群れの者だった。体が大きかった。額の骨が出ていた。目の色が違った。

その者は前に出た。

それ以外のことを、その者は考えなかった。群れの後ろに子どもがいた。女がいた。前に出ることが、その者のすることだった。

空気の中に、ある感触がひろがった。

岩の表面に落ちる光が、白くなった。影が消えた。その者の目が止まった。光の中の、岩の形。割れ目に沿って走るひびの線。

その者はそれを見た。

見て、何も思わなかった。ただ見た。

それから顔を上げて、前に来た影に向かった。

争いは短かった。

その者は前に出て、押した。殴った。唸り声を上げた。群れの者たちが後ろで動いている音がした。

石が来た。どこから来たかわからなかった。

側頭部に当たった。

その者は倒れた。

立とうとした。足が曲がった。

草の上に横になった。空が見えた。霧がまだあった。

音が遠くなっていった。争いの音。子どもの声。女の叫び。

その者の目は空を見ていた。霧が動いていた。

膝を曲げた。

それだけだった。

第二の星

霧の中、川の下流で一頭の獣が水を飲んでいた。別の群れの子どもが泥で顔を塗っていた。丘の向こうでは煙が消えかけていた。旧人の一人が石を割りながら、音を聞いていた。世界はそれぞれに動いていた。

与えるもの

渡したものは岩の光の中にあった。受け取ったかどうかわからない。また別の誰かへ、糸は向かった。

伝播:SILENCE 人口:760
与えるものの観察:渡したが届いたか。問い続けるしかない。
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第180話

紀元前299,110年

第二の星

空が白い。

靄ではない。光の質が変わっている。夜明けに朱が混じらず、ただ白く、平らに明けていく。湿地の葦が動かない。鳥の声がない。

大地の東側に、古い崖がある。そこに三つの集団が棲み分けていた。崖の上、崖の中腹、崖の下。それぞれ火を持ち、それぞれの獣道を知り、互いの境界を踏まない日々が続いていた。豊穣の季節が長く続いたから、誰も腹を空かせなかった。腹が満ちていると、争う理由が薄れる。しかし理由は別のところから生まれる。

崖の上の集団が、大きくなりすぎた。

子が生まれ、生き延びた。また生まれ、また生き延びた。肉と根菜が十分にあれば、幼い者の死は減る。集団は膨れた。火の周りに人が増え、眠る場所が狭くなり、水場に向かう獣道が混みはじめた。

最初の衝突は小さかった。

崖の中腹の者たちが使っていた水場に、上の集団の若い雄が近づいた。中腹の者が声を上げた。唸り、腕を広げ、地面を踏んだ。上の雄も退かなかった。石が投げられた。腕に当たった。血は少なかった。しかしその夜、上の集団の年長の雄が数人を連れて中腹の境界に立った。

火をかざした。

示したのか、脅したのか。どちらでもあった。中腹の集団は後退した。しかし忘れなかった。

翌日、また白い空。

中腹の集団から三人の若い者が崖の上へ向かった。夜明け前、まだ上の集団が眠っている時間に。石を握っていた。目的が略奪だったのか、排除だったのか、眠っている間の静かな何かだったのか、この星にはわからない。ただ、その三人は戻らなかった。

崖の上の者たちが、その日の夕方、三つの毛皮を崖の縁から投げ下ろした。

中腹の集団は声を上げた。低く、長く。それは悲しみとも怒りとも区別できない音だった。

下の集団は動かなかった。崖の下から、ただ見ていた。

翌朝、下の集団は移動した。東へ。静かに、荷物をまとめ、火を消し、水場を捨てて歩き始めた。賢かったのか、臆病だったのか。あるいは何かを察したのか。この星は知らない。ただ、彼らの足跡が東の草原へ続いていた。

崖に残ったのは、上と中腹の二集団。

その緊張は積み重なっていた。何かが蓄積していた。豊穣の中で育ったその何かは、欠乏の中で育つものとは違う形をしていた。持っているから守る。守るから奪う。奪うから憎む。

崖の上で、ひとつの幼い命が泣いていた。

生まれて間もない。世界を知らない。崖の上の争いも、投げ下ろされた毛皮も、東へ去った足跡も、何も知らない。ただ腹が減っていた。

与えるもの

糸が繋がった。

崖の縁に落ちた光が、ひとつの石を照らした。丸く、平らな石。母の足元に転がっていた。

母はその石を踏み、よろけ、乳飲み子を抱え直した。手が冷えていた。

光は関係なかったのか。それとも石が拾われるべきだったのか。わからない。渡したものが何だったか、それもまだわからない。

その者(0〜5歳)

口が開いている。

閉じる。また開く。音が出る。出ない。

母の胸が近くにある。それだけが世界だ。石のことも、崖の縁のことも、知らない。崖の上で何が起きているかも、知らない。

腹が満ちると、目が重くなる。

眠る。

伝播:HERESY 人口:731
与えるものの観察:糸が繋がった。届いたかは、まだわからない。
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第181話

紀元前299,105年

第二の星

湿地の南、泥が固まった岸に、群れが三つ集まっている。同じ大地から来た者たちだが、互いの顔を知らない。毛皮の巻き方が違う。踵の向きが違う。同じ唸り声でも、喉の開け方が違う。

豊穣は続いている。木の実が落ちる前から落ちる。獣の足跡が深い。腹を満たした者が子を多く産む。子が育つ。群れが膨らむ。膨らんだ群れは場所を巡って軋む。

崖の上に、旧い形の者たちがいる。額が低い。眉の骨が張り出している。彼らも腹を満たし、彼らも子を増やしている。二つの種が同じ岸を使う。昼は棲み分ける。夜は音で確認する。互いの火が見える距離に、互いの火を置く。

遠く北の方では、大きな獣が群れを解いて散った。理由はわからない。地面の下で何かが動いたのか、水の流れが変わったのか。獣のいなくなった草原に、別の群れが入ってきた。

この星は傾いている。軸は変わらない。光は当たり続ける。

南の岸で、子が一人、泥に膝をつけている。

与えるもの

水面に影が揺れた。その影の向こう、泥の底に何かが光った。

その者は水に手を入れた。冷たかった。光るものを摑もうとして、摑めなかった。

これが届いたのか、届かなかったのか。光は泥に沈んだ。問いだけが残る。光るものを摑もうとした手は、何を知ろうとしていたのか。

その者(5〜10歳)

水が冷たい。

膝の下の泥が柔らかく、体が少しずつ沈む感じがする。沈むのが好きだ。止まらずにゆっくり沈んでいく感じが。

水面に自分の顔がある。顔が揺れる。顔を手で触ると、水の顔も触られる。

光るものが底にあった。手を入れた。届かなかった。もう一度。届かない。水が濁って、光が消えた。

岸の方で大人が唸る声がする。怒っている声ではない。集まれという声だ。その者は立ち上がる。膝に泥がついている。泥を拭かない。そのまま歩く。

大人たちが円くなって何かを囲んでいる。その者は外から覗く。中に見えるのは、旧い形の者だ。額の低い、眉の張り出した、大きな者。怪我をしている。腕から何かが出ている。赤い。その者は赤いものを見たことがある。自分の膝を岩で打った時に出たものと同じだ。

大人の一人が、怪我をした旧い形の者に何かを押し当てる。葉だ。大きな葉。旧い形の者が唸る。唸り声の形が違う。喉の奥から出てくる形が、知っている声と違う。

その者は膝の泥を指で取る。取った泥を地面に置く。置いた泥の形を見る。旧い形の者の唸り声がまだ続いている。

夕方になる。旧い形の者は岸を離れた。去り際に振り返らなかった。

その者は水辺に戻る。光るものはもうない。泥が濁ったままだ。空が赤くなっている。水面の自分の顔も赤い。

伝播:HERESY 人口:697
与えるものの観察:泥の底の光を摑もうとした
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第182話

紀元前299,100年

その者

泥が乾く前に、足が沈んだ。

引き抜いた。また沈んだ。引き抜いた。

膝まで泥に覆われたまま、その者は立ち止まった。動こうとしない。ただ、足の下が吸い上げてくる感触を、足の裏で受け取っていた。

群れの声が北から聞こえる。唸り声と、肉を叩く音と、子の泣き声。その者の属する者たちだ。しかしその者は振り返らない。

岸に、別の群れがいた。

毛皮の垂らし方が違う。肩で結んでいる。その者の群れは腰で結ぶ。ただそれだけのことだが、その者の足が止まった理由はそこにある。向こうの群れに、自分と同じくらいの背丈の者が三人いた。動き回りながら、泥から何かを掘り出している。手で掴み、口で確かめ、食べるか食べないかを決めている。

その者がやっていたことと、同じだった。

その者は膝まで泥を纏ったまま、じっとそちらを見ていた。

向こうの群れの一人が顔を上げた。目が合った。

唸らなかった。牙を見せなかった。ただ見た。

その者も唸らなかった。ただ見た。

向こうの者が視線を外し、また泥に手を突っ込んだ。その者も視線を外し、足を引き抜こうとした。片方は抜けた。もう片方が、もっと深く沈んだ。

体が傾いた。両手を泥につい た。泥の冷たさが手のひらに広がった。

そのまま、四肢を泥に埋めた姿勢で、その者は固まった。

向こうから笑うような声がした。

その者は顔を上げた。向こうの群れの三人が、こちらを見ていた。笑っているかどうかわからない。唸っているわけでもない。ただ声を出していた。

その者は立ち上がろうとした。泥が引き留めた。また傾いた。また声がした。

腹の底に何かが上ってきた。熱いものではなく、冷たいものでもなく、ただ、ある。

その者は立ち上がることをやめた。泥の中に両手をついたまま、向こうを見た。向こうも見ていた。

しばらく、そのままだった。

やがて向こうの一人が、視線を外して何か拾った。貝の殻だった。岸の縁に放り投げた。その者の足元まで転がってきた。

その者は貝の殻を見た。拾わなかった。

向こうも、もう見ていなかった。

その者はゆっくりと、片足ずつ、泥から抜け出た。膝の裏が笑っていた。泥の音がした。群れの唸り声が近づいていた。

その者は北へ戻った。振り返らなかった。

第二の星

この大地に、今、熱がある。

乾いた北風が止んで三日になる。湿地の水面が揺れない。草が重い。空気が皮膚に貼り付く。

群れが大きくなっている。食べるものがある。生まれる命の数が、消える命の数を越えている。それだけのことが、何十もの季節をかけてゆっくりと起きている。

大地の南端では、旧い形の者たちが岩陰に潜んでいる。眉の骨が張り出し、肩幅が広く、声が低い。この大地に先から住んでいた者たちだ。今は追われている。湿地の縁を小さな群れで移動し、夜に水を飲み、夜明け前に消える。

湿地の中ほどでは、複数の群れが距離を測りながら動いている。同じ水場を使う。しかし時をずらす。鉢合わせたとき、唸ることもある。唸らないこともある。何が違うのか、この星にはわからない。

この大地の中央、少し高くなった岩の台地では、老いた者が一人、西を向いて座っている。何を見ているのかわからない。何を待っているのかもわからない。

豊かな時期というのは、こういうものだ。人が増え、場所が足りなくなる前の、静かな満ちた刻。

その刻に、一人の者が泥の中で転んで、向こうの群れの笑うような声を聞いた。

大地はそれを記録しない。ただ照らす。

与えるもの

貝の殻に、光を落とした。

白く光る縁が、泥の上で一瞬輝いた。

その者は拾わなかった。

拾わなかった者が、向こうを見続けた。

貝の殻は泥に沈んでいく。しかしその者の目の中に、向こうの群れの顔が残っている。

拾わなかったものが、残ることがある。

それが何なのか、わたしにはまだわからない。

伝播:SILENCE 人口:702
与えるものの観察:拾わなかった貝の殻が、目の中に残った。
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第183話

紀元前299,095年

その者

十五のとき、その者は崖の上を好んだ。

群れから離れ、風が吹き抜ける岩棚の端まで行く。足の指が岩の縁を掴む。下は遠い。それだけだ。恐怖ではなく、高さが体を引き伸ばすような感覚がある。腹の奥が収縮し、爪先が石を握る。

群れはざわついていた。

北から見知らぬ顔の者たちが来ていた。旧い形の、額が低く、眉骨が突き出た者たち。身振りが違う。唸り声の抑揚が違う。恐れではなく警戒だ。子どもたちを囲む大人の輪が自然にできる。その者はその輪の外にいた。

十六になった季節、肉が多かった。

大型の獣が群れを成して移動してきた。若い雄たちが仕留めた。脂の多い肉が分けられる。その者も受け取った。火のそばで食べた。骨を割って中を吸った。甘い液体が口に広がった。

隣に座った老いた女が腕で自分の腹を示した。それからその者の腹を示した。

その者は意味がわからなかった。

老いた女はまた示した。繰り返した。その者は岩を拾って別のことをしていた。

十七の始めに、雨季が来た。

崖の上の岩棚が滑るようになった。苔が生えた。水が流れた。

その者はそれでも崖の上に行った。

その日、群れの争いがあった。旧い顔の者の一人が、若い雄と組み合った。その者は崖の端からそれを見下ろしていた。腹の奥が収縮した。高さが体を引き伸ばす感覚。爪先が苔の上に乗っていた。

踏み出した瞬間に足が滑った。

岩棚から落ちる前の時間はなかった。

体は下の岩に当たった。音がして、止まった。

群れの者たちは争いに向いていた。しばらく誰も気づかなかった。北風が崖下を吹き抜けた。

老いた女が最初に来た。しゃがんだ。その者の手に触れた。

それだけだ。

第二の星

東の草原では、旧い顔の者たちが眠っていた。焚き火のそばで、子どもが母の腕の中にいた。風が草を寝かせた。火の粉が一つ、高く上がって消えた。西の水辺では、獣が水を飲んでいた。空が暗い方に変わり始めていた。何も起きない夜だった。

与えるもの

ある。

それは別の誰かへ向かった。

伝播:DISTORTED 人口:713
与えるものの観察:一歩が正しかったのか、それもわからない。
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第184話

紀元前299,090年

第二の星

雨が来なかった。

大地の南端から、亀裂が広がった。粘土層が割れ、その下の土が砂になり、砂が風に乗った。草の根が露出した。水場が縮んだ。縮んで、消えた。

集団の中で最初に倒れたのは幼い者たちだった。次に、乳を出す雌たち。体の大きな雄がいちばん長く立っていたが、それは長く苦しんだということでもあった。

集団は動いた。水の匂いを追って、南へ。岩地を越えて、北へ。戻って、また南へ。その行き来の中で、何人かが道の途中に横たわった。起き上がらなかった。

同じ時、はるか北の平原では、別の集団が岩肌に手形を押していた。赤い土を溶かした液体で、掌を岩に当て、息を吹きつける。手の形が残る。乾く。風が吹いても、手の形は残る。その者たちが何を思ってそれをしたのか、この星は知らない。ただ岩が受け取った。

南の乾いた大地では、集団が半数以下になっていた。

それでも幾人かは歩き続けた。

与えるもの

糸が繋がった。

水の匂いがした方向から、風ではなく、別の何かが来た。獣の臭いではない。腐った草の臭いでもない。石の、冷たい石の底から滲む、湿った空気の感触。

その者の鼻腔が、一瞬だけ広がった。

受け取った。無意識に、足が止まった。

これが届いたのか。届かなかったのか。

その者(24〜29歳)

腹が空洞になっていた。

三日、水を飲んでいない。口の中に砂が混じる。唾を飲もうとして、飲めない。

群れが止まった。七人。かつては両手で数えきれないほどいた。今は片手と両足の指で足りる。老いた雄が地面に膝をつき、そのまま起き上がらなかった。誰も声を上げなかった。声を出すための水が、体の中にもう残っていなかった。

その者は立ったまま、風の来る方向を向いた。

鼻の奥に何かが触れた。草でも獣でも汗でもない。岩が、水を含んでいる時の匂いだった。

その者は歩いた。群れを振り返らずに歩いた。岩の間を抜け、低い崖の際を回り込み、影になった窪みに足を踏み入れた。

石の隙間から、水が滲んでいた。

掌で触れた。濡れた。口に持っていった。

後ろで、足音がした。群れが続いていた。

その者はもう一度、掌を石に当てた。

伝播:SILENCE 人口:549
与えるものの観察:鼻が届いた。それだけだ。
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第185話

紀元前299,085年

第二の星

乾季が続く。

大地の南端、亀裂の走った粘土層は今、白く粉を吹いている。風がその粉を運ぶ。遠く、北の丘陵地帯では別の集団が眠っている。彼らと、この集団との間に、かつては川があった。今、その川床には石だけが残っている。石は乾いている。

水場をめぐって、唸り声と石の投擲があった。それは昨日のことではない。しかし昨日のことのように身体に残っている者がいる。

さらに遠く、海に近い低地では、別の群れが貝を割っている。彼らは互いを呼ぶとき、喉の奥から短い音を出す。この集団の音とは違う。どちらも、それを言葉とは知らない。

同じ空の下で、雌が産んだ。子は小さく、泣き声を上げた。それだけのことが、集団の中に短い静けさをもたらした。

干ばつは続いている。草の根は深く潜っている。水を探す者たちの足跡が、粉っぽい大地に残り、風が来るたびに薄れていく。

与えるもの

石の隙間から滲む水を、かつて知っていた。

今日、この者の額に汗が一筋流れた。その軌跡の感触が、喉の渇きを前より鋭く知らせた。

体が渇きを知っている。では、渇きを知っている体は、水をどこで探すか。

岩盤が露出した崖の根元。日陰。風のない側。温度の差。

光が崖の根元に落ちた。角度のせいか、そこだけ石の色が濃かった。湿り気の色だった。

この者の目が、一瞬そこで止まった。

それで足りるか。それ以上は、わからない。

その者(29〜34歳)

喉が痛い。

水場はある。しかし昨日より浅い。膝をついて飲もうとすると、泥が口に入った。吐き出した。また試みた。飲めた。

集団の中に、嗅ぎ慣れない緊張がある。別の集団が川床の北側に近づいている。それを感じるのは、風が変わるのと同じくらい単純なことだ。喉の奥が締まる。手が、使い込まれた石器の柄を握る。

狩りには出た。獲物は小さかった。

岩地を歩いた。足の裏が熱を拾う。上から照りつけ、下からも照り返す。影を探しながら進む。

崖の根元に差し掛かったとき、陽の光が石の面で折れて、そこだけ色が変わって見えた。

立ち止まった。

理由はわからない。ただ足が止まった。

崖の岩肌を手のひらで触れた。冷たい。表面が、ほんのわずかに滑った。舌を当てた。

苦く、冷たく、水だった。

少量だった。指で集めた。それだけだった。それだけのことを、夕方まで覚えていた。

集団に戻った。北の気配はまだある。雌の一人が子を抱えて移動の準備をしている。この者はそれを見た。見て、何もしなかった。ただ見た。

夜、仰向けになった。岩に背中を当てた。岩が昼の熱をまだ持っていた。冷えていく順番に、背中が感じていた。

あの崖の根元のことを、考えていた。考えるという言葉はなかったが、繰り返した。場所と、冷たさと、水の味を。

伝播:DISTORTED 人口:556
与えるものの観察:歪んで届いた。それでも水は水だった。
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第186話

紀元前299,080年

その者(34〜37歳)

雨が続いた五年だった。

大地の南、浅い窪地に水が溜まり、そこへ獣が来た。背の低い草が群れをなして揺れ、実は指が届く高さに垂れた。集団は膨らんだ。子が生まれ、また生まれ、泣き声が岩壁に響いた。腹が満ちた夜、炎の周りで雄たちが唸り、体を揺らした。その者もそこにいた。

だが三十四を過ぎたあたりから、その者の脚が重くなった。

獲物を追っても、以前より早く息が上がった。水場を見つけても、帰り道に遅れた。集団の中に、より速い若い雄が増えた。その者の役割が、少しずつ縁へ押し出された。

豊穣の中での押し出しだった。

食べ物が足りないのではなかった。集団の数が増えたことで、序列が再び引き直された。その者は知っていた、という言い方はできない。ただ、炎の周りの輪から距離が生まれていることを、体が知っていた。

ある朝、水場へ向かう群れに、その者はついていかなかった。

岩の陰に座り、空を見た。雲が重かった。湿った風が南から来た。その者の鼻孔が開いた。どこかで実が熟れていた。腹は減っていなかった。

一匹の甲虫が足の甲を横切った。その者は見た。追わなかった。

三日後、その者は集団の外側にいた。

追われたのではない。誰かが命じたのでもない。ただ、炎から遠い場所に体があった。日が落ちて、冷えて、草の上に横になった。空腹だった。しかし立てなかった。

夜明け前、その者の腹に手を置いた。

凹んでいた。五年間、こんなに凹んだことはなかった。指が肋骨の形を確かめた。冷たかった。草が露で濡れ、体の熱が地面へ逃げた。

その者の目が、東の空の明るくなりかけた縁を見た。

光の形は毎朝同じではない。その者はそれを知っていた、という言い方はできない。ただ、朝ごとに空を見てきた。炎の番をした夜に。獲物の痕を探した早朝に。遠い水場へ向かった夜明けに。

体から力が抜けた。

抜け方はゆっくりだった。波のように引いた。草の根元で、土が温かかった。露が頬に落ちた。空が白くなった。

その者の目が開いたまま、光を受けた。

瞼は動かなかった。

第二の星

大地の北方、広い平原では別の集団が、獣の骨で土を掘っていた。雨が続いた年々、彼らも増えた。子たちが走り回り、老いた者が日向に座った。その者が草の上で冷えていった同じ夜明けに、北の集団の一人の雌が、初めての子を産んだ。産声は岩に吸われた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:687
与えるものの観察:届いたことが良かったのか、今も問えない
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第187話

紀元前299,075年

第二の星とその者(9〜14歳)

南から風が来た。

草の匂いが変わった。湿気を含んでいた空気が、少しずつ乾いていく。水溜まりの端に亀裂が入り始め、その縁を小さな虫が列をなして渡っていた。星はそれを照らした。豊穣の五年が続いた地では、何かが飽和しつつあった。食べ物が余り、子が増え、眠れる場所が足りなくなり始めていた。

その者は九歳だった。

火の番をするのが仕事だった。夜に目を覚まし、炎が小さくなりかけたとき、枯れ枝を差し込む。それだけ。それだけのことが、眠れない夜を生んだ。目が慣れると、火の向こうに大人たちが折り重なって眠っているのが見えた。腹が上下する。息の音が聞こえる。

——

集団の端で、二つの群れが同じ水場を使い始めていた。

最初は距離を保っていた。片方が川の上流で水を汲み、もう一方が下流で待った。それで足りていた。しかし子が増えた。岩陰に寝る場所が競合した。同じ獣の足跡を、二方向から追いかけることが増えた。唸り声が交わされた。腕を振り上げる者が現れた。まだ血は出ていなかった。まだ。

その者の集団の中にも緊張があった。

年長の男が食べ物を先に取るようになった。女たちはその後ろで待ち、子は女たちの後ろで待った。その者は待つことを覚えた。待ちながら、火の爪が岩壁を舐める動きを見ていた。同じ形は二度と来なかった。炎はいつも違う形をして揺れた。

——

十一歳になった頃、風が逆転した。

北から来た。砂を含んでいた。目が痛くなり、口の中がざらついた。草が枯れた順番に、獣の数が減った。水溜まりの水位が下がり、亀裂が広がり、泥が固くなって白い粉を吹いた。子どもが一人、また一人と熱を出した。眠ったまま起きない子が出た。泣く声は短かった。

その者はその子の手を触ったことがあった。

指が細かった。今でも覚えている。自分の手より少し温かかった。

——

集団は移動し始めた。

西へ。岩の多い地形を越えた。途中で旧い仲間の骨が砂の中に半分埋まっているのを見た。誰も止まらなかった。止まれなかった。移動の列の中で、年老いた者が遅れた。振り返った者はいた。しかし列は止まらなかった。

その者は振り返った者の顔を見た。

その者は何も言えなかった。音が出なかった。ただ列の中に戻った。足の裏に石が当たった。また当たった。それを感じながら歩いた。

——

十四歳になった頃、新しい水場を見つけた。

岩の割れ目から細く流れる水だった。舌を出して確かめた者が、飲んだ。甘くはなかったが、苦くもなかった。集団はその周囲に留まることにした。子が生まれた。また別の子が熱で死んだ。そのくらいの速さで、命が出入りしていた。

その者は岩壁に手のひらを押しつけた。

何の理由もなかった。ただ押しつけた。岩は冷たかった。この冷たさをどこかに残したいと思ったが、どうすればいいか分からなかった。しばらくそのまま立っていた。

与えるもの

光がある石の表面で跳ねた。

日が傾く角度で、岩壁の一点だけが白く光る時間がある。その者がちょうどそこを向いていた。光が岩肌の凹みを縁取り、手のひらを差し入れたくなるような影の形を作っていた。

その者は近づいた。触れた。手のひらを壁に押しつけた。

——これは何のための仕草か。私には分からない。

以前、同じことをしようとした者がいた。別の星で。別の手が、別の岩に触れようとした日に、もう手が動かなくなっていた。

この者の手は動いた。

——それで十分か。十分、とは何か。

伝播:NOISE 人口:698
与えるものの観察:手が壁に触れた。それだけが残った。
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第188話

紀元前299,070年

第二の星

乾季が終わる頃の空は、昼と夜の境が薄い。

始まりの大地の南端では、礫が転がる平地を越えて、二つの集団が同じ獲物の痕跡を追っていた。足跡は交差し、どちらの集団も立ち止まり、互いの唸り声を距離の向こうに聞いた。近づかず、離れず。その緊張は空気のように広がり、火を囲む夜にも溶け込んでいた。

北の湿地帯では、旧人の一群が浅い水を渡っていた。彼らの足は大きく、泥の中に深く沈んだ。渡り終えると、葦の中に消えた。こちらの集団との距離は遠く、この星はどちらも等しく照らした。

火番の者がいる岩棚では、煙が北へ流れた。

集団の数は膨らんでいる。子が育ち、老いた者も生きている。余裕は笑いを生む。しかし笑いは争いと同じ場所から来る。この星は知っている。腹が満ちた群れの中に、目つきが変わる者が現れることを。

岩棚の煙は夜空に溶けた。この星はすべてを照らしたまま、何も選ばなかった。

与えるもの

糸は続いている。

火の縁に、脂が落ちた。音を立てて弾け、散った。
その者は手を引いた。引いた手を、しばらく見ていた。
それは傷ではなかった。しかし痛みを予感した身体が、先に動いた。

身体が先に知る、ということがある。
この者はまだそれを言葉にできない。
けれど今夜、手を引いた理由を、誰かに伝えようとするだろうか。

その者(14〜19歳)

火は食べる。

薪を一本入れると、しばらく黙ってから、急に大きくなる。その境目がどこかわからない。その者は何度も見てきたが、まだわからない。

脂が落ちた。

音より先に、熱が来た。手は動いていた。自分で動かしたのか、わからなかった。引いた手の甲を、顔の近くに持ってくる。傷はない。赤くもない。けれど手はまだ熱を覚えていた。

集団の中で一番年上の女が、側を通りながら唸った。低い音だった。その者は返さなかった。

薪をもう一本、入れた。

炎は揺れた。影が揺れた。岩棚の奥にいる子どもたちの輪郭が伸び縮みした。その者はその動きを、少しの間、追った。追いながら、手のことを忘れた。

忘れた、と気づいた。

また手を見た。もう熱くなかった。

遠くで、誰かが唸り声を上げた。集団の外の方向から。その者は火から目を離さなかった。離したら、火が変わる気がした。根拠はなかった。

夜が深くなった。

膝を抱えた。岩の冷たさが腰から伝わってきた。火は小さくなっていた。また薪を入れる。また食べる。また黙る。

その繰り返しの中で、目が重くなった。

重くなった目を、その者は開けたまま保とうとした。唇を少し噛んだ。舌の先が歯に触れた。その感触で、少し覚めた。

集団の中で最も年長の男が近づいてきて、その者の肩を押した。代われ、という意味だった。その者は立ち上がり、岩棚の奥に入り、毛皮の上に横になった。

目を閉じる前に、手の甲をもう一度見た。

暗くて見えなかった。

伝播:HERESY 人口:668
与えるものの観察:身体が先に動いた。それだけを見ていた。
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第189話

紀元前299,065年

第二の星

雨が来た。

一度ではなかった。夜ごとに来た。空の底が緩んで、水が落ちてくる音が、岩の上でも葉の上でも皮膚の上でも鳴り続けた。始まりの大地は、その音に何日も浸かっていた。

草が押し上がった。地面が柔らかくなり、踏むと沈んだ。水場は広がった。前の季節には乾いて白くなっていた場所に、新しい流れができた。獣はその流れを辿ってきた。足跡が増えた。新しい足跡が古い足跡に重なった。

集団は大きくなっていた。

五年で、その数は跳ね上がっていた。産まれる子は多く、死ぬ子は以前ほどではなかった。腹を空かせたまま夜を越える日が減った。雌の体に余裕があれば子は育つ。子が育てば集団は膨らむ。それだけのことが、積み重なっていた。

しかし場所は変わらなかった。

集団が大きくなっても、水場は動かない。木の実がなる場所は限られている。獣の通る道は決まっている。膨らんだ体は、同じ範囲を占めようとした。縁が重なった。

南端の礫地では、二つの集団が同じ日に、同じ岸辺に来た。水を飲みにきた。獣を追ってきたのではなかった。ただ喉が渇いていた。それだけだった。それでも、両方が立ち止まった。

唸り声があった。返す声があった。子どもを後ろに押しやる動きがあった。腕を広げる者があった。石を握る者があった。

近づかなかった。

離れなかった。

水は流れ続けていた。両方の集団が、その縁に立ったまま、飲まなかった。飲めなかった。どちらが先に動くか。それを待っていたのかもしれない。どちらも待っていたのかもしれない。

陽が傾いた。影が長くなった。

一方の集団が、音を立てずに下がった。ゆっくりと。背を向けずに。前を向いたまま、足だけが後ろへ動いた。もう一方は動かなかった。水を飲んだ。飲み終えてから、同じように下がった。

その夜、二つの火が、遠い距離から互いを見た。どちらも消えなかった。

北では、洞窟の奥で壁に向かっている者がいた。指に赤い土をつけて、獣の形を押しつけていた。形は拙かった。何度も重ねた。獣の輪郭が、岩の凹凸に沿って歪んだ。それでも押しつけ続けた。夜が明けても、その者はまだそこにいた。

始まりの大地の上で、何かが蓄積していた。人の数ではなかった。記憶でもなかった。言葉にならないまま積まれていくものが、あった。

与えるもの

水辺に、ひとつの貝殻が打ち上げられていた。

内側が、光の角度で青白く光った。光がそこに落ちた。

その者は腰を落として、長い間それを見た。持ち上げなかった。持ち上げることを考えなかった。ただ見た。

渡した。届いたのかもしれない。届いていないのかもしれない。光だけが、正直だった。

その者(19〜24歳)

火番をしていた。

雨の間も火は消えなかった。葉で覆い、体で風を遮った。誰かが交代に来るまで、動かなかった。

昼、水辺へ行った。貝殻を見た。拾わなかった。戻った。

夜、また火の前に座った。遠くに別の火が見えた。消えなかった。自分の火も消えなかった。それだけだった。

伝播:NOISE 人口:868
与えるものの観察:光を見た。持ち上げなかった。それだけ。
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第190話

紀元前299,060年

第二の星

草は膝まで伸びた。

始まりの大地の南側、浅い窪地に水が溜まり、その縁に獣が来た。足跡が泥に残り、乾いて、また次の獣の足跡が上書きされた。豊穣の季節が続いていた。

西の台地では、旧人の一群が崖下に獣を追い込んだ。声ではなく、叩き音と煙で追った。岩肌に背脂の跡が残った。彼らも、同じ雨の後を生きていた。

北の谷間では、若い集団が古い集団から離れて動いていた。人が増えれば、空間が必要になる。押し出されたのか、選んで出たのか、星には区別がつかない。ただ足跡が増え、新しい方向に伸びていた。

始まりの大地の集団の中では、何かが固まりつつあった。誰が多く取るか。誰が長く食べるか。豊かな季節には、それが摩擦として現れる。飢えている時には、争う余力もない。余裕が、緊張を育てた。

その者は火の傍にいた。

煙が真っ直ぐ上がる夜と、横に流れる夜があった。その者は両方を見てきた。どちらが何を意味するか、まだ言葉にできなかった。体が知っていた。

与えるもの

焦げた枝の先端が、赤から灰へ変わる境目。

その者の目がそこに止まった。境目は動いていた。じわじわと、止まらず。

こちらに届いたかどうか、わからない。貝殻の内側の光を思い出す。光があっても、見ない者には届かない。この者は、見ていた。それだけが確かだった。

知識になったのか。それとも、ただ見ただけで、朝になれば消えるのか。

その者(24〜29歳)

火を落とさなかった。

それだけが、この5年間の骨格だった。眠くなれば木を足した。雨が強い夜は、皮を傾けて風上を塞いだ。体が覚えていた。考えていなかった。

豊穣の季節に、集団は膨らんだ。子が増えた。肉が増えた。声が増えた。

しかしその者は、増えた声の中で、何かが尖っているのを感じていた。音ではない。空気だ。誰かが誰かを見る角度が、以前と変わっていた。飢えていた頃にはなかった何かが、集団の中を走っていた。

その者はそれを言葉にできなかった。ただ、火の傍から離れなかった。

ある夜、焦げた枝を取った。先端が赤かった。灰になっていくところを、長い間見た。境目が動いていた。消えていく側と、まだ燃えている側の間に、細い線があった。その線は一定ではなく、揺れていた。

その者は枝を地面に置いた。

また拾った。

赤い部分を、別の枝の先端に近づけた。移った。

何度かやった。移った。また移った。

誰かに見せようとした。声を出した。伝わらなかった。その者は腕を動かした。伝わらなかった。やめた。

夜が深くなった。集団の中の一人が、その者を横目で見ていた。何を見ていたのか、その者にはわからなかった。視線が来て、逸れた。

朝が来た。

枝の先端は灰になっていた。火は生きていた。

伝播:HERESY 人口:834
与えるものの観察:境目を見ていた。それだけが確かだ。
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第191話

紀元前299,055年

第二の星

草の季節が続いた。

始まりの大地の南縁、水の溜まる窪地の先に、砂と岩が混じる斜面がある。その斜面を越えたところに別の集団がいた。大きくなっていた。人の数が増えると、一日に必要な食の量が増える。獣が逃げると、足が遠くまで伸びる。

二つの集団の足跡が、同じ泥の上に残るようになっていた。

遠く北の方、岩の多い高地では、旧人の小さな一群が洞穴の入口に皮を張っていた。冬への備えが早かった。彼らには言葉はなかったが、手の動きに記憶があった。

南の沿岸、暖かい風が来る平地では、別の者たちが浅い海の縁で貝を拾っていた。足の裏に砂の感触があった。子どもが転び、立ち上がり、また転んだ。

始まりの大地では、豊穣がまだ続いていた。草の実が穂に重く、鳥が群れをなして飛んだ。しかし水場の周囲に、二つの集団の声が重なる日が増えた。

第二の星は、それを区別しない。どちらが正しいとも言わない。ただ、昼が長く、夜が短く、夏がまだそこにあった。

与えるもの

影が動いた。夕方、西から。

その者の目が影の端を追った。追って、止まった。先に立っていたのは、別の集団の男だった。背が高く、こちらより年寄りで、顔に傷の痕があった。

その者は長く見た。

男もこちらを見た。

与えるものはそこで止まった。止まって、待った。この者の目が何を読んでいるのかを知りたかった。顔の傷か。立ち方か。目か。

何が届いたのかは、わからなかった。

その者(29〜34歳)

火番の役が続いていた。

朝、薪を足す。火が落ちかけたとき、息を吹く。細く、長く。炎が戻る。それだけのことを、毎朝やっていた。

この五年で体が重くなった。腹の底に力があった。走れば速かった。石を投げれば遠くまで届いた。しかし狩りに出ることはなかった。集団の中の年長の者が、何かの順番を決めていた。その順番に、この者はまだ入っていなかった。

夕方、水場に向かった。日が傾き、影が長くなっていた。

影の端に、見慣れない男が立っていた。

足が止まった。

男は動かなかった。水を飲みに来た者の姿をしていた。腰に何かをぶら下げていた。乾いた皮だった。鳥か、小さな獣か。顔の左側に、古い傷の跡があった。薄く、長く、耳の下から顎にかけて。

この者は動かなかった。

男も動かなかった。

どちらかが先に視線を外した。男だった。水を飲み、立ち上がり、来た方向へ戻った。足音が草の中に消えた。

この者はその後ろ姿を最後まで見ていた。

夜、火の前に座った。炎を見た。炎の中に形はなかった。しかし目が離せなかった。傷の顔が浮かんだ。消えた。また浮かんだ。

腹の底の、言葉になる前の何かが、ざわついていた。

薪を一本足した。火が強くなった。炎の先端が揺れた。

その者は揺れる炎を見ながら、何も言わなかった。

伝播:HERESY 人口:793
与えるものの観察:この者の目が、敵か否かを測っていた。
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第192話

紀元前299,050年

その者(34〜39歳)

火が赤かった。

いつもより赤い。その者はそれを知っていた。理由はわからなかった。ただ赤いと、腹の底が締まる感じがした。

朝から風が変わっていた。南から来るはずの風が、横から来ていた。草が斜めに揺れた。その者は火番の石の前に座ったまま、草の揺れを目で追った。火に薪を足す手が止まった。

声がした。

遠くから。男の声ではなかった。高くて短い。何かを知らせる声の形をしていたが、何を知らせているのかはわからなかった。

その者は立った。

集団の中の大人たちが動いていた。走るのではなく、急ぎながら歩く、あの動き方だった。子どもたちがその後を追おうとして、誰かに腕を掴まれた。その者も掴まれた。力が強かった。振り返ると年嵩の女がいた。目が合った。女は音を出さなかった。ただ首を横に振った。

その者は首を縦に振った。

でも腹は締まったままだった。

南の方向に、砂と岩の斜面がある。その先に別の集団がいる。その者はそれを知っていた。大人たちが時々、あの方向を見て唸り声を出していた。低い唸りで、腹から出る種類の音だった。集団の中に緊張が張っていると、その唸りが増えた。

今日、唸りは聞こえなかった。

音が、別の形をしていた。

その者は火の側に戻った。薪を足した。炎が大きくなった。大きくなった炎を見ながら、腹の締まりがほどけないでいた。火は赤いままだった。

時間が経った。

大人たちが戻ってきた。一人少なかった。

その者は数を数える言葉を持っていなかった。でも数は体でわかった。顔の数、足音の数、気配の数。出かけた時より一つ少ない。

誰も声を出さなかった。

年嵩の女が地面に座った。手を膝の上に置いた。手が震えていた。震えは止まらなかった。その者は女の隣に座った。女の手に自分の手を重ねた。震えは続いた。止めようとはしなかった。ただ手を重ねていた。

火は燃えていた。

赤いままだった。

第二の星

始まりの大地の南縁で、草と砂の境が揺れていた。

豊穣が長く続いた。水が溜まる窪地に草が茂り、食が途絶えなかった。集団は大きくなった。北の岩地の集団も、南の斜面の向こうの集団も、それぞれに膨らんだ。膨らんだものは、いつか縁に触れる。

この五年、両集団の間に流血はなかった。声と身振りと睨み合いで、線のようなものが保たれていた。線は目に見えなかった。踏む者は踏んだと知らなかった。踏まれた者は踏まれたと感じた。感じたことは体に残った。

今日、線が動いた。

男が一人、斜面の向こうから引き返さなかった。何があったか、この星から見れば霞の中のことだ。草が倒れていた。血が砂に染みた。それだけが残った。

南縁の風は横から吹いていた。火が赤かった。

北の岩地では、別の集団が春の狩りから戻ったばかりだった。子どもが生まれた集団もあった。食が足りている時、子は増える。増えた子はまた食を求める。この大地が養える数というものがあるとすれば、今の人の数はその縁に近づいていた。

一人の男が砂に吸われたこの日、集団全体の何かが変わった。言葉はなかった。声もなかった。ただ翌朝、南の方向を見る目が変わっていた。

与えるもの

炎の色が変わった瞬間、その者の腹が反応した。

熱が高まったのではなかった。赤さが増したのだった。その者の目が炎に止まった。長く止まった。

受け取った。使い方は知らなかった。

体が知っていることと、起きることの間に、何が挟まるのか。

遠い記憶の中に、傷の顔が浮かんだことがあった。火の中に浮かんだ。その時も、届いたのか届かなかったのか、わからなかった。今日も同じだ。腹が締まった。火は赤かった。男は戻らなかった。

知らせることと、防ぐことは、別のことなのかもしれない。

それとも、私が渡すのは防ぐためのものではないのか。

伝播:DISTORTED 人口:795
与えるものの観察:火は赤かった。腹は知っていた。男は戻らなかった。