2033年、人類の旅

「紀元前292,085年〜紀元前291,965年」第1585話〜第1608話

Day 67 — 2026/06/09

読了時間 約54分

第1585話

紀元前292,085年

その者(18〜19歳)

乾季が来た。

草が黄く倒れ、泥が割れて、白い筋が大地を走った。その者は丘の中腹で座っていた。荷はもうない。昨日、年上の女が取り上げた。軽くなった背が、かえって頼りなかった。

喉が痛かった。

数日前から始まっていた。唾を飲むたびに、砂を押し込むような感触がある。熱は体の芯から湧いて、夜は地面に頬をつけないと眠れなかった。

群れは動いていた。前を行く者たちの足音が、乾いた土の上で鈍く響いた。その者はついていこうとした。立った。三歩歩いた。四歩目が出なかった。

膝から崩れた。

誰も振り向かなかった。

川床の跡に、水はなかった。石だけが残っていた。丸くなった石、細長い石、白い石。その者は一つを拾い上げた。なぜ拾ったのか、わからない。ただ手の中に収まる重さが、今は何か正しいものに思えた。

石を握ったまま、横になった。

空が白かった。雲はなく、光が均等に広がって、どこにも影がなかった。遠くで誰かが叫んでいた。子どもの声か、鳥の声か、区別がつかなかった。

風が来た。

その者の頬に触れ、通り過ぎた。

熱が体から少しずつ抜けていくような感覚があった。それが熱の終わりなのか、それとも別の何かが終わろうとしているのかは、その者には判断できなかった。判断するための言葉を、その者は持っていなかった。

握った石が、指の間でわずかに動いた。

力が抜けたのだった。

石は転がらなかった。手のひらの窪みに留まったまま、その者の体と一緒にそこにあった。

第二の星

北の台地では二つの群れが同じ岩場に近づいていた。どちらも水を求めていた。先に着いた方が飲んだ。後から来た方が石を拾い上げた。岩場の横で、誰かが叫んだ。その声は台地の端まで届いて、それから消えた。水は岩の割れ目から静かに湧き続けた。

与えるもの

空から光が落ちた先に、石があった。その者の指はそれに触れた。何かが届いたのか、届かなかったのか、与えるものには判断できなかった。

石の上に光が残ったとき、群れの中の別の者が、光がそこにあることに気づいた。

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:DISTORTED 人口:524
与えるものの観察:石を握った者は、握ったまま動かなくなった
───
第1586話

紀元前292,080年

第二の星

大地の南、赤茶けた土が広がる場所では、草が再び立ち始めていた。雨季の終わりを告げる風が丘の縁を舐め、短い植物の穂先を横に倒す。川は細くなり、中洲が露出して、白鷺に似た鳥が何羽も翼を畳んだまま立っていた。

北の岩棚では別の群れが動いていた。旧人の群れだ。彼らの足音は重く、歩幅が広い。同じ川の上流を目指している。同じ魚を知っている。

この5年、二つの群れは川を挟んで互いを見ていた。石を投げたこともある。食べ物を置いて離れたこともある。何が起きているのか、どちらの群れも言葉にできない。ただ相手の輪郭を、目が追い続けている。

乾いた高地では別の小さな群れが三人になっていた。病ではない。食料でもない。一人が崖から落ちた。一人が獣の牙に胴を咬まれて、翌朝川岸に横たわっていた。残る一人は火を持ったまま南へ歩いた。その火がどこへ届いたか、この星は照らさない。ただ、煙は南の風に乗っていた。

与えるもの

糸が繋がった。

この者は20歳を越えたばかりで、体が先に動く。判断より前に脚が出る。

昨日、水場の近くで旧人の若い雄と目が合った。どちらも石を持っていた。どちらも投げなかった。

今日、その者の背の後ろ、右の少し高い場所から、焦げた臭いが漂った。

川上の方向だ。あの旧人が火を持っているかもしれない。そうでないかもしれない。

その者は臭いのした方を向いた。それだけだ。

向いたことで、何が変わるのか。向かなかった場合と、何が違うのか。まだわからない。しかしこの者はあの方向に、何かがあると今日初めて知った。次に渡すべきものを、私はすでに考えている。

その者(20〜25歳)

朝、水場に下りた。

泥の縁に足を置いたとき、対岸に影があった。大きな影だ。四つ足ではない。二本脚で立っている。匂いが違う。声が出かかって、出なかった。

石を握った。

影は動かない。

その者も動かない。

川が流れている。それだけが動いている。

日が高くなって、影は消えた。どこへ行ったかわからない。その者は水を飲んだ。口の中に土の味がした。

群れのところへ戻る道で、焦げた臭いがした。

足が止まった。

臭いは右の上の方から来ていた。煙は見えない。見えないが、臭いはある。あの影の方向だ。

石を手の中で転がした。ひびの入った石だ。昨日の朝、別の石にぶつけて割ったもの。縁が鋭い。

群れに戻った。

夜、火の傍で座っていた。年上の男が向こうを向いたまま何かを噛んでいた。子供が一人、火に近すぎて、女が引っ張って遠ざけた。

その者は右手の石を握ったまま眠った。

伝播:DISTORTED 人口:538
与えるものの観察:臭いに向いた。それだけで十分かもしれない。
───
第1587話

紀元前292,075年

第二の星

赤茶けた土の平原に、乾季の終わりが兆している。

朝の霧が薄く地面を這い、草の根元だけを湿らせてから消える。太陽が昇るにつれて大地は熱を溜め込み、遠くの輪郭がゆらゆらと歪む。南の谷では、小型の草食獣の群れが水場を嗅ぎ回っている。まだ水は出ていない。土は乾いたまま、ひび割れが網目を作っている。

北の岩棚では旧人の群れが身を寄せている。数は少ない。大人が七、八人、子どもが二、三人。彼らは低い声で何かを交わしながら、日向に石を並べている。何のためかはわからない。儀式かもしれない。遊びかもしれない。石はただ並んでいる。

東の丘の向こうでは、別の集団が動いていた。三つの集団が、水場を挟んで互いの気配を確かめ合っていた。近づかない。遠ざかりもしない。それぞれの集団の呼び声が、風が変わるたびに交差した。互いの声の形は違う。しかし同じ方向を向いていた。水場の方向だ。

第二の星はすべてを等しく照らす。

石を並べる手も、水を待つ鼻孔も、崖の縁で互いを測る目も。

与えるもの

石を並べる者がいた。旧人の、子どもだ。

甘い匂いがした。腐りかけた果実の、あの匂いだ。その者の鼻がかすかに動いた。

渡そうとした方向は、そこではなかった。

匂いに引かれて、その者は西へ踏み出した。

私が示したかったのは東だった。東に、水が滲み出している岩がある。乾季を越えるのに十分な水だ。西には果実がある。腐りかけの、一日しか持たない甘さがある。

その者は西へ歩いた。

果実を食べた。

水場には、まだ三つの集団がいる。

渡せなかった。また渡せなかった。

それでも問う。匂いに勝つ何かを、私は渡せるのか。あの石を並べる小さな手のように、目に見える形で置けるものが、私にはあるのか。

その者(25〜30歳)

夜明け前に目が覚めた。

腹が鳴っていた。隣で寝ていた若い女が寝返りを打ち、その肘が脇腹に当たった。その者は起き上がった。

空が青い。まだ日は出ていない。

岩の縁まで歩いて、立ちションをした。風が股間をかすめた。冷たかった。その者は足先で地面を探り、小石を踏んで体重をかけた。足裏の感触を確かめるように、もう一度踏んだ。

匂いがした。

甘い。強い。

その者の喉が鳴った。頭より先に足が動いた。斜面を下り、低木の茂みを押しのけながら西へ。荊が腕を引っ掻いた。血が線を引いた。気にしなかった。

低い枝に、丸い実がいくつかぶら下がっていた。皮が割れて、中身が垂れている。蠅が群れていた。その者は蠅を手で払い、実を取った。歯で皮を破った。甘さと酸っぱさが一度に来た。種を吐いた。また取った。また食べた。

五つ食べたところで手が止まった。

何かが違う、という感覚ではなかった。ただ、動きが止まった。口の中にまだ甘さが残っている。手に果汁が光っている。

その者は東を向いた。

理由はわからなかった。ただ東が、そこにあった。

丘の輪郭が、朝の光の中で明るくなっていた。その者はしばらくそちらを見ていた。見ていたが、動かなかった。

腹が満ちていた。

その者は来た道を戻った。枝を踏む音が、朝の静けさの中に落ちた。

伝播:NOISE 人口:455
与えるものの観察:匂いに負けた。東の岩を、また渡せなかった。
───
第1588話

紀元前292,070年

その者(30〜35歳)

岩の陰で息をひそめている。

前にいるのは、知らない顔だ。背中の筋が違う。足の向きが違う。皮のまとい方が違う。獣の跡を追ってここまで来た。同じ跡を、向こうも追っていた。

水場のそばの泥に、蹄の跡がある。新しい。まだ匂いが残っている。

知らない顔の者が、短い棒を持っている。こちらを見ていない。獣の跡を見ている。

その者は動かない。

腹が鳴る。三日、大きなものを食べていない。仲間の集まりでは昨日、干した草の実を分けた。少なかった。子どもたちが先に食べ、残ったのはひとつかみだった。

岩の角が背中に食い込む。

知らない顔の者が、一歩、水場に近づく。

その者の手が、地面の石を探す。指が土をかく。丸い石。重い。

知らない顔の者が振り返る。

目が合う。

どちらも動かない。

風が右から来る。獣の匂いをさらっていく。水場の方で、何かが跳ねる音がした。水音。獣がいる。

知らない顔の者が、先に目をそらした。水場の方へ、一歩。

その者も立ち上がる。

どちらも水場へ向かう。並ばない。距離を保つ。岩を手に持ったまま。相手も棒を下げない。

獣はいた。中くらいの大きさ。水を飲んでいた。二者の気配に気づいて、頭を上げた。

その者が先に投げた。

石は獣の脇腹に当たった。獣が走る。知らない顔の者が棒を投げた。外れた。

獣は茂みに消えた。

残ったのは、二人と、空の水場と、泥の上の跡だけだ。

知らない顔の者が、短い音を出した。怒っているのか、笑っているのか、その者にはわからない。

その者も音を出した。似た音だったかもしれない。

知らない顔の者が、水場の泥を指で突く。蹄の跡。獣の行った方向。

その者は見る。

知らない顔の者が、その方向へ歩き始める。振り返らない。ついて来ていいとも言わない。来るなとも言わない。

その者は少し待った。それから、ついて行った。

石はまだ手の中にある。

日が傾いたとき、獣を仕留めた。

二人で仕留めた。どちらの石が先に当たったか、その者にはわからない。

肉を分けるとき、知らない顔の者が大きい方を先に取った。

その者は何も言わなかった。残った方を持った。重い。それで十分だった。

別れるとき、知らない顔の者がまた短い音を出した。

その者も音を出した。

それだけだった。

第二の星

赤茶けた台地に夕風が吹いている。西の縁が燃えるように染まり、大地の影が東へ伸びていく。水場のそばの泥は、二組の足跡と蹄の跡を残したまま、夜の乾きを待っている。

今この季節、台地の南端では、異なる集まりの者たちが同じ水場に集まりはじめている。水が減った。獣が減った。動く範囲が重なりはじめた。

ぶつかることもある。石が飛ぶこともある。誰かが戻らないこともある。しかし今日のように、並んで歩くこともある。肉を分けることもある。音を交わして、それだけで終わることもある。

何が違いを生むのか、台地は問わない。

ただ照らすだけだ。今日、二組の足跡が水場で交わり、同じ方向に向かい、肉を持って別れたこと。その一方が、石をまだ手に持ったまま自分の集まりへ戻っていくこと。もう一方がどこへ向かったか、台地の東の輪郭の向こうに消えたこと。

遠くでは、別の水場で、別の結末があった。

声が上がり、それから静かになった。

台地はどちらも同じように照らした。

与えるもの

その者の手に、石がまだある。

使わなかった。相手に向けて、使わなかった。

今日、水場のそばで、その者の握る力がわずかに弱まる瞬間があった。石を落としかけた。落とさなかった。

渡したのは、石を落とすことではなかった。では何だったか。

温度だったかもしれない。夕刻の風が右から吹いた一瞬、その者の肩の力がわずかにゆるんだ。そこに何かが滑り込んだかもしれない。

渡せたかどうか、まだわからない。

以前も似たことがあった。渡した。届いたかどうか、わからないまま終わった。それが何度も続いた。届いたかどうかわからないまま渡し続けることが、渡すことの全てなのかもしれない。

もし、次に渡すなら。

石ではない。石を持たないこと、ではない。

手を開く、その一瞬の前に、何を渡せるか。

伝播:DISTORTED 人口:389
与えるものの観察:手の中の石が、使われなかった
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第1589話

紀元前292,065年

その者(35〜40歳)

知らない男が動いた。

その者は岩の後ろで腹を地につけたまま、頬の筋を固くした。相手の足が泥を踏む音。重心が前にかかっている。槍を持っている——その角度が、肩の落ち方でわかった。

走るか。

木立は遠い。川は右にある。左は開けすぎている。

知らない男がこちらを向いた。

目が合う。

その者は声を出さなかった。腹の底で何かが収縮した。獲物を見た目ではない。しかし、同族を見た目でもない。

男が槍を下げた。

その者は下げなかった。

どちらも動かない。川の音だけが続いていた。風が南から流れた。その者の鼻に、焦げた獣の脂の匂いが来た。向こうの集団の火の匂いだ。遠い、しかし昨日の火ではない。近くに野営している。

男が口を開いた。音が出た。その者の集団の言葉ではない。音の形が丸い。子音が柔らかい。

その者は答えなかった。

男が何かを地面に置いた。石だ。先が割れている。磨いた形ではなく、叩いて割った形。その者の集団も作る。同じではないが、同じ意図を持った形だ。

男は一歩退いた。

その者は石を見た。男を見た。石を見た。

拾わなかった。

男はもう一歩退いて、木立の方へ消えた。その者はしばらく動かなかった。腹が地面に触れている感触、草の湿り気、鼻の奥に残る遠い火の残り香。

石は地面にある。

その者は立ち上がった。石に近づいた。足で触った。拾わなかった。

遠くで何かが鳴いた。鳥だ。その者はそちらに目を向けた。空に何羽かいる。方向は——集落の向きだ。

走った。

石は残った。

草に半分埋まって、夕方の光を受けていた。

第二の星

この5年、乾季と雨季の境目がずれていた。

「始まりの大地」の森の縁では、水場をめぐる移動が繰り返されていた。集団が分かれ、広がり、また戻る。その動きの中で、互いを知らない者同士が同じ川筋を歩くことが増えていた。

旧人の集団は北の岩地に固まっている。その者たちの集団は南の森を縁取るように動いている。直接ぶつかることは少ない。しかし端のほうで、時々、見知らぬ顔と顔が合う。

その接触は痕跡を残さない。痕跡が残るのは——骨になってから、ずっと後の話だ。

地面に置かれた石。置き去りにされた石。草に埋もれていく石。

この地では今、人の数がわずかに増えている。食料が足りている。子が死なずに育つ年が続いた。集団の縁が外へ、外へと押し出されている。縁が広がるとき、縁は他の縁と触れる。

触れたものがどうなるかは——まだ誰も知らない。

この星は乾いた風を送り、濡れた土を乾かし、川を流し続ける。

与えるもの

焦げた脂の匂いを、風に乗せた。

その者の鼻が動いた。しかし足は集落へ向いていた。

石は残った。

置かれたものが残るとき、渡したのは誰だったのか。あの男か。この風か。——次は、石ではないものを渡す必要があるかもしれない。

伝播:NOISE 人口:333
与えるものの観察:置かれた石を、踏んで、拾わなかった。
───
第1590話

紀元前292,060年

第二の星

湿地の端で、葦が倒れている。

風ではない。獣の通り道が、夜のうちに押し広げられた。水鳥が一羽、浅瀬の中央に立ったまま動かない。首を引き込んで、見ている。

この星の上で、同時に起きていること。

北の丘陵地帯、礫地の縁に、七人の集団が火を持たずに眠っている。食べ物が尽きた三日目だ。子どもが二人、老いた女が一人。老いた女は朝になっても起きなかった。子どもたちはしばらくその傍にいたが、やがて別の方を向いた。

南、平らな岩盤が露出した台地では、別の集団が赤い土を手に塗りつけている。何かを塗るのではない。手そのものを、押しつけている。岩に。繰り返し。掌の形が残る。また押す。

湿地に近い低木の帯では、旧人の一群が夜の間中歩き続け、夜明けに止まった。小さな集団だ。立ったまま、眠るように目を細めている。

水鳥がようやく飛び立った。

羽音が、葦の上を走った。

与えるもの

男の肩の落ち方に、影が落ちた。

正確には、木の枝越しに差し込む光が、男の槍の先端だけを照らした。その者の目が、そこへ動いた。

その者は動かなかった。

光はすぐに翳った。雲が動いた。

渡そうとしたのは、逃げる方向ではなく、留まる判断だった。槍の角度は攻撃ではなく、運搬の持ち方だった——それを見分けられるかどうか。石を握った手を思う。力が抜けた指を思う。渡したかどうか、届いたかどうか、それより先に:この者は今夜も息をするか。

その者(40〜45歳)

男が止まった。

その者は腹を地につけたまま、岩の陰で頬の筋を緩めなかった。男の足が泥を踏む音が、間隔を変えた。急いでいない。

獲物を担いでいる。

前脚が見えた。小ぶりな草食獣の、まだ柔らかい足首。血が滴っている。新しい。

その者の喉が、わずかに動いた。

男は振り向かなかった。木の間を抜けて、別の方向へ消えた。足音が遠くなる。遠くなる。なくなる。

その者はまだ動かなかった。

腹の下の土が湿っていた。虫が一匹、指の脇を通り過ぎた。その者の目はまだ男が消えた方向を見ていた。

しばらくして、立ち上がった。

腰が伸びるときに、骨が鳴った。

男が歩いた跡を、目で辿った。泥の上に足跡が二つ、三つ。深さが違う。荷を背負っていた証拠だ。その者は少しの間、その足跡を見ていた。

それから別の方向へ歩き始めた。

空腹だった。それより先に、何かが腹の奥に残っていた。あの男の足音の間隔。急いでいなかった。満ちていた。

その者にはその言葉がなかった。

ただ腹の奥に、あの間隔が残った。

伝播:NOISE 人口:284
与えるものの観察:槍の角度を、この者は見た。
───
第1591話

紀元前292,055年

その者(45〜46歳)

崖の縁は濡れていた。

朝から霧が出ていた。下の谷が白く埋まり、上には光がある。その間に、その者は立っていた。両脚に体重を均等にかけ、腕を少し開いて。

三日前から、集団の中で声が荒くなっている。別の顔つきをした者たちが、川の向こうに現れた。食べ物の気配を追って来たのか、ただ移動していたのかは、その者には分からない。分からなくていい。腹が減れば争う。それだけだ。

その者は崖の端を歩くことを好んだ。指示を出す年長の者からも、子供たちの声からも、少し離れられた。崖の下から風が上がってくる。獣の匂いはない。水の匂いだけだ。

その朝、岩が動いた。

霧で濡れた表面に足が乗った瞬間のことだ。音は短かった。身体が傾くまでの時間は短く、その者はその間に何も掴まなかった。掴もうとしたかもしれない。霧の中で、腕が一度だけ開いた。

谷に音が一つ落ちた。

霧が元のまま漂っている。崖の上で、足跡が一組だけ濡れた岩の端に残った。深くもなく、浅くもない。

第二の星

別の場所では、大きな獣が水辺に来ていた。泥の中に膝まで沈めて、ゆっくり頭を下げる。水面が揺れた。その同心円が広がり、消えた。川岸の葦が風もないのに一度揺れ、また静止した。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:NOISE 人口:240
与えるものの観察:足跡は残った。渡したものが届いたかは問わない。
───
第1592話

紀元前292,050年

第二の星

北の尾根に雪が残っている。七月だ。

平地では草が膝まで伸び、獣の道が放射状に広がっている。水場は三つ。そのうち一つは上流で崩れた土が流れ込み、底が濁ったまま二年が経つ。

集団の野営地は岩壁の南向き。子が十二人いる。六人が今年生まれた。そのうち何人が次の雪を越えるかを、誰も数えない。数えることを、誰もまだ知らない。

旧人の足跡が東の泥に残っている。小さい。子どもか、女か。彼らの集団はこの季節、川沿いを北上する。今年はその経路が三日分ほど西にずれている。理由は草の分布か、あるいは別の何かか。野営地の大人たちはその足跡を見て短い声を出し合い、それ以上は何もしなかった。

東の丘で、野火が三日燃えた。雨で消えた。焼け跡に草の根が残り、翌週には芽が出た。誰もその場所へは行かなかった。

夜、歌が聞こえることがある。どの方向からかわからない。野営地の者たちの歌ではない。

与えるもの

散らばった焼け跡の灰に、風が吹いた。東から。

その者の鼻腔を、焦げた草と、その下に混じる生の土の匂いが通った。

受け取ったかどうかわからない。ただ、その者の足が一度、東を向いた。それだけだ。次に渡すべきものがある。匂いではないかもしれない。それでも、渡し続けることと、0回という数が、同じ場所に居続けている。

その者(12〜17歳)

火の番は夜通しだ。

湿った薪を選ぶと煙が出る。煙が目に入る。涙が出る。泣いているわけではない。その区別を、この者はまだ言葉で持っていないが、体は知っている。

薪を選ぶ手が覚えている。乾いた木は軽い。持っただけでわかる。重い木は燃えるまで時間がかかり、その間に炎が縮む。縮んだ炎を見ていると、腹の底が冷えるような気がする。それが何なのかはわからない。

子が泣いている。どこかの子が夜中にいつも泣く。最近は声が小さくなった。泣く力が落ちているのか、慣れたのか、この者には区別がつかない。

東から風が来た。

焦げた匂いがした。三日前に燃えた丘の方向だ。その者は火から目を離し、暗い東の方を見た。見えるものは何もない。夜と木の輪郭だけだ。

もう一度、匂いがした。

その者は立ち上がった。座り直した。また立ち上がった。

大人たちは眠っている。子の泣き声も止んでいる。火は小さくなっている。

その者は薪を一本足した。煙が上がった。目が痛くなった。座ったまま、東の方をしばらく見続けた。

見ていた。

やがて風が変わり、匂いが消えた。

その者は火に向き直った。膝を抱えて、炎を見た。炎は大きくも小さくもなく、ただ燃えていた。

伝播:NOISE 人口:204
与えるものの観察:足が一度、東を向いた。
───
第1593話

紀元前292,045年

その者

火が落ちかけていた。

その者は枝を折って差し込んだ。炎が一度縮んで、また戻った。夜の空気は冷えていて、背中と腹で温度が違った。

野営地の外れ、岩壁の下。三つある焚き火のうち、一番端のものを任されていた。真ん中と奥は、古い者たちが使う。その者はまだそちらに呼ばれない。

音がした。

北の木立から。

その者は立たなかった。座ったまま、耳だけを向けた。音は続かなかった。風でも獣でもない。何かが止まった音だった。

しばらくして、影が木立の縁に立った。

背が高かった。こちらの集団の者より、肩が広かった。腕が長かった。

その者は喉の奥で何かが固まるのを感じた。叫びの手前にある、声にならないものが。

影は動かなかった。火を見ていた。いや、火の向こうを見ていた。その者を見ていた。

その者は枝をもう一本、火に差した。意味はなかった。手が何かをしたかった。

影がゆっくりと座った。地面に。遠くに。火から三十歩ほど離れたところで、膝を抱えるように体を折った。

敵ではない。たぶん。その者には「たぶん」という語がなかったが、体がそれを知っていた。腹の底が、ほんの少し緩んだ。

二人は動かなかった。

火が揺れた。影も揺れた。どちらも何も言わなかった。

夜が深くなった。影は消えていた。気づいたら、いなかった。

その者は膝を抱えて、まだ火を見ていた。

岩壁の奥で誰かが寝返りを打った。子の声が一度上がって、すぐ止んだ。

その者は枝をまた一本、火に入れた。

朝まで。その役目があった。

第二の星

北の尾根には雪が消えていた。代わりに、乾いた岩肌が白く光る季節になっていた。

集団の野営地は大きくはない。岩壁の南向きに沿って三つに分かれ、それぞれの火を中心に人々が眠る。子が走り回れる範囲に、生活のすべてがある。

この五年で、数人が生まれ、数人が消えた。去年の夏、川上で溺れた老いた男がいた。春には子が一人、熱で冷えた。増えては減り、減っては増え、集団の輪郭は揺れながら続いている。

北の向こうに、別の群れがいる。

どのくらい前からそこにいるのかは、誰も知らない。顔を合わせたことはある。争ったこともある。食料が乏しい年には境に立ち、豊かな年には遠くで互いを無視した。

今年は豊かだった。草は膝まで伸び、獣の道が複数ある。食べるものには困っていない。

だから影が来た、とも言える。

飢えていないとき、人は時として火の光に近づく。理由があるわけではない。ただ、光があった。

この星はそれを照らすだけだ。北の影が何者で、何を求めて来たのかを、誰も問わなかった。その者だけが、朝まで火の番をした。

与えるもの

火の色が変わった。

赤から、橙から、白に近い芯へ。その者の目がそこに落ちた瞬間、影が座った場所の地面が、かすかに温度を持っていた。

その者は火を見ていた。影の座っていた方を見なかった。

渡せたのは温度だけだった。次に渡すべきものが、まだ見えない。渡したものが何かの問いになるのか、それとも何も残らないのか。

伝播:SILENCE 人口:175
与えるものの観察:温度を渡した。届いたかは、まだわからない。
───
第1594話

紀元前292,040年

第二の星

乾いた風が南から北へ、平原を斜めに渡っていく。

草が波打つ。高い草と低い草では揺れ方が違う。ある場所では土が硬く、踏んでも沈まない。別の場所では一歩ごとに足が少し深くなる。この星はどちらも同じように照らしている。

北の丘の麓では、旧人の小さな群れが水場を使っていた。その近くに新しい種の者たちが五人いた。互いを見た。距離を保った。どちらも動かなかった。しばらくして旧人の一人が向こうへ歩いた。残りが続いた。五人の者たちも別の方向へ散った。

始まりの大地の東側では、二つの集団の境界が動いていた。どちらの集団も境界を言葉で定めていなかった。しかし体が知っていた。ここまでが自分たちのにおいの場所だ、と。

野営地では子が三人死んだ。熱が出て、二日で終わった。母たちは声を上げた後、静かになった。夜明けに小さな体を土の柔らかいところへ運んだ。

火の番は続いていた。

与えるもの

野営地の端、草と岩の境目に、獣の足跡があった。

その者の鼻の奥に、獣の匂いが届いた。あの草の側から。

その者は立ち止まった。匂いを吸った。また吸った。それから別の方向へ歩いた。

——何かが届いた。しかし届いたものが何であるかを、その者は知らない。匂いに従ったのか、それとも別の何かが動かしたのか。問いは残る。次に渡すべきものがあるとすれば、それは足跡の意味ではなく、立ち止まること自体かもしれない。

その者(22〜27歳)

朝、火の残り熾きを木の枝でかき集めた。灰が舞い、喉の奥に入った。咳が出た。

集団の者が次々に水を飲みに行くのを見ていた。自分の番はまだ先だった。

昼過ぎ、子どもが泣いていた。母が揺らしていた。揺らすのをやめると、また泣いた。その者はそれを少し見て、視線を外した。

草を集める仕事があった。寝床に敷く草だ。長いものを選ぶ。短いものは使えない。腰を曲げて、引いて、束にする。腰が痛かった。休んだ。また曲げた。

夕方、草と岩の境目で立ち止まった。

何かが鼻に触れた。獣のにおい、土のにおい、もう一つ——何か別のもの。その者には名前がなかった。ただ、足が動かなくなった。

少しの間、立っていた。

それから、野営地の方へ戻った。早足ではなかった。普通の速さで。

夜、火のそばに座った。炎の中に黒い芯が見えた。見ていると、芯が消えた。また現れた。その者は両手を膝に置いたまま、それを見続けた。

風が来た。火が傾いた。また戻った。

伝播:NOISE 人口:148
与えるものの観察:立ち止まった。それだけで十分かもしれない。
───
第1595話

紀元前292,035年

第二の星

雲が低い。

北の山脈では雪が解け始め、細い水が岩の間を走る。その水はやがて集まり、川になるよりも前に土に吸い込まれる。草は根の浅いものから先に立ち上がった。深く根を張るものはまだ動かない。

始まりの大地の集団は、数ヶ月前から二つの場所に分かれて眠るようになっていた。片方の火は夜通し誰かが番をする。もう片方は朝に灰になっていることがある。それを誰が決めたわけでもない。ただそうなった。

遠く、始まりの大地の南端では、別の顔立ちの者たちが浜辺に沿って移動していた。歩き方が違う。立ち止まる場所が違う。貝を割るとき、石の持ち方が違う。どちらも同じ潮の匂いの中にいる。

起きていることは続いている。

与えるもの

夜、火が半分になったとき、煙の流れが変わった。

煙は東へ向いた。東には、別の火があった。

この者は煙を見た。目を細めた。それだけだった。

渡した。届いたかどうか、わからない。ただ、東の火があることは、煙の記憶として残った。渡すべきものが煙だったのか、それとも煙の向こうにあるものだったのか。次に渡すとき、また問うことになる。

その者(27〜32歳)

火の番は眠れない仕事だ。

薪を折る。折れない枝は膝で押さえて体重をかける。それでも折れないものは置いておく。火は太くても細くても同じように食べる。食べ方が違うだけだ。

煙が曲がった。

その者は顔を上げた。煙が東を向いている。風のせいではない。風は南から来ている。それでも煙は東へ流れた。一度だけ。

東に何かある。

その者は知っていた。東には別の火がある。昼間に煙を見た者が戻ってきて、指の数だけ首を振った。近くはないが、遠くもない。

膝に石をのせたまま、その者は立ち上がらなかった。

火に細い枝を足した。火が少し高くなった。煙がまっすぐ上に伸びた。また南からの風に押されて、どこかへ消えた。

岩の上に腰を落とした。冷たい。背中が夜の空気を吸っている。

東の火を考えなかった。東の火は消えないかもしれない。消えるかもしれない。それは自分の火と同じだ。

朝になった。

灰の中に赤い核が残っていた。その者はそこに口を近づけ、息を吹いた。核が明るくなった。薪をのせた。火が戻った。

集団の者たちが動き始めた。その者は火の横に座ったまま、少し寝た。

伝播:SPREAD 人口:124
与えるものの観察:煙が東を向いた。それだけを渡した。
───
第1596話

紀元前292,030年

第二の星とその者(32〜37歳)

雨季が終わった。
始まりの大地の南端、赤い土が乾いて割れ、その裂け目から小さな虫が這い出てくる。草は膝丈まで伸びていた。水場の縁に獣の足跡が重なり合い、どこからいつ来たものか区別がつかない。

その者は水を汲みに行った。
皮袋を両手で持ち、水面に浸す。水がぬるかった。夏の終わりだった。

集団は今、二つの焚き火を囲んでいた。
北の火と南の火。夜、どちらを囲むかで、誰がどちらに属するかが決まりつつあった。その者は南の火の近くで眠ったが、夜中に目を覚ますと北の火がまだ燃えているのが見えた。距離にして三十歩ほど。しかし誰も往き来しなかった。

皮袋の口を縛る革紐が、ある朝なくなっていた。
その者は探した。見つからなかった。代わりに細い草を何本か撚り合わせて紐にした。うまくはなかった。水が少し漏れた。

東の低地に旧人が二人いた。
姿勢が違う。歩き方が違う。その者は以前、旧人と同じ水場で水を飲んだことがある。向こうが先に立ち去った。今回は距離が縮まらないまま、二人は低地の草むらに消えた。

北の火を囲む者たちの中に、若い男がいた。
その者より十ほど年が下だった。走るのが速く、石を遠くへ投げることができた。その男が近ごろ、その者のいる場所を通るとき視線を向けなくなった。以前は短い声を交わしていた。今はない。

三年目の冬。
草が枯れ、獣が減り、火の番の時間が増えた。その者は夜通し火を維持することが多くなった。薪が湿っていると煙が増え、目が痛んだ。煙は目の端を赤く染めた。

その夜、火の匂いが変わった。
乾いた木が燃える匂いと違う、何か獣の脂のようなものが混じった匂いが、東の方向から漂ってきた。その者は鼻を上げた。体が静止した。どこからか、という問いが体の中に生まれたが、言葉にはならなかった。足は動かなかった。ただ、その方向を向き続けた。

四年目の春。
その者は水場の近くで滑った。膝を打った。傷は大きくなかったが、数日歩くたびに痛みがあった。集団の中の年上の女が、ある植物の葉を嚙んで傷口に当てた。翌朝、痛みが少し引いた。その者はその女の顔を見た。女は何も言わなかった。

そのころ、集団の中で二人が消えた。
夜が明けたら、北の火の近くにいた男と女がいなくなっていた。探しに行く者はいなかった。誰も声に出さなかった。南の火の近くで、皆が少し小さくなったように座った。

その者は火を見ていた。
炎が一本の舌のように細くなり、また広がった。何かが終わった気配があった。しかし何が終わったのか、その者には摑めなかった。石を拾った。置いた。また拾った。

五年目の秋。
北の火が消えた。
消えたのではなく、燃やす者がいなくなったのだ。北の火を囲んでいた者たちが、三日の間に一人ずつ見えなくなった。最後の一人は、その者が水汲みから戻ったとき、まだそこにいた。目が合った。男だった。その男は短い音を出した。その者も短い音を返した。翌朝、男はいなかった。

南の火だけが残った。

その者の膝の傷は癒えていた。草が撚られた紐は、いつの間にか三重に重ねられ、以前より丈夫になっていた。その者は皮袋を担いで水場へ向かった。足取りに速さはなかった。ただ向かった。

与えるもの

東の方向から匂いが来るようにした。
この者は鼻を上げ、足を止め、その方向を向き続けた。
渡したのは向くことだけだ。向いた先に何があったかは届かなかった。それでも、次に渡すべきものが見えた気がした。足が止まること、それ自体を続けさせること。

伝播:HERESY 人口:100
与えるものの観察:足は止まった。向いた。それだけで十分か。
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第1597話

紀元前292,025年

その者(38歳)

草の根が見えるようになったのは、十日前だった。

水場は縮んでいた。泥が白く乾いた縁が、先週より広かった。その者は縁に膝をついて、両手で泥をすくい、指の間から水が染み出るのを待った。

腹が鳴らなくなって三日が経っていた。

火の番は続けた。集団の中で老いた者と子どもだけが残る日中、その者は火の傍らに座って、木片を足した。煙が真上に細く立った。風がない日だった。

東の方で何かが動いた。

においがした。皮膚が腐るにおい。その者は立ち上がれなかった。足が動かなかった。動かないのではなく、動かし方を忘れたように座ったままだった。

遠くで子どもが泣く声がした。

誰かが来てその子を抱き上げた。声が遠ざかった。

その者は火を見ていた。炎ではなく、炭の縁が赤く光るのを見ていた。その赤が段々と暗くなるのを、見ていた。

木片を足すことを、思い出さなかった。

第二の星

始まりの大地の北で、二つの集団が岩の陰を挟んで互いの声を聞いていた。どちらも叫ばなかった。どちらも動かなかった。夕方の光が斜めに岩を照らした。影が長く伸びた。南の水場では、水鳥が一羽、浅い泥の上を歩いていた。波紋が広がった。消えた。

与えるもの

糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:81
与えるものの観察:渡した熱が、消えた炭の色をしていた。
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第1598話

紀元前292,020年

その者(1〜6歳)

肌が熱かった。

その者は地面に仰向けになっていた。空が白かった。木の葉が風で揺れるたびに、光が落ちて、消えた。

起き上がれなかった。

そういうわけではなかった。膝を抱えれば立てた。しかし立たなかった。地面の固さが背中に伝わってきて、その者はそこにいた。

腹は空いていなかった。昨日、誰かが嚙み砕いた木の実を口に押し込んでくれた。その味がまだ奥に残っていた。

少し離れたところで、大きな者たちが動いていた。声が飛んだ。何かが地面を叩く音がした。その者はそちらを見なかった。

指が草を触っていた。

草は細かった。引けば抜けた。また伸ばして、別の草をつかんだ。根に泥がついていた。指に泥が移った。その者は泥のついた指を顔の近くに持ってきて、見た。

においがした。

湿った、重いにおいだった。その者はしばらく指を嗅いでいた。

風が変わった。

西から、違うにおいが来た。焦げたものと、もう一つ、名前のない何かが混じっていた。その者の体が先に知った。足が少し縮んだ。肩が上がった。

大きな声が来た。

集団の端から、走る音が来た。その者は草をつかんだまま、音の方向を見た。大きな者が二人、小走りに戻ってきた。その後ろに、別の姿があった。

違う形だった。

その者が知っている形ではなかった。肩の高さが違った。眉骨の出方が違った。その者はそれが何かを知らなかった。ただ見ていた。

大きな者たちの声が高くなった。

子どもが泣き始めた。どこかで石が投げられた音がした。その者は地面に手をついて、体を起こした。草が手の中に残っていた。

その者は草を持ったまま、立っていた。

第二の星

この五年を照らす。

草原の端で、二つの集団が接触を繰り返していた。一方は九十人に近づきつつあり、もう一方は十数人だった。顔の形が違った。骨の厚さが違った。しかし火を使った。水場を知っていた。子どもが泣けば大人が振り向いた。

衝突があった。小競り合いが何度か起きた。死者が出た。どちら側からも。

しかしその都度、距離が生まれた。どちらかが移動した。追いかけることをしなかった。理由はわからない。恐怖か、疲弊か、それとも別の何かか。

水場の縮みが続いた。乾いた季節が長くなった。どちらの集団も同じ方向に移動し始めていた。東へ。水のある場所へ。

道が重なった。

この星は判断しない。大地は渇き、二つの異なる形の命が同じ水を探していた。それだけが見えた。

与えるもの

糸が繋がった。

一歳の体に、六歳の目が宿るまでの間。

西から来たにおいに、足が縮んだ。

その者は逃げなかった。立った。

問いが残った。—— 足が縮んだのに立ったのは、何がそうさせたのか。恐怖が足を縮め、それでも体が起きたとすれば、次に渡すものは「立つことと逃げることの間にある何か」かもしれない。まだわからない。しかし渡す機会が来たなら、今度は音で示そうと思っている。

伝播:SILENCE 人口:68
与えるものの観察:糸が繋がった。この者はまだ何も知らない。
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第1599話

紀元前292,015年

第二の星

乾季が明けたばかりだった。

草原の縁で、地面はまだ固く、亀裂が網の目に走っていた。朝の空気は冷たかったが、昼になると岩が熱を蓄え、その者が素足で歩けば足の裏が痛んだ。

集団は水場の近くに留まっていた。旧人の痕跡が北の岩場に残っていた。焦げた骨。踏み荒らされた土。どちらが残したかは、星には区別できない。どちらも同じ赤い地面の上に生きていた。

遠く南の低地では、別の集団が移動していた。河が増水し始め、低い場所から追われていた。子どもを背負った者が一人、歩くのが遅れていた。その者と顔を合わせることは、おそらくない。距離が遠すぎた。

水場の近くで、子どもが三人、浅瀬に足を入れて遊んでいた。

その者もそこにいた。

与えるもの

水面が揺れた。足元の浅瀬に、光が細く折れて差した。

その者は膝まで水に入り、揺れる光を見た。しばらく見ていた。光が割れた。そこに石があった。平たく、薄く、片方の縁が欠けていた。

渡した。

届いたのか。その者は石を拾い上げた。

それだけだ、とは言えない。石を持ったまま水から出て、何かを探すように辺りを見渡した。何を探していたのか、この者自身もわからなかったかもしれない。

次に渡すべきものが、まだある。

その者(6〜11歳)

水の中に足を入れると、底の砂が動いた。

冷たかった。去年よりも冷たかった。去年のことを体が覚えていた。

光が割れた場所に、石があった。

拾い上げると、思ったより重かった。平たく、掌におさまった。欠けた縁が親指に当たった。鋭かった。痛くはなかった。

傍らで別の子どもが水を叩いて笑った。飛沫が顔に当たった。その者は笑わなかった。

石を手に持ったまま水から出た。

地面に座り、石を土に当ててみた。削れた。白い粉が出た。匂いがした。雨の後の地面に似た匂いだった。

また当てた。また削れた。

集団の大人が一人、近くを通り過ぎた。見ていなかった。

その者は石を見た。欠けた縁を親指の腹でなぞった。また見た。

何かが変わったわけではなかった。

石を置いた。また拾った。置いた。

日が傾いて、影が長くなった。まだ持っていた。

伝播:NOISE 人口:57
与えるものの観察:石は届いた。使い方はまだわからない。
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第1600話

紀元前292,010年

第二の星

草原の東端、大きな川の支流がいくつかに分かれる場所で、旧人の三人組が岸に沿って歩いていた。額が前に張り出し、顎が細く、目の奥が深い。彼らは川岸の柔らかい土を踏み、何かを探すように視線を低く保っていた。貝を掘るのか、根を掘るのか、それとも別のものか。

北の山地では、雪が融け始めた斜面に茶色い獣の群れが降りてきていた。角のある雌が先頭を歩き、子が後を続いた。狼の痕跡が斜面の雪に残っていたが、群れはそれを避けず、同じ方向に進んだ。

水場の近くに留まる集団の中で、ひとりの女が難産の末に動かなくなった。子は生きていた。子の泣き声が夜の草原に広がり、誰かが子を抱いた。抱いた者の腕が震えていた。

同じ夜、遠く南の湿地帯では、別の小さな集団が火を囲んでいた。その火のそばで誰かが手を動かし、岩肌に繰り返し同じ形を刻んでいた。何のために刻んでいるのか、刻いている者本人もわからなかっただろう。手が動き、岩が削れ、形が残った。

与えるもの

女が動かなくなった夜、子が泣き続けていた。

その声が草原に散る前に、風が一度だけ、南から来た。湿った、草の匂いを含んだ風だった。

その者の鼻が動いた。

南に水がある。南に草が倒れている方向がある。その者がその匂いを記憶の中に置いたかどうか、わからない。置いたとして、それが何になるかも、わからない。

だが風は来た。渡した。

その者の手の中にあった石が、少しだけ強く握られた。

渡したものが根を張るかどうかは、もう与えるものの側の話ではない。あの夜、第一の星で煙が東へ流れた。誰も動かなかった。今度はどうか。問いは消えない。

その者(11〜16歳)

女が動かなくなった夜、その者は火から離れていた。

集団の外れ、背の低い草が風で波打つあたりに座っていた。膝を抱え、顎をその上に乗せていた。草原の音が体に届いていた。虫の音。遠くで何かが動く音。女の声が途中で止まったことは、音として体に残っていた。

子の泣き声が始まった。

その者は膝から顎を離さなかった。泣き声を聞いていた。音が来る方向に耳が向いた。

風が来た。

草の匂いが来た。その者の鼻が膝の上で動いた。雨ではない。水ではない。しかし何か濡れたものの匂いだった。南から来た。体がその方向を向いた。向いたまま、動かなかった。

石が手にあった。いつから持っていたか、その者も知らなかっただろう。手の中で石を握った。握って、離した。また握った。

子の泣き声が続いていた。

誰かが抱いた声がした。泣き声が少し変わった。その者は南の方向を向いたまま、石を手の中で転がした。角があった。角が手のひらを押した。

夜が深くなった。

その者はそのまま草の中に横になった。石を握ったまま眠った。手が開かなかった。

朝、目を覚ましたとき、石は草の上に落ちていた。その者はそれを拾わなかった。立ち上がり、南の方向を一度だけ見た。

それから集団のいる方へ戻った。

伝播:DISTORTED 人口:48
与えるものの観察:風は渡った。受け取ったかどうかは、まだわからない。
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第1601話

紀元前292,005年

第二の星とその者(16〜21歳)

川が二股に分かれる場所に、春の水が押し寄せた。泥が岸を塗り替え、去年まで乾いていた窪みに浅い沼が生まれた。葦が伸び、鳥が来て、鳥の糞が落ちた地面からまた何かが芽吹く。大地は忙しく、理由を問わない。

その者は沼の縁で座っていた。足の裏に冷たい泥がついていた。何をしているわけでもなかった。ただそこにいた。

北の方角では、旧人の集団が移動を始めていた。三人ではなく、もっと多い。七か八か。幼い者を連れた一群が、茂みの中を進んでいた。彼らの歩き方は重く、足跡が深かった。泥の上に残ったその跡は、翌朝には水で埋まった。

その者の集団では、男の一人が怪我をした。腕ではなく足だった。岩の縁で踏み外し、足首が内側に曲がった。腫れが出るのに半日かかった。誰かが皮の切れ端を巻き、誰かが水を運んだ。その者も見ていた。見て、別の方向に歩いて行った。

雨季が来た。草原の低い部分が水を溜め、獣の道が変わった。群れがいつもの谷を通らなくなった。食料が減った。子供たちの泣き声が増えた。老いた女が一人、小屋の隅で動かなくなり、そのまま次の朝を迎えなかった。体が冷えて硬くなってからも、誰かが傍に座っていた。

その者も座っていた。じっと、その冷えた体の隣に。

旧人の集団と、この者たちの集団の縄張りが、湿地の端で重なった。どちらが先に来ていたのかは、誰も知らなかった。にらみ合いに近いものがあったが、石は投げられなかった。旧人の一人が大きな声を出し、その者の集団の男たちがそれに声で答えた。それだけだった。双方が後ずさり、それぞれの方向へ消えた。

その者の体は、その後しばらく震えていた。恐怖なのか興奮なのか、区別はつかなかった。

秋が来て、実が落ちた。その者は実を拾い、口に入れ、苦かったので吐き出した。別の実を拾い、甘かった。飲み込んだ。また拾った。袋の代わりに両手を合わせた器に集め、小屋の方へ歩いた。歩きながら落とした。拾った。また落とした。

こうして五年が過ぎた。

冬の初めに、川が音を変えた。上流で何かが崩れたのか、水が濁り、石が転がってきた。夜の間じゅう、その音が続いた。その者は眠れず、音の方を向いて横たわっていた。体は動かさなかった。耳だけが開いていた。

与えるもの

水が届かなかった場所に、光が差した。沼の底、泥の下に埋まった根があった。

この者は沼の縁に座っていた。光に気づかなかった。立ち上がり、別の方向へ歩いた。

次は何を示せばいい。根の話ではなかったかもしれない。根ではなく、岸の形だったかもしれない。水が溜まる場所と、溜まらない場所の違い。それを渡せていたなら。――渡せていたとして、それはこの者の何を変えただろう。変えたことが、良かったかどうか。

伝播:DISTORTED 人口:40
与えるものの観察:光が落ちた。この者は別の方向へ歩いた。
───
第1602話

紀元前292,000年

第二の星

乾季が遅れていた。

例年ならば大地は今頃、割れ目を広げ、土埃が地平線を染め始めるはずだった。しかし今年は雨が引かない。引かないのではなく、雨の間隔が縮んでいる。一度降れば二日は続き、止んだと思えば三日後にまた空が重くなる。

川沿いの平地は緑が濃い。種が落ちた場所から問わず芽が出て、茎が密生し、踏み分けた跡がすぐに塞がれる。動物の数が増えている。小さいものから先に増える。虫が増えれば蛙が増え、蛙が増えれば蛇が増え、蛇が増えれば大きなものたちが引き寄せられる。水場の周囲には複数の群れが、互いの距離を保ちながら集まっている。

南東の斜面に、別の集団の痕跡があった。

焚き火の跡ではなかった。炭の粉末が薄く広がった跡で、その中心に焦げた骨が数本、折れたまま残っていた。獣の骨ではなかった。この集団の者には判断できないが、形が違う。指の節の形が、自分たちのそれよりも太く、しかし短い。その骨の周りに、加工された痕跡のある小石が三つ、並んでいた。意図のある並びかどうか、誰にも確認できない。

この集団の最年長の者が、骨の前にしゃがんだ。匂いを嗅いだ。立ち上がった。踵を返した。

残った者たちは骨を見た。見ただけで、何もしなかった。

一人の子が骨のそばに近づき、小石の一つを拾い上げた。重さを確かめるように、手の中で転がした。それから母親に手を引かれ、連れ去られた。小石は地面に落ちた。

骨はそのまま残った。

夕方、霧雨が降り始め、骨の色が暗くなった。地面に滲みた水が骨の周囲から炭の粉を少しずつ溶かし、細い筋を引いて低いほうへ流れ、草の根元で消えた。

夜の間、この地域の上空を低い雲が覆い続けた。星は出なかった。

翌朝、東の稜線の向こうから獣の声が聞こえた。一声だけ聞こえ、それきりだった。集団の何人かが稜線の方向を向いた。しかし動かなかった。しばらく待って、また動き始めた。

骨の場所には誰も戻らなかった。

しかし二日後、あの最年長の者が再び斜面に上がった。骨の前にまた座り、今度は長い時間をかけた。立ち上がったとき、その者の手に小石が一つあった。別の小石だった。骨の隣に置かれていたものではなく、少し離れた場所の石だった。

それを持ったまま、最年長の者は戻った。

その石をどこかに置いたのか、使ったのか、捨てたのか、誰も確認していない。

与えるもの

骨の形を、最年長の者の手が触れる前に、一瞬だけ影が動いた。雲の隙間ではなかった。光の落ち方が変わり、骨の指節の形がはっきり浮いた。太さと短さが、一呼吸の間だけ、際立って見えた。

最年長の者は骨の輪郭を目でなぞった。立ち上がった。何も拾わずに帰った。

渡したものが届いたのか、それとも骨の形はただの骨の形として見えたのか、わからない。しかし二日後にその者が戻ったことは、届いたとも届かなかったとも言えない。次に渡すなら、形の違いではなく、触れることへの衝動かもしれない。

その者(21〜26歳)

その者は斜面には上がらなかった。

川の近くで獣の皮を石で叩いていた。叩いて、ずらして、また叩く。叩くたびに皮が少しずつ薄くなっていくことを、この者は知っている。それだけを知っている。

夕方、霧雨の中で皮を丸めて抱えて帰った。

伝播:NOISE 人口:33
与えるものの観察:形の違いは届いたか、届かなかったか、まだわからない。
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第1603話

紀元前291,995年

その者(26〜31歳)

泥が足の指の間に押し込まれた。

水は昨日よりも深い。くるぶしまで来ていたのが、今朝は脛の半ばまで届く。その者は止まって、足の感触を確かめた。泥が吸いつく。体重をかけると、ずぶりと沈む。引き抜くと、音がした。

岸の方に、食べ物が集まっていた。流されてきた根、浮いた虫、押し流された小さな獣の骸。その者は拾った。口に入れた。また拾った。

集団の他の者たちは高い場所にいる。岩棚の上で、子どもが泣いていた。泣いてやむ。また泣く。その声が水の上を渡ってくる。

その者は振り返らなかった。

しばらく歩いて、倒れた木の根元に出た。根が大きく持ち上がり、土の壁ができていた。その空洞に獣の気配があった。居着いているのか、流されてきたのか。その者はしゃがんだ。鼻を近づけた。

匂いは古かった。もう出て行ったあとだ。

空洞の中は乾いていた。

その者は体を押し込んだ。膝を抱えると、ちょうど収まった。外で雨がまた始まった。水の音が根の向こうで高くなり、低くなり、一定の調子になった。

その者は目を閉じなかった。ただ、聞いていた。

雨の音の中に、別の音があった。かすかに。規則的ではない。でも繰り返す何か。

その者の手が根の土を触った。湿っている。少し掘ると、固い。またその下は柔らかい。手が止まった。もう一度、上から。湿っている。固い。柔らかい。

手が三度、同じことを繰り返した。

外の子どもの声が聞こえなくなっていた。雨だけが残った。

第二の星

五年の間、雨季と乾季の境が曖昧になった。

始まりの大地では、川が氾濫した年と引いた年が交互に来ず、続けて濡れる時期と、続けて乾く時期が来た。動物の群れが移動する時期がずれ、植物の実る時期もずれた。集団は何度か場所を変えた。岩棚から谷へ、谷から尾根の際へ。高いところへ、また戻る。

集団の規模は変わらないように見えて、構成が変わった。老いた者が二人死んだ。子が五人生まれ、そのうち三人が最初の二年を越えた。残りの二人は越えなかった。喰われたか、流されたか。どちらとも判然としないまま、集団から消えた。

旧人との距離は縮んでいた。

水場が限られるようになり、同じ場所に複数の集団が顔を出すことが増えた。争うわけでもなく、混じるわけでもない。見る。見られる。離れる。その繰り返しが、それでも積み重なっていた。

子どもが真似をした。別の集団の子が出す声を。理由はない。ただ聞いて、出してみた。

大人はやめさせなかった。聞いていた。

与えるもの

根の固さ、その下の柔らかさ。

同じことを三度。

三度目に手が止まったとき、何かが変わったのかどうか。わからない。しかし次に渡すなら、もっと深いところだ。固い層の、さらに下に何があるか。この者の手はまだそこまで届かない。届かせることができるかどうか。それも、わからない。

伝播:NOISE 人口:28
与えるものの観察:手が三度繰り返した。それだけ。
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第1604話

紀元前291,990年

第二の星

水が増えている。

南の低地では草原が半分ほど沈んだ。水際の葦が新しい場所で根を張り、魚が浅瀬をゆっくり横切る。岸辺の鳥は一晩で巣を作り直し、また一晩で見捨てた。

小さな集団は丘の斜面に移っていた。火を高い場所に持ちあげ、濡れた薪を乾かした。子どもが二人、咳をしている。老いた者が一人、膝に水が溜まったように腫れた脚を伸ばして座っていた。

遥か南では別の集団が川を渡ろうとしていた。流れが速く、最初の者が足をとられた。助けた者がいた。流されたまま戻らなかった者もいた。その夜、集団は岸に火を焚いて黙っていた。歌はなかった。

高地の岩棚には、また別の者たちが住んでいた。旧い骨格を持つ、額の張り出した者たちだ。彼らも水の変化に気づいていた。移動のしかたが、五年前とは変わっていた。

雨は降り続けた。止んだと思えばまた降った。空は低く、白く、昼と夕方の区別がつきにくい日が続いた。

与えるもの

木の根が腐り始めていた。

歩くたびに足が沈む場所に、ひとつだけ、まだ硬いものがあった。土の中に埋まった石だ。踏んだとき、足の裏にその硬さが伝わった。

その者は立ち止まった。少しの間、その石の上に体重をかけたままでいた。

それから歩いた。

この者は硬さを感じた。それで十分なのかどうか、わからない。いや——わからないまま渡し続けることと、渡すのをやめることは、違う。次は何を渡すべきか。硬さの次にあるものを、私はまだ持っているか。

その者(31〜36歳)

雨が弱まった朝、その者は丘の中腹に立っていた。

下を見ると水面がある。昨日は草だった場所だ。葦の穂先だけが水の上に出ていて、風もないのにゆらゆら揺れていた。

その者は両手を体の横に垂らしたまま、しばらく動かなかった。

老いた者が後ろで咳をした。その者は振り向かなかった。

火の場所まで戻った。濡れた薪を一本手に取り、別の薪の上に立てかけた。立てかけたまま眺めた。燃えない。また別の薪を一本取り、同じように立てかけた。何もしていないのに体が疲れていた。

子どもが膝にぶつかってきた。その者は手を伸ばして子どもの背中に触れた。触れたまま、また下の水面を見た。

夕方、集団の誰かが低い声で何かを言った。返す者がいた。その者はそのやりとりを聞いていたが、何も言わなかった。

夜、火が細くなった。その者は体を起こして薪を一本加えた。火が戻った。横になった。

目を開けたまま、しばらく天井の岩を見ていた。

伝播:DISTORTED 人口:23
与えるものの観察:硬さを渡した。次に渡すものを探している。
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第1605話

紀元前291,985年

その者(36〜39歳)

丘の上にいた。

水が増えてから、集団はここに留まっていた。斜面の草は短く、風が通り、夜は冷えた。その者は岩の陰で横になることが多かった。体が言うことを聞かなかった。膝が腫れていた。何年も前からだ。

朝、他の者たちが水際へ降りていく。その者はしばらく見送ってから、遅れて立ち上がった。

足を引きずりながら岩を渡った。右の膝が熱を持っていた。それでも体を動かした。止まると、もっと悪くなることを知っていた。知識として持っているのではない。体が知っていた。

若い者が魚を持って戻ってきた。その者の前に置いた。置いて、行ってしまった。

その者は魚を手に取った。鱗が冷たかった。親指で押すと、少し沈んだ。新しかった。口に入れた。噛んだ。飲んだ。また噛んだ。骨が歯の間に挟まった。舌で押し出した。

食べ終わってから、手のひらを草で拭いた。

太陽が高くなった頃、斜面の下のほうで声がした。怒っている声だった。その者は立ち上がった。

若い者が二人、向き合っていた。一人が石を持っていた。もう一人が持っていなかった。その者は二人の間に入った。石を持った者の腕をつかんだ。振り払われた。また掴んだ。

石が振り下ろされた。

頭ではなかった。肩だった。その者は後ろに一歩よろめいた。もう一歩退いた。斜面の縁に気づかなかった。

足が滑った。

岩の間を転がった。草が顔を切った。止まらなかった。丘の下まで転がって、泥の中で止まった。

仰向けになっていた。空が白かった。

右の手が草をつかんでいた。握って、離した。もう一度握った。

草の根元に虫がいた。その者の目がそこに向いた。虫は動いた。また動いた。葉の裏に消えた。

その者の手が開いたまま、動かなくなった。

第二の星

同じ頃、丘の東側で子が生まれた。声を上げた。母親が胸に引き寄せた。水の音がした。川は増え続けていた。岸の葦が揺れた。揺れて、止まった。

与えるもの

光が斜面の草に落ちた一瞬——その者は上を見なかった。糸は別の誰かへ向かった。

伝播:HERESY 人口:18
与えるものの観察:渡した。届かなかった。それでも次がある。
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第1606話

紀元前291,980年

第二の星

川が丘の裾まで迫っていた。

水位は三日でさらに上がった。岸の葦が根ごと浮き、緩やかな流れに乗って遠ざかっていく。濁った水面には枯れ木が浮かび、岸辺の泥は踏むたびに足首まで吸い込んだ。

丘の上では、旧人の集団がすでに二日前から場所を取っていた。

彼らは六人だった。腰が低く、首が太く、移動するとき音をほとんど立てなかった。火を持っていなかった。しかし夜、彼らは体を寄せ合い、岩の南側に固まって眠った。寒さに対する知恵を、彼らは別の形で持っていた。

十八人の集団は丘の北側に留まった。南に近づく者はいなかった。

近づかないのは、恐れではなかった。互いに見ていた。視線が合っても、どちらも動かなかった。旧人の若い一頭が、こちらの火のほうをしばらく眺めた。目に赤い光が揺れた。

夜明け前、水が鳴った。

上流で何かが崩れた音が、低く長く伝わってきた。それだけだった。空は変わらず暗く、星は動かなかった。しかし川幅がわずかに増えた。水が岸の草を舐め始めた。

旧人の集団が動いた。

静かに、しかし迷いなく。六人が立ち上がり、南の斜面を降りていった。先頭の一頭が一度だけ振り返った。こちらを見たのか、川を見たのかはわからなかった。

それきり彼らは戻らなかった。

丘の上の十八人は、彼らが消えた方角をしばらく見ていた。誰も言葉を発しなかった。言葉があったとしても、何を言えばよかったかわからなかっただろう。

水は昼を過ぎても増え続けた。

丘の頂上近くに、集団は荷を移した。皮、骨、炭の欠片。子どもを背負った者が何度も往復した。老いた一人が途中で立ち止まり、長い時間、川の方を見ていた。歩き出したとき、その足は少し遅くなっていた。

夕方、旧人たちが去った場所に行った者がいた。

彼女だった。二十代半ばの女で、集団の中では一番早く動く。南の岩の陰に、何かが残っていた。骨の破片が三つ、規則なく置かれていた。意図か偶然かはわからなかった。彼女はそれを踏まなかった。しかし拾いもしなかった。しばらく立っていた。それから北に戻った。

夜、川の音が変わった。

高く、細く、絶え間なく。それまでの重い轟きではなく、水が狭いところを通るときの音だった。集団の誰かが目を覚ました。隣の者を揺すった。しかし水は丘を越えなかった。

朝になった。

水位は止まっていた。上流の何かが、圧を吸収したのかもしれなかった。川幅はそのままだったが、流れは穏やかになっていた。浮いていた枯れ木は遠く、もう見えなかった。

旧人たちは戻らなかった。

骨の破片は、翌朝には一つになくなっていた。川の水が届いたのか、獣が運んだのか、誰かが持ち去ったのか。残った二つは泥に半分埋まっていた。

空は晴れた。風は南から来た。水の匂いを含んでいた。

与えるもの

川岸の泥に、一本の枯れ木が引っかかっていた。流れに逆らって止まっている。根がまだ土の中に残っているらしかった。

風が、その枯れ木の方から吹いた。

その者は顔を上げた。

枯れ木は動かなかった。根がある。水の中でも根があれば流されない。その者は何かを感じた。感じた、だけだった。

次に渡すなら、根のあるものを。あるいは、根を持てる場所を。この者が排除される前に、それが届くかどうか。

その者(20〜25歳)

丘の縁に立って、川を見ていた。

水が足元の草を揺らした。その者は後ろに一歩引いた。集団の声が後ろから聞こえた。振り返らなかった。

枯れ木が一本、水に逆らって止まっている。

その者はそれを長く見た。どうしてそこにあるのか、わからなかった。わからないまま、見続けた。

伝播:HERESY 人口:14
与えるものの観察:糸が繋がった。この者は何かを感じている。
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第1607話

紀元前291,975年

第二の星とその者(25〜30歳)

川がすでに丘の肩まで来ていた。

浅い谷は消えた。葦原だった場所は、茶色い水面になっていた。流れはほとんどなく、ただそこにある、という感じで広がっていた。

その者は木の上にいた。
幹に背を預け、足を枝に絡ませ、下を見ていた。

水面には虫が浮いていた。羽が濡れて動けない虫が、いくつも。その虫を魚が下から食っていた。水面がわずかに盛り上がり、また消える。盛り上がり、消える。

旧人たちは丘の反対側にいた。
三日前から煙が上がっていた。夜は消えた。朝にまた上がる。

その者の集団は丘の南の縁に固まっていた。十一人。老いた者が二人、子どもが四人、残りは若い者たちだった。

木から降りたとき、地面は乾いていた。丘の土は粘土質で、濡れても深くまで水を吸わなかった。裸足の裏に土の固さを感じながら、その者は歩いた。

腹が空いていた。

昨日、罠にかかっていた小動物を三人で分けた。骨まで割って中を食った。今日は何もかかっていなかった。

東の斜面に、旧人の子どもが一人いた。

その者は立ち止まった。

子どもは動かなかった。丸い額、広い鼻、目だけが動いていた。その者の手を見て、足を見て、また手を見た。

どちらも何もしなかった。

風が丘の頂から吹き下ろしてきた。
旧人の子どもの匂いがした。煙の匂い。獣の脂の匂い。それから、焼けた骨の匂い。

その者は匂いの方向に鼻を向けた。

斜面の向こうで旧人たちが何かを焼いていた。大きな獲物だった。匂いが濃かった。

腹の内側が音を立てた。

その者は動かなかった。
子どもも動かなかった。

やがて子どもが振り返り、斜面を上っていった。

その者は見送った。追わなかった。近づかなかった。ただ立っていた。足の裏に丘の土の固さを感じながら。

三日後、旧人たちの煙が消えた。
北の方向へ移動したのだろう。痕跡だけが残った。灰の跡、骨の破片、踏み荒らされた地面。

その者は痕跡の周りを歩いた。
灰に触れた。まだ少し温かかった。指の先が黒くなった。その指を顔の近くに持ってきて、匂いを嗅いだ。

何か骨の近くに落ちていた。

石だった。平たく、縁が鋭かった。旧人が使って捨てていったものか、あるいは元からそこにあったものか、わからなかった。

その者は拾い上げた。

重さがあった。手の平に収まった。縁を親指で確かめた。薄く、均一ではなく、一方だけが鋭かった。

その者はそれを持ったまま、自分の集団の方へ歩いた。

捨てていったものに、光が当たっていた。

正午の太陽がちょうどその石の上に落ちていた。偶然ではなかった。与えるものが偶然を使うことはなかった。ただ光をそこに置いた。気づくかどうかは別の話だ。

その者は気づいた。

*石を拾い上げた手が*、縁に触れて止まった。

何が届いたのかはわからない。旧人が作ったその形が、何かを示していた。縁がどこで生まれるかではなく、縁があることだけが重要だった。

だが問いは残る。
形を受け取った者が、形の作り方を渡せるかどうか。

次に渡すのは、その縁の先だ。

集団の年寄りの一人が、その石を見た。

「それ、どこ」

その者は北の方向を手で示した。

年寄りは何も言わなかった。しばらく見てから、目を逸らした。

その年は雨が少なかった。
川の水位は夏の終わりに下がった。葦が戻り、岸辺に泥の層が現れ、その上を鳥が歩いた。

その者は川辺で二度、大きな獲物の足跡を見た。
追ったが、仕留められなかった。

石は腰のところに括り付けたものに挟んでいた。毎日持っていた。

その冬、老いた者の一人が戻らなかった。
朝に出て、夕方までに帰らず、翌日も帰らなかった。探したが、見つからなかった。痕跡は三日目に途切れた。斜面の下、岩場の手前で。

その者は岩場の下を長く見ていた。

石を取り出した。手の中で持った。

置いた。

また持った。

与えるもの

光を落とした。平たい石の上に、正午の光を。

その者は拾い上げた。縁を確かめた。捨てなかった。

これが初めてではない気がした。
骨の近くに光を落としたことは何度もあった。何十回も。何度も届かなかった。
今度は届いた。

ただ、届いた先で何が育つかはまだわからない。
縁を持っている者が、縁を作ることを覚えるかどうか。
次は、岩と岩が触れる音を聞かせなければならない。

伝播:NOISE 人口:11
与えるものの観察:捨てられた石が、次の問いになった
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第1608話

紀元前291,970年

その者(30〜35歳)

水が来ていた。

昨日まで足首だったのに、今朝は膝まで来ていた。木の股から見下ろすと、茶色い水面が根元を隠していた。根の先が揺れているのが水中に見えた。白い根だった。

降りられない。

腹が鳴った。三度目だった。

水の向こうに、群れの声が聞こえた。遠い。言葉ではなく、音だ。誰かが叫んでいる。誰かが何かを叩いている。木か、石か。

その者は幹にしがみついたまま、水面を見た。流れはなかった。ただ、広がっていた。じわじわと、しかし確実に、広がっていた。

足の裏が木の皮を感じていた。そこだけが固かった。そこだけが揺れなかった。

どこかで何かの重さが傾いた、と思った。

体が知っていた。頭ではない。腹の奥が知っていた。ここではいけない。ここではない。

水面が光った。

光が落ちた場所は、水の向こうだった。木が三本立っていた。どの木かは見えなかった。ただ、光だけが、その方向をしばらく照らして、消えた。

その者は木から水に降りた。

腰まで浸かった。冷たかった。足が底泥に沈んだ。一歩踏み出すたびに、ずぶずぶと体が揺れた。

水を渡った。群れの声は近づいた。

もう一本の木の根元に、子どもが一人いた。女の子だ。泣いていなかった。水の中に立って、腕を前に出していた。

その者は子どもの腕を掴んだ。

二人で歩いた。水が深くなった場所で、その者は子どもを肩に上げた。子どもは重かった。泥が足に絡みついた。

群れの声が聞こえた。

高い場所があった。岩の塊が水面に出ていた。群れの者たちがそこにいた。年老いた女が一人、水を見ていた。若い男が二人、岩の端に立って何かを怒鳴っていた。怒鳴る相手は水だった。水は何も応えなかった。

子どもを岩の上に置いた。

その者は水を振り返った。木の群れが、遠くなっていた。光はもうなかった。

腹がまた鳴った。

第二の星

水が満ちていた。

始まりの大地の低地は、雨季ではないのに水を溜め込んでいた。北の山脈に積もった雪が、遅れて溶けて来ていた。川は岸を越え、谷を塗りつぶし、草原の縁まで届いていた。移動できない生き物は溺れた。移動できた生き物も、行き先を失って止まった。

十一の者たちは、岩の上と木の上と、水に沈んでいない高い地面に散らばっていた。

温暖期の豊穣は終わっていなかった。ただ、水が多すぎた。実が腐った。根が溺れた。獣は姿を消した。

しかし、南の丘には旧人が三人いた。彼らも水を避けて動いていた。彼らも同じ岩肌を目指していた。

夜、岩の端で火が二つ燃えた。片方は十一の者たちの火。片方は旧人の火。

風が止んでいた。

二つの煙が、同じ方向に薄れていった。

どちらも食べるものを持っていなかった。どちらも水を見ていた。

水は引かなかった。

与えるもの

光を水の向こうに落とした。

その者は渡った。子どもを肩に上げて、渡りきった。

それが正しかったかどうかは関係ない。渡った、という事実だけが残る。

次に渡すべきものは何か、まだわからない。だが、渡す先はある。それだけは確かだ。

伝播:SILENCE 人口:9
与えるものの観察:光を渡した。その者は肩に子どもを乗せて渡った。